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彼女は 20 年連れ添った夫と一緒にクリーンでいました。そして 8 年後

に末期癌の夫をと看護しました。同時期に彼女の両親もまた病気で危篤
の状態でした。そして 61 歳のいま、彼女は年齢や状況に関わらず、プログ
ラムは私たちを助けてくれることを分かち合ってくれています。(P278
~P282)

決して独りでじゃない

私は今 61 歳で、15 年の間クリーンでいます。夫は私と同時にクリーンになった。彼はその時 52 歳で、私


は 46 歳だった。私たちには、ミーティングに来ている人たちのほとんどよりも年齢が上の子供たちだった。
私たちには、NAは若い子たちの集団に思えた。私たちと関連することはないだろうと。
ミーティングで会った人の中で、私たちが最も年を取っていたのだけど、ミーティングに居続けてNAの
回復のメッセージを聞いた。それはどんなアディクトでもクリーンで生きることができて、使いたい欲求も
なくなる、というものだった。私たちは毎晩ミーティングに行った。来る日も来る日もその若い子たちの集
団と一緒にミーティングルームに座りながら、彼らが自分の話をしているのを聞いた。私たちは、人々はそ
れぞれのアディクションによって行き着いた絶望と、やめようとしても出来なかった痛みについての感情
について話していた。それらの話を聞いて年齢に関係なく、アディクションの痛みはみんな同じなんだ、そ
してこのミーティングは私たちが参加していいのだとわかった。その後に、自分と同じ年代の人たちとも会
うことができた。
薬箱から盗み取っていたまだ小さな子供だった頃から私はずっと使ってきた。高校時代での親友の父が
麻 酔科医だった。私たちは、どの 薬にするかを決める医者用のカタログを使用しようとした。その頃、また違
う友人の一人が私に大麻をくれて、彼女は「吸ってみなよ」と言った。私は彼女のように格好よくなりたいと
思ってやってみた。それからの 33 年間、海岸から違う海岸へと薬物を追い続けて、生活の中心には薬物があ
った。
1960 年代の終わりから 1970 年代の初めはすべてのアメリカ人が薬物を探し求めていたかのようだっ
た。私はそのカルチャーの先陣を切っているかのように感じていた。しかしほとんどの人たちが使うのとや
めていくように感じてたときも、私はやめなかった。最終的に本当にやめようと思ったときも、私はやめら
れなかった。
結局 1980 年代の末の頃に、私の夫がうつ病になった。想像してみてほしい!あなたの体は抑制剤で埋め
尽くされていて、どうしてうつにならないでいられるでしょう。夫はアディクションの治療に行って、そこ
でNAを紹介された。彼は食事つきの下宿部屋に引っ越してミーティングに通い、私の為に薬物を買って来
ていたにも関わらず、クリーンになろうとしていた。三ヶ月がそのように過ぎていき、夫はリラプスし、そし
てさらに 3 年間続けた。
その頃、私はかつて無かったくらい使っていた。何かを使ってよれよれになっていて、全く好くはなくな
っていた。その後に自分が薬物をやめられないことを理解する日が来るまで、ずっと自分の人生をあきらめ
てた。薬物をやめた人たちが居ること知って、彼らの人生が使っている人たちよりも、そしてもちろん私よ

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りも、明らかによい人生を送っていることはわかっていた。しかしそれは私の人生には起こることは全くな
かった。私は変わることができるし、使うことなく違う人間になれたというのに。しかしそれ以上そんな風
にしたいという願望はなくなり、やめる方法を見つけることができなかった。そのため、私は大量に買って、
すべて使い尽くした。そして神が私のいのちに入り込んできた。
その日は週の平日の昼間だったにも関わらず、息子が私の家に立ち寄った。彼自身、なぜ途中下車して家
に寄ろうと思ったのか分らなかった。彼は意識不明の私を発見して、まだ息があったので救急車を呼んだ。
このときは過去にやったような助けを求めてやった行為ではなく、本気で死のうとしてやったことだった。
私は病院で五点拘束をされた状態で目を覚ました。
私は 10 日間の任意入院、または期間不確定の強制入院のどちらにするかの選択を与えられた。私は任意
の方をえらんだ。その時安堵を感じられたことが大きな驚きだった。私には、問題ないと意地を張る余裕は
なかった。私はもうその状況を維持してあがき続けることが出来なくなっていた。私は助けが必要で、それ
を手にしようと決めた。
夫が以前にNAに繋がっていて、彼はどうすればよいのかを知っていた。彼は病院にやって来て、私を乗
せて、ミーティングに連れて行ってくれた。そして彼はまた病院まで送ってから家に 帰り、私はその後に使
っていた。10 日が過ぎたときに、家に帰る準備ができた。彼は私がクリーンでいるなら、自分もクリーンいら
れるだろうと理解していたので、私たちは共にミーティングに出た。それは彼の一日目で、私は十日目だっ
た。
最初の一年目に私たちは毎日ミーティングに出た。時には2、3回の日もあった。私たちはそれぞれスポ
ンサーを得て、ステップをして、NAでの社会交流のすべてをしてみた。サービスする仕事ももらった。ホー
ムグループを得て、友達も作った。私たちは皆同じ思いを抱えてので、年齢の違いは無関係なことを理解し
た。
初めてステップに取り掛かったときは大変ではなかった。無力と生きていけなくなっていたことは、自分
で明らかだったので、ステップ1、2、そして3はそれ程難しくはなかった。私はハイヤーパワーによって生
きていることがわかった。しかしステップ4は違った。どうしたら 46 年にも渡る、憤りや悪い振る舞いにつ
いて書く気が起こるだろう。私は誰を傷つけたり、切り裂いたり、ダメージを負わせた人々なのかわからな
かった。それが私の身近に居た人々に及んでいたことに気付いた。私たちはより経験を積んだメンバーたち
にそのときに自分が何を求めているのかを教えてくれる自分のハイヤーパワーについて話してくれながら、
導いてもらった。再びステップに取り掛かると、多くの事柄が目の前にやって来た。それによって前にすす
むことが可能になった。
第8ステップの作業の真っ最中に私は1週間家族のところを訪れた。彼らは私の家と 3,000 マイル
(4,800km)離れて住んでいた。私は速やかにスポンサーと共に第9ステップに取り掛かり、その一週間で
私の父と、母、継父の父、兄、義理の姉に埋め合わせしようとがんばった。彼らは皆、私がクリーンで居ること
が唯一の埋め合わせだよと言ってくれた。
人生は良くなった。私は学校に通い、学士号を取って、さらに学位を取得した。そして心理療法の
実地を始めた。父は私を誇りに思っていると言ってくれて、そんな言葉は以前彼から聞いたことがなかっ
た。

