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写真を見るレッスン:ケータイとダゲレオタイプ

© Mika Kobayashi

写真を見るレッスン
ケータイとダゲレオタイプ

文:小林美香
© Mika Kobayashi mika@marebito-editions.com

鏡を見る人 / 画面を見る人

電車の中や路上で、携帯電話の画面を見つめている人をよく見かけます。メールを打っていたり、インターネ

ットでサイトを見ていたり、といったふうに何かをしている人が多いですが、とくに何をするのでもなくただ画

面を眺めているだけの人も少なくはありません。そういう人とすれ違ったり傍らに立ったりする時に、何気なく

その画面に目を向けてみると、恋人や家族らしき人、子供の写った写真が待ち受け画面になっていたりすること

があります。見知らぬ人の携帯電話の画面を見てしまう時、より正確に言えば携帯電話の画面に見入る様子を目

の当たりにしてしまう時、気恥ずかしいような、居たたまれないような感覚がつきまといます。なぜならその画

面を見るという行為が、写っている人とその携帯電話を持っている人との間の親密な関係を想像させるような、

無防備に人前に晒すことが憚られるような、とても私的な行為に映るからです。携帯電話を使う人を見て、こう

いう風に感じるのは私に限ったことではないようです。

写真家の内野雅文(1973-2008)はシリーズ作品「ケ

ータイと鏡」
(図 1)の中で、駅や路上の人混みの中で

携帯電話を持って喋っていたり、画面を見ていたり、

手鏡で顔を覗き込んだりしている若い女性達の姿を

捉えています。男性である内野は、女性が手鏡を覗き

込んで化粧直しをしている様子を、本来であれば人に

は見られない私的な空間で行われているべきことと

(図 1)
「ケータイと鏡」より して捉えています。

彼は、女性達が公共空間の中で手鏡を覗き込むという行為の中に、公的な空間と私的な空間との境界線があや

ふやになった状態を見出していて、そこに彼女たちの無意識が露出していると感じ取っているようです。手鏡を

見るということと、携帯電話を使うということが、どちらも私的な行為として、非常に近しい関係にあるものと

して捉えられているということも興味深いところです。つまり、画面上に映し出される写真──自分以外の人が

写った写真──を見ることと、自分自身の顔を見るために手鏡を覗き込むということが、行為や意識のありよう

として似通っているということと、そのような光景が現代の日常生活の中のいたるところで見られるということ

を、彼の写真は浮き彫りにしているのです。

このような写真の見方は、携帯電話の普及によって初めてもたらされた、きわめて現代的なもののように思わ

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れるかもしれません。しかし写真の歴史を紐解いてみると、実際には写真を見るという行為の根源に関わるもの

ではないかと思えるのです。なぜでしょうか。それは、19 世紀半ばに世界で最初に発明された写真術が、鏡のよ

うな金属板の表面に像を定着させるものだったからです。160 年以上前に初めて写真に触れた人達の写真の見方

と、携帯電話の画面を見るような写真の見方を比較してみると、さまざまな違いとともに意外な共通点も浮かび

上がってくるかもしれません。

記憶を持った鏡、ダゲレオタイプ

世界で最初の写真術は、発明者のフランス人、ルイ=ジャック=マンデ・ダゲール(1787-1851)の名前にちなん

で、「ダゲレオタイプ」として名付けられ、1839 年に公表されました。その制作のプロセスを手短に説明してお

きましょう。(図 2)の木箱は発明当時のダゲレオタイプ・カメラで、(図 3)は現像用の機材です。まるで化学実験

の装置のようですね。薄く銀メッキを施した銅板を沃素の蒸気にあてると、表面に感光性のある皮膜ができます。

その銅板をカメラの中にセットして、撮影して取り出します。その後に (図 3)の左側の箱の中でアルコール・ラ

ンプを使って水銀を加熱し、撮影した銅板をその上にかざすと像が浮かび上がってきます。(図 3)の右側は、像の

定着と階調を増すための調色というプロセスを表しています。この図からも明らかなように、銅板に直接像を定

着させるため、ダゲレオタイプは複製が不可能で、一枚の画像しか作ることができません。

(図 2)アルフォンス・ジルーの制作した最初のダゲレオ

タイプカメラ(ジョージ・イーストマン・ハウス所蔵)

