はじめに


  2008年5月、ニューヨークのサザビーズオークションで、村
上隆氏の「マイ・ロンサム・カウボーイ」というフィギュア作品が
16億円で取引された。この16億円というのはどの程度の価値を
もっているのだろうか。
  米企業幹部報酬調査会社Equilar社によると、CEOを除く高額所得
者のランキング一位は米デル・コンピュータのCMO、マーク・ジャ
ヴィス氏で約16億円であった。
  村上氏はたった一つの作品で16億円ものお金の動きを、アート
というフィールドの上で作った。そして実質世界で一番の高額所得
者であるビジネスマンも、毎年16億円ものお金の流れを、ビジネ
スというフィールドの上で作った。つまりこれら二つのフィールド
は、どちらも一個人が同程度のお金の流れを作り出す可能性がある
という意味では、対等であるということだ。
  しかし、対等であるにもかかわらずこれら二つのフィールドにお
ける「16億円の稼ぎ方」には決定的な違いがある。それを物語る
事例を二つお話したい。
  まず一つめに経営者や起業家を志す人間は、書店のビジネス書の
コーナーに行けば何百、何千という経営に関する書籍を手に入れる
ことが出来る。ビジネスの世界において現在進行形で活躍している
経営者やビジネスマンが、いかにして利益を出しているのか、いか
にして人を動かしてきたのか、といったノウハウを具体的に紹介し
ている。また過去の偉大な経営者の評伝なども数多く出版されてい
る。過去の経営手法は現代とは違う点が多いので、それらの書物の
中では、彼らがどんな熱意をもっていたのか、どんなビジョンを
持っていたのかなど、心構えの観点から偉大な経営者の思想を述べ
ている場合が多い。
  現代の経営者から具体的な経営ノウハウを学び、過去の経営者か
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らは思想を学ぶ。書店のビジネス書のコーナーには、経営者を志す
者にとって理想的な環境がある。
  ではアートの世界ではどうか。現在進行形で活躍している現代
アーティストがいかにして自分の作品を売り出したのか、そしてい
かにして利益を得たのか、経済的成功に関する論述がされている書
籍があるだろうか。過去の偉大な芸術家の思想について学べる書籍
があるだろうか。残念なことに皆無ではないが決して多くはないの
が現実である。書店にはアートに関するコーナーが設けられている
が、そのほとんどが画集であったり、アートの歴史に関する物で
あったりする。アーティストを育てるマネジメントに関する書籍
や、作品を流通させるマーケティングといったビジネス的な書籍は
皆無に等しい。アートの世界はビジネスの世界と同じぐらいの大き
なお金の流れを生み出す可能性があるにもかかわらず、だ。
  二つめに教育機関にもこういった環境の違いは見られる。日本で
はまだ数が少ないが、アメリカにはMBAという資格があり、ビジネス
を学問として完全に確立している。そしてその資格を取得するため
の教育機関が、数多く存在しているのである。すなわちビジネスマ
ンとして成功するために不可欠な、マーケティングやマネジメント
といった知識を体系的に学べるということである。そしてMBAを取得
した者は世界中の企業からかなり手厚く歓迎される。もちろん簡単
に取得できる資格ではないのだろうが、そういうキャリア街道に続
く登竜門が存在しているということは事実である。ビジネスマンは
成功を約束してくれるスタート地点にたどり着けさえすれば、あと
は努力次第でいくらでも道を切り拓くことができるということであ
る。ビジネスの世界には「ハシゴ」があるのだ。
  そんな環境が、道が、アートの世界にあるだろうか。芸術大学で
学べることは、そのほとんどが作品を制作する技術に関することで
ある。芸術の表現手法を学ぶことはできても、それをお金に換える
方法は教えてくれない。現代アートを学ぶための最先端に位置する
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本学でさえ、デジタルデザインにおけるPhotoshopやIllustratorな
どソフトウェアの使い方を学ぶことはできても、その技術や知識を
いかにしてお金に換えるかということに関してはノータッチなので
ある。アートでお金を稼ぐ方法は誰も教えてくれないのだ。
  それでもデザイン会社などに就職さえすれば、その技術を生かし
た仕事を任せてもらえるだろう。経済的安定が得られる環境がない
わけではない。しかしそこでは、クライアントが居てこそ成立する
仕事しかできないのではないか。自分自身が本当に作りたいと思う
作品を作ることはできないのではないか。つまり自分の安定した生
活のために、才能を切り売りするのである。その結果生まれた作品
は、デザインであってアートではない。
 ではアートとデザインの違いは何なのであろうか。
  アートとは、「アーティスト自身に主体性があり制作した作品」
のことで、デザインとは、「クライアントに主体性がありデザイ
ナーに制作させた作品」であると私は考える。
  これを私の中で、アートとデザインに対する定義としたい。この
定義に当てはめて考えれば、クライアントおよびマーケットの顔色
をうかがいながら制作に携わっている限り、デザイナーにはなれて
もアーティストにはなりえないのである。
  デザインの現場では、デザイナーがいくらアートに関する知識や
技術があっても、クライアントが納得しない限りそれは正しいデザ
インではなくなる。色彩論や心理学の観点から、「この広告は情熱
的に暖色系で展開すべきだ」と提案しても、クライアントが「冷静
に寒色系で展開したい」と言えば冷たい広告を制作しなければなら
ないのである。クライアントよりデザイナーの方が豊富な知識や優
れた感性を持っているにもかかわらずだ。私も稚拙で数少ないなが
ら、デザインの現場に関わったことがあり、それを痛切に感じた。
「妥協を強いられる」、それが職業デザイナーというものである。
そしてそれが生活の糧を得るための彼らの仕事なのだ。
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では、アートとは何だろうか。
  現代アーティストとして成功している奈良美智氏はギャラリスト
の「あなたの絵画はイラストとどこが違うのですか?」との質問に
「僕は自分の描きたい物以外は描かない」と述べている。
  この言葉こそがアートとデザインとの境界線を見事に表している
のではないかと私は考える。イラストはあるニーズがあってそれに
向かって描かれるもので、奈良氏が誰にも干渉されずに制作した作
品は、アートなのだ。
  「職業デザイナー」として活動する限り、経済的安定はその他の
職業と比較して劣ることはない。しかし、「アーティスト」として
活動したいのであれば、経済的安定へのリスクは避けられない。そ
して一握りの者しか成功していないのが現実だ。
 成功するための「法則」は存在しないのだろうか。
  本論文ではその経済的に成功したアーティストに共通する法則
を、アートマーケットに関する書籍や、アーティストの自叙伝、評
伝から紐解いていきたい。比較のためにアート以外のマーケットに
関する経済書、アーティスト以外の成功法則を解き明かした成功哲
学書、自己啓発書を参考図書に選んだ。この種の文献は既に世の中
に数多く存在しており比較対象として一番適切だと判断したからで
ある。

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第1章
アートとは
  私は「制作者に主体性があるもの」がアートであると述べた。で
は、制作者に主体性があれば、全てのものがアートになりえるの
か。その制作者は、アーティストとよばれるのだろうか。
  それではあまりに解釈が広がりすぎるので、本章でアートとは何
かについてより深く掘り下げていきたい。

1.偉大なアーティストのアートへの見解
  日本よりも海外での評価が高いビートたけし氏と村上隆氏がアー
トについて語っている「ツーアート」という本がある。その本の中
で二人は「アートの定義とは」について真っ向から語っている。
アートとはなんだ、アーティストって誰だということについて語っ
ている。私はここに答えがあると期待した。なにせ現代の日本を代
表し、世界的に認められている偉大なアーティストの二人が、アー
トの定義について真剣に語っているのである。そこには当然、私の
求める答えが提示されているはずだった。未熟な私の見解をくどく
ど述べるより、この偉大な二人の定義を基に論文を進めた方が有意
義なのではないかと思ったのである。アーティストとして成功した
者の見解が何よりも説得力があるのは当然のことだ。
  しかし読み進めても、読み進めても二人ははっきりとした答えを
提示してくれることはなかった。「アートとはこうだ!」としっか
りとした定義は書いておらず、逆に「アートってこうなんじゃない
かな?」と最後に必ず疑問符がつく答ばかりだった。お笑いや工芸
品、デザイナーや歴史上のアーティストなど、様々な事例を挙げ
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て、アートについて語ってはいるが最後まではっきりとした結論は
でていなかった。
  例えば村上氏はテレビ番組の企画でチンパンジーが絵を描いてい
るのを見てアートを感じたという。
  村上氏はリサーチ主義で有名である。作品を作り始める前にあら
ゆる事を調査する。自分が納得するまで絶対にリサーチをやめな
い。村上氏が一番大切にしているのは「コンセプト」なのである。
フィギュアを実際に作るのは職人達の仕事で村上氏の仕事ではな
い。村上氏は自身の作品にとにかく意義を求めている、という印象
を受ける。
  そんなコンセプチュアル・アーティストの村上氏がチンパンジー
の絵をアートだと言っている。何も考えていない、というよりは考
えることのできないチンパンジーの絵だ。そこにはチンパンジーを
訓練した人の考えも多少反映されているのだろうがコンセプトなん
てあるわけがない。にもかかわらず村上氏は「アートとは何かを考
えさせられる」と言う。私は少々がっかりした。
  村上氏なら「アートとは自身が大切だと思う意義を反映させた芸
術作品のことだ!」とかそんな答えを用意してくれていると思って
いた。しかし最後まで読んでもやはりはっきりとした定義付けはさ
れていなかった。
  ただ、定義付けができていないからといって学ぶことが何もない
ということはない。故に、ここで言えることは、いくら偉大なアー
ティストになれたとしてもアートを定義づけることは難しいという
ことである。

アートを定義するのは困難である

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2.アートは誰が定義するのか
  しかし偉大なアーティストがアートを定義付けられていないから
といって、本論文におけるアートの定義付けを放棄するわけにはい
かない。
  私はそこで、偉大なアーティストが定義付けできていないという
事実にこそ、アートの定義は存在するのではないかと考えた。もう
少し「ツーアート」を読み進めてみよう。
  一方のビートたけし氏はどう考えているのか。たけし氏は「アー
トって、個人の心の中において感じる部分の大きさかな」と述べて
いる。
  この言葉から私は、デュシャンの「泉」という作品を思い出し
た。デュシャンというアーティストは、第一次世界大戦に対する抵
抗や、それによってもたらされた虚無を根底に持ち、既成の秩序や
常識に対する否定、攻撃、破壊といった思想を特徴とした芸術運
動、「ニューヨーク・ダダ」の中心的人物であった。20世紀の美
術に最も影響を与えた一人とされている。
  「泉」という作品はデュシャンが1917年に普通の男子小便器
に、便器の製造メーカー名である「リチャード・マット」というサ
インをし、ご丁寧にタイトルを付けた作品である。デュシャンはこ
の作品で、それまでの芸術やアートに対する概念に対して、「なに
を持って芸術とすべきか」という問題提起を行いたかったのだそう
だ。誰かが芸術であると言えば、それは芸術になるということを証
明したかったのだ。
  たけし氏は、その作品からアートを感じられる人は感じればいい
し、「たんなる便器じゃないか」と言ってしまえばそれはそれで終
わりだという考えをもっているということだ。
 アートと見なすかどうかは見る側の判断に委ねられている。

