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鳩木節子の後日

 
 

甘木数彦
提供:ハムカツ屋
http://www.hamkatsuya.com/

-1-
序章
 蝉が鳴き声を高ぶらせると、応じるように風が吹いた。ぬるいぬるい風だった。真夏の
太陽に焦げた屋上の臭い。
 はマンションの一室で、椅子に座って外を眺めていた。跡形もなく吹き飛んだ壁の名残
に縁取られ、真正面に背の低い街並みが遠くまで見渡せる。屋根と青空とわた雲と。電気
の消えた部屋の奥まで、陽光は届かない。
 節子は椅子のふちに裸足の両足を引っかけると、立てた両膝へ額を押しつけた。空気が
こもって、顔へ汗が噴き出す。眼鏡の裏に汗のしずくが落ちる。
 どうしてこんなことになったのか、節子にはよく解っていた。少し前まで地味ながら心
地よく暮らしていた部屋が、一瞬で壁を失って「野外」になってしまった。同時に、穏や
かな暮らしも決定的に失われた。もう二度と戻ってくることはない。
 それもこれもすべて、節子自身が決断したせいだ。だがその決断が現実になったいま、
後悔の念が湧き上がってくるのを抑えることはできない。
 壁を破った張本人のことを思う。今頃は節子のことを待っているだろう。いいかげんに
行かなくては、そう思っても椅子から立ち上がれない。体が重い。とりあえず両足を床へ
着け、顔を上げる。
 そうしていると、初めてこのマンションへ訪れた日のことを思い出した。

 節子は前を行く背中だけを見ていた。ただでさえ入り組んだ路地をどう進んだのかは、
もう判らない。それでもかまわなかった。幅広い、少し曲がった背中の下で骨張った体が
うねるところを眺めている以上に、節子の気持を惹きつけるものはなかった。
 それでも習慣のおかけで、周囲の様子はだいたい把握していた。背の低い、錆びついた
町並みだ。引き戸の木枠にはまったガラスは黄ばみ、雨のたびに看板から流れ出す赤茶け
たスジが、あちこちの壁を蔦のように這っている。
 昔は美しかったはずの様々な色ガラスをモザイク状に使った小窓も、表面についた砂埃
でくすんでいる。けれども、そうした光景は勝手に記憶へ蓄積されていくだけで、その場
で意識に上ることはなかった。
 内側が異様に真っ暗な共同マンションの玄関から、老人が出てくる。節子は一瞬だけ老
人に目を向けた。
 首周りがよれよれになったランニングシャツに紫色の短パン、足にはゴムサンダルをつ
っかけている。老人に危険がないことを確かめると、再び視線を前に据える。
 節子の口に思わず笑みが広がる。確かめる危険なんてもうないのに、今でも無意識に周
囲を警戒している自分がおかしかったのだ。久しぶりに伸び伸びとした気分が胸をかすめ
る。
「伊助さん」
前を行く人が振り返る。。節子の上司であり、教官でもある。伊助は立ち止まると、節子
を見た。面長な顔の中で細い目が、いつもと同じく気怠そうに節子へ向けられている。
「まだ、ですか?」
節子は遠慮がちに尋ねる。いつもそうだ。なぜか喋ろうとしたとたん、口が重くなってし

-2-
まう。それに焦って、よけいに言葉が回らなくなる。
「ああ」
声を微妙に引き延ばす独特の口調で答えると、伊助は再び歩き出した。節子はその背中に
意識を集める。
 自分にしては珍しい開放感が、また大きくなる。全てが終わってからまだ一ヶ月ほどし
か経っていないのが、信じられなかった。
 手にはまだ、あの犬を貫いたときの感触が残っている。握った拳が細い背骨を砕いて一
瞬の暖かさを抜け、外気に触れる感覚。
 犬の身体にしては不釣り合いなくらいたくさんの血がつうつうと、節子の手首を伝い落
ちるくすぐったさ。犬の末期の息は、笑い声のようだった。
 あんなに大切だった存在を自分で殺したのに今はもう、その辛さも薄れている。けどそ
れは、あまりにも色々と殺しすぎたせいもある気がした。そんなことも、繰り返せば慣れ
てくる。
「ここが、ゆびぬき通りの門だ」
急に立ち止まった伊助の背中へぶつかりそうになる。思わず突き出した手が、伊助の体に
触れる。
「あ、すいません」
節子は慌てて自分の手を引き寄せ、謝る。伊助は小さくうなずいた。
 道の左右にある入り口のない建物を、空中で通路がつないでいる。高さは軽トラックが
ぎりぎり通れるくらいだろうか。
 それが、ゆびぬき通りの入り口だった。通路のプレハブみたいな壁に「ヌケラレマス」
と書かれたプレートがネジ止めされている。
 元は白かっただろうそのプレートも今では黄ばみ、文字が薄れていた。その「門」の向
こうには、こちら側と同じような道が続いている。
 ここをくぐればもう、自分は伊助が暮らすマンションに着く。そう考えただけで自然と
鼓動が早くなり、手足から力が失われそうになる。
 節子は今日、一〇代の大半を過ごした宿舎から、そのマンションへ引っ越すのだ。もち
ろん伊助とは別の部屋だけれど、それでも今の自分にとっては嬉しかった。
 実際その決定は、大きな目標を失って空白化していた節子に、とりあえずこうして荷造
りさせるだけの活力を与えてくれたのだ。それまでの節子は起きている気力すらなく、何
日ものあいだ布団の中でウトウトとしているだけだった。
 節子たちはその門をくぐった。少し先にもう一つ、通りの左右を空中でつなぐ細くて粗
末な橋があった。つながれている建物には、やっぱり入り口も窓もない。
 ゆびぬき通りを挟んで、背中合わせに建てられているのだろう。こちらの橋は壁の代わ
りに、鉄パイプを組み合わせて作った手すりがついている。
 橋の中央には一脚の椅子が置かれ、派手な柄のワンピースを着た老婆がこちらへ背を向
けて座っていた。
「ここが、橋だ」
伊助が律儀に説明する。

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「あのお婆さんは……」
「さあ、知らない」
伊助は見もしないで言う。本当に知らないのか、たんに説明が面倒なだけなのか。どちら
もありそうだった。
 橋の手前まで来たとき、上から何かが降ってきた。手を伸ばしてキャッチすると、それ
は小さな紙切れだった。片側に文字が書かれている。

 物換星移幾度秋
 鳥啼花落水空流
 人間何事堪惆悵
 貴賤同帰土一丘

漢詩みたいだった。小さな紙に、毛筆で書いてある。ただ、読み方が判らない。顔を上げ
ると、老婆はさっきと同じ姿勢で座っていた。橋の下を通過して逆側から見上げても、老
婆の顔は俯いているせいではっきりしない。
 節子は立ち止まり、老婆へ声をかけようか迷った。伊助も足を止める。
「伊助さん。これ」
伊助は一瞬だけ振り返ると、節子の差し出した紙切れを見る。
「気にするな」
「ちょっと、伊助さん」
節子は老婆を見遣ってから、わざと声を荒げる。そうでもしないと、伊助から何かを聞き
出すのは難しいのだ。
「あの婆さんは昔、書道教室をやってたって聞いたことがある。詳しいことは知らないけ
れど」
節子はあらためて紙に書かれた文字を眺めた。
 あまり明るいことがあいてるようには思えない。節子は紙を二つにたたむと、ズボンの
ポケットにしまった。
 まっすぐ通りを進んでいく。左右には切れ目なく寂れっぱなしの建物。やがて、道がく
の字に折れ曲がると、少し先に目指すマンションらしいものが現れた。
 奇妙なマンションだった。薄汚れた土色の外壁はよくある昔の公団マンションみたいな
のに、一階部分が木造の平屋建てなのだ。
 実際にはその建物を包むようにしてマンション部分が建てられたのだろうが、どうして
もマンションへ後から木造の建物をはめ込んだように感じられる。建物の端は一メートル
くらい引っ込んでいて、その奥に二階へ上がる階段が見えていた。
 木造屋は正面が、磨りガラスをはめた木製の引き戸になっていた。閉ざされた戸の脇に
は「骨董商 古希堂」と墨で書かれた看板が出してある。
 伊助が木戸を引く。想像どおり戸はガタガタと音を立て、ガラスを振るわせる。節子は
伊助に続いて中へ入ると、戸を閉めた。こうして木造家屋を取り囲むマンション「コキド
ーハイツ」で節子の新しい暮らしが始まったのだった。

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 それからの毎日を思い返してみると後悔はますますが強まる。けれども現状を嘆くのが
無駄だということはよく解っていた。ともかくもそうであるという事実があるだけで、前
後も理屈もない。
 それにしても、と節子は壁がなくなったときのことを考える。相手は話を終えると立ち
上がり、ごく無造作に壁を吹き飛ばした。
 轟音と衝撃の余波が節子の皮膚を震わせる。そして振り返ることもなく、相手はそこか
ら出て行った。ドアを開け玄関を抜け、普通に立ち去るよりも楽だから。
 いつもの状態であれほどの力なのだから、本気を出せばどれほどのものなのか、節子に
は予想も出来なかった。久々に恐ろしかった。死ぬかもしれないと、まるで普通の人間の
ように考えてしまった。
 そこまで思い返して、節子はやっと気付いた。自分は相手と戦いたくないから動けない
のではない。ただ大けがをしたり死ぬのが怖いのだ。
 薄い唇に笑みが浮かぶ。理由が解れば困ることはない。死ぬのが怖いだけなら、感情が
どれだけ大声を出そうとも放っておけばいい。物理的に立てないわけでも、相手を追えな
いわけでもないのだ。感情はそれを止められない。
 自分を騙しているだけなのは解っていた。実際は死ぬのが怖いから、というだけではな
い。やはりこの先に待っていることを考えると、ただただ嫌なだけなのだ。しかし、単純
化してしまわないことには先へ進めない。
 節子は立ち上がると眼鏡を外した。丁寧にツルを畳むと、テーブルの上に置く。髪をま
とめていた黒いゴムを外し、服を脱ぐ。
 汗を吸ったTシャツが肩胛骨に張り付いて、思いのほか手間取る。続いてジーンズとシ
ョーツも脱ぎ、体の力を抜いて直立する。
 変化はすぐに現れた。肌から色があせ、次いで緑灰色が広がる。圧縮されていた細胞が
正しい密度で筋肉や骨格を形作り、見る間にその姿は変化していく。膨れあがる背筋と肩
の筋肉に圧迫されて猫背になる。髪が体へ吸収され、顔が縦に伸び、変貌する。
 ほどなくして変身が終わった。そこに立っているのは異形の一個体だった。毛のない類
人猿のような体つきだが、頭部はゴキブリのものをカマドウマの形に歪めたようで、奥ま
った目だけが人間のままだった。口からはみ出した一対の牙を、かぎ爪の生えた手で撫で
る。
 戦いにそなえて高ぶる感情を抑え、冷静になって考える。相手の実力は不明だが、けっ
きょくは自分と同じ、それどころか自分より数十年も昔に生み出された力だ。自分と開い
てとのあいだでどの程度の技術進歩があったかは知らないが、なにも変わっていないとい
うことはないだろう。
 そうしてみると、基本的にはこちらが勝っているはずなのだ。実戦経験も自分の方が遙
かに現役に近いぶん優れている。負ける要素はどこにもない。
 それでも消え去ろうとしない恐怖心も、節子は黙殺する。恐怖心は体を動かせない。体
を動かしているのはあくまでも自分だ。だから戦えるだろう。たぶん生き残れもするだろ
う。

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 その先がどうなるかは見当も付かなかったし、どうなろうとそれはそれで嬉しくないは
ずだ。
 だがこれまでの暮らしなど、壁と共に呆気なく崩れ去ってしまったのだ。だからもうこ
れ以上、招いたことやその結果を、気にすることもできない。
 すべてはずっと以前に決まっていたことなのか。自分たちが生まれるよりも、ずっと前
から。馬鹿馬鹿しさに思わず微笑んだ。牙がこすれる。
 節子は崩れ去った壁のきわに立つと、もう一度だけそこからの景色を眺めた。妙に白っ
ぽく弛みきった真夏の午後。あちこちの屋根や窓が陽光を反射している。
 遠くから微かに、甲子園の実況が聞こえた。ピッチャーが振りかぶって第四球を投げ
る。節子は向かいのビルの屋上めがけ、跳躍した。

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第一章

 また空白の一日が始まる。引っ越したその日のうちに荷ほどきを終えてしまった後は、
何の予定もなくなってしまったのだ。
 節子は朝起きて身支度をしたものの、こう予定がないと、この習慣もいつまで続けられ
るか怪しい気がする。
 働かなくても給料は支給されるし、闇カジノの摘発といった危険な仕事があるときは呼
ばれるといわれたが、そんな事態は滅多にない。
 少し本を読むくらいしか趣味もない節子にとって、これから先の毎日はあまりに量が多
すぎる。
 解ってはいたけれど、伊助が部屋からほとんど出てこないのも節子には不満だった。出
てきたところで一緒にすることなどなかった。だが、引っ越してから今日まで、一〇日以
上も会っていないというのは物足りない。
 大家であり古希堂の店主でもあるの話では、暇なときの伊助はひたすら部屋でじっとし
ているらしい。それなら部屋へ行けばいいのだが、用もないのに訪れれば伊助が迷惑がる
だけなのを節子は知っているので、結局は実行できない。
「味気ない」
節子は独り言を口にしてみた。その言葉はとてもよく現状を表していた。味、色、なんと
呼んでもいいのだが、とにかく生活に起伏がない。こんな状況がこの先も延々と続くのな
ら、いずれは耐えられなくなるだろう。
 しかし、だからといって自分から何かをするというのはどうにも気が乗らなかった。少
なくとも当分のあいだは、漫然と日々を送っていたかった。
 退屈さを嫌う気持ちと、変化を嫌う気持ち。矛盾しているがどちらも節子を悩ませると
いう点では同じだった。
「味気ない」
節子はもう一度、つぶやいてみる。
 朝食を食べ終えて食器を洗ってしまうと、まだ九時を過ぎたくらいだった。仕方がない
ので部屋の片隅に置いてあったビニール袋から、キャットフードの缶を一つ取り出す。
 缶に巻かれたラベルにはアメリカンショートヘアの子猫が写っている。微妙に可愛らし
さが足りていない感じだ。たぶん撮影のときに機嫌を取り損ねたとか、そんなことなんだ
ろうと節子は考える。
 ふと、鏡に映った自分の姿が視界に入った。地味な服装に、野暮ったい大きなセルフレ
ームの眼鏡。髪は後ろに引っ詰めてまとめてある。気の弱そうな所も、あの日からまった
く変わっていない。
 考えてみればもう眼鏡をコンタクトに変えても、髪型を変えてもかまわないのだ。そも
そも、視力を補うものなど必要ないのだ。
 けれど今ではこの格好がすっかり馴染んでしまっていて、変えようという気になれなか
った。
 キャットフード片手に節子が部屋を出ると、早くも熱せられて膨張気味の空気がまとわ

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りついてくる。色の薄い青空と雨ざらしの屋根の連なり。その向こうには高層ビルが群れ
を作っている。遠目に見ると、そこだけ恥ずかしいくらいに育ちすぎてしまった植物のよ
うだ。 
 螺旋階段から裏庭に下りると、節子は階段脇に置いてある餌皿へ缶からキャットフード
を移した。餌皿はプラスチック製で不必要に大きい。もとは綺麗な青色だったのだろう
が、今は色褪せて薄いネズミ色に近い。
 缶を皿の縁に軽くぶつけて内側にこびりついたキャットフードを落としていると、一匹
の猫が近付いてきた。野良猫なのだが、みんなが食べ物やるうちに住み着いてしまったの
だという。
 節子がすぐ横でしゃがんでいるのに、猫はなんの緊張感もなく餌を食べ始めた。それで
もまったく気にしてないというわけではなく、その証拠にときどき耳が神経質そうに動
く。そのくせ節子が骨っぽい背中を撫でたりしても、食べるのを中断しない。
 その微妙な態度が面白くて、薄い耳をつまんだり後ろ足を持ち上げたりして時間を潰し
ていた。すると、裏口から忠晴が出てきた。
 忠晴は七〇代くらいだろうか。太っているわけではないのだが、体格がいい。細い白髪
をオールバックにし、きちんとヒゲを剃っている。
 忠晴は手に大きめの片手鍋を持っていた。
「おはよう」
節子は立ち上がると頭を下げた。
「あ、おはようございます。餌、あげに来たんですか?」
忠晴は一瞬だけ不思議そうな表情になり、それから笑顔になった。
「いや、これは水が入ってるだけだよ」
そう言って手にした鍋を軽く揺する。
「水、ですか」
「そう、水。ちょっと面白いものを見せてあげよう」
そう言われた節子は、忠晴の所へ歩き寄った。
「昨日届いたんだ」
忠晴の示す先には木のフタをした甕が置いてあった。高さは節子の腰を少し越えるくらい
だ。これも骨董品らしく、でこぼこした表面を上品な飴色の膜が、うっすらと覆っている
ように見えた。
「醒酔の甕と言って、中国で隋の時代に作られたとされている」
説明しながら忠晴はフタを取った。隋というのがいつ頃のことか判らないまま、節子は感
心したような声を出す。
 忠晴は鍋に入った水を甕の中へすべて注いだ。
「この甕には言い伝えがあってね。化け猫が封じ込められているという他愛ないものなん
だが、その化け猫が酒好きだったというんだな」
「お酒」
節子は忠晴の言葉を繰り返す。
「そう、酒だ。いつも酒を奪っては飲んでいたらしいが、こんな所に封じ込められたらさ

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すがに酔いも醒めるだろう、と。それで醒酔の甕なんて呼ばれるようになった」
「化け猫、ですか……」
言いながらも節子は違和感を覚えた。忠晴の話と目の前の甕とが上手くつながらないよう
な。何かが足りない。
しばらく考えて、節子はやっとその理由に気付いた。
「あの、すいません」
「ん? なにか」
「そういうのって、中に閉じこめたものが出てこないようにフタをして、お札とかで封印
してるんじゃないん、です、か?」
ひょっとして言わない方がよかったんじゃないかという気がして、途中から声が小さくな
る。やっと手に入れたものにケチをつけられて、忠晴の機嫌が悪くなるのではないかと思
ったのだ。
「普通はそうかもしれない。けれどこれは少し特殊でね」
忠晴は気分を損ねるどころか、さらに自慢げな調子で答えた。
「そもそもこの甕の本当の価値は、古さや形の見事さにあるわけじゃない。――ああ、ほ
らちょうどいい」
忠晴に促され、節子は甕の中を覗き込んだ。
「え……。これって」
節子は自分の目にしたものに驚いて顔を上げた。その反応がよほど期待どおりだったらし
く、忠晴は少し意地の悪そうな微笑みを浮かべている。
 節子はもう一度、甕の中を覗き込んだ。間違いない。底に猫がうずくまっている。ただ
その姿は少しぼんやりとしていて、よく見ようとするとかえって形が曖昧になってしま
う。
 節子はしばらくのあいだ、色々な角度から甕のなかを眺めてみた。底に浮かび上がる猫
は眠ってでもいるかのように、変化しない。
「原理はよく知らないが、とにかく水を入れておくと出てくるんだ。模造品はもっと後の
時代まで細々と作られていたが、今ではほとんど残ってない。もっとも、そっちの方は本
物ほどにもくっきりした像を結ばなかったらしいがね」
節子が返事をしないでいると、忠晴はさらに続けた。
「日本で模造品が流通しだしたのは明治時代。当時は『我が輩は猫である』の猫が溺れた
甕は実在した、なんて売り文句もあったそうだ。ほらあの小説の最後で名無しの猫が酔っ
ぱらって、甕に落っこちるだろう。売り手としては隋の時代の化け猫が、とか言うよりは
日本人にウケると思ったんだろう」
節子はそっと、甕を揺すってみた。中の水が揺れると、まるでゆっくりと呼吸しているよ
うに、猫の姿が膨らんだり縮んだりを繰り返す。
「それで、これは本物なんですね」
いつまでも忠晴の話を聞き流しているだけでは悪いと思って、節子は甕から顔を上げると
質問した。
「もちろん。私は骨董屋の骨董屋だからね」

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節子は首をかしげた。
「ああ、つまり、古希堂の客は同業者が多いんだ。彼らは店に置く目玉商品を買いにやっ
て来る。だからすべて正真正銘、本物の稀少品でなくちゃいけない。この甕は特に高額だ
が、そうした点では打って付けだろう。いい客寄せにもなる」
忠晴は甕の縁をやさしく撫でた。
「こんな所に放っておいて、大丈夫なんですか?」
「盗まれるようなことはないさ。それにこうやって実験も済んだから、当分は倉庫にしま
っておくつもりだ。店頭へ出すには、まずスペースを作ってやらないと」
 そのとき、裏口から女が出てきた。細身のパンツに白いノースリーブのブラウスを着て
いる。痩せて頬骨の高いその姿は若いようにも、年配のようにも見える。節子と同じくセ
ルフレームの眼鏡をかけているけれど、ずっと洒落たデザインだ。
「おお、姉さん」
忠晴が声をかける。姉さん、というはあだ名で、本当の名前はという。四〇一号室の住人
だ。忠晴が若い頃になくなった姉によく似ているということだった。
 香奈はまっすぐ節子たちの方に向かってきた。
「忠晴さん、台所にあった鍋知らな――」そこで忠晴が持っている、空の鍋に気が付く。
「あ、それ。化粧水作ろうと思って、日本酒煮てたんだけど」
節子と忠晴は思わず甕の中を覗こうとして、頭をぶつける。
「人んちの台所を勝手に使わないように、あれほど」
忠晴はぶつけたところに手を当てながら、香奈をとがめた。
「だって、古くなった日本酒くれるって言ったじゃない。それに私の所のコンロ、いま壊
れちゃってて。部屋がアルコール臭くなるのも嫌だったし」
香奈は理不尽なことを平然と言った。節子にはこうした態度もあだ名の由来何ではないか
という気がした。
「どおりで部屋が酒臭いと思ったら。とにかく節子ちゃん、悪いけど甕の中身を出すの手
伝ってくれないか」
「あ、一人で大丈夫です」
節子は甕に手をかけると、落として壊さないようにそっと持ち上げ、ひっくり返した。中
に入っていた液体が雑草に降りかかる。
「それ、軽いの?」
注意深く甕を置いた節子に、香奈が尋ねる。
「すいません。こう見えて私、力持ちなんです」
「ふーん。そうなんだ」
特に不思議がることもなく、香奈は納得した。忠晴は口の中で何やら言いながら、甕を拭
くための雑巾を取りに行ってしまった。
「香奈さん今日はお店、休みなんですか?」
「そ。化粧水ができたら、後でコンロを買い換えに行こうと思ってたんだけど。古くなっ
て、錆だらけだから。そうだ、あなたヒマ? よかったら買い物に付き合わない?」
先にコンロを買ってから化粧水を作ろうという発想はなかったみたいだ。

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「ええ。お願いします」
節子の返事に、香奈は少し嬉しそうだった。
「じゃ、一〇分後に四階の廊下ね」
そう言い残して、香奈は螺旋階段を上がっていった。
 いつの間にか餌を食べ終えた猫は、どこかに姿を消していた。甕の底の猫も、今は消え
てしまっている。香奈と入れ替わりに戻ってきた忠晴は節子しか残っていないことを知る
と溜息をつき、疲れたような笑みを浮かべた。


 ゆびぬき通りの逆側は大きな通りに面していて、入り口の方から一〇〇メートルくらい
は普通の商店街として賑わっている。スーパーやコンビニ、携帯電話ショップや洋服屋、
郵便局、銀行。生活に必要な場所はだいたいその範囲に集中していた。節子たちはそちら
を目指して歩いていく。
「ほら、あれ。の店」
香奈はシャッターの降りた店に挟まれた、一軒の建物を指した。
 「カフェダイナー・フライングエイプ」という看板の掛かったその店は、アメリカの映
画に出てくる古い食堂のようだった。もとからそういうデザインらしい。窓越しに観る店
内は、あまり賑わっているように見えなかった。
 というのは同じくマンションの住人だった。自称コキドーハイツの管理人でもあるが、
忠晴の話では副管理人ということだった。
「汽一郎の店には行った?」
「いえ、まだ」
「あそこ商店街の人がよく集まっててさ。二階席もあって。こんど一緒に行こうか?」
「はい。ぜひ」
香奈は大きな口を曲げて笑うと、節子の背中を軽く叩いた。
「なんですか?」
「別に。あ、ほら猫」
香奈の示した先に猫がいた。たぶん中庭に来るのと同じ猫だ。猫は節子たちのことをしば
らく見て、それからふいに建物の間へ消えてしまった。
「中庭に来るヤツだよね?」
「ですよね」
節子たちはまた歩きだす。急に人の姿が増えてきた。左右に並んでいるのも小さな居酒屋
や本屋、レンタルビデオショップといった普通のお店ばかりになる。
「これが私の店」
香奈が足を止めたのは三階建ての建物の前だった。下ろした格子状のシャッターの向こう
に自動ドア。ドアには直接白いペンキで「仮くら井」と書いてある。
「えっと、なに屋さんなんですか」
「ちょっと寄ってく?」
「ええ、ぜひ」

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それほど興味があったわけではないのだが、節子はいかにも関心を抱いているような態度
を装った。
 香奈はバッグから鍵を取り出すとしゃがんで錠前を外し、シャッターを押し上げた。そ
れから自動ドアの鍵も開け、手で左右へ開く。
「さあ、入って」
節子は促されて中に入った。薄暗い店内に幾つもの顔が並んでいる。節子の目にはそれが
何なのか、はっきりと見えた。だが、何も言わない。暗くても目が見えるということを知
られたくなかった。香奈が電気を点けた。形に色彩が加わる。
「これ……」
明るくなるのを待って、声を挙げる。だが、そこに含まれる驚嘆の色は演技ではなかっ
た。
「驚いたでしょう」
白を基調とした広々とした空間。その壁いっぱいに様々な国の様々な仮面が並べられてい
た。壁以外の場所にもパネルが並び、そこへ仮面が掛けられている。
「くらへようこそ。当店ではアジア、ヨーロッパ、南米、アフリカ、ほとんど世界中のお
面を取り扱ってます。高いのから安いのまで」
香奈の声には自慢げな響きがある。
「すごいですね」
節子は周囲に並べられている仮面を眺める。
「でしょう? 上に来て」
節子たちは階段を上がった。二階にもいろいろな仮面がディスプレイされている。一階に
比べるとずっとシンプルで、どこのものとも知れない仮面ばかりだ。
「二階は主にギャラリー。創作仮面を展示させてるの」
「創作、仮面」
「そう。制作者のオリジナルデザイン。私が気に入ったお面の作者に依頼することもある
し」
節子は展示されている仮面を一通り見て回った。
「お面の専門店って、初めてです」
「でしょうね。他にないし」
香奈は誇らしげだった。
「あの、お面ってそんなに売れるんですか?」
「うーん。このお店ではあんまり。収入はほとんどがネットショップの通販」
「すごいですね。私、インターネットはあんまりよく解らなくって」
「私も。ネットのお店は羽村くんが管理してる」
「羽村、さん?」
「まだ会ってない? そっか。あいつ外に出ないからねー。一番上、六階の隅の部屋に住
んでる。変なやつだけど、パソコンとか凄く詳しくってさ。今度、連れてったげる」
「そうですか。ありがとうございます」
「で、どう思う? この店」

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「面白い、と思います。いえあの、凄いなっていうか」
「そ。よかった」
香奈はとても満足げだ。節子は何となく嫌な予感がした。
「じゃああのさ、そのうち誘おうと思ってたんだけど、ここでバイトしない? 何もして
ないんでしょ」
「いえ、その、急に」
正直なところ、お店で働いたりするような気分ではなかった。暇を持て余してはいるが、
できれば今は何もしたくない。
「イヤならそう言っていいよ」
そう言われると、嫌とは答えにくい。
「ああ、えっと」
「最初は、そう――月水土の週三でいいよ。私だってあなたがどんな状況なのか、知らな
いわけじゃないんだし。バイト代も払うからさ」
香奈はさらりと言ったが、節子の正体は重機密のはずだった。
「でも、お店の仕事とかやったことないですし」
「大丈夫。三階の倉庫兼事務所で発送作業とかしてくれればいいから。ま、それだけじゃ
退屈だろうから店番もしてもらうけど。イヤなの?」
「イヤじゃないです」
「ならよかった。なんだか無理に言わせたみたいで悪いねー」
香奈はしらじらしく笑った。
「そんなこと、全然ないです」
ついそう言ってしまう自分が節子は恨めしかった。香奈は嬉しそうに笑った。
「ホント、あんたいい娘だね」
「はぁ」
唐突にほめられ、節子は返す言葉が出てこなかった。
「じゃあ、今日はウチで歓迎会ってことでどうよ」
「え。いいですよそんな」
「遠慮しないの。その代わり、明後日の水曜からはちゃんと来てよ」
それから香奈と節子は電車に乗って数駅先の家電店へ出かけてコンロを買い、帰りにスー
パー「まるたま」で食材を買い込んで帰った。
 歓迎会のメニューは刺身盛りやローストビーフ、揚げ出し豆腐に肉屋のトンカツなどな
ど、要は香奈の食べたいものばかりだった。
「では、節子ちゃんの入店を祝って乾杯」
「かんぱい」
ビールが満たされたグラスのフチを触れ合わせる。
「いやあ、美味い。これで私も店長っぽくなってきたし!」
「今までずっと一人だったんですか?」
店のことを思い出す。広くはないが、一人きりで面倒を見るのは大変だろう。
「まあね。最近はネットショップの方が好調でさ。ちょっと手が足りなくなってたとこ

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ろ。そんなことよりほら、刺身食べなよ」
「いただきます」
節子はイカに箸を伸ばす。
香奈の部屋は、同じ間取りなのに印象が全然違った。暮らしに必要な家具だけではなく、
暮らしを便利にする家具もちゃんとある。フロアスタンドや大きなソファセットがあるの
を見ると、このマンションの間取りが本当はかなり広いことに気付く。
「あなたが伊助と一緒に戦ってたって、ホント?」
あれこれ食べていた手を止め、急に香奈は言った。
「本当、です」
急に気分が暗くなる。さっき「どんな状況なのか知っている」と言われてから、いずれは
尋ねられるだろうと予想していたのだが。
「じゃ、謎のテロ組織ってのも」
「はい。実在しました」
否定すれば余計に辛いのは解っていたので、認める。
「スポーツ新聞のデッチ上げじゃなかったんだ」
「いえ、あれはほとんど嘘です」
「やっぱりね。女の子が怪物に変身して怪物と戦うなんて」
「それは本当です」
「あ……ごめん」
「いいんです。むこうもこっちも、元は同じなんですから」
節子は、平たく言えば改造人間だった。正体不明の組織に誘拐され、改造の途中で脱走し
たのが中学二年生のときだ。それ以来、十年以上も戦い続けた。
 学校にも行かず、友達も作らず、両親の残した保険金を取り崩して生きていた。政府の
支援を受けてからは暮らしこそ安定したものの、穏やかな生活は送れなかった。
 将来への不安は感じなかった。目の前のことで手一杯だったのだ。まったく考えなかっ
たわけでもないが、それは捉えどころのない、一昨日見た夢のようにおぼろげなものだっ
た。
 そもそも中学すらちゃんと出ておらず、戦うこと以外は何もしていない人間に、選択肢
が残されているのかどうかも判らなかった。
「でも、あんたは偉いじゃない。日本だってそいつらを放ってたら危なかったわけだし」
香奈の口調はまっすぐで、励ましたり取り繕ったりするような感じではなかった。
「そうですね。そう思うようにしてます。何度もそう思ってきました。真っ暗な山道で相
手を待ってるときも。暗い洞窟に降りて行くときも。ずっとそうやって自分を励ましてき
たんです。それで少し前、ようやく最後の一人を倒して。私、みんなを守ったんです。で
も、そうしたら、これからどうやって暮らしていけばいいのか解らなくなって。普通の生
活なんて、どうすればいいのか少しも知らないんです。なんだか、もう、面倒で。何をや
ってももう、あれ以上のことなんて」
気が付くと節子は泣いていた。眼鏡を外して顔に手を当てる。
 急に横から抱きしめられた。柔らかく暖かい胸と腕。少し汗のにおい。

- 14 -
「ちょっと燃え尽きちゃっただけだって。すぐ元気になる。やることはあるじゃない。ウ
チの店、手伝うんでしょ。伊助みたいなのは一人でたくさん。ずっと大変だったなら、あ
とは楽しく暮らせばいいじゃないの」
優しくされるとどんどん泣いてしまう。免疫がないせいで、辛いくらいに嬉しくなってし
まう。何か言おうにも上手く喋れない。
 結局、落ち着くまで一〇分近くも節子は抱きしめられたままだった。
「すみません。最近ちょっと気持ちが不安定で」
節子は気まずそうに謝った。
「しょうがないよ。あれでしょ? 燃え尽き症候群とかなんとか」
節子の背中越しに声が聞こえる。涙でずいぶん濡れてしまった服を着替えているのだ。節
子は遠慮がちに笑う。
「にしても、どうして香奈さんがここに来る前の私のこと知ってるんですか?」
説明によるとここの人たちは全員、節子や伊助の正体を知っているということだった。
べつに伊助自身が喋ったわけではない。という人物が入居者については全て調べて、他の
入居者に公表しているのだという。
「その羽村さんってどんな人なんですか?」
節子や伊助についての情報は、厳重に管理されている。そうそう簡単に調べられるもので
はないのだ。
 ただの一般人ではないのだろう。それなら、なるべく関わりたくない。
「うーん。悪いヤツではない。あ、今から会いに行こう。たぶん大丈夫」
言いながら、香奈はもう立ち上がっている。
「え、でもこんな目じゃ。腫れてますから」
「あー。そういうことは気付かないから」
断ることもできず、節子は六階へ連れて行かれた。いちばん端の六〇五号室で、香奈はイ
ンターホンを押す。
「はい」
高い声が応える。
「私だけど。頼んだものできた?」
返事がない。少ししてドアが開いた。嗅覚を刺激する、複雑な薬品の臭いが流れ出す。危
険なものではないようだ。同時に、小さくだが何かモーターのうなる音を耳が捉えた。
「できてるよ」
顔を出した男は、病気かと思うくらいに痩せていた。丸刈りの頭の下で、大きな目が節子
を見る。
 五〇歳くらいに見えるが、三〇歳であっても不思議ではない。妙に皮膚の艶がなくて、
年齢がはっきりしない。
「鳩木節子です。先日ここへ越してきて」
節子は頭を下げた。昭平の態度は素っ気なかった。
「知ってるよ。二人とも上がってく?」
節子たちは昭平に誘われ、部屋へ上がった。

