お
親
お
譲
むてっぽう
りの 無 鉄 砲 で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び
こし ぬ むやみ
降りて一週間ほど 腰 を 抜かした事がある。なぜそんな 無 闇 をしたと聞く人があるかも
知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が
じょうだん いば はや
冗 談 に、いくら 威 張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と 囃
こづかい め
したからである。 小 使 に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな 眼をして二階ぐら
やつ い
いから飛び降りて腰を抜かす 奴 があるかと 云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せ
ま す と 答 え た 。
もら きれい は かざ ともだち
親類のものから西洋製のナイフを 貰 って 奇 麗 な 刃を日に 翳 して、 友 達 に見
せていたら、一人が光る事は光るが切れそうもないと云った。切れぬ事があるか、何でも切
ってみせると受け合った。そんなら君の指を切ってみろと注文したから、何だ指ぐらいこの
こう こ さいわい
通りだと右の手の親指の 甲 をはすに切り 込んだ。 幸 ナイフが小さいのと、親指の
かた きずあと
骨が 堅 かったので、今だに親指は手に付いている。しかし 創 痕 は死ぬまで消えぬ。
つく まんなか
庭を東へ二十歩に行き 尽 すと、南上がりにいささかばかりの菜園があって、 真 中
くり
に 栗 の木が一本立っている。これは命より大事な栗だ。実の熟する時分は起き抜けに
せど やましろや
背 戸を出て落ちた奴を拾ってきて、学校で食う。菜園の西側が 山 城 屋 という質屋の庭
かんたろう せがれ
続きで、この質屋に 勘 太 郎 という十三四の 倅 が居た。勘太郎は無論弱虫である。
くせ ぬす おりど かげ
弱虫の 癖 に四つ目垣を乗りこえて、栗を 盗 みにくる。ある日の夕方 折 戸 の 蔭 に
かく つら に みち
隠 れて、とうとう勘太郎を 捕 まえてやった。その時勘太郎は 逃げ 路 を失って、
いっしょうけんめい むこ
一 生 懸 命 に飛びかかってきた。 向 うは二つばかり年上である。弱虫だが力
はち あ お ひょうし
は強い。 鉢 の開いた頭を、こっちの胸へ 宛ててぐいぐい 押した 拍 子 に、勘太郎の頭
あわせ そで じゃま
がすべって、おれの 袷 の 袖 の中にはいった。 邪 魔 になって手が使えぬから、無暗
ふ なび
に手を 振ったら、袖の中にある勘太郎の頭が、右左へぐらぐら 靡 いた。しまいに苦しがっ
うで
て袖の中から、おれの二の 腕 へ食い付いた。痛かったから勘太郎を垣根へ押しつけておい
あしがら たお
て、 足 搦 をかけて向うへ 倒 してやった。山城屋の地面は菜園より六尺がた低い。勘太
くず まっさかさま
郎は四つ目垣を半分 崩 して、自分の領分へ 真 逆 様 に落ちて、ぐうと云った。勘太
郎が落ちるときに、おれの袷の片袖がもげて、急に手が自由になった。その晩母が山城屋に
わ
詫び に 行 っ た つ い で に 袷 の 片 袖 も 取 り 返 し て 来 た 。
ふるかわ たんぼ いど う しり
つぶされてしまった。 古 川 の持っている 田 圃 の 井 戸を 埋めて 尻 を持ち込まれた
もうそう わ いね
事もある。太い 孟 宗 の節を抜いて、深く埋めた中から水が 湧き出て、そこいらの 稲
しかけ ぼう
にみずがかかる 仕 掛 であった。その時分はどんな仕掛か知らぬから、石や 棒 ちぎれを
さ
ぎゅうぎゅう井戸の中へ 挿し込んで、水が出なくなったのを見届けて、うちへ帰って飯を食
まっか どな ばっきん
っていたら、古川が 真 赤 になって 怒 鳴り込んで来た。たしか 罰 金 を出して済んだよ
う で あ る 。
かわい ひいき
おやじはちっともおれを 可 愛 がってくれなかった。母は兄ばかり 贔 屓 にしていた。
しばい まね おんながた
この兄はやに色が白くって、芝 居 の 真 似をして 女 形 になるのが好きだった。おれ
ろく
を見る度にこいつはどうせ 碌 なものにはならないと、おやじが云った。乱暴で乱暴で行く
先が案じられると母が云った。なるほど碌なものにはならない。ご覧の通りの始末である。
ちょうえき
行く先が案じられたのも無理はない。ただ 懲 役 に行かないで生きているばかりであ
る 。
にさんち あばらぼね う
母が病気で死ぬ 二 三 日 前台所で宙返りをしてへっついの角で 肋 骨 を 撲って大
おこ
いに痛かった。母が大層 怒 って、お前のようなものの顔は見たくないと云うから、親類へ
とま しらせ
泊 りに行っていた。するととうとう死んだと云う 報 知 が来た。そう早く死ぬとは思わ
おとな
なかった。そんな大病なら、もう少し 大 人 しくすればよかったと思って帰って来た。そう
したら例の兄がおれを親不孝だ、おれのために、おっかさんが早く死んだんだと云った。
くや しか
口 惜し か っ た か ら 、 兄 の 横 っ 面 を 張 っ て 大 変 叱 ら れ た 。
くら
母が死んでからは、おやじと兄と三人で 暮 していた。おやじは何にもせぬ男で、人の顔
だめ
さえ見れば貴様は 駄 目だ駄目だと口癖のように云っていた。何が駄目なんだか今に分らな
みょう
い。 妙 なおやじがあったもんだ。兄は実業家になるとか云ってしきりに英語を勉強して
いっぺん
いた。元来女のような性分で、ずるいから、仲がよくなかった。十日に 一 遍 ぐらいの割
うれ みけん たた
と 嬉 しそうに冷やかした。あんまり腹が立ったから、手に在った飛車を 眉 間 へ 擲 き
いつ
つけてやった。眉間が割れて少々血が出た。兄がおやじに 言 付けた。おやじがおれを
かんどう
勘 当 す る と 言 い 出 し た 。
その時はもう仕方がないと観念して先方の云う通り勘当されるつもりでいたら、十年来
きよ あや
召し使っている 清 という下女が、泣きながらおやじに 詫 まって、ようやくおやじの
いか こわ
怒 りが解けた。それにもかかわらずあまりおやじを 怖 いとは思わなかった。かえって
ゆいしょ
この清と云う下女に気の毒であった。この下女はもと 由 緒 のあるものだったそうだが、
ばあ いんえん
だから 婆 さんである。この婆さんがどういう 因 縁 か、おれを非常に可愛がってくれ
あいそ
た。不思議なものである。母も死ぬ三日前に 愛 想 をつかした――おやじも年中持て余して
つまはじ ちんちょう
いる――町内では乱暴者の悪太郎と 爪 弾 きをする――このおれを無暗に 珍 重
とうてい たち
してくれた。おれは 到 底 人に好かれる 性 でないとあきらめていたから、他人から木
はし あつか
の 端 のように取り 扱 われるのは何とも思わない、かえってこの清のようにちやほや
ふしん ま すぐ
してくれるのを 不 審 に考えた。清は時々台所で人の居ない時に「あなたは 真っ 直 でよ
ほ い
いご気性だ」と 賞める事が時々あった。しかしおれには清の云う意味が分からなかった。好
い気性なら清以外のものも、もう少し善くしてくれるだろうと思った。清がこんな事を云う
きら
度におれはお世辞は 嫌 いだと答えるのが常であった。すると婆さんはそれだから好いご
なが
気性ですと云っては、嬉しそうにおれの顔を 眺 めている。自分の力でおれを製造して
ほこ
誇 っ て る よ う に 見 え る 。 少 々 気 味 が わ る か っ た 。
母が死んでから清はいよいよおれを可愛がった。時々は小供心になぜあんなに可愛がる
よ
のかと不審に思った。つまらない、廃せばいいのにと思った。気の毒だと思った。それでも清
そばこ ね まくらもと
などはひそかに 蕎 麦 粉を仕入れておいて、いつの間にか 寝ている 枕 元 へ蕎麦湯を
なべやきうどん
持って来てくれる。時には 鍋 焼 饂 飩 さえ買ってくれた。ただ食い物ばかりではない。
くつたび えんぴつ
靴 足 袋 ももらった。 鉛 筆 も貰った、帳面も貰った。これはずっと後の事であるが金
を三円ばかり貸してくれた事さえある。何も貸せと云った訳ではない。向うで部屋へ持って
来てお小遣いがなくてお困りでしょう、お使いなさいと云ってくれたんだ。おれは無論入ら
ないと云ったが、是非使えと云うから、借りておいた。実は大変嬉しかった。その三円を
してしまった。仕方がないから、のそのそ出てきて実はこれこれだと清に話したところが、
さが いどばた
清は早速竹の棒を 捜 して来て、取って上げますと云った。しばらくすると 井 戸 端 でざ
ひも か
あざあ音がするから、出てみたら竹の先へ蝦蟇口の 紐 を引き 懸けたのを水で洗っていた。
いちえんさつ
それから口をあけて 壱 円 札 を改めたら茶色になって模様が消えかかっていた。清は
かわ くさ
火鉢で 乾 かして、これでいいでしょうと出した。ちょっとかいでみて 臭 いやと云った
か ごまか
ら、それじゃお出しなさい、取り 換えて来て上げますからと、どこでどう 胡 魔 化したか札の
代りに銀貨を三円持って来た。この三円は何に使ったか忘れてしまった。今に返すよと云っ
たぎり、返さない。今となっては十倍にして返してやりたくても返せない。
清が物をくれる時には必ずおやじも兄も居ない時に限る。おれは何が嫌いだと云って人
に隠れて自分だけ得をするほど嫌いな事はない。兄とは無論仲がよくないけれども、兄に隠
かし や
して清から 菓 子や色鉛筆を貰いたくはない。なぜ、おれ一人にくれて、兄さんには 遣らない
すま あにいさま とうさま
のかと清に聞く事がある。すると清は 澄 したものでお 兄 様 はお 父 様 が買っ
がんこ
てお上げなさるから構いませんと云う。これは不公平である。おやじは 頑 固 だけれども、
えこひいき
そんな 依 怙 贔 負 はせぬ男だ。しかし清の眼から見るとそう見えるのだろう。全く愛に
おぼ ちが
溺 れていたに 違 いない。元は身分のあるものでも教育のない婆さんだから仕方がない。
単にこればかりではない。贔負目は恐ろしいものだ。清はおれをもって将来立身出世して立
派なものになると思い込んでいた。その癖勉強をする兄は色ばかり白くって、とても役には
あ かな
立たないと一人できめてしまった。こんな婆さんに 逢っては 叶 わない。自分の好きなもの
は必ずえらい人物になって、嫌いなひとはきっと落ち振れるものと信じている。おれはその
りょうけん
時から別段何になると云う 了 見 もなかった。しかし清がなるなると云うものだから、
ばかばか
やっぱり何かに成れるんだろうと思っていた。今から考えると 馬 鹿 馬 鹿しい。ある時など
は清にどんなものになるだろうと聞いてみた事がある。ところが清にも別段の考えもなか
い と 云 っ た 。
いっしょ
それから清はおれがうちでも持って独立したら、 一 所 になる気でいた。どうか置い
く
て下さいと何遍も 繰り返して頼んだ。おれも何だかうちが持てるような気がして、うん置い
てやると返事だけはしておいた。ところがこの女はなかなか想像の強い女で、あなたはどこ
こうじまち あざぶ
がお好き、 麹 町 ですか 麻 布 ですか、お庭へぶらんこをおこしらえ遊ばせ、西洋間
なら
は一つでたくさんですなどと勝手な計画を独りで 並 べていた。その時は家なんか欲しく
にほんだて
も何ともなかった。西洋館も 日 本 建 も全く不用であったから、そんなものは欲しくな
いと、いつでも清に答えた。すると、あなたは欲がすくなくって、心が奇麗だと云ってまた賞
め た 。 清 は 何 と 云 っ て も 賞 め て く れ る 。
母が死んでから五六年の間はこの状態で暮していた。おやじには叱られる。兄とは喧嘩を
する。清には菓子を貰う、時々賞められる。別に望みもない。これでたくさんだと思っていた。
いちがい
ほかの小供も 一 概 にこんなものだろうと思っていた。ただ清が何かにつけて、あなた
かわいそう ふしあわせ
はお 可 哀 想 だ、不 仕 合 だと無暗に云うものだから、それじゃ可哀想で不仕合せな
んだろうと思った。その外に苦になる事は少しもなかった。ただおやじが小遣いをくれない
に は 閉 口 し た 。
母が死んでから六年目の正月におやじも卒中で亡くなった。その年の四月におれはある
私立の中学校を卒業する。六月に兄は商業学校を卒業した。兄は何とか会社の九州の支店に
ゆ
口があって 行かなければならん。おれは東京でまだ学問をしなければならない。兄は家を売
しゅったつ
って財産を片付けて任地へ 出 立 すると云い出した。おれはどうでもするがよかろう
やっかい
と返事をした。どうせ兄の 厄 介 になる気はない。世話をしてくれるにしたところで、喧
きま
嘩をするから、向うでも何とか云い出すに 極 っている。なまじい保護を受ければこそ、こ
かくご
んな兄に頭を下げなければならない。牛乳配達をしても食ってられると 覚 悟 をした。兄は
がらくた にそくさんもん
それから道具屋を呼んで来て、先祖代々の 瓦 落 多 を 二 束 三 文 に売った。
いえやしき しゅうせん
家 屋 敷 はある人の 周 旋 である金満家に譲った。この方は大分金になったよう
くわ
だが、 詳 しい事は一向知らぬ。おれは一ヶ月以前から、しばらく前途の方向のつくまで神
おがわまち わた
田の 小 川 町 へ下宿していた。清は十何年居たうちが人手に 渡 るのを大いに残念が
ったが、自分のものでないから、仕様がなかった。あなたがもう少し年をとっていらっしゃ
れば、ここがご相続が出来ますものをとしきりに口説いていた。もう少し年をとって相続が
なんに
出来るものなら、今でも相続が出来るはずだ。婆さんは 何 も知らないから年さえ取れば
兄 の 家 が も ら え る と 信 じ て い る 。
兄とおれはかように分れたが、困ったのは清の行く先である。兄は無論連れて行ける身分
くんだ
でなし、清も兄の尻にくっ付いて九州 下 りまで出掛ける気は毛頭なし、と云ってこの時
よじょうはん こも はら
のおれは 四 畳 半 の安下宿に 籠 って、それすらもいざとなれば直ちに引き 払 わ
ねばならぬ始末だ。どうする事も出来ん。清に聞いてみた。どこかへ奉公でもする気かねと
おく おい
云ったらあなたがおうちを持って、 奥 さまをお貰いになるまでは、仕方がないから、 甥
の厄介になりましょうとようやく決心した返事をした。この甥は裁判所の書記でまず今日
さしつか
には 差 支 えなく暮していたから、今までも清に来るなら来いと二三度勧めたのだが、
な うち
清はたとい下女奉公はしても年来住み 馴れた 家 の方がいいと云って応じなかった。しか
ほうこうが きがね
し今の場合知らぬ屋敷へ 奉 公 易 えをして入らぬ 気 兼 を仕直すより、甥の厄介にな
さい
る方がましだと思ったのだろう。それにしても早くうちを持ての、 妻 を貰えの、来て世話
しんみ
をするのと云う。 親 身の甥よりも他人のおれの方が好きなのだろう。
しょうばい
九州へ立つ二日前兄が下宿へ来て金を六百円出してこれを資本にして 商 買 をす
ずいい
るなり、学資にして勉強をするなり、どうでも 随 意 に使うがいい、その代りあとは構わな
いと云った。兄にしては感心なやり方だ、何の六百円ぐらい貰わんでも困りはせんと思った
たんばく
が、例に似ぬ 淡 泊 な処置が気に入ったから、礼を云って貰っておいた。兄はそれから五
十円出してこれをついでに清に渡してくれと云ったから、異議なく引き受けた。二日立って
ていしゃば
新 橋 の 停 車 場 で 分 れ た ぎ り 兄 に は そ の 後 一 遍 も 逢 わ な い 。
めんど うま
おれは六百円の使用法について寝ながら考えた。商買をしたって 面 倒 くさくって 旨
く出来るものじゃなし、ことに六百円の金で商買らしい商買がやれる訳でもなかろう。よし
やれるとしても、今のようじゃ人の前へ出て教育を受けたと威張れないからつまり損にな
るばかりだ。資本などはどうでもいいから、これを学資にして勉強してやろう。六百円を三
に割って一年に二百円ずつ使えば三年間は勉強が出来る。三年間一生懸命にやれば何か出
しょうらい
来る。それからどこの学校へはいろうと考えたが、学問は 生 来 どれもこれも好きで
まっぴら めん
ない。ことに語学とか文学とか云うものは 真 平 ご 免 だ。新体詩などと来ては二十行
あるうちで一行も分らない。どうせ嫌いなものなら何をやっても同じ事だと思ったが、幸い
かか
物理学校の前を通り 掛 ったら生徒募集の広告が出ていたから、何も縁だと思って規則書
おこ
をもらってすぐ入学の手続きをしてしまった。今考えるとこれも親譲りの無鉄砲から 起
っ た 失 策 だ 。
ひとなみ
三年間まあ 人 並 に勉強はしたが別段たちのいい方でもないから、席順はいつでも下
かんじょう
から 勘 定 する方が便利であった。しかし不思議なもので、三年立ったらとうとう卒
おか
業してしまった。自分でも 可 笑しいと思ったが苦情を云う訳もないから大人しく卒業して
お い た 。
卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何か用だろうと思って、出掛けて行ったら、
四国辺のある中学校で数学の教師が入る。月給は四十円だが、行ってはどうだという相談で
いなか
ある。おれは三年間学問はしたが実を云うと教師になる気も、田 舎 へ行く考えも何もなか
った。もっとも教師以外に何をしようと云うあてもなかったから、この相談を受けた時、行
そくせき たた
きましょうと 即 席 に返事をした。これも親譲りの無鉄砲が 祟 ったのである。
ふにん ちっきょ
引き受けた以上は 赴 任 せねばならぬ。この三年間は四畳半に 蟄 居 して小言はた
だの一度も聞いた事がない。喧嘩もせずに済んだ。おれの生涯のうちでは
ひかくてきのんき
比 較 的 呑 気 な時節であった。しかしこうなると四畳半も引き払わなければならん。
かまくら
生れてから東京以外に踏み出したのは、同級生と一所に 鎌 倉 へ遠足した時ばかりであ
る。今度は鎌倉どころではない。大変な遠くへ行かねばならぬ。地図で見ると海浜で針の先
ほど小さく見える。どうせ碌な所ではあるまい。どんな町で、どんな人が住んでるか分らん。
分らんでも困らない。心配にはならぬ。ただ行くばかりである。もっとも少々面倒臭い。
たた
家を 畳 んでからも清の所へは折々行った。清の甥というのは存外結構な人である。おれ
ゆ お もて
が 行くたびに、居りさえすれば、何くれと 款 待なしてくれた。清はおれを前へ置いて、いろ
じまん
いろおれの 自 慢 を甥に聞かせた。今に学校を卒業すると麹町辺へ屋敷を買って役所へ通
こ
困まって顔を赤くした。それも一度や二度ではない。折々おれが小さい時寝小便をした事ま
で持ち出すには閉口した。甥は何と思って清の自慢を聞いていたか分らぬ。ただ清は
むかしふう ほうけん しゅじゅう
昔 風 の女だから、自分とおれの関係を 封 建 時代の 主 従 のように考え
がてん
ていた。自分の主人なら甥のためにも主人に相違ないと 合 点 したものらしい。甥こそいい
つら
面 の 皮 だ 。
たず
いよいよ約束が極まって、もう立つと云う三日前に清を 尋 ねたら、北向きの三畳に
かぜ ぼ うち
風 邪を引いて寝ていた。おれの来たのを見て起き直るが早いか、坊っちゃんいつ 家 をお
持ちなさいますと聞いた。卒業さえすれば金が自然とポッケットの中に湧いて来ると思っ
ている。そんなにえらい人をつらまえて、まだ坊っちゃんと呼ぶのはいよいよ馬鹿気ている。
ようす
おれは単簡に当分うちは持たない。田舎へ行くんだと云ったら、非常に失望した 容 子 で、
ごましお びん な ゆ
胡 麻 塩 の 鬢 の乱れをしきりに 撫でた。あまり気の毒だから「 行く事は行くがじき帰る。
なぐさ
来年の夏休みにはきっと帰る」と 慰 めてやった。それでも妙な顔をしているから「何を
えちご ささあめ
見やげに買って来てやろう、何が欲しい」と聞いてみたら「 越 後 の 笹 飴 が食べたい」
と云った。越後の笹飴なんて聞いた事もない。第一方角が違う。
「おれの行く田舎には笹飴 は
なさそうだ」と云って聞かしたら「そんなら、どっちの見当です」と聞き返した。
「西の方だ よ」
はこね
と云うと「 箱 根 のさきですか手前ですか」と問う。随分持てあました。
とちゅう
出立の日には朝から来て、いろいろ世話をやいた。来る 途 中 小間物屋で買って来た
と云ってもなかなか承知しない。車を並べて停車場へ着いて、プラットフォームの上へ出た
時、車へ乗り込んだおれの顔をじっと見て「もうお別れになるかも知れません。随分ご
った。しかしもう少しで泣くところであった。汽車がよっぽど動き出してから、もう
だいしょうぶ
大 丈 夫 だろうと思って、窓から首を出して、振り向いたら、やっぱり立っていた。何
だ か 大 変 小 さ く 見 え た 。
二
い はしけ はな こ ま
ぶうと 云って汽船がとまると、 艀 が岸を 離 れて、 漕ぎ寄せて来た。船頭は 真っ
ぱだか やばん
裸 に赤ふんどしをしめている。 野 蛮 な所だ。もっともこの熱さでは着物はきられま
め
い。日が強いので水がやに光る。見つめていても 眼がくらむ。事務員に聞いてみるとおれは
おおもり ばか
ここへ降りるのだそうだ。見るところでは 大 森 ぐらいな漁村だ。人を 馬 鹿にしていら
がまん いせい
あ、こんな所に 我 慢 が出来るものかと思ったが仕方がない。 威 勢 よく一番に飛び込ん
つ はこ
だ。続づいて五六人は乗ったろう。外に大きな 箱 を四つばかり積み込んで赤ふんは岸へ漕
もど おか いそ
ぎ 戻 して来た。 陸 へ着いた時も、いの一番に飛び上がって、いきなり、 磯 に立ってい
こぞう
た鼻たれ 小 僧 をつらまえて中学校はどこだと聞いた。小僧はぼんやりして、知らんがの、
いなか ねこ くせ
と云った。気の利かぬ 田 舎 ものだ。 猫 の額ほどな町内の 癖 に、中学校のありかも知
やつ みょう つつ
らぬ 奴 があるものか。ところへ 妙 な 筒 っぽうを着た男がきて、こっちへ来いと云
つ そろ
うから、尾いて行ったら、港屋とか云う宿屋へ連れて来た。やな女が声を 揃 えてお上がり
なさいと云うので、上がるのがいやになった。門口へ立ったなり中学校を教えろと云ったら、
中学校はこれから汽車で二里ばかり行かなくっちゃいけないと聞いて、なお上がるのがい
かばん
やになった。おれは、筒っぽうを着た男から、おれの 革 鞄 を二つ引きたくって、のそのそあ
る き 出 し た 。 宿 屋 の も の は 変 な 顔 を し て い た 。
きっぷ
停車場はすぐ知れた。切 符 も訳なく買った。乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。
ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと
やと だれ
思った。たった三銭である。それから車を 傭 って、中学校へ来たら、もう放課後で 誰 も
ようたし こづかい ずいぶん
居ない。宿直はちょっと 用 達 に出たと 小 使 が教えた。 随 分 気楽な宿直がい
たず くたび
るものだ。校長でも 尋 ねようかと思ったが、草 臥 れたから、車に乗って宿屋へ連れて行
やましろや
けと車夫に云い付けた。車夫は威勢よく 山 城 屋 と云ううちへ横付けにした。山城屋と
かんたろう
は 質 屋 の 勘 太 郎 の 屋 号 と 同 じ だ か ら ち ょ っ と 面 白 く 思 っ た 。
はしごだん
何だか二階の 楷 子 段 の下の暗い部屋へ案内した。熱くって居られやしない。こんな
ふさ
部屋はいやだと云ったらあいにくみんな 塞 がっておりますからと云いながら革鞄を
ほう あせ がまん
抛 り出したまま出て行った。仕方がないから部屋の中へはいって 汗 をかいて 我 慢
のぞ
していた。やがて湯に入れと云うから、ざぶりと飛び込んで、すぐ上がった。帰りがけに 覗
すず うそ
いてみると 涼 しそうな部屋がたくさん空いている。失敬な奴だ。 嘘 をつきゃあがった。
ぜん あ うま
それから下女が 膳 を持って来た。部屋は 熱つかったが、飯は下宿のよりも大分 旨 かっ
た。給仕をしながら下女がどちらからおいでになりましたと聞くから、東京から来たと答え
あた
た。すると東京はよい所でございましょうと云ったから 当 り前だと答えてやった。膳を下
きこ ね
げた下女が台所へいった時分、大きな笑い声が 聞 えた。くだらないから、すぐ 寝たが、なか
そうぞう
なか寝られない。熱いばかりではない。 騒 々 しい。下宿の五倍ぐらいやかましい。うと
きよ ゆめ えちご ささあめ
うとしたら 清 の 夢 を見た。清が 越 後 の 笹 飴 を笹ぐるみ、むしゃむしゃ食って
い
いる。笹は毒だからよしたらよかろうと云うと、いえこの笹がお薬でございますと 云って旨
そうに食っている。おれがあきれ返って大きな口を開いてハハハハと笑ったら眼が覚めた。
つ ぬ
下 女 が 雨 戸 を 明 け て い る 。 相 変 ら ず 空 の 底 が 突き 抜け た よ う な 天 気 だ 。
どうちゅう そまつ
道 中 をしたら茶代をやるものだと聞いていた。茶代をやらないと 粗 末 に取り
せま お
扱われると聞いていた。こんな、 狭 くて暗い部屋へ 押し込めるのも茶代をやらないせいだ
なり けじゅす こうもり
ろう。見すぼらしい 服 装をして、ズックの革鞄と 毛 繻 子 の 蝙 蝠 傘 を提げてるからだろ
みくび おどろ
う。田舎者の癖に人を 見 括 ったな。一番茶代をやって 驚 かしてやろう。おれはこれで
ふところ
も学資のあまりを三十円ほど 懐 に入れて東京を出て来たのだ。汽車と汽船の切符代
もら
と雑費を差し引いて、まだ十四円ほどある。みんなやったってこれからは月給を 貰 うんだ
おど まわ きま
から構わない。田舎者はしみったれだから五円もやれば 驚 ろいて眼を 廻 すに 極 って
すま
いる。どうするか見ろと 済 して顔を洗って、部屋へ帰って待ってると、夕べの下女が膳を
ぼん
持って来た。 盆 を持って給仕をしながら、やににやにや笑ってる。失敬な奴だ。顔のなかを
つら
お祭りでも通りゃしまいし。これでもこの下女の 面 よりよっぽど上等だ。飯を済ましてか
しゃく さわ ちゅうと さつ まい
らにしようと思っていたが、 癪 に 障 ったから、 中 途 で五円 札 を一 枚 出し
て、あとでこれを帳場へ持って行けと云ったら、下女は変な顔をしていた。それから飯を済
でか くつ みが
ま し て す ぐ 学 校 へ 出 懸け た 。 靴 は 磨 い て な か っ た 。
きのう たいがい
学校は 昨 日 車で乗りつけたから、 大 概 の見当は分っている。四つ角を二三度曲が
げんかん みかげいし し
ったらすぐ門の前へ出た。門から 玄 関 までは 御 影 石 で 敷きつめてある。きのうこ
むやみ ぎょうさん
の敷石の上を車でがらがらと通った時は、 無 暗 に 仰 山 な音がするので少し弱っ
こくら あ
た。途中から 小 倉 の制服を着た生徒にたくさん 逢ったが、みんなこの門をはいって行く。
中にはおれより背が高くって強そうなのが居る。あんな奴を教えるのかと思ったら何だか
わ めいし うすひげ
気味が 悪るくなった。 名 刺 を出したら校長室へ通した。校長は 薄 髯 のある、色の黒
たぬき
い、目の大きな 狸 のような男である。やにもったいぶっていた。まあ精出して勉強して
うやうや おさ わた
くれと云って、 恭 しく大きな印の 捺 った、辞令を 渡 した。この辞令は東京へ帰
こ しょうかい
るとき丸めて海の中へ抛り 込んでしまった。校長は今に職員に 紹 介 してやるから、
めんどう
一々その人にこの辞令を見せるんだと云って聞かした。余計な手数だ。そんな 面 倒 な
事 を す る よ り こ の 辞 令 を 三 日 間 職 員 室 へ 張 り 付 け る 方 が ま し だ 。
ひかえじょ そろ らっぱ
教員が 控 所 へ 揃 うには一時間目の 喇 叭 が鳴らなくてはならぬ。大分時間が
おいおい の
ある。校長は時計を出して見て、 追 々 ゆるりと話すつもりだが、まず大体の事を 呑み込
んでおいてもらおうと云って、それから教育の精神について長いお談義を聞かした。おれは
無論いい加減に聞いていたが、途中からこれは飛んだ所へ来たと思った。校長の云うように
むてっぽう もはん
はとても出来ない。おれみたような 無 鉄 砲 なものをつらまえて、生徒の 模 範 になれ
しひょう あお およ
の、一校の 師 表 と 仰 がれなくてはいかんの、学問以外に個人の徳化を 及 ぼさなく
ては教育者になれないの、と無暗に法外な注文をする。そんなえらい人が月給四十円で
はるばる けんか
遥 々 こんな田舎へくるもんか。人間は大概似たもんだ。腹が立てば 喧 嘩 の一つぐら
いは誰でもするだろうと思ってたが、この様子じゃめったに口も聞けない、散歩も出来ない。
やと うそ きら
そんなむずかしい役なら 雇 う前にこれこれだと話すがいい。おれは 嘘 をつくのが 嫌
こと
いだから、仕方がない、だまされて来たのだとあきらめて、思い切りよく、ここで 断 わって
さいふ
帰っちまおうと思った。宿屋へ五円やったから 財 布 の中には九円なにがししかない。九円
お
じゃ東京までは帰れない。茶代なんかやらなければよかった。惜しい事をした。しかし九円
だって、どうかならない事はない。旅費は足りなくっても嘘をつくよりましだと思って、
とうてい
到 底 あなたのおっしゃる通りにゃ、出来ません、この辞令は返しますと云ったら、校長
は狸のような眼をぱちつかせておれの顔を見ていた。やがて、今のはただ希望である、あな
たが希望通り出来ないのはよく知っているから心配しなくってもいいと云いながら笑った
おどさ
そのくらいよく知ってるなら、始めから 威 嚇さなければいいのに。
そう、こうする内に喇叭が鳴った。教場の方が急にがやがやする。もう教員も控所へ揃い
ましたろうと云うから、校長に尾いて教員控所へはいった。広い細長い部屋の周囲に机を
なら こし
並 べてみんな 腰 をかけている。おれがはいったのを見て、みんな申し合せたようにお
ひとりびとり
れの顔を見た。見世物じゃあるまいし。それから申し付けられた通り 一 人 一 人 の前へ
あいさつ たいがい いす
行って辞令を出して 挨 拶 をした。 大 概 は 椅 子を離れて腰をかがめるばかりであ
うやうや
ったが、念の入ったのは差し出した辞令を受け取って一応拝見をしてそれを 恭 しく
へんきゃく まね たいそう
返 却 した。まるで宮芝居の 真 似だ。十五人目に 体 操 の教師へと廻って来た時
むこ
には、同じ事を何返もやるので少々じれったくなった。 向 うは一度で済む。こっちは同じ
しょさ りょうけん
所 作 を十五返繰り返している。少しはひとの 了 見 も察してみるがいい。
挨拶をしたうちに教頭のなにがしと云うのが居た。これは文学士だそうだ。文学士と云え
みょう
ば大学の卒業生だからえらい人なんだろう。 妙 に女のような優しい声を出す人だった。
しゃつ うす
もっとも驚いたのはこの暑いのにフランネルの 襯 衣 を着ている。いくらか 薄 い地には
そうい なり
相 違 なくっても暑いには極ってる。文学士だけにご苦労千万な 服 装をしたもんだ。しか
ばか
もそれが赤シャツだから人を 馬 鹿にしている。あとから聞いたらこの男は年が年中赤シャ
からだ
ツを着るんだそうだ。妙な病気があった者だ。当人の説明では赤は 身 体 に薬になるから、
あつ
衛生のためにわざわざ 誂 らえるんだそうだが、入らざる心配だ。そんならついでに着物も
はかま こが わ
袴 も赤にすればいい。それから英語の教師に 古 賀とか云う大変顔色の 悪るい男が居た。
あお や むかし
大概顔の 蒼 い人は 瘠せてるもんだがこの男は蒼くふくれている。 昔 小学校へ行く時
あさい たみ
分、浅 井 の 民 さんと云う子が同級生にあったが、この浅井のおやじがやはり、こんな色
ひゃくしょう
つやだった。浅井は 百 姓 だから、百姓になるとあんな顔になるかと清に聞いてみ
