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リメインドロイデ

 
 

甘木数彦
提供:ハムカツ屋
http://www.hamkatsuya.com/

-1-
序 章
 は色鮮やかなケーブルがノイズのように絡み合う複雑なパーツの一点に、ネジを取り付
けていた。機械油で黒緑色になっている手を動かすと、ドライバーを通してネジとネジ穴
の摩擦が感じられるようだった。集中力が高まっている証拠だ。ただ、録幸には自分の感
じるこの手応えが本当なのか錯覚なのか、未だによく判らなかった。
 ネジを締め終えて一息ついたところでブザーが鳴った。録幸はの裏側を修理するため床
に設けられた穴から出てくると修理しかけの駒輪へ物憂げな視線を投げかけ、作業場を後
にする。
 作業場を出ると、そこは店舗部分だった。作業場と同じく、床は灰色がかった鉱化木材
で覆われている。狭い店内には駒輪が密集して並べられていた。飛行機の垂直尾翼にも似
たボディの左右に一つずつタイヤが付いている駒輪の底面後部からは収納されていたスタ
ンドが垂直に伸びてボディを支えている。
 駒輪の隙間からドアの方を透かし見ると、そこには子供の頃から見知った郵便屋が立っ
ていた。駒輪同士の僅かな隙間を縫って、録幸はドアへ向かう。
「帰ってたんだな」
録幸の倍以上も年上なのだとは思えないような、張りのある声で郵便屋は言った。
「ああ、一昨日。休んでたおかげで仕事が溜まって」
「一週間店を閉めたくらいで忙しくなるほど繁盛してないだろうが」
「冗談だろ? 帰ってみたら、店の前に行列が出来てたくらいだ」
一〇日前、祖父のが亡くなったと連絡があった。録幸が生まれるよりも前に家族と仕事を
捨てて出ていったきりだったので、五〇年近くも連絡がなかったことになる。死因は心臓
麻痺、つまりは老衰ということだった。一応行なわれた検死にも、不審な点はないという
ことだ。
 連絡があったのは聞いたこともないような外国の遠い町の役所からだった。二年前に両
親も亡くしていた録幸は、一人で祖父の遺体を引き取りに行くと現地でささやかな葬儀を
し、僅かばかりの持ち物を処分すると帰ってきたのだった。
「元気そうだな」
郵便屋は軽く笑うと、そう言った。
「当たり前だ。爺さんは電話もメールも寄越さなかった。ウチには写真だって残ってな
い。親父もお袋も爺さんを恨んでたから、話題にだってならない。ほとんど知らない人だ
った」
「その、知らない人から荷物だ」
「そうか」
「いや、だから。鮮造さんから荷物だ」
「知ってる」
郵便屋は落胆を隠さなかった。
「どうして知ってるんだ」
「爺さんの部屋に貨物伝票があったからな。そろそろ来るんじゃないかと思ってた」
「付き合いで驚いてくれてもいいじゃないか」
郵便屋は外へ出た。録幸も続く。

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 郵便屋の乗っている赤い駒輪の後ろには荷物を積んだカーゴが連結されている。その後
ろへさらにもう一台別のカーゴがつながれている。そちらは覆いがなく台だけで、大きな
木製の箱が紐で固定されている。
「ここからじゃ入らない。裏に回してくれ」
郵便屋の返事を待たずに録幸は中へ戻ると店を抜けて作業場へ行き、裏口の戸を開けた。
裏口の前はやや広い路地になっている。
「じゃ、サインを」
録幸は受取書にサインをすると、カーゴの脇へ台車を寄せた。
「重いぞ。クレーンで吊さないとダメだな。来るときも若いのが五人がかりでようやっと
積んだんだ」
郵便屋は駒輪に乗り込むとバックで後部のカーゴを作業場へと入れる。録幸はその間に天
井へ設置された小さなクレーンをカーゴの上へ移動させた。
 録幸はカーゴの縁からロープをほどいた。それからゆっくりとクレーンを降ろし、箱と
クレーンをロープで結び直す。
 壁際の操作盤でクレーンを上昇させる。カーゴの車高が目に見えて高くなり、箱が浮い
た。緩やかに旋回しながら箱は持ち上がり、ロープに締め付けられて軋む。しかしロープ
が切れることも箱が自重で崩壊することもなく、天井に張り渡されたレールを通ってクレ
ーンは部屋の中央へ移動した。
「じゃあ、またな」
無事に床へ箱が置かれるのを見届けると、郵便屋は路地を出ていった。配達用の駒輪が見
えなくなると録幸は箱へ近付き、ロープをほどいた。
 その箱は合板でできていた。廃材の流用なのか、表面には意味から切れた数字や薄緑の
染みが付着している。添付された伝票は糊でシワが寄っていた。その、送り主の欄には確
かに「徳村鮮造」とだけ書かれている。
 遺書も遺言もなかった祖父から荷物が届いた。しかも、開けるのに金てこが必要になる
ような。中身についてはだいたい見当が付いていた。
 ひとしきり箱を眺めると録幸は部屋の隅にあった金てこを手にし、蓋を開ける作業に取
り掛かった。蓋と本体の隙間に先端を引っかけ、そこを支点にてこを奥までねじ込む。体
重を乗せれば蓋は身を捩り、釘が抜ける。やがて蓋が外れると、中には手でちぎったと思
われる圧縮スチロールが隙間なく詰まっていた。録幸はそれを掻き出す。圧縮スチロール
は次々と膨らみ、どれだけ取り除いてもきりがないようだった。
 録幸の指先が眼に先立って中身に触れ、それが姿を現す。人の顔だ。さらに残りを出し
てしまうと、箱の中には二人の女が互い違いに横たわっていた。一人の頭の横にもう一人
の足がある。他には紙一枚入っていない。
 女の茶色がかった髪は肩を越える辺りで揃えられ、前髪は眉に触れるくらいだった。ふ
くよか、と言われる僅かな手前で頬の稜線は顎へと流れ、やや幅広な口は軽く閉じられて
いる。細くはないが長い首は白いカッターシャツの中へと消えている。そのシャツは梱包
の果てにシワだらけとなっていた。黒い細身のレザーパンツも同じだ。服装だけでなく、
二人は完全に同じ外見をしている。双子とさえ呼べないくらいに。アンドロイドなのだ。
 録幸は持ったままの金てこで作業着の上から背中を掻く。父親が生前、千万の怒りを込

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めて「お前の夏休みの工作の方がまだマシ」と評していたアンドロイドが目の前にあると
いうのに、何の感慨もない。
 祖父が町を出たのは道理屋になるためだったという。そのために祖父は、道理屋にとっ
て唯一不可欠な存在であるアンドロイドを、数人の協力者の手を借りて自作したのだそう
だ。アンドロイドはなぜか二体いた。箱の中から出てきたのこそ、そのアンドロイドに違
いなかった。
 今でもアンドロイドといえばあまりに高価なため道理屋や一部の業務用にしか導入され
ていない。録幸が暮らすこのにさえ、一体もいなかった。おまけに複雑かつ精緻なその構
造は専門家以外の手に負える物ではない。しかし、アンドロイドというものが出回り始め
た当初は今に比べてまだ単純な作りだったため、一部に自作のアンドロイドというものも
いた。だがそれも高度な技術を持った人間が集まればの話であり、やはり多くの人間には
縁のないものだった。
 当時の人間が誰も多くを語らないせいで録幸は詳しく知らないが、鮮造もこんな町の駒
輪屋にしては並はずれた工学的な知識と技術、そして職人的な勘があったらしい。そのた
め、どんな駒輪でも数分いじればどこが故障しているか判ったのだという。
 父親なら迷わず二体のアンドロイドを処分していただろう。鮮造が町を出て行ったこと
を、原因も含めて誰もが知っている点を考えれば、録幸もやはり目の前のアンドロイドを
処分するべきなのかもしれない。ちゃんとした仕事も家庭もあり、町で唯一の駒輪屋だっ
た祖父が全てを捨てて町を出て行ったということを、今でも年輩の人間は快く思っていな
い。そんな人々の前にその元凶となったアンドロイドを連れ出せば、もしかすると録幸だ
って冷たい目で見られるかもしれない。二体をこちらへ寄越したということは祖父にも、
アンドロイドが処分されても仕方ないという覚悟があったのだ。
 だが、録幸はどうしてもそうする気になれなかった。祖父には漠然とした悪印象しかな
かったし、道理屋としての生き方に魅力を感じているわけでもない。しかし同じ技術に携
わる人間として、現代技術の粋であるアンドロイドを意味もなく処分することには抵抗が
あったのだ。そうでなくともアンドロイドを個人で所有するというのは望んでもなかなか
実現できるものではなく、その機会を手放すのは惜しいような気がした。
「今日は休業だな」
録幸は呟くと、「徳村輪舗」と胸に書かれた濃紺の作業着の胸ポケットから薄く小さなリ
モコンを取り出した。黒いカード型のリモコンには鬱金色のボタンが並んでいた。その一
つを押す。これで店の入り口のガラスへ「本日休業」という文字が浮かび上がったはずだ
った。
 手始めに録幸はシワだらけになった服を脱がすため、横たわったアンドロイドの肩へ手
を掛け、その身を起こした。体の奥から微かに、ギアの回る音が聞こえた。

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第一章「知り合う」

 何度目かの視線をバックミラーへ向けた。その向こうでは繋がれたカーゴが揺れてい
る。録幸は駒輪に乗っていた。後ろのカーゴの中身は二体のアンドロイド。あれから数日
が経過していた。
 あれこれ調べてみた結果、二人のアンドロイドに異常はなかった。人工皮膚を慎重にめ
くって内部を調べると、駒輪屋だっただけあって機械部分の随所に駒輪の技術が用いられ
ていた。メインスイッチもあった。一度起動すればあとは滅多に触らないそれは、人間で
言えば骨盤の上辺りに存在した。バッテリがちょうど小腸の辺りにある。背面のパネルを
ネジで止めるとそれがサブスイッチの役割を果たし、通常なら起動する。しかし、二人は
目を覚まさない。翌日から仕事の傍ら何度もチェックを繰り返したが、やはりおかしな点
はないようだった。録幸の全く知らないパーツや機構もあった。だがそれらも壊れている
というふうではなかった。残っているのはハードではなくソフトの異常という可能性だっ
た。
 道に沿って並んでいる建物は直方体のすっきりとした形がほとんどで、落ち着いた淡い
芝色の建材を使用しているものが多い。質感は木材に似て表面には年輪のようなマーブリ
ングも見えているのだが、壁一面が一枚でできていることから樹ではないことが知れる。
それは風が強く、冬場は雪が多いこの町に最適とされる建材、クロロベトンだった。徳村
輪舗の外壁も同じものが使われている。形と色がどれも似ているため、決して過密状態で
はないにもかかわらず、ある種の塊感を漂わせている。
 古くからある木造の建物も所々に見える。どれも急で高い斜面の上に建っているせいで
よく目立つ。以前はその高さが地面だったのだ。この辺りはかつて山の中腹だったために
高さもそれほどではないが、山頂付近に建っていた家などは見上げてもやっと、背景の虚
空へ溶け込むような軒先が見えるだけだった。
 旧家の格式を誇示するように一段高い場所にある建物はどれも改築を繰り返してはいる
はずだが、その原型は数世紀前からあるものばかりだ。
 建物の合間から遠くに、町を外部から区切る領壁がかいま見える。こちらは淡い茶色を
しており、高さは九〇メートルくらいもある。遠く離れていてもその圧倒的な重長感が伝
わってくるようだった。壁の全長は八〇キロほどにもなる。その領壁の内側こそが白茅町
なのだ。白茅町は正式には白茅町四町目と言う。近隣の領壁に囲まれた町も町番号が違う
だけで、同じ白茅町である。しかし、どこでも町民たちは自分の住む場所だけを「白茅
町」と呼んでいる。かつては二町目に存在する町役場が全域の管理を担っていたのだが、
それぞれが自治会ごとの決定で町域を領壁で囲ってしまったため、現在それぞれの政治は
各自治会が町役場からの委託という形で行っている。
 途中で何度も、知り合いの駒輪とすれ違う。互いに片手で挨拶をする。馴染み深すぎて
記憶にも残らない日常の一場面だ。相手は後ろへ繋いだカーゴに修理部品か何かが入って
いると思ったことだろう。
 目指す先へ気が急ぎ、自然と録幸は座席の前の方へ浅く腰掛ける形となっていた。操縦
は胸元の高さにはまっているトラックボールの窪みへ指をかけ、それを進行方向へ傾ける
ことで行なわれる。さっきから録幸はスピードを出そうとして、ついついボールを大きく

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前へ傾けがちになっていた。部外者に地理を把握させづらくするため、わざと見通しが悪
く、分岐も多く設計された道を録幸は迷うことなく進んでいく。
 不意に子供の乗った小さな駒輪が狭い横路から飛び出してきた。咄嗟に録幸はトラック
ボールから手を離す。ボールは素早く中央へ戻り、その早さに呼応して急ブレーキがかか
った。情報はコンマ数秒のうちに後ろのカーゴへも伝えられる。連結部分を支点にして、
わずかに浮かび上がってからカーゴは停止した。額へ汗の先端が顔を出す。
 子供の姿は見えなくなっていた。録幸は座席へ深く座り直すと、再びボールを前へ傾け
た。滑らかに駒輪は走り出す。
 
 到着した先は「アルゴラボ」という看板の掲げられた店だった。表通りから少し入った
入り口には駒輪四台分の駐車スペースがある。徳村輪舗と同じく二階は住居部分になって
おり、入り口は自動ドアになっていた。外壁はクロロベトン製で、前面に大きな窓がいく
つも設けられているが、その大半は後から向かいへ建てられた家屋によって陽光を遮られ
ている。録幸は駐車スペースへ駒輪を停めた。午前八時、開店前だ。他に駒輪はない。自
動ドアのガラスにも「閉店」の淡い光が見えている。録幸は店の脇へ回ると、ドア脇のイ
ンターホンを押した。
「はい」
ボタンの上にある小さな画面へ、角張った男の顔が映る。短く刈り込んだ髪型の下で細い
眼が笑ったようになっている。アルゴラボ店主、だ。数樹は録幸より七歳年上で、録幸に
とっては子供の頃から兄のような存在だった。
 相手が録幸だと知ると、数樹は上がるようにとだけ言って画面を消した。同時に鍵の開
く音がする。
 短い廊下を抜けて階段を上ると、そこが居間になっている。雑然とした録幸の家に比べ
てきちんと片付いた部屋は、和骨董の調度品でまとめられている。
 録幸は一九〇〇年代末製の大きな木製の座卓の前に座った。座卓の中央にはくぼみがあ
り、ガラスの蓋が載せられている。その中には紺絣の布が敷かれ、上に小さな張り子の猫
が置かれている。
 奥の部屋から数樹が出てきた。また徹夜したのか、目が濁り顔が脂じみている。一八〇
センチを超す頑丈そうな体も、今日はどことなく弛んで見えた。
 アルゴラボは、ラボとはいえ研究所ではない。ネット経由で様々なプログラムの設計を
請け負うのが主な仕事であり、町内ではパソコンの有料修理や導入コンサルティングも行
なっている店として知られていた。数樹の曾祖父が開店した当初はパソコンの販売も行な
っていたそうだが、そちらはもうずいぶん昔にやめてしまっていた。
 数樹の祖父であるは鮮造のアンドロイドのプログラムを組んだ人物だった。その腕前は
世界的にも知られており、唯一残した論文が受賞したこともある。「ラボ」という店名は
そのときの記念としてつけられたものだった。もっとも、徹語は録幸や数樹が生まれるよ
りもずっと昔に、旅先での交通事故で亡くなっていた。
「アンドロイドのことだろ? もうずいぶん噂だぞ」
数樹は伸びかけた顎髭をさすりながら言うと録幸の前を横切ってキッチンへ入り、コーヒ
ーを淹れたカップを二つ持って戻ってきた。

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 喋られて困ることでもないが、それが人々の興味を強く引くのだという実感は録幸の気
を重くする。
「で、起動させてはみたものの動かない。ハードに異常はないようだってなところか」
うなずく録幸。
「持ってこれるか?」
「手伝ってくれるなら。重くってさ。駐車場に停めてある」
録幸は細い顎をあまり動かさずに答えた。
「よし、じゃあ運ぶか」
数樹はコーヒーを飲み干すと立ち上がった。録幸も立つ。
 
 二体のアンドロイドは居間の奥にある廊下の突き当たり、数樹の仕事部屋へ運び込まれ
た。部屋にある物は少ない。祖父の代から使っているという革張りの大きな椅子に机。そ
の上には大きな三面液晶ディスプレイとヘッドマウント型のディスプレイ、それにシート
タイプのキーボードを始めセンサーグラブなど各種入力デバイスが置かれ、机の脇にはパ
ソコンの本体がある。とはいえ、やはりキーボードなどは滅多に使わないようで、丸めて
束ねている輪ゴムの劣化の具合からそれが判る。他には一つだけ棚があるのだが、扉が付
いており中は見えない。
 アンドロイドは部屋の中央に横たえられていた。大きな窓からカーテン越しに差し込む
光が二人の睫毛にくしけずられている。服装は箱から出てきたときと同じだったが、一日
太陽に当てておいたおかげでシワがすっかり消えていた。
「にしても」数樹はアンドロイドを見つめながら言う。「よくできてるな」
「美人だな、じゃなく?」
「ああ、それもあるけどな。本当に人間そっくりのアンドロイドなんてなァ、そうはいね
えんだよ。ほら、よく見ろ」
言われて二体をよく観察すると確かに全く同じ顔だが、左右が微妙に非対称だった。わざ
わざ人間らしさを増すためにそうしてあるらしい。
「実は、お前に言わなきゃならねえことがある、ちょっと来てくれ」
録幸が無意識に定位置となった薄いクッションの上へ座ろうとしたとき、改まった口調で
数樹は言った。そこで録幸は立ち上がり、数樹の脇に立つ。数樹は椅子へ座りマウスに触
れた。画面が明るくなる。ややあって、ひとつの映像が再生された。
 画面の中央には老人が映っている。痩せており、大きく不格好な眼鏡をかけている。グ
ラスタイプのディスプレイだ。今は何も映していないようで、その細い視線はカメラへ真
っ直ぐ向けられている。老人の背後は白い壁で、それ以外には何もない。最初、老人は大
きなジョッキに入ったビールを飲んでいた。
「数樹。元気か? おやじの跡を継いでちゃんとやってるようだね。さて、例のアンドロ
イドだが、鮮造の家へ送ることにしたよ。私が道理屋をやってることは誰も知らない。そ
れなのにお前がアンドロイドの受取人になれば厄介なことになるからね」
そこで数樹は映像を止めた。老人が曖昧に口を開こうとした姿で固定される。
「と、いうわけでな。知ってたんだよ」
「あれ……」

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「徹語爺さんだ。四年くらい前のな。悪いとは思ったんだが、黙ってたんだ」
 数樹の話によると、徹語は一昨年に亡くなるまで鮮造と共に道理屋をしていたという。
妻とは離婚し、数樹の父も一人前になっていたため、徹語が町を出るにあたって問題とな
るようなことはなかったらしい。しかし先に町を出た鮮造の件があったので、周囲には死
んだことにしていたのだという。
「アンドロイドを作ったときから、それは二人で決めてたことだったんだってよ」
画面の中の、目元を除けば全く似ていない祖父を背に数樹はそう言って話を締めくくっ
た。録幸はアンドロイドに目を落としている。
「それにしたって、俺には話してくれてもよかったろ」
「そういうことはな、もっと口の堅てぇヤツが言うことだ」
録幸は言い返せなかった。確かに、幼い頃から数樹の「これは秘密だぞ」という言葉を守
ったことがあまりなかったのだ。
「冗談だよ。冗談。もし知ったらお前は親父さんに隠さなきゃなんねえだろ。鮮造さんの
ことだってあんなに嫌ってたんだ。俺の爺さんも、なんてことになったら絶対に周りへ言
って回るはずだ。どのみち結果が変わらんのなら、お前に気を遣わせるこたァないと思っ
てな。それに、お前の両親が亡くなってからはほら、何となくそんなこと言いづらいだ
ろ?」
言いづらいというのは実感できなかったが、録幸は深く息を吐いた。昔から数樹はこちら
が思ってもいないようなことに限って気遣いを示してくれるのだ。
「そこで四年前から俺はアンドロイドについて勉強してきた。といってもたいした量じゃ
ないし、実際に爺さんたちのアンドロイドがどんなものか、なんてなぁ知らなかったんだ
けどよ」そこで、慌てたように数樹は手を振った。「お前のためじゃねえ。そこの二人の
プログラムは爺さんの最高傑作だったからよ。それがどんなものか、見てみたいだけだ」
録幸はそこで初めて、数樹の言葉に自然と納得の表情を浮かべた。
「その気持ちは解る。俺だってこいつん中を最初に見たときは、ちょっと感動したから
さ」
放置されていた画面が暗くなった。
「他に訊きたいことあるか? ない? よし。じゃあもう帰れ」
数樹が急にせかすような態度を取ったので、録幸は戸惑いを感じた。
「不思議そうな顔すんなよ。俺はこれから、そこの二人の頭ん中を見るんで忙しいんだ。
ま、爺さんが作ったんだからな。外見よりも美人だろう」
事態を色々知っていて落ち着いているように見えてはいたが、その実浮かれているだけら
しい。期待しないで待ってろよという言葉に苦笑しつつ、録幸はアルゴラボを後にした。


 強風が丈の高い草を薙ぐ。濃緑の中に明緑の葉裏がひるがえっては流れる。その合間を
八〇台ほどの小さな駒輪が走り回っている。草の合間から、彩色された鮫の背びれが覗い
ているようだった。駒輪が通った後は枯緑のスジになる。鮫の航跡よりも長く、幾重にも
折り重なったそれを斜面の上から眺めつつ録幸はあくびをした。斜面から見ていると、自
由に走っているはずの子供たちの軌道には案外と独創性が欠けていた。

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 時間が経つにつれ、草の匂いが強くなる。真新しい駒輪のタイヤにすり潰されるため
だ。甘苦い香りに、録幸は鼻の頭へ皺を寄せた。
 草原と斜面の間には一本の真っ直ぐな道が伸びている。道の一方は町の中心部へ伸びて
おり、もう一方は北西に伸びて駅や町への出入り口へ続く道に合流する。
 路肩には二台の駒輪が停められていた。一台は録幸の駒輪で、マットな赤い色をしてい
る。車体は後方の先端に向かっての反りが強く、厚みもさほどない。セルド社のカンター
タという車種で、決して高級車でも最新モデルでもないのだが、録幸は軽快な加速感が気
に入っていた。もう一台は黒い、比較的まっすぐな形をしていた。同じセルド社のものだ
が録幸のカンタータよりも古い。
 数樹の家を訪れてから一週間が経っていた。連絡はない。
「いつまでやるんですか?」
録幸は隣で駒輪を眺めていた老人、アントン・アレクセエヴィチ・ウスチノフに言った。
「さて、どうしようか」
 録幸たちが居るのは町はずれの草原だった。さして遠くないところに領壁がそびえてい
る。二人は「駒輪講習会」の世話役として来ていた。毎年この時期に町民で九歳の子供を
対象に行われるこの講習会は、駒輪屋の人間が世話役をすることになっているのだ。顔ぶ
れは変わるが一人一人の個性が見えるほど親しくはならないし、やっていることも変わら
ないので、講習会は録幸にとって退屈なものだった。しかし何年も続いてきたものを飽き
たからというだけで辞めるとも言えない。そんなワガママを言えば町内から爪弾きにされ
てしまうだろう。
 法律で駒輪は九歳から乗れることとなっている。もちろん大人用よりも小型で、速度に
しても目一杯トラックボールを前へ傾けたところで時速一〇キロほどしか出ない。以後、
年齢に合わせてスペックは向上していき、一八歳の時に大人と同じ駒輪に乗ることが可能
となる。
 アントンは駒輪屋「サミアドモーターズ」の店主で、生まれも育ちも日本という純ロシ
ア系日本人だった。そのため表情や仕草は日本人のそれなのだが、瞳の色は陽光を照り返
す厚い氷のようであり、後頭部へ僅かに残った白髪には赤毛が少し混ざっている。
 二人が眺めている先で駒輪同士がぶつかった。空洞な音が響き、録幸はつい目を閉じそ
うになる。もっとも元々たいした速度ではない上に強度があるので、子供も駒輪も被害は
ない。せいぜい駒輪の中で子供が身を強ばらせ、録幸が身を縮めるぐらいだ。それが先程
から何度も繰り返されている。
「ふいに、思いっきりぶつかるから驚いて気を付けるようになるんだよ。ほら、さんざん
ぶつかったからみんな注意するようになってきてる」
録幸の反応に気付いたアントンが言う。その言葉どおり、衝突回数は減ってきているよう
だった。
「けどですね。あれ、いったん預かって整備したり洗ったりって大変ですよ」
「無償じゃないんだからいいじゃないか。やっぱり、昔のことを思い出すから嫌なのか
な? いやあ、驚いたよ。集団から離れたかと思ったら、いきなり突き出た岩を踏み台に
ジャンプ。後にも先にも講習会で駒輪を壊したのは君だけだ」
アントンは録幸へからかうような笑顔を向けた。

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 録幸はそのときのことを今でも憶えていた。当時の録幸は駒輪について妙な自信を持っ
ていた。自分が駒輪について下す判断は常に正しいと、乗ったことさえなかったのにそう
信じていたのだ。今にして思えば幼い頃から作業場で遊んでおり、父親の仕事を見たりし
ていたためだと思われる。ともかく、その無根拠な自信でもって録幸は草の上に除いてい
る岩の上からジャンプをしても大丈夫だと判断したのである。
 それが誤りだと悟ったのは、ジャンプした瞬間に思ったよりも高さがあることを知った
ときだった。次の瞬間にはもう駒輪は斜面へ着地しそこね、録幸は噴出した泡状のショッ
クアブソーバーに絡め取られていた。横転して転がる感覚と急速に柔度を失うアブソーバ
ー独特の湿気ったカビのような臭いがいっそう録幸を惨めな気分にさせた。助け出してく
れたアントンは笑っていたし、録幸が無事だと知ると遠巻きに心配していた他の子供も笑
った。その後は当然のように父親に叱られ、思えばそれが切っ掛けで父親による駒輪修理
の手ほどきは始まったのだった。
 録幸は気付かれないように小さく溜め息を吐いた。どうもアントンと話していると調子
が狂う。それはアントンが自分の子供時代を知っているからというだけではない。もっと
大きな理由があった。
 アントンが白茅町へ越してきたのはずいぶん昔のことだった。それはちょうど、鮮造が
出奔したすぐ後のことだ。当時録幸の父はまだ若く、駒輪屋としての技術も未熟だった。
そこで自治会は店舗の無料提供を条件に、移住してくれる駒輪屋を募集した。応募者の中
から選ばれたのがアントンだった。若かった録幸の父が仕事を学んだのもアントンの店だ
った。父が独立するときも快くそれを認めてくれた。そのような経緯から、徳村の人間は
決してアントンに頭が上がらないのだった。さらにアントン一家はそれを恩に着せるとい
うわけでもないのだから、なおさら負い目を感じてしまう。決して親切だからというわけ
ではない。商売人としての初歩的な打算からだった。徳村輪舗が自分に対して決して商売
敵とならないようにしただけなのだ。裏切れば恩を忘れたとして町中に反感を持たれ、客
はすべて離れてしまう。町民以外に客などいないのだから、それは廃業を意味する。
録幸の遠隔操作盤が鳴った。は家のパソコンと繋がっており、パソコンで制御している
家電の操作からメールの送受信まで数多くのことができる。録幸は白地に黒の鹿の子模様
がプリントされたシャツの胸ポケットから遠操盤を取り出した。リモコンと同じぐらいの
サイズと形態だが色はメタリックアッシュブルーで、片側全面がディスプレイになってい
る。画面中央で明滅する呼び出しのアイコンに触れると遠操盤を耳にあてがった。
 電話の相手は数樹だった。
「あのな。例の。ってお前外にいるのか? まあいい。帰りに寄ってくれ」
マイクに吹き込む風の遠いこだまがスピーカーから聞こえる。それだけ言うと通話は切れ
てしまった。
「それじゃあそろそろ子供たちを呼び戻そうか」
アントンの言葉に、録幸は草原へ向かって斜面を下っていった。夢中になっている子供た
ちを呼び戻すために必要な気力をかき集めながら。

 明らかに数樹自身が疲労している点を除けば、一週間前と仕事部屋の様子はほとんど変
わっていなかった。時折客が来るせいかひげは剃っていたが、飴色になった両目と寝不足

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に浮腫んだまぶたのせいでその努力は無駄になっていた。
「今日は何時間?」
録幸は床の上の座布団に腰を下ろすと、どうにか椅子に支えられているような状態の数樹
を見上げた。
「五時間だ。その前はどれくらい起きてたのか。自分でも憶えてないけどな」
言って数樹は手にした大きな白いマグカップに口を付けた。中にはカップスープが入って
いた。数樹は唇に残った黄色い液体を舐め取る。
「実際の起動はまだ試してないんだが、パソコン上での仮想動作チェックは問題ない。た
だなあ」そこで数樹は言い淀む。「ま、起動してみろ」
 録幸はひざまずくとアンドロイドをうつ伏せにして、服をめくった。脊椎のラインを中
心にほのかに肉の盛り上がった背中が現れる。その、肩胛骨よりも下の辺りに、目をこら
してやっと見えるくらいの小さなスジが見える。録幸は渡されたドライバーの先端でその
スジを掻き分け、差し込む。軽い弾力の抵抗が伝わってくる。ゆっくりと回せばドライバ
ーは僅かに沈む。左右のネジを締めると、体内から深夜の冷蔵庫のような弱い低音が聞こ
えてきた。もう一人のネジも締める。すると、音が消えた。
 同じ速度で二人はひじを曲げると、手の平を床に密着させ体を起こす。胸元に服の生地
が少しだけ溜まる。それから二人は右手を持ち上げ、軽く前髪を整えると顔を録幸の方へ
向けた。目がゆるゆると開く。深い藍色の瞳孔が拡がり、縮み、その繰り返しが徐々に小
幅となり、録幸の顔を認識した。アンドロイドの顔に笑みが浸透する。少し眠たそうな目
つきと相まって、どことなく気怠げだ。表情だけではない。細かい動作の全てに、機械制
御とは思えないような無駄や左右の不均等が含まれ、とろみのある雰囲気を漂わせてい
る。
 二人の動きを見つめながら、録幸は息苦しさを感じていた。最初に二人を見たときには
感じなかったような妙に形の定まらない感情のせいだ。
「おはよう、録幸」
二人が同時に言う。二人の声は同じものだった。しかし、重なれば自然とそれが和音をな
している。速度が違うのか、声に微妙な違いがあるのか。録幸の耳には判然としなかっ
た。一挙に感情が凝縮される。
「あ、ああ」
それは応えるというよりは、嘆息に近い声音だった。
「鮮造さんの孫なんだよね」
また、二人は同時に言う。
 戸惑う録幸を眼にして、数樹が笑い出した。日頃なら滅多に見せないような、だらしな
い痙攣するような笑いだ。
「俺が、お前の、基本的情報を、入れておい、い、い」
笑いは睡魔によって際限なく拡大され、数樹は苦しそうにしながらもそれを抑えられな
い。アンドロイドの二人はそんな数樹をなぜだか嬉しそうな顔で眺めている。振り返って
いるその首には精緻なねじれが陰影を生じていた。
「なあ、名前は?」
首のラインから目を離せないまま、録幸は尋ねる。二人が振り返った。

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「わたし? わたしはトキワ。漢字では太いに極って書くんだよ」
「で、わたしが」録幸から向かって右側が手を挙げる。「」
「で、わたしが」もう一人が手を挙げる。「」
「いい名前でしょ? 黒い河と白い河が陰陽を意味してて、二つが合わさって太極にな
る」
「トキワ、で黒河で白河? え?」
困惑しながらも、録幸の脳裏に一人の女性が浮かんだ。トキワと同名の知り合いがこの町
にいるのだ。
「アンドロイドが出回った最初の頃、自作ん中にいたって話はあったが、まさかこいつら
がそうだったとは。最初に気付いたときは驚いた」
「だから、なんなんだよ」
「この二人はな、二人じゃないんだ。一人に体が二つあるってことだよ」椅子に座り直す
と数樹は続けた。「今でも超高機能のコンピューターには二種類ある。一つが、一台で高
い能力を発揮するベクトル型。今のアンドロイドもこれだ。で、もう一つがスカラー型。
これは一台ならベクトル型には及ばねえコンピューターをいくつも繋げて高い能力を発揮
させる。それは判るな?」
録幸はうなずく。トキワもうなずいた。
「で、だ。本当に最初の頃のアンドロイドに積まれてたCPUは普通の個人が買えるよう
な値段じゃなかった。かといって、それより安いCPUには必要なだけのスペックを達成
できない。そこで考えたのがスカラー型のアンドロイドだ。ただな、これも問題があっ
た。当時の技術だと一つの体に二台以上のCPUやその他色々組み込むと、身長が二メー
トル以上になってな。それが嫌なら体をいくつかに分けるか。どっちみち実際にはほとん
ど作られなかった、ん、だ、が」
数樹の視線を察知して、トキワは自分を指さした。
「それ、わたしのことだよ」
「つまり元々は一人しかいないからトキワって名前で、それじゃ区別が付かないから片方
を黒河、もう片方を白河って呼ぶことにした。そういうことか」
やっと事情を理解した録幸が言った。
「ああ。右手と左手みたいなもんだな。爺さんのプログラム見て驚いたよ。なんせ一人に
一つじゃなくて、二人に一つのプログラムだったんだからな。他にも色々と妙なことがあ
る」
「妙なこと?」
録幸よりも先に、黒河が訊いた。
「まず、プログラムが部分的に消してあった。わざとなんだろうな。一部分だけだし。普
通に稼働してて消えるようなもんじゃねえ。それが起動しなかった原因だ。それともう一
つ。鮮造さんが死ぬ一年前からの記憶がこいつらにはない。これも消されたみたいなん
だ。さらにある。爺さんが作っただけあってこいつらのプログラムは、そりゃあ見事なも
んだ。けどな。ところどころに無駄がある」
「無駄?」
今度は録幸が尋ねた。

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「ああ。何の役割も果たしてない。こうして稼働してるんだからバグじゃないんだろう
が。まだある。爺さんの作ったプログラムと記憶の総量よりも、記憶野の示す使用総量の
方が多いんだ。具体的には二.六ギガっていう小さな量だ。それがどこを探しても見あた
らない。どうやらこいつには何かが隠れているらしいな。とはいえ、普通に読み込めた部
分も全部完璧に理解できたわけじゃない。なあ、お前に心当たりはないか?」
数樹の問いに、トキワは首を振った。揃って髪が小さく揺れる。
「そうだろうな。それと」数樹は録幸に目を向けた。「最後に注意だ。スカラー型っての
はCPUが一つじゃないから、複数のタスクが同時に処理できる。ただ、人間らしさを演
算するってぇのはこいつの頭じゃかなり負荷が大きい。だから、両方の体に別々のことを
させると途端に能力が落ちる。特にあんまり難しいことをさせたり、別々に動いてるとき
に話しかけたりすると停止することがある」長々と喋るうち、数樹の声に芯が通ってく
る。「あとは一緒に過ごして、自分で慣れろ。ああ、くれぐれも二人をあんまり離すな
よ。データの遣り取りが遅延する。この町の両端くらいなら大丈夫だろうが。さて。俺は
もう寝る。いや、こいつを連れて帰るんだよな。少し待ってやるから、家に帰って駒輪を
二台引っ張ってこい」
言われて立ち上がりかけた録幸は膝に手を当て、腰を浮かせたところで止まった。数樹が
呼び止めたのだ。しかし呼ばれた相手は録幸ではなかった。
「誰か来たら起こせ」
やっとそれだけトキワへ言い、次の瞬間数樹はもう眠っていた。録幸はトキワを見る。ト
キワは録幸へ向かって満足げに微笑むと、そっと手を振った。

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第二章「寄り来る」

 白河がレンチの先を指でつまみ、回して遊んでいる。なにが面白いのかひどく無心で、
瞳がレンチの柄を追って回転している。レンチのカリカリという音が時に速まり、時に遅
まりながらも途切れずに響いている。
「おい、危ないから工具いじるな」
駒輪の下から録幸の声がする。
「だって、退屈なんだもん」
「そう、ヒマー」
黒河も言う。
「道理屋しようよー」
両方揃って言う。
「事件がありゃな」
「事件なんてどこにでもあるじゃん。だいたい、そんな大きなことじゃなくってさ」
「ケンカだって道理屋は扱うよ」
二つの声が交互に、あるいは同時に喋る。その辺りの振り分けがどうなっているのか、録
幸には判らない。
「なら、依頼があったらな」
録幸は適当にあしらうが、その口調に棘はない。外見はそれなりに大人びているので、こ
れほど子供っぽい性格だと不釣り合いなのだが、そこに愛嬌があるようにも思えるのだ。
 トキワを連れ帰ってから一日が経過した。起動したときの衝撃が落ち着くと、今度は人
間そっくりなアンドロイドにどういう態度で接すればいいのか迷うこととなった。しかし
勝手に喋ったり動いたりするトキワの相手をしているうち、気が付けば人間に接するのと
変わらない態度を取るようになっていた。トキワはどうやら相手とうち解けることが得意
なようだった。
「道理屋なら自分で仕事は見付けなきゃ」
トキワは不服そうな声を上げる。
「だから、道理屋じゃないって言ってるだろ」
道理屋をする、ということを録幸も考えないわけではなかった。確かにアンドロイドはい
るし、自分には家庭もない。それに、今なら店を辞めても町内には「サミアドモーター
ズ」があるのだ。しかし、出来るとやりたいとは違う。録幸自身はこの仕事を気に入って
いたし、誇りもあった。それに町から町を渡り歩いて暮らす道理屋という仕事の不安定さ
も気がかりだった。少なくとも、何となくで始められるものではない。
 道理屋について知られていることは少ない。数も多くないし、せいぜい「定住せず、あ
ちこちを渡り歩いていること」、「アンドロイドを従えていること」、「なんであれ揉め
事の解決をすること」くらいでしかない。別れ話のもつれから遺産を巡る争いまで依頼さ
れれば何でも解決するという。
「録幸はどうして駒輪屋になったの?」
「この町って世襲制が多いとか?」
「そうだな。ウチに限らず店は代々ってのが多い。けど、別に習慣とかってほどじゃない

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な」
「じゃ、駒輪が好きだからとか?」
録幸は頭上の駒輪から視線を下ろした。駒輪の後部バンパーのその先で、脚が二本揺れて
いた。黒河が穴の縁に腰掛けているのだ。ピッタリとしたレザーパンツに包まれた脚は長
く、形はいいが細くはない。重い体を支えるのにあまり細いと、走ったときなどに折れて
しまうからだ。
「それはある。ただ、駒輪屋じゃなくてもよかった。もともと機械いじりが好きで、たま
たま駒輪屋なら簡単になれたからなった。そんなとこだ。そうすれば親父とお袋も喜ぶ
し。だから売るよりは修理する方が好きだな。お前だって中身は駒輪に似てるし、少しぐ
らいなら壊れても俺が直してやれるぞ」
「鮮造さんもそうだったよ」
「私が壊れたら直してくれた」
「天才的だったんだろ」
録幸は肩を一度大きく回すと、再び駒輪の修理に取り掛かった。
「録幸もじゃあ、機械に愛情感じるタイプなの?」
「愛情? 愛情か。それはないな。健気なとこは好きだけど」
「けなげ」
「ああ。機械は人間みたいに壊れてもないのに調子悪くしたりしないだろ。どっかが不調
でも、それと関係ない所はちゃんと動くことあるし。そういうとこがな」
トキワは暫くしてやっと言った。
「つまり、解りやすいからいいってこと?」
「違うって。たとえば、人間なら最終的に病気や怪我を治すのは自然治癒力だ。機械が直
るって過程には、修理したやつ以外の力はないだろ。そういうことだよ」
いまいち理解し切れていないトキワをよそに、録幸は作業へ没頭した。
 不意に大きな音がした。内心慌てながらも慎重な動作で地上へ出ようとして、録幸は階
段でつまずきそうになった。
「どうした!?」
それでも上へ出てみると、二人はひっくり返ったカートを前にして立っている。そこから
飛んだ金槌の一つが修理したばかりの駒輪の前に落ちている。見ればその駒輪の表面には
大きな傷ができていた。
「なにしてんだよ」
冷たい口調だった。あまり怒りは感じていなかった。ボディの傷は直せるからだ。修理作
業はやはり苦ではない。生き物の怪我とは重みが違うのだ。
「ごめん。奥に面白そうなものがあったから」
二人で同時に言い、首をすくめる。その動作は、完全に同期しているというわけではなか
った。
 トキワの言う先を見ると、そこには小さなマニピュレータがあった。据え置きの電動工
具によくある、白茶けた緑色に塗られた太い軸の上部にモニタがあり、その付け根から伸
びたコードの先は軸の中程に引っかけられたセンサーグラブへ繋がっている。機械の腕は
軸の下部、キャスター付きの三つ又の足の少し上にあった。長いこと使っていないので表

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面にホコリが積もり、毛羽に覆われているようだ。潤滑油もなめらかさを失い、可動部分
の所々からはみ出している。
 それは以前、肩こりに悩む録幸の父が「いちいち穴へ入らずとも立ったまま作業ができ
る」という言葉に購入し、結局自分の目と手で直接作業した方が正確だという理由で使わ
なくなったものだった。見習いの時に一度だけ録幸も使ったことがあったのだが、父が言
うほどレスポンスの悪いものだとも思えなかった。その辺りが技量の差なのだろう。父が
使わなかったせいでマニュピレータは風景の一部と化してしまい、録幸も使うことはなか
った。
「あのな、勝手に、物を、触るな」
語の切れ目ごとに怒りを差し挟みながら言う。そして言ってから、録幸はここ数日でその
言葉をもう何度も繰り返したことに思い至る。
「だってさ、外には出るな」
「何もするな」
「人間だってそんな目に遭わされたら嫌でしょう?」
「せめて店番とか」
確かに起動してはみたものの、扱いに困っていたのは事実だった。アンドロイドなのだか
ら人間のように振る舞うのは当然なのに、それが具体的にどういうことなのかまでは考え
ていなかったのだ。
 かといって、再び停止させるというのは酷いことをしているような感じがして気が進ま
ないし、トキワだけで歩き回らせるのは不安があった。鮮造のアンドロイドに対して年配
の町民は決していい印象を持っていないはずだ。もう少し周囲の態度が判るまではなるべ
く一緒に行動した方がいいだろう。
 だが、トキワの言い分には理があった。録幸だって何もかもを禁じられては退屈で仕方
がない。これほど人間らしいと、たとえ本当に退屈しているわけではなくとも、近くでさ
も退屈しているようなことを言われれば無視するのは難しい。
「よし、じゃああれがもう裏蓋付けたら修理終わるから、そしたらちょっと夕飯の買い物
に行くか」
録幸は穴の上に停めてある駒輪を目線で示す。
「ホント? じゃあ、待ってる」
途端に機嫌をよくすると、トキワは微笑んだ。
「だいたいな、暇ならネットでも見てろよ」
カートから床に落ちたタオルを拾いながら言う。
「そうだけどさ、せっかく会えたんだから録幸と喋ったりしたいなって」
トキワは言う。
「でも、あれだろ。人工知能なんだからネットの膨大な情報の流れを見てるとウットリす
るとか」
白河と黒河は口を半開きにし、それぞれが異なる具合に片目を細め、呆れたような声を出
す。
「SFの話でしょ?」
「そんなデジタルなのってないよ。それはNALのこと」

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NALとはネットワークアーティフィシャルライフのことで、ネット管理を担っている人
工生命のことだ。
「あいつらバカで全然話になんないよ」
「会話できるのか?」
録幸は驚いた声を出す。通常NALはネットの裏側で稼働しており、利用者が接触するこ
とはない。もっとも、接触したところで言語による会話などできないのだから意味はない
のだが。
「会話っていうよりは、情報のやりとり。でも、場合分けされた出来事に対応する以外に
能がないから、何してもリアクションないし」
片方が右手を持ち上げると、録幸の右手を取った。計算されているとは思えない、人間並
みの粗雑さで録幸の手へ力を込める。しかしそれは人間の感覚で見ればこの上なく繊細な
動きだった。適度に重たげで、柔穏な仕草。
「わたしは人間と喋る方がずっといいな」
そして手が離れる。ほんの一瞬だけ、録幸はその手を追いそうになる。
「録幸ってば作業始めてからずっと黙ってるんだもん」
「しょうがないだろ、集中してんだから」
無意識に握られた方の手を閉じたり開いたりしながら、録幸は穴へと戻る。底には溶ハン
ダが投げだされていた。
 脇に立てかけたカバーを持ち上げる。カバーは堅いフレームに金属製のメッシュが填め
込まれているのだが、強度と安定性向上のため、見かけよりはかなり重たい。
 見上げれば開口部へまたがるように停車している駒輪と穴の縁とのあいだに、白河だか
黒河だかの覗き込む顔が見えた。
「あー、白河?」
「ん、どうしたの?」
穴から見えない方が返事をする。
「黒河」
「なに?」
「トキワ?」
「だから、どうしたの?」
二人が揃えて言う。
「いや、呼び名で違うんだな」
「当たり前でしょ。そのためにわざわざもう一つ名前があるんだから。黒河って言えばわ
たし、白河って言えばわたし、トキワって言えばわたしのことって厳密に分けてあるんだ
から。わたしに何か言うつもりで黒河とか言っちゃダメだよ」
録幸はドライバーの先にネジを取り付けながら首をかしげた。
「待てよ。お前はトキワだよな。だから『わたし』ってのは解る。けど、黒河と白河も
『わたし』って言うよな?」
「うーん。確かにわたしの感覚からすれば黒河も白河も『これ』って感じがする。数樹も
言ってた右手と左手の例えみたいに。でもそれだと妙な感じがするからって、鮮造さんた
ちに黒河白河を『わたし』って呼ぶように言われたんだ」

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黒河が説明した。
「ひょっとして、二人の仕草がちょっとずつ違うのも」
「そ。ホントは同じにした方が指示も一つですむから楽なんだけど。なんだったら同じに
しようか?」
録幸の脳裏に、全く同じ速度、軌道で振り返るトキワの姿が浮かんだ。
「いや、今のままでいい」
黒河は不思議そうな声で同意した。
「なんで人間って、わたしが二人みたいに振る舞った方がいいの?」
「たいていの人間は一人の体に意識が一つしかないからだろ」
一つ目と対角線上にあるネジを回しながら、録幸は答える。
「でも、わたしを人間と勘違いなんてしないのに」
「さあな。そうでもないんじゃないか?」
自分も自然と二人を人間扱いしつつあることは伏せてそう言い、録幸は作業を続ける。
「やっぱりそうなのかな。鮮造さんも徹語さんも、時々わたしを人間と勘違いしてたみた
いなところがあったし」
「爺さんたちとはどうだったんだ?」
「楽しかったよ。あっちこっちに行って、仕事して。仕事は好き。頭使うのが好きなん
だ」
ことさらに弾んだ調子でトキワは言うと、溢れる記憶を留めるように頭を振った。柔らか
な髪がうねる。
「仕事って、どんな」
「それは、言えない。守秘義務があるから。ほら、仕事が仕事でしょ? 言えないように
作られてるの」
言われてみれば当然だった。秘密が漏れるかもしれないのなら、誰も揉め事の解決は頼ま
ない。
「で、旅をしながら暮らしてたのか。金かかるだろ」
返事がない。最後のネジを止め終えた録幸は裏蓋に手を触れる。これでもう、この駒輪は
直っている。再び走ることが出来る。他の誰でもない、自分の手によって。それまでまっ
たく動かなかった駒輪が、なめらかに動力を車軸へ伝える様が想像される。つい満足げな
笑みが浮かんだ。
「あ、ひょっとして終わった?」
明るい声が白河の方からする。黒河の顔も見慣れた、無意味に上機嫌なものとなってい
る。
「よし、じゃ行くか」
床の工具を持って階段を上りながら録幸は言った。黒河も立ち上がる。と、その体が揺れ
た。
「ちょっと待って、立ちくらみが」
片手で顔を覆う。人差し指の触れている額の白さが柔らかい。
「嘘だろ」
「ウソだよ」

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顔から手を離すと黒河は元気よく言う。よほど外へ出るのが嬉しいらしい。一日中おとな
しくさせていたことが少し申し訳なく思えた。
「おいおいおい、待て」
寄り添って裏口へ向かおうとしたトキワを呼び止める。
「戸締まりしてない。それと財布に買い物バッグも」
録幸は胸ポケットからリモコンを取り出した。


 白河黒河は肩が触れそうなぐらいに近寄って歩いている。その少し後ろを録幸が歩いて
いた。夕暮れの中、町は浅黄に浸されている。淡い緑の壁が夕日に照り映えているため
だ。そんな光景が気に入ったのか、トキワは周囲を見回している。目指す店へはいつもな
ら駒輪で向かうのだが、さすがに三台並んで行くのはおおげさなので、歩いて行くことに
したのだった。
 一台の駒輪が通り過ぎた。乗っていた若い男が録幸へ手を振る。録幸が子供のころから
知っている男だ。
 さして広くもない通りの両側に並んだ建物はどれも似通っているが、録幸には住人の姿
までが自然と思い浮かぶほど、馴染み深いものだった。宵闇によって建物へ塗り重ねられ
た歳月がやわらいでいる。西の方は背の高い領壁が落とす影によって、すでに夜を迎えて
いた。清潔な街明かりが輝いている。そちらの方では赫空へ突出した古い家々も逆光に塗
り潰され、先端のひしゃげた尖塔のように見えた。
 トキワの服が、夕焼け本来の橙色に染まっている。二人の体は周囲の光景から浮かび上
がって見えていた。どこか気怠そうな歩き方には妙な艶っぽさがあり、はしゃいでいると
いう状況には噛み合わない感じがした。
「トキワ」
呼びかけると二人は振り向く。
「黒河?」
録幸は右側に立っていた方を指さす。
「白河だよ?」
呼ばれた方が言う。
「黒河はこっち」
もう一人も続ける。
「お前らさ、爺さんたちはどうやって見分けてたんだ?」
「さあ。でも、ちゃんと区別できてたよ」
録幸はトキワの隣へ移動した。三人は並んで歩き出す。
「長く付き合ってれば仕草か何かで見分けられるとか」
「え? じゃあどっちがどっちか判らないの?」
そんなことを話していると、向いから来た駒輪が録幸の隣で停まった。窓が開く。
「徳録。久し振り」
乗っていたのは録幸よりも一つ年上のだった。今は結婚しており、歯科衛生士として働い
ている。

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「そっちが噂の」
「黒河と白河だ」
一瞬迷ってから録幸はそう紹介する。
「はじめまして」
二人は声を揃えて挨拶する。
「こんにちは」
つられて春湖も挨拶する。春湖の駒輪をよけて、一台の駒輪が通過していった。
「ふーん。カワイイじゃないちょっとさ」
春湖は独特の、切れ目がない口調でそう言った。アンドロイドを目にしても大きく反応し
ない辺りが春湖らしかった。
「でどうするの? 道理屋」
「しねえよ」
「しないの?!」
驚いた声を挙げたのはトキワだった。
「だから、依頼がないって言ってるだろ」
「依頼があればするんだ? 歳郎とケンカしたら頼もうかな。けどま、あんたじゃね」
春湖は笑った。トキワも笑う。
「笑うなよ」
「いやだって、録幸って信頼ないんだなぁって」
「そうそう頼りないから」
「春湖もそんなこと言ってっと、今度駒輪が壊れたときに修理しねえぞ」
録幸はそう言ってみたものの、鼻で笑われただけだった。
「なにそれ? サミアドの方に行けばいいじゃない」
「いや、そうだけど」
「本当に考え足りないんだから」
最後まで録幸をからかうと、春湖は立ち去った。トキワのことを気に入ったらしく、別れ
際に二人へ手を振った。
春湖の駒輪が見えなくなると、録幸の体から目に見えて力が抜けた。
「あんまりバカにされてるからって、落ち込んじゃダメだよ」
トキワが慰める。
「バカはそっちだ。落ち込むわけないだろ」
「なにその態度は。心配してるんでしょ」
「こっちだって心配してな」
そこで録幸の言葉は溜息に変わった。
「ひょっとして、町の人がわたしたちのこと嫌がるんじゃないかって思ってたの? 鮮造
さんのことがあるから」なぜかやや自慢げに言うと、トキワは少し笑った。「気が利く
ね」
録幸は横目でトキワを睨んだ。
 けっきょく、店へ着くまでに似たような遣り取りが何度もあった。夕暮れの立ち話を楽
しむ人々の輪と出会うたび、呼び止められたのだ。そのつど録幸は気を張り、疲れ切って