(図 3)ダゲレオタイプを現像するための装置

ダゲレオタイプは、ポートレートを制作する技術として欧米を中心に急速に広まり、人気を博していくことにな

りました。1840 年代末には日本にもダゲレオタイプの機材一色が導入され、その技法が紹介されていますし、1854

年にはペリー艦隊に乗船していた写真家エリファレット・ブラウン・ジュニアが下田で遊女をダゲレオタイプで撮

影する様子を描いた絵も残されています(図 4)。

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(図 4)E・ブラウン・ジュニア銀板撮影の図 (1854)

当時の人々はダゲレオタイプを、錬金術のような魔術的な技術として受けとめていたようです。たとえば、

アメリカの作家・医学者のオリヴァー・ウェンデル・ホームズ(1809-1894)は、ダゲレオタイプのことを「記憶

を持った鏡」と言い表しています。今日ではダゲレオタイプは銀板写真と訳されていますが、当時の蘭学者たち

は「印影鏡」、
「直写影鏡」、
「留影鏡」という訳語をあてはめています。影(人の像)を「印す」
・「直に写す」
・「留

める」鏡というように、あたかも鏡が人間のように意志を持ち、本来であれば残らないはずの人の鮮鋭な像をそ

の表面につなぎとめていると説明するような名付け方は、ホームズの言葉と同様に、ダゲレオタイプに初めて接

したときの驚き、感嘆をまざまざと伝えるものであると言えるでしょう。

ダゲレオタイプに触れて見る

当時ダゲレオタイプがどのように受け止められ、見られていたかと言うことを知る上で参考になるのが、映画

『ピアノレッスン』
(ジェーン・カンピオン監督 1993 年公開)です。この映画は 1850 年代のニュージーラン

ドが舞台になっていて、冒頭でダゲレオタイプが小道具として登場します。入植者の男性スチュアートが、スコ

ットランドから船旅で り着いた主人公の女性エイダ──彼女は彼の結婚相手として呼び寄せられました──

を海岸まで迎えに行く途中で、エイダの写った小さなダゲレオタイプをポケットの中から取り出して両手に持っ

て彼女の姿を見つめ、その後ダゲレオタイプに映った自分の顔を見て髪を整えるのです。ダゲレオタイプだけが

先に送り届けられていて、妻となるエイダにこれから初めて対面するスチュアートの心境を印象づける、物語の

中でも重要な意味を持ったシーンだと言えるでしょう。また、ダゲレオタイプが小さくていつも携帯できるもの、

掌の中に収まるもの、触れて見るもの、見る側自身の姿をも映すものとして描かれているということもダゲレオ

タイプを見る感覚を知る上で見逃せないところです。

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(図 5)