とうなす
たら、そうじゃありません、あの人はうらなりの 唐 茄 子 ばかり食べるから、蒼くふくれる
んですと教えてくれた。それ以来蒼くふくれた人を見れば必ずうらなりの唐茄子を食った
むく ちが
酬 いだと思う。この英語の教師もうらなりばかり食ってるに 違 いない。もっともうら
なりとは何の事か今もって知らない。清に聞いてみた事はあるが、清は笑って答えなかった。
ほった
大方清も知らないんだろう。それからおれと同じ数学の教師に 堀 田 というのが居た。これ
ていねい きたま
人が 叮 寧 に辞令を見せたら見向きもせず、やあ君が新任の人か、ちと遊びに 来 給 え
れいぎ
アハハハと云った。何がアハハハだ。そんな 礼 儀 を心得ぬ奴の所へ誰が遊びに行くものか。
やまあらし あだな
おれはこの時からこの坊主に 山 嵐 という 渾 名 をつけてやった。漢学の先生はさ
かた
すがに 堅 いものだ。昨日お着きで、さぞお疲れで、それでもう授業をお始めで、大分ご
れいせい あいきょう じい
励 精 で、――とのべつに弁じたのは 愛 嬌 のあるお 爺 さんだ。画学の教師は
すきや せんす
全く芸人風だ。べらべらした 透 綾 の羽織を着て、扇 子 をぱちつかせて、お国はどちらで
うれ わたし えど
げす、え? 東京? そりゃ 嬉 しい、お仲間が出来て…… 私 もこれで 江 戸っ子です
と云った。こんなのが江戸っ子なら江戸には生れたくないもんだと心中に考えた。そのほか
一人一人についてこんな事を書けばいくらでもある。しかし際限がないからやめる。
挨拶が一通り済んだら、校長が今日はもう引き取ってもいい、もっとも授業上の事は数学
あさって
の主任と打ち合せをしておいて、 明 後 日 から課業を始めてくれと云った。数学の主任は
いまいま
誰かと聞いてみたら例の山嵐であった。 忌 々 しい、こいつの下に働くのかおやおやと
とま
失望した。山嵐は「おい君どこに 宿 ってるか、山城屋か、うん、今に行って相談する」と云い
はくぼく
残して 白 墨 を持って教場へ出て行った。主任の癖に向うから来て相談するなんて不見
識 な 男 だ 。 し か し 呼 び 付 け る よ り は 感 心 だ 。
それから学校の門を出て、すぐ宿へ帰ろうと思ったが、帰ったって仕方がないから、少し
町を散歩してやろうと思って、無暗に足の向く方をあるき散らした。県庁も見た。古い前世
あざぶ れんたい
紀の建築である。兵営も見た。 麻 布 の 聯 隊 より立派でない。大通りも見た。
かわいそう
可 哀 想 なものだと考えながらくると、いつしか山城屋の前に出た。広いようでも狭い
たいてい みつく
ものだ。これで 大 抵 は 見 尽 したのだろう。帰って飯でも食おうと門口をはいった。
すわ
帳場に 坐 っていたかみさんが、おれの顔を見ると急に飛び出してきてお帰り……と板の
くつ ぬ ざしき
間へ頭をつけた。 靴 を 脱いで上がると、お 座 敷 があきましたからと下女が二階へ案内
じょう とこ ま
をした。十五 畳 の表二階で大きな 床 の 間がついている。おれは生れてからまだこん
な立派な座敷へはいった事はない。この後いつはいれるか分らないから、洋服を脱いで
ゆかた まんなか
浴 衣 一枚になって座敷の 真 中 へ大の字に寝てみた。いい心持ちである。
昼飯を食ってから早速清へ手紙をかいてやった。おれは文章がまずい上に字を知らない
だいきら
から手紙を書くのが 大 嫌 いだ。またやる所もない。しかし清は心配しているだろう。難
ふんぱつ
船して死にやしないかなどと思っちゃ困るから、 奮 発 して長いのを書いてやった。そ
の 文 句 は こ う で あ る 。
「きのう着いた。つまらん所だ。十五畳の座敷に寝ている。宿屋へ茶代を五円やった。かみさ
んが頭を板の間へすりつけた。夕べは寝られなかった。清が笹飴を笹ごと食う夢を見た。来
年の夏は帰る。今日学校へ行ってみんなにあだなをつけてやった。校長は狸、教頭は赤シャ
ツ、英語の教師はうらなり、数学は山嵐、画学はのだいこ。今にいろいろな事を書いてやる。
さ よ う な ら 」
ねむけ
手紙をかいてしまったら、いい心持ちになって 眠 気 がさしたから、最前のように座敷の
真中へのびのびと大の字に寝た。今度は夢も何も見ないでぐっすり寝た。この部屋かいと大
きな声がするので目が覚めたら、山嵐がはいって来た。最前は失敬、君の受持ちは……と人
ろうばい
が起き上がるや否や談判を開かれたので大いに 狼 狽 した。受持ちを聞いてみると別段
おろか あした
むずかしい事もなさそうだから承知した。このくらいの事なら、明後日は 愚 、明 日 か
ら始めろと云ったって驚ろかない。授業上の打ち合せが済んだら、君はいつまでこんな宿屋
ぼく しゅうせん
に居るつもりでもあるまい、 僕 がいい下宿を 周 旋 してやるから移りたまえ。外の
ものでは承知しないが僕が話せばすぐ出来る。早い方がいいから、今日見て、あす移って、あ
さってから学校へ行けば極りがいいと一人で呑み込んでいる。なるほど十五畳敷にいつま
しゅくりょう はら
で居る訳にも行くまい。月給をみんな 宿 料 に 払 っても追っつかないかもしれ
ふんぱつ こ
ぬ。五円の茶代を 奮 発 してすぐ移るのはちと残念だが、どうせ移る者なら、早く引き 越
たの
して落ち付く方が便利だから、そこのところはよろしく山嵐に 頼 む事にした。すると山嵐
はともかくもいっしょに来てみろと云うから、行った。町はずれの岡の中腹にある家で至極
の女房はまさにウィッチに似ている。ウィッチだって人の女房だから構わない。とうとう明
とおりちょう ぱいおご
日から引き移る事にした。帰りに山嵐は 通 町 で氷水を一 杯 奢 った。学校で逢
おうふう
った時はやに 横 風 な失敬な奴だと思ったが、こんなにいろいろ世話をしてくれるとこ
かんしゃくもち
ろを見ると、わるい男でもなさそうだ。ただおれと同じようにせっかちで 肝 癪 持
らしい。あとで聞いたらこの男が一番生徒に人望があるのだそうだ。
三
いよいよ学校へ出た。初めて教場へはいって高い所へ乗った時は、何だか変だった。講釈
ずぬ
をしながら、おれでも先生が勤まるのかと思った。生徒はやかましい。時々 図 抜けた大きな
い こた
声で先生と 云う。先生には 応 えた。今まで物理学校で毎日先生先生と呼びつけていたが、
うんでい
先生と呼ぶのと、呼ばれるのは 雲 泥 の差だ。何だか足の裏がむずむずする。おれは
どん
いる。先生と大きな声をされると、腹の減った時に丸の内で 午 砲を聞いたような気がする。
か
最初の一時間は何だかいい加減にやってしまった。しかし別段困った質問も 掛けられずに
ひかえじょ
済んだ。 控 所 へ帰って来たら、山嵐がどうだいと聞いた。うんと単簡に返事をしたら
山 嵐 は 安 心 し た ら し か っ た 。
はくぼく こ
二時間目に 白 墨 を持って控所を出た時には何だか敵地へ乗り 込むような気がした。
やつ えど きゃしゃ
教場へ出ると今度の組は前より大きな 奴 ばかりである。おれは 江 戸っ子で 華 奢 に
お けんか
小作りに出来ているから、どうも高い所へ上がっても 押しが利かない。 喧 嘩 なら
すもうとり おおぞう なら
相 撲 取 とでもやってみせるが、こんな 大 僧 を四十人も前へ 並 べて、ただ一
まい きょうしゅく いなかもの
枚 の舌をたたいて 恐 縮 させる手際はない。しかしこんな 田 舎 者 に弱身を
くせ
見せると 癖 になると思ったから、なるべく大きな声をして、少々巻き舌で講釈してやった。
けむ ま
最初のうちは、生徒も 烟 に 捲かれてぼんやりしていたから、それ見ろとますます得意にな
まんなか
って、べらんめい調を用いてたら、一番前の列の 真 中 に居た、一番強そうな奴が、いき
なり起立して先生と云う。そら来たと思いながら、何だと聞いたら、
「あまり早くて分から ん
や
けれ、もちっと、ゆるゆる 遣って、おくれんかな、もし」と云った。おくれ んかな 、もしは
なまぬ きみら
生 温 るい言葉だ。早過ぎるなら、ゆっくり云ってやるが、おれは江戸っ子だから 君 等 の
わか
言葉は使えない、 分 らなければ、分るまで待ってるがいいと答えてやった。この調子で二
時間目は思ったより、うまく行った。ただ帰りがけに生徒の一人がちょっとこの問題を解釈
きか せま ひやあせ
をしておくれんかな、もし、と出来そうもない 幾 何の問題を持って 逼 ったには 冷 汗
あ
を流した。仕方がないから何だか分らない、この次教えてやると急いで引き 揚げたら、生徒
はや きこ べらぼう
がわあと 囃 した。その中に出来ん出来んと云う声が 聞 える。 箆 棒 め、先生だって、
出来ないのは当り前だ。出来ないのを出来ないと云うのに不思議があるもんか。そんなもの
が出来るくらいなら四十円でこんな田舎へくるもんかと控所へ帰って来た。今度はどうだ
とまた山嵐が聞いた。うんと云ったが、うんだけでは気が済まなかったから、この学校の生
みょう
徒は分らずやだなと云ってやった。山嵐は 妙 な顔をしていた。
三時間目も、四時間目も昼過ぎの一時間も大同小異であった。最初の日に出た級は、いず
れも少々ずつ失敗した。教師ははたで見るほど楽じゃないと思った。授業はひと通り済んだ
ねん
が、まだ帰れない、三時までぽつ 然 として待ってなくてはならん。三時になると、受持級の
そうじ しらせ
生徒が自分の教室を 掃 除 して 報 知 にくるから検分をするんだそうだ。それから、
しゅっせきぼ ひま からだ
出 席 簿 を一応調べてようやくお 暇 が出る。いくら月給で買われた 身 体 だって、
しば にら
あいた時間まで学校へ 縛 りつけて机と 睨 めっくらをさせるなんて法があるものか。し
おとな こ
かしほかの連中はみんな 大 人 しくご規則通りやってるから新参のおればかり、だだを 捏
がまん すぎ
ねるのもよろしくないと思って 我 慢 していた。帰りがけに、君何でもかんでも三時 過
おろか
まで学校にいさせるのは 愚 だぜと山嵐に訴えたら、山嵐はそうさアハハハと笑ったが、
まじめ ぼく
あとから 真 面 目になって、君あまり学校の不平を云うと、いかんぜ。云うなら 僕 だけに話
ずいぶん くわ
せ、 随 分 妙な人も居るからなと忠告がましい事を云った。四つ角で分れたから 詳 し
い 事 は 聞 く ひ ま が な か っ た 。
ていしゅ
それからうちへ帰ってくると、宿の 亭 主 がお茶を入れましょうと云ってやって来る。
ちそう えんりょ
お茶を入れると云うからご 馳 走 をするのかと思うと、おれの茶を 遠 慮 なく入れて
るすちゅう ひとり
自分が飲むのだ。この様子では 留 守 中 も勝手にお茶を入れましょうを 一 人 で
りこう しょがこっとう
履 行 しているかも知れない。亭主が云うには手前は 書 画 骨 董 がすきで、とうとう
こんな商買を内々で始めるようになりました。あなたもお見受け申すところ大分ご風流で
かんゆう
いらっしゃるらしい。ちと道楽にお始めなすってはいかがですと、飛んでもない 勧 誘
つかい ていこく じょうまえ
をやる。二年前ある人の 使 に 帝 国 ホテルへ行った時は 錠 前 直しと
まちが かぶ かまくら
間 違 えられた事がある。ケットを 被 って、 鎌 倉 の大仏を見物した時は車屋から親
こんにち みそくな
方と云われた。その外 今 日 まで 見 損 われた事は随分あるが、まだおれをつらまえ
たいてい
て大分ご風流でいらっしゃると云ったものはない。 大 抵 はなりや様子でも分る。風流
え ずきん かぶ たんざく
人なんていうものは、画を見ても、 頭 巾 を 被 るか 短 冊 を持ってるものだ。このお
くせもの のんき
れを風流人だなどと真面目に云うのはただの 曲 者 じゃない。おれはそんな 呑 気 な
いんきょ きら
隠 居 のやるような事は 嫌 いだと云ったら、亭主はへへへへと笑いながら、いえ始め
から好きなものは、どなたもございませんが、いったんこの道にはいるとなかなか出られま
てつき たの
せんと一人で茶を注いで妙な 手 付 をして飲んでいる。実はゆうべ茶を買ってくれと 頼
こ ぱい
んでおいたのだが、こんな苦い 濃い茶はいやだ。一 杯 飲むと胃に答えるような気がする。
今度からもっと苦くないのを買ってくれと云ったら、かしこまりましたとまた一杯しぼっ
むやみ やつ
て飲んだ。人の茶だと思って 無 暗 に飲む 奴 だ。主人が引き下がってから、明日の
したよみ ね
下 読 を し て す ぐ 寝て し ま っ た 。
それから毎日毎日学校へ出ては規則通り働く、毎日毎日帰って来ると主人がお茶を入れ
ましょうと出てくる。一週間ばかりしたら学校の様子もひと通りは飲み込めたし、宿の夫婦
たいがい
の人物も 大 概 は分った。ほかの教師に聞いてみると辞令を受けて一週間から一ヶ月ぐ
わ か
らいの間は自分の評判がいいだろうか、悪るいだろうか非常に気に 掛かるそうであるが、お
れは一向そんな感じはなかった。教場で折々しくじるとその時だけはやな心持ちだが三十
きれい
分ばかり立つと 奇 麗 に消えてしまう。おれは何事によらず長く心配しようと思っても心
えいきょう あた
配が出来ない男だ。教場のしくじりが生徒にどんな 影 響 を 与 えて、その影響が校
てい むとんじゃく
長や教頭にどんな反応を 呈 するかまるで 無 頓 着 であった。おれは前に云う通り
すわ
あまり度胸の 据 った男ではないのだが、思い切りはすこぶるいい人間である。この学校が
こぞう あいきょう
しくはなかった。まして教場の 小 僧 共なんかには 愛 嬌 もお世辞も使う気になれ
なかった。学校はそれでいいのだが下宿の方はそうはいかなかった。亭主が茶を飲みに来る
だけなら我慢もするが、いろいろな者を持ってくる。始めに持って来たのは何でも印材で、
とお なら いなかまわ
十 ばかり 並 べておいて、みんなで三円なら安い物だお買いなさいと云う。 田 舎 巡
かざん
りのヘボ絵師じゃあるまいし、そんなものは入らないと云ったら、今度は 華 山 とか何とか
かけもの とこ ま
云う男の花鳥の 掛 物 をもって来た。自分で 床 の 間へかけて、いい出来じゃありませ
ふく
は何とか華山で、一人は何とか華山ですが、この 幅 はその何とか華山の方だと、くだらな
い講釈をしたあとで、どうです、あなたなら十五円にしておきます。お買いなさいと
さいそく
催 促 をする。金がないと断わると、金なんか、いつでもようございますとなかなか
がんこ ぱら
頑 固 だ。金があつても買わないんだと、その時は追っ 払 っちまった。その次には
も三遍も端渓がるから、面白半分に端渓た何だいと聞いたら、すぐ講釈を始め出した。端渓
には上層中層下層とあって、今時のものはみんな上層ですが、これはたしかに中層です、こ
がん めず はつぼく
の 眼 をご覧なさい。眼が三つあるのは 珍 らしい。 溌 墨 の具合も至極よろしい、試
つ しな
してご覧なさいと、おれの前へ大きな硯を 突きつける。いくらだと聞くと、持主が 支 那から
持って帰って来て是非売りたいと云いますから、お安くして三十円にしておきましょうと
ばか そうい
云う。この男は 馬 鹿に 相 違 ない。学校の方はどうかこうか無事に勤まりそうだが、こう
こっとうぜめ あ
骨 董 責 に 逢っ て は と て も 長 く 続 き そ う に な い 。
おおまち
そのうち学校もいやになった。 ある日の晩 大 町 と云う所を散歩していたら郵便
とな そば
局の 隣 りに 蕎 麦とかいて、下に東京と注を加えた看板があった。おれは蕎麦が大好きで
お にお のれん
ある。東京に 居った時でも蕎麦屋の前を通って薬味の 香 いをかぐと、どうしても 暖 簾
がくぐりたくなった。今日までは数学と骨董で蕎麦を忘れていたが、こうして看板を見ると
素通りが出来なくなる。ついでだから一杯食って行こうと思って上がり込んだ。見ると看板
こと
ほどでもない。東京と 断 わる以上はもう少し奇麗にしそうなものだが、東京を知らないの
めっぽう たたみ
か、金がないのか、 滅 法 きたない。 畳 は色が変ってお負けに砂でざらざらしてい
くって、思わず首を縮めるくらいだ。ただ麗々と蕎麦の名前をかいて張り付けたねだん付け
にさんち ちが
だけは全く新しい。何でも古いうちを買って 二 三 日 前から開業したに 違 いなかろう。
てんぷら
ねだん付の第一号に 天 麩 羅 とある。おい天麩羅を持ってこいと大きな声を出した。する
すみ
とこの時まで 隅 の方に三人かたまって、何かつるつる、ちゅうちゅう食ってた
れんじゅう へや
連 中 が、ひとしくおれの方を見た。部 屋が暗いので、ちょっと気がつかなかったが
あいさつ
顔を合せると、みんな学校の生徒である。先方で 挨 拶 をしたから、おれも挨拶をした。
ひさ ぶり うま たいら
その晩は 久 し 振 に蕎麦を食ったので、 旨 かったから天麩羅を四杯 平 げた。
翌日何の気もなく教場へはいると、黒板一杯ぐらいな大きな字で、天麩羅先生とかいてあ
おか
る。おれの顔を見てみんなわあと笑った。おれは馬鹿馬鹿しいから、天麩羅を食っちゃ 可 笑
ひとり
しいかと聞いた。すると生徒の 一 人 が、しかし四杯は過ぎるぞな、もし、と云った。四杯食
おうが五杯食おうがおれの銭でおれが食うのに文句があるもんかと、さっさと講義を済ま
ただ
して控所へ帰って来た。十分立って次の教場へ出ると一つ天麩羅四杯なり。 但 し笑うべか
しゃく さわ
らず。と黒板にかいてある。さっきは別に腹も立たなかったが今度は 癪 に 障 った。
お
め手はない。田舎者はこの呼吸が分からないからどこまで 押して行っても構わないと云う
りょうけん せま
了 見 だろう。一時間あるくと見物する町もないような 狭 い都に住んで、外に何に
にちろ ふ あわ
も芸がないから、天麩羅事件を 日 露 戦争のように 触れちらかすんだろう。 憐 れな
やつら うえきばち
奴 等 だ。小供の時から、こんなに教育されるから、いやにひねっこびた、 植 木 鉢 の
くせ おつ
こりゃなんだ。小供の 癖 に 乙 に毒気を持ってる。おれはだまって、天麩羅を消して、こ
ひきょう
んないたずらが面白いか、 卑 怯 な冗談だ。君等は卑怯と云う意味を知ってるか、と云っ
おこ
たら、自分がした事を笑われて 怒 るのが卑怯じゃろうがな、もしと答えた奴がある。やな
奴だ。わざわざ東京から、こんな奴を教えに来たのかと思ったら情なくなった。余計な減ら
ず口を利かないで勉強しろと云って、授業を始めてしまった。それから次の教場へ出たら天
麩羅を食うと減らず口が利きたくなるものなりと書いてある。どうも始末に終えない。あん
まり腹が立ったから、そんな生意気な奴は教えないと云ってすたすた帰って来てやった。生
徒は休みになって喜んだそうだ。こうなると学校より骨董の方がまだましだ。
かんしゃく
天麩羅蕎麦もうちへ帰って、一晩寝たらそんなに 肝 癪 に障らなくなった。学校へ
出てみると、生徒も出ている。何だか訳が分らない。それから三日ばかりは無事であったが、
すみた だんご
四日目の晩に 住 田 と云う所へ行って 団 子 を食った。この住田と云う所は温泉のある町
で城下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分で行かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある
ゆうかく
上に 遊 廓 がある。おれのはいった団子屋は遊廓の入口にあって、大変うまいという評
判だから、温泉に行った帰りがけにちょっと食ってみた。今度は生徒にも逢わなかったから、
だれ さら
誰 も知るまいと思って、翌日学校へ行って、一時間目の教場へはいると団子二 皿 七銭
はら やっかい
と書いてある。実際おれは二皿食って七銭 払 った。どうも 厄 介 な奴等だ。二時間目に
もきっと何かあると思うと遊廓の団子旨い旨いと書いてある。あきれ返った奴等だ。団子が
あかてぬぐい
それで済んだと思ったら今度は 赤 手 拭 と云うのが評判になった。何の事だと思った
き
ら、つまらない来歴だ。おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事に 極めている。ほか
およ
の所は何を見ても東京の足元にも 及 ばないが温泉だけは立派なものだ。せっかく来た者
でかけ
だから毎日はいってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた 出 掛 る。ところが行くとき
そま しま
は必ず西洋手拭の大きな奴をぶら下げて行く。この手拭が湯に 染 った上へ、赤い 縞 が
べにいろ
流れ出したのでちょっと見ると 紅 色 に見える。おれはこの手拭を行きも帰りも、汽車
に乗ってもあるいても、常にぶら下げている。それで生徒がおれの事を赤手拭赤手拭と云う
んだそうだ。どうも狭い土地に住んでるとうるさいものだ。まだある。温泉は三階の新築で
ゆかた てんもく の
上等は 浴 衣 をかして、流しをつけて八銭で済む。その上に女が 天 目 へ茶を 載せて出
す。おれはいつでも上等へはいった。すると四十円の月給で毎日上等へはいるのは
たまには誰も居ない事がある。深さは立って乳の辺まであるから、運動のために、湯の中を
ゆかい みすま
泳ぐのはなかなか 愉 快 だ。おれは人の居ないのを 見 済 しては十五畳の湯壺を泳ぎ
まわ いせい
巡 って喜んでいた。ところがある日三階から 威 勢 よく下りて今日も泳げるかなとざく
のぞ は
ろ口を 覗 いてみると、大きな札へ黒々と湯の中で泳ぐべからずとかいて 貼りつけてある。
はりふだ
湯の中で泳ぐものは、あまりあるまいから、この 貼 札 はおれのために特別に新調した
のかも知れない。おれはそれから泳ぐのは断念した。泳ぐのは断念したが、学校へ出てみる
おど
と、例の通り黒板に湯の中で泳ぐべからずと書いてあるには 驚 ろいた。何だか生徒全体が
たんてい
おれ一人を 探 偵 しているように思われた。くさくさした。生徒が何を云ったって、やろ
うと思った事をやめるようなおれではないが、何でこんな狭苦しい鼻の先がつかえるよう
な所へ来たのかと思うと情なくなった。それでうちへ帰ると相変らず骨董責である。
四
ただ たぬき
学校には宿直があって、職員が代る代るこれをつとめる。 但 し 狸 と赤シャツは例
まぬ
外である。何でこの両人が当然の義務を 免 かれるのかと聞いてみたら、
そうにんたいぐう
奏 任 待 遇 だからと云う。面白くもない。月給はたくさんとる、時間は少ない、それ
の あた
で宿直を 逃がれるなんて不公平があるものか。勝手な規則をこしらえて、それが 当 り
まえ
前 だというような顔をしている。よくまああんなにずうずうしく出来るものだ。これにつ
やまあらし ひとり なら
いては大分不平であるが、 山 嵐 の説によると、いくら 一 人 で不平を 並 べたって
ふたり
通るものじゃないそうだ。一人だって 二 人 だって正しい事なら通りそうなものだ。山嵐は
せつゆ
might is right という英語を引いて 説 諭 を加えたが、何だか要領を得ないから、聞き返し
むかし
てみたら強者の権利と云う意味だそうだ。強者の権利ぐらいなら 昔 から知っている。今
さら山嵐から講釈をきかなくってもいい。強者の権利と宿直とは別問題だ。狸や赤シャツが
だれ
強者だなんて、 誰 が承知するものか。議論は議論としてこの宿直がいよいよおれの番に
まわ かんしょう やぐふとん
廻 って来た。一体 疳 性 だから 夜 具 蒲 団 などは自分のものへ楽に寝ないと寝た
とま
ような心持ちがしない。小供の時から、友達のうちへ 泊 った事はほとんどないくらいだ。
いや
友達のうちでさえ 厭 なら学校の宿直はなおさら厭だ。厭だけれども、これが四十円のうち
こも がまん
へ 籠 っ て い る な ら 仕 方 が な い 。 我 慢し て 勤 め て や ろ う 。
ずいぶん ぬ
教師も生徒も帰ってしまったあとで、一人ぽかんとしているのは 随 分 間が 抜けたも
のだ。宿直部屋は教場の裏手にある寄宿舎の西はずれの一室だ。ちょっとはいってみたが、
いなか
西日をまともに受けて、苦しくって居たたまれない。 田 舎 だけあって秋がきても、気長に
まかない おそ い
暑いもんだ。生徒の 賄 を取りよせて晩飯を済ましたが、まずいには 恐 れ 入った。
よくあんなものを食って、あれだけに暴れられたもんだ。それで晩飯を急いで四時半に片付
ごうけつ ちが く ね
けてしまうんだから 豪 傑 に 違 いない。飯は食ったが、まだ日が 暮れないから 寝る訳
わ
に行かない。ちょっと温泉に行きたくなった。宿直をして、外へ出るのはいい事だか、悪るい
じゅうきんこ うきめ あ
事だかしらないが、こうつくねんとして 重 禁 錮 同様な 憂 目 に 逢うのは我慢の出
ようたし
来るもんじゃない。始めて学校へ来た時当直の人はと聞いたら、ちょっと 用 達 に出た
こづかい みょう まわ
と 小 使 が答えたのを 妙 だと思ったが、自分に番が 廻 ってみると思い当る。出る
方が正しいのだ。おれは小使にちょっと出てくると云ったら、何かご用ですかと聞くから、
でか あかてぬぐい
用じゃない、温泉へはいるんだと答えて、さっさと 出 掛けた。 赤 手 拭 は宿へ忘れて
来 た の が 残 念 だ が 今 日 は 先 方 で 借 り る と し よ う 。
ひぐれがた
それからかなりゆるりと、出たりはいったりして、ようやく 日 暮 方 になったから、汽
こまち ていしゃば
車へ乗って 古 町 の 停 車 場 まで来て下りた。学校まではこれから四丁だ。訳はないと
あるき出すと、向うから狸が来た。狸はこれからこの汽車で温泉へ行こうと云う計画なんだ
す ちが
ろう。すたすた急ぎ足にやってきたが、 擦れ 違 った時おれの顔を見たから、ちょっと
あいさつ まじめ
挨 拶 をした。すると狸はあなたは今日は宿直ではなかっ たですか ねえ と 真 面 目くさ
って聞いた。なかったですかねえもないもんだ。二時間前おれに向って今夜は始めての宿直
ですね。ご苦労さま。と礼を云ったじゃないか。校長なんかになるといやに曲りくねった言
葉を使うもんだ。おれは腹が立ったから、ええ宿直です。宿直ですから、これから帰って泊る
たてまち
事はたしかに泊りますと云い捨てて済ましてあるき出した。 竪 町 の四つ角までくると
やまあらし く せま
今度は 山 嵐 に出っ 喰わした。どうも 狭 い所だ。出てあるきさえすれば必ず誰かに
むやみ
逢う。
「おい君は宿直じゃないか」と聞くから「うん、宿直だ」と答えたら、
「宿直 が 無 暗 に出
ふつごう
てあるくなんて、不 都 合 じゃないか」と云った。
「ちっとも不都合なもんか、出てあるか な
いば
い方が不都合だ」と 威 張ってみせた。「君のずぼらにも困るな、校長か教頭に出逢う と
めんどう
面 倒 だぜ」と山嵐に似合わない事を云うから「校長にはたった今逢った。暑い時には散
くさ
歩でもしないと宿直も骨でしょうと校長が、おれの散歩をほめたよ」と云って、面倒 臭 い
か ら 、 さ っ さ と 学 校 へ 帰 っ て 来 た 。
それから日はすぐくれる。くれてから二時間ばかりは小使を宿直部屋へ呼んで話をした
あ とこ きが かや
が、それも 飽きたから、寝られないまでも 床 へはいろうと思って、寝巻に 着 換えて、蚊 帳
くせ
れが寝るときにとんと尻持をつくのは小供の時からの 癖 だ。わるい癖だと云って
おがわまち こ
小 川 町 の下宿に居た時分、二階下に居た法律学校の書生が苦情を持ち 込んだ事がある。
ぐ
法律の書生なんてものは弱い癖に、やに口が達者なもので、愚な事を長たらしく述べ立てる
そまつ
から、寝る時にどんどん音がするのはおれの尻がわるいのじゃない。下宿の建築が 粗 末 な
か へこ
んだ。掛ケ合うなら下宿へ掛ケ合えと 凹 ましてやった。この宿直部屋は二階じゃないから、
たお いきおい
いくら、どしんと 倒 れても構わない。なるべく 勢 よく倒れないと寝たような心持
ちがしない。ああ愉快だと足をうんと延ばすと、何だか両足へ飛び付いた。ざらざらして
のみ おど けっと ふ
蚤 のようでもないからこいつあと 驚 ろいて、足を二三度 毛 布 の中で 振ってみた。す
ふ すね もも
るとざらざらと当ったものが、急に 殖え出して 脛 が五六カ所、 股 が二三カ所、尻の下で
ふ つぶ へそ
ぐちゃりと 踏み 潰 したのが一つ、 臍 の所まで飛び上がったのが一つ――いよいよ驚ろ
さっそく あが けっと ほう
いた。 早 速 起き 上 って、 毛 布 をぱっと後ろへ 抛 ると、蒲団の中から、バッタが
わ き
五六十飛び出した。正体の知れない時は多少気味が 悪るかったが、バッタと相場が 極まって
みたら急に腹が立った。バッタの癖に人を驚ろかしやがって、どうするか見ろと、いきなり
くく まくら たた な
括 り 枕 を取って、二三度 擲 きつけたが、相手が小さ過ぎるから勢よく 抛げつける
ききめ すわ すすはき ござ
割に 利 目 がない。仕方がないから、また布団の上へ 坐 って、 煤 掃 の時に 蓙 を丸
たたみ たた
めて 畳 を 叩 くように、そこら近辺を無暗にたたいた。バッタが驚ろいた上に、枕の勢
かた
で飛び上がるものだから、おれの 肩 だの、頭だの鼻の先だのへくっ付いたり、ぶつかった
やつ つか
りする。顔へ付いた 奴 は枕で叩く訳に行かないから、手で 攫 んで、一生懸命に擲きつけ
いまいま
る。 忌 々 しい事に、いくら力を出しても、ぶつかる先が蚊帳だから、ふわりと動くだけ
で少しも手答がない。バッタは擲きつけられたまま蚊帳へつらまっている。死にもどうもし
たいじ ほうき
ない。ようやくの事に三十分ばかりでバッタは 退 治 た。 箒 を持って来てバッタの
しがい
死 骸 を掃き出した。小使が来て何ですかと云うから、何ですかもあるもんか、バッタを床
か まぬけ しか
の中に 飼っとく奴がどこの国にある。間 抜 め。と 叱 ったら、私は存じませんと弁解をし
えんがわ ほう
た。存じませんで済むかと箒を 椽 側 へ 抛 り出したら、小使は恐る恐る箒を担いで帰
っ て 行 っ た 。
おれは早速寄宿生を三人ばかり総代に呼び出した。すると六人出て来た。六人だろうが十
うで
人だろうが構うものか。寝巻のまま 腕 まくりをして談判を始めた。
「 な ん で バ ッ タ な ん か 、 お れ の 床 の 中 へ 入 れ た 」
まっさき
「バッタた何ぞな」と 真 先 の一人がいった。やに落ち付いていやがる。この学校じゃ校
長 ば か り じ ゃ な い 、 生 徒 ま で 曲 り く ね っ た 言 葉 を 使 う ん だ ろ う 。
あいにく
「バッタを知らないのか、知らなけりゃ見せてやろう」と云ったが、 生 憎 掃き出してし
ぴき
まって一 匹 も居ない。また小使を呼んで、
「さっきのバッタを持ってこい」と云ったら、
「 も
はきだめ す
う 掃 溜 へ 棄ててしまいましたが、拾って参りましょうか」と聞いた。
「うんすぐ拾っ て
か の
来い」と云うと小使は急いで 馳け出したが、やがて半紙の上へ十匹ばかり 載せて来て「どう
もお気の毒ですが、生憎夜でこれだけしか見当りません。あしたになりましたらもっと拾っ
ばか
て参ります」と云う。小使まで 馬 鹿だ。おれはバッタの一つを生徒に見せて「バッタたこれだ、
大きなずう体をして、バッタを知らないた、何の事だ」と云うと、一番左の方に居た顔の丸い
や こ べらぼう
奴が「そりゃ、イナゴぞな、もし」と生意気におれを 遣り 込めた。「 篦 棒 め、イナゴもバッ
つら なめし でんがく
タも同じもんだ。第一先生を 捕 まえてなもし た何だ。 菜 飯 は 田 楽 の時より外に
食うもんじゃない」とあべこべに遣り込めてやったら「なもしと菜飯とは違うぞな、もし」と
云 っ た 。 い つ ま で 行 っ て も な も し を 使 う 奴 だ 。
「イナゴでもバッタでも、何でおれの床の中へ入れたんだ。おれがいつ、バッタを入れてくれ
たの
と 頼 ん だ 」
「 誰 も 入 れ や せ ん が な 」
「 入 れ な い も の が 、 ど う し て 床 の 中 に 居 る ん だ 」
ぬく
「イナゴは 温 い所が好きじゃけれ、大方一人でおはいりたのじゃあろ」
「馬鹿あ云え。バッタが一人でおはいりになるなんて――バッタにおはいりになられてたま