- 20 -
しまった。しかし彼らがおおむねトキワに対して好意的だったので、不安はずいぶんと軽
くなった。
 店は「キンカンマート」というチェーン展開のスーパーだった。平屋建ての大きな店内
には食料品から薬まで、日常生活に必要なものは一通り揃っている。店内でも話しかけら
れることを思って、録幸は混む時間に来てしまったことを悔やんだ。トキワはそんな録幸
の考えなど関係なく店へと入っていく。
 天井の高い店内には大きな棚が並んでいる。しかし、間隔が広いために圧迫感はない。
勝手に歩き回ろうとするトキワを押しとどめると、録幸はカートにカゴを乗せて歩きだ
す。
 野菜売り場でチコリとタマネギを買い、鮮魚売り場でマグロを買う。周囲の人間の視線
が集中していることを感じて居心地が悪いのだが、録幸は努めて気にしないふうを装っ
た。
「この店って鮮造さんが住んでた頃もあったの?」
いつのまにか持ってきたチョコレートをかごに入れつつ、トキワは尋ねる。
「ああ。店の名前は違ったし、もっと小さかったみたいだけどな。っておい、それ食べる
のか」
録幸はチョコレートを見ながら言う。
「ううん。食べられない」
「じゃあ入れるなよな」
「だって、せっかく来たんだし」
「それなら、ちょっと髪縛るゴム取ってきてくれ」
二人は小走りに髪ゴムを探しに行った。録幸はその、白いシャツのすそが揺れる後ろ姿を
見送る。
「あれが、その?」
急にすぐ横で女の声がし、録幸はカートの取っ手を握ったまま跳びすさった。カートが揺
れ、カゴの品物がぶつかる。
 見ればいつの間に現れたのか、一人の女が立っていた。録幸と同じ方を見ている。だっ
た。トキワの名を耳にしたとき、録幸が思い出した人物だ。自治会長の娘である常磐は録
幸と同い年で、自治会の事務員をしている。常磐は数樹と仲がよく、その関係で録幸とも
子供の頃から遊ぶ機会が多かった。
 常磐はこのごろ町内で流行っている、詰め襟のノースリーブシャツを着ていた。脇腹の
辺りに赤茶色のラインが入っている。下は裾の広い褐色のスカートを履いていた。紺色の
シャツとの対比で、スカートが鮮やかに見えた。
「鮮造さんのアンドロイド、二人なんだ?」
まだそちらを見ながら常磐は言うと、ふわりとした唇に笑みを浮かべた。細い頬に影がで
きる。
「いやその、ちょっと違うんだ」
録幸は徹語のことを隠して、簡単にトキワのことを説明した。
「そう」
常磐の反応はそれだけだった。自分と同じ名前だということにも反応はない。無関心とい

- 21 -
うわけではないのだが、昔から反応の薄いぼんやりとした人間なのだ。とはいえ、今日は
特にぼうっとしている。元々ないような表情がさらに薄まり、声にも軸がない。
「ほら、これ」
言いながらトキワが戻ってくる。常磐を目にして頭を下げた。
「こんにちわ」
常磐は二人へ向かって会釈を返す。録幸はトキワへ常盤を紹介した。
「それにしても」常磐はトキワをじっくりと眺めて言った。「あなたが二人でやっと一人
前だなんて。全然そうは見えない」
常盤の口調がにこやかだったのに対し、トキワの顔が微かに強張るのが録幸には判った。
「常盤さんも仕事ができそう。親のコネで仕事を手に入れたようには見えないね」
「でしょう?」
冷ややかな空気が漂う。どういうわけか常磐とトキワは相性がよくないようだった。
「じゃ、またな。ほらトキワ。それカゴに入れろ」
録幸は無理矢理に会話を打ち切ると、不機嫌そうなトキワを連れて立ち去った。
レジに並んでいる間も、トキワは険しい顔をしていた。
「なに怒ってんだよ」
「だってさ、初対面だよ? なのに人のことバカみたいに」
「気にするな。悪気はない」
「あれで? まさか」
「いや、あいつは昔っからああなんだ。棘はないんだけど角は立つ……」
レジの順番が来た。会話が途切れる。録幸はレジに打ち込まれた金額を確認すると、IC
カードをレジのスロットルへ差し込み、その脇にあるパネルへ親指を押し当てる。一秒に
も満たない時間で指紋が走査され、講座から支払いが行われる。出てきたカードを受け取
ると録幸はレジを抜け、そのまませわしなく買った物を持参したバッグに詰めて店を出
た。
「そんなふうに、周りが甘やかすからダメなんじゃないの?」
「厳しくして治るもんでもないだろ。なら――」
「なら、無駄な波風は立てない方がいいって? まったく、定住者はいっつもそれなんだ
から」
「何だ、それ」
「ね。そんなふうに細かく気なんか遣って、あんな壁に囲まれて、鬱陶しくないの?」
向かいの家の屋根から遠くに覗く領壁の天辺を、トキワは見遙かしている。
「いや、別に。生まれたときからそうだから、人間関係もあの壁も、特に意識することな
んかない。空とか地面みたいなもんだ」
「遠くに行ったこと、ないの?」
「ある。親父と違って俺はちゃんと駒輪技師の専門学校に通ったんだ。遠くの街のな。領
壁のない都会だった」
「そういう場所でずっと暮らしたいとか思わなかった?」
「だいたいここに居るヤツはそうだけど、俺も散々だったよ」
 録幸はトキワに向かって語りながら、当時の緊張感を思い出す。領壁の外ではまず友人

- 22 -
ができない。観て育った動画も違うし、子供の頃の流行も違う。それぞれ町ごとに常識や
礼儀も違うせいで、価値観や考え方だってお互いになかなか理解できない。そもそも、今
まで会ったこともないような人間を信用するのが難しかった。入学前に入念な身元審査は
あった。しかし入学後にその人物が特定の思想や社会的立場を狂信してしまうことはイデ
オロームがある以上、防ぎようがないのだ。
 説得や洗脳よりも手軽な手段としてイデオロスという技術が発展したのは録幸が幼い頃
のことだった。最初は説得力の強化を目的として研究されていたらしいのだが、今ではそ
れ自体が一つの手法として確立してしまっている。
 イデオロギーとウィルスの合成語であるイデオロスは通常、何らかのコンテンツとして
流通している。そして接触した人間に、まるでコンピューターウィルスがセキュリティホ
ールを抜けてコンピュータを汚染するかのようにして、感染者の考え方を汚染してしま
う。
 人間は他者からの影響を受けすぎないようにするため、ある種の精神的なセキュリティ
システムを持っている。その強度や性質は様々だが、常にどこかへ何らかの惰弱性を抱え
ている。つまり、特定の要素には影響を受けやすいということだ。イデオロームはそうし
た発想に基づき、狙った惰弱性を有する人間がコンテンツに接触するとそれを利用して目
的とする観念を相手へ植え付けてしまうのだ。
 使用者は何種類もの惰弱性に訴えるコンテンツをネットに放つ。そうすればあとは勝手
に感染者が現れ、自分たちの主義に染まっていく。それがコンピューターウィルスよりも
たちが悪いのは、人間のセキュリティホールはそうそう修正できないということと、人間
はコンピューターのようにそれに気付いたとき、機械的に排除が出来ないということだっ
た。録幸のようにあまりネットをしない人間でもイデオロスとおぼしき映画などには何度
か遭遇したことがある。幸い録幸の惰弱性とは無関係だったので何もなかったが、もし自
分の惰弱性と適合するようなものであれば、今頃どうなっていたかは判らない。
 結局、生徒はお互い気を遣いながら相手の反応を伺ってばっかりだった。しかもそれが
相手にとっても気を遣ってることになるのかどうかさえ、はっきりしない。結局、朝起き
てから帰るまで、必要なこと以外は誰も何も喋らないという日も多かった。
 領壁がないのも録幸にとっては妙な感じだった。外に裸で立たされてるみたいな気がし
て、最後まで慣れることができなかった
「で、卒業したら安心で安全な」
「ここに戻って来た、と」
「楽なのは確かだな。人と話すのも何をするのもルールが判ってる」
録幸はトキワのからかうような口調を無視して答えた。
「けど、出て行く人もいるんでしょ。鮮造さんみたいに」
「少ないけど。知らない人間を信用して上手くやってくのが性に合ってたり、一カ所に留
まってるのが嫌だったりとか。あとはまあ、町に居辛かったり。ほら、ここは代わり映え
のない町だろ。いったん悪い評判で固まるとなかなか変わらないんだ。それをリセットす
るには他の町に引っ越すのが一番なんだよ。それがどれだけ危険でもさ」
「録幸はどうなの?」
「その、評価っていうのは」

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思わず立ち止まる。そこへ、一際に強い風が吹く。塵が地を舞い滑っていった。木の葉や
枝が揺らめき、髪と服がはためく。いつものことなので録幸は気にもしないが、トキワは
風の吹き来る源を求めるように頭を彷徨わせた。
「この町、こんなに風強かったっけ?」
「ああ。だから?」
録幸は問い返した。
「ううん。五〇年前はあの店から領壁の出口まで、夜中に歩いただけだから」
「春だったのかもな。夏になる前、風のやむ時期があるんだ」
一度内部を見ているので、トキワのパーツがどれも五〇年前と違うものなのは知ってい
る。しかしトキワの中には半世紀に近い記憶がある。当たり前だが、当たり前のことだか
らこそ逆に録幸は意識していなかった。決して、見かけどおり録幸と同年代というわけで
はないのだ。しきりに辺りを見回していたのも、起動したての新鮮さのせいなどではな
く、自分が生まれ、鮮造と徹語が生まれ育った町だったからなのかもしれない。
 とはいえ、疑問もある。アンドロイドに懐かしいなどという感情があるのか。自分から
見ればトキワの振る舞いは確かに懐かしさを感じている人間のそれだが、その実トキワの
内面にそうした感情があるのかどうか。
「荷物、持つよ」
考え込んでいると横から手が伸び、バッグの取っ手を片方が取った。
「いや、いい」
「いいって。遠慮しない。わたしの方が力あるんだから」
ややためらってから、録幸は手を離した。白河かもしれない黒河はバッグを持った手を腰
の後ろへ回すと、もう片手も添えた。見慣れた、それでいて現実にはなかなか目にしない
仕草だ。
「この町、懐かしいのか?」
 黒河かもしれない白河の仕草に気を取られながら、そんなことを言う。トキワは目を細
め、軽く頭をのけぞらせた。小鼻が膨れる。
「アンドロイドにも感情はあるのか」
「気になるんでしょ?」
見透かされ、録幸は口の中でオゴオゴと言う。
「あたった」
腕を組み、全く同じ角度で黒河白河は録幸を見下ろすようにして動かない。片方の手から
は買い物バッグがぶらさがっている。
「古臭い」二人揃って溜息を吐く。「いい? わたしがここで懐かしいって言えば、信じ
る? 懐かしさなんて解らないって言えば」
「信じる? あなたが言って欲しそうなことをわたしが言っただけだって」
「そう思うんじゃない? それに解らないっていうんなら、確かに数樹に心があるのかど
うか、本当に録幸には解るの?」
「数樹は人間だ」
「人間ならみんな心があるって保証は? 比べられないから気付かないだけで」
「心っていう同じ名前を持ってても、それはみんな全然違うものかもしれないんだよ。そ

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れに」
「心があれば理解し合えるんなら、どうして定住者はあんなによそ者を恐れるわけ?」
矢継ぎ早に喋るトキワだったが、その口調に鋭さはない。むしろ、小さな子供を諭すよう
な感じがあった。
「まったくこんな、何十年も前からあるようなことを言わなくちゃならないなんて」二人
は腕組みを解いて正面から録幸を見た。「そりゃ春湖さんにも信用もされないって」
それでやっと、録幸は自分が馬鹿にされていることに気が付く。
「じゃあどうしろって言うんだよ」
問い残して歩き出す。後ろから付いてくる笑い声を無視して。
「問わない。それだけ。確かにわたしにはわたしの心があるように思える。でも、徹語さ
んにも、他の誰にも、そんなものを作ることなんてできないのも」
「判ってる。だからさ、そんなことは考えてもしょうがないんだよ。わたしは自分に心が
あるって感じてる。録幸にはわたしと他の人を比べて、どっちにも心があるように見えて
る。それ以上のことなんて、いくら考えてもはっきりしないんだって」
トキワは足を速め、録幸の隣へ来る。
「ずいぶんといい加減なんだな」
「そう。ちょうど、いい加減」
「それ、年寄りみたいだぞ」
「五四歳だからね」
「歳取らないだろ」
「実は」
なぜか秘密めかして言うと、トキワは録幸を見た。また、強い風が吹く。通りに面した建
物の窓が小刻みに鳴り、風の挙動を伝える。


 常磐の部屋は本人に似て、愛想のない部屋だった。殺風景というわけでもなく、意外な
少女趣味というわけでもない。取り立てて何も目立つところのない部屋なのだ。その、部
屋の片隅に置かれたベッドへ常磐は腰を下ろす。朝、起きたときのままになっていた掛け
布団へ右手をからめる。乾いた布の感触が心地よい。
 録幸が祖父のアンドロイドを連れている。しかも、そのアンドロイドの名前が自分と同
じ。最初にその話を耳にしたとき、常磐は何かの間違いだろうと思っていた。しかし今日
の夕方、実物を目にしてしまった。自分とは全く似ていない。それどころかアンドロイド
はいかにも明るく社交的という、常磐とは真逆の雰囲気を発していた。どこへ行っても、
さぞ周囲から好かれるだろう。一カ所に留まり続けても誰からも好かれない自分とは正反
対だ。何かの当てつけだろうか。そもそも、いくら祖父が名付けたからといって、録幸が
自分と同じ名前をそのままアンドロイドに名乗らせていることも腹立たしい。そんな気の
回らない録幸の行動を攻めない周囲も同様だ。録幸がアンドロイドを見る目つきも気に入
らなかった。いかにも手を焼いているという表情の裏に喜んでいる様子が透けている。
 考えれば考えるほどに不愉快さが募り、常磐は右手に掛け布団をまとわりつかせたま
ま、乱暴にベッドを叩く。

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 部屋にこもって苛立ちを延々と噛み砕いていても仕方がない。常磐は立ち上がると、部
屋を出た。隣の部屋のドアを叩くと返事がある。常磐は中へ入った。
 そこは祖父であり、前町内会長でもある鷹雄の部屋だった。すっきりと整頓された室内
は、品よく乾いた空気の香りがする。毛足の短い柔らかなカーペットが足裏に快い。窓の
外では奔放に広がる草原と、苔岩ひとつまで気の配られた瀬名家の庭とが、幅広の塀によ
って区切られている。
 鷹雄はタブレット型のディスプレイへ何かを書き入れていたが、その手を止めて常磐を
見た。そしてタブレットディスプレイを机へ置く。
 鷹雄の細長く頬骨の高い顔立ちは、常磐から若さと丸みを取り去ったような感じがあ
る。長めの白髪を後ろへ撫でつけているところに几帳面さが現れていた。老眼鏡越しの目
線が柔らかい。常磐はその、祖父の視線が好きだった。疎まれる心配がないというだけ
で、それは常磐に大きな安堵を与える。
「おかえり」
度重なる町役場の干渉を退け辣腕と言われた人物も、孫に対しては気負いがない。心から
自然とほぐれ出るような声だ。
「ただいま。お爺ちゃんは原稿書いてたの?」
常盤の声も強張ったところがなく、些か幼ささえ響かせている。
 鷹雄は役員を引退してからも「町づくり」への興味が尽きないらしく、他の町の同じく
引退した役員たちと共同で「よろず町々」という名前のフリーコンテンツを月刊で発行し
ていた。全国にある様々な町を紹介し、その利点や問題点を批評する雑誌だ。
「書こうと思ってることが、さっぱりまとまらん」
そう言うと鷹雄は少し首を斜めにかしげ、冗談めかした顔をする。常磐と二人のときにだ
け見せる表情だ。
 原稿を書いていた余韻だろう。それからしばらく鷹雄は、今書いている原稿のことや最
近の白茅町について喋った。常磐はくつろいだ気分で祖父の言葉へ耳を傾ける。祖父は中
でも、最近町内で活発化している移住者受け入れについて気懸かりがあるらしく、そのこ
とについて自分なりの考えをあれこれと語った。特に急激な新規住民の増加に、受け入れ
態勢が不十分だと感じているようだった。
「心配しすぎだって」
半ば鷹雄の心配が伝染しながらも、常磐は言った。祖父と話しているときは、相手を苛立
たせるような言葉も出てこない。
「そうかもしれない。どうも自治会長を辞めてからの方が、いろいろと心配になっていけ
ない。後任が馬鹿息子なら、なおさらだ。あそこで岸密が会長になってさえいれば……」
「そんなこと言ってもしょうがないよ」
物思いに沈む鷹雄を常磐は呼び戻す。
「ところで、常磐。お前の同級生に徳村のところのが居たろ?」
「録幸君のこと?」
急に録幸の話を始めた祖父へ、常磐はかすかに身構えつつ答える。
「そうそう。録幸だ。駒輪屋を継いだんだってな」
「何年も前にね」

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「おお。そうか。もうそんなになるのか」
「で、録幸君がどうかしたの?」
常磐は祖父に似合わない回りくどさに、いやな予感を覚える。
「徳鮮のアンドロイドと居るそうだが」
「うん。私もさっき会った」
常磐はキンカンマートでの出来事や、自分が知っているわずかな情報を語った。喋ってい
るうちに感情が高ぶり、説明しているのか不満を訴えているのか、自分でも曖昧になって
しまった。
 話を聞き終えた鷹雄は、どこか落ち着かないようだった。目元に変な強張りがある。い
つもならどんな話題にも自分なりの意見を述べるはずなのに、それもない。不審に思った
常磐が声を掛けると鷹雄は口元を強く引き締め、急にゆるめた。
「いやなに。徳鮮が出て行ったときのことを思い出してたんだ。あのときは色々と苦労さ
せられたもんだから」鷹雄は苦笑し、広く突き出た額を掻いた。「そのアンドロイドがお
前と同じ名前というのは確かに気に入らないが、結局それは録幸が判断することだから
な。何かして欲しいんなら、残念ながら、私にどうこう出来るものじゃない」
「私は、お爺ちゃんが聞いてくるから話しただけで」
「そうだが、どうも何かあるような口調だっただろう?」
鷹雄の問いかけへすぐには答えず、常磐は考えを巡らせる。鷹雄は促すような微笑みを浮
かべた。
「鮮造さんが町を出る切っ掛けになったアンドロイドでしょう? そんなの連れ回して、
録幸君がお爺ちゃんくらいの人たちから嫌われないか心配、っていうのはあるかな。お爺
ちゃんが何か言ったら、みんな納得すると思うんだけど」
鷹雄の細く長い眉が大きく上下し、次いで眉間へ寄る。かつての役員がその場にいたら、
その動きに冷厳な支配力が滲んでいるのを感じ取っただろう。しかし、常磐にはただの困
惑顔としか映らなかった。
「嫌われる? そりゃないな。そりゃあ、ない。少しくらい避けられたり気まずかったり
はするだろうが、揉めたり嫌われたりってことは、ない」
祖父の断言が不思議だった。だが、常磐が理由を尋ねるよりも先に鷹雄は再び口を開い
た。
「さ、悪いが原稿の続きを書かないと締め切りに間に合わない。ちょっと一人にしてくれ
ないか」
穏やかだが、そこには他人を従わせる響きがあった。常磐は仕方なく部屋を出る。ドアを
閉める前に室内へ目を向けると、祖父はタブレットディスプレイを手に取るところだっ
た。その動きの妙な重々しさが、いつまでも常磐の脳裏に残って消えなかった。


 数十年前に誰かが土産にもらった細密画の描かれた木の箱やら、祖父が集めていたミニ
カーが陳列されたケース。座る人間のいない籐椅子の上には使われていないモニタが不安
定な体勢で放置されている。広い居間には曾祖父の代から累積された物が充溢している。
元は大人一〇人ぐらいが充分くつろげる広さがあるのだが、今では五人が限度だった。

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 丈の低いリビングテーブルの前に置かれたロングソファへ、録幸はだらしなく座ってい
た。トキワは床へ座っている。最初はソファへ座るように勧めた録幸だったが、アンドロ
イドが座ると人間よりもかなり重たいためにスプリングが傷むと言われ、好きにさせるこ
とにしたのだった。
 ソファ正面の壁には七〇インチシートディスプレイが天井から下げられている。ディス
プレイの両脇には細く、薄い金属製の縁が付いている。アルミのような色合いと質感だ。
ボタン一つでこの金属が巻き上げられ、ディスプレイを収納することができる。とはい
え、そんなことをする必要がないせいで、買い換えたとき以来ディスプレイは広げられた
ままとなっていた。
 画面にはF1の中継が映し出されている。日常の乗り物が駒輪になってからずいぶん経
つが、今でもF1では四輪の自動車が走っているし、個人持ちこそ少ないが、長距離輸送
などには昔ながらのトラックが利用されている。また家族で遠方に出かける際などは一般
人でも自動制御の自動車に乗る人間はおり、そうした客相手にたいていの駒輪屋はレンタ
カーの貸し出しも行っている。あまり需要はないが、徳村輪舗も町はずれのガレージに駒
輪メーカーからリースした自動車を数台用意していた。
 鮮造もカーレースの観戦が好きだったらしく、その影響でトキワもF1はよく観ていた
そうだ。今も録幸の隣で画面に見入っている。
「面白いか?」
「うん。毎回最初に誰が勝つかシミュレートするんだ。天候とか、コースの路面状況とか
を踏まえて。人間の予想なんかよりもずっと複雑なんだから」
当然のように言うトキワに録幸は感心する。
「嘘だよ。そんなのできるわけないじゃん。選手のドライビングとかどうやって計算する
っていうの?」
今度は得意げな口調だ。
「あのなあ。あんまり人のこと馬鹿にしてると電源切るぞ」
横暴だ、などと抗議するトキワを無視して録幸はソファから身を乗りだすと、床に置いて
あったバンドグラスディスプレイを取り上げる。それは一見すると幅の広いプラスチック
製の板に見える。片面はダークシルバーになっており、もう片面は柔らかそうな黒い素材
が張られている。ダークシルバーの面には、両端に小さなレンズが埋め込まれていた。両
端は途中から緩やかに湾曲しており、片方の先端近くの一辺が緩やかに膨らんでいた。
 録幸はプラスチック部分を外側にして板の中央部を目にあてがい、両端を湾曲部分の根
元から折った。板の両端に頭が挟み込まれる形となる。膨らんだ部分は左端となり、耳を
覆うようになっている。
 右のこめかみ辺りにある小さなボタンを押すと、録幸の目の前に外の映像が映し出され
る。視界の広さは裸眼の時と変わらない。しかし画像処理ソフトの癖で、色合いは肉眼よ
り若干発色がいい。
「録幸もオビガネするんだ?」
トキワが顔を寄せてくる。
「当たり前だ。それはいいとして、オビガネって言うなよ。お前ってホントときどき年寄
りっぽいな。カオバンだろ」

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「カオバンの方が変だって。顔バンドだよ?」
「頭悪そう」
「頭悪そうなのはそっちだ。帯眼鏡の略だぞ。英語からそのまま訳しただけって方が頭悪
いんじゃないか?」
「ま、いいけど」
不毛な言い争いを避けるためか、トキワはあっさり引き下がった。
「オビガネ、似合わないね。なんか録幸ってネットとかしなさそうなイメージあるから。
外でもウェアラブル付けた人ってほとんどいなかったし」
「ああ。あんまりいないな。田舎で暮らそうってだけあって、ここの人間はあんまりネッ
ト使うってスタイルが身に付かないんだろ。たぶん」
 誰もが体内に埋め込まれたデバイスを駆使してネットと現実とが多重的に存在する日常
を送っている、というのは古いSFに描かれただけで結局実現することはなかった。全て
の電子機器は故障する。そのたびに入院して目蓋を切開し、眼球を取り出すなど現実的で
はない。
 都市部にはバンドグラスディスプレイなどを常に身につけてネットと繋がっている人間
が確かにいる。それでもそれは人口に対してごく一部でしかなかった。白茅町に至っては
二人しかいない。
 そもそも通常の用事であればわざわざ視界を覆わずとも手元の遠操盤で充分だったし、
白茅町のような町ではいつ知り合いに会うともしれない状態なのだ。ネット上の相手との
会話やコンテンツに集中して知り合いに気付かなかったとなれば気まずいものがある。家
にいてもそうで、わざわざネットで知り合いを作らずとも、日常の生活範囲で友人知人と
接する機会はいくらでもある。
 録幸はテーブルの端に置かれている充電用トレーから小さなプレートを取った。それは
オレンジ色のプラスチック板に薄いゴムシートを埋め込んだものだ。長いこと使われてい
るせいでプラスチックには傷が走り、縁が色褪せている。録幸はそれを膝へ乗せた。
 そしてスイッチの隣にあるダイアルを回す。それまでの映像が小さな枠となって右隅に
表示され、代わって画面の大部分を黒の空間が占める。しかし、黒とはいえその色味は一
様ではない。頭上へ向かってなだらかに明度が増しており、見上げれば上空は曇天の夜明
けを思わせる蒼灰色に近い。
 録幸を囲むようにして、薄く輝く球体が層をなして浮かんでいた。球体は全部で二〇〇
ほどもあり、広い間隔を持って配置されている。
 球体は一つ一つがゆっくりと上下している。波間に漂うものの動きを再現しているの
だ。よく見ればその表面には映像が映っている。映像は魚眼レンズ越しに見たかのような
ディストーションがかかっており、静止しているものも動いているものもある。
 球体は一つ一つが録幸の登録したネット上のサイトを表していた。以前はネット全体を
仮想の街並みとして表現するのが流行していたがそれも今は廃れ、代わってサイト以外の
部分は極力シンプルなデザインが好まれるようになっていた。
 球体は更新された順に並んでいる。また、コミュニケーションを目的としたサイトの場
合は訪問者の出入りがあるたびに更新として扱われる。
 録幸の見ている前で少し離れた所にあった球が最も手前へ移動してきた。進行方向の球

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と衝突しないよう、緩やかにかわしている。続いてまた、別の球体が録幸へ向かって漂っ
てくる。そして残りの球体は、見えない波間の表面を順次外側へと押し流されていく。
 最も近い球はなめらかな海老茶色に輝いていた。中に人の姿が見える。それは駒輪屋ば
かりが集まるサイトだった。そのサイトで常連の駒輪屋たちは情報を交換したり、世間話
をするのだった。
 しかし録幸はその球体を無視し、膝に乗せたゴムマットへ軽く指を置くと表面をなぞっ
た。すると録幸の視界が前方へ進む。
 数歩ぶん進んだ所にある球体の前で停止する。それは灰色の薄い光を発している。映し
出されているのは文字と写真のようだった。しかし、目をこらせば動いている部分も僅か
にある。録幸がその球体へ向かって手を伸ばすと、ネット上の録幸の体も手を伸ばした。
バンドグラスディスプレイの前面にあるカメラが映像を捉え、ネット上の身体へフィード
バックしているのだ。
 球体に録幸の指が触れる。球体は緩やかにねじれながら上下に伸びる。そしていったん
停止すると今度は回転しながら右側へ展開していく。巻物をほどくように、横へ広がるに
つれて球体だった部分は薄くなる。
 やがて球体は薄い長方形のシートへ姿を変えた。新聞だった。右上には「週間駒輪屋」
の文字が、そこだけ表面から浮かび上がって表示されている。
 トップ記事は業界大手でF1のスポンサーなども手がける大手駒輪メーカー「ハイラン
ドカーマイン」社の会長が、視察先の敦煌にある自社研究所で刺殺されたというものだっ
た。例によって事件発覚後数時間のうちに幾つものテロ組織から犯行声明や、「あの声明
文は他の組織による偽造であり、我々とは無関係だ」、「いや、その発表こそが別の組織
の捏造だ」などといった情報が出回り、事態は複雑化している。
 そもそも、テロ組織とテロ組織に偽装した犯罪組織、あるいは単独犯による攪乱情報や
イタズラの区別など素人だけでなく専門家にも見分けることは困難だ。さらに近年はいっ
さい犯罪行為を起こさないテロ組織といったものもあって、大多数の人間にとって状況を
理解することは不可能になっていた。そのくせ、実生活でもネット上でもいつ犯罪やテロ
に巻き込まれるか判らないほどには、それらは身近な問題だった。
 そもそも日本で少子化が進み、それによって低下した土地代を背景にあちこちの田舎が
領壁で囲まれ、見知らぬ人間の侵入を極力減らすような風潮が生まれたのも、そうした犯
罪やテロの多発と不透明化から自衛しようという人々の意識があってのことだった。ネッ
トがかつて思い描かれたほどには利用されていないのも、そうした事情が背景にあった。
 一つのページを読み終えると紙面左端の小さな矢印に触れる。すると次のページが表示
される。駒輪屋の間で発表が待たれていたカンタータニューモデルの特集記事があった。
カラー写真に触れると画像が立体的に表示される。録幸はスペック標と見比べながら画像
を手であちこちに回転させ、それから紙面上の写真に触れた。立体画像が消える。次いで
別の写真に触れると空中に画面が拡がり、実際の走行シーンが再生される。
 そうして「週間駒輪屋」を読んでいるあいだ、トキワがたびたび話しかけてきた。
「新聞読んでるんだから静かにしてろよ」
最初はてきとうに相手をしていた録幸だったが、あまりにも頻繁なのでとうとうそう言っ
た。横を向くと、右端の小さな画面に映るトキワが困ったような顔をしていた。

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「けどさ、燃料切れそう」
「あれ、どこに置いたの?」
録幸はバンドグラスディスプレイの電源を切ると頭から外した。
「ちょっと待ってろ」
言い残して居間を出ると、ややあって戻ってきた。その両手には一つずつ、金属でできた
円筒状の物を持っている。一つの高さが四〇センチほどはあり、直径は六〇センチぐらい
もある。表面は灰色に塗られており、片方の端には銀色のアタッチメントが付いている。
録幸は側面にある取っ手を握っていた。
 かなり重たいらしく、歩くたび両手の揺れに身体が引っ張られている。トキワは立ち上
がると、それを受け取った。
 録幸が持ってきたのは燃料用の濃縮水素が入ったタンクだった。町はずれの燃料屋で売
られている。タンクの表面には白で「高濃度水素」の文字と、細かな警告が書かれてい
た。
「店の駒輪用だ」
「え? 小さくない?」
「修理した後にサービスで補充するだけだからな。地下に蓄えてあるのは家用。仕事用と
分けておかないと税金がややこしいんだ、よっと」録幸は両手で胸元へタンクを抱え込む
白河黒河から視線を逸らせた。「アンドロイドって言うからどんな燃料で動いてんのかと
思えば、普通の水素だもんな」両腕を振ってソファに座り込む。
「特殊な燃料じゃコストが大変でしょ」
「で、それをどうすんだ?」
「こうするの」
言って白河は口を大きく開けた。上下に引き伸ばされ、違和感なく唇が薄くなる。
 細かな起伏まで正確に刻まれた口蓋へ喉の奥からチューブが伸びてきた。白河はタンク
のアタッチメントを口にくわえる。チューブの先端とアタッチメントの接続される小さな
音がしたと同時に、圧縮水素の流れ込む高い噴出音が聞こえた。
 二分と経たないうちに噴出音は止み、白河はタンクを口から離した。次に黒河へタンク
を渡す。黒河は抱えていたタンクをそっと床に置き、それを受け取る。
 最初は録幸へ見せるために口を大きく開いたのだろう。黒河は普通にアタッチメントを
口にしたので、チューブが見えなかった。
「なんだ。半分でいいのか」
「うん。足りた。先に言えばよかったね」
「いや、俺も聞けばよかった。明日にでもお前たちの分、配達してもらわないと。補充は
毎日?」
見ていた録幸が尋ねる。トキワは二、三日に一度くらいだと答えると、タンクを居間の片
隅へ置いた。
 録幸は壁に掛けて充電していた遠操盤を手に取ると燃料屋の注文票を呼び出し、トキワ
のために圧縮水素をタンク一〇本注文した。
「そういえばさ、さっき買った髪ゴムってどうするの?」
再び床に座り込んだ黒河白河が録幸を見上げている。

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「お、忘れてた」
録幸はキッチンと居間を隔てるカウンターから髪ゴムのパッケージを取った。封を開ける
と五色の中から白と黒の髪ゴムを一つずつ出す。
「白河、こっちな。で、黒河がこっち」
録幸は白河へ白い方を、黒河へは黒い方をそれぞれ渡した。白河黒河は手の中のゴムをし
ばし見詰める。
「ひょっとして、これ」
「ああ。見分け付かないから。そのまんまじゃ困るだろ? 本当は服でも買った方がいい
んだろうけど、それだと却って格好悪い」
「そりゃそうだけど。言ってくれれば」
「もうちょっとカワイイ髪飾りとか」
不服そうにトキワは言う。
「その格好で髪飾りはないんじゃないか? ま、付けてみろって」
しぶしぶ黒河白河は左右の髪を後ろの髪と合わせ、ゴムでまとめた。そこまで長いという
わけではないので、ゴムから出ている部分は短い。髪先を引っ張ってゴムを根元まで寄せ
ると、黒河白河は残された前髪を左右に分けた。
「どう、かな?」
縛ったところを触りながら、トキワは尋ねた。
「ああ、似合ってる」
「ホントに?」
「本当だって。なんて言うか、すっきりして見える」
録幸は白河黒河を均等に眺めながらうなずいた。途端にトキワの不機嫌そうな表情が反転
する。
「鏡見てくるね」
トキワは連れだって居間を出た。残された録幸はソファへ座る。
 似合うか尋ねてきたときのトキワの顔が浮かんだ。少しあごを引き、上目がちになりな
がらあまり口を開かずに問う仕草。
 可愛かった、と思いかけ録幸は我に返る。一瞬、相手がアンドロイドであることを完全
に忘れそうになっていたのだ。トキワ自身は自分がアンドロイドであるのかどうかを問う
のは無意義だと言っていたが、録幸自身には感覚的に、両者の隔たりを無視することは難
しかった。驚きと戸惑い、祖父たちの技術に対する感動といったもので節くれ立った感情
が録幸の中に着床する。
「うん。気に入った。けどヘアピンも欲しいな」
そんなことを言いながらトキワが戻ってくる。
「ヘアピン?」
「横の髪が短いから」
「落ちて来ちゃうんだよ」
トキワは顕わになった小さな耳の縁から、後頭部へ指を滑らせる。ぬめらかな弾力で髪は
指を押し返す。
「ああ、そうだよな。自分じゃ縛らないから……。じゃあ、明日買うか」

- 32 -
感情の繁茂に飲まれ、録幸はほんの僅か、動揺を表わしてしまう。
「壁みたいな緑色のがいい」
トキワは録幸の内面に気付くことなく言うと、睦まじげな顔で笑った。


 録幸の心配とは逆に、トキワは町の生活へ順調に受け入れられていった。町で生まれ育
ったのに未だに周囲と馴染めない常磐とは、大違いだった。今では暇なときなど、勝手に
外を出歩いて知り合いを増やして帰ってくる。録幸が心配したほどに人々は鮮造とそのア
ンドロイドのことなど、気にしていなかったのだ。確かに、よほどの高齢者を除けば鮮造
を直接知っていた人間などいない。孫の録幸でさえ祖父にたいした印象などないのだ。他
の者ならせいぜいが「そんなこともあった」程度の認識しかなくても不思議ではない。
 トキワは録幸の生活にも馴染んでいた。新聞を読んでいるとトキワがちょっかいを出し
てくる。そんなことも日常の一部になっていた。その日も、録幸は夕食を終え、トキワと
ドラマを観ていた。会社での恋愛を扱った他愛もない内容だったが、トキワが妙に気に入
っているのだ。
 昔とは違い、会社のオフィスというものは全てがネットワーク上に存在している。人々
はそこで架空の肉体をまとい、働いており、ドラマでもそれは同じだ。主人公のあこがれ
ていた上司が、現実には半身不随だったことが判明するシーンを観ていると、インターホ
ンが鳴った。
「トキワ、ちょっと出て」
「うん」
言いながらもトキワは画面に見入っており、動こうとしない。しかたなく録幸は立ち上が
り、居間の入り口脇にあるモニターのスイッチを入れた。
 小さな画面に女が映っている。縁なしの赤い眼鏡をかけており、五〇代後半くらいのよ
うだった。
「こんばんわ」
「はい、どうしました?」
顔に覚えはあるのだが、名前が出てこない。たしか自治会の副会長だったはずだ。
「初めまして。副会長のです」
気美香は言うと会釈した。
「どうしたんですか? 近くで駒輪が故障したとか」
「いえ。違います。実は折り入って相談したいことがあって。時間はありますか? ちょ
っと、来てもらいたい所があるんです」
「あ、はい」
録幸はトキワを見た。トキワは録幸を観て面白がるような顔をしている。
「駒輪じゃなければ、どういった用で」
「それは行った先で話します」気美香は周囲に目を走らせ、インターホンに顔を寄せた。
「自治会関係です。内密のことで」
ますます録幸は困惑した。自治会絡みでしかも内密な用件といえば、自分に無関係という
意味なのではないだろうか。そこでトキワが日常の一部から遊離する。

- 33 -
「トキワに関係が」
「それも向こうで話します」
愛想のない口調に、録幸は溜め息を吐く。
「解りました。少し待っててください」
「駒輪で来てください」
うなずくと録幸はモニターを切り、思い切り顔をしかめる。
「二人とも、出掛けるぞ」
録幸が言う前に、トキワは床から立っていた。


 自分の駒輪の後ろにもう二台の駒輪を繋げるとそこへ黒河白河を乗せ、録幸は表通りへ
出た。目立つが他に方法はない。後で何か詮索されても、それは自治会のせいだ。録幸は
自分に言い聞かせる。気美香は既に自分の駒輪に乗っており、録幸の駒輪を認めると走り
出した。
 気美香の駒輪は町の中央を抜けると、北へ向かった。街の灯りがクロロベトンの壁に反
射し、全体を淡く透明な黄緑色に染めている。いくつもの脇道や交差点を越えて進むと、
やがて寄り添うように並んでいた建物がまばらになり、長い一本道に出る。その道を真っ
直ぐ行けば駅や町の出入り口にぶつかる。正面には領壁が夜空を背に、白のきつい照明で
照らされていた。ココアの粉末を固めたように見える。
 何もない草原の間を四台の駒輪は進んでいく。緩い下り坂になった道に沿って設置され
た街灯が、連々と駅舎まで並んでいる。この時間帯、行き会う駒輪はなかった。
 駒輪講習会の会場へ通じる道との合流点を過ぎ、さらに行くともう一つの分岐があっ
た。気美香はそこで曲がる。
 やがて一軒の民家が見えてきた。同じ敷地には大きな倉庫もある。自治会長、の家だ。
鷹志の本業は燃料屋で、バッテリー用の燃料水素などを販売している。
 瀬観の家は二階建ての広い家だった。クロロベトンではなく、木材で建てられている。
白茅町が今のような形になるより前からある、古い家なのだ。とはいえ、昔は谷底だった
ため、他の家のように高台の上へ建っているわけではない。
 敷地周囲の土塀に沿って木が植わっているせいで一階の様子はよく見えないが、焦青色
の急な瓦屋根と広い物干場、その奥の大きな窓が見えている。明りが消えているため、カ
ーテンに閉ざされた窓の奥は暗い。
 正面で土塀は途切れ、庇門がある。大きな木の扉の周囲には同じく土塀で出来た壁があ
り、突き出た庇からは電灯が下がっている。その前に数台の駒輪が停められていた。
 録幸たちは駒輪を停めると、木の扉を潜った。石畳の上を少し歩いて引き戸の前へ来
る。気美香は無断で戸を開け、中に入った。先に来ているらしい人々の靴が並んでいる。
気美香は靴を脱ぐと、録幸たちにも上がるよう促した。
 玄関を上がって廊下を進むと、気美香はすぐ左側のふすまを開けた。三人は中へ入る。
そこは一〇畳ほどの広い和室だった。部屋の片隅には仏壇が置かれ、中央には大きな机が
二つ、並べてある。その周囲には自治会長を含め、四人の人間が座っていた。会長のとも
う一人が入り口に向かって座り、その正面に残りの二人が座っていた。一人は男で、もう

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一人は女だった。
 鷹志の隣に座っている男、は父の友人で徳村輪舗の客でもあったため、録幸もよく知っ
ていた。恵通は町内唯一の病院である白茅医院で経理部長をしており、その経験もあって
自治会の会計をしている。他の人間も自治会の役員だ。
 その場の空気は埃臭く湿り、重たかった。中でも鷹志は酷く、いつもは重たい燃料ボン
ベの上げ下ろしで鍛えられた上半身を心持ち反らせているのだが、今はその大柄な体がひ
しゃげているようだった。
「連れてきました」
気美香の言葉で初めて録幸たちに気付いたという感じで、一斉に役員の目が録幸とトキワ
へ向けられた。
「ようこそ。まあ、座って」
空いている場所を示して恵通が言う。四人はそれぞれに腰を下ろした。
「急に呼び出してごめんなさい」
気美香が口を開いた。てっきり町長の鷹志が説明するものと思っていた録幸はいささか驚
いた。
「いえ、そんな。それよりも、こんな時間にどうしたんですか?」
気美香は隣の鷹志と陰鬱に視線を交わし、軽くうなずく。
「前自治会長が殺されました」
録幸は驚いて身を乗りだそうとし、机に腕をぶつけた。
「警察に……」
「それが、警察には言えないんだ」
録幸の平凡な言葉を馬鹿にするでもなく、恵通が答える。
「どうしてですか。それに、そのことと俺と」
「つまり、道理屋が要るってこと?」
横からトキワが言った。別段動揺している様子はない。
「そう」
気美香は録幸からトキワへ視線を移した。
「そんな。俺は駒輪屋ですよ。どうして本業の道理屋じゃダメなんです?」
道理屋という言葉だけを頼りにして得た儚い落ち着きにしがみついて、録幸が反論する。
「道理屋とはいえ、町民でないことに変わりはありません。そんな人、あなたは信用でき
ますか? 大きな都市ならともかく、この町には何十年も道理屋なんて来ていません。い
くら許可証を持ってようがなんだろうが、見知らぬ道理屋に頼る気になんてなれないのは
解るでしょう。それに私たちがお願いしたいのは主にトキワさん、あなたです」
録幸はトキワを見た。トキワは特に表情を変えることもなく、正面を向いている。
「今日だって徳村さんにはアンドロイドの所有者として同行してもらっただけのこと。ト
キワさんが受けてくれれば、それ以上は望みません」
「望みません、って。持ち主の意向ってもんがあるでしょう」
「ま、そうだけどね。もし断られれば自治会は大きな損害を受ける。その元凶がアンタと
いうことになれば徳鮮さんに続いて――」
恵通の隣に座る男が口を開いた。やや太っており、どっしりとした印象がある。いかにも

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押しが強そうな雰囲気で、今も一人だけ照りのある顔をしている。書記のだ。
 岸蜜は珍しく、白茅町で生まれながらも一時期別の町で暮らしていた。録幸が生まれる
よりも前のことだ。大抵よそへ越した町民は戻ってこないのだが、岸蜜はなぜか帰ってき
た。理由ははっきりしないが、どうも仕事で失敗したらしい。その頃はカレー屋をやって
いたという話だった。今の岸蜜が家業を継いで水道業者をやっていることを考えると、カ
レー屋は単純に味が悪かったのかもしれない。
 岸蜜はしばしば自治会の緊張の元凶でもあった。公式には誰もが否定しているが、「ゼ
ロ。ニュース」やその他の噂から、岸蜜が次期自治会長を狙っているのは明らかだったの
だ。しかし鷹志にその気がないこともまた、周知のことだった。記という町政に直接は関
わらない役職であることも、そうした鷹志の意向の現われであるとされていた。それでも
なお町には岸密の権力が及ぶ人々もちゃんと存在するのだから、たんなる厄介者というわ
けではないようだ。前自治会長である鷹雄が岸密を後継者にしたがっていたという噂もあ
るのだが、ひょっとしたら全くのデタラメではないのかもしれない。
 その岸蜜の言葉の意味ははっきりしていた。自治会に睨まれれば町内に居辛くなるとい
うのだろう。表立ったことはしてこないだろうが、無言の圧力は周囲に浸透し、録幸を押
し出していく。あまりの急激な推移に対して、不意の怒りが湧いた。
「白茅町に居辛くなるわけですね」
声が震えるのを抑え、録幸は問う。
「いやいや、そうは言ってない」
岸蜜が形だけ否定してみせる。
「報酬は払います。これはここに居る役員のあいだで決まったことです。あなたが働くわ
けじゃないんだから、拒否する理由もないはずですけど?」
気美香が岸蜜の会話を打ち切るように言う。録幸は即答しなかった。どのみち受け入れな
ければならないにせよ、気が進まないという思いを強調したかったのだ。
「で、どうしろって言うんですか?」
「そんなの決まってるじゃない」
トキワが呆れた様子で言う。
「いや、判ってんだよ、そんなこと。流れだ。流れ」
いつもと変わらぬトキワの口調に乗せられ、つい録幸も言い返す。
「とにかく、まずは詳しい説明をしよう。それじゃ、お疲れさま」
岸蜜の最後の言葉の前半はトキワへ、後半は録幸へ向けれられていた。
「お疲れさま?」
「ああ。これは微妙な事態でね。道理屋じゃないアンタには必要以上のことを教えるわけ
にいかない。心配しなくてもそっちとの用が終われば連絡するから。それと、この件はく
れぐれも」
「待ってくださいよ。そりゃないでしょう」
とうとう録幸の声が一貫性をなくした。怒りによって抑揚の骨格が砕けたのだ。
「ま、徳録君。落ち着いて」
恵通はさりげなく録幸の腕を取り、宥めた。
「いくら自治会だって、こんな強引な。おい、黒河も白河も、帰るぞ」

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録幸は立とうとした。恵通の手に力が加わる。
「やろうよ、録幸」
駄目だ、と言おうとして録幸は言葉を詰まらせた。トキワの声に、聞き慣れない色が混ざ
っているのだ。だが、その不吉さだけなぜか明らかだった。
「だいたいこの人たち、勘違いしているよ。アンドロイドだけで道理屋が出来るわけない
んだから。もしそんなことが出来るんなら、道理屋は今ごろみんな家で楽してるってば」
この言葉で逆に、役員たちが取り乱した。
「そんなこと、聞いてない」
気美香に向かってトキワは微笑んだ。
「知らなくってもそれくらい」
「考えたらわかるでしょ」
暴言だったが、内容とは裏腹にトキワの口調は明るかった。
「でも、この町に道理屋は」
「だから、録幸と一緒ならやるよ。ただ付いて来てもらうだけじゃなく」
「ね?」
呆然としていた録幸の顔を黒河が見る。意味の理解より先に、録幸は首を振った。
「大丈夫かい?」
「だいじょうぶ。元々私だけで大丈夫だって思ったのはそっちでしょ。なら、録幸がたい
して役に立たなかったとしても問題ないはずじゃない」
トキワは満身の多幸感を発散させながら恵通に言う。
「役に立たないんなら、私でもいいじゃないですか。それとも、徳村さんじゃないといけ
ない理由でも? 私たちとしてはなるべく立ち入った関係者を増やしたくはないんですけ
れど」
「だって、録幸と道理屋がしたいから」
冷静に尋ねた気美香も、その返事で惑乱しかけた。咄嗟に短い笑いを漏らすことで、それ
をかわす。
「それくらい、いいでしょう」
それまで一言も発さず、一同を見ているだけだった女が喋った。役員の中では一番若い。
数樹よりも少し年上だ。女の声は奇妙に細く、高く、薄かった。そして、ぼやけている。
「私は。議長です」周囲が取り乱し中だというのに、絵茄は自己紹介を始めた。「すいま
せん。これ、人工声帯なんです。聞き取りにくいでしょうが」
「はあ」
自己紹介を待つまでもなく、録幸も絵茄のことは知っていた。先天的に声帯に異常があ
り、昔からそのことで有名だったのだ。成人してからは町の南東にある小さな霊園で管理
事務をしている。その若さで議長をしているという異例の事態は就任当初、たんなる自治
会のイメージアップだと思われた。だが、その後の評判としてはなかなか能力もあるとい
う話だった。録幸自身は絵茄が就任してから自治会の寄り合いに参加したことがないため
実際に見たわけではないが。
 自治会の場合は権力的な開きが少ないために寄り合いが紛糾することもしばしばなのだ
が、絵茄が独特の歪んだ声を張り上げると、とりあえずは静かになるらしい。大声で叫ぶ

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と人工声帯が負荷に付いてこれず、「ゼロ。ニュース」の記事によれば「考えられる限り
で最も遠い所から届けられたかのような声」がするのだという。また、事前の関係折衝な
どについてもなかなかの手腕があるらしかった。しかし今目の前にいるのは確かに風変わ
りな声だが、こまごまとした仕草の愛らしい女性でしかない。
「で、会長。とにかく損も得もないんですから、トキワさんのいいようにしてあげればど
うかと」
絵茄は急に話を本筋へ戻した。
「しかたがない」自治会長は暗い声で言った。「すまないけれど気美香さん、後は任せ
た。鮮造さんの孫と、トキ、あー、アンドロイドと、よく話し合ってくれ。私は病院へ行
く」
立ち上がると鷹志は部屋を出て行った。空気の揺らぐ感触があった。
 玄関の閉まる音が聞こえると、役員たちを安堵の雰囲気がまとめあげた。
「病院って」
「前会長はもう病院に運ばれたんだよ。遺体を放置するわけにもいかないし、あそこの病
院は気心も知れてるから。会長以外の家族は全員、そっちに行ったんだ。僕らは会長も一
緒に行ってかまわないと言ったんだけど、あの人責任感が強いから。道理屋の件が決まる
までは残るって」
恵通の声も穏やかさを取り戻していた。
岸蜜が立った。
「あ、私が」
立とうとする絵茄を手で制し、岸蜜は部屋を出た。少しして、人数分のグラスにお茶を入
れて戻ってきた。
「鷹志とは幼なじみでね。どこに何があるか自分の家よりよく判る。うちは妻が勝手に物
を動かすからな。麦茶だが、これ飲んでちょっと落ち着こうじゃないか」
言いながらお盆からグラスを配る。
「詳しい説明をしようか。いやいやそれにしても、さっきは強い物言いをして悪かった。
なにせ町内の運命が賭かってるもんだから」
岸蜜は頭を下げた。
「いや、こっちこそ」
慌てて録幸も頭を下げる。急に態度が柔らかくなって、却って妙な感じだ。鷹志の前では
演技をしていたのだろうか。
「それで、何するの? なになにな、に?」
トキワだけが先程と同じテンションを維持したままだった。先程録幸の感じた聞き慣れな
い色の正体は、堪えきれない多幸感だったらしい。今のトキワに比べれば、普段の嬉しげ
なそぶりもまだ普通だった。
「それは徳村さんが落ち着いてから」
気美香の言葉に、録幸は手にしたグラスの中身を一気に空けた。
「もう平気です」
「そう。じゃ、こちらへ。殺害現場へ行きます。他の役員のみなさんは休んでいてくださ
い」

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ごくごく事務的に殺害現場という言葉を口にすると、気見香は録幸たちを従えて部屋を出
た。


 気美香に案内されたのは二階の一番奥にある部屋だった。ドアを開けると、中は書斎に
なっていた。あまり広くはない部屋に机と椅子があり、その上へ液晶ディスプレイとセン
サーグラブ、それに遠操盤が置かれている。青い絨毯は古いものらしく、やや摩耗した印
象がある。椅子の下あたりなどは擦り切れていた。乾いた血が部屋を染めているというよ
うなことはなく、言われなければそこで人が殺されたとは思えなかった。
 気美香はそこで殺人があったというのに、迷わず中へ入った。そのまま机の前まで進
む。
「前自治会長、さんが殺されたのは今日の昼過ぎです。その時間帯、鷹志さんは燃料の配
達に出ていました。さん、ああ常盤さんのお母さんは友達と買物に出ていました。常盤さ
んは仕事で自治会の事務所へ。つまり家には鷹雄さん一人が居たわけです」
「事務所? 家で仕事してるんじゃないんですか?」
「普段はね。いくら自治会が完全公開制だといっても、外部へ出せない書類やデータはあ
りますから。そうしたものはネットワークへ繋がっていないパソコンに入れてあるんで
す。それに、古い資料には紙のものもありますし。そうしたものは自治会事務所にあるん
です」
 気美香は手際よく状況を説明していった。それによると、死体の発見者は常磐だった。
事務所から戻った常磐が書斎の隣にある自分の部屋へ戻ろうとし、何気なく書斎のドアを
開けると部屋の中央に鷹雄が倒れていたのだ。慌てて階下の居間にいた母親を呼びに行
き、鷹志が呼び戻され、次いで自治会役員が呼ばれたのだという。
 最初は心不全か何かではないかと思ったのだそうだが、駆け付けた白茅医院の主治医が
調べたところ首に手で絞めた跡が残っていたため、殺されたことが判ったのだった。荒ら
された形跡はなく、誰もそれらしい物音など聞いてはいないという。ここ数日を振り返っ
ても、役員や家族が把握している限りでは不審な点はなかった。
「常盤さんの撮影した映像があります。後で観せましょう。今の時点で判っているのはそ
れくらいです」
喋る合間に気美香の視線はしばしば中央の床へ向けられた。机から床へ、録幸から床へ。
どうやらそこに死体が倒れていたらしい。しかし漠然としか位置が判らないため、録幸は
入り口から一歩入ったところで立ち止まり、それ以上動けなかった。トキワはそんな録幸
を放って部屋の奥まで入り込んでいる。
「それで、どうして今宮さんには言えないんですか? 町の運命がどうとか言ってました
けど」
白茅町には派出所しかない。今宮はそこにいる三人の警察官の一人で、派出所長を務めて
いた。むろん、三人とも白茅町の生まれだ。
気美香はまた床へ目を落とし、それからトキワを経由して録幸に視線を定めた。
「自治会の寄り合いには出てる?」
「いや、それが。なかなか」