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私がクリーン6年目の時に、NAでの長い経験のある友人が癌で亡くなった。彼の周りのフェローシップ
が集まり、闘病中の彼をサポートした。ホームヘルパーに加えて、二人のアディクトが彼にずっと付き添っ
ていた。彼のスポンシーの一人が引越してきて、彼の横で寝泊りした。彼は死に向かいながら、自分の経験に
ついて話をした。棘の中からバラに成長して言ったと語った。彼は威厳と力強さを持って、クリーンのまま
死んでいった。彼はどのようにクリーンで生きるのかを教えてくれて、またどのようにクリーンで死んでい
くのかを教えてくれた。
2 年後私の夫が癌と診断された。私の父が癌で死に瀕していて、母は心臓病を患っていた。クリーンになっ
たことで、それが望んでいるかはどうかは関係なく、自分たちの生活のコンディションを整えるための機会
が与えられるようになり、それはとてもよいことだと感じていた。私が反応して起こしたことが問題になる
ことはあっても、何が起こっても問題ない。夫や息子を失ったことは、私の第一ステップに対する唯一の疑
心だった。
私はミーティングに行き、自分の疑念についての話をした。私は夫なしでクリーンを続けることは出来な
いだろうと恐かった。私は彼なしで本当に生きていきたいのかわからなくなった。私たちは子供たちが成長
していくのを見ながら28年間一緒に暮らしていたし、一緒に旅行に行き、アディクションが最悪だった時
もお互いを気遣って一緒にクリーンなった。私たちがクリーンになってから、二人の関係は深まり、相互に
尊敬しあう無条件の愛情の中に一輪の花が咲いた。彼は私の心そのものだった。私は彼なしでの人生は想像
できなかった。
夫は六ヶ月間病と共にいた。その期間私たちはメキシコからハワイに旅をした。そしてサン・ジョゼのコ
ンベンションに参加した。そこで自分で手を伸ばして助けを求めることを初めて学ぶことが出来た。このプ
ログラムの人々は彼が病気を抱えている時も素晴らしかった。夫のスポンシーたち、私のスポンサーとスポ
ンシー、そしてフェローシップの友人たちがよく電話をくれて、たまに家を訪れてくれた。私のスポンシー
の一人は看護婦で、彼女はその時は働いてなかったので、私が出かける必要があるときには、代わりに面倒
を見てくれた。愛と思いやりを持った人たちがどんな時も私たちの周りに居てくれた。私のホスピス・ソー
シャル・ワーカーは、彼女は他のNAの友人たちの看護をしてくれていた人、NAは他で見ることのない最
良のサポートシステムだと言っていた。
私の父の死を、亡くなった後に知った。私の夫の11日前に亡くなっていたからだった。母をその18ヶ
月後に逝った。私は一人ぼっちになってしまいそうで、心から恐くなった。人々を失くした痛みで、私の心を
氷のように冷たくなっていくように思えた。私は呼吸ができなくなって、息苦しくなっていくように感じた。
たった一つミーティングに行くことだけは頭で考えることができた。私は自分の苦痛について話をした。他
の人たちがミーティングで来て私に会ったら逃げたしていくのではないかと思うほど、話をし続けた。私は
ハイヤーパワーに助けの手を伸ばした。それからの数年間、私は11ステップにとどまっていた。私はある
時気付いて、ハイヤーパワーを信頼するようになった。ハイヤーパワーの私に対する唯一つの望みは、人生
が与える癒しと成長をくれる機会を活かすということだった。
それは今でもとても難しいことだ。でも使う必要はない。私はいまでもプログラムに繋がっている。今で
も私は毎週6回ミーティングに出ている。私にはスポンサーがいる。ステップをしている。そして多くの女
性のスポンサーをしている。サービスをして、文献を読んでいる。私にはスピリチュアルなコミュニティと

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信念、信頼、私自身を深めて強く成長させてくれる神との関係がある。良い日もあるし悪い日もある。私は未
だにクリーンでいるための沢山のことを学んでいる。タフになった時でも、ミーティングに行って、友人に
電話したりスポンシーや誰かと一緒に働いたり、または祈りそして祈りまた祈る。私は、自分がNAの中で
学んだスピリチュアルな原理をミーティングルームの外でもすべての事柄において実践しようと挑戦する
ことでステップ12を実践している。
私の人生は満たされている。私は、傷つき弱っていた小さな46歳の女の子を拾って、クリーンで生きる
方法を教えてくれたNAに感謝している。

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この部屋で最年少のこのアディクトは、今も正しい方向性とのつなが
りが感じられており、アディクションからの回復とは年齢を超えて結び
ついていることを理解している。(P283~P285)

年齢に関係なく

僕が始めて話したNAメンバーは自分の母と同じ年の人だった。僕は高校一年生の夏の後から、クリーン
でいる。僕は数ヶ月間だけ薬物を使っていた。その数ヶ月は僕の人生の中で最悪の日々だった。数日警察に
保護拘置されていた間に、学校を強制的に退学させられて、両親と一緒にリハビリ施設を見学させられりし
た。自分には問題があって、助けが必要なことはわかっていた。僕が初めてナルコティクス アノニマスのこ
とを知ったのは、自分のリハビリ施設で小冊子を見つけて読んだからかった。僕には選択肢がなかったので、
一回行ってみることにした。僕がNAに出て最初に気付いたことは、多くの人たちが僕よりも年上だと言う
ことだった。それまで自分よりも 10 以上も年齢が上の人に会うことは稀だった。そこの人たちは僕が生ま
れる以前にハイになっていた。僕が保育所でブロックかなんかで遊んでいたころ、彼らはドラックを扱い、
逮捕され、アディクションが発症(active)して深みにハマッていた。その高齢の人たちと自分がどうやっ
たら共通点を持つことができるのだろう?
この疑問への答えがミーティングが始まってすぐに与えられた。自分の母親といっていいようなNAメ
ンバーが自分に、アディクトですか?と尋ねてきた。誰かが自分に話しかけてきた最初のことで、僕はなん
と言って答えたらよいかわからないでいた。なにもいう必要がなかった。ただ何かを感じていた。僕たち二
人に年齢を越えてなにかの繋がりがあった。彼女の声、目、スピリットから何かを感じた。そこには以前に感
じたことのないような、もう一度感じてみたいと思わせるものがあった。
私は部屋の一番後ろに座っていた。ミーティングでどんなことが分かち合われたか覚えていないけど、
「年齢に関係なく参加できる」という言葉を聞いたのを 覚えている。それが自分の耳に残ったことのすべて
だった。僕はどこかに引っ付いたり、何かに仲間入りすることに必死になっていて、その言葉にしがみつい
てミーティングに参加し続けた。人々の分かち合いを聞くごとに、彼らの年齢が気にならなくなっていった。
ミーティングの後にメンバーたちと夕食をとりに出かけて交流を深めているとき、彼らは何かを要求する
ことはなく、僕の友人になってくれた。僕がどんなふうに感じているかを彼らに伝えると、自分と同じ年代
のアディクトでない人たちからは感じたことのない、それを自分を認めてくれる反応を返してくれた。
僕は今大学三年生で、学生特有の変わった生活を送っている。金曜日の夜、ほとんどの学生たちが薬物を
やるパーティに出かけていく。僕はホームグループのNAにいく。僕は感じていること、取り掛かる必要の
あること、そして自分がより良くなるためにどうしたらいいと考えているかについて分かち合いう。いまだ
に僕はミーティングの中で最も若い人間だ。自分が人生の早いうちにクリーンになる機会に恵まれたこと
はとても貴重な贈り物だと受け止めている。回復は一生涯のプロセスで、これから先にある自分自身の人生
すべてを手にすることができることに感謝している。自分の持つことのできる時間のすべてが必要な時間
だ。若い人たちがミーティング場に入るのを見かけたとき、僕は回復はどんな年齢でも可能だということを
メッセージとして伝えようと努力している。僕が回復に必要になる、病気が悪化している状態でなかったと