る も ん か 。 ― ― さ あ な ぜ こ ん な い た ず ら を し た か 、 云 え 」
「 云 え て て 、 入 れ ん も の を 説 明 し よ う が な い が な 」
やつら
けちな 奴 等 だ。自分で自分のした事が云えないくらいなら、てんでしないがいい。
しょうこ
証 拠 さえ挙がらなければ、しらを切るつもりで図太く構えていやがる。おれだって中
学に居た時分は少しはいたずらもしたもんだ。しかしだれがしたと聞かれた時に、尻込みを
ひきょう
するような 卑 怯 な事はただの一度もなかった。したものはしたので、しないものはし
きま つ
ないに 極 ってる。おれなんぞは、いくら、いたずらをしたって潔白なものだ。嘘を 吐いて
ばつ に
罰 を 逃げるくらいなら、始めからいたずらなんかやるものか。いたずらと罰はつきもんだ。
めんこうむ
罰があるからいたずらも心持ちよく出来る。いたずらだけで罰はご 免 蒙 るなんて
げれつ はや
下 劣 な根性がどこの国に 流 行ると思ってるんだ。金は借りるが、返す事はご免だと云う
そうい
連中はみんな、こんな奴等が卒業してやる仕事に 相 違 ない。全体中学校へ何しにはいって
ごまか かげ
るんだ。学校へはいって、嘘を吐いて、胡 魔 化して、 陰 でこせこせ生意気な悪いたずらを
かんちが
して、そうして大きな面で卒業すれば教育を受けたもんだと 癇 違 いをしていやがる。
ぞうひょう
話 せ な い 雑 兵 だ 。
くさ りょうけん むなくそ わ
おれはこんな 腐 った 了 見 の奴等と談判するのは 胸 糞 が 悪るいから、「 そ
んなに云われなきゃ、聞かなくっていい。中学校へはいって、上品も下品も区別が出来ない
お ぱな
のは気の毒なものだ」と云って六人を 逐っ 放 してやった。おれは言葉や様子こそあまり上
はる ゆうゆう あ
品じゃないが、心はこいつらよりも 遥 かに上品なつもりだ。六人は 悠 々 と引き 揚げ
うわべ
た。上 部 だけは教師のおれよりよっぽどえらく見える。実は落ち付いているだけなお悪る
とうてい
い 。 お れ に は 到 底 こ れ ほ ど の 度 胸 は な い 。
そうどう うな
それからまた床へはいって横になったら、さっきの 騒 動 で蚊帳の中はぶんぶん 唸
てしょく つりて
っている。 手 燭 をつけて一匹ずつ焼くなんて面倒な事は出来ないから、 釣 手 をはず
たた よこたて ふる かん
して、長く 畳 んでおいて部屋の中で 横 竪 十文字に 振 ったら、 環 が飛んで手の
こう ぶ
甲 をいやというほど 撲った。三度目に床へはいった時は少々落ち付いたがなかなか寝ら
れない。時計を見ると十時半だ。考えてみると厄介な所へ来たもんだ。一体中学の先生なん
て、どこへ行っても、こんなものを相手にするなら気の毒なものだ。よく先生が品切れにな
しんぼう ぼくねんじん
らない。よっぽど 辛 防 強い 朴 念 仁 がなるんだろう。おれには到底やり切れない。
きよ ばあ
それを思うと 清 なんてのは見上げたものだ。教育もない身分もない 婆 さんだが、人間
たっ ありがた
としてはすこぶる 尊 とい。今まではあんなに世話になって別段 難 有 いとも思わなか
えちご ささあめ
ったが、こうして、一人で遠国へ来てみると、始めてあの親切がわかる。越 後 の 笹 飴
が食いたければ、わざわざ越後まで買いに行って食わしてやっても、食わせるだけの価値は
じゅうぶん まっすぐ
充 分 ある。清はおれの事を欲がなくって、 真 直 な気性だと云って、ほめるが、ほ
められるおれよりも、ほめる本人の方が立派な人間だ。何だか清に逢いたくなった。
とつぜん
清の事を考えながら、のつそつしていると、 突 然 おれの頭の上で、数で云ったら三四
ひょうし
十人もあろうか、二階が落っこちるほどどん、どん、どんと 拍 子 を取って床板を踏みな
とき おこ
らす音がした。すると足音に比例した大きな 鬨 の声が 起 った。おれは何事が持ち上が
とたん いしゅがえ
ったのかと驚ろいて飛び起きた。飛び起きる 途 端 に、ははあさっきの 意 趣 返 しに生
徒があばれるのだなと気がついた。手前のわるい事は悪るかったと言ってしまわないうち
おぼえ
は罪は消えないもんだ。わるい事は、手前達に 覚 があるだろう。本来なら寝てから
こうかい
後 悔 してあしたの朝でもあやまりに来るのが本筋だ。たとい、あやまらないまでも恐
せいしゅく さわ ぶた
れ入って、 静 粛 に寝ているべきだ。それを何だこの 騒 ぎは。寄宿舎を建てて 豚
きちが まね たいてい
でも飼っておきあしまいし。気 狂 いじみた 真 似も 大 抵 にするがいい。どうするか見
はしごだん みまたはん おど
ろと、寝巻のまま宿直部屋を飛び出して、 楷 子 段 を 三 股 半 に二階まで 躍 り上
がった。すると不思議な事に、今まで頭の上で、たしかにどたばた暴れていたのが、急に静ま
り返って、人声どころか足音もしなくなった。これは妙だ。ランプはすでに消してあるから、
わか ひとけ
暗くてどこに何が居るか判然と 分 らないが、 人 気 のあるとないとは様子でも知れる。
ゆめ
ら月がさして、遥か向うが際どく明るい。どうも変だ、おれは小供の時から、よく 夢 を見る
むちゅう
癖があって、 夢 中 に跳ね起きて、わからぬ寝言を云って、人に笑われた事がよくある。
十六七の時ダイヤモンドを拾った夢を見た晩なぞは、むくりと立ち上がって、そばに居た兄
いきおい たず
に、今のダイヤモンドはどうしたと、非常な 勢 で 尋 ねたくらいだ。その時は三日ば
じゅう
かりうち 中 の笑い草になって大いに弱った。ことによると今のも夢かも知れない。しか
まんなか
したしかにあばれたに違いないがと、廊下の 真 中 で考え込んでいると、月のさしてい
ひび
る向うのはずれで、一二三わあと、三四十人の声がかたまって 響 いたかと思う間もなく、
ゆかいた
前のように拍子を取って、一同が 床 板 を踏み鳴らした。それ見ろ夢じゃないやっぱり
か
事実だ。静かにしろ、夜なかだぞ、とこっちも負けんくらいな声を出して、廊下を向うへ 馳け
みち めじるし
だした。おれの通る 路 は暗い、ただはずれに見える月あかりが 目 標 だ。おれが馳け出
かた むこうずね
して二間も来たかと思うと、廊下の真中で、 堅 い大きなものに 向 脛 をぶつけて、
ほう ちきしょう
あ痛い が頭へひびく間に、身体はすとんと前へ 抛 り出された。こん 畜 生 と起き上
がってみたが、馳けられない。気はせくが、足だけは云う事を利かない。じれったいから、一
しん
本足で飛んで来たら、もう足音も人声も静まり返って、 森 としている。いくら人間が卑怯
だって、こんなに卑怯に出来るものじゃない。まるで豚だ。こうなれば隠れている奴を引き
き しんしつ
ずり出して、あやまらせてやるまではひかないぞと、心を 極めて 寝 室 の一つを開けて
じょう か
中を検査しようと思ったが開かない。 錠 をかけてあるのか、机か何か積んで立て 懸け
お へや
てあるのか、押しても、押しても決して開かない。今度は向う合せの北側の 室 を試みた。開
つ
かない事はやっぱり同然である。おれが戸を開けて中に居る奴を引っ 捕らまえてやろうと、
いらっ やろう
焦 慮 てると、また東のはずれで鬨の声と足拍子が始まった。この 野 郎 申し合せて、東西
相応じておれを馬鹿にする気だな、とは思ったがさてどうしていいか分らない。正直に白状
ちえ
してしまうが、おれは勇気のある割合に 智 慧が足りない。こんな時にはどうしていいかさっ
ぱりわからない。わからないけれども、決して負けるつもりはない。このままに済ましては
えど いくじ
おれの顔にかかわる。 江 戸っ子は 意 気 地がないと云われるのは残念だ。宿直をして
はなった こぞう
鼻 垂 れ 小 僧 にからかわれて、手のつけようがなくって、仕方がないから泣き寝入り
はたもと せいわげんじ
にしたと思われちゃ一生の名折れだ。これでも元は 旗 本 だ。旗本の元は 清 和 源 氏
んだ。ただ智慧のないところが惜しいだけだ。どうしていいか分らないのが困るだけだ。困
ったって負けるものか。正直だから、どうしていいか分らないんだ。世の中に正直が勝たな
いで、外に勝つものがあるか、考えてみろ。今夜中に勝てなければ、あした勝つ。あした勝て
なければ、あさって勝つ。あさって勝てなければ、下宿から弁当を取り寄せて勝つまでここ
に居る。おれはこう決心をしたから、廊下の真中へあぐらをかいて夜のあけるのを待ってい
な
た。蚊がぶんぶん来たけれども何ともなかった。さっき、ぶつけた向脛を 撫でてみると、何だ
かぬらぬらする。血が出るんだろう。血なんか出たければ勝手に出るがいい。そのうち最前
つか め
からの 疲 れが出て、ついうとうと寝てしまった。何だか騒がしいので、眼が覚めた時はえ
くそ すわ
っ 糞 しまったと飛び上がった。おれの 坐 ってた右側にある戸が半分あいて、生徒が二
人、おれの前に立っている。おれは正気に返って、はっと思う途端に、おれの鼻の先にある生
ひ つか あおむけ
徒の足を 引っ 攫 んで、力任せにぐいと引いたら、そいつは、どたりと 仰 向 に倒れた。
ろうばい おさ
ざまを見ろ。残る一人がちょっと 狼 狽 したところを、飛びかかって、肩を 抑 えて二三
度こづき廻したら、あっけに取られて、眼をぱちぱちさせた。さあおれの部屋まで来いと引
つ よ
っ立てると、弱虫だと見えて、一も二もなく 尾いて来た。 夜はとうにあけている。
きつもん ぶ
おれが宿直部屋へ連れてきた奴を 詰 問 し始めると、豚は、打っても擲いても豚だか
ら、ただ知らんがなで、どこまでも通す了見と見えて、けっして白状しない。そのうち一人来
ねむ まぶた
る、二人来る、だんだん二階から宿直部屋へ集まってくる。見るとみんな 眠 そうに 瞼
をはらしている。けちな奴等だ。一晩ぐらい寝ないで、そんな面をして男と云われるか。面で
も洗って議論に来いと云ってやったが、誰も面を洗いに行かない。
おしもんどう
おれは五十人あまりを相手に約一時間ばかり 押 問 答 をしていると、ひょっくり狸
がやって来た。あとから聞いたら、小使が学校に騒動がありますって、わざわざ知らせに行
ったのだそうだ。これしきの事に、校長を呼ぶなんて意気地がなさ過ぎる。それだから中学
校 の 小 使 な ん ぞ を し て る ん だ 。
いいぐさ
校長はひと通りおれの説明を聞いた。生徒の 言 草 もちょっと聞いた。追って処分す
るまでは、今まで通り学校へ出ろ。早く顔を洗って、朝飯を食わないと時間に間に合わない
ほうめん てぬ そくせき
から、早くしろと云って寄宿生をみんな 放 免 した。手 温るい事だ。おれなら 即 席
ゆうちょう
に寄宿生をことごとく退校してしまう。こんな 悠 長 な事をするから生徒が宿直員を
馬鹿にするんだ。その上おれに向って、あなたもさぞご心配でお疲れでしょう、今日はご授
およ
業に 及 ばんと云うから、おれはこう答えた。
「いえ、ちっとも心配じゃありません。こん な
事が毎晩あっても、命のある間は心配にゃなりません。授業はやります、一晩ぐらい寝なく
ちょうだい わりもど
って、授業が出来ないくらいなら、 頂 戴 した月給を学校の方へ 割 戻 します」校
長は何と思ったものか、しばらくおれの顔を見つめていたが、しかし顔が大分はれています
かゆ
よと注意した。なるほど何だか少々重たい気がする。その上べた一面 痒 い。蚊がよっぽと
さ か は
刺したに相違ない。おれは顔中ぼりぼり 掻きながら、顔はいくら 膨れたって、口はたしかに
つか
きけますから、授業には差し 支 えませんと答えた。校長は笑いながら、大分元気ですねと
ほ
賞め た 。 実 を 云 う と 賞 め た ん じ ゃ あ る ま い 、 ひ や か し た ん だ ろ う 。
五
つ わ
君 釣りに行きませんかと赤シャツがおれに聞いた。赤シャツは気味の 悪るいように優し
わか
い声を出す男である。まるで男だか女だか 分 りゃしない。男なら男らしい声を出すもんだ。
ことに大学卒業生じゃないか。物理学校でさえおれくらいな声が出るのに、文学士がこれじ
ゃ 見 っ と も な い 。
おれはそうですなあと少し進まない返事をしたら、君釣をした事がありますかと失敬な
こうめ つりぼり ふな びき
事を聞く。あんまりないが、子供の時、小 梅 の 釣 堀 で 鮒 を三 匹 釣った事がある。
お い
しめたと思ったら、ぽちゃりと落としてしまったがこれは今考えても 惜しいと 云ったら、赤
あご つ
シャツは 顋 を前の方へ 突き出してホホホホと笑った。何もそう気取って笑わなくっても、
よさそうな者だ。
「それじゃ、まだ釣りの味は分らんですな。お望みならちと伝授しましょ う」
りょう
とすこぶる得意である。だれがご伝授をうけるものか。一体釣や 猟 をする連中はみんな
せっしょう
不人情な人間ばかりだ。不人情でなくって、 殺 生 をして喜ぶ訳がない。魚だって、鳥
き かっけい
だって殺されるより生きてる方が楽に 極まってる。釣や猟をしなくっちゃ 活 計 がたた
くら
ないなら格別だが、何不足なく 暮 している上に、生き物を殺さなくっちゃ寝られないなん
ぜいたく むこ かな
て 贅 沢 な話だ。こう思ったが 向 うは文学士だけに口が達者だから、議論じゃ 叶 わ
かんちが
ないと思って、だまってた。すると先生このおれを降参させたと 疳 違 いして、早速伝授
よしかわ ふたり
しましょう。おひまなら、今日どうです、いっしょに行っちゃ。 吉 川 君と 二 人 ぎりじ
さむ
ゃ、 淋 しいから、来たまえとしきりに勧める。吉川君というのは画学の教師で例の野だい
りょうけん でいり
この事だ。この野だは、どういう 了 見 だか、赤シャツのうちへ朝夕 出 入 して、どこ
きま おど
ツの行く所なら、野だは必ず行くに 極 っているんだから、今さら 驚 ろきもしないが、二
ぶあいそ か こうまん
人で行けば済むところを、なんで 無 愛 想 のおれへ口を 掛けたんだろう。大方 高 慢 ち
さそ
きな釣道楽で、自分の釣るところをおれに見せびらかすつもりかなんかで 誘 ったに違い
まぐろ
ない。そんな事で見せびらかされるおれじゃない。 鮪 の二匹や三匹釣ったって、びくと
へた おろ
もするもんか。おれだって人間だ、いくら 下 手だって糸さえ 卸 しゃ、何かかかるだろう、
きら
ここでおれが行かないと、赤シャツの事だから、下手だから行かないんだ、 嫌 いだから行
じゃすい そうい
かないんじゃないと 邪 推 するに 相 違 ない。おれはこう考えたから、行きましょうと
したく
答えた。それから、学校をしまって、一応うちへ帰って、支 度 を整えて、停車場で赤シャツ
はま ひとり ふね
と野だを待ち合せて 浜 へ行った。船頭は 一 人 で、 船 は細長い東京辺では見た事もな
おきづり
釣が出来るものか、どうする了見だろうと、野だに聞くと、 沖 釣 には竿は用いません、
な くろうと や こ
糸だけでげすと顋を 撫でて 黒 人 じみた事を云った。こう 遣り 込められるくらいなら
だ ま っ て い れ ば よ か っ た 。
こ おそろ みか
船頭はゆっくりゆっくり 漕いでいるが熟練は 恐 しいもので、見 返えると、浜が小さ
こうはくじ とう ぬ
く見えるくらいもう出ている。 高 柏 寺 の五重の 塔 が森の上へ 抜け出して針のよう
とん むこうがわ あおしま
に 尖 がってる。 向 側 を見ると 青 嶋 が浮いている。これは人の住まない島だ
まつ
そうだ。よく見ると石と 松 ばかりだ。なるほど石と松ばかりじゃ住めっこない。赤シャツ
ちょうぼう
は、しきりに 眺 望 していい景色だと云ってる。野だは絶景でげすと云ってる。絶景だ
ふ
か何だか知らないが、いい心持ちには相違ない。ひろびろとした海の上で、潮風に 吹かれる
まっすぐ かさ
のは薬だと思った。いやに腹が減る。
「あの松を見たまえ、幹 が 真 直 で、上が 傘 のよう
に開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だに云うと、野だは「全くターナー
ですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔であ
だま
る。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから 黙 っていた。舟
まわ
は島を右に見てぐるりと 廻 った。波は全くない。これで海だとは受け取りにくいほど
たいら かげ ゆかい
平 だ。赤シャツのお 陰 ではなはだ 愉 快 だ。出来る事なら、あの島の上へ上がって
みたいと思ったから、あの岩のある所へは舟はつけられないんですかと聞いてみた。つけら
れん事もないですが、釣をするには、あまり岸じゃいけないですと赤シャツが異議を申し立
てた。おれは黙ってた。すると野だがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけ
ほつぎ われわれ
ようじゃありませんかと余計な 発 議 をした。赤シャツはそいつは面白い、 吾 々 はこ
めいわく
れからそう云おうと賛成した。この吾々のうちにおれもはいってるなら 迷 惑 だ。おれ
には青嶋でたくさんだ。あの岩の上に、どうです、ラフハエルのマドンナを置いちゃ。いい画
が出来ますぜと野だが云うと、マドンナの話はよそうじゃないかホホホホと赤シャツが気
だいじょうぶ
味の悪るい笑い方をした。なに誰も居ないから 大 丈 夫 ですと、ちょっとおれの方を
見たが、わざと顔をそむけてにやにやと笑った。おれは何だかやな心持ちがした。マドンナ
こだんな
だろうが、小 旦 那 だろうが、おれの関係した事でないから、勝手に立たせるがよかろうが、
人に分らない事を言って分らないから聞いたって構やしませんてえような風をする。下品
わたし えど
な仕草だ。これで当人は 私 も 江 戸っ子でげすなどと云ってる。マドンナと云うのは何
なじみ あだな
でも赤シャツの 馴 染 の芸者の 渾 名 か何かに違いないと思った。なじみの芸者を無人島
なが
の松の木の下に立たして 眺 めていれば世話はない。それを野だが油絵にでもかいて展覧
会 へ 出 し た ら よ か ろ う 。
いかり いくひろ
ここいらがいいだろうと船頭は船をとめて、 錨 を卸した。 幾 尋 あるかねと赤シ
むひろ たい
ャツが聞くと、六 尋 ぐらいだと云う。六尋ぐらいじゃ 鯛 はむずかしいなと、赤シャツは
ごうたん
糸を海へなげ込んだ。大将鯛を釣る気と見える、 豪 胆 なものだ。野だは、なに教頭のお
く
手際じゃかかりますよ。それになぎですからとお世辞を云いながら、これも糸を 繰り出して
おもり なまり うき
投げ入れる。何だか先に 錘 のような 鉛 がぶら下がってるだけだ。 浮 がない。浮
とうてい
がなくって釣をするのは寒暖計なしで熱度をはかるようなものだ。おれには 到 底 出来
ないと見ていると、さあ君もやりたまえ糸はありますかと聞く。糸はあまるほどあるが、浮
しろうと
がありませんと云ったら、浮がなくっちゃ釣が出来ないのは 素 人 ですよ。こうしてね、
みずそこ ふなべり
糸が 水 底 へついた時分に、 船 縁 の所で人指しゆびで呼吸をはかるんです、食うと
すぐ手に答える。――そらきた、と先生急に糸をたぐり始めるから、何かかかったと思った
え きび
ら何にもかからない、餌がなくなってたばかりだ。いい 気 味だ。教頭、残念な事をしましたね、
に
今のはたしかに大ものに違いなかったんですが、どうも教頭のお手際でさえ 逃げられちゃ、
にら
今日は油断ができませんよ。しかし逃げられても何ですね。浮と 睨 めくらをしている連中
よりはましですね。ちょうど歯どめがなくっちゃ自転車へ乗れないのと同程度ですからね
みよう しゃべ なぐ
と野だは 妙 な事ばかり 喋 舌 る。よっぽど 撲 りつけてやろうかと思った。おれだっ
かつお
て人間だ、教頭ひとりで借り切った海じゃあるまいし。広い所だ。 鰹 の一匹ぐらい義理
ほう
にだって、かかってくれるだろうと、どぼんと錘と糸を 抛 り込んでいい加減に指の先であ
や つ っ て い た 。
しばらくすると、何だかぴくぴくと糸にあたるものがある。おれは考えた。こいつは魚に
相違ない。生きてるものでなくっちゃ、こうぴくつく訳がない。しめた、釣れたとぐいぐい
たぐ おそ
手 繰り寄せた。おや釣れましたかね、後世 恐 るべしだと野だがひやかすうち、糸はもう大
つ のぞ
概手繰り込んでただ五尺ばかりほどしか、水に 浸いておらん。船縁から 覗 いてみたら、金
しま ただよ
魚のような 縞 のある魚が糸にくっついて、右左へ 漾 いながら、手に応じて浮き上が
は
ってくる。面白い。水際から上げるとき、ぽちゃりと 跳ねたから、おれの顔は潮水だらけにな
つら
った。ようやくつらまえて、針をとろうとするがなかなか取れない。 捕 まえた手はぬるぬ
ふ どう ま たた
るする。大いに気味がわるい。面倒だから糸を 振って 胴 の 間へ 擲 きつけたら、すぐ死ん
でしまった。赤シャツと野だは驚ろいて見ている。おれは海の中で手をざぶざぶと洗って、
なまぐさ こ ご にぎ
鼻の先へあてがってみた。まだ 腥 臭 い。もう 懲り 懲りだ。何が釣れたって魚は 握 り
たくない。魚も握られたくなかろう。そうそう糸を捲いてしまった。
いちばんやり てがら
一 番 槍 はお 手 柄 だがゴルキじゃ、と野だがまた生意気を云うと、ゴルキと云う
ロシア しゃれ
と 露 西 亜の文学者みたような名だねと赤シャツが 洒 落 た。そうですね、まるで露西亜の
しば
文学者ですねと野だはすぐ賛成しやがる。ゴルキが露西亜の文学者で、丸木が 芝 の写真師
くせ だれ つら
で、米のなる木が命の親だろう。一体この赤シャツはわるい 癖 だ。 誰 を 捕 まえても片
とうじん
仮名の 唐 人 の名を並べたがる。人にはそれぞれ専門があったものだ。おれのような数
しゃりき えんりょ い
学の教師にゴルキだか 車 力 だか見当がつくものか、少しは 遠 慮 するがいい。云う
ならフランクリンの自伝だとかプッシング、ツー、ゼ、フロントだとか、おれでも知ってる名
まっか
を使うがいい。赤シャツは時々帝国文学とかいう 真 赤 な雑誌を学校へ持って来て
ありがた やまあらし
難 有 そうに読んでいる。 山 嵐 に聞いてみたら、赤シャツの片仮名はみんなあの
雑 誌 か ら 出 る ん だ そ う だ 。 帝 国 文 学 も 罪 な 雑 誌 だ 。
いっしょうけんめい
それから赤シャツと野だは 一 生 懸 命 に釣っていたが、約一時間ばかりのう
ふたり おか
ちに 二 人 で十五六上げた。可 笑しい事に釣れるのも、釣れるのも、みんなゴルキばかりだ。
鯛なんて薬にしたくってもありゃしない。今日は露西亜文学の大当りだと赤シャツが野だ
しゅわん わたし
に話している。あなたの 手 腕 でゴルキなんですから、 私 なんぞがゴルキなのは仕
方がありません。当り前ですなと野だが答えている。船頭に聞くとこの小魚は骨が多くって、
こやし
まずくって、とても食えないんだそうだ。ただ 肥 料 には出来るそうだ。赤シャツと野だは
ぴき こ
一生懸命に肥料を釣っているんだ。気の毒の至りだ。おれは一 匹 で 懲りたから、胴の間へ
あおむ しゃれ
仰 向 けになって、さっきから大空を眺めていた。釣をするよりこの方がよっぽど 洒 落
て い る 。
きこ
すると二人は小声で何か話し始めた。おれにはよく 聞 えない、また聞きたくもない。お
きよ きれい
れは空を見ながら 清 の事を考えている。金があって、清をつれて、こんな 奇 麗 な所へ遊
びに来たらさぞ愉快だろう。いくら景色がよくっても野だなどといっしょじゃつまらない。
しわくちゃ は
清は 皺 苦 茶 だらけの婆さんだが、どんな所へ連れて出たって 恥ずかしい心持ちはしな
りょううんかく
い。野だのようなのは、馬車に乗ろうが、船に乗ろうが、 凌 雲 閣 へのろうが、到底
寄り付けたものじゃない。おれが教頭で、赤シャツがおれだったら、やっぱりおれにへけつ
ひや けいはく
けお世辞を使って赤シャツを 冷 かすに違いない。江戸っ子は 軽 薄 だと云うがなるほ
いなかまわ わたし
どこんなものが 田 舎 巡 りをして、 私 は江戸っ子でげすと繰り返していたら、軽薄
は江戸っ子で、江戸っ子は軽薄の事だと田舎者が思うに極まってる。こんな事を考えている
とぎ
と、何だか二人がくすくす笑い出した。笑い声の間に何か云うが 途 切れ途切れでとんと要領
を 得 な い 。
「え? どうだか……」
「……全くです……知らないんですから……罪ですね」
「まさか…… 」
「 バ ッ タ を … … 本 当 で す よ 」
かたむ ことば き
おれは外の言葉には耳を 傾 けなかったが、バッタと云う野だの 語 を 聴いた時
は、思わずきっとなった。野だは何のためかバッタと云う言葉だけことさら力を入れて、
めいりょう
明 瞭 におれの耳にはいるようにして、そのあとをわざとぼかしてしまった。おれは
動 か な い で や は り 聞 い て い た 。
ほった てんぷら
「また例の 堀 田 が……」「そうかも知れない……」 「 天 麩 羅 ……ハハハハハ」「… …
せんどう だんご
煽 動 し て … … 」 「 団 子も ? 」
言葉はかように途切れ途切れであるけれども、バッタだの天麩羅だの、団子だのというと
ないしょばな
ころをもって推し測ってみると、何でもおれのことについて 内 所 話 しをしているに
相違ない。話すならもっと大きな声で話すがいい、また内所話をするくらいなら、おれなん
せった
か誘わなければいい。いけ好かない連中だ。バッタだろうが 雪 踏 だろうが、非はおれにあ
たぬき
る事じゃない。校長がひとまずあずけろと云ったから、 狸 の顔にめんじてただ今のとこ
ひか けふで
ろは 控 えているんだ。野だの癖に入らぬ批評をしやがる。 毛 筆 でもしゃぶって引っ込
おそ さしつか
んでるがいい。おれの事は、 遅 かれ早かれ、おれ一人で片付けてみせるから、 差 支 え
そうどう
て 騒 動 を大きくしたと云う意味なのか、あるいは堀田が生徒を煽動しておれをいじめ
たと云うのか方角がわからない。青空を見ていると、日の光がだんだん弱って来て、少しは
せんこう けむり す とお
ひやりとする風が吹き出した。 線 香 の 烟 のような雲が、透き 徹 る底の上を静か
の おく か
に 伸して行ったと思ったら、いつしか底の 奥 に流れ込んで、うすくもやを 掛けたように
な っ た 。
もう帰ろうかと赤シャツが思い出したように云うと、ええちょうど時分ですね。今夜はマ
あ ばか
ドンナの君にお 逢いですかと野だが云う。赤シャツは 馬 鹿あ云っちゃいけない、間違いにな
も やつ
ると、船縁に身を 倚たした 奴 を、少し起き直る。エヘヘヘヘ大丈夫ですよ。聞いたって……
さら め
と野だが振り返った時、おれは 皿 のような 眼を野だの頭の上へまともに浴びせ掛けてや
か
った。野だはまぼしそうに引っ繰り返って、や、こいつは降参だと首を縮めて、頭を 掻いた。
ちょこざい
何 と い う 猪 口 才 だ ろ う 。
こ もど つり
船は静かな海を岸へ 漕ぎ 戻 る。君 釣 はあまり好きでないと見えますねと赤シャツが
ね まきたばこ
聞くから、ええ 寝ていて空を見る方がいいですと答えて、吸いかけた 巻 烟 草 を海の中
ろ なみ ゆ
へたたき込んだら、ジュと音がして 艪の足で掻き分けられた 浪 の上を 揺られながら
ただよ ふんぱつ
漾 っていった。「君が来たんで生徒も大いに喜んでいるから 、 奮 発 してやってく
えんこ
れたまえ」と今度は釣にはまるで 縁 故 もない事を云い出した。
「あんまり喜んでもいな い
でしょう」
「いえ、お世辞じゃない。全く喜んでいるんです、ね、吉川君」
「喜んでるどころじ ゃ
おおさわ しゃく さわ
ない。 大 騒 ぎです」と野だはにやにやと笑った。こいつの云う事は一々 癪 に 障
けんのん
るから妙だ。
「しかし君注意しないと 、 険 呑 ですよ」と赤シャツが云うから「どうせ険呑
かくご めんしょく
です。こうなりゃ険呑は 覚 悟 です」と云ってやった。実際おれは 免 職 になるか、寄
宿生をことごとくあやまらせるか、どっちか一つにする了見でいた。
「そう云っちゃ、取り つ
きどころもないが――実は僕も教頭として君のためを思うから云うんだが、わるく取っち
およ
ゃ困る」
「教頭は全く君に好意を持ってるんですよ。僕 も 及 ばずながら、同じ江戸っ子だか
たがい
ら、なるべく長くご在校を願って、お 互 に力になろうと思って、これでも蔭ながら
じんりょく なみ
尽 力 しているんですよ」と野だが人間 並 の事を云った。野だのお世話になるくら
くく
い な ら 首 を 縊 っ て 死 ん じ ま わ あ 。
かんげい
「それでね、生徒は君の来たのを大変 歓 迎 しているんだが、そこにはいろいろな事情が
がまん しんぼう
あってね。君も腹の立つ事もあるだろうが、ここが 我 慢 だと思って、 辛 防 してくれ
た ま え 。 決 し て 君 の た め に な ら な い よ う な 事 は し な い か ら 」
「 い ろ い ろ の 事 情 た 、 ど ん な 事 情 で す 」
ぼく
「それが少し込み入ってるんだが、まあだんだん分りますよ。 僕 が話さないでも自然と分
っ て 来 る で す 、 ね 吉 川 君 」
「ええなかなか込み入ってますからね。一朝一夕にゃ到底分りません。しかしだんだん分り
ます、僕が話さないでも自然と分って来るです」と野だは赤シャツと同じような事を云う。
めんどう
「そんな 面 倒 な事情なら聞かなくてもいいんですが、あなたの方から話し出したから
うかが
伺 う ん で す 」
「そりゃごもっともだ。こっちで口を切って、あとをつけないのは無責任ですね。それじゃこ
れだけの事を云っておきましょう。あなたは失礼ながら、まだ学校を卒業したてで、教師は
始めての、経験である。ところが学校というものはなかなか情実のあるもので、そう書生流
たんぱく ゆ
に 淡 泊 に は 行か な い で す か ら ね 」
「 淡 泊 に 行 か な け れ ば 、 ど ん な 風 に 行 く ん で す 」
とぼ
「さあ君はそう率直だから、まだ経験に 乏 しいと云うんですがね……」
りれきしょ
「どうせ経験には乏しいはずです。 履 歴 書 にもかいときましたが二十三年四ヶ月です
か ら 」
「 さ 、 そ こ で 思 わ ぬ 辺 か ら 乗 ぜ ら れ る 事 が あ る ん で す 」
だれ こわ
「 正 直 に し て い れ ば 誰 が 乗 じ た っ て 怖 く は な い で す 」
「無論怖くはない、怖くはないが、乗ぜられる。現に君の前任者がやられたんだから、気を付
け な い と い け な い と 云 う ん で す 」
おとな とも
野だが 大 人 しくなったなと気が付いて、ふり向いて見ると、いつしか 艫 の方で船頭
と釣の話をしている。野だが居ないんでよっぽど話しよくなった。
だ
「 僕 の 前 任 者 が 、 誰れ に 乗 ぜ ら れ た ん で す 」
しょうこ
「だれと指すと、その人の名誉に関係するから云えない。また判然と 証 拠 のない事だか
ら云うとこっちの落度になる。とにかく、せっかく君が来たもんだから、ここで失敗しちゃ
ぼくら かい
僕 等 も 君 を 呼 ん だ 甲 斐が な い 。 ど う か 気 を 付 け て く れ た ま え 」
い
「気を付けろったって、これより気の付けようはありません。わるい事をしなけりゃ 好いん
で し ょ う 」
赤シャツはホホホホと笑った。別段おれは笑われるような事を云った覚えはない。
こんにち かた
今 日 ただ今に至るまでこれでいいと 堅 く信じている。考えてみると世間の大部分の
しょうれい
人はわるくなる事を 奨 励 しているように思う。わるくならなければ社会に成功はし
じゅんすい ぼ
ないものと信じているらしい。たまに正直な 純 粋 な人を見ると、 坊っちゃんだの
りんり
正直にしろと 倫 理 の先生が教えない方がいい。いっそ思い切って学校で嘘をつく法とか、
人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、世のためにも当人のためにもなるだろ
