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官省札、ドイツ製新紙幣、ジャーマン贋札の頃(権藤成卿メモ)森野 榮一太政官札のころ政府紙幣の発行やその乱発につながるような主張を聞く昨今となっ た。異見を求められることもあり、議論をしてきたが、振り返るべき歴史の節目節目は多いから、議論の前提として思い返しておくのがよいと思う。しかし明治 財政史を始め、なかなか資料をひっくりかえして調べるのもホネなところがある。明治初期の政府発行の不換紙幣については紙くずにはならなかったのだと強弁する向きもあるから、まず国家紙幣の例でよく引き合いにだされる太政官札を取り上げた権藤成卿の議論をみておくのはよいことかもしれない。「制度の研究」、昭和11年9月号に、権藤の座談における議論が掲載されている。そこにはこうある。問 太政官札のところで、その通用期間を十三カ年から五カ年に短縮して、交換未済のものには利子を付したといわれたが、これはどう解決されたか。翁 (←権藤を指す)太政官札の価格が下落し流通が梗塞したため、新政府はこれが対策として通用期間を短縮し、且つ期限後の交換未済の分に対し年六分の利子を 付したと前に述べたが、この時の交換に当って、新政府は公債政策をとるのが得策であると考え、六分利付の金札引替公債証書というものを発行して、これで もって太政官札の引換を行おうとしたのであった。併し、実際に引換えされたものは極く僅かで、その大部分は五年四月に発行された謂ゆる新紙幣と引換えら れ、その新紙幣がまた不換紙幣であったから、結局太政官札の引換ということは紙幣政策の延長のような曖昧なことに終ってしまったのである。この公債証書で あるが、新政府はこれらを巧妙に転換使用したのである。というのは、自ら乱発した結果手がつけられなくなってしまった不換紙幣をこの公債証書によって銷却 整理してしまおうと企て、そしてこの奸悪な意図によって、五年十一月の国立銀行条例と六年三月の金札引換公債証書条例を発布したのであった。即ち、民間の 有資者に資本金五万円以上の国立銀行を組織させ、その資本金の四割は金貨を以て、その発行する銀行紙幣の兌換準備に充当し、残額の六割はそれに相当する政 府発行の紙幣(即ち不換紙幣)を以て政府に納めさせ、政府はこれと引換に同額の六分利付金札公債証書を下付し、そして銀行は紙幣発行の抵当として更にその 公債証書を政府に預入れて政府より同額の銀行紙幣を受け取り、これを営
の資金として一
貸出
すという
方法
であった。つまり、公債証書を手
として、政 府発行の不換紙幣を民間の兌換紙幣にすり換えようというのである。この公債政策は、明治新政府のとった財政政策のうちで
重要
位置
めている ものだったが、それは金札引換公債の
にも、
債の整理とか
秩禄
分とかに向けられたものだった。
債整理というのは、四年
廃藩置県
行と同時 に、
各藩
の新
旧負
債の残
部新政府の
責任
となったので、
というものを決
し、それから六年三月に新
公債証書発行条例というものを発布し て、そして公債を発行して
債を
分したのである。
債の
額は
七千
万円の
額であったが、そのうち
無効
として
削除
された額が三
九百
万円
かりで、 結局新政府の
負担
は三
万円
かりであった。そして
償還
租税
振替としたものを
、新公債を以て交付したもの
千二百
万円、
公債を以て交付し たもの
千二
万円であった。
に対して四割
度まで下落してしまい、流通も一部に限られた太政官札を、そ れでも紙くずにならなかったと主張する向きは、その整理に明治政府が
用した奸
をもいうべきかもしれない。
ー上のことは
ー上で解決する、そ れも民間に銀行を組織させて不換紙幣を銀行の兌換
えてしまおうという公債を利用した手
である。不換紙幣乱発の時
けていく奸
銀を成立させる手
まで
くが、権藤の
事態
はよく理解できるので、おいおいメモしていくことにしたい
・・
 
国立銀行条例のころ
に太政官札に
する権藤の議論をメモしておいたが、明治
年11月に発布された国立銀行条例を