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 室内は酷く寒かった。刺激臭は玄関横の、ドアを閉めた風呂場から漂ってくるようだっ
た。モーターの稼働音も一部はそこから漏れてくるらしい。
「冷却液が臭うけど、気にせんとってな」
かすれた高い声で昭平は言う。
 居間には想像どおり、パソコンやそのパーツや本が詰まっていた。ただきちんと片付け
られ、清潔だった。そして寒い。けれども昭平は慣れているのか、ジャージの上下だけで
平気そうにしていた。
「彼が羽村くん」
「はじめまして」
昭平はそう言うと会釈した。
「あの、下の名前は」
「いや、本名はちょっとアレだから」
ということは、羽村昭平というのは偽名なのだろうか。なにが「アレ」なのかは解らない
まま、節子は曖昧に返事をする。
「あのさ、あなたがどうして節子ちゃんのこと知ったのか、教えて欲しいって」
昭平は床に置いた、電源の入っていないパソコンの前に座り込む。パソコンはケースの側
面が開いており、昭平は中を覗き込んで何かをしている。
「それは、簡単に調べられるよ。調べ方知ってたら」
「でも機密事項で、とか言われたんですけど」
「ああ。そうだね。政府ってのは都合の悪い調べ方って隠したがるから。でも知ってれば
誰でもアレだし」
今度の「アレ」はたぶん「調べられる」という意味なのだろうと節子は推測した。
「そうそう。僕のことは他の人に言わないでな」
「別に、いいですけど」
「こう見えても僕、日本とかアメリカとか、色んな所から狙われてるんで」
節子には返事のしようがなかった。
「政府とかの隠したいことをあれこれ調べてるからさ。都合が悪いみたいでな。頼まれ仕
事でなんでもやるし」
「そんなことより、それが頼んでたパソコン?」
節子の戸惑いを察知して、香奈が話題を変える。
「そう」
「変な細工とかしてないでしょうね? もししてたら――」
昭平の動きが止まる。
「あ、これじゃなかった。そうそう」
わざとらしく言いながら昭平は立ち上がる。
「間違えた。あっちのだ。そこの部屋の隅にある」
筋張った長い指の先に、いま昭平がいじっていたのとは似ても似つかないパソコンと薄い
画面が置いてある。
「電源入れてモニタつないだら使えるから」

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「こっちは何も細工してない?」
昭平はうなずく。
「そ。ありがと。じゃ節子ちゃん。これ今からあなたの部屋に運ぶから」
 外に出ると衛星に見付かるという昭平を残して、節子たちは四〇二号室へ戻った。節子
はあまりパソコンを使ったことがなかったが、ネットショップの仕事で必要なのだと説明
された。必要なことぐらいは節子にも解るのだが、どう必要なのか具体的なイメージが浮
かばない。
 今日誘われてもうパソコンがあるというのは気になったが、香奈いわく「食事のあいだ
に組み立ててもらった」のだという。節子にすればかなり信じられないことだったが、疑
ってどうなるものでもない。
 それに、そんなことよりさっき会った昭平のことが気になる。以上に冷えた室温、風変
わりな室内、そしてなによりも昭平自身の、得体の知れない雰囲気。なるべく係わらない
方がいいだろう。
 香奈を見送った節子は、部屋の片隅に設置されたパソコンを眺めた。基本的な使い方は
知っているが、電源を入れてみようという気にはならなかった。
 考え込んだ末、節子はいつだったか福引きで当てた大きめの手ぬぐいを持ってきて、パ
ソコンへかぶせた。

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第二章

 仮くら井での仕事は、節子が思っていた以上にのんびりとしていた。第一に客があまり
来ない。確かに商品の梱包や発送作業はあったが、一日のうちせいぜい二時間といったと
ころだ。他の時間はぼんやりとレジ前の椅子に座っていることが多い。けっきょく主な仕
事は香奈の話し相手だった。
 その日、節子は椅子に座って香奈が作ったというカタログを眺めていた。それぞれの仮
面に詳細な解説が付けられている。
 香奈は節子の目の前で、陳列された仮面にハタキをかけていた。くるりと輪を描いてま
とめた髪が、手の動きに合わせて揺れている。
「そういえば化けネコ知ってる?」
香奈の手が止まる。
「化けネコ、ですか? 知りません」
「だよね。いや城山さんが見たって噂になっててさ」
「えっと花屋さんでしたっけ?」
香奈の説明では、夜中に店の前で大型犬ほどもある猫を見たということだった。猫はしば
らく花屋の主を見ていたが、やがて振り返ると走り去ってしまったらしい。
「でもね。あの人ほら、ハッタリかますじゃない? って知らないか」
節子は曖昧に笑ったが、内心では嫌な予感がしていた。
 店の前で一台のミニワゴンが停まり、店内に汽一郎が入ってきた。汽一郎は二十代後半
くらいに見える。伊助ほどではないが、痩せていて背が高い。伸び気味の髪とまばらに生
えた無精ヒゲはどちらも根本まで色が薄い。
「うわ、路駐サイアク」
汽一郎は香奈の言葉へ露骨に顔をしかめた。
「出かけるから、ついでの用事がないかわざわざ聞きに寄ってやったのに」
「うっそほんと? ちょうど速達で出して欲しかった荷物があるんだよね」
言うなり香奈は三階を目指して階段を上っていく。汽一郎はその後ろ姿を見送ると、溜息
混じりに笑った。
「どう? ここには慣れた? あいつ人使い荒いだろ」
汽一郎の言葉を節子は慌てて否定する。
「まあ、さすがに女の子には優しいのかもな。でも気を付けろよ。いつ本性を現わすか。
この前もパソコンがどうしたこうしたでコキ使われたって羽村がボヤいてたしな」
「あの、羽村さんとはお知り合いなんですか?」
「知り合いどころか。俺があいつの生活用品やら食料やらを買ってきてやってるんだ。じ
ゃなきゃあいつはあの部屋から出られずに、とっくに死んでる」
「誰が死んでるって?」
言いながら小包を抱えた香奈が階段を降りてくる。
「お前だよお前」
「失礼な! じゃこれ、お願い」

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香奈は汽一郎に小包を渡す。
「そういえば、化けネコって知ってるか?」
立ち去ろうとした汽一郎は足を止めて尋ねた。二人はうなずく。
「つまり化けネコが出たって話なんだけど」
また二人はうなずく。
「おかしいな。さっきのことだぞ」
「さっき?」
香奈が声を挙げる。
「ほら。やっぱり知らないじゃないか」
「いや知ってたって。城山さんがこの前、夜中に見たって」
「あの人、平気で嘘つくしなあ」
「じゃあ、あんたは誰から聞いたの」
「勝平さんのおふくろ」
香奈は黙ってしまった。布団屋の主人である勝平の母はおとなしく真面目で、嘘や冗談で
そんなことを言うような人ではなかったのだ。
「で、どんな話なのさ」
汽一郎の話は、香奈が話したものとまるで違っていた。勝平の母が目撃した化け猫は店の
裏手にある自宅の郵便受けの中にいた。手紙が来ていないか確かめるために郵便受けを開
けると、何匹もの猫が融合したような怪生物が飛び出して走り去ったというのだ。手をか
すめたその毛は人間の髪とそっくりな感触だったらしい。
 自分が仕入れた話を披露する香奈の隣で、節子は不安が重さを増し、胃の腑に満ちるの
を感じていた。明らかによくない兆候だった。
 正体不明の組織、通称ヨ号組織が行う活動の一つに、うわさ話を利用するというものが
あった。
 ある日、ごく狭い地域や社会にうわさ話が次々と流布する。それは同じものについての
話なのだが、中身はどれも違う内容だった。ちょうど香奈の聞いた話と汽一郎の聞いた話
が同じ化け猫の話でも中身が違うように。
 こうした活動はヨ号組織にしては珍しく、戦いの全期間を通してたびたび遭遇した。そ
れは何か組織にとって重要な意味があるらしいのだが、それ以上のことは最後まで解らな
かった。
 節子や伊助たちはこうした事態を察知すると、まずすみやかに噂の封鎖を行った。放置
すれば影響を受ける範囲は噂の伝播に伴ってどんどん拡がり、強大化する。
 いつも最終的には事態を収拾できていたのだが、常に解決されない根本的な謎があっ
た。実際のところ、組織がそうした事態全体の中でどういう役割を果たしているのかが不
明なのだ。
 噂をねつ造して広めているわけではない。伝播を助けているわけでもない。事態の黒幕
として組織の誰かが出てきて、勝負を挑んでくるわけでもない。その発生から収束まで、
組織の構成員はまったく姿や痕跡を見せない。
 それでもそれが組織の活動の一環だと判るのは、人知を越えた不可解さが組織の活動内

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容全てに共通するものだからだ。あるときなどは全然別の件で構成員を抹殺したところ、
噂の蔓延が終息したことさえある。彼らは決して、単純な破壊工作や暗殺などは行わな
い。
 そもそも意図すら不明な場合が多い。未解明ながらも情報技学というものが重要な役割
を果たしているそうなのだが、「観察参与」だの「主観のマクロ局面における自己成就的
な振る舞い」だの、節子にはそれがどんなものなのか、説明されても理解できなかった。
 だが、化け猫の噂が組織の活動であるはずはなかった。たしかに節子はその手で組織を
壊滅させたのだ。最後に登場した首領の死は節子も確認したし、節子がその所在すら知ら
ない、政府系の研究所でも確認されていた。
 もしそれが勘違いだとしたら。どこかに残党が残っていたら。絶対にないとは言い切れ
ないが、やはりそれはないような気がした。構成員が残っているうちに首領が出てくるだ
ろうか。残党がいても、これほど早く活動再開はしないだろう。
 そのとき節子の頭に一つの考えが浮かんだ。もともと噂を利用した活動にどう組織が係
わっているのかは不明だ。ひょっとしたらそれはリアルタイムでなくとも可能なのかもし
れない。噂が組織の仕業だとしても、それは時限爆弾や不発弾のようなものではないか。
 そこで節子は香奈から名前を呼ばれ、我に返った。
「どうしたの?」
「いえ。なんでもありません」
答えながら、節子は自分が活気づいているのを感じた。久々に熱中できるものを見付けた
からではない。それはこれまでの反復から来る自動的な反射だった。意識しなくとも意欲
を高められるくらいでないと、とてもじゃないが組織相手には戦ってられなかったのだ。
 だから活気づく自分に、うんざりしている部分もあった。自分がまるで、燃料を得てあ
さましく稼働する機械のように思えたのだ。
 汽一郎が出て行くと、店内はまた静かになった。香奈は再び仮面へハタキをかけはじめ
一言も喋らない。節子はカタログに没頭しながらも、自分の中で条件付けられた意欲や思
考といった使命達成のためのもろもろ一式が徐々に回転数を上げるのを感じていた。


 化け猫のうわさ話を聞いてから、一〇日ほどが過ぎた。あれ以来、節子は化け猫のこと
を一度も耳にしていなかった。マンションの住人くらいしか親しい人間がいないので話自
体が消えてしまったのか、それともどこかで増殖しつつあるのかは不明だった。香奈や汽
一郎なら何か知っているだろうが、自分から尋ねるのは気が進まなかった。
 毎日はゆっくりと過ぎた。相変わらず最低限の家事と仮くら井でのバイトを除くと、何
もすることがなかった。
 伊助の部屋を訪れる気になったのも、節子としては気分転換のつもりだった。用もない
のに訪れたところで嫌がられるだけだから、化け猫の件はちょうどいい口実だ。
 三〇一号室にある伊助の部屋は、節子の部屋と同じくらい簡素だった。ひととおり快適
に過ごすための物は揃っているが、生活感に欠けている。
 伊助はソファに座って、ケーブルテレビを眺めていた。

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「お久し振りです」
「ん。久し振り」
芯が抜けたような声を耳にして、節子は軽い目眩に襲われた。鼓動が速くなり、急に酸素
が目減りしたようだった。かいてもいない手の平の汗をつい気にしてしまう。
「で、どうした?」
節子は話す前に唇を湿らせようとして、無意識に舌で舐めた。伊助と目が合う。なぜだか
急に気恥ずかしくてたまらなくなり、目をそらす。
 話を聞き終えた伊助は少しのあいだ黙っていたが、やがて口を開いた。
「放っておこう」
予想どおりの答えだったが、そこで納得してしまえば、節子はもう帰らなければならな
い。
「ただのうわさ話だと思いますか?」
「さあ。俺には判らんよ。ただのうわさなら放っておけばいい。もし違ったらどうする
か、憶えてるだろ?」
「とりあえず放置して様子を見る、です」
節子は即答する。基本中の基本だ。
「そう。どのみち一緒だ。お前だって面倒だろ?」
「そんなこと、ありません」
「またまた」
伊助はそう言うと、虚ろに笑った。
「本当です。ただ、報告しなくっていいのかな、と」
「いいんじゃないの?」伊助は軽く言う。「お偉いさんにはとりあえずお役ご免を申し渡
されたし、そこまでサービスすることないだろう。報告ご苦労さん」
一方的に話を打ち切られたような形だったが、節子は気にならなかった。
 たとえ投げ遣りなものだと理解していても「ご苦労さん」というねぎらいの言葉で頭が
いっぱいになり、体の奥がもどかしさにのたうつ。
「じゃあ、また何かあったら」
明らかに社交辞令でしかない言葉に見送られ、節子は部屋を出た。
 外は夕方のぬるい風が吹いていた。隣の部屋から物音がする。ドアが開き、忠晴が段ボ
ール箱を抱えて出てきた。空いている部屋は改装して古希堂の倉庫として使われているの
だ。
「おや珍しい」
忠晴は節子に気付くと言った。
「ちょっと、用事が」
節子の言葉に、忠晴はうなずく。
 何気なく節子は視線を巡らせた。中庭に放置された甕が目に入る。
「あれ、置きっぱなしなんですね」
節子の視線の先に気付いて、忠晴は渋い顔になった。
「煮切った酒を入れたせいか、どうやっても猫が浮かび上がらなくなってね。あっさり諦

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めるには高価すぎるし、保留ということにしてある。問題から目をそらしているだけとも
言うな。ま、あれくらいで甕の中の猫が死ぬこともないだろう」
節子はお気の毒、とも災難ですね、とも取れるようなことを曖昧に呟いた。
「それはそうと、猫で思い出したんだが最近あの猫は見かけないな」
「よくここに来てた?」
「そうそう。あの、えー、とにかく猫だ。こうと、どうも忘れてしまったな。どんな猫だ
ったか。化け猫にでも食われたかな」
節子は調子を合わせて笑おうとしたが、上手くいかなかった。自分の目にしたのがどんな
猫だったか、思い出せないのだ。とにかく猫だった。それは確信を持てる。なのに、具体
的なイメージがまったく思い出せない。
「化け猫と言えば、だな」当惑する節子をよそに、忠晴はもう次の話に移っていた。「お
酒を入れたせいで、封印されてた甕の猫が蘇ったのかもしれない、という気がしてならな
いんだ」
節子はまだ懸命に、姿を見せない猫がどんな外見だったかを思い出そうとしている。
「いやいや。そんなはずないというのは解ってる。私だってそんなヨタ話は信じんよ。た
だまあその、何というか、もしそうなら諦めもつくかと。いや全然つかないんだが」
節子の記憶に浮かぶ猫は今にも焦点を結びそうでいて、どうしてもその手前で拡散してし
まう。思い出せないとなると、なおさら思い出さずにはいられない気がしてきた。そんな
節子の意識の傍らを、忠晴の言葉が流れていく。
「そもそも、どうして化け猫なんて話が出てくるのか解らない。みんな嘘をつくような人
じゃないし、冗談でもそんなことは言いそうにない。そこがどうも引っかかる。そもそも
だな――」
忠晴の話は続く。やがて節子はこの場で思い出すのを諦めた。ふと忠晴の抱えた大きな箱
が目に入る。
「あの、持ちましょうか? その箱」
急に話を断ち切られても、忠晴は気にしていないようだった。
「じゃあ、遠慮なく」
節子に箱を差し出す。受け取った箱は何が入っているのか、見かけほど重くはなかった。
一足歩くごとに、包み紙らしきものが中で揺れてコソコソと音を立てた。


 それはヨ号組織との戦いも終わりが近付いていたときのこと。ある深夜、節子は独り公
園にいた。暮らしているマンションからはあまり離れていない。
 野良犬が一匹、節子に向かい合って立っている。潤んでいるように見える街灯が、強い
光を周縁から投げかけていた。節子と犬の影が長々と、地を這っている。
 その犬は雑種だった。なにか大型犬の血を引いているらしいが、どういう犬の組み合わ
せなのかは判らない。黒くて長い毛を生やした、おとなしい犬だった。
 当時の節子にとってその犬は一番の友人であり、一緒にいて気持ちを弛めていられる唯
一の相手だった。節子はその犬にノブミツという名前を付けていた。組織にさらわれたと

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き殺された、弟の名前だ。
 そのとき節子は変身していた。当然の事ながら、ノブミツの前でその姿になっているの
は初めてだ。
「じゃあ、本当にあなたが」
「ああ。君たちがヨ号組織と呼んでいるものの首領だ」
ノブミツはうなずく。その声は酷くかすれており、ところどころ吠え声と区別しにくいと
ころがあった。
 これは夢だ。節子は思う。しかし目は覚めないし夢らしいところは一つもない。すべて
起こった出来事だ。寝ているあいだにまた厭な記憶が再生されている。
「嘘」
「いいや。もし嘘ならどうして、ボクがこうやって人間のように喋るんだろう?」
そのときノブミツが本当に困惑していることが、なぜだか節子には解った。
「いつだったかキミは話してくれたね。組織の首領というのはいつだって、秩序を守るた
めに戦う者のもっとも身近な存在だって」
そのことを節子に話してくれたのは伊助だった。それを節子はノブミツに語ったのだ。そ
れだけではない。節子は色々なことを、ノブミツを介して自分自身に語っていた。
「それならどうして、私を殺さなかったの? そんなチャンスはいくらでもあったでし
ょ」
ノブミツは首を振った。
「ボクはこうやって人間のように考え、喋れる以外はただの犬と変わらない。人間にして
も、たぶんそれほど頭がいいわけじゃない」
「それで、首領だなんて」
「どうしてだろうね。よく解らない。とにかく気が付いたときにはもうそうだったんだ。
ひょっとしたらボクが首領である理由は、キミにとって一番心を許せる存在になることに
なっていたからかもしれない」
なることになっていた、というのが節子にはよく理解できなかった。ヨ号組織が活動を開
始したのは、節子が小学生のころのことだ。もちろんその当時、節子はノブミツと出会っ
ていなかった。そもそも犬の寿命からして、当時ノブミツは生まれていなかったのではな
いだろうか。
 ノブミツも自分で言ったことがおかしかったのか、少し顔つきをやわらげた。
「もうそれも終わりだ。キミはボクを倒さなくちゃいけないんだろ? ヨ号組織の首領抹
殺と壊滅というのは、そういうことだ。そしてボクはキミに抵抗する力を持っていない」
ノブミツは地面に背中を付けて前脚をすくませ、腹を見せた。顔だけ持ち上げて節子を見
遣る。
 どちらも動かず、何も言わない。時間がばかりが動く。先に沈黙に絶えられなくなった
のは節子の方だった。
「尋問、しなきゃ」少しでも先延ばしにしたい一心で、節子は言った。「いったい何が目
的なの?」
「さあ。それは一番最初の首領。君たちがイ号組織と名付けた集団の首領に聞かないと」

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言うとノブミツは自分の顔をなめた。節子は続きを待つ。
「ロ号組織以降は、言ってみればイ号組織の首領が死ぬ前に企てた遠大な呪いなんだよ。
どういう仕組みか、滅ぼされてもやがて新たな組織が生まれる。そして目論見が成功する
まで何度でも、それは繰り返される。ただし、当初の目的はもう失われてしまって誰も知
らない。どこかの時点でどれかの組織が知らずにそれを達成したとき、初めて目的が何だ
ったのかは解るんだ。最初の首領は自分の死後もなお動き続けるプログラムを作り上げ、
実行したと言い換えてもいい。ヨ号組織を滅ぼしてもプログラムが停止されない限り、そ
のうちタ号組織が生まれるんだ。ボクらはみんな、完成予想図のない設計図に従って複雑
な機械をこしらえているようなもの。どうなれば完成で、それがどういう働きをするのか
は判らないんだ」
仰向けで喋るのは苦しいらしく、ノブミツは節子の方を向いて腹這いになった。
「じゃあ、何をどうするかは全て決まってるってこと?」
「いいや。設計図はただの例え。実際にそう呼べるようなものはない。そもそもボクらは
本当の意味での組織でさえない。偶然にしか思えない経緯で、個々がゆるやかにつながり
ながら活動しているだけだよ。キミやキミの先輩達が抹殺した構成員のほとんどは、自分
が何かに所属していたなんて思ってなかったろうね」
節子は腕を大きく振るった。鉤爪が空を切る。バカにされている気がして、苛立ったの
だ。
「でも私をさらい、家族を殺した奴らは――」
「そりゃ、小グループだってあるさ。彼らは自分たちがもっと大きな組織の一部だとは思
ってなかった。そもそも構成員には人間なんてほとんどいないけど、キミ同様の改造人間
ばかりというわけでもないんだ」
スクーターが公園の横を通り過ぎた。一人と一匹は音が近付き、遠ざかるのを待つ。
「さ、そろそろいいだろ? こうやって喋るのも、意外と辛いんだ。ノドの構造とかね」
ノブミツはまた、自分の顔をなめた。そのまま舌を垂らし、あえいでいる。
「無理。できないよそんなの。あなたは、生け捕りにする」
その場その場で口にする言葉の先へ、思考が回らない。
「それでボクはどこか遠くへ隔離されて、拷問まがいの実験材料としていつまでも暮らす
のかな?」
節子は答えられなかった。
「ねえ。キミにはけっきょく、ボクをここで見逃すことなんてできないだろ? 使命と復
讐、そのためにキミはこれまで人生を放り投げて戦ってきた。それを無駄にするなんて、
できないだろ? 今まであれこれ聞かせてくれた想いは、犬一匹のために捨てられるよう
なものじゃないだろ? ボクのことは気にしなくていい。この場で助かったところで、な
にがどうなんだか、もうさっぱりでさ。いままで話したことだって、部下の話をまとめた
ものでしかないし。ボクの頭には難しすぎて、手持ちの情報から何かを考えるなんて無理
なんだよ」
 そう口にするノブミツは、やけにサッパリとしていた。もうノブミツ自身の中で、この
件は終わっているのだろう。だからこの余白としての時間が、なんの憂いも不安もないも

- 24 -
として存在しているのだ。
 そうしてけっきょく、節子はノブミツを殺した。心臓を一突き。呆気なかった。血まみ
れの死骸を抱いて、変身したまま節子はマンションへ帰った。節子の腹部から足の先まで
流れるノブミツの血は、少しも暖かくなんて感じられなかった。

 目覚めると節子は泣いていた。ノブミツを殺したあのとき、流せなかった涙だ。節子は
布団に入ったまま身を起こす。
 ノブミツを殺したときの夢を見ると、一日を始める気がしない。夢で見た日の翌日から
も、節子はしばらく呆然として暮らしていた。今だってまだ、その後遺症から抜け切れて
いない。時間と共に解消されるだろうと医者は言っていたが、節子にとってそれは役に立
たない見通しだった。
 どこからか猫の鳴き声がした。マンションに出入りしていた野良猫のことを思い出す。
ノブミツのことがあったから節子は猫に名前を付けず、可愛がりすぎないようにしてい
た。今となっては正解だった気がする。
 化け猫の噂は増える一方だった。ただヨ号組織と戦っていた当時に比べて、そのぺース
はゆっくりとしていた。特に封じ込めようとしていないのに、商店街の外へ広がったりも
していない。
 最初のうちはその理由に気付かなかったが、よく考えてみれば簡単なことだった。これ
までと違って、今回のうわさ話は常に目撃者が誰なのか、はっきりしていた。誰もが誰も
と知り合いなのだから、無理もない。
 これなら「兄の友達」や「知り合い」などよりずっとバリエーションは増殖しにくい。
これはもう、噂というより商店街を襲う怪現象といった方が正しいのかもしれない。
 それにこの商店会の人は、同じ商店会の人か出入りの業者以外と親しく話す機会が多く
ないので、伝播も遅い。そもそも商店街のイメージを悪くするような話など、外部へ積極
的に広めたい人間はいない。
 噂の流通が主に大人たちというのもあるだろう。商店会の人で、高校生以下の子供がい
る人は少ない。居たとしても、子供と親は互いに自分の知らないところで相手がどんな雑
談をしているのか、案外知らないものだ。
 こうして考えてみると、化け猫のうわさ話は今までヨ号組織が係わってきたものとは振
る舞いが違う。おかげで節子は未だに、それがヨ号組織の活動と同じ現象なのかどうか確
信が持てなかった。
 バリエーションの増殖と伝播のスピードがゆっくりしていると言っても、それは放って
おけば数週間で全国民に伝播し、数千のバリエーションが生まれるほどの速度に比べれば
の話であり、狭い町内ながらも化け猫を見たという人は着実に増えていた。
 携帯電話が鳴った。起きあがった節子はディスプレイを見て慌てる。電話は香奈からだ
った。今日が出勤日であることをすっかり忘れていたのだ。意識が体の中に、しっかりと
固定されるように感じられた。節子は電話口でさんざん謝ると、急いで支度をして店へ向
かった。
 到着したときには、すでに開店時間を一時間ほども過ぎていた。節子は香奈からひとと

- 25 -
おり注意を受けると、午前中いっぱいは三階で梱包や発送作業に取りかかった。
 午後になった。午後はたいてい、レジ番をして過ごす。香奈は店内の手入れをしたり、
どこかへ買い付けに行ったり、二階のギャラリーへ展示する仮面のことで打ち合わせに出
かけたりする。今日も香奈は打ち合わせのため、出かけていった。
 客はほとんど来ない。たまに来ても、商品知識がまだない節子一人では最低限の対応し
かできなかった。他の時間はネットショップの注文状況を確認したり、三階から持ってき
た仮面関係の書籍やカタログを読んで過ごしていた。もともと読書が好きな節子にとっ
て、これまで読んだこともないそうした本は面白く感じられ、没頭しているあいだは憂鬱
さも忘れられた。
 暇なときはときどきネットショップのブログに記事を書くように言われてもいた。書き
方を教わったのでたまに本を読んでいて思ったことなどを書きもしたが、そんなものを読
んで面白いと思う人がいるのか節子には自信がなかった。そもそも、ちゃんとした文章の
体裁を成しているのかも不安だ。だから、ちょっとしたことを書こうとするだけで、とき
には一時間ほどもかかってしまう。
 香奈の話によれば内気で控えめな節子の記事は「けっこう人気」で「ネットでもちょっ
と話題」なのだそうだ。そう言われても節子には実感が湧かなかったが、とりあえず香奈
が満足してくれているならいいと思うことにした。
 香奈が作った丁寧な説明書を見ながら、節子はネットショップの商品ページを更新して
いた。どこか変なところをいじってダメにしてしまわないか緊張しながらの作業なので、
時間がかかるし疲れる。香奈は心配のしすぎだと言うが、それでも用心するにこしたこと
はない。
 ドアの開く音がした。顔を上げると香奈だった。コンビニの袋を手に提げている。
「おかえりなさい」
「ああ、うん。ただいま」
なにかトラブルでもあったのか、香奈は沈んだ様子でそう言うと、袋からカップに入った
カフェラテを二つ取り出し、レジの横に置いた。それから店の隅にあるスツールを持って
きて、節子の向かいに腰を下ろす。
「それ、お土産。飲んでいいよ」
香奈はカフェラテを指さす。節子は「どうもです」と曖昧に呟き、ひとつ手に取った。香
奈はしばらく、難しい顔をして黙っていた。何度か節子の方を見る。
 勧められたのだから飲まないのも悪いと思い、節子はカフェラテを飲んでいたのだが、
どうも落ち着かない。しかし香奈に何があったのか尋ねるのも、それはそれで気が引け
た。
 この場合、質問した方がいいのか悪いのか。間違った選択をして香奈の気分を害したく
はなかった。
 節子が煩悶していると、香奈が先に口を開いた。
「化けネコ、私も見た、かも」
節子がどう応えようかと迷っていると、香奈は話を続けた。
「それ買おうと思って、帰りにそこのコンビニに行ったんだけど。パン屋の隣にあるヤツ

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ね。あそこの店長やってる幸弘ってのは私とタメで、酒屋だったのをあいつがコンビニに
したんだけどまあそれはいいとして。でさ、あいつが化けネコ見たんだって? とか言う
わけ。で私もそうそうなんて言って話をしてお店を出たんだけど……。私、化けネコを見
たなんてあなたに言ってたっけ?」
「いえ、私には何も」
「だよね。それって、おかしくない?」
そこでやっと香奈はカフェラテを手に取ると、自分でも飲みだした。
「見たんですよね」
「見た記憶はある」
香奈の話によると一昨日の夜中、コンビニで夜食を買った帰りに、マンション近くで遭遇
したという。
 その化け猫は体の両脇に何本もの脚が生えたキジ猫で、ムカデのように両脚をくねらせ
て歩いていた。急に立ち止まってはまた動き出す動作もどことなく虫を思わせた。
 猫は香奈に気付くと、ゆっくりと近付いてきた。近付いてみると、猫の瞳孔は左右反対
側を向いていたらしい。
 気味が悪くなった香奈は猫を充分に引きつけておいてから一気にその上を飛び越し、振
り返らずにマンションの自室へ走り込んだということだった。
「昨日は節子ちゃん出勤日じゃなかったからしょうがないけど、普通そんなことあったら
今日の午前中でも話したよね。お昼だって一緒だったわけだし。おかしいでしょ?」
節子は同意する。
「それにさ、記憶はあるんだけどなんか変な感じなんだよね。記憶だけがあるっていう
か」
「本当は体験してないのに、その記憶だけあるような感じですか?」
「そうそう。本当は夢で見たことが、実体験の記憶の方に紛れ込んじゃってるような。だ
いいち、コンビニであいつに言われるまではそんな記憶、なかった気もするし」
「それって、誰から聞いたんでしょうね?」
「うーん。ちょっと待って」
香奈は言うなり携帯電話を取り出して電話を掛け、出た相手と短い遣り取りをかわした。
「美鈴さんだって」言いながらまた電話を掛ける。「あ、美鈴さん? ちょっと聞きたい
ことがあるんですけど」
聞き取りの結果、美鈴は香奈から昨日、直接その話を聞いたということだった。パン屋を
営む美鈴の店へ、香奈が昼食を買いに来たときのことだった。
「憶えてます?」
節子の問いに、香奈はためらいつつうなずく。
「確かに美鈴さんに話した記憶はある。言われてみるとね。でも」
「それも記憶だけ、という感じですか?」
「うん」
二人とも考え込んでいると、珍しく客がやってきた。香奈は不自然に見えない程度の素早
さで立ち上がると、客に笑顔を向けた。

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 その日の夜、節子はまた伊助の部屋に来ていた。伊助は前に会ったときと同じ服を着て
いたが、不潔な印象を受けなかった。どういうわけか伊助は代謝が極めて不活発で食事も
あまり必要としないし、喋るとき以外は呼吸もきわめてゆっくりしていた。
 節子は香奈の出来事を伊助に語った。
「それじゃあまるで、いや、まあいいや」
「なんですか?」
何かを言いかけて面倒になったらしい伊助へ、節子は言いつのる。
「いやさ、節子の話だとまるで姉さんの過去が遡って作り替えられたみたいだな、と。他
人の指摘を通してね。本人に身に覚えのない記憶だけがあるってのはそんな感じがする。
もしこれがヨ号組織と関係しているんなら、大発見なんだろうなあ。なにせ組織が展開す
るうわさ話ってのはどうして生まれて、どうして変異したり急に伝播するのか判ってない
から。情報技学とかもっともらしい名前はあってもさ。ひょっとしたら商店会の他の人
も、みんな姉さんと同じような感じなのかもな。それならまだ現実化していない化けネコ
を見たって人が多いのも理解できる。今回のケースを分析すれば何かヒントにとかなんと
かかんとか」やはり話している途中で面倒になったようだった。「気になるなら、姉さん
に相談したらどうだ?」
「またそうやって、面倒なことを他人に押しつけるんですか?」
「いや相談するなら、やる気がないヤツより、やる気があるヤツの方がいいだろ。姉さん
はただのお面屋じゃない。ああ見えて頼りになる」
「頼りになるって、あの人いったい」
「俺から勝手には言えないだろ。本人に訊け」
そう言われると、節子はそれ以上なにも言えなかった。いつも伊助は面倒臭さを正論で正
当化する。
 けっきょくまた様子を見ようということになって、節子は伊助の部屋を後にした。


 節子たちの経験によれば、ヨ号組織が展開する作戦としてのうわさ話は一定のパターン
に沿った振る舞いをする。
 まず短期間に無数のバリエーションが生まれ、やがてそれらは食い合ったり競合したり
しながらバリエーションの数を減らして集束する。具体的には語られなくなったり、いく
つかの話が一つにまとめられたりするのだ。
 そして最終的に残った一話が現実のものとなる。範囲が広く、初期段階のバリエーショ
ンが多いほど、現実化したうわさ話の力は強いものになるようだった。
 噂について箝口令を敷くことができない以上、節子たち「ヨ号組織対策委員会」の人間
は目立たない形でなるべく噂が広まらないようにすることで、現実化するものが少しでも
弱くなるようにしていた。そのためのノウハウを有したプロジェクトチームがあったの
だ。
 その上で、現実化したものを節子が抹殺する。しかし今回は今までと違う点が多いた

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め、もし現実化したとしてもどういうものが出てくるのかまったく予測はできない。
 土曜日に仮くら井へ行くと、節子は伊助との会話やこうした基本的な考えを香奈に説明
した。
「それじゃあ、化けネコが現実化するまで待つしかないってこと?」
香奈は不服そうだった。待つ、ということが性格的に嫌いなのだ。
「昨日、考えてみたんです。私が知ってるだけでも噂にはもう六種類のバリエーションが
あります。実際にはもっと多いと思いますし、商店街の人の四割くらいは実際に化けネコ
を見ているはずです。これはなんて言うか、バリエーションの密度としてもかなり濃い分
布なので、それも気掛かりです」
化けネコの話を教えてくれる人が香奈と汽一郎、忠晴しかいないことに気付いて少し寂し
さを味わったことは伏せて、節子は言った。
「それって、どういうこと?」
「どういう、ってわけでもないんですけど」
香奈は「ふーん」と言うと、急に人の悪そうな笑みを浮かべた。
「それにしても、あんた燃え尽きたんじゃなかったっけ? 今日はなんだかやる気に満ち
てるみたいだけど?」
途端に、節子は顔が紅くなるのを感じた。
「いえ、その、こういうことは習慣的に放っておけなくて」
「そおおお? 節子ちゃんって意外に好戦的なんだ? 知らなかった」
「違います」
ムキになる節子が面白かったのか、香奈は笑った。
「まあ、いいから。で、私は何をするのさ?」
伊助の言葉どおり、香奈は乗り気だった。不信感もまるでなく、その適応の早さは却って
不自然だった。やはり普通の人ではないのだろう。
「とりあえず、噂を積極的に集めてください」
「それだけ?」
「そう、です。変異の可能性もあるんで。って言ってもなんだか解りませんよね」
かつて一度だけ、初動が遅れて噂の規模が巨大になってしまったことがあった。そのとき
に変異が発生した。
 もともとは電話を介して伝染する不気味な声を巡る噂群だったのだが、それが具体的な
姿を帯び、不気味な声の話から怨霊の話へと変異してしまったのだ。
 その怨霊はかなりの物語性や他の噂では見られないほどの細かい設定を与えられ、その
ぶん力も強かった。実際に七人の死者も出た。
「ひょっとしたら、今回も同じ事が起こるかもしれません」
「あ、もう、遅いかも」香奈は些か慌てたような声で言った。「ケンスケが猫女を見たっ
て話があるから。変異ってつまりそういうことでしょ?」
昨日のことだった。スーパーで働く相田健介は猫女に出会った。大きさは普通の猫と変わ
らないが、顔や前脚に人間を思わせる特徴があったのだという。
 猫女は捕まえた小鳥を食い散らかしていたが、健介を見ると口元に笑みを浮かべて「あ