う。赤シャツがホホホホと笑ったのは、おれの単純なのを笑ったのだ。単純や真率が笑われ
る世の中じゃ仕様がない。清はこんな時に決して笑った事はない。大いに感心して聞いたも
ん だ 。 清 の 方 が 赤 シ ャ ツ よ り よ っ ぽ ど 上 等 だ 。
わ
「無論 悪るい事をしなければ好いんですが、自分だけ悪るい事をしなくっても、人の悪るい
らいらく
のが分らなくっちゃ、やっぱりひどい目に逢うでしょう。世の中には 磊 落 なように見
えても、淡泊なように見えても、親切に下宿の世話なんかしてくれても、めったに油断の出
もや
来ないのがありますから……。大分寒くなった。もう秋ですね、浜の方は 靄 でセピヤ色に
なった。いい景色だ。おい、吉川君どうだい、あの浜の景色は……」と大きな声を出して野だ
きぜつ お
を呼んだ。なあるほどこりゃ 奇 絶 ですね。時間があると写生するんだが、惜しいですね、
こ の ま ま に し て お く の は と 野 だ は 大 い に た た く 。
ふえ
港屋の二階に灯が一つついて、汽車の 笛 がヒューと鳴るとき、おれの乗っていた舟は
いそ へさき
磯 の砂へざぐりと、 舳 をつき込んで動かなくなった。お早うお帰りと、かみさんが、
飛 び 下 り た 。
六
だいきら やつ たくあんいし しず
野だは 大 嫌 いだ。こんな 奴 は 沢 庵 石 をつけて海の底へ 沈 めちまう方
が日本のためだ。赤シャツは声が気に食わない。あれは持前の声をわざと気取ってあんな優
だめ ほ
しいように見せてるんだろう。いくら気取ったって、あの面じゃ 駄 目だ。惚れるものがあっ
い
たってマドンナぐらいなものだ。しかし教頭だけに野だよりむずかしい事を 云う。うちへ帰
って、あいつの申し条を考えてみると一応もっとものようでもある。はっきりとした事は云
やまあらし
わないから、見当がつきかねるが、何でも 山 嵐 がよくない奴だから用心しろと云う
わ
のらしい。それならそうとはっきり断言するがいい、男らしくもない。そうして、そんな 悪る
めんしょく くせ いくじ
い教師なら、早く 免 職 さしたらよかろう。教頭なんて文学士の 癖 に 意 気 地のない
かげぐち き
もんだ。 蔭 口 をきくのでさえ、公然と名前が云えないくらいな男だから、弱虫に 極まっ
てる。弱虫は親切なものだから、あの赤シャツも女のような親切ものなんだろう。親切は親
ちが
切、声は声だから、声が気に入らないって、親切を無にしちゃ筋が 違 う。それにしても世の
わるもの
中は不思議なものだ、虫の好かない奴が親切で、気のあった友達が 悪 漢 だなんて、人を
ばか いなか ぶっそう
馬 鹿にしている。大方 田 舎 だから万事東京のさかに行くんだろう。 物 騒 な所だ。今
とうふ
に火事が氷って、石が 豆 腐 になるかも知れない。しかし、あの山嵐が生徒を煽動するなん
て、いたずらをしそうもないがな。一番人望のある教師だと云うから、やろうと思ったら
たいてい まわ
大 抵 の事は出来るかも知れないが、――第一そんな 廻 りくどい事をしないでも、じ
つら けんか か じゃま
かにおれを 捕 まえて 喧 嘩 を吹き 懸けりゃ手数が省ける訳だ。おれが 邪 魔 になるな
ら、実はこれこれだ、邪魔だから辞職してくれと云や、よさそうなもんだ。物は相談ずくでど
むこ
うでもなる。 向 うの云い条がもっともなら、明日にでも辞職してやる。ここばかり米が出
はて じに
来る訳でもあるまい。どこの 果 へ行ったって、のたれ 死 はしないつもりだ。山嵐もよっ
ぽ ど 話 せ な い 奴 だ な 。
おご
ここへ来た時第一番に氷水を 奢 ったのは山嵐だ。そんな裏表のある奴から、氷水でも奢
ぱい
ってもらっちゃ、おれの顔に関わる。おれはたった一 杯 しか飲まなかったから一銭五
りん はら さぎし
厘 しか 払 わしちゃない。しかし一銭だろうが五厘だろうが、詐 欺 師の恩になっては、
きよ
死ぬまで心持ちがよくない。あした学校へ行ったら、一銭五厘返しておこう。おれは 清 か
た
ら三円借りている。その三円は五年 経った今日までまだ返さない。返せないんじゃない。返
かいちゅう
さないんだ。清は今に返すだろうなどと、かりそめにもおれの 懐 中 をあてにしては
いない。おれも今に返そうなどと他人がましい義理立てはしないつもりだ。こっちがこんな
心配をすればするほど清の心を疑ぐるようなもので、清の美しい心にけちを付けると同じ
ふ かたわ
事になる。返さないのは清を 踏みつけるのじゃない、清をおれの 片 破 れと思うからだ。清
あまちゃ
と山嵐とはもとより比べ物にならないが、たとい氷水だろうが、 甘 茶 だろうが、他人か
めぐみ
ら 恵 を受けて、だまっているのは向うをひとかどの人間と見立てて、その人間に対する
ありがた
厚意の所作だ。割前を出せばそれだけの事で済むところを、心のうちで 難 有 いと恩に
着るのは銭金で買える返礼じゃない。無位無冠でも一人前の独立した人間だ。独立した人間
たっ
が頭を下げるのは百万両より 尊 といお礼と思わなければならない。
ふんぱつ
おれはこれでも山嵐に一銭五厘 奮 発 させて、百万両より尊とい返礼をした気でいる。
け やろう
は 怪しからん 野 郎 だ。あした行って一銭五厘返してしまえば借りも貸しもない。そうし
て お い て 喧 嘩 を し て や ろ う 。
ねむ ね
おれはここまで考えたら、 眠 くなったからぐうぐう 寝てしまった。あくる日は思う
しさい
仔 細 があるから、例刻より早ヤ目に出校して山嵐を待ち受けた。ところがなかなか出て来
ない。うらなりが出て来る。漢学の先生が出て来る。野だが出て来る。しまいには赤シャツま
はくぼく たて かんせい
で出て来たが山嵐の机の上は 白 墨 が一本 竪 に寝ているだけで 閑 静 なものだ。
ひかえじょ
おれは、 控 所 へはいるや否や返そうと思って、うちを出る時から、湯銭のように手の
にぎ あぶら
平へ入れて一銭五厘、学校まで 握 って来た。おれは 膏 っ手だから、開けてみると一銭
あせ
五厘が 汗 をかいている。汗をかいてる銭を返しちゃ、山嵐が何とか云うだろうと思ったか
ら、机の上へ置いてふうふう吹いてまた握った。ところへ赤シャツが来て昨日は失敬、
めいわく
迷 惑 でしたろうと云ったから、迷惑じゃありません、お蔭で腹が減りましたと答えた。
ひじ つ ばんだいづら
すると赤シャツは山嵐の机の上へ 肱 を 突いて、あの 盤 台 面 をおれの鼻の側面へ
持って来たから、何をするかと思ったら、君昨日返りがけに船の中で話した事は、秘密にし
だれ
てくれたまえ。まだ 誰 にも話しやしますまいねと云った。女のような声を出すだけに心配
性な男と見える。話さない事はたしかである。しかしこれから話そうと云う心持ちで、すで
に一銭五厘手の平に用意しているくらいだから、ここで赤シャツから口留めをされちゃ、ち
なぞ
と困る。赤シャツも赤シャツだ。山嵐と名を指さないにしろ、あれほど推察の出来る 謎 を
かけておきながら、今さらその謎を解いちゃ迷惑だとは教頭とも思えぬ無責任だ。元来なら
しのぎ けず まんなか かた
おれが山嵐と戦争をはじめて 鎬 を 削 ってる 真 中 へ出て堂々とおれの 肩 を
持つべきだ。それでこそ一校の教頭で、赤シャツを着ている主意も立つというもんだ。
むか
おれは教頭に 向 って、まだ誰にも話さないが、これから山嵐と談判するつもりだと云っ
ろうばい ぼく ほった
たら、赤シャツは大いに 狼 狽 して、君そんな無法な事をしちゃ困る。 僕 は 堀 田 君
の事について、別段君に何も明言した覚えはないんだから――君がもしここで乱暴を働い
そうどう
てくれると、僕は非常に迷惑する。君は学校に 騒 動 を起すつもりで来たんじゃなかろ
みょう あた まえ
うと 妙 に常識をはずれた質問をするから、 当 り 前 です、月給をもらったり、騒動
を起したりしちゃ、学校の方でも困るでしょうと云った。すると赤シャツはそれじゃ昨日の
いらい およ
事は君の参考だけにとめて、口外してくれるなと汗をかいて 依 頼 に 及 ぶから、よろし
い、僕も困るんだが、そんなにあなたが迷惑ならよしましょうと受け合った。君
だいじょうぶ お おくゆき
大 丈 夫 かいと赤シャツは念を 押した。どこまで女らしいんだか 奥 行 がわから
つじつま
ない。文学士なんて、みんなあんな連中ならつまらんものだ。 辻 褄 の合わない、論理に
てんぜん はばか
欠けた注文をして 恬 然 としている。しかもこのおれを疑ぐってる。 憚 りながら男
ほご りょうけん
だ。受け合った事を裏へ廻って 反 古にするようなさもしい 了 見 はもってるもんか。
りょうどな
ところへ 両 隣 りの机の所有主も出校したんで、赤シャツは早々自分の席へ帰って
あ
行った。赤シャツは 歩るき方から気取ってる。部屋の中を往来するのでも、音を立てないよ
くつ おと じまん
うに 靴 の底をそっと 落 す。音を立てないであるくのが 自 慢 になるもんだとは、この
どろぼう けいこ
時から始めて知った。 泥 棒 の 稽 古 じゃあるまいし、当り前にするがいい。やがて始
らっぱ
業の 喇 叭 がなった。山嵐はとうとう出て来ない。仕方がないから、一銭五厘を机の上へ置
でか
い て 教 場 へ 出 掛け た 。
つごう おく
授業の 都 合 で一時間目は少し 後 れて、控所へ帰ったら、ほかの教師はみんな机を控
ちこく
えて話をしている。山嵐もいつの間にか来ている。欠勤だと思ったら 遅 刻 したんだ。おれ
ばっきん
の顔を見るや否や今日は君のお蔭で遅刻したんだ。 罰 金 を出したまえと云った。おれ
せんだっ
は机の上にあった一銭五厘を出して、これをやるから取っておけ。 先 達 て
とおりちょう
通 町 で飲んだ氷水の代だと山嵐の前へ置くと、何を云ってるんだと笑いかけたが、
まじめ じょうだん は
おれが存外 真 面 目でいるので、つまらない 冗 談 をするなと銭をおれの机の上に 掃
くせ
き 返 し た 。 お や 山 嵐 の 癖 に ど こ ま で も 奢 る 気 だ な 。
いんえん
「冗談じゃない本当だ。おれは君に氷水を奢られる 因 縁 がないから、出すんだ。取らな
い 法 が あ る か 」
「そんなに一銭五厘が気になるなら取ってもいいが、なぜ思い出したように、今時分返すん
だ 」
「今時分でも、いつ時分でも、返すんだ。奢られるのが、いやだから返すんだ」
山嵐は冷然とおれの顔を見てふんと云った。赤シャツの依頼がなければ、ここで山嵐の
ひれつ
卑 劣 をあばいて大喧嘩をしてやるんだが、口外しないと受け合ったんだから動きがとれ
まっか りくつ
ない。人がこんなに 真 赤 になってるのにふんという 理 窟 があるものか。
「 氷 水 の 代 は 受 け 取 る か ら 、 下 宿 は 出 て く れ 」
「一銭五厘受け取ればそれでいい。下宿を出ようが出まいがおれの勝手だ」
ていしゅ
「ところが勝手でない、昨日、あすこの 亭 主 が来て君に出てもらいたいと云うから、そ
けさ
の訳を聞いたら亭主の云うのはもっともだ。それでももう一応たしかめるつもりで 今 朝あ
くわ
す こ へ 寄 っ て 詳 し い 話 を 聞 い て き た ん だ 」
お れ に は 山 嵐 の 云 う 事 が 何 の 意 味 だ か 分 ら な い 。
「亭主が君に何を話したんだか、おれが知ってるもんか。そう自分だけで極めたって仕様が
あるか。訳があるなら、訳を話すが順だ。てんから亭主の云う方がもっともだなんて失敬千
万 な 事 を 云 う な 」
あ
「うん、そんなら云ってやろう。君は乱暴であの下宿で持て 余まされているんだ。いくら下宿
ふ いば
の 女 房 だ っ て 、 下 女 た あ 違 う ぜ 。 足 を 出 し て 拭か せ る な ん て 、 威 張り 過 ぎ る さ 」
「 お れ が 、 い つ 下 宿 の 女 房 に 足 を 拭 か せ た 」
「拭かせたかどうだか知らないが、とにかく向うじゃ、君に困ってるんだ。下宿料の十円や十
かけもの ぷく う
五 円 は 懸 物 を 一 幅 売 り ゃ 、 す ぐ 浮い て く る っ て 云 っ て た ぜ 」
やろう
「 利 い た 風 な 事 を ぬ か す 野 郎だ 。 そ ん な ら 、 な ぜ 置 い た 」
「なぜ置いたか、僕は知らん、置くことは置いたんだが、いやになったんだから、出ろと云う
ん だ ろ う 。 君 出 て や れ 」
がか
「当り前だ。居てくれと手を合せたって、居るものか。一体そんな云い 懸 りを云うような所
しゅうせん ふらち
へ 周 旋 す る 君 か ら し て が 不 埒だ 」
おとな
「 お れ が 不 埒 か 、 君 が 大 人し く な い ん だ か 、 ど っ ち か だ ろ う 」
おと かんしゃくも ぎら
山嵐もおれに 劣 らぬ 肝 癪 持 ちだから、負け 嫌 いな大きな声を出す。控所に居
あご
た連中は何事が始まったかと思って、みんな、おれと山嵐の方を見て、 顋 を長くしてぼん
は
やりしている。おれは、別に 恥ずかしい事をした覚えはないんだから、立ち上がりながら、部
みま おど
屋中一通り 見 巡わしてやった。みんなが 驚 ろいてるなかに野だだけは面白そうに笑って
め かんぴょう
いた。おれの大きな 眼が、貴様も喧嘩をするつもりかと云う権幕で、野だの 干 瓢 づら
いぬ とつぜん こ
を 射 貫いた時に、野だは 突 然 真面目な顔をして、大いにつつしんだ。少し 怖わかった
と見える。そのうち喇叭が鳴る。山嵐もおれも喧嘩を中止して教場へ出た。
午後は、先夜おれに対して無礼を働いた寄宿生の処分法についての会議だ。会議というも
ようす
のは生れて始めてだからとんと 容 子 が分らないが、職員が寄って、たかって自分勝手な説
まと こくびゃく
をたてて、それを校長が好い加減に 纏 めるのだろう。纏めるというのは 黒 白 の決
ことがら
しかねる 事 柄 について云うべき言葉だ。この場合のような、誰が見たって、不都合とし
ひまつぶ
か思われない事件に会議をするのは 暇 潰 しだ。誰が何と解釈したって異説の出ようは
そくざ ずいぶん
ずがない。こんな明白なのは 即 座 に校長が処分してしまえばいいに。 随 分 決断のな
に き ぐず
い事だ。校長ってものが、これならば、何の事はない、 煮え 切らない 愚 図の異名だ。
とな
会議室は校長室の 隣 りにある細長い部屋で、平常は食堂の代理を勤める。黒い皮で張っ
いす きゃく なら
た 椅 子が二十 脚 ばかり、長いテーブルの周囲に 並 んでちょっと神田の西洋料理屋
はじ すわ
ぐらいな格だ。そのテーブルの 端 に校長が 坐 って、校長の隣りに赤シャツが構える。あ
たいそう けんそん
とは勝手次第に席に着くんだそうだが、 体 操 の教師だけはいつも席末に 謙 遜 す
こ
るという話だ。おれは様子が分らないから、博物の教師と漢学の教師の間へはいり 込んだ。
向うを見ると山嵐と野だが並んでる。野だの顔はどう考えても劣等だ。喧嘩はしても山嵐の
おこ
う怪物だそうだ。今日は 怒 ってるから、眼をぐるぐる廻しちゃ、時々おれの方を見る。そん
おど
な事で 威 嚇かされてたまるもんかと、おれも負けない気で、やっぱり眼をぐりつかせて、山
かっこう
嵐をにらめてやった。おれの眼は 恰 好 はよくないが、大きい事においては大抵な人に
は負けない。あなたは眼が大きいから役者になるときっと似合いますと清がよく云ったく
ら い だ 。
そろ
もう大抵お 揃 いでしょうかと校長が云うと、書記の川村と云うのが一つ二つと頭数を
かんじょう
勘 定 してみる。一人足りない。一人不足ですがと考えていたが、これは足りないはず
とうなす すくせ
だ。唐 茄 子 のうらなり君が来ていない。おれとうらなり君とはどう云う 宿 世 の因縁か
しらないが、この人の顔を見て以来どうしても忘れられない。控所へくれば、すぐ、うらなり
とちゅう うか
君が眼に付く、 途 中 をあるいていても、うらなり先生の様子が心に 浮 ぶ。温泉へ行く
あお ゆつぼ ふく あいさつ
と、うらなり君が時々 蒼 い顔をして 湯 壺 のなかに 膨 れている。 挨 拶 をすると
きょうしゅく
へえと 恐 縮 して頭を下げるから気の毒になる。学校へ出てうらなり君ほど大人し
い人は居ない。めったに笑った事もないが、余計な口をきいた事もない。おれは君子という
言葉を書物の上で知ってるが、これは字引にあるばかりで、生きてるものではないと思って
あ
たが、うらなり君に 逢ってから始めて、やっぱり正体のある文字だと感心したくらいだ。
このくらい関係の深い人の事だから、会議室へはいるや否や、うらなり君の居ないのは、
す めじるし
すぐ気がついた。実を云うと、この男の次へでも 坐わろうかと、ひそかに 目 標 にして来
むらさき
たくらいだ。校長はもうやがて見えるでしょうと、自分の前にある 紫 の
みが
のパイプを絹ハンケチで 磨 き始めた。この男はこれが道楽である。赤シャツ相当のところ
ささや てもちぶさた
だろう。ほかの連中は隣り同志で何だか 私 語 き合っている。 手 持 無 沙 汰 なのは
えんぴつ しり ゴム
鉛 筆 の 尻 に着いている、護 謨の頭でテーブルの上へしきりに何か書いている。野だ
は時々山嵐に話しかけるが、山嵐は一向応じない。ただうんとかああ と云うばかりで、時々
こわ にら
怖 い 眼 を し て 、 お れ の 方 を 見 る 。 お れ も 負 け ず に 睨 め 返 す 。
ところへ待ちかねた、うらなり君が気の毒そうにはいって来て少々用事がありまして、遅
とりしまり
書記の川村君に蒟蒻版を配布させる。見ると最初が処分の件、次が生徒 取 締 の件、そ
いきりょう
の他二三ヶ条である。狸は例の通りもったいぶって、教育の 生 霊 という見えでこん
かとく
な意味の事を述べた。
「学校の職員や生徒に過失のあるのは、みんな自分 の 寡 徳 の致すと
ざんき た
ころで、何か事件がある度に、自分はよくこれで校長が勤まるとひそかに 慚 愧 の念に 堪
えんが、不幸にして今回もまたかかる騒動を引き起したのは、深く諸君に向って謝罪しなけ
ればならん。しかしひとたび起った以上は仕方がない、どうにか処分をせんければならん、
事実はすでに諸君のご承知の通りであるからして、善後策について腹蔵のない事を参考の
た め に お 述 べ 下 さ い 」
おれは校長の言葉を聞いて、なるほど校長だの狸だのと云うものは、えらい事を云うもん
とが
だと感心した。こう校長が何もかも責任を受けて、自分の 咎 だとか、不徳だとか云うくら
めんしょく
いなら、生徒を処分するのは、やめにして、自分から先へ 免 職 になったら、よさそう
めんどう
なもんだ。そうすればこんな 面 倒 な会議なんぞを開く必要もなくなる訳だ。第一常識
い
から 云っても分ってる。おれが大人しく宿直をする。生徒が乱暴をする。わるいのは校長で
きま せんどう
もなけりゃ、おれでもない、生徒だけに 極 ってる。もし山嵐が 煽 動 したとすれば、生
たいじ しり しょ こ
徒と山嵐を 退 治 ればそれでたくさんだ。人の 尻 を自分で 背 負い 込んで、おれの尻だ、
おれの尻だと吹き散らかす奴が、どこの国にあるもんか、狸でなくっちゃ出来る芸当じゃな
かれ じょうり かな は
い。 彼 はこんな 条 理 に 適 わない議論を 吐いて、得意気に一同を見廻した。ところ
からす なが
が誰も口を開くものがない。博物の教師は第一教場の屋根に 烏 がとまってるのを 眺
こんにゃくばん たた
めている。漢学の先生は 蒟 蒻 版 を 畳 んだり、延ばしたりしてる。山嵐はまだお
ばかげ
れの顔をにらめている。会議と云うものが、こんな 馬 鹿 気たものなら、欠席して昼寝でもし
て い る 方 が ま し だ 。
おれは、じれったくなったから、一番大いに弁じてやろうと思って、半分尻をあげかけた
しま
ら、赤シャツが何か云い出したから、やめにした。見るとパイプをしまって、 縞 のある絹ハ
はんけち
ンケチで顔をふきながら、何か云っている。あの 手 巾 はきっとマドンナから巻き上げ
そうい あさ
たに 相 違 ない。男は白い 麻 を使うもんだ。
「私も寄宿生の乱暴を聞いてはなはだ教頭 と
ふゆきとどき は
して 不 行 届 であり、かつ平常の徳化が少年に及ばなかったのを深く 慚ずるのであ
かんけつ
ります。でこう云う事は、何か 陥 欠 があると起るもので、事件その物を見ると何だか生
徒だけがわるいようであるが、その真相を極めると責任はかえって学校にあるかも知れな
い。だから表面上にあらわれたところだけで厳重な制裁を加えるのは、かえって未来のため
によくないかとも思われます。かつ少年血気のものであるから活気があふれて、善悪の考え
いたずら
はなく、半ば無意識にこんな 悪 戯 をやる事はないとも限らん。でもとより処分法は校
ようかい
長のお考えにある事だから、私の 容 喙 する限りではないが、どうかその辺をご
しんしゃく とりはからい
斟 酌 になって、なるべく寛大なお 取 計 を願いたいと思います」
なるほど狸が狸なら、赤シャツも赤シャツだ。生徒があばれるのは、生徒がわるいんじゃ
きちがい なぐ
ない教師が悪るいんだと公言している。 気 狂 が人の頭を 撲 り付けるのは、なぐられ
ありがた
た人がわるいから、気狂がなぐるんだそうだ。 難 有 い仕合せだ。活気にみちて困るなら
すもう
運動場へ出て 相 撲 でも取るがいい、半ば無意識に床の中へバッタを入れられてたまるも
ねくび
のか。この様子じゃ 寝 頸 をかかれても、半ば無意識だって放免するつもりだろう。
おれはこう考えて何か云おうかなと考えてみたが、云うなら人を驚ろすかように
とうとう
滔 々 と述べたてなくっちゃつまらない、おれの癖として、腹が立ったときに口をきく
つま
と、二言か三言で必ず行き 塞 ってしまう。狸でも赤シャツでも人物から云うと、おれより
しゃべ あげあし
も下等だが、弁舌はなかなか達者だから、まずい事を 喋 舌 って 揚 足 を取られちゃ面
白くない。ちょっと腹案を作ってみようと、胸のなかで文章を作ってる。すると前に居た野
だが突然起立したには驚ろいた。野だの癖に意見を述べるなんて生意気だ。野だは例のへら
とっかん われわれ
へら調で「実に今回のバッタ事件及び 咄 喊 事件は 吾 々 心ある職員をして、ひそか
わが ぜんと きぐ いだ ちんじ
に 吾 校将来の 前 途 に 危 惧の念を 抱 かしむるに足る 珍 事 でありまして、吾々職員
ふる しんしゅく
たるものはこの際 奮 って自ら省りみて、全校の風紀を 振 粛 しなければなりませ
こうけい あた
ん。それでただ今校長及び教頭のお述べになったお説は、実に 肯 綮 に 中 った
ちんれつ
のべつに 陳 列 するぎりで訳が分らない。分ったのは徹頭徹尾賛成致しますと云う言葉
だ け だ 。
おれは野だの云う意味は分らないけれども、何だか非常に腹が立ったから、腹案も出来な
た
いうちに 起ち上がってしまった。「私は徹頭徹尾反対です……」と云ったがあとが急に出 て
とんちんかん だいきら
来ない。
「……そん な 頓 珍 漢 な、処分は 大 嫌 いです」とつけたら、職員が一同笑
わ あや
い出した。
「一体生徒が全 然 悪るいです。どうしても 詫 まらせなくっちゃ、癖になります。
退校さしても構いません。……何だ失敬な、新しく来た教師だと思って……」と云って着席
した。すると右隣りに居る博物が「生徒がわるい事も、わるいが、あまり厳重な罰などをする
とかえって反動を起していけないでしょう。やっぱり教頭のおっしゃる通り、寛な方に賛成
おんびんせつ
します」と弱い事を云った。左隣の漢学は 穏 便 説 に賛成と云った。歴史も教頭と同説
いまいま
だと云った。 忌 々 しい、大抵のものは赤シャツ党だ。こんな連中が寄り合って学校を立
てていりゃ世話はない。おれは生徒をあやまらせるか、辞職するか二つのうち一つに極めて
かくご
るんだから、もし赤シャツが勝ちを制したら、早速うちへ帰って荷作りをする 覚 悟 でいた。
すま
また何か云うと笑うに違いない。だれが云うもんかと 澄 していた。
すると今までだまって聞いていた山嵐が奮然として、起ち上がった。野郎また赤シャツ賛
ガラス
成の意を表するな、どうせ、貴様とは喧嘩だ、勝手にしろと見ていると山嵐は 硝 子 窓を
ふる わたくし
振 わせるような声で「 私 は教頭及びその他諸君のお説には全然不同意であります。
ぼうし けいぶ
というものはこの事件はどの点から見ても、五十名の寄宿生が新来の教師 某 氏 を 軽 侮
ほんろう しょい ほか
してこれを 翻 弄 しようとした 所 為 とより 外 には認められんのであります。教頭
はその源因を教師の人物いかんにお求めになるようでありますが失礼ながらそれは失言か
と思います。某氏が宿直にあたられたのは着後早々の事で、まだ生徒に接せられてから二十
ころ
日に満たぬ 頃 であります。この短かい二十日間において生徒は君の学問人物を評価し得
る余地がないのであります。軽侮されべき至当な理由があって、軽侮を受けたのなら生徒の
しんしゃく
行為に 斟 酌 を加える理由もありましょうが、何らの源因もないのに新来の先生を
こうしょう
の精神は単に学問を授けるばかりではない、 高 尚 な、正直な、武士的な元気を
こすい やひ けいそう ぼうまん そうとう
鼓 吹 すると同時に、野 卑な、 軽 躁 な、 暴 慢 な悪風を 掃 蕩 するにあると思
おそろ こそく
います。もし反動が 恐 しいの、騒動が大きくなるのと 姑 息 な事を云った日にはこの
みの
はこの学校に職を奉じているので、これを 見 逃がすくらいなら始めから教師にならん方が
げんばつ とうがい
いいと思います。私は以上の理由で寄宿生一同を 厳 罰 に処する上に、 当 該 教師の
面前において公けに謝罪の意を表せしむるのを至当の所置と心得ます」と云いながら、どん
こし おろ ふ
と 腰 を 卸 した。一同はだまって何にも言わない。赤シャツはまたパイプを 拭き始めた。
うれ
おれは何だか非常に 嬉 しかった。おれの云おうと思うところをおれの代りに山嵐がすっ
かり言ってくれたようなものだ。おれはこう云う単純な人間だから、今までの喧嘩はまるで
ありがた
忘れて、大いに 難 有 いと云う顔をもって、腰を卸した山嵐の方を見たら、山嵐は一向知
かお
ら ん 面 を し て い る 。
おと
しばらくして山嵐はまた起立した。
「ただ今ちょっと失念して言 い 落 しましたから、申
します。当夜の宿直員は宿直中外出して温泉に行かれたようであるが、あれはもっての外の
とが
事と考えます。いやしくも自分が一校の留守番を引き受けながら、 咎 める者のないのを
さいわい
幸 に、場所もあろうに温泉などへ入湯にいくなどと云うのは大きな失体である。生
徒は生徒として、この点については校長からとくに責任者にご注意あらん事を希望します」
妙な奴だ、ほめたと思ったら、あとからすぐ人の失策をあばいている。おれは何の気もな
く、前の宿直が出あるいた事を知って、そんな習慣だと思って、つい温泉まで行ってしまっ
こうげき
たんだが、なるほどそう云われてみると、これはおれが悪るかった。 攻 撃 されても仕方
がない。そこでおれはまた起って「私は正に宿直中に温泉に行きました。これは全くわるい。
あやまります」と云って着席したら、一同がまた笑い出した。おれが何か云いさえすれば笑
やつら
う。つまらん 奴 等 だ。貴様等これほど自分のわるい事を公けにわるかったと断言出来るか、
出 来 な い か ら 笑 う ん だ ろ う 。
それから校長は、もう大抵ご意見もないようでありますから、よく考えた上で処分しまし
ょうと云った。ついでだからその結果を云うと、寄宿生は一週間の禁足になった上に、おれ
の前へ出て謝罪をした。謝罪をしなければその時辞職して帰るところだったがなまじい、お
れのいう通りになったのでとうとう大変な事になってしまった。それはあとから話すが、校
ふうぎ
長はこの時会議の引き続きだと号してこんな事を云った。生徒の 風 儀 は、教師の感化で正
しゅつにゅう
していかなくてはならん、その一着手として、教師はなるべく飲食店などに 出 入
しない事にしたい。もっとも送別会などの節は特別であるが、単独にあまり上等でない場所
そばや だんごや
へ行くのはよしたい――たとえば 蕎 麦 屋だの、 団 子 屋 だの――と云いかけたらまた一
てんぷら
同が笑った。野だが山嵐を見て 天 麩 羅 と云って目くばせをしたが山嵐は取り合わなかっ
きび
た 。 い い 気 味だ 。
おれは脳がわるいから、狸の云うことなんか、よく分らないが、蕎麦屋や団子屋へ行って、
しんぼう とうてい
中学の教師が勤まらなくっちゃ、おれみたような食い 心 棒 にゃ 到 底 出来っ子な
やと
いと思った。それなら、それでいいから、初手から蕎麦と団子の嫌いなものと注文して 雇
ふれ
うがいい。だんまりで辞令を下げておいて、蕎麦を食うな、団子を食うなと罪なお 布 令を出
すのは、おれのような外に道楽のないものにとっては大変な打撃だ。すると赤シャツがまた
口を出した。「元来中学の教師なぞは社会の上流にくらいするものだからして、単に物質 的
ふけ えいきょう
の快楽ばかり求めるべきものでない。その方に 耽 るとつい品性にわるい 影 響 を
ごらく いなか せま
及ぼすようになる。しかし人間だから、何か 娯 楽 がないと、 田 舎 へ来て 狭 い土地で
くら つり
は到底 暮 せるものではない。それで 釣 に行くとか、文学書を読むとか、または新体詩や
こうしょう
俳句を作るとか、何でも 高 尚 な精神的娯楽を求めなくってはいけない……」
おき こやし ロシア
だまって聞いてると勝手な熱を吹く。 沖 へ行って 肥 料 を釣ったり、ゴルキが 露 西 亜
なじみ まつ かわず
の文学者だったり、馴 染 の芸者が 松 の木の下に立ったり、古池へ 蛙 が飛び込んだ
の
りするのが精神的娯楽なら、天麩羅を食って団子を 呑み込むのも精神的娯楽だ。そんな下さ
せんたく
らない娯楽を授けるより赤シャツの 洗 濯 でもするがいい。あんまり腹が立ったから
あ
「マドンナに 逢うのも精神的娯楽ですか」と聞いてやった。すると今度は誰も笑わない。妙な
たがい
顔をして 互 に眼と眼を見合せている。赤シャツ自身は苦しそうに下を向いた。それ見ろ。
利いたろう。ただ気の毒だったのはうらなり君で、おれが、こう云ったら蒼い顔をますます
蒼 く し た 。
七
そくや はら にょうぼう
おれは 即 夜 下宿を引き 払 った。宿へ帰って荷物をまとめていると、 女 房 が何
ふつごう い
か 不 都 合 でもございましたか、お腹の立つ事があるなら、云っておくれたら改めますと
おど そろ
云う。どうも 驚 ろく。世の中にはどうして、こんな要領を得ない者ばかり 揃 ってるんだ
わか きちがい
ろう。出てもらいたいんだか、居てもらいたいんだか 分 りゃしない。まるで 気 狂 だ。
けんか えど
こんな者を相手に 喧 嘩 をしたって 江 戸っ子の名折れだから、車屋をつれて来てさっさと
出 て き た 。
出た事は出たが、どこへ行くというあてもない。車屋が、どちらへ参りますと云うから、だ
つ めんどう
まって 尾いて来い、今にわかる、と云って、すたすたやって来た。 面 倒 だから山城屋へ
行こうかとも考えたが、また出なければならないから、つまり手数だ。こうして歩いてるう
ちには下宿とか、何とか看板のあるうちを目付け出すだろう。そうしたら、そこが天意に
かな かんせい
叶 ったわが宿と云う事にしよう。とぐるぐる、 閑 静 で住みよさそうな所をあるいて
かじやちょう やしき
いるうち、とうとう 鍛 冶 屋 町 へ出てしまった。ここは士族 屋 敷 で下宿屋などのある
にぎ
町ではないから、もっと 賑 やかな方へ引き返そうかとも思ったが、ふといい事を考え付い
た。おれが敬愛するうらなり君はこの町内に住んでいる。うらなり君は土地の人で先祖代々
ひか そうい
の屋敷を 控 えているくらいだから、この辺の事情には通じているに 相 違 ない。あの人
たず さいわい
を 尋 ねて聞いたら、よさそうな下宿を教えてくれるかも知れない。 幸 一度
あいさつ さ
挨 拶 に来て勝手は知ってるから、捜がしてあるく面倒はない。ここだろうと、いい加減
めん おく としより