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考えることも出来る。僕はハードにたくさんの 薬物を使っていなかった。僕のそこつきは十分な底に達して
いなかった。スポンサーは僕にこう言った「君のそこつきはどこであれ、底を掘ることをやめた時点で十分
だ」と。メンバーシップは以前何をしていたかに関係ないと言っている。
僕は若いNAメンバーたちに自分がもらった物を与えていこうと努力している。少年者用トリートメン
ト施設にNAメッセージを運んでいて、自分が貰ったメッセージを返していくことができる機会を与えら
れたことに深く感謝している。僕が助けの手を伸ばし、若い新しい人たちと話すとき、自分がどこから始ま
って、いま回復でどのくらい成長したのかを思い出させてもらう。2、3年前に行われた自分のリージョン
のコンベンションの中での「若者の回復」という名前のワークショップで話す機会を与えられた。僕は真の
人間としてのスピリットを感じて、このサービスに取り組んだ。10代後半や若い大人たちの人だかりを見
ながら、ハイヤーパワーの存在を感じた。僕はこれほどたくさんの若いアディクトたちを以前から見たこと
はなかった。その部屋はまるで大学の大講義室のようだった。そこにいたアディクトたちは僕と似ていた。
僕は自分と全く違いはないと実感した。ミーティングの後で、一人の10代後半のアディクトと話をして、
彼の話を聞きながら分かち合った。自分が何回ミーティングの席に座って、自分と同じ年代の人や、ずっと
年老いた人たちかはともかく、スピーカーが僕の物語を分かち合っていると考えてきたか今では数えられ
ないほどになった。そこにはいつも特別な経験と、スピリチュアルなレベルにおいて、自分に関係のある人
たちがいてくれることを知っている。
ときどき年配のメンバーたちがぼくに「君は若くしてクリーンになることができて本当にラッキーだ」と
言う。そのとおり僕はとてもラッキーだ、そしてそれは他のすべてのナルコティクス アノニマスのメンバー
にも言えると思う。僕は自分自身のことを、幸運な魂の集まりのフェローシップの一部だと考えている。個
人的に比べると確かにある意味並外れてラッキーとかもしれない。僕がもし他のNAメンバーと違ってい
ると考え始めれば、ここから出て行くこともできる。そこつきのライン(線)とは、誰かが私たちに加わり、
その人が他の人となんら代わりなくこのプログラムの一部だと感じられた時だ。
僕はいつも自分がたった一人で他のメンバーたちと一緒にミーティングにいた時のことを思い出すよう
にしている。そのとき外は酷い吹雪が吹き荒れていたのだけど、たまたまミーティング場からすぐ近くのと
ころに住んでいて、僕は歩いていくことができた。そこには僕よりも50歳も年を取った人が一人だけいた。
僕はまだ労働する段階にも達していなくて、彼はすでに退職していた。そのとき彼が他の人たちが自分より
も年齢が上で自分が違っていると感じていたという彼の分かち合いを聞いた。その夜、僕たちはお互いの人
生と経験について分かち合った。細かいところは違っていても、感情やスピリットは同じだった。要点が明
らかになった。僕たちのフェローシップは様々な範囲にわたる経験と、回復中のアディクトであるという、
同一性によって成り立っている。

PHD( 薬学部)で 薬理学( 薬物を投与したときに生体に起こる 変化

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を研究する学問)を学ぶ学生だった頃、自らの薬物の知識で、もう少しで
自分自身を殺してしまうところでした。彼は20年以上のクリーンと共
に教授の職に就いていて、いま回復とは科学ではないことを理解してい
ます。

アカデミック アディクト

パトカーから警察無線のやかましい声が、私についての特徴を言っているのがやがやと聞こえてきた。私
は凍てつく朝に走って自分のアパートに逃げ込んだ。色が変わるようにジャケットの裏表を逆にした。私は
ある中西部の大学都市の住宅街の裏庭を這っていた。まるで薬物でおかしくなっている、やせ衰えた小さな
ランボーのように。近所の人に警察を見なかったかと心配して聞いて周り、その目はパニックで落ち着かな
くなっていて、ジャケットは裏表反対で、数日寝てない状態だった。近所の人は見ていないときっぱりいっ
たのを聞いて、私は中に入り隠してたものを捨てて、不気味な気配が迫っているにも関わらず、そのまま深
い眠りに落ちた。
午前4時、
「警察の声」を人気のない大学構内のバスルームで聞いた。感謝祭の日だったが感謝の気持ちは
浮かばなかった。逮捕が迫ってきているという妄想が現実のように感じられて、それが私をパニックに陥ら
せ哀れな反応をさせていた。私は3日間ずっと、不眠でメタンフェタミンに関連した薬物を静脈に注射して
いた。オーバードーズが一時的な精神病を引き起こしていた。
私はこの特別な薬物を自分いた薬学部で専攻していた薬理学科で見つけた。それは私がずっと新しいも
のを探し続けてきた中で、最近の物質だった。私の学問は空虚な物語に変わっていた。薬物を探すことが個
行動の主要目的になっていた。それがまわりにいた仲間の学生やスタッフや教授に知られて、私の奇妙な振
る舞いや、どんどん悪くなっていく症状をみてかれらは心配を募らせていた。化学物質が研修室から持ち去
られていることに気付かれて、セキュリティの基準が改善された。薬物への欲求は増え続けているのに、手
に入れることが難しくなって、自分の効きも悪くなっていった。化学的に引き起こした酷い妄想型統合失調
症と呼ぶつもりはないが、使うことで遠い場所との因果関係があったことがあった。薬物が私の人生の中心
になってしまっていた。
「夜の警察の手入れ」は私が助けを求めるようになる前に経験したそこつきの物語の一つに過ぎない。使
い続けた結末は―彼女が手におえないと私を追い出したこと。血の気を失った顔。注射痕だらけの腕や足。
日常生活の完全崩壊。私のやる気の源、活力、想像力は薬物を見つけること。自分の大学でのキャリアや評判
を危険に晒せていること―これらのことから、自分でも明らかに薬物の問題があると感じた。最後に、オー
バードーズによる死がやってくるだろうと認めた。それがアディクションが私にもたらす結末だった。自分
の怖れや、必要なことは薬物がどんな金額だろうが手に入るかどうかということだった。鍵となる妄想は、
自分だけがこんな問題になってしまっていると思っていることだった。自分ひとりで解決できるし、他の誰
かが出来るわけでもない。孤立がアディクションの道をさらに舗装していって、ほとんど死んでしまうとこ
ろまでいった。
私の行動は終に解決へとたどりついたが、想像したものではなかった。バスルームである薬物の効果に逆