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  こう考えると、アートと宗教は少し似ていると私は思う。私が子
供の頃に、ある機会で教会に行ったときだ。私はオルガンを見つ
け、何の悪意もなくそのオルガンの鍵盤をでたらめに叩いてみた。
おそらく神聖なものには扱い方というものがあったのだろう、神父
に「あなたはオルガンを弾けるのですか?弾けないのであれば触れ
てはなりません。」と言われ、怒られた。今でも私はオルガンがな
ぜ神聖なのかを理解していないから、なぜ触れてはいけなかったの
かがわからない。学校にあるオルガンは自由に触れてよくて、なぜ
教会ではだめなのかがわからない。しかしその神父はオルガンを神
聖な物として見ていたので、私を怒ったのだ。
  つまり宗教においては対象物に対しての理解によって、価値や位
置が決まるのだ。オルガンを神聖だと思うならそれはそれで正しい
し、「ただのオルガンじゃないか」と言ってしまうのも、それはそ
れで正しいのである。
  アートもこれと同じだと私は思う。つまり何がアートで、何が
アートでないのかという境界は受け取る側の判断に委ねられている
のである。それを決めるのはアーティスト自身ではない。あるもの
をアートと呼んでも、全ての人がそれに賛同することはあり得ない
ため、アートを明確に定義付けることはできないのだ。
  そしてもしアートに定義が存在した場合、アーティストはそれに
向かって作品を制作することになる。答えが一つしか存在しなけれ
ば、必然的に作品の形も一つになってしまう。定義に固執してし
まっては新しいものは絶対に生まれてこないのだ。
  すなわち、アートとは「受け取る側がアートだと見なした制作
物」と定義付ける事ができるのはないだろうか。
  アートをこのように定義すると、アーティストは混乱するだろ
う。目的がなくなるからである。自分が制作した物を自分でアート
と定義づけられないが故に、どんな作品を制作すればいいのかわか
らなくなるのである。人はゴールのない計画に意義を見いだせな
い。

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しかし、逆に言えば、定義が曖昧であるということは、アーティス
トは自由であるということと同義である。何を作ってもそれをアー
トだと見なす者さえいればそれはアートなのである。
  例えばビジネスというものを定義付けるなら「利益を生み出すも
の」となるであろう。その定義があるが故にビジネスマンはその定
義に向けて結果を出さなくてはならない。それに対して定義が曖昧
なアーティストは、自由なのである。ただし、それはゴールを自分
で設定しなくてはならないということであり、より楽であるという
ことではない。

アートを定義付けるのは受け取る側であり、アーティス
トには自主性が求められる

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第2章
アートの世界
  「アートを定義付けるのは受け取る側である」とアートを定義付
けた上で、ここからはアートの世界でどんな事が起きているのかを
具体的に、アーティスト、ギャラリスト、消費者のそれぞれの観点
から述べていきたい。
  受け取る側がアートだと見なした制作物がアートであると前述し
たが、人はどういう物をアートと見なす傾向にあるのか。アーティ
ストは自由であると前述したが、見る側の見解を知っておいて損は
ないだろう。

1.人々がアートに価値を感じる理由
      ヴァン・ゴッホの代表作である「医師ガシェの肖像」は、199
0年5月15日にニューヨークのクリスティーズでの競売で、当時
のレートで約124億5000万円で取引された。なぜこれほどの
値段がついたのであろうか。これほどのお金の流れが生まれる理由
はなんであろうか。
  その絵の物質的価値は、言ってしまえば所詮油絵具を塗りたくっ
たキャンバスであるだけであって、更に現代の技術では見かけ上ほ
とんど差異のないものを、はるかに安価で簡単に複製できる。それ
にもかかわらず高額で取引されるのは、人々がこの作品をヴァン・
ゴッホが描いた、オリジナルであることを「知っている」からであ
る。そしてそのオリジナルこそが、他に替えがたいものだと信じて
いるが故、人々は絵画の中にヴァン・ゴッホが存在していると感じ
るのである。
  「真作」であるという、たったそれだけのことが絵画の価値を大
幅につり上げる。逆に、例えば弟子が描いた物であることが判明す
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るなど、画家本人の存在をそこに感じることができなくなった途端
に、価値は何百、何千分の一にも下がるのである。人々の興味は手
法のよく似た弟子の作品ではなく、全く別のアーティストの「真
作」に移っていく。それがアートの世界であるといっていいだろ
う。
  人々はアートの価値に「真作である」ということを求める。なぜ
か。それはアーティストが唯一無二の存在であり、そのアーティス
トが生み出した作品も唯一無二の存在になるからであると私は考え
る。アーティストが死ぬと、その唯一無二のものがこれ以上生産さ
れなくなる。パイがこれ以上増えなくなるという現象が起こるの
だ。その結果人々は争って現存する唯一無二の作品を求め、作品の
価格は時に億単位にまで跳ね上がることになる。当然投機目的で買
い漁る者も出て来るだろう。
  これをビジネスの世界に置き換えてみる。前述した年俸16億円
のデルのCMOは、類い希なるビジネスセンスがあり、彼自身が唯一無
二の存在であることはその高額な年俸が証明している。しかし、も
し仮に明日彼が亡くなったとして、デルのコンピュータは億単位で
取引されるだろうか。そんなことはない。
 経営に対する不安から、株価が下がり、デルの商品がたたき売ら
れるようなことがあっても、彼の死によって値上がりすることはな
いだろう。そしておそらくナンバーツーが彼の役職に昇格し、デル
のコンピュータは何事もなかったかのように、消費者に安定供給さ
れ、デルの歴史は脈々と続いていく。それが企業というものであ
り、その体制を作るのがCEOの役割である。
 ビジネスの世界では人に価値があって、製品という名の作品に価
値があるわけではない。
 アートの世界ではそのアーティストの仕事が受け継がれ、代々続
いていくことはない。アントニ・ガウディのサグラダファミリアに
代表される壮大な計画に基づいたアートを除き、ほとんどの場合、
一代限りである。
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 全く同じ技術を持ち、同じようなスタイルで絵画を描く弟子がい
たとしても、高額な値はつかない。人々はアーティストの技術に価
値を見出すわけではないからだ。アートにはアーティストの人生そ
のものが表現されている。つまりアートにおいては技術よりもその
思想に価値が置かれている。アーティストがどういう事を感じてそ
の作品を生み出したのか、その作品にはどんな意味があるのかと
いった思想を人々は読み取り、それを自分が理解できることに価値
の重きを置いているのである。
 ゴッホの絵画に価値があるのではなく、ゴッホの思想が「真作」
の中にこめられていることに、124億円が支払われたのだ。

アートの世界では、思想にこそ価値がある

2.アートにおける2つの存在意義
  次にアートの存在意義を述べたい。人の生活においてアートとは
何のために存在し、どのような役割を担っているのかを理解してい
ないと、制作者であるアーティストの存在価値について語れない。
  わざわざ美術館や音楽会に出かけるなど、意識的にアートに触れ
ようと思っていなくても、生活の中で、人々はアートに触れてい
る。それは音楽を聴いたり本を読んだり映画を観たり、絵画を鑑賞
したりしている瞬間だ。そこから何かが生まれるということは無
い。受動的で非生産的な活動である。しかし人々はアートに触れて
いるその瞬間、至福の時を感じている。その結果、その時間が仕事
や勉強といった、生産的な活動に多大な影響を与えているのだと私
は考える。
  人がアートに触れている時間は、生活全体で例えるなら、睡眠時
間のようなものだ。
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  つまり精神的なやすらぎをもたらす役割をしているのがアートな
のだ。確かに人は、受動的で非生産的な活動をしなくとも生きてい
ける。しかしアートに触れ、心を動かされることによって、より生
産的に活動できるのではないだろうか。そして、人々はそれを求め
ている。
  ビジネスの世界は明らかに生産的な活動をしているが故にアート
よりも有用性が高いように見える。経済効果は人々の生活を潤し、
数字という顕著な形で表れる。しかし、目に見える効果のない非生
産的なアートが無用というわけではない。むしろ、生産活動をより
効率的にするために不可欠なものなのだ。アートは非生産的であっ
ても極めて重要な役割を果たしているのだということをもう一度強
調したい。人は睡眠がなくては生きていけない。それと同じことな
のだ。そしてそういう意味でもビジネスとアートは表裏一体なの
だ。
  アートにはもう一つ大きな役割があるということも書いておくべ
きだろう。ある人が多種多様のアートの中から、何を好むかという
ことが、その人となりを表現する一つの判断基準となり得ることで
ある。クラシック音楽に造詣が深ければ、深窓の令嬢のように見
え、ワンルームマンションの部屋にモダンアートのポスターを貼る
ことによってスタイリッシュな少年だということをアピールでき
る、といった具合だ。
  更に、アートがあくまで非生産的なものであるというところに重
要なポイントがある。なぜならば、非生産的なアートに関わること
によって自分の金銭的、時間的、精神的な余裕を誇示することが出
来るからである。時としてそれは、他人に向けた、自身のアイデン
ティティのアピールにまで発展する。自分自身のプレステージ性を
高めるためにアートを利用するのである。そしてそれは、非生産的
なアートに対して高い代価を払うということに繋がる。アートを関
わることによって自身のステータスが上がると感じる人がいる。
  その結果、オークションで高値がついている作品は「価値がある
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から高い」のではなく「高いから価値がある」と評価されることす
らある。 
  アーティストはたとえ素晴らしい作品を生み出したとしても、意
に反して、価値を理解しない金持ちのきまぐれでアクセサリー代わ
りに使われる可能性もあるということを覚悟しておかなければなら
ない。