に見当をつけて、ご 免 ご免と二返ばかり云うと、 奥 から五十ぐらいな 年 寄 が古風
しそく きら
な 紙 燭 をつけて、出て来た。おれは若い女も 嫌 いではないが、年寄を見ると何だかなつ
きよ たましい ばあ
かしい心持ちがする。大方 清 がすきだから、その 魂 が方々のお 婆 さんに乗り移
か
るんだろう。これは大方うらなり君のおっ 母さんだろう。切り下げの品格のある婦人だが、
よくうらなり君に似ている。まあお上がりと云うところを、ちょっとお目にかかりたいから
げんかん
と、主人を 玄 関 まで呼び出して実はこれこれだが君どこか心当りはありませんかと尋
ねてみた。うらなり先生それはさぞお困りでございましょう、としばらく考えていたが、こ
はぎの く ざしき
の裏町に 萩 野 と云って老人夫婦ぎりで 暮らしているものがある、いつぞや 座 敷 を明
むだ しゅうせん
けておいても 無 駄だから、たしかな人があるなら貸してもいいから 周 旋 してくれ
たの
と 頼 んだ事がある。今でも貸すかどうか分らんが、まあいっしょに行って聞いてみましょ
う と 、 親 切 に 連 れ て 行 っ て く れ た 。
おどろ
その夜から萩野の家の下宿人となった。 驚 いたのは、おれがいか銀の座敷を引き払う
あくるひ ちが せんりょう
と、 翌 日 から入れ 違 いに野だが平気な顔をして、おれの居た部屋を 占 領 し
たがい
た事だ。さすがのおれもこれにはあきれた。世の中はいかさま師ばかりで、お 互 に乗せ
っ こ を し て い る の か も 知 れ な い 。 い や に な っ た 。
せけんなみ や
世間がこんなものなら、おれも負けない気で、世 間 並 にしなくちゃ、遣りきれない訳
きんちゃくきり ぜん いただ き
になる。 巾 着 切 の上前をはねなければ三度のご 膳 が 戴 けないと、事が 極
くく
まればこうして、生きてるのも考え物だ。と云ってぴんぴんした達者なからだで、首を 縊
っちゃ先祖へ済まない上に、外聞が悪い。考えると物理学校などへはいって、数学なんて役
もとで
にも立たない芸を覚えるよりも、六百円を 資 本 にして牛乳屋でも始めればよかった。そう
そば はな くら
すれば清もおれの 傍 を 離 れずに済むし、おれも遠くから婆さんの事を心配しずに 暮
いなか
される。いっしょに居るうちは、そうでもなかったが、こうして 田 舎 へ来てみると清はや
きだて
っぱり善人だ。あんな 気 立 のいい女は日本中さがして歩いたってめったにはない。婆さん、
かぜ いまごろ
おれの立つときに、少々 風 邪を引いていたが 今 頃 はどうしてるか知らん。先だっての
手紙を見たらさぞ喜んだろう。それにしても、もう返事がきそうなものだが――おれはこん
な 事 ば か り 考 え て 二 三 日 暮 し て い た 。
たず
気になるから、宿のお婆さんに、東京から手紙は来ませんかと時々 尋 ねてみるが、聞く
たんびに何にも参りませんと気の毒そうな顔をする。ここの夫婦はいか銀とは違って、もと
そうほう じい よ うたい
が士族だけに 双 方 共上品だ。 爺 さんが 夜るになると、変な声を出して 謡 をうた
むやみ
うには閉口するが、いか銀のようにお茶を入れましょうと 無 暗 に出て来ないから大きに
楽だ。お婆さんは時々部屋へ来ていろいろな話をする。どうして奥さんをお連れなさって、
い
いっしょにお 出でなんだのぞなもしなどと質問をする。奥さんがあるように見えますかね。
かわいそう
可 哀 想 にこれでもまだ二十四ですぜと云ったらそれでも、あなた二十四で奥さんがお
ぼうとう だれ よめ
ありなさるのは当り前ぞなもしと 冒 頭 を置いて、どこの 誰 さんは二十でお 嫁 を
もら ふたり
お 貰 いたの、どこの何とかさんは二十二で子供を 二 人 お持ちたのと、何でも例を半ダ
はんばく おそ ぼく
ースばかり挙げて 反 駁 を試みたには 恐 れ入った。それじゃ 僕 も二十四でお嫁を
まね
お貰いるけれ、世話をしておくれんかなと田舎言葉を 真 似て頼んでみたら、お婆さん正直に
本 当 か な も し と 聞 い た 。
ほんま
「 本 当 の 本 当の っ て 僕 あ 、 嫁 が 貰 い た く っ て 仕 方 が な い ん だ 」
あいさつ
「そうじゃろうがな、もし。若いうちは誰もそんなものじゃけれ」この 挨 拶 には痛み入
っ て 返 事 が 出 来 な か っ た 。
きま ね
「しかし先生はもう、お嫁がおありなさるに 極 っとらい。私はちゃんと、もう、睨らんどる
ぞ な も し 」
かつがん
「 へ え 、 活 眼 だ ね 。 ど う し て 、 睨 ら ん ど る ん で す か 」
こ
「どうしててて。東京から便りはないか、便りはないかてて、毎日便りを待ち 焦がれておいで
る じ ゃ な い か な も し 」
おどろ
「 こ い つ あ 驚 い た 。 大 変 な 活 眼 だ 」
あた
「 中 り ま し た ろ う が な 、 も し 」
「 そ う で す ね 。 中 っ た か も 知 れ ま せ ん よ 」
おなご むかし ちご
「しかし今時の 女 子 は、 昔 と 違 うて油断が出来んけれ、お気をお付けたがええぞ
な も し 」
「何ですかい、僕の奥さんが東京で間男でもこしらえていますかい」
「 い い え 、 あ な た の 奥 さ ん は た し か じ ゃ け れ ど … … 」
「 そ れ で 、 や っ と 安 心 し た 。 そ れ じ ゃ 何 を 気 を 付 け る ん で す い 」
「 あ な た の は た し か ― ― あ な た の は た し か じ ゃ が ― ― 」
「 ど こ に 不 た し か な の が 居 ま す か ね 」
ら お じょう
「 こ こ 等に も 大 分 居り ま す 。 先 生 、 あ の 遠 山 の お 嬢 さんをご存知かなもし」
「 い い え 、 知 り ま せ ん ね 」
べっぴん
「まだご存知ないかなもし。ここらであなた一番の 別 嬪 さんじゃがなもし。あまり別嬪
さんじゃけれ、学校の先生方はみんなマドンナマドンナと言うといでるぞなもし。まだお聞
き ん の か な も し 」
「 う ん 、 マ ド ン ナ で す か 。 僕 あ 芸 者 の 名 か と 思 っ た 」
とうじん
「いいえ、あなた。マドンナと云うと 唐 人 の言葉で、別嬪さんの事じゃろうがなもし」
「 そ う か も 知 れ な い ね 。 驚 い た 」
「 大 方 画 学 の 先 生 が お 付 け た 名 ぞ な も し 」
「 野 だ が つ け た ん で す か い 」
よしかわ
「 い い え 、 あ の 吉 川 先 生 が お 付 け た の じ ゃ が な も し 」
「 そ の マ ド ン ナ が 不 た し か な ん で す か い 」
「 そ の マ ド ン ナ さ ん が 不 た し か な マ ド ン ナ さ ん で な 、 も し 」
やっかい あだな ろく
「 厄 介 だね。 渾 名 の付いてる女にゃ昔から 碌 なものは居ませんからね。そうかも
知 れ ま せ ん よ 」
きじん まつ だっき こわ
「ほん当にそうじゃなもし。 鬼 神 のお 松 じゃの、 妲 妃 のお百じゃのてて 怖 い女が
お
居り ま し た な も し 」
「 マ ド ン ナ も そ の 同 類 な ん で す か ね 」
「そのマドンナさんがなもし、あなた。そらあの、あなたをここへ世話をしておくれた古賀先
よめ やくそく
生なもし――あの方の所へお 嫁 に行く 約 束 が出来ていたのじゃがなもし――」
えんぷく
「へえ、不思議なもんですね。あのうらなり君が、そんな 艶 福 のある男とは思わなかっ
みか
た 。 人 は 見 懸け に よ ら な い 者 だ な 。 ち っ と 気 を 付 け よ う 」
「ところが、去年あすこのお父さんが、お亡くなりて、――それまではお金もあるし、銀行の
いで つごう
株も持ってお 出 るし、万事 都 合 がよかったのじゃが――それからというものは、どう
よす
いうものか急に暮し向きが思わしくなくなって――つまり古賀さんがあまりお人が 好 過ぎ
だま こしいれ
るけれ、お 欺 されたんぞなもし。それや、これやでお 輿 入 も延びているところへ、あ
い
の 教 頭 さ ん が お 出で て 、 是 非 お 嫁 に ほ し い と お 云 い る の じ ゃ が な も し 」
やつ
「あの赤シャツがですか。ひどい 奴 だ。どうもあのシャツはただのシャツじゃないと思っ
て た 。 そ れ か ら ? 」
かけお
「人を頼んで 懸 合 うておみると、遠山さんでも古賀さんに義理があるから、すぐには返事
は出来かねて――まあよう考えてみようぐらいの挨拶をおしたのじゃがなもし。すると赤
てづる でいり
シャツさんが、 手 蔓 を求めて遠山さんの方へ 出 入 をおしるようになって、とうとうあ
てなづ
なた、お嬢さんを 手 馴 付けておしまいたのじゃがなもし。赤シャツさんも赤シャツさんじゃ
わ
が、お嬢さんもお嬢さんじゃてて、みんなが 悪るく云いますのよ。いったん古賀さんへ嫁に
いで か
行くてて承知をしときながら、今さら学士さんがお 出 たけれ、その方に 替えよてて、それ
こんにちさま
じ ゃ 今 日 様 へ 済 む ま い が な も し 、 あ な た 」
「全く済まないね。今日様どころか明日様にも明後日様にも、いつまで行ったって済みっこ
あ り ま せ ん ね 」
ほった
「それで古賀さんにお気の毒じゃてて、お友達の 堀 田 さんが教頭の所へ意見をしにお行き
たら、赤シャツさんが、あしは約束のあるものを横取りするつもりはない。破約になれば貰
うかも知れんが、今のところは遠山家とただ交際をしているばかりじゃ、遠山家と交際をす
るには別段古賀さんに済まん事もなかろうとお云いるけれ、堀田さんも仕方がなしにお
もど おりあい
戻 りたそうな。赤シャツさんと堀田さんは、それ以来 折 合 がわるいという評判ぞな
も し 」
くわ
「よくいろいろな事を知ってますね。どうして、そんな 詳 しい事が分るんですか。感心しち
ま っ た 」
せま
「 狭 い け れ 何 で も 分 り ま す ぞ な も し 」
ようす てんぷら だんご
分り過ぎて困るくらいだ。この 容 子 じゃおれの 天 麩 羅 や 団 子 の事も知ってるか
やっかい かげさま
も知れない。 厄 介 な所だ。しかしお 蔭 様 でマドンナの意味もわかるし、山嵐と赤
シャツの関係もわかるし大いに後学になった。ただ困るのはどっちが悪る者だか判然しな
い。おれのような単純なものには白とか黒とか片づけてもらわないと、どっちへ味方をして
い い か 分 ら な い 。
「 赤 シ ャ ツ と 山 嵐 た あ 、 ど っ ち が い い 人 で す か ね 」
「 山 嵐 て 何 ぞ な も し 」
「 山 嵐 と い う の は 堀 田 の 事 で す よ 」
「そりゃ強い事は堀田さんの方が強そうじゃけれど、しかし赤シャツさんは学士さんじゃけ
かた
れ、働きはある 方 ぞな、もし。それから優しい事も赤シャツさんの方が優しいが、生徒の評
判 は 堀 田 さ ん の 方 が え え と い う ぞ な も し 」
「 つ ま り ど っ ち が い い ん で す か ね 」
えら
「 つ ま り 月 給 の 多 い 方 が 豪 い の じ ゃ ろ う が な も し 」
これじゃ聞いたって仕方がないから、やめにした。それから二三日して学校から帰るとお
婆さんがにこにこして、へえお待遠さま。やっと参りました。と一本の手紙を持って来てゆ
ふせん まい
っくりご覧と云って出て行った。取り上げてみると清からの便りだ。 符 箋 が二三 枚 つ
まわ はぎの
いてるから、よく調べると、山城屋から、いか銀の方へ 廻 して、いか銀から、萩 野 へ廻っ
とうりゅう
て来たのである。その上山城屋では一週間ばかり 逗 留 している。宿屋だけに手紙ま
とめ ぼ
で 泊 るつもりなんだろう。開いてみると、非常に長いもんだ。坊っちゃんの手紙を頂いて
ね
から、すぐ返事をかこうと思ったが、あいにく風邪を引いて一週間ばかり 寝ていたものだか
おそ
ら、つい 遅 くなって済まない。その上今時のお嬢さんのように読み書きが達者でないもの
おい
だから、こんなまずい字でも、かくのによっぽど骨が折れる。 甥 に代筆を頼もうと思った
が、せっかくあげるのに自分でかかなくっちゃ、坊っちゃんに済まないと思って、わざわざ
し
下たがきを一返して、それから清書をした。清書をするには二日で済んだが、下た書きをす
いっしょうけんめい
るには四日かかった。読みにくいかも知れないが、これでも 一 生 懸 命 にかいた
ぼうとう
のだから、どうぞしまいまで読んでくれ。という 冒 頭 で四尺ばかり何やらかやら
したた たいてい
認 めてある。なるほど読みにくい。字がまずいばかりではない、 大 抵 平仮名だか
くとう せ
ら、どこで切れて、どこで始まるのだか 句 読 をつけるのによっぽど骨が折れる。おれは 焦
か
っ 勝ちな性分だから、こんな長くて、分りにくい手紙は、五円やるから読んでくれと頼まれ
まじめ はじめ しまい
ても断わるのだが、この時ばかりは 真 面 目になって、 始 から 終 まで読み通した。
読み通した事は事実だが、読む方に骨が折れて、意味がつながらないから、また頭から読み
直してみた。部屋のなかは少し暗くなって、前の時より見にくく、なったから、とうとう
ばしょう すはだ ふ
芭 蕉 の葉を動かして、素 肌 に 吹きつけた帰りに、読みかけた手紙を庭の方へなびか
むこ
したから、しまいぎわには四尺あまりの半切れがさらりさらりと鳴って、手を放すと、 向
うの生垣まで飛んで行きそうだ。おれはそんな事には構っていられない。坊っちゃんは竹を
かんしゃく
割ったような気性だが、ただ 肝 癪 が強過ぎてそれが心配になる。――ほかの人に
むやみ あだな うら
無 暗 に 渾 名 なんか、つけるのは人に 恨 まれるもとになるから、やたらに使っちゃい
けない、もしつけたら、清だけに手紙で知らせろ。――田舎者は人がわるいそうだから、気を
あ
つけてひどい目に 遭わないようにしろ。――気候だって東京より不順に極ってるから、
ねびえ
寝 冷 をして風邪を引いてはいけない。坊っちゃんの手紙はあまり短過ぎて、容子がよくわ
からないから、この次にはせめてこの手紙の半分ぐらいの長さのを書いてくれ。――宿屋へ
たよ
茶代を五円やるのはいいが、あとで困りゃしないか、田舎へ行って 頼 りになるはお金ばか
けんやく さしつか
りだから、なるべく 倹 約 して、万一の時に 差 支 えないようにしなくっちゃいけな
こづかい かわせ せん
い。――お 小 遣 がなくて困るかも知れないから、 為 替 で十円あげる。―― 先 だっ
て坊っちゃんからもらった五十円を、坊っちゃんが、東京へ帰って、うちを持つ時の足しに
と思って、郵便局へ預けておいたが、この十円を引いてもまだ四十円あるから大丈夫だ。―
― な る ほ ど 女 と 云 う も の は 細 か い も の だ 。
こ ふすま
おれが椽鼻で清の手紙をひらつかせながら、考え 込んでいると、しきりの 襖 をあけ
い
て、萩野のお婆さんが晩めしを持ってきた。まだ見てお 出でるのかなもし。えっぽど長いお
手紙じゃなもし、と云ったから、ええ大事な手紙だから風に吹かしては見、吹かしては見る
ぜん さつまいも に
んだと、自分でも要領を得ない返事をして 膳 についた。見ると今夜も 薩 摩 芋 の 煮つ
ていねい お
けだ。ここのうちは、いか銀よりも 鄭 寧 で、親切で、しかも上品だが、惜しい事に食い物
おととい
がまずい。昨日も芋、一 昨 日 も芋で今夜も芋だ。おれは芋は大好きだと明言したには相違
ないが、こう立てつづけに芋を食わされては命がつづかない。うらなり君を笑うどころか、
おれ自身が遠からぬうちに、芋のうらなり先生になっちまう。清ならこんな時に、おれの好
ぼう だめ
坊 と来ちゃ仕方がない。どう考えても清といっしょでなくっちあ 駄 目だ。もしあの学校
よ よ そば
に長くでも居る模様なら、東京から 召び 寄せてやろう。天麩羅 蕎 麦を食っちゃならない、団
子を食っちゃならない、それで下宿に居て芋ばかり食って黄色くなっていろなんて、教育者
ぜんしゅう えよう
はつらいものだ。 禅 宗 坊主だって、これよりは口に 栄 耀 をさせているだろう。―
ひきだし ちゃわん ふち
―おれは一皿の芋を平げて、机の 抽 斗 から生卵を二つ出して、 茶 碗 の 縁 でたた
しの
き割って、ようやく 凌 いだ。生卵ででも営養をとらなくっちあ一週二十一時間の授業が出
来 る も の か 。
今日は清の手紙で湯に行く時間が遅くなった。しかし毎日行きつけたのを一日でも欠か
でか あかてぬぐい
すのは心持ちがわるい。汽車にでも乗って 出 懸けようと、例の 赤 手 拭 をぶら下げて
ていしゃば
停 車 場 まで来ると二三分前に発車したばかりで、少々待たなければならぬ。ベンチへ
しきしま ぐうぜん
腰を懸けて、 敷 島 を吹かしていると、 偶 然 にもうらなり君がやって来た。おれは
ふだん
さっきの話を聞いてから、うらなり君がなおさら気の毒になった。 平 常 から天地の間に
いそうろう あわ
居 候 をしているように、小さく構えているのがいかにも 憐 れに見えたが、今夜は
さわ あした
憐れどころの 騒 ぎではない。出来るならば月給を倍にして、遠山のお嬢さんと 明 日 か
けっこん
ら 結 婚 さして、一ヶ月ばかり東京へでも遊びにやってやりたい気がした矢先だから、
いせい ゆず
やお湯ですか、さあ、こっちへお懸けなさいと 威 勢 よく席を 譲 ると、うらなり君は
おそ かも えんりょ
恐 れ入った体裁で、いえ 構 うておくれなさるな、と 遠 慮 だか何だかやっぱり立っ
くたび
てる。少し待たなくっちゃ出ません、 草 臥 れますからお懸けなさいとまた勧めてみた。実
はどうかして、そばへ懸けてもらいたかったくらいに気の毒でたまらない。それではお
じゃま いた
邪 魔 を 致 しましょうとようやくおれの云う事を聞いてくれた。世の中には野だみたよ
うに生意気な、出ないで済む所へ必ず顔を出す奴もいる。山嵐のようにおれが居なくっちゃ
にっぽん かた の
日 本 が困るだろうと云うような面を 肩 の上へ 載せてる奴もいる。そうかと思うと、
赤シャツのようにコスメチックと色男の問屋をもって自ら任じているのもある。教育が生
たぬき みなみな
きてフロックコートを着ればおれになるんだと云わぬばかりの 狸 もいる。 皆 々
それ相応に威張ってるんだが、このうらなり先生のように在れどもなきがごとく、人質に取
おとな
られた人形のように 大 人 しくしているのは見た事がない。顔はふくれているが、こんな結
なび
構な男を捨てて赤シャツに 靡 くなんて、マドンナもよっぼど気の知れないおきゃんだ。赤
だんなさま
シャツが何ダース寄ったって、これほど立派な 旦 那 様 が出来るもんか。
「あなたはどっか悪いんじゃありませんか。大分たいぎそうに見えますが……」
「いえ、別 段
こ れ と い う 持 病 も な い で す が … … 」
「 そ り ゃ 結 構 で す 。 か ら だ が 悪 い と 人 間 も 駄 目 で す ね 」
じょうぶ
「 あ な た は 大 分 ご 丈 夫 の よ う で す な 」
や
「 え え 瘠せ て も 病 気 は し ま せ ん 。 病 気 な ん て も の あ 大 嫌 い で す か ら 」
う ら な り 君 は 、 お れ の 言 葉 を 聞 い て に や に や と 笑 っ た 。
きこ ふ
ところへ入口で若々しい女の笑声が 聞 えたから、何心なく 振り返ってみるとえらい奴
なら きっぷ
が来た。色の白い、ハイカラ頭の、背の高い美人と、四十五六の奥さんとが 並 んで 切 符
を売る窓の前に立っている。おれは美人の形容などが出来る男でないから何にも云えない
にぎ
握 ってみたような心持ちがした。年寄の方が背は低い。しかし顔はよく似ているから親子
とたん すっかり
だろう。おれは、や、来たなと思う 途 端 に、うらなり君の事は 全 然 忘れて、若い女の
とつぜん となり
方ばかり見ていた。すると、うらなり君が 突 然 おれの 隣 から、立ち上がって、そろ
そろ女の方へ歩き出したんで、少し驚いた。マドンナじゃないかと思った。三人は切符所の
前 で 軽 く 挨 拶 し て い る 。 遠 い か ら 何 を 云 っ て る の か 分 ら な い 。
停車場の時計を見るともう五分で発車だ。早く汽車がくればいいがなと、話し相手が居な
か こ
くなったので待ち遠しく思っていると、また一人あわてて場内へ 馳け 込んで来たものがあ
ちりめん
る。見れば赤シャツだ。何だかべらべら然たる着物へ 縮 緬 の帯をだらしなく巻き付け
きんぐさ にせもの
て、例の通り 金 鎖 りをぶらつかしている。あの金鎖りは 贋 物 である。赤シャツは
だれ
誰 も知るまいと思って、見せびらかしているが、おれはちゃんと知ってる。赤シャツは馳
うりさげじょ
け込んだなり、何かきょろきょろしていたが、切符 売 下 所 の前に話している三人へ
いんぎん じぎ
慇 懃 にお 辞 儀をして、何か二こと、三こと、云ったと思ったら、急にこっちへ向いて、例
ねこあし
のごとく 猫 足 にあるいて来て、や君も湯ですか、僕は乗り後れやしないかと思って心
きんがわ
配して急いで来たら、まだ三四分ある。あの時計はたしかかしらんと、自分の 金 側 を出
そば おろ
して、二分ほどちがってると云いながら、おれの 傍 へ腰を 卸 した。女の方はちっとも見
つえ あご なが
返らないで 杖 の上に 顋 をのせて、正面ばかり 眺 めている。年寄の婦人は時々赤シャ
ツを見るが、若い方は横を向いたままである。いよいよマドンナに違いない。
きてき わ がち
やがて、ピューと 汽 笛 が鳴って、車がつく。待ち合せた連中はぞろぞろ 吾れ 勝 に乗り
込む。赤シャツはいの一号に上等へ飛び込んだ。上等へ乗ったって威張れるどころではない、
すみた
住 田 まで上等が五銭で下等が三銭だから、わずか二銭違いで上下の区別がつく。こういう
ふんぱつ にぎ
おれでさえ上等を 奮 発 して白切符を 握 ってるんでもわかる。もっとも田舎者はけち
たいてい
だから、たった二銭の出入でもすこぶる苦になると見えて、 大 抵 は下等へ乗る。赤シャ
お
ツのあとからマドンナとマドンナのお袋が上等へはいり込んだ。うらなり君は活版で 押し
ちゅうちょ
たように下等ばかりへ乗る男だ。先生、下等の車室の入口へ立って、何だか 躊 躇 の
てい
体 であったが、おれの顔を見るや否や思いきって、飛び込んでしまった。おれはこの時何
となく気の毒でたまらなかったから、うらなり君のあとから、すぐ同じ車室へ乗り込んだ。
上 等 の 切 符 で 下 等 へ 乗 る に 不 都 合 は な か ろ う 。
ゆかた ゆつぼ
温泉へ着いて、三階から、浴 衣 のなりで 湯 壺 へ下りてみたら、またうらなり君に逢っ
のど ふさ しゃべ ふだん
た。おれは会議や何かでいざと極まると、咽 喉が 塞 がって 饒 舌 れない男だが、 平 常
ずいぶん
は 随 分 弁ずる方だから、いろいろ湯壺のなかでうらなり君に話しかけてみた。何だか
なぐさ えど
憐れぽくってたまらない。こんな時に一口でも先方の心を 慰 めてやるのは、江 戸っ子
の義務だと思ってる。ところがあいにくうらなり君の方では、うまい具合にこっちの調子に
ふろ
湯の中では赤シャツに逢わなかった。もっとも 風 呂の数はたくさんあるのだから、同じ汽
車で着いても、同じ湯壺で逢うとは極まっていない。別段不思議にも思わなかった。風呂を
やなぎ うわ えだ ま
出てみるといい月だ。町内の両側に 柳 が 植 って、柳の 枝 が 丸るい影を往来の中へ
おと
落 している。少し散歩でもしよう。北へ登って町のはずれへ出ると、左に大きな門があっ
ぎろう ゆうかく
て、門の突き当りがお寺で、左右が 妓 楼 である。山門のなかに 遊 廓 があるなんて、前
代未聞の現象だ。ちょっとはいってみたいが、また狸から会議の時にやられるかも知れない
のれん こうしまど
から、やめて素通りにした。門の並びに黒い 暖 簾 をかけた、小さな 格 子 窓 の平屋は
のきば
ぶらさがって、提灯の火が、 軒 端 に近い一本の柳の幹を照らしている。食いたいなと思っ
た が 我 慢 し て 通 り 過 ぎ た 。
いいなずけ
食いたい団子の食えないのは情ない。しかし自分の 許 嫁 が他人に心を移したのは、
おろ だんじき
なお情ないだろう。うらなり君の事を思うと、団子は 愚 か、三日ぐらい 断 食 しても不
平はこぼせない訳だ。本当に人間ほどあてにならないものはない。あの顔を見ると、どうし
たって、そんな不人情な事をしそうには思えないんだが――うつくしい人が不人情で、
とうがん みずぶく
冬 瓜 の 水 膨 れのような古賀さんが善良な君子なのだから、油断が出来ない。
たんぱく せんどう
淡 泊 だと思った山嵐は生徒を 煽 動 したと云うし。生徒を煽動したのかと思うと、
せま いやみ
生徒の処分を校長に 逼 るし。 厭 味 で練りかためたような赤シャツが存外親切で、おれ
よそ ごまか
に 余 所ながら注意をしてくれるかと思うと、マドンナを 胡 魔 化したり、胡魔化したのかと
なんくせ
思うと、古賀の方が破談にならなければ結婚は望まないんだと云うし。いか銀が 難 癖
い かわ
をつけて、おれを追い出すかと思うと、すぐ野だ公が 入れ 替 ったり――どう考えてもあて
はこね
にならない。こんな事を清にかいてやったら定めて驚く事だろう。 箱 根 の向うだから
ばけもの
化 物 が 寄 り 合 っ て る ん だ と 云 う か も 知 れ な い 。
しょうらい
おれは、 性 来 構わない性分だから、どんな事でも苦にしないで今日まで凌いで来
ぶっそう
たのだが、ここへ来てからまだ一ヶ月立つか、立たないうちに、急に世のなかを 物 騒 に
思い出した。別段際だった大事件にも出逢わないのに、もう五つ六つ年を取ったような気が
する。早く切り上げて東京へ帰るのが一番よかろう。などとそれからそれへ考えて、いつか
わた のぜりがわ どて
石橋を 渡 って 野 芹 川 の 堤 へ出た。川と云うとえらそうだが実は一間ぐらいな、ち
あいおいむら
ょろちょろした流れで、土手に沿うて十二丁ほど下ると 相 生 村 へ出る。村には
かんのんさま
観 音 様 が あ る 。
ゆ たいこ
温泉の町を振り返ると、赤い灯が、月の光の中にかがやいている。 太 鼓 が鳴るのは遊廓
に相違ない。川の流れは浅いけれども早いから、神経質の水のようにやたらに光る。ぶらぶ
ひとかげ
ら土手の上をあるきながら、約三丁も来たと思ったら、向うに 人 影 が見え出した。月に
す ゆ しゅ
透かしてみると影は二つある。温泉へ来て村へ帰る若い 衆 かも知れない。それにしては
うた
唄 も う た わ な い 。 存 外 静 か だ 。
だんだん歩いて行くと、おれの方が早足だと見えて、二つの影法師が、次第に大きくなる。
きょり
一人は女らしい。おれの足音を聞きつけて、十間ぐらいの 距 離 に逼った時、男がたちまち
うしろ
振り向いた。月は 後 からさしている。その時おれは男の様子を見て、はてなと思った。男
か
と女はまた元の通りにあるき出した。おれは考えがあるから、急に全速力で追っ 懸けた。先
方は何の気もつかずに最初の通り、ゆるゆる歩を移している。今は話し声も手に取るように
聞える。土手の幅は六尺ぐらいだから、並んで行けば三人がようやくだ。おれは苦もなく後
そで す ぬ くびす
ろから追い付いて、男の 袖 を 擦り 抜けざま、二足前へ出した 踵 をぐるりと返して男
のぞ こ がり あた えしゃく
の顔を 覗 き 込んだ。月は正面からおれの五分 刈 の頭から顋の 辺 りまで、 会 釈
てら うな
もなく 照 す。男はあっと小声に云ったが、急に横を向いて、もう帰ろうと女を 促 がすが
ゆ
早 い か 、 温泉の 町 の 方 へ 引 き 返 し た 。
そく
赤シャツは図太くて胡魔化すつもりか、気が弱くて名乗り 損 なったのかしら。ところが
狭 く て 困 っ て る の は 、 お れ ば か り で は な か っ た 。
八
つり やまあらし
赤シャツに勧められて 釣 に行った帰りから、 山 嵐 を疑ぐり出した。無い事を種
ふらち やつ
に下宿を出ろと云われた時は、いよいよ 不 埒 な 奴 だと思った。ところが会議の席では
はぎの ばあ
た。萩 野 の 婆 さんから、山嵐が、うらなり君のために赤シャツと談判をしたと聞いた時
う
は、それは感心だと手を 拍った。この様子ではわる者は山嵐じゃあるまい、赤シャツの方が
いいかげん じゃすい まこと とおまわ
曲ってるんで、 好 加 減 な 邪 推 を 実 しやかに、しかも 遠 廻 しに、おれの
し こ のぜりがわ
頭の中へ 浸み 込ましたのではあるまいかと迷ってる矢先へ、 野 芹 川 の土手で、マドン
くせもの き
ナを連れて散歩なんかしている姿を見たから、それ以来赤シャツは 曲 者 だと 極めてし
わか い ちが
まった。曲者だか何だかよくは 分 らないが、ともかくも 善い男じゃない。表と裏とは 違
まっすぐ たの けんか
った男だ。人間は竹のように 真 直 でなくっちゃ 頼 もしくない。真直なものは 喧 嘩
こうしょう
をしても心持ちがいい。赤シャツのようなやさしいのと、親切なのと、 高 尚 なのと、
こはく じまん
琥 珀 のパイプとを 自 慢 そうに見せびらかすのは油断が出来ない、めったに喧嘩も出来
えこういん すもう
ないと思った。喧嘩をしても、 回 向 院 の 相 撲 のような心持ちのいい喧嘩は出来ない
でいり ひかえじょ おど
と思った。そうなると一銭五厘の 出 入 で 控 所 全体を 驚 ろかした議論の相手の
かなつぼまなこ にら
山嵐の方がはるかに人間らしい。会議の時に 金 壺 眼 をぐりつかせて、おれを 睨
にく
めた時は 憎 い奴だと思ったが、あとで考えると、それも赤シャツのねちねちした
ねこなでごえ
猫 撫 声 よりはましだ。実はあの会議が済んだあとで、よっぽど仲直りをしようかと
やろう め むく
思って、一こと二こと話しかけてみたが、野 郎 返事もしないで、まだ 眼を 剥 ってみせた
か ら 、 こ っ ち も 腹 が 立 っ て そ の ま ま に し て お い た 。
それ以来山嵐はおれと口を利かない。机の上へ返した一銭五厘はいまだに机の上に乗っ
ている。ほこりだらけになって乗っている。おれは無論手が出せない、山嵐は決して持って
しょうへき
帰らない。この一銭五厘が二人の間の 墻 壁 になって、おれは話そうと思っても話せ
がん だま たた
ない、山嵐は 頑 として 黙 ってる。おれと山嵐には一銭五厘が 祟 った。しまいには学校
へ 出 て 一 銭 五 厘 を 見 る の が 苦 に な っ た 。
か いぜん
山嵐とおれが絶交の姿となったに引き 易えて、赤シャツとおれは 依 然 として在来の関
あ
係を保って、交際をつづけている。野芹川で 逢った翌日などは、学校へ出ると第一番におれ
そば ロシア つ
の 傍 へ来て、君今度の下宿はいいですかのまたいっしょに 露 西 亜文学を 釣りに行こうじ
にく ゆうべ
ゃないかのといろいろな事を話しかけた。おれは少々 憎 らしかったから、 昨 夜 は二返
い ていしゃば でか
逢いましたねと 云ったら、ええ 停 車 場 で――君はいつでもあの時分 出 掛けるのです
かか く
か、遅いじゃないかと云う。野芹川の土手でもお目に 懸 りましたねと 喰らわしてやったら、
ぼく かく
いいえ 僕 はあっちへは行かない、湯にはいって、すぐ帰ったと答えた。何もそんなに 隠
うそ
さないでもよかろう、現に逢ってるんだ。よく 嘘 をつく男だ。これで中学の教頭が勤まる
なら、おれなんか大学総長がつとまる。おれはこの時からいよいよ赤シャツを信用しなくな
った。信用しない赤シャツとは口をきいて、感心している山嵐とは話をしない。世の中は
ずいぶんみょう
随 分 妙 な も の だ 。
お
ある日の事赤シャツがちょっと君に話があるから、僕のうちまで来てくれと云うから、惜
ごろ