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寄り合いは町民であれば誰でも参加し、意見を述べられた。またネットでも生中継され、
町民であればそこからでも参加はできるし、議事録も参照できた。とはいえ町政に関心が
あって寄り合いに参加する町民というのは概ね固定されており、録幸などは何年も前に家
周辺の道路改修が話し合われた際、一度参加したのが最後だった。
 返事を予想していた気美香は録幸を責めるでもなくうなずいた。
「実を言うと、犯人の目星はついてるんです」
気美香の言葉から、自治会役員の間に他殺を疑う者はいないことが窺えた。
「なら、今宮さんに言って」
「だから、それが無理なんです。言えば町内は混乱して大変なことになるでしょう。ほと
んどの人は知らないことですが町内は今、二つに分裂しそうなんです。そんな中でこの事
件が明るみに出れば、両者の分裂は一気に加速しかねません」
録幸は反応しそこねた。気美香の言葉があまりにも、実感を伴わなかったからだ。町内が
分裂。本当ならば大変なことだがしかし、録幸が暮らしている範囲でそうした状態を思わ
せるような要素は何一つとしてない。
「信じられないのも無理はありません。徳村さんは移民の人たちと接することがあまりな
いんですから」
録幸の気持ちを見透かしたのか、それとも予想済みなのか、気美香はそう言った。
 白茅町四町目は人口二千数百人の小さな町とはいえ、細かく見れば人の流出入が僅かに
ある。よそへ移住する者や、逆によそから移住してくる者もいるのだ。移住に際してはそ
の理由やこれまでの経歴などが綿密に調査されるのだが、普通に生活をしていればまず審
査は通る。そして、移住してきてそれほど経っていない者を特に移民と呼び、長く白茅町
に住む常民と区別するのだった。
「じゃあ、分裂しそうってのは移民と常民でってことですか?」
「そうです」
「でも、移民の数なんてたいしたものじゃないでしょう? だいいち、どうして分裂する
んですか?」
「私たちは新しい世話役のせいだ、と考えています」
世話役は移民の家庭が白茅町での生活を始めるにあたって、色々と町内のしきたりを教え
たりするのが役目だった。移民と呼ぶほどではないが、常民と呼ぶには長くない。そうし
た世帯の中から選ばれる。特に定まった任期があるわけではなく、代替わりは現役の世話
役による指名制となっていた。
「世話役が交代したのはだいたい三年前のことです。それから今までで、移住者は四〇世
帯を超えました。普通なら年に三世帯も移住してくれば多い方ですから、これは異例で
す」
「異例です、って町の西側を造成して売り出したんですよね? だったらそれぐらい」
「もちろんです。ただ重要なのは、そうした変化を背景に世話役がかつてない影響力を持
ってしまったということです。移民にとって本当に頼れるのは世話役だけ。世話役に見放
されれば、その後の生活に深刻な影響が出てしまう。ある意味、移民にとっては自治会そ
のものよりも大きな存在と言えます」
「それは予測でき――」

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録幸の言葉をトキワが遮った。
「つまりその世話役が」
「町内権力の掌握を狙ってるみたいで、考えてみれば空いた土地の新規造成もその辺りの
陰謀なんじゃないかってことでしょ?」
「で、前自治会長は世話役派に殺されたんじゃないか、と」
黒河白河は鷹志の死体が転がっていたと思われる辺りを手の甲で撫でている。青い絨毯の
毛足が立って、トキワの手が通った後は白っぽいスジになっている。
「要は、そういうことです。さすがに話が早いですね」
トキワは立ち上がった。黒河は手の甲を掻いている。
「それだけ聞いて話が掴めないのなんて、録幸くらいだよ」
「あのな、俺は素人だぞ。お前と一緒の基準で見るなよ。だいたい今だってお前に付き合
ってるだけなんだからな。別にお前と道理屋をするなんて言ってない」
最後の言葉に気美香が反応した。録幸を見る。眼鏡越しの小さな眼は何も訴えてこない。
重圧も軽蔑も、怒りも懇願もない。ただ眼があった。それが逆に不気味だった。小さな町
内のこととはいえ選挙といった決まった手順もなしにその中枢へ上り、長年に渡って町政
を動かすというのは、やはり並の人間に出来ることではないらしい。
「言ってないけど、今さらしょうがないだろ。お前の手伝いはする」
「ホントに?」
トキワが問う。
「ああ。日頃駒輪屋として引き立ててもらってるんだしな。町内のために出来ることがあ
れば協力するのは当然だ」
録幸の取り繕いを真に受けたわけではないが、気美香は録幸から視線を外した。
「アシスタントという形であってもそれなりの謝礼は出します。では、下へ行きましょ
う。常盤さんの映像を観てもらいます」
気美香は録幸の脇を抜けると部屋を出た。録幸もそれに続く。
「私たちもこの事件を揉み消してしまおうと思っているわけじゃないんです。ただ、さっ
きも言ったように町内は非常に不安定な均衡下におかれています。ですから道理屋さんに
犯人の特定とその証拠を集めてもらって、逮捕そのものは時期を見てなるべく迅速に進め
てもらいたいんです」
トキワが遮る前の質問に答えているのだろう。所々壁板の傷付いた廊下を歩きながら気美
香は言った。
「その分裂ですけど、確かなんですか? 証拠というか。いや、疑ってるわけじゃないん
ですけど」
先程の居心地の悪さをまだ引きずりながら、録幸は質問した。
「そもそもは五年前、手つかずの土地を造成して売りに出してはどうかという提案が匿名
でなされたことに始まります」
階段を下りながら気美香は言う。
 町民なら誰でも、様々な提案を議題にできる。しかし中には身元が知れると角が立つ、
というものもある。そうした提案を行う場合は匿名も許されるのだった。
「造成するとなると森を潰すことになるのですから、反対する者もいるでしょう。匿名な

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のは森を保護したい人間からの恨みを避けるためだと、そのときは私たちも思っていまし
た」
階段を下り、最初に録幸が案内された部屋の前を通る。中からは低い囁き声が聞こえた
が、内容までは判らなかった。
「提案が通った理由も簡単で、その頃、移住の申し込みに対して空いた土地が不足してい
たのです。身元に問題が無くても、土地がなければ移住は許可できません。そういう理由
で断ることが何度かあったんです。匿名の誰かが言わずとも、いずれ居住人数を増やそう
という意見は出ていたでしょうね」
居間に着いた。急の訃報に片付ける間もなかったのだろう。畳敷きのその部屋は片付けが
なされておらず、座卓の上には飲みかけの麦茶を入れたグラスとピッチャー、袋から出し
たきりの煎餅などが放置されていた。床には読みかけの週刊誌を表示したままのが投げ出
されている。そうした物の中に常磐の持ち物なのだろう。小さなカメラがあった。気美香
はそれを手に取ると電源を入れ、何やら操作する。入り口正面の壁に吊られたシートディ
スプレイが青くなった。録幸から見ると、気美香を青い光が包むようだった。
「あ、先にいいですか? さっきも聞こうとしたんですけど、移住者が急増するっての
は」
気美香の顔が少し歪んだ。笑みを造ろうとして失敗したようだった。
「それは完全に読み違えでした。分譲前の予測では、年に五、六世帯くらいだろうと思っ
ていたんです。それまで白茅町のサイトでは移住について応相談としていたのですが、そ
れで年に三世帯くらいだったので。土地を用意して告知をして、それで相手に問題もない
のに断るわけにはいきませんから」
「その辺りはどうでもいいって」
黒河が言った。
「そうですね。それと、これもあまり役には立たないかもしれません」
気美香は映像を再生させた。
 画面に突然、うつ伏せになった鷹雄老人が映し出される。それは置かれているというよ
りは、投げ出されているといった印象が強い。両腕は曖昧に体の前へ伸ばされ、腰が浮き
上がっている。絨毯に押し当てられた顔は逆を向いており、髪の薄い後頭部が見えてい
た。やはり外傷はないようだった。
 撮影している常磐の手は酷く震えており、頻繁にマイクのすぐ側で「おじいちゃん」と
いう呟きが発せられていた。
 カメラが引く。鷹雄の死体を挟んで絵茄が立っていた。その足下の影が妙に黒い。絵茄
は鷹雄とカメラを向ける常盤との間を交互に見るばかりで、何も言おうとしない。ただ時
折、常磐の奥に居るらしい誰かの言葉にうなずいている。はっきりしないが声の主は恵通
のようだった。動転した常磐がマイクを手で覆っているらしく、声の特徴が聞き取れない
のだ。
 部屋の様子は録幸が見たときと全く同じだった。そのことが却って、見たばかりの部屋
が殺人現場だという印象を録幸の中で薄れさせることとなった。
 常磐の手がマイクから離れたらしい。男の声が鮮やかになる。それはやはり恵通の声だ
った。電話だろうか。相づちばかりが聞こえる。

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 ややあって、恵通の声が「もう着くそうだ」と言った。絵茄の顔が少しだが落ち着いた
ものとなる。
 不意にカメラが下を向き、床が映し出された。
「常盤さん、カメラカメラ」
恵通の声に慌てて画面は元に戻る。すぐに足音が聞こえ、映像に鷹志と白衣の男が現れ
た、男は白茅医院の医師だった。
 医師は手早く鷹雄の脇へしゃがみ込み、鷹志に合図をする。鷹志も死体を挟んで逆側に
しゃがむと、二人は鷹雄を裏返し、横たえた。顔が映る。目を閉じているが、死んでいる
ようには見えない。もっとも常磐の手の震えが増し、鷹雄の顔は上下左右に忙しなく揺れ
ているのだが。
 鷹志が死体から離れる。それは立ち上がったというよりは、飛び退いたという方がふさ
わしいような動きだった。
 医師は鷹雄の脈を取ったり目を覗き込んだりと、鷹雄の体を一通り調べた。そして最後
にもう一度全身をざっと見ると、鷹雄の首へ顔を寄せた。
「首撮って。常盤さん首、首だよ首」
恵通の声がして、首がクローズアップされる。そこには録幸の目から見てもはっきりと判
るくらいの痣が出来ていた。ブレのせいかもしれないが、どうも少しへこんでさえいるよ
うだ。
「確かに、お亡くなりになられています。おそらく絞殺でしょう」
医師が告げる。カメラの映像が大きく横へ流れ、そこで停止した。入り交じった残像が、
画面に固定される。
「これだけです。見てのとおりですけれど、画像のコピーは渡します」
画面が再び青くなる。
「それで、まず最初に世話役へ会ってもらうのがいいでしょう。名前は。ビーラスカの店
長です。事情はこちらから上手く説明しますから、連絡がありしだい会いに行ってくださ
い」
気美香はカメラのスイッチを切った。青光が消え、気美香は部屋へ取り残される。
 そのまま録幸は玄関へ連れて行かれ、気美香に見送られて駒輪に乗った。サイドミラー
の中に、縮みゆく気美香の姿が最後まで残った。

 遠くで犬が吠えている。激しく吠えたかと思うとしばし沈黙し、一声上げてはまた黙
る。ムラのある吠え方が録幸の気分を落ち着かなくさせた。
 時刻は二三時をとうに過ぎている。対向車などほぼ無い。遠くで駅の照明が輝いてはい
るが、活気はない。消灯された領壁は闇に沈み、星の途切れる稜線としてのみ存在してい
る。
「なあ」
「うん?」
車内にトキワの声が流れる。発話しているのが黒河なのか白河なのか、録幸には区別が付
かない。
「俺は一体何をすりゃいいんだ?」

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「知らない」
その返事に、録幸は思わずカーブでもないのに曲がりそうになる。
「知らない、だぁ? ずっと爺さんたちと居たんじゃないのか?」
「うん。居たよ。けど、何をしてたのかは知らない」
「そんな馬鹿なこと、あるわけないだろ」
道なりに家屋が増えてくる。あっという間に視界の大半が薄い笹色で占められ、馴染み深
い見通しの悪さが録幸たちを包む。
「でも、録幸が訊いてるのは目的なんでしょ? それなら、知らない。わたしが知ってる
のは鮮造さんと徹語さんが色んな人に会って、話をして、それぐらい。それにどういう意
味があるのかは本当に知らないんだよ。わたしたちは二人から質問されたことに答えた
り、遣り取りの記録を後で再生したり、そんなことばっかりだったから」
言葉の途中で交代しているはずなのだが、それでも録幸には喋っているのが黒河なのか白
河なのか、どこで入れ替わっているのかさえも区別が付かない。
「じゃ、その映像は残ってるんだな? しょうがない。自分で観て考える」
「残ってないよ。わたしたちの記憶を覗かれたら守秘義務が守れないからって、不要にな
った仕事関係の記憶は全部消されてる」
「じゃあ、俺が何をしたらいいのかはトキワにも判らないってことか」
録幸は今来た道を引き返し、そのまま領壁の外へと逃げ出したいような気分に陥った。こ
との重大さから考えるに、失敗は許されないはずだ。なのに自分には、何をしたらいいの
かその道筋さえはっきりしないのだ。
「けどね、徹語さん言ってた。どんな道理屋にも、自分たちが本当は何をしてるのかなん
て判らないんだって。道理屋の始め方みたいなテキストがないのも、そのせいだって」
録幸の心情を汲んだとは思えなかったが、トキワは慰めるように言う。だが丁度そのとき
録幸は、根気よく探せばひょっとしたらネットのどこかに道理屋のノウハウを記したコン
テンツがあるのではないかと考えていたところだったので、却って不安を募らせただけだ
った。一台の、黒い駒輪と擦れ違う。運転手の顔はライトの影に塗りつぶされ、見えなか
った。
 とりあえず宮貴という人物に会ってみるしかない。トキワの言葉を信じるならば、どう
やら祖父たちもその都度ごとに場当たり的に対応していたらしい。考えてみれば道理屋は
求めに応じてありとあらゆる揉め事を解決するのだから、マニュアル化は困難なのだろう
「本当のところ、役員の話はどうなんだろうな?」
「どう、って」
「世話役側の犯行だろうとか、分裂がどうとか。百パーセント信じるわけにもいかないだ
ろ」
「そうだね。で、どうって、何が?」
「いや、だから信じ切るわけにもいかない気がするんだけど、どうかってことだ」
トキワはすぐに答えなかった。見慣れすぎていちいち意識に上らないような町並が続く。
「録幸ってさ、本当は虫だったりしないよね? 鮮造さんの孫じゃないとか。あんまり当
たり前のことばっかり言うから、そんなこと尋ねてるつもりだったなんて思わなかった」
一瞬、録幸は後ろの二台を切り離したい衝動に駆られた。

- 44 -
「いくら何でもその言い方はないだろ。会話には意味だけじゃなくて流れってもんがあ
る。アンドロイドには判らないのか? 意義とかばっかりじゃ、それこそ虫だろ。虫」
「わたしだって冗談言ったりするでしょ。人間の会話に無駄が含まれてることぐらい知っ
てるよ。けどさ、さっき録幸が質問したことって当たり前すぎるじゃない。片方の言葉だ
けを信じ込まないっていうのは、道理屋じゃなくたって当然でしょ? 鮮造さんの孫なん
だから、もっと頭がいいんだと思ってた」
「悪かったな。けど、爺さんと比べるのはやめろよ。顔も知らないんだぞ」
「顔知らないのは関係ないでしょ? とにかく、道理屋だって他の仕事と共通することは
いっぱいあるんだから。たぶん。録幸だって駒輪メーカーの営業が言うこと、全部そのま
ま信じるわけじゃないでしょ。わたしが、あのメーカーの言うこと信じ切るわけにもいか
ないよねって言ったら、当たり前のことだって思うんじゃないの? だからさ、そんなに
緊張することないよ。だいたい、道理屋だったらこれくらいの依頼でいちいち不安がった
りしない。それこそ失敗したら殺されるようなことだってあるんだから」
どこからがそのつもりだったのかは判らないが、どうもトキワが自分を励まそうとしてい
ることだけは朧気に感じられた。
「そうだな。ま、出来るだけのことをやってみるか」
「うん。そうしなよ。わたしもネットで役に立ちそうな情報を調べてみるから」
「そうだ、数樹に相談するってのは」
「えと、何があっても絶対に役員にバレないんなら。けど、数樹も素人なんでしょ?」
「ああ。けど、集まった情報から俺一人で考えるよりもいいだろ。それに、あいつは徹語
さんと繋がってた。何か道理屋のヒントを持ってるかもしれない」
徳村輪舗が見えてきた。ショウルームの照明が、表へ穏やかな光を流れ出させている。ド
アには「本日閉店」の文字が滲んでいる。録幸の駒輪はいつもの路地へと入っていった。

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第三章「点在する」

 強い風に頭上の雲が馳せて去る。は領壁の上にいた。内側を見下ろせば駅のざらついた
屋根が見える。背の低い山並の裾を切り潰して造られた白茅町は人為ならではの平らな土
地に展開している。その、伸びやかな平面の所々に突出した旧家の高低が、在りし日の山
姿を朧気に伝えていた。町並みは緑がかっているところや建築様式に目をつぶれば、尖塔
をいくつも擁した城塞都市にも見える。目を凝らせば遠く、南の端から東の方へ、斜めに
小川が流れている。陽光を反射して、白っぽく波打つ帯のようだ。川はそれぞれの領壁と
の接点で地下へと消えている。地下河川をわざわざこの区間だけ地上へ持ち上げ、再び降
下させているのだ。
 町は領壁内のほぼ中央に固まっており、周辺は森や農耕地が占めていた。寄り添うよう
に立ち並ぶ町並みは、巨大な緑の泡が四角く凝固したようにも見える。視線を下げれば駅
や出入り口に通じる北側だけは、途中で斜めへ落ち窪み、その傾斜地は広く草原となって
いる。
 様々な速度で走る駒輪が反射する陽光や、小さい影のような人々の歩き回る光景から、
真昼の町内が今日も物憂く、そのくせ活発であることが判る。
 歳郎は幅一〇メートルほどのこの場所が好きだった。そこに立てば込み入った人間関係
や日々の悩みが自分から吊り離されるような気がしたのだ。
 それに、外を向けば遠くに隣町の領壁が見える。日ごと季節ごとに領壁は霞んだり妙に
鮮明になったりする。あいだには荒地と道路と線路。領壁内とは対称的に栄養不足で取り
留めのない雑草の合間には、大昔に不法投棄され、風化したゴミが点々とある。領壁に囲
まれた町と町のあいだは、いかにも世界の空白という言葉がふさわしい場所だった。
 こうして見ているあいだにも隣町には隣町なりの出来事があり、その証拠に今日も隣町
の担当からはニュースが届く。
 歳郎は「ゼロ。ニュース」という名前の地域新聞に携わっていた。白茅町を含む近隣の
町のニュースを配信するというもので、紙名も記事と読者の距離の近さに由来している。
それぞれの町に担当が一人おり、歳郎は白茅町を担当していた。その部分の記事は取材か
ら編集まで全てを一人で行っている。収入は購読料と広告とで成っており、たいした収益
ではないが妻である春湖の収入と合わせれば、夫婦二人で充分生活できた。
 自分が地域新聞の記者をしているのは想像力が乏しいせいだ。歳郎は素朴にそう信じて
いた。以前ネット上のあるサイトでそう言ったとき、自称同業者たちは誰一人として賛成
しなかった。確かに豊かな想像力というものを持ち合わせた記者も大勢いるのだろう。し
かし、少なくとも自分が記者をしているのは想像力がほとんどないせいだと歳郎は考えて
いた。想像力がないからこそ集めた情報から堅実な真実を導くことができるのだと。そこ
には飛躍もなければ不足もない。
 春湖も、歳郎に想像力が欠けているということを全く信じようとはしなかった。それど
ころか歳郎には甘ったるい夢想癖があるとまで言った。春湖の見ている歳郎が歳郎自身の
見ている歳郎と異なることはよくあることなので、気にはならなかった。
 新聞が事実から何事かを語るのであれば、そこから語られる内容もまたなるべく事実と
近い方がいいのではないか。そうも思う。完全な事実などというものはなく、同じ出来事

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でも書き手によって変わってしまうことぐらい歳郎も知っていた。それでも、なるべく書
き手の主観が減じるように心掛けることが重要であると信じていたのだ。単純な事実の記
述など出来ないということを一度でも受け入れてしまえば、あとはもう止めどなくそれが
増殖してしまう気がする。しかし、想像力が少なければ事実に基づかない記述は減るはず
だし、不用意に個人的な見解を抱いてしまうことも少ないだろう。
 少し離れた二町目の担当だが、何代も前にそれで些細な恨みを買った記者がいた。しか
も、記者と恨みを持った人物との家は近かった。巻き込まれて疲弊した隣人の中で二人は
憎しみを募らせ、最期は他地区の「ゼロ。ニュース」によって臨時号で報じられることと
なった。当時の記事によると雪掻き用の幅広のスコップで相討ちになったらしい。遺族の
恨みを買わないように具体的な描写は避けられていたが、二人ともあちこちの骨が折れ、
皮膚が捲れ、肉も削ぎ落とされていたという。
 住民の流出入が少ないとはいえ、近隣の町同士での人の行き来は当然ある。白茅医院や
隣町のオーバルホテルのように、複数の町で一つしかない施設があるためだ。そして歳郎
は「ゼロ。ニュース」こそ、そうした人々が町を行き交う心理的抵抗を減らしているのだ
と信じていた。「ゼロ・ニュース」がなければ互いの町で何が起こっているのかを手軽に
知る方法はない。そうなれば近くの町へ行くというのは、ひどく遠くへ行くことになる。
なにせ行ってみるまでその町に何が起こっているのか、全く判らないのだから。極端な
話、隣町が原因不明の疫病で一夜にして滅亡したとしても、行ってみるまで知ることはで
きないのだ。
 当然ながら毎日それほど大事件があるわけではない。大抵はごくささやかな、日常的な
ことばかりだ。しかし人々はそれを読むことで町内がどうなっているのかを把握し、同じ
話題について話し合える。もちろん、狭い町内のことだから新聞がなくとも興味深い話題
は伝わる。だが、その話題の発端が「ゼロ。ニュース」であることも少なくない。こうし
た循環があるからこそ逆に、町民は興味深い話題があっても自分で深く情報を集めたりは
しない。そういうことは歳郎が行うからだ。人々はただ、歳郎の提供する共通基盤を踏ま
えてあれこれ考えれば済む。
 徳村録幸の所へ祖父からのアンドロイドが送られてきたことも、それ自体はすぐに伝わ
るが、詳しいことは広まっていない。みんな、歳郎が調べるのを待っているのだ。歳郎は
そう思っている。
 久々の大事件だった。なにせ、鮮造のアンドロイドといえば、かなり話題性のある存在
である。それが今になって戻ってきたのだ。これほどの話題は自分が着任してからは初め
てだ。複数の担当者からも、それぞれの町で関心が集まっているという連絡が届いてい
た。一つの町内に留まらない数の人々が今や、自分の記事を待っているのだ。それは繰り
返し味わえる、愉悦的な事実だった。
 髪が風に鷲掴みにされ、揉みしだかれる。歳郎は風下を向くと、上体をかがめた。視界
の端に、隣町を経由した電車の姿が見えた。周囲には他に、誰もいない。真夏の、しかも
真っ昼間の領壁の上は風こそ吹いているもののかなり暑く、わざわざ来ようなどという物
好きは歳郎以外にいない。
 歳郎は領壁の縁にある、背の低い柵の切れ目に近付いた。そこには螺旋階段が設けられ
ている。三年前に付け替えたばかりのそれはまだ錆もせず、刷毛跡の目立つ黒い塗料が所

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々に白い輝きを浮き上がらせている。歳郎は幅の狭い階段をゆっくりと降りていった。
 足下から目を転じるたび、景色が少しずつ高さを増す。もう反対側の領壁は建物の屋根
に遮られて見えない。段々と仕事のことが頭の中へ入り込んでくる。
 おそらく読者も、他の町の担当者も、歳郎がアンドロイドについて書く記事については
予想しているだろう。トキワと録幸へのインタビュー、簡単な詳細、鮮造が町を出たとき
の騒動について書かれた古い記事からの引用。しかし、それで終わるつもりはなかった。
歳郎は誰も予想していない記事を書く気だった。それは何年も前に聞かされ、今まで忘れ
ていた情報のせいだった。今では誰から聞いたものか思い出せない。そのくせ思い出して
みると、なぜそのときの自分が記憶の片隅へ埋もれさせたのか、不思議でならないような
話だ。
「鮮造の造ったアンドロイドのせいで、人が一人死んだ」
誰かの口から一度だけ語られた話。もし本当なら、それが町民に共有されていない情報で
あり続けているのは、妙なことだった。おそらく、語るに躊躇われるような何かがあるの
だろう。
 歳郎はその何かを探り出すつもりでいた。忘れられかけられている真相を探り出し、ネ
ットという揺るぎない保管場所に文字として記録するのだ。それは長く語り継がれる記事
となり、今度こそ町民誰もの共有する一つの体験となるだろう。歴代の担当者を考えて
も、それほどの記事を記した者はそういない。
 しかしその前に、簡単な出来事の流れくらいは報じなければならない。まずは荷物を届
けた郵便配達員からだ。
 記事によって録幸は自分を恨むだろうか。元々鮮造は快く思われていない。しかし録幸
が祖父をどう思っているのかは判断できない。ならば今考えてもしかたがないことだ。材
料に基づかない考えは想像でしかない。だがもし反感を買う相手が録幸だけなら、記事に
しても大したことはないはずだ。小さい頃からの知り合いならではの確信がある。所詮は
数樹の取り巻きでしかないのだ。そして幸いなことに、数樹にさえ気を付ければ、記事を
書くことで他に反感を買いそうな人間はいない。
 階段を降りきった。今や目の前は揺らめく緑の斜面に覆われ、見上げれば空との境界に
クロロベトンの揺らぎない緑が垣間見える。その単調な視覚リズムの反復が慣れ親しんだ
心地よさを感じさせる。歳郎は止めておいた駒輪に乗り込むと、長い坂道を上り始めた。


 常磐がアルゴラボを訪れると、ちょうど玄関から人が出てくるところだった。顔に見覚
えはあるが名前は知らない。誰もが自分を疎ましがって、あまり話し掛けてこないせい
だ。常磐もたいして他人に興味を持って暮らしているわけではない。町内の他の人々があ
れほど他人に興味を持っているのも理解できなかった。
 相手は常磐の顔を認めると、表情を持たないままに会釈して立ち去った。それは、会釈
というよりは顔を少し伏せ、そのまま歩き去ったという方が正しかった。自治会長の厄介
な一人娘には、それくらいしか相手のしようがないのだろう。
 祖父が亡くなったショックから、常磐はなかなか立ち直れなかった。しかし、感情が表
に出にくいせいで、周囲にそれが伝わることはなかった。家族さえ、常磐が家にこもって

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ぼんやりしているのを単に「殺人」ということから来る反応だろうと考え、その裏にある
大切な肉親を失ったことへの哀しみに気付いていなかった。家族だけではない。自分は感
情を殺しているつもりなどないのに、誰一人として常磐の様子がいつもと違うことに気が
付きはしなかった。それでも常磐はなんとか気分を切り替えよう、そう思って数樹に会い
に来たのだった。
 インターホンを押すと数樹の顔が小さなディスプレイに現れる。
「常磐か。上がれよ」
数樹はそれだけ言うと通話を切ってしまった。
 居間に数樹の姿はなかった。しかしすぐに奥から出てくる。手にマグカップを二つ持っ
ていた。一つを常磐に差し出す。中身は麦茶だった。
「今までガンモが来てたんだ。玄関で会わなかったか?」
予想どおり、数樹は常磐の変化に気が付くでもなく言う。
「ガンモ?」
常磐は記憶を探った。確かに聞いた覚えはある。
「ほら、ガンモドキ。だよ。東京の大学で国文学教えてる。夏休みだかで帰省して、わざ
わざ会いに来てくれたんだ」
思い出せなかった。数樹があだ名で呼ぶということは自分とも歳が近いのだろうが、同級
生の名前すらもうあやふやな自分に、思い出せるわけがない。当時から数樹と録幸以外は
個々人の境界さえ定まらない塊にしか見えなかったのだ。
「それよりも今日はどうした?」
「別に。ちょっと来ただけ。他に行く場所なんてないし」
ひょっとして、自分が落ち込んでいるのを察してくれたのだろうか。そんな期待を込めて
常磐は言う。しかし、違うようだった。数樹は常盤の希望をあっさり通り過ぎて口を開
く。
「録幸ん所だってあるだろ」
「そうだけど」
常磐は言葉を濁した。
「ちょっとは積極的になったらどうだ?」
数樹の言葉に、常磐は投げやりな笑みをにじませた。
 常磐はもう何年も録幸へ想いを寄せていた。自分にそれを隠しているつもりはないのだ
が、録幸は気付いていない。ただもうそれは何年ものあいだ、むず痒い圧迫感として常磐
の中に居座っている。常盤自身にもなぜ録幸なのかというはっきりした理由は掴みかねて
いた。だいたい、それを「恋」だと言い始めたのは数樹で、常磐としても他に呼びようが
ないからそれに倣っているだけだった。録幸に対する感情とこれまでに見聞きしてきた恋
愛感情とを比べると、そこには隔たりがあるようだった。「録幸に対する執着」というも
のだけが原因も理由も発展性もなくただ存在している、そんなふうに感じられるのだ。
 普通なら、こうしたことはすぐ町内の噂になる。しかし、常磐の場合は誰もあえて係わ
ろうとしないせいで、知っているのは数樹だけだった。
「未だに恋人が出来たことない人に言われてもね」
録幸という言葉に引っ張られ、常磐は普段の調子で言う。

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「それもそうだな」
数樹は妙に納得した口調で答えると、麦茶を飲んだ。
 いつも常磐は知らない間に他人の怒るようなことを言う。しかし、どこがそうなのかは
指摘されない限り気付けない。指摘されてもなぜそれで怒るのかは解らない。数樹に対し
ても同じようなことは言っているはずなのだが、それで腹を立てられたということはなか
った。録幸でさえ自分を苦手に思っているらしいことは伝わってくるのに。
 面倒見がいいということなのか、それとも寛大なのか。数樹だけがこうして普通に接し
てくれる理由は判然としない。ともあれ、こうやって祖父の死を知らない友人と会話をし
ていると、少しだが感情の調律が取れてくるように感じられた。
「だいたい録幸君は変なアンドロイドに夢中でしょ? 少し前だけどキンカンマートで会
った。あれは数樹君が直したって「ゼロ。ニュース」で読んだよ。余計なお節介ばっかり
なんだから」
祖父周辺で停滞していた意識が別の場所へと流れを変えていく。その行き先は愉快なもの
ではなかったが、愉快さを覚えることなど滅多にない常磐としては気にならなかった。
「まあその、なんだ。録幸がどうしてもって泣きついてきやがってな。爺さんの形見だか
らとか言われちゃ断れねえだろ」
「ふーん。あんなお祖父さんでも形見を大事にしようとか思うんだ?」
軽い調子で言う。実際、常磐には鮮造を悪く言っている気持ちなどなかった。自分ほどで
はなくとも、録幸が祖父を大切に思っていることが意外で、それがそのまま言葉になった
のだった。
「妬いてんのか? トキワに」
「当たり前でしょ。録幸があれを見るときの顔なんか、もう。っていうか、その名前で呼
ばないで」
何かを取りに行くトキワと、それを見送る録幸の顔が思い浮かぶ。妙に嬉しげに、後ろ姿
へ魅入られていた。呻き声が漏れそうなくらいの底冷えする嫉妬が、常磐の精神に芯を通
す。
「だからとっとと告白でも何でもしろって言ったんだよ。何年チャンスがあったと思って
んだよ」
「まさかこんなことになるなんて思わないじゃない。今までは別に言わなくったって困る
ことなかったんだから。そうそう、だからさっき余計なお節介って」
「それは録幸が爺さんの形見だからってだな」
数樹は繰り返した。なぜか数樹は同じことを何度も言う。昔からそうだ。喋り方の癖なの
だろうが、まだるっこしく感じられる。丈夫そうな外見で粗雑な口の利き方をするわりに
少々神経質なのだ。
「そうだ。記事が載ってたってことは歳郎君に会ったんだよね?」
常磐は思いついて尋ねる。途端に今度は数樹が不機嫌そうに腕を組んだ。
「ああ。久し振りに」
「元気にしてるの?」
「たぶんな。相変わらず気取って調子のいいこと言ってやがった。『亡くなられたお祖父
さんの息吹をトキワのプログラムに感じましたか?』だと。気持ち悪い。そのうち恨み買

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って刺されりゃいいんだ」
歳郎の言いそうなことだった。他人に関心の薄い常磐でも、歳郎のことはよく憶えてい
た。やはり親しくはなかったが、妙にロマンチックなことを言うので印象が強いのだ。そ
のくせ自分は想像力なんてないと言っていた。今でもそうなのだろうか。高校を卒業して
からも見掛けることはあるが、話す機会はない。最後に会話をしたのは自分が自治会の事
務に採用されたときのことだ。
「しかも最後の質問が『鮮造さんのことはどう思いますか』だ。どうもこうもあるか。徹
語爺さんと親しかったにしても、名前しか知らねえんだぞ。だからそう言ってやったよ。
したらあいつ妙に嬉しそうでな。頭いいって評判だけど、本当は馬鹿なんじゃねえの
か?」
生理的に嫌っているのは知っていたが、歳郎のことを言う数樹は活き活きと喋る。いつだ
ったかも歳郎の家のパソコンが不調だからと言って呼ばれ、「持ち主に似て薄気味悪いく
らいわけのわからない故障だった」と毒づいていたのを思い出す。
 ぼちぼち喋っていると日が暮れてきた。苦々しく思われる心配のない相手と話せること
など、殺された祖父相手を除けば他にないので、どうしても長居してしまう。
「じゃ、私そろそろ帰る」
言ったときにはもう一九時を回っていた。祖父を失った嘆きそのものは消えなかったが、
その引力はだいぶん軽減していた。
「おう。じゃあな」
数樹は片手を上げる。常磐は立ち上がり、部屋を出ようとした。
「おい」背後から呼び止められる。「録幸が黒河と白河のことどう思ってるか、それとな
く聞いといてやるよ」
常磐は振り返って数樹を見る。
「嬉しいけど、いい。数樹君の世話焼きってだいたい失敗するんだから」
「そんなことねえだろ」
数樹は少し不満げに否定する。しかし思い返せばやはり、自分にとって数樹の世話焼きは
余計なことが多かったように感じられる。どちらが正しいのだろうか。どのみち、止めた
ところで数樹は勝手に動いてしまう。いつもそうなのだ。
「じゃ、聞いてくれるならくれぐれも注意してね」
諦めてそれだけ念を押しておく。
「心配すんなって」
愛想のよさが不安だったが努めて気にしないようにし、常磐は部屋を後にした。


 指先にグラスの露滴が垂れる。録幸はそれを気にせず注がれたウィスキーを飲んだ。氷
はあらかた溶けており、グラスの内側に弱々しく触れるだけだった。妙に酔いが回らな
い。気持ちが張りつめているのを認めざるをえなかった。鷹雄殺しの件が頭の隅にすっか
り着床しているせいだ。
「さすがに一ヶ月も経ちゃ慣れたみてえだな」
数樹が皿の焼きトマトを一つ小皿へ移すと言った。

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「ああ。今じゃ、ちょっとした用事なら二人だけで行かせられる。かえって知り合い増や
して帰って来るぐらいだからな。伸明さんとも初対面じゃないみたいだ。心配損だよ」
言って録幸は数樹と反対の席を見遣った。並んで座った白河黒河が、さらにその隣に座っ
た男と談笑している。笑うたびにくくられた後ろ髪が揺れる。
 男は高村伸明といい、徳村輪舗の近くに住んでいた。金融関係の会社で人働いている。
数樹よりも年上で、二人のことは子供の頃から知っていた。他の客も、少なくとも顔くら
いは知っているというような人間が多い。
「おい、一番奥のテーブルに座ってる二人連れ」
数樹がグラスを持った手で店の奥を指す。そこには五〇代くらいの男と、若い男が座って
いた。若い方は二人へ背中を向ける格好になっており、顔は見えない。
「あの二人が、どうした?」
録幸も視線をそちらへ移す。
「あれ、さんと稲鞍さんの親父じゃねえか」
「え? 稲鞍さんって、牛乳屋の?」
「じゃなくて、その従弟で医者の方」
録幸は町民相関図の片隅で消えかかっていた記憶を掘り起こす。
「えーと、工学医だったっけか。息子もどっかの医大に行ったんだろ」
「何年前の話だよ。もうとっくに研修も終わって」
「こっちの病院に戻ってきたのか」
「うーん、にしては遅すぎる気もすんだよな」
二人の話題はそこから、町内の様々な人間関係に移っていった。中には「ゼロ。ニュー
ス」から仕入れた話題も混ざっている。
 録幸たちが来ているのは「」という名の飲み屋だった。明確な決まりではないのだが、
店主が知り合いという気安さからか、白茅町の住人は何であれ自分が住む場所から一番近
い店へ出入りするようになる。

  L 字型の店内は御影石の床とクロロベトンの壁でできており、天井には天然木の梁が渡

されている。そもそもは古民家だったものを初代の店主が改装したのだ。壁には古い映画
のポスターが何枚も張られており、酔客が誤って剥がした部分もそのままになっている。
「おい、徳録。お前ばっかり独占してないで、この娘今度ウチに貸せよ」
数樹と録幸の会話を遮って、伸明がトキワ越しに言った。
「やめて。わたしのことで喧嘩しないで」
トキワもふざけて言うと、伸明と一緒に笑う。その口調にはもったりとした粘り気があ
る。録幸は朔間に苦笑してみせると数樹に向きなおった。
「お前の爺さんも凄いよな。トキワのヤツ、冗談まで言うんだから」
数樹は口の中の焼きトマトを焼酎のお湯割りで流し込むと、口の端を歪めた。
「そうとも限らねえな」
「どういうことだ?」
「人間に人間の行動や考えを全てプログラムするなんてこたァ無理だ。アンドロイドは
な、自分でも学習してプログラムを組み替えんだよ。それにプログラマがあらかじめ組ん

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だ部分も、相互に干渉し合って思わぬ行動を起こさせたりする。トキワと暮らしてみて、
思うようにいかないことってのがあるだろ?」
「ああ。ワガママだし子供っぽいところもあるし」
チーズのフライにソースを付けながら録幸は答え、フライをかじる。強い重みのある舌触
りとインパクトのあるコク、それに儚い酸味が口内に拡がる。思ったよりも熱かったせい
で録幸は口の中を火傷しそうになった。
「だろ? もちろん人間らしさを出すためにわざとそうしてる部分はある。けどな。人間
に都合よく作った二つの部分が影響しあって、逆に都合の悪い行動を取らせることだって
ある」
冷ますために歯の先で口の中のチーズフライを転がしながら、録幸は目でうなずく。
「たとえば、だ。持ち主の健康維持を心掛けろってな設定をする。で、持ち主の望みには
極力従えってな設定もあるとする。な?」数樹は手元にあった空のコップに水を注いで録
幸に渡した。「どちらも持ち主にとってはいいことだ。ところが持ち主が肝臓を悪くし
た。それでも酒を飲ませろと言う。まあ、普通アンドロイドの行動にゃ細かい優先順位が
あるもんだが、ここではそれは置いておく。ともあれ、アンドロイドは悩むわけだ。二つ
の設定のどっちを優先するかで。両方の優先順位が同じだった場合、アンドロイドは両方
を実践しようとする。そのためには持ち主の望みを変えなきゃならねえ。しかも、健康が
損なわれない方向にだ。かくしてアンドロイドは持ち主に対して酒がどんだけ悪い物かっ
てのを言って聞かせるようになる。実際はもっと複雑なんだが、まあそんなもんだ」
「じゃあ、あいつの言動で頭が痛む何割かはお前の爺さん、あ、鮮造爺さんの要望もある
か。とにかく、そのせいってわけか」
「それと五〇年分の経験も。それだけありゃ、元とはだいぶん変わったところもあんだ
ろ」
「プログラム、か。結局、あれはどうなったんだ?」
「ああ、意味不明の部分な」
「それと、食い違うとかなんとか」
縁の乾きかけたおしぼりで数樹は鼻筋を拭う。
「だめだ。プログラムのコピーをあれこれ調べてみたんだが、全く解らん。記憶が消され
てる件も手掛かりなしだ。お前の方は」
「何も。爺さんの記録とか、全部親父が消したしな。ま、プログラムのことはしょうがな
いだろ。俺たち人工知能の専門家じゃないんだから」
「あれはそういう問題じゃない」
「はい、焼き茄子」
突然二人の前に皿が置かれる。
「あれ。頼んだっけ?」
録幸は皿を数樹の前に押しやりながら言う。
「わたしが頼んだんだよ」
白河が振り返る。
「お前、茄子は食うんだな?」
「は? 食べられるわけないでしょ」

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トキワの即答に、録幸は一瞬言葉を詰まらせる。
「あのな。自分が食わない物を頼むな」
「人を箸で指すのはよくないよ」
トキワは当惑の表情を浮かべる。録幸はゆっくりと手を下ろし、箸をカウンターに置い
た。箸置きが高鳴る。
「なあ、数樹。どういう都合のよさが絡めばああなるんだ?」
数樹は笑って首をかしげると、焼き茄子にしょうゆをかけた。しょうゆは削り節をうなだ
れさせ、紺紫の皮を滑り落ちて皿の底に溜まる。箸でつまんだ茄子を口にすると、数樹は
満足そうな顔をした。
「たぶん俺の、焼き茄子が食べたいってな都合だな」
「そうか。気が利くな」
あからさまに投げやりな口調だった。
「ところで、アレはどうなんだ?」
数樹は声を落とした。
「あれって?」
「トキワの体、人間そっくりだよな。そりゃもう毎晩……」
「あのなあ。もし俺が黒河や白河と寝てたとして、もし爺さんたちもあいつらにそういう
相手をさせてたとしたら、どうだ?」
途端に数樹はへなだれる。
「さすがに自分の祖父と兄弟ってのは気まずいな」
「だろ?」
「残念だったな」
数樹へ録幸が反論しようとしたとき、微かに湯気のゆらめく皿が突き出された。
「はい、タンシチュー」
「だから勝手に頼むなって言ってんだろ」
思わず椅子から腰を浮かせると、録幸は怒鳴った。

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第四章「ひるがえり」

 ビーラスカは周囲の服屋やパン屋など共に、合間に民家を挟みながらも緩やかなショッ
ピングモールを形成している。どれも気のない建物ばかりで、窓では大昔のセロハンテー
プの残骸が黄変している。通りの至る所で数人ずつのグループが立ち話に興じていた。録
幸たちの駒輪が通ると、誰もが目でそれを追いかけた。
 駒輪を駐車場に止めても、録幸はすぐには店内へ入らなかった。駒輪の横へ立ったま
ま、ビーラスカの外観を眺める。
 ビーラスカそのものは録幸が生まれる前からそこに建っていた。広い三階建ての建物は
外壁に、年月のせいで落としようもない汚れや疲弊が見て取れる。壁面に刻まれた装飾的
な紋様や魚のレリーフなども随分と雨風に侵され、その輪郭を曖昧にしている。木目調の
模様もどことなくぼやけて見えた。
「緊張してるの?」
なかなか中へ入ろうとしない録幸へトキワが言う。平板な曇天を透過した光は妙にまぶし
く、トキワの顔を淡くしている。録幸は束の間、その顔に目を留める。
「いや、前は通るけど近くで見るのは久し振りでさ。こうして見ると立派なんだよな」
録幸はそう言うと歩き出した。
 ビーラスカは書店だった。とはいえ、昔のように本を売っているわけではない。活字コ
ンテンツもネット販売が中心となった今、書店といえば出版社系コンテンツメーカーのシ
ョールームといった方が正しい。ネット販売の場合かつてと違い、活字コンテンツを気の
済むまで立ち読みするということが出来ない。物にもよるが、どこでも好きなページを全
体の十分の一から五分の一までしか閲覧できないのだ。もちろん、それで充分用が足りる
ことも多いが、中にはもう少し検討したいという顧客もいる。
 そんな要望に応えるため、かつて出版社だったコンテンツメーカーは共同出資のもと、
売り上げが激減していた書店を次々と買い上げたのだった。
 書店では、かつてそうだったようにコンテンツを好きなだけ閲覧することが出来る。ま
た、有料だが会員になればネット上の購入データと連動して、よりきめの細かい商品紹介
も受けられる。店員が顧客の好みや購入履歴を参考に、その人が興味を持ちそうな書籍を
推薦するのだ。ネット上でもそうしたサービスは受けられるが、やはり何年も接していれ
ば書店員の方がその人により合った商品を見付けられるようになる。
 映像にせよ活字にせよ、コンテンツの数が激増した現在では膨大な刊行リストから自分
好みの作品を選ぶのは時間もかかり、難しい。録幸が普段ディスプレイシートで視聴する
動画コンテンツでさえ、 NAL が録幸の好みや白茅町での流行を基に組んだ番組セットか
ら選んでいるだけなのだ。旧出版社系のコンテンツ限定とはいえ、そうした問題を補うの
が書店の役割だった。
 壁に掛けられたポスターなどは入れ替わっているが、ビーラスカの店内は録幸が最後に
訪れたときから変化していないようだった。黒ずんだ木製の床板に高い天井。広い店内に
は胡弓の音が流れ、座り心地の良さそうな椅子と机が適度な間隔を取って置かれており、
壁際には筒状に巻いた電皮紙を収納するスタンドが一面に並んでいる。電皮紙は丁度タイ
トルが手前に来るよう整頓されていた。客はその中から興味のあるものを抜き取って中を

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見るのだ。もちろん、それはそれぞれ店員の推薦というだけであり、頼めば他のコンテン
ツを見ることも可能だった。
 店には、録幸が想像していた以上の客がいた。椅子に座って電皮紙を広げる者や談笑す
る者、それは店というよりネット上にある会員制のサロンに近い。
 宮貴らしき人物は女性客の隣で電皮紙を広げ、何やら喋っている。電皮紙は灰色の薄手
のシートと、その一辺に付いた棒状の装置からなる。棒状の部分にコンテンツが記録され
ており、活字コンテンツの場合一ページごとにシートへ表示されるようになっている。ペ
ージ送りなどもその装置で行われ、コンテンツ自体は何度でも入れ替えることが可能だっ
た。シートの手触りはなめらかで適度な堅さがあり、電皮紙という名前も羊皮紙という、
羊の皮から作られる大昔の紙の一種にちなんで付けられたものだった。電気の皮とは妙な
名前だが、見た目と手触りが似ているのだという。遠操盤でも同じものを読むことは出来
るが、表示しているだけでバッテリを使用するのが難点だった。その点、電皮紙がバッテ
リを使うのはページを読み込む際だけで、表示しているあいだは電力を消費しない。また
遠操盤とは違って大きなサイズのものであっても、棒状の部分に巻いてしまえば小さな筒
になるので携帯しやすかった。駒輪メーカーの営業が新製品の説明に来るときも、カタロ
グを電皮紙へ記録してくることが多かった。
 録幸は宮貴の正面にある椅子へ座った。トキワはその左右後ろへ立つ。トキワの体重で
座ると、椅子が重さに壊れるかもしれないからだ。トキワに気付いた客たちが数人、録幸
の方を見る。しかし口伝てに、或いは「ゼロ。ニュース」によってアンドロイドを連れた
駒輪屋のことは今や誰でも知っているのだ。おかげであまり長く注目されるということは
なかった。ただ一人、大柄な若い女性が録幸に向かって微笑みかけ、軽く手を振った。ど
ことなく見覚えはあるものの、具体的に誰とは判らない。徳村輪舗の客でもないような気
がする。
 会釈だけでもしておこうと思ったとき、後ろが動く気配を感じた。振り返るとトキワが
女性に手を振り返していた。
「知り合いか?」
「うん。十日前に郵便局に行ったでしょ? その帰りに」
見知らぬ人間に話しかけられるのはあまりいいことではないが、町内ならば安全だろう。
録幸はそうか、とだけ言うと宮貴に視線を戻した。
 本当に宮貴が町内の分裂と権力の拡大を狙っているようには、録幸には見えなかった。
中肉中背で短く刈り込んだ黒髪は丁寧に立たせてある。顔立ちも、頬骨が若干高い以外、
当たり障りのないものだ。ダブルボタンの黒いスーツを着たその姿には上品さがあった。
 二人の会話がやんだ。女性客が向いに座る録幸たちに気付いたのだ。宮貴もそちらを見
ると、僅かにうなずく。
 それが会話の終わる切っ掛けになったらしい。女が何か言うと、宮貴が深く頭を下げ
た。どうやら薦めていた商品が売れたらしい。宮貴はスーツの懐から小さなカードリーダ
ーを取り出すと、客のカードを読みとる。客は小さなマットへ親指を押しつけて指紋を読
み取らせると立ち上がり、宮貴に見送られて店を出て行った。
 ドアが閉まると宮貴は笑顔をやや薄めて録幸の方へやって来た。
「初めまして。咲原宮貴です。ここではなんですから、上へ」

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宮貴の先導で録幸たちは店の奥にある階段を上った。木造の手すりは長年人々が撫でたこ
とによる自然な艶を放っている。二階の踊り場に出ると三階への階段があるのだが、そこ
には「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた木札が立てられている。一同はその札を越え
る。
 三階の踊り場を上がり切ってすぐの所にドアがあった。開けると中は広い靴脱ぎになっ
ていた。
「どうぞ、上がってください」
宮貴は先に靴を脱ぎ、録幸たちを促す。
 録幸とトキワが靴を脱いで上がると、宮貴は二人を居間へ通した。古典趣味な店舗とは
違い、ごく普通の部屋だ。
 トキワが床へ座ろうとすると驚いた宮貴だったが、理由を聞くと納得したようだった。
「話は自治会の方から聞きました。鷹志さんのお父さんが、その、殺害されたとかで」階
下へ声が漏れるのを恐れるように、宮貴は声を落とした。「徳村さんが道理屋を頼まれた
というのは、やはりそこの」
録幸はうなずくと黒河白河の紹介をし、祖父からの経緯を話そうとした。しかし宮貴はそ
れを丁寧に断った。「ゼロ。ニュース」で読んだからというのが理由だった。
「で、私にも町内の顔役として協力して欲しい、と。実際のところ、疑われてるんでしょ
うか」
急に踏み込まれ、録幸は返答に窮した。
「心当たりがあるの?」
白河が言う。
「どうも最近、役員の方々が冷たいんですよ。移民が増えて私の影響力が強まってるのを
嫌ってるんでしょうね。こっちは生駒さん、あ、先代の世話役ですね、その生駒さんに頼
まれて世話役やってるだけで、報酬があるでなし。忙しくなるばっかりでいいことなんて
ありませんよ。だいたい、もし私が町をどうこうしようと思ってるとして、先代会長を殺
すなんて意味ないでしょう」
喋るうちに口元へ染みついた笑みは消え、宮貴の顔付きは暗いものになる。
「今の会長だとあからさまだし、前会長でも町内を混乱させるには充分、とも考えられる
んじゃないですか?」
録幸の言葉に、宮貴は不快さを表したりはしなかった。
「私は町内が不穏になることなんて望んでませんよ。そうなったら読書どころじゃない。
それでも会社から給料は出るでしょうが、長く続けばそれも減る。悪くすればクビか降格
か。役員の方たちも権力はあるんでしょうが、それで儲かってるわけじゃないんでしょ
う? 私が代わりに町内を牛耳ったところで得するわけないじゃないですか。本当にも
う、勘弁してください。事実じゃなくても私が犯人だなんて噂が立ったら、それだけで困
るんですから」
録幸は次に何を尋ねるべきか迷った。前もって考えていた質問はあるのだが、どれも宮貴
の言葉にその答えが含まれているように思えるものばかりだった。
「疑わしいと言えば、役員も疑わしい」
「それは、どういう?」

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宮貴はすぐには答えず、トキワを見ている。やがて、決心したらしい。
「内密にお願いしますよ。移民の増加率が目に見えて増えてきた頃からどうも寄り合いに
限らず、常民の人が移民に対して冷たいようなんです。具体的にどうこうってのはないん
ですけど」
「勘違いってこともあるでしょう」
「いや、たぶん違いますね。同じぐらいの頃から、常民と上手く馴染めないっていう相談
が増えてるんです。徳村さんはあまり移民と接する機会は」
「ありません」
答えるとき僅かだが、自分が守旧的であるかのような居心地の悪さを感じた。
「そうですか。とにかくまあ、増えてるんですよ。学校の保護者会で移民の親が常民の親
の輪に加わりづらいとか。そんなのは必ずあるものなんですけど、数が妙に多い。それで
データを作ってみたんです。すると移民は最初の頃、自治会の役員やら、役員でなくとも
自治会の活動に熱心な常民と接する機会が多いんです。示し合わせたわけじゃないんでし
ょうけど、何となくそうした人たちの態度が周囲に伝染しているんじゃないかという。お
かげでこのところ移民は移民で固まるようになっちゃって。あんまりいい傾向じゃないで
すよ。それこそいつか常民とぶつかりかねない。けれどやめろなんて命令する権利はあり
ませんし。それだけで頭が痛いのに、間違っても町内をどうこうしようなんて考えませ
ん」
一気にそこまで言うと、宮貴の体から目に見えて力が抜けた。
 店の音楽が小さく聞こえてくる。たゆたうような楽曲には妙に空々しい雰囲気があっ
た。
「最後に、あなたはどういう理由で白茅町へ?」
「異動ですよ。店長の辞令でね。私を選んだ理由は本部の人事にでも聞いてください」
「そうですか。どうもありがとうございます」
録幸は言うと立ち上がった。トキワも立つ。
「また、何かあったら来るかもしれません」
「いつでも、とは言えませんが。どうぞ。もちろん、お客様としてでも歓迎しますよ」
宮貴の口にはもう、感じのよい笑みが戻っていた。

 大人用を三台連結した駒輪は目立つ。店の並ぶ通りを走っていると、知り合い以外のド
ライバーとも目が合った。いつの間にか空は晴れており、短い夏の空が高々く展開してい
る。
「どうだった? 役に立ちそうか? ほとんど喋らなかったけど」
「うん? 役に、立ったね。実際に会ったんだから。うん。録幸はどう?」
「そうだなあ。あんまり犯人って感じじゃなかったな。役員ほど権力欲があるみたいでも
なかったし、それどころじゃなさそうだったし」
自分の喋っている内容に、不安が膨張する。要するに、たいしたことは何も判っていない
のだ。
「でもさ、妙によく喋ったよね。内容も通ってたし。前から言うことを準備してたみたい
な。まあ、役員から連絡が来たら当然何を喋ろうか考えるだろうけど。困ってるみたいっ