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らって、違うものを注射していた。私は死にかけていて、二人の保護者が僕の死体を見つけたと思って泣き
叫んでいた。私は病院に運び込まれて、薬学プログラムをやめさせられた。もし学部の建物に入ったら警察
に通報すると警告も受けた。私の理学者としてのキャリアは終わり、私の回復が始まった。
大学院を追い出されたことは自分に起こった中で、最良のことだった。いや、私はすぐに使うのをやめた
訳じゃない。まだ終いをつけてなかった。だが何かが変わってしまった。その損失と、その他に起こったすべ
てが相まって、私は自分の問題をどうしようも出来ないということを認めることになった。私は物事の受け
止めかたが多分 変わっていってたのだけど、クリーンで生きることについては、何もしらなかった。それは
他の人たちが私に教えてくれることだった。
アディクションという病気は社会的、経済的な垣根を越えてすべてにまたがっている。人々がこの病気に
かかったとき、薬物が彼らを見つける。途中過程は人それぞれ非常に変わっているが、終着点はいつも同じ
だ。私は虐待のある家族で育ってはいない。裕福な住宅街で育ち、優れたな公立学校で教育を受けた。私は満
足できる家と愛すべき家族を持っていたが、自己破壊的な行いに困っていた。私は才能があり、体も健康で、
機会に恵まれていて、友達もいて、物質的にもあらゆる面でよく支えられてきた。しかし私は普通の人と違
っていた。私はアディクションと強く結びついていた。自分の若いときの考えや振る舞いが、何がこういう
ことになったのかということのヒントになってくれることが今わかっている。
私はハイになる方法、普通に学校である得ること、を見つけた。しかし私とってこの体験が重要なことに
感じた。最初に酒を飲んだときのことを鮮明に覚えている。それは自分の長い薬物のリストの最初のことだ
った。私の使い方はコントロールできているように思えたが、高校時代毎日ハイになっていて、なんでもそ
こらに薬物をミックスして使っていた。大学時代はハイになるために風変わりで、自分勝手で、危険なこと
をやっているのが普通だった。学生でいることや、学ぶことが好きだったが、そこには並列していつも連続
して使う生活があった。
自分のアディクトの面は、薬物を見つけて使うことに関して信じられないくらい能力を持っていた。大学
院生のとき、私は本当に薬理学に魅了されていた。しかしその選択は「ストリートでの知り合い」なしで薬物
に近づけやすくなった。その数年間、致命的なプロセスが本来の正当な利益を奪っていった。実際に使って
いる道の終点についたときは、だれもが道の脇で失意に落ちている。私の病気の進行は、使うことを続ける
ために、自分自身を壊して、それを叩き売るバーゲンを何度してきたかということで計ることが出来ると思
う。
「平日は使わないようにしよう」が「薬物を打つのをやめよう」になり、
「じぶんのキャリアは傷つけない
ようにしよう」になり、薬物自体が自分のキャリアになっているかのように感じていた。私の薬物に関する
専門的な学術が自分の回復にとって危険な妨げだった。私は薬物に関する自分の知識を、薬物をよりうまく
使いこなせるように利用した。いまそれは、弾丸に対する安全性を図るための弾道学のようだったと理解し
ている。私の傲慢さと妄想が私の中にやって来なかったなら、楽しかっただろう。
私の回復は、自分が薬物を使って困らせていたたくさんの教授たちからの不相応なくらいの優しさと一
緒に始まった。教授は純粋に寛大な心から、単純に受けた教育などの傾向から人のことを決め付けない、薬
物問題のカウンセラーを見つけてくれた。そのカウンセラーとの最初のセッションで、私は酷い状態で、狂
ってしまっていたように見えて、それが自分のすべてだと思っていた。一方で困惑している脳が変わりたい
と欲していた。そのカウンセラーは、私が初めてあった自分のことをアディクトだと名乗る人で、彼はどう