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なたがエバラショウヘイサン?」と尋ねてきたのだという。健介が否定すると猫女は興味
を失ったらしく、食べかけの小鳥をくわえて路地裏へ走り去ったのだそうだ。もちろん、
商店会にエバラショウヘイという人物はいない。
「そうですね。それは変異です」
話を聞き終えた節子は断言した。
「変異が起こると、どう違ってくるの?」
「さっきも言ったように、現実化したものの強さも大きく変わってきます。負けることは
ないでしょうが、苦戦するでしょうね。それ以外は何とも。」
香奈は少しのあいだ思考を巡らせていたが、やがてひとつのアイデアを思い付いた。
「それってさ、今回は食い止められるかも。だってさ、ケンスケでしょ。とにかくそのこ
とは喋らないように、私から言うことはできるよ。あいつ真面目だし、小中高と後輩だっ
たし、私のこと好きだって噂も高校時代にあったし。ちょっとケンスケのところに行って
くる」
節子に留守番を言い渡すと、香奈はそのまま店を出て行った。
 残された節子は、香奈の発想に軽い衝撃を受けていた。たしかに今回の対象範囲は不特
定多数ではない。特定少数なのだ。上手くいくとは思えないが、その気になれば商店街に
住む人間全員を一箇所に集めて事情を説明し、化け猫の話はいっさいしないように頼むこ
とも可能だろう。
 これまでの経験から先入観に縛られていたことを節子は反省した。同時に、すぐ店を出
て行った香奈のことが頼れる姉のように思えた。
 しばらくして、香奈が戻ってきた。
「気味の悪い話はしないようにって言って、いちおう約束はしてくれたけど……。もうけ
っこう喋っちゃったって」
「そうですか」
「まあでも、この線はいけるんじゃない? 毎晩フライングエイプに行ってさ、化けネコ
の話に否定的な反応をすれば」
「よく解らないんですけど、それって気まずい感じになりませんか」
「あ。なる。なるなる。でもさ、そんなこと気にしてる場合じゃないでしょ」
正論だった。しかし、節子はやはり抵抗感を捨てられなかった。
 香奈にとって商店会の人々と友好的な関係が続くというのは、自明のことなのだ。だか
らあっさりとそんなことが言える。しかし、よそ者の節子からすれば、なんとも気の重い
話だ。他に行き場のない現状では特に。
「とりあえず、現実化するまで放っておきませんか? かえって煽る結果になっても困り
ますし」
香奈は腕を組んで迷っているふうだった。
「それってさ、一つ質問なんだけど、危険とかないの? もうはっきりした目撃者もいる
んだから、ある意味では現実化してるってことでしょ」
「仮説ですが、他の人も香奈さんと同じプロセスを辿ってるんじゃないかと。つまりです
ね、みんな誰かから見たんでしょうと指摘されると、そこで目撃の記憶が生まれて肯定し

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てしまう、と。それなら実際にはまだ現実化していないはずですし、実際的な危険はない
でしょう」
香奈は納得しきれなかったようだが、他にいい案もないようで黙っていた。

 その晩、店を閉めた二人は「フライングエイプ」に立ち寄った。いつものように汽一郎
が集めた年代物のイスは常連客で埋まっていた。
 フライングエイプの店内はできる限りのものが六〇から七〇年代のアメリカで使用され
ていたものに統一されていた。アメリカではちょっとした骨董品にあたるわけだから、汽
一郎も結局は忠晴と同じようなことをしていると言える。
 節子たちは鮭の燻製をあしらったシーザーサラダを肴に、安いハウスワインを飲んでい
た。大きなデカンタに注がれた白ワインは甘みが強く、飲みやすいせいで見る間に減って
いった。
 隣の席では、岩谷浩平と遠藤陽介、山藤秋美が喋っていた。三人とも美容院で働いてい
る。かなり酔っているらしく、三人の話し声は隣の席までよく聞こえた。
 話題は化け猫のことだった。それはいったいなんなのかという話をしているのだが、酔
っているせいで話題は脱線を繰り返し、一向に前進しない。
「香奈さんもこの前見たんスよね?」浩平が急に話しかけてきた。「オレも見たんです
よ」
 浩平はアルコールにややうわずった声を出す。もともと酒に弱いせいで、照り返るほど
赤くなっている。
「見たって、なんのこと?」
香奈は受け流そうとしたが、浩平は気にせず先を続ける。
「さっきゴミ出しに行ったら、ゴミ捨て場に野良猫がいたんスよ。先割れって言うか、そ
の猫、頭から背中くらいまで二つに裂けてるんですよね。でも内臓とか血とか出てなく
て、内側もちゃんと毛が生えてる。目なんかも真っ白く濁ってて。俺に気付いたそいつは
急に飛びかかって、オレのこと引っ掻いて逃げてったんですよ」
浩平は左腕をかざした。確かに腕の外側の手首から肘にかけて、猫に引っかかれたような
赤いスジが二本ある。ところどころ乾いた血がはがれて、緋色の肉が見えている。
 香奈の判断は素早かった。浩平の傷のすぐそばを軽く叩いて笑ったのだ。
「ちょっと冗談やめてよもう。信じそうになったじゃない。あれでしょ? どっかに引っ
掛けた傷なんだよね」
「いやいや、マジですって。だってほらこんな」
浩平は少し慌てていた。
「また冗談。私は信じないからね」
その言葉と目つきにはこれ以上の反論を許さない迫力があった。
 浩平は戸惑いの表情からうつろに周囲へ視線をさまよわせ、やがて笑みを口元に浮かべ
た。
「そうそう。そうなんスよ。やっぱり香奈さんにはバレちゃいますね」
そう言ってだらしなく笑う。

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「なにちょっと嘘だったの?」
二人の会話を聞いていたいた秋美が浩平を叩くフリをする。
「あったりまえだろ。そうそう化け猫なんか見ないっつーの。これはほら、事務所の机が
壊れてんじゃん? カドのとこ。あそこに引っ掛けてさ」
「焦ったー。ついに来たかって感じだったんだけどね」
陽介が大げさに言う。なんとなくそれで座の雰囲気が変わってしまい、三人の話題は店の
ことへ移っていった。
「あの、いま、なにが」
節子はわけが解らないままに、声を潜める。
「私のときの応用。もしあいつが私と同じ状態なら、化け猫の話をしながらいまいち自分
の記憶に自信が持ててないはずだから、強く否定してやったの。はっきりとね。それで、
たぶんまだおかしいとは思ってるんだろうけど、あいつは私の言うことを本物の記憶とし
て認めた。自分の記憶よりもね。いやあ、上手くいってよかった」
香奈は声を落として説明すると、汽一郎にフライドポテトとフライドチーズを注文した。
地味だが素材や揚げ方を汽一郎が突き詰めた結果、かなりのレベルに達した人気メニュー
だ。
「でも、化けネコが目撃されたことに変わりないじゃないですか」
節子が反論する、という事態が面白いのか香奈は満足そうに微笑んだ。
「要はさ、記憶とか情報とかうーん。細かいことは省くけど、よく解らないし」そこで香
奈は言葉を切り、運ばれてきたフライドポテトを口に運ぶ。カリカリの衣を噛む頬が柔ら
かくうごめく「とにかく大きい声で先に断言した方が事実になって勝つわけ」続いてチー
ズを口にする。「結局これってさ、ある話がさんざん既成事実として扱われたときに現実
化するってことじゃない。なら、それを不十分な状態にしておけばいいってこと。それよ
り」急に香奈は口調を厳しくする。「危険はないはずだったんじゃないの? 大きい化け
ネコの話ってあったけど、あれだって考えてみれば、もしじゃれつかれでもしたら死ぬ
よ?」
問い詰められた節子は何か答えようと思うのだが、焦りで言葉が出てこない。
「これまでどうだったのかは知らないけど、死人が出ましたはいごめんなさいじゃ済まな
いわけ。ねえちょっと解ってる?」
「すみません」
節子は辛うじて聞こえる程度の声で謝る。
「お! 香奈さんさっそく新人をイビっちゃだめッスよ」
隣の席から浩平が言う。香奈は身を乗り出すと、隣の浩平の頭をこずいた。かなり大きな
音がする。
「イタっ」
「痛くない!」
「いやまあ、そうですけど。ちょっともうやめてくださいよ」
泥酔した陽介と秋美はそれを見て笑った。浩平自身も笑い出す。
「ね? 大声で断言した方の勝ちでしょ?」

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早くも赤らんできた手指を撫でながら、愉快そうな声で香奈は節子に言った。節子は少し
ぎこちないながらも同意する。
「はい。それと、あの」
「解ればいいって。ま、私もあんたの事情は知らないわけだし」
その後、節子は隣の三人に紹介され、五人で飲むことになった。アルコールが効かない節
子も酔っぱらい四人のテンションに取り残されないよう、控えめながら精一杯に明るく振
る舞った。同時に時間が経つほど、香奈の妙な飲み込みの良さや適応力を不思議に思う気
持ちが強まっていった。
 不意に何匹もの猫が声を揃えて鳴いた。長々と尾を引いて、ゆっくりと寄せては返すよ
うな鳴き方だ。しかしそれが聞こえたのは、人間を超える節子の聴覚だけだった。節子は
周囲の人間に気付かれないよう注意しつつ、猫たちの声に耳を傾けた。
 猫の声は少しすると、唐突に消えてしまった。
「どうしたの?」
香奈が節子の顔に自分の顔を寄せて尋ねる。
「いえ、なにも」
節子はそう言うとグラスを手に取り、中身を飲み干した。
「あ、何か頼む?」
香奈に向かってうなずくと、節子はメニューを手に取った。いま耳にした鳴き声が自分の
中で整理されるまで、少しだけ時間が欲しかったのだ。
 四人はメニューに見入る節子の傍らで、何事もなかったかのように談笑を続けた。

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第三章

 どんなに暑い夏の午後でも、古希堂の店内は薄暗く涼しかった。非番の節子は壁に立て
掛けてあった年代物の折りたたみイスに腰掛け、忠晴の話し相手をしていた。骨董品の倉
庫になっている空き部屋から壺だの鎧だのを運ぶ手伝いを頼まれ、そのまま部屋に戻るタ
イミングを逃してしまったのだ。フライングエイプで香奈が噂の変異を阻止してから、数
日が過ぎていた。
 化け猫の噂から骨董業界の裏話、いいかげんマンションを改修したいという話や今年の
夏がどうしてこんなに暑いのかということまで、忠晴はじつによく喋った。それに対して
節子は時々あいづちを打ったり、意味のない質問を挟んだりするだけだった。
 話題は忠晴の「昨日久し振りに伊助と会った」という一言から、伊助自身のことへ及ん
だ。
「節子ちゃんは伊助がどうして戦うようになったのか、知ってるかね?」
節子はうなずく。
 伊助はもともと、冷凍食品メーカーの研究部門で働いていた。ところがある日、組織に
よって妻と子供を殺され、自分は改造人間にされてしまう。節子と同じく脳をいじられる
前にどうにか脱出した伊助は、復讐のために組織と戦うようになった。
「伊助も戦っていた頃は、ああじゃなかった。復讐心と正義の怒りに燃える男だった」
節子は「はあ」と曖昧に返事をした。そんなヤル気に満ちた伊助など想像もできなかっ
た。
忠晴はグラスの麦茶をひとくち飲むと、続けた。
「ところが、組織を殲滅したあたりからおかしくなった。最初は新しい目標を見付けよう
とあれこれしていたんだが、どうもだめだったらしい。だんだん無気力になって、暮らし
に困らないせいもあって、部屋から出なくなってしまった。張り合いを失ってしまったん
だな」
それは節子も知っている伊助だった。
「とうとう自殺しようとした」
それは初耳だったが、驚くことではなかった。目的を失い、日常生活を表面的に維持して
いるだけの自分を省みれば、それは当然な成り行きだと思えた。その発想からすれば自分
もいずれ自殺を試みることになりそうだが、いまひとつ実感が湧かない。
「毒は効かない。大抵の損傷はすぐに回復する。そこであいつは製鉄所に忍び込んでな、
溶鉱炉に身を投げたんだ。ところがそれでも死にきれなかった。作業員が発見したときは
全身の組織がほぼ炭化して、なんだかよく判らない黒いカタマリになっていたそうだ」
そこで忠晴は言葉を切る。節子は伊助が味わった痛みを理解しようとして、やめた。一瞬
で意識など消え飛んでしまっただろう。
 節子の考えを見透かしたかのように、忠晴は首を左右に振った。
「悲惨なのはな、溶鉱炉に飛び込んでから体が回復するまで、あいつは想像を絶するよう
な苦痛に苛まれ続けていたということだ。もともと戦闘用の肉体だ。そんな苦痛を味わい
ながら発狂することも、失神することもできなかったんだ。それ以来あいつは死ぬことも

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諦めた。また死にきれなずに苦痛を味わうことがが恐ろしいんだな。そうなるともう、本
当にすることがない」
節子はまた気の抜けた返事をした。それにしても、話を聞く限りでは節子以上の回復力
だ。
「つまりだな」忠晴はなおも続ける。話が終わったと見せかけて続くのが忠晴の話し方だ
った。「あいつはもう寿命が尽きるのを待ちながら生きているだけだ。その寿命だってそ
うそう尽きない。伊助はものすごくゆっくりとしか歳を取らないからな。私が初めて会っ
たときから、あいつは四〇歳くらいのままだ。限りなく不老不死に近い。これは節子ちゃ
んにも言えることか」
節子は引っ越し直前に伊助から聞いた話を思い出した。伊助はそのとき忠晴について「初
めて会ったときからじいさんだった」と語っていたのだ。
 そのときは適当なことを言っていると思っていたのだが、伊助の話からすると意外に本
当かもしれなかった。二人が初めて知り合ったのが伊助の現役時代なら、遅めに見積もっ
ても節子が生まれるよりずっと前のはずだからだ。
 そもそも節子は忠晴について骨董屋兼大家だということ以外、ほとんど何も知らない。
忠晴が数代前の組織を滅ぼした人物だとしても不思議ではないのだ。
「にしても、せっかくの頑強な体と潤沢な寿命を捨てようとするなんて。理解できん。な
ぜそれを活かそうとしないのか。死ぬ気遣いさえなければ、どんなことにでも挑戦でき
る。他人の何倍ものことだって成し遂げられるというのに」
伊助に同情する気はまったくないらしい。むしろその口調からは普段の親しみやすさが消
え、愚か者を見下すような響きさえあった。いくら忠晴が高齢で伊助や節子ほど寿命が残
っていないにしても、そこにはただの妬みだけではわりきれない違和感が存在した。
「節子ちゃん。きみは伊助や汽一郎のようになっちゃだめだぞ」
なぜそこで汽一郎の名が出てくるのか不明だったが、節子は軽くうなずいた。
 そんなことを考えていると汽一郎が入ってきた。汽一郎は忠晴と、その傍らに座ってい
る節子へ目を留めた。
「たまには大家らしい仕事をしたらどうだ? 俺はこうやって開店前にも働いてるんだぞ
このクソ暑い中。それなのにあんたはどうだ。ひ孫くらいの女の子相手にダラダラと」
「嫌ならやめてもいいんだぞ。どうだ、いっそ引っ越したら?」
「そうされて困るのはそっちだろ。ここのヤツで他に誰が管理人をやるっていうんだ?
それとも外部の人間でも雇うか? それとも自分でやったらどうだ。脚立の上で電気を換
えたり、ベランダから身を乗り出して空になったツバメの巣を取り除いたり」
いったいどんな事情があるのか、忠晴は言い返さなかった。汽一郎は節子に向かって、申
し訳なさそうな顔をした。
「驚かせちゃったよな。すまない。別に喧嘩してるわけじゃないんだ。なんて言うか、そ
う、気の置けない間柄ってやつで」
あきらかに親友同士の憎まれ口とは言えない雰囲気だったが、節子は納得したフリをし
た。
「そうそう。二人とも根は口が悪いから、どうもはたで見ていると喧嘩しているように映

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るらしいんだな」
どういうわけか忠晴も話を合わせる。
「で、なにか用なんだろ」
忠晴は汽一郎の方を見ずに尋ねる。
「ああ。五階の廊下の電気を換えといたぞ」
「まだ換えてなかったのか。何日前に頼んだと思ってる」
「こっちだって忙しいんだ。不満があるなら自分でやれ。じゃ、節子ちゃん。またな」
そう言うと汽一郎は白昼へ出て行った。

 忠晴のところを後にした節子は伊助の部屋を訪れた。自殺しようとした、という話が頭
に残っていたせいもあるが、なんとなく会いたかったというのが大きい。
 いつものように居間でケーブルテレビを観ていた伊助に、節子は汽一郎と忠晴の遣り取
りを語って聞かせた。
「それでなにか?」
話が終わると伊助は言った。ここでうっかり「特に何も」などと答えれば、すぐに追い返
されてしまう。
「あの二人って、やっぱり仲悪いんですよね?」
「そうだな」
「どうしてなんですか?」
伊助はすぐには返事をしなかった。「知らない」「合わないんだろ」などと言えば済むは
ずなのに。伊助は基本的に最小限しか嘘をつかないのだ。嘘は維持するのが面倒だし、嘘
だとバレたときに釈明するのも面倒なのだ。
「知らないわけではないけれど。俺なんかが勝手に喋っていいものかなあ」
いつものように道義を重んじるフリをして、伊助は話を打ち切ろうとする。
「なにか問題でも?」
節子は食い下がる。
「勝手に喋ったって知れたら、いい顔はされないだろうな。それに、係わると面倒なこと
になるよ」
面倒になる。その言葉はいまの節子にとって、なかなか効果的な脅し文句だった。
「じゃあ、当たり障りのないところだけ。汽一郎さん、自分の代わりに管理人なんて雇え
ないって思ってるみたいですけど、どうしてなんですか?」
伊助は露骨に嫌そうな顔をする。
「それはけっこう核心だよ」
「じゃあ、汽一郎さんってどうしてここの管理人になったんですか?」
「ああ、それね。もともと汽一郎くんは孤児でさ。でまあ今の二人からは信じられないだ
ろうけど、忠晴さんは幼い汽一郎くんを引き取って育てたんだ。養子にはしなかったけど
ね。言ってみれば二人は親子みたいなもんだ。そして息子と男親ってのはソリが合わない
ことも多い」
話していて殺された娘のことを思い出したのか、伊助はほんの少しだけ寂しそうな表情を

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見せた。普段は素直に感情を出さないだけに、節子はそんな伊助をすぐに抱きしめ、慰め
たくてたまらなくなった。手を握りしめてその衝動を抑えつける。
 忠晴と汽一郎が親子だということに対しては、特に驚きはなかった。しっくりくるわけ
でもないが、信じられないというほどでもない。
「でも、今まで誰もそんなこと」
「あの二人は仲が悪いからね。話すような機会がなければわざわざ言うほどのことでもな
いし。それにしても節子はあれだ。姉さんのことといい、ここに来てから前以上に面倒臭
いことを持ち込んでくるね」
「そうですか?」
「そりゃそうだよ。生活に密着した人間関係ってのは、組織なんかよりずっとややこしい
ことになりかねない。ともかくあの二人が自分たちのことに他人を巻き込むことはないは
ずだから、お前があれこれ心配することじゃない」
そこまでだった。節子は名残惜しさを感じつつも、伊助の部屋を出た。

 その日の晩、いつものように仕事帰りの香奈は節子の部屋へやって来た。どういうわけ
か最近、非番の日は節子が香奈のぶんも夕食を作ることになっていたのだ。
 おかげで簡素な節子の部屋は、台所用品や調味料ばかりが充実するようになっていた。
今日のメニューは鶏のホイル焼きと中華風スープにサラダだった。
「なんかいいことでもあった?」
ホイルを開きながら、香奈が尋ねる。
「いえ、別に。どうしてです?」
「なんかいつもより明るいみたい」
「そんなことないですって。いつもどおりですよ」
香奈は疑いの目を節子に向けると、缶ビールをあおった。ノドがせわしなく波打つ。
「じゃあ、今日あったことを報告しなさい」
そんな義務はないのに、香奈の命令には不思議と逆らえない強制力があった。節子は忠晴
や汽一郎のこと、伊助のことを語った。
「前から気になってたんだけど、なんで伊助のことかまうの?」
「なんでって?」
「そもそもさ。忠晴さんと汽一郎のことなんか、私に聞いたほうが判りそうなものでし
ょ? あの二人も私もここの地元民なんだから」
「まあ、そうですね」
「じゃ、なんで? あいつの所に行って面白いことがあるわけじゃなし」
節子は返答に困ってしまった。特に理論的な理由はないのだ。そんな節子を眺めつつ、香
奈は缶ビールを飲み干し、新しい缶を開ける。
「あのさ。うすうす思ってたんだけど、あんた伊助のことが好きなんでしょ」
上半身が伸びたかのように、香奈はテーブルへ身を乗り出す。
「そんなことはないです。いやその、尊敬はしてますし、力になってくれたわけだから、
そういう意味では大事に思ってますけど」

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しかたなく、節子は思いつきで喋る。
「それじゃどうして伊助のことかまうかの答えになってない」
「えーと。伊助さんの改造人間としての悩みや苦しみってあるじゃないですか。それを分
かち合えるのって、私だけだと思うんです。伊助さんが今みたいになっちゃったことも、
自分のことみたいにすごくよく解るんです。だから――そう、少しでも人と触れ合う機会
を持ってくれればって」
話ながら、だんだん自分でも自分の思考が追えなくなってくる。内容のつじつまが合って
いるのかもおぼつかない。
「ふーん。ま、思春期のあいだに親しい男って言えばあいつくらいだったろうしね。共に
一つの目標に向かって戦ったんだし。さぞ頼れるようにも見えたでしょ。それで、刷り込
まれちゃったわけだ」
節子は足先から何かが流れ出し、体組織の密度がふつうの人間並みに低下するような感覚
を味わった。
 ただでさえ香奈は自分の直観を確信する人間だ。それが酔っぱらっているともなれば、
節子程度ではどう反論しても無駄なのだ。それにしても、これほど見事に自分の言い分を
無視されるとは予想していなかった。
「ピーナツでも煎りましょうか?」
諦めて話題を変える。
 節子はフライパンでバターを熱し、殻をむいただけのピーナッツをそこへ投入した。バ
ターとナッツの油分が香ばしく焦げ、その匂いに鼻孔がふくらむ。
「でも真面目な話、もし伊助を元気づけたいんあらさ、あんたがヤル気なくしてる場合じ
ゃないんじゃいん?」
背中越しに香奈の声が届く。少しろれつが怪しい。物音が聞こえていたのはどうやら焼酎
を取りに立っていたらしい。どうせ割るのを面倒臭がって、ストレートで飲んでいるに違
いなかった。
「そうは言っても」
この無気力感は経験してみないと、その厄介さが解らない。表面的には支障がないのだ。
日常生活もこなせるし、こうして受け答えもできる。しかしその裏で少しずつ拡がり、あ
る時点で突然、すべてをダメにする。
「そうもこうも言わない。まずは、そう。みんなに色々と質問してみらいいんじゃない?
そうすれば、お互いに理解も深まるだろうし。だいたい、そんな感情くらい意志の力でど
うとでもなるんじゃないの? 生きるか死ぬかで戦ってきたんでしょ! だったらまだま
だ生きたり死んだりしなきゃ!」
あまりにも横暴な言い分だったが腹は立たない。思わず苦笑してしまう。忘れていたわけ
ではないが、確かにもっと苦しい目には遭ってきたのだ。
「じゃあ、どうしてあの二人の仲が悪いのか教えてくれませんか」
節子はフライパンからピーナッツを一粒つまみ出すと、口に入れる。生き物を連想させる
歯ごたえ。芯の方がまだ生なのだ。
「それ、実は知らない。でも面白いことは知ってる」

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「なんですか? 面白いことって」
「忠晴さんてさ、私が子供のころから年寄りなんだよね。おばあちゃんの話だと、おばあ
ちゃんが子供のころにはもう年寄りだったって言うし、戦前のここを撮った写真にも写っ
てたらしいよ」
お達者なんですね、という言葉を寸前で飲み潰して節子は疑わしげに尋ね返した。
「私だって噂は信じないよ。でも、私が子供のときに年寄りだったのは確かだって。そり
ゃあ子供からすれば五〇歳くらいでも年寄りに見えただろうけど、そのころ六〇歳とか七
〇歳とかの人たちからも年長者扱いされてたみたいだし」
それが本当だとしても、どう意味づけたらいいのか解らない。それに、汽一郎との仲の悪
さという話題からすればどうでもいいことだ。
 忠晴が数世代前の組織を壊滅させた人物でもおかしくない、そう考えていたことを思い
出す。それなら自分や伊助同様、忠晴が長命というのもありうる。
 ただ、歴代の抵抗者がすべて改造人間だったというわけではない。日清・日露戦争当時
にワ号組織を壊滅させた上山哲一郎という人物は生身の陸軍軍人だった。
 その前の組織は江戸末期に存在し、当然ながら記録はほとんど残っていない。もし忠晴
が抵抗者だとすれば、最も若く見積もっても江戸時代の生まれということになる。
「さすがにそれはないか」
節子は呟く。
「そうそう。そうやって形だけでも無気力じゃなさそうにしてれば、憂鬱なんてそうそう
維持してらんないって。いい子ね、タイニィ・ラヴ」
香奈はテーブルを平手で強く叩いた。バンバンと音がして、手の平の方が痛そうだ。やは
り酔っている。
「はい、どうぞ」
節子は皿に盛ったピーナッツをテーブルへ置き、イスに座った。
 そのとき、どこからかまたか細いネコの鳴き声がした。微かだが、意外と近くから発せ
られているようにも聞こえる。
 やがてその声を包むように、方々から猫の鳴き声が挙がった。不定和音のその響きは、
ゆびぬき通りを緩慢に満たしていくようだった。
「ほら、あれ」
香奈が窓の方を向く。シャツから覗く細い首筋は朱い。
 ついに噂が現実化したのか。とっさに節子は立ち上がり変身しようとして、背を向けた
香奈に目をとめる。
「香奈さん、こっちを向いちゃダメですよ」
そう言いながら節子は眼鏡を外し、ためらうことなく服を脱ぎだす。
「なんで?」
「変身します。人に見られるのは、その」
「わかった」
 節子が服を脱ぎ終え変身しようとしたところで、急に猫の声は弱まり、消えていった。
時間にして一分あるかないかだ。

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「消えた」
香奈はつぶやく。
「ええ」
決まりの悪さを感じながら節子は脱いだばかりの服を身につけ、眼鏡をかけた。
「もう、振り向いてもいいですよ。すみません」
節子の言葉に、香奈は振り返った。
「どうするの? あれ」まるで節子の責任ででもあるかのように、香奈は尋ねる。「噂は
一つに集約してから現実化するんじゃなかったっけ?」
節子は動揺してしまった。どう答えればいいのか解らない。下手なことは言えないが、黙
っているわけにもいかない。
「の、はずなんですけど。いやでも、今のもやっぱり現実化には至らなかったみたいです
し」
自然と声が小さくなってしまう。香奈は真っ直ぐに節子を見つめている。それが余計に節
子を焦らせた。何も言えない。
「はず、じゃ困るんだけど。みたい、とかさあ。あのね、犠牲者が出るのは嫌なの。打つ
手がないのかもしれないけどさ、それでも対抗策とかちゃんと考えてるわけ?」
喋りながら香奈の顔は薄く赤みがかってくる。
「すみません。考えてはみたんですが」
「どんな?」
節子は答えられない。香奈は思い切りテーブルを叩いた。
「なに? 適当なこと言ったの?」
沈黙が幾重にも折り重なり二人のあいだに堆積する。香奈は溜息をついた。
「今日はもう帰るから」
香奈が玄関を出てドアが閉まるまで、節子はひたすら体を縮こまらせ、座っていることし
かできなかった。


 節子の質問に、忠晴は驚いていた。まさか節子からそんなことを訊かれるとは思っても
みなかったのだろう。
「どうしたんだい、急に? まさか汽一郎のヤツに変なこと吹き込まれたんじゃないだろ
うね」
仕方なく、節子は香奈から教えられた話を伝える。
「それにしても、節子ちゃんがそういう質問をしてくるとは意外だったなあ。普段はそ
の、もっとこう慎み深いイメージだったから」
その発言を耳にして、節子はひょっとしたら忠晴がものすごく「古風な人間」なのではな
いかという気がした。慎み深いという言葉を実際に誰かが使っている場面になど、これま
で出会ったことがない。そもそも養子がどうこうという話題に慎みが関係するという発想
も、やや古くさい。
「もうちょっと元気を出すように、香奈さんに言われて」

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「ああ見えて、姉さんは面倒見がいいから」
どこか満足げな口調だ。
「で、実際のところどうなんです?」
「我ながら死んだ親父によく似てるとは思うけれど、さすがにね」
どうも受け答えがあやふやだ。
「じゃあ、幾つなんですか?」
「六七歳。歳の割に若く見えるだろ?」
「ええ。それじゃあ、伊助さんと出会ったときは四〇歳手前くらいですか」
「ま、そうなるな。誰がどう言ってるのかは知らないが」
あっさり肯定されると、それ以上は追求しにくい。不意に何もかもが面倒に感じられだし
た。
 考えてみれば、どうして自分はこんなことをしているのか。こんなことをしている時間
があったら噂を封じ込める手段でも考えるか、町を巡回した方がいいはずだ。
 けれどもまだ、香奈に叱られたショックからは立ち直れていなかった。そのせいで化け
猫と向き合う気になれない。精神がずるずると重さを増していく。
「そういや、昨夜は猫の声がすごかったな」
忠晴は話題を変える。
「ここにずっと住んでいて、あんなことは初めてだ。あれはやっぱり化け猫なんだろう
か」
「もしそうなら、今頃そこらじゅう化けネコだらけですよ」
憂鬱な気分を無視して表面上は愛想よく言ったものの、節子は化け猫という言葉を口に出
すのも嫌だった。つい素っ気ない口調になってしまう。
「いやしかし、化け猫といえば神出鬼没だから」
「その件は私と香奈さんがどうにかしますから。安心してください」
忠晴の言葉を遮るように告げる。
「頼もしい。いやまったく、伊助がああだからね」
その声の芯底には僅かな冷たさが漂っている。
 時計を見ると、もう店へと向かう時間だった。行きたくはないが、遅刻などしてこれ以
上香奈の機嫌を損ねることは避けたい。節子は忠春との会話を切り上げると、古希堂を後
にした。

 店の前には人だかりができていた。人の間をかき分けて先頭へ出ると、入り口に香奈が
立っていた。携帯で電話をしている。
 節子は入り口脇の壁が傷付けられ、塗料が大きくはがれていることに気付いた。ちょう
ど大きな猫が爪を研いだかのようだ。最悪の気分に叩き落とされる。
「外装業者にね」通話を終えた香奈は節子に気が付くと、携帯電話を振る。その口調はい
つもと変わりない。「朝から嫌なことが二つ」
「もう一つは」
「汽一郎がやられたって。コンビニ行ったら幸弘が言ってた。本人が見たわけじゃないん

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だけど、深夜のシフトに入ってたバイトがね。猫が鳴いてた時間帯に、血まみれの汽一郎
が店の前をよろよろ歩いてったんだってさ。いや汽一郎って名前は知らなかったらしいん
だけど、フライングエイプのマスターって他にいないでしょう? なんか服もぼろぼろ
で、背中に大きな傷があったって」
深刻な事態を、やけにあっさりと香奈は伝える。被害者が出たというのに怒ってもいな
い。
「心配しないでよ。私、さっきマンションのゴミ捨て場で汽一郎に会ったんだから。べつ
に瀕死とかじゃなかった。たぶん店員の見間違えなんじゃないの? その時間に汽一郎が
コンビニの前を通ったのは本当かもしれないけど。だいたいそれなら、店の前の道にだっ
て血痕が落ちてるはずでしょ? だけどそんなものはないみたいだし」
香奈は壁の傷に目を向け、溜息をついた。骨っぽい肩が目に見えて下がる。
 それ以上何が起こるということもなく、仮くら井はその日の業務に入った。節子は三階
で発送作業にいそしむ。香奈と顔を合わせずに済むのがありがたかった。
 いつもと違って仕事ははかどらなかった。壁に残った傷跡のことを考えてしまう。あれ
が猫の仕業だとしたら、その大きさは人間を超えるものになる。
 短時間だったにせよそれほどの猫が既に現実化しているのなら、被害者が出るのは時間
の問題だ。そうなれば、香奈は激怒するだろう。自分だってできれば犠牲者は出したくな
い。
 昨夜、化け猫たちは出現してすぐに噂話へと戻った。この世界にまだしっかりと固定さ
れていないということだろうか。しかしこの世界にはっきりとした痕跡を刻んだとなる
と、残された時間は少ない。猫によってつけられた壁の痕跡は逆に、猫の実在を補強する
だろうからだ。
 いったいどうすればいいのか。有効そうな手立てはなにも思い浮かばない。
 三階は壁から部屋の中央へ向かって、たくさんの仮面が積み上げられている。その中心
にソファセットと応接テーブル。それに棚が一つ。発送リストに記された仮面を求めて、
節子は在庫の中に分け入る。
 表面だけのうつろな顔が幾つも積み重なっているのが、最初は不気味に感じられた。そ
れも今ではただの商品だ。このごろやっと、仮面の名前からだいたいどの辺りを探せばい
いのかが解るようになってきた。
 探しているのはインドネシア製の、蛇の悪霊の面だった。似たような物の中から、カタ
ログに記載された写真を頼りにどうにか見つけ出す。
 木彫りの仮面をつくづくと眺める。注文した人や香奈には悪いが、どこがいいのか理解
できない。扱っている商品の中には「面白い」「綺麗だ」と感じるものもあったが、数千
円や数万円を払ってまで欲しいとは思えない。
 そのとき節子は、香奈が仮面専門店を始めた理由を知らないことに気付いた。真っ先に
質問してもよさそうなのに。その程度のことにさえ関心が向いていなかった自分に、節子
は不安を覚える。
 しばらくすると、香奈が上がってきた。
「業者が来たから店はお休み」