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て言うのはあるにしたって、それも演技かも。頭の回転はやそうだったから、困ってるこ
と自体が自分の疑いを避けるために仕組まれたことかもしれないね」
相変わらず車載スピーカーから聞こえるトキワの言葉はどこで入れ替わっているのかも判
らない。
「なるほど。黒河の言うこともありそうだな」
わざと黒河の名前を入れてみる。返事がない。
「黒河」
もう一度、名前だけ呼んでみる。
「トキワだって。それに、最後に喋ってたのは白河」
不機嫌そうに返事があった。
「悪い。スピーカー越しだとどっちが喋ってるのか判らなくって。でも、どっちだって一
緒なんだろ?」
「無駄に私を分けないで。呼び分けるなら間違えないで。負荷が増えるんだから」
変に堅い声で、トキワは言った。しかしその言葉とは裏腹に、声は一つだけだった。何と
はなしに気圧されるものを感じて、録幸は話題を変えた。
「内部の犯行だったらどうだ?」
「役員が犯人ってこと?」
「ああ。それだと怪しいのは岸蜜さんだな。次期会長を狙ってるし、そのくせ鷹志さんと
折り合いが悪い。気見香さんともな。鷹雄さんを殺せば自治会はそれを隠す。そのことを
匿名でリークすりゃ会長は辞めざるを得ない。あ、でも今んとこそんなことにはなってな
いのか」
「そうだね。けど岸蜜さんが犯人で事件のことを外部に漏らさないのは、どうせどこかか
ら漏れる確信があるのか、自分の犯行がばれない自信があるってことになるかな。録幸と
かが諦めてからでも遅くはないんだし。どうする? 方針変える?」
「うーん。それもなあ。それこそ宮貴さんの狙いどおりかもしれない」
道幅が少し広くなる。対向車線に、駅からの荷物を届ける駒輪が止まっていた。大きめの
カーゴを幾つも繋げている。どれも狭い路地を抜ける際にこすったりぶつけたりして、本
来の直線的な印象を失っていた。その横を通り抜けようとしている駒輪のために道幅を譲
ろうと、録幸は端へ寄った。すれ違いざまにクラクションを鳴らして挨拶をされたが、誰
が運転していたのかは見逃してしまった。駒輪の種類から、数人の顔が浮かぶ。


 外では肌に痛いような乾いた強風が吹いているのだろうか。数樹は窓の外へ目を向け
た。
「で、そのままここへ寄ったってわけか」
録幸へ向き直って言うのと、壁のシートディスプレイから宮貴の顔が消えるのは同時だっ
た。ディスプレイの脇に座った白河の後頭部からはケーブルが伸び、壁際のジャックに刺
さっている。無線で映像を直接パソコンへ送ることもできるのだが、どうもそれが上手く
機能しなかったのだ。
「これ、外していい?」

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白河が後ろ髪を掻き上げ、尋ねる。白らかなうなじが顕わになる。
「ああ。ご苦労さん」
数樹が言うと、白河はケーブルを無造作に抜き取った。録幸がその仕草に見とれている。
そして常磐はそんな録幸に向かって不満げな視線を投げかけていた。常磐が来ていたとこ
ろへ録幸がやって来たのだ。
 録幸に会えたというのに常磐の機嫌は悪かった。原因ははっきりしている。トキワが臆
面もなく録幸にまとわりつくせいだ。それを録幸も煩わしそうに、そのくせどこかしら嬉
しげに相手するのだからなおさら面白くはない。だが、それで帰ってしまわないのが常磐
らしい。問題や困難、不愉快な状況に対しては自分か相手が潰れるまで耐えようとするの
だ。決して対象を打破しようなどとはしない。
「それにしても役に立たない聞き取り」
常磐がトキワへ視線を固定して言う。意図的に言っているせいか、無自覚に言っていると
きよりも攻撃力がない。
「そんなことないよ。実際に会ったから」
「宮貴さんの感じが掴めたんじゃない」
「事件の話も録幸君と宮貴さんがしてたけど、あれだけなんでしょ? それに、この間ウ
チに来たときは自分がいるから任せておくようにって見栄張ったらしいけど、実際に喋っ
てたのはほとんど録幸君だけじゃない」
「いちおう俺が道理屋の役なんだから、その方がやりやすいんだよ」
録幸が口を挟む。今や常磐が何を言おうとたいては軽く受け流すというのに、珍しい行動
だった。
「だけどさ、録幸君が主に喋ってたら、そこのアンドロイドの半世紀の経験だかが活かせ
ないんじゃないの? 事前に指示を出されてるみたいでもないし。付き添いなんだからも
っと楽に横で見ててもいいと思うんだけど」
常磐にしては精一杯に相手を気遣う発言が出てくる。しかしそれも録幸には伝わらないだ
ろう。
 こりゃ時間の問題だな。数樹は三人の遣り取りを眺めつつそんなことを思う。遠からず
録幸がトキワに惹かれていることを自覚し、厄介なことになるのを確信したのだ。もちろ
ん、今の録幸にそんなつもりはないだろう。しかし数樹には録幸のことが本人よりもよく
判るという自信があった。なにしろ録幸が生まれたときからのことを知っているのだ。
 常磐にしても同様だ。トキワという、恋敵としか本人には思えそうもない同名の相手が
登場したことで、遅かれ早かれその忍耐力は潰されるだろう。これまでは「自分でも理由
がはっきりしない」などと言って告白を避けていたが、そうもいかなくなる。
「最初はどうなることかと思ったが、まあまあ順調な出だしなんじゃねえか」
数樹は会話を無難にまとめるべく言った。
「相変わらず何をどうしたらいいかさっぱりだけどな」
録幸は言いながら伸びをする。ひどく緊張感に欠ける態度だ。常磐たちの反目になるべく
関わりたくないという気持ちが丸見えだった。
「だからそれは、そこのに任せてればいいんだって」
不機嫌そうに常磐は言う。

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「傍観者には意見されたくないな」
トキワも棘のある声で応えた。数樹は小さくため息を吐く。
 最初に録幸が事情を話しに来たのは、役員に呼び出された翌日のことだった。録幸は道
理屋がどういう手順で仕事をするのか尋ねに来たのだったが、あいにくその点に関しては
数樹も知らなかった。徹語もそうした部分については語ろうとしなかったのだ。
 本来、道理屋というのは師弟制度なのだ。いきなりアンドロイドを買える人間などそう
はいないため、最初は経験のある道理屋の元で手伝いをしながら仕事を覚えるのである。
 しかし、目の前に座っている弟分に弟子入りしている暇はない。だいいち、今回の件に
関して期待されているのはトキワであって、録幸ではないのだ。
「確かに見ためよりゃ如才ないみたいだな」
数樹は無理矢理話題を先に進める。
「だろ。だいたいよそから来た人間だし、よく判らないんだよな。ここで育った人間な
ら、話したことなくてもどんなヤツかだいたい判るのに」
録幸が少し身を乗りだす。黒地に白い小さな菱形模様がプリントされたシャツの胸ポケッ
トが膨らみ、中の遠操盤が覗く。夏場の録幸は柄が違うだけで、いつも似たようなシャツ
を着ていた。どれもこれも胸ポケットだけがよれている。
「しかたねえよ。宮貴の方にもそれなりの言い分があるってことが判っただけだが、最初
はそんなもんだ」
言って真面目な顔をしてうなずいてみたものの、その言葉にたいした意味がないのは判っ
ていた。しかし、今は褒めることで録幸にやる気を起こさせるのが重要だった。それに、
放っておけば常磐が延々とトキワに絡む。
「それで、次はどうすんだ?」
「前の世話役に会ってみるさ。もう気美香さんには連絡した」
「そうだな。それがいい」
「なあそれで、もし犯人が常民の中にいたら、俺はどうなるんだ?」
ふと、という感じで切り出したつもりなのだろうが、話の唐突さからしてそれが録幸にと
って大きな気がかりなのは明らかだった。最初からあった不安だろうが、宮貴に会って余
計に膨らんだのだろう。
「道理屋がいつもいつも依頼主に都合のいい結果を出すわけじゃねえよ。そんなことぐら
い役員たちも判ってるだろうさ。なあ」
数樹は常磐を見る。
「うん。別に犯罪者なら警察に捕まえさせればいいだけでしょ」
白河黒河もうなずいた。首の力を抜いた、というふうな動きだったが、両方の動きはそれ
ぞれ微妙に異なる。やっぱり、よく出来てるじゃねェか。数樹はトキワの動きに感心す
る。仕組みとしては難しくない。両方を動かす際に、微妙に力の入れ具合を変えて指示す
ればいいだけだ。そして、それは無駄な要素でもあった。黒河白河の動きを基本的に同期
させておけば、別々に動かす為の計算をする必要はなくなる。もちろん通常、そんなこと
はたいした負荷ではない。しかし、その無駄を巧みに演出させることが人間へ与える印象
は大きい。やりすぎたり、数値の割り振り方が拙いと却って嘘臭くなるが、徹語の設計は
絶妙なバランスを保っていた。二人の人間が同じ仕草をしようとして、どうしても生まれ

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る類の差異がそこにはあった。
「でも、普通の道理屋ってのはそうなってもよその町に行くだけだろ? 俺は他に行く所
なんてないんだぞ」
「そのときはそのとき。わたしと旅しながら道理屋すればいいじゃない」
その言葉に常磐の全身が怒気に強張る。とはいえ、部分部分へ時間差をおいて現れるうえ
に変化は始まると同時に消えていくので、注視していないと気付かない。
「やっぱり、そんなアンドロイドとはなるべく無関係でいられるようにした方がいいんじ
ゃない? 録幸君をここから連れ出そうとして、わざと調査を失敗させるかもしれない
し」
「いや、いくらなんでもそれはないだろ」
「そうそう。そんな陰湿なこと考えないよ。常盤さんじゃないんだから」トキワの巧みに
調整されたユニゾンが広がる。「大丈夫だって。もし犯人が役員でも、録幸を責める人な
んていないよ。頼まれたときのことも全部わたしが握ってるんだから。あの晩の遣り取り
が公表されるだけで、それこそ町内大騒ぎ。ね?」
「どうだか。それって逆に黙秘の不履行で訴えられるんじゃないの? 私ならそんな契約
ないんだし、録幸君をかばえると思う」
釈然としないふうだったが、録幸は常磐とトキワの言葉にすこし落ち着いたようだった。
その他愛なさに数樹は情けなくなる。
 二人の会話を眺めながら、数樹はトキワに対する絶えることない疑問の中に新しい項目
を加えた。いったい、トキワの気遣いはどこから来るのだろうか。
 録幸は気にしていないようだったが、トキワのプログラムにある意味不明の箇所や、部
分の総計と全体量とのギャップを埋める箇所の存在は未だに数樹を落ち着かなくさせた。
祖父ほどの優秀なプログラマが無意味なことをするとは思えず、そこには確かに何かがあ
るはずだった。その何かさえ判れば、トキワに関する他の疑問は全て解けるようにも思わ
れた。
 映画やコミックで描かれるのとは違い、現実のアンドロイドは人間の感情の機微に疎
い。喜びや悲しみを模したり、人間の感情の動きを理解しようと試みはするが、特に後者
に関しては今もって成功率は低い。
 どうすればそんなことが可能なのか。その秘密がプログラムの不可解な部分に隠されて
いるはずだった。それが解析できれば大発見どころではない。巨額の富にもなるだろう
し、大袈裟ではなく祖父共々歴史に名を残すことにもなるはずだ。しかしそれは数樹にと
って付け足しでしかなかった。それよりも単純に、知りたいというそのことだけが頭には
あった。
 トキワに関して、録幸には黙っていることがあった。トキワのプログラムを複製したも
のが数樹のパソコンには保存されているのだ。もちろん、調査のためである。しかし、そ
れはこのところ放置されたままとなっている。全く作動しないのだ。最初、複製から数樹
は意味のないように見える部分を全て消してみた。それが機能しなかったのは予想どおり
だったのだが、結局変更を加えなかった方の複製も作動しなかったのだ。コピーガードら
しきものがなかったのは確認済みだし、複製したときに元データとの比較チェックも行わ
せて異常なしの報告を受けたにもかかわらず。

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 色々と試してみたのだが、どうも黒河白河というハードがなければ作動しないようにな
っているらしい。そうした仕組みを思わせる部分は見あたらなかったが、数樹に思いつけ
る限りではその可能性しか残っていなかった。
「数樹、なあ、おい」
録幸の声で数樹は我に返った。
「ん、ああ。すまない」数樹は苦笑した。「また、何かあったら来い」
「そうするよ」
「じゃ、またな」
「私も帰らないと」
常磐も立つ。三人は立ち上がると部屋を出て行った。足音が遠ざかり、ドアの閉められる
音が響く。いつもより力が込もっていた。
――わけがわからない。気が付いたら、道理屋だったんだよ。
徹語の言葉が蘇る。そろそろ頃合いだろう。数樹は前もって聞いておいたアドレスにメー
ルを送るため、遠操盤を手に取った。


 古いエアコンは内に抱えた、廃棄へと向かう緩やかな歪みのせいだろう。可動音がうる
さかった。外は既に日暮れており、薄い西日が畳の上に流れ込んでいる。録幸は胃の痛み
を大切なもののように抱え込んで、座っていた。
 畳敷きの部屋には、前回呼ばれたときの自治会役員に三人が加わっていた。常磐、道理
屋、アンドロイド。道理屋はと名乗った、小柄で痩せた年配の男だ。白い半袖のカッター
シャツに黒いズボンを履いている。白く柔らかな髪は短く刈り整えられ、やや細長い顔
は、若い頃に男前だっただろうことを窺わせる。覇介は録幸が入室すると、妙に輝きの強
い双眸を向けてきた。
 覇介が連れているアンドロイドは若い男の姿をしており、エセルと名乗った。こちらは
長袖のスーツを着て、ネクタイまでしている。灰色の髪を持ち、それこそ彫刻のような整
いすぎた顔立ちをしている。口元には穏やかな笑みが宿っていた。
 部屋の中は緊迫した雰囲気だった。
「勝手にそういうことされちゃ困るんだよ。常磐ちゃんも意地張るような子供じゃないだ
ろう」
録幸たちを気にした様子もなく、岸蜜が半ば目を閉じながら言った。
「もう道理屋は雇ったんだ。いまさら別の道理屋なんて。会長も何か言ってくださいよ」
岸蜜の視線が鷹志に助けを求める。しかし鷹志は曖昧な声を漏らすだけだった。鷹志が常
磐に対して酷く甘いのは誰もが知っていた。普段は会長の数少ない欠点の一つだと思って
黙認しているが、こんなときはそれが苛立たしい。
「だいいち、道理屋が動き回ったら何か起こってるってすぐに知れてしまうから、という
ことだったはずです」
気美香も鷹志へ言った。しかし、それに答えたのは覇介だった。
「ああ、なるほど。ただ、その点については心配なく。呼ばれなくても道理屋が来ること
はあるんですよ。あれは待ってるだけだと仕事にならないというだけではなく、こうした

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ときのカモフラージュのためでもある。ここだとそういった道理屋はあまり来ないでしょ
うが。とかくこうした町は調和を重んじるので、大都市に比べて大きな依頼は少ないです
からね。でもこれくらいの町でも小さな揉め事くらいはあるでしょう。それを受けてれば
問題ありません」
どうということもなにのに、不思議と耳に残る声だった。
「そうです。だから、その点に関しては心配無用ですよ、お嬢さん」
エセルもうなずくと、狂いなく並んだ歯を見せて笑った。灰色の前髪が額に揺れる。お嬢
さん、という時代錯誤な言葉に、気見香の口元が引きつる。
「他に何か問題でも?」
「これは極めて町政に深く関わる問題です。ですから、なるべく町内の人間関係に明るい
者の方がいい。あなたの方がキャリアはあるでしょうが、ここにいる徳村さんほど町内の
事情に詳しくはないでしょう」
 気見香は平然と虚言を述べた。確かに、よそから来た人間を不審者扱いするのはいくら
なんでも失礼すぎる。それに、町長の娘が呼んだ人物を、理由も言わずに帰らせるわけに
はいかないのだろう。ただ、常磐は自治会の役員とも関係が悪い。それは父親の溺愛のせ
いだけではなく、常磐のあの、悪意はないが害のある物言いのせいもある。役員たちが覇
介に乗り換えようとしない理由のひとつに、彼を呼んだのが常磐である、という点もある
のは確実だった。
 とはいえ、これは録幸にとってチャンスだった。うまくすれば本職の道理屋へ仕事を譲
り、自分は平穏な立場へ戻れるかもしれないのだ。
「どのみち、私たちはもう契約しちゃったから、どっちでもいいけど」
録幸の考えを先回りするように、カハクが言う。
「なに?」
驚いたのは録幸だけだった。
「お前、いつのまに」
「事務処理はアンドロイドの仕事」
「依頼された次の日に、メールで契約書を送ったんだよ」
「だったら言えよ」
「言わなくても知ってると思ってたから」
録幸とトキワの会話を聞いていた覇介が、目を大きく開いた。白目の部分が本当に白い。
「ひょっとして、本物か」
「当たり前でしょ」
「久し振りだね」
トキワは覇介に手を振った。
この会話には役員たちも驚いた。次いでやるせない空気が漂う。普通なら元町民の知り合
いというのは信頼感を増すものである。ところがその相手が「出奔者」ともなると、話は
違ってくる。
「知り合いなのか?」
録幸が代表して尋ねる。
「うん。何回か同じ町で一緒になっただけだけどね」

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「どこの悪趣味なヤツがトキワを真似たかと思ったが」
「録幸は鮮造さんの孫なんだよ」
「ああ、そういえば鮮造さんも徳村だったな」
急に覇介は昔を思い出す目つきになり、録幸へ向けていた視線も少し和らいだものに変わ
った。
「実を言うと、役員の人たちが認める認めないは関係なくって」別に覇介と録幸たちの会
話を黙って聞いている必要もないと判断したのだろう。常磐が言う。「もうこの人は私が
雇ったの。ほら、役員会だと色々と遅いでしょう」
「お前、またそんな勝手なことを」
さすがに鷹志が言う。娘のために何百回も寄せられた眉根が、また寄る。
「私の稼いだお金なんだから。それに、身内を殺した犯人を見付けて欲しいって思うのは
変じゃないでしょう?」
「だから、それが解らないなぁ。常磐ちゃんこそ録幸君たちに不満があるの?」
恵通は他の役員に比べ、落ち着いた声だった。
「ええ。だって録幸君なんて」
短い一言だったが、それで充分に言い尽くされていた。要するに、録幸ごときに祖父殺害
の真相を任せたくはない、ということなのだ。特に常磐は録幸と歳が同じせいで、子供の
時から録幸の失敗をあれこれ見聞きしているせいで、なおさらなのだろう。
 しかし常磐の言葉よりも録幸にとってショックだったのは、役員たちが黙ってしまった
ことだった。
「徳村輪舗の店主としては信用するけど、録幸君自身はねぇ」
常磐はさらに追い打ちをかける。
「でも、一つの事件に道理屋が二人なんて聞いたことも」
「いや、珍しいけれど皆無ではありません」覇介は恵通の言葉を遮った。「未だに、道理
屋が雇われた方へ有利に働くと勘違いする人はいるものです」
「とにかく、我々は徳村さんにこのままお願いする。常磐の方は遺族という立場から安宅
さんにお願いする。しばらくそれで様子を見よう」
鷹志の発言に表向き反発する役員はいなかった。その代わり、はっきりと投げやりな雰囲
気が照射される。録幸はその雰囲気に、自分を雇ったことへの後悔が含まれているように
感じられた。
「よし、じゃあ覇介さんとは敵かぁ。録幸、負けないようにがんばろうね」
元気よくトキワは言った。
「え? あの、協力とかは」
おずおずと録幸は質問する。祖父の弟子だったとはいえ、やはり見知らぬ土地から来た人
間は苦手なのだ。
「するわけないだろう。道理屋の報酬は成功報酬。俺かお前かどちらかだ。そんなことも
知らないのか」
「覇介さんの言うとおり。道理屋の世界は厳しいんだよ」
トキワが賛同する。満面の笑みだ。録幸は目眩を覚えたが、どうにか「がんばります」と
言った。それは正式に道理屋を引き受ける宣言となる。そのことに録幸が気付くよりも、

- 65 -
トキワの聴覚入力と言語処理、反応動作は速かった。
 歓声を上げる黒河白河に同時に抱きつかれ、録幸は腰椎を脱臼しかけた。


 ショールームの真ん中で録幸は肩を大きく回し、息を吐いた。大人用の駒輪が一台売れ
た。仕入れたばかりのカンタータだった。今は店内の一番いい場所、つまりは駒輪が作る
壁の合間、細い通り道に面した入り口付近に置かれている。商談が成立するたびに感じる
伸びやかな虚脱感に浸っていると、奥から誰かが出てきた。
「お疲れさま」
トキワだった。黒河がお盆を持っている。お盆と言ってもそれはトキワに頼まれ、録幸が
軽い金属板廃材を適当な大きさに切り、面取りしただけのものだった。上にはグラスが一
つ載っており、トキワが勝手に買ってきた紅茶葉で淹れたアイスティーが入っている。高
いとは言い難い天井からの照明に透けるそれは焦朱色の水色をしており、味はなかなか良
かった。
「はい、これ」
黒河のお盆からグラスを取ると、白河がそれを差し出す。録幸はグラスを握った。録幸の
指先が白河の指の背を撫で滑り、離れる。白河の指は乾いていて暖かく、冷房で冷えた指
には心地良かった。グラスの中の液体は些か苦く、やや酸っぱい。舌で探れば甘みもある
が、ごく微かだ。そして背は低いが、がっしりとした香り。
 しかし、駒輪が売れようがお茶が美味しかろうが、録幸の精神は擦過傷に覆われ、その
痛痒さは無視できないものだった。とはいえ鷹雄殺しの解決に失敗し、町を追われる事態
も正視できるものではなかった。誰も何者なのか判らず、何者でもあり得るような世界で
自分が暮らしていけるとは思えない。それはルールが全く理解できない、そのくせ命がけ
のゲームに参加するようなものだった。
忙しさが段落したところへ、不安感が充填される。
「出掛けるか」
録幸が言うとトキワの顔に無調整の嬉しげな様子が現れた。定住民の不安に対するトキワ
の鈍感さが、録幸の不安を倍加する。
 調査はなかなか進展しなかった。手探りで進む上、録幸には店の仕事があったからだ。
それに関して数日前、録幸は仕事と調査を両立させる上手いアイデアを思い付いた。「夏
のサービス点検」を打ち出し、客の家を巡回して駒輪の点検や簡単な整備を行うのだ。そ
うすれば誰も怪しまない上に、世間話の中から手がかりが掴めるかもしれない。通常の一
割引という価格設定なので、サービスの人気が出れば店へ来る駒輪や客だけを相手にする
よりも儲けが出るかもしれない。
 覇介とは鷹志の家で会って以来、一度も顔を合わせていない。しかしいくら町内のこと
を知らずとも、向こうの方が進展していないという確証はない。覇介が現れた二日後の
「ゼロ。ニュース」には覇介のインタービューが掲載されており、「流しの営業なので、
みなさん気軽にご依頼下さい」との言葉と共に覇介への連絡先が記されていた。オーバル
ホテルに滞在しているらしい。町内での鮮造の立場をまだ知らないのか、インタビュー中

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も自分が鮮造の弟子であることを語っていた。もし依頼が多ければ、覇介の方もなかなか
調査が進まないはずだ。とはいえ、見知らぬ道理屋を町民がそうそう信用するとは思えな
いので、期待は出来ない
 今のところ、録幸が点検サービスで自発的に訪れる予定があるのは鷹雄の知り合いたち
の所だった。鷹雄は自治会長だっただけあって、交際範囲が広かった。その一人一人と会
って話をするのは仮に順調に進んだとしても、それだけでかなりの手間と労力だ。しか
も、誰かを抜かすわけにはいかない。誰が有用な情報を持っているかなど、予想できるも
のではないのだ。
 
 まず最初に訪問したのはという老人の家だった。古嶋といえば町内に八家族が生活する
旧家で、循一はその家長としてやはり小高い丘の上に住んでいた。妻に先立たれて以来独
り身で、元は株のディーラーをしていた。循一も普段はサミアド・モーターズを利用して
おり、録幸は話したことがなかった。もっとも、ある程度より上の年代の人間はたいてい
がサミアド・モーターズの客であり、徳村輪舗の利用客は限られていた。
 途中、人伝てで徳村輪舗の新サービスを知った人間に呼び止められ、自分の所にも来て
くれるよう頼まれるということが何度かあった。むろん断るわけにはいかないので呼び止
めた人の名前と住所、希望時刻などを遠操盤に書き留めた。
 循一の家は旧ヶの中でもひときわ高い場所に建っていた。切り立った絶壁を蔦が幾重に
も覆っており、そばで見上げると家はその陰に隠れていた。録幸は路肩へ駒輪を止める
と、表面に垂れかかった蔦をのけ、インターホンを押した。プラスチックのボタンは表面
がひび割れ、指にささくれた感触を伝えてくる。ややあって、声がする。録幸が名乗ると
相手は一瞬だけ黙り込み、それから裏へ回るよう指示した。
 やたら古ぼけた緊張感が録幸の中に蘇る。録幸が幼かった頃、循一は気むずかしい性格
から子供たちに畏れられていたのだ。何年も係わっていなかったので、忘れていたのだ。
録幸も一度、友人たちと川縁で騒いでいて循一に叱られたことがある。実際はたいした叱
責ではなかったのかもしれないが、そのときは呆然とするほどの苛烈さを覚え、走って逃
げた記憶がある。しかも焦るあまり、録幸一人が川に落ちてずぶ濡れになり、あとで母に
まで怒られたのだった。
 インターホンとはちょうど反対側に大きなドアがあった。金属製の表面に塗られたさび
止めの塗料はもうずいぶん塗り直されておらず、元の色が何色とも知れないほどに褪せて
いた。所々が膨らみ、剥がれて錆びた地が覗いている。
 しばらくすると、ドアはゆっくりと左右に開いた。レールに散った砂利が踏まれて軋
む。そして、そのドアの向こうに、循一が立っていた。
 循一は小柄な男だった。禿げ上がった頭の後方に辛うじて白髪が残っている。その目は
細く、今でも力強かった。循一の背後にはアルバナという、ずいぶん前に生産中止となっ
た古型の駒輪が控えていた。さらにその後ろにもうひとつのドアがあり、開け放たれたそ
の向こうに家屋と地上をつなぐ螺旋階段が見えていた。
「徳村か」
淀みのない、それでいて朧気な声が言う。
「録幸です」

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空回り気味の快活さを込めて名乗ると、録幸は来意を説明した。次いで、白河と黒河を紹
介する。
「お前は徳鮮のことを名前くらいしか知らないんだろうし、あまり責める気はない。いい
だろう。お願いしようじゃないか。どうせ無料なんだろう?」
説明を終えた録幸に向かって、循一は言う。少し黙っていただけで、のどに痰が絡んでい
た。サービスが無料でないことを告げ忘れていたことに録幸は気付いたが、もう訂正する
機会を逃していた。循一のどろんとした視線を受け止め切れず、録幸は視線をアルバナへ
逃がす。アルバナは高級車だった。真白い輝きも、柔らかく流れるようなシルエットも美
しく維持されていた。
「そこのアンドロイドを連れ歩いているのは、どういうつもりなんだ?」
そこで循一は僅かにアゴを揺らし、トキワを示す。
「それは、アシスタント、です」
循一の底意地にわだかまる不機嫌さを察して、自然と録幸の言葉は堅くなる。
「アシスタント、だ? なんだってこんなのに? なぜ早く処分しない? こいつらが何
をしたのか知っているだろうが」
物理的な迫力は昔ほどではなかったが、その口調には今でも聞く者を萎縮させる効果があ
った。循一はなおも続ける。
「いいか。徳鮮はこんな物のためにこの町を捨てたんだぞ! 立派なこの町や友や家族を
捨てて、いつ殺されるとも知れない土地で生きることを選んだんだ。そりゃあ確かに、そ
うまでさせるアンドロイドという奴がどれほどのものか、とも思っていた。それが、こん
な――まるで幽霊じゃないか。気味が悪い」
そこで循一は言葉を詰まらせる。
 録幸は目の前の老人の言葉に、違和感を感じた。まるで、アンドロイドのために祖父が
町を出たような口ぶりなのだ。道理屋になるために町を出たのではなかったのか。録幸は
その点を、極力相手を刺激しないようにしつつ、尋ねた。
「徳鮮が道理屋になりたかった、などという話は聞いたこともない。勝手にアンドロイド
を造って町を出たから、道理屋になるだろうとみなが想像しただけだ。実際、そうなった
わけだしな。もっとも、駒輪屋をやっていた男がよそで生きていく上で、他に選べる職業
などなかったろう。なにせ、どんな町にもそこに根付いた駒輪屋はいるんだからな」
 循一の言葉が正しければ、祖父たちは愛人を作り上げて家庭を捨てるためにアンドロイ
ドを自作したことになる。しかし、それは録幸にとって信じにくいことだった。そういう
相手を持つのが目的だったなら、循一ではないが、それこそこんな人格は設計しないよう
な気がするのだ。もっとも、今のトキワこそが二人にとっての理想だったというのなら別
だが。
 循一の言葉はまた、事件解決に失敗して町を追い出されれば、道理屋を目指すくらいし
か道はないということを録幸に実感させた。駒輪屋としての技能と経験しか持たないのは
録幸も同じなのだ。
「それじゃ、後は頼んだ」
唐突に循一は平常声に戻ると言った。録幸は戸惑った顔をする。
「点検に来てくれたんじゃなかったのか? ブレーキの調子が悪いみたいなんだが」

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それでやっと、自分がこの場にいる口実を思い出した。
「ええ、ああ、はいはい。解りました」
録幸の返事は循一の後ろ姿と共に、螺旋階段の中へと消えていった。

 点検は順調に進んだ。よく手入れはされていたが、循一が言うようにブレーキ周りの不
調が酷く、故障ではなかったが放置しておけば事故を起こす恐れがあった。その結果、持
参したパーツを使い切ることになってしまった。
 修理が終わると録幸は循一を呼び、作業報告をした。循一はすっかり落ちついており、
鷹雄についての話をすることもできたのだが、有益な情報は得られなかった。沈み込むよ
うな疲労感を覚えつつ、録幸は循一の家を後にした。
 やっと一人が終わった。録幸はこれから訪問予定の人の数を思い浮かべる。それに、移
民と常民の不和についても検証しなければならない。真面目にやっていたら、よほどの幸
運でもない限り調査は年単位になってしまいそうだった。もちろん、誰もそんなには待た
ない。つまり、根本的な方針変更が必要なのだ。とはいえそれを考えるのさえ気が重い。
鷹雄の死も含めて、全てはトキワを処分しなかった自分に対する罠なんじゃないか。そん
な考えが浮かぶ。
「真っ直ぐ帰るの?」
トキワの声がした。後ろに二台の駒輪を引いているせいで、カーブを曲がると僅かに外側
へ流れるような慣性を感じる。最初のうちは違和感のあったその感触も今ではすっかり気
にならなくなった。
「ああ。今日はもういい。予定は後回しだ」
「どうして?」
「ブレーキ周りのパーツがなくなったんだよ。総取っ替えに近かったから」
つい口調がきつくなってしまった。それで会話が途切れる。ややあって、録幸は口を開い
た。
「循一さんの言ってたことって本当なのか? 道理屋がしたかったからお前を造ったわけ
じゃない、っていう」
「さあ。知らない。私たちが完成したときにはもう道理屋をすることになってたけど」
「あ、でもやっぱり愛人が欲しかったわけじゃないと思うよ。だって、もし私たちがそう
だったなら、ねぇ」
わざとらしくトキワは言葉を切った。録幸は目元に力を込めると、溜め息を吐く。エセル
といい、アンドロイドというのは芝居がかった物言いが好きなんだろうか。
「寝たことはないんだな」
仕方なく、覇気のない口調で尋ねる。
「うん。そういうこと」
二重にぶれた声が聞こえてくる。その声はあまりにも淀みなく曇りも皺も陰りもなく、そ
のせいで却って録幸は信じきることができなかった。
 アンドロイドが嘘を吐くとき、人間のように仕草や口調から察することは無理だろう。
嘘を吐いていようがいまいが、そこには何の違いもない。だいたい、もし祖父たちが黒河
や白河とセックスをしていた場合、それを決して口外しないようにさせている可能性は高

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い。それを確かめる方法が録幸にはない。数樹に調べさせたところで、出てきた情報がダ
ミーでないという保証はない。何に関することであっても。人間相手の判断が当てはまら
ない存在とのコミュニケーションは結局のところ、それが成り立つという思い込みを持ち
続けなければやっていけないのだろう。そんなことを考えると気が滅入ってきた。何重に
も厄介な状況に自分が置かれていることを思えば、喉の奥から低いうねり声が漏れる。
「今度から、巡回サービスは俺だけで行こうか? また、あんなこと言われるの嫌だ
ろ?」
トキワに対する後ろめたさを埋め合わせようと、録幸はそんな提案をした。ところが、後
方の駒輪からは何の応答もない。録幸は自分の浅はかさを見透かされたような気がして、
無様な弁明をしそうになる。

「‰。 σ°∞ ゜%% ° 。。゜」

トキワの声らしきものがスピーカーから聞こえてきた。しかしそれは小さく、濁っていて
聞き取れない。録幸は大きな声で喋るよう呼びかけたが、返ってくるのは陰気なあぶくを
連想させる音ばかりだった。
「‰%゜゜゜%‰。。。。」
こちらのスピーカーか向こうのマイクが故障したのだろうか。録幸は舌打ちをする。
 気が付けば駒輪は草地の合間を走っていた。強い風に丈高い草は身を起こすこともでき
ずにいる。その対岸には緩やかに密集した、四角い建物。クロロベトンの緑が、草染めの
ように見えた。その中空に張り出す旧家の尖丘は、傘の小さなキノコのようでもあった。
「ちょっと停めて」
不意に鮮明な声でトキワが言った。その言葉は本人の意識と同じくらい滑らかに録幸の体
を制御した。気が付くと録幸の指はトラックボールからもう離れていた。
「どうした?」
また返事がない。代わりに窓の開く音がした。
「覇介さーん」
少し遠い位置からトキワの声が聞こえる。録幸も窓を開け、頭を出した。
 白河黒河が同じように窓から体を出し、後方を見ている。その先には覇介とエセルが居
た。二人は駒輪に追い付くと立ち止まった。二人とも服装は変わらなかったが、覇介の方
は首に薄水色のタオルを掛けていた。短い頭髪の合間にも汗が挟まっている。
「調査の帰りか?」
覇介は頭を下げ、首筋をタオルで拭いながら尋ねる。
「ああ」
録幸は辛うじて棘の感じられる口調で返事をした。
「覇介さんもエセルもお疲れさま」
トキワがいつもの明るい、そのくせどうにも重たげな調子で言う。覇介へ向かって「敵か
ぁ」などと言ったことは完全に忘れているような、親しげな雰囲気だ。もっとも、アンド
ロイドなのだから人間のように忘れるなどということはないはずだが。
「どうだ? 何か成果はあったか?」
鷹志の家で会ったときとは違い、覇介の言葉遣いには親しみ易い雰囲気があった。

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「教えるわけないだろ」
録幸の言葉に覇介は軽く含み笑いを漏らした。
「まあそう怒るな。私だって鮮造さんの孫がもう雇われてるなんて知らなかったんだ」
「じゃあ、判ったときに断ったらよかっただろ」
「そういうわけにもいかない。道理屋は明らかに無理でない限り、基本的にどんな依頼も
断れない」
「すごい汗だね。ここは乗り合いもバスもないから、どこ行くのも歩きでしょ? 自動車
か駒輪貸そうか?」
二人の会話を無視してトキワは勝手な提案をすると、まるで指が重いかのような、変な動
きで手を振った。気怠げなしゃべり方にしてもそうなのだが、どうも性能が足りないせい
で、本人の性格ほど素早く体を動かせないようなのだ。
「ありがとう。でも、それじゃ見落とすものもある。歩くのが一番いい。鮮造さんもだい
たいは歩いてたろうが」
「いや、トキワさん、もっと強く勧めてください。旦那様はもう若くないのに無理をされ
るので」
エセルが言った。灰銀色の髪に浅い褐色の肌をしたエセルは引き締まった口元や目尻に微
笑みの手前といった感じの表情を浮かべている。それは見る人間の感情を心地良く和らげ
る。しかもそれは決して崩れることも揺らぐこともなかった。確かにトキワと比べてエセ
ルの仕草は質が高いようだった。しかし、それは人間には真似のできないものでもあっ
た。トキワのことをよくできていると評した数樹の言葉が思い出される。人間らしさとい
う点で、エセルはトキワに劣っていた。
「人を年寄り扱いするな」
「年寄りとは言いません。ですが、若くないことは認めてもらえると思うのですが」
無駄のない、軽快な身振りを交えてエセルは返す。最も効率的かつ美しい動きだけで成り
立っているようだった。おそらく、似たような状況では常に同じ仕草が現れるのだろう。
だから動作のバリエーションはトキワほど多くないはずだった。
「ともかく、だ。こちらも調査には正直苦労しててな。そもそも、町民がなかなかこっち
を信用してくれない。おかげで依頼もないし、まいるよ」
録幸は黙っていた。
「だから、そんなに警戒するなよ。鮮造さんにはちょっとお世話になったんだ。その孫を
利用しようなんて思ってない」
録幸は覇介を正面から見据えた。さすがに何を考えているのか読みとることは出来なかっ
た。ややたるんだ目蓋の奥で、張りのある瞳が素早く動く。
「依頼については教えられないが、これは商売だから当然だな。でも、道理屋ってのがど
ういうものかくらいは教えてもいい」
録幸は興味のない振りを装おうとしていかにも用がありそうにトキワの方を見たものの、
言うことを思い付けなかった。諦めて覇介にうなずく。
「入ったことはないけど、近くに喫茶店がある。草地を抜けたところだ。ここじゃ暑いだ
ろ?」
「なら、先に行って席を取っておいてくれ。道はトキワからエセルに転送してもらう」

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録幸は覇介とエセルを置いて喫茶店へ向かった。
「さっき、なんて言ってたんだ?」
録幸は覇介と会う直前のことを尋ねた。
「え? 別に」
「何も言ってないよ」
逆に不審そうな声が尋ねてくる。
「今度から巡回サービスに行くのは俺だけにしようか、聞いただろ」
「あ、ああ、そうなんだ? ちょっと考え事してたから、聞き」
「逃したみたい。わたしは」
「わたしたちは平気だよ。わたしを気遣って」
「わたしたちを気遣ってくれて、ありがと」
トキワの返事は明らかにおかしかった。単人称と複人称が入り交じっている。録幸はその
ことを指摘した。スピーカーから笑い声が短く流れ出す。
「わたしたちにとって、録幸が思ってるほど同一人物らしさを維持するのって楽じゃない
んだよ。特に他にも考えることが多いと。それだけだから、心配しないで」
その後も録幸が何を言おうと、トキワは大丈夫だと繰り返すばかりだった。そうこうして
いるうちに、駒輪は目的地へ着いてしまった。
 そこは「エメラルドカフェ」という名前の小さな店で、駐車場に三台連結の駒輪を停め
るようなスペースはなかった。前の道幅が広かったので、仕方なくそこへ駐車する。
 自分で塗ったらしい照りのあるエメラルドグリーンのドアを抜けると、狭い店内にはカ
ウンター席が五つとテーブル席が三つしかなかった。そのうち、一番奥の席には老人が一
人座っていた。狭い店内は様々な階調の緑で統一されていた。それは緑色というイメージ
が持つ穏やかさを辛うじて踏み外していた。
 後から三人来ると告げると店主はドア寄りの席から椅子を一つ加えた。プラスチック製
の座面に金属製の脚を持つそれも、グラスグリーンに塗られていた。録幸は通路側に座
り、その隣に黒河白河が座った。とはいえそのまま座ると椅子が重みで壊れてしまう。実
際には軽く座面でバランスを取り、膝関節を固定することで座っているように見せかけて
いるだけだ。家ではともかく、出先では床に座るわけにも行かない。かといって立ちっぱ
なしというのは気になるので録幸が考え出したのだ。人間なら辛い姿勢でも、アンドロイ
ドなら問題はない。
 録幸が新たな気がかりの種を胸中で養育しつつメニューを眺めていると、覇介たちが入
ってきた。三人の脇を通り、向いへ座る。頼みもしないのに見ていたメニューを白河が差
し出そうとすると、覇介は手でそれを制してホットコーヒーを頼んだ。録幸はアイスココ
アを注文した。
「トキワは重くて座れないと思ったんだが」
覇介が言う。録幸は自分のアイデアを説明した。
「なるほど。しかしそれじゃ膝の負担が大きいだろう」
「半分くらいは椅子で支えてるから大丈夫だよ」
トキワが言う。
「エセルもそうじゃないのか?」

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「いや。エセルはトキワより新しいから、普通の人間の大人とあまり体重は変わらない」
注文した品が運ばれてくると、覇介は口を開いた。
「それにしても、本当にここ田舎だな。ネットの使用率も低いし、交通手段だって駒輪か
徒歩だろ。おまけに人のことジロジロ見るしな。そのくせ話し掛けると警戒される。な
あ、最後に道理屋が来たのはいつなんだ?」
「さあ。俺が生まれる前」
覇介は大袈裟に体をのけぞらせた。
「おいおいおい。本当か? 確かに都市レベルが低いったって、誰かが呼んだりするだ
ろ、普通は」
「爺さんのことがあるから、たぶん道理屋にいいイメージがないんじゃないか。それに、
あんまり波風立つようなことはないし」
「閉鎖町ってのはどうしてどこもそうなんだろな」
「それは差別語ですよ」
エセルが注意するが、覇介は気にしない。
「とにかく人から憎まれない恨まれない。閉じた社会だから、こじれたくないってのは解
るんだが」
「いや、喧嘩とかいがみ合いなんかはある。ただ、自力で解決できないようなのは少ない
ってだけで」
覇介は鼻で笑った。録幸は不意に、自分がつまらない言い訳をしている気にさせられた。
「そんなの揉め事の内に入らん。とはいえ、仕方ないのかもしれんな。こういう町を造っ
た人たちにとっては。昔はそりゃあ酷かったらしいし、今だって都会は危険だ。無意味に
な。イデオロームだけじゃない。ネットワーク化が押し詰まると危険の種類も増える。コ
ンピュータウィルスに意識を乗っ取られたりな。それなりのメリットはあるが、実際の損
得を考えればこことあまり大差ない。要はどの点でのメリットを重視したいか、だな」
覇介は一人で納得する。
「で、本題はどこ行ったんだ? もう始まってんのか?」
焦れた録幸が促す。
「そうだった。どうも歳だな。あー、まず最初に言っておくが、道理屋をするのに決まっ
た手順はない」
「らしいな。トキワからも聞いたし、調べても何も出なかった」
録幸はストローに口を付けた。循一のところで緊張していたせいか、渇いたノドに甘味が
染み通った。
「ノウハウがないと言っても、全く何もないわけじゃない。心構えだとかアンドロイドと
の連携法だとか、そういったものはある」
「連携法?」
「ああ。アンドロイドは賢い遠操盤でも便利な記録装置でもない。道理屋が仕事をするに
は欠かせない働きがちゃんとある。それが探偵や裁判官なんかとは違うところだ」
「トキワも役に立つことがある、のか?」
「それ、ヒドイよ。わたしはいっつも役に立ってるじゃない」
「規格違いで遠操盤の代わりにもならないくせに」

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録幸は言い返すが、その声にはいつもの思い切りが出ない。
「それは考えないとして」
トキワは小さな耳に触れる。
「仲がよろしいんですね」
エセルが言う。柔らかそうな髪の毛先がエアコンの送風を直接に受けて揺れている。
「違うって」
だるそうに録幸は否定する。
「え? そうなの? わたしと録幸はもうけっこう仲良しだと思ったんだけど」
白河が意外そうに言う。
「いや、うん、わたしと」
黒河が言った。その言い直しに録幸ははっとして、勢いよく白河黒河を見てしまう。
「まあ、そんなことはいいんだよ。それよりも、どうやってこいつを役に立たせるん
だ?」
場違いな挙動を押し切るべく、録幸は無闇と冗談めかした口調を装った。
「アンドロイドもモノを考える。それだ」
録幸の動揺になど気付かなかったかのように、覇介は答える。
「いくら俺が詳しくないからって、アンドロイドが人間らしいのはただのフリだってこと
くらい知ってる」
「いいや。ちゃんと思考はある。人間のそれとは全然違うだけだ。しかも、アンドロイド
の考えることには飛躍やひらめきが全くない。一つ一つの筋道が完全に繋がっている。途
中を省くからそんなことないように見えるけどな、理由を聞けばちゃんと答える」
「それのどこが」
覇介は録幸の発言を手で遮った。
「役に立つのかって? あのな、何で道理屋が道理屋って呼ばれるか知ってるか?」
録幸は首を振る。ココアは最初の一口を飲んだきり、少しも減っていない。
「古い古い大昔の格言に『無理を通せば道理が引っ込む』というのがある。俺たちの仕事
はその逆で、道理を通して無理を引っ込めるためにある」
「そうか。揉め事を解決するってのはそういうもんかもな」
録幸はもっともらしい顔で同意してみたが、いまひとつ理解しきれなかった。
「ところが、感情が絡むと人間なかなか理屈じゃ動かなくなる。それを動かす手は色々と
あるんだろうが、道理、正確には理屈だな、を徹底させるのもその一つだ。反論の余地も
ないくらいバッサバサの理論で、感情を圧倒するくらいに。ま、実際にはそう綺麗に行く
ものでもないが」
「それでアンドロイドか」
「ああ。人間だと、どうかすると考えていることに理論の飛躍がある。着地点がそれまで
の延長線上にあったとしても、それじゃ中間が途切れてしまう。人間のひらめきは凄い
が、それは道理屋にとって危険なんだ」
納得の声を挙げた録幸だったが、それは愛想だった。そんなことが成功するとは思えな
い。騙されているような気がしてならなかった。
 トキワが何も言わないことも気になった。いつもなら人が話していても気にせず割り込

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んで来るというのに。やはり調子が悪いのだろうか。一応覇介の話にうなずいたり相槌を
打ったりしてはいるのだが、変におとなしい。エセルも同じ様子だったが、こちらはそれ
が自然に見えた。
「信じられないのも無理はない。俺だって道理屋をやって長いが、今でも信じられないん
だからな。他の道理屋だってそうだろう。でも、なぜか上手くいくんだ」
言った覇介の姿が、急に弱く見えた。軟らかく外された目線と尻下がりな語調。小さな動
向もその輪郭が曖昧さを増すようだった。自分のすることが次々と予期せぬ結果を生み出
してしまい、しかも際限なく膨れ上がり、すっかり途方に暮れている。そんな感じだっ
た。
 覇介は投げ遣りな笑みを浮かべた。録幸はしかし、それには何の反応も示さずに言う。
「アンドロイドのことは解った。で、それを活かすにはどうすればいいんだ? 話を聞い
てると、人間はいらないみたいな気もするんだけどな」
「尋ねればいい。一緒に聞いたこと、自分の思い付き。そういったことをどう思うか、訊
いてみるだけでいい。特に思い付いたことだ。人間がひらめいた部分を与えれば、アンド
ロイドの方がそれに筋道を作ってくれる。アンドロイドが事実だけで組み立てるものには
限界があるからな。試してみろ」
録幸は相変わらずおとなしいトキワへ目を向けた。言われてみればこれまでトキワへ対等
な存在として意見を求めたことなどあまりなかった。どうせロクな答えは返ってこないだ
ろうと信じ込んでいたのだ。しかし覇介のアドバイスが本当なら、トキワはこれまで祖父
たちの仕事を大いに助けてきたということになる。トキワは今までそんなことを言わなか
ったが、祖父たちに自分の考えを喋ることが仕事に必要不可欠だったのだと気付いてない
のかもしれない。
 試しても損はないように思えた。少し試してみるだけで事態が開けるというのなら、迷
うまでもなかった。
「そうだな。試してみる」
「もっとも、本当に俺の言ってることが正しい保証はない。勘違いなのかもしれない。自
分のしてることに意味があるのか無駄なのか、ちゃんと判ってる道理屋なんてのはいない
んだよ」
よほど普段から気になっているのか、覇介は繰り返した。録幸は承知したという意味を込
めて目でうなずく。
「だからさ、わたしの能力をもっと引き出さないとダメだよ」
偉そうに言う白河の頭をはたこうと、録幸は手を伸ばした。しかしその手は届かず、代わ
りに黒河が叩かれることになった。黒河は録幸の空いた脇腹に平手を打ち込む。
 軽い動作だったが録幸の体は大きくバランスを崩した。椅子の脚は刻むように床を打ち
鳴らし、加速しつつ滑る。大きく傾いた座面から録幸は落下し、左手でテーブルを握った
まま尻餅をついた。垂直に声と息が飛び出す。
 一瞬の間が過ぎた。録幸は大きく舌打ちをすると立ち上がり、椅子を直すと黙って座っ
た。正面を向くと、アンドロイドが持ち主を突き飛ばす場面など初めて見たのだろう。覇
介とエセルが固まっていた。覇介が驚いた顔をしているのは当然だが、エセルまで目をや
や見開き、口を軽く引き結んで驚きを形作っていた。

- 75 -
 トキワもこんなことになるとは予想していなかったようで、黒河は手を伸ばしたままだ
し白河は黒河の肩を両手で掴んだまま動かない。
「なんだよ」
苛立ちの短い笑いを漏らしながら録幸は言うと、ストローを無視してグラスへじかに口を
付け、ココアを一気に飲み干した。

 壁でこすらないように注意しながら角を曲がると、やっと店の裏手に着く。縁取るよう
に雑草の生えた空間の奥までゆっくり乗り入れると、突き当たりの手前で停車する。いち
いち後ろへ駒輪を繋いだり外したりするのは面倒なので、最近はこちら側に駐車している
のだ。袋小路になっているせいで人が来ることもなく、誰に迷惑がかかるというわけでも
ない。周囲は建物の影に覆い込まれ、すでに薄暗い。
 録幸が駒輪から降りると後ろ二台のドアが同時に開き、トキワが出てきた。
「おつかれさま」
トキワの言葉に録幸は軽く手を振って応えた。帰りの車中ではずっと黙っていたため、咄
嗟に声が出なかったのだ。
「店の仕事を片付けないと」
軽く咳払いをしてから、それだけ言う。
「今日はもう」
「お休みじゃないの?」
「わけないだろ」
録幸はシャッターの前でしゃがみ込むと鍵を開けた。それから立ち上がり、壁のボタンを
押す。一瞬だけモーターの低い唸りがしてシャッターが巻き上げられていく。
「修理がな、溜まってんだよ」
徐々に上昇するシャッターの向こうに、修理や検査を待つ駒輪の姿が現れる。全部で八台
ある。録幸はリモコンのスイッチを押して、天井の明かりを点けた。修理途中の駒輪が一
台、作業用の穴の上に停めてある。家を出る前のまま、何も変化していない。ここにある
駒輪は全て、自分が直さない限り勝手に癒えたりはしない。そういえば、トキワは整備し
なくてもいいのだろうか。振り返ってトキワを見る。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
待ち受ける仕事に気が重くなっていると思ったのだろうか。トキワはいたわるような笑み
を浮かべた。
「今日はいろいろあったからね」
トキワが素直に励ましてくれるのは珍しい。録幸は近い方のトキワの肩へ手を置く。
「お疲れさま」
「そんな。いいよ。いくらわたしでも録幸の商売が駄目になりそうなのを黙って放ってお
くわけにいかないし」
内心録幸は苦笑した。自治会の依頼を引き受けたことも、覇介と競うことになったのも数
には入っていないらしい。もっとも、どれもトキワが強制したわけではないのだから、当
然かもしれない。

- 76 -
 ふと、もう一方のトキワが目に入った。腰の横に楽な感じ両手を落とし、こちらを見て
いる。目が合った。
「ん? どうした」
心配になって声をかけると録幸へ歩み寄ってきた。だが少し離れた所で止まり、そのまま
動かない。淡暗がりの中、作業場からの照明で幽かに照らされて黒河は栄えていた。
「おい、黒河?」
そばに立つトキワの後頭部を一瞬だけ覗き込んで髪ゴムの色を確認すると、録幸は呼び掛
けた。
「わたしの肩にも手、置いて」
黒河の言葉を怪訝に思いつつも、録幸は空いている方のてを黒河へ伸ばした。僅かに届か
ない。
「両方一緒にじゃなくってさあ」
黒河がいうのと、録幸が白河の肩から手を離そうとするのは同時だった。録幸は一歩だけ
黒河へ近付くと、その方へ手を載せた。
「こうか?」
「うーん。まあまあ」
「で?」
「ううん。これだけ」
黒河の肩から手が滑り落ちる。
「なんだそりゃ。やっぱり今日のお前、変だぞ」
録幸の呆れ声に黒河は笑った。
「そんなことないよ。ほら、録幸って白河に話し掛けたりすることが多いじゃない? せ
っかく黒河白河いるんだし。人間だってなぜか左手だけほとんど使われないとかだと、変
な感じするでしょ?」
あまり理解できることではなかったが、確かにどちらの手をいつ使ったか完全に憶えてい
るならそんな感じもするのかもしれない。アンドロイドに特有な論理感覚なのだろう。さ
っき様子がおかしかったことも、何かそういった理屈で説明が付くのかもしれない。そう
考えると、気の抜けた安心感が湧いてきた。
「じゃ、俺は仕事してるから、夕飯できたら呼んでくれ」
録幸は黒河に向けてそう告げると、居並ぶ駒輪の合間を心持ち爪先立って入って行った。
人工知能は二つの身体を一時停止させ、その後ろ姿を見送った。