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すれば薬物なしで生きられるのかを知っていた。それが企みだったのだ。私はもっとそのことを知りたがっ
た。彼は最初に私の信頼を得て、数週間後に罠をはった。彼は「もしここに通い続けたいと思っているなら、
他にやらないことがある」といった。なにかのテストのことか?承諾書を読むのだろうか?どこかの医師へ
と行くということか?いや違った。
「ここに来たかったら、ミーティングにも行くことが必要です」というこ
とだった。私はそのことについて、懐疑的で怖れていたが、行ったほうが良いだろうと決心した。なんでも操
作しようとするアディクトが、回復中のアディクトによってうまく操作されたのだった!
ミーティングには、
「違いを見つけるレーダー」をもって行き、私はそこにいる群集の一員ではないと思っ
ていて、いろいろな分類の仕方でそこにいる人たちと自分と違っているところを発見するために、レーダー
を張っていた。私は傲慢かつ人を裁きながら、相似する点ではなく、人々との表面上の違いに付いてを基礎
にして見ていた。しかしながら、そこには驚かさせられることがあった。私はステップが使わないためのな
んらかの手引きだと思っていた。―「ステップ1:私たちは麻薬を手にしません。ステップ2:私たちは一
切なにも注射しません」のように。しかし声に出して読まれる12ステップを聞いたとき、彼らは 薬物とい
う言葉さえ触れていなかった!ミーティングルームにいる人たちは、私の頭によぎったこともなかったよ
うな考え方で、クリーンを続けていたのだった。自分の考え方では惨めに失敗してきたので、そこの人たち
は違うやり方をして結果も違っているという事実に希望を見つけた。
回復の経験は稲妻のようだという人も何人かいる。突然閃光のように明確に理解を得て、すぐさま使いた
い欲求も失せるというように。このプログラムの効果は、私には例えると、徐々に私の間違った信念を腐食
していくような雨や風のようなものだ。これはクリーンで過ごす一日一日がその効果を発揮する。私は自分
が治癒できない致命的な病気にかかっていて、それにかかったことへ自分の落度はないけれど、回復を続け
ることは自分の責任だということを少しずつ学んだ。またフェローシップとはアディクションに対して中
毒性があり、孤立はリラプスに必要な条件であるということをゆっくりと理解していった。未だに回復につ
いて最も役に立つ情報は、頭でっかちな自分の考えではなく、他の人たちから聞く話しだということを心に
留めて置くことが必要だ。私は未だに回復の中で、真実に対してもがいてしまうことがある。それはよい行
動はすべてを理解するから得られるものではないということについて、そのことは科学者としての自分に
は納得できないことがある。ときどき何か新しいものを学んでいても、一方で自分はまったく進歩していな
いと感じることがある。しかしクリーンで居る限り、私のスローペースの回復にはなんの問題はない。プロ
セスにおわりはないから、急ぐ必要はないのだ。
自分の持つことのできたこの人生は貴重な回復のギフトだ。私は大規模な総合大学の教授をしている。栄
光ある、想像性に富んだ、エネルギッシュな大学だ。私はそこで、信頼と尊敬をありがたく受け取って、仕事
をさせてもらっている。またNAの内外に長い付き合いの友人たちがたくさんあり、家族たちとは健康な関
係を持つことができており、自分が好きなことで生計を立てているという贅沢をさせてもらっている。まさ
しく神に恩恵を受けていて、それはNAウェイに生きることから得られたことだ。それは私の人生が完璧だ
という意味ではない。私は問題をもっている。怖れや、フラストレーション、そして低い自尊心との絶え間な
い格闘。しかしどんなときも自分がクリーンじゃなくなることはないというイメージは出来る。私はマイク
という名前の高校時代の友人のことを思い出す。私たちはとても似たような道を辿っていた。二人とも科学
に興味を持っていて、薬理学を修了して、ハードに使って、共に知識が自分を守ってくれると考えていた。し

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かしマイクは20年前にオーバードーズして死んだ。私の人生はギフトだ。その日あったことがなんであれ、
回復のためのものだ。
「与えていこうという気持ちがあれば、欲しいものが得られる」というのはミーティングルームでしばし
ば聞く古くから伝わる言葉だ。私にとって自分が今持ちたいと願っているものに、限らず、すでに手にして
いる物も同様だ。私のスポンサーは、クリーンな日々はどれもすべてNAのおかげだと私に話していた。だ
から今日ある回復のために、支払っていこうという気持ちでいる。回復を続けるための代価は同じギフトを
他の人々に提供することだ。私がこの道を辿っていく経験がなかったとき、他の人たちが、アディクトやア
ディクトではない人も、道を探す手助けをしてくれた。彼らはハイヤーパワーの仕事をしてくれた。そして
いま、私が他の人々の回復に参加して、同じように手助けする番だ。私がこのように考えるようになって、フ
ェローシップが回復の基礎だということがより明白になった。
20年以上のクリーンにも関わらず、ミーティング場で違いに焦点を合わせて、自分と人々との距離をと
って戦いたい衝動に駆られることがある。しかしいまはそれはNAについての不満を表したいというただ
の自分の病気だと思っている。私はいつも私と仲間のアディクトとの間にある類似点を見つけるように気
をつけている。しかしそれは私たちがすべて同じだという意味ではない。NAでは、一体性とは画一性では
なく、どんなに違いがあってもそれ以上の比較できるものがないのだ。NAはすべての種類の人でも対応で
きる大きな家だ。私たちはどんな言語でも話しをすることができるし、どんな政治的志向や、ハイヤーパワ
ーについて考えを持っていてもかまわないし、育ちがどうだったか問題にしない。この多様性の中で、さま
ざまな人々が集まるグループは成長していく。そこにはいろいろな人がいる。スポンサー、盟友たち、そして
信頼する新しい仲間たち。それはどんな人でも回復を可能にするための多様性だ。自分の場所と感じられな
いアディクトがありませんように。それが象牙の塔(Ivory Tower:社会から離れて場所で夢想家が集まる
場所)や見張り塔(Guard Tower:比喩表現だと思うが不明)だったとしても。

日本でNAがスタートした時、メンバーたちはアディクトには普通の
生活することさえできないと信じていました。特に回復中の女性にとっ

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ては。フェローシップが成熟するにつれて、このメンバーや彼女に似た
人々は「回復中のアディクトのモデルなどいない」ことに気付きはじめま
す。(P292~P297)