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そう言いつつソファに身を沈める。古びた革のソファは、香奈の体にピッタリとなじんで
いるようだった。首だけを起こして、香奈は手にしたペットボトルのお茶を飲む。
 沈黙が続いた。節子は何を言うべきか悩んだが、どう転んでもまた怒らせてしまうので
はないかと不安だった。だが節子の中で気まずさは増すばかりで、一方的なプレッシャー
はその場に座っていることさえ負担に感じさせた。
「あの、昨日はすみませんでした」
とりあえず謝ってみる。
「ああ。ま、もう怒ってないから」
サッパリとした口調で香奈は答えた。節子はまだ不安を抱きつつ、同時にそれが弱まるの
を感じた。
「昨日はさすがにムカついたけどね。考えてみれば私だってなにもできてないわけで、あ
んたを責めてばっかりってのも違うかな、と。反省したなら以後、化けネコ退治に励むよ
うに。爪痕のこともあるんだし、今度こそ本当に誰かが被害に遭うかもしれないんだか
ら」
節子は精一杯の誠実さが伝わるように祈りつつ、うなずく。あっさりと許されたことが、
新たなプレッシャーを生み出す。
「とりあえず、汽一郎さんに話を聞いてみます。もし猫が鳴いていた時間にお店にいたの
なら、なにか見てるかもしれないですし」
熱っぽい口調で節子は言う。この場合そうした口調は逆に嘘くさいと解っていても、声が
勝手に強まるのを止められない。
「そうだね。身近なところから当たってみるしかないもんね」
そこから話題はいつもの雑談へと移っていった。まだまだ売り上げは少ないもののネット
ショップが好調で、香奈は嬉しそうだった。
「香奈さんって、どうしてこのお店を開こうと思ったんですか?」
香奈は指を伸ばし、眼鏡を押し上げた。まだ少し、緊張感が抜けきらない。
「私さ、人の顔が見分けられないんだよね」
予想もしていなかった返答だ。どう反応すればいいのか判らず、節子は曖昧にうなずい
た。
「たとえば節子ちゃんの目とか鼻とか、パーツは解るわけ。でもそれが全体で顔として認
識できないっていうか。だから人は服装とか髪型とか声とかで見分けてる」
「それって、生まれつき、なんですか?」
「そう。生まれつきそんな感じだったから、自分でおかしいとは思ってなかったんだけど
ね。親がおかしいってことに気付いて医者に連れてかれて。脳に損傷があると相貌失認と
かいって同じような状態になるらしいんだけど、私の場合は脳に損傷なんてなかった。そ
れに相貌失認だと他にも症状があるらしいんだけど、私の場合はそんなこともないし。で
まあ結局、消去法で心因性の何かだろうってことになってさ。でも精神科の方でも異常は
ないようだってことにね、なって。それはそれで納得できなくもないかな、なんてね」
香奈自身が特に困っていないからだろうか。やけにあっさりとした口調だ。
「でも、人形とか仮面とか」

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「あ、そういうものの『顔』は認識できるわけよ。うん。人間だけがダメ」
「それで、仮面に興味を?」
「ま、そういうことだね。それと――そうだ」
香奈は立ち上がると仮面の間を縫って壁際まで行き、積まれた山の間から古びた木箱を取
り出した。なにやら箱書きが記されているが、節子には判読できない。
 香奈は箱をテーブルの上へ置くと、蓋を開けた。
 中から出てきたのは能面だった。額は小面みたいだが、眉間の辺りを境にしてなだらか
に般若のような顔へと変わっている。ただしカタログとは違って般若のような部分の色は
青黒く、小面のような部分との境は薄墨色にぼやけている。その中で強い朱色に塗られた
目が鮮やかだった。
 節子はその能面をどこかで見た覚えがあった。小面と般若を合成した顔立ちがユニーク
だと思ったのだ。香奈が手作した資料が収められているファイルだっただろうか。
「これは橋姫っていう面でさ、乱れ髪の女面と怨霊面との配合が絶妙でしょ? 特に眉か
ら目にかけての落差なんて、どれだけ見てても飽きない。ああ、この面は嫉妬に狂った女
が丑の刻まいりをしてる姿を現わしたものでさ、口に松明をくわえてるって設定。だから
普通は火に照らされた顔の部分はよく海老茶色に塗ったりするんだけど」
もう話についていけなくなっていた節子だったが、黙って続きを聞く。
「で、私の場合は大学時代にこの面と出会ったのも大きな切っ掛け。一目惚れしちゃって
さ、能面から他の仮面にも本格的に関心が拡がって今に至る、と。でさ、箱書きによると
面の作者は『仮くら井』だって記してある。それが店名の由来。普通、面の制作者はそん
な名前は名乗らないけどね。どうも今で言うところのインディーズとかアングラレーベル
とか、そんな感じだったみたい。デザインも独特だし」
香奈から面を受け取る。記憶の中の写真に掲載されていたものよりも起伏の形状が複雑で
大胆だ。そのくせ写実的な雰囲気が強い。よほど大切に扱われてきたのだろう。塗装も褪
せてはいない。
「さっき、精神的な理由で顔が見分けられないのはあるかも、みたいなこと言いましたよ
ね」
香奈に面を返しながら尋ねる。
「まあね。そこにはそれなりの理由があるんだけど、それはまた今度」
そうして困ったような笑顔を見せる。
 どうやらマンションの住人は、誰も彼も込み入った事情があるらしい。とはいえ、どん
な込み入った事情も過去も全くない人などいるのだろうか。
 社会経験に乏しく、長いあいだ限られた人たちとだけ接してきた節子にとって、それは
判断のできないことだった。
「じゃ、休憩終わり。私も手伝うから発送準備を終わらせちゃおう」
残りの作業は倍以上のペースで進んだ。自分で分類しただけあって、香奈はどんな仮面も
すぐに見つけ出してくる。節子はもっぱら宛名書きや梱包をしながら、仮面について講釈
する香奈の声に耳を傾けた。

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 閉店間際のフライングエイプには、一人の客もいなかった。翌日は平日なのだから、特
に不思議ではない。
「いらっしゃい」
カウンターの拭き掃除をしていたが顔を上げる。背が低く、角張った顔に頬ひげを生や
し、一風変わった眼鏡をかけている。眉尻が下がっているので、いつも少し困っえいるよ
うな印象を受ける。
 弘文はフライングエイプのバーテンだ。フライングエイプの従業員はこの弘文と汽一郎
の二人だけだった。
「マスター、お客さんです」
弘文に呼ばれて厨房から出てきた汽一郎は、客が節子であることに気付くと顔をほころば
せた。
「こんばんわ。珍しいねこんな時間に。まあまま、何か飲みなよ。フードも作るから」
そう言うと、再び厨房へ引っ込む。節子はメニューを眺めると、テキーラサンライズをオ
ーダーした。
ほどなくして、汽一郎が戻ってきた。手にした皿にはローストビーフが盛られている。
「さて、と。もうこんな時間か。弘っちゃんはお疲れさん。上がっていいよ。後は俺がや
るから」
弘文は汽一郎と節子に挨拶をすると帰り支度をして店を後にした。
「今日は、ちょっと用事があって来ました」
節子はローストビーフを一切れつまむと、香奈から聞いた話を汽一郎へ繰り返した。
「それ、本当のことだよ。デカい猫にネズミと間違われてさ」
「にしては、元気そうですね」
節子は汽一郎の冗談に付き合う。
「俺は不死身だから」
汽一郎はそう言って笑みを浮かべる。
「ここで働いて、昼間は管理人の仕事。体力のある人だと思ってましたけど、そういうこ
とだったんですね。で、本当はどうなんですか?」
節子の切り返しに、汽一郎は少し落胆したようだった。
「節子ちゃん、ひょっとして機嫌悪い?」
汽一郎の言葉に、節子は決まり悪さを感じた。つい任務で聞き込みをしていたときの態度
が出てしまったのだ。
「そんなことないですよ」
節子は口角を持ち上げて、笑顔に見えないこともない表情を作る。
「それならいいんだけど……。昨日はもともと閉店が遅くなって、それから秋に出すカク
テルとフードの新メニューを考えてたらさらに遅くなって。で、たぶんそれくらいの時間
にコンビニの前も通ったろうと思う。眠気でフラフラしてたから、目の錯覚とかネコの声
とかが合わさって瀕死に見えたんじゃないか。向こうも疲れてたろうし」
「ネコが鳴いてたことには気付いてたんですね」
汽一郎はカウンターに両手を突いて身を乗り出し、苦笑する。

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「尋問みたいだな。そりゃあ、あれだけ騒がしければ気付くよ」
「外は?」
「ああ。店から出てみた。ただ、ネコは一匹もいなかったぞ。すぐその辺から鳴いてるよ
うな感じだったんだけどなあ。さすがに変だと思って少し探して歩いたんだけど、見付か
らなかった。鳴き声もわりとすぐに消えたし」
節子はテキーラサンライズをもう一杯注文すると、考え込む。結局のところ、噂はどれく
らい現実化しているのだろうか。声だけが現実化するなど、今までなかった事態だ。そも
そも物理的な基盤がないのに、どうして声が存在できるのだろうか。
 そもそも節子たちが耳にしていたよりも、伊助に鳴き声をが聞こえていた時間はずいぶ
んと長いようだ。これはどういうことのなのか。
 眉間を圧し潰す勢いで考えていると、ふいに汽一郎の手が伸びてきて眼鏡を取られた。
「意外と美人とか何とかいうよりは、違和感が強いな」
汽一郎はすぐに眼鏡を差し出す。
「なんなんですか、もう」
節子は眼鏡を掛け直すと、レンズ越しに汽一郎を軽くにらむ。
「冗談だって。なんか今日は強気だね」
節子は長々と溜息をついた。手にしたグラスを力無くテーブルへ置く。それはむしろ、少
し上からテーブルへ落とすといった方がいいような動きだった。
「つい昔の感じが出ちゃうんですよ」
そうして節子は、化けネコの噂にまつわる懸念を大まかに語った。
「それならさ、じいさん辺りはいい知恵持ってるんじゃないか? ま、ボケかかってるか
らロクな話は聞けないだろうけど」
節子は忠春が、伊助の戦いにどの程度関与していたのかを知らなかった。
 かつて見た資料から、伊助が現役時代から忠春のところへ身を寄せたことは知ってい
た。だが、それ以上のことは興味もなかったので、当時は資料を詳しく閲覧していなかっ
たのだ。
 もし忠春がたいして知らないのなら、聞くだけ無駄になってしまう。それで何が困るで
もないが、どれくらい係わっていたのか気にはなる。節子はそれを正直に打ち明けた。
「どれくらい詳しいか、なあ。その資料とかいうのを調べればいいんだろ」
「今の状況では、絶対に見させてもらえないですよ」
「正面からは、な。昭平に聞いてみろよ。あいつならどっかから手に入れてくれるだろ」
言われてみれば確かに、昭平は節子や伊助の情報もどこからか入手していた。それを思え
ば過去の資料だって手に入るかもしれない。
「でもあの人、ちょっと」
「慣れればどうってことないって。悪い人じゃないし。それに、節子ちゃんに危害を加え
られるはずないんだし。俺からメールしといてやるよ」
「あの、じゃあお願いします」
「任せて。で、それはそれとして、そろそろ閉店にしようと思うんだけど」
節子は汽一郎が言わんとすることを察する。損をするわけでなし、お礼の意味も込めて少

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しくらい付き合ってもいいような気がした。
「じゃ、ここで待ってますから」
「お、悪いな」
汽一郎は手早く残りの閉店作業を終わらせ、二人は店を出た。

深夜だというのに、店から出ると重たい空気が漂っていた。気が緩んだのか、汽一郎は大
きなあくびをする。普段の感じからすると、唇が裂けそうなくらい口が開く。
「毎日、どれくらい寝てるんですか?」
「んあ? 日によって違うけど、今日なら四時間くらい。まあ普通だ」
汽一郎はしきりに目をこすりながら答える。
「よく体力保ちますね」
「不死身だから」
どうやら不死身ネタは汽一郎のお気に入りらしい。
「不死身といえば、忠春さんも不死身なんじゃないかって話を聞きましたよ」
「あ、ちょっと待って」
汽一郎は立ち止まると、自販機で缶コーヒーを買った。
「節子ちゃんは?」
「コーラで」
汽一郎から手渡されたコーラはよく冷えていた。夏限定のロング缶だ。
「で、なんだっけ?」
「忠春さんが不死身らしいって話ですよ。戦前からここに居たとか」
「それが本当なら、はた迷惑な話だな。あれか。憎まれっ子世にはばかるとか言う。で
も、それはありえないだろ」
「そうなんですか?」
「だってあのじいさん、怪我とか病気とか異様に警戒してるしな。管理人の仕事をしない
のも、たとえば脚立から落ちたりするのが嫌だからなんだぞ。不死身ならそんなこと気に
するもんか。あれは絶対、命が惜しくてたまらないってタイプだ」
どうしても少し感情的になってしまうのか、汽一郎は忠春について喋るといつもより早口
になる。
「ま、あんな永久にくたばり損なったような年寄りのことなんて話す必要ない。短い夏の
夜なんだ。もうちょっと楽しい話をしないか? 蒸し暑くてネコが出そうだけど」
二人の影は前に後ろに長々と伸びている。シャッターの降りた商店街はいつもより間延び
して感じられた。
「そういえば、節子ちゃんはまだ化けネコって見てない?」
「見てません」節子は慌てて否定してから、質問する「なにか、そんな話が?」
「いや、姉さんからあんまりそういう話はしないように言われたんだけど、やっぱり気に
なるから。実害もあるし」
「え? 誰か」
節子の慌てぶりがおかしかったのか、汽一郎は笑う。

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「ほら、みんな警戒して夜もすぐに帰っちゃうから。こっちは客が減って弱ってるんだ
よ」
汽一郎は月を仰いでおおげさに嘆いてみせる。あまり深刻そうではない。
「汽一郎さんは襲われるの、怖くないんですか」
口元へ缶を運ぶ手を止め、汽一郎は横目で節子を見た。
「俺はべつに」
「でも、凶暴だったり巨大だったりするんですよ? それこそ本当に背中をざっくり、な
んてことだって」
「それならそれで、しょうがないだろ。そりゃまあ、死ぬってのがどんなもんか実際に知
らないから言えることかもしれないけど。あ、死ぬのが怖くないとか死にたいとかってわ
けじゃないんだ。そりゃ当たり前か。なに言ってるんだ俺は」
汽一郎はコーヒーを飲もうとし、顔をしかめた。缶を振っても音がしない。空なのだ。茶
色い缶の表面を、街灯の投げる光が鈍く滑る。
「私は、死ぬのも怪我するのも怖いです。だからここの人たちにだって危ない目には遭っ
てほしくない。香奈さんもそう言ってました」
「姉さんはともかく、節子ちゃんもそうだなんて意外だな。てっきり慣れてるのかと。
あ、周りが傷つくことにってんじゃなくて、自分が危険な目に遭うことに。いやいや、慣
れたからって、そういう目には遭わないのが一番いいわけであって」
やはり疲労が溜まっているのだろうか。伊助は上手く頭が回っていないらしい。
 節子はゆっくりと吐息だけで笑った。自然と出てきたその笑いは、とても疲れて感じら
れた。
「むしろ、どんどん嫌になりますよ。どんなに丈夫で死ににくくても、痛いものは痛いで
す。それに誰かから暴力をふるわれるのは、悲しい気持ちになります」
「そうか。慣れたからって、嫌なもんは嫌だよな。ごめん。気ぃ遣えてなくって。悪かっ
た。申し訳ない。ごめん」
汽一郎の謝り方は本当に申し訳なさそうで、ただ謝るばかりの姿は年齢よりもずっと若
い、一〇代くらいの少年のようでもあった。
「いいんですよ。あんまり謝らないでください。ほら、むしろ私がすっごく重いこと言っ
たような感じになっちゃいますし」
「あ、そうか」
汽一郎は黙り込んでしまう。客商売をしているのに、妙なところで人のあしらいが不器用
だ。
「おい、ほら。ネコがまた」
あちこちから一斉に猫の鳴き声が挙がった。まるで何かを唱和しているようだ。
 節子は周囲を探った。臭いもしないし姿も見えない。高いところから猫が飛び降りる物
音さえ聞こえない。汽一郎が語ったとおり、鳴き声以外はなにもないようだった。
 目を閉じてさらに集中すると、感覚器官が体からさまよい出ていく錯覚に捉えられる。
 微かに四つ脚の足音が聞こえた。ゆっくりと二人の方へ近づいてくる。肉球がアスファ
ルトをこする音から察するに、相手はかなり大きいようだ。

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「汽一郎さん。お店まで走っていけますか?」
「あ? どした?」
用心深く周囲を眺めていた汽一郎は、節子の顔をみつめた。
「大きなネコが近づいてます。汽一郎さんは逃げてください」
そういうと節子は眼鏡を外し、変身を開始する。服を脱いでる暇はない。
「変身するから、見ないで!」
今や足音は、人間の聴力でもどうにかとらえられるくらいに接近していた。汽一郎は節子
に背を向け、耳を澄ませる。
「あれ、本当に足音か」
節子に背を向けたまま、汽一郎は驚いている。
「そのはずです」
節子は自信なげに答えた。身体の変化に伴って声がだいぶん変わっている。地面の影が醜
く変貌する。
 音は増え、一匹の猫の足音にしては多すぎるくらいだった。どんどん重々しさが失われ
ている。変身しながら節子は音がする方を見遣った。
 音は急速に重みを失い続け、とうとう節子たちの立っている通りへ出る手前で消えてし
まった。猫の声もやむ。
「消えた」
「いや、まだだ」
汽一郎が緊張した声で言う。と、角を曲がって足跡が突進してきた。しかし姿はない。
 節子は足音が到達する寸前、後方へ跳んだ。視界の端に見えた汽一郎は、ちょうどその
場から走って離れるところだった。
 風圧が起こり、アスファルトに爪痕が残る。見えない猫は一声鳴くと、今度こそ本当に
消えた。
 変身の際に節子の服が破れたしまったため、二人は店まで引き返した。汽一郎は節子の
前を歩き、一度も振り返らなかった。
 中へ入ると節子は変身を解き、店の奥にあった汽一郎の着替えを借りた。シャツもズボ
ンも大きすぎたが、裸よりはいい。
「で、あれは何だったんだ?」
汽一郎は二人分のお茶を入れて厨房から出てくると、節子に聞いた。
「化けネコ、なんでしょうね。実体はまだないんですが。さっき起きたことは、もし化け
ネコがあのときあそこに実在したら起こりえる出来事だった。そうした現象が先行するこ
とで、逆に化けネコの実体化が促進されるんだと思います。すぐに消えたのは、たぶんま
だしっかりと現実世界に定着してないせいでしょう。今までにこんな例はなかったので、
思いつきなんですけど」
汽一郎は首筋をさすりながらうなずく。
「思い付きにしても、それだけ整然と語れるってのはすごいよ。ただ、俺はあの場にいた
からそうかもなって思えるけど、その説明だけ聞いて信じる奴なんていないだろうな」
「そうですね。私も言いながら、都合のよすぎる説明だって気はしますから。それならあ

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ちこちにこっそりスピーカーを埋めてるとかの方がまだ信じられる気もしますね」
「そういうことはない?」
「ない、ですね。こんな場所で誰にも気付かれず実行するのは難しいでしょう」
汽一郎はまたうなずくと、体に目を落としてふとももを叩いた。蚊でもいたのだろう。
「それにしても、どうしてまだネコが消えてないって判ったんですか? それにネコが襲
いかかったとき、少しも動きませんでしたよね」
「カンだよ。昔からカンが鋭いんだ」
初耳だった。それに、カンだけで「まだだ」という言葉が出てくるとは信じがたい。むし
ろ――。
「本当は昨日の夜も、同じようなことがあったんじゃないですか」
その方が自然に思える。
「まさか。それなら先に逃げてるよ」
「不死身なんですよね?」
ごく真面目な声で節子は言う。
「冗談を真に受けるなって。それよりほら、帰ろう」
二人は店を出た。汽一郎はすこし先を歩く。話しかけられるのを避けているようだ。
 立ち仕事で体にコリが溜まっているのか、汽一郎は歩きながら時折、肩や腰をほぐすよ
うな仕草を繰り返す。そのたびに、地面に落ちた薄い影もふわふわと歪んだ。


 昭平の部屋は相変わらず刺激臭がこもっていた。部屋の温度は極端に低い。
「伊助さんたちの資料だっけか」
椅子に座った昭平は、締まりのない不快な声で尋ねる。
「ええ、そうです」
節子は寒さで強張ろうとする肘や膝の関節を緩めながらうなずくと、これまでの流れを説
明した。口から漏れる吐息が白い。
「ほら、これ」
説明を聞き終えると、昭平は机の上から紙束を取って差し出す。節子は受け取ると、昭平
が触れていた部分を触らないようにしながら、プリントアウトされた資料に目を通す。
 資料の中の忠春は、伊助の生活を支援する協力的な民間人として記載されていた。組織
の引き起こした事件とその解決が中心なので、ほとんど記述はない。それどころか写真す
ら掲載されていなかった。
 資料によると、二人の出会いは伊助が組織と戦うようになった初期のころにさかのぼ
る。慣れない戦いで大怪我を負った伊助を、忠春が保護したのだ。
 伊助の驚異的な回復力を見て、忠晴は伊助が普通の人間ではないことを悟る。そこで伊
助から事情を聞き出し、協力を申し出たのだという。
 忠晴という人物を知っていればいかにもありそうなエピソードだが、気になる点があっ
た。民間人の協力者はもう一人いたようなのだ。
 その人物は伊助に先駆けて現地入りし、情報収集を主に行っていたらしい。噂の拡大を

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阻害するチームの一員だったのだろうか。しかし不思議なことにその人物は姓名も性別
も、一切が記録されていなかった。
 そしてその人物は資料の中で詳細が明かされないまま、任務の途中で死亡したと素っ気
なく記されている。
 たしかに伊助が政府機関と関わりを持つようになったのは、忠春のところへ身を寄せる
ようになってしばらくしてからのことだ。
 それにしても、資料の作成者がもう一人の協力者について何も知らなかったということ
はあり得ないだろう。故意に隠蔽されていると考えた方が自然だ。
「どした?」
資料を前に考え込んでいた節子は、その声で現実に引き戻された。
「いえ。この資料のここなんですけど」節子は謎の協力者について書かれた部分を昭平に
示す。「どうしてこんなに詳細がないのかな、と思って」
昭平は身を乗り出して紙を覗き込む。節子は思わず体が引きそうになるのを耐える。
 間近で見る昭平は外へ出ないせいか肌の張りがいちじるしく損なわれていた。そのくせ
不健康そうな印象は受けない。大きな眼鏡越しに見える瞳は色が薄く、白目と虹彩の境目
が曖昧だった。そして、これほど近付いても体臭が感じられない。いくら薬品の臭いに満
ちているとはいえ、息がかかりそうなほどの距離なら、節子の嗅覚は体臭を嗅ぎ取れるは
ずなのだ。
「誰だろね。変だな」
昭平は椅子へ座り直すと背もたれに体を預け、目を閉じる。節子は昭平がそのまま二度と
目を開かなくても、おかしくないような気がした。
「昭平さんはいつからここに?」
沈黙が耐え難く感じられ、節子は声をかける。
「あ、ああ。何年前だろ。伊助さんが組織を倒した後だよ」
「じゃ、けっこう長いですね」
「そだね。ここの人はうるさいこと言わんから。特に忠春さんは、僕が研究していること
に理解があるし。頭もいい。同志と言ってもいいかもね」
それは妙な気がした。昭平が何を研究しているにしろ、忠春がパソコンについて理解を示
しているというのはあり得そうもない。何をしようが忠春は干渉しない、ということだろ
うか。
「薬の臭い、平気?」
唐突に昭平は話題を変えた。
「ええ。あの、慣れてきました」
節子の返事を昭平は気に入ったようだった。
「この部屋のパソコンを一気に冷やすには、こうやって部屋の温度を化学的に下げてやる
のが手っ取り早いから」
その説明は前と微妙に食い違うような気もしたが、パソコンに詳しくない節子には本当に
違うのか、それとも違わないのかよく判らなかった。ただ、部屋が前回よりも冷えている
ことは明らかだ。

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 そこでもう一つ、昭平に感じる違和感の正体に気付く。昭平の息は白くないのだ。こん
な部屋に籠もりきっていれば体温も下がるだろうが、それにしても不自然ではないのか。
「化けネコ騒ぎだってなあ」また、唐突に話が変わった。昭平のスタイルらしい。「ちょ
いと来てみ」
そう言うと、昭平は机に乗った二つのモニタの一方に地図を表示させる。ゆびぬき通りを
中心とした周辺地図だ。
「汽一郎くんの話と姉さんの話を合わせるとだな」
地図上にいくつもの赤い点が表示される。五〇近くある。
「これが目撃された場所。な? この辺の地区から外には少しも広まってない。昨日なん
かの猫の鳴き声も、ここの外じゃ誰も聞いてないみたいだ」
そこでなぜか昭平は含み笑いを漏らした。沼底からガスが湧いているような雰囲気だ。
「どうかしましたか?」
「いやさ、こいつも僕と一緒だと思えてな。この地区の外に出たら生きていけんのだろう
ね」
それのどこが面白いのか、なおも昭平は笑い続ける。節子は黙ってただ見ているしかなか
った。
「君も僕も姉さんも汽一郎くんも、みんなここでしか生きていけない。この地元でずうっ
と。天国も地獄も、行き止まりに変わりない」
なおも肩をふるわせて小刻みに笑う。
 節子もさすがに、気味の悪さが耐えられなくなってきた。
「あの、じゃあ今日はありがとうございました。また何かあったら」
「だね。じゃあまた。そうそう、資料は持ってくといい」
急に真顔に戻ると、昭平は変にはっきりした口調で言った。

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第四章

 翌日もその翌日も、夜中になると大勢の猫が鳴いた。商店街には昼間でも重苦しい緊張
感が漂い、夜ともなれば人々は家に閉じこもるようになった。
 そのくせ噂話はこれまで以上に熱っぽく、声を潜めて語られた。当然、うわさの変異と
増殖と統廃合のペースは急勾配を描いてアップした。
 節子は毎晩、町内を巡回した。あいかわらず化け猫は声ばかりだった。普通の野良猫さ
えどこかへ行ってしまったようだった。実体のない化け猫の襲撃もあったりなかったり
で、一貫性がなかった。
 攻撃が継続する時間もまちまちで、短いときは節子へたどり着く前に消えてしまうこと
さえあった。とはいえ、着実な変化もある。ここ数日、化け猫はぼんやりとしたシルエッ
トを伴うようになっていたのだ。
 まだ鮮明な像を結んでいないが、とうとう視覚に働きかけるようになったのだから、そ
れがはっきりとした形となるのはもう間もなくのことだろう。
 最初に遭遇したときと違って、節子は変身しなかった。出方さえ知ってしまえば、今の
ところは変身せずともあしらうことができたのだ。
 猫が鳴いているあいだを除けば、巡回は単調だった。煌々と照らされる表通りから灰色
の闇がわだかまる裏通り、そして再び表通りへと歩きながら、節子は化け猫のことや住人
たちのことに考えを巡らせた。
 噂に語られる化け猫は、どんどん猫という要素から遠ざかっていた。赤裸の蛙みたいな
皮膚をした化け猫などまだいいほうで、猫の頭のような肉腫に覆われた不定形の固まりに
追いかけられた、という話さえあった。
 それでもそれらは化け猫として物語られ、伝播していく。こうした話の大半を節子は香
奈や汽一郎から聞かされた。別に他の人と交渉がないわけではない。商店会の人々もこの
ごろはずいぶん気安く節子へ話しかけてくるようになった。
 しかしどういうわけか、節子へ化け猫の話をする人はほとんどいなかった。そこまでう
ち解けてはいないのだろう。節子はそう考えていた。
 現実化を未然に防ぐ方法は一向に思い浮かばなかった。忠春も伊助も役に立ちそうな知
識やアイデアは持っていなかった。特に封じ込めを行ってもいないのに、外部へ拡散しな
いというのもこれまでの噂と違っていて不気味だし、これだけバリエーションを生みなが
ら収束する気配もない。
 もし噂がすべて事実なら、いまや町の人でそれを目撃していない者などおらず、そこら
中に化け猫が溢れていることになってしまう。
 一方で、コキドーハイツに住む人々のことも気がかりだった。最初は軽い雑談のタネだ
ったはずのものが、いつのまにか「住人たちの過去を探る」というゲームのようになって
いる。
 判っている限りでも「香奈がただの仮面屋ではない理由」「汽一郎と忠春の対立の理
由」「昭平の不自然さの理由」そして「謎の協力者とは誰か」。
 化け猫と違ってこちらは放置してもいいのだが、それぞれの謎が微妙に関連しあってい

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るような形で姿を垣間見せるせいで、気になってしかたがない。それに、そういった謎を
放置したままで一緒に暮らすというのも落ち着かないことだった。
 謎の協力者について、予想どおり忠春も伊助も正体を教えてくれなかった。
 忠春は「そんな奴もいたが、死んだ人間を気にしてもしょうがない」と言うばかり。伊
助は「正式な手続きもなしに機密は漏らせない」と答えるだけだった。
 念のため香奈にも質問してみたが、成果はなかった。昭平についても同様で、誰も詳し
いことを知らないようだった。
 ただ昭平が忠春を理解者と呼んだのは本気だったらしく、忠春も昭平のことを「聡明か
つ強靱な意志と遠大な視点の持ち主」と評していた。
 どこをどう見ればそんな感想が出てくるのか節子には理解できなかったが、何かがある
ことは確かなようだ。そうしてみると「忠春と昭平が互いを評価する理由」もまた、謎の
一つに加えられるだろう。
 何の支援もなく、あらゆることが行き詰まっている。それなのに自分は夜の町内をフラ
フラするしかやることがない。節子はそんな現状が歯がゆかった。
 無気力は発作のように、ときどき節子の中で急激に高まっては消えていった。人工の光
と自然な闇の中をいくつもくぐり抜けながら、節子はなおも考える。
 そもそも噂というのは奇妙なものだ。人々のあいだを感染しながら増え続け、変異を繰
り返す。やがて力を持ち始め、実体がなくても実体があるのと同じような影響を人々に及
ぼす。
 本当は化け猫が現実化する必要もないのだ。人通りの絶えた商店街を見渡せば、これ以
上化け猫が現実化したところで変わることなどないように思える。現実化したところで襲
える人もいないし、今までの経緯からするに、この地域の外へは出られない可能性も高
い。
 昭平が言っていたように天国も地獄も、そしてゆびぬき通りも、行き止まりに変わりは
ない。ゆびぬき通りの寂れた側の入り口に「ヌケラレマス」とあったことを思い出し、節
子は唇をゆがめて笑う。
 噂といえば、あれほど変わり者ばかりのコキドーハイツの住人たちになんの噂もないの
はおかしい気がした。もちろんこれも化け猫と同じく、周囲の人が教えてくれないだけか
もしれない。とはいえ、知ってしまえばそれはさらにゲームをややこしくするばかり、と
いう可能性もある。
 通り抜けられそうにない思考の路地を歩んでいると、無性に目に見える敵が欲しくなっ
た。何も考えず、ただ倒せばそれで解決できるという明快さ。香奈には悪いが、現役の時
だって噂が現実化する前に封殺できたことなど一度もない。
 人の口に戸は立てられないもの。それならいっそのこと、今すぐにでも現実化してくれ
た方が楽だ。今なら、化け猫が実体化しても被害者は出ない。
 むしろ積極的に化け猫の現実化を促せないか。そんな考えを抱くようになるまで、たい
して時間はかからなかった。実体化する場所と時間さえ気を付けていれば、それが最も早
い解決につながる。
 とはいえ、方法が判らない。名前を付けてみる。うわさ話を口にしてみる、呼びかけて

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みる。猫たちが鳴き騒ぐ短い時間のあいだに、節子は思いつくことをあれこれと試してみ
た。しかし、成果は上がらなかった。
 働きかけを始めてから四日目のこと。いつものように巨大な化け猫の一撃をかわした節
子は視界の端で、いくつもの淡い影が揺らいでいることに気付いた。他の化け猫も、巨大
な化け猫と同じくらいに現実化しつつあったのだ。襲ってくる方に気を取られるあまり見
落としていたらしい。
 以前なら考えられない不注意ぶりに節子は軽く落ち込み、同時に焦りを覚えた。もし、
うわさ話のバリエーションの数だけ化け猫が現実化してしまったら、節子にも収拾がつか
なくなる。
 翌日、節子は思いきって香奈に相談してみた。前に叱られたせいで、なんとなく言い出
せずにいたのだ。
 話を聞き終えた香奈は少し考えてから、口を開いた。
「発想としては悪くないんじゃないの? それなら被害は出なさそうだし、予想も付かな
いようなタイミングで現実化されるよりはマシ。それにさ、あの鳴き声。早く終わらせて
くれないと寝不足で」
節子はうなずく。あの鳴き声はかなりの騒音だ。長い時間ではないが、それでも寝ている
ところを起こされると睡眠のリズムは乱されてしまう。ただでさえ不穏な予感で張りつめ
た人々に、寝不足はよけいな消耗を加えていた。
 それから二人は、あらためて化け猫について解っていることや考えたことを紙へ書き出
してみた。それを元にいい手はないものか検討する。
 やがて、節子は一つの可能性に思い至った。それは香奈に話せば止められそうなアイデ
アだ。だから節子は黙っていた。そして結局、それ以外に有効そうなものはどちらからも
出てこなかった。
 その晩のこと。節子はいつものように町内を巡回していた。ただし、変身している。奇
異な体が人目に付かないよう、節子は暗がりから暗がりへと足音を忍ばせて歩む。やがて
猫が鳴き出す。いつものように重たく、海鳴りのようなうねりを帯びている。
 遠くから足音が接近してくる。足音の主を引き離さぬよう、追い付かれぬよう、間合い
を取りながら節子は移動を開始した。化け猫が途中で消えたりしないか。それだけが気が
かりだった。
 目的地は狭い路地がひときわ錯綜している一画。四方をレンガ壁に囲まれた工場跡の空
き地だ。壁の前にはU字ブロックやスチールロッカーの残骸などが積み上げられ、子供で
も乗り越えられるようになっている。
 節子は助走を付けて壁を飛び越えると、野ざらしになった機械や資材がわずかに残る空
き地の中央で化け猫を待った。
 幸いにも化け猫は消えなかった。壁の向こうで足音が地を蹴り、着地と同時に節子へ詰
め寄る。
 節子はわざと、左腕だけを化け猫の前へ投げ出すようにしながら身をひねる。見えない
化け猫の一撃を受け、節子の左腕は跳ね上げられる。
 それこそが、節子の考えたアイデアだった。わざと傷つけられることで己の体に化け猫