 トルクレンチで最後の一カ所を締め付けると、録幸は立ち上がった。古ぼけた車体に真
新しいタイヤの漆黒が馴染んでいない。そもそもはパンク修理の依頼だったのだが、タイ
ヤの寿命が過ぎていたので、新品と取り替えることになったのだ。あとはホイルキャップ
を取り付ければ完成する。録幸は壁の箱にレンチを戻すと手袋を外し、椅子の上に置いて
あったグラスを取った。汗で表面の湿った手に、グラスの手触りが心地よい。半分ほど残
っていた紅茶を一口飲む。
 作業場に居るのは録幸一人だった。トキワは店番をしている。本当は一人にしたくない

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のだが、道理屋同様に店も役割を分担したいと強行に主張したのだ。
 循一の家へ行って以来、トキワの調子は安定しなかった。人称の混乱も相変わらずだっ
たし、ぼんやりしていることも多くなった。本人曰く事件についてそれだけ集中して考え
ている、ということなのだが、どうも録幸には信じられなかった。できれば数樹に相談し
たいところだが、数樹はまとまった仕事の締め切りが近いという連絡があったきり、音信
が途絶えていた。
 静かだった。このところ作業場にはいつもトキワがいたため、その欠落は強調された空
白として録幸のそばに佇んでいる。いつの間にか店舗への入り口を見ていた。少し前に様
子を見に行ったばかりなのだから、と言い聞かせて視線を無理に駒輪へ戻す。遅延されて
いた修理を待つ駒輪で、作業場は狭苦しくなっている。壁面に設けられた大きなシャッタ
ーの向こうにも、野晒しの駒輪が数台ある。それらは灰色の日陰の中でおとなしく順番を
待っていた。革手袋に蒸された手の平がゆっくりと乾く感触や各種オイルの臭いを感じな
がら、録幸はこれからの作業手順を組み立てる。
 こうしている間にも覇介が調査を進めているかもしれないとは思うが、不思議とあまり
焦りはない。色々な不安や重圧が積み重なって認識の喫水線を越えてしまったのか、ここ
数日どうにも自分がこの生活を失うということ実感が麻痺しているのだ。それは天が降っ
てくるとか時間が逆向きに進むというのと同じくらい、現実味のない事態としか感じられ
ない。
 ブザーが鳴った。ややあってトキワが作業場へ入ってくる。
「お客さん、来たよ」
その言葉に促され、録幸はトキワと共に店舗へ出た。
「おお。その後調子はどうだ」
聞き覚えのある妙に大きな声で話し掛けられる。岸蜜だった。
「こんにちわ。今日はどうしたんです?」
録幸は駒輪の間を慣れた足取りで岸蜜の方へと進む。
「どうしたもこうしたも、私は君が子どもの頃からこの店の客だろうが」
何かおかしかったのか、岸蜜は手早く笑う。
「じゃあ、買い物に?」
「と言っても私じゃない。買い物に来たのは絵茄だ」
「どうも、こんにちわ」
駒輪の陰から絵茄が現れる。小柄なせいと岸蜜に気を取られていたせいで気付かなかった
のだ。
「あ、いらっしゃいませ」
「ワックスが欲しいんだそうだが、生憎私も切らしていてね。どれがいいのか判らないと
か言うもんだから連れてきたんだ」岸蜜は録幸の脇を抜けると店の奥にある椅子に座っ
た。「適当に選んでやってくれ。それと、テールランプも切れてるらしくてね。それも交
換して欲しい」
録幸は絵茄を見た。襟の高い黒いシャツに同じく黒いスラックス姿だ。仕事場から直接来
たのだろうか。
「じゃあ、とりあえず駒輪をお店の裏に回してください」

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「え、あ、はい」
なぜか少しだけ居心地が悪そうに言うと、恵那は店から出た。録幸も作業場へ回る。
 ストックから新品のランプを取り出すと、絵茄の駒輪がやって来た。まだ新しい感じの
それは意外にもメンダスの駒輪だった。墓地という職場柄か色こそ地味なサテンシルバー
だが、膨らんだ金魚のようなケレン味のあるシルエットは年齢に比べて若く、むしろ幼く
見える絵茄が乗りそうなものではない。
「私はアントンさんの所に行くからって言ったんです」
駒輪から降りるなり絵茄は言った。小さくなる声の末尾にノイズが混ざっている。
「絵茄さんってあっちの店ですよね」
「そうです。だから私は自分でサミアドに行くって言ったんですけど、一緒に来るって。
おじさん、あ、岸蜜さんはウチの両親と仲がよくって、私の面倒を見てくれようとするの
はいいのですが」
「お節介も多い?」
「あ、いや、迷惑はしてないです」
絵茄は慌てて両手を大きく振った。大袈裟な一生懸命さがある。なんとなく絵茄に人気の
あるのが判るような仕草だった。
 録幸はそれ以上何も言わずにマイナスドライバーでランプカバーを外す。
「それにしても、こう言うのはなんですけど、あの人がそんな世話焼きだなんて」
録幸はケーブル端子につながったままのランプを引き出す。
「おじさん、評判悪いですからね」
絵茄はこともなげな口調で言う。
「それは知りませんけど、次期会長を狙ってたりとかいう噂もあるし」
「あれはもう、意地みたいなものなんです。おじさんも自分が会長になれそうもないこと
くらい、本当は判ってるんですよ。あ、これは内緒ですよ? ただ、認めちゃうのは悔し
いんでそれっぽく振る舞ってるだけなんです。今は私が将来、自治会長になることが楽し
みみたいですよ。」
期待されても困っちゃうんですけど。言って絵茄は微笑んだ。
「けど、議長なんだし気見香さんの次くらいにはそういうこともあるんじゃないです
か?」
端子を新しいランプと繋ぎ換えて録幸はケーブルをボディへ押し入れる。
「いえ、私はそんな人間じゃないんで。議長だって皆さんが協力してくれて」
またもや手を大きく振って否定する。よく動く人だ。寄り合いのときもこんな感じなのだ
ろうか。殺気立った人々を前に、ひときわ大きな仕草でがんばる絵茄の姿が浮かんだ。も
う少し寄り合いへ出席していればよかったかもしれない。
「はい、終わりです」
録幸は思い切りよく音を立ててランプカバーを嵌め込んだ。
「ありがとうございます」
絵茄はまだ手を前に出したまま、頭を下げた。
「じゃ、ワックスの方は選んでおきますからお店の前に駒輪を回してください」
「判りました」

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絵茄は駒輪に乗り込むと、やはり本人のイメージとはそぐわない急発進で奥の塀に向かっ
て突進し、手前で急旋回して広場を出て行った。壁すれすれを車体が掠める。表通りへ出
る角を曲がるのを見届けると、録幸は手袋を外して店舗へ戻った。
「どうだった?」
入るなり岸蜜が言った。
「いや、普通です」
録幸は返すが、その言葉に素っ気なさはなかった。岸蜜が親馬鹿まがいの人間だと知って
しまったことで、少しだけ見方が改まったのだった。
「まさか絵茄さんがメンダスに乗ってるとは思いませんでした」
「私もな、もっとおとなしいのにしたらどうかと言ったんだが、聞きゃせんのだ」
岸蜜は年頃の娘の行動に心を痛める親そのものといった表情でうなずく。録幸は壁際のカ
ー用品が並んだ棚からワックスを一つ取った。馴染みの営業が熱心に勧めていたものだ。
 絵茄が入ってくる。録幸はワックスをかざすと、机の引き出しからカードリーダーを取
り出し、請求額を打ち込む。
「ワックス代とテールランプ代。取り付け費はまあ、サービスです。その代わり、ここで
ランプ交換したなんてことアントンさんたちには言わないでくださいよ。客を奪ったなん
て思われたら悲惨ですから」
「気が小さいな。勝手に私が連れてきたと話せばいいんだ」岸蜜が重たそうな体を掛け声
と共に椅子から立ち上がらせる。「いまさら悪評が一つ増えたくらいでどうなるもんでも
ないだろう」
「また、おじさんは。すぐそうやって拗ねるんだから」
絵茄の言葉に岸蜜は少しだけ口元を綻ばせる。その辺りの遣り取りの機微が録幸には理解
できなかったが、たぶん岸蜜としては心配されて嬉しかった、ということなのだろう。
「では、また」
「じゃあな」
二人は口々に言うと店を出て行った。店内が静まる。おかしかった。いつもならトキワが
すぐに喋りだすはずなのだ。見ればトキワは机の向こうに立ったまま、目を閉じている。
「トキワ。大丈夫か」
二組の目が開かれ、録幸に向けられる。それから眉間に皺が寄ったり口の端が下げられた
り腕組みがなされたりして、「困っている」という態度が判りやすく形作られる。
「それが、岸蜜さんとね」
「ちょっと遠操盤出して」
録幸は言われるままに作業着の胸ポケットから遠操盤を取り出す。その画面に映像が映っ
た。

机の向かい側に岸蜜が座っている。トキワは立っているため、髪の薄い頭頂部が見えてい
る。地肌に汗の滲んでいるのが窺えた。
「いや、それにしても似てる」
岸蜜が上目遣いにトキワを見る。
「似てるって、わたしが? 誰に?」

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岸蜜は口を歪める。絵茄との会話がなければ、やはりただの感じが悪い男にしか見えな
い。
「元々話題になりにくい話だからな。知ってる世代は限られてるし。おまけにやたらと隠
したがる。後ろめたさなんぞ感じてるんだろうな」
「何か、深刻な話?」
「いやいや。どうだろうな。私にゃそうは思えないが」
岸蜜は言葉を切り、間をおいた。
「徳鮮さんと徹語さんは子供の頃から仲が良かった。いつも二人で一緒にいたらしい。徹
語さんは知ってるか?」
トキワはもちろん知っていたが、黙って首を振った。
「更科、あー、いるだろ? アルゴラボの。そう、数樹。その数樹の爺さんだ。でな、二
人にはもう一人いつも一緒だった人間がいた。。当時の世話役の娘だ。あんたを見てる
と、初帆さんを思い出す」
物怖じしない人懐っこい性格と裏のない明るさで初帆は誰からも好かれる娘だった。いつ
も一緒に行動していた鮮造と徹語も同様で、いつしか二人は初帆に対して恋愛感情を抱く
ようになっていた。もっともそれは二人に限ったことではなく、当時の若い男は多かれ少
なかれ初帆に好意を寄せていた。
「初帆さんは昔からそりゃあ可愛かったそうだ。俺は大人になってからの初帆さんにしか
会ったことないけどな。その頃だって私たちからは憧れのお姉さん扱いだ。たしかに可愛
らしい人だった。絵茄には負けるが、それでもなかなかのものだった。今にして思えば少
し人間としての深みに欠けていたような気もするが、だからこそあんな顔で笑ったり出来
たんだろうな。それはそれとして、だ」
鮮造と徹語はお互いが初帆に抱いている気持ちを知っていた。そして、初帆の気持ちが鮮
造を向いていることも。身も蓋もない明瞭さで初帆は鮮造への気持ちを隠そうともしなか
った。だが、鮮造は決して初帆の想いに応えようとはしなかった。徹語を気遣ったのであ
る。けきょく鮮造も徹語もそれぞれに結婚をし、初帆に憧れていた若者たちもそれぞれの
人生を選んだ。しかし三人はそれでも仲の良い幼馴染みであり続けた。
「みんな初帆さんのことを気立てがよく愛嬌のある、それでいて単純な人間だと思って
た。けどなあ。そうじゃなかった。初帆さんも傷付き、絶望する人間だった。つまり、徳
鮮さんが自分を選ばなかったことが、想像以上に初帆さんを落ち込ませていたんだ。初帆
さんはその苦しみを巧みに隠した。その気持ちは本人以外誰の目に触れることもなく何年
もかけて初帆さんのことを蝕み、とうとうある日限界を超えた」そこで岸密は深く息を吐
くと、続けた。「初帆さんは自殺してしまったんだ。私がまだ一五、六歳のころのこと
だ」
「けど、そんなこと一度も」
トキワの言葉を、岸密は手を振って遮った。
「私らくらいの年代までなら誰でも知ってる。みんな喋らないだけだ。まあ、周囲の人間
はまさか初帆さんがそんな悲しみを抱えているなんて想像さえしてなかったわけだから、
気付けなかったのは当然のことかもしれない。けどな、自分たちがあんなに好きだった初
帆さんのことを、結局みんな自分に都合のいいようにしか見てなかったことに変わりはな

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いだろ? しかも徳鮮さんたちはアンドロイド造って町を出るし。ずいぶん昔の話だし、
今でも思い出せば少し後ろめたい気分になる。そんなこと、好きこのんで話題にすること
もない」
「それで、その人がわたしたちに?」
岸蜜はトキワを見た。
「外見はそうでもない。ただ、喋り方や仕草が。特に笑った顔。裏も表もないから、笑っ
たときに笑ってない部分がないような、そんな笑顔だ。徳鮮さんのアンドロイドが初帆さ
んに似ているってな噂は当時からあったんだが、初帆さんを失ったのが辛くて、二人が自
分たちの初帆さんを造ったんだろうって話だった。実際に確認するより先に徳鮮さんは出
て行ったがね。初帆さんの親兄弟も世話役を辞めてよその町に引っ越してった。」
トキワは力無く笑った。
「そんなドラマみたいなこと、あるわけないよ。好きな人に振られて自殺って」
岸蜜は大袈裟に首を振った。
「これだからアンドロイドってのは。やっぱり人間のことなんざ本当には解らんのだな。
いいか。だから余計に後味が悪いんじゃないか。誰に対しても元気一杯だった初帆さんが
まさか死ぬなんて。おまけに、その片思いの相手が出てくなんて」
 岸密の言葉は、画像を観ている録幸にとっても今一つ理解しにくいものだった。おそら
くそれは初帆という人物を実際に知っていないと、共有しがたい感情なのだろう。
「写真、ある?」
トキワは訪ねた。
「どこかには、たぶん。見付かったら送ろう」
写真の保存先を思い出そうとする素振りもないほど、岸蜜の言葉には淀みがなかった。だ
がトキワはわざわざそれを指摘するようなことはしなかった。画像が消える。

「というわけなんだけど、録幸、ひょっとして知ってた?」
遠操盤から顔を上げる。さすがにトキワも真面目な声だった。
「いや。初めて聞いた」
「ホントに?」
トキワに見つめられるが、本当なのだから疚しくはない。録幸はしっかりとうなずいた。
「お前こそ、知らなかった、の、か」
岸蜜に対してそれは初耳だと言っていたことが思い出される。
「うん。鮮造さんも徹語さんも」
「そんなこと一度も言わなかった。どうしてかな」
質問ではなく、自問の口調だった。
「そりゃそうだろう」
本当だったら気まずくて言えないはずだ。誰かの身代わりに造られたなど。特に祖父たち
はトキワに大きな思い入れがあったようだし、なおさらだ。
「そうだろう、って?」
「そうだろう、って?」
「そうだろうっ、て?」

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「そうだろうっ、て?」
黒河白河が互いの言葉を競うようにして反響させる。しかもそれを妙だとは思っていな
い。
「いや、つまり、それが事実に反するから言わなかっただけでさ。時期が重なっただけ
で、なんにもないんだろ」
録幸は白河黒河の変調をもみ消すかのように、明るい予測だけを口にした。トキワの肩か
ら力が抜ける。
「そっか。そうだよね」
「そうそう。人間ってのはほら、あれこれと関連づけて考えたがるから」
「だよね」
トキワの声が急に明るくなる。やはり暗い方の推測は言わなくて正解だった。やはり岸蜜
の話が気がシステムの安定性を崩していたようだ。こんな反応を眼にすると、アンドロイ
ドに人間のような感情はない、という認識が揺らいでしまう。ひょっとしたらトキワには
トキワなりの感情があり、自分もまたそれを見落としているだけなのではないか。当時の
町民が初帆に対してそうだったように。調子が悪くなったのも、そのせいではないのか。
それとも、それは感情移入にすぎないのだろうか。
「それにしても、循一さんといい、岸密さんといい、みんなおまえのことばっかりだな。
少しは事件解決に役立つ情報を持ってこいって」
とりあえず軽口を言うことで、録幸は自問を堰き止めた。
「しょうがないよ。ここの人にとって、わたしは」
「何十年かぶりの初披露なんだから。注目されるのも無理ないって。それにほら、わたし
ってなかなか美人だし?」
トキワはそう言うと笑った。表も裏もないような底浅い、だからこそ芯からの笑顔だっ
た。

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第五章「行き会う」

 洗い古した作業着に身を包み、目の前の録幸は少し疲れているようだった。歳郎は遠操
盤の録音機能をオンにすると、インタビューを開始した。録幸が新しく始めたサービスに
ついて記事を書くためだ。サービスについて知ったのは十日ほど前のことになるが、鮮造
に関する話を調べたりサミアドモーターズへ新サービスに対する見解を聞きに行ったりし
ているうち、日が過ぎてしまったのだ。これまで友好的だった二軒の関係をついに録幸が
打ち切るつもりなのか。そうなれば何が起きるのか。なぜ、今なのか。この新サービスに
は色々と話題性があり、周辺調査を入念に行ったのだ。
 もっとも、歳郎が調査をしたのは新サービスのことばかりではなかった。年配の町民に
インタビューをするさい、鮮造が町を出る切っ掛けとなった出来事についても聞いて回っ
たのだ。もちろん、軽い雑談を装ってのことだったが、思わぬ収穫があった。
 老人たちの思い起こす噂話には、なぜか二種類のタイプがあるのだ。一つは最初に歳郎
が聞いたのと同じで、鮮造たちがアンドロイドを造ったせいで初帆という女が死んだとい
うもの。そしてもう一つは、初帆が死んだから二人はそれに似せたアンドロイドを造った
というものだった。
 歳郎は戸惑った。自分が掴んだ情報に二つのバリエーションがあるということは、どち
らかが間違っていることになる。彼らが事実として一様に語っているということや、実在
の人物が出てくることから見ても、それは確かなはずだ。少なくとも、三人の関係につい
ては。役所の記録を調べればもう少しはっきりとしたことが判るのだろうが、無関係な第
三者がそれらの情報を閲覧することはかなり難しいことだった。
 種類が二つだけで、しかも同じ種類の間で差異がないというのも不思議だった。片方の
話が変質していって別の話になったのなら、もっと種類があるか、そうでなくとも個々の
話にもう少し違いがあっても良さそうに思えるのだ。変質の仕方もおかしい。二つの話
は、一方に何かが加わったというようなものではないのだ。原因と結果が入れ替わってし
まっている。なぜそんなことになったのか。歳郎の関心は今や、そこに集中している。
 インタビューは低調だった。録幸は今回のサービスに他意がないことを繰り返すばかり
で、そもそもは思い付きに過ぎないのだとしか言わなかった。サミアドモーターズに対し
ても理解は得られているとの返事で、これはアントンへのインタビュー内容とも合致して
いた。事故を未然に防げれば、これほどいいことはないのだ、とアントンは言っていた。
とはいえ、息子のセルゲイはさすがに不快そうにしていた。
 目新しい情報としてはサービスの受付が期間限定であり、締め切り日程は未定だが継続
的なものではないということぐらいだった。
 インタビューは退屈なばかり、というわけでもなかった。録幸の言うことに対していち
いちトキワが口を挟むのだ。その遣り取り自体も見ていて面白かったのだが、それよりも
トキワの仕草や表情が心地良かった。愛想と他愛のなさと明快さが絶え間なく差し替えら
れ、混ざり合い、愛玩の情が掻き立てられる。もしトキワが初帆という人物と本当に似て
いるのなら、誰からも好かれたというのは納得がいく気がした。
 目の前の二人は、鮮造たちと初帆との関係を知っているのだろうか。トキワが知ってる
可能性は低い。いくら相手がアンドロイドでも、誰かの身代わりに造ったなどという話を

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鮮造たちが聞かせるとは思えない。
 録幸が知っているかどうかは、難しいところだった。祖父が町を出た切っ掛けを知らな
いとは考えにくいものの、録幸の父が鮮造を恥じ、憎んでいたことを思えばあるいは黙っ
ていたかもしれない。しかし、直接確かめる気にはなれなかった。そんなことをして気を
悪くされると後々やりづらい。
「まだ、あるか?」
録幸が言う。手に持ったクロスレンチを退屈そうにもてあそんでいる。
「いや、もういい。ありがとう」
歳郎は録音モードを終了すると、遠操盤をズボンのポケットへ入れた。
「サービス始めたのはいいけど、思ったより申し込みが多くてさ。元の仕事が溜まって忙
しいんだよ」
「そういうところは考えなしだよね」
「お前が言うな。お客さんが喜んでんだからいいんだよ。あ、そうそう。それも書いてく
れ。ほら、あー」
「お客様の日頃のご愛顧に感謝してってやつ?」
「そうそうそう。それだ。あと、お客様に喜んで頂けるのが一番の喜びですとかなんと
か」
「書いてもいいけれど、徳録のこと知ってる人間が読んだら、たぶん笑うだろうね」
言いながらすでに歳郎の声には押さえきれない笑いが浸出している。
「なんでだよ」
「だって徳録が真面目にそんなことを言ってる所を想像したら」
それから先の言葉は低く漏れる笑い声に取って代わられる。歳郎に限らず誰もがことある
ごとに録幸をからかう。その流れ全てが、一つの冗談なのだ。それは子供時代に由来する
古いものだった。駒輪屋としてはともかく、個人としての録幸にはもう、その役回りが定
着している。それは録幸の性格によるところもあったが、やはり「徳村」という名前も遠
く影響を及ぼしている。
「とにかく、上手いこと書いておくから。じゃ、僕はこれで。忙しいところ、ありがと
う」
歳郎が立ち去ろうとすると、録幸は引き止めた。
「でも、仕事が溜まってるんだろ?」
録幸は床へ開けられた穴の上にまたがるダークグリーンの駒輪を見遣った。フロントガラ
スがみぞれのように割れ、バンパーも陥没して端が裂けている。領壁沿いに走っていて、
スピードの出し過ぎでカーブを曲がり損ねたのだ。その事故は歳郎も取材し、記事にして
いた。領壁は所々で急に内側へうねっており、時折こうして衝突する駒輪があるのだが、
特に今回は酷かった。
「あれはいいんだ。やっぱり廃車にするしかない。打ち所が悪かったんだな。だから気に
しないでゆっくりしてけよ。このあいだトキワのことで来たときはすぐに帰っただろ」
歳郎はこの後の予定を思い返した。特にない。帰って記事を書くくらいだが、少しなら遅
くなっても問題ない。だいいち、急に自分を引き留める理由が気になった。
「なら、少しだけ」

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歳郎が答えると、録幸はスパナを傍らのカートへ置いた。
「よし、トキワは店番な。お客さんが来たら上にいるから呼んでくれ」
「えー。わたしだけ? ずるいよ」
「そうそう。いつもはそんなこと言わないのに」
トキワは言う。鼻の付け根に小さくしわが寄る。歳郎は手を伸ばし、そのしわを軽くつま
んでみたいような気にさせられる。
「たまには役に立ってもいいだろ」
録幸の語気が珍しく堅い気がする。
「だからそれは録幸がわたしの才能を上手く引き出してないからでしょ」
「長居はできないから、店の方でいいよ」
歳郎は録幸の顔に目を据えながら告げた。録幸も歳郎を見返す。その目線が何かを訴えて
いるようだが、読みとれるものがない。アイコンタクトによる独り言、奇妙なことだがそ
んな感じがした。あるいはまさに今、何かが雄弁に語られているのかも知れない。どのみ
ち、トキワをもう少し観察したいのだから、録幸と二人きりになる気はない。
 録幸は録幸で歳郎の視線から勝手に何かを読みとったのか、やがて軽くうなずくと口を
開いた。
「それなら、ああ、俺は手洗ったりするから、二人で先に行ってくれ」
言われて歳郎とトキワは録幸を残し、作業場から店へ移動した。
 録幸に用事があるときはいつも裏へ回って作業場へ行くため、店舗部分へ足を踏み入れ
たのは久し振りだった。相変わらず駒輪が目一杯に並べられ、狭苦しい。新しい駒輪に特
有の、プラスチックやビニールが混ざりあった甘く毒めいた臭いが満ちている。
 店の片隅にある長テーブルの周りへ、トキワと歳郎は座った。普段は客に製品説明をし
たりする場所だ。壁にはスクリーンディスプレイが吊ってある。様々なメーカーのコマー
シャルが繰り返し再生されているが、音声は出ていない。歳郎は入り口へ背を向ける位置
に、トキワはその向いにそれぞれ腰を下ろす。
「そういえば春湖が、今度ウチに遊びにおいでって言ってたよ」
白河黒河へ均等に視線を向けながら、歳郎は言う。
「ホント?」
予想どおり、トキワは嬉しそうに微笑む。それから少し間を置いて、付け加える。
「じゃあ、録幸に頼んでみる」
「いちいち録幸の許可がいるの?」
「うん。いちおうね。ほら、ああ見えて録幸って心配性だし」
「こんな平和そうなところで何かあるわけないのにね」
こまっちゃうよ、と言いながらも、黒河白河はどこか嬉しそうだった。ほのぼのとした赤
みが頬に浮かんでいる。
「あいつが心配性だなんて、知らなかった」
「そう? 鮮造さんと徹語さんよりも口うるさいよ」
「口うるさくってね」
「言われてみれば確かに、ちょっと頑固なところはあるかもね」
トキワの背後に映る真新しい赤い駒輪が、ギリシアらしい白く四角い家並みの合間を走り

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抜ける。狭い石畳へ差し入る陽光がボディに反射し、両側の壁へ薄桃色を投げかけてい
る。
「この町にも大事件ってあるの?」
急に問われて、歳郎は映像からトキワへ焦点を合わせる。
「うーん。僕が記者になってからはないね」
「そっか。他の町だとほら、昔から住んでる人と引っ越してきた人とが」
「喧嘩して殺人とか」
「ああ。他の町ではあるみたいだけど、白茅町では聞かないな」
歳郎は警戒しつつ答える。何か探られているような気がするが、よく判らない。ひょっと
して、あの噂話に関することだろうか。録幸たちはトキワ誕生の真相を探っていて、自分
なら何か知っているのではと疑われてるのかも知れない。確証はないが、そうだとするな
ら自分たちは協力すべきだろうか。いや、やはり相手の真意がはっきりするまでは黙って
いた方がいい。勘違いから自分が掴んだスクープの種を漏らすことは避けたかった。
「でもさ、そういう事件って揉み消しちゃうなんてこともあるんでしょ?」
「そんなこともないよね?」
「ないね。もし昔あったとしてもそんなこと記事に出来ないから、先輩たちの記憶と一緒
に消えていくんだよ」
 トキワはなぜか、すごく興味深い話を聞いたかのような笑みを湛えて聞いている。ひょ
っとして、ただの雑談なのだろうか。競い合うようにして喋る姿を見ていると、本当に一
つの意識が二つの体を操っていることなど忘れそうになる。そこでやっと、黒河白河の表
情がそれぞれ微妙に違っていることに、歳郎は気が付く。
「僕だって、そんなことがあればきっと誰にも言えないだろうと思う」
つい、言ってしまう。
「春湖さんにも?」
「ああ。たぶんね。だからもしキミが何か人には言えないような大事件を僕に喋っても、
それは二人だけの秘密だ。春湖にも内緒の、ね」
歳郎はどうとでも受け取れるような笑顔を浮かべる。その複雑さに気が付いたのかどう
か、トキワも意味ありげな表情を返す。アンドロイドが曖昧な表情というものまで再現で
きるということに、歳郎は驚く。目論見どおり空疎な曖昧さを判断しかねたのか、トキワ
はそれ以上のことは尋ねてこなかった。
「悪い。遅くなった」
録幸が入ってくる。作業着を脱いだ録幸は色落ちしたジーンズにクリーム色のアロハシャ
ツを着ている。
「相変わらず狭い店だね」
「ああ。新製品を次々出すからな。まともに並べたら店の中に入らない」
自分で仕入れておきながら、うんざりした顔で言う。
「そういうところは」
「考えなしだよね」
「いやさ、あのな。だから――」録幸は言葉を切り、本人以外には意味の汲み取れない手
振りをし、それも中途半端なところで止める。「とにかく、さっき録音した言葉を再生す

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るだけってのはやめてくれ。情けなくなる」
「え、今の、録音? 聞き分けられるの?」
「ああ。一緒にいるとな、なんとなく判るんだ。声の感じで。少しだけどザラついた感じ
がある。どうもこいつとしては気の利いた冗談のつもりらしいんだけど、意味が判らな
い」
「それは録幸に笑いのセンスがないからだよ。歳郎さんなら」
「いやぁ。アンドロイドのセンスはちょっと」
苦笑して歳郎は答える。
「そんなに落ち込むことないよ」
白河が身を乗り出し、歳郎の肩を軽く叩く。
「ずいぶん優しいんだな」
録幸の言葉に、トキワはからかうような目つきをする。
「ほら、よしよし」
白河は拳で、録幸のこめかみを柔らかくこづく。
「いや、いいって」
乱暴な手つきで録幸は白河の腕を払おうとし、アンドロイドの硬い芯骨に思いきり右腕を
ぶつけて呻いた。
「びっくりした?」
「びっくりした、じゃねえよ。危ないから関節は固定するなって言っただろ」よほど痛か
ったのか、録幸はぶつけた腕を強く押さえている。「笑ってないで歳郎も何か言ってやっ
てくれ」
「僕には言うことなんてないよ。ま、お幸せに。そろそろ帰らないと」
歳郎は立ち上がった。やはり、何か妙だった。特にトキワと話しているとその感が強い。
なぜそうなのか掴みきれないが、用心するに越したことはない。
 歳郎はなおも引き留めようとする録幸を曖昧にやり過ごすと、猜疑心をしたたらせなが
ら徳村輪舗を後にした。


 領壁に手を触れても、風に削られ鈍磨した硬さ以外は何も感じられない。外側の気配を
伝えるのに、壁はあまりにも厚すぎた。真昼の太陽から蓄えた温もりも、日陰となってい
る裏側へ抜けるどこか奥深くで途切れてしまい、表面には幾らも残っていない。数樹は領
壁から手を離すと振り向いた。
 目の前には片側二車線の車道がある。その先は草地になっており、少し離れたところま
で杉林が迫っていた。白茅町を開発する際に残されたものだ。伐採されることもなく育っ
た杉はどれも超然と幹を太らせ、梢を膨らませている。かつては等間隔で植えられていた
のだろうが、今は雑然とした茂りとなっている。弱い個体から枯れ絶え、残った個体の滋
養となっていったのだ。
 領壁と林との間は三〇メートルほどで、元はそこも杉木立の中だったのだが、領壁やそ
れに沿った外周道路建設のときに切り拓かれてしまった。
 林の中には人が通れるくらいの小道があるが、駒輪が通り抜けることは出来ない。ま

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た、ここまで来ても何があるというわけではないので、周囲には誰もいない。林の向こう
には新たに造成された移民用の宅地が広がっているのだが、そこからの物音も居並ぶ木々
の合間を抜けきれず、数樹のいる場所までは届かない。
「そっちの様子はどうだ?」
数樹は傍らの常磐に声を掛けた。常盤は蚊に刺された腕を掻いていた手を止め、首を振
る。
「なんにも。ねえ、本当に上手くいくの?」
何度目か判らないくらい繰り返された問いに、数樹は辛抱強く答える。常磐は気にかかる
ことを何度も言う癖があった。その度に数樹は同じ答えを返すのだった。
「大丈夫だ。このままじゃ録幸は犯人を見付けられないだろう。素人だからな。そうなり
ゃ町には居られない。でもな、お前が雇ったプロの道理屋も失敗すりゃ、録幸の失敗だっ
て仕方ないってことになる」
「でも、録幸君にあんなことまで言って」
「しょうがないだろ。他にいい理由もねえんだし。気にすんな。あいつを守るためだろ。
後で説明すりゃ判ってくれる」
日頃、どれほど他人を苛立たせることを言おうが気付きもしない常磐が、録幸に対して放
った暴言を今になっても気に病んでいるという事実に、数樹は内心嘆息する。その気遣い
が僅かでも他の人間に向けば、常磐もこれほど苦労することはないのだ。しかし常磐が理
由も解らないままに何年も録幸のことを想っている事実を考えれば、無理もないのかもし
れない。常磐の場合はそれほど執着して、やっと気遣いが発揮できるのだろう。
「でも、やっぱりそんなに上手くいくなんて。それに、もし覇介さんが犯人を見付けでも
したら」
「その点に関しては大丈夫だ。犯人を見付けるなんてことたァない」
常磐はいぶかしげな目を数樹に向けるが、数樹は笑顔を向けるだけだった。細い目がます
ます細くなる。
 このままではいずれ、依頼に失敗した録幸は町から立ち去ることになる。そう言って常
磐にプロの道理屋を招くよう勧めたのは数樹だった。最初は信じられないといったふうだ
った常磐も、録幸から自治会役員への報告がいっこうに進展しない状況を見て、ついに同
意したのだった。
「遠からずこんなことになるのは判ってたでしょ? なのにわざわざあのアンドロイドを
修理するなんて。そりゃ数樹君は自業自得で済むけど」
常磐の言葉に数樹は苦笑する。慣れもあるが、元々数樹は相手に悪意さえなければ、それ
ほど腹が立たない性格だった。
 自分ではどこで出てしまっているかさえ知覚できないような欠点ならば、それは障害の
ようなものだとも思う。数樹には他の人間がそんな常磐の障害をなぜこれほど忌避するの
か判らなかった。常磐に落ち度があるというものではないのだ。
 数樹はまた、背後にそびえる領壁を見た。下から見上げる壁はなぜか、こちらへ向かっ
て湾曲しているようだった。それが右にも左にも延々と続いている。照り返しのまぶしさ
はない。それが余計に領壁の、絶えず存在しているという印象を強めていた。そのくせ弾
き返された風が上方から吹き付けてくる。

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 たまたまそこにあるというだけで数樹の、常磐の、全町民の日常領域を規定している領
壁が数樹には疎ましかった。閉じ込められているわけではないのだから、その気になれば
外へは出られる。しかしそれでも、結局は戻ってこなければならない。
 領壁が不自由さの象徴であるとか、自分が閉鎖的な人間関係に束縛されているとか、そ
ういうことを感じるわけではない。ただ、少しがっかりするのだ。それは没入型デバイス
で体感的にはどれだけ長い距離をネットで辿ろうと、電源を切れば自分が全く移動してい
ないことを目にしたときの、軽い疲労感に似ている。だからこそ領壁は憎いのではなく、
疎ましいのだった。領壁からの眺望を好む人間がいるのは知っているが、それも数樹から
すれば自分の暮らす世界の狭さをわざわざ再認識するようなものであって、余計に煩わし
さが増すだけなのではないかという気がする。
 視線を常磐へ戻す。領壁を眺めていたせいで、やや全体に重心が下へ寄っているような
顔立ちがなおさら柔らかく感じられる。何を考えているのか、常磐もまた領壁を見上げて
いた。口が軽く開かれ、仄暗い影に歯の先が覗いている。
「ね」
常磐の視線が一瞬数樹を捉え、次いで右上へ逸らされ、再び数樹へ戻る。
「覇介さんが絶対に犯人を見付けないって言ってたけど、どうして?」
常磐の中の、他人には理解しがたい時間感覚が先程の会話の続きを数分後の今へ繋げたら
しい。こうした散漫な会話の組み立ても、常磐が他人と上手くうち解けられない理由の一
つだった。
「まあ、隠す必要もないか。あの人はな、爺さんたちの弟子だったんだ」
「弟子? でも、数樹君近くに道理屋が来てるからとしか」
「それは嘘じゃねえ。確かにあんときこの町から一番近くにいた道理屋は覇介さんだ。た
だ、そいつは俺が呼んでおいたからだ。お前に話を持ちかける前にな。道理屋ってのは急
になれるもんじゃない。一人前になるまではキャリアのある道理屋に就いて仕事に慣れる
んだ。で、だいたい金が貯まって自分のアンドロイドが買える頃んなると、師匠の道理屋
が身元保証人になって移動事業者証明書をもらって独立するわけだ。あの証明書がねえ
と、よその町ぃ行くときに不便だからな」
「けど、それと犯人を見付けないことと、どう関係するの?」
「だから、覇介さんも事情は知ってんだよ。つまりな、お前の依頼を受けたのも俺の依頼
を達成するための手段なんだ」
「私が覇介さんを雇ったのが、数樹君の依頼なの?」
「じゃなくて。来るべき自治会役員と録幸との揉め事を回避してくれってのが俺の依頼
だ。まあ、犯人探しに失敗してくれって頼んだわけじゃねえが、成功すりゃ俺との依頼は
果たせなくなる」
やっと常磐は納得したという顔をした。凝視が数樹の顔から外れる。
 そのとき、数樹の遠操盤が鳴った。数樹はズボンのポケットから遠操盤を取り出し、電
話に出た。
「もしもし」
「あ、上見て」
言われるままに見上げると、領壁の縁から逆光になって誰かが顔を出していた。

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「歳郎です」
「お前、どうしてこんなとこに」
動揺を消し忘れた。数樹がそのことに気付いたのは「とこに」と言っている最中だった。
「いやね、天気がいいんで領壁の上で原稿でも書こうかと思ったら遠くに人影が見えたん
で。誰だろう、と。自治会長の娘と若手プログラマーの密会なんて、いい記事になりそう
ですね」
歳郎は穏やかに言う。もちろん冗談だ。数樹が常磐のただ一人の友人であることは、二人
を知る人間なら誰でも知っている。
「上がってきませんか? 二人がこんな所で何をしているのか、ぜひ知りたい」
「だれ?」
常磐が尋ねる。
「歳郎だ。上がってこいだとさ」
送話口を押さえて数樹は答える。
「なんであんな所に」
「あいつが変人だからだ」断言すると数樹は送話口の手を離した。「今から行く。近くの
階段はどこだ」
「そのまま北の方へ五〇〇メートルくらい行った先です。そこからだと木に隠れて見えな
いのかな。僕もそっちへ移動しますよ」
通話はそこで切れた。歳郎は風を打ち砕き上まで届けと大きく舌打ちをした。
「とにかく行くぞ。何としても誤魔化す」
「誤魔化すって」
常磐は足早に歩き出した歳郎の後を追う。
「たまたまここで擦れ違ったとでも言やぁいいだろ」
「それって、下手な言い逃れじゃない?」
「じゃあ何かいい理由でも考えろよ」
苛立たしげな声で言う。しかしそれでもそれは常盤に向けられたものではなく、歳郎に見
られたことへ向けられたものだった。

 最後に見たとき、よほど自分は幼かったのか。領壁からの眺めは数樹の記憶よりずっと
狭かった。旧家の家並みも下から見上げる印象よりは低く、美しい風景ではあったが、や
はり自分が暮らす世界の狭小さを実感させられた。踊り場から少し離れて歳郎が立ってい
る。首から提げたタオルで顔の汗を拭っていた。
「我ながら奇癖だとは思うんですが、こんな役に立つとは思いませんでした」
臆面もなく言い放つ歳郎を数樹は無視した。
「むしろ悪趣味? 上から覗くなんて」
常磐が言う。
「普段はこんなことしないよ。たまたま目に入ったんだ。そうすると記者だからほら、放
っておけなくて。で、二人はどうしてまた」
「秘密の逢瀬ってやつでね。自治会長の一人娘を奪ったなんて親父さんに知れたら。それ
こそ大変だ」

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数樹としては歳郎の芝居がかった口調を精一杯真似たつもりだったのだが、似ていなかっ
たのか黙殺されたのか、歳郎は笑うだけだった。
「いくら数樹さんが面倒見がいいからって、それはないでしょう」
「お前こそ、本当に記事書いてたのか? このクソ暑い所で」
「そうですよ。ほら」
歳郎は手にしたタブレットディスプレイを見せる。録幸の新サービスについての記事だっ
た。
「さっき、徳録に会ってきたんだ。ちょっと見ないあいだにトキワちゃんとはずいぶん、
その、仲良くなったみたいだね」
数樹は背後に立つ常磐の反応が気になったが、さすがに確かめるようなことはしなかっ
た。ただ、胸焼けのしそうな厭な気配が感じられる。
「一緒に住んでるんだからな」
「いや、でも、あれは何と言うかもっと」
「もっと?」
常磐が問う。不機嫌さのあまり、そこには足元の領壁にも劣らない威圧感が含まれてい
た。
「そんなことより二人ですよ」
慌てて歳郎が話題を変える。声が少しうわずっていた。
「そんなこたぁどうでもいいだろ。詮索すんなよ」
数樹はうるさそうに手を振った。
「仕事ですから」
歳郎の声はまだ落ち着いていない。
「職業病だな。たまたまあそこを通り掛かったら常磐と会っただけだ。そうやって何でも
かんでも意味ありげに見るんじゃねえ」
数樹はなるべく落ち着いた口調で説明した。歳郎は黙る。だが数樹の言葉に納得したわけ
でもなさそうだった。
「歳郎君こそ、どうしてそんなに怪しむの?」
常磐が尋ねた。普通の声音に戻っている。
「場所が場所だからね」歳郎は言う。「そう、場所が場所だ」繰り返してニヤリと笑う。
「新井さん大爆発、だよ」
得意げに歳郎は宣言する。
 「新井さん大爆発」というのは三人が生まれる少し前に起きた事件だった。新井という
移民の挙動が不審だったため自治会が事務員を使って極秘に調べさせていたところ、彼が
犯罪組織に関係していることが判明した。そのため慌てて取り押さえようと警察が自宅を
訪問したところ、踏み込むより先に相手が爆死してしまったという事件だ。それによって
事務員が自治会の密偵的役割を果たしていることや、身元審査の不徹底などが露見してし
まい、当時の会長は辞めざるをえなくなった。その跡を継いだのが鷹雄だった。
「あのな。こいつがそんな器用なこと出来るとでも思ってんのか」
数樹は常磐を目線で指す。
「さあ、それはなんとも。でも、そう考えたのにはちゃんとワケがあるんです。最近、林

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の向こうの移民が常民と上手くいってないっていう噂があるんですよ。移民の側にも常民
の態度へ不満が出だしているとか。もしそれが本当なら役員が放っておくはずない。今度
その特集をしようと思って。今日ここへ来たのだってこうやって遠くから眺めて、イメー
ジを膨らませようってのもあるんです」
数樹は歳郎の指さす先を見た。手前に茂る弓なりの杉林が終わった先に突然茶色い平野が
広がっている。どれもおおよそ同じ大きさで、微妙に風合いの異なる土肌と真新しい家の
間を格子状の道路が走っている。空き地と住宅の割合は同じくらいで、建設中の覆いで囲
われた所もある。そこは、再び杉林を挟んだ向こうに見える古くからの町並に比してあま
りにも整然とした場所だった。これまでの町が徐々に付加される形で拡大したのとは違
い、今回は一斉に同じような大きさと形の土地を提供したせいだというのは想像できた
が、それでも数樹にとっては全く見知らぬ町を白茅町の外れへ移築したかのような感があ
った。
「そういう、人の不安を煽るような真似は感心しねえな」
数樹は不機嫌そうに歳郎を睨んだ。心持ち上目遣いになったせいで、細い眼の中が白い部
分で占められたように見える。
「いや、逆です。常民はいったい何をしているのか。この町は移民も暖かく迎え入れるの
が美点だったのではないか。そういった論調の記事を書こうと思ってるんです」
歳郎は歯を見せて笑った。それから少しだけ眉を持ち上げてみせる。それを目にして数樹
の眉が下がった。口は余計に固く閉じられる。
 数樹は歳郎が鷹雄殺害事件について知っているのかどうか量っていた。歳郎も自分が何
かについて疑われていることは自覚しているらしいのだが、表面上は数樹に凝視されてい
るので戸惑っているというふうだった。実際ただそれだけなのかもしれないが、数樹には
判断が付かなかった。
「数樹さんはあそこに見える家のパソコンも扱ったんですよね。何かそれらしいものを見
たりしてませんか? 妙に態度が硬かったとか」
「さあな。そもそも俺は馴染みのない客にはあんまり愛想が良くない」
「ひょっとしたら危険人物かもしれないから?」
「そうじゃねえよ。ただ、苦手なんだ」
歳郎は腕を組むと嘆息した。
「ネットでも?」
「ネットじゃそもそも、共通の話題がありそうな相手としか話さないだろ」
「あぁ」
力無い呟きを聞いて数樹は薄く薄く笑みを漏らした。歳郎も見た目ほど余裕というわけで
はないらしい。
 会話が途切れた。町内へなだれ込む風に、常磐はスカートを手で押さえている。その、
むき出しになった腕の一部が、虫刺されを中心に赤らんでいた。二人の男はそれぞれの考
えを巡らせながら、その姿を眺めている。
「ね。そろそろ帰らないといけないんだけど。後は二人で適当にやってくれない?」
「ああ、判った。じゃ、またな」
歳郎が気分を害している間に数樹は言う。

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「うん。またね」
右手でスカートを押さえたまま左手で手を振ると、常磐は黒光りする螺旋階段を降りてい
った。サンダルの硬いヒールで鉄板を打つ音が旋回しながら遠ざかっていく。
「よくあんな人に付き合ってられますね」
「我慢してるワケじゃねえ。気にならねぇんだよ。鈍感だからな」
「うーん。そういう話は移民の人にした方がいいですよ。残念ながらあなたが繊細なこと
は誰だって知ってる」
「ならみんな俺にもっと優しくしてくれないのはどういうワケだ? どいつもこいつも厄
介事を持って来やがって。移民がおかしくないか教えろだのなんだの」
数樹は徐々に声を大きくしていった。
「はいはい。解りました。僕の方から訊きたいことは、あ、最後に一つ」
「なんだ?」
「その特集なんですけど、我が町の常民の心意気を知っている代表として前自治会長に話
をしてもらおうかと思ったんですけどね、急に旅行に行っちゃったそうなんです。思い切
り羽を伸ばしたいだかなんだかで遠操盤にも出ないし連絡先も教えてくれない。どう思い
ます?」
「どう思うって、どうもないだろ」
答えながら、背中へ汗が流れ落ちるのを不快なほど鮮明に感じた。
「いえね、急に旅に出た人が帰ってこないこと多いでしょう? この町。嫌な予感がしま
せん?」
不自然にならないくらいの間をおいて、数樹は首を振った。
「徹語爺さんのことがあるから訊いてんだろうが、そんなこたァない。前もそうだった。
やっぱり鈍感なんだろ」
「そうですか。どうもありがとうございます」
帰ってもらっていいですよ。歳郎はそう続けそうだった。
「じゃあな」
数樹は軽く片手を上げると歳郎に背を向け、階段を降り始めた。
 歳郎が鷹雄の件について何か知っているのではないか。数樹は最後の遣り取りからそれ
を確信しかけていた。そのことに問題はない。どのみちこうした事柄は漏れ出すものなの
だし、他にも数樹が知らないだけで関係者は案外に多いのかもしれないのだ。問題は歳郎
も含めたそれらの人間が誰の立場なのかということだった。事件の解決を願う者の立場な
ら録幸の協力者となるだろう。しかし、さっきの態度を見る限りではそれはなさそうだっ
た。
 そうでもねぇか。数樹は思い直す。歳郎から見れば、自分こそ事件について本当に知っ
ているのかどうか不確かな存在なのだ。そこでまた、数樹は歳郎が協力者のはずはないと
考え直す。誰が歳郎へ話したのかは知らないが、今になって歳郎へ協力を頼んだとは考え
にくい。かといって前々から知っていたのだとすれば、これまで録幸へ接触していないの
が妙だ。それなら録幸は自分へ伝えるはずだからだ。となると、歳郎は敵対者である可能
性が高い。
 よし。そう口に出すと同時に再び汗が噴き出してきた。吹き抜ける風は妙に冷たく、シ

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ャツを背中へ貼り付かせた。


 先代の世話役である鱗太郎は移民だったとはいえ、録幸が生まれるよりも前から白茅町
に暮らしている。今では常民の部類で、家もそれなりに古びていた。家中に線香の残り香
が染みついて発酵している。どこかに仏壇があるのは疑いようもなかった。
 鱗太郎から最初に連絡があったのは、宮貴に会ってすぐのことだった。しかし鱗太郎は
用事があるだのなんだのと言い、けっきょく今日まで会うことができなかった。
 録幸とトキワが案内されたのは客間だった。広めのフローリングの部屋には白を基調と
したテーブルや、それを取り囲むように配された屈強なソファーが置かれていた。麻色の
ラグマットは長年の内になめされたようになっている。トキワはそのマットの上へ座って
いた。
「鱗太郎さん、そっちは、その」
録幸を部屋へ通すと鱗太郎は待つように言い残して出て行ったのだが、戻ってきたときに
は女性を連れていた。やたらと平板で、地味な顔立ちの四〇過ぎらしい女だ。白い、投げ
遣りな英語のロゴがプリントされたTシャツを着ている。
「なに言ってるの? お店にいたじゃない」
女が答えるよりも先にトキワが言った。
「お店って、どこの」
「ビーラスカ。見てなかったの?」
録幸は思いかえしてみたが、何も浮かばない。しかし、どこかで見てはいるのだろう。な
んとなく覚えがあった。
「咲原ローレッタです。ローラと呼んでください。あ、夫から話は聞きました」
「ローレッタ?」
ローレッタは録幸の声に含羞と倦怠の混ざりあった目を向けた。
「父がイギリス出身なんです。よく驚かれるんですけど」
何度も言われてきたことなのだろう。ローラは変に形式化された調子で言う。
「妻が死んでから、時々様子を見に来てくれるんだ。今日もたまたま来ていてな。関係者
なんだからいいだろう」
信じてもらえるとは全く思っていないことが窺える口調で、鱗太郎は付け足す。
「それなら、まあ」
録幸は傍らのトキワを見遣ってから、しぶしぶうなずく。鱗太郎とローレッタは録幸の向
いへ腰を下ろした。
「それにしても、鷹雄が殺されるとはなあ」
鱗太郎は張り出した額を左手で覆うと、軽く揉んだ。額を覆う脂が枯れているのか、指は
しっかりと皮膚を捉えている。
「心当たりは」
「連絡を受けてから色々と思いかえしてみたんだが、ないな。頑固なところはあったが、
悪いヤツじゃなかった。あんたたちの考えだと、鷹雄が悪くて殺されたワケじゃないらし
いが」

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「それで、宮貴さんの件ですけど……」
録幸はローレッタの表情を窺った。何を考えているのか、乏しい表情からは読みとれな
い。むくんだような目蓋のせいで、どことなく不健康そうだ。
「馬鹿馬鹿しい。宮貴君が誰かを殺したり、殺させたりするわけがない。移民が常民とは
別の輪を作りつつあることは確かだとしても。それで悩みこそしているが利用しようなど
と思ってはいないし、ましてやそれを宮貴君自身が仕組んだなんてこともない。ローラ君
も何か言ってやんなさい」
「あの、他に容疑者はまだ居ないのでしょうか?」
録幸を直視しないまま、ローレッタは尋ねる。
「それは、その、言えません」
「どうして言えんのだ」
「プライバシー、とか。他に容疑者がいたとしても、そうそう他の人へ明かすわけにはい
きません」
「そう、ですか」
ローレッタの声だけが沈んでいく。
「まあそう落ち込むことはない。宮貴君の疑いはそのうちきっと晴れる」
鱗太郎の言葉にも、ローレッタは形だけ笑んでみせるばかりだった。
その表情へ録幸の記憶が朧気に呼応した。
「ひょっとして、ローラさんこの町の生まれじゃないですか?」
ローレッタは初めて録幸をちゃんと見た。
「ええ。私は親の代からここに住んでいます」
「やっぱり。宮貴さんが来るよりも前から、見たことあるような気がしたんですよ」
「それもよく言われます。夫が移民なのと、私が目立たないから」
ローレッタは余計に悲しげな顔で微笑む。
「いや、その。すみません」
「いいんです」
そこで言葉は途切れ、長い沈黙があった。謝る録幸を鱗太郎とトキワが黙って責める。
 ややあって無造作に首を振り、ローレッタは目にかかる前髪を払いのけた。
「あの、事件ですか。そのことで、ちょっと」
そう切り出したものの、ローレッタは録幸と視線を合わせようとしない。
「何か、知ってるんですか?」
「いえ、知っているというわけでは」
言いながら声が小さくなる。
「ローラさん、気になることがあるなら言いなさい。大丈夫。道理屋は依頼主の手先じゃ
あない。そうだね?」
鱗太郎の言葉を録幸は無言で肯定した。
「移民の人が常民の人と馴染む気のないようなことをするというのは、本当です。でも、
それだけじゃないんです。夫とも、えと、あんまり」
「馴染んでない?」
「いえ、そうじゃないんです。ああ、説明が下手ですみません。色々と頼ってはくれるん