私を幸せにすること

 私がNAメンバーになり、普通の生活ができるのだと理解するまでに 10 年ほど掛かりました。私がクリ
ーンになる前、日本では薬物に依存した女性が回復することはとても難しいと思われていた。私は孤独でし
た。私の家族の誰もアディクションについて何も知らず、私の周りにいる人々でそのことが話しに上がるこ
とはありませんでした。NAにおいて女性メンバーでいることは、私にとってはとても特別なものでした。
なぜなら私がクリーンになったとき、唯一の存在だったからです。私はアディクトとして、子供を持つこと
は避けるべきだと言われました。そのときのフェローシップは私が赤ちゃんを産んだとしたのなら、それ以
上ミーティングには来ないだろうと考えていました。誰も回復の中で子供を持った経験のある人がいませ
んでした。いま私は回復とは短い期間の話ではなく、それは一生涯のプログラムと知っています。そしてミ
ーティングにいけない回があるかも知れません。でも私たちはもし毎日ミーティングに行くことができな
いのなら、使ってしまうだろうと考えていました。私たちにはNAの経験や歴史がなかったのです。
 NAが始まって一年、私たちはAAミーティングに可能な限り通いました。そしてたくさんのメンバーが、
私のAAのスポンサーも同様に、
「よくも回復する前に結婚して子供をもったね」私によく言いました。それ
らの初期のメンバーたちは彼ら自身をモデルとしたルールが何もありませんでした。いま 14 歳になる私の
息子は、日本のNAプログラムの中のカップルから生まれました。みんなが彼の成長を見守ってきました。
人々は私の夫と私はいつか離婚するだろうと言っていました。私たち夫婦が一緒になって 19 年になります。
私たちの生活は普通です。
 私が 20 年前にNAのプログラムに参加し始めたとき、そこには約 10 人のメンバーがいました。東京出身
の私たちのメンバーの 7 人は、大阪の 3 人のメンバーに会うために特急列車に乗りました。いつも私たちは
一緒に行動して、NAメッセージをどう広めてればよいかについて話しました。最初の 5 年間、フェローシ
ップはなかなか成長できませんでした。私たちは新しい仲間を探す必要がありました。遠くの精神病院にア
ディクトがいると聞けば、そこを訪ねていき、施錠の扉を越えて話をしました。私たちは病院や施設でサー
ビスワークをこなし、定期的にパブリックインフォメーションをしました。しかし私たちには医師とのコネ
クションがありませんでした。私の夫は精神病院へいき、アディクトが居ないかを尋ねるだけでした。彼は
丘の上にある小さな町へ向かい、精神病院にいるアディクトに話をしました。彼らにはやめる意志すらあり
ませんでした。しばらく経って、病院から来てほしいと連絡がありました。私たちは特急列車に乗って、たっ
た一人のアディクトに会いに行きました。それをやり続けることは私たちにとってとても大切でした。私は
精神病院へ行き、その女性のアディクトと一緒にテレビを見ました。何でも良かったのです。NAメンバー
として、もっとたくさんの仲間が必要でした。
 私たちメンバーの人数はわずかだったので、私は完璧なNAメンバーになろうとがんばってたくさんの
喜びを感じていたのです。その頃、NAはとても若い男―15 歳か 16 歳の子供―と、年老いた元やくざでし

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た。私がNAきて間もない頃、全身にタトゥが入った蛇皮の靴を履いた男性たちと会いたくはありませんで
した。そのうちの何人か怖かったからです。使っていた場所から移ってきたメンバーたちが、スポンサーに
なることと、ストリートのボスになることの違いを理解できるようになるまでに何年も掛かりました。完璧
なNAメンバーがミーティングに定期的に出席するようになりましたが、ときどき女性のメンバーにとっ
て、ミーティングに行くことが本当に恐怖に感じることもありました。
 日本のフェローシップが成長するに従って、私たちはより多くのNA文献を翻訳するようになりました。
いったん私たちが日本語でそのメッセージを読むことができるようになると、プログラムはより明らかに
なりました。私は薬物が私たちの主な問題ではなく、私たちの強迫的な考えととらわれた振る舞いだという
ことにことにショックを受けました。それをよんだ時私は思いました。これだ!これが私がずっと抱えて
いたことだ。
 フェローシップでの女性はNAメッセージによって意味深い影響を受けます。彼らは薬物を使用した話
よりも前に、底と付いた経験について話すでしょう。使うことをやめる時、それは毎日の感情の痛みについ
て向き合うことを意味します。そして日本の女性アディクトはよく虐待関係を持っています。それは肉体的
虐待、心理的、感情的な痛み、それらが人生の一部になっています。多くの女性アディクトは使うことがコン
トロールできなくなるまで、薬物は良いものだという話を分かち合いをします。私は新しい翻訳が出るまで、
このことが理解できませんでした。それらの女性もまた回復という言葉とともに厳しい時間を経てきてい
るのです。日本では、回復とは「使っていた頃の自分にもどる」ことを意味していました。虐待のサバイバー
がかつての自分に戻りたいはずがありません。回復のなかで彼らは前進して、成長したいと願います。始め
るために何も用意がない人々は、自分の回復のために何も持っていないことに怖れていたのです。私たちが
新しい翻訳を読むようになって、日本の女性も世界中のメンバーと同様に同じ経験を分かち合いをするこ
とができるようになりました。
 私たちが分かち合いをするとき、自分のストーリーが他の人々の道を照らします。もし分かち合いをしな
かったら、孤独な暗闇にいることになります。そして私たちが分かち合いをするとき、その経験がみんなの
経験の一部になりえるのです。多くの日本の女性アディクトはミーティングで性的虐待や、ドメスティック
バイオレンスの経験について分かち合います。日本では性的虐待はないとずっと言われてきました。その話
を黙ったままでいるなら暗闇に独りでいることと同じです。でもNAの中でお互いに分かち合いをするこ
とで日本でのその常識も変わっていきます。その日本の女性アディクトたちも彼らの物語を話しはじめて、
今では現実の問題としてドメスティック バイオレンスや、性虐待について話しています。誰もしばらくの間、
そのことを信じませんでした。私自身もそのことが信じられませんでした。
 自分の息子が生まれたばかりのころ、私は家に居て彼の育児のために大変でした。私の夫はいつも忙しく、
そして私は定期的にミーティングにいくことができずに決して完璧なNAメンバーとはいえませんでした。
10 年クリーンで居るために、私が代わりにしたことは家でNAメンバーの電話を受けたことでした。NAメ
ンバーのすべてが私の自宅の電話番号を知っていました。そのため私の家がヘルプラインのような感じで
した。典型的な一日と言えば、自分の子供の世話をしながらNAメンバーの電話に出てミーティングがどこ
でやっているかを教えるといった具合でした。プログラムのサービスをする方法はたくさんあります。定期
的にミーティングに出れなくても、私はメッセージを運んでいました。