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の痕跡を刻ませ、その痕跡を通して存在を世界にしっかり固定する。上手くいくかはわか
らなかったが、試してみる価値はある。
 節子は化け猫から跳躍して離れると、様子を見守ろうとした。そこで左腕が無傷である
ことに気付く。変身した節子の皮膚を裂くほどの力が、化け猫になかったのだ。完全に現
実化していないからかもしれない。
 しかたなく、節子はその場に立ちつくす。化け猫はすぐさま駆け寄り、無防備な節子を
襲った。
 肩、腹、頭、背中。どこが攻撃されても節子は傷つかない。せいぜい、少しよろめくく
らいだ。節子の中に焦りが生まれる。少しでも傷つけやすいように、わざと皮膚の弱そう
な部分を差し出す。それでも上手くいかない。
 生身の状態ならともかく、今の節子を傷つける力はまったくないらしかった。致命傷を
負う危険を覚悟して変身を解こうか。そう考え始めたときだった。
「大丈夫か!?」
声がしたかと思うと男が壁の上から飛び降りて、節子たちに向かって近付いてくる。汽一
郎だ。どこで買ってきたのか、両手持ちの大きなハンマーをたずさえていた。真新しい先
端がところどころ、月光を受けて白く見える。
「来ないで!」
節子は叫ぶ。猫の足音が汽一郎へ駆け寄る。ハンマーを構える汽一郎。しかし、無理があ
った。
 節子が止める間もなく汽一郎は最初の攻撃をもろに受け、吹き飛ばされる。ハンマーが
真下へ落ち、青草に受け止められて鈍い音を立てる。
 汽一郎を殺したという事実が、逆算して化け猫の実在を支える。変化はすぐに現れた。
空気の一部が不透明になり、漠然としたシルエットが収束して明瞭さを増していく。
 実在となった化け猫は、ただの巨大な猫ではなかった。毛皮は全くなく、顔は胎児のも
のを無理に猫の頭へ張り込んだようだった。胸から腹部を通って後脚のあいだにかけて、
普通サイズの猫の脚が無数に生えている。猫の脚はバラバラに宙を掻いていた。
 節子は汽一郎に視線を走らせる。地面に投げ出された汽一郎は胸から腹までを、服も皮
膚も区別なく切り裂かれ、圧力の弱まった血がしまりなく染み出していた。おそらく助か
らないだろう。
 節子は短く舌打ちをするだけで汽一郎を意識から追い出し、化け猫に注意を戻した。
 ボァオオォウウ――
 化け猫が吼えた。節子の方へ一歩、踏み出す。白っぽくのっぺりとした皮膚の下で、不
自然に絡まり合った筋肉がうごめく。
 いままでの経緯がなければ、それは怪獣と呼んだ方がふさわしかっただろう。これまで
の任務の中で、これほど怪獣らしいものを相手にしたことはなかった。
 いったいどんな馬鹿げた技術がこの怪物を可能にしているのだろう。組織を支えている
のは情報技学だ、という伊助の言葉を思い出す。それが何なのかは知らなかったが、たい
そう便利なものに違いない。
 先に動いたのは化け猫の方だった。背をたわめ、節子めがけて飛びかかってくる。さっ

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きよりも速い。かろうじてかわした目の先を、爪がかすめていく。
 強大な脚が慣性を殺している間に、節子は相手の懐へ飛び込むと拳をふるった。剛拳は
猫脚を粉砕しつつ、胸にめり込む。見えない部分まで生物である証拠に、大量の血が噴き
出す。化け猫は後脚で立ち上がり、前脚で節子を叩き殺そうとした。そのころにはもう、
節子は安全なところまで後退していた。
 弱い。そう思うと気が楽になった。見かけこそ派手だが、力でも速さでも技量でも、化
け猫は節子に及んでいなかった。
 猫は怒りと衰弱に瞳を曇らせ、節子を見た。胸からの血が、苦痛に乱舞するたくさんの
猫脚の先から地面にしたたり落ちる。
 化け猫が駆け寄ってくる。節子はかわす。化け猫はそのまま走り去り、壁の手前で勢い
を殺すことなく反転し、ふたたび節子へ突進してくる。節子も化け猫へ向かって走ると不
意に身をかがめ、次いで立ち上がりながら全身の力を乗せて拳を突き上げた。その一撃は
狙いどおり化け猫の下アゴを貫通し、上アゴを砕いて頭頂にまで達した。
 節子の腕は肩口まで化け猫の体内に埋まる。避けようもない血流が節子の灰白色の体へ
降りかかる。
 化け猫は何度か痙攣すると節子もろとも倒れ込み、動かなくなった。化け猫の下敷きに
なった節子は苦労して右腕を化け猫の頭から抜くと、外へ這い出た。
 絶命した化け猫の前で、節子は自分の体を見下ろした。血まみれで気持ちが悪い。右手
で左腕を撫でると、まるでローションのようだった。
 濃厚な血の臭いに嗅覚が麻痺している。ぼんやりとしたまま節子は腕を撫で回し、血の
感触を味わった。それからようやく頭をめぐらせ、汽一郎を眺めやった。
 汽一郎はさっき見たままの姿勢で血だまりに浸っている。戦いが済んで気がゆるみ、よ
うやく節子は恐慌状態に陥った。
 自分が一方的にやられていると勘違いして、汽一郎は命を落としたのだ。いくら久々の
戦いだからといって、普通の人間か近付いてくるのを察知できなかった自分のふがいなさ
を悔やむ。それと同時に、起きてしまったことの重大さで吐きそうになる。
 二つの死体のあいだで、節子は立ち尽くしていた。これからどうしたらいいのか、まっ
たく解らない。ただ、汽一郎の死を周囲の人々へ隠蔽したくてたまらなかった。
 と、汽一郎の胸がゆるやかに上下したようだった。節子は汽一郎のそばへ走り寄る。間
近で見ると間違いない。汽一郎は呼吸をしていた。それどころか、胸の傷も消えている。
「んん。お、おおおぁぁあ、あ」
うめきながら汽一郎は目を開け、体を起こした。節子を見上げる。目が合った。意識が定
まらないようで、汽一郎の目は焦点がはっきりしなかった。節子も混乱しきっており、そ
の視線は鈍い。
 汽一郎が先に我に返った。
「大丈夫、だったみたいだな」それから周囲を見渡し、化け猫の死体を見付ける。「勝っ
たのか」
またうめきながら立ち上がる。
「おい。しっかりしろよ。って言っても無理か」

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汽一郎はためらうことなく節子の両肩に手をかけると、名前を呼びつつ揺すった。
「あの、死んで、え?」
ようやく節子は声を出す。
「だから言ったろ? 俺は不死身なんだよ。そんなことより」
汽一郎は急に膝からくずおれそうになる。節子は慌てて体を支えた。
「短期間に二回もだ。さすがにちょっときついな」
節子の腕の中でそう言うと、汽一郎は目を閉じた。すぐに規則的な息遣いが聞こえる。
 気絶しただけのようだった。わけがわからないまま節子は背中に汽一郎を背負うと、コ
キドーハイツ目指して歩きはじめた。
 背中越しに汽一郎の血が染みてくる。気持ちが悪いとは思わなかったが、ともかく痒く
なってきた。節子は足早に通りを駆ける。二人のあいだに溜まった血が、湿った音をたて
た。

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第五章

 節子は意識の戻らない汽一郎を自分の部屋へ連れ帰ると、フローリングの床に寝かせ
た。すこし顔色が戻りつつあるようだった。傷も目に見えて浅くなっている。
 よく見ると、体の組織が形作られるているのが判った。植物の成長を早回しで見ている
ような、妙な感じだ。自分が変身するところに似ている。
 変身を解いて服を着るあいだに呼吸も安定してきた。普通なら傷口を洗って消毒した方
がいいのだろうが、急速に回復している場合にそんなことをすると、どんな影響が出るか
も解らない。
 けっきょく、節子は汽一郎の異常な快復力にすべてを任せることとして、部屋を出た。
 向かった先は伊助の部屋だった。ドアを壊さない程度の力で乱暴に叩くと、ややあって
伊助が顔を出した。寝ていたようで目は潤み、髪がハネている。
「どうした?」
節子は答えない
「入るか?」
「ええ」
節子は中へ入ろうとして、自分が化け猫の血にまみれていることを思い出した。目先のこ
とに気を取られ、すっかり忘れていたのだ。手で顔をこすると、乾いた血がかけらとなっ
て手に付着した。
 居間に入ると少し待つように言われ、伊助は濡らしたバスタオルを持って戻ってきた。
「まず血を拭くといい」
節子はタオルを受け取り、顔や手足を拭いた。お互いに、遠慮というものはない。タオル
はすぐ海老茶色に染まる。
「で、どうした? こんな時間に」
節子がタオルで血を落とし終える前に、伊助は口を開いた。
「化け猫を退治しました。工場跡の空き地です」
節子も髪を拭きながら答える。
「あー。そうか。ご苦労さん。よくやった。じゃあ、死体は処分するように俺から頼んで
おくから」
組織と戦っていたときと同じだった。現実化した存在や構成員の死体は、任務終了後に伊
助が専用の部門へ連絡して処理させるのだ。
 その部門の連絡先どころか、派遣されてくる処理班が政府のどこに所属しているのかさ
え、節子は知らない。
「問題が一つあります。汽一郎さんが大怪我をしました」
予想どおり、伊助はそう言われても落ち着いていた。
「どうせあれだろ? もうおおかた治っちゃったんだろ」
伊助は投げ遣りに言う。
「知ってたんですね。やっぱり。――どういうことなんですか?」
「どうもこうも。あいつは不死身なんだ」

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「でも。私だって伊助さんだって不死身なんかじゃないんですよ」
「それで?」
「だから、その。組織にだってそんなことできないはずです」
「ああ。あいつが死なないのは組織と無関係だ」
伊助はそう言うと黙り込んだ。明らかに面倒臭がっている。こういうときは黙っていれば
いるほど、面倒なことになると思わせるのが一番だった。
 なおも言いつのろうとする節子に向かって、伊助は手を振った。
「どうして不死身なのかは俺も知らないよ。ただほら、本人に聞くのが一番だろ。どうせ
もう起きてる」
それ以上の情報は引き出せないまま、節子は部屋から追い出されてしまった。仕方なく自
分の部屋へ戻ると、汽一郎が床に座り込んでいた。
「すまない。いや、ありがとう。化け猫があんなに素早いとは思わなかった。デカい奴っ
て普通は動きが鈍いはずだろ」
汽一郎の声はかすれていた。節子はコップに水を汲み、差し出す。汽一郎は一息にそれを
飲み干した。
「助かった。傷が深いとノドが渇いて」
「で、いったいどういうことなんですか?」
コップを受け取りながら節子は尋ねる。
「んー。不死身ってことだ。いや、そんな冷たい目で見るなよ。とりあえず、さ。風呂入
ってもいいかな? さすがにお互い血まみれで長話ってのも辛いし」
そこで、節子がシャワーを浴び終えたら汽一郎の部屋へ行くということになった。

 汽一郎が暮らす六〇三号室はほどよく居心地の良さそうな家具調度がそろっていた。き
ちんと片付いてはいないが、散らかっているというほどでもない。
 節子と汽一郎はダイニングテーブルを挟んで座った。テーブルの上には二リットル入り
のスポーツドリンクと、緑茶のミニペットボトルが置かれていた。
「よかったら、お茶どうぞ」
節子は緑茶のボトルを手に取った。
「さて、どこから話そうか」
汽一郎はそう言いながらスポーツドリンクのキャップを開け、ボトルへじかに口を付けて
飲んだ。喉仏が上下し、一度に飲み干してしまうのではないかと思われた。
 ややあってボトルをテーブルへ戻すと、汽一郎は口の端をぬぐって大きく息を吐いた。
「俺は、言ってみれば改造人間なんだよ。節子ちゃんや伊助さんと同じような。組織とか
いうのとは関係ないけど」
 汽一郎は生まれつき不死身だったわけではなかった。一〇歳のころに今のような肉体を
得たのだという。
 具体的にどういう処置をされたのかは、汽一郎自身にも知る手立てはなかった。ただそ
れ以来、どんな目に遭っても決して死ぬことはなく、傷はすぐに癒えてしまう。病気にも
ならず、体力的な限界も大幅に引き上げられた。

- 60 -
 伊助と出会ったのは一三歳のときだった。重傷を負い、意識不明の伊助が裏通りで倒れ
ているのを発見して忠春に報告したのも汽一郎だった。
「それでまあ、じいさんと俺とで伊助さんを手伝うことになった。で、俺は不死身だから
さ、何がどうなってるか判らない場所へ真っ先に行って、情報を集めるのが役目だった。
こう見えても頭の回転は速いほうだったし。ああ、そうだ。じいさんが俺の育ての親だっ
てのは、誰かから聞いてるか?」
節子はうなずいた。
「そうか。なら話は早い」
政府の支援を受けるようになってからも、伊助と忠春は汽一郎の存在を隠していた。不死
身の子供などという存在を政府に知られれば、ロクなことにならないだろうと判断したた
めだ。しかし、いつまでも隠せるものではない。三人は話し合いの結果、汽一郎を任務か
ら外すことで合意した。
「だから、その資料ってのは俺が死んだことになってから作られたはずだ。いや、俺のこ
とをそのまま報告したわけじゃない。二人が適当に協力者をデッチ上げたんだ。なんだっ
けな。組織の元構成員だった女が寝返ってとかそんなだったはずだ。もちろん何考えてん
だって話になったろうけど、だからって政府としては伊助さんたちを切るわけにいかなか
った」
その話は理解できた。節子に対しても政府の人間は、過剰なくらい気を遣っていた。節子
が疎外感で悩むほどに。
「誤魔化すのは簡単だったよ。組織のやることって異様なのが多いだろ。だから死体は消
え去ったとか喰われたとか。あれ? 任務中に消息を絶った、だっけか。とにかくそのこ
ろには政府が情報を集めるようになってたから、どのみち俺の出番はなくなってた。ノー
リスクでスリルのあることができて、わりと楽しんでたから残念だったけどな」
汽一郎は話し終えると、手洗いに立った。節子は聞いたばかりの話を頭の中で整理する。
遠くで新聞配達のスクーターが、停車と発進を繰り返している。もう四時だ。
 汽一郎が戻ってきた。
「肝心なことがよく判らないんですけど」椅子へ座った汽一郎に、節子は問いかけた。
「けっきょく、誰がどうして汽一郎さんを不死身にしたんですか?」
「あー。うーん。それはそれでまた長い話で……。またの機会とかじゃダメか」
汽一郎はしきりと両手で顔をこすっている。さすがに疲労と眠気が酷いらしくその顔はむ
くんでいた。窓の方に目をやると、カーテンの向こうはもう明るい。今は話したくない、
という気持ちもあるのだろう。
「すみません。お疲れですよね。判りました。また夜にでも。あ、最後に一つだけ、いい
ですか?」
「ああ」
「どうして、私を助けに?」
「ここが地元だから。やっぱり気になるもんでさ。毎日、様子を見てはいたんだ。それで
今日は節子ちゃんが苦戦してるみたいだったし。ま、正直に言って俺にとっては危険なん
て何もないからできることだけどな。怪我したってたいして痛みは感じないし」

- 61 -
汽一郎の口調には、当然のことだという雰囲気があった。そう言われると、節子は自分が
馬鹿げたことを尋ねているような気にさせられた。
「じゃあ、ありがとうございました」
節子はそう言うと部屋を出た。気持ちの張りが緩んだのか、汽一郎は見送りに立つことも
せず、だるそうに片手を上げるだけだった。

 早朝のしっとりとした新鮮な空気を吸って部屋に戻ると、血なまぐささが鼻についた。
床には乾いた血が拡がっている。窓を開け放ち、床の血を拭き終えて布団を敷くと、時計
はもう七時を回っていた。バイトのある日だったら、もう起きる時間だ。外では蝉が勢い
よく鳴き、陽光に炙られた風が部屋を抜けていく。
 布団に横たわったものの、節子はなかなか寝付けなかった。夏布団の下で何度も寝返り
を打ちながら、ぼんやりと浮かんでくる思考に意識を向ける。
 どうにもすっきりしなかった。ようやく化け猫を倒したというのに、今度は汽一郎が不
死身であることが判って、それで――それでなんだというのか。いったい自分はなにをし
たいのか。住民たちを巡るゲームなど放っておけば済むことなのに、いったい何に首を突
っ込もうとしているのか。
 そもそも、汽一郎が不死身だということが信じられない。最も不可解な技術を持ってい
る「組織」でさえ、そんなことは達成できなていないはずだ。いったいどこの誰が。
 汽一郎の話や、ここに来てから見聞きしたことを合わせると、候補者は絞られる。忠春
と昭平、あるいはその両者だ。忠春が汽一郎を引き取ったのが一〇歳以降のことだという
可能性も否定は出来ないが、香奈や汽一郎の口ぶりからするとその可能性は低い気がし
た。
 一番ありそうなのは昭平が汽一郎を不死身に変え、忠春がそれを黙認したという筋書き
だろう。それなら、あの二人がやけに互いを評価していたこともうなずける。
 すると、忠春や昭平も不死身なのだろうか。得体の知れない昭平なら、ありえること
だ。しかし、忠春は怪我や病気をやけに避けているという。不死身ならむしろ、そんなこ
とは気にしなくなるはずだ。一方で、香奈の語った「忠春は戦前からここに住んでいるら
しい」という話も、忠春が不死身だと考えれば事実となる。
 眠気が思考を満たしていく。いったい何がどうなっているのか、考えても整理できな
い。却ってややこしさが増すようだ。それでもどこかおかしいという気がしてならない。
その正体を特定しようとするうち、節子は眠りの中へと落ち込んでいった。


 目を覚ますと、インターホンが鳴っていた。部屋の中は暗い。時計に目をやると、もう
二〇時近い。節子は起きあがると、インターホンに出た。
「はい?」
「あ、伊助だけど」
「いま開けます」
節子は大慌てで布団を畳むと寝癖が立っていないことを鏡で確認し、着替えてドアを開け

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た。
「お疲れさん。よく眠れた?」
伊助は久し振りに夏物のスーツを着ていた。外出してきたらしく、そのせいか口調もどこ
となく愛想よく感じられた。
「はい。あ、はい。あの今日はその、どうして」
「いや、化け猫の死骸撤去が終わってな。立ち会いから戻ったところ。で、あちらさんが
お前に、報告書の提出をしに来いとさ」
立ち会いのことなど、節子はすっかり忘れていた。
「すみません。ありがとうございます」
「いや、いいって。俺はこれが仕事だから。じゃ、面倒だろうけど報告書、よろしく」
そう言って帰ろうとする伊助を、節子は思わず呼び止た。
「よかったら、寄っていきませんか? 立ち会いに行けなかったお詫び、というと変です
けれど夕飯でも、あ、そろそろ香奈さんも一緒なんですけれど、嫌じゃなければ、えっ
と」
自分でも日本語として変なことを言っている意識はあったが、言葉がきちんとまとまらな
い。気が付けば、やけに汗をかいている。
「あ、悪いね。じゃ、遠慮なく。で、何時くらいに来れば?」
伊助はすぐに答えた。断るのが面倒なだけなのだろうが、それでも節子は嬉しかった。
「二〇時ころに。ところで、立ち会いはどうでしたか?」
「いや化け猫っていうから小さいのを想像してたんだけど、かなり大きかったんだね。あ
やうく搬送車に乗らないところだった。確認しておかなかったこっちが悪いんだけど」
ネクタイを緩めながら伊助は言う。
 節子によって倒された怪人や噂が現実化した存在の死骸は、専門の処理班によって回収
されることになっていた。
 それは実際的な面よりもむしろ、地域の人々に一連の出来事が終結したということを認
識させる、象徴的な面が強かった。噂が現実化するプロセスの再発を防ぐためだ。
 そのため回収作業は数人の作業員とトラック一台で済むところを、わざわざ化学防護服
に身を包んだ二〇人ほどの人員と専用の搬送車を中心とした数台の特殊車両とで行ってい
た。
 もちろん現場はシートで覆われ人が近付かないように、それでいて遠巻きに眺めること
は出来るくらいの状態にされる。搬送車へ積み込むとき、アクシデントを装って一瞬だ
け、梱包シートから死骸の一部を覗かせることも欠かせない。
 伊助が帰ると献立を考えるために、このところ増えつつある料理の本を取り出して眺め
た節子だったが、顔がにやけてしまうのを抑えられなかった。今までも伊助に食事を作っ
たことはあったのだが、なぜだか真新しい嬉しさが感じられた。
 そこでようやく、化け猫退治という一つの仕事が終わったのだという実感も湧いてき
て、のびやかないい気分が節子を満たした。任務を終えてそんな感慨を味わうのは久し振
りのことだった。
 残っている食材を考慮しながらゆっくりと献立決めを楽しんでいると、携帯電話が鳴っ

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た。番号を知っているのは対組織の関係者か、香奈くらいのものだ。おおかた、報告書の
提出についてだろう。
 しかし、ディスプレイに表示されていたのは見知らぬ番号だった。いぶかしく思いなが
らも通話ボタンを押す。
「もしもし」
「ああ、節子さん?」
甲高く、ややかすれた声は昭平のものだった。
「昭平さん。どうして」
「調べたら判ったんでな。それで、今は空いてる?」
「ええ」
「ちょっと話があってな。部屋まで来てくれん?」
「はあ、あの、今から、ですか?」
「そうそう」
電話の向こうへ聞こえないよう節子は軽く溜息をつくと、うかがいます、とだけ答えた。
 通話が終わると、節子は着信履歴から今かかってきた電話番号に掛け直してみた。つな
がらない。あれこれと思い悩んでも仕方がないので、とりあえず部屋を出た。
 昭平の部屋はいつものように冷え切っていた。薬品の臭いが重たくよどんでいる。
「話ってなんですか?」
床へ腰を下ろすと節子は尋ねた。
「化け猫を退治しただろ。今日は死体を回収。それで、気になることがあってな」
昭平はそう言うと、節子へパソコンの画面を見るよう促した。
「これまでの資料をあれこれ手に入れて考えてみたんだけど――」
 昭平の話は、今回の事件についてのまとめと考察だった。それによると、今回の事件は
戦いの終結に間に合わなかった新技法が、遅れて発動したものに違いないということだっ
た。
 現実化の対象を一つに集約しないというその技法を、昭平は「複式噂話」と呼んだ。し
かも今回のことはただの試験的な作戦ではなく、伊助がここへ暮らしていることを知った
上でのものだろうという。確かに、偶然この地域をターゲットに選んだとは考えにくい。
「それにしては、やりかたが回りくどくないですか? 化け猫もこうしてあっさり倒され
たわけですし。実戦での検証なしに、こちらへの直接攻撃をしてくるとは思えないんです
けど。そもそも、なんで伊助さんなんですか?」
昭平はうなずいた。
「気になるのはそこでな。たしかに成功すれば効果的だったろうけど、実際には不発に終
わった。追い詰められて焦っていたとか、伊助くんの居場所しか突き止められなかったと
か、考えられることはあるんよ。でも過去の行動からすると、そんな拙速なマネはしそう
にない。とくに戦局の逆転を狙うんなら」
 そこで昭平が懸念しているのは、化け猫の件がたんなる目くらましなのではないか、と
いうことだった。
「資料に目を通して気になったのが、同一地域へ複数の噂話を同時に仕掛けられないとこ

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ろでな。なんでそんな制限があるのか知らんが、もし僕ならその制限を外すようにしただ
ろう。そしてそれは、成功すれば重要な戦力になる。こうした複数の噂話の展開を仮に多
連装式噂話と名付けたんだけれど、ひょっとしてそれが可能になったんじゃないか。もし
そうなら、化け猫は別の噂話を隠す覆いでしかないのかもしれない。ま、これは全部ただ
の推測でしかないけれど、ありえんこともない」
一気にそこまで話し終えると、昭平は節子の様子を窺った。
「それがいちいち本当なら、可能性はありますね。でも、それならもう、どこかで別の噂
話が出てきてるはずですよね」
「だからこその目くらましだろう。何か化け猫に気をとられて、見落としているものがあ
るんじゃないだろか」
節子は記憶を探ってみた。
「やっぱり、特にないようです。でも、昭平さんの言ったことは気になりますね。注意し
ておきます。もし、昭平さんの方でも気付いたことがあったら教えてください。ところ
で、どうして急にこんなことを?」
「そりゃあ、ここに住めないようになったら困るから」
あまりにも当然そうな口調も含めてその返事は、汽一郎がなぜ化け猫と戦ったのかという
ことに対する答えと似ていた。

 献立を決めて買い物をしているあいだも、節子の頭からは昭平のことが離れなかった。
どうやら昭平は「ヨ号組織対策委員会」のことは何でも簡単に調べられるらしい。
 いくらコンピュータに強いからといって、そんなマネが本当にできるのだろうか。それ
に、節子達の活動に対する飲み込みの早さも気になった。
 資料に目を通したと言っていたが、けっこうな量があるはずだ。それを読み、なおかつ
理解して傾向を把握することができるというのは現実的なことなのだろうか。
 汽一郎を不死身にした疑いもあるし、なにより昭平自身の不可解さも気掛かりだった。
 昭平はヨ号組織の生き残りなのではないか。そんな考えが浮かんでくるのも無理のない
ことだった。ヨ号組織が伊助の住んでいる場所を突き止めたのなら、そこへスパイを送り
込んでくるのは自然な気がする。もっとも、スパイにしては昭平は怪しすぎたが。逆に、
怪しすぎることで却ってスパイの疑いがかけられないようにしているのかもしれない。
 買い物を終え、夕食の準備をしていると伊助がやってきた。節子は伊助と雑談をしなが
ら、昭平のことを尋ねてみた。
「私たちのこと、昭平さんには筒抜けみたいですね」
伊助は牛肉のたたきに使う薬味をおろしていた手を止めた。
「知ってるよ」
「それって、問題があるんじゃないですか?」
「お前が報告すればな」
「知ってて、隠してるんですか」
「それは人聞きが悪いよ。えーと。目下、泳がせている最中だ。いずれ充分な証拠が集ま
れば、もちろん報告するさ」

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いかにも伊助らしい反応だった。節子はそれ以上、追求する気を失う。
「そもそもあの人、何者なんです?」
「さあ。五年くらい前に越してきたんだったかな。俺も向こうも部屋から出ないからね。
二回ほど顔を合わせただけだ」
「どうして私が急に昭平さんのことを尋ねたか、気になりませんか?」
含みを持たせて、節子は言う。
「いいや」
「ちょっと気になることがあったんです」
「ああ、そう。それより、姉さんは何時ごろ戻ってくるんだろ」
伊助があくまでも係わらずに済ませたいと思っているのは明らかだった。とはいえ、本気
で避けるのも面倒らしい。
 節子が無言で、繰り返しテーブルの上を叩くと諦めた顔をして伊助はうなずいた。そこ
で節子は昭平の話したことと自分の疑問を伝えた。
「複式に、多連装式ねえ。昭平さんが好きそうなことだ。ま、ありえないことはない。組
織が新しい技法の開発をあれこれ模索していたことは判ってたんだしね」
考えてみれば当然のことだったが、それは節子には初耳だった。任務遂行に直接必要な情
報以外は、あまり教えられていないのだ。
「たとえば、そうだな。噂の現実化を応用して死者の復活を研究していたフシがある。前
に拠点の一つを制圧したとき、焼け跡から死体が出てきたことあったろ」
それは節子も憶えていた。田圃の真ん中でその拠点は稼働していた。古ぼけた薬品工場を
装っていたが、実際にはヨ号組織の研究施設であることが判明したのだった。
 節子は委員会が招集した爆発物の専門チームと共同で、その施設を爆破した。事故によ
る爆発として処理されたその焼け跡からは、後に一体の焼死体が回収されたという。
「あの死体は検査の結果、お前がかつて倒した構成員と同じ個体だったことが判明した。
でまあ今さらクローンも何もないだろうということで、最終的には蘇生の実験体だったの
ではないかということになった。検査結果の地道な比較からも、それをある程度は支持す
るようなデータが出てきてね」
「もしそれが現実化してたら」
「負けることはなかったろうが、長引いただろうな。それよりも偉いさんたちが欲かい
て、殲滅よりその技術の入手を優先しだす方が心配だな」
伊助が言う「偉いさんたち」の顔が思い浮かぶ。いずれも伊助以上に老獪な人々だ。
「お偉いさんでなくても、私はその技術を手に入れようとしたと思います。家族を生き返
らせることができるなら」
特に深い考えもなく節子は言った。
「そうだな。そうかもな」
伊助は抑えた声で同意した。その様子を見て、節子は自分が口にした言葉の重さに気付い
た。伊助もそれは当然思ったはずだ。そして、あえて言わなかったのだ。
「あの、すみません。そういうつもりじゃなかったんです」
「いや、気にすることはない。ともあれそういうわけだから、昭平くんが言うことも充分

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にありそうだ。よって、節子くんには引き続き警戒を怠ることなく、これからの生活を送
ってもらいたい。なお、提出予定の報告書の頭へ『中間』の二文字を加える必要はないも
のと考える」
それきり、その話題は終わってしまった。
 ほどなくして香奈が帰ってくると、夕飯になった。香奈は回収作業を目にして興奮し、
化け猫が退治されたことを喜んでいた。香奈だけでなく商店会の誰もがそれを祝し、飲み
騒いでいるという。
 すでにフライングエイプ他、飲食店は「誰にも言えない記念」と銘打ってセールを開始
したそうだ。考え事に没頭していて節子は気付かなかったが、そういえば買い出しに出た
ときもどことなく商店街の雰囲気は明るかった気がした。
 いままで任務が終了すると速やかにその場を離れることとなっていた節子にとって、不
安が取り除かれ喜ぶ人々がいるということを身近に感じるのは、なんだか面映ゆかった。
香奈は上機嫌で節子を褒め、なにもしなかった伊助に冗談とも本気ともつかない説教をし
た。
 二人が帰ったころには、もう二三時を回っていた。節子は残っていた洗い物を片付ける
と横になった。汽一郎に話の続きを聞きに行こうかとも思っていたのだが、香奈の話から
すると今夜は戻ってこないのだろう。眠りに落ちる直前、節子が感じていたのは安堵でも
満足感でもなく、昭平の言葉の不穏な残滓と打ち消せない違和感だった。


 いつものように、仮くら井が暇な時間帯。節子と香奈の周りで、仮面にも床にも怠惰が
降り積もる。商店会は一時の高揚から、元の落ち着いた雰囲気に戻っていた。ゆびぬき通
りを覆っていた暗い影は消え、遠のきかけていた客足も回復していた。
「あのさ。ヒマなんだけど」
たるんだ声で香奈は言った。
「そうですね。お店がヒマっていうのはよくないですよね」
節子はノートパソコンから目も上げずに応えた。
「だから、そうじゃなくってさ。こういうときこそ、あんたの活躍を冒険活劇風に面白お
かしく語るときなんじゃないの?」
キーボードを打つ手を止めて、節子は香奈を見た。
「すみません。上手く話をまとめるのって苦手なんです。報告書だっていつも伊助さんが
最後に書き直してくれてましたし。そもそも、組織との戦いは喋ってはいけないことにな
っているんです」
「確かにね。ブログの方も少し長い話だと、いまいち要領を得ないときがあるし。その素
人臭さがいいわけだけど。で、今はなに書いてるの?」
香奈は立ち上がって節子の傍らへ歩み寄ると、パソコンの画面を覗き込んだ。
「えーと『私の目の前で店長さんが退屈そうにしています。こういうとき、私が話し上手
だったらいいんですけど。。。』って自分だけ可愛く思われようってまた。やらしーな
ー」

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「違いますって」
「じゃあ、証明してよ。たとえば、そう。血みどろの半生を語るとか」
「だから、それは無理なんです。――そういえば、香奈さんって私のことを自然に受け止
めてますよね。普通なら変身して謎の組織と戦ってました、なんてそんなに信じるものな
んですか? あ、伊助さんのことがあるから」
香奈は笑いだした。節子は不快そうな表情をわざと表に出す。
「今さらそんなこと言うなんて……」そこで再び香奈は笑いだした。「ごめんごめん。も
っと信じられないことだってあるからね。伊助のことだって普通に信じたよ。こう見えて
もほら、色々とあったから」
「信じられない、こと?」節子は香奈を見据えたまま少し考え込み、やがて慎重に言葉を
継いだ。「ひょっとして、汽一郎さんのこと……」
「うん? あ、そう。そうなんだ?」
「香奈さん、知ってたんですか」
「まあ。でも、勝手に喋るのもちょっとね。驚いたでしょう? 汽一郎があんな」
節子はうなずく。
「やっぱり、忠晴さんや昭平さんが係わってるんですか?」
「いや、私もくわしく聞いたわけじゃないし。あんたはどうして知ったの?」
節子は化け猫と戦ったときのことを語った。
「なるほど。ここを守るために、か」
話を聞き終えた香奈は、感慨深げに呟いた。
「ええ。昭平さんもそんなことを言ってました。他に行き場がないから、ここがなくなっ
たら困るって。香奈さんも?」
「そりゃあね。生まれ育った場所だから。それに、実は長いこと捜してる人がいてね、ど
うもその人がこの近くに住んでるみたいで。だから、そういう意味でもここがなくなると
困る」
「捜してる人」という言葉を香奈は何気なく使ったが、そのとき一瞬だけ、顔の筋肉が不
自然に動いたのを節子は見逃さなかった。もの問いたげな節子の沈黙に気付き、香奈は軽
く微笑んだ。
「大事な人なんだけど、もう長いこと会ってないからさ。ひょっとしたらもう会っている
のかもしれないけれど、顔とか仕草じゃたぶん分からないと思う」
「じゃあ、その人は香奈さんのこと知らないんですね」
「たぶん、私が私だって気付いてないんだと思う。もし会ってたとしてもね」
その寂しげな口調に、節子はなんと応えればいいのか判らなかった。
「汽一郎が不死身って、それはさすがに考えもしなかったけどね」
香奈は重たい空気を打ち払うように、大げさな声を出した。節子は同意しかけて、嫌なこ
とに思い至った。
「ひょっとして、香奈さん。汽一郎さんが不死身だってこと」
「ごめんね。知らなかった。もっと別の秘密だと思ってて」
真顔だが、笑いそうになる頬を目元が抑え込んでいる。節子は香奈が、意図的に知ってい

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るような素振りをしていたのだと確信する。
「騙したんですね」
香奈は言葉に言葉を重ねて、それを否定する。それが余計に嘘くさい。
「それで、汽一郎が不死身だって話のどこに忠晴さんと昭平さんが出てくるわけ?」
節子を丸め込めないと悟ったのか、香奈は開き直って尋ねてきた。節子はもうどうでもい
いような気がして、汽一郎の部屋で聞かされたことを香奈へ伝えた。
「だからつまり、汽一郎さんが不死身になったことに、あの二人が係わっている可能性は
高いんじゃないかと。あれ? 香奈、さん?」
香奈は節子の話を聞いていなかった。考え事に没頭している様子だ。いつもの自信に満ち
た雰囲気とは違い、指先を唇にあてがって考え込んでいる姿は神経質そうだった。
 しばらくして、香奈は顔を上げると節子を見据えた。ひょっとしてまた一歩、厄介ごと
に踏み込んでしまったのではないか。節子はそんなことを思いつつ、とりあえず愛想笑い
を浮かべてみせた。