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ですが、どうも頼り切ってもらえてないような、気持ちが上手く通じてないような」
「本当か? 宮貴君はそんなこと一言も」
驚いて鱗太郎はローレッタの顔を見た。
「心配を掛けたくないんです。それに、気のせいかもしれないって言ってましたし」
「それで、事件とは」
「はい。すみません。それでですね、夫は必ずしも人を殺させたりとか、そんなことがで
きるほどじゃないんです。えっと、判りますか?」
「ええ」
「だから、もし犯人が移民だったとしても夫とは無関係だと思うんです」
「逆に、隠れ蓑にされたかもってこと?」
黙って聴いていたトキワが突然喋った。
「いえ、そこまでは」
またも声は急速に小さくなる。過度に内気そうなその態度に、録幸は嘘を吐いているのか
どうか疑うことを忘れそうになった。しかしそのことに気付いてみても、やはり疑う気に
はなれなかった。
「それで、どうする? こんな所にいるくらいなら、移民の宅地にでも行ってた方がいい
んじゃないかね?」
それは録幸自身も考えていたことだった。しかし、ただ行くだけでは仕方がない。出張点
検サービスをしようにも越してきたばかりの、しかも地理的にはサミアド・モーターズの
客になりそうな人間相手にそんなことをすれば、それこそ本気でアントンの客を奪うつも
りだと思われかねない。かといって移民同士に結びつきがあるのなら、無目的にうろつい
ていると目立ってしまう。録幸は素直にそのことを打ち明けた。
「そうか。そりゃ難しい。後々を考えると、越してきたばかりのフリをするわけにもいか
んわけだなあ」
「何かいい案ありませんか」
鱗太郎は唸り声を上げると黙ってしまった。録幸もトキワもローレッタも黙っている。
 ひょっとして自分はまだどこか本気ではないのかも知れない。ふと録幸はそんなことを
思った。容疑者の妻と協力者にアドバイスを求めるなど、真剣に事件へ取り組んでいるに
しては緊張感が足りないのではないか。調査が進展しないのはそのせいかもしれない。覇
介はどれくらい真相に迫ったろうか。そんなことが頭に浮かぶ。そもそも、相変わらず失
敗して町を追い出されるというイメージが実体を失ったままなのだ。その実感が取り戻せ
なければマズイということは判っている。だがそれで味わうことになるだろう重圧を考え
ると、このままでいたいという思いもあった。
「アイデアがあれば連絡しよう。私も事件解決そのものに協力する気はあるのでな。宮貴
君のことを除けば。他に何か訊きたいことは?」
「いや、特に」
慌てて我に返りながら録幸は答えた。
「そうか。なら今日はこれで」
鱗太郎は初めて笑顔を見せた。その隣で力強くうなずくローレッタは鼻の脇へ、酷く汗を
にじませていた。

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第六章「掛け違い」

 ビールのほろ酔いと部屋を席巻する沈黙が録幸の意識を握り込み、眠りへと引っ張って
いる。録幸はそれに抗うこともなく、ソファへ身を沈めていた。
 夕食を終えた録幸とトキワは何ということもなくくつろいでいた。しかし、そこには少
し前のような会話がない。トキワのぼんやりと黙っている時間がますます増え、録幸の呼
びかけに応じないことも多くなっているせいだ。トキワの関心を外界へ向けようという努
力は失敗した。そもそも、トキワが思考に沈んでいるというのは本人の言葉であって、録
幸にはトキワが不調で稼働率を下げているようにしか見えない。
 やっぱり無理にでも数樹ん所に連れてくか。眠りの狭間で切れ切れに録幸は考える。数
樹の仕事を邪魔するのは悪い気がするが、日に日に人間味が維持されなくなっていくトキ
ワを見るのは辛かった。「考え事」をしているあいだ、トキワは脚を組み替えたりまばた
きをしたりといったことが全くなくなってしまうのだ。人間にしか見えないだけに、それ
は傍らにいる録幸をなんとも居たたまれない気分にさせた。
 喋り方が変わってきたことも気がかりだった。録幸がトキワを不調だと見なす主な理由
もそこにあった。このところのトキワは「二人の存在を演じるトキワ」ではなく、「白河
黒河という二人のアンドロイド」という印象が強い。一人の発言を分担して喋ることは減
り、ときには互いの発言を遮ることさえある。
 現状の再確認だけを怠惰に繰り返す録幸は、自分の名前を呼ばれて我に返った。見れば
床に座った白河黒河が録幸を見上げている。録幸はまだ少しまとまりの悪い意識で、問い
かけるように軽く笑みを投げかけた。それは妙に頑なな二対の眼に拒まれる。
「どうしてわたしのこと、名前で呼んでくれないの?」
唐突な切り出しが突きつけられ、録幸は急速に目覚めた。
「いっつも黒河、白河って。それ体を呼び分ける名前だけど、わたしの名前じゃないよ。
録幸のことを体の一部でしか呼ばないのと同じ」
録幸は反論しようとして言葉に詰まる。
「よくそんなこと憶えてるな」
酷く間の抜けた言葉が勝手に出てくる。
「録幸のことなら、どんなことでも憶えてるよ」
トキワは臆面もなく断言する。それがアンドロイドの場合、文字通りの意味でしかないこ
とは解っているが、それでも録幸は場違いなくすぐったさ味わった。
「やっぱり、あっちの常磐のせい? 同じ名前だから」
「ああ。そうだよ。それだけだ」
録幸は、他に何が? という表情を付加する。
「それだけじゃないよね。録幸、わたしを見てない。やっぱり黒河と白河っていう表面し
か見てないよ」
「あのな、俺は人間なんだ。二人分の体があれば、そりゃ二人居るように接しちまうだ
ろ。第一、おまえたちだってそう見えるように振る舞ってんじゃないか」
白河黒河の口の端に笑みが溜まる。両方の目は限りなく泣くことへ近付く。
「おまえたち、ね。それって、誰と誰?」

- 98 -
失敗した。録幸がそう思う間もなくトキワは立ち上がる。
「おやすみ」
部屋を出て行った。残された録幸には、今喋っていたのが黒河だったのか白河だったの
か、それさえはっきりしなかった。

 周囲の風景が脈絡を持たない。見慣れた狭いベッドは窓から差し込む薄明かりに覆われ
ている。カーテンのない窓は裏通りに面しており、裏向いの花屋の壁が見えている。建物
の中で唯一うち捨てられた部分であるその壁には昔年の汚れが筋をなして塗り重ねられ、
粉を吹いたようになっている。屋上からやや下がった所には、辛うじて見分けられる程度
の青い塗料の跡がある。録幸が思い出せる限りの昔からあるものだ。子供の頃「おばけの
目」と名付けて恐れたシミも見えている。窓脇の時計が、もう正午に近いことを示して
る。今日は定休日なのだ。
 重たかった視界が徐々に醒めてくる。同時に、トキワとの会話が思い出された。「おや
すみ」と言い残して部屋を出て行ったトキワの寂しげな横顔が木目に重なり、溶け去る。
録幸は窓から室内へ視界を転じた。白っぽい影がぽつりとドアの前に立っている。それは
虚ろさを掻き集めて出来ていた。形だけが人間だが、他は何もない。幽霊だ。強引に意識
が冴え返る。
 よく見るとそれはトキワだった。しかし、一人しかいない。録幸の位置からは髪ゴムが
見えないので、黒河か白河かは判らなかった。録幸の中の記憶に補われて、トキワは生気
を増す。
「おい、どうした?」
反応がない。重ねて何度か問いかけると、トキワはやっと顔を上げた。それでも返事はな
い。普段は皮下の色素板によって表現されている、頬の暖かな色合いも欠乏している。そ
のままトキワは録幸のベッドへ覚束ない足取りで歩き寄り、少し手前で倒れた。ただた
だ、重いものが床へぶつかっただけの音がする。
「大丈夫か?」
録幸はベッドから降り、トキワに歩み寄った。
 最初に後ろに回り込んで髪を束ねているゴムを確認すると白かった。こんなときでも髪
は乱れなく結わえられている。
「しっかりしろ」
言って白河の頬を軽く叩く。水分のない、そのくせ妙に艶のある頬を手の平で感じて初め
て、録幸は自分が嫌な汗を掻いていることに気付いた。首関節が固定されているせいで、
強張った押し心地がした。
 突然、白河の顔へせり上がるように知性が宿った。不思議そうな表情が室内を見回す動
作にスライドし、最後に録幸で止まる。
「え?」
開いた口から過剰に尻上がりな声が出てくる。
「え? じゃない。どうしたんだ」
足音が聞こえたかと思うと、急にドアが開いた。
 入ってきたのは黒河だった。白河の隣に並んで立つ。

- 99 -
「どうしたの?」
「起きたら白河が立ってたんだ。呼んでも返事しないし。お前、どうしたんだ?」
二人は微かにずれながら、首をかしげる。縛った髪の先が見えた。
「今から三二分四〇秒前に記録が途絶えて、それっきり。白河の方にも記録なし」
黒河が答える。
 トキワの瞳が録幸を見詰める。その目の周りへ微かにこもった強張りが不安を漂わせて
いる。何か言おうとしたものの、適当な言葉が浮かばずに録幸はただ黙った。やがてトキ
ワの弱々しい視線は、静かに伏せられた。差し入る仄かな光の中で、思いがけないほどの
暗い影がまぶたに落ち掛かる。
「ごめん。本当に解らない」
二つの声が口の端からこぼれる。
 あまりの頼りなさに録幸は、思わずトキワの肩へ手を伸ばしそうになる。しかし、衝動
は実行されなかった。どちらの肩へ手を伸ばせばいいのか迷ってしまったためだ。無駄に
私を分けないで、という言葉が思い出される。私の肩にも手を置いて、そう言っていたこ
とも思い浮かぶ。わたしを見ていない。その言葉は生々しく突き刺さったままだ。迷いは
録幸の中に居座り、行動を遅延させ続ける。
「後で数樹に相談しよう」
やっとのことで穏当なだけの意見を言った。落胆するでもなく安堵するでもなく、トキワ
の顔から普段は存在しない表情や硬さだけが抜け落ちる。
「そうだね。仕方ないよね。じゃ、わたし」
「朝ご飯作ってくるから」
残りの表情に笑顔を軽く含ませると、トキワは部屋を出て行った。
 疲労感が凝固する。録幸はベッドに座り込んだ。もうスプリングが弱っているせいで、
腰はとめどなく沈んでいく。柔らかな表面の奥に細い金属の気配が感じられる。しかし日
頃親しんだ感触も、落ち着く役には立たなかった。
 録幸は立ち上がると、作り付けの小さなクローゼットのドアを開けた。ドアには子犬の
イラストの描かれたシールが貼られている。子供の頃に録幸自身が貼ったのだ。少しシワ
の寄ったそれはかなり色褪せ、端の方から表面のコーティングビニールが剥がれてきてい
る。
 ハンガーに吊されたシャツの中から、暗緑色の一着を選ぶ。背中の肩胛骨辺から肩にか
けて、淡い茶色みを帯びた鶏卵色のタイルパターンがプリントされている。
 それから、椅子の背に掛けた麻色のスリムパンツを取り、寝間着代わりのくたびれたT
シャツを脱いでゆっくりと着替える。
 着替え終えると壁に設置された充電器から遠操盤を取り、録幸は数樹へ電話を掛けた。
「はい、アルゴラボです」
運良く数樹とつながったが、聞こえてきた声は疲労の極地にあることを伝えてきた。
「あ、俺」
録幸は数樹の疲労を無視すると、トキワの変調について一方的に話した。そのあいだ数樹
はほとんど無言だった。時折、寝ているかのように静かな吐息が聞こえてくるだけだっ
た。最後に、食事を終えてからトキワを連れて行く約束をすると、録幸は通話を切って胸

- 100 -
ポケットへ遠操盤を滑り込ませた。
「食べに来ないの?」
廊下からトキワの声がする。
「数樹に電話してたんだ」
言いながら録幸は部屋を出た。
 狭い廊下の両側には幾つかのドアが並んでいる。その中に一カ所、壁の途切れるところ
がある。どこの国かは知らないが、東南アジアらしい影絵を思わせる風景の染め付けられ
たのれん。それを両手で掻き分けて部屋へはいると、そこがダイニングキッチンになって
いる。六人家族でもゆったりと使えるような大きなテーブルの上に朝食が並んでいた。
 中央の深皿にはチョコレートシリアルが入っている。隣の小鉢にはサラダ。コップには
相変わらず黒っぽいアイスティーが注がれている。
 椅子に座った録幸は最初にアイスティーを一口飲むと、サラダへ和風ドレッシングをか
けて食べ始めた。千切りキャベツとカットトマトはそれぞれ種類の異なる甘みを溢れさ
せ、和風ドレッシングの紫蘇の香りがそれらを巧く引き締めている。
「これ食ったら数樹の家に行くぞ」
テーブルの反対側に立つトキワへ録幸は告げる。これまではトキワの言い逃れでうやむや
にされていたが、さすがにこれ以上は放っておけない。
「わかった」トキワはしおらしく言うと、やや間をおいて付け足した。「やっぱり、故障
かな。今まであんなことなかったのに」
「初めてなのか?」
「うん。けど、今もどこか調子が悪いような感じはないし。普段なら調子が悪ければすぐ
に気が付くんだけど」
トキワは心配そうな表情をしてみせるが、そこにはどこか軽いものがあった。昨夜、録幸
を凝視したときの硬質さはない。不審に思い、録幸は昨夜のことを尋ねてみた。案の定、
トキワは記憶していなかった。それどころか、考え事をしていたから上の空だったかも、
などと言うのだった。あのときトキワの言ったことが真意でなかったとは思えない。しか
し録幸にその思いを明かしてしまったのは、正常な作動の一部ではなかったのだ。他には
何を隠しているのだろうか。
 最後に残ったトマトを口に入れる。ドレッシングに浸っていたせいで些か酸っぱすぎ
る。噛み潰すと、艶の薄れた甘酸っぱさと香りが舌の上に流れ出す。
 トマトを飲み込むと録幸は冷蔵庫から牛乳を出すように言い、アイスティーを口に含ん
だ。トマトの後味とアイスティーの味が衝突し、紅茶の苦みが妙に際だって感じられた。
 録幸の前に牛乳の紙パックが置かれる。録幸はその口を開くと大胆に深皿へ注ぎ、スプ
ーンを手にすると素早くシリアルを食べだした。
 ゆっくりしているとシリアルは牛乳によってふやかされてしまう。その速さと競うよう
にして録幸はスプーンでシリアルをすくい、口へ運ぶ。そうしている間にもチョコレート
は溶け出し、牛乳を小豆色へと変化させていく。冷えすぎた牛乳にこめかみが痛む。しか
し眩暈を堪えて録幸は食べ続け、程なく皿は空になる。最後の一口でもまだ、シリアルは
若干の歯ごたえを保っていた。皿の縁に口を付け、残った牛乳を飲み干す。
「いっつも思うんだけどさ」

- 101 -
「どうしてそんな無理してシリアル食べるの?」
「しかもチョコ味」
「子供の頃から食べ慣れてるだけだ」
録幸は無意識に手の甲で口元の牛乳を拭う。
「そっか。でもさー、毎朝チョコ味はないんじゃないの?」
白河黒河は声を揃えて言うと、口の両端を心持ち吊り上げ、軽く胸を反らして得意げな素
振りを見せた。乳房に持ち上げられたシャツの角度が僅かにきつくなる。思わず目線がそ
ちらへ注がれる。
「ちょっと、どこ見てるの?」
言いながら、トキワは含み笑いをしている。
「なっ。違うって。自分が故障かもしれないってのに、よくそんな落ち着いてられると思
って」
「不安そうにしてた方がいい?」
「いや、そうじゃないけど。不安になったり怖かったりしないのか」
「故障とか破損を避けるっていうのはあるからね。」
「そうそう。だからやっぱり嫌だとは思うよ。怖いっていうのは、そう思うような経験を
したときに勝手に出てくる気持ちのことでしょ? そういう意味なら、やっぱり怖いか
な。あ、食べ終わったお皿」
言いながらトキワは録幸の所へ来ると、皿を取った。深皿とスプーンを白河が、フォーク
と小鉢を黒河が下げる。
 トキワが流しに向かって皿を洗う姿を、録幸はぼんやりと眺めていた。二人はシャツの
手首のボタンを外すと肘までまくり上げている。白河が皿を洗い、黒河がそれを拭いては
横に積む。食器洗い機が故障した矢先にトキワが家へ来たので、修理に出すのが先延ばし
になっているのだ。全く同じ体型の後ろ姿が動いている。白い髪ゴムと黒い髪ゴムが計っ
たように同じ位置で髪を束ねている。肩胛骨の動きが、シャツ全体へ影のうねりとなって
伝わる。息づく他人の体になど、もう何年も触れていない。感触など思い出せない。録幸
は立ち上がると大きなテーブルを迂回し、二人の背後に立った。手を肩から前へ伸ばし、
抱き寄せたい衝動に駆られる。しかし、どちらを。伸ばしかけた両手が止まる。その空白
に理性が滑り込む。いくらなんでも、アンドロイドの鋼と人工皮膚に肉体を求めるなん
て。録幸は自分の行動を苦笑で緩和する。
「ん? どうしたの?」
黒河白河が同時に振り返る。
「食器洗い機、いいかげんに修理出そうかと思ってな。いつまでも手洗いじゃ、面倒だ
ろ」
「別に。人間みたいに面倒とか思わないし」
トキワは流しに向かって軽く手をふって水気を切った。素材の違いか、トキワの皮膚の上
を水は抵抗なく滑っていく。それから皿を流しの上の棚へ戻す。スプーンとフォークは引
き出しの中へ。
「じゃ、俺はヒゲ剃ったりしてくるから」
録幸はトキワに言うと部屋を出た。

- 102 -
 洗面所で顔を洗ったりしながら、録幸は自分がトキワに対して抱いた衝動のことを考え
ていた。それは激情と呼べるくらいの強さと持続性のなさを持っていた。もしトキワの体
が一つなら、迷わず抱きすくめていたかもしれない。シャツの襟足から伸びる首筋の真っ
直ぐさや、張り付いたレザーパンツの下で捻れる尻の陰翳。そんなものが脳裏に浮かぶ。
 周囲の人間が言うように、自分はトキワへ惹かれているんだろうか。確かにトキワはな
かなか魅力的だろうし、自分へ好意も持っているように振る舞っている。女っ気の絶えて
久しい男にとって、それはかなり魅惑的だ。たとえアンドロイドでも。
 考えてみれば自分はもう何年も、どういった状況であれ自分から他人に触れたことなど
なかった。他人から触れられることにしても、せいぜい髪を切ってもらうときくらいだ。
だから単に、自分は人肌の柔らかさや温もりを求めていただけなのかもしれない。何せ毎
日の大半は駒輪や工具といった、滑らかではあるが変化に乏しい金属類しか触れていない
のだ。録幸は、一方では鏡に映る自分の顔を見ながら簡単にだが髪をセットしつつ、他方
ではできる限り厳しいつもりで自分の心中をまさぐった。しかし、トキワに異性としての
魅力を感じている自分などというものは見付けられなかった。だいたい、こちらにそんな
気持ちがあっても、トキワにあるのはプログラムへ組み込まれた、所有者への好意行動だ
けだ。身支度が終わってしまう。そこで録幸は思考を停止すると、洗面台の電気を消し
た。

 先祖累代のがらくたに薄く積もった埃を漫然と眺めながら、録幸は居間のソファに座っ
ていた。両肘を背もたれに乗せ掛け、だらしなく体を預けている。
 開け放った窓から吹き込む風が窓枠を揺する音を除けば、家の中は静かだった。トキワ
はいない。存在全体が過労でよれよれになった数樹の元へ、電源を切って預けてきたの
だ。
急ぎの仕事がまだ残っている上に、検査自体にも時間が掛るということで、しばらくは帰
ってこない。
 たった二ヶ月ぶりのことでしかないのに、静まりかえった家は誰か他人の持ち物のよう
に感じられる。そのくせ家は思い出を依り代にして、録幸を虚ろな気怠さで捉え込んで離
さない。そのせいで録幸は千載へ飲みに行く気にも、ディスプレイシートで番組を見たり
ネットを巡回したりする気にもなれず、ぼんやりと座っていたのだった。
 外ではもう日が暮れかかっており、向いの家の彼方に早くもライトアップされた領壁の
上縁と、そこから唐突に始まる残照の朱橙色が見えていた。地上は緑黄色の透過光に満ち
ていた。旧家も宵闇に埋没して、ただ家屋周辺だけが宙に浮かび上がっている。夏ももう
終わりなのだということに録幸は思い至る。後は急速に町全体が冷気の底へと滑り落ち、
やがて無尽蔵とも思えるの雪が町に降り積もっていく。その頃もまだ、自分は無事にここ
で駒輪屋を営んでいられるのだろうか。
 部屋が暗いが、明かりを点けるのが億劫だった。刻々と室内が闇へと沈降していくのを
録幸はただ放置していた。と、インターホンが鳴った。録幸は胸ポケットから遠操盤を取
り出すと、画面に点滅するインターホンのコールサインに指で触った。
「はい」
「録幸君? 私。常磐」

- 103 -
画面に常磐の顔が映る。玄関灯に肌の白さが際だっていた。
「ああ、どうぞ」
録幸は遠操盤から玄関のロックを解除した。程なくして足音が聞こえ、常磐が部屋に入っ
てくる。今日の常磐は小さな模様が一面にプリントされた白いシャツにジーンという格好
をしていた。
「どうしたの、電気も点けないで」
「寝そうだった」
答えてから部屋の明かりを点ける。妙にまぶしく、録幸は目の奥に疼痛を覚える。常磐は
勝手にソファへ座った。録幸は少しだけ移動し、常磐と距離を開ける。
「どうした?」
「別に。顔出しただけ」
そうか、とだけ言うと録幸は立ち上がった。年に二、三回あるかないかだが、常磐が急に
訪れることはあった。常磐にとって友人は数樹だけで、しかも自分は数樹とよく一緒にい
る。だから友人と呼ぶほどではないにせよ、常磐は自分のことを他の人よりは親しく思っ
ているのだろう。
「何か飲むか?」
「録幸君は?」
「俺か? 俺はビールかな」
「じゃ、私もそれを」
録幸はキッチンへ行って冷蔵庫から缶ビールを二つ取り出し、居間に戻った。
「ありがと」
常磐は録幸から缶を受け取ると、プルタブを引いた。録幸も隣に座り、一口飲む。軽い苦
みが喉の奥へと消えていき、微かに暖かい軌跡を残す。
「今日は、あれは?」
「黒河と白河か?ちょっと調子が悪くて、数樹に預けてきた。機械部分なら俺が直せるん
だけどな」
「そう。録幸君じゃ役に立たないような問題だったんだ?」
「ああ」
常磐の物言いは極力気にしないようにしながら、録幸は返事をする。会話が続かない。二
人は時折ビールを飲みながら、部屋の奥まで侵入してくる風に吹かれている。
「この間のことなんだけど」
「ん?」
「みんなの前で、録幸君なんて、って言ったでしょう? ちょっと悪かったかなって。ご
めん。私、ほら、口が悪いらしいから」
驚いて録幸は隣に座る常磐の顔を見た。常磐は缶の飲み口を見ている。いつものことだが
その頬には憂いが溜まっている。それが柔らかな顔の輪郭から、暖かな印象を奪ってい
た。
「どうしたんだ? 謝るなんて。いつもならそんなこと自分で気付かないだろ。親父さん
に説教でもされたのか」
「ううん。そうじゃないけど、あのときは、ちょっとわざとだったから。私もおじいちゃ

- 104 -
んが殺されて、なのにお父さんたちは警察にも本物の道理屋にも言わないで、録幸君なん
かに頼むから。イライラして。本気で犯人を捜す気なんてないんじゃないかと思った。自
分の親が殺されてるんだよ? それを素人に任せるなんて、普通あり得ないじゃない」
「そうか。そうだよな。俺のことなら、ま、気にするな。お前のそういう言葉はいちいち
本気にしたってしょうがないからな――。でもやっぱり、そう思うよな。なあ、親父さん
たちは本当に犯人を見付ける気があんのか? いや、失礼かもしれないけど」
常磐は相変わらず手元に視線を固定したまま考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「たぶん、あるんだと思う。あのね、これは私から聞いたって言っちゃダメなんだけど、
お父さんたちはおじいちゃんが殺されるのを切っ掛けにして、宮貴さんと移民が表立って
対立してくると思ってたみたいなの。動きがあれば犯人も見付けやすくなるし、少なくと
も録幸君を交渉の窓口ぐらいにはできると考えてたみたい。それだったらよそから来た道
理屋よりも、駒輪屋として信頼のある録幸君の方がマシでしょ」
「じゃあ、あてが外れたわけだ」
「そう」
録幸は気美香や岸蜜の顔を思い浮かべた。最初に呼ばれた晩、役員たちは深刻そうな顔を
していたが、裏ではそれより先にやはり打算が働いていたのだ。録幸は過去に向かって小
さく唸った。
 辺りのがらくたは明かりのせいで、薄暗かったときよりも一層その陰影を深めていた。
その中の一つが目に留まった。小さな猿のお面だ。まだ学生だった頃、常磐が旅行のお土
産として録幸と数樹にひとつずつ買ってきたものだった。録幸の趣味ではなかったが、捨
てるのも悪い気がした。そうこうしている内にそれは他のたくさんの物と入り交じって、
いつしか意識に上らなくなっていた。
「おじいちゃん、殺される少し前から様子がおかしかったんだ」
「おかしい?」
「なんだか少しぼんやりしてることが多かったの。それから、そう、気のせいかもしれな
いけれど、心配事があるみたいだった」
「けど、気美香さんも鷹志さんもそんなこと言わなかったぞ」
「ほら、おじいちゃんとお父さんて仲が悪かったでしょ。だから気がつかなかったんだと
思う。ほとんど話なんかしないから」
「どうして今までそんなこと黙ってたんだ?」
「録幸君が聞きに来ると思って」
その声が録幸には、いつもより乾燥しているような気がした。
「役員の人たちに思い当たることがあったら、気美香さんがまとめてメールするって言っ
てたからな。知ってるだろ。わざわざお前に聞きに行く必要があるなんて、その」
「けど、普通は念のために一人一人に聞き取り調査とかすると思うじゃない。そしたら録
幸君が自分から会いに来てくれるんだから、そのときまで話すことは取っておこう。メー
ルで伝えられちゃったら、私の所には来なくなるかもしれないって。それで、わたし」
声が所々で僅かにうわずっている。そこに得体の知れない前兆を感じる。同じ空気を何年
も前に一度、感じたことがあった。そのときの出来事が蘇り、録幸は常磐の言動の多く
が、それでごっそり説明できてしまうことに気付く。

- 105 -
「ま、まあちょっと落ち着け」
突如として気付いてしまった可能性を少しでも先延ばしにしようとして、録幸は言った。
だが、それが着々と近付いてくる気配は一向に速度を緩めない。
「やっぱり、全然本当に全然、ぜんっぜん気が付いてないんだ」
常盤の目は今や、正面から録幸に据えられている。酔っているわけでないのは確かだ。常
磐は酒に強い。そのことがこれほど残念に思えたことはなかった。
「気付いてないって……」
すっかり腰の引けた声で録幸は呟く。
「どうしてか判らないけど私、ずっと前から録幸君のことが好きで」
意識の底が抜けた。予感したとおりだった。鷹雄のことも黒河白河のことも遠ざかり、意
識に届く限りの範囲が常磐の告白に占められる。手は案外冷静にビールの缶をテーブルへ
置き、顔は勝手にそれを冗談だと思い込むべく笑みを浮かべそうになっている。録幸は強
引に口を引き締めた。
「だから、ねえ、録幸君が犯人を見付けられなくって町にいられなくなるんじゃないかと
思うと」
常磐もテーブルに缶を置くと、一気に間合いを詰めて来た。しかしまだ若干の距離があ
る。録幸へ右手を伸ばし、常磐は最後の距離を埋めた。しっかりと腕がつかまれる。久々
に触れる人肌には想像していた安堵感ではなく、違和感があった。
 激情ならではの強さと持続性に飲み込まれ、常盤の目には薄く涙が滲んでいる。録幸は
立ち直れないまま、身動きもしない。
「何か言って。私じゃ、だめなの?」
常磐から聞いたこともないような儚い声が囁かれる。
 常磐の左手が録幸の肩に掛る。と、常磐は録幸を引き寄せながら自分も録幸へと身を寄
せた。録幸は横抱きに抱きしめられる。
「ねえ、お願い。私もどうしてこんな気持ち」
胸の小ささに応じた小さな柔らかさとブラに入ったワイアの堅さが、腕とは全く違うどこ
か録幸の体から遊離した場所で感じられているようだった。
 そこでやっと、何もせずにいたことが奏功して録幸は我に返る。
「悪い。急にそんなこと言われて、全然予想してなかったから。その、少し考えさせてく
れ」
少し考えさせてくれ。一〇代をとうに過ぎた男が言うとは思えないほど、気の利かない言
葉だ。だが常磐の腕からは少しずつ力が抜け、やがて体が離れた。
「うん。ごめん。そうだよね。私も緊張して、ちょっと」
常磐は乱れてもいない髪を整えると立ち上がった。
「じゃ私、帰る。ビールごちそうさま。それと、急にごめんなさい」
録幸が曖昧な返事をしているうちに、常磐は部屋から出て行ってしまった。後には額へ手
を当てうなだれる録幸と、その腕に残る常磐の体の控えめな感触だけがあった。それは控
えめだが、決して消えようとはしなかった。

- 106 -
 数樹は何も言わず、目を閉じて考え込んでいる。床には目を閉じたトキワが並んで横た
わり、ディスプレイには円グラフや棒グラフ、進捗状況を示すメーターなどが目まぐるし
く数値を変えながら表示されていた。その背後では数字や文字の列が下から上へ流れてい
る。文字は黒をバックに白、赤、青、緑の何色かに分かれているが、録幸にその意味は読
み取れない。床に並んだトキワは完全に動かないせいで、やけに固そうだった。血色もな
いが死んだように見えないのは、人間のように筋肉の過剰な弛みや緊張といったものがな
いからだろうか。
 常盤の訪問から一日が経過していた。仕事を少し早めに切り上げた録幸は数樹の家へ行
き、常磐との遣り取りを語ったところだった。最後に会ったときと変わらない服装の数樹
は、灰色の強まった顔と寝不足に輝く両目で録幸を見ていた。
「実を言うとなぁあ、それ知ってたんだ」
不明瞭な発音で数樹は言った。唇を持ち上げるのさえやっとだということがよく判る。
「なら、どうして隠してたんだよ」
「そりゃお前、勝手にーそんなこと言えるわけぇあーねえだろ」
「あー、まあ、そうだよな」
「まさか……。あいつもそんな思い切ったことするたぁな」
数樹の視線にますます濁りが加わる。
「そんなことより、なんで俺なんだよ。お前の方がずっと親しいだろ」
「あいつにとって個人的に親しい男なんて、家族以外じゃ俺かお前くらいだからな。あと
は、なんだ、お前の方がどっちかってえと好みだった、ぐらいのことじゃねえか? あい
つと思い出に残るような出来事なんて特にないだろ?」
「ない」
録幸は手を伸ばすと、トキワの肩を押した。二人とも髪ゴムを外しているので、どちらが
どちらなのか判らない。押された方のトキワは微かに揺れた。背中の大部分が床に接して
いるため、揺れはすぐに収まった。それだけだった。
「こいつの方はどうなんだ?」
「今のところ、異常はない」そこで数樹は大きくあくびをする。充分な間が空く。「た
だ、最初に見たときよりもだいぶん変化してる部分がある。これは持ち主や環境が変わっ
たせいだ」
「じゃ、これからってところか。あとどれくらい掛る?」
「さあ。とりあえず今やってるチェックは夜中ぐらいで終わるが、それで問題が見付かる
ようには思えねぇなぁもう。勘だけどな」
「ずいぶん適当だな。だいたいお前、人工知能が専門じゃないだろ」
録幸は数樹の顔を注視する。そうしていないと、数樹は寝てしまいそうだった。
「あああ、あー、そうだな。間違ってるかもしれない。それならそれでいい。ただ、そう
じゃないとなると厄介だ。最悪の場合、修理どころかどこが問題かさえ解らん場合もあ
る」
数樹は振り返り、画面を見詰めた。そしてまた録幸へ向き直る。
「色々と考えたんだけどな、前に言っていたあの二.六ギガ分の不明部分。あれどうもス
テルスプログラムの一種なんじゃないかと思って。そこに問題があるんだとすりゃ、修理

- 107 -
は無理だ」
「ステルス、プログラム?」
録幸は数樹からトキワへ視線を移した。
「説明しろって? 面倒だな。つまりステルスプログラムってのはガードが掛ったプログ
ラムだ。読み出し用のツールと暗号化されたパスワードがなけりゃ、普通は見えないよう
になってる。つまりあれだな。えと、なんだ? ああ、そうそう。プログラムが外から見
えないように頑丈な倉庫にしまって、デカい鉄の扉にごつい錠前つけた上でその扉の取っ
手を外すようなもんだ。で、不明部分がステルスプログラムなんじゃねえかと思うのはま
あ、特徴が似てるからってのもあるが、爺さんの専門分野だからってこともある。爺さん
が書いてた論文もそっちだしな」
「じゃ、パスワードがないと駄目なのか」
「そうじゃねえ。そもそも普通のステルスプログラムなら今の俺だって最初に気が付く。
中身が見えなくても取っ手のない錠前付きの鉄扉は見える。扉がヤワならこじ開けること
だってできる。でもな、トキワのステルスプログラムっぽい部分にはその扉さえねえ。だ
から、それがステルスプログラムだったとしても、作った本人さえ開けられないような代
物だ。なあ、説明はまた今度じゃあダメか?」
録幸は首を振る。数樹は舌打ちをして説明を再開した。
「普通そんなプログラムは作らねえ。バグがあっても修正できない、改良もできないじゃ
あ意味ねえからな。しかも、見えてるプログラムと連動してる気配もない。ステルスプロ
グラムを使う場合は全部をステルス化するのが通常なんだ。部分的に使ったって、見えて
る所と連動して動いてりゃ、その様子から中がどうなってるかバレるかもしれねえ。トキ
ワのプログラムだってステルス部分が見えてる所と連動してるはずなんだ。だ、が、それ
さえこっちから観察できねえようになってる。存在してんだから何かの動きぐらいはある
はずなんだが、それもない」
数樹に説明を強要しておきながら、録幸はそれ聞き流しそうになっていた。
「結局、もし不明部分がステルスプログラムだったとしても、常識的には無意味だしあり
えないってことなんだな?」
「そうだ。そう言ったろ? こいつはあくまで最悪の場合、だ、け。どなー」
「その、最悪の場合だったらお手上げか? たとえば扉がなくたって壁を壊すことはでき
るだろ?」
「本物の壁ならな。実際には無理。どうしようもねえよ」言ってから数樹は録幸の顔を見
遣った。「あんまり心配するな。考えられる限り最悪で、しかも最っ低に可能性の低い話
だぁらな。もっと他につまらねえ理由があるかもしれん。それよりも、だ。常磐、どうす
んだ?」
不安の度合いはそのままに、録幸の思いはトキワから常磐へスライドした。
「いっそのことぉ付き合ったらどうだ。もし自治会の依頼に失敗しても庇ってくれるんじ
ゃねえか? ああよう?」
録幸は応えない。
「なんだよ。嫌なら断れ」
「いや、お前の話を聞いてて、常磐が昨日妙なこと言ってたのを思い出したんだ。俺が町

- 108 -
にいられなくなるのが嫌だって感じのことなんだけど、なら何であいつは覇介さんなんか
を雇ったんだろう」
「知らん」
数樹は両手でしきりと目を擦った。
「覇介さん雇ったなぁトキワに嫉妬してつい、ってとこだろうよう。それが今になって後
悔に変わった。突然お前に告白したのだって、そういう気持ちの動きがあったんじゃあね
えの?」
数樹の言い方はどうしても他人事のようだった。半分眠りかけているせいで、現実感が遠
のいているのだ。
「トキワに嫉妬? あいつはアンドロイドだぞ。しかも俺には他人が嫉妬するような気持
ちも態度もない」
「人間、犬や猫にだって嫉妬すんだぞ。お前の態度なんか関係ねえ。トキワの存在、お前
がトキワをわざわざ再起動したこと、それ自体が憎らしいんだ」
数樹の言うことは録幸にも身に覚えがあった。まだ中学生だった頃、付き合っていた相手
といつも一緒にいた女友達に嫉妬を感じたことがあったのだ。だから確かに、感情に流さ
れればそういうこともあるのだろう。
「なら覇介さんとの契約を破棄してくれたっていいんじゃないか?」
「お前を想う気持ちがある一方で、やっぱり鷹雄さんを殺した犯人も見付けたい。ところ
がそれはお前じゃやっぱり頼りない。かといって、警察に届け出てもどうせ自治会の圧力
で警察は関わりたがらねえ。複雑なんだろうよ。きっと。だいたいあの家で鷹雄さんを本
当に大切にしてたのは常磐だけだしな」
見当はずれな気を遣う余裕がないぶん、数樹は整然と必要なことだけを喋っている。
「いよいよってときは常磐と一緒に町を出てもいい。夫婦の道理屋ってのもいないわけじ
ゃないんだろ?」
録幸が試しにそう言ってみると数樹は口をやや開き気味にして、椅子から身を乗り出し
た。トキワの上へ薄い影が落ち掛かる。
「お前、常磐のことが」
「冗談だって。お前らしい無駄なお節介がないから言ってみただけだ。ま、俺は自分にで
きるだけのことをやって、常磐への返事はその後で。けど、やっぱり付き合うような気に
はなれないだろうな」
数樹の妙に慌てた態度へ困惑しながらも録幸は答えた。数樹は椅子へ座り直す。ひょっと
したら数樹は常磐のことが好きなのかもしれない。ふと録幸はそんなことを考える。常磐
が自分のことを好きでいるよりも、それはあり得そうな気がした。数樹が自分をトキワと
くっつけようとしたり、常磐との交際を勧めたりするのも、そう考えると納得できる気が
した。
「寝るぞ」
出し抜けに数樹は宣言すると大きく伸びをして目を閉じ、動かなくなった。すぐに寝息が
聞こえてくる。眉間にシワが寄り、苦しそうだ。録幸は物音を立てないよう、静かに部屋
を出て行った。

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 長い年月をかけて作り上げられた「ゼロ。ニュース」と町民の関係から、人々は歳郎に
会うととりあえず自分の知っている噂やゴシップを喋る。そこには通常の取材では取り漏
らすような情報が含まれていることもあり、時として思いがけない発見への片鱗ともな
る。鷹雄のことも、通常の取材に名を借りた鮮造たちにまつわる噂の収集から歳郎の前へ
姿を現した。
 そもそも、人はそれぞれに「他言できない話を打ち明けられる人」を持っている。しか
し問題は、それぞれにとっての「打ち明けられる人物」が重複しない場合も多々あるとい
うことだ。結果的に少なからぬ人が同じ「他言できない話」を共有することになる。そし
て、そうした話のほとんどが、最終的には歳郎や過去の「ゼロ。ニュース」記者の元へ届
いた。口が堅いからではない。職業上の要請に従ってのことだ。広域誌のことは知らない
が、狭い地域に密着した記事を書く場合、何が明かしてもよく、何が明かしてはならない
かの判断と厳守こそが全ての記者活動に影響をもたらすものだった。文字通りに生命さえ
左右される。そしてそれが徹底されているからこそ、人は他人になら話せないようなこと
でも、歳郎には話してくれるのだった。そうして、歳郎や歴代の記者を終点として途絶え
た秘密は少なくない。
 鷹雄の身に何かが起こったらしいことも、小さな断片が歳郎に集積された結果、立ち現
れたものだった。長期にわたる旅行、夜更けの病院へ姿を消した鷹志、その鷹志の家があ
る方向へと急ぐ絵茄の駒輪、などなど。鷹雄に何があったかをはっきり示す情報こそ欠け
ていたが、歳郎は鷹雄が自殺、もしくは殺害されたのではないかと考えていた。そうでも
なければ隠す意味がないし、町内で死なれては困る人物が死亡したときに、それを隠して
「旅先で死亡」とするのはどこの町にもある話だ。確かにその町で死んだという死亡証明
書を発行して稼いでいるところもある。
 そうなると、同時期に「偶然にも」姿を現した二人の道理屋の存在も気になる。もし鷹
志に何かがあったのなら、彼らは町内会の指示で動いている可能性が高い。
 歳郎が最初に考えたのは、録幸が犯人に対するカモフラージュではないかということ
だ。録幸を雇うことで犯人を油断させ、覇介の調査をやりやすくさせるのだ。一つの事件
に二人の道理屋を動かすという状態にはこれで説明が付く。だいたい録幸は道理屋ではな
いのだから、プロの道理屋と同列に扱う必要はない。
 あるいは、録幸は覇介に対する現地協力者として力を貸しているのかもしれない。自分
を道理屋と偽るのは、事件関係者から話を聞くときにその方が都合がいいからにすぎない
のではないか。こちらの方が可能性は高いように思える。個人間の揉め事ならともかく、
町政に深く関与する今回のような場合には、町内の人間関係にある程度根付いた協力者が
いる方が調査はやりやすい。
 自治会の隠蔽工作を暴く。それは歴代記者の誰もが夢想することだ。中でも殺人事件の
暴露には誰も成功していない。代々記者へと受け継がれてきた過去帳には、そうした出来
事の存在を臭わせる記述が僅かにある。歳郎の勘が正しければこれまで二、三回、自治会
は殺人事件を隠し通したことになる。そして今、チャンスは蠱惑的な笑みを浮かべ、すぐ
にもなびきそうな様子を見せながら、歳郎の前へ身を横たえている。
 話題性からして、広域誌に取り上げられる見込みさえある。自分の書いた記事が様々な

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メディアを通して広く注目を受ける。歳郎にとってそれは、諦められない快楽の予感を伴
っていた。留意点といえば記事の内容が誰かに恨まれないかどうかのみ、そんな記事だけ
で一生を終えずに済む。これこそが誰からも有能だと評された自分の能力を十全に発揮で
きる事件なのだ。
 ここ数日、歳郎はどうやって事件の裏付けを得るかで悩んでいた。さすがに確固たる裏
付けなしに町内会を告発することは無理だった。
 さんざん考えた結果、歳郎は覇介と接触することにした。彼が「道理屋は雇い主のため
に働くわけではない」という倫理を守っているのなら、自分の行動を役員へ報告すること
はないだろう。
 しかし、もしも覇介から事件の裏付けが取れても、別の証拠なり証言者なりを探す必要
があった。道理屋が漏らした情報など、その存在そのものを誰も信じないだろう。それで
も、事件の正体を知って行動するのと知らずに行動するのとでは大きく違う。
 覇介とは自宅で会うことにした。呼び出すのは難しくなかった。道理屋について関心が
集まっているので、差し障りのない範囲で覇介個人のことを書かせて欲しいとメールで頼
んだのだ。宣伝になると思ったのかどうか、覇介は快諾した。
 外は珍しく雨が降っている。鯖色の上空から降りしきる雨は小柄で、密で、アスファル
トやクロロベトンに浸透して保湿する。
 目の前には覇介とエセルが座っていた。当初のインタビューは終了し、覇介の方は煮出
して冷やしたウーロン茶をすすっている。覇介からは最初にインタビューしたときのよう
な老人特有の若やぎは感じられず、たんにバテた老人としか見えなかった。少し外の雨に
当たらせて水気でも与えてやった方がいいのではないだろうか。
 その隣に座るエセルは相変わらず清潔感の塊で、細部まで行き届いた感じの良さは人間
の表情ではなく、デザイナーのプログラムによる表情生成を正確に実現していた。
「覇介さんのことで、妙な噂があるのを知ってますか?」
特に前置きもなく歳郎は切り出した。覇介はグラスを口から離す。
「覇介さんが自治会に雇われている、というものなんですけど」
「本当ですか? でも、いったいどうして」
覇介は穏やかな声で応えた。誤解には慣れているとでも言いたげな態度だ。
「徳村録幸は知っていますか?」
「鮮造さんからアンドロイドを譲られたそうですね。ああ、鮮造さんとは面識がありまし
てね」
「そうですか。……その彼が偶然アンドロイドを手に入れるのと前後して、これまた偶然
にあなたが来た。さらに同じ頃、たまたま前自治会長の鷹雄さんが長い旅行へ出掛けてし
まった。用もないのに町から出たことなんて、今までなかったのに。短い期間にこの町で
は滅多に起こらなかったことが起きているんです。何かあると思いたくもなるでしょう」
「それは何かありそうに思うかもしれませんな」
気のない口調で覇介は応じる。
「じゃあ、噂は事実ではないと」
「そうです。それで信じてもらえるんなら。もし噂が事実でも、私は認めなかったでしょ
うがね」

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歳郎の不満顔に気付き、エセルが口を開いた。
「申し訳ありません。あらぬ疑いで追求を受けることはよくありまして。そう言った場
合、ただ否定するだけではなかなか信じてもらえないものですから。旦那様は報道関係の
方々に対して、すっかりシニカルになってしまわれたのです。実に痛ましいことではあり
ませんか」
思い入れたっぷりの大仰な悲壮感を込めて言うと、エセルは首を振った。普段から演技過
剰な喋り方をするせいで、このアンドロイドの言葉の真偽など判断しようもない。
「それはそうと、私も聞きたいことがある」覇介は歳郎の返答を待たずに話題を変えた。
「西宮初帆という人を知ってますか。ずいぶん昔に自殺したらしいですが」
初帆の名前に歳郎は内心狼狽した。どうしてその名前がここで出てくるのか。それは鷹雄
殺害とは筋違いのはずだ。
「えーと、その人がどうしました?」
「鮮造さんから以前、もし白茅町に行くようなことがあって、身内が誰か残っていたらよ
ろしく言ってくれと頼まれていたのを思い出して。親友だったらしい」
「なるほど。それだったら姪に当たる人が居ますよ。ビーラスカの店長と結婚して、今は
咲原ローレッタという名前です」
覇介は不思議そうな顔をした。その意味を察し、急いで歳郎は付け足す。
「初帆さんの妹はイギリス人と結婚したんですよ」
「そうか。いや、ありがとうございます。誰に聞いても知らないって人ばかりで。さすが
は記者さんだ」
どうにか歳郎は微笑んでみせることができた。自分が知っていることを妙に思われなかっ
たのは幸運だった。
「それで、さっきの返事はどうなったんです? 噂の真偽については」
「ああ。そんなことありません。私が自治会に雇われているなんて。さて、これだけ喋れ
ば充分でしょう。それではそろそろ失礼します。依頼が残ってるもんで」
言いながらも覇介はもう腰を浮かせて立ち上がろうとしていた。
「忙しい中わざわざありがとうございます。出来上がったものはそちらへ配信しますか
ら」
歳郎は棒読みに近い抑揚で言う。頭の中では鷹雄事件と初帆の関係を組み立てようと必死
だったのだ。
 歳郎は玄関まで二人を見送った。傘を差した二人が歩き去る。雨雲に透ける夕日が妙に
べったりとした紅殻色をしている。密集する角張った家屋は、どれも水分過多でじっとり
としてる。さっきまで収まっていた突風が一陣、吹き渡った。壁を打つ水音が高まり、雨
粒が歳郎の皮膚へまとわりつく。

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第七章「互う」

 空の弁当容器をビニール袋へ入れる。キンカンマートとは逆方向にあるコンビニで買っ
てきたものだ。元々は自炊をしていた録幸だったが、トキワが居なくなってからはどうに
も自分で料理をするのが面倒に感じられ、食事はたいていコンビニかキンカンマートで弁
当を買って済ませていた。録幸はビニール袋の口を縛ると、床の一隅に投げ出した。そこ
には他にも捨てそびれたゴミの入った袋が幾つか放置されている。
 さっきまで降っていた雨は止み、残った雲が夜空の黒をまだらにしている。録幸は閉め
ようとした窓の枠に手を掛けたまま、その空を眺めている。上空を奔る風に吹かれ、まだ
らは刻々と蠢いていた。
 車道をタイヤが踏む微かな音に、録幸は目線を下へ向けた。ウミガメと渾名された妙に
幅の広い駒輪が録幸の家の前へ停車する。ダークブルーにダークゴールドのラインをアク
セントとしたその駒輪はイフナ・イントゥ社のネフェルという車種だ。白茅町内でそれを
所有しているのは常磐けだった。ドアが開き、常磐は路地へと入っていく。すぐにインタ
ーホンが鳴った。
「どうぞ」
遠操盤を通してそれだけ言う。少しして常磐が部屋に入ってきた。
「私だって判ったの?」
「たまたま窓から見てただけだ」
録幸は自分でも意外なほど落ち着いた口調で言うと、ソファへ腰を下ろした。常磐も勝手
にその隣へ座る。
「あれ、捨てないの?」
片付けられないままのゴミが入ったビニール袋に目を留めて、常磐は尋ねた。
「ああ。捨てないとな」
中身の薄く透けた袋へ目を向けたまま、録幸は返事をした。
「アンドロイドの居なくなったのが、そんなにショックなの? 一昨日も元気なかった
し」
録幸は一瞬だけ常磐を見ると、正面を向いた。
 トキワが家へ来る前、録幸は自分の暮らしにわりと満足していた。友人と仕事と仲間内
の冗談。手に負える範囲の事件を混ぜ込みながらも淡々と流れる生活を退屈だとして都会
へ越す者も居たが、録幸自身はむしろそれぐらいが楽でよかった。なのに今はトキワが傍
に居ないというだけで、生活は劣化ゴムのように感じられた。
「やっぱり、あのアンドロイドのことが……」
「いいや。そんなんじゃない。確かにいなくなって寂しいとは思うけどさ。誰だって同居
人が急に居なくなりゃ寂しいもんだろ?」
「そうかもしれないけど」
「他人と暮らすのが久し振りだったから、余計に堪えるんだよ。それだけだ」
嘘ではなかった。常磐が疑い、数樹が確信しているような想いが自分にあるのか、録幸に
は今でさえはっきりとは判らなかった。判らないぐらいなら違うのかもしれないが、自分
の行動を思いかえせばそうも言えない気がしてくる。

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 常磐はこれ以上録幸を問いつめても仕方がないと判断したのか、話題を変えた。
「一昨日は急にごめん。ちょっと感情的になっちゃって。ビックリしたよね」
「俺も驚いた。常磐があんなふうに思ってたなんて全然。あ、返事は」
「おじいちゃんのことが終わったら、でしょ?」
「そうだな。今はそっちの方が先だ」
録幸は隣を見た。常磐と視線がぶつかる。なるべくそこに何も感じ取らないようにしなが
ら目を逸らす。
「でも、はっきり言うことはなかったけど、私は別に隠してたつもりはなかったのに」
常盤の声には、ごくかすかな笑いが含まれていた。それがますます録幸を動じさせる。
「それは、えと、悪かった。けど、どうして俺なんだ? 数樹の方が親しいだろ」
「それがね、今まではっきり言えなかった理由。私にもどうして録幸君なのか、解らない
から」
もしかして、常磐が自分に対して抱いているものは、自分が白河黒河へ抱いているのと同
じものなのではないか。常磐の説明に、録幸はそんなことを考える。
「それじゃ、やっぱりダメ? 録幸って運命の二人とか、そういうのに憧れる方だとか」
「馬鹿言うなよ。ちょっと気になっただけだ」
「そう。あ、何かもらえる?」
「ビールならまだある」
録幸はソファから立つと部屋を出、ビールを手に戻ってきた。
 二人は黙ってビールを飲む。全く酔いは感じられない。
「ね、もっと近くに座ってもいい?」
「好きにしろよ」
思いがけないほど近くでソファがへこんだ。常磐の手だった。次いで移動してきた常磐の
体に、ソファはもっと大きく沈む。さらに時間が経つ。
 堅いものが録幸の腕に触れた。常磐の肩先だった。常磐の呼吸に合わせて録幸の腕に当
たる力が小さく増減する。それは吐息と同じくらい柔らかく録幸の皮膚を押しやる。そこ
には録幸がイメージしていたとおりの、人肌のぬくもりがあった。
 肩先の反復の末に、とうとう録幸は常磐を見た。その拍子に腕が大きく密着する。常磐
の腕の柔らかさが、そのブラウス越しに感じられる。それは記憶にあるよりも遙かに柔ら
かく、録幸の腕に他の知覚が引っ張られる。微かに汗のにおいが感じられた。
 常磐が録幸を見た。視線が録幸の網膜まで浸透する。少し視点をずらせば、軽く開かれ
た口の奥に前歯の起伏が覗いている。薄く透明感のある唇は豊かに膨らみ、見ているだけ
で弾力が思い描かれる。その口が僅かに開き、閉じられた。生暖かい吐息。それから本当
に少しだけ、口元の力が緩む。それだけで、録幸の意識は熱っぽくなる。
 自分の求めているのが何なのかに気が付く。他人の生きた肉体だ。もう何年ものあいだ
遠ざかっていた欲求だった。なんのことはない。自分は白河や黒河の身体を間近に見続け
るうち、すっかり誘惑されてしまっていたのだ。
 とはいえ、常磐に手を出して大丈夫なんだろうか。変な勘違いをされて、これ以上事態
をややこしくしたくはなかった。録幸は奔る衝動を抑えて常磐を窺った。常磐は柄にもな
く緊張した面持ちでうなずく。熱っぽい眼をして、頬には血の気が挿している。それか

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ら、強張った笑みを浮かべた。それはすぐに消えてしまったが、こちらの不安をなだめよ
うとしていることは感じられた。
 録幸は顔を近づけた。常磐も心持ち顔を前へ出した。予想よりも常磐の唇は奥行きがな
く、すぐにその裏の歯が感じられた。しかしそれでも、それは充分に柔らかい肉だった。
どちらからともなく舌が絡み合う。残留したビールの風味と唾液のなま暖かさ。互いの口
腔を舌でまさぐり、歯の表面を撫で、録幸は常磐の肩を抱いた。
 長々とした口づけがあってから、二人は体を離した。
「すごく久し振りだから、少し痛いかも」
常磐の孤立具合からして以前にそんな経験があったとは思えなかったが、録幸は黙ってい
ることにした。
 常磐は慌ただしくブラウスシャツのボタンを外し始めた。不慣れな状況に焦っているの
は明らかだった。録幸もシャツのボタンを外す。
 ボタンを外し終えても、常磐はシャツを脱がなかった。薄青いブラのすぐ下を録幸は撫
でた。白い常磐の肌を録幸の機械修理で荒れた手の平が滑る。暖かく弱々しい腹筋のうね
り。慎重な手付きがくすぐったかったのか、常磐は笑った。
「ちょっと待って。奥、行かない?」
録幸はうなずく。二人は立ち上がる。動くたびにボタンを外したシャツが揺れた。