経緯
も権藤の座談が
概略
えてくれていて
便
利である。問 国立銀行条例を制
させるに
った
大の
原因
である不換紙幣の銷却
分という巧妙な
策は、一
体誰
がどのようにして
案出
したものなのか。(←権藤成卿) 明治新政府が、太政官札を始めとして
各種
の不換紙幣を
額に発行したこと、それらの紙幣が
に新政府を
すものとなったこと、
って政府 がそれらのものの
分について
していたこと、そし
窮余
の一策として紙幣の時価通用を
禁じ
たり、太政官札の通用期間を十三年から五年に短縮し、且つ 期限
って引換未済のものあれ
それに年六分の利子を付すと布
したことなどについては、今までに述べたことであるから明らかであろうが、この太政官札 の引換期限は明治五年であれ
ば既
に目
の間に
っており、また
六年からは年六分の利子を
支払
ねば
なら
ことに当
していた三年頃における新政府は、
とかしてその
具体的
な解決
方法
案出
しなけれ
ならなかったのである。そして、とどのつまり、
博文
が、
芳川顕
福地源
吉田二郎
らを同行とし て、その解決
方法
を見
すべく、三年十月、
北米
国に
派遣
されることになったのである。
行って
博文
は、主としてあの国の貨幣制度、銀 行制度、公債発行制度を、その研究の対
としたのであるが、
くも同年の十
月には(
・・・
)研究の成果として三
建白
書を
ってきたのである。それ は、
金本
制度、
く金札引換公債証書、
く紙幣発行
会社
の三つであった。そしてこの紙幣発行
会社
というのが、
国の国立銀行
立のそもそもの
端緒
となったものである。 
藤のいう「紙幣発行
会社
」というのは合
国の「
ナショナル・バ
」制を
模倣
したもので、まずその
会社
立し、それに紙 幣発行の
権を
えその紙幣を以て政府発行の紙幣を銷却整理しようとするものであった。当時合
国では、
南北戦争
後だったので、その
戦争中
発した
大な「
緑背
紙幣」(引用者
注:グリ
ーン
バック
のこと)の整理や公債の価
維持
させるための
機関
として国立銀行をどしどし
立している時であった(一
六六年ー
慶応二
年、
藤の
渡米
前四年ーに
ける
カ国立銀行の
は一六
三十四にも上っていた)。それは
度、
後の
が国の
事情
によく
通っているところがあったし、
発紙幣に
しては
く同
であったしするから、その合
国の財政整理の
方法
を見た
博文
は、これこそ
好個
の手本であると
喜ん
しまったわけである。
藤は明治四年六月に
帰朝
して、合
国に
けるその研究の結果と、紙幣発行
会社設
立の意見とを
詳細
って
開陳
したのであ るが、これに対して、政府部
可否
の論が対立し
議が
こることとなった。というのは、
藤が
カの「
ナショナル・バ
」制度を
って
帰朝
したの と時を同
うして、当時大
出仕
だった
吉田清
成が、イ
ギリス
から「
・バ
」制度を
って
ってきたからである。
吉田清
成は
藤の主 張に極
力反
対して、
カ流の紙幣発行銀行によって不換紙幣の整理が
出来
るとは
わしいそれは却って、ますます不換紙幣を
増加
させる
危険
うものだか ら、よろしくイ
ギリス
流の「
」制度に
って銀行を
立しなけれ
ならない、と主張したのであった。
藤と
吉田
とは
いに自分らの主張を
げないで論
したのであったが、新政府は結局、
者の主張をそれ
和して、大
いて
カの制度を
用し、これにイ
ギリス
の制度を
参酌
して国立 銀行を
立することにしたのであった。そして大
に銀行条例
編纂掛
というものを
け、紙幣
だった
渋沢栄
一や
芳川顕正
らがその
事務
を取
うこととなり、
カの紙幣条例を
土台
として、
欧米
の貨幣
などを
考としながら条例の
編纂
手したのであった。そして、こうして
出来
上がった国立銀行条例は年十一月に発布された。問 その条例の主
要点
はど
なところにあったか。翁 それは今までにし
ば云
った通り、太政官札などの 政府発行不換紙幣を、新しい銀行
り替えることによって銷却
分してしまおうという同条例の