 節子はコンビニの前に立っていた。買ったばかりのカップアイスを一口食べる。冷た
さ、甘さ、柔らかな小豆の抵抗感。すべてが灼熱の立ち上る眼前のアスファルトと見事な
対比を生み出していた。
 無心でアイスを食べていると、忠晴が通りかかった。忠晴も節子に気付き、足を止め
る。
「買い食いかい?」
「ええ。忠晴さんはお出掛けですか?」
節子は努めてにこやかに言った。
 汽一郎の不死身化と関係しているかもしれないと知ってから、どうも忠晴に対して気持
ちの上で構えてしまうところがあったのだ。
 そうとも知らず忠晴は、首から提げたタオルで顔を拭うとうなずいた。
「急ぎの用じゃ、ないんだけどね。そんなことより、暑いからって冷たいものを食べるの
は感心しないなあ」
なぜそんなことを言われるのか解らず、節子は首をかしげた。
「とにかく色々あって、体を冷やすのは健康によくない」
節子は余計に戸惑った。常人を超える頑健さを備える、自分の結構を気遣うことなど意味
がないからだ。忠晴もすぐそのことに思い至り、苦笑した。
「そうか。節子ちゃんはそんなこと気にする必要なんてないんだったな。いや、歳を取る
と健康でいるのもそれなりに大変でね。まるで健康に気を遣わないことが礼儀にでも反す
るように見えていけない」
「そんな。忠晴さんはお元気そうじゃないですか」
「なに。日頃の摂生のたまものだよ。そりゃもう、涙ぐましいくらいの」
アイスをもう一口食べると、節子は少し探りを入れてみることにした。
「汽一郎さんも人並み以上に丈夫ですよね。夜あんなに働いてるのに、管理人の仕事もし

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てるんですから。意外と汽一郎さんも健康法とかに詳しいのかも知れないですね。血がつ
ながらなくてもやっぱり親子だと、似てくるとか」
「親子? それは誰から?」
「伊助さんが」
忠晴は溜息をつくと、タオルで首筋をこすった。
「時間はあるかな? よかったら、駅まで来ないか」
節子はうなずくとアイスの残りを急いで食べた。二人は並んで歩きだす。
「隠すつもりはなかったんだけれど、親子と言うには中途半端な関係でね。それに、普段
から顔を合わせるとお互いにあのとおりだ。言い出しづらくてな。あいつは、節子ちゃん
が知ってることは?」
「知ってます」
「なにか言ってたろ」
「いえ、特には。ただ、そうなんだよ、って」
「そうか」忠晴はそこで少し言葉を切り、再び話しはじめた。「いつの世もそうだし、私
も人のことを言えた義理じゃないんだが、親の心を子供は知らないものでね。良かれと思
ってしたことを、疎ましく感じたりする」
それは、不死身にしたことですか? 節子はよっぽどそう尋ねようかと思ったがやめた。
まずは喋るだけ喋らせた方がいい。
「私はあいつに、できる限りのことをしてやった。なのにどうだ。誰であれ感謝するのが
当然の恩を受けたのに、あいつはそれを仇で返した。親子だから、では説明がつかないく
らいに。まったく理解できない」感情が高ぶっているのだろう。わずかに声が震えてい
た。「感情的になるのはいかんな」口調をやわらげ、忠晴は言った。
正直に答えてもらえないだろうと思いつつ、節子はいったい汽一郎がどんなことをしたの
か尋ねてみた。
「そうだな……」
忠晴は手近な路地へと入っていった。そして充分に表通りから遠ざかると、そこで立ち止
まった。両側に迫った建物の落とす影は、まるで忠晴自身の暗い側面が滲み出たようだっ
た。
「あいつは、コキドーハイツに放火したんだ」
予想外の言葉に、節子は思わず聞き返してしまった。汽一郎がそんなことをするとは、ど
うしても信じられない。
「驚くのも無理はないが、本当のことだ。あの建物にはもともと地下蔵があったんだが、
そこに石油をまいて火を放った。火は地上へ回る前に消し止められたが、もう少しで私も
焼け死ぬところだった。それに、地下は完全にダメになってしまってね。あそこには先祖
伝来の掛け軸やら店頭に出してない商品やら大切なものが色々とあったのに、埋め立てる
しかなかった」
「それ、犯罪ですよ」
自分でも間抜けな感想だと思ったが、他に言葉が浮かばない。
「警察に連絡できるわけがないだろう。血縁上も戸籍上も無関係だとはいえ、私が養父で

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あることはみんなが知っている。悪い噂を立てば、仕事まで失いかねない。それに、い
や、それに」
言いさして忠春は口をつぐんだ。節子は核心へ一気に踏み込む。
「知ってますよ。汽一郎さんが不死身なのも、伊助さんや忠春さんのことを手伝っていた
のも。だから、調べられたくなかったんですね? 調べられたら第三の協力者が誰なのか
も、その人がまだ死んでいないことも、バレるかもしれないから」
忠春はうなずいた。頭の動きにあわせて、顔の表面を深い影が上下にすべる。
「誰から聞いたのかは問わないでおこう。それは些末なことだ。重要なのはどこまで知っ
ているのか、だ。とはいえ」忠春は腕時計を見た。「そろそろ行かないと。続きはまた」
そう言って忠春は節子の横を抜け、歩き去ろうとした。
「待って。ひとつだけ、教えてください」
忠春は足を止めた。
「ああ。どうぞ」
「どうして、そんな話を?」
忠春は背筋を伸ばし、正面から節子を見据えた。そして軽く左手を曲げ、胸にあてがう。
「なぜって。そりゃあ汽一郎から、奴に都合のいい話だけを吹き込まれて、本気にしたら
困るからだよ。信じられないだろうけれどあいつはまだ、私のことを狙っているんだ」そ
こで左手をおろす。「こんな話に付き合わせてしまって、悪かったね」
忠春は会釈をし、今度こそ止められることもなく立ち去った。
 残された節子は任務中にも感じないような疲労を覚え、壁に寄りかかった。まだ、そこ
ここに忠春の気配が残っているようだった。節子は目を閉じ、それを遮断する。
 忠春が語った内容を思い返す。やはり、そのまま信じて受け容れることはできなかっ
た。もしすべてが事実なら、あれほど長い期間、同じ建物で暮らすことなど無理ではない
だろうか。
 それに喋っていたときの忠春は、怨みや憎悪を押し隠しているふうでもなかった。むし
ろ節子になど想像もできない、もっと遠い所から来る何かに感情を委ねていたような気が
した。その「何か」がなんであれ、単純に「殺されかけた」という以上の事情がそこに存
在することを窺わせた。
 疲労に誘発されたのか、無気力さが足元から這い寄ってくる。節子は目を開け、表通り
へと出た。視神経を引き絞るような強い光が、辺りを豊かな陰影で彩っていた。空気は澱
むことなく流れ、寒かったわけでもないのに節子は身震いをした。
 
 部屋へ帰ると、節子は窓を開け布団を敷いて横になった。体が重い。体だけではない。
コキドーハイツへ越してきてから、何もかもが節子を圧してくるようだった。
 新しく知り合った人々は、誰もが好ましく思えた。そうした人達と関係が深まることは
少しも苦ではなく、むしろ快いほどだった。
 それなのにその人達同士を結びつけているものが節子を絡め取り、重圧の中へ引き入れ
てくるのだ。折り重なった関係の網は、これまで薄い人付き合いしかしてこなかった節子
にとって、手に負えないほどの複雑さを持っていた。

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 ぼんやりと天井を見上げる目の端に、涙がにじんだ。どうしようもない無気力感と、無
気力感へ総てを任せられない苛立たしさ。そして、そんな自分を情けなく思う気持ち。い
ったい何をどうすればいいのか少しも解らない。
 いつの間にか節子は眠っていた。ドアを叩く音で目が覚めた。部屋の中は暗い。ドアを
開けると、香奈が立っていた。まだ寝ぼけているのかその姿が一瞬、影に包まれて立つ忠
春と重なって見えた。
「どうしたの? 夏風邪でもひいた?」
事情を知らない香奈は、気遣わしげに言った。その率直な態度が、今の節子にはことのほ
か嬉しかった。
「すみません。昼寝をしていたらこんな時間に。あの、すぐに何か作りますから」
一眠りしたからか、気持ちはずいぶん落ち着いていた。
 ビールと昨夜の残りの枝豆を香奈に出すと、節子は夕飯の支度に取りかかった。冷凍庫
にご飯があったので、とりあえずそれを解凍しつつタマネギの皮をむく。チャーハンと簡
単な中華スープを作るつもりだった。
 香奈は相変わらず物思いに沈んでいるらしく、あまり喋らない。電子レンジのファンが
回る音だけが、低くなり高くなりしつつ部屋の中に響く。
「コキドーハイツに昔、地下室があったって本当ですか? 火事で焼けちゃって埋め立て
たって聞いたんですけど」
タマネギを刻みながら節子は尋ねた。確かめずにいられなかったのだ。
「え? なんて?」
口元にあてがっていたグラスをテーブルへ置くと、香奈は聞き返した。節子は同じ言葉を
繰り返す。
「ああ。地下室ね。あったよ。それがどうしたの?」
「いえ、もう少し聞かせてください」
香奈は少し怪訝そうだった。
「えっと、そのころはまだマンションにもっと人が住んでて、地下室はお店の倉庫とかだ
ったはず。それが燃えちゃってさ。倒壊しないように埋め立てたんだけど、やっぱり不安
になってほとんどの人が引っ越してったんだよね。商品は燃えるし家賃は激減だしで大変
だったんじゃないかな。それで今は空き部屋を倉庫として使ってるわけ」
「それって、原因は」
「空調の故障だって。骨董品は温度とか湿度の管理が重要でしょう? それで空調設備を
入れてたんだって。一番下にボイラー室もあったらしいし。その電気系統が」
「一番下?」
「マンションの地下って五階くらいまであったらしいんだよね。誰も確かめた人はいない
けど」
そう言うと香奈は手を伸ばし、一晩たってややしなびた枝豆を取った。
「地下室っていうからもっと小さい部屋があるだけかと」
電子レンジが鳴った。節子はドアを開けてラップにくるまれたご飯の表面に触れ、具合を
確かめる。触れたところから熱が伝わってきた。

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「ま、噂だけど」
「でも、それなりに根拠があるんですよね?」
「根拠というか、防空壕がどうこうっていう……。そういえば、その辺はあんまりちゃん
と聞いたことない。だいぶん昔からある話なんじゃないかな。で、さっきもきいたけど、
地下室がどうかした?」
「いえ、別に。ただ地下室があったって忠春さんから聞いただけです。ひょっとしたら無
事だった骨董品が気付かれずに埋まってるかも、みたいな話だったんですけど」
「なるほど。たしか現場検証して、すぐに埋めちゃってたからね。熱で鉄骨やら壁やら、
かなり傷んでたろうし。そう考えると住んでた人たちがすぐ引っ越したのだって、避難勧
告があったのかも。あーっ、でも貴重な能面なんかが焼けちゃったかもしれないのか。も
ったいない」
いつもと同じ調子で喋っている香奈だったが、やはりなにか違うことに気を取られている
らしく、話はそれ以上ふくらむことなく終わった。節子も料理の続きに取りかかる。いつ
の間にか、外では雨が降りだしていた。ときどき雷の音も聞こえる。
 手を動かしながら、節子はまた噂というものについて考えていた。ある種の噂は時間の
経過とともに経緯や背景が省略されていく。やがて端的な結果のみが残り、後から知った
者にはまるで固定的な事実であるかのように映る。
 コキドーハイツの地下が五階まであったという話も、結局はそういうことなのだろう。
香奈でさえ地下が五階まであったこと、それが噂にすぎないことは知っていても、その理
由はよく知らない。
 香奈より下の世代であれば「コキドーハイツはかつて地下五階まであった」ということ
しか知らない可能性もある。そして経緯や背景を知る者がいなくなったとき、噂は事実と
して扱われるようになるだろう。
 地下室の火事は電気系統のトラブルが原因だ、という話だって元は噂話だったのかもし
れない。それどころか原因についての噂は他にもあり、時間の経過とともにそのうちの一
つだけが今に残っているという可能性だってある。
 そうしてみると、ゆびぬき通りやそこに住む人々について節子が知っていると思ってい
ることにも、元は噂話だった内容が含まれているのかもしれない。だが、節子にはそれを
判別することができない。
 節子はフライパンに油を入れると、コンロの火をつけようとした。ひときわ大きな雷鳴
が轟き、明かりが消える。節子はブレーカーの様子を見に行ったが、特に落ちてはいなか
った。
「停電みたいです」
香奈に声を掛ける。
「大丈夫。このマンションは非常用の自家発電システムがあってさ。停電すると自動的に
そっちへ切り替わるんだって。珍しいよね」
節子の居場所が把握できないからだろう。香奈は普段よりやや大きな声を出している。
「やっぱりお店があるからですか?」
「うーん。たぶん」

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しかし、待ってみてもなかなか電気は復旧しなかった。
「非常用の発電システムって、動き出すまでけっこう時間がかかるんですね」
「前に停電だったときはもっと早く復旧したんだけど」
空気がだんだんと暖まり、澱んでくる。息苦しさを感じ、節子は部屋の窓を開け放った。
外から濃厚な雨のにおいが流れ込んでくる。
 香奈の携帯電話が鳴った。電話に出た香奈は少し話すと、すぐに節子を呼んだ。
「忠春さんが替わってって」
携帯電話のディスプレイから発せられる光が、香奈の横顔を浮かび上がらせている。灰色
から黒へ。柔らかな影のグラデーションが香奈の顔を彩っていた。つかの間、節子は香奈
に見惚れると電話を受け取った。
「もしもし、替わりました」
「節子ちゃんか? すまないけれど昭平くんの部屋の前まで来てくれないか。今すぐ。事
情は、ああ…、後で話す」
節子はすぐに応じると電話を切った。唐突な呼び出しには慣れている。こんなときはとり
あえず出向くのが一番効率的なのだ。
「忠春さんから、昭平さんの部屋の前にすぐ来てほしいって言われました。香奈さんはこ
こにいるか、部屋に帰るかしてください。鍵は開けてても大丈夫ですから。すみません」
節子は香奈に携帯電話を返しながら早口に告げると、部屋を出た。
 昭平の部屋の前まで行くと、ドアの所に大きな懐中電灯を持った忠春が立っていた。カ
ーディガンを羽織っている。昭平の部屋が寒いせいだろう。
「助かった。悪いが隣の部屋に大きな四角い缶と丸い缶があるから、それを持って昭平く
んの部屋の風呂まで来てくれないか。鍵は開いてるから」
節子は何も尋ねず、忠春の言葉に従った。
 部屋の中には資材や段ボールなどがいくつも積まれていた。暗闇の中でも、節子の目は
素早く頼まれたものを見つけ出した。一斗缶というのだろうか。節子にとってはそうでも
ないが、かなり重たい。両手に一つずつ持ち、昭平の部屋へ向かう。
 室内は相変わらず涼しかった。ただ、いつもほどではない。ここもでも、空気はどこか
濁って感じられた。
 風呂場のガラス戸は締め切られていた。その向こうで懐中電灯の光がせわしなく揺れ動
いている。節子は戸を開けた。途端に今までよりも強く、薬剤の臭いが節子の鼻を衝い
た。
「これをしなさい」
声がしたかと思うと、忠春から何かを押しつけられた。マスクとゴーグルだった。装着す
るとやや息苦しかったが、臭いはだいぶん軽減された。
 洗い場の奥に、大きな古い送風機のようなものが設置されていた。そのせいで狭い浴室
はろくに使えないほど狭くなっていた。そして浴槽には昭平が座っており、服を着たまま
液体に浸かっている。
意識がないのか昭平は目を閉じ、力無く浴槽の壁に体を預けている。
「この長靴を履いて、中に入ってくれ」

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忠春はそう言うと履いていた長靴を脱ぎ、節子と場所を入れ替わった。そして缶を受け取
ると床に置いてあった工具でその蓋を開け、節子へ返した。
「両方の中身を浴槽へ開けてくれ。それが済んだらまた隣から同じものを持ってくる。浴
槽からあふれてもいいから、とにかくどんどん缶の中身を浴槽へ入れるんだ」
節子は言われたとおり二種類の液体を浴槽へ注ぐと、再び隣の部屋から同じものを持って
きた。そうして忠春に蓋を開けてもらい、また中身を浴槽へ足す。
 どういう化学反応なのか、缶の中身を浴槽へ空けるたび周囲の温度は急速に下がってい
った。送風機のような機械も、浴室の壁や天井も霜で覆われていく。息に含まれる水分が
マスクのふちで結露となり、節子は痒みを覚えた。
 そんな薬剤に浸かっていて昭平が無事でいられるとは思えなかったのだが、まさか殺す
ようなことはしないだろう。とはいえ、ぐったりしたまま一向に動かない昭平は、もう死
んでいるようにも見えた。
 何度か往復かしたところで、明かりが灯った。缶を持って廊下へ出たところだった。蛍
光灯が一斉にまたたいて、ぼんやりとした鈍い光を周囲へ投げかける。
 昭平の部屋へ入ると、浴室から低い稼働音が聞こえた。忠春が機械の前に立って何かを
しているのが見えた。
「あの、これ」
節子は両手の缶を掲げてみせる。
「ああ、とりあえずその辺に置いておいてくれ。ありがとう」
節子は廊下のすみに並べられた空き缶の列から少し離れたところへ、持ってきた缶を置い
た。忠春が浴室から出てくる。
「本当に助かった。これでとりあえずは大丈夫だろう」
マスク越しのくぐもった声で、忠春は言った。いつの間にか、両手には革の手袋がはめら
れていた。
「それはいいんですけど、そろそろ説明してもらえませんか?」
「ああ……、そうだな」忠春は浴室を見やる。「ここは薬品の臭いがひどい。私の部屋へ
行こう」
忠春の部屋は職業柄、家具調度がどれも骨董品だった。決して広くはないが、居心地よく
整えられている。
 忠春が窓を開けると、うまい具合に往来の風が部屋の中を通り抜けていく。寒すぎる昭
平の部屋と蒸し暑い廊下とを行き来していた節子には、ほどよく乾いた空気が心地よかっ
た。
 忠春は節子から手袋やゴーグルなどを受け取ると、どこかへそれを片付けに行った。少
しして、お盆へグラス二つを乗せて戻ってきた。グラスの中には麦茶が満たされている。
「夏だからって冷たいものは体に悪いからな」
言葉のとおり、忠春から渡されたグラスはぬるかった。
 二人は向かい合って座ると、ゆっくり麦茶を飲んだ。焦げ臭くなる寸前の、深い香ばし
さが体に浸透する。まとわりついていた薬品の異臭が、風に吹かれて少しずつ薄れていっ
た。

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 忠春は目を細めて軽く両眉を持ち上げ、口元を僅かにこわばらせていた。ふてくされて
いるようにも、虚脱しているようにも見える。
「あれは、なんだったんですか?」
一向に喋ろうとしない忠春へ、節子は尋ねた。忠春は大きく息を鼻から吐いて、口を開い
た。
「昭平くんは、世界的にもまれな病気にかかっている。体が徐々に腐敗していくんだ。ム
ニョスという医者がアメリカで研究していたらしいんだが、今のところ治療法はない。だ
から、部屋を冷やして腐敗の進行を抑えている。もっとも、対策はそれだけじゃないが」
「じゃあ、パソコンを冷やすためって言われたのは」
「さあ。パソコンも冷やした方がいいのかもしれないな」忠春は机の表面を手のひらで撫
でながら、ゆっくりと語った。「この建物は自家発電を備えていてね。停電の時はそちら
へ切り替わるはずなんだが、どうも故障していたようだ。そこで、室温が上がる前に昭平
くんを冷やす必要があった。そこで、乱暴ではあるが冷却装置に使う薬剤へじかに浸から
せたというわけだ」
節子は昭平が以前、ここより他では生きていけないと言っていたことを思い出した。
 もし忠春の話が事実なら、確かに昭平にとってここより生きやすい場所はないだろう。
それは汽一郎や伊助、そして節子自身も同じだという単純なことに気付く。ならば、自分
がわざわざ掻き乱さないほうがいい。
 話は終わったということなのか、忠春は何も言わず麦茶の残りを飲んでいる。しかし、
節子の方ではまだ問いただすことがあった。
 いま気付いたばかりのことが決心を鈍らせる。ただ、放っておくにはあまりにも気がか
りな内容だった。決断はすぐに下された。
「昭平さん、脈が止まってましたよ。呼吸もしてなかったし」
忠春は意外そうな表情を作ろうとして数瞬の迷いに捕らわれ、けっきょく深いため息を吐
いた。
「忠春さんが目を離したときに確かめてみたんです。その、死体にしか見えなかったか
ら」
忠春は無言だった。
「嘘をつかれても、隠し事をされても、私はいいんです。仕方ないこともあると思ってま
すから。でもはっきり解ってしまうと、さすがに少し、辛い、です」
喋りながら節子は、自分でも意外なほど気持ちが高ぶるのを感じて動揺した。声が震えな
いようにするのが精一杯だった。
長い沈黙を経て、忠春が口を開いた。
「心配しなくても、昭平くんは死んでない。温度にさえ気をつければ、彼は死なない。い
や、違うな。どう説明したものか――」忠春は空になったグラスを見つめて、考え込ん
だ。「これから話すことが、信じてもらえるかどうかは解らない。ただ、節子ちゃんなら
信じてくれるかもしれないな。さっきの話も、まったく嘘というわけじゃないんだ。昭平
くんはある意味、病を患っているようなものだ。ムニョスという医学者がその病について
研究していたというのも本当だ。志半ばにして、その病に倒れたというが……。実は私

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も、同じテーマを研究していたことがある」
「不老不死の研究、ですね?」
「知ってたのか」
忠春は意外そうに言った。節子は自分がそう考えるに至った経緯を説明した。
「そうだったのか。知られているは思ってもみなかったが、まあ今となってはかえって話
が早い」
 忠春の話によると、昭平はもともと大正の生まれで、優秀な医者だったのだという。開
業医として実家の病院で働く傍ら、彼はある研究を行っていた。
 それは、不老不死を実現するというものだった。といっても、いたって善良な医師であ
った昭平は、怪我や病に苦しむ人々を救いたいという素朴な動機から不老不死に関心を持
ったのだそうだ。
 何年もの研究の末、昭平はある可能性を発見した。幾度かの動物実験で自信を深めた昭
平は自分を素材にして、最後に人体実験を行った。患者を実験台にすることは最初から考
えていなかったという。
 実験は、昭平の望んでいた結果をもたらさなかった。
「彼は確かに老いもしなければ、病気や怪我、飢えや渇きで死ぬこともない。当たり前の
ことだ。昭平くんの肉体はとうに活動を停止しているのだからな。いわば、死んだ肉体で
意識活動だけが続いているという状態だ。それを生きていると呼べれば、だが。だから、
それこそ生ものと同様、冷蔵しておかなければ彼の体は腐敗してしまうのだ。さらに、そ
れだけではたいして保たないから、定期的にある種の防腐剤を接種する必要もある」
 昭平は自分の見に何が起きたのかを悟ると、絶望しつつも生き延びるために、そして陥
った状況から脱却するために、研究を続けた。しかしなかなか成果は上がらなかった。電
力の供給も今より不安定で、何度も死にかけたという。
「そして、どこでどう聞きつけたのか、私の所へやってきた。私が不老不死の研究をして
いたことは知っているだろう? 汽一郎の奴がそれらしいことを言っていたよ。いやい
や、いいんだ。どのみちいつかは知られるだろうと思っていた。私は同じ目標を目指す同
志として、彼の研究に興味を持った。そして、その知識と引き替えにここで彼を保護する
と約束した。実際、彼の研究は大いに興味深かった。その理論には驚嘆させられたよ。彼
自身は自分の研究が失敗したと思いこんでいるが、私は違うと考えている。彼は彼なりに
成功したんだよ」
「どういうことですか?」
「どうしても、彼の理論では死んだ肉体によって不老不死を達成する以外の結果になりそ
うな気がしないんだ。だから、彼の理論はすでに完成している。洗練することはできて
も、そこからいまの問題は解決できないだろう、ということだ。つまり、袋小路に入り込
んでいるという意味だな」
それは、本当ならば絶望的な状況だった。
「そもそも彼や、同じような理論を追求していた人たちには、共通した誤解がある。不老
不死とは元来、不老と不死とに分けて考えるべきだ。ところが昭平くんは、まるでそれら
が一対であるかのように思いこんでいたんだ。簡単な話だよ。不老とは、細胞が細胞を生

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み出す力を永遠に失わないということだ。一方で不死とは、怪我や病気といった致命的な
事態を無効とすることだ。それぞれに必要な仕組みはまったく違う。それに、生きている
とはどういうことか、死ぬとはどういうことか、そういった前提条件の立て方にも問題が
あった。今後、彼の理論の問題点が克服される可能性はある。険しい道だけれどね。今じ
ゃ昭平くんはパソコンに熱中しているが、あれも進展しない研究から逃避しているという
面がある。かつてにくらべれば、いまここはずっと死ぬ危険が低い。だからようやく他の
ことに熱中できるという事情もあるけれどね」
耳を傾けていた節子は、そこで口を開いた。
「じゃあ、昭平さんはあのまま?」
「そうとも言い切れない。たとえばそう、死んだ肉体を復活させるという手もある。どう
やって実現するかは想像もつかないがね。これまでの経験から来るカンだが、不可能とは
いえないだろうな。そのうえで私の研究を適用すれば、あるいは」
節子はその言葉に、少しだけ安心する。引き返す道が残されているだけでも、昭平は運が
いい。たとえわずかな望みでも、ないよりはマシだ。
「まるっきり信じられない、ということはありません。私や伊助さん、それに汽一郎さん
のこともありますし。急に全部を信じることは難しいですけれど。それにしても、どうし
て急に?」
忠春の返答は早かった。
「そりゃあ、誤解されたくないからだよ。彼の呼吸や脈が止まっていることに気付かれた
以上、嘘をつき続けようとすれば厭な憶測をされそうだったからね。そもそも私はべつに
悪人じゃない。最初に誤魔化そうとしたのも、余計な混乱や気遣いを避けたかっただけな
んだ。悪かったね」
「いえ、私が同じ状況だったら、やっぱりなるべく知られないようにしたと思います。だ
から気にしないでください。それより、今日は遅くまでありがとうございました」
時刻は〇時に近かった。
「一日くらい夜更かしをしてもいいだろう。とはいっても、さすがに眠たいな。それに疲
れた」
忠春は大きく一つあくびをした。節子はあらためて礼を述べると、忠春の部屋を後にし
た。

 部屋へ戻ると電気が灯っていた。滅多に使ったのことのないテレビの前で、節子がゲー
ムをしていた。自分の部屋から勝手に持ってきてテレビにつないだらしい。傍らには空の
グラスとアイスクリームの容器が置いてあった。
「遅かったじゃない。待ちくたびれた」
画面から目を離さず、香奈は言った。不機嫌そうだった。
「すみません」
節子はつい謝ってしまった。自分のせいではなかったが、香奈に言われるとなんだか自分
が悪いような気がしてくる。
 節子は冷凍庫からカップアイスのバニラを取り出すと香奈の隣に座り、画面を眺めた。

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気味の悪い日本家屋の中を、女の人が歩いている。ゲームをしない節子には何をしている
のかよく解らなかったが、薄暗く広大な屋敷の映像はなかなか雰囲気があってよかった。
 何をしていたのか、間違いなく香奈から尋ねられる。そうなったとき、いったいどう答
えればいいのだろうか。節子はそんなことを考えながらアイスのフタを開けようとした。
「待った」
香奈の声に、思わず手が止まる。
「どうしたんですか?」
「なんか、臭う」香奈はゲームの手を止めると、節子を見た。「先にお風呂に入ってきな
よ」
節子は手の甲や袖を鼻に近付け、においを嗅ぐ。自分では何も感じない。
「そんなに、臭いますか?」
「まあ、それなりに」
曖昧な言い方をされると、ひょっとして酷く臭いのかもしれない、という不安に捕らわれ
る。
「じゃあ、すいませんがシャワーを浴びてきます」
節子は着替えを手に、浴室へ行った。脱衣所がないのでいったん中で服を脱ぎ、タオルで
くるんで廊下へ出す。
 熱い湯を頭から浴びながら、節子はどう説明したものか頭を悩ませた。勝手にすべてを
話してしまうのはマズい気がする。ただでさえ汽一郎が不死身であることを知ってから、
すこし様子がおかしいのだ。ここで昭平や忠春のことまで話してしまったら、どんな影響
があるか判らない。
 忠春や昭平に口の軽い女だと思われるのも嫌だった。べつに口止めされたわけではない
が、それはわざわざ念を押すまでもないと思われているからに違いない。香奈だって、自
分のことを口が軽いと思うだろう。
 シャワーを止め、ゆっくりと髪を洗う。なるべく時間を引き延ばしたかった。自然さを
装ったシャンプーの香りが、節子の鋭敏な嗅覚を刺激する。
 もしも本当のことを喋ったとしたらどうだろうか。香奈はそれを、本人たちに喋ったり
しないような気がした。もしそうなら香奈は汽一郎にも、不死身であることを知っている
と話してしまっただろう。そうなれば節子のもとへ、汽一郎からなにか言ってくるはず
だ。
 それなら正直に打ち明けてしまってもいいのではないか。そんな気持ちになる。けれど
も何かが、それをためらわせる。ただの予感でしかないが、これまでの経験からしてこう
した予感はたいていが正しい。きっとそれは、実際には気付いていることを意識が見落と
しているという、無意識からの警告なのだろう。
 考えれば考えるほど、どうすればいいのか迷ってしまう。精神的な疲労とあいまって、
無気力さが節子にのしかかる。すべてがどうでもよく思えてくる。
 どうして自分一人が、こんなふうに思い悩まなければならないのか。香奈がなにを知っ
たところで、それをどうするかは香奈自身が決めることだ。自分は関係ない。
 そんな理屈が通らないことくらい解っていた。けれども、今の自分はそんなことより考

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えるべきことがあるのだ。
 伊助のことが頭に浮かんだ。とたんに気掛かりの対象がクリアになり、意識が引き締ま
る。そもそも自分が呼ばれたのは伊助が部屋にいなかったせいだ。携帯電話にも出なかっ
たのだろう。
 普通の人なら買い物にでも行ったと考えるところだが、相手はあの伊助だ。そんなはず
はない。いったいどこへ行ったのだろうか。自分が考えるべきはそれだ。
 節子は大急ぎでシャンプーを流すと廊下に置いてあった着替えを身につけ、居間へ戻
る。香奈はゲームをやめ、冷蔵庫から出した麦茶を飲んでいた。
「香奈さん」先手を打って声を掛ける。「伊助さんが部屋にいなかったみたいなんですけ
ど」
香奈がその意味を理解するのに、すこし間があった。やがて香奈の目が大きく見開かれ
る。
「あの人がスーパーとかコンビニに行ってる可能性は低いですよね?」
香奈は頭を上下させる。
「これまで、黙って出かけることってありましたか?」
「節子ちゃんがここへ来る前なら、たぶん……。いやでも、さらわれたとか?」
「判りません。ただ、何かトラブルに巻き込まれている可能性はあります。停電にして
も、非常用の発電システムが故障したことにしても、あるいは組織が」
「ちょっと落ち着いて。そもそもあんたはどうして呼ばれたわけ?」
「昭平さんが持病の発作を起こして、薬を飲ませたのはいいんですけど、どうしても医者
には行かないって。ほらあの人、外を嫌がるじゃないですか。それで、落ち着くまで忠春
さんと様子を見ていたんですけど。いざとなったら私が無理矢理にでもかついで病院へ連
れて行くつもりだったんです」
それまで考えてもいなかった嘘が口から出てくる。さっきまでの葛藤は、伊助という存在
によって消滅してしまった。
「じゃあ、電話が来た時点で伊助は。でも、忠春さんはそれを変だと思わなかったんでし
ょ?」
「昭平さんのことに気を取られて、忘れてたんだと思います。私も今まで、意識から抜け
落ちてたわけですし。とにかく伊助さんの部屋へ行ってみましょう」
 伊助の部屋は明かりが消えていた。鍵はかかっておらず、ドアは簡単に開いた。二人は
中へ入る。
 室内の空気は日中の熱に何度も蒸し返されているようで、濁って感じられた。どうも伊
助が留守にして、数日経っているらしい。見渡す限りでは書き置きも何もなく、いつも伊
助が座っているソファの傍らには、夏布団が投げ出されていた。
「香奈さん……。どうしましょう」
節子は涙声だった。あまりのうろたえぶりに香奈は苦笑する。
「電話してみたら? 番号おぼえてる?」
そう言って香奈は節子に携帯電話を手渡す。節子は伊助の番号を押した。呼び出し音が鳴
り始めるまでの時間が長く長く感じられる。

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 呼び出し音は鳴ったが、伊助は出なかった。しばらくして、留守番電話の自動アナウン
スが始まった。節子はメッセージを聞いたら掛け直すように告げ、電話を切った。香奈に
携帯電話を返そうとして、自分の手がひどく汗ばんでいることに気付いた。顔に触れてい
たディスプレイも汗で濡れている。
「あ、すいません」
節子はシャツの袖で汗をぬぐう。
「動揺しすぎだって」
香奈は携帯電話を受け取りながら言う。
「そんな。こうしている今も、伊助さんがどんな危ない目に遭っているか判らないんです
よ? 本当に殺されることもありえるんです! それを、そんな」
「そうか……。ごめん。ちょっと無神経だった」節子の激しい口調に気圧され、香奈は素
直に謝った。「で、どうしようか」
節子は何か答えようとしたが、気ばかり焦ってうまく考えがまとまらなかった。嫌なイメ
ージがとめどなく増幅する。
「いったん、部屋に戻ろっか」
二人で部屋を出ようとしたとき、香奈の携帯電話が鳴った。
「あ」
ディスプレイを目にした香奈は黙って携帯電話を差し出す。節子は慌ただしく電話を受け
取った。
「もしもし」
「あれ? 節子か。なんか姉さんから電話があったみたいなんだが」
伊助の声だ。普段よりも愛想がいい。
「それ、私です。留守電の声で気付いて欲しかったです。それであの、えっと今は、そ
の」
「実家だ。さっきも忠春さんから電話があって。停電したんだって?」
平穏な伊助の声を聞くと、節子は安堵で力が抜けてきた。
「その件は大丈夫です。それより、本気で心配したんですよ」
伊助の実家といえば、愛媛県だったはずだ。
「いやあ、すまん。まさかこのタイミングで人が来るとは思ってなかった。ほら、普通な
ら一週間でも一〇日でも放っておかれるから」
「それはそうですけど。で、何をしてるんですか?」
本気で心配していた自分が馬鹿らしくなってくる。
「旦那寺が廃寺か無住寺かの瀬戸際で、他にも本家の長男ならではの問題がいろいろあっ
て、本家って言ってもたいしたことないんだが、ともかく埒があかないから呼び戻された
んだ」
「むじゅ――はい?」
節子が思わず聞き返すと、伊助は大げさに溜息をついた。
「最近の若者には通じないのか。つまりだな。先祖の墓のある寺に跡継ぎがいなくて、寺
がなくなるか遠くの寺の住職が兼任するかに地元の利権やらが絡んでもめてるんだ」