しいと思ったが温泉行きを欠勤して四時 頃 出掛けて行った。赤シャツは一人ものだが、教
むかし はら げんかん
頭だけに下宿はとくの 昔 に引き 払 って立派な 玄 関 を構えている。家賃は九円
じっせん いなか
五 拾 銭 だそうだ。 田 舎 へ来て九円五拾銭払えばこんな家へはいれるなら、おれも一
ふんぱつ
つ 奮 発 して、東京から清を呼び寄せて喜ばしてやろうと思ったくらいな玄関だ。頼む
とりつぎ
と云ったら、赤シャツの弟が 取 次 に出て来た。この弟は学校で、おれに代数と算術を教
くせわた
わる至って出来のわるい子だ。その 癖 渡 りものだから、生れ付いての田舎者よりも人
わ
が 悪る い 。
くさ たばこ
赤シャツに逢って用事を聞いてみると、大将例の琥珀のパイプで、きな 臭 い 烟 草 を
せいせき
ふかしながら、こんな事を云った。
「君が来てくれてから、前任者の時代より も 成 績 が
しんらい
よくあがって、校長も大いにいい人を得たと喜んでいるので――どうか学校でも 信 頼
し て い る の だ か ら 、 そ の つ も り で 勉 強 し て い た だ き た い 」
「 へ え 、 そ う で す か 、 勉 強 っ て 今 よ り 勉 強 は 出 来 ま せ ん が ― ― 」
じゅうぶん
「今のくらいで 充 分 です。ただ先だってお話しした事ですね、あれを忘れずにいて下
さ れ ば い い の で す 」
けんのん
「 下 宿 の 世 話 な ん か す る も の あ 剣 呑 だ と い う 事 で す か 」
ろこつ
「そう 露 骨 に云うと、意味もない事になるが――まあ善いさ――精神は君にもよく通じて
しゅっせい
いる事と思うから。そこで君が今のように 出 精 して下されば、学校の方でも、ちゃん
つごう たいぐう
と見ているんだから、もう少しして 都 合 さえつけば、 待 遇 の事も多少はどうにかな
る だ ろ う と 思 う ん で す が ね 」
ほうきゅう
「へえ、 俸 給 ですか。俸給なんかどうでもいいんですが、上がれば上がった方がいい
で す ね 」
「それで幸い今度転任者が一人出来るから――もっとも校長に相談してみないと無論受け
ゆうずう
合えない事だが――その俸給から少しは 融 通 が出来るかも知れないから、それで都合
を つ け る よ う に 校 長 に 話 し て み よ う と 思 う ん で す が ね 」
ありがと
「 ど う も 難 有 う 。 だ れ が 転 任 す る ん で す か 」
つか
「もう発表になるから話しても差し 支 えないでしょう。実は古賀君です」
「 古 賀 さ ん は 、 だ っ て こ こ の 人 じ ゃ あ り ま せ ん か 」
じ
「 こ こ の 地の 人 で す が 、 少 し 都 合 が あ っ て ― ― 半 分 は 当 人 の 希 望 で す 」
ゆ
「 ど こ へ 行く ん で す 」
ひゅうが のべおか あが
「 日 向 の 延 岡 で――土地が土地だから一級俸 上 って行く事になりました」
だれ
「 誰 か 代 り が 来 る ん で す か 」
たいてい
「代りも 大 抵 極まってるんです。その代りの具合で君の待遇上の都合もつくんです」
「 は あ 、 結 構 で す 。 し か し 無 理 に 上 が ら な い で も 構 い ま せ ん 」
「とも角も僕は校長に話すつもりです。それで校長も同意見らしいが、追っては君にもっと
いた
働いて 頂 だかなくってはならんようになるかも知れないから、どうか今からそのつもり
かくご
で 覚 悟を し て や っ て も ら い た い で す ね 」
「 今 よ り 時 間 で も 増 す ん で す か 」
「 い い え 、 時 間 は 今 よ り 減 る か も 知 れ ま せ ん が ― ― 」
「 時 間 が 減 っ て 、 も っ と 働 く ん で す か 、 妙 だ な 」
「ちょっと聞くと妙だが、――判然とは今言いにくいが――まあつまり、君にもっと重大な
責 任 を 持 っ て も ら う か も 知 れ な い と い う 意 味 な ん で す 」
おれには一向分らない。今より重大な責任と云えば、数学の主任だろうが、主任は山嵐だ
きづか
から、やっこさんなかなか辞職する 気 遣 いはない。それに、生徒の人望があるから転任や
めんしょく
免 職 は学校の得策であるまい。赤シャツの談話はいつでも要領を得ない。要領を得
なくっても用事はこれで済んだ。それから少し雑談をしているうちに、うらなり君の送別会
をやる事や、ついてはおれが酒を飲むかと云う問や、うらなり先生は君子で愛すべき人だと
云う事や――赤シャツはいろいろ弁じた。しまいに話をかえて君俳句をやりますかと来た
から、こいつは大変だと思って、俳句はやりません、さようならと、そこそこに帰って来た。
と ら れ て た ま る も の か 。
帰ってうんと考え込んだ。世間には随分気の知れない男が居る。家屋敷はもちろん、勤め
る学校に不足のない故郷がいやになったからと云って、知らぬ他国へ苦労を求めに出る。そ
かよ
れも花の都の電車が 通 ってる所なら、まだしもだが、日向の延岡とは何の事だ。おれは船
つきのいいここへ来てさえ、一ヶ月立たないうちにもう帰りたくなった。延岡と云えば山の
いちんち
中も山の中も大変な山の中だ。赤シャツの云うところによると船から上がって、 一 日
いちんち
馬車へ乗って、宮崎へ行って、宮崎からまた 一 日 車へ乗らなくっては着けないそうだ。
さる
名前を聞いてさえ、開けた所とは思えない。 猿 と人とが半々に住んでるような気がする。
いかに聖人のうらなり君だって、好んで猿の相手になりたくもないだろうに、何という
ものずき
物 数 奇だ 。
ばあ ゆうめし いも
ところへあいかわらず 婆 さんが 夕 食 を運んで出る。今日もまた 芋 ですかいと
とうふ
聞いてみたら、いえ今日はお 豆 腐 ぞなもしと云った。どっちにしたって似たものだ。
「 お 婆 さ ん 古 賀 さ ん は 日 向 へ 行 く そ う で す ね 」
「 ほ ん 当 に お 気 の 毒 じ ゃ な 、 も し 」
「 お 気 の 毒 だ っ て 、 好 ん で 行 く ん な ら 仕 方 が な い で す ね 」
「 好 ん で 行 く て 、 誰 が ぞ な も し 」
「誰がぞなもしって、当人がさ。古賀先生が物数奇に行くんじゃありませんか」
かんごろう
「 そ り ゃ あ な た 、 大 違 い の 勘 五 郎 ぞ な も し 」
「勘五郎かね。だって今赤シャツがそう云いましたぜ。それが勘五郎なら赤シャツは嘘つき
ほらえもん
の 法 螺 右 衛 門だ 」
い
「教頭さんが、そうお云いるのはもっともじゃが、古賀さんのお 往きともないのももっとも
ぞ な も し 」
「そんなら両方もっともなんですね。お婆さんは公平でいい。一体どういう訳なんですい」
「今朝古賀のお母さんが見えて、だんだん訳をお話したがなもし」
「 ど ん な 訳 を お 話 し た ん で す 」
くら むき
「あそこもお父さんがお亡くなりてから、あたし達が思うほど 暮 し 向 が豊かになうて
お困りじゃけれ、お母さんが校長さんにお頼みて、もう四年も勤めているものじゃけれ、ど
う ぞ 毎 月 頂 く も の を 、 今 少 し ふ や し て お く れ ん か て て 、 あ な た 」
「 な る ほ ど 」
「校長さんが、ようまあ考えてみとこうとお云いたげな。それでお母さんも安心して、今に増
さた
給のご 沙 汰があろぞ、今月か来月かと首を長くして待っておいでたところへ、校長さんがち
ょっと来てくれと古賀さんにお云いるけれ、行ってみると、気の毒だが学校は金が足りんけ
れ、月給を上げる訳にゆかん。しかし延岡になら空いた口があって、そっちなら毎月五円余
分にとれるから、お望み通りでよかろうと思うて、その手続きにしたから行くがええと云わ
れ た げ な 。 ― ― 」
「 じ ゃ 相 談 じ ゃ な い 、 命 令 じ ゃ あ り ま せ ん か 」
お
「さよよ。古賀さんはよそへ行って月給が増すより、元のままでもええから、ここに 居りたい。
屋敷もあるし、母もあるからとお頼みたけれども、もうそう極めたあとで、古賀さんの代り
は 出 来 て い る け れ 仕 方 が な い と 校 長 が お 云 い た げ な 」
ばか おもしろ
「へん人を 馬 鹿にしてら、 面 白 くもない。じゃ古賀さんは行く気はないんですね。どう
れで変だと思った。五円ぐらい上がったって、あんな山の中へ猿のお相手をしに行く
とうへんぼく
唐 変 木 は ま ず な い か ら ね 」
「 唐 変 木 て 、 先 生 な ん ぞ な も し 」
さりゃく しうち
「何でもいいでさあ、――全く赤シャツの 作 略 だね。よくない 仕 打 だ。まるで
だましうち ふつごう
欺 撃 ですね。それでおれの月給を上げるなんて、不 都 合 な事があるものか。上げ
て や る っ た っ て 、 誰 が 上 が っ て や る も の か 」
「 先 生 は 月 給 が お 上 り る の か な も し 」
こと
「 上 げ て や る っ て 云 う か ら 、 断 わ ろ う と 思 う ん で す 」
「 何 で 、 お 断 わ り る の ぞ な も し 」
ひきょう
「何でもお断わりだ。お婆さん、あの赤シャツは馬鹿ですぜ。 卑 怯 でさあ」
おとな
「卑怯でもあんた、月給を上げておくれたら、大 人 しく頂いておく方が得ぞなもし。若いう
がまん
ちはよく腹の立つものじゃが、年をとってから考えると、も少しの 我 慢 じゃあったのに惜
くや
しい事をした。腹立てたためにこないな損をしたと 悔 むのが当り前じゃけれ、お婆の言う
ありがと
事をきいて、赤シャツさんが月給をあげてやろとお言いたら、 難 有 うと受けておおき
な さ い や 」
としより
「 年 寄 の癖に余計な世話を焼かなくってもいい。おれの月給は上がろうと下がろうと
お れ の 月 給 だ 」
じい のんき うたい
婆さんはだまって引き込んだ。 爺 さんは 呑 気 な声を出して 謡 をうたってる。謡
というものは読んでわかる所を、やにむずかしい節をつけて、わざと分らなくする術だろう。
あ うな さわ
あんな者を毎晩 飽きずに 唸 る爺さんの気が知れない。おれは謡どころの 騒 ぎじゃない。
月給を上げてやろうと云うから、別段欲しくもなかったが、入らない金を余しておくのもも
ったいないと思って、よろしいと承知したのだが、転任したくないものを無理に転任させて
は
その男の月給の上前を 跳ねるなんて不人情な事が出来るものか。当人がもとの通りでいい
くんだ りょうけん
と云うのに延岡 下 りまで落ちさせるとは一体どう云う 了 見 だろう。
さがら
相 良 でとまってるじゃないか。とにかく赤シャツの所へ行って断わって来なくっちあ気
が 済 ま な い 。
こくら はかま つ
小 倉の 袴 をつけてまた出掛けた。大きな玄関へ 突っ立って頼むと云うと、また例
めつき
の弟が取次に出て来た。おれの顔を見てまた来たかという 眼 付 をした。用があれば二度だ
たた おこ
って三度だって来る。よる夜なかだって 叩 き 起 さないとは限らない。教頭の所へご
きげんうかが みそくな
機 嫌 伺 いにくるようなおれと 見 損 ってるか。これでも月給が入らないから返
きた
しに 来 んだ。すると弟が今来客中だと云うから、玄関でいいからちょっとお目にかかりた
おく たたみつ
いと云ったら 奥 へ引き込んだ。足元を見ると、 畳 付 きの薄っぺらな、のめりの
こまげた ばんざい きこ
駒 下 駄 がある。奥でもう 万 歳 ですよと云う声が 聞 える。お客とは野だだなと気が
は
ついた。野だでなくては、あんな黄色い声を出して、こんな芸人じみた下駄を 穿くものはな
い 。
しばらくすると、赤シャツがランプを持って玄関まで出て来て、まあ上がりたまえ、外の
人じゃない吉川君だ、と云うから、いえここでたくさんです。ちょっと話せばいいんです、と
いっぱい
云って、赤シャツの顔を見ると金時のようだ。野だ公と 一 杯 飲んでると見える。
「さっき僕の月給を上げてやるというお話でしたが、少し考えが変ったから断わりに来たん
で す 」
なが
赤シャツはランプを前へ出して、奥の方からおれの顔を 眺 めたが、とっさの場合返事を
ぼうぜん
しかねて 茫 然 としている。増給を断わる奴が世の中にたった一人飛び出して来たのを
ふしん
不 審 に思ったのか、断わるにしても、今帰ったばかりで、すぐ出直してこなくってもよさ
あき そうほうがっぺい
そうなものだと、 呆 れ返ったのか、または 双 方 合 併 したのか、妙な口をして突
っ 立 っ た ま ま で あ る 。
「あの時承知したのは、古賀君が自分の希望で転任するという話でしたからで……」
「 古 賀 君 は 全 く 自 分 の 希 望 で 半 ば 転 任 す る ん で す 」
「そうじゃないんです、ここに居たいんです。元の月給でもいいから、郷里に居たいのです」
「 君 は 古 賀 君 か ら 、 そ う 聞 い た の で す か 」
「 そ り ゃ 当 人 か ら 、 聞 い た ん じ ゃ あ り ま せ ん 」
「 じ ゃ 誰 か ら お 聞 き で す 」
か
「僕の下宿の婆さんが、古賀さんのおっ 母さんから聞いたのを今日僕に話したのです」
「 じ ゃ 、 下 宿 の 婆 さ ん が そ う 云 っ た の で す ね 」
「 ま あ そ う で す 」
「それは失礼ながら少し違うでしょう。あなたのおっしゃる通りだと、下宿屋の婆さんの云
う事は信ずるが、教頭の云う事は信じないと云うように聞えるが、そういう意味に解釈して
さしつか
差 支 え な い で し ょ う か 」
おれはちょっと困った。文学士なんてものはやっぱりえらいものだ。妙な所へこだわって、
お おやじ だめ
ねちねち 押し寄せてくる。おれはよく 親 父 から貴様はそそっかしくて 駄 目だ駄目だと云
われたが、なるほど少々そそっかしいようだ。婆さんの話を聞いてはっと思って飛び出して
くわ
来たが、実はうらなり君にもうらなりのおっ母さんにも逢って 詳 しい事情は聞いてみな
き
かったのだ。だからこう文学士流に 斬り付けられると、ちょっと受け留めにくい。
うち
正面からは受け留めにくいが、おれはもう赤シャツに対して不信任を心の 中 で申し渡
ぼう つ
してしまった。下宿の婆さんもけちん 坊 の欲張り屋に相違ないが、嘘は 吐かない女だ、赤
シャツのように裏表はない。おれは仕方がないから、こう答えた。
めんこうむ
「あなたの云う事は本当かも知れないですが――とにかく増給はご 免 蒙 ります」
おか いで しの
「それはますます 可 笑しい。今君がわざわざお 出 になったのは増俸を受けるには 忍 び
ない、理由を見出したからのように聞えたが、その理由が僕の説明で取り去られたにもかか
わ ら ず 増 俸 を 否 ま れ る の は 少 し 解 し か ね る よ う で す ね 」
「 解 し か ね る か も 知 れ ま せ ん が ね 。 と に か く 断 わ り ま す よ 」
いや
「そんなに 否 なら強いてとまでは云いませんが、そう二三時間のうちに、特別の理由もな
ひょうへん
い の に 豹 変 し ち ゃ 、 将 来 君 の 信 用 に か か わ る 」
「 か か わ っ て も 構 わ な い で す 」
「そんな事はないはずです、人間に信用ほど大切なものはありませんよ。よしんば今一歩
ゆず
譲 っ て 、 下 宿 の 主 人 が … … 」
「 主 人 じ ゃ な い 、 婆 さ ん で す 」
「どちらでもよろしい。下宿の婆さんが君に話した事を事実としたところで、君の増給は古
けず
賀君の所得を 削 って得たものではないでしょう。古賀君は延岡へ行かれる。その代りがく
じょうよ ま
る。その代りが古賀君よりも多少低給で来てくれる。その 剰 余 を君に 廻わすと云うの
だから、君は誰にも気の毒がる必要はないはずです。古賀君は延岡でただ今よりも栄進され
やくそく つごう
る。新任者は最初からの 約 束 で安くくる。それで君が上がられれば、これほど 都 合
いや
のいい事はないと思うですがね。いやなら 否 でもいいが、もう一返うちでよく考えてみま
せ ん か 」
こうみょう
おれの頭はあまりえらくないのだから、いつもなら、相手がこういう 巧 妙 な弁舌
ふる おそ
を 揮 えば、おやそうかな、それじゃ、おれが間違ってたと 恐 れ入って引きさがるのだけ
れども、今夜はそうは行かない。ここへ来た最初から赤シャツは何だか虫が好かなかった。
とちゅう
途 中 で親切な女みたような男だと思い返した事はあるが、それが親切でも何でもなさ
いや
そうなので、反動の結果今じゃよっぽど 厭 になっている。だから先がどれほどうまく論理
たくまし
的に弁論を 逞 くしようとも、堂々たる教頭流におれを遣り込めようとも、そんな事
は構わない。議論のいい人が善人とはきまらない。遣り込められる方が悪人とは限らない。
ほ
表向きは赤シャツの方が重々もっともだが、表向きがいくら立派だって、腹の中まで 惚れさ
いりょく りくつ
せる訳には行かない。金や 威 力 や 理 屈 で人間の心が買える者なら、高利貸でも
じゅんさ
巡 査 でも大学教授でも一番人に好かれなくてはならない。中学の教頭ぐらいな論法で
おれの心がどう動くものか。人間は好き嫌いで働くものだ。論法で働くものじゃない。
「あなたの云う事はもっともですが、僕は増給がいやになったんですから、まあ断わります。
考えたって同じ事です。さようなら」と云いすてて門を出た。頭の上には天の川が一筋かか
っ て い る 。
九
やまあらし とつぜん
うらなり君の送別会のあるという日の朝、学校へ出たら、 山 嵐 が 突 然 、君先
たの
だってはいか銀が来て、君が乱暴して困るから、どうか出るように話してくれと 頼 んだか
まじめ わ
ら、真 面 目に受けて、君に出てやれと話したのだが、あとから聞いてみると、あいつは 悪る
やつ ぎひつ にせらっかん お
い 奴 で、よく 偽 筆 へ 贋 落 款 などを 押して売りつけるそうだから、全く君の事
もう
てたところが、君が取り合わないで 儲 けがないものだから、あんな作りごとをこしらえて
ごまか かんべん
胡 魔 化したのだ。僕はあの人物を知らなかったので君に大変失敬した 勘 弁 したまえ
と 長 々 し い 謝 罪 を し た 。
りん がまぐち
おれは何とも云わずに、山嵐の机の上にあった、一銭五 厘 をとって、おれの 蝦 蟇 口 の
こ ふしん
なかへ入れた。山嵐は君それを引き 込めるのかと 不 審 そうに聞くから、うんおれは君に
おご
奢 られるのが、いやだったから、是非返すつもりでいたが、その後だんだん考えてみると、
やっぱり奢ってもらう方がいいようだから、引き込ますんだと説明した。山嵐は大きな声を
してアハハハと笑いながら、そんなら、なぜ早く取らなかったのだと聞いた。実は取ろう取
みょう
ろうと思ってたが、何だか 妙 だからそのままにしておいた。近来は学校へ来て一銭五厘
お
を見るのが苦になるくらいいやだったと云ったら、君はよっぽど負け 惜しみの強い男だと
ごうじょうっぱ
云うから、君はよっぽど 剛 情 張 りだと答えてやった。それから二人の間にこんな
おこ
問 答 が 起 っ た 。
「 君 は 一 体 ど こ の 産 だ 」
えど
「 お れ は 江 戸っ 子 だ 」
「 う ん 、 江 戸 っ 子 か 、 道 理 で 負 け 惜 し み が 強 い と 思 っ た 」
「 き み は ど こ だ 」
あいづ
「 僕 は 会 津だ 」
「 会 津 っ ぽ か 、 強 情 な 訳 だ 。 今 日 の 送 別 会 へ 行 く の か い 」
「 行 く と も 、 君 は ? 」
はま
「おれは無論行くんだ。古賀さんが立つ時は、 浜 まで見送りに行こうと思ってるくらいだ」
「送別会は面白いぜ、出て見たまえ。今日は大いに飲むつもりだ」
さかな ばか
「勝手に飲むがいい。おれは 肴 を食ったら、すぐ帰る。酒なんか飲む奴は 馬 鹿だ」
けんか ふ か けいちょう
「君はすぐ 喧 嘩 を 吹き 懸ける男だ。なるほど江戸っ子の 軽 跳 な風を、よく、あらわ
し て る 」
はな
「何でもいい、送別会へ行く前にちょっとおれのうちへお寄り、 話 しがあるから」
やくそく
山嵐は 約 束 通りおれの下宿へ寄った。おれはこの間から、うらなり君の顔を見る度
あわ
に気の毒でたまらなかったが、いよいよ送別の今日となったら、何だか 憐 れっぽくって、
出来る事なら、おれが代りに行ってやりたい様な気がしだした。それで送別会の席上で、大
さかん
いに演説でもしてその行を 盛 にしてやりたいと思うのだが、おれのべらんめえ調子じ
とうてい やと
ゃ、 到 底 物にならないから、大きな声を出す山嵐を 雇 って、一番赤シャツの
あらぎも ひし
荒 肝 を 挫 いでやろうと考え付いたから、わざわざ山嵐を呼んだのである。
ぼうとう
おれはまず 冒 頭 としてマドンナ事件から説き出したが、山嵐は無論マドンナ事件は
くわ のぜりがわ ばかやろう
おれより 詳 しく知っている。おれが 野 芹 川 の土手の話をして、あれは 馬 鹿 野 郎
つら よば
だと云ったら、山嵐は君はだれを 捕 まえても馬鹿 呼 わりをする。今日学校で自分の事
を馬鹿と云ったじゃないか。自分が馬鹿なら、赤シャツは馬鹿じゃない。自分は赤シャツの
ふぬ ほうすけ
同類じゃないと主張した。それじゃ赤シャツは 腑 抜けの 呆 助 だと云ったら、そうかも
しれないと山嵐は大いに賛成した。山嵐は強い事は強いが、こんな言葉になると、おれより
はる
遥 かに字を知っていない。会津っぽなんてものはみんな、こんな、ものなんだろう。
それから増給事件と将来重く登用すると赤シャツが云った話をしたら山嵐はふふんと鼻
めんしょく
から声を出して、それじゃ僕を 免 職 する考えだなと云った。免職するつもりだって、
だれ
君は免職になる気かと聞いたら、 誰 がなるものか、自分が免職になるなら、赤シャツもい
いば
っしょに免職させてやると大いに 威 張った。どうしていっしょに免職させる気かと押し返
たず ちえ
して 尋 ねたら、そこはまだ考えていないと答えた。山嵐は強そうだが、智 慧はあまりなさ
こと
そうだ。おれが増給を 断 わったと話したら、大将大きに喜んでさすが江戸っ子だ、えらい
ほ
と 賞め て く れ た 。
いや
うらなりが、そんなに 厭 がっているなら、なぜ留任の運動をしてやらなかったと聞いて
すで
みたら、うらなりから話を聞いた時は、 既 にきまってしまって、校長へ二度、赤シャツへ一
度行って談判してみたが、どうする事も出来なかったと話した。それについても古賀があま
り好人物過ぎるから困る。赤シャツから話があった時、断然断わるか、一応考えてみますと
に そくせき きょだく
逃げればいいのに、あの弁舌に胡魔化されて、 即 席 に 許 諾 したものだから、あと
っか
からお 母 さんが泣きついても、自分が談判に行っても役に立たなかったと非常に残念が
っ た 。
今度の事件は全く赤シャツが、うらなりを遠ざけて、マドンナを手に入れる策略なんだろ
おとな
うとおれが云ったら、無論そうに違いない。あいつは 大 人 しい顔をして、悪事を働いて、人
てっけんせいさい こぶ うで
あんな奴にかかっては 鉄 拳 制 裁 でなくっちゃ利かないと、 瘤 だらけの 腕 を
じゅうじゅつ
まくってみせた。おれはついでだから、君の腕は強そうだな 柔 術 でもやるかと聞
つか
いてみた。すると大将二の腕へ力瘤を入れて、ちょっと 攫 んでみろと云うから、指の先で
も
揉ん で み た ら 、 何 の 事 は な い 湯 屋 に あ る 軽 石 の 様 な も の だ 。
おれはあまり感心したから、君そのくらいの腕なら、赤シャツの五人や六人は一度に張り
の
飛ばされるだろうと聞いたら、無論さと云いながら、曲げた腕を 伸ばしたり、縮ましたりす
かいてん ゆかい
ると、力瘤がぐるりぐるりと皮のなかで 廻 転 する。すこぶる 愉 快 だ。山嵐の証明す
よ
る所によると、かんじん 綯りを二本より合せて、この力瘤の出る所へ巻きつけて、うんと腕
を曲げると、ぷつりと切れるそうだ。かんじんよりなら、おれにも出来そうだと云ったら、出
来るものか、出来るならやってみろと来た。切れないと外聞がわるいから、おれは見合せた。
なぐ
君どうだ、今夜の送別会に大いに飲んだあと、赤シャツと野だを 撲 ってやらないかと面
白半分に勧めてみたら、山嵐はそうだなと考えていたが、今夜はまあよそうと云った。なぜ
と聞くと、今夜は古賀に気の毒だから――それにどうせ撲るくらいなら、あいつらの悪るい
所を見届けて現場で撲らなくっちゃ、こっちの落度になるからと、分別のありそうな事を
つけた
附 加し た 。 山 嵐 で も お れ よ り は 考 え が あ る と 見 え る 。
じゃ演説をして古賀君を大いにほめてやれ、おれがすると江戸っ子のぺらぺらになって
りゅういん のど
重みがなくていけない。そうして、きまった所へ出ると、急に 溜 飲 が起って 咽 喉の
たま ゆず
所へ、大きな 丸 が上がって来て言葉が出ないから、君に 譲 るからと云ったら、妙な病気
だな、じゃ君は人中じゃ口は利けないんだね、困るだろう、と聞くから、何そんなに困りゃし
な い と 答 え て お い た 。
かしんてい
そうこうするうち時間が来たから、山嵐と一所に会場へ行く。会場は 花 晨 亭 といっ
ここ
て、当 地で第一等の料理屋だそうだが、おれは一度も足を入れた事がない。もとの家老とか
やしき みかけ いか
の 屋 敷 を買い入れて、そのまま開業したという話だが、なるほど 見 懸 からして 厳 め
じんばおり ぬ どうぎ
しい構えだ。家老の屋敷が料理屋になるのは、 陣 羽 織 を 縫い直して、 胴 着 にする様
な も の だ 。
かたまり とこ
つ人間の 塊 が出来ている。五十畳だけに 床 は素敵に大きい。おれが山城屋で
せんりょう
占 領 した十五畳敷の床とは比較にならない。尺を取ってみたら二間あった。右の方
かめ す まつ えだ さ
に、赤い模様のある瀬戸物の 瓶 を 据えて、その中に 松 の大きな 枝 が 挿してある。松
の枝を挿して何にする
気か知らないが、何ヶ月立っても散る気遣いがないから、銭が懸らなくって、よかろう。あの
いまり
瀬戸物はどこで出来るんだと博物の教師に聞いたら、あれは瀬戸物じゃありません、伊 万 里
ですと云った。伊万里だって瀬戸物じゃないかと、云ったら、博物はえへへへへと笑ってい
た。あとで聞いてみたら、瀬戸で出来る焼物だから、瀬戸と云うのだそうだ。おれは江戸っ子
とうき
だから、 陶 器 の事を瀬戸物というのかと思っていた。床の真中に大きな懸物があって、お
へた まず
れの顔くらいな大きさな字が二十八字かいてある。どうも 下 手なものだ。あんまり 不 味い
れいれい たず
から、漢学の先生に、なぜあんなまずいものを 麗 々 と懸けておくんですと 尋 ねたと
かいおく
ころ、先生はあれは 海 屋 といって有名な書家のかいた者だと教えてくれた。海屋だか
何 だ か 、 お れ は 今 だ に 下 手 だ と 思 っ て い る 。
よ
やがて書記の川村がどうかお着席をと云うから、柱があって 靠りかかるのに都合のいい
じんど
同じく羽織袴で 陣 取 った。右の方は主人公だというのでうらなり先生、これも日本服で
ひか きゅうくつ あぐら
控 えている。おれは洋服だから、かしこまるのが 窮 屈 だったから、すぐ 胡 坐 を
とな たいそう
かいた。 隣 りの 体 操 教師は黒ずぼん で、ちゃんとかしこまっている。体操の教師だ
ぜん とくり なら
けにいやに修行が積んでいる。やがてお 膳 が出る。 徳 利 が 並 ぶ。幹事が立って、
いちごん た
一 言 開会の辞を述べる。それから狸が立つ。赤シャツが 起つ。ことごとく送別の辞を述
ふいちょう
べたが、三人共申し合せたようにうらなり君の、良教師で好人物な事を 吹 聴 して、今
回去られるのはまことに残念である、学校としてのみならず、個人として大いに惜しむとこ
いた かた
ろであるが、ご一身上のご都合で、切に転任をご希望になったのだから 致 し 方 がない
うそ はず
という意味を述べた。こんな 嘘 をついて送別会を開いて、それでちっとも 恥 かしいと
も思っていない。ことに赤シャツに至って三人のうちで一番うらなり君をほめた。この良友
を失うのは実に自分にとって大なる不幸であるとまで云った。しかもそのいい方がいかに
も、もっともらしくって、例のやさしい声を一層やさしくして、述べ立てるのだから、始めて
きま ひっか
聞いたものは、誰でもきっとだまされるに 極 ってる。マドンナも大方この手で 引 掛 け
むかいがわ
たんだろう。赤シャツが送別の辞を述べ立てている最中、 向 側 に坐っていた山嵐が
いなびかり
おれの顔を見てちょっと 稲 光 をさした。おれは返電として、人指し指でべっかんこ
う を し て 見 せ た 。
うれ
赤シャツが座に復するのを待ちかねて、山嵐がぬっと立ち上がったから、おれは 嬉 しか
う
ったので、思わず手をぱちぱちと 拍った。すると狸を始め一同がことごとくおれの方を見た
には少々困った。山嵐は何を云うかと思うとただ今校長始めことに教頭は古賀君の転任を
いちじつ
非常に残念がられたが、私は少々反対で古賀君が 一 日 も早く当地を去られるのを希望
へきえん
しております。延岡は 僻 遠 の地で、当地に比べたら物質上の不便はあるだろう。が、聞
じゅんぼく
くところによれば風俗のすこぶる 淳 朴 な所で、職員生徒ことごとく
じょうだいぼくちょく ふ ま
上 代 樸 直 の気風を帯びているそうである。心にもないお世辞を 振り 蒔いた
おとしい
り、美しい顔をして君子を 陥 れたりするハイカラ野郎は一人もないと信ずるからし
わがはい
ない。 吾 輩 は大いに古賀君のためにこの転任を祝するのである。終りに臨んで君が延
えら いちじつ
るものを 択 んで 一 日 も早く円満なる家庭をかたち作って、かの不貞無節なるお
てんば ざんし
転 婆 を事実の上において 慚 死 せしめん事を希望します。えへんえへんと二つばかり大
せきばら たた
きな 咳 払 いをして席に着いた。おれは今度も手を 叩 こうと思ったが、またみんなが
かお
おれの 面 を見るといやだから、やめにしておいた。山嵐が坐ると今度はうらなり先生が起
ていねい はし いんぎん
った。先生はご 鄭 寧 に、自席から、座敷の 端 の末座まで行って、 慇 懃 に一同に
あいさつ
挨 拶 をした上、今般は一身上の都合で九州へ参る事になりましたについて、諸先生方
せいだい かんめい
が小生のためにこの 盛 大 なる送別会をお開き下さったのは、まことに 感 銘 の至
た ちょうだい
りに 堪えぬ次第で――ことにただ今は校長、教頭その他諸君の送別の辞を 頂 戴 して、
ありがた ふくよう
大いに 難 有 く 服 膺 する訳であります。私はこれから遠方へ参りますが、なにとぞ
あいこ もど
従前の通りお見捨てなくご 愛 顧 のほどを願います。とへえつく張って席に 戻 った。う
らなり君はどこまで人が好いんだか、ほとんど底が知れない。自分がこんなに馬鹿にされて
うやうや いっぺん
いる校長や、教頭に 恭 しくお礼を云っている。それも義理 一 遍 の挨拶ならだが、
しん
あの様子や、あの言葉つきや、あの顔つきから云うと、 心 から感謝しているらしい。こんな
聖人に真面目にお礼を云われたら、気の毒になって、赤面しそうなものだが狸も赤シャツも
きんちょう
真 面 目 に 謹 聴 し て い る ば か り だ 。
挨拶が済んだら、あちらでもチュー、こちらでもチュー、という音がする。おれも真似をし
しる くちとり かまぼこ
て 汁 を飲んでみたがまずいもんだ。 口 取 に 蒲 鉾 はついてるが、どす黒くて竹輪
理 を 食 っ た 事 が な い ん だ ろ う 。
かんどくり ひんぱん にぎ
そのうち 燗 徳 利 が 頻 繁 に往来し始めたら、四方が急に 賑 やかになった。野
さかずき
だ公は恭しく校長の前へ出て 盃 を頂いてる。いやな奴だ。うらなり君は順々に
けんしゅう いちじゅんめぐ