アートは人々の生活に不可欠なものであり、その人とな
りを表現する

3.アートとお金

  次にアートとお金に関することを論述していきたい。アーティスト
はまるで聖職者のように、お金と関わることを嫌悪する傾向がある
が、作品を制作する上でお金は切っても切れないものであることは
明らかである。故に、アーティストが金銭的な心配をするのは何ら
恥ずかしいことではないと私は思うし、むしろ経済的な不安を感じ
ずに作り出された作品の方がより優れているのではないかと考え
る。高価な岩絵具を使えば、それだけで素晴らしい作品が描けると
いうわけではないが、それを用いることによって表現の幅が広がる
のは確かである。つまり、制作活動においては程度の差こそあれ、
資本が必要だということだ。もちろんこれは報酬だけを追求した商
業的なアートを推奨しているということではない。
  ビジネスの世界では、見積もり、請求、支払いということが、ご
く当たり前に行われている。アーティストも、制作活動に支障がで
ない程度にお金にまつわる事実を知っておくべきではないだろう
か。
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  アメリカの経済誌「Forbes」誌は、アメリカでの有名人トップ1
00の所得ランキングを毎年発表している。アーティストの高収入
を一番顕著に表している1998年で見てみると、トップ10のう
ち8人がアーティストであった。このことから、成功したアーティ
ストが得る収入は他の職業と比べて圧倒的に高いといえる。
  しかし高い収入を得るアーティストはほんの一握りだ。これが他
の職業と明らかに違う点である。逆に平均収入を見てみるとアー
ティストは他の職業と比べて圧倒的に低い。
  アメリカで作品制作だけで生活しているアーティストの平均収入
は、他のフルタイムで働いている人々の収入よりも30パーセント
低いという調査結果がでている。アメリカのアーティストの困窮の
度合いは他のいかなる職種や技術職よりも深刻になっているのであ
る。
    ただ、多くのアーティストは副業による収入源をもち、実際に
は赤貧とまではいかないことが多い。しかしそれはアートだけでは
生計を立てられていないということであり、やはりアーティストは
低収入の職業と呼ばれても否定することはできない。
  これらのことから、アーティストには極端に不公平な収入の分配
が存在するということである。
  アートの世界の経済を詳しく解き明かした経済書、「金と芸術」
で著者のハンス・アビングはアートの世界を、「勝者が全てを得る
マーケット」と表現している。非常にわかりやすい説明がなされて
いたので、二つ紹介したい。
「Aさんがりんごを100箱入荷し100箱全て売り切ったとす
る。Bさんはりんごを100箱入荷し99箱売り、1箱余ってし
まったとした時、AさんとBさんの収入の差はりんご1箱分だけで
ある。1%の差しかでないのである。生産に対する報酬は、ほとん
どこれと同じように、直接、間接にかかわらず、その絶対的能力に
かかっている。」
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しかしながらアートの世界はこういった一般的なマーケットではな
く、報酬は絶対的能力よりも相対的能力にかかっている。
  そして著者はスポーツの世界も「勝者が全てを得るマーケット」
であり、アートの世界に酷似しているという。
「Aという陸上選手がBという選手よりも1パーセント速くて勝利
を収めるとすれば、Aは賞金の全てを得て、Bよりもはるかに多く
稼ぐだろう。テニスプレーヤーのシュテフィ・グラフを例に挙げよ
う。グラフは何年ものあいだ世界一であったモニカ・セレスが精神
異常者に刺され、引退を余儀なくされて以降、世界一の女性テニ
ス・プレーヤーとなった。わずか数ヶ月で、グラフの絶対的能力は
おそらくこの期間に変化しなかったにもかかわらず、収入は二倍に
なった。セレスの引退以後、グラフの相対的能力が上昇したのであ
る。」
  アートの世界もこれと同じ「勝者が全てを得るマーケット」なの
だ。資質や才能、努力のわずかな違いが、収入において、とてつも
なく大きな違いとなるということである。

アートの世界においては、絶対的能力よりも相対的能力
が評価され、報酬が決定する

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4.アートと見なされる条件
  クライアントとデザイナーとの矛盾した力関係の中で生まれた制
作物はデザインであってアートではないと、「はじめに」で前述し
た。

  ではモダンアートの旗手が商業デザインを手掛けた場合はどう
か。私はモダンアートの擁護者、「MoMA」に喧嘩を売っているのだ
ろうか。私は失くすものなど何もない生意気な若僧だ。あえて喧嘩
を売ろう。
  私は「MoMA」の所蔵作品に対して、「もはや芸術の域にまで達し
ている」、あるいは「芸術作品と比べて遜色がない」と思っている
し、リスペクトもしているが、やはり大量生産されたものではアー
トではないと信じる。
  ただし、時間が経ち、後世の人間が見てもそこに普遍的な美しさ
を感じるのなら、その時にアートたりえるのではないだろうか。
「MoMA」には「Power Mac G4 Cube」が所蔵されている。これは20
00年8月にアップルコンピュータ社から発売されたポリカーボ
ネート製のパーソナルコンピュータである。アップル社がなくな
り、コンピューターという概念さえもなくなってしまった100年
後の人類が見たときに、それを美しいと感じるか。感じるならば、
その時初めて大量生産の工業製品はアートになるのではないだろう
か。

  大量生産に限らず、この世にたった一体の彫刻作品でさえ、そこ
にクライアントが存在するならば、それはアートではない。現在で
は偉大な芸術作品の一つであると誰もが疑わない、ルネサンス期を
通じて最も卓越した作品の一つである、ミケランジェロのダビデ像
でさえ、公開された1504年9月8日の時点では芸術作品ではな
かったと私は確信している。
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  ダビデ像が制作されたイタリアのフィレンツェは、ヨーロッパで
最も美しい都市の一つである。そのフィレンツェの象徴的な建築物
とされる、サンタマリア・デル・フィオーレ大聖堂の建築主はフィ
レンツェ羊毛業組合の大聖堂造営局であった。大聖堂造営局は、か
ねてより旧約聖書を題材とした12体からなる巨大な彫像の連作を
飾るという計画を立てていた。この計画の背景には、15世紀初頭
からミラノ公国をはじめとする外部の脅威が迫っていたため、聖書
中の聖人や伝説中の英雄の像を大聖堂に飾りフィレンツェの興国の
気運を高めようとの配慮があったと言われている。
  この仕事を26歳の若きミケランジェロが、コンペティションで
レオナルド・ダ・ヴィンチをはじめ何人かの芸術家を破り、150
1年8月16日大聖堂造営局と正式に受注契約書を交わした。
  ミケランジェロはダビデ像を、フィレンツェ羊毛業組合のために
制作したのである。紛れもなく、彼がデザイナーであった証しであ
る。これまでのダビデ像の先行作品とは異なり「ゴリアテを倒した
後」ではなく、「これから戦闘に挑む姿」を描いたことは、当時斬
新だったと思われる。彼の圧倒的な力強さの表現もセンセーショナ
ルであったことだろう。  
  しかし、当時のフィレンツェの人々はこの作品を芸術作品として
受け止めたのであろうか。「Power Mac G4 Cube」が「コンピュータ
としては美しい」というのと同じように、「権力の象徴としては優
れている」という受け止め方だったのではないだろうか。
ミケランジェロがデザイナーであったとして、その仮定に私の定義
をあてはめると、完成当時のダビデ像はアートではない。後世の人
間が長い歴史の観点からこの作品を見たときに、単なるフィレン
ツェの守護像ではなく、「人類にとって重要な芸術である」と判断
し、ダビデ像はアートとなったのである。

アートと見なされるのには、時間がかかる
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5.アートと見なされるのに時間は重要か

  では、制作物が世の中にアートとして認められるには、膨大な時
間が必要なのだろうか。アーティストになるためには、既にアート
として確立されたスタイルの中で制作に取り組むべきなのだろう
か。新しいものを世に送り出すとそれはアートとしては認められな
いのであろうか。伝統的な表現を用いた作品だけがアートとして見
なされるのだろうか。
  こういった古くから存在していた作品と、その手法だけがアート
であるという見解は明らかに間違っていると私は考える。例えば本
論文初めに例に挙げた、村上隆氏のフィギュア作品は、明らかに現
代にしか存在しえない物をコンセプトとしている。まずはこの作品
について詳しくお話ししたい。
  16億円で取引されたこの作品は10年前にはたった500万円
の値段がついていたそうだ。しかしそこから制作費を差し引いても
十分利益がでていたという。それがたった10年で16億円、30
0倍以上にも跳ね上がった。全長は254センチメートルで顔はア
ニメ調の少年。その少年は全裸で、ペニスは勃起し精液が噴き出
し、その精液が体中をまるで投げ縄のように取り巻いている。批評
家達の中にはアートとして認めないといった声も少なくはなかった
だろう。確かに、前述したミケランジェロのダビデ像と並べてみれ
ば、明らかにそこからは卑猥で不潔な印象を受けるだろう。しかし
顔をあえてアニメ調にし、雰囲気も彫刻作品というよりはフィギュ
ア作品として見えるようにしている。なおかつ少年は射精の快楽に
恍惚の表情を浮かべず、ただ笑っている。もしこの作品の顔が、射
精の快楽にうっとりとした表情で、ダビデ像のような荘厳な雰囲気
を醸し出した上で、勃起したペニスが精液を噴きだしている作品
だったとしたら、それは不潔な物体でしかないし、偉大な彫刻家に
対する侮辱になる。しかし村上氏は作品に微妙な違和感を含ませる

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ことにより、紙一重のところでエロをアートに昇華させているので
ある。
  20世紀末の現代を映し出した村上氏の作品は、時間を経ずとも
アートたりえた。つまり、アートに時間はさほど重要ではないとい
うことではないだろうか。
  村上氏の作品を主に取り扱っているギャラリストの小山登美夫氏
は自身の著書の中でこう述べている。
「絵具の色彩やモチーフの形状といった美術の基本的な要素と同じ
ように、歴史やコンセプト(例えばオタク文化と欲望の問題など)
が色濃く反映されているかどうかも、美術にとって非常に重要なの
です。それが濃密であればあるほど、美術品としての完成度が高い
と見なされ、それにともなって市場価値も上がるのです」

  もちろんいつの時代にも評価されることでアートになりえる作品
もたくさんあるが、その時代を色濃く反映することもまた、重要な
のである。

時を経ずともアートたりえるものがある

20

第3章
成功の定義
成功したアーティストに共通する具体的な法則について掘り下げ
ていく前に、本章では成功の定義について述べていきたい。私が何
をもってして成功だと結論づけているかを述べなければ、それは
ゴールのない計画書と一緒になってしまうからである。ここでは私
が何をゴールとして捉えているのかを述べていきたい。

  結論から言うと、アートの定義と同じように、成功もまた明確に
定義付けることができない。ただしこれは結論がでなかったという
意味ではない。
  アートの定義が人々の判断に委ねられているのと同じように、成
功の定義も本人の判断に委ねられていると結論づける他なかったと
いうことである。以下、その理由について述べていきたい。

1.辞書による成功の定義
  一般に「成功」とはどういうことを指すのだろうか。まず辞書に
掲載されている「成功」という言葉の意味を調べてみた。すなわち
辞典における「成功の定義」である。
「Encarta World English Dictionary」という辞典には、「成功」
という言葉が、次のように示されていた。
1,計画したもの、あるいは試みたものの成就
2,華やかな成果、なかでも富、名声、権力の獲得
3,計画されたとおりに完成したもの
21

4,特に富、名声、権力を獲得できた記録のある者
  私は成功の定義付けをするにあたり、様々なアーティストや偉人
の自叙伝や評伝を基に調査した。その後で改めて辞書で成功という
言葉について確認してみたのだが、「辞典における成功の定義」に
大きな疑問を覚えた。過去の偉人達は確かに富や名声を獲得してい
る者が多かったが、それらだけを獲得したくて活動している者はい
なかったのだ。結果として富や名声を獲得してはいるが、それはあ
くまでも結果であって、成功することを目標に活動している人は、
たとえそれが実現できたとしても、結果的に惨めで情けない思いを
するだけで終わるのではないだろうか。富や名声だけを追い求める
プロセスは苦痛でしかないと成功者達は述べている。
  例えば報酬の獲得を目的として絵画を描くとしよう。それを目的
とした場合、まずマーケティングをすることになる。消費者はどん
な絵を求めているのかを調査するのだ。そしてそのマーケティング
を元に絵画を描き、そのマーケットに向かって販売を仕掛ける。
  気づいただろうか。報酬を目的に制作した場合、それは既にアー
トではなくなっているのだ。そこに制作の喜びはない。ただ報酬を
得たという喜びがあるだけだ。ただし、辞書による定義には則して
いる。私はそこに矛盾を感じた。成功したアーティストに制作の喜
びは必要ないのだろうか。報酬や名声だけを手にすればいいのだろ
うか。成功したアーティスト達は、辞書における成功の定義を否定
している。ということは辞書における成功の定義は、あくまで第三
者が結果に対して抱く、印象なのではないだろうか。アーティスト
本人にとっては、そこに至るプロセスにこそ大きな意義があり、そ
の過程における満足度こそが「成功」なのではないだろうか。「第
三者が定めた定義ではなく、アーティスト本人が定めるべき定義」
があるのではないだろうか。第三者が成功と見なさなかったもので
も、本人にとっては成功だといえるものがあるはずである。それこ
そが私の求める「成功」の定義なのではないだろうか。私は辞書を
棄て、そこに成功の定義を求めることにした。
22