ダゲレオタイプのケースを持つ女性

1850 年

実際に、当時ダゲレオタイプで撮影された女性のポートレート(図 5)を見てみましょう。ダゲレオタイプは、

革張りのコンパクトのようなケースの中に収められていて、表面に傷がつかないようにガラス板を被せた上で金

属製の額が嵌められ、対面する側には臙脂色のビロードのような布が張られています。この布は、ダゲレオタイ

プの表面を保護し、ケースを半開きにしたときに像を見えやすくする役割を果たしていました。女性は強張った

表情をしていて、右手(写真では左手に見えますが、ダゲレオタイプは鏡像なので左右が反転しています)ダゲ

レオタイプを収めるケースを持っています。当時ダゲレオタイプに撮られるということは、一生に一度経験でき

るかどうかという稀少な体験であり、家族や親しい人が写っているダゲレオタイプを傍らのテーブルや台の上に

置いたり、手に持ったりして写ることは珍しくはありませんでした。つまり、ダゲレオタイプを画面の中に入れ

ることが、その人と一緒に写ることの代替的な行為として行われていたのです。

(図 5)の場合、女性が手にしているダゲレオタイプのケースは閉じていて、中に誰が写ったダゲレオタイプ

が収められていたのかは知る由もありません。ひょっとすると撮影時にはこのケースは何も入っていない状態だ

った可能性もあります。つまり彼女が手にしているのは、このダゲレオタイプが収められているケースそのもの

だということも充分に考えられます。このダゲレオタイプを手に取って彼女のポートレートを見る人は、彼女の

姿を掌に収めると同時に、ケースを介して彼女の手に触れたものに触れることでその手に間接的に接触し、また

彼女の姿の上に自らの顔を映すことになります。そのように想像してみると、一点のダゲレオタイプを撮影して

像を残すことに託された思いの深さや、写っている人とそれを見る人の間の親密な関係性が、ダゲレオタイプに

触れて見る、ということと深く結びついていることがわかります。

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ダゲレオタイプに撮られるということ

(図 6) (図 7)

(図 8) (図 9)

(図 5)のポートレートは、この図版として見る限りモノクロームの像として見えるだけで、鏡のような金属板

の上に定着した像であることは判りにくいことでしょう。(図 6)と(図 7)は、ダゲレオタイプを手に持ち、

角度を変えて撮影したものです。
(図 6)では表面が光を反射して白く見えますが、(図 7)のように角度を少し変

えると写っている像が表れます。また、(図 8)と(図 9)はダゲレオタイプを同じ位置から撮影したものです。

照明があたっている状態ではポジ像(図 8)に見えますが、手をかざして光源を塞ぐとネガ像(図 9)へと反転します。

見る角度や光の状態によって、鏡 ネガ ポジを往復するその不思議な様態は、ダゲレオタイプが流通していた

当時の人々を強く惹きつけていたのでしょうし、 れかえるほどの写真に接している現代の人間の眼から見ても、

非常に魅力的に映ります。

(図 6,7,8,9)は、写真家の新井卓(1978-)が 2006 年に撮影したものです。新井はダゲレオタイプの魅力に惹き

つけられ、さまざまな資料を手がかりにその制作技法を研究して、薬剤の調合・金属板の準備・機材の制作・撮

影・現像に至るまでのプロセスすべてを自らの手で行っています(図 10)
。彼は横浜美術館で開催された〈アー

ティスト・イン・ミュージアム 横浜 2006〉というプログラムに参加し、美術館の中で滞在制作を行い、撮影

したダゲレオタイプを展示する展覧会「鏡ごしのランデヴー」
(会期:6/10-8/6)を開催しました。作品制作と

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展示を組み合わせたこのプログラムには、彼にとって身近な人たちや展覧会の関係者などが、モデルとなってダ

ゲレオタイプに撮られるというかたちで関わっていきました。私もその中の一人です。 このプログラムは、ダ

ゲレオタイプに撮られることを通して、その見方を深めるような意義深い経験でした。

(図 10) (図 11)