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「それと、本家の長男がどう関係するんですか?」
「俺はこう見えても悟山家本家の長男なんだよ。家を継がずに地元を離れたけどな。本家
はわかるだろ? けれども本家の土地家屋は俺がまだ名義人なんだ。それが、本家のある
一帯を買収したいって話が出て、まあなんだ、中略するがとにかく金が関係してくるから
親戚同士でこれもこじれててなあ」
伊助が実家へ戻っている理由はどうにか理解できたものの、あまりにも世界の違う話だっ
たので、節子は何も言えなかった。
「いつごろ、戻ってきますか?」
ようやく出てきた言葉がそれだった。
「さあ。俺にも判らん。なんせこっちは人間関係がごちゃごちゃに絡まってるから、一つ
のラインを引っ張ると他の部分が大量にくっついてくる。ぜんぜん進展しないんだ、これ
が。ま、そういうわけで忠春さんには謝っといてくれ。じゃあな」
それきり通話は切れてしまった。節子はしばらくのあいだ、携帯電話を耳に当てたまま立
っていた。もっとなにか喋りたかったような気もするが、なんなのかは自分でもはっきり
しなかった。思い付きさえすれば、電話をかけ直すことができる。きっと喜ばれないだろ
うが、あからさまに嫌がられることもないだろう。
「で、どうだって?」
伊助に電話を掛けなおす口実を考えていると、香奈が尋ねてきた。節子は手短に事情を説
明する。
 節子の説明を聞いた香奈は深く納得するところがあったのか、大きくうなずいた。
「香奈さん、今の説明で解ったんですか?」
節子は聞いた話をさらに簡略化して喋っていたので、香奈があっさりと理解したことに驚
いた。
「まあね。別に難しい話じゃないでしょ。常識」
「そう、なんですか。なるべく世間的な常識は身につけるようにしてたんですが。知りま
せんでした」
「あ、いや常識ってわけでもないか」
「なんですか、それ」
香奈は軽く笑った。
「そんなことより、その感じだと帰ってくるのはまだ先になると思うよ。どうせ自分でど
うにかしようとはしないだろうし。行ったからには帰ってくるのも面倒だろうしね」
節子も同じことを考えていた。居続ける方が面倒だということにでもならないと、しばら
くは戻ってこないだろう。
「じゃ、今日はこれで解散ね。ゲームは明日まで置いておいて」
「あの、お店は」
「開けるに決まってるじゃない。今日はもう遅いから、あんたも早く寝るんだよ」
いかにも保護者ぶった口調で言うと、香奈は玄関のドアを開けた。節子は流れ込んでくる
濃厚な夜気を、胸に深々と吸い込んだ。なぜだか舌に、甘みを感じた

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第六章

 数日が経って、節子は昭平に呼び出された。
「先日はありがとうな。おかげで助かった」
目の前の昭平はすっかり調子が戻ったようだった。こうして話しているところを見ると、
とても肉体が死んでいるとは思えなかった。そのせいか、嫌悪感も湧いてこない。むしろ
異様に低い室温や、そこに居て昭平が平気そうにしていることの理由がはっきりした分、
それまでに感じていた気味の悪さが消えていた。
「忠春さんから事情を聞かされたろう?」
「ええ」
「ここでしか生きられないって言うた意味が解ったろ。よそじゃなかなか。大変で」
 話を聞いていると、常に死の恐怖を意識してしまう辛さや研究が行き詰まっていること
への苛立ち、そしてそれらをどこか平然と受け止めている昭平の意志の強さが感じられ
た。考えてみれば、死んだ肉体へ閉じこめられた状態で何十年も生き続けるというのは、
並の人間には耐えられない状況だろう。
「まあそれで、節子ちゃんにお礼をしようと思って、組織との戦いやら情報技学やらにつ
いての資料を見直してみた。頭を使うことくらいしかできんから」
昭平の言葉に節子は違和感をおぼえた。節子にとって、組織との戦いはもう終わったこと
だった。残っていることといえば、せいぜい今回の化け猫のように、不発弾の回収作業程
度のものでしかない。
 だから、まるでまだ組織との戦いが続いているかのような昭平の口ぶりは、どことなく
気に入らなかった。
「節子ちゃんにとって、もっとも身近な存在ってのはもういないか?」
唐突に昭平がは尋ねた。
 もっとも身近な存在。なんとなく嫌な予感がする。頭へ浮かんできた数人の名前を、あ
わてて打ち消す。
「特に、いません」
そう答えることにどれほどの意味があるのか判らなかった。だが、それ以外の答えを口に
するのは恐ろしかった。そんな心の動きを読みとるように、野暮ったい眼鏡の向こうから
昭平は節子を見つめた。やがて、その目元がわずかにこわばる。
「そうか。なら、いいけどな」
「それが、なにか?」
「首領ってのは組織と闘う者にとって、もっとも身近な存在だ。だから、節子ちゃんにと
って最も身近な存在がヨ号組織の首領となった。首領になる要因が抵抗者にとって身近か
どうかしかないのなら、そいつを倒せば二番目に身近な存在だったものが新たに最も身近
な存在になり、首領となる」
節子は笑ったが、無理をしているのは明らかだった。
「でも、壊滅した組織の首領になるなんておかしいじゃないですか。だいたい、どうやっ
て首領に?」

- 83 -
「なら、節子ちゃんが可愛がっていた犬、ノブミツだったか。ノブミツはいつ、どうやっ
て首領になったんだ? 気付いたら首領だったんだろう? 何かのプロセスを経て首領に
なったわけじゃない」
「そんなの、言葉の問題です。昭平さんが正しいなら、組織を滅ぼすために私は身近な人
を順番に殺さないといけない」
「そうなるな」
言葉は素っ気なかったが、声は節子を哀れんでいた。
「やめてください。組織は私が滅ぼしました。滅んだ組織の話を聞いても、仕方ないじゃ
ないですか」
節子は昭平の言葉を遮って立ち上がった。抑揚や発声が滅茶苦茶になっている。節子は昭
平の言っていることが充分にありえると、直感していた。だからこそ聞きたくなかった。
伊助は節子にかまわず続けた。
「きみと親しいから首領だったという『事実』が遡って作られたのか。首領だからきみと
親しいという『事実』が遡って作られたのか。原因と結果との後先がはっきりしない。節
子ちゃん。これは奇妙で不可解なことなんだ」
節子は昭平から顔をそむけ、立ち尽くしている。その場から立ち去りたいという衝動が、
節子を従わせようと激しくもがいている。吐きそうだった。だが昭平の言葉は節子の体と
意識を捕えて離さない。
「嘘です」やっと節子はつぶやいた。「もしそうなら、資料があるはず。伊助さんも教え
てくれるはず」
「その伊助くんだよ。節子ちゃん。伊助くんは本当にヤル気がないだけなのか。ひょっと
したら彼も――」
 限界だった。節子は昭平の部屋から走って出て行った。だが人間を超えた聴力は閉じゆ
くドアの向こうから、続く言葉を拾い上げてしまった。
「――そのことに気付いて、心から身近だと思える存在は持たないようにしているんじゃ
ないのか」


 昭平の部屋を出てから、どこをどう走ったのか憶えていなかった。いつのまにか節子は
裸足で、仮くら井の前に立っていた。ドアには「営業終了」の札が掛かっていたが、節子
は深い考えもなく中へ入る。
「いらっしゃい」
レジ番をしていた香奈が声を掛けた。節子は黙って香奈の隣へ行くと、床に座った。だが
香奈は何も言わない。意識がどこか遠くにあるようだ。
 二人はお互いの異変に気付くこともなく、時間ばかりが過ぎていく。色合いも形も様々
な仮面が虚ろな目で二人を凝視している。
 節子は何度も、昭平の語ったことを思い返していた。記憶の底へ幽閉したいのに、意識
が昭平との会話へ戻っていくのを止められなかった。『誰よりも自分は伊助を理解してい
る』という自信が、あっさりと厚みを失う。残ったのは薄っぺらい願望だけだった。

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 昭平の考えは仮説でしかなかった。しかし家族が殺されたときから経験した多くの事柄
が、その正しさを予感させた。おそらく伊助もどこかの時点で、昭平と同じような説にた
どり着いたのだろう。
 それから伊助はわざと表面的な関係以外のすべてを断ち、関係が深まる可能性もできる
だけ排除して暮らしてきたことになる。今後も伊助が考えを変えないかぎり、それは気が
遠くなるほどずっと続く。
 なぜ伊助は教えてくれなかったのか。落ち着いて考えてみれば、自然と答えが出る。苦
しみと孤独を共有するだけでも、関係は深まってしまうだろうからだ。特に伊助を特別な
存在だと思っている節子の場合、関係が深まるスピードは他の人より速いだろう。
 今のままでは自分も、伊助や香奈を首領にしてしまうのだろうか。そうなれば自分にそ
の気がなくても、戦うしかない。それを避けるためには、伊助と同じような暮らし方をす
るしかないのか。絶望が静かに、なめらかに、節子の心へ浸透していく。
「どうしたの?」
香奈がようやく口を開いた。しかし節子の方は見ようとしない。すでに三〇分ほど経って
いた。
「伊助さんのことです。香奈さんこそどうしたんですか?」
節子はぼんやりしながらも問い返す。香奈は力無く笑い声を漏らした。
「捜している人がいるって言ったでしょ。その人が見付かった。本気で見付かるなんて思
ってなかったのに。見付けなきゃよかったのに。なんかもう、ああもう、どうしてこん
な。あんたが悩んでた無気力って、こんな感じかもしれない」
今度は節子が力無く笑った。それきり会話はとぎれ、また時間が過ぎる。
 不意にドアを叩く音がして、汽一郎が入ってきた。フライングエイプへ行く途中なのだ
ろう。節子は急いで立ち上がる。
「こんな時間に店を閉めてるなんて珍しいな。いくら陽が長いからって、電気くらいつけ
ろよ」
「しょうがないでしょ。貧乏なんだから節約しないと。今日はね、仮くら井の行く末を考
える重要な戦略会議」
そう答える香奈はいつもどおりの様子だった。とてもさっきまで虚脱していたとは思えな
い。
「それなら続きはウチの店でしたらどうだ」
「飲み放題食べ放題で時間無制限ゼロ円なら行かないこともないけど?」
「おごりだろ、それ」
「まーね」
汽一郎は笑いながら、香奈をこづくふりをした。
「じゃ、あとでな」
「はいはい。気が向いたらね」
機嫌良く汽一郎は出て行った。
「よく急に切り替われますね」
「それができなきゃ、やってけないときもあったから」香奈ははじめて節子をまともに見

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た。「閉店作業、ちょっと手伝って。ほとんどすることないけど。それからフライングエ
イプに行こう。今日は私がおごるから」
そう言った声はいつもの感じだったが、香奈は何かに耐えている様子だった。
 フライングエイプに着くと、二人は店の奥にあるテーブル席へ座った。他の席から少し
離れており、どういう作用なのか周囲の物音が遠くに聞こえた。
 香奈は顔色がすぐれない。フライングエイプへ向かう途中も口数が少なかった。
「大丈夫ですか?」
「ああ、うん」
香奈は運ばれてきたギムレットを一口飲んだ。巧妙に節子から視線を外している。
 節子は調子の悪そうな香奈を眺めながらも、意識は内面へ向かっていた。昭平から言わ
れたことが、気になってしかたないのだ。気が滅入るばかりなのに、節子は言われた内容
を繰り返し思い浮かべ、今までの経験から裏付けられてしまうことはないか、考えずには
いられなかった。店内のざわめきが、さらに遠のいていく。
 どれくらい考え込んでいたのか。我に返ると香奈はテーブルへ肘をつき、手の甲へ額を
乗せていた。外した眼鏡がグラスの脇へ置かれている。息苦しいのか、肩から胸元のあた
りが大きく上下していた。節子は香奈の名前を呼んだ。
「ごめん。ちょっとめまいがして」
「帰りますか」
「少し治まるまで待って」
節子は会計を済ませると、汽一郎へ事情を話した。汽一郎は香奈を見遣ると、うなずい
た。
席へ戻ると、香奈は目を開けていた。相変わらず眼鏡は外したままだ。
「ごめん。行こうか」
香奈は立ち上がる。節子は少し迷ってから、香奈の手を引いて店を出た。常連客の不思議
そうな目が、立ち去る二人の姿を追った。
 外へ出てからも、香奈の足取りはまだしっかりしていなかった。ときおり振り返ると、
香奈は目を伏せて歩いている。
「ちょっと休みます?」
顔を覗き込もうとすると、香奈は立ち止まって目を閉じた。節子の頭にある考えが浮か
ぶ。
「ひょっとして、顔が解るようになったんですか?」
香奈は目を閉じたままうなずいた。
「そうなんだけど、慣れないせいか気持ちが悪くなっちゃって」
香奈に声には自嘲の響きがあった。
「どうして急に」
「捜していた人が、見付かったから」
どうして捜していた人が見付かると相貌失認が治るのか解らなかったが、節子は軽く香奈
の手を引いて合図をし、また歩きだした。
 ようやくコキドーハイツへ帰り着くと、入り口の所に忠晴が立っていた。

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「汽一郎から電話があった。大丈夫なのか」
忠晴の声には心配しているというより、緊張しているような堅苦しい響きがあった。
「大丈夫だから」
香奈が答えた。
 部屋へ入ると、香奈は部屋の隅に置かれたベッドへ横になった。節子はグラスへ水を汲
んでくると、香奈に渡した。香奈は体を起こしてグラスを受け取ると、中を覗き込みなが
らゆっくり口を付けた。
 節子は忠晴へ、フライングエイプで香奈が急に体調を崩した、とだけ話した。
「あいつの店のことだから、食中毒でも起こしたんじゃないのか」
忠晴がそう言うと、香奈は咳払いをした。
「真面目に答えると、だ。体力が落ちていて暑さにやられたんだろうただ、もう少し詳し
く話を聞かないとハッキリしたことは判らないな。悪いが節子ちゃんは少し外に出ててく
れないか」
自分が部屋を出る理由が解らず、節子は戸惑った。
「悪いけど、少し外に出てて」
香奈が重ねて言う。しかたなく節子は外の廊下へ出た。
 なぜ自分が外へ出なければならないのか、どうにも納得できなかった。節子は閉ざされ
たドアを眺めた。
 その気になれば、中の会話を聞くことはできる。盗み聞きがよくないことくらい知って
いるが、どうにも気掛かりだ。
 生暖かい金属のドアへ耳をあてると、二人の話し声が聞こえてきた。
「――姉さん、昼間はどうして急に出て行ったんだ」
「ごめんなさい。いざとなると混乱してしまって」
「それにしても、いったいどうして。まあ一度も考えたことがなかったわけじゃないが、
あくまで根拠のない空想程度でしかなかったのに」
「あのとき、確かに目的は果たせなかった。でも、失敗だったというわけでもなかったの
――」
そこで節子はドアから耳を離した。どうやら自分が聞いていい話ではなく、聞く必要のあ
る話でもないようだった。
 昼間のことと考え合わせると、香奈が捜していた人を見付けたとき忠晴もその場にいた
らしい。香奈が誰かを捜していることも、忠晴は知っていたのだろう。それにしても、目
的が果たせなかったとはどういうことなのか。
 会話の意味を探ろうとしていると電話が鳴った。節子の電話番号は機密扱いで許可なく
教えてはいけないのなのだが、他に携帯電話を持ってないせいもあって、いつの間にか規
則はなし崩しになっていた。
「もしもし」
「姉さん、あれからどうなった?」
汽一郎だった。
「横になったら落ち着いたみたいですよ。心配かけてすみません」

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電話の向こうで汽一郎は笑った。
「節子ちゃんが謝ることはないだろ。ゆっくり休むように言っておいてくれ。じゃあ、俺
は仕事に戻るから」
「はい。伝えておきますね」
通話が終わってさらにしばらくしてから、香奈に見送られて忠晴が出てきた。
「明日、病院に寄ってから行くから。悪いけどお店は一人で開けといて」
香奈はまだ眼鏡をしていなかったが、顔色はずいぶんよくなっていた。
「はい。無理しないでくださいね。それと、汽一郎さんがゆっくり休むようにって。電話
がありました」
「わかった。ありがと。じゃあ、明日よろしくね。忠晴さんもありがと」
「まあ、気にすることはない。管理人として当然の役目だ」
忠晴はまだ少し堅い声で答える。
 ドアが閉まった。二人は一緒に階段を下りる。
「やっぱり、たいしたことはないみたいだ。明日には治るだろう。外で待たせて悪かっ
た。ああ、そういえば節子ちゃんも悩み事があるんだって? 姉さんが心配してたぞ」
歩きだしたところで、忠晴が言った。
「いえ。それはいいんです」
「そうか。それならいいんだが」忠晴は節子の言葉を信じていないようだった。「今どき
古くさいと思われるかもしれないけれど、大家にとって住人は家族も同然。どんなことで
も遠慮なく言って欲しい」
「ええ。そのときは相談に乗ってください。では、私はここで」
節子は忠晴と別れると、自分の部屋へ戻った。自分の部屋へ帰ってきて精神の張りがゆる
んだのか、強い眠気に襲われる。節子は着替えだけ済ませると、布団を敷いて横になっ
た。眠りはすぐにやってきた。

 翌日は穏やかに過ぎていった。香奈はけっきょく来なかったが、節子一人で対応できな
いことは起こらなかった。
 ぼんやりしていると無気力や思考の泥沼に取り憑かれそうだったので、節子は三階の掃
除や在庫の整理などをし、それが済むとそれぞれの仮面がカタログでどう説明されていた
か思い出すことに没頭した。
 仮面はどれもこれも人間が考え出した「顔」なのに、本物の顔と同じくらい多様だっ
た。平面的か立体的かも、種類や用途によってちゃんと意識されているようだった。節子
は仮面の興味深さを実感することができかけたような気がした。
 時間どおりに店を閉めると、節子はフライングエイプへ足を運んだ。とにかく人の居る
場所へ行って、少しでも長く気を紛らせたかったのだ。
 開店直後というわけでもないのに、フライングエイプに客の姿はなかった。
「珍しいですね」
カウンター越しに声をかけると、汽一郎は眉をひそめてアゴを撫でた。
「まあ、年に何回かはこういう日もある。みんな毎晩飲んでるわけじゃないしな」

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そこで汽一郎はいったん厨房へ下がり、戻ってくるとカルボナーラを節子の前に置いた。
「前に、好きだって言ってたろ。店からのおごりだ。昨日は姉さんの面倒見てもらったか
ら。あ、俺がおごったなんて他のヤツには言うなよ。自分もおごれって面倒だから」
たいしたことをしたわけでも、汽一郎の代わりをしたわけでもなかったが、節子は黙って
おごられることにした。
 一口食べると濃厚なクリームにベーコンの風味歯ごたえ、落とした黄味のまろやかさが
口の中へ拡がる。平打ちのパスタがソースによく合っていた。
「で、今日はさすがに姉さんもすぐ帰ったんだな」
食べている節子を眺めながら、汽一郎は言った。
 汽一郎の言葉に、節子は違和感を覚えた。普通なら休んだものと思うのが自然だろう。
ひょっとして、汽一郎の中ではなにか前例のようなものが浮かんでいるのだろうか。
「いえ、今日は、お休みでしたよ。昨日、病院に寄ってから、来るって言ってたんですけ
ど。やっぱり体調が、悪かったみたいで」
節子は口に入れたパスタを飲み込みながら答えた。
「妙だな。昼間にたまたま会ったときは、これから店に行くとか言ってたんだが」
その言葉で、さっきの違和感に決着がつく。
「途中で思い直して引き返したんじゃないですか?」
「それならいいけどな」
そう言いながらも、汽一郎は納得しきれない様子だった。
「ずいぶん心配してるんですね。昨日だって忠晴さんに電話したりして」
からかうでもなく、節子は言った。
「まあ、姉さんは特別だからな。いや、変な意味じゃなくて。考えてみろよ。もし姉さん
がいなかったら、俺とじいさんとだってずっとギスギスしてたろうし。節子ちゃんだっ
て、姉さんがいなかったらこんなに早く俺たちと馴染めなかったろ」
「そう、ですね」
汽一郎の言葉は正しかった。もし香奈がいなければ――。想像するだけで、不安な気持ち
が湧き上がってくる。
「今だから言えるけど、最初のころの節子ちゃんはいかにも無気力そうだったし、よそよ
そしかったし、近付きにくくてちょっとどうしようかと思ってた。いやほら、今はこうや
って普通に話もできるし、よかったと思ってる」
節子は苦笑した。自分では表向き、なるべく普通に振る舞っていたつもりだったのだ。
 考えてみればみるほど、汽一郎の話はもっともなことだった。香奈がいなければ節子も
汽一郎たちも、まったく違うことになっていただろう。
 しばらく汽一郎と他愛もない話をしてから、節子は店を出た。何も状況は変わっていな
いが、精神的にはずいぶん元気が出た。
 コキドーハイツに着くと、節子は香奈に電話してみた。その場では軽く受け流したが、
「店へ行くと言っていた」という汽一郎の言葉が気にかかっていたのだ。
 香奈は電話に出なかった。心配しすぎだと思いながら、節子は香奈の部屋まで行ってみ
た。部屋の明かりは点いていない。寝ているのだろう。節子は深い考えもなく、ドアに手

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をかけ引いてみた。
 ドアはあっさりと開く。嫌な予感がして、節子は中へ入ってみた。丸一日締め切られて
いた部屋の空気は重たく、香奈のにおいを濃く漂わせていた。節子は広くもない室内を探
し回った。誰も、いなかった。


 香奈の部屋を出た節子は、忠晴の所へ向かった。香奈がいなくなったと聞いても、忠晴
は驚かなかった。厳しい顔で目を閉じ、腕組みをしている。
「忠晴さん」
節子は強く名を呼んだ。
「いや。すまない」
忠晴は組んでいた腕をほどく。
「しっかりしてください」
「いや、考えていたんだ。姉さんのことだが、心配する必要はないだろう。戻ってくるか
は、解らないが」
「何か知っているんですね?」
その問いには答えず、忠晴は節子を正面から見据えた。
 節子は忠晴から、いつもの自信に満ちた雰囲気や、ときおり覗く傲慢さが消えているこ
とに気付いた。
「いまからする話は、まあ年寄りの昔話とでも思ってもらえればいい。節子ちゃんに聞か
せて何か意味があるというわけじゃないが、近頃とくに感傷的でね」
香奈が居なくなったことに関係しているのだろう。そう思った節子は何も言わなかった。
忠晴は麦茶でノドを潤すと、話をはじめた。

 江戸時代のことだ。とある藩に代々医者を営む家があった。子供も多く、薬を売りに出
しもして、まずまず豊かに暮らしていた。
 あるとき、その家に六人の子供が居た。うち一人が女の子だったのだが、生まれつき体
が弱かった。心配した親は様々に薬や治療を試みたが、どうにもよくならない。
 娘は一六になるころには、ほとんど自分の部屋で布団から出られないようになってしま
った。いまなら一六歳といえば子供だが、当時なら結婚もして親にもなろうかという時代
だ。
 その家には与次郎という次男が居た。兄弟のなかでも与次郎は特に姉になつき、誰より
もその身を案じていた。幼い頃から利発だった与次郎はとても熱心に医術を学び、兄以上
の成果を上げていた。
 家の蔵には代々の人間が蓄えた和漢の医術書があった。与次郎はそこへしょっちゅう足
を運び、姉を助ける方法がないものかと医術書をあさっていた。
 そしてある日、与次郎は蔵の奥で隠し棚を発見する。中には一冊の書物が収められてい
た。
 その書物の序文には、それがもともと巻物だったこと。バラバラになることを防ぐため

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に何代も前の祖先が、一冊の本の形に書き写したことなどが記されていた。
 そして肝心の内容について説明されている部分を読んで、与次郎は驚いた。その書物は
不老不死の秘薬の製法を伝えるものだったのだ。
 その昔、一族にそうした薬の製法が伝わっていたという話は与次郎も知っていた。しか
しそれは伝説のようなもので、一族の誰も本気にしてはいなかった。
 書物を発見してさえ、与次郎は不老不死の薬が実在するなどと信じることはできなかっ
た。だが日に日に弱っていく姉のことを思うと、どんなに小さな可能性でも切り捨てるこ
とはできなかった。
 そこで与次郎は書物に載っている薬を作ってみることにしたのだが、ひとつ問題があっ
た。かなり古い時代に書かれたせいで、薬や製法の説明が当時とはずいぶん違っていたの
だ。
 さらに肝心な部分は比喩やほのめかしが多く、与次郎は他の様々な医書や辞典を調べな
ければならなかった。そうこうするうち姉の容態は急に悪化し、もういつ亡くなってもお
かしくない状況になってしまった。
 与次郎は食事も寝ることも忘れ、薬の完成に取り組んだ。他の家族はそんな与次郎を不
審に思っていたが、その鬼気迫る様子に圧倒されて何も尋ねられなかった。娘の看病で大
変だったということもあったろう。
 そしてとうとう与次郎は薬を完成させ、姉に与えた。動物で試してみたかったのだが時
間もなく、そもそも珍しい材料が多かったせいでそんな余分はなかったんだな。
 ところが、材料が違ったのか製法がちがったのか。そもそも不老不死の薬というのが偽
りだったのか。苦労のかいもなく姉はそれから数日後に息を引き取った。
 当時、人は今よりずっと簡単に死んだ。家族はもちろん悲しんだが、そこから立ち直る
のに多くの時間は必要なかった。ただ与次郎だけが酷く落胆し、なかなか立ち直れなかっ
た。いや、自分だけは立ち直るべきではないと考えていた。それは自分の罪を忘れること
だと信じ込んでいたんだな。
 それから数年が経ち、与次郎も一人前の医者なった。と名を改め、親兄弟をしのぐほど
の名医として知られるようになった。藩主に仕える医者でさえ困ったときは与次郎の意見
を聞きに来るほどだった。
 姉が亡くなってからも与次郎は不老不死の研究を続けていた。自分が至らないせいで姉
を死なせてしまったわけだからな。その失敗をどうすれば避けられたのか、知らずにいら
れなかったのだ。
 供養の代わりという想いもあったろう。誰にも明かさず、見付けた書物や知り合いを通
じて手に入れた海外の書物などを参考にして、地道に取り組んでいた。
 結婚もせずにいる与次郎を周囲は変人として扱ったが、なにせ医者としては超一流。幸
い家は長男が継ぎ、さほど困ることはなかった。
 そして年月が経ち六〇歳を過ぎたころ、与次郎は不老の薬を作ることに成功する。その
頃には与次郎も不老と不死を分けて考えるようになっていてね。実現しやすい不老の薬か
ら先に取り組んだというわけだ。それに不老を達成してしまえば不死を研究する時間はい
くらでも生まれる。

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 かくして不老となった与次郎は周囲から怪しまれる前に行方をくらまし、国内を転々と
しながら不死の研究を続けた。時代は江戸から明治、大正、そして昭和へと移っていっ
た。
 ところで、与次郎はひとつの間違いをおかしていた。姉に与えた薬は失敗などしていな
かったのだ。たしかにそれは不老不死という効果を発揮しなかった。だがどういう仕組み
なのか、違う効果を姉にもたらしていたのだ。
 簡単に言うと、それは生まれ変わりということだ。本当に生まれ変わっているのかはと
もかく、姉の記憶は新しく生まれた一人の女性へ引き継がれ、その人物が死ぬと姉と、姉
の記憶を引き継いだ人物の記憶がさらに別の女性へ引き継がれた。
 こうして引き継がれるたびにその量を増しながら、姉を始まりとする記憶は一人の女性
から別の女性へと続いていった。
 時代のせいもあったろう。一人分の記憶は長いときも短いときもあった。中には赤ん坊
のうちに死んでしまった者もいる。絶望と貧窮の中で老いていった記憶もある。途中で人
間以外のものに引き継がれていたこともあったようだ。
 そしてとうとう、その膨大な前世の記憶を持つ何代目かの女が与次郎と巡り会った。

「つまりそれが香奈さんと忠晴さん、ということですか?」
語り終えた忠晴に節子は尋ねる。
「節子ちゃんが信じるなら、な」
言うと忠晴は口元に笑みを浮かべた。
 他の場所、他の状況なら節子は忠晴の話を信じられなかったかもしれない。だが、汽一
郎や昭平のことがあったこの場所、この状況でならそれも不思議ではない気がした。
 むしろ、それを信じた方がすべては上手くつながる。よくできた嘘という可能性もある
が、ある程度は信じられる。
「昨日の朝のことだ。姉さんが急にここへ来て、私が本当は与次郎という名前なんじゃな
いかと聞いてきたんだ。その名で呼ばれたのは何百年ぶりだろう。そのときは、なぜ姉さ
んがそのことを知っているのか判らなかった。だが私は思わずうなずいた。すると突然、
姉さんは走って出て行った。後で聞いたら、私がうなずいた途端に何も考えられなくなっ
て、気が付いたら外へ出ていたそうだ」
「じゃあ、そのショックで病気が」
「さてね。ショックというのが正しいかどうか。ともかく、自分に起きた変化を理解する
まで少し時間がかかったらしい。最初は何かがおかしいと感じるだけだったそうだ。私や
節子ちゃんが急に、新しい感覚器官を持つようなものだろう」
節子は、香奈の言葉を思い出した。顔が認識できないのは、心因性のものだと。
 数百年分の出会いや別れを通して、香奈へと至る女性たちは膨大な顔を見てきたのだ。
そしてきっと、目にする顔のひとつひとつから与次郎だけでなく、記憶を引き継いだ女性
たちそれぞれにとって大切な人の顔を、つい探してしまっていたのだろう。いつしか、そ
のことに疲れ果ててしまったのだ。
「今朝も姉さんはここへ来ていた。お互い若くもないし、さすがに感動の再会というわけ

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ではなかったが。お互いのことを話して、まあそこまではよかったんだが――」
忠晴は言葉を切った。汽一郎が入ってきたのだ。
「おおかた、不老不死なんてロクでもない研究はやめるように言われたんだろ」
汽一郎は長い手足をわざとらしく揺らしながら、向かい合って座る忠晴と節子の間へ腰を
下ろした。
「お前はやっぱり考えが浅いな」
忠晴は嘲るように言った。汽一郎が立ち聞きしていたことや、急に入ってきたことは気に
していないようだった。
「姉さんは私に、生まれ変わらないで済むようにして欲しいと言ったんだ。もう充分に生
きたから、この人生で最後にしたい、と。もちろん私は断った。仕組みも解らないんだ。
生まれ変わらないようにする方法なんてすぐには見付けられない」
「でも、今までの研究から解決法が見付かるかも」
節子が言うと、忠晴は冷たい視線を汽一郎に向けた。
「その可能性はあった。ただ、そこの馬鹿が資料や成果をすべて焼いてしまったからね。
数百年分といえば、そうそう再現できるものでもない。そういう意味では、汽一郎のせい
で姉さんはこれからも生まれ変わりを続けなければならない、とも言える」
汽一郎は机を叩いた。見る間に顔が紅潮する。
「しょうがないだろ! 歳も取らないで永久に生き続けるなんて、まともじゃない。もし
それが現実化してみろ。技術を奪い合って戦争だって起きかねない」
「だからといって、いきなり火を付けるなんぞ愚か者のすることだ。あれがあれば姉さん
の望みが叶うだけじゃない。昭平くんだってずっと以前に、あの状況から脱出できていた
かもしれんのだぞ」
忠晴の非難を汽一郎は無視した。
「それにな、節子ちゃん。そいつは目的のために人体実験を繰り返してたんだ。俺みたい
な孤児を使ってな。それで失敗したらそいつの髪を切って箱に入れて保存してたんだ。気
味が悪いだろ? たまたま上手く行ったからよかったものの、失敗してれば俺だって」
「だからそれは」忠晴は激しい口調で反論しようとして、黙り込んだ。少しして、落ち着
いた口調で言い直す。「だからそれは、今と昔で倫理観が違ったからだ。なんべん言えば
解るんだ。確かにそういうこともしたが、それは最初のころだけだ。お前を不死にしたの
だって、充分な確信があってのこと。それまでの長い年月、私は一人も実験で犠牲になど
していない。髪の毛だって、供養するための形見にすぎない。遺灰と同じだ」
「どうだか。姉さんのことだってちょうどいいサンプルとしか思ってないんじゃない
か?」
忠晴は立ち上がった。握りしめた拳が震えている。
「殴れよ。手を傷めるのが怖いのか?」
忠晴はしばらく汽一郎を見下ろしていたが、やがて腰を下ろした。
「お前が私を恨んでいることは解っている。それは変えようがないんだろう。だがな、私
はお前とは違う。病気や災害、事故で死ぬ可能性は常にある。そんななかでこれまで生き
続けるのは並の苦労じゃなかった。特に医療が今ほど発達していなかったころは。それに

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姉さんほどじゃないが、私にも辛い経験はある。だから姉さんの気持ちはよく理解できる
し、できれば応えたいと思っている。だから、頼むから研究を再開させてくれ」
忠晴は両手を床に着き、頭を下げた。
「ちょ、やめろよ。なんでそんなことするんだよ」
汽一郎は慌てて腰を浮かせる。しかし、忠春は顔を上げない。
「なあ、節子ちゃん。こいつは私を監視するためにここへ住んでいるんだ。自分の死期が
迫ったら、私を殺すつもりらしい。そうすれば捕まってもかまわないからな。私は私で、
こいつが老衰で死んだら研究を再開するつもりだった。それまであと何十年あると思う?
以前の水準まで辿り着くのに、どれだけ掛かると思う? その間に死ぬ確率は、どれだけ
あるだろうか」そこでようやく忠晴は顔を上げた。目が充血している。酷く疲れているよ
うだ。「私が死ねば、誰も姉さんを解放することはできない。昭平くんもだ。姉さんはよ
ほど期待していたんだろうな。私に断られてずいぶん落胆していたよ。一時的なものかも
しれないが、それでここを出て行ったんだろう。――私はまた、姉さんを助けられなかっ
たというわけだ」
 誰も、何も言わなかった。開け放った窓からの風が、三人のあいだを吹き抜けて出て行
く。
 忠晴に土下座をされたことがよほどショックだったのか、汽一郎は真剣な顔で考え込ん
でいた。忠晴はそんな汽一郎を無言で眺めている。なにを考えているのだろうか。その顔
はさっきまでと一変して穏やかだ。
 しばらく考えて、節子はひとつの可能性に思い至った。たぶんつまり、忠晴は嬉しいの
だ。
 これまで何年も二人のあいだに刻まれていた断絶。その存在について忠晴はようやく、
きちんと伝えることができたのだ。きっと今まで汽一郎はその存在に気付いていても、ま
ともに耳を貸し、向き合おうとしなかったのだろう。
 その断裂と汽一郎はようやく対峙できるようになった。どういう結果が出るのであれ、
風変わりな親子関係の中で、父として忠晴はそのことを喜ぶ気持ちがあるのではないだろ
うか。
 だから、節子も待った。なにも言わず、汽一郎が自分の中にある積年の想いからなにか
を引き出すのを。
 やがて、汽一郎は口を開いた。
「それでもやっぱり、俺は不老不死の研究を認めることはできない。どう考えてもあの先
にあったのは破滅だけだったろうと思う。けど、姉さんのこととなれば別だ。わかった
よ。姉さんを生まれ変わりから解放できる研究なら、俺も止める理由はない」
忠晴は目立った反応を見せなかった。ただ大きく息を吐いた。ゆっくりと、深く。長い間
止まっていた時間が、吐く息となって再び流れ出したかのようだった。
「お前がそう言ってくれたことは、感謝したい。けどな、汽一郎。お前のおかげで何から
どう手をつければいいのか、私にはもうまったく解らない。すべてがうろ覚えだ。取っ掛
かりを見付けるだけで、どれだけ時間が必要か……」
実際に流れはじめた時間は残酷だった。忠晴へ現実的な問題を突きつけたのだ。