  私は本論文の「はじめに」で「アートとは、『アーティスト自身
に主体性があり制作した作品』のことで、デザインとは、『クライ
アントに主体性がありデザイナーに制作させた作品』である」と述
べた。報酬を目的にしてしまった結果、それはアートとしての価値
を下げてしまう。報酬を目的とせずに、純粋に自身が作りたい作品
を作り、結果的に報酬を得ることができた時にアーティストは喜び
を感じる。逆に富が得られなかったとしても作品を制作しているそ
の瞬間に、全身に生命の躍動を感じることができるだろう。
  ただしあくまでアートの定義は「アートと見なすかどうかは見る
側の判断に委ねられている」としているので、消費者が報酬を目的
として作られた作品をアートと感じればそれもアートになりえる。
しかしアーティスト自身が「作らされた」という感覚がある限り満
足感は得られない。結果的に富を得る事ができたとしても、自身が
本当に作りたい物が評価された訳ではないので、満足感、充足感、
達成感などといった感覚を覚えることはできないのである。

成功とは結果ではなく過程における満足度である

2.お金・健康・時間・仲間
  「成功」を定義づけていくにあたり、私は更に数々の成功哲学書
を読み、調査をした。どの書物も明確に成功の定義付けがされてい
る。それはやはりゴールを提示しなければ、その著者の見解に意味
がなされないからであろう。ゴールを始めに提示した上で、その
ゴールに辿り着くための方法論を述べなければ読者は混乱するの
だ。
  私が調査した数多くの成功哲学書の中でも特に多かったの「成功
23

の定義」は次の通りだ。
  「成功とは、お金・健康・時間、その全てを手に入れ、それらを
分かち合う仲間(家族や友達)がいる状態のことである」、更にこ
の定義ではご丁寧に「その全てを一つも欠けることなく手に入れ
る」というところが強調されている。

 ではこの成功の定義は正しいのか。私の見解を述べたい。
  まずは、この「成功の定義」を掘り下げて考え、解き明かして
いった。
  例えばこの四つのうち「お金」が欠けている人物はどういう人物
か。それを代表するのは学生ではないだろうか。若いが故に健康は
もっており、会社に属しているわけではないため自由に使える時間
もたくさんある。しかしあくまで学問を優先させるのが学生である
ために、お金は欠けている場合が多い。お金が欠けているというこ
とは、出来ることが限られるということだ。故に成功している状態
ではない。
  次に「健康」が欠けている人物はどうか。それは寝たきりの老人
で喩えようと思う。経済的な成功を収め、引退した老人だ。お金は
たくさんあるし、会社から退いたために時間もたくさんある。けれ
どもそこに健康がなければ何もできない。故に成功ではない。
  次に「時間」が欠けている人物はどうか。それは第一線で活躍す
る経営者で喩えようと思う。会社が成功しているために経済的余裕
がある。そしてその会社を動かすだけのパワー、すなわち健康も
もっている。しかし、使命や責任というものに追われて、自分が自
由に使える時間が欠けている。 故に成功している状態ではない
  最後に「仲間」が欠けている人物はどうか。経済的余裕があり、
元気に不自由なく動く体もあり、自分の自由に使える時間が有り
余っている。今すぐにでも世界一周旅行にでも出かけることができ
るのだ。それが終われば趣味の読書に耽るとしよう。読書が飽きて
きたら、次は映画の世界にどっぷりつかることにしよう。それが終
わったら今度はスキューバ・ダイビングにでも挑戦してみようかし
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らん。
全て一人で。
  やはり三つの要素が揃っていても仲間がいなければ空しいだけで
ある。故に成功している状態ではない。
といった考え方である。この定義に対しての私の見解はこうだ。
  この定義は一見正しいように見える。確かにお金も健康も時間も
成功の要素であることには心から賛同できるし、それらを分かち合
う仲間が非常に大切であるという考えにも賛成だ。しかし、それら
のどれか一つだけでも欠けたら幸せでないという考え方には賛同す
ることはできない。
  お金に執着しているにもかかわらずお金のない学生は成功してい
ると感じることはできないだろう。しかし、そもそも学生は学問に
勤しむという役割を持っている。その役割を担っている以上、お金
がないといって嘆く理由はどこにもないのである。一方で社会人は
仕事をしてお金を稼ぐということによって、世の中に貢献するとい
う役割を担っていると私は考えるので、社会人にとってはお金は追
求するべきものなのだと思う。
  ここで私が何を言いたいかというと、ここで提示した成功の定義
は人によって変わるということだ。この定義は万人にとっての成功
の定義にはなりえない。学生にとってお金は成功の要素という意味
でさほど重要ではないし、第一線で活躍している経営者にとって自
由に使える時間は、さほど重要な成功の要素ではないのだ。本来学
生は学問を通じ、成長した自分を感じることで、成功を感じるので
あって、お金を稼いだことに成功を感じる必要はないのではないだ
ろうか。逆に経営者はお金を稼ぐ、すなわち社会に貢献し利益をも
たらすことに成功を感じ、その結果、自由に使える時間の優先順位
は下がる。
  共に成功をわかちあう仲間がいるという考え方も基本的には賛成
だが、それは個人の性格次第で変わるものではないだろうか。狭く
深く人間関係を構築する人もいれば広く浅く構築する人もいるよう
に、仲間に対する価値観は人それぞれだ。仲間がいなかったからと
25

いって、成功していなかったとは言い切れないのではないだろう
か。
  国語辞典における成功の定義をそっくりそのままここで提示する
ことはできない。アートの定義と同じで成功もまた定義付けること
はできないのだ。今の自分にとって大切だと思うことを追求するこ
とが何よりも成功なのだと思う。お金が大事だと感じるなら追いか
ければいいし、健康が大事だと思うなら追いかければいいと思う。
世の中に成功するためのノウハウが書かれた本はたくさん存在して
いるが、結局それは他人の定めた定義であり、それがそのまま自分
にあてはまるとは限らない。全ての人間は違う生き物で、考え方も
千差万別なら、成功の定義も千差万別なのだ。成功哲学書に書かれ
ているノウハウに感銘を受けたならそれを自分の成功への指針にす
ればいいし、そんなものに価値を見いだせないのなら他のものを指
針にすればいいと思う。
  現に様々な成功哲学書を見比べていくと、何通りもの指針があっ
た。ある成功哲学書では、成功するためには人脈が大事であり、人
との繋がりを重要視しろと書かれている。しかし別の著者は、人脈
なんて浅いものに頼らず、自分の内面と向き合うことが何よりの成
功への近道だと述べている。結局は自分自身が成功を定義づけなく
てはならないのだ。他人の成功の定義をそのまま受け入れてしまう
ことは、他人の人生を生きることになる。それこそが成功の妨げと
なるのではないかと私は考える。
  何度も繰り返すが、やはりアートの定義と同じで成功の定義もこ
こで明確に提示することはできない。成功の定義は自分で定める以
外に方法はないのだと私は結論づけたい。

何を持って「成功の定義」とするかは、自分で決めるも
のだ

26

第4章
偉人にみる成功哲学
  「成功の定義」の次に、「偉人における成功哲学」を述べていき
たい。偉人は何をもって成功だと感じることができたのか。
  ここでの「成功法則」はアーティスト以外の偉人を調査対象とし
ている。ただし、私がアーティストにとっても有用性が非常に高い
と判断したものを厳選しているということを強調したい。
  「アーティストの成功法則」については、第6章で深く掘り下げ
ている。
  そして、本章は既に出版されている成功哲学書や自己啓発書を基
にしている。成功哲学はナポレオン・ヒルやカーネギーといった成
功哲学の父と呼ばれる成功哲学の偉人が既に存在し、成功者に共通
する成功法則がかなり体系的に紐解かれている。何百という成功者
へのインタビューを何十年という年月をかけて行い、それを基にし
た書物が既に存在しているのである。
先に、トーマス・エジソンやヘンリー・フォードなどといった過去
の偉人へのインタビューを元に書かれたナポレオン・ヒル著の「成
功哲学」と「思考は現実化する」、スティーブ・ジョブズやビル・
ゲイツ、マイケル・デルなどといった現役で活躍している成功者へ
のインタビューを元に書かれた、マーク・トンプソン、スチュワー
ト・エメリー、ジェリー・ポラス著の「ビジョナリー・ピープル」
から多く引用している事を述べておきたい。

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1.成功哲学者が定める成功の定義とは
「成功哲学」では成功を次のように定義付けている。
  「成功とは、他人の権利を尊重し、社会主義に反することなく、
自ら価値ありと認めた目標【願望】を、黄金率に従って一つひとつ
実現していく過程である。(黄金律=自分がしてほしい事は、率先
して他人にもそうしてあげること)」
  ここにもやはり「富」や「名声」といった論述はない。偉人達の
成功法則を解き明かしてみても、成功は富や名声といった物質的な
ものではなく、自分自身が立派だと思っている活動に取り組んでい
るその最中のことだと定義づけている。
一方「ビジョナリー・ピープル」ではこうだ。
「生き甲斐である天職に没頭しているときに全身に生命の躍動を感
じること」
  現代の偉人達のインタビューを元にした調査結果からも、やはり
富や名声は答えとして返ってこなかった。時代に関係なく永続的な
成功をおさめている人たちが、人生や仕事でもっとも大切にしてい
る思想は誰にインタビューしてもこうであったのだ。そして重要な
のはどちらの定義も結果ではなくて、その結果に向かっているプロ
セスを最重視しているところだ。そして問題なのは、どうして成功
者以外の人々は、辞書に載っている「富、名声、権力の獲得」と
いった定義ばかりを受け入れているのかということだ、という。
  富、名声、そして権力に対する夢のような、しかしどうでもよい
望みを、それ自体を理由に追いかけている人は、たとえそれが実現
できたとしても、結果的に惨めで情けない人になってしまうだけに
終わる、と述べている。つまり今日の成功の定義こそが成功の妨げ
をしているという考え方だ。前章でも述べたが、やはり辞書に載っ

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ている成功の定義は成功哲学者から見ても、目標にするべきもので
はないのだ。