(図 11)は、私が横浜美術館の前の広場で椅子に座って撮影されている様子を、撮影してもらったものです。新

井がカメラのファインダーを覗き込むのではなくカメラから離れて中腰で座っている様子は、撮影の準備をして

いる段階のように見えるかもしれませんが、実際は撮影中です。ダゲレオタイプの撮影には長い露光時間が必要

で、その長さは天候(光量)によって左右されますが、短くても一回の撮影に3分程度、あるいはそれ以上の時

間がかかります。撮影される人はその間身動きをせずにじっと静止していなければなりません。通常の撮影では、

露光時間は数分・数十分の一秒という「瞬間」で、写真はシャッターで一瞬を切り取って凍結させるものと考え

られています。しかしダゲレオタイプの露光時間は、数分間という持続する時間であり、その中で像が出来上が

っていくのです。

この日は薄曇りの天気だったため、撮影には 6 分 30 秒の露光時間を要しました。その間表情や姿勢を全く変

えることなく静止して(もちろん呼吸や瞬きはできますが)カメラに向き合うという経験とそれに伴う感覚は、

通常の写真撮影では味わうことのできないものでした。最初の 1・2 分は動いてはいけないと強く意識するあま

りに、顔や手足が硬直したり、体の かな震えも気になったりして、暴れ出してしまいたくなるような衝動に駆

られます。その衝動を抑え、次第に心を落ち着かせてレンズを見つめていると、じっとしている自分の身体の表

面が、レンズを通してカメラという箱の中に徐々に移っているような、見えない回路を通して小さなデータとし

て転送されているような奇妙な感覚を味わいました。写真の黎明期に、
「写真に撮られると魂が抜かれる」とい

う迷信が流布していたということが、実際に長い露光時間に耐えるという経験を通して腑に落ちた気がします。

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カメラに向き合う・写真に向き合う

このように実際にダゲレオタイプに撮られるとい

う経験をすると、ダゲレオタイプに対する見方もおの

ずと変わってきます。(図 5)の女性が強張った表情

をして写っているのにも、より合点がいくようになり

ました。もう一点別のダゲレオタイプ (図 12)を見て

みましょう。このダゲレオタイプの中で、母親が幼い

娘を膝に載せ体をしっかりと掴んでいる状態で写し

取られています。母親の方はカメラをまっすぐに見つ

め、強張った表情をしていますが、女の子の方は顔が

溶けてしまったかのように見えなくなってしまって

います。

(図 12)撮影者不詳 ダゲレオタイプ 1852-1853 年頃

この女の子は長い露光時間に耐えきれず、指をしゃぶりながら首を振ってしまったのでしょう。長い露光時間

に耐えて静止していることの難しさを知った上でダゲレオタイプを見ると、ぶれて顔が見えなくなってしまった

女の子にも同情せずにはおれません。

大型のカメラにじっと向き合うようにして撮影されるダゲレオタイプは、携帯電話のカメラで掠め取るように、

時には盗み取るにして撮られる写真とは対極的なもののように見えます。また、角度や光の状態によって見えた

り、見えなくなったりするようなダゲレオタイプの像は、携帯電話の画面にはっきりと映し出される写真画像と

は明らかに性質を異にするものだといえるかもしれません。しかしダゲレオタイプと携帯電話の画面に共通する

点として挙げられるのは、どちらも見るという行為が、見る対象に触れるということと密接に結びついていると

いうことであり、開いたり閉じたりするという動作(ダゲレオタイプの場合はケース、携帯電話の場合は本体)

が、その内側にある像に向き合うための手続きのようになっていて、その写真を見ることが写っている人との関

係を確かめるような儀式のような意味合いを帯びたりもすることであると言えるでしょう。

ダゲレオタイプはそれ自体が揺るぎない「もの」としての存在感をそなえているのに対して、携帯電話の画面

に表示される画像は、いつでも削除することのできる実体のないデータです。ことある毎に手軽に撮影できて、

いつでも削除できるからこそ、画面の中に表れる人の姿をつなぎとめ、その在処を確かめるために、携帯電話を

握り、何をするのでもないのにその画面を見つめてしまうのかもしれません。携帯電話を通信手段やカメラとし

てだけではなく、写真を収め、運び、見るための器として捉えるとき、私達の写真の見方は、意外なほど深く写

真の歴史にもつながっていくのではないでしょうか。

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関連リンク

内野雅文 1973­2008 Photo Document

http://www.uchinomasafumi.com

シリーズ作品「ケータイと鏡」ついては、
「ケータイ 1996-2004」と「カガミノナカ」を参照して下さい。

http://www.uchinomasafumi.com/works/11_ketai/index.html

http://www.uchinomasafumi.com/works/13_kagami/index.html

The Daguerrean Society

http://www.daguerre.org/

新井卓

http://www.takashiarai.com/

横浜美術館 アーティスト・イン・ミュージアム 横浜 2006

http://www.yaf.or.jp/yma/exhibition/2006/artgallery/01_AIM/

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