六条に
ったことは
うまでもない。即ち、その
六条に
 
ては大
こういう意
のことを
っている。民間有資者をして五万円以上の資本金を有する国立銀行を
立させ、そしてその資本金の六割を政府発行の不換紙 幣を以て大
省に上納させ、
りにこれと同額の公債証書(六分利付金札)を大
省より交付し、更にその公債証書を抵当として大
省に納めさせ、それと引換 に銀行
してやり、それを営
資金として一
貸出
させ、
に資本金の四割に相当する本
貨幣を兌換準備として
み立てさせ、且つこの準備金は銀行
発行の三分の
を下ってはなら
、というのである。だからこれは明らに不換紙幣
分のみを目
とする巧妙な
策だったと
えるので、同条例に明
した「金
の流通を図る」という目
などは制
の始めから
副次的
な取
いしかなされなかったのであった。国立銀行は政 府下
の金札公債証書を
担保
に銀行
が同額発行でき、その証書の利子六分が入ってくるという
優遇
を受け、政府発行の不換紙幣すり替えの
割を
わされたわ けだ。まことに奸
あるいは
窮余
の一策といえるが、こうした史実は実に
興味深
い。権藤の
はまだまだ
くが、今
はこれくらいにしておくか。ドイツ製新紙幣
ほん
とうは
現代
により
い史実を振り返りたい
求があるが、権藤をメモし始めたので
後まで
作業
しておこうと思う。というのも、権藤に意見を求めた昭和初期の
人々
かれた
状況
は、今
からみても
教訓
ちており、当
彼等
が思考の
素材
を求めた時
現代
我々
にとって有
素材
でなしとしないからだ。政府は金札公債証書を以て国立銀行に銀行
える
かりか、その公債の利子まで
支払
うという
えて、不換紙幣の銀行
券へ
のすり替えをはかろうとし たのだが、これがうまくいったかというとそうではない。
があれ
これを利用したいという民間の
きが
になって当
だが、国立銀行
立はわずか
行 であった。「
一、
第二
四、
五の四つであった。」それしか
立されなかった
大の理
は、「一
人々
が、銀
というものに対して一
いていたためであった。
一国立銀行は主として三
組と
野組の
資によって
立されたものである。これは
初資本金を三
円と
して、その
二百
万円を発
起人
である三
野が
資し、残額
万円は公
することにした」のだが、
株式
たなかった。それでも
株式
 
を整えたうえで、
渋沢栄
一を
た。そして明治
年に
野組が
破産
したあとは「まるで三
個人事業
のようなものになってしまった」という。
第二
国立銀行は「
横浜為
会社
がそれに
わった」ものだが、これも
株式
者が
なく、資本金額を
額して明治
年に
開業
三国立銀行は大
鴻池
などの
富豪
が発
起人
となり
立を目指すが、
立できず、
四は新
の大
主たちが
立、
五は
開業
し かしこれら国立銀行の営
がうまくいったかというと、さにあらず。理
は、
一に、当時の
間が銀行にさ
どの利
便
ていなかったことがある。
第二
に 政府紙幣が下落の一
のなか、同
紙幣である銀行
われれたこと、さらにこの
悪が銀行
の兌換
求となり、国立銀行は銀行
が発行できない
状況
まれた。
年以
ける政府紙幣の大
落とともに銀行紙幣の流通は
塞してしまい」、政府が銀行
を抵当として受け入れて、
わりに政府が五年四月にドイツに発
して
成した新紙幣を国立銀行に
し下げ
るを得ない
事態
にまでなった。これでは不換紙幣の銀行
券へ
のすり替えとい う政府の奸策もうまくいかず、貨幣の流通さえとどこおるという
事態
えた。ここで新紙幣とは、政府がドイツの
ンド
に発
して
らせたいわゆるジャーマン紙幣で、太政官札や民部省札、大
省兌換証
使兌換証
など
各種
紙幣を一つにまとめ、あわせて貨幣
偽造
に対
しようとした もの。貨幣は
九種
あって、
額一
万円であったという。また、
新後、政府が
らせた
会社
は「国立銀行条例によって金
発行の
権」を
喪失
したのだが、

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