献 酬 をして、 一 巡 周 るつもりとみえる。はなはだご苦労である。うらなり
君がおれの前へ来て、一つ頂戴致しましょうと袴のひだを正して申し込まれたから、おれも
ぱい
窮屈にズボンのままかしこまって、一 盃 差し上げた。せっかく参って、すぐお別れになる
しゅったつ
のは残念ですね。ご 出 立 はいつです、是非浜までお見送りをしましょうと云ったら、
おお およ
うらなり君はいえご用 多 のところ決してそれには 及 びませんと答えた。うらなり君が
何 と 云 っ た っ て 、 お れ は 学 校 を 休 ん で 送 る 気 で い る 。
ぱい
それから一時間ほどするうちに席上は大分乱れて来る。まあ一 杯 、おや僕が飲めと云う
なが
たから便所へ行って、昔風な庭を星明りにすかして 眺 めていると山嵐が来た。どうださっ
こうぎ
きの演説はうまかったろう。と大分得意である。大賛成だが一ヶ所気に入らないと 抗 議 を
申 し 込 ん だ ら 、 ど こ が 不 賛 成 だ と 聞 い た 。
お
「美しい顔をして人を陥れるようなハイカラ野郎は延岡に 居らないから……と君は云った
ろ う 」
「 う ん 」
「 ハ イ カ ラ 野 郎 だ け で は 不 足 だ よ 」
「 じ ゃ 何 と 云 う ん だ 」
ねこっかぶ やし
「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、 猫 被 りの、香具師の、モモンガーの、岡
っ 引 き の 、 わ ん わ ん 鳴 け ば 犬 も 同 然 な 奴 と で も 云 う が い い 」
「おれには、そう舌は廻らない。君は能弁だ。第一単語を大変たくさん知ってる。それで
えんぜつ
演 舌 が 出 来 な い の は 不 思 議 だ 」
けんか
「なにこれは 喧 嘩 のときに使おうと思って、用心のために取っておく言葉さ。演舌となっ
ち ゃ 、 こ う は 出 な い 」
「 そ う か な 、 し か し ぺ ら ぺ ら 出 る ぜ 。 も う 一 遍 や っ て 見 た ま え 」
「何遍でもやるさいいか。――ハイカラ野郎のペテン師の、イカサマ師の……」と云いかけて
えんがわ か
いると、 椽 側 をどたばた云わして、二人ばかり、よろよろしながら 馳け出して来た。
にが
「両君そりゃひどい、――逃げるなんて、――僕が居るうちは決して 逃 さない、さあのみた
まえ。――いかさま師?――面白い、いかさま面白い。――さあ飲みたまえ」
よ
とおれと山嵐をぐいぐい引っ張って行く。実はこの両人共便所に来たのだが、酔ってるもん
あた
だから、便所へはいるのを忘れて、おれ等を引っ張るのだろう。酔っ払いは目の 中 る所へ
用 事 を 拵 え て 、 前 の 事 は す ぐ 忘 れ て し ま う ん だ ろ う 。
「さあ、諸君、いかさま師を引っ張って来た。さあ飲ましてくれたまえ。いかさま師をうんと
云 う ほ ど 、 酔 わ し て く れ た ま え 。 君 逃 げ ち ゃ い か ん 」
かべぎわ お
と逃げもせぬ、おれを 壁 際 へ 圧し付けた。諸方を見廻してみると、膳の上に満足な肴の
きれい つく えんせい
乗っているのは一つもない。自分の分を 奇 麗 に食い 尽 して、五六間先へ 遠 征 に出
た 奴 も い る 。 校 長 は い つ 帰 っ た か 姿 が 見 え な い 。
おど
ところへお座敷はこちら? と芸者が三四人はいって来た。おれも少し 驚 ろいたが、壁
とこばしら
際へ圧し付けられているんだから、じっとしてただ見ていた。すると今まで 床 柱 へ
こはく じまん くわ た
もたれて例の 琥 珀 のパイプを 自 慢 そうに 啣 えていた、赤シャツが急に 起って、座敷
むこ
を出にかかった。 向 うからはいって来た芸者の一人が、行き違いながら、笑って挨拶をし
きこ
た。その一人は一番若くて一番奇麗な奴だ。遠くで 聞 えなかったが、おや今晩はぐらい云
ったらしい。赤シャツは知らん顔をして出て行ったぎり、顔を出さなかった。大方校長のあ
おいか
と を 追 懸け て 帰 っ た ん だ ろ う 。
とき あ かんげい
芸者が来たら座敷中急に陽気になって、一同が 鬨 の声を 揚げて 歓 迎 したのかと
そうぞう つか
思うくらい、 騒 々 しい。そうしてある奴はなんこを 攫 む。その声の大きな事、まるで
あやつりにんぎょう じょうず
手を振るところは、ダーク一座の 操 人 形 よりよっぽど 上 手 だ。向うの
すみ しゃく
隅 ではおいお 酌 だ、と徳利を振ってみて、酒だ酒だと言い直している。どうもやかま
てもちぶさた
しくて騒々しくってたまらない。そのうちで 手 持 無 沙 汰 に下を向いて考え込んでるのは
おし
うらなり君ばかりである。自分のために送別会を開いてくれたのは、自分の転任を 惜 んで
の
くれるんじゃない。みんなが酒を 呑んで遊ぶためだ。自分独りが手持無沙汰で苦しむためだ。
こ ん な 送 別 会 な ら 、 開 い て も ら わ な い 方 が よ っ ぽ ど ま し だ 。
どうまごえ うた
しばらくしたら、めいめい 胴 間 声 を出して何か 唄 い始めた。おれの前へ来た一人
かか
の芸者が、あんた、なんぞ、唄いなはれ、と三味線を 抱 えたから、おれは唄わない、貴様唄っ
かね たいこ
てみろと云ったら、 金 や 太 鼓 でねえ、迷子の迷子の三太郎と、どんどこ、どんのちゃん
あ
ちきりん。叩いて廻って 逢われるものならば、わたしなんぞも、金や太鼓でどんどこ、どんの
ちゃんちきりんと叩いて廻って逢いたい人がある、と二た息にうたって、おおしんどと云っ
た 。 お お し ん ど な ら 、 も っ と 楽 な も の を や れ ば い い の に 。
そば
すると、いつの間にか 傍 へ来て坐った、野だが、鈴ちゃん逢いたい人に逢ったと思った
はな
ら、すぐお帰りで、お気の毒さまみたようでげすと相変らず 噺 し家みたような言葉使いを
とんじゃく
する。知りまへんと芸者はつんと済ました。野だは 頓 着 なく、たまたま逢いは逢いな
ぎだゆう まね
がら……と、いやな声を出して 義 太 夫 の 真 似をやる。おきなはれやと芸者は平手で野だ
ひざ きょうえつ
の 膝 を叩いたら野だは 恐 悦 して笑ってる。この芸者は赤シャツに挨拶をした奴
き おど
だ。芸者に叩かれて笑うなんて、野だもおめでたい者だ。鈴ちゃん僕が紀伊の国を 踴 るか
ひ
ら 、 一 つ 弾い て 頂 戴 と 云 い 出 し た 。 野 だ は こ の 上 ま だ 踴 る 気 で い る 。
じい ゆが でんべい
向うの方で漢学のお 爺 さんが歯のない口を 歪 めて、そりゃ聞えません 伝 兵 衛 さ
すま
ん、お前とわたしのその中は……とまでは無事に 済 したが、それから? と芸者に聞いて
つら ちかごろ
いる。爺さんなんて物覚えのわるいものだ。一人が博物を 捕 まえて 近 頃 こないなの
かげつまき
が、でけましたぜ、弾いてみまほうか。よう聞いて、いなはれや―― 花 月 巻 、白いリボン
はんか
のハイカラ頭、乗るは自転車、弾くはヴァイオリン、半 可 の英語でぺらぺらと、I am glad
to see you と 唄 う と 、 博 物 は な る ほ ど 面 白 い 、 英 語 入 り だ ね と 感 心 し て い る 。
けんぶ
山嵐は馬鹿に大きな声を出して、芸者、芸者と呼んで、おれが 剣 舞 をやるから、三味線を
弾けと号令を下した。芸者はあまり乱暴な声なので、あっけに取られて返事もしない。山嵐
ふみやぶるせんざんばんがくのけむり
は委細構わず、ステッキを持って来て、 踏 破 千 山 万 岳 烟 と
まんなか かく き
真 中 へ出て独りで 隠 し芸を演じている。ところへ野だがすでに紀伊の国を済まして、
しゅろぼうき か はれつ
つになって、 棕 梠 箒 を小脇に 抱い込んで、日清談判 破 裂 して……と座敷中練りあ
きちが
る き 出 し た 。 ま る で 気 違い だ 。
ぬ
おれはさっきから苦しそうに袴も 脱がず控えているうらなり君が気の毒でたまらなかっ
はだかおどり がまん
たが、なんぼ自分の送別会だって、越中褌の 裸 踴 まで羽織袴で 我 慢 してみてい
る必要はあるまいと思ったから、そばへ行って、古賀さんもう帰りましょうと退去を勧めて
みた。するとうらなり君は今日は私の送別会だから、私が先へ帰っては失礼です、どうぞご
えんりょ
遠 慮 なくと動く景色もない。なに構うもんですか、送別会なら、送別会らしくするがい
きちがいかい
いです、あの様をご覧なさい。 気 狂 会 です。さあ行きましょうと、進まないのを無理
に勧めて、座敷を出かかるところへ、野だが箒を振り振り進行して来て、やご主人が先へ帰
ふさ
るとはひどい。日清談判だ。帰せないと箒を横にして行く手を 塞 いだ。おれはさっきから
かんしゃく
肝 癪 が起っているところだから、日清談判なら貴様はちゃんちゃんだろうと、いき
げんこつ く
なり 拳 骨 で、野だの頭をぽかりと 喰わしてやった。野だは二三秒の間毒気を抜かれた
てい ぶ
体 で、ぼんやりしていたが、おやこれはひどい。お 撲ちになったのは情ない。この吉川をご
ちょうちゃく
打 擲 とは恐れ入った。いよいよもって日清談判だ。とわからぬ事をならべている
そうどう
ところへ、うしろから山嵐が何か 騒 動 が始まったと見てとって、剣舞をやめて、飛んで
くびすじ つか もど
きたが、このていたらくを見て、いきなり 頸 筋 をうんと 攫 んで引き 戻 した。日清
ねじ
……いたい。いたい。どうもこれは乱暴だと振りもがくところを横に 捩 ったら、すとんと
たお とちゅう
倒 れた。あとはどうなったか知らない。 途 中 でうらなり君に別れて、うちへ帰ったら
十 一 時 過 ぎ だ っ た 。
十
れんぺいば たぬき
祝勝会で学校はお休みだ。 練 兵 場 で式があるというので、 狸 は生徒を引率して
ひとり
参列しなくてはならない。おれも職員の 一 人 としていっしょにくっついて行くんだ。町へ
出ると日の丸だらけで、まぼしいくらいである。学校の生徒は八百人もあるのだから、体操
たいご ふたり
の教師が 隊 伍 を整えて、一組一組の間を少しずつ明けて、それへ職員が一人か 二 人 ず
こども
が、実際はすこぶる不手際である。生徒は 小 供 の上に、生意気で、規律を破らなくっては生
やつら いくたり
徒の体面にかかわると思ってる 奴 等 だから、職員が 幾 人 ついて行ったって何の役
に立つもんか。命令も下さないのに勝手な軍歌をうたったり、軍歌をやめるとワーと訳もな
とき あ ろうにん
いのに 鬨 の声を 揚げたり、まるで 浪 人 が町内をねりあるいてるようなものだ。軍歌
しゃべ
も鬨の声も揚げない時はがやがや何か 喋 舌 ってる。喋舌らないでも歩けそうなもんだが、
い
日本人はみな口から先へ生れるのだから、いくら小言を 云ったって聞きっこない。喋舌るの
もただ喋舌るのではない、教師のわる口を喋舌るんだから、下等だ。おれは宿直事件で生徒
おおちが
を謝罪さして、まあこれならよかろうと思っていた。ところが実際は 大 違 いである。下
ばあ かんごろう
宿の 婆 さんの言葉を借りて云えば、正に大違いの 勘 五 郎 である。生徒があやまった
しん こうかい
のは 心 から 後 悔 してあやまったのではない。ただ校長から、命令されて、形式的に頭
ずる
を下げたのである。商人が頭ばかり下げて、 狡 い事をやめないのと一般で生徒も謝罪だけ
はするが、いたずらは決してやめるものでない。よく考えてみると世の中はみんなこの生徒
わ
のようなものから成立しているかも知れない。人があやまったり 詫びたりするのを、
まじめ ばか
真 面 目に受けて勘弁するのは正直過ぎる 馬 鹿と云うんだろう。あやまるのも仮りにあやま
さ つか
るので、勘弁するのも仮りに勘弁するのだと思ってれば 差し 支 えない。もし本当にあやま
たた
らせる気なら、本当に後悔するまで 叩 きつけなくてはいけない。
てんぷら だんご
おれが組と組の間にはいって行くと、 天 麩 羅 だの、 団 子 だの、と云う声が絶えずす
だれ
る。しかも大勢だから、 誰 が云うのだか分らない。よし分ってもおれの事を天麩羅と云っ
しんけいすいじゃく
たんじゃありません、団子と申したのじゃありません、それは先生が 神 経 衰 弱
き ひれつ
だから、ひがんで、そう聞くんだぐらい云うに 極まってる。こんな 卑 劣 な根性は封建時代
から、養成したこの土地の習慣なんだから、いくら云って聞かしたって、教えてやったって、
とうてい まね
到 底 直りっこない。こんな土地に一年も居ると、潔白なおれも、この 真 似をしなければ
むこ ぬ
ならなく、なるかも知れない。 向 うでうまく言い 抜けられるような手段で、おれの顔を
よご ほう ちょぼいち
汚 すのを 抛 っておく、樗 蒲 一 はない。向こうが人ならおれも人だ。生徒だって、子
けいばつ
供だって、ずう体はおれより大きいや。だから 刑 罰 として何か返報をしてやらなくっ
じんじょう
ては義理がわるい。ところがこっちから返報をする時分に 尋 常 の手段で行くと、向
さかねじ に みち
うから 逆 捩 を食わして来る。貴様がわるいからだと云うと、初手から 逃げ 路 が作っ
とうとう
てある事だから 滔 々 と弁じ立てる。弁じ立てておいて、自分の方を表向きだけ立派に
こうげき
してそれからこっちの非を 攻 撃 する。もともと返報にした事だから、こちらの弁護は
向うの非が挙がらない上は弁護にならない。つまりは向うから手を出しておいて、世間体は
けんか みな
こっちが仕掛けた 喧 嘩 のように、見 傚されてしまう。大変な不利益だ。それなら向うのや
ぐうたらどうじ
るなり、愚 迂 多 良 童 子 を極め込んでいれば、向うはますます増長するばかり、大きく云
つら
えば世の中のためにならない。そこで仕方がないから、こっちも向うの筆法を用いて 捕 ま
えど
えられないで、手の付けようのない返報をしなくてはならなくなる。そうなっては 江 戸っ子
だめ
も 駄 目だ。駄目だが一年もこうやられる以上は、おれも人間だから駄目でも何でもそうなら
きよ
なくっちゃ始末がつかない。どうしても早く東京へ帰って 清 といっしょになるに限る。こ
いなか だらく
んな 田 舎 に居るのは 堕 落 しに来ているようなものだ。新聞配達をしたって、ここまで
堕 落 す る よ り は ま し だ 。
つ せんぽう さわ
こう考えて、いやいや、附いてくると、何だか 先 鋒 が急にがやがや 騒 ぎ出した。同
おおてまち つ
時に列はぴたりと留まる。変だから、列を右へはずして、向うを見ると、 大 手 町 を 突き
やくしまち づま お
当って 薬 師 町 へ曲がる角の所で、行き 詰 ったぎり、押し返したり、押し返されたり
も か
して 揉み合っている。前方から静かに静かにと声を 涸らして来た体操教師に何ですと聞く
しはん しょうとつ
と 、 曲 り 角 で 中 学 校 と 師 範学 校 が 衝 突 し た ん だ と 云 う 。
さる
中学と師範とはどこの県下でも犬と 猿 のように仲がわるいそうだ。なぜだかわからな
せま たいくつ
いが、まるで気風が合わない。何かあると喧嘩をする。大方 狭 い田舎で 退 屈 だから、
ひまつぶ
暇 潰 しにやる仕事なんだろう。おれは喧嘩は好きな方だから、衝突と聞いて、面白半分
か くせ
に 馳け出して行った。すると前の方にいる連中は、しきりに何だ地方税の 癖 に、引き込め
どな じゃま
と、怒 鳴ってる。後ろからは押せ押せと大きな声を出す。おれは 邪 魔 になる生徒の間をく
するど
ぐり抜けて、曲がり角へもう少しで出ようとした時に、前へ! と云う高く 鋭 い号令が
きこ しゅくしゅく
聞 えたと思ったら師範学校の方は 粛 粛 として行進を始めた。先を争った衝突
そうい ゆず
は、折合がついたには 相 違 ないが、つまり中学校が一歩を 譲 ったのである。資格から云
う と 師 範 学 校 の 方 が 上 だ そ う だ 。
祝勝の式はすこぶる簡単なものであった。旅団長が祝詞を読む、知事が祝詞を読む、参列
ばんざい
者が 万 歳 を唱える。それでおしまいだ。余興は午後にあると云う話だから、ひとまず下
かか
宿へ帰って、こないだじゅうから、気に 掛 っていた、清への返事をかきかけた。今度はもっ
くわ ねんいり したた
と 詳 しく書いてくれとの注文だから、なるべく 念 入 に 認 めなくっちゃならな
はんきれ
い。しかしいざとなって、 半 切 を取り上げると、書く事はたくさんあるが、何から書き
めんどうくさ
出していいか、わからない。あれにしようか、あれは 面 倒 臭 い。これにしようか、これ
はつまらない。何か、すらすらと出て、骨が折れなくって、そうして清が面白がるようなもの
すみ
はないかしらん、と考えてみると、そんな注文通りの事件は一つもなさそうだ。おれは 墨
す にら
を 磨って、筆をしめして、巻紙を 睨 めて、――巻紙を睨めて、筆をしめして、墨を磨って―
く
―同じ所作を同じように何返も 繰り返したあと、おれには、とても手紙は書けるものではな
あきら すずり ふた
いと、 諦 めて 硯 の 蓋 をしてしまった。手紙なんぞをかくのは面倒臭い。やっぱ
あ
り東京まで出掛けて行って、逢って話をするのが簡便だ。清の心配は察しないでもないが、
だんじき
清 の 注 文 通 り の 手 紙 を 書 く の は 三 七 日 の 断 食 よ り も 苦 し い 。
ほう ひじまくら にわ なが
おれは筆と巻紙を 抛 り出して、ごろりと転がって 肱 枕 をして 庭 の方を 眺
めてみたが、やっぱり清の事が気にかかる。その時おれはこう思った。こうして遠くへ来て
まこと
まで、清の身の上を案じていてやりさえすれば、おれの 真 心 は清に通じるに違いない。通
くら
じさえすれば手紙なんぞやる必要はない。やらなければ無事で 暮 してると思ってるだろ
う。たよりは死んだ時か病気の時か、何か事の起った時にやりさえすればいい訳だ。
とつぼ みかん へい
庭は 十 坪 ほどの平庭で、これという植木もない。ただ一本の 蜜 柑 があって、 塀 の
めじるし
そとから、 目 標 になるほど高い。おれはうちへ帰ると、いつでもこの蜜柑を眺める。東
な めずら
京を出た事のないものには蜜柑の 生っているところはすこぶる 珍 しいものだ。あの青
きれい
い実がだんだん熟してきて、黄色になるんだろうが、定めて 奇 麗 だろう。今でももう半分
ばあ うま
色の変ったのがある。 婆 さんに聞いてみると、すこぶる水気の多い、 旨 い蜜柑だそうだ。
うれ め
今に 熟 たら、たんと 召し上がれと云ったから、毎日少しずつ食ってやろう。もう三週間も
じゅうぶん
したら、 充 分 食えるだろう。まさか三週間以内にここを去る事もなかろう。
ぐうぜんやまあらし
おれが蜜柑の事を考えているところへ、 偶 然 山 嵐 が話しにやって来た。今日
ちそう
は祝勝会だから、君といっしょにご 馳 走 を食おうと思って牛肉を買って来たと、竹の皮の
いもぜめ そば だんご
芋 責 豆腐責になってる上、蕎 麦屋行き、 団 子 屋行きを禁じられてる際だから、そい
なべ にかた
つは結構だと、すぐ婆さんから 鍋 と砂糖をかり込んで、 煮 方 に取りかかった。
ってるかと聞くから、知ってるとも、この間うらなりの送別会の時に来た一人がそうだろう
ぼく ごろ びんしょう
と云ったら、そうだ 僕 はこの 頃 ようやく勘づいたのに、君はなかなか 敏 捷 だと
大 い に ほ め た 。
ごらく くせ まわ
「あいつは、ふた言目には品性だの、精神的 娯 楽 だのと云う 癖 に、裏へ 廻 って、芸者
け やつ かんよう
と関係なんかつけとる、怪しからん 奴 だ。それもほかの人が遊ぶのを 寛 容 するなら
とりしまりじょう
いいが、君が蕎麦屋へ行ったり、団子屋へはいるのさえ 取 締 上 害になると云っ
て 、 校 長 の 口 を 通 し て 注 意 を 加 え た じ ゃ な い か 」
「うん、あの野郎の考えじゃ芸者買は精神的娯楽で、天麩羅や、団子は物理的娯楽なんだろう。
ざま
精神的娯楽なら、もっと大べらにやるがいい。何だあの 様 は。馴染の芸者がはいってくる
ごまか
と、入れ代りに席をはずして、逃げるなんて、どこまでも人を 胡 魔 化す気だから気に食わな
こうげき ロシア
い。そうして人が 攻 撃 すると、僕は知らないとか、露 西 亜文学だとか、俳句が新体詩の
けむ ま
兄弟分だとか云って、人を 烟 に 捲くつもりなんだ。あんな弱虫は男じゃないよ。全く
ごてんじょちゅう
御 殿 女 中 の生れ変りか何かだぜ。ことによると、あいつのおやじは湯島のかげま
か も し れ な い 」
「 湯 島 の か げ ま た 何 だ 」
「何でも男らしくないもんだろう。――君そこのところはまだ煮えていないぜ。そんなのを
さなだむし わ
食 う と 絛 虫 が 湧く ぜ 」
たいていだいじょうぶ かく ゆ
「そうか、 大 抵 大 丈 夫 だろう。それで赤シャツは人に 隠 れて、温泉の町の
かどや
角 屋へ 行 っ て 、 芸 者 と 会 見 す る そ う だ 」
「 角 屋 っ て 、 あ の 宿 屋 か 」
「宿屋兼料理屋さ。だからあいつを一番へこますためには、あいつが芸者をつれて、あすこへ
めんきつ
は い り 込 む と こ ろ を 見 届 け て お い て 面 詰 す る ん だ ね 」
よばん
「 見 届 け る っ て 、 夜 番で も す る の か い 」
ますや しょうじ
「うん、角屋の前に 枡 屋 という宿屋があるだろう。あの表二階をかりて、 障 子 へ穴を
あ け て 、 見 て い る の さ 」
「 見 て い る と き に 来 る か い 」
「来るだろう。どうせひと晩じゃいけない。二週間ばかりやるつもりでなくっちゃ」
ずいぶん てつや
「 随 分 疲れるぜ。僕あ、おやじの死ぬとき一週間ばかり 徹 夜 して看病した事がある
が 、 あ と で ぼ ん や り し て 、 大 い に 弱 っ た 事 が あ る 」
かんぶつ
「少しぐらい身体が疲れたって構わんさ。あんな 奸 物 をあのままにしておくと、日本の
ちゅうりく
た め に な ら な い か ら 、 僕 が 天 に 代 っ て 誅 戮 を 加 え る ん だ 」
ゆかい
「 愉 快 だ。そう事が極まれば、おれも加勢してやる。それで今夜から夜番をやるのかい」
かけあ
「 ま だ 枡 屋 に 懸 合っ て な い か ら 、 今 夜 は 駄 目 だ 」
「 そ れ じ ゃ 、 い つ か ら 始 め る つ も り だ い 」
「近々のうちやるさ。いずれ君に報知をするから、そうしたら、加勢してくれたまえ」
ぼく はかりごと へた
「よろしい、いつでも加勢する。 僕 は 計 略 は 下 手だが、喧嘩とくるとこれでなかな
か す ば し こ い ぜ 」
はかりごと
おれと山嵐がしきりに赤シャツ退治の 計 略 を相談していると、宿の婆さんが出て
ほった い
来て、学校の生徒さんが一人、堀 田 先生にお目にかかりたいててお 出でたぞなもし。今お
るす さが
宅へ参じたのじゃが、お 留 守じゃけれ、大方ここじゃろうてて 捜 し当ててお出でたのじ
しきい ひざ つ
ゃがなもしと、 閾 の所へ 膝 を 突いて山嵐の返事を待ってる。山嵐はそうですかと
げんかん
玄 関 まで出て行ったが、やがて帰って来て、君、生徒が祝勝会の余興を見に行かないか
さそ こうち おど
って 誘 いに来たんだ。今日は 高 知 から、何とか 踴 りをしに、わざわざここまで
たにんず おどり
多 人 数 乗り込んで来ているのだから、是非見物しろ、めったに見られない 踴 だとい
うんだ、君もいっしょに行ってみたまえと山嵐は大いに乗り気で、おれに同行を勧める。お
はちまんさま
れは踴なら東京でたくさん見ている。毎年 八 幡 様 のお祭りには屋台が町内へ廻って
しおく
くるんだから 汐 酌 みでも何でもちゃんと心得ている。土佐っぽの馬鹿踴なんか、見たくも
ないと思ったけれども、せっかく山嵐が勧めるもんだから、つい行く気になって門へ出た。
みょう やつ
山嵐を誘いに来たものは誰かと思ったら赤シャツの弟だ。 妙 な 奴 が来たもんだ。
いくながれ
幾 旒 となく長い旗を所々に植え付けた上に、世界万国の国旗をことごとく借りて来
なわ つな わた にぎ
たくらい、 縄 から縄、 綱 から綱へ 渡 しかけて、大きな空が、いつになく 賑 やかに見
すみ ぶたい
える。東の 隅 に一夜作りの 舞 台 を設けて、ここでいわゆる高知の何とか踴りをやるん
ある。みんなが感心して眺めているが、一向くだらないものだ。あんなに草や竹を曲げて
うれ びっこ ていしゅ じまん
嬉 しがるなら、背虫の色男や、 跛 の 亭 主 を持って 自 慢 するがよかろう。
舞台とは反対の方面で、しきりに花火を揚げる。花火の中から風船が出た。
ていこくばんざい
帝 国 万 歳 とかいてある。天主の松の上をふわふわ飛んで営所のなかへ落ちた。次
いぬ あ
はぽんと音がして、黒い団子が、しょっと秋の空を 射 抜くように 揚がると、それがおれの頭
けむり かさ
の上で、ぽかりと割れて、青い 烟 が 傘 の骨のように開いて、だらだらと空中に流れ込
んだ。風船がまた上がった。今度は陸海軍万歳と赤地に白く染め抜いた奴が風に揺られて、
ゆ あいおいむら けいだい
温泉の町から、 相 生 村 の方へ飛んでいった。大方観音様の 境 内 へでも落ちたろ
う 。
式の時はさほどでもなかったが、今度は大変な人出だ。田舎にもこんなに人間が住んでる
おど りこう
かと 驚 ろいたぐらいうじゃうじゃしている。 利 口 な顔はあまり見当らないが、数から
云うとたしかに馬鹿に出来ない。そのうち評判の高知の何とか踴が始まった。踴というから
藤間か何ぞのやる踴りかと早合点していたが、これは大間違いであった。
うしろはちまき た つ ばかま は
いかめしい 後 鉢 巻 をして、立っ 付け 袴 を 穿いた男が十人ばかりずつ、舞
なら さ たまげ
台の上に三列に 並 んで、その三十人がことごとく抜き身を 携げているには 魂 消 た。前
かんかく
列と後列の間はわずか一尺五寸ぐらいだろう、左右の 間 隔 はそれより短いとも長くは
はな はし はず
ない。たった一人列を 離 れて舞台の 端 に立ってるのがあるばかりだ。この仲間 外 れ
たいこ か
の男は袴だけはつけているが、後鉢巻は倹約して、抜身の代りに、胸へ 太 鼓 を 懸けている。
だいかぐら のんき
太鼓は 太 神 楽 の太鼓と同じ物だ。この男がやがて、いやあ、はああと 呑 気 な声を出
うた たた
して、妙な 謡 をうたいながら、太鼓をぼこぼん、ぼこぼんと 叩 く。歌の調子は前代未聞
間 違 い に は な ら な い 。
ゆうちょう みずあめ
歌はすこぶる 悠 長 なもので、夏分の 水 飴 のように、だらしがないが、句切り
ひょうし
をとるためにぼこぼんを入れるから、のべつのようでも 拍 子 は取れる。この拍子に応
じんそく
じて三十人の抜き身がぴかぴかと光るのだが、これはまたすこぶる 迅 速 なお手際で、
ひやひや とな
拝見していても 冷 々 する。 隣 りも後ろも一尺五寸以内に生きた人間が居て、その人
ふ ま そろ
間がまた切れる抜き身を自分と同じように 振り 舞わすのだから、よほど調子が 揃 わなけ
どうしうち けが
れば、 同 志 撃 を始めて 怪 我をする事になる。それも動かないで刀だけ前後とか上下と
あぶなく あしぶ
かに振るのなら、まだ 危 険 もないが、三十人が一度に 足 踏 みをして横を向く時があ
おそ
る。ぐるりと廻る事がある。膝を曲げる事がある。隣りのものが一秒でも早過ぎるか、 遅 過
ぎれば、自分の鼻は落ちるかも知れない。隣りの頭はそがれるかも知れない。抜き身の動く
はんい
のは自由自在だが、その動く 範 囲 は一尺五寸角の柱のうちにかぎられた上に、前後左右の
ものと同方向に同速度にひらめかなければならない。こいつは驚いた、なかなかもって
しおくみ せき と およ
汐 酌 や 関 の 戸の 及 ぶところでない。聞いてみると、これははなはだ熟練の入るも
ので容易な事では、こういう風に調子が合わないそうだ。ことにむずかしいのは、かの万歳
こし
節のぼこぼん先生だそうだ。三十人の足の運びも、手の働きも、 腰 の曲げ方も、ことごとく
はた
このぼこぼん君の拍子一つで極まるのだそうだ。 傍 で見ていると、この大将が一番呑気そ
うに、いやあ、はああと気楽にうたってるが、その実ははなはだ責任が重くって非常に骨が
折 れ る と は 不 思 議 な も の だ 。
おれと山嵐が感心のあまりこの踴を余念なく見物していると、半町ばかり、向うの方で急
おだ
にわっと云う鬨の声がして、今まで 穏 やかに諸所を縦覧していた連中が、にわかに波を打
うご そで くぐ
って、右左りに 揺 き始める。喧嘩だ喧嘩だと云う声がすると思うと、人の 袖 を 潜 り
ぬ けさ いしゅがえ
抜けて来た赤シャツの弟が、先生また喧嘩です、中学の方で、今 朝の 意 趣 返 しをする
しはん
んで、また 師 範 の奴と決戦を始めたところです、早く来て下さいと云いながらまた人の波
もぐ こ
の な か へ 潜 り 込ん で ど っ か へ 行 っ て し ま っ た 。
よ
山嵐は世話の焼ける小僧だまた始めたのか、いい加減にすればいいのにと逃げる人を 避
か しず
けながら一散に 馳け出した。見ている訳にも行かないから取り 鎮 めるつもりだろう。おれ
かかと
は無論の事逃げる気はない。山嵐の 踵 を踏んであとからすぐ現場へ馳けつけた。喧嘩は
まっさいちゅう
今が 真 最 中 である。師範の方は五六十人もあろうか、中学はたしかに三割方多い。
たいてい きが
師範は制服をつけているが、中学は式後 大 抵 は日本服に 着 換えているから、敵味方は
ほご
すぐわかる。しかし入り乱れて組んづ、 解 れつ戦ってるから、どこから、どう手を付けて引
き分けていいか分らない。山嵐は困ったなと云う風で、しばらくこの乱雑な有様を眺めてい
じゅんさ
たが、こうなっちゃ仕方がない。 巡 査 がくると面倒だ。飛び込んで分けようと、おれの
はげ おど
方を見て云うから、おれは返事もしないで、いきなり、一番喧嘩の 烈 しそうな所へ 躍 り
こ よ
込んだ。止せ止せ。そんな乱暴をすると学校の体面に関わる。よさないかと、出るだけの声を
つ ぬ うま
出して敵と味方の分界線らしい所を 突き 貫けようとしたが、なかなかそう 旨 くは行かな
ひかくてき
い。一二間はいったら、出る事も引く事も出来なくなった。目の前に 比 較 的 大きな師範
かた
生が、十五六の中学生と組み合っている。止せと云ったら、止さないかと師範生の 肩 を持
とたん
って、無理に引き分けようとする 途 端 にだれか知らないが、下からおれの足をすくった。
にぎ たお かた くつ
おれは不意を打たれて 握 った、肩を放して、横に 倒 れた。 堅 い 靴 でおれの背中の
は
上へ乗った奴がある。両手と膝を突いて下から、跳ね起きたら、乗った奴は右の方へころが
はさ
り落ちた。起き上がって見ると、三間ばかり向うに山嵐の大きな身体が生徒の間に 挟 まり
ながら、止せ止せ、喧嘩は止せ止せと揉み返されてるのが見えた。おい到底駄目だと云って
み た が 聞 え な い の か 返 事 も し な い 。
ほおぼね あた
ひゅうと風を切って飛んで来た石が、いきなりおれの 頬 骨 へ 中 ったなと思ったら、
ぼう くせ ぶ
後ろからも、背中を 棒 でどやした奴がある。教師の 癖 に出ている、打て打てと云う声が
な
する。教師は二人だ。大きい奴と、小さい奴だ。石を 抛げろ。と云う声もする。おれは、なに生
そば
意気な事をぬかすな、田舎者の癖にと、いきなり、 傍 に居た師範生の頭を張りつけてやっ
ぶがり かす
た。石がまたひゅうと来る。今度はおれの五 分 刈 の頭を 掠 めて後ろの方へ飛んで行っ
た。山嵐はどうなったか見えない。こうなっちゃ仕方がない。始めは喧嘩をとめにはいった
おそ
んだが、どやされたり、石をなげられたりして、 恐 れ入って引き下がるうんでれがんがあ
なり
るものか。おれを誰だと思うんだ。身 長は小さくっても喧嘩の本場で修行を積んだ兄さんだ
と無茶苦茶に張り飛ばしたり、張り飛ばされたりしていると、やがて巡査だ巡査だ逃げろ逃