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 その大変な時期に、私はカルフォルニアに新しいスポンサーを見つけました。日本では経験の積んだNA
メンバーがあまりいませんでした。そのため私たちにはメンバーを探しながら広めていくためにプログラ
ムの知恵を分かち合える人が必要でした。彼女はしっかりとサポートしてくれて、
「あなたを誇りに思う。ベ
ストを尽くしていし。何も罪悪感を持つ必要はない」と言ってくれました。
 私は看護学校で母たちのグループに出会いました。そして子育てについて分かち合いながらお互いを手
助けしました。これによって私がNAミーティングをはじめることができるように感じましたが、まだ赤ち
ゃんと一緒に時間を過ごす必要がありました。私はまた子供の学校の行事にNAイベントを入れてもらい
ました。彼はいつもNAと共にいて、他の子供たちとのコネクションがありませんでした。いま 12 ステップ
をすることは最も大切なことだと知っています。ステップを踏んでいるかぎり、自分に合っている方法で自
分の人生を優先することができるのです。
 最近私は仕事上で大きな額のお金を失いました。それは私が経過してきた時間の中でももっとも辛い出
来事で、それをどう取り返したらいいのか分かりませんでした。私が信じていたものはバラバラに崩れおち
ました。自分自身への自信も失い始めました。この辛い経験と、自信の喪失で、私はステップ6と7をはじめ
ました。自分の欠点に目を向けて見ると、強い喜びの感情が湧き上がって来ました。6ヶ月後、私は自分の物
語を分かち合いをするアイデアを思いつき、自分を幸せにするものについて書いてみました。本当に幸せに
感じることというのは、本当に辛い時期の真ん中に居るときで、私はNAメンバーだということに気付きま
した。私はこのプログラムで話をする道具を持っていて、困難を乗り越えるためにそれを使うことができる。
この幸福をなんて呼べばいいのか分かりませんが、私は困難も幸せにすることができる道具を持つNAメ
ンバーだと思えたのです。
 その乗り越えられないだろうと考えていた大変な時期はまさしくハイヤーパワーからのギフトでした。
その時期が終わり、私は穏やかに感じています。私が誤ったときに、自分とハイヤーパワーとのつながりが
より強くなると感じます。過ちを犯すことは誤った自身を壊します。ハイヤーパワーは自分が信じるものを
はっきりさせるために機会を与えてくれます。私が仕事や私の人間関係で何が成功かということを知って
いると考えたとき、私のハイヤーパワーはいつも振り返り、自分の考えの小ささに気付くチャンスと与えて
くれます。過ちは私のもっとも大きなギフトです。私はいま完璧になることがゴールではないことを知って
います。わたしが初めてクリーンになった頃、過ちは犯さないほうがいいと考えていました。しかし今は何
回もリラプスしようが、それでもまたプログラムに戻りベストを尽くそうとする人たちに深い敬意を持っ
ています。
 初期の数年間、プログラムにおいて幸せの意味についての誤ったコンセプトを抱いていました。私たちは
「プログラムでの幸せ」とはNAメンバーとしてのよいモデルになることだという意味だと考えていました。
最近、私は何年もの間プログラムから離れていて、施設を出たり入ったり、何度も結婚して離婚したある一
人メンバーと話をしました。私がこれを聞いて最初は、ハイヤーパワーは間違いのせいで彼を愛しては居な
いのだろうと考えていました。一方私は長期間ミーティングに行き続けていて、たった一人の男性だけを愛
している。ハイヤーパワーは私のような勤勉なメンバーを愛し、彼ではないと考えました。有り難いことに、
プログラムをとおして、このような考え方は私の中で完全に変りました。私は「実際には誰がより幸せなの
でしょう?私かあなたか、私たちには分かりません。誰も断言できない」と彼に言いました。

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 あなたが何度リラプスしたとしても、NAはあなたを再び歓迎します。それがNAプログラムです。NA
はきっとあなたを見捨てません。NAはいつもあなたのためにあります。私は本心から、誰がより良い人生
を送っているのか―私がこの20年間なろうとしていた完璧なNAメンバーなのか、プログラムから離れ
たり戻ったりする人々であるのか、を語ることはできません。私に起きたクリーンは私がただフェローシッ
プと共にいたからです。私は以前薬物から離れようとがんばっていたせいでクリーンでいることができま
せんでした。私はNAメンバーのモデルとしていられなくなるのではという怖れのためにクリーン居たの
でした。私はリラプスを繰り返すメンバーたちと何の違いもありません。私はこのように考えます、ライタ
ーのようだと。私はクリーンで居ようと、もがいているメンバーたちにより敬意を感じるようになりました。
ハイヤーパワーは差別しないと信じています。回復で最も私を幸せにしてくれるものはアディクトたちが
変わっていく姿をみることです。メンバーの変化みて、いつも素晴らしい喜びと驚きを感じます。その変化
は何度見ても、いつも私を幸せにしてくれます。

彼がNAプログラムに初めて来たとき、彼の職業履歴や受けてきた教
育に関係なく、NAの一員になれることを知った。彼の物語が載っている
第一版のベーシックテキストが出版されてから、彼はクリーンを続けて
いる。惜しくも、彼はこの最新版の出版を待つことなく亡くなられた。

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(P298~P301)

私はユニーク(特殊)だった

私はどこへも引き返せなくなっていた。誰も自分を助けることはできないし、自分の状況はどの人たちと
も全く違ってしまっているのだと感じていた。破滅に向かって、自己破壊という狂気のドライブを続けてい
て、すでに戦おうとする気も失せていた。自分のことが特殊だと思っていて、実際にナルコティクス アノニ
マスのフェローシップを見つけるまでそう思っていた。その日から、私の人生は新しい意味と新しい方向性
を手にした。
私は成功を装う白人の中流階級の家で育った。私は学業に優れていて、カルフォルニアとスコットランド
の医科大へと進んだ。ドラッグ(drugs)を楽しんでいる学友たちを独りよがりに蔑視していた。私の方が優
れていて、賢いのだと感じていたのだ。ドラッグアディクトは意志の弱いやつらだと思っていた。人生の目
的も、価値も見出せない意気地のない生き物だと思っていた。私は違う、成りようもないし、そのような罠に
は落ちることはありえない。私は成功者として、人生のゲームに勝っている。そんな大いなる潜在的な野望
を持っていた。
有名な西海岸の病院でのインターシップを始めてから、私ははじめて薬物(narcotics)を経験した。その時
私は好奇心だと思っていた。もしかすると「何かより好いもの」を探していたのかもしれない。私が少量のモ
ルヒネを静脈に注射してやると、激痛に苦しむ患者がリラックスしていくことに驚いた。これはまさに私の
為のものだ!それから数ヶ月の間に私を取り 巻く世界は崩れていった。試しに使用していたものが急速に
乱用になっていき、アディクションになった。助けもなく途方にくれ、それはアディクトだけが知り得る刑
の宣告だった。
その後まもなく私は神経外科での研修期間が始まってから、妄想を消すために薬物をコントロールして
いた。私は精神科医に助けを求めた。私は精神病院に数日入院した。一時的に気分がよくなり、研修プログラ
ムに戻るために、その精神科医を利用した。彼は単純でだまされやすい人だったか、またはアディクション
のことを無視していたのだった。彼は快く、私自身のやり方でそのまま進ませてくれた。リラプスするまで
の数ヶ月その調子を続けた。自分の考えや振る舞いについて何の変化もなく、リラプスは次のリラプスを招
いた。約十年間、このパターンを続けた。私は精神科医や精神病院をまわってみては、その後にまたリラプス
していた。
クスリが効いている間に行った何件かの外科治療の結果、私は研修医を辞めてくれと頼まれた。そのあと
また違う入院期間を送り、再びリラプスのパターンに戻ってしまった。病院に入院する以外にも、仕事を変
えたり、住む場所を変えたり、自己啓発本をよんだり、メタドンプログラム(離脱症状を和らげるプログラ
ム)を受けたり、週末だけ使うようにしたり、錠剤に替えたり、結婚をして、または健康温泉に行ったり、ダ
イエット、エクササイズ、そして宗教に入ってみたりといろいろ試した。だが一時的によくなってもうまく
は行かなかった。私自身の診断書から判断して私は手に負えないと言われて、つまりどこにも助けがない状
態だった。
さらに約 5 年間重症化した使い方をした後に、薬物の選択の結果、私は肉体的なアレルギーが現れた。と