結果よりプロセスが重要である

2.好きなことを追いかける
また「成功哲学」ではこうとも述べられている。
「人間は自分の心の自治権を与えられている。自分の心を自分で決
めるということがいかに素晴らしいものであるかということを知っ
ておかなければならない。」
「ビジョナリー・ピープル」ではこうだ。
「目標を設定して、時には意気揚々とその達成に向かって突き進ん
でも、人生のある時点で、どういうわけか落胆し、虚脱感を覚え、
不幸な気持ちになってしまうのは、本人の懸命に取り組んでいるこ
とが本当の生き甲斐ではないからだ。」
  つまり自分自身が本当に好きだと思えることに没頭しない限り、
成功はおぼつかないということだ。しかし私が思うのは、「自分が
好きなことをするだけで生活ができる程、世の中は甘くない」と一
般に人々は思っているということだ。だから人々はなるべく自分自
身が好きなことを職業に選ぶと同時に、そこに安定を求める。それ
は至極真っ当な考え方だと思う。しかしこれらの成功哲学書の見解
はあくまで「好きなことをやれ」なのだ。なぜなら、インタビュー
対象は一般人ではなく成功者だからだ。成功者は例外なく本当に好
きなことをやっている。安定した生活を成功ととらえるのであれ
ば、これらの考えから学ぶことは何もない。しかし、もし永続的な
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成功をおさめた成功者に憧れ、自分もそうなりたいと望み、それこ
そが成功だと思うのなら我々はこの考え方から多いに学ぶことがあ
る。例え経済的なリスクを抱えることになったとしても、好きなこ
とをやるべきなのだ。自分自身が本当に立派だと思え、生き甲斐を
感じることに対して没頭するべきなのだ。

永続的な成功を望むなら、好きなことを追い求めるべき
である

3.時間を追う感覚
  言葉で好きなことを追い求めるといっても、現実に自分が本当に
好きなことを見極めるのは容易なことではない。自分自身が好きだ
と信じていることも、いざ始めて見ると意外と苦痛に感じたりする
ことが多いのではないだろうか。
  成功哲学書では、好きなこととそうでないことを見極める方法論
として次のように述べている。
「あることに取り組んでいるときに、時間を追いかけている感覚を
覚えたならば、それがあなたにとって本当に好きなことである。」
少しわかりにくい説明だが、逆に考えてみるとわかりやすい。
「あることに取り組んでいるときに、時間に追われている感覚を覚
えたならば、それはあなたにとって本当に好きなことではない。」
  更に時間を追う、時間に追われるという言葉を他の言葉に置き換
えてみよう。
  時間に追われているということは「やらなくてはいけない」とい
う「MUST」の感覚で取り組んでいるということで好きなことではな
い。好きなことでないということは、人はその活動に対して苦痛を
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覚える。結果、成功できない。時間を追う感覚、「やりたい」とい
う「WANT」の感覚で取り組んでいることは、それはその人にとって
好きなことで、苦痛を覚えることなく躍動感を感じながら取り組む
ことができる。こういった時間を追う感覚で取り組むことができる
活動こそ天職になりえる。好きなことを追い求めれば、永続的な成
功を手にすることができ、同時に富や名声も結果としてついてくる
ということは前述した通りだ。

やらなくてはいけないと感じる事は、好きなことではな

4.成功者は仕事をどう捉えているか

  成功者はこの時間を追う感覚で仕事に取り組んでいるようだが、
その時間を追っている感覚を具体的に表した話が、チクセントミハ
イ著の「フロー体験  喜びの現象学」でなされていたので紹介した
い。
「成功者は、エレガントさを演出するビジネスに携わっている何人
かの例外はあるにしても、スーパーモデルというよりもむしろ流行
に無頓着な人物のようだ。大好きなことをしているとき、いつのま
にか社会的たしなみを忘れてしまっていれば、おそらくそれが人生
の天職だという証拠になる。少なくとも、情熱を傾けるものを見つ
けたことになるのではないか。ポイントはこうだ。あまりにのめり
こんで社会的な感覚が鈍くなってしまう危険を冒しながらも、ひと
つのことに無我夢中で取り組んでいるオタクのように、ごく自然に
大好きなことに没頭している、そんなときこそ、自分が正しい方向
に向いているのがわかると言うことだ。それは、疲れ果てて他に何
もできないときでさえ、自分をその気にさせてくれる。大好きなこ
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とを見いだし、それに取り組むことによって、まるで違った仕事の
経験ができる。実際の所、それはまったく仕事のようには感じられ
ないかもしれない。成功者は一般的に、自分の仕事のことを【とび
きり面白い】というように表現する。つまりこれは義務感だけで与
えられた仕事をしているときに得られる経験とは、180度違った
経験なのだ。」
  ここで着目したいのは「仕事のようには感じられない」という見
解だ。前述したがやはり成功者は義務感で仕事に取り組んでいるの
ではないのだ。「MUST」の感覚で仕事に取り組んでいる成功者はい
ない。成功者は共通して「WANT」の感覚で仕事に取り組んでいるの
である。

成功者は仕事を楽むべきものと捉えている

5.安定した生活を選ぶことの危険性
  一般人にとって好きなことだけに取り組むことはリスクがあり、
無謀なことだと思われがちである。それが故に、あまり好きではな
いとわかっていても安定した生活が得られることを成功であるとご
まかし、本当に好きなことを追い求めようとしない。しかし成功者
のインタビュー記事を見ていると、好きなことをせずに安定した生
活を選ぶことこそがリスクだと言っていることがわかる。ここでは
ビル・ゲイツと並んで、世界で二番目の大富豪といわれている、投
資家のウォーレン・バフェットの言葉を「ビジョナリー・ピープ
ル」より引用したい。
「世の中では、成功とは自分の欲しいものを手に入れること、幸福
とはすでに自分が手にしているものを欲しがることだと言ってい
る。さて、どちらがこの場合によくあてはまるのか私にはわからな
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い。けれども私自身、他のことを一切するつもりはない。私は
常々、こんなことを口にする人たちのことを心配している。つまり
『今後10年間、これに取り組むつもりだ。正直、それほど好きで
はないけれども、さらに10年間続けて・・・』。私が言いたいの
は、これは歳をとったときのためにセックスを控えるようなもの、
ということだ。ぞっとしないアイディアだ。」
バフェットは笑い、更にこう付け加えた。
「私はタップダンスのように足取りも軽くオフィスに向かう。仰向
けに横たわって天井か何かに絵を描かなければというような気分に
なる。まるでミケランジェロのように。つまり、これが仕事に臨む
気分なのだ。この気分がしぼむようなことはない。何ものにも代え
がたい楽しさだ。」

成功者は、安定した生活を選ぶことこそがリスクである
ととらえている

6.スタートラインはみな同じである

  成功者と同じように、成功している企業も、従業員にとって仕事
が「とびきり面白いもの」になるようなポリシーを持っている。国
際的なIT企業、「グーグル」社がその代表格だ。
  同社は従業員に対して、仕事の時間の15% 20%をとりとめ
もない開発研究に使うように奨励している。自宅でこっそり副業に
精を出すような社員を作ってしまうと、組織から無視されたことに
よってそのアイディアが死んでしまうか、あるいは反対に、見事に
完成して起業の決意をするところまでいってしまうかもしれない。
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だからこそ、この20%ルールは組織が画期的なアイディアを奨励
し支援する方法のひとつになるのだ。社員は一週間のうち一日を費
やして思いどおりの仕事ができる、あるいはそのために何日かため
て数週間の休暇をとることができる。有給の時間を使うことによっ
て、従業員本人は、創業したての企業のように、自前のプロジェク
トを立ち上げる起業家CEOであるかのような気分にひたれる。
  そうした時間は、アイディアが十分に熟成され、経営者に初めて
報告する日まで続くのだ。同社の代表的なサービスである、
「Google News」はまさにこのルールから生まれた。2001年9月
11日、アメリカにおいて同時多発テロが発生した時に、「自分が
必要としているニュースを探すのは想像以上に骨の折れる作業だ」
と気づいた従業員はニュースを検索するというアイディアを思いつ
いた。その結果世の中に多大な影響を与え、その従業員自身も成功
者の仲間入りを果たしたのだ。
  ここで重要なのはグーグル社という成功している企業に属してい
る者も、そのユニークな20%ルールに取り組んでいる時間以外
は、本当に好きなこととは少しはずれたところにいるということ
だ。ほとんどの人は現実的な問題として、自分には十分な資金がな
い、あるいは時間やエネルギーもない、そのうえ組織がサポートし
てくれないのならますます無理だ、と考えるだろう。しかしそれは
成功者にしても同じように脅威となっていたのだ。彼らはその恐れ
を感じながらも、ひたすら前進してきた。自分の夢が簡単に実現す
ることはないし、簡単に実現してしまったら、満足感を得ることは
できない。したがって、汗を流せるときにはいつでも、その夢を実
現するために必死に汗をかかなくてはならない。
  私がアーティストや偉人達の成功プロセスを追いかけている最中
に特に強い印象を受けたのがこの、成功者も一般人と同じように、
資金や周りの批判的な声といった、脅威を抱えていたということ
だ。
  特別に環境が良かったとか、運に頼って成功した人は誰一人とし
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ていなかった。そしてほとんどの成功者は、最初は自分のやりたい
事から外れたところからスタートし、しかしその人ならではの、組
織における存在意義をどこかで見出し、脅威を克服しつつ、苦労し
ながら成功していったという事実を持っていた。
  メディアは成功者をあたかも一晩で成功したかのように報じる。
そして一般人は成功は運にかかっているといったイメージを持つ。
しかし、よくよく成功者を追いかけてみると、そこには必ず成功す
る理由があるということに気づかされた。
  そして一時的でなく、永続的な成功をおさめている人は共通し
て、最終的には大好きなことだけに没頭している。しかしあくまで
それは最終的にたどりついた境地であり、そのプロセスを見逃し
て、成功は環境と運にかかっているなどと判断してはならない。

成功者は特別な人ではない

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第5章
アーティストを取り巻く現実
 
いよいよ本題であるアーティストの成功哲学について考えていきた
い。
  まず初めに、成功していないアーティストがどのような問題を抱
えているのか、またどのような誤った考えをもっているのかを考察
したい。なぜならば、成功するためには間違いを犯さないというこ
ともまた重要な要素となりえるからである。

1.一部の人間しか成功できない明確な理由

第2章「アートの世界」で私は、「アートの世界において報酬は絶
対的能力よりも相対的能力で決定する」と述べた。そして、資質や
才能、努力のわずかな違いが収入においてとてつもない大きな違い
となる。ではなぜアートの世界では努力がそのまま報われることが
ないのであろうか。同じだけ努力した人間全てが報われない理由は
なんなのであろうか。私はこれを「運」の一言で片付ける気はな
い。
  なぜならば、自分自身が「アートの消費者」の立場として考えて
みた時に答えがでてきたからだ。
  結論からいうと消費者は「受け入れる成功者の数を限定してい
る」のだ。アートに触れ、やすらぎを得たい消費者はなるべく簡単
に好みのアートを見つけたいと望んでいる。多くの消費者は手軽に
やすらぎを得たいだけであり、アートのスペシャリストになりたい
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わけではない。やすらぎを得るためのものに振り回されるのは、本
末転倒なのである。そのため、すでに名声を得たアーティストの名
前だけを記憶する。口コミや評論など、様々な意見を参考にするこ
とによって、人々は新しいアーティストの発見に使う費用と時間を
節約するのである。
  そう考えればアートの世界が他の世界と違い、一部の人間しか成
功できない理由が説明しやすくなる。一度成功した人間が更に加速
度的に成功する理由はここにある。つまり人々にとっては、既に成
功している人間を受け入れることが何より容易にやすらぎを得る手
段であるということだ。「坊ちゃん」に感動した人は、次の一冊も
夏目漱石から選ぶ。夏目漱石全集を制覇するか、途中で飽きるかし
ないと、なかなか次の作家には手を出さない。日々の生活に追われ
ている人々は、成功していないアーティストを発掘するほど暇では
ないのである。