くずね
げろと云う声がした。今まで 葛 練 りの中で泳いでるように身動きも出来なかったのが、急
たいきゃく
に楽になったと思ったら、敵も味方も一度に引上げてしまった。田舎者でも 退 却 は
巧 妙 だ 。 ク ロ パ ト キ ン よ り 旨 い く ら い で あ る 。
もんつき ひとえばおり
山嵐はどうしたかと見ると、 紋 付 の 一 重 羽 織 をずたずたにして、向うの方で鼻
ふ まっか
を 拭いている。鼻柱をなぐられて大分出血したんだそうだ。鼻がふくれ上がって 真 赤 に
かすり あわせ どろ
なってすこぶる見苦しい。おれは 飛 白 の 袷 を着ていたから 泥 だらけになったけ
ほっ
れども、山嵐の羽織ほどな損害はない。しかし 頬 ぺたがぴりぴりしてたまらない。山嵐は
大 分 血 が 出 て い る ぜ と 教 え て く れ た 。
つら
巡査は十五六名来たのだが、生徒は反対の方面から退却したので、 捕 まったのは、おれ
せいめい
と山嵐だけである。おれらは 姓 名 を告げて、一部始終を話したら、ともかくも警察まで
てんまつ
来いと云うから、警察へ行って、署長の前で事の 顛 末 を述べて下宿へ帰った。
十 一
め からだじゅう けんか
あくる日 眼が覚めてみると、 身 体 中 痛くてたまらない。久しく 喧 嘩 をしつけな
じまん とこ
かったから、こんなに答えるんだろう。これじゃあんまり 自 慢 もできないと 床 の中で
ばあ まくらもと
考えていると、 婆 さんが四国新聞を持ってきて 枕 元 へ置いてくれた。実は新聞を
たいぎ へこ
見るのも 退 儀 なんだが、男がこれしきの事に 閉 口たれて仕様があるものかと無理に
はらば ね おど
腹 這 いになって、寝ながら、二頁を開けてみると 驚 ろいた。昨日の喧嘩がちゃんと出て
ほったぼう ちかごろ
いる。喧嘩の出ているのは驚ろかないのだが、中学の教師 堀 田 某 と、 近 頃 東京か
むか
のみならず、両人は現場にあって生徒を指揮したる上、みだりに師範生に 向 って暴行をほ
ふき せきじ
しいままにしたりと書いて、次にこんな意見が 附 記してある。本県の中学は 昔 時 より善
ふんぜん た
奮 然 として 起ってその責任を問わざるを得ず。吾人は信ず、吾人が手を下す前に、当局
ぶらいかん かれら
者は相当の処分をこの 無 頼 漢 の上に加えて、 彼 等 をして再び教育界に足を入るる
きゅう す
余地なからしむる事を。そうして一字ごとにみんな黒点を加えて、お 灸 を 据えたつも
くそ く い
りでいる。おれは床の中で、 糞 でも 喰らえと 云いながら、むっくり飛び起きた。不思議な
ふしぶし
事に今まで身体の 関 節 が非常に痛かったのが、飛び起きると同時に忘れたように軽く
な っ た 。
な
おれは新聞を丸めて庭へ 抛げつけたが、それでもまだ気に入らなかったから、わざわざ
こうか す むやみ うそ つ
後 架 へ持って行って 棄てて来た。新聞なんて 無 暗 な 嘘 を 吐くもんだ。世の中に何が
ほら ふ
一番 法 螺を 吹くと云って、新聞ほどの法螺吹きはあるまい。おれの云ってしかるべき事をみ
むこ なら
んな 向 うで 並 べていやがる。それに近頃東京から赴任した生意気な某とは何だ。天下
せい
に某と云う名前の人があるか。考えてみろ。これでもれっきとした 姓 もあり名もあるんだ。
ただのまんじゅう ひとり
系図が見たけりゃ、 多 田 満 仲 以来の先祖を 一 人 残らず拝ましてやらあ。――
ほっ
顔を洗ったら、 頬 ぺたが急に痛くなった。婆さんに鏡をかせと云ったら、けさの新聞をお
おどろ
見たかなもしと聞く。読んで後架へ棄てて来た。欲しけりゃ拾って来いと云ったら、 驚
きのう
いて引き下がった。鏡で顔を見ると 昨 日 と同じように傷がついている。これでも大事な顔
だ、顔へ傷まで付けられた上へ生意気なる某などと、某呼ばわりをされればたくさんだ。
へきえき
今日の新聞に 辟 易 して学校を休んだなどと云われちゃ一生の名折れだから、飯を食
やつ
っていの一号に出頭した。出てくる 奴 も、出てくる奴もおれの顔を見て笑っている。何が
おかしいんだ。貴様達にこしらえてもらった顔じゃあるまいし。そのうち、野だが出て来て、
てがら めいよ なぐ
いや昨日はお 手 柄 で、―― 名 誉 のご負傷でげすか、と送別会の時に 撲 った返報と心
ひや な
得たのか、いやに 冷 かしたから、余計な事を言わずに絵筆でも 舐めていろと云ってやった。
おそれい
するとこりゃ 恐 入 りやした。しかしさぞお痛い事でげしょうと云うから、痛かろうが、
どな むこ
痛くなかろうがおれの面だ。貴様の世話になるもんかと 怒 鳴りつけてやったら、 向 う側
とな
の自席へ着いて、やっぱりおれの顔を見て、 隣 りの歴史の教師と何か内所話をして笑って
い る 。
むらさきいろ ぼうちょう ほ
それから山嵐が出頭した。山嵐の鼻に至っては、 紫 色 に 膨 張 して、掘っ
うみ うぬぼれ や
たら中から 膿 が出そうに見える。 自 惚 のせいか、おれの顔よりよっぽど手ひどく 遣
られている。おれと山嵐は机を並べて、隣り同志の近しい仲で、お負けにその机が部屋の戸
かた
口から真正面にあるんだから運がわるい。妙な顔が二つ 塊 まっている。ほかの奴は
たいくつ
退 屈 にさえなるときっとこっちばかり見る。飛んだ事でと口で云うが、心のうちでは
ばか そうい ささやきあ
この 馬 鹿がと思ってるに 相 違 ない。それでなければああいう風に 私 語 合 ってはく
むか ばんざい
すくす笑う訳がない。教場へ出ると生徒は拍手をもって 迎 えた。先生 万 歳 と云うも
のが二三人あった。景気がいいんだか、馬鹿にされてるんだか分からない。おれと山嵐がこ
しょうてん そば
んなに注意の 焼 点 となってるなかに、赤シャツばかりは平常の通り 傍 へ来て、ど
うも飛んだ災難でした。僕は君等に対してお気の毒でなりません。新聞の記事は校長とも相
こ
談して、正誤を申し 込む手続きにしておいたから、心配しなくてもいい。僕の弟が堀田君を
さそ おこ
誘 いに行ったから、こんな事が 起 ったので、僕は実に申し訳がない。それでこの件につ
じんりょく
いてはあくまで 尽 力 するつもりだから、どうかあしからず、などと半分謝罪的な言
葉を並べている。校長は三時間目に校長室から出てきて、困った事を新聞がかき出しました
ね。むずかしくならなければいいがと多少心配そうに見えた。おれには心配なんかない、先
めんしょく
で 免 職 をするなら、免職される前に辞表を出してしまうだけだ。しかし自分がわる
くないのにこっちから身を引くのは法螺吹きの新聞屋をますます増長させる訳だから、新
聞屋を正誤させて、おれが意地にも務めるのが順当だと考えた。帰りがけに新聞屋に談判に
とりけし
行こうと思ったが、学校から 取 消 の手続きはしたと云うから、やめた。
みはから
おれと山嵐は校長と教頭に時間の合間を 見 計 って、嘘のないところを一応説明した。
うら いだ
校長と教頭はそうだろう、新聞屋が学校に 恨 みを 抱 いて、あんな記事をことさらに
かか こうい ひかえじょ
掲 げたんだろうと論断した。赤シャツはおれ等の 行 為 を弁解しながら 控 所 を
まわ
一人ごとに 廻 ってあるいていた。ことに自分の弟が山嵐を誘い出したのを自分の過失で
ふいちょう け
あるかのごとく 吹 聴 していた。みんなは全く新聞屋がわるい、怪しからん、両君は実
に 災 難 だ と 云 っ た 。
くさ
帰りがけに山嵐は、君赤シャツは 臭 いぜ、用心しないとやられるぜと注意した。どうせ
臭いんだ、今日から臭くなったんじゃなかろうと云うと、君まだ気が付かないか、きのうわ
ま こ
ざわざ、僕等を誘い出して喧嘩のなかへ、捲き 込んだのは策だぜと教えてくれた。なるほど
そぼう ちえ
そこまでは気がつかなかった。山嵐は 粗 暴 なようだが、おれより 智 慧のある男だと感心
し た 。
「ああやって喧嘩をさせておいて、すぐあとから新聞屋へ手を廻してあんな記事をかかせた
かんぶつ
ん だ 。 実 に 奸 物 だ 」
たやす
「新聞までも赤シャツか。そいつは驚いた。しかし新聞が赤シャツの云う事をそう 容 易 く
き
聴く か ね 」
「 聴 か な く っ て 。 新 聞 屋 に 友 達 が 居 り ゃ 訳 は な い さ 」
「 友 達 が 居 る の か い 」
「居なくても訳ないさ。嘘をついて、事実これこれだと話しゃ、すぐ書くさ」
「ひどいもんだな。本当に赤シャツの策なら、僕等はこの事件で免職になるかも知れないね」
や
「 わ る く す る と 、 遣ら れ る か も 知 れ な い 」
あした たの
「そんなら、おれは 明 日 辞表を出してすぐ東京へ帰っちまわあ。こんな下等な所に 頼 ん
だ っ て 居 る の は い や だ 」
「 君 が 辞 表 を 出 し た っ て 、 赤 シ ャ ツ は 困 ら な い 」
「 そ れ も そ う だ な 。 ど う し た ら 困 る だ ろ う 」
しょうこ
「あんな奸物の遣る事は、何でも 証 拠 の挙がらないように、挙がらないようにと工夫す
はんばく
る ん だ か ら 、 反 駁 す る の は む ず か し い ね 」
か だ 」
ゆ
「まあ、もう二三日様子を見ようじゃないか。それでいよいよとなったら、温泉の町で取って
おさ
抑 え る よ り 仕 方 が な い だ ろ う 」
「 喧 嘩 事 件 は 、 喧 嘩 事 件 と し て か 」
「 そ う さ 。 こ っ ち は こ っ ち で 向 う の 急 所 を 抑 え る の さ 」
へた
「それもよかろう。おれは策略は 下 手なんだから、万事よろしく頼む。いざとなれば何でもす
る 」
わか はた
俺と山嵐はこれで 分 れた。赤シャツが 果 たして山嵐の推察通りをやったのなら、実
とうてい わんりょく
にひどい奴だ。 到 底 智慧比べで勝てる奴ではない。どうしても 腕 力 でなくっち
だめ つま
ゃ 駄 目だ。なるほど世界に戦争は絶えない訳だ。個人でも、とどの 詰 りは腕力だ。
ひら
あくる日、新聞のくるのを待ちかねて、 披 いてみると、正誤どころか取り消しも見えな
たぬき さいそく
い。学校へ行って 狸 に 催 促 すると、あしたぐらい出すでしょうと云う。明日にな
って六号活字で小さく取消が出た。しかし新聞屋の方で正誤は無論しておらない。また校長
に談判すると、あれより手続きのしようはないのだと云う答だ。校長なんて狸のような顔を
きょぎ
して、いやにフロック張っているが存外無勢力なものだ。虚 偽 の記事を掲げた田舎新聞一
あや
つ 詫 まらせる事が出来ない。あんまり腹が立ったから、それじゃ私が一人で行って主筆に
談判すると云ったら、それはいかん、君が談判すればまた悪口を書かれるばかりだ。つまり
新聞屋にかかれた事は、うそにせよ、本当にせよ、つまりどうする事も出来ないものだ。あき
せつゆ
らめるより外に仕方がないと、坊主の説教じみた 説 諭 を加えた。新聞がそんな者なら、一
ぶ つぶ
日も早く 打っ 潰 してしまった方が、われわれの利益だろう。新聞にかかれるのと、
すっぽん こんにち
泥 鼈 に食いつかれるとが似たり寄ったりだとは 今 日 ただ今狸の説明によって始
つかまつ
め て 承 知 仕 っ た 。
ふんぜん
それから三日ばかりして、ある日の午後、山嵐が 憤 然 とやって来て、いよいよ時機が
来た、おれは例の計画を断行するつもりだと云うから、そうかそれじゃおれもやろうと、
そくざ かたむ
即 座 に一味徒党に加盟した。ところが山嵐が、君はよす方がよかろうと首を 傾 けた。
たず
なぜと聞くと君は校長に呼ばれて辞表を出せと云われたかと 尋 ねるから、いや云われな
い。君は? と聴き返すと、今日校長室で、まことに気の毒だけれども、事情やむをえんから
しょけつ
処 決 し て く れ と 云 わ れ た と の 事 だ 。
はらつづみ たた てんどう
「そんな裁判はないぜ。狸は大方 腹 鼓 を 叩 き過ぎて、胃の位置が 顛 倒 したん
おど
だ。君とおれは、いっしょに、祝勝会へ出てさ、いっしょに高知のぴかぴか 踴 りを見てさ、
いっしょに喧嘩をとめにはいったんじゃないか。辞表を出せというなら公平に両方へ出せ
両立しない人間だが、君の方は今の通り置いても害にならないと思ってるんだ」
「おれだって赤シャツと両立するものか。害にならないと思うなんて生意気だ」
ごまか
「君はあまり単純過ぎるから、置いたって、どうでも 胡 魔 化されると考えてるのさ」
だれ
「 な お 悪 い や 。 誰 が 両 立 し て や る も の か 」
とうちゃく
「それに先だって古賀が去ってから、まだ後任が事故のために 到 着 しないだろう。そ
つか
の上に君と僕を同時に追い出しちゃ、生徒の時間に明きが出来て、授業にさし 支 えるから
な 」
あい うかが ちくしょう
「それじゃおれを 間 のくさびに一席 伺 わせる気なんだな。こん 畜 生 、だれが
そ の 手 に 乗 る も の か 」
あくるひ
翌 日 お れ は 学 校 へ 出 て 校 長 室 へ 入 っ て 談 判 を 始 め た 。
「 何 で 私 に 辞 表 を 出 せ と 云 わ な い ん で す か 」
「 へ え ? 」 と 狸 は あ っ け に 取 ら れ て い る 。
い
「 堀 田 に は 出 せ 、 私 に は 出 さ な い で 好い と 云 う 法 が あ り ま す か 」
つごう
「 そ れ は 学 校 の 方 の 都 合で … … 」
まちが
「その都合が 間 違 ってまさあ。私が出さなくって済むなら堀田だって、出す必要はないで
し ょ う 」
「その辺は説明が出来かねますが――堀田君は去られてもやむをえんのですが、あなたは辞
表 を お 出 し に な る 必 要 を 認 め ま せ ん か ら 」
はら
なるほど狸だ、要領を得ない事ばかり並べて、しかも落ち付き 払 ってる。おれは仕様が
な い か ら
あんかん
「それじゃ私も辞表を出しましょう。堀田君一人辞職させて、私が 安 閑 として、留まっ
ていられると思っていらっしゃるかも知れないが、私にはそんな不人情な事は出来ません」
「それは困る。堀田も去りあなたも去ったら、学校の数学の授業がまるで出来なくなってし
ま う か ら … … 」
「 出 来 な く な っ て も 私 の 知 っ た 事 じ ゃ あ り ま せ ん 」
わがまま
「君そう 我 儘 を云うものじゃない、少しは学校の事情も察してくれなくっちゃ困る。そ
りれき
れに、来てから一月立つか立たないのに辞職したと云うと、君の将来の 履 歴 に関係するか
ら 、 そ の 辺 も 少 し は 考 え た ら い い で し ょ う 」
「 履 歴 な ん か 構 う も ん で す か 、 履 歴 よ り 義 理 が 大 切 で す 」
「そりゃごもっとも――君の云うところは一々ごもっともだが、わたしの云う方も少しは察
して下さい。君が是非辞職すると云うなら辞職されてもいいから、代りのあるまでどうかや
ってもらいたい。とにかく、うちでもう一返考え直してみて下さい」
あお
考え直すって、直しようのない明々白々たる理由だが、狸が 蒼 くなったり、赤くなった
かわいそう
りして、 可 愛 想 になったからひとまず考え直す事として引き下がった。赤シャツには
かた
口もきかなかった。どうせ遣っつけるなら 塊 めて、うんと遣っつける方がいい。
山嵐に狸と談判した模様を話したら、大方そんな事だろうと思った。辞表の事はいざとな
さしつか
るまでそのままにしておいても 差 支 えあるまいとの話だったから、山嵐の云う通りに
りこう
した。どうも山嵐の方がおれよりも 利 巧 らしいから万事山嵐の忠告に従う事にした。
あいさつ はま さが
山嵐はいよいよ辞表を出して、職員一同に告別の 挨 拶 をして 浜 の港屋まで 下
ゆ ますや ひそ
ったが、人に知れないように引き返して、 温泉の町の 枡 屋 の表二階へ 潜 んで、
しょうじ のぞ
障 子 へ穴をあけて 覗 き出した。これを知ってるものはおればかりだろう。赤シャツ
しの よい
が 忍 んで来ればどうせ夜だ。しかも 宵 の口は生徒やその他の目があるから、少なくと
きま ごろ はりばん
も九時過ぎに 極 ってる。最初の二晩はおれも十一時 頃 まで 張 番 をしたが、赤シャ
かげ ふ
ツの 影 も見えない。三日目には九時から十時半まで覗いたがやはり駄目だ。駄目を 踏んで
しごんち
夜なかに下宿へ帰るほど馬鹿気た事はない。 四 五 日 すると、うちの婆さんが少々心配を
おく
始めて、 奥 さんのおありるのに、夜遊びはおやめたがええぞなもしと忠告した。そんな夜
ちゅうりく
遊びとは夜遊びが違う。こっちのは天に代って 誅 戮 を加える夜遊びだ。とはいうも
げん せっかち
のの一週間も通って、少しも 験 が見えないと、いやになるもんだ。おれは 性 急 な性分
てつや
だから、熱心になると 徹 夜 でもして仕事をするが、その代り何によらず長持ちのした試し
あ
がない。いかに天誅党でも 飽きる事に変りはない。六日目には少々いやになって、七日目に
がんこ よい すぎ
はもう休もうかと思った。そこへ行くと山嵐は 頑 固 なものだ。 宵 から十二時 過 まで
がすとう にら
は眼を障子へつけて、角屋の丸ぼやの 瓦 斯 燈 の下を 睨 めっきりである。おれが行くと
とま
今日は何人客があって、 泊 りが何人、女が何人といろいろな統計を示すのには驚ろいた。
うでぐみ
どうも来ないようじゃないかと云うと、うん、たしかに来るはずだがと時々 腕 組 をし
ためいき
て 溜 息 をつく。可愛想に、もし赤シャツがここへ一度来てくれなければ、山嵐は、
しょうがい
生 涯 天 誅 を 加 え る 事 は 出 来 な い の で あ る 。
けいらん
八日目には七時頃から下宿を出て、まずゆるりと湯に入って、それから町で 鶏 卵 を
いもぜめ
八つ買った。これは下宿の婆さんの 芋 責 に応ずる策である。その玉子を四つずつ左右
てい ゆうべ ふさ
な顔は急に活気を 呈 した。 昨 夜 までは少し 塞 ぎの気味で、はたで見ているおれさえ、
いんきくさ
陰 気 臭 いと思ったくらいだが、この顔色を見たら、おれも急にうれしくなって、何も聞
ゆかい
か な い 先 か ら 、 愉 快愉 快 と 云 っ た 。
こすず
「 今 夜 七 時 半 頃 あ の 小 鈴と 云 う 芸 者 が 角 屋 へ は い っ た 」
「 赤 シ ャ ツ と い っ し ょ か 」
「 い い や 」
「 そ れ じ ゃ 駄 目 だ 」
「 芸 者 は 二 人 づ れ だ が 、 ― ― ど う も 有 望 ら し い 」
「 ど う し て 」
ずる
「どうしてって、ああ云う 狡 い奴だから、芸者を先へよこして、後から忍んでくるかも知れ
な い 」
「 そ う か も 知 れ な い 。 も う 九 時 だ ろ う 」
「今九時十二分ばかりだ」と帯の間からニッケル製の時計を出して見ながら云ったが「おい
らんぷ きつね
洋 燈 を消せ、障子へ二つ坊主頭が写ってはおかしい。 狐 はすぐ疑ぐるから」
いっかんばり らんぷ
おれは 一 貫 張 の机の上にあった置き 洋 燈 をふっと吹きけした。星明りで障子
いっしょうけんめい
だけは少々あかるい。月はまだ出ていない。おれと山嵐は 一 生 懸 命 に障子へ
かお こ
面 を つ け て 、 息 を 凝ら し て い る 。 チ ー ン と 九 時 半 の 柱 時 計 が 鳴 っ た 。
いや
「 お い 来 る だ ろ う か な 。 今 夜 来 な け れ ば 僕 は も う 厭 だ ぜ 」
「 お れ は 銭 の つ づ く 限 り や る ん だ 」
「 銭 っ て い く ら あ る ん だ い 」
つごう
「今日までで八日分五円六十銭払った。いつ飛び出しても 都 合 のいいように毎晩
かんじょう
勘 定 す る ん だ 」
「 そ れ は 手 廻 し が い い 。 宿 屋 で 驚 い て る だ ろ う 」
「 宿 屋 は い い が 、 気 が 放 せ な い か ら 困 る 」
ひるね
「 そ の 代 り 昼 寝を す る だ ろ う 」
きゅうくつ
「 昼 寝 は す る が 、 外 出 が 出 来 な い ん で 窮 屈 で た ま ら な い 」
てんもうかいかいそ も
「天誅も骨が折れるな。これで 天 網 恢 々 疎 にして 洩らしちまったり、何かしちゃ、
つ ま ら な い ぜ 」
「なに今夜はきっとくるよ。――おい見ろ見ろ」と小声になったから、おれは思わずどきりと
ぼうし いただ
した。黒い 帽 子 を 戴 いた男が、角屋の瓦斯燈を下から見上げたまま暗い方へ通り過
えんりょ
ぎた。違っている。おやおやと思った。そのうち帳場の時計が 遠 慮 なく十時を打った。
今 夜 も と う と う 駄 目 ら し い 。
ゆうかく たいこ きこ
世間は大分静かになった。 遊 廓 で鳴らす 太 鼓 が手に取るように 聞 える。月が
ゆ うしろ しも
温泉の山の 後 からのっと顔を出した。往来はあかるい。すると、 下 の方から人声が聞
つ
えだした。窓から首を出す訳には行かないから、姿を 突き留める事は出来ないが、だんだん
こまげた ず なな
近づいて来る模様だ。からんからんと 駒 下 駄 を引き 擦る音がする。眼を 斜 めにすると
かげぼうし
や っ と 二 人 の 影 法 師 が 見 え る く ら い に 近 づ い た 。
だいじょうぶ じゃま まさ
「もう 大 丈 夫 ですね。邪 魔 ものは追っ払ったから」 正 しく野だの声である。
「 強
がるばかりで策がないから、仕様がない」これは赤シャツだ。
「あの男もべらんめえに似て い
はだ ぼ あいきょう
ますね。あのべらんめえと来たら、勇み 肌 の 坊っちゃんだから 愛 嬌 がありますよ」
「増給がいやだの辞表を出したいのって、ありゃどうしても神経に異状があるに相違ない」
ぶ
おれは窓をあけて、二階から飛び下りて、思う様 打ちのめしてやろうと思ったが、やっとの
しんぼう くぐ
事で 辛 防 した。二人はハハハハと笑いながら、瓦斯燈の下を 潜 って、角屋の中へはい
っ た 。
「 お い 」
「 お い 」
「 来 た ぜ 」
「 と う と う 来 た 」
「 こ れ で よ う や く 安 心 し た 」
ぬ
「 野 だ の 畜 生 、 お れ の 事 を 勇 み 肌 の 坊 っ ち ゃ ん だ と 抜か し や が っ た 」
「 邪 魔 物 と 云 う の は 、 お れ の 事 だ ぜ 。 失 敬 千 万 な 」
ようげき
おれと山嵐は二人の帰路を 要 撃 しなければならない。しかし二人はいつ出てくるか
見当がつかない。山嵐は下へ行って今夜ことによると夜中に用事があって出るかも知れな
たの
いから、出られるようにしておいてくれと 頼 んで来た。今思うと、よく宿のものが承知し
たいてい どろぼう
た も の だ 。 大 抵 な ら 泥 棒 と 間 違 え ら れ る と こ ろ だ 。
赤シャツの来るのを待ち受けたのはつらかったが、出て来るのをじっとして待ってるの
すき
はなおつらい。寝る訳には行かないし、始終障子の 隙 から睨めているのもつらいし、どう
なんぎ
も、こうも心が落ちつかなくって、これほど 難 儀 な思いをした事はいまだにない。いっそ
おさ ほつぎ
の事角屋へ踏み込んで現場を取って 抑 えようと 発 議 したが、山嵐は一言にして、おれ
しりぞ とちゅう
の申し出を 斥 けた。自分共が今時分飛び込んだって、乱暴者だと云って 途 中 で
さえぎ に
遮 られる。訳を話して面会を求めれば居ないと 逃げるか別室へ案内をする。不用意の
ところへ踏み込めると仮定したところで何十とある座敷のどこに居るか分るものではない
退屈でも出るのを待つより外に策はないと云うから、ようやくの事でとうとう朝の五時ま
がまん
で 我 慢し た 。
つ
角屋から出る二人の影を見るや否や、おれと山嵐はすぐあとを 尾けた。一番汽車はまだな
ゆ
いから、二人とも城下まであるかなければならない。 温泉の町をはずれると一丁ばかりの
はたけ
って、 畠 の中を一筋に城下まで通る土手へ出る。町さえはずれれば、どこで追いついて
つら
も構わないが、なるべくなら、人家のない、杉並木で 捕 まえてやろうと、見えがくれについ
はず か あし
て来た。町を 外 れると急に 馳け 足 の姿勢で、はやてのように後ろから、追いついた。何
ふ ろうばい
が来たかと驚ろいて 振り向く奴を待てと云って肩に手をかけた。野だは 狼 狽 の気味で
けしき ふさ
逃げ出そうという 景 色 だったから、おれが前へ廻って行手を 塞 いでしまった。
とま なじ
「教頭の職を持ってるものが何で角屋へ行って 泊 った」と山嵐はすぐ 詰 りかけた。
わ いぜん
「教頭は角屋へ泊って 悪るいという規則がありますか」と赤シャツは 依 然 として
ていねい
鄭 寧 な 言 葉 を 使 っ て る 。 顔 の 色 は 少 々 蒼 い 。
とりしまりじょう そばや だんごや
「 取 締 上 不都合だから、蕎 麦 屋や 団 子 屋 へさえはいってはいかんと、云う
きんちょく
くらい 謹 直 な人が、なぜ芸者といっしょに宿屋へとまり込んだ」野だは隙を見ては
逃げ出そうとするからおれはすぐ前に立ち塞がって「べらんめえの坊っちゃんた何だ」と怒
鳴り付けたら、
「いえ君の事を云ったんじゃないんです、全くないんです」と鉄面皮に言訳 が
にぎ
ましい事をぬかした。おれはこの時気がついてみたら、両手で自分の袂を 握 ってる。追っ
かける時に袂の中の卵がぶらぶらして困るから、両手で握りながら来たのである。おれはい
たた
きなり袂へ手を入れて、玉子を二つ取り出して、やっと云いながら、野だの面へ 擲 きつけ
た。玉子がぐちゃりと割れて鼻の先から黄味がだらだら流れだした。野だはよっぽど
ぎょうてん しりもち
仰 天 した者と見えて、わっと言いながら、 尻 持 をついて、助けてくれと云った。
ぶ
おれは食うために玉子は買ったが、 打つけるために袂へ入れてる訳ではない。ただ
かんしゃく
肝 癪 のあまりに、ついぶつけるともなしに打つけてしまったのだ。しかし野だが尻
ちくしょう
持を突いたところを見て始めて、おれの成功した事に気がついたから、こん 畜 生 、こ
たた
ん畜生と云いながら残る六つを無茶苦茶に 擲 きつけたら、野だは顔中黄色になった。
おれが玉子をたたきつけているうち、山嵐と赤シャツはまだ談判最中である。
しょうこ
「 芸 者 を つ れ て 僕 が 宿 屋 へ 泊 っ た と 云 う 証 拠 が あ り ま す か 」
「宵に貴様のなじみの芸者が角屋へはいったのを見て云う事だ。胡魔化せるものか」
「胡魔化す必要はない。僕は吉川君と二人で泊ったのである。芸者が宵にはいろうが、はいる
ま い が 、 僕 の 知 っ た 事 で は な い 」
げんこつ
「だまれ」と山嵐は 拳 骨 を食わした。赤シャツはよろよろしたが「これは乱暴だ、
ろうぜき
狼 藉 で あ る 。 理 非 を 弁 じ な い で 腕 力 に 訴 え る の は 無 法 だ 」
な
「無法でたくさんだ」とまたぽかりと 撲ぐる。
「貴様のような奸物はなぐらなくっちゃ、答 え
ないんだ」とぽかぽかなぐる。おれも同時に野だを散々に擲き据えた。しまいには二人とも
杉の根方にうずくまって動けないのか、眼がちらちらするのか逃げようともしない。
なぐ ふたり
「もうたくさんか、たくさんでなけりゃ、まだ 撲 ってやる」とぽかんぽかんと 両 人 でな
ぐったら「もうたくさんだ」と云った。野だに「貴様もたくさんか」と聞いたら「無論たくさん
だ 」 と 答 え た 。
こ
「貴様等は奸物だから、こうやって天誅を加えるんだ。これに 懲りて以来つつしむがいい。い
たく ふたりとも
くら言葉 巧 みに弁解が立っても正義は許さんぞ」と山嵐が云ったら 両 人 共 だまっ
たいぎ
て い た 。 こ と に よ る と 口 を き く の が 退 儀な の か も 知 れ な い 。
かく じゅんさ
「おれは逃げも 隠 れもせん。今夜五時までは浜の港屋に居る。用があるなら 巡 査 なり
なんなり、よこせ」と山嵐が云うから、おれも「おれも逃げも隠れもしないぞ。堀田と同じ所
うった
に待ってるから警察へ 訴 えたければ、勝手に訴えろ」と云って、二人してすたすたある
き 出 し た 。
おれが下宿へ帰ったのは七時少し前である。部屋へはいるとすぐ荷作りを始めたら、婆さ
んが驚いて、どうおしるのぞなもしと聞いた。お婆さん、東京へ行って奥さんを連れてくる
んだと答えて勘定を済まして、すぐ汽車へ乗って浜へ来て港屋へ着くと、山嵐は二階で寝て
わたくしぎ
いた。おれは早速辞表を書こうと思ったが、何と書いていいか分らないから、 私 儀 都
これあり もうしそろ
合 有 之 辞 職 の 上 東 京 へ 帰 り 申 候 に つ き
さようごしょうちくだされたくそろ あて
左 様 御 承 知 被 下 度 候 以上とかいて校長 宛 にして郵便で出した。
しゅっぱん
汽船は夜六時の 出 帆 である。山嵐もおれも疲れて、ぐうぐう寝込んで眼が覚めた
ら、午後二時であった。下女に巡査は来ないかと聞いたら参りませんと答えた。
「赤シャツ も
野 だ も 訴 え な か っ た な あ 」 と 二 人 は 大 き に 笑 っ た 。
ふじょう はな
その夜おれと山嵐はこの 不 浄 な地を 離 れた。船が岸を去れば去るほどいい心持ち
しゃば
がした。神戸から東京までは直行で新橋へ着いた時は、ようやく 娑 婆 へ出たような気がし
た 。 山 嵐 と は す ぐ 分 れ た ぎ り 今 日 ま で 逢 う 機 会 が な い 。
きよ かばん
清 の事を話すのを忘れていた。――おれが東京へ着いて下宿へも行かず、 革 鞄 を提
げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さっ
なみだ うれ いなか
たと 涙 をぽたぽたと落した。おれもあまり 嬉 しかったから、もう 田 舎 へは行かな
い 、 東 京 で 清 と う ち を 持 つ ん だ と 云 っ た 。
しゅうせん がいてつ
その後ある人の 周 旋 で 街 鉄 の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円
げんかん
だ。清は 玄 関 付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二
はいえん かか
月 肺 炎 に 罹 って死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が
う
死んだら、坊っちゃんのお寺へ 埋めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに
こびなた
待っておりますと云った。だから清の墓は 小 日 向 の養源寺にある。
(明治三十九年四月)
底 本 : 「 ち く ま 日 本 文 学 全 集 夏 目 漱 石 」 筑 摩 書 房
1992 ( 平 成 4 ) 年 1 月 20 日 第 1 刷 発 行
底 本 の 親 本 : 「 夏 目 漱 石 全 集 2 」 ち く ま 文 庫 、 筑 摩 書 房
1987 ( 昭 和 62 ) 年 10 月 27 日 第 1 刷 発 行
※底本の注にれば、本作品の原稿には、
「そのうち学校もいやになった。」の後に、漱石自身 に
よる2字あけの指定があるという。このファイルでは、その情報にもとづいて、当該の箇所
を 2 字 あ け と し た 。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号 5-86)を、大振りにつくってい
ま す 。
入 力 : 真 先 芳 秋
校 正 : 柳 沢 成 雄
1999 年 9 月 13 日 公 開
2004 年 2 月 27 日 修 正
青 空 文 庫 作 成 フ ァ イ ル :
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●表記について
• 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。