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定常的世界

広井良典は、2001 年に出版された『定常型社会 新しい「豊かさ」の構想』の中で、日本の社会保障


が、
①社会保障給付費がおおくの先進諸国に比べて相当に低い、
②社会保障の比重が年金に偏っており、
失業や子どもに関連する給付が少ない、③その財源において税と保険が渾然一体となっている、という
特徴をもっており、これからの社会保障は、年金だけでなく医療・福祉を重視するとともに、高齢者だ
けに偏ることなく個人のライフサイクルを座標軸としていくという方向性を模索すべきであると指摘し
た。経済が厳しい不況下にあった 2000 年の半ばにあって、現在でこそおおくの人の関心を集める社会保
障制度に関し、上述のような問題点を先見的に指摘し、適切な処方箋を与えたことは、高く評価される
べきである。

ところで、同書はおおくの人の関心を集め、当時もベストセラーとして扱われたものであったが、こ
のように同書が多くの人の関心を集めたのは、むしろ、我が国経済と社会の将来に関しての特有のビジ
ョンを示すものであったためである。社会保障に関する上述の指摘もまた、この将来ビジョンにともな
う必然的な帰結であった。
そのビジョンは、
「定常型社会」という言葉によって表現される。定常型社会とは、経済の「自然的制
約」を強く意識することで経済成長には終わりがあるという認識をもつことから導かれるものである。
定常型社会では、モノやエネルギーの消費が一定となり、経済の量的拡大はもはや基本的な価値ないし
目的とはされない。ひいては「変化しないもの」
(自然、コミュニティなど)に価値がおかれるようにな
る。広井によれば、古典派経済学の時代(18 世紀後半~19 世紀前半の、アダム・スミス、デーヴィッド・
リカード、ジョン・スチュアート・ミルらの時代)には、経済の自然的制約は強く意識されていた。1し
かし、産業革命によって経済の成長力が大きく高まった「新古典派の時代」には、価値の基準は投入さ
れる労働ではなく個人の主観的な効用に換わり、市場をとりまく外部環境との関係から意識される経済
の自然的制約は市場内部での「希少性」におき換わることとなる。

経済はつねに成長するもので、成長することは善きことであり目的である、というのは、いまでも一
般的な通念である。しかし、その通念は確たる根拠を有するわけではない。近年は地球環境問題が世界
的な課題とされているが、豊かさの拡大は、地球環境への負荷を高めることにつながる。例えば、より
おおくの人が自動車を買えるようになれば、
化石燃料の消費は増加し、
温暖化ガスの排出量は増加する。
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広井は、単位時間あたりの消費を増やしひたすら経済が成長することに価値をおくこれまでの一般的
な通念を改め、むしろ「時間の消費」
、すなわち余暇により大きな価値をおくことが求められるのではな
いかとし、そうした方向からみた究極的な将来ビジョンとして定常型社会を提唱する。

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同書では、ジョン・スチュアート・ミルの『経済学原理』の中の一節が引用されている。
2
現実に環境問題を考えるとき、化石燃料の枯渇という問題は、
「希少性」が高まることによって価格が
上昇し、代替エネルギーの活用が促進され、市場システム内部で解決が図られる。一方、地球温暖化の
問題は、温暖化ガスの排出量を国際政治的に規制する必要があるため、市場システムだけによって解決
することは困難である。ただし後者の問題も、新しい市場(排出権取引市場)を設計することで解決す
ることが可能であり、それがすぐさま成長の限界を導くわけではない。

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しかし、経済が成長しなければ、限られたパイを経済主体が取りあうことになる。すなわち定常型社
会は、ゼロ・サム的な経済活動を前提とする社会である。人々は「新しい試み」に対して消極的になり、
“萎縮”した行動しかとれなくなる。あるいは「既得権益に固執したり、自分が現在身を置く“業界”
にしがみつきながら(固定的な公共事業のように)既存の利益を手放そうとしない」というような事態
が現実に生じている。しかし広井は、だからこそ所得再分配によって経済的格差の拡大を抑制するとと
もに、社会保障についての議論を進めていくことが重要なのだ、というように議論を進める。社会保障
制度によってセーフティ・ネットを整備することは、
「個人による新しい事業や創発的な活動の試み」と
「マクロの消費量が成熟化ないし定常化に向かう社会」ということの両者を両立させる鍵であり、
「個人
や社会の流動性や変化を可能にする条件」なのだという。

経済成長の「帰結点」において生活者の物質的なニーズがすべて満たされ、これ以上(減価償却を超
えた)新たな設備投資を必要としない社会となれば、人々の価値観は大きく変化し、余暇の価値は高ま
ることになるのかも知れない。これは、ジョン・メイナード・ケインズが当時から百年後の 2030 年の先
進国の姿を想像して語った「経済的至福」
(”Economic Bliss”)という言葉に重ね合わせることができる。
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経済的至福が実現すると、経済が数量的に成長する必要はなくなり、経済効率の高まりは労働時間の
短縮(余暇の増加)を意味することになる。これは、時間あたりの所得が高まることでもある。
だが現実をみれば、新たに生まれる生活者のニーズに終わりはなく、経済効率の高まりと経済規模の
拡大によってそれは満たされてきた。自然的制約は、市場の需給調整による効率的配分や新たな資源等
を探し求めることで克服された。広井のいう「環境効率性」
(1単位あたりの自然の利用あるいは環境へ
の負荷から得られる効用)は、市場メカニズムの中で高められてきたのであり、そのことによって、経
済は古典派経済学の時代に考えられていたような限界を迎えることなく継続しているのである。

ひるがえって、現代の日本経済をみると、1990 年代降、経済成長率は低く、特に名目でみた国内総生
産はほとんどゼロ成長となっている(実質、すなわち数量でみた国内総生産はその拡張期を幾度か経験
した)
。このような意味で経済規模が不変な世界を、本稿では「定常的世界」
「定常的世界」とよぶ。日本は期せずし
「定常的世界」
て、1990 年代以降、経済の定常化を実現したことになる。しかしその世界は、ケインズがいうような「経
済的至福」にはほど遠く、労働時間の短縮は労働の価値を高めることなく、むしろ完全失業率は高止ま
り、パート・派遣等のいわゆる「非正規雇用」が増加することによって経済的格差は拡大した。すなわ
ち定常的世界は、
生活者であり労働者でもある日本国民に対して大きな弊害をもたらしているのである。
定常的世界で生じている問題は、どのように解釈され、解決が図られるべきであるのか。次回以降、
この点についてまずは理論的な側面から考え、定常的世界では労働の価値がいかにして虐げられること
になるのかを確認したい。

mailto: kuma_asset@livedoor.com

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ジョン・メイナード・ケインズ(山岡洋一訳)
『説得論集』に収録された『孫の世代の経済的可能性』
による。

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