成功者の数が限られているのは、受け入れる側の用意し
た椅子が限られているからである

2.金銭的報酬を喜んで放棄できる程の魅力

  アーティストの収入が両極端であるということは第2章で先に述
べた。アーティスト志願者はアーティストの収入が低いということ
を漠然とは知っているだろう。そして、「アートでは食っていけな
い」というのが世間のイメージとして広く定着しているのではない
だろうか。

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  それでも多くの人々が大きなリスクを払ってでもアーティストに
なりたがるのはなぜか。
 ここではその理由について私のいくつかの見解を述べたい。 


 アメリカの国勢調査によれば、アーティストよりも乏しい収入な
のは、聖職者だけだった。ここでもアートと宗教との間に奇妙な関
連性が見られる。アートも宗教も従事する者を献身へと誘うのだ。
金銭よりも、作品への個人的満足や名声に感心を持っているアー
ティストは、金銭的報酬を喜んで放棄し精神的報酬を受け取る傾向
にあると考えられる。
  ではアートが、人々に金銭的報酬を放棄してもいいと思わせる魅
力はなんなのであろうか。それは、アートに神聖さを感じる人々
が、アーティストに高い尊敬の念を抱くことこそが、アーティスト
の満足になるからである。
  たとえ新進のアーティストであっても、たくさんの個人的満足を
自分の作品から得るのみならず、人々がアーティストに対して持っ
ている尊敬の念さえも、集めることができるだろう。彼らは他の職
業の新人では絶対に得られることのない精神的報酬に魅力を感じて
いるのである。
  私自身も制作をしている最中や制作後に大きな満足感を得る。そ
してその作品が評価されると、たとえ金銭的報酬がなくてもやって
良かったと思える充足感を得るのである。これが金銭的報酬を放棄
してでもアーティストを志す理由の一部である。
  ビートたけし氏もアーティストとは何かという質問に対して次の
ように語っているので紹介したい。
「単なるフリーターで、ボケッとしてるだけなんだけど、アーティ
ストだって言った瞬間に違うじゃん。尊敬を込められてるんだよ、
アーティストっていう言葉には。アーティストっていうとさ、働か
なくて、いい生活してそうに思うじゃん。服屋ですって言うと、な
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んかさ、ベトナムか何かの密航してきたやつ、三人くらい使って、
縫ってるかもしれない。外ばっか気にして、鍵閉めて。何かよくわ
からないブラウスとか縫ってそうじゃない。でもデザイナーって聞
くとさ、ガラス張りのところでさ、Macの前で、コーヒーなんか飲ん
でそう。だからアーティストって言葉はイメージなんだよね。」
  つまり、アーティストにはかっこいいというイメージがあるの
だ。これに尽きる。

アーティストは金銭的報酬より、精神的報酬を受け取り
たがる

3.アーティストは自身の能力を正確に査定することが
できない

  これほど収入の格差があるのにもかかわらず、人々がアーティス
トを志す理由の二つ目は、アーティストは自信過剰で、リスクを
取っていることに気づいてないということである。若いアーティス
トは自分で自分の能力に対して曖昧な考えしかもっていない。自分
がアートの世界でどの程度成功できるかを査定しようとはしないの
である。というよりは査定することが不可能なのである。なぜ査定
することができないのか。

  例えばスポーツ選手を志す若者は、ある程度経験を積んでいけ
ば、ある時点で自分の可能性について自然と査定することができ
る。スポーツの能力は数字で正確に査定できるからだ。しかしなが
らアートの世界では能力の優劣を数値化することは出来ない。
  しかもスポーツのように年齢によって左右される世界ではないが
ゆえに焦りも無い。ほとんどのスポーツにおいて、20歳の時点で
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他の選手と自分自身との間に大きな差を感じたら、諦めて他の道を
考え始めるだろう。身体的な衰えに逆うことはできず、差を埋める
ことは不可能に近いからである。プロになるべきかならざるべき
か、そして、いつプロを辞めるべきかの客観的で理性的判断を下す
ことがそう難しいことではないのである。他人の能力と自分の能力
とを比較することが容易なのだ。
  しかしアートの世界においては20歳の時点で大きな差を感じて
も身体的衰えはほとんど関係がないため、人々は諦めずアートの世
界に居座り続ける。自分自身の能力を査定できないうえに、焦りも
感じないからだ。
  野球選手の能力は打率や身体能力テストで数字として明示され
る。そして数値によって明確に表現されたその能力は、誰が見ても
同じ評価となるのである。ある人にとって、その選手の打率が三割
であるのに、ある人にとっては二割であるということはあり得ない
のである。
  しかしこれがアートの世界ではどうか。例えばある歌い手の歌唱
力が優れていたとしても、全ての人が優れていると感じるとは限ら
ない。あるアーティストの発想が優れていると評論家が評価して
も、消費者にとってそうであるとは限らないのである。
  これもまた、アーティストを志す人間が減らない理由の一部であ
る。

アーティストは自分自身の能力を査定できないために、
引き際がわからない。

40

4.アーティストは明るい情報のみ発信する

  最後に間違った情報を受け取っているためにアーティストはアー
ティストで居続けるということを指摘したい。
  「芸術をなすことは終わりなきプロセスを学ぶことだ」、すなわ
ち、たゆまず努力する者が最後には勝利を収める、という信念を
アーティストは一般に持っているのではないだろうか。この種の情
報はたとえネガティブな内容であったとしても、学び続ける為の刺
激と解釈し、アーティストは鼓舞される。この美しい言葉にアー
ティストはすがりつき、凝りもせずに制作を続けるのだ。それをモ
チベーションに制作し続けるのだ。
  そのため、成功することのなかったアーティストが自分の道に見
切りを付けるのは、他の職業の場合よりも遅くなる。しかも、アー
ティストとしてのキャリアの終盤になって成功することは極めて稀
であるという調査結果まである。したがって敗者が最終的には勝利
するという神話は、アーティストにとって誤った情報なのである。
  では、なぜこの種の誤った情報は訂正されないのであろうか。も
し、誤った情報が訂正されるならば、わずかの人しかアートの世界
に身を投じることはなくなるだろう。そして最終的には、他の職業
と比較できるような収入の状況が現れるだろう。
  しかし、そうならない。なぜだろうか。それは、新規参入者の成
功への期待が狂信的なまでに高く、失望した時、彼らはその失望を
決して表に出さないからである。成功の喜び無くして、いかに大変
な思いをしたかについて語るのは恥ずかしいことなのである。した
がって、次の世代もまた正しい情報をもたないまま参入してくる。
同じ事は繰り返され、誤った情報は何世代にもわたって伝わってい
くのだ。

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  この点に関しては、移民がおかれた状況と類似していると私は考
える。移民はしばしば、約束の地についての過度なまでのバラ色の
イメージを故国に送り、失望は隠す。そのために、新天地を夢見る
移民が後を絶たない。成功しなかった移民が、これらのポジティブ
なメッセージを送り続ける限り、この種のイメージは誤ったまま温
存される。移民がそうするのは、移民の道を選んだ決断が誤りだっ
たことを認めたくないからである。
  そして多くの失敗したアーティストもこれと同じような行動を
とっているのではないだろうか。

成功していないアーティストは常に甘い夢を見ていた
い。

42

第6章
アーティストにみる成功哲学
  いよいよ私の求める答が近づいてきた。この章では、成功した
アーティストについて検証し、その成功要因を探ることにする。

1.「or」と「and」

  現代でこそ極めて高い評価を受けているフランスの画家、ヴィン
セント・ヴァン・ゴッホは創作活動をしていた10年間に2000
点もの作品を遺した。自分の作品は素晴らしいという信念に基づ
き、制作活動を続けたのである。しかし、生前に売れた作品は「赤
いブドウ畑」その一点だけだった事は、あまりにも有名な話であ
る。ゴッホは数多くの作品を遺したが、皮肉な事に生きている間に
は、絶大な評価を受けることはなかったのである。
  10年間、たった1枚の絵しか売れなかったにもかかわらず、
「好きだから」というただそれだけの理由で、創作活動に熱意を燃
やし続けたゴッホに、私は心から尊敬の念を抱く。しかし、それを
成功と呼べるのだろうか。好きなことをすることだけが成功なのだ
ろうか。成功の現場に立ち会えないことは、幸せなのだろうか。
ゴッホは決して売れたくなかったわけではないと私は思う。
  再三述べてきたが、あえて言葉を変えてもう一度述べる。「好き
なことが出来ればそれでいい」というのは、アーティストが考えが
ちな綺麗事だと私は思う。私もかつては「好きなことが出来れば他
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に何も望まない」と本気で思っていたが、それは好きなことで成功
できない自分の才能の対する言い訳に他ならない、と今では思う。
  甘い夢を見ながら綺麗事を信じていた私の目を覚めさせたのは、
村上隆氏の次の言葉である。

「アーティストも社会人なんです。お金のことを考えられないな
ら、それで結構。趣味人で終わってればいいんです。」
  この言葉が本論文を書くきっかけとなった。氏の言葉は、暗黒の
海に怯える船乗りの目に映った南十字星のように、私の心にひとす
じの道を示したのである。
  村上氏は自分自身が満足しつつ、他人からも高い評価を受けてい
る。これは充足感と名声を同時に手にしたという事だ。もちろん名
声は富と大親友だ。しかし、成功していないアーティストは、二者
択一を迫られていると勝手に勘違いしている。アーティストは
「or」という消極的な決断から抜け出せないのではないだろうか。
「金 or 好きなこと」あるいは「名声 or 好きなこと」といった具
合に、両方手に入れることを考えず、勝手に二者択一をしているの
だ。
  そしてほとんどのアーティスト「金」や「名声」を諦め、「好き
なこと」を選ぶ。「金」や「名声」を選んだ者は、デザイナーとし
ての道を選ぶ。なおかつ彼らは、「金」を手にした者を痛烈に批判
するのだ。
  もちろん「好きなこと」を追求することは、何よりも素晴らしい
ことだと私は思う。しかし成功しているアーティストをみてみれ
ば、彼らは「and」の考えを持っていることがわかる。彼らの考え
は、「金 and 好きなこと」、「名声 and 好きなこと」なのだ。彼
らは妥協せず好きなことでどんどん稼ぐ。金や名声がなくとも人は
作品を作り上げることができる。

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  しかし金は制作費に、名声はモチベーションになるのではないだ
ろうか。それらがあれば、より良い作品を作り上げることが出来る
のではないだろうか。村上氏は「金 and 名声 and 好きなこと」、
その全てを手にしている。ということは、そこに辿り着ける方法が
あるということだ。一度きりの人生に「or」の考えを棄て、「and」
の考えを持ってはいけないのだろうか。

「おいしいところは全部取り」を目指すべきだ

  2.なぜ村上隆氏のフィギュア作品に16億円の価格
がついたのか
  本論文の冒頭でも紹介したが、村上隆氏のフィギュア作品、「マ
イ・ロンサム・カウボーイ」が2008年5月に大手オークション
ハウス、サザビーズのニューヨークにおけるオークションで、16
億円で取引された。
  こういうニュースが入ってくるとますますアートがわかりづらく
なってしまう。このフィギュア作品と同時期に、運慶の作品と伝え
られる仏像が約13億円で落札されたのだが、このように歴史があ
り国宝級のお宝ともなれば、どれほど高額な価格がついたとして
も、誰もさほど驚くことはないだろう。
  しかし、村上隆氏の作品は歴史があるわけではなく、むしろフィ
ギュアは最近の日本のオタク文化にインスパイアされた作品という
イメージがある。その作品に国宝級のお宝より高額な価格がついて
いるのだ。