 メーカーからの速報を読んでいると、視界端の小さなウィンドウにトキワの姿が現れ
た。録幸は電源を切るとゴーグルを外した。
 居間へ入ってきたのは黒河か白河か、ともかくも片方だけだ。その片方は録幸のすぐ近
くまで来て、そこで止まった。録幸は立ち上がると、その背後を覗き込む。黒い髪ゴムが
見えた。すぐに奥から白河がやってきて、黒河は復帰する。
「また?」
トキワは言って困り顔になる。
「うん。そうみたい」
張りのない声を揃えて自分に答える。それから、録幸を見て少し笑顔になった。だがそれ
は口元だけのことで、目は何か違う感情に囚われている。
 トキワは結局、修理できないままに録幸の元へ戻された。変わったことと言えば「故
障」ではなく「動作不良」だということが判ったくらいだ。稼働はする。しかしそれはい
つ動かなくなるとも知れない状態だった。
 メーカー品ではないために、通常の修理店へ出すことはできなかった。自作品の修理を
扱う業者もいるが値段が掛るうえに、今の録幸はたとえ数日でもいったんトキワを手元に
引き取りたかった。それでも最初は二、三日で修理業者へ委ねようと考えていたのだが、
独りで過ごした期間を思いかえすたびに行動は先送りになり、今日で五日目になってい
た。
 修理業者への依頼が遅れている理由はもう一つあった。ハードの不調なら確実に直るの
だが、ソフトの方は治るかどうか判らないのだ。
 専任のスタッフはいるんだろうが、原因が特定出来るかどうかは保証できねえよ。数樹

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は録幸へトキワを引き渡すときにそう言った。ステルスプログラム状の部分についてもそ
の正体は不明なままで、それどころか例えで話していた頑丈な壁にあたるものさえ見付け
られなかったのだという。
 数樹に預けている間は、もし数樹に治せなくとも放っておけば治るかもしれないなどと
いう期待を抱いていた。しかしそれは戻ったトキワと生活を共にすると、すぐに消えてし
まった。日増しに悪くなることはあっても、やはり人工物に自然快復などありえない。も
うトキワを前にしても、以前の調子を取り戻しているのか不調に覆い潰されているのか、
録幸にでさえ判然としないことがほとんどなのだ。
 ダイニングキッチンに行くと、作るのにやけに時間が掛っていたのだが、テーブルには
キャベツの千切りと鶏の竜田揚げ、豆腐とワカメの味噌汁に白いご飯が並べられていた。
とはいえ最初に切ったらしいキャベツはすでに表面が乾き始めており、豆腐は煮くずれて
もろもろとしたかけらばかりだった。そのくせ竜田揚げは焦げて黒ずむこともなく、白米
は湯気を昇らせていた。
「ここで三人分用意してたら、いかにも壊れてるって感じなのに」
トキワは箸を取った録幸に向かって言う。
「残念そうだな」
「だってさ、記録が途切れたりしてるからおかしいって実感できるだけで、他にはどこも
自覚症状なんてないんだよ? 逆に気持ち悪いじゃない」
「それほど悪くないからじゃないか?」
録幸は言葉だけの楽観を述べると竜田揚げをかじった。染み出した肉汁が衣を湿らせ、醤
油の香味が漂う。息を吸えば料理酒の風味があった。少し甘いようだ。トキワの作る料理
は全体に甘みの彩りが鮮やかで、ひょっとするとそれは祖父たちの好みだったのかもしれ
ない。そもそも鶏の竜田揚げなど録幸は長らく食べていなかった。
「美味い」
録幸は素直に言った。
「よかった。的確さが必要だから、料理はアンドロイドに向いてるみたい。竜田揚げは鮮
造さんが好きだったん」
得意げに言うと、そこで黒河は言葉を切る。しかし、続きは出てこない。
「だよ」
少しして白河が付け加える。本番の舞台で役者がセリフを失敗したときのような、気まず
さ。
 どうも黒河白河のあいだで喋り方の連携が悪い。録幸は不安を押さえつけようとして、
自分が噛み切った竜田揚げの断面を見た。中心がほのかに桃色をしているようだ。けれど
もさらに凝視していると、そんな部分などないようにも見える。それだけ微妙な揚げ具合
なのだろう。どれだけ調子が悪くても、料理の腕前は好調に作動している。どれだけ他が
不調でも、関係のない部分は完全に作動するのだ。録幸は慌てて箸に挟んだ残りの竜田揚
げを口へ入れると、隙間を白米で埋めた。トキワ本人とは無関係の正常さに口が満たされ
る。
「そんなに慌てなくても」
「おかわりはあるんだから」

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録幸は曖昧に返事をすると、食事のペースを遅くした。胃の腑へ緩やかに満腹が芽生えて
いく。
「そういえば、鷹雄さんの事件はどうするの?」
「どうするつもり?」
すぐには返事をせず、録幸はグラスに入った水を飲む。浮かべられた氷が唇を撫でる。
 白河が録幸の寝室へ侵入した日から、録幸は道理屋としての活動を全くしていなかっ
た。巡回サービスも中断している。トキワが居なくとも調査の記録そのものはカメラで代
用できるし、それを後から見せればアンドロイドの思考も活用できるのだが、とにかくや
る気が起きなかったのだ。
 録幸の日々が停滞していたのはトキワの不在だけが原因ではなかった。思っていた以上
に、常磐のことが頭から離れなかったのだ。柔軟に弾む小振りの胸と張りのある暖かな腹
部。人間の手触り。互いの呼吸が不慣れなせいで生まれるぎこちなさと親密さ。挿入には
常磐が痛がり少々手間取ったが、そのせいでゆっくりと慎重な腰遣いになったことは全体
に穏やかさをもたらした。スプリングの弱ったベッド。人間の質感量感。そうしたものが
録幸の中に繰り返し想起され、焦がれさせる。
 そのときには気付かなかったが、あの晩の常磐は他人を苛立たせるようなことは全く言
わなかった。そうしてみると常磐の気怠さは決して不快ではなく、一緒にいて楽しい相手
というほどではないものの、落ち着ける相手ではあった。
 もしトキワが完全に壊れて修理不能だったら、そのとき自分は常磐を選ぶだろうか。今
後も常磐の言葉から刺が抜けている状態が続くなら、それはあるかもしれない。ただ、や
はり数樹のことが気になった。数樹が常磐の録幸に対する想いを知っていた可能性は高
い。それなら、もしも数樹が常磐のことを好きだったとしても、数樹は何も言わないだろ
う。相手が他の誰かなら違ったのだろうが、録幸に対しては少なくともそうするはずだっ

 数樹が常磐のことを友人以上の想いでもって見ているのなら、録幸は常磐と付き合うわ
けにはいかなかった。そうすれば常磐が数樹の方を見るようになるという保証はないが、
それでも録幸は数樹を失望させたくなかった。数樹が他の誰かを探ということもあるだろ
うが、その原因が自分というのは避けたかった。だいいち、そうまでして常磐を自分の彼
女にしたいというわけでもないのだ。
 録幸はふと、トキワに好きだと告げた場合のことを想像してみた。録幸はトキワの所有
者だ。ということは既にトキワにとって録幸は最も優先権のある、一番重要な人物だ。だ
からたとえ何をしたところでトキワの中で、録幸の存在はこれ以上大切なものになりよう
がない。だとしたら録幸がトキワを好きでいることがトキワにも判ったとして、それがど
んな影響を持つのだろうか。通常、人間が人間へ愛を伝えて起こるようなことがもう起こ
りえないのなら、後はなんの影響も持たないか、人間相手になら決して起こらないような
ことが起こるかだった。結局、録幸のトキワに対する想いが仮に恋愛感情だったとして
も、それをトキワへ教えることに意味はないのかもしれない。
 膠着する思考に絡め取られた録幸の視界には、洗い物をするトキワの姿が映っていた。
以前と違って二人の連携は悪く、さっき初めて出会った人間二人が共同で食器を洗うより
もなお協力できていなかった。洗っていたのは黒河で、それを拭くのが白河だったのだ

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が、白河は黒河が食器を洗っていることに気付かないし、黒河は洗った皿を自分で拭いた
りもしていた。しかも時々、二人は全く動かなくなった。それでも竜田揚げがちゃんと揚
がっていたのと同じように、洗い忘れや食器を落として割ったなどということはなかっ
た。
 ようやく最後の一枚が片付いた。二人は順番に手を洗い、タオルで拭く。
「なあ、ちょっと」
録幸はトキワを手招きした。
「どうしたの?」
二人は録幸を挟むように立つ。
「ちょっと腕出せ」
黒河白河の腕が同時に差し出される。録幸は両手でそれぞれの、肘の内側よりやや上の部
分をつまんだ。筋肉の張りと脂肪の柔らかさがある。手触りも人間の皮膚に酷似してい
る。だが、何かが違う。人間と違って皮膚に水分を含まないからかもしれない。
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
録幸は手を離す。トキワはそれぞれのつままれた所を見てから、笑みを滲ませた。
「あ、やらしいこと」
「やらしいこと考えてたんでしょ?」
「違うって。もしそうだとしても、今のお前はそれどころじゃないだろ」
途端にトキワの顔が暗くなる。
「あのね。さっき、ウソついてた」
「うそ?」
トキワが落ち込んだのかと思った録幸だったが、違うらしい。
「アンドロイドもね、嘘ぐらいつけるんだよ」
「そりゃ人間に比べたらずっと下手だし」
「単純だけど」
「で、どんな嘘だよ」
「自覚症状がないって言ったでしょ? ホントはね、あるんだ。上手く言葉にならないけ
ど、自分で自分が思うとおりにならないような。あ、騙そうと思ったわけじゃないんだ
よ、ただ、そんなに悪いって思われたくなかったから」
「だって、治らないかもしれないって確信したら、録幸わたしのこと捨てちゃ」
「うんじゃないかって」
トキワは今にも泣きそうだった。声も震えている。すっきりとしている顔立ちがバランス
を崩していた。アンドロイドが涙を流せるのか知らないが、もし流せないなら白河黒河は
もう泣いているのと同じなのかもしれない。
 録幸は突然、さっきの考えが間違っていたことに気付いた。自分がトキワに好きだと言
えば、トキワは捨てられる不安からとりあえずは開放されるだろう。
「心配すんなって。本当に動かなくならない限り、そんなことしない」
実際に録幸が言葉にしたのはそれだった。
「約束する?」

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「ああ。約束でも何でも」
眉尻が下がったままだったが、それでもトキワは笑顔になろうとした。
「ありがと」
白河黒河は録幸の両手を取り、握った。やはり常磐の肌触りには及ばないが、その落胆を
録幸は努めて無視しようとした。
 遠操盤が鳴った。
「もしもし」
「あ、もしもし気美香です。遅くにすいません。あの、急なんですけれど、明日、鷹志さ
んの家まで来てください。覇介さんが」
最後までは言わなかったが、録幸には判った。覇介が事件の真相を捕らえたのだ。足の裏
が何も感じなくなる。録幸は無意識に右足の裏を左のふくらはぎに擦りつける。
「じゃあ、明日。何時に?」
声がわななかないようにするために、大変な努力が必要だった。
「午後二時に」
「ではそれで」
息を吐く余力に乗せてそれだけ言うと、録幸は通話を切った。
「誰から?」
「気美香さんだ。覇介さんが事件を解決したらしい」
トキワは黙ってしまった。
 自分は結局素人で、覇介が依頼を受けたときにこうなることは確定していたのだ。なの
にそれがどういうことなのか、実現した今になってやっと実感できた。これまでの生活が
全て失われる。しかも今や、トキワさえ遠からず失うことになりそうだった。
 常磐の姿が浮かんだ。自分に残されているのは常磐を選ぶか選ばないか、それだけだっ
た。選んでもこれまでの暮らしは残らないだろうが、今その判断はできなかった。気美香
の短い言葉が頭の芯を曇らせる。思考が全て焦点を結ばない。体が折れ、録幸はテーブル
に突っ伏した。トキワの言葉が頭上をすり抜ける。
「悪い。風呂入ってもう寝る。トキワも部屋で休んでくれ」
暫くしてそう言うと、録幸は立ち上がり、部屋から出て行った。全身が惨めさに歪みそう
だった。

 熱いシャワーで頭を洗い、体を洗い、湯船に浸かり、その合間も頻繁に呻いていると徐
々に落ち着きが戻ってきた。広い浴室にこだまする呻き声は低く籠もり、増幅された低音
はむしろ耳に快かった。浴槽に長々と体を伸ばすと、録幸は目を閉じた。
 無謀なことは解っていたが、行きがかり上引き受けてしまった依頼。それが録幸の生活
を滅ぼそうとしている。この先長々と続くはずだった人生が絶たれようとしている。考え
てみると理不尽な話だったが、引き受けたのは自分なのだし、いまさら後悔してもどうに
もならない。
 自治会が録幸を恨まないということはないだろうか。録幸は先を越されただけで、失敗
したわけではない。トキワの不調もある。説明すれば許されたりしないだろうか。役員そ
のものとは多少気まずくなっても、町を出るほどのことにはならないかもしれない。

- 119 -
 また、声が出る。乳白色の壁がそれを幾重にも反照させる。
 町内に残れることを期待するのが無駄なのは解りきっていた。秘密を知っている以上、
役員にとって録幸は常に意識から拭えない存在となるからだ。いつ秘密を漏らすかと気に
しながら暮らすよりは、いっそ録幸をどこか遠くへ放逐した方が気楽なのは当然だった。
それにもし録幸が事件のことを誰かに喋ったとしても、遠く離れた場所なら町内には影響
がない。ネットにそれが流れようものなら録幸は契約違反で訴えられることになる。トキ
ワの交わした契約書にそう記載されていた。しかも起訴されるという結果が同じでも、や
はり町内で噂になるよりは町外で噂になる方が、役員たちはそれを事実無根の名誉毀損だ
と町民に主張しやすい。
 常磐のことはどうだろうか。録幸は浴槽の湯をすくうと、顔を洗った。額から垂れた汗
が目に入り、染みる。
 常磐は今ごろ絶望しているだろう。覇介を雇うという自分の行動が、録幸の生活を破壊
してしまったのだから。録幸が誘えば、常磐が周囲の反対を押し切って一緒に来るのは間
違いない。多分遠からず訪れるトキワの停止を待ってから。
 それはそれで気の重い話でもあった。なにせそうなれば自分に罪悪感を抱いている人間
と常に一緒にいることになるのだ。それを避けるにはそのときに自分が恨んでいないこと
を納得させなければならない。一緒に放浪生活をして、やっぱり相性が悪かったら、とい
う不安もある。それはありそうだった。けれども自分が町を捨てるように要求しておい
て、その相手を捨てるなど録幸にはできない。それほど憎んでもいない。それでは誰も救
われない。
 やっぱり俺がトキワと町を出るか。録幸は決心しかけた。そこに再び常磐の肢体が思い
出される。指にまといつく湿り気や、思いがけない力で録幸を締め付ける両脚が。常磐と
町を出て幸せになれないと決まってはいない。それならやはり連れが居た方がいい。い
や、でも。
 録幸が煩悶としていると、洗面所兼脱衣所のドアの開く音がした。
「録幸」
トキワの声だった。
「どうした?」
なるべく大きな声で録幸は返事をする。トキワが何か言った。しかし声が小さくて聞き取
れない。
「ちょっとドア開けろ。聞こえない」
浴室の戸が小さく開けられた。湯気が逃げ出す。磨りガラスの向こうに二つのシルエット
が見えた。
「ごめんなさい。わたしがワガママ言って引き受けさせたりしたから」
硬く縮こまった声だった。
「しょうがない。引き受けたのは俺だ。覇介さんが来たときにだって断らなかったんだか
ら」
浴室に反響するせいで、録幸の声は少しも深刻そうに聞こえない。
「でも、わたしだって結局こんなになっちゃって」
「それこそお前のせいじゃない」

- 120 -
沈黙が続いた。当たり前だがガラス越しのトキワは全く動かない。湯気は全て外へ流れ、
室内が晴れていく。
「怒って、ないの?」
「俺はな、無闇に他人のせいにするってのが嫌いなんだ。それにお前だってまだ修理でき
ないとか決まったわけじゃないだろ。どのみち町を出るんなら、店の権利をアントンさん
にでも売って、その金でお前を修理する」
思いつきの言葉を並べる。
「でも、数樹は原因さえ判らないって」
気弱そうにトキワは反論する。その態度になぜか録幸は苛立ちを覚えた。
「あいつはな、ネットをよく使うから自分が世界を知ってるふうに勘違いしてんだよ。世
界は広い。中にはお前を治せるやつも居るだろ」
強く言い切る。その言葉は自分へ言い聞かせるものでもあった。
「ねえ」
「ん?」
「わたし、やっぱり迷惑だったかな」
一瞬の間をおいて、録幸は爆笑した。よじれる体が湯を波打たせる。トキワが今まで迷惑
かもしれないとは全く考えていなかったのが、おかしくてならなかった。笑いすぎて頭の
奥が痒くなるような気がした。
「今頃そんなこと心配するなよ。気を遣ってくれるのは嬉しいけど、らしくないな。それ
より俺ももう上がるから、お前も部屋で休め」
まだ笑いの残る声で言う。
「わかった。うん。ありがと」
トキワは戸を閉め、洗面所から出て行った。足音が遠ざかると、録幸は大きく息を吐い
た。遠ざかる二組の足音と一緒に愉快さは消え、湯船いっぱいの悲嘆に全身が浸っている
ようだった。湯のうねりが胸元で砕け、小波となって踊った。


 時計は午後二時を示していた。録幸はトラックボールの傾きを深くする。店を閉めよう
としたところで駒輪を買いたいという客が訪れたのだ。修理依頼ならすぐに切り上げるこ
ともできたのだが、販売相談となるとそうもいかない。これからのことを考えれば、なる
べく稼いでおきたかった。
 自分の人生が変更を余儀なくされる日だというのに、窓外の風景はやっぱり生まれたと
きから見慣れてきたものにしか見えず、本当にそれを失うのが信じられなかった。通り過
ぎる店や路地のひとつひとつに思い出が堆積している。
 身を寄せ合って建つ家並みが途切れ、左右に伸びる領壁がよく見えるようになった。外
を遮っているその壁が今度は自分を故郷から遮ることになるのだと思ってみたが、それも
やはり現実感が薄い。そのくせ、冷たく湿気った不快感は録幸の全身に絡み付き、精神を
締め上げていた。
 朝、起きてみるとトキワは妙にしおらしかった。責任を感じて落ち込んでいるのかと思
ったがそうではなく、調子が悪いということだった。

- 121 -
 バックミラーを見ると後ろの駒輪に乗った黒河は窓の外、おそらくは領壁を眺めてい
る。
「なあ」
録幸はミラー越しに黒河を見たまま言った。
「ん?」
黒河が自分の方を見る。録幸は視線を前方へ戻した。
「嬉しくないか?」
「なにが」
「だからさ、これで俺は町から出なくちゃならないだろ。道理屋になるかどうかは別だけ
ど、お前の希望どおりになった」
道は駅へ至る長い下りにさしかかった。傾斜に茂る背の高い草が吹き付ける風に揺らいで
いる。
「最初はそう思ってたけど、最近は定住するのもいいなって。ほらわたし、一つの場所で
長く暮らしたことなんてなかったから、その良さなんて想像できなかった。あ、そりゃ旅
して暮らすのもいいよ。でもね。それに録幸にムリヤリ道理屋をさせるのも、今はそんな
に。だいいち、わたしがこんなじゃ喜べないよ」
録幸はトキワらしいワガママさに小さく苦笑した。さんざん人の生活を掻き回したあげく
に定住も悪くないと言われれば、自分の苦労はいったい何だったのか。だが、いっこうに
腹立たしくはない。たぶん、こうした身勝手さと屈託のなさがアンドロイドなのだ。呆れ
ると同時に、微笑ましいような気さえしてくる。そう思えるのは、もう自分が何もかも諦
めてしまったせいだろうか? 録幸は安堵と寂しさを等分に味わう。
「笑ったの?」
トキワの声がする。
「悪い。お前がおとなしいと変な感じで」
録幸は適当にごまかした。
「どういうこと? わたしはいつも録幸を心配して」
調子よく不機嫌そうなトキワの言葉を聞きながら、録幸は遠くに鷹志の家を確認する。正
面からカーゴをいくつも連結した、配送用の駒輪がやって来た。挨拶代わりにクラクショ
ンが鳴らされる。録幸もクラクションを鳴らし、それに応える。
「着いたぞ」
まだ喋っているトキワに録幸は言った。トキワは黙る。
 家の前には数台の駒輪が停まっていた。この前よりも数が多い。録幸はその一番後ろへ
駐車すると、トキワとともに門の前へ立った。
 庇門は開いている。そこから数メートルでもう玄関だ。門の上に取り付けられた電灯の
カバーの中に、虫の死骸や汚れが溜まっている。今までありもしなかったような圧迫感を
覚え、録幸は入り口で立ち止まる。ここから出てくるときにはもう、何もかも変わってい
るのだと思うと、関節のふしぶしが脱力に痛みを覚える。録幸は傍らのトキワを見た。
 トキワはまっすぐに正面を見据えている。透徹とした鼻筋の左右に広がる頬が仄かに上
気しているようだった。
「ん? どうしたの?」

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録幸の視線に気付いたトキワが小首をかしげる。
「いや。別に。変に静かだな」
録幸は玄関へ視線を戻す。門はいつもの見慣れた佇まいに戻っていた。感情も、落ち着い
ているのか麻痺なのか曖昧な状態に戻っている。
「そうだね。盛り上がってても」
「嫌だけど」
「それもそうだな。じゃ、行くか」
録幸は門扉の脇に掲げられた「瀬観」の表札のすぐ下にあるインターホンを押そうとし
た。
「ちょっと待って」
トキワの言葉に指先が停まる。
「どうした?」
「その、本当にごめん」
「ああ。気にするな」
言いながら録幸はインターホンを押した。
「はい」
常盤の声がした。
「俺。録幸」
「あ」
インターホンが切れると、すぐに戸が開いた。常磐が立っている。
「悪い。遅くなった」
「あ、いや、うん――。最後みたいだけど。上がって」
常磐は決まり悪そうに返事する。両のまぶたが腫れていた。
 録幸とトキワは門をくぐると玄関を上がった。靴を脱ぎながら録幸が見上げると、常磐
は顔を伏せるようにした。常磐もトキワも自分に負い目を感じているということが、録幸
には少し鬱陶しく感じられた。その辛気くささが自分に感染しそうで不安だった。
 常磐は録幸たちをいつもの部屋へ案内した。部屋の中は静かだった。大きな机は壁に立
て掛けられ、部屋の中央にも人が座っていた。その数は録幸が想像していたよりも多かっ
た。自治会の役員と常磐、常磐の母である、覇介とエセルは当然としても、そこには数樹
もおり、さらには宮貴とローレッタ、鱗太郎、歳郎までもが呼ばれていた。数樹は録幸が
入ってくると不機嫌そうなまま一瞬だけそちらを見たが、すぐに俯いてしまった。宮貴と
ローレッタは緊張に体を強張らせている。特にローレッタは酷く、色味のない顔がすっか
り土壁のようになっている。おまけに過呼吸にでも陥りそうなのか、肩から胸元の辺りが
せわしなく上下している。
 役員たちは落ち着いていたが、重たい雰囲気に変わりはなかった。鷹志は机の上を凝視
したまま、目も上げない。岸密は所在なげに演奏版を取り出して何やら操作し、すぐに電
源を切ることを繰り返していた。気見香でさえ、熱心に眼鏡を拭いては照明にかざしてい
る。まるでそこに陰惨な病原菌が付着しているかのようだ。他の人間も多かれ少なかれ不
機嫌そうで、事件の解決を喜んでいる者はいないようだった。
 そんなに嫌なら、解決なんてしなきゃよかったんだ。録幸はそんなことを考えながら空

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いた場所へ座る。
「さて、これで全員が揃いました」録幸と入れ替わりに覇介が立ち上がると、高音部のか
すれる、嫌に大きな声で宣言した。「しかし、やっぱりこの部屋では少し狭いな。鷹志さ
ん、ここより広い場所はありませんか?」
呼び掛けられた鷹志が顔を上げた。少し見ないうちに痩せていた。膨らんだ下まぶたにく
まが濃く出ている。
「なら、庭がある。ここの裏だ。にしてもだな」
「ああ、話は移動してから聞きます。それではみなさん。外へ行きましょう」
全員が何も納得していないまま指示に従う。一行は玄関へ出ると靴を履き、母屋の外側を
回って庭へと移った。
 鷹志邸の庭は緑の多い白茅町にあって、珍しく庭らしい庭だった。そこは松や楓が植え
られ、地面には苔むした庭石が配置されている。昼間なので消えているが、木々の間には
計算されているらしい照明が設置されていた。中央は三日月型の広場になっており、手入
れの行き届いた芝生が敷き詰められている。庭ではなく庭園と呼んだ方がふさわしい。一
同は何となく円を描くようにして、その広場へ立った。吹き続ける風に葉擦れがやまな
い。誰もが風にあらがうべく目を細め、これから起こる出来事への不安や不審感に肩をそ
びやかしている。木の根方には吹き溜まった松葉が積もっている。覇介は頭を軽く伏せる
ようにしながら全員を見渡すと、先程よりも小さく落ち着いた声で言った。
「さて皆さん」
「どうしてこんなに大勢いるんだ!」
覇介の言葉を遮り、鷹志が怒鳴った。道理屋に説明もないまま好き勝手されるのも、限界
なのだろう。
「宮貴さんは当然でしょう。ローラさんと鱗太郎さんはその相談者として事件のことを知
ってしまっている。歳郎さんも同様です。数樹君も録幸君の相談役というところです」
「この件は内密にという契約だったはずじゃないか」
岸密が近くにいた録幸に詰め寄る。歳郎も隣へ立っていた気見香に睨まれていた。気見香
は眼鏡の奥の瞳が、小さくすぼまっている。
「道理屋が個人的な協力者を持つというのは、決してないことじゃない。数樹君は彼の協
力者です」覇介は岸密に向かって言った。「それに、とかく秘密というものは最初に思っ
ているよりも多くの人間に共有されてしまうものです。これだけの人数で抑えられている
のなら、まずまずでしょう。そして事件のことを知っている以上、彼らにもその解決を知
らせずにいては禍根が残る。違いますか? 知ってしまったという事実は変わらない。な
らそれに対して手を打つべきです」
慣れた様子で説明する覇介に、岸密は言い返さなかった。
「そもそも、秘密というのが今回の事件にとっては大きな役割を果たしている。誰もが誰
もに情報を隠している。そうして一人で納得して、勘違いしたまま動き回る。それが今回
の件、全ての根本です」
「芝居みたいな説明はいい。さっさと用件に入ってくれ」
鷹志は苛立ちを隠そうとしない。
「役員の方々が予想している解決とは全く違ったことになったので、私の話を理解しても

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らうには前置きが必要なんですよ。質問は後でいくらでも聞きますから、今は黙っていて
くれませんかね」
鷹志は覇介へ歩み寄ろうとした。その前にエセルが立ち塞がる。鷹志はエセルを凝視して
いたが、やがて体の脇で握っていた拳を開いた。
「道理屋をしていると、たまに揉め事の当事者が足りない場合がある。つまり雇い主がも
う一方の当事者だと思っている相手が、実は無関係だったという場合です。今回がまさに
それです」
覇介は隣り合って立っている宮貴とローレッタ、鱗太郎を見遣った。
「そうですよ。役員の方たちにはこの際だから言いますが、僕たちは本当に無関係なんで
すから。思い込みで疑われちゃ迷惑です。移民についてだって、あなた方よりも僕の方が
深刻に悩んでいるんです」
覇介の視線に促されて、宮貴が言いつのる。
「そう。宮貴さんは巻き込まれただけです。ついでに言うと、今回の事件に移民は全く何
の関係もない。だから、これはそもそも役員方が勝手に揉め事だと勘違いしたことが拙か
ったんです。だいたい、大勢の移民が立て続けに越してくるなんて、今までなかったこと
でしょう。それで摩擦も何もなしに済むと思うのが間違っている」
「ちょっと待ってください。どうしてそれが信じられるんです?」
恵通が反論した。
「そこを納得してもらうために、今回は真犯人を見つけ出す必要が出てきたんです。いい
ですか、私はミステリに出てくる探偵役でもなければ警察でもない。ましてや裁判官や弁
護士でさえない。道理屋です。問題が解決できるのなら真犯人を見つけ出す必要だってな
い。事実、私は常盤さんと事件の解決を約束はしましたが、真犯人を見つけ出すとは言っ
てません。ところが、そうも言ってられなくなった」
「おい。どういうことだ。そんな依頼じゃねえだろ」
今度は、なぜか数樹が声を荒げた。覇介と録幸、そしてアンドロイドを除いた全員が殺気
立っている。その場の空気はどれだけ風が吹こうとも、重苦しいままだった。
「他に方法はない。いいから黙って。私を信じなさい」
覇介は他の人間へ特に説明もせず、数樹の言葉へ応える。
「信じろ、だ? これじゃ頼んだのと全く逆じゃねぇか」
「なあ数樹。どういうことだよ」
録幸は少し離れて立っている数樹を問い質す。
「それも秘密の一つだ。私は確かに常磐さんに雇われた。でもそれは録幸君。君を自治会
から助けるために数樹君が持ちかけたことだったんだよ。私は鮮造さんたちの弟子だった
んだ」
驚いたのは録幸だけではなかった。鷹雄も岸密も気見香も停止している。録幸はトキワを
見た。
「だから、ごめんって。エセルに黙ってるように言われたんだ。録幸を助けるためだから
って」
「そう。それも秘密の一つだ。秘密はまだある。これは私から数樹君への秘密だ。実は
ね。君の依頼を受けたのもある人からの依頼の一部なんだ」

- 125 -
数樹が何か動作を起こすよりも先に、エセルが覇介と数樹の間へ回り込む。
「徹語さんと鮮造さんだ」
「話がさっぱり見えないんですけれど?」
気見香の声は落ち着いていたが、酷い早口だった。
「順を追いましょう。私は何年も前に師匠である二人からある依頼を受けました。自分た
ちが町を出たことやそれに関連する諸々で、問題が生まれるかもしれない。もしそれに気
付いたら解決して欲しい、と」
そこで覇介は一旦、徹語について説明した。その間、役員たちはおとなしく耳を傾けてい
た。
「そこに数樹君からの連絡が来た。鮮造さんの孫が窮地に陥っているから助けてやってく
れないかという内容でした。おそらく数樹君は私がわざと常盤さんの依頼に失敗すること
で、録幸君が失敗しても責任が軽くなるように仕向けたかったのでしょう。プロでさえ失
敗したのだから、とね。でもそれは無理というものです。ここへ来て判ったのですが、録
幸君を追いつめている事件こそ、五〇年前に鮮造さんたちが出奔したことに起因していた
からです」
覇介は鼻を鳴らした。今度は誰も何も言わない。そこで覇介は歳郎を見た。
「歳郎さん。あなたはこの頃、五〇年前の出来事について調べていたそうですな。何人か
から聞きました。それにこの前のインタビュー。あれもそれと関係があったはずです」
歳郎は急に自分へ話が振られ、咄嗟に返事ができなかった。ただ曖昧な声を漏らす。
「これも共有されない情報です。この場の人間だけでなく、町内全体での。歳郎さん。よ
ければあなたが知っていることを話してもらえませんかね? 一つか二つあるはずです。
三つはないでしょう。大丈夫。この場で喋ればもう問題はなくなります」
歳郎は最初に録幸を、続いて数樹を見た。そして、途切れ途切れに鮮造と数樹と初帆にま
つわる二通りの噂を語った。恵通も鷹志も鱗太郎も居心地が悪そうにしている。言葉から
耳を背けるような感じだ。岸蜜の言っていた後ろめたさというのは本当だったようだ。
「さて、役員の方でこの話を知っている人は居ますか? 岸密さんは?」
年配の役員で一人だけ平然としている岸蜜に、覇介は尋ねる。
「ああ。初帆とかいう人が自殺して、鮮造さんたちがそこにいるアンドロイドを造ったっ
て話なら」
「鱗太郎さん。あなたはアンドロイドのせいで初帆さんが死んだ、という話は知ってるん
じゃないですか?」
鱗太郎はうなずく。
「そして鷹志さん。あなたはどちらも知らなかったはずだ」
鷹志は何も言わなかった。その顔色は酷く悪く、額から汗が一筋、流れ落ちた。
「歳郎さん。あなたはなぜこんな因果関係の逆転した話が伝わっているのか、疑問に思っ
たはずだ」
「理由を、知っているんですか」
歳郎は思わず覇介の方へ近寄ろうとして状況を思い出し、ばつが悪そうに咳払いをした。
「簡単なことです。初帆さんが死んだせいで二人がアンドロイドを造った。この話は当時
常民だった人の間で流通しているんです。一方で、アンドロイドを造ったせいで初帆さん

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が死んだという話は、当時移民だった人の間で信じられている話です。ま、今となっては
どちらも常民だ。私だってあらかじめ聞いていなければ気付かなかったかもしれない」
「あらかじめ? どうして。あなたは、本当はここへ何をしに来たんです?」
「歳郎さんが戸惑うのも当然です。私はここへ来た時点で幾つか、皆さんより多くの情報
を持っていました。さっき言ったように、私の大本の依頼主は徹語さんと鮮造さんですか
ら。ここでまた秘密が。三人にまつわる三つ目の話です。私はこれを最初に当事者から聞
きました。皆さん遠操盤を。エセル」
全員が遠操盤を取り出すと、そこへ映像が再生された。どこかの居酒屋らしかった。録幸
が見た画像よりも若い徹語と、髭を生やした男が座っている。鮮造だろう。録幸は自分の
顔と共通する部分を見出そうとしたが、上手くいかなかった。しかし、父親と画面の中の
人物は似ていた。周囲は混み合っているようで、賑やかな声が聞こえている。

「トキワを造ったきっかけ?」
鮮造が言う。
「トキワが居ない今だったら教えてもいいんじゃないかな」
徹語が言った。かなり呑んでいるらしく、顔が真っ赤になっていた。
「このとき、トキワは修理中でした」
手元の遠操盤を見ていた覇介が付け加える。
「アンドロイドを造ろうとしたのはまあ、好奇心だ。俺もこいつも技術屋だったからな。
それがああなったのは――」
「僕らには親友が居てね。アンドロイドが完成する直前に殺されたんだよ」
「殺された、んですか」
若い覇介の声が近くで聞こえた。鮮造はうなずく。積年の想いが詰まった、重たい仕草だ
った。
「そいつは町内のアイドルみたいなもんでな。狙ってる奴も多かった。そんなかの一人で
一番の馬鹿が自分になびかねえからって」
「町はずれの壁から突き落としたんだ。自殺ってことになったんだけどね。初帆は、あ
あ、その友達のことだけど、あの娘が自殺するはずはない」
「でも、だからって」
覇介の声がした。こちらも今より若い。数樹はジョッキに残った半分以上のビールを飲み
干すと、店員を呼びつけてお代わりを注文した。
「証拠はない。でもな、そいつは初帆が死んだ後、自分の権力を利用して噂を流したん
だ」
「初帆が死んだのは僕たちがアンドロイドの女に乗り換えようとしたことに絶望したから
だって。そいつ、若いくせに副自治会長なんだ。ひょっとしたらもう自治会長になってる
かもしれない。それとさ、まだあってね。実は一人だけ目撃者がいるんだよ」
「初帆の妹だ。初帆はそいつに呼び出されたとき妹を連れて行ってな。少し離れた場所で
待たせてた」
「じゃ、警察にはどうして」
目一杯に満ちたビールをほんの三口ほどで徹語は空にする。

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「妹はその頃、町で生まれ育った男と結婚してたんだ。お前の育った場所じゃ想像しにく
いかもしれないけど、自治会に刃向かってたら町では暮らしていけない。告発して引っ越
せばいい、というわけにもいかない理由があった。初帆が死んだ直後に、初帆の妹は出産
したんだ」
「姉が自殺して自分は出産直後。両親は居たたまれなくなって町を出て行った。自分の目
撃だけで相手を告発している場合じゃなかったんだな。そうこうしているうちに俺たちも
町を出た。未だに犯人が訴えられたって話も聞かないから、妹の奴はよっぽど手放せない
くらいに今の暮らしが幸せなんだろう」
鮮造はそう締めくくった。最後の言葉には、僅かに自嘲の色がある。
「じゃあ、その人は自分の幸せのために姉を殺した相手を見逃したんですか? そんなこ
と、あるわけない」
徹語の前にグラスに入ったウィスキーが運ばれてくる。鮮造のジョッキは全く減らない。
「さあね。他に理由があるのかもしれない。どのみち、もう昔の話。ともかく、失意の僕
たちは友人を偲んで、初帆をアンドロイドのモデルにしたんだ。ああ、こんなことトキワ
には言っちゃだめだよ。あいつは知らないんだ。殺された人間がモデルだなんて知った
ら、厭だろうからね」
徹語は投げ遣りに言うと、グラスへ手を伸ばそうとした。そこで画像は永久に停止する。

「当時の副長内会長は鷹雄さんでしたよね」
映像の中からどれだけかの歳月を重ねた覇介の声が言う。
「そ、そうだ。でも私はこんな話」
「ご存じないかもしれません」
いつの間にかエセルは鷹志の背後に立ち、その肩へ手を置いていた。
「ただ、第三の話についてはもう一人、知っている人物が町内におられました。初帆さん
の妹の娘。ローラさんです」
ローレッタは夫の腕にしがみつきながら自分のつま先だけを見つめている。宮貴の腕を掴
んだ両手の先が白くなっていた。
「先週、私はローラさんと二人きりで会い、今の映像を見せました。そうしたら確かに、
自分は母から同じ話を聞かされたと教えてくれました。ただ、鮮造さんたちは勘違いをし
ていたようです。確かにローラさんのお母さんは姉が誰かに突き落とされるのを見てい
た。しかしそれが誰だったかは、見ていなかった。警察にもそのことはちゃんと言いまし
た。ただ、証拠もなく他に証言もなく、おまけに初帆が自殺したという話がもう出回って
いた。証言は取り入れられなかったんです。ここからは私の憶測ですが、初帆さんの自殺
について二通りの話があり、しかもそれが当時移民だったか常民だったかで異なるのは、
それぞれが初帆さんと鮮造さんたちのどちらに肩入れをしていたかで決まったのでしょ
う。世話役の娘だった初帆さんに同情的だった移民は自殺の原因を鮮造さんと徹語さんに
求め、逆に二人と付き合いが深かった常民はアンドロイド製造の動機を初帆の死に求め
た。しかしこれも調査して判ったんですが、当時二人の造ったアンドロイドを実際に見た
人なんて誰もいないんです」
その言葉に、録幸は出張サービス先で循一の言っていたことを思い出す。最初、祖父が道

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理屋になるというのは、憶測でしかなかったのだ。誰もアンドロイドを見ていないなら、
それも無理のないことだったろう。
「でも私、鮮造さんたちと歩いたんです」
「夜の町を歩いた記憶が」
白河と黒河が口々に言った。その声が録幸には酷く心細げに響いた。
「そうだ。こいつは俺にもそう言ってたぞ」
録幸は思わず加勢する。
「そうか? でも、町を出たときに二人は完成していなかったと鮮造さんたちは言ってい
たんだが。一二月の寒い夜、作りかけのトキワを駒輪のカーゴに一体ずつ載せて」
覇介の言葉に録幸は引っかかるものを感じた。そして、思い至る。
「なあトキワ。爺さんたちが町を出たのは一二月なのか?」
「え? そうだ、けど」
おびえた四つの瞳が録幸にすがる。
「でも、風の記憶がないんだよな。それだけ忘れる、なんてことあるのか? そういや、
雪はどうだ? その時期のここは雪まみれだぞ」
トキワの顔が表情を選び損ねる。無意味に人工の表情筋が蠢く。
「ひょっとしてそれ、後から付け加えられた記憶なんじゃないか?」
「え、でも、なんで」
「あー、録幸君。ちょっとそれは先の話だ」
周囲を置いて二人だけで話が進んでいたところへ覇介が割って入る。
「とにかく鮮造さんたちが町を出たとき、トキワが未完成だったことは今のでも確認され
たわけだ。それは異論ないですね」
トキワ以外の全員がうなずく。
「こうして歳郎さんが集めた二つの話は誤っていたことがはっきりしたわけです。確かに
今のトキワは初帆さんがモデルであるにせよ、それがアンドロイド制作の動機になったわ
けではないし、トキワ制作のせいで初帆さんが自殺したわけでもない。噂の出所に関して
は保留となりますが。さてそこで自治会の皆さん。冷静に考えましょう。そもそも宮貴さ
んの陰謀説というのはいったいいつ、誰が主張しだしたものです?」
「前からです。開墾事業が終わって移民が増えだした頃から」
恵通の答えに他の役員も同意した。
「裏で誰かが画策しているんじゃないか、というのはそうでしょう。その黒幕が宮貴さん
という具体的な人物になったのは」
「鷹志さん。そこの道理屋の言葉じゃないですけど、あなたは私たちに秘密がありません
か? わたしたちは今まであなたを信頼してやってきましたよね。あなたはそうじゃなか
ったとか?」
それまで黙っていた絵茄が喋った。今日は殊に人工声帯の調子が悪いらしく。その言葉は
ひび割れて幾重にもぶれていた。
「いや、私は隠し事などしていない。言い出したのは私かもしれないが――」
「そう、あなたは宮貴さんなど疑ってはいなかった。疑っていたのはローラさんのこと
だ」

- 129 -
「違う。移民の取りまとめ役というだけで宮貴さんを疑ったのは確かに短絡的だったかも
しれない。でも私は本当に何も知らなかったんだ。そもそもだな、自分が人を殺したなん
てこと、息子や孫に言う人間がいるか?」
「だ、そうです。これで少なくとも宮貴さん。わけもなくあなたが疑われることはもうな
いでしょう。鷹志さん本人が短絡的だったと認めている」
「あ、そうか。そうなんですよね!ね?」
宮貴は顔の汗を拭いながら、せわしなく鷹志に同意を求めた。
「心配しなくても、今日の遣り取りは歳郎さんが記録しているでしょう。もちろんエセル
とトキワも」
「ええ、あ、いや」
歳郎は思わず遠操盤の入ったズボンのポケットを押さえた。
「歳郎さん。録音するのは結構ですが、あなたにとってこの場の遣り取りはもう無意味
だ。違いますか? 鷹雄さんの殺害についてはこの場で解決します。鮮造さんたちの過去
についても公表は不可能だ。記者として第三の噂とそれらの食い違いだけを隠して記事に
はできないし、かといって全てを書くのは危険すぎる。どういう形であれ鷹雄さんが死ん
だことは発表されるんですから。あなたが死者を悪く言うような記事を発表したとして、
その後どうなるか。容易に推測できるでしょう? 自分では上手く立ち回っているつもり
なのかもしれませんが、自信過剰はよくないですよ。奥さんも心配してました。あなたが
自滅するってね。奥さんとの暮らしを大事にしている気でもいるんでしょうが、それもま
た自信過剰だ。少しは反省しなさい。まったく、あんなに頭のいい人がどうしてあなたと
結婚したのやら」
歳郎は情けない声で呻くだけで、反論できなかった。
「移民の方々が無関係だというのなら、結局犯人は誰なんですか? まさか、私たち常民
を疑っているということはありませんよね」
歳郎に一瞬だけ無表情を投げかけ、気見香は尋ねた。
「もちろん、そんなことはありません。犯人は今から喚ぶんです」
そう言うと覇介はなぜか録幸を見て、僅かに目元をひくつかせた。録幸は無意識に逃げ出
そうとして、靴底で芝生が擦れる音で我に返った。
「トキワ。鷹雄さんが死んだときの映像を遠操盤に再生してくれないか」
まるで長々とした説明の一部であるかのような、軽い口調で覇介は告げた。全員の目がト
キワへ向けられる。録幸は自分がいつの間にか奥歯を強く噛み締めていることに気付い
た。握った手の内側にだけ汗の溜まっているのが感じられる。
「どうせアンドロイドの嘘などすぐ見破れる。諦めて映像を転送するんだ。お前を治して
やれる。録幸君と別れたくはないだろう?」
最後の言葉にトキワの目が大きくなった。
「本当に?」
「本当だ。だいたい、他に選択の余地はない。さ、皆さん遠操盤を」
言われるままに遠操盤が取り出される。アンドロイドの決断は早かった。ややあって、画
面に映像が流れはじめたのだ。

- 130 -
小さな画面の中央に鷹雄が立っている。その瞳孔は縮み、皮膚におかしな艶が宿ってい
た。
「あれは悪気があったんじゃない。俺がそんな男じゃなかったことは知ってるだろ。なの
に、何で今頃。もう五〇年以上は経ってるだろ。許してくれ。あの二人が町にいられなく
なったのは俺のせいかもしれない。でもなあ。そいつらと幸せだったんだろ。徳鮮の初
帆、徹っちゃんの初帆」
完全に我を忘れているのか、身振りに抑制が欠けていた。大きく開けられる口の中の歯だ
けが不釣り合いに立派で、盤石に見えた。
「なんのこと?」
「わたし全然そんなの知らないよ」
落ち着いたトキワの声。しかし目の前の出来事へどう対処すればいいのか解らず、途方に
暮れているのが録幸には判った。
「忘れたのか? なあ、おい。忘れたのかお前は。俺はずっと苦しんできたんだぞ。いつ
かあいつらが戻ってくるんじゃないかと怯えてたんだぞ」言いつのる鷹雄の口の端が神経
質に震えている。「徹っちゃんが死んでないことも俺は知ってるんだ。俺はあいつらから
初帆を奪ってやった。なのにあいつらはお前を造った。じゃあ、俺のしたことは何なん
だ?」
「やっぱり、わざと殺したんだ」
トキワとしてはやっと理解のできる部分へ適当に反応しただけなのだろう。しかし、その
言葉は致命的だった。鷹雄は素早く振り向くと後ろにあった椅子の背を掴み、振り上げ
た。歪んだ顔に皺がいっそう陰を増す。
 叫びながら鷹志は椅子でトキワを殴ろうとした。と、もう一人のトキワが視界に滑り込
み、鷹雄の首を思い切り両手で絞めた。両手から落ちた椅子が絨毯にぶつかり、キャスタ
ーの回る音が響いた。
 鷹雄はトキワの腕を掴もうと手を伸ばし、果たせぬままに事切れた。トキワが手を緩め
る。支えの失われた鷹雄の体は前のめりに倒れる。それを見下ろすトキワの後頭部で、黒
い髪ゴムが揺れていた。視線が下へ向けられだしたところで画像が終了する。後には見慣
れた待機画面が残る。

 録幸はそうすれば出来事そのものがなくなるとでもいうかのように、遠操盤を地面へ叩
き付けた。遠操盤は柔らかな芝生の上で小さく跳ねた。上を向いた画面には、まだちゃん
と待機画面が表示されていた。
 一方で悲鳴が起こる。常磐だ。常磐はトキワに向かって駆け寄ろうとした。しかし途中
で正面からエセルに取り押さえられる。常磐は泣き叫びながらエセルの顔を両手で思いっ
きり掴んで押し、引きはがそうとしている。エセルの隙なくセットされた髪が乱れる。だ
が、エセルはわずかに揺れるばかりだった。
「こんなものを娘に見せるなんて、お前はどういうつもりだ!」
鷹志も覇介に詰め寄っている。その横では意外にも、岸密が同じ理由で覇介を糾弾してい
た。他の人間はただ取り残され、取るべき態度を固められずにいた。
「こんなはずない。こいつが犯人だ? そんなわけないだろ。俺にだって言わなかったん

- 131 -
だぞ」
録幸は覇介の状況を無視して、そう叫んだ。
「録幸君、そんなアンドロイドを庇うんだ? しかもそんな馬鹿みたいな言葉で。私のお
爺ちゃんがそいつに殺されたんだよ? 自分の気がつけなかったことが、そんなに悔しい
とでもいうの?」
常盤の震える声に、その場が静まる。録幸はやや上体をかがめるような姿勢で常磐を見
た。常磐はエセルと組み合ったまま、録幸を凝視している。涙に充血した眼が、怒りとも
悲しみとも付かない力で、大きく開かれている。もともと腫れていたまぶたが、いっそう
膨れている。
「そうじゃない。俺はこいつが人を殺したことが、」言いかけて録幸は体を伸ばし、深く
息を吐く。酸素に変わって怒りが満ちてくる。「そうだ。俺はこいつを理解してる。他の
人間なら気付かないような些細な感情まで汲み取れてる、そう信じてた。でも俺は気付か
なかった」録幸は喋りながら、どんどん声が大きくなるのを自覚した。だが、抑えられな
かった。「アンドロイドなんだからな。動揺なんかするわけない。人間じゃないんだか
ら。ただ……。解るだろう? 俺は自分の馬鹿さ加減にも今の状況にも、うんざりだ。ど
うして誰も彼も面倒なことばっかり起こすんだよ!」
トキワはしきりと謝っていた。こうなることを知っていたから。アンドロイドが吐ける嘘
はせいぜい、知っていることを黙っているぐらいなのだ。完璧に。録幸はふらりと遠操盤
を拾い上げ、再び地面に叩き付けた。その上に足を踏み下ろす。
 どこからか声がした。それは低く地を這い、全員の耳に届く。覇介の声だった。
「人の形をしたものに呪的な力を見ることは、古来より世界中で行われてきました。特
に、特定の人物に似せた物へ、その人の霊が宿るという考えは数多い。つまり、そこに居
るトキワはある人物の死後、その依り代として造られたのです。という名前だって陰と
陽、死者と生者、無機物と生命を表わしている」
 全員の視線が覇介に集中していた。先ほどまでのどこか演説的な口調とは違う、鬱々と
したは声音。覇介は少しずつ体の向きを変え、とうとうトキワを正面に捉えた。「さっ
き、これはミステリではないと言いました。しかしホラーではあるかもしれない。いい加
減に出てきたらどうです? 西宮初帆さん。あなたが鷹雄さんを殺したんだ。人間ならと
もかく、アンドロイドがあれくらいで相手を殺すほどの反応はしない」
それは新たな機動手順だったのだろうか。トキワは呆然とした顔をし、それからゆっくり
と、互いを見た。
初対面の人物に向ける警戒の眼差しが交差した。見えているのはお互いが初めて目にする
容姿の他人だ。
「あなた、だれ?」
同時に二人は言う。
「わたしはトキワ。いや、トキワはわたし。あなたは、初帆さん?」
いつものズレは失われ、タイミングは完全に同期する。
「わたしを乗っ取ろうとしてたのはあなただったんだ。録幸を独り占めしようとして。鷹
雄さんや循一さんが私の中に見てた初帆さんも、あなたなんでしょう? おかげで私は気
味悪がられて。鷹雄さんだってあんな――」

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「ううん。私の邪魔をするのは黒河と白河。あなたたちのせいで、録幸は私を見ない」
「そういう白河だって。私を消して録幸を独り占めしようとした」
二人の距離が一歩、縮まる。人間は出来事の受像体でしかなくなっていた。
 二人の間は今や一メートルもない。優雅な舞いの初手のごとく、二人は右の拳を引い
た。そのまま思い切り互いを殴る。
 無機物同士の衝突音。拳は互いの脇腹に、めり込むことなく受け止められる。四本の足
が僅かに芝を捲り、土中に沈む。
 緩慢に二人は殴り合う。遅い分、一撃一撃が重たい。鉄塊が刻む緩やかな拍。拳の正面
が薄黒くなる。皮膚が裂け、下地が出てきたのだ。しかしそれは何のダメージとしても計
算されない。二人はひたすら拳を引き、相手へ叩き込むことだけを繰り返していた。下半
身の関節は固定されたまま放置され、顔は表情を作る信号から見放されている。
 殴打は交互に行われるようになっていた。単調な作業でしかないそれはしかし二人の服
を裂き、皮膚を裂き、ボディをへこませる。
 一人の拳が顎を直撃した。皮膚は破れず、もげた顎関節に沿って盛り上がる。顎先がそ
の重みで斜めに垂れる。
 殴られた方は相手の鼻梁を狙う。正確にそれは鼻を粉砕し、付け根だけが千切れる。下
の方は顔へ固定されたまま、平たくなっていた。
 もはや二人の髪からゴムは落ちてしまっていた。それは密生した丈高い芝に紛れてしま
い、見付けることができない。衝撃に合わせ、髪は軽々と跳ね踊る。
 外皮も服もあらかた破れてしまったところで変化が起こった。一撃ごとに黒い液体が周
囲へ振りまかれる。拳から機械油が漏れ出したのだ。しかし二人に不都合はない。指を使
うことなど二度とないのだ。ただ閉じていればいい。それは手ではなく、先の膨らんだ鎚
でしかなかった。
 トキワと黒河、白河、そして信じがたいが西宮初帆。二つの体で四人が争っていた。し
かも、誰が誰を殴っているのか、録幸には全く判らない。
「格闘プログラムが入ってないのか。スペック不足だな。ああ、だからあんなに装甲が頑
丈なのか」
録幸の傍へ来ていた覇介が醒めた声でエセルに囁く。その声は録幸の耳にも届いた。
 録幸は振り返った。覇介は腕を組み、エセルと並んでトキワを眺めている。その姿には
仕上げた仕事が勝手に完了する所を見守っているだけ、というのんびりとした雰囲気があ
る。衝動的に録幸は覇介へ掴みかかろうとした。僅かに体を前へ出すだけで、エセルがそ
れに反応する。
「治すんじゃなかったのかよ」
録幸はその場に留まったまま覇介に言う。
「もちろんじゃないか。大丈夫だ」
覇介は録幸の怒りを無視した、ごく普通の調子で応じた。
 録幸は肩を震わせ、覇介の目を睨み続けた。背後から鈍い音が絶え間なく響いてくる。
その間隔が徐々に早まっていることに、録幸は気が付いた。振り返れば互いを壊滅すべく
単調な動きを繰り返す、一対のアンドロイドが立っている。
 まず始めに殴り合いを止めるべきだったのだ。今となっては遅いかもしれないが、動い