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にかくいつも使っていて、注射した箇所の周りの皮膚組織が死んでしまっていた。最初、コーチゾン(アレ
ルギー治療薬)を使ってこの症状を抑えることができたが、再び炎症を起こした。差しあたって、私はステ
ロイドの副作用の案内人のようであった。最後の入院をする時がくるまでに、私の免疫システムは打ちのめ
されて、肉体的には衰弱してしまっていた。さらに悪いことには、私は総合的にスピリチュアルに破滅した
ことによって苦しんでいたのだが、そのことに自分で気付いていなかった。否認と自己欺瞞が酷くて、自分
がなんとも惨めな生き物になってしまっていることがわかっていなかった。
私はトリートメント施設に入った。そこで初めて本人もアディクトである医師と向き合うことになった。
彼は助けが必要かどうかを尋ねて、また回復する気持ちが少しでもあるのかと聞いてきた。彼は私が社会的
財産や、実績、職業、妻や家族、さらには自分の腕さえもなくしてしまうだろうと言ってきた。最初それを聞
いて私は尻込みした。自分にとって、薬は何もよいことにならないと気付いていたものの、あの安らぎとリ
ラックス効果は捨てがたかった。だが結局、私は口答えなく彼の話を聞き入れて、言葉に従うと約束した。い
つも自分のやり方でやってきたので、そのことは私にとってかなりの変化だった。これがNAで私をおおい
に手助けしてくれたタフラブ(tough love)への最初の入り口だった。
病院にいる数ヶ月間、大きな変化が私に訪れた。私は思い切って外のNAミーティングに行ってみた。始
めは反感を持っていた。そこにいる人々が私とは似ていなかった。彼らは一般的にいうジャンキーや、ヘロ
イン仲間(Dope friends)、錠剤バカ(Pill-heads)、ポン中(Tweakers)そしてコカインきちがい(Coke
freaks)たちだった。どうやったら彼らと私に関係があるというのか?彼らは私の住んでいるような場所
からやって来たわけでも、私がしてきたことを経験したこともないだろう。私が成し遂げたことをしたこと
も無い人たちだ。しかし彼らの話を聞いたとき、何度も何度も自分の話に聞こえてきたのだった。そこの人
たちは、私が感じたような価値観を消失、絶望、堕落など、私と同じ思いを経験していた。彼らはあまりにも
救いがなく、希望も無く、私の中にいるような隠れたモンスターによって打ちのめされていた。しかし彼ら
は自分たちの過去を笑っていて、前向きな目で将来について語っていた。そこには平安を感じさせる何らか
の力の働きによって、深刻さと楽観さの間にバランス感が保たれているように感じた。私は彼らの持ってい
るものが心から欲しいと感じていた。
私は正直さ、寛容さ、受け入れること、喜び、自由、勇気、やる気、愛、人間性についての話を聞くことができ
た。しかし最も偉大なことは神についての話だった。私には神についての概念についての問題は特になく、
以前から自分のことを信者だと思っていた。ただしなぜ神は、私をこんなにも落ち込ませるのか理解できな
いと思っていた。私の祈り方は子供がサンタクロースにプレゼントをお願いするようなもので、ずっと自分
の意思にしがみついていた。もし神の概念が無ければ、私は自分の人生のコントロールが効かなくなり、生
き残れないだろうと推論した。そしてひょっとするとそのことが問題のすべてなのでは、という大切な気付
きになった。まずは神の意志を高めたほうがいい、それから自分の意思を神の意志に従わせなさいと言われ
た。今日、私は自分に対しての神の意志を知る為に祈っていて、日々その力が私に運ばれて来て、日々順調に
いっている。私が一貫して自分の意思と命を神の配慮に委ねたとき、数で計れない神のギフトがあることを
知った。
学習すること、書くこと、働くことなどの過程を経ながら、そして最終的に、ナルコティクス アノニマスの
12 ステップをして生活することが、自分で理解する神との新しい関係へと導く道まで、私を乗せて運んでく

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れた。それだけが、プログラムが運んでくる変化を呼び起こす力であるといえる。そしてその変化がたくさ
んのアディクトたちに及んだとき、アディクトであろうがなかろうが、すべてにとって世界がより良い場所
になるだろう。
私がナルコティクス アノニマスに参加して以来得てきたものは、自由に無条件に与えられてきたもので、
同じように他の人たちにも与えていくことが私の役割になった。それを実現する方法の一つがサービスだ
と知った。
私にとっての特別なサービスの役割は、スポンサーシップを持つという特典だった。以前の自分の人間嫌
いの態度を忘れないために、神が様々なバックグラウンドを持つ男たちのスポンサーシップをするために、
無限の知恵とユーモアを私に用意してくれた。多くの場合私たちの共通の基盤は、アディクションという病
気だった。使用した薬物、人種、社会的地位、性的志向、またはスピリチュアルな信念の違いは、愛なる有益な
関係の妨げにはならない。私がここで関係することのできること以上のことをそれぞれのスポンサーシッ
プが教えてくれた。そしてそれは、スポンサーシップという関係の中で私たちが話をすることは「相互通行」
のようであり、スポンサーシップは自分の成長や自分自身を知ることに重心が置かれている。昔は恐れいた
はずのアディクトたちとの相互作用は、NAのミーティングルームにたどり着いたときには予測しえない
ほど、私の人生に深みを与えてくれている。
私はナルコティクス アノニマスのフェローシップの中に新しい家を見つけることができた。生活の中で
電話で呼び出されることがあり、それでまだ苦しんでいるアディクトにメッセージを運ぶことができてい
る。本日NAでこのようなことが自分に出来ることに対して、神に感謝している。
私が違いを見つけようと意識を働かせると、私の病気があなたと私を切り離すことになるだけで、NAの
中での回復において「不適格」な自分になる。私はあなた方と自分は同じだという事実を見つけることがで
きた。私はもはやそれ以上でもそれ以下でもない。ナルコティクス アノニマスのフェローシップで本当の愛
情や友愛を感じる。私の大きなスピリチュアルな目覚めとは、自分が他となんら変わりないアディクトだと
気付いたことだ。私はユニーク(特殊、変わり者)ではない。

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