  これにより人々は「どうしてフィギュアがアートなんだ」とか
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「アートはわからない、難しい」といった疑問を持ったと思う。仮
に高額な価格で取引されることが「成功」だと定義すると、アー
ティスト志願者からすれば、何が成功の要因なのかますますわから
なくなってしまったのではないだろうか。「評価されるものは、伝
統的なアートにのっとったものだけではなくなったのか」といった
ような「え?それも『あり』になったの?」という動揺を禁じ得な
かったのではないだろうか。高額な価格で作品が取引される奈良美
智氏についても同様だ。
  奈良氏の作品は一見するとイラストと何ら変わらないように見え
る。少なくともいわゆる「画壇」という言葉から受ける印象の重厚
な「絵画」のイメージとはかけ離れている。しかし、オークション
ではいつも高額な価格がつく。アーティストを志し、技術を磨いて
いる者は少なからず困惑する。何が評価されるのかわからない、と
いう事を思い知らされるからだ。
  なぜ村上氏のフィギュア作品が16億円という価格にまで高騰し
たのかを、村上氏の作品を初期の頃から取り扱っているギャラリス
トの小山登美夫氏が、自身の著書の中で詳しく見解を提示している
ので紹介したい。
  小山氏は、「村上氏の作品は、人間の欲望というものを徹底的に
突き詰めた結果として表現された、質の高いコンセプチュアル・
アートだ」と述べている。さらに裸とはいえ、アニメ調のフィギュ
アにすることで、露骨なエロティックさをうまく消し、大衆に受け
入れられやすい、気軽さや親しみ安さを醸し出しているという。村
上氏は、見た目が徹底的に美しいフィギュアを制作するために、原
型制作をはじめ、型どり、複製、塗装などそれぞれの専門分野の優
秀な職人と技術者に多数関わってもらったのだという。だからこ
そ、このフィギュア作品は、現代の日本の技術の結晶でもあるのだ
と強調している。さらに、作品は全部で六体あるフィギュア・シ
リーズの中で、男性はこれ一体だけという希少価値もついた。これ
らの条件が加味され、単なるフィギュア作品とは違うものとして、
46

価格が高くなったという見解だ。
  この見解だけ聞くとアーティスト志願者は、何ら困惑することは
ない。偶然やマジックではなく、苦労して作り上げたものがそのま
ま正当に評価されていると言っているのだ。
  この見解から学ぶことができるのは「一生懸命」という子供の頃
から言われ続けている、当たり前の教則だ。
  しかし、安心するのはまだ早い。残念ながら著者はそれだけで1
6億円もの価格がついたとは考えられないと言っている。村上氏の
作品の中でも特に傑作だと認めてはいるが、それだけで16億円も
の価格がついたとは到底考えられないというのだ。
  実際、オークション開催前の落札予想価格(オークションハウス
の専門家がさまざまなことを考慮してつける価格)は3億2000
万円 4億2000万円だったのだ。最終的にその予想価格の5倍
近い価格がついた訳について、著者はこう付け加えている。
  「ここ最近、特に強く感じるのだが『価格が高いからこそ意味が
ある』というような風潮がある。価格の高さ自体に価値を見出して
いるわけで、作品のクオリティとはまったく別次元の価値観だ。同
業者のギャラリスト小柳敦子さんはこう評していた。『あの村上さ
んのフィギュアはある種、現代アートのシンボルであって、落札者
にしてみれば、現代アートに自分はこれだけのお金を出せるのだと
いう(現代アートへの)理解力や財力、権力など、力を誇示する思
いを託しているのではないか』と。僕も同感だ。現代アートを買う
事は、今は富と名声のシンボルにもなっていることなのだ。それに
財力のある人にとって、16億円でそれこそ世界中に名を知らしめ
ることができるなら、安い買い物なのだろう。」
  つまりアートの価値には、作品自体のクオリティの高さだけでな
く、様々な思惑も絡みついているということだ。私が第2章で述べ
た、アートの第二の存在価値はアートのプロであるギャラリストに
47

よって証明された。必ずしもクオリティだけが評価されて価格が決
まっているわけではない、ということを忘れてはならない。
  ただし、村上氏の作品が現代アートのシンボルとなったのは突然
の幸運ではないし、著者は作品のクオリティも非常に高いと評して
いる。
  つまり作品のクオリティの高さが大前提としてある上で、こう
いった作品以外の様々な要因から、思わぬ天文学的な数字がつくこ
ともあるということだ。

どんな要因があったにせよ、クオリティの低いものに高
値はつかない

2.ギャラリストという存在の大きさ
  村上隆氏と奈良美智氏という日本を代表する現代アーティストは
同じギャラリーに所属している。それは偶然のことなのだろうか。
私はそうは思わない。彼らの成功にはそのギャラリーの代表、小山
氏が深く関わっていると強く感じるのである。小山氏の存在がなけ
れば二人はここまでアーティストとして成功したであろうか。あま
たの原石の中から彼らを見出し、助言と機会を与え、成功に導いた
小山氏の存在は、両アーティストの成功に密接に関係してるのでは
ないかと、私は考える。
  アートには数値化できる成功指針がない。「アートと見なすかど
うかは受け取る側の判断に委ねられている」と定義した以上、受け
取る側の目に触れる機会が必要である。大富豪の子弟が、親の金で
画廊を開き、そこで自分の作品を売り出すというなら話は別だが、
多くの才能は、受け取る側をただ待っているだけである。
  つまり、埋もれた才能を引き出し、世の人々に是非を問うてくれ
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る人物が必要だと私は考える。小山氏は画商である。つまり読んで
字のごとく小山氏はアートで商いをするビジネスマンなのである。
私はビジネスを「利益を生み出すもの」と定義した。画商はアート
によって利益をもたらす。ビジネスマンである小山氏が理解する成
功は、数値化できる利益の大きさなのだ。ビジネスとアートの境界
線に画商が立っている。アートを数値化して評価できるプロフェッ
ショナルなのである。 アーティストが成功するにはビジネスの庇護
が必要なのだ。古くはパトロン、現代ではギャラリストという存在
が、アーティストの成功に大きく関わっている。
  それは、古くはパトロン、現代ではギャラリストという存在があ
るということから、明らかである。

影響力のある理解者を見つけることが必要だ
3.村上隆と奈良美智の制作スタイル

  前述したとおり、村上氏と奈良氏は同じギャラリスト小山登美夫
氏に見出され、そのギャラリーに現在も所属している。村上氏と奈
良氏は日本を代表し、世界にも認められる現代アーティストだ。そ
の両氏の可能性に早い段階で気づいたのが同じ人物なのだ。つまり
そのギャラリストの両氏に対する見解を見れば成功の共通点を見つ
けることができるのではないかと考えた。小山氏は、まだ村上氏も
奈良氏も売れていない頃から両氏の作品の可能性に気づき、古くか
ら両氏の活動を支えてきたからである。
  私はまずこの両氏のアートに対する取り組み方に着目した。村上
氏と奈良氏のアートに対するスタンスに成功の共通点があるのでは
ないかと考えたのだ。
  まず村上氏のアートに対する取り組み方を小山氏の発言の中から
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拾っていこう。小山氏は村上氏の事をこう表現している。
  「村上さんは、僕が知り合ったアーティストの中でも、誰とも似
ていません。まったく稀有な存在です。彼ほどの完璧主義で、しつ
こくて、妥協ができなくて、反骨精神がむき出しの人はいませ
ん。」
  小山氏からみた村上氏はとにかくアートに対して徹底した戦略を
もっているという。それも短期的なものではなく、日本や西欧の歴
史を考えた上での、死にものぐるいの戦略だという。そして村上氏
は自分が手を動かして作ることよりもコンセプトを第一に考えると
ころがあるという。それも個人的な表現として作品を作るのではな
く、多くの人の頭脳や技術を徹底的に調べ上げ、それを集積させた
結果を作品にしていくのだそうだ。フィギュアの作品にしても、
フィギュアに関する情報を徹底的に調べ上げ、自分が納得いく段階
まで熟知してやっと制作が始まったのだという。いうまでもなく、
村上氏はオタクではない。
  村上氏の初期のフィギュア作品が初めて海外で高く評価された
時、日本のメディアは「オタク彫刻に6800万!」などと、面白
おかしく書き立てたそうだ。確かにフィギュア作品はオタクを主題
として扱っているが、オタクの彫刻ではない。これについて小山氏
はこう何度も強調している。
  「オタクという日本独自の文化風土で生まれて広がりを見せてい
る『欲望の現象』を、徹底的に調査・分析して作品のかたちで表現
した、きわめてコンセプチュアルな試みだった」のだと。
  この作品を理解して購入した人もまた、決してオタクではなかっ
たし、オタク文化に興味を持っていた訳でもないのだそうだ。フィ
ギュア作品を一つの芸術作品として見ただけで、その作品が「歴史
の中の美術としてどうなのか」という点で高い評価を下したのだと
いう。
  これは宗教画が、現代においてもアートとして広く認識されてい
50

るということに似ているのではないだろうか。宗教画がアートとし
て高く評価されるのは、技術の高さもさることながら、「歴史の中
の美術として」という観点から見ても価値があるからである、と私
は考える。

  聖書は、第何章、第何節といった構成でできていて、「ページ」
という概念がない。これには理由がある。15世紀中頃、グーテン
ベルグの活版印刷技術が生まれるまでは、一冊一冊手書きだったの
だ。故に、文字の大きさや文字間、行間に違いがでる。だから
「ページ」という概念がなかったのだ。
  その結果、多種多様の聖書が生まれた。それよりもっと前の時
代、活版印刷技術どころか文字を読める人が少なかった時代には、
キリスト教の教えをビジュアルで伝えるしかなかった。つまり宗教
画は布教活動の手段として使われていたのだ。言ってしまえば紙芝
居のようなものだ。多種多様の聖書が生まれた様に、多種多様の宗
教画が生まれた。その多種多様な宗教画の中から現代においてアー
トとして残っているものがある。キリスト教徒でない人間が宗教画
に触れる機会があり、時を超えてそこに普遍の美を認めたからであ
る。
  現代におけるアートを取り巻く環境では、時間はさほど重要では
ないと前述した。アーティストは常に新しいものを求めて切磋琢磨
している。アートの世界にはダダイズムやシュールレアリスムと
いったように、常に新しいムーブメントがある。アーティスト達に
とっては「認められるか、認められないか」の戦場であったことだ
ろう。先駆者達の壮絶な戦いのおかげで現代においては、時の流れ
を経なくともアートはアートとして認められるようになったという
ことだ。
  「時代を色濃く映し出している」作品に対して「後世必ずや評価
されるであろう」という点が事前に加味され、いわば価値の前払い
がされるようになったのではないだろうか。その結果、現代におい
51