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ているということは間に合うかもしれないということ。重傷でも、まだ生きているという
ことだ。
 しかし目の先に立っているのは互いに傷つき、血を流す白河とトキワでも、初帆と黒河
でもなかった。あちこちの服や皮膚が破れ、拳の先から機械油を滴らせる、破損した機械
だった。それはアンドロイドなどという高度なものよりも、録幸が日頃扱う、モーターと
ギアから成る電動工具に近いようだった。その痛ましさに耳鳴りがする。録幸は駆けだし
た。
 結局のところ、トキワにどれほど人生をひっくり返されようが怒れなかった時点で、自
分はトキワ、あるいは黒河白河に、どうしようもなく魅了され、屈していたのだ。それが
アンドロイドであろうとなかろうと、気まぐれな存在の慈悲深いつもりでいる残酷さに身
を委ねていたのだ。録幸ははっきりとその自覚を受け入れる。
 ずいぶん走ったような気がしたが、実際には数メートル進んだところで腕を掴まれた。
袖口から伸びた腕に相手の爪が食い込む。
「だめ」
常磐だった。常磐はもう片方の腕で録幸の襟首を握りしめる。
「離せ」
録幸は常磐の手を振りほどこうとするが爪はますます深く突き立てられ、肉を通して骨を
つつく。
「行ってどうなるの? 停まるわけないじゃない。鉄の塊がひしゃげるぐらい強いのに、
もし間違って殴られたら。ほら、どんどん強くなってる」
録幸にもそれは見えていた。今やL字型の金属棒と化した両腕はエンジンピストンの回転
数が上がるように素早く引かれ、前方へ送り出され、早すぎてフォームは狂ってしまって
いるがそれでも目標には衝撃が与えられる。膝の関節も緩んできたようで、小さくだが上
体が揺らぎ始めている。
「だから、だから俺が止めないと」
言いながらも録幸はそれ以上進めない。録幸を掴む常磐の手が白くなり、表面には腱が浮
いている。そこを中心に痺れと痛みが拡がっているが、焦る録幸には煩わしさ以上のもの
が感じられなかった。
「もう、いいでしょ? あんなの止められるわけない。だいたい元々壊れかけてたんだ
し。数樹君に聞いた。だったらどのみち諦めるしかない」
「それでも、あんなの放っ」
言いながら録幸は常磐の方を向き、言葉を途切れさせた。
 常磐から日頃の気怠そうな覆いが脱げ落ちていた。代わってこれまでの長い付き合いで
初めて目にするような、強い意志がそこにはあった。常磐が人並みに傷付いたり落ち込ん
だりするのだということが、今更になって録幸には理解できた。
「そんなにあれがいいの? 私とここに残るくらいなら、あんな壊れかけたアンドロイド
と出て行く方がいいの? そりゃ、録幸には私のことが突然なのは解ってる。でも、それ
でも、さぁ。なんで、なんであんな人殺しと」
擦軋音が絶え間なく響くようになる。一つではない。たぶん四本の腕のどれかが根本から
破壊されかかっているのだろう。だが録幸はトキワを見ることができない。

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「なあ、常磐。とりあえず手ぇ離してやれ。血が出てるぞ」
突然数樹の声がした。常磐の背後へ視線を滑らせると、すぐそこに数樹は立っていた。
「あ」
常磐も数樹のことを目にし、それから録幸の腕を見遣ると手を離した。三日月形の朱が四
つ、並んでいる。常磐の指先、爪の白かった部分にも同じ朱が乗っている。
「で、録幸。どうすんだ? 選択次第じゃ意味ぁねえかもしれないが」
数樹は録幸の向こうを顎で示した。すぐそこで、トキワだったものは相変わらず相手を殴
るというタスクを実行していた。一方は左の腕が完全に破損していた。順番が来ても腕は
小さく前後へ振れるだけだ。もう一方は右の腕が損壊し、肩口からコードの束で辛うじて
ぶら下げられている。あちこちで裂けた皮膚は千切れもせずにぶら下がり、あたりを吹き
包む風になびいている。その周りは押し寄せられて皺になり、弛み、縁がめくれている。
配線のショートから事故による大破まで、あらゆる損傷を駒輪で見慣れてきた録幸だった
が、トキワのその姿には正視できないほどの痛々しさを感じた。
 録幸はトキワから目線を外すと、数樹の本心を探ろうとした。わざわざ常磐の手を離さ
せたのは自分にトキワを選ばせるためなのか。それとも数樹が常磐に惚れているというの
はやはり勘違いで、数樹は録幸に公選択の機会を与えただけなのだろうか。
「常磐をどうするかは別として、とりあえず今はあいつらを止める、なんてのはナシだ。
止めたところであいつらが助からないのはお前も解ってんだろ」
数樹はいかめしい顔をさらに引き締めている。まるで自分の感情が表へ漏れ出すのを食い
止めているかのようだった。
 無意味な結果が見えているのに、常磐を苦しめるのか。鷹雄の味わったのと同じ失望
を。自分は決して今の常盤が嫌いではない。自分の決定を待つ常磐の、迫り上がる何物か
へ耐える口元。小さく膨らむ小鼻。トキワはもう何に対しても傷付きを認知しないだろ
う。だが常磐は違うのだ。
 ぼそり、と音がする。アンドロイドの腕が柔らかな緑に落ちた音だ。
「黒河! 白河!」
録幸は叫ぶ。しかし二体は録幸を見ない。もう録幸など存在しないのだ。徐々に録幸は自
分がなぜ、何のためにトキワを止めようとしているのか判然としなくなってきた。走り出
したときの決断も徐々に勢いを失い、感情から剥離が始まっている。そこで録幸はもう一
つの事態に思い至る。トキワを選ばなくとも、トキワが完全に停止するまでにどちらかを
選ばなければ、そのときは何も得られないのだ。残り時間は少ない。
 自分が断っても常磐はすぐ立ち直るんじゃないか。録幸はこれまでそう考えていたが、
それは願望でしかなかった。思い返せば常磐は自分に受け入れられる可能性だけで、変わ
りつつあったのだ。それに、現に目の前にいる常磐の貫通しそうなくらい引き絞られた熱
情には、常磐の全存在が込められていることを感じさせた。今の常磐に後先はない。後に
も先にも、こんなことはこれっきりだろう。乱れた髪を払うこともなく佇み、こちらを窺
っている。
 息が上がってきた。そもそも生きていない物に生命を投影するには、自分はトキワの裏
側を見過ぎてしまった気がしてきた。互いを殴り合うトキワの、調律が滅茶苦茶になった
駆動音はこれからもずっと忘れられないだろう。それを選んで自分が残り長い年月を後悔

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しない自信はない。当初の決意は放棄され、録幸は決まる。
 目の前の女性を選ぶため言葉を口にしようとし、録幸はふと数樹を見た。懐かしい表情
をしている。小さかった頃、ゲームや試合で負けそうになったときの顔だ。顎を引き、目
元を強張らせ、精神的なショックを肉体的に耐えようとするような。
 録幸は数樹の願いを確信してしまう。数樹も録幸に知られたことを知った。録幸も、数
樹が知ったことを知った。情報が共有される。数樹が録幸に対して持ち続けた最後の秘密
が消える。五〇年前もきっとそうだったのだ。二人の男と一人の女。二人の男は女を挟ん
で身動きが取れなくなった。暗黙の情報が共有されていたせいで。秘密がなかったせい
で。そして女は死んだ。だが男が選んでいれば、残った男が死んでいたかもしれない。三
人では常に一人が余る。
「わたし? わたしはトキワ」
突然、聞き覚えのある声がした。トキワの声だ。思わず振り返る。
「そりゃそうだけど。言ってくれれば」
「もうちょっとカワイイ髪飾りとか」
剥がれかけた顔の皮膚もそのままに、二体は殴り合っている。しかし声はそのどちらから
ともなく流れてくる。
「え? そうなの? わたしと録幸はもうけっこう仲良しだと思ったんだけど」
それが口蓋奥深くに埋め込まれたスピーカーから、過去の録音を再生したものだと言うこ
とはすぐに判った。自分にだけ聞き分けられるかすかな声質の違い。そうでなくとも、会
話に覚えがある。
「そのときはそのとき。わたしと旅しながら道理屋すればいいじゃない」
「えー。わたしだけ店番? ずるいよ」
「そうだけどさ、せっかく会えたんだから録幸と喋ったりしたいなって」
録音した音声を再生する機能は無事らしく、その声にはノイズも歪みもなかった。他の部
分の惨状とは全く関わりなく、言葉は鮮やかに再生され続ける。車体がひしゃげ、全くタ
イヤが動かないにもかかわらず正確な時刻を表示し続ける時計や、血まみれの事故現場で
最新の曲を流し続ける車載端末のように、それは機械だけが成し遂げられる律儀さと健気
さだった。
「五〇年前とは違うんだ。ごめん」
録幸はそれだけ言うと、常盤に背を向けた。たとえもうじき死ぬのだとしても、選ばれる
のを待っていた女はもう一人いるのだ。もうすでに新しい言葉を紡ぐだけの力はなくと
も、こうして録幸を呼んでいる女が。
 録幸はトキワの元へ数歩で駆け寄った。二人の動きは再び緩慢になり、出力は衰弱して
いた。これまで幾度も、どちらに触れるか選べなかったことが思い出される。だが今なら
はっきりしていた。どちらを選ぶかなど、どうでもよかったのだ。どちらもトキワであ
り、黒河か白河かなど気にするべきではなかったのだ。中途半端に分けて考えたから駄目
だったのだ。録幸と常に居たのは黒河というアンドロイドでもなく、白河というアンドロ
イドでもなく、トキワだったのだから。たとえ数センチ下が鋼鉄であろうとも、繰り返す
よう求められようとも、その腰に手を回すべきだった。
 近い方の背に触れる。酷く熱かった。咄嗟に録幸は触れた手を引きそうになったが、堪

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える。表皮がきゅうっと縮む。すぐに熱が手から離れた。二人が同時に膝を折り、地面へ
突っ伏したのだ。瞬間が引き延ばされることもなく、示される何物もなく、機械だけが成
し遂げられる律儀さでトキワから一切の動きが停止する。体内からファンが空回りしてケ
ーブルに擦れる幽かな響きが聞こえ、じきにそれも止まった。
 予測できたこととはいえあまりの呆気なさに、録幸は遣り場を失った手もそのまま振り
返った。数樹は不出来な弟分に対する不満と同情とが入り混ざって浸食し合った表情を浮
かべている。子供の頃、録幸が何かを失敗するたび目にしていた顔だ。
 常磐はいつもの脱力した感じとも違う、妙に穏やかな面持ちをしていた。その視線の先
が録幸の網膜を捉える。すると目尻から頬にかけて、常磐の生白い肌に赤みが差した。そ
れは血管の分布に沿って若干のムラを生じさせながら、ゆっくりと首筋まで拡がってい
く。怒ってる。初めて見る反応だったが録幸は直感した。自分に寄せられる好意と日々の
継続とを拒み、引き替えに録幸が手に入れたのは壊れたアンドロイドに手を触れ、倒れさ
せるだけのことだったのだから無理もない。唐突に皮膚から色が退いた。それと連動する
かのように唇の片端が吊り上がる。そして小さく、短く、一声、笑いが漏れた。最小単位
の笑い声は風によって撒布され、居合わせた人々に浸透していく。

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第八章「呼び交わし」

 作業着の吊されたハンガーを棚の支柱に引っかけ、録幸は大きく伸びをした。肩に手を
当て、首を回すと凝り固まっている視神経や集中力がほぐれたる。修理を終えて居並ぶ駒
輪に目を遣ると、録幸は作業場を後にした。
 二階へ上がると録幸はまっすぐ洗面所へ行き、手を洗った。作業中は手袋をしているの
でそれほど汚れているというわけではないのだが、なんとなく習慣になっている。少し赤
らんだ手を流水が冷やしていく。
 洗面所を出ると録幸はダイニングキッチンへ向かった。流しの脇に設けられた作りつけ
の食器棚からグラスを取り、冷蔵庫から牛乳を出す。パックが軽い。あと一杯分くらいし
か残っていないのだろう。明日の朝食のために、あとでコンビニまで買いに行かなくては
ならない。手にした二つをテーブルへ置くと、録幸は椅子へ腰を下ろした。
 覇介が真相を明かしてから三週間が過ぎていた。事件は警察にさえ報じられないままと
なっていた。どのみち通報したところで何がどうなるというわけでもなく、かえって捜査
の過程で鷹雄に対する疑惑が持ち上がるだけなら、というのが理由だ。犯人が判明直後に
全壊してしまったためでもある。誰かに法的な罪状が適用されるということはないだろう
という覇介の言葉も、事態が表沙汰にならずにいることの一因だった。録幸や数樹にトキ
ワの行動を予見できたとは立証できないだろうし、鷹雄の死は器物損壊に失敗した結果と
解釈されるそうだ。仮にトキワが無事だったとしても人間でない以上刑法は適用されず、
回収処分になるだけだという。思考部分さえメーカー品ではないため、リコールといった
事態にもならない。徹語も既に死んでいるので、制作者に引責させることもできない。結
局表向きには先週の「ゼロ。ニュース」へ、旅先で鷹雄が事故死したことを告げる記事が
掲載されただけだった。
 録幸は紙パックを手にすると、グラスへ中身を注いだ。思ったとおり、それで空にな
る。だがすぐには口を付ける気になれず、ぼんやりと白い塊を眺める。
 最後にトキワを数樹へ預けたときとは違い、事件の翌日から録幸の生活はトキワと出会
う以前のものに戻っていた。朝の七時に起床し、シリアルを食べ、滞りがちになっていた
仕事を片付ける。それが終われば夕食を作り、一人で食べる。だがそうした日常を維持す
るのに必要なこと以外は何もする気になれず、空いた時間はだいたい放心しているか取り
留めのない思考を浮かべて過ごしていた。そうして暮らすと一日は過剰に長く感じられ
た。三週間前のことなど、もう忘れてもおかしくないくらい過去のことのように思える。
町に居辛くなる気配もない。一度だけ岸蜜が店に姿を見せたが気まずさを感じさせるよう
な場面はなく、事件のことは話題にすらならなかった。なんとなく遣り過ごせそうな気配
なのだ。全ては何事もなく、録幸の日常は千切れる寸前で踏みとどまった。
 酷くあやふやな気分だった。それほどの脱力感を味わいながらも、未だにトキワを失っ
たことに対して、具体的な感情が湧かないせいだ。修理もできないほどに破壊されたトキ
ワは、充分に熱が取れてから数樹が録幸の牽いてきた駒輪に乗せて、引き取った。安い回
収業者を知っているし、トキワを自分の手で粗大ゴミとして回収させるのは嫌だろうと数
樹が提案したのだ。数樹の言葉を聞いたとき、録幸は驚いた。まるで修理不能の駒輪をそ
うするように、何の感傷もなく自分でトキワを廃棄するつもりでいたことに気付いたから

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だ。そして、その驚きの後には何もなかった。
 最初、録幸は自分が辛さのあまりに感情を停止させているのだと思った。しかしどれほ
ど自分の内心を調べてみても、それを裏付けるものはなかった。本当にトキワとの別れに
何も感じていないのではないか。それはここ数日、予想から確信へと移行しつつあった。
「ゼロ。ニュース」で勝手にトキワの死が「活動年数の限界によるもの」として報じられ
ることとなり、インタビューという名目で行われた口裏合わせを行ったときさえ、感慨は
なかった。配信された記事に添えられた「アンドロイド黎明期の素人による自作機が、こ
れほど長く稼働していたことは珍しい」という数樹のコメントにも、浮かぶものはなかっ
た。自分にとってトキワはその程度の存在だったのか。もちろんそうとは思えない。独り
になり、トキワと暮らした期間のことを繰り返し思い出すうちにやっと、自分がトキワに
対して恋愛感情とは違うものの、強い想いを抱いていたことを自覚したのだ。しかしその
自覚は過去で途絶え、今の録幸には全く影響していない。
 あやふやな気持ちを強めている要素はもう一つあった。なぜ常磐ではなくトキワを選ん
だのか、それさえも録幸は掴みかねていたのだ。あのとき感じていたことは覚えている。
だがそれはどうにも解きほぐしようのない塊であって、凝視すればするほどに取り留めが
なくなっていく。圧縮されたそれを読みとり可能な形に解凍するすべはなかった。
 あのときは自分たちの関係を、五〇年前の祖父たちに重ねて感じていた。だとすると、
数樹へ常磐を譲ろうとしての行動だったのだろうか。それは妙なことで、数樹が常磐に対
して特別な感情を持っているというのはやはり自分の憶測でしかないのだ。数樹も自分も
日頃は相手の考えや感情を本人以上に察していると自負しているが、それが事実でないこ
とはちゃんと理解している。あのときの全てを迷いなく確信したことが、今では不思議な
勘違いだった気さえしている。
 録幸はこれまで幾度もそうしたようにトキワに関する思考の円環を一巡すると、やっと
そこで牛乳を飲んだ。もうぬるくなり、口の中で僅かにねばつく。窓の外は完全に日が暮
れていた。ふと自分を引き留めたときの常磐の顔が思い浮かぶ。それまで見たこともない
ほど意志の宿った眼差しが、まるで今訴えかけているかのように強く録幸の心を刺す。そ
れを打ち捨ててまで得たものの味気なさに心苦しさが掻き立てられる。それだけは勘違い
ではなかった。
 不意に遠操盤が鳴った。胸ポケットから取り出せば、数樹からだった。数樹とはあれき
り、全く連絡をしていない。
「もしもし」
「あ、俺だ」
聞こえてくる声がすでに懐かしさを帯びている。
「ああ。そっちは?」
「忙しくてな。やっと一段落だ、っておい」
「ん?」
「どうしたんだ? やけに穏やかな声じゃねえか」
反射的に小さく笑いが漏れる。
「相当落ち込んでんだろ。元気づけようってわけじゃないが、今晩どうだ?」
その言葉の意味は判った。千載に誘っているのだ。録幸は冷蔵庫の中身を思い出す。傷み

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そうなものはなかった。咄嗟にそんなことを気にする自分がおかしかった。
「ああ。行く」
「じゃ、三〇分後に店で」
通話が切れた。録幸は遠操盤をゆっくりとポケットへ落とし込む。千載までは一〇分ほど
で着いてしまうので、今行けば二〇分近くも待つことになる。別に急いで出ることもない
だろう。いつのまにか録幸の意識は再びトキワの周りで円軌道を描き始めていた。

 千載に数樹はまだ来ていなかった。録幸は L 字型になった店内の一番奥の席へ座る。ほ

どほどに混んだ周囲には見知った顔ばかりなのだが、それぞれに付随する印象が何も喚び
起こされない。写真でだけ見たことのある人々に囲まれたかのようだった。
「らっしゃい。おお、数樹」
その声に録幸は入り口の方を見遣った。やがて、角を曲がって数樹が姿を現す。しかし、
一人ではなかった。
「常磐」
思わず立ち上がろうとして、録幸は留まった。
「いやあ、ウチ出ようとしたらこいつが来てな。録幸と飲みに行くって言ったら、ついて
来るって」
数樹は苦笑しながら録幸の隣に座る。常磐はその向かいへ座った。しかし数樹のことも録
幸のことも見ようとはせず、その中間へ視線を向けている。全身が脱力し、少しだけ首を
かしげた無表情さは知らない人が目にすれば不機嫌そうに思えるはずだ。しかしそれこそ
録幸や数樹が見知った常磐だった。それにしても一言も喋らないのは、やはり録幸のせい
だろう。それにしても、なぜ数樹と来る気になったのかが判らない。
「ほらほら、常磐はなに注文すんだ?」
数樹がメニューを差し出して尋ねる。
「生中」
メニューを見ずに常磐は答えると、完全に二人から視線を外してしまった。
「生中な。えー、それじゃあ食べ物の方は」
「トロロの短冊」
数樹は引きつり気味の笑顔になると、メニューを手元に引き寄せて開いた。
 数樹と録幸はメニューを見ながら適当に注文を済ませ、暗黙の裡にひとまず常磐は放っ
ておくことに決めた。
「そういやこの間、可島からメールがあってな」
可島というのは録幸の同級生だった。今は町を出て、アメリカで日本料理屋をやってい
る。数樹とも親しく、今でも時々メールの遣り取りがあった。
「そうか」
「でな、それがあいつとうとう結婚するらしくって。ほら、いつだったか写真を送ってき
た金髪の」
「ああ」

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「覚えてねえか? 妙にあいつのお袋に似た感じの」
「そうだったな」
そのことは覚えていた。あいつマザコンだからな、などと言って二人で笑ったことも。な
のに、どうも関心が湧かない。かといって煩わしくも不快でもない。
 数樹は自分が孤立無援状態にあることを察したのだろう。目をつぶると額を揉みほぐし
た。録幸は申し訳ないような気になったが、話に乗るのはどうにも面倒だった。
「はい、お待ち」
突き出しの小鉢と飲み物が運ばれてくる。数樹と録幸も生中を注文していた。突き出しは
イイダコを甘辛く炊いたもので、小さく刻んだワケギが振ってある。
 乾杯するような雰囲気でもないので、三人はそのまま飲み始める。常磐は最初の一口で
ジョッキの半分近くを空にしてしまった。ビールが気管に入ったらしい。常磐は激しく咳
き込むと、あえいだ。
「普段そんなペースで飲まねえから」
数樹は紙ナプキンを一枚取ると、常磐に手渡す。常磐はそれで口元とテーブルを拭う。
「ありがと」まだ少し息を荒げながら常磐は言い「日本酒、二合」と注文を追加した。向
こうから返事が聞こえる。
「お猪口三つで」
溜め息混じりに数樹が付け加える。
「そっちはそっちで注文してよ」
「だからお猪口頼んだだろ」
「それって気の利いた言葉のつもり、とか?」
「あ、いや、頓知、だ」
数樹はビールをあおる。
 二人の会話を見ていると、録幸は少しだが肩の荷が降りるように感じられた。数樹が常
磐のことをどう思っているにせよ、少なくとも世話を焼きたい気持ちは今もあるらしい。
これまでもそうだったのだから、当然ではあるが。
 料理が少しずつ運ばれてくる。数樹は録幸相手に噂話などを続けた。時々常磐にも話を
振る。しかし二人の反応が悪いせいで、早々に話題は尽きてしまった。

 だらしなく体を預けた椅子から背もたれのやや堅く、体に馴染まない感触が伝わってく
る。録幸はぼんやりとその感触を確かめていたが、やがて上体を立てた。テーブルの上に
は空になった皿と転げ落ちた割り箸、水滴をまとったグラスが並んでいる。
 数樹は常磐へ飲み過ぎだと繰り返し言っているのだが、常磐はそれを無視して新たに日
本酒を二合、追加する。常磐に釣られてつい普段より速いペースで飲んでしまったらし
い。酔いが回り、自分が周囲と同じ空間に居ないような気がする。録幸は手つかずになっ
ていたウーロン茶へ口を付ける。
「おい。お前も止めろ」
数樹に言われ、我に返る。録幸は常磐を見た。常磐はあからさまに録幸を睨む。その人間
的な表情へ場違いな親近感を抱きそうになる。
 唐突に飲みかけの酒が入ったままのグラスを持って、常磐が立った。グラスを投げつけ

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られるのか、中身を浴びせられるのか、録幸は身構える。だが常磐はそのまま数歩、歩き
出そうとした。
「おい、どこ行くんだ」
数樹が少しだけ慌てた声で尋ねる。
「トイレ」
素っ気なく答えが返ってくる。
「そ、そうか。ならグラス置いてけよ。あ、一人で行けるか?」
常磐は手にしたグラスをまじまじと眺めると予想外にしっかりとした動作でそれをテーブ
ルへ戻し、予想以上に覚束ない足取りでトイレの方へと歩いていった。
「おい、録幸、お前も辛いなぁ判るけど、少しは気ぃ遣え」
録幸は数樹の方を見た。常磐がいたときとは違い、困ったような笑みも気遣うような身振
りもない。
「もうちょっと申し訳なさそうな感じにするとか、あんだろ?」
確かに言われてみれば、そのつもりはなかったのだが常盤が話し掛けてこないせいもあっ
て、録幸は常磐に黙殺するかのような態度を取っていた。
「あいつ、俺がいるって知っててどうして来たんだ?」
「知るか。お前が探ることだろ」
「まあ、努力する」
録幸はそれなりに誠意を込めたつもりだったが、口先から音として出た言葉からその響き
は失われていた。数樹は舌打ちをすると、絞ったスダチの果肉が浮かぶ焼酎で唇を湿らせ
た。
「駄目だな、こりゃ。これでも見て少ししっかりしろ」
数樹は腰を少し浮かせるとズボンの尻ポケットから遠操盤を取り出し、何かを呼び出して
録幸に見せた。
 それは領収書だった。見知らぬ会社名の下に、かなりの金額が示されている。そして料
金の内訳表が。
「アン、ドロイド?」
会社名に付随する見出しが目に留まる。
「ああ。立て替えといたから、なるべく早く払えよ。おかげで貯金がカラになっちまっ
た」
打って変わって数樹は愉快そうにしている。録幸はもう一度領収書の金額を眺めた。口座
残高を遙かに超えていた。もし支払うなら店の権利でも売らなければならないだろう。し
かし、そもそもそれを請求されるわけが判らなかった。数樹が勝手に代わりのアンドロイ
ドを買ったとでもいうのだろうか。
「しっかり、はしてねえな。額がデカすぎたか」
録幸は無言で遠操盤を数樹に返す。
「ん?」
数樹は怪訝そうな顔をした。
「どういうことだ」
いいながら録幸は自分の体内が奥から外へ向けて冷えていくのを感じた。

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「ちゃんと見たか?」
「見たって」
「明細も」
「いや、それは」
数樹はわざとらしく溜め息を吐くと、遠操盤を録幸へ押しつけて立ち上がった。
「俺、常磐の様子見て来るから。ちゃんと明細読んどけ」
言い残し、トイレの方へ歩いていく。
 残された録幸は仕方なく画面をスクロールさせ、明細に目を通していった。しかし中に
は項目名がアルファベットの頭文字だけというものもあり、そうでなくともいったい何の
代金なのか判らないものが多い。やけに細かい明細をほとんど読み飛ばしていた録幸の意
識に、一つの項目が引っかかった。スクロールを少し戻す。
記憶移植、そう書かれていた。さらにその中の細目として「メモリデータ・コンバー
ト」、「メモリデータ・デコード」「最適化」などがある。そこからさらに読み進むと、
今度は人格再現という中項目があった。にわかに動悸が高まる。口元がほころべばいいの
か、それともそれは早とちりなのか、判断が付かずに曖昧な歪み方をする。
「常磐は大丈夫だ。少し休んだら出てくるってよ。で、気が付いたか?」
いつの間にか戻ってきた数樹に声をかけられ、録幸は顔を上げた。
「お前、凄く変な顔してるぞ」言っている数樹自身の顔も、妙な具合に筋肉の緩んだ表情
をしている。「最後に預かってた時があったろ。あんときにな、記憶だの全身の三次元デ
ータだのをバックアップしておいたんだ。人工知能の方はああだったから、そっくりその
まま再現ってわけにはいかねえだろうけど。上手くすりゃ前との違いなんて気付かない程
度のもんで済む。しかもな、今度はハードが新しいから体は一つだ、って聞いてるか?」
聞こえてはいたが、聞いているかは録幸にも自信がなかった。トキワが生き返る。思考が
その一点に引っ張られ、数樹の言うことを逐一処理する余裕が失せていたのだ。
 周囲の光景が、それを捉える意識が鮮明さを増したように感じられた。無感動の戒めが
とけ、押し殺されていたものが出てくる。だがそれはすでに実体を失っており、いったい
何だったのか正体を定めることさえできなくなっていた。無意識のうちに膝を揺すってい
た。感情が体の他の部分に押さえつけられ、そこから溢れ出しているのだ。強く目をつぶ
り、開いてみる。それからもう一度目をつぶり、また開く。未来に横たわるあらゆる可能
性が塗り替えられていくのを身体で感じる。たんなる喜びとは違い、その激しさは体中が
疼痛を覚えるほどだった。その間にも少しばかりの余力は数樹の言葉を咀嚼し、録幸に理
解させる。
「こんなこともあろうかと、ってやつだ」
喋りながら自分のしたことに満足感が湧いてきたのか、数樹は上機嫌でそう話を締めくく
った。少し時間差を置いて、録幸は数樹の話を理解し終える。
 録幸は口を大きく開けるとわざとらしいくらいに歯を見せ、目を弓なりに細めると声を
出さずに数樹を指さした。数樹は誇らしげに腕を組み、指先の出ている左手をはたはたと
動かして見せた。
「お前も俺を見習って、冷静な判断下せるようになれよ」
「ああ。初めてお前のこと尊敬したよ」

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録幸の面白くもない冗談に、数樹はますます胸を張る。
「にしても、じゃあどうしてあのとき黙ってたんだよ」
録幸は大きな笑顔を打ち消すと、真顔で質問した。数樹の手の動きが止まる。
「助かる見込みがなくても、それでもアンドロイドを選ぶかどうか見たかったからな。も
ちろん、常磐を選んだらデータは全部捨てるつもりだった」
周囲を気にしてか、数樹は声を落として言う。
「どうして、お前がそんなこと試すんだ」
違う理由から、録幸も静かな声で問う。冷えはもう表皮まで達していた。そのくせ、寒く
はない。数樹はすぐには返事をしなかった。
「常磐を選ぶか、見たかったんじゃないのか」
録幸は重ねて問う。数樹は答えない。
「俺がしたいようにさせるフリして」
数樹は一度だけ、首を振った。
「何のことだか知らねえけどな、いくら俺が世話焼きでもそこまで自分を犠牲にゃしねえ
よ。そんなこったから人から馬鹿にされるんだ。そりゃな、俺だってあの場でトキワが無
事だって教えてやりたかった。けどな、それじゃお前が絶対に常磐のこと選ばねえだろ。
ってこれ、口で言うとややこしいな。ときわときわ。理解できてるか? そうか。でま
あ、ともかく俺としては進んであいつの望みが叶う可能性、潰せないからな。お前のため
じゃない。全部、常磐のためだ」言うと数樹は録幸から目を逸らした。「お」
つられて正面を向くと、常磐がこちらへ戻ってくるところだった。
 近付いてくる常磐の顔は張りが失われ、血色も悪い。ようやく自分の席へ辿り着くと、
そこで力尽きたように椅子へ体を落とし込んだ。
「大丈夫か?」
数樹は言いながらも皿をテーブルの端へ寄せる。空いた部分へ常磐は突っ伏した。
「アイスウーロン茶、大ジョッキで」
録幸は大声で注文する。常磐は一瞬顔を上げるような素振りを見せたが、結局そのまま動
かなかった。録幸は何気なく常磐の顔を眺め、今更やつれたりはしていないことに気が付
き、軽い安堵を覚えた。そして自分の単純さに呆れる。ついさっきまではそんなことにも
気が付けなかったのだ。これではしょっちゅうからかわれるのも無理はない。
 三人は常磐が少し回復するのを待ち、店を出た。向かいの駐車場へ移動する。風が凪い
でいた。もう秋がすぐそこなのだ。これから急速に気温が下がり、強風が北から吹くよう
になると冬が始まる。
「録幸。お前、送ってってやれよ」
「いいよ。自動運転なんだし」
録幸よりも先に常磐が拒む。
「駄目だ。酒飲んで自動運転で帰る途中にぶっ倒れて、帰り着いた駒輪が乗せてたのは死
体だったってぇこともあるからな。お前も常磐が心配だろ?」
数樹は録幸を見る。
「ああ」
自分で歩いているとはいえ、常磐がまだ回復していないのは明らかだった。顔色も戻って

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おらず、呼吸は浅く短い。説得しても埒が明かない気がしたので録幸は自分の駒輪に乗り
込むと、さっさと後ろへ常磐の駒輪を接続した。送っていきたいわけではないが、これを
逃せば二人きりで話せる機会などないかもしれない。数樹も同じことを考えているのだろ
う。道々、常磐には伝えるべきことがある。
「乗れよ」
録幸は窓を開け、常磐に言う。つい口調が堅くなってしまう。常磐はしばらく逡巡してい
たが、諦めたのかまた辛くなったのか、結局はおとなしく自分の駒輪へ乗った。
「じゃ、またな」
数樹の言葉に録幸はうなずいてみせ、窓を閉めた。
 トラックボールの脇にあるメインコンソールから自動運転を呼び出し、録幸は行き先に
常磐の家を指定した。ややあって、駒輪はゆっくりと走り出す。最大安全の観点から、自
動運転時の最高速度は二〇キロしか出ない。録幸はシートへ深く体を沈めた。
 普段よりはゆっくりと景色が流れる。こちらから何か言うべきなのだろうが、言葉が見
あたらない。
「ねえ」
スピーカーから常盤の声がした。思わず体を起こしそうになる。
「ああ」
短く応える。しかし言うことが思い浮かばないのは常磐も同じなのか、先が続かない。
「あのとき、どうしてあっちを選んだの?」会話の気配が途絶えきったところで、再び常
盤の声がした。「そりゃあ、さ。私のことなんて録幸君は気にしてなかっただろうし、今
になって急にってのもあっただろうし。でも、だからって絶対助からないのに……。あ
あ、そっか。嫌なことばっかり言う人間なんて、誰と比べても嫌だよね。私を選んだりし
たら、周りの目も冷たいだろうし」
スピーカーから流し込まれる声は普通なのに、なぜか向こうの空気が震えているような気
がした。
「そういうわけじゃない」
「なら、どうして」
それは答えられない質問だった。本人にさえ判っていないのだから。
 トキワを選んだときの心境は依然として不確定な霧状の輪郭のままだった。虚しく目を
こらしても、それは言葉に還元できない。かといって、さすがに適当な嘘を並べ立てるわ
けにもいかない。
「お前が俺を選んだのと、きっと同じ理由だ」
迷った末、録幸は言う。間を置いて、小さく断続的な音が聞こえてくる。泣いているのだ
ろうか。録幸は胃の腑が重たくなるのを自覚した。
 急に音量が上がった。常磐は、笑っていた。
「なにカッコつけてんの? どうしてそんな肝心なところで抜けてるんだろ。そんなこと
だからいつまで経っても」
そこで発言は再び笑い声にまみれて打ち切られる。
「笑うことないだろ」
常磐の反応に困惑しながらも録幸は抗議する。

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「馬鹿馬鹿しい」
笑いが収まると、常磐はそう呟いた。そこには何かをそっとねじ切るような響きがあっ
た。その感触に押され、録幸はなかなか切り出せなかったことを常磐へ告げる気になっ
た。
「さっきの質問な。後でなら答えられるかもしれない。あいつ、戻ってくるんだ」
「そう」
予想通りの醒めた憤りが、そこにはあった。しかし実際に耳にするその声には、身も蓋も
なく録幸を突き放す響きがあった。なんの装飾もない怒り。
「まあ、戻ってくるって言ってもさ。ハードは全部新品だし、人格も丸ごと移せるものじ
ゃなかったし。そのままなのは記憶だけだから。よく似た別人みたいなもんだ。だから、
このさい名前も変えようかと思ってる」
居たたまれなくなり、弁解口調で録幸は思いつきを喋った。そしてそれは、口にされると
同時に録幸を納得させていった。確かに、それでは一緒に過ごしたあのトキワとは言えな
いような気がしてくる。
「馬鹿にしてるの? そんなの言い訳でしかないじゃない。そりゃ確かにお爺ちゃんは誰
かを壁から落としたのかもしれない。殺されたのだって、自業自得なのかもしれない。で
も、なんで私にそんなこと言うの? 喜ぶとでも思った?」
今度は録幸が沈黙する番だった。窓の外を大小様々な蒼緑の家屋がゆっくりと過ぎてい
く。
「ごめん。だけど、黙って出るわけにもいかないと思って」
 駒輪が傾斜地の草原へ差し掛かるころ、録幸はやっとそう言った。草は早くも萎れだし
ており、力無く立ち尽くしていた。夏の日差しが時間をおいて、内側からゆっくりと植物
を蝕んでいるのだ。
「ま、確かに録幸君が出て行ってから知るよりはマシだけど……。どうせ、数樹君のせい
でしょ。本当に、お節介ばっかり」
常磐は呟く。素っ気なく強張ってはいるが、先程の冷淡な響きは表面から消えていた。
「責任取って、時々はメールぐらいしてよ。これで私、友達一人しかいなくなっちゃうん
だから。しかもそれがあの自己満足男。他に選択肢もないし」
 それが一種の罰であることは録幸にも判った。遠くの町へ残してきた過去として風化さ
せることは決して許さない。メールをすることで定期的に罪悪感と気拙さを味わい続け
ろ、ということだ。それは録幸ほどではないにしろ、常磐にとっても精神的な負担を強い
るものだ。だが、常磐にとってはこの場で考えつける唯一の方法なのだろう。
「ごめん」
「なに? 謝らないでよ。余計に腹立つから。これでも精一杯に冷静で寛大なつもりなん
だけど」
常磐の家に着く。駒輪が減速し、停まった。録幸は常磐の駒輪をバックで車庫に入れ、自
分の駒輪から切り離した。通話可能を示すらランプが消える。常磐が出てくるのを待た
ず、録幸は元着た道を引き返していった。

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 もっと塵などが吹き溜まっているのかと思いきや、領壁の上は綺麗だった。見はるかす
町内の景色は普段漠然と抱いているイメージよりもずっと狭苦しく込み入っており、見知
らぬ町を目にしているかのような気がした。あまりに馴染み深かったせいで、その町並み
の複雑さが普段は意識されていなかったのだ。疎外感を覚え、録幸は無意識に視線を空へ
向ける。
「徳録」
歳郎に呼ばれ、録幸は振り向いた。
「来たよ」
言われて昇降口の方を見遣ると、覇介とエセルが丁度階段を登りきったところだった。
「すまん。仕事に手間取って。最近やっと依頼が来るようになったんだ」
覇介の横でエセルが頭を下げる。
「なんの用です?」
珍しく歳郎が苛立ちを露わに尋ねた。
「本当に用があるのはそっちの録幸君だ。それよりもあんたには申し訳ないことをした。
せっかくのスクープを駄目にしてしまって」
歳郎は酷く憂鬱そうに笑った。
「ああ。あれならもう、いいんです。春湖から聞きましたよ。僕が自滅しそうだから止め
て欲しいって、あれ、春湖からの依頼だったんですね。それくらい僕に直接言ってくれれ
ばよかったのに」
「無駄だと思ったんだそうだ。歳郎さん、嫁さんの忠告を無視してばっかりなんじゃない
のかね」
「春湖にもそう言われましたよ。僕にはそんなつもり、ないんですけどね」
歳郎は不安そうに微笑む。
「それはともかく。依頼とはいえ強引に仕事を邪魔したのは事実だ。そこで今日はそのお
詫びをしようと思ってな。事件の種明かしを見せてやろう」
「タネ、ですか」
戸惑いと期待から若干、歳郎の語調が柔らかくなった。
「まさか本当に初帆の霊がトキワに宿ってたとでも?」
覇介は眼を細めると、低い含み笑いを漏らした。
「違うんですか」
反応したのは録幸だった。
「当たり前だろう? 幽霊なんているわけがない」
「でも、あのとき確か、アンドロイドなら普通は椅子で殴られそうになったくらいで人を
殺したりはしないって、言いませんでしたか? だからあれはトキワのせいではないと」
歳郎が質問を挟む。
「理由ならいくらでも考えられるだろう。トキワは元々、壊れていたはずのものだ。何を
してもおかしくはない。それに道理屋のアンドロイドは相手が何をするかじゃなしに、相
手が何を意図しているか、で対応を変えることが多い。鷹雄さんがトキワの破壊を狙って
いる以上、最大限の抵抗をしたんだろう。ま、どのみち過剰防衛で鷹雄さんを殺したのは
トキワだったじゃないか。殴り合ったとき、あの体の中身が誰だったにしろ。大事なのは

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そこだ」
録幸は呆気にとられていた。目の前の男は道理屋ではなく、詐欺師だったのだろうか。
「だから、種明かしをしてやろうと言うんだ」
録幸の沈黙に応じて、覇介は面倒臭そうに付け足す。
「覇介さん。あなたはひょっとしてトキワと共謀してたんじゃないですか? 徳録を守る
ために。アンドロイドに死の恐怖はない。それを利用してわざわざ鷹雄さんを殺す動画を
でっちあげたりして」
「いや、あれは本物だ。いくら私でも偽造映像を証拠にしたりはしない。詐欺師じゃない
んだから。それに、誰かのメモリに記録されてあとから鑑定されればおしまいだ」
覇介は歳郎の挑むような口調をいさめる。
「さて、順を追って話そう。私が数樹君からも依頼を受けていたことは言ったな。すると
当然、数樹君からも情報は流れてくる。だからあのとき、私はトキワが謎の不調に陥って
いたことも知っていた。むしろ、それがあったからこそ解決をあの日に選んだんだ」
「不調って」
事態を知らない歳郎に向かって、録幸は手短に説明をした。
「鮮造さんが亡くなったとき、部屋にトキワはいなかったろう」
「ああ。こっちへ送った後だった」
「鮮造さんは何も形見としてあれを送ったわけじゃない。自分の手で処分できなかったか
らなんだ」
「そりゃ、親父が受け取ってたら処分してたろうけど」
「そういう意味じゃない。ここへ発送されるしばらく前から、トキワの電源は切られてい
たんだ。録幸君たちが見たのと同じ不調が原因で。だから、ここへ来た最初のようにちゃ
んと動作するなんて鮮造さんは思ってもいなかったろうな――。エセル」
覇介の言葉にエセルはうなずいた。
「覇介さんからのメールを転送しました。遠操盤をご覧ください」
同時に録幸と歳郎の遠操盤はメールの着信を伝えた。二人は遠操盤を取り出すと、受信し
たメールを開いた。

 以前書いたトキワの不調はとうとう治らなかった。この頃はもう全く何の反応もない。
知り合いの開発者に見せても治す手だてはないと言われたよ。あいつの中にはどうしても
覗けない部分があるらしい。まったく。徹語は時々わけの解らんことをしてくれる。た
だ、原因は推測できた。要は人格形成に無理があるらしい。
 元々人工知能は効率と最適化を求めて、ある程度自立的に変化する。知ってのとおり俺
たちはトキワを白河と黒河に分けて、まるで二人のアンドロイドが存在するように扱って
いた面もあった。そうすると、トキワという人格は徐々に二つの人格へと自分を分裂させ
ようとする。とはいえ、スペックの限界から完全にそうすることは無理だ。今回の不調は
それが原因らしい。今まではなぜ無事だったのか。開発者の話では今までは俺が白河に、
徹語が黒河にという形で均等に愛情を注いでいたからだろうということだ。愛情だとさ。
信じられないだろ? 
 ともあれ、それがトキワの、白河と黒河への分裂を支障のない範囲に留めていたんだそ

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うだ。せいぜいが経験を「黒河によるもの」と「白河によるもの」とに分けて管理するく
らいでな。それが、俺一人になってバランスが崩れた。どちらがいつ、何回話し掛けられ
たか正確に覚えているような奴だ。自然と黒河白河はお互いのどちらがより俺に大切にさ
れているかを比べるようになり、少ない方は多い方を羨み、多い方は少ない方にプレッシ
ャーを感じる。冗談みたいだが「右手と左手が互いに嫉妬する」ようなことになったん
だ。俺としてはどちらも同じくらい大事にしていたつもりなんだがな。ともあれ、中途半
端に分かれていた黒河と白河という区分は互いを疎ましく思うようになっていった。それ
に伴って分裂は加速する。当然トキワという統合人格はそれを押さえ込もうとする。負荷
は増大するばかりだ。その負荷が限界を超えて、動かなくなってしまった。そういうこと
らしい。
 いくら呼び掛けてももはや返事のないトキワと共に暮らすのは耐え難い。俺はもう、ト
キワの電源を切ろうと思う。自分じゃそれ以上のことはするに忍びないが、決心が付けば
息子の所へトキワを送ろう。息子なら何の痛痒もなくトキワを葬ってくれるだろうから。
単に廃棄処分されるだけなのは解ってるが、それでも自分の目の前で行われるよりはずっ
とマシだ。

メールにはその後、何かあったときはよろしく頼むということが書かれていた。
「どうしてトキワがここに来てまともに動いたのかは不明だ。所有者が変わって、環境が
リセットされたからかもしれんな。とにかく、トキワがああなることは早晩避けられなか
ったということだ」
覇介は二人がメールを読み終えるのを待ち、言った。
「だからあの場で殴り合っていたのはトキワと初帆さんではなく、黒河と白河だったわけ
だ。けどそれじゃあインパクトがない。そこで私は現実検討力の低下したトキワへ、それ
は初帆さんの霊による乗っ取りだと暗示をかけたんだ。古い言い方をすれば、ちょいとハ
ックしたってなところだ。効果は絶大。トキワは自己を維持しきれなくなって暴走。年配
の役員たちも、トキワに初帆さんを感じ取っていただけに、あっさりと場の雰囲気に呑ま
れた」そこで言葉を切り、覇介は目元の汗をぬぐった。「もっとも、トキワの人工知能を
構成するあの謎の部分がいかに不思議かを思えば、あれは本当に初帆さんの魂だったのか
もしれん。生前の徹語さんも私に、どうしてトキワが動いているのか自分でもはっきりし
ない、とよく言っていたことだしな」
そこで急に覇介は厳しい顔になり録幸へ数歩、歩み寄った。録幸は気圧され、勝手に体の
重心が後方へ移動する。
「トキワがああなったのは、お前も悪いんだぞ。お前があいつに、トキワのような、黒河
白河の二人のような、曖昧な態度で接するから余計に自我が不安定になったんだ。アンド
ロイドが統一的な自我を維持するのはただでさえ難しいのに、だ」
その言葉には録幸の、アンドロイドに対する無知へ向けられた静かな怒りがあった。覇介
の指摘に録幸は反論できなかった。おずおずと小声で謝るが、風に掻き消されて自分以外
の誰にも聞こえない。
「それにしても、トキワが犯人だと知ったのはどうしてなんですか?」
歳郎が冷静に尋ねた。インタビュアーの口調だ。

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「そりゃあ前に見せた動画なんかから、トキワを眼にした鷹雄の動揺はある程度予測でき
ていた。あとは事前にエセルを通してトキワに尋ねただけだ。言ったろう。最初から判っ
てさえいれば、アンドロイドに嘘を認めさせるのは難しいことじゃない」
「じゃあ、トキワが犯人だったって以外は全部ハッタリってことか? なにが道理屋は道
理を通すだよ。さっきから聞いてりゃ、ただの大嘘つきじゃないか」
一転して声を荒げると、録幸は覇介へ詰め寄ろうとした。その肩をエセルが押さえる。軽
く乗せている感触しかないのだが、全く体が進まない。
「だから、それは理想の話だと言ったろう。実際には演出やインパクトの方がものをい
う。犯人が本物で、誰もが反論しなければそれでいい。私の仕事は問題を解決することで
あって、真実やら真相を明らかにすることではない。それで済むなら真犯人さえ必要な
い。そういう仕事なんだ」
覇介はエセルに合図した。録幸の肩から手が離れる。
「ま、その辺をよく考えて、その気があるんだったらお前とトキワのことは私が預かって
もいい。弟子として。数樹君に聞いたぞ。トキワが戻ってくるそうだな。そうしたらここ
には居られないだろう」
「ちょっと待ってください。その辺も詳しく」
歳郎が声を上げた。しかたなく、録幸はトキワが戻ってくることになった経緯を説明をし
た。
「さてさて、私からは以上だ。ああ、歳郎さん。教えておいてなんだが――」
「解ってますよ。記事にはしません。さんざん春湖に叱られたし、いくら僕があなたの言
うように愚かでも、道理屋の仕事を邪魔するほどじゃありません。記録は残しても、公表
するつもりはありませんよ」
覇介は満足げにうなずいた。
「それじゃ、私はこれで。まだ少し仕事が残ってるんでね」
覇介はエセルを従え、階段を降りていった。その後ろ姿を見送りながら、やっと録幸は理
解した。覇介は請け負った仕事の全てを、彼なりのやり方で過不足なくやり遂げたのだ
と。
 鮮造と徹語、初帆と鷹雄の関係や、初帆をモデルとしたアンドロイドが造られたことで
発生した、鷹雄殺害事件の解決。いや、あれは解決というよりは無効化といった方が近い
のだろう。それによって、自治会の誤解から常民と移民の対立が現実化するのも回避され
た。さらにそのことで、録幸が自治会の圧力によって無理矢理に町から出ざるを得ない状
況も防がれた。その過程で春湖の、夫を自滅から救って欲しいという依頼も果たしてい
る。一本の道理で全てを通したわけではないが、幾本もの絡み合い、併走する道理によっ
てそれらは通されている。
 考えてみれば道理など元々、曖昧なものだ。それを通すとなると、どうしても複雑な形
となってしまう。録幸は初めて、道理屋という仕事に積極的な興味を覚えた。
「僕も行くよ。そんなに暇じゃないし。君から面白い話が残ってるなら別だけど」
二人の足音が聞こえなくなると、歳郎が言った。
「もう話すことなんか残ってねえよ。ま、そもそも俺は何にも知らなかったんだし」
歳郎は少しだけ嬉しそうに笑った。

- 150 -
「そうか。その方が徳録らしいよ。もし道理屋になったら、そのときは何か記事のネタを
教えてくれよ。じゃあ、これで」
懐に手を入れて遠操盤の録音を切ると、歳郎もその場から去っていった。残された録幸は
もう一度、白茅町を眺めた。そこに見えるのはやはり、見知らぬ町のようだった。けれど
もそこから、自分を拒むような感じは消えていた。

- 151 -
終章
 作業場の床に大きな木箱が置かれている。それは夏の初めに届いたものよりもずっと小
さい。録幸は焦る気持ちで受け取り表にサインをすると、飛びかかるようにしてバールを
取り、箱へ向かった。
「おいおい。ちょっと落ち着け」
見ていた数樹が笑う。
「いやほら、夜までに全部済ませないと。トキワをまたお前の家まで運ぶのも大変だろ」
名前を変えると常磐へ告げたものの、録幸は結局、新しい名前を考えていなかった。新し
いトキワに会い、それから決めることにしたのだ。
「最新式だから、スイッチ入れりゃすぐ動くって。荷造りとかは済んでんだろ?」
「ああ。そうだけどさ」
録幸はバールを軽く持ち直すと、箱と蓋との境目へ差し入れた。
 録幸は今夜のうちに町を出る予定だった。犯人である以上、間違ってもトキワを他人に
見せるわけにはいかないのっだ。目撃情報が広まれば、自治会が放っておくはずはない。
 店はアントンへ設備ごと売った。トキワへの支払いに当てるためだった。駒輪を愛し、
同じくらい商売を愛するアントンは、二つ返事で録幸の売り込みに応じた。ライバルが減
り、需要を独占できるのだから文句のあろうはずもなかった。録幸が町を出るまで売買は
秘密にしておいて欲しいという要望も、すぐに受け入れた。理由を尋ねてくるようなこと
もなかった。利益さえ得られるなら、アントンにとって理由などどうでもいいのだ。
 箱をこじ開けると、中には以前と違ってしっかりと充填材が詰め込まれていた。一見す
るとスタイロフォームのようだが、手で掻き出すと楽に崩れていく。数樹はひたすら手を
動かす録幸のことを愉快そうに眺めていた。
「トキワ」
録幸が呟く。数樹も箱の中を覗き込む。
 そこには依然と全く同じ姿のトキワが横たわっていた。着ている物まで同じだ。ただ、
今回は一人しかいない。録幸が頭を、数樹が脚を抱えて箱から出すと床へうつぶせに寝か
せる。
「軽くないか?」
録幸が不安げに言う。
「ボディーは最新式だ。人間とたいして変わんねぇよ。腹もちゃんと柔らかい。ほら」
数樹は録幸へドライバーを差し出す。録幸はそっとトキワのシャツを捲った。左右に均整
の取れた背中が露わになる。
「前と一緒か?」
「判るわけないだろ。裸なんて見てないんだから」
言いながらも録幸はドライバーの先端で静かに皮膚を掻き分け、一つずつネジを回し込ん
でいく。手が震え、録幸は途中で何度も作業を中断した。なぜか期待や喜びよりも、不安
や焦燥が強い。明らかな結果を急ぐような、失敗を遠ざけたいような、そんな気持ちだ。
 最後の一つを絞め終えると、二人はトキワを仰向けにした。血流から呼吸まで、録幸の
肉体のあらゆる部分が最大速度で動いている。トキワの周囲で暗い緑の床板がゆっくりと
明滅して感じられた。

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 起動を示すようなものは何もなかった。録幸は数樹を見る。
「最新式はな、目覚めるように起動するんだ」
数樹は自慢げに言った。その声には新しいものへの興奮も含まれている。録幸たちはなお
もトキワを見守った。期待感が録幸の意識を先へ先へと引っ張る。
 そしてとうとう、前触れなく、トキワは目を開いた。焦点の定まらない瞳が作業場の広
々とした埃っぽさを見回し、録幸を捉える。
「おはよう、録幸」
トキワの顔に、眠たげな笑みが浮かんだ。(完)

提供:ハムカツ屋
http://www.hamkatsuya.com/

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