ては最新の作品もアートと認められる土壌ができあがったのであ
る。
  こういった点を踏まえた上で、聖書の時代の宗教画が「色濃くそ
の時代を映し出している歴史の中の美術」であるとするならば、2
0世紀末を映し出している、村上隆氏のフィギュアアートも同じも
のだと言えるのではないか。
  一つの方向だけから宗教画を見ると、その宗教に興味がある人に
とってしか価値がないように思えるが、時代背景を見てみると実は
そこに、「歴史の中の美術として」の価値がでてくるのだ。村上氏
の作品もこういった歴史の中の美術としての価値があるのだと私は
思う。
  「100年後にこの作品を見た人が、この作品から21世紀の現
代をどう読み取れるか」というような事を考えれば、この作品につ
いた天文学的数字の価値に対して何ら驚くことはない。
  小山氏は最後にこう述べている。「絵具の色彩やモチーフの形状
といった美術の基本的な要素と同じように、歴史やコンセプト(例
えばオタク文化と欲望の問題など)が色濃く反映されているかどう
かも、美術にとって非常に重要なのです。それが濃密であればある
ほど、美術品としての完成度が高いと見なされ、それにともなって
市場価値も上がるのです。」
  村上氏が徹底的に追求している「コンセプト」は、日本を代表す
るアーティストを世界に送り出した小山氏からみても、他に類を見
ないほどだという。村上氏が高い評価を受けている一番の理由は、
社会的背景や歴史、コンセプトを考え抜く力が、その他大勢の追随
を許さないほどにずばぬけているというところであり、ほとんどの
アーティストが大切にしている美術の基本的な構成要素である技術
が突き抜けて優れているというわけではない。

52

  次に奈良美智氏のアートに対する取り組み方を見ていきたい。本
論文の「はじめに」でも述べたのだが、奈良氏の制作スタイルを明
確に論述する手段として、もう一度紹介したいエピソードがある。
  奈良氏の絵が「イラストとどこが違うんだ」だとか、「マンガみ
たいだ」だとか、痛烈な批判が多かった時代に奈良氏の絵画を一目
みた小山氏は、奈良氏の絵画はイラストやマンガと明らかに違う何
かを感じたという。そして奈良氏の絵を絵画として欲しくなったと
いう小山氏は、奈良氏にこんな質問をぶつけた。
「奈良さんの絵はイラストとどう違うの?」
それに対する奈良氏の答えは単純明快だった。
「僕は描きたいものしか描かないよ。」
  奈良氏は一貫性をもって「描きたいもの」、つまりアーティスト
としての揺らぐことのない信念を核に持ち、アートに取り組んでい
るのだ。
  イラストレーターとは、クライアントがいてそれに対して広告の
ビジュアルを描くといったような、目的を提示されてそれに向けて
描くという職業だ。奈良氏の絵は依頼を受けて描かれたものではな
い。だからイラストではなく絵画なのである。
  前述したが奈良氏は、外との関係を出来る限り遮断するタイプの
アーティストであり、戦略的にメディアに露出する村上氏とは違
う。よってその制作スタイルに対するエピソードは入手困難であっ
た。しかし、この数少ないエピソードの中からも、二人が全く異な
る制作スタイルを持っていることが、おわかり頂けたであろうか。
  この二人のスタイルから私が重要だと思ったことは、以下の相反
する二点である。

戦略を持ち、徹底的に追求する
好きなことしかやらない

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4.二人の共通点
  前節の終わりに、「相反する」という表現を使ったが、ではこの
二人は全く異質なのだろうか。二人の間に共通の成功法則はないの
だろうか。小山氏の発言にヒントがあった。氏は両氏のことを次の
ように喩えている。
「村上さんがクリムトだったら、奈良さんはシーレだね。」
  二人は世代が一緒で、初めは海外で評価され、その後逆輸入のよ
うな形で日本での評価が追いついてきた。この二人にはこういった
表面的な共通点がたくさんあるのだが、小山氏は二人を全く違うタ
イプのアーティストだという。
「クリムトは、画家としての芸術活動のほかに、社会活動にも勤し
むタイプでした。ウィーンの前衛芸術家たちを率いてグループを結
成したり、高額な制作費を支える裕福なパトロンが存在したりとい
う点は、会社を設立して工房的な制作をし、みずからマネージメン
トを手がける村上さんの活動と、重なる部分が多いように思いま
す。一方で、奈良さんをシーレのようだと感じるのは、たった一人
でストイックに描き続けるタイプのアーティストだからです。何年
もずっと、外との関係を最小限にして、自分の内面を突き詰めて描
く制作スタイルを貫いています。」
  村上氏は制作活動以外のところにも焦点を向け、自らが自身のマ
ネージメントをし、外との繋がりを大切にするビジネス的な取り組
みをしている。
  その一方で奈良氏はとにかく外との関係を出来る限り遮断し、自
分の内面に眠る引き出しに極限まで向き合う、いわゆるアーティス
ト肌のアーティストだ。
  アーティストとしてのタイプは全く違う二人だが、二人とも同じ
ように世界的に認められ、成功している。では成功の共通点はどこ
なのか。 
54

  この二人の制作スタイルを追いかけることによって私が驚かされ
たのは、同じように成功している二人は全く違う制作スタイルを
持っていたということだ。ここでも私は少々落胆した。成功してい
る二人の制作スタイルを追いかければ、自ずと答えが見えてくると
思ったのだ。共通点どころか、両氏はありとあらゆる部分において
相反するスタイルを持っていたので、一流のアーティストとして成
功する法則をここで提示することができないと思った。
  しかし私はここで一つのことに気づいた。制作という「行動のス
タイル」は違っても、制作に取り組む姿勢という「思考のスタイ
ル」には酷似している部分があったのだ。
  外との関係に価値観の重きを置く村上氏と、自分自身の内面に価
値観の重きを置く奈良氏とでは、全く違う行動をとっているが故に
思考までも違うように思えたが、もう一度両氏をよく追いかけてみ
るとその二人の思考において共通点を見出すことができた。
  それは、自分の生き甲斐に対する誠実さだ。両氏は自分にとって
非常に個人的な信念をとにかく誠実に扱っている。村上氏は「コン
セプトという信念」に対して誠実な姿勢を貫き、奈良氏は「描きた
いものという信念」に対して誠実な姿勢を貫いている。
  私は両氏を追いかけることによって、どのような行動をとれば一
流のアーティストとして成功できるのかということは、一概には言
えないのだという事実を突きつけられた。しかし両氏は核となる価
値観をしっかりと明確化しており、それは両氏に見られる唯一の共
通点だ。
  自分が個人的に大きな意義を感じるもの、すなわち「信念」に対
してとにかく誠実な姿勢を貫く。それこそが成功者に共通する法則
なのではないだろうか。
  両氏が自分の信念に対して誠実であるということを示すエピソー
ドを、再び小山氏の著書より抜粋したい。
「村上さんは積極的にアートを露出するツールとしてメディアを利
55

用しますが、奈良さんの場合は、いかに露出を押さえるかというき
わめて消極的なプレス活動をしています。以前、そんな奈良さん
に、村上さんが冗談交じりに『奈良さんも広告とかどんどんやっ
て、一億でも二億でも稼げばいいのに!僕がマネージメントしてあ
げるよ』と言っていたことがありますが、『描きたいものしか描か
ない』奈良さんにはそういう仕事はできませんし、興味もないので
す。奈良さんの作品はイメージ性が強く、人々に与えるメッセージ
の伝達力も強いので、実際には広告の引き合いは山のように来てい
ます。来ては断り、来ては断る。もう片っ端から断っています。」
  村上氏は商業主義と結託してアートの付加価値を作りだそうと
し、相反して奈良氏は商業主義と距離を置くことで、逆に非常に高
い価値を生んでいる。アートとビジネスの結びつきにおいても、両
氏の活動は両極端である。
  しかしそこには「信念に対する誠実さ」という、紛れもない共通
点があった。
 これこそがやっと辿り着いた私の求めていた答である。

信念に対する誠実さが、成功の法則である

56

結論

アーティストの成功法則を解き明かすに当たり、まず論述すべきこ
とはアートと成功の定義付けだった。この二つの定義付けをしない
うちから本論を書くことはできないと考えた。
そしてこの二つの結論は、「そのどちらも定義付けできない」であ
る。しかしこれは結論が見つからなかったというわけでは決してな
い。アートであるかないかの判断は受け取る側に委ねられているの
だ。つまり定義付けする権利はアーティスト側にはない。故に私も
ここで定義を提示することはできない。アートの定義は、

受け取る側の判断に委ねられている。
成功の定義は、他人が定めるものではなく、本人の価値観において
本人が定めるものという結論がでた。故にここで成功の定義をして
しまうとそれこそが成功の妨げになってしまう。成功の定義は、

本人の判断に委ねられている。
それを踏まえた上での本論は、成功したアーティストを追いかけ、
そのアーティストの共通点を論述した。本論文では村上隆氏と奈良
美智氏にフォーカスしたが、それは前述した通り、両氏にはたくさ
んの共通点があるにもかかわらず、制作に対するスタンスが両極端
に違っていたからだ。故に非常に比較がしやすく、結論へと導きや
すかった。
本論の結論、すなわち成功したアーティストの共通点は「信念に

対する誠実さ」

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であるが、この結論に辿り着くまでに、私自身が個人的に偉大であ
ると思っていた経営者や起業家といったビジネスマンや、歌手や画
家といったアーティストの人生も膨大な資料を基に追った。その上
での結論であるということを強調させていただきたい。
  中盤に私は成功哲学書から、アーティストにとって有用性の高い
であろう法則をいくつか紹介した。これはあくまで私個人の見解で
はなく、偉大な成功哲学者達による法則を抜き出しただけなので、
私が結論をここで提示することはできない。ただこれらもやはり多
くのアーティストの人生を追った上で厳選した法則であるので、本
論として提示したいと思う。

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参考・引用文献
■「金と芸術」/ハンス・アビング著(山本和宏訳) 2007年 
grambooks
■「現代アートビジネス」/小山登美夫著 2008年 アスキー新書
■「その絵、いくら?」/小山登美夫著 2008年 セオリーブックス
講談社
■「芸術起業論」/村上隆著 2006年 幻冬舎
■「ツーアート」/ビートたけし、村上隆著 2003年 ぴあ株式会社
■「ビジョナリー・ピープル」/マーク・トンプソン、スチュワー
ト・エメリー、ジェリー・ポラス著 2007年 英治出版株式会社
■「成功哲学」/ナポレオン・ヒル著 1996年 きこ書房

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謝辞
  
 本研究の過程において、迷える私を導いてくださった、南雲教授
に心よりの感謝を申し上げます。
 キャリアのない学生の私にはアーティストの成功哲学というのは
偉そうで無謀すぎるテーマでしたが、終始暖かくご指導頂きまし
た。本当に有り難いことでございました。
 また、画家である祖父の存在が本論文を書くに至る一番大きな理
由であり、書き上げるモチベーションでもありました。深く感謝し
たいと思います。
 卒業制作展覧会に向けて、論文の添削やプレゼンテーションのご
指導をしていただいた、中山由秀さん。この大学に入学できたの
も、思い残すことなく卒業できるのも全て、あなた様のおかげだと
思っております。ありがとうございます。
 本論文の研究を進めていく中で、母、兄、姉、祖父、祖母、パー
トナー、様々な方の激励を賜り、書き上げることができたと思って
おります。感謝します。
 最後に、4年間の大学生活において、苦楽を共にし、私を支えてく
れた全ての友人に、私は常に心底感謝しています。どうもありがと
うございました。

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