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「ずいぶん弱気だな。俺が邪魔しなけりゃすぐにでも取りかかりそうなこと言ってたろ、
さっき」
「まあ、何もしないわけではない」
汽一郎は少しのあいだ考え込んでいたが、ふたたび口を開いた。
「とりあえず、先祖が残したとかいう本がありゃいいんだろ。あるよ。自分でもなに考え
てたのか解らないけど、あれだけ残しておいたんだ」
忠晴は口を開け、目を見開いた。なにか言おうとして、声が出ないようだった。切れ切れ
に息ともうめき声とも取れるような音がノドから漏れている。そして忠晴は笑いだした。
汽一郎も笑った。涙を流して体を折り曲げ、苦しそうになってもまだ笑いは止まらなかっ
た。節子一人が取り残され、気まずい思いを味わっていた。
「おま、お前も多少は頭が働くじゃないか。ええ?」
まだわずかに笑いながら、ようやく忠晴が言った。汽一郎もそれに応えて口を開こうとし
て、節子の方を見た。節子が急に振り返ったせいだ。
「どうした?」
「いま、外で物音が」
節子は立ち上がろうとしてよろめいた。足が痺れている。それでも無理矢理立ち上がり、
ふらつきながら玄関へ向かった。二人が後に続く。
 玄関を開けると、そこには香奈が倒れていた。穏やかな顔で目を閉じた香奈の胸元が、
ゆっくりと上下している。口の端から垂れたよだれが、街灯の明かりを反射して光ってい
た。

 薄い闇が目の前を覆っている。どこからか歌声が聞こえる。小さな声だ。何の曲だろ
う。短くゆったりとしたハミングが繰り返される。穏やかだけれど、どこか寂しげな雰囲
気があった。なのに、それでもその声は優しい。
 香奈は歌声に身をゆだね、再び眠りへ落ちそうになった。思考がまた曖昧になる。覚醒
との狭間を踏み越えるその一瞬から、香奈は急速に目覚めへと引き戻された。慌てて体を
起こす。
「あれ? えっと」
「あ、起きましたか」
部屋の隅に座っていた節子が立ち上がる。香奈はその姿がはっきりしないので目をこす
り、ようやく部屋の明かりが点いていないことに気付いた。窓の外、夕暮れか夜明けのか
細い光が、かろうじて室内を浮かび上がらせているのだ。
「たしか、飲み過ぎてそれで……」
言ってはみたものの、なにか違う。香奈は記憶をたぐろうとしたが、その手は空を引っ張
るばかりだった。
「ごめん。どれくらい寝てた?」
探るように尋ねる。
「いや、寝てたもなにも。おぼえてないんですか?」
節子はカーテンを開け放った。思いの外、空は明るい。にわかに部屋が明瞭な輪郭を帯び

- 95 -
る。
「ごめん。さっぱりだわ」
 節子は少しだけ微笑むと、香奈が行方不明になっていたこと告げたた。
「どうです? 心当たりはありますか」
行方不明だったと言われても、実感が湧かない。香奈はなにか引っかかるものがないか、
寝起きの頭で考えた。だが思い出せることはなかった。そもそもどのあたりからの記憶が
ないかもあやふやだ。香奈は素直にそのことを伝えた。
「そう、ですか」
節子はうなずく。どこか含みのある口調だ。
「どうしたの? なんか言いたいことあるんでしょう?」
記憶が失われている不安を押し殺し、香奈は意地悪そうな調子で尋ねた。
「忠晴さんから香奈さんのこと、聞かされました。汽一郎さんも」
たった一言だったが、香奈はその意味を察した。
「二人は、どう」
まず二人のことを心配する。節子はそんな香奈の考え方が好きだった。
「大丈夫です。和解、と言っていいのか解りませんが、とにかく」
「そう。なら、いい」
香奈は再び横になった。
「お水、持ってきましょうか?」
節子が腰を浮かせる。
「うーん。お願い。氷多めで」
ほどなくして水が運ばれてくると、香奈は体を起こした。
「いま必死で考えてたんだけど、やっぱりなにも思い出せない」
グラスを受け取りながら言う。
「いいです。たぶん、それはもういいことなんです」
やけに決然とした口調だった。
「そんなことより」節子はいったん口ごもると、先を続けた「忠晴さんにもう生まれ変わ
りたくないって」
香奈はわざと黙りこんだ。
「ああ、その、えっとですね? あああ。いや、すいません。じゃなくてその」
思ったとおり、節子はしどろもどろになる。香奈はこらえきれずに笑い出してしまった。
 突然笑われて、節子は当惑する。
「ああ、おかしい。ね。本当にいい娘だね。あのさあ、人の人生って普通は一回切りでし
ょ? それがそんなに問題なの?」
ようやく節子はからかわれたことに気付く。
「そんな。真剣なんですよ」
「私だって真剣だってば。普通に生きて普通に死んで、やり直しはきかない。それってお
かしい?」
まっすぐ節子の目を覗く。

- 96 -
「へん、じゃないです」
「でしょう? 私もそうありたいってだけ。なにも死にたいだとか、生きるのがつらいだ
とか、そういうわけじゃないんだから」
「けどせっかく」
節子は言いつのる。
「その、せっかくってのはもう充分に経験したから。って、あちょっとなに泣いてんの」
急に泣きだした節子を見て、さすがに香奈は慌てた。思わずグラスの水をこぼしそうにな
る。
「だって、香奈さんが目を覚ましたら、なんて、言おうかって、すごく悩んだのに、香奈
さん、すごく普段どおりだから」
香奈は自然と微笑んでしまうのを抑えられなかった。グラスを置き、節子を抱き寄せる。
 そのまま香奈は、節子が落ち着くのを待った。やがて節子は静かになる。
「そういえばさ、あんたさっき歌ってたでしょ。いい声で。もっと普段から歌えばいいの
に」
とたんに節子は香奈から離れた。目が充血し、まぶたが腫れぼったくなっている。眼鏡の
内側に、涙の残したすじが残っていた。
「聞いてたんですか?」
香奈はうなずく。節子は溜息をついた。
「解りました。香奈さんの心配は二度としません」
「怒らなくってもいいじゃない」
「怒ってません」
節子をからかいながら、香奈は二人が初めて会ったときのことを思い出していた。
 最初に節子を見たとき、香奈は強い印象を受けた。これまで何度も生まれ変わってきた
中で、何度か同じ目をした存在に出会ったことがあったからだ。
 それは飢饉で壊滅する集落の最後の一人の目だった。それは半身を失った昆虫の目だっ
た。それは空襲によって目の前で炭化した我が子を抱く親の目だった。
 香奈として生まれてから、そんな目をした人と会うのは初めてだった。節子がそんな目
をしている理由が香奈は気になった。と同時に、そんなになっても放っている伊助やその
他の大人たちに対して怒りを覚えた。
 だからこそ香奈は節子をバイトに雇い、あれこれ世話を焼いたのだ。はっきりした目論
見があったわけではないが、接する時間が長ければそれなりに思いつくこともあるだろう
と考えたのだった。
 表面的には問題なく受け答えをしていたが、いつも節子の意識はほとんどがその場にい
ないような印象を受けた。自分自身や周囲の何事に対しても、自動化された応答パターン
から答えているようなイメージだ。
 おそらく本人に自覚はなかったのだろうが、そのころの節子はかなり伊助と近い状態に
あった。自分では笑顔のつもりらしいのに、少しも笑っていないという具合だったのだ。
 そんな節子に対して、香奈はなるべく普通に接した。本人が気付いていないなら、わざ
わざ知らしめる必要もない。

- 97 -
 香奈や周囲の人々の取り組みが実ったのか、節子は急速に人間味を増していった。正確
に言えば、節子の内面と外面の同期が上手くいきはじめたのだ。
 いまこうして目の前でふてくされている節子は、むしろ感情表現が豊かだと言える。も
ともとはそういう性根なのだろう。それは本来あるべき姿とまでは言わないものの、あり
得る姿として違和感のないものだった。
 節子を気にかけたことに、理由などなかった。むしろ自然な思考の流れとして、香奈は
節子のことを案じたのだった。そういうところは何回生まれ変わり時代や環境が変わって
も変化していない。
 ただ、それとは別にもうひとつ、香奈が節子に興味を持った理由はあった。仕草や表情
はまったく似ていないが、顔立ちや体つきが生まれ変わりの起点にあたる女性とそっくり
なのだ。
 忠晴もそのことには気付いていた。香奈はその女性の記憶を受け継いでいるが、もし仮
に魂というものが存在するなら、それは節子に受け継がれているのではないか。そう思い
たくなるほど節子とその女性は似ていた。
 そのせいで、節子を見ていると不思議な気分だった。記憶の中では自分の顔だと思える
ものが、まるで他人のような振る舞いを見せるのだから。
 宿命を信じるような性格ではない。それでも香奈は節子が、自分にとってのすべての始
まりから、時間を超えて送り届けられたのではないかという気にさせられた。
 そうして循環していた時間が、ようやく直線としてその終端を定めた。感慨ばかりが大
きくて、その事実がどんな意味を持つのかはまだ見えていない。
「あの、香奈さん? 大丈夫ですか」
いつの間にか物思いへ沈みかけていた香奈を、節子は気遣わしげに見据える。
「ああ、うん。普通に寝起きなだけだから。節子ちゃんはもう戻って寝ていいよ。お店は
今日は休みにするし」
香奈はそう答えると、まだ少し心残りのありそうな節子を部屋の外へ送り出した。
 一人になると、香奈は再びベッドへ横になった。どれくらい意識を失っていたのかは判
らないが、ちゃんと眠気がやってくる。行方不明になっていたというあいだのことは、ま
だ思い出せない。しかし、それほど酷い目に遭ったわけではなかったような気がする。
 まあ、いい。香奈は眠りへなだれ込みながら思う。そんなことより今日を明日をあさっ
てを、再帰しない時間のことを大事にする方がいい。もし問題があるなら、きっと節子が
代わりに悩んでくれるだろう。
 外はもうすっかり夜が明けていた。いつのまにか風は止まっている。日焼けを気にして
窓へ背を向けると、香奈はそのまま眠ってしまった。


 ほこり混じりの熱風が通りを吹き抜ける。もう何度目だろうか。節子は吹き乱された髪
を手で整えた。
「なにもこんな日に出てこなくても」
伊助はハンカチで汗を拭うとぼやいた。

- 98 -
 あの日から二日後に、伊助は帰ってきた。向こうにいるのが面倒になり、家督を放棄し
てきたのだという。
「で、姉さんはなにも憶えてないって?」
「ええ。お店へ向かう途中で誰かに後ろから襲われて、気付いたら忠晴さんの部屋に寝か
されていたって」
節子は伊助がいないあいだの出来事を、手短に伊助へ話していた。
 二人は通りを、賑やかな方とは逆に歩いていた。やがて、通りの両側を結ぶ橋が見えて
きた。
「あ、いた」節子は橋の下まで駆け寄る。「おばあさーん。この詩、どういう意味なんで
すかぁ!?」
節子が大声で尋ねると、橋の手すりに持たれていた老婆は団扇であおぐ手を止め、顔を上
げた。
「え? なんだい?」
「だからぁ、これです」
節子は手にしていた紙切れを振る。ゆびぬき通りへやってきた初日に、老婆の所から落ち
てきた紙だった。すっかり忘れていたのだが、部屋の掃除をしているときに見付けて思い
出したのだった。
 老婆が手で合図をするので、節子は紙を固く丸めて投げた。紙は風に吹き落とされそう
になりながらも、橋の上へ落ちる。老婆はゆっくり腰をかがめると紙を拾い、手間取りな
がら広げると書かれている内容を読んだ。
「学校の宿題かい? ちょっと待ちなね」
どうやら、自分で書いたことを忘れているらしかった。老婆はいったん屋内へ消えると、
ボールペンを持って出てきた。そして橋の手すりを机代わりに、紙へ何かを書き入れる。
 少しして、老婆は紙を投げ返してきた。紙は老婆の手を離れると、そのまま真下へ落ち
た。待ちかまえていた節子はそれをキャッチする。
「最近の学校は難しい宿題を出すんだね。勉強、しっかりやるんだよ」
老婆は節子にそう言うと、また中へと入ってしまった。今度は出てこない。節子は自分が
歳よりずっと若く見えることを改めて思い出し、口に笑みを含んだ。
 紙を広げてみると、元々の字が書かれていた裏に読みと訳が記されていた。

読み
 わりりてのぞ
 きちてしくる
 ぞするにえたり
 じくにす
意訳
 物事が入れ替わり、星が動いてどれだけの時間が過ぎたろう。
 鳥が啼き、花が落ちて水は空しく流れ続ける。
 人はいったい何を怨み、嘆くことがあるだろうか。

- 99 -
 貴い人も卑しい人も、みな同じ土に帰るのだから。

節子は書かれている内容を繰り返し読んでみた。いまひとつ意味が解らない。それでも繰
り返し読んでいくうちに表面的な意味が少しずつ透き通っていき、やがて詩の骨だけが残
った。
つまり「時は必ず過ぎゆく。だから死を嘆いてもしかたがない」そういうことなのだろ
う。 どうせ死ねば、土に帰る。この詩の作者がコキドーハイツを訪れたら、いったい何
を思うだろうか。そこには様々な形の不死や不老が存在するのだ。節子や伊助だって、普
通の人間から見れば不老不死とあまり変わらないだろう。
 少なくとも死んで土に帰らない人は、死を嘆く必要がない。しかし考えてみれば、伊助
も汽一郎も香奈も、死なないことを嘆いている。忠晴や昭平も、不死を維持するために普
通以上に自由を制限され、死に怯えて暮らさなければならない。死ぬべき運命の人間が死
を嘆くのと、どちらが恵まれているだろうか。
 きっとそんなに違いはない。しばらく考えて、節子は結論付ける。恵まれているとかい
いないというのは結局、評価する人の立場によって違ってくる。けれども当の本人は、誰
がどう評価しようと辛いことに変わりはないのだ。
 コキドーハイツの人々は、死というものからの自由を求めている。望んでいる結果はそ
れぞれ違うけれども、死を気にすることなく暮らしたいと思っている点では普通の人と変
わらない。むしろ不死という特異な状況に置かれている分、普通の人以上に強く死に捕ら
われている。伊助はそのことに耐えられず、ゆっくりと時間をかけて沈殿してしまった。
私はどうだろう――。
節子は自問してみた。よく、判らなかった。通常の何倍もの長さの人生を約束されている
とはいえ、まだそれほど長い時間が経っていないからだろう。
 しかし、これだけはハッキリしている。香奈たちのように、過剰に死に束縛されたくは
ない。かといって、伊助のようにもなりたくはない。
 だから今日、こうしてここへやって来たのかもしれない。もしそうなら、最悪の行動
だ。自分のために伊助を利用しようというのだから。それにコキドーハイツの住人たちま
で巻き込むことになる。
 かといって、放っておくこともできない。目をつぶるのは楽だが、それは後で何倍にも
なって、先延ばしにした代償を求めてくるだろうを求めてくるだろう。香奈たちにまで、
その影響は及ぶ。つまりどのみち、周囲を巻き込むことは避けられないのだ。
 しかし、いざこうして来てみれば、どうしてもためらう気持ちが出てきてしまう。今の
ままでいることの心地よさ。それが失われたとき、後悔せずにいられるだろうか。失われ
たものが帰ってくることを望んで果たされず、無気力の中へどこまでも絡め取られてしま
うのではないか。
 しかし、時は過ぎゆく。不死者にすら死は訪れる。時間は数千年でも数億年でも、チャ
ンスを待つことができるのだから。
 忠晴と昭平がぎこちないながらも互いを理解しようとし始めたのも、香奈が生まれ変わ
りから抜け出す一歩を踏み出したのも、昭平がもうずっと、問題の解決に取り組んでいる

- 100 -
のも、意識的にであれ無意識的にであれ、遠大な期間からすれば、自分たちですら死から
は逃れられないことを知っているからかもしれない。
 節子もようやく人生をきちんと再開できたのだ。ここでまた、止まってしまうわけには
いかない。
 伊助でさえもう、今までどおりではいられなくなるのだ。それは伊助の望んでいること
ではない。けれども、望むと望まざるとに関係なく、時は過ぎゆくのだ。そして変化をも
たらす。ともかくも唐突に。
 ひときわ強く、風が吹いた。節子は紙を畳むとジーンズのポケットにしまった。
「で、これだけってわけじゃないんだろう? こんな炎天下にオジサンを引っ張り出し
て」
節子は伊助に背を向け、もと来た方へ少し歩き足を止めた。
「ここはまあ、これだけです。地味すぎて我ながら泣けてきますけど、ちょっとデートみ
たいにしたかったんです」
口に出してみると、予想以上の恥ずかしさがこみ上げてくる。
「あー、そうか。少し会わないうちに、その、なんだ。いやまあ、世代の差か? 俺が歳
の差について行けてないだけなのか?」
「冗談ですよ。呆れないでください。言ってみたかっただけなんですから」節子は伊助に
背を向けたままだった。「話があります。私の部屋でどうですか?」
「ああ。いいだろう」
伊助はためらうことなく同意した。
 そこで二人は節子の部屋へ向かった。どちらも一言も喋らなかった。

 部屋へ着くと、二人はテーブルを挟んで向かい合って座った。テーブルの上には氷を入
れたグラスに、烏龍茶が満たされている。
「何も言わなくても、ちゃんとお茶が出せるようになったんだな。いや、感動するなこれ
は」
伊助はわざとらしく言うと、烏龍茶を一口飲んだ。窓を背にして座っているので、顔が薄
く影に覆われている。
「言われるまで出さなかったの、最初だけじゃないですか」
節子もわざと不機嫌そうな声で言う。
エアコンをかけっぱなしにしていたので、部屋の空気は冷えて乾燥していた。節子は手足
の先から、太陽の熱が抜けていくのを感じる。
「カ号組織の首領は、伊助さんの親友だったんですよね」
脈絡のない話しの始め方だった。遠回しなところからでは、どうやって本題にまで行き着
けばいいのか判らなかったのだ。
「ああ。本当にいいヤツでね。俺の事情も全部知ってて、それでも普通に付き合ってくれ
た。今思えば、だから首領になった。いやだから首領だった、のか。ともかく親友じゃな
ければあいつは死なずにすんだだろうな」
節子が言おうとしていることの見当はついているのだろう。伊助も淡々と応じる。

- 101 -
「その人と戦って、それで?」
「それで、って。カ号組織は壊滅。俺は現役を引退したんだろ。今さらそれがどうかした
か」
「前にノブミツ、ヨ号組織の首領が言ってたんです。私たちが組織だと思っているもの
は、本当の意味での組織ではない。いくつもの集団が緩やかに連携しているだけだ、っ
て」
「それで?」
「本当に伊助さんや私は何かを壊滅させたんでしょうか?」
伊助は両手を組み合わせると、テーブルへ乗せた。
「つまり他に首領がいるんじゃないか、と?」
「そうです。首領というのが一番多くの小グループへ指示を出している存在だとするな
ら、他にもそういうポジションにいる誰かが存在するんじゃないかと」
「だが、最も身近な存在が首領なんだろう?」
「身近さ、なんて曖昧だしいくらでも変化しますよね? たとえハッキリとしていても、
その身近な存在がいなくなれば他の誰かや何かがそれに取って代わる。二位が繰り上がり
で一位になるような」
伊助は組んでいた手をほどくと、落ち着かなそうにテーブルを指先で叩いた。
「それじゃキリがないだろう。自分の親しい人を全員手に掛けなくちゃならない」
節子は力強くうなずいた。
「そうなんですよ。そうしない限り、首領は生まれ続ける。ひょっとして組織は、一度も
滅ぼされたりなんてしてないんじゃないですか? 私たちが組織の中のある部分を区切っ
てカ号とかヨ号とか呼んでいるだけで、本当はずっと、色んな首領の率いる小集団のまと
まりが存続しているだけなんじゃないでしょうか。今まで組織と戦ってきた人たちは誰
も、身近な人を順番に全員殺したりしてはいないはずです。伊助さんも。ここにいる人た
ちだって、伊助さんの身近な存在のはずなんですから」
伊助の目つきが変わった。いつものぼんやりとした感じではない。
「これは誰にも報告していないことだが」伊助はそこで烏龍茶を口にする。「現役を引退
した直後に一度、構成員の生き残りを捕まえたことがあるんだ。俺はそいつを締め上げて
な。命令してるヤツの所へ案内させた。そうやって上へ上へと辿っていったら、いやその
時点で上を辿れる方がおかしいんだが、とにかく小さな漁村の片隅に暮らす老夫婦の所へ
行き着いた。二人は俺を新しい構成員か何かと勘違いしたんだろうな。とれたての魚を出
してずいぶんと歓迎してくれたよ。自分たちが首領だって言ってな。よく来た、なんて
な。で、その二人が何をしてるかっていうと、何もしてない。よく解らないがあるとき二
人とも自分が首領だって気付いて、たまに若いのが来るとそうやって歓迎して、それだけ
なんだ。俺はすっかり混乱した。混乱して夫の方と酒を飲んで、次の日に帰ってきた」
「その二人のことは?」
「知らない」そう答えた伊助は、一気に力が抜けたようだった。「あとで考えたんだが、
トーナメント表ってあるだろ。あれを下から辿っていって、準々決勝あたりでまた倍々に
枝分かれしていく。そういうイメージなんだろうな」

- 102 -
「でも、抵抗者に最も身近な人が」
伊助は節子の言葉を手で制した。
「もちろん、そうやって選ばれる首領だっているんだ。たぶん首領になる過程はいくつも
ある。たまたま俺や節子は、抵抗者に身近なヤツが首領になる、というプロセスの中に組
み込まれているんだろう。他にどんなプロセスがあるのかは想像もつかないが」
節子は組織の全体像を新たに思い描こうとして、諦めた。
「懐かしいな。俺も引退してはじめのころは、今のお前みたいなことをずいぶん考えたも
んだ」
伊助はまた、いつものけだるそうな様子に戻った。
「その結果が、誰とも本当には親しくしない、っていう生き方なんですね」
持っているだけの意志の力をこめて、節子は伊助を見据えた。伊助の瞳は気だるさを装っ
たまま、それを受け止める。
「考えすぎだよ。俺は単純にぐうたらしてるだけだってば。なんかこう、やる気が起きな
くてさぁ」
そういうことにしてしまおうか。節子はそんな思いに捕らわれる。そうすれば、しばらく
この暮らしが続けられる。だが、それでは事態が表面化したときに致命傷となるだけだ。
なにより、変化を止めることはもうできない。先延ばしにするといっても、時間の問題だ
ろう。遠からず香奈か昭平かが、節子と同じことに思い至るはずだ。それがどちらであっ
ても、忠晴のように放ってはおかないだろう。伝えられる中身が同じなら、節子はどうし
ても自分の口で伝えたかった。
 物事の主導権は先行している方にある。そんな基本を教えてくれたのも、伊助だった。
このまま一気に主導権を握らねばならない。節子はいったん歯を食いしばり、少しして力
を緩めた。
「いいんですよ。伊助さん。もうそんな嘘をつかなくても。私が伊助さんと同じ考えに辿
り着くのが遅かったんです。私のせいで伊助さんはもう、首領なんですよね?」
なだめようとする伊助を無視して、節子は続けた。視界が急に狭く感じられ、暗記した言
葉を唱えているような気になってくる。
「ちゃんと考えれば、すぐに解ったはずなんです。私にとって身近な存在といえば、ノブ
ミツと同じくらいに伊助さん、あなたのことなんですから。首領が一人じゃないなら、伊
助さんだって。他にも色々とありますし」
伊助は慌てて手を振った。
「ちょっと待て。な? まあ落ち着け。そういう憶測で決めつけるのはどうなんだ」
「あっさり認めて戦うのと、意味のないごまかしを言いながら戦うのと。面倒でない方を
選んでください」
「戦う」という言葉が、節子自身を動揺させる。本当に自分に、そんな覚悟があるのか自
信がない。それが伊助をどう変化させるのか、知るのが怖かった。目を閉じそうになるの
を、どうにか我慢する。
「仮に俺が首領だったとして、だ。命を支え合ってきた仲間とそんなに簡単に戦うつもり
なのか?」

- 103 -
「もちろんです。首領というのは私にとって、家族の仇も同然。これまで仲間として私を
騙していたのなら、よけいに罪は重いじゃないですか」
節子は軽く言った。伊助はしばらく迷っている様子だったが、やがて口を開いた。
「確かに、認めた方がまだマシそうだな。まあ、お前は上手くやったというか、まだまだ
というか。完全に噂へ取り込まれてるだろ」
身構えようとした節子は首をかしげた。
「化け猫?」
伊助はわざと短い沈黙を挟んだ。節子を威圧しているつもりなのだ。
「だ、か、らぁ。忠晴さんも昭平くんも、姉さんも汽一郎くんもみんな、お前が『死んだ
ら終わり』じゃなくしただろうが」
「私が?」
伊助はうなずく。
「化け猫は目くらましだ」
「でも、噂になんかなってませんよ」
「あのな。噂ってのはまず誰か一人が別の誰かに話すところから始まる。その始まりの部
分にお前が組み込まれてたんだ」
今度は苛立たしそうな口調になる。
「でも、汽一郎さんは自分で」
「自分で自分の噂を流すことだってあるだろ」
伊助は心の底から呆れたような口調で言った。節子はようやく理解する。
「そもそも、みんなが本当に前々からああだったとしてみろ。今頃こんな穏やかに暮らせ
るわけないだろうがさぁ。政府でも町内でも、誰かがおかしいって気付くだろ普通は。忠
晴さんなんて戦前からここにいることになってるだろ、いま」
「そんな。滅茶苦茶です。それじゃ言ったことが何でも現実化するようなものじゃないで
すか」
節子は思わず立ち上がった。
――それに、じゃあ私のせいでみんなもう平穏に暮らせないじゃないですか――
心の中でだけ、そう付け加える。
「ああ。それだけ現実化に要する規模が小さくて済むようになってるんだ。さすがに何で
もかんでもってわけにはいかないが。技術は常に進歩している。まあ座れ」節子が椅子に
座るのを待って、伊助は続けた。「目的は他でもない。いろんなタイプの『死んだら終わ
り』ではない人を生み出すためだ。今後はその成果をもとに、実用的な不老不死を完成さ
せる。最終的には死者を蘇らせるところまで目指すつもりだ」
喋る伊助からはもう、見慣れた気だるさが消えていた。
「構成員を生き返らせようってわけじゃないですよね」
「まあ、違うよなあ」
伊助が誰を生き返らせようとしているのか、節子にはよく解った。他の誰のために、伊助
が動くというのか。
「奥さんと子供さん、ですね?」

- 104 -
言いながらも悔しくてならなかった。何十年経ってもまだ、伊助は失った家族を諦めてい
なかったのだ。節子は自分が少しもその空白を埋められていない、という事実を思い知ら
される。伊助も節子考えを見透かしたように、腕組みをして微笑んでいる。
「じゃあ、このままいけば……」
さっき言わなかったことを口にしようとして、最後まで言葉にできなかった。声が震える
のを止められない。
「遅かれ早かれどこかで誰かが気付いて、この暮らしは続けられなくなるだろうな」
節子は両手でテーブルを叩いた。荷重に耐えきれず、テーブルがうめく。
「あとはそう、悪いけど節子に消えてもらう必要がある。協力する気なんてないだろ?」
言葉の上でのことだとでもいうように、伊助は軽く尋ねた。
「もちろんです」
節子はテーブルに両手をついたまま、低い位置から伊助をにらむ。
「そうか。じゃあ、工場跡で」
伊助は軽い口調で言うと立ち上がり、窓際に歩き寄った。片手を持ち上げて前にかざす
と、大きくはないが鈍い音と共に壁一面が丸ごと吹き飛んでしまった。
 粉塵が収まると、そこにもう伊助の姿はなかった。

- 105 -
第七章

 広場に降り立った節子を待っていたのは、見慣れた男ではなかった。昆虫をモチーフに
した美しい甲冑で顔まで隙間なく覆われた、美しい存在だった。
 白い光沢のある全身が、陽を受けて輝いている。よく見れば透明感のある淡い虹色の膜
が白い表面を包んでいて、複雑な色合いを付け加えていた。全体の有機的な曲線が優美さ
と威厳を生み出している。それこそが伊助の変身した姿だった。
 節子は初めてその姿を目にして、自分の醜さを恥じる気持ちが抑えられなかった。急
に、自分が裸であることを強く意識してしまう。
「同じ改造人間でも、俺たちは違う技術で作られている」
伊助が先に声を掛けた。その言葉に節子は少しだけ、落ち着きを失う。自分の方があとの
技術で改造されたぶん、基本の部分で優れている。その前提がいきなり覆されてしまった
からだ。押さえつけている恐怖心が自由になろうと暴れだす。
「この格好は何年ぶりだろう。正直、うまく変身できるか自信がなかったんだが。自転車
の乗り方と一緒だな。一度憶えればあいだが空いても上手くいく」
伊助の声は変身前と同じだった。節子は黙って身構える。羞恥心はよく馴染んだ闘争心に
よって、後退していく。
「どうした?」
伊助の声が聞こえたと思ったとたん、節子の体は後方へはじき飛ばされていた。
「悪いが、負けるつもりはない。目的があるからな。それに、痛いのは嫌だ」
馬乗りになった伊助から何度も殴られる。普段なら見切れそうな動きでさえ、かわせな
い。
「ずいぶん、今日は喋るんですね。それが素なんですか?」
痛みを無視して節子は言った。いつにも増して酷い声だった。
「舌、噛むぞ」
節子は笑みを浮かべたが、変身した体では口元がひくつくだけだった。
 実戦から長らく離れていたせいか、伊助の動きにはキレがなかった。節子は一瞬のタイ
ミングを見計らって、伊助の拳へ食らいついた。ノドを潰されるより先に、牙が手首を捕
らえる。
 節子は必至で首を振った。金属がこすれるような音。押さえつける力が弛んだすきに、
節子は伊助をはねのけて立ち上がる。そのまま足を踏みおろしたが、伊助は転がってそれ
を避ける。
「こうやって向き合うと、お前なかなか凶悪な見かけだな」
仮面の向こうで、伊助が顔をしかめたような気がした。節子を再び羞恥心が襲う。闘争心
を掻き立てようとして、節子は牙をむいて唸ってみせた。
 伊助の体が沈み込んだかと思うと、節子へ向かって飛び込んでくる。節子は体をひねっ
てかわそうとしたが、伊助は少し手前で足を伸ばして反動で進路を変え、横から蹴りを放
ってきた。
 節子はなめらかな曲線を描く伊助の脚をつかんで、思い切り伊助を投げ飛ばした。土を

- 106 -
えぐり、伊助の体が地面の上を滑る。
 勝てる。節子は確信した。その結果が意味することも気にならなかった。構成員と戦っ
ていた感覚が一瞬で蘇り、体中に力が沸き返る。
 節子は伊助が立ち上がるよりも先に駆け寄り、その顔へ蹴りを入れる。工芸品のような
頬の表面にヒビが入る。隙間から赤黒い体液が染み出してきた。
「楽しそうじゃないか。節子。お前本当にこういうのが好きだな」
思わず否定しそうになって、節子はのけぞった。走り寄った伊助の突き上げた拳が、節子
の牙を直撃したのだ。がら空きになったボディへもう片方の拳が埋まる。
 節子は吐きそうになるのをこらえた。殴られた方の牙が折れ、足元に転がる。節子はの
けぞった体勢から頭を振り下ろした。伊助が離れる。
 二人はしばしにらみ合った。吐き気の治まらない節子の腹が脈打っている。勝てると思
った自分の甘さを節子は後悔した。
 伊助が踏み込んでくる。その右手が前に突き出されていることに気付き、節子は後ろへ
飛び退いた。それまで節子のいた場所の土が吹き飛ぶ。壁を壊したのと同じ衝撃波だ。
「言ったろう。別の技術で改造されたんだ」
再びにらみ合いが続く。
 それからどれほどの時間が過ぎたのか。一瞬が数分に引き延ばされ、数分が一瞬に圧縮
される戦いの場にあって、節子は時間の感覚を失っていた。
 伊助はひさびさの手強い相手だった。死力を尽す感覚、勝ちが見えない重圧感。節子は
ひたすら戦いに集中し、無感覚になっていった。意識が加速し、互いの動きが永遠の果て
から繰り出されているような気がした。
 しかし、二人の肉体は着実にダメージを蓄えていた。全身が分解しそうなほどの疲労と
痛みが、二人の動きをにぶらせる。やがて応酬が止まった。二人は距離を取って立ち尽く
す。
 節子は体中から血と粘液を流していた。左腕が体の脇で揺れている。関節を極められ、
骨こそ折れなかったがスジを麻痺させられたのだ。突き出たあごの先から、血混じりのよ
だれが地面へ落ちる。
 伊助も深刻なダメージを受けていた。身を鎧う外甲はあちこちがひび割れ、欠け落ちた
下から黒っぽい肉が見えている部分もある。目の下にできた亀裂からは今も血液が流れ出
し、顔を朱に染めている。
 どちらも限界が近いことは明らかだった。動きを止めたことで、急速に意識が現実の時
間と同調する。節子は自分の目がかすんでいることに気付いた。伊助も膝へ両手を当て、
どうにか体を支えている状態だ。
「なあ。やっぱり、考え直さないか?」
伊助は苦しげに言い、右手と右膝とを地面に突いた。
「いや、です」
節子の返事に対し、伊助は大きな音を立てて舌打ちをした。
「お前、本当に変わらないな。言い出したら妙に頑固なのな」
「よけなお世話、です」

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伊助は愉快そうに笑った。
「本当に、俺は首領なんだと思うか? 忠晴さんや汽一郎を不老や不死にしたのも、俺が
仕組んだんだと思うか? ひょっとして、それもこれも全部、現実化した噂が過去を遡っ
て作り替えた結果なのかもしれない。誰にも真相は解らないが。まあ、それを言うなら俺
たちが自分の身に起こったと思っていることもすべて、噂が現実化したものなのかもしれ
ない」
「それなら伊助さんだって、初代首領や組織という存在の、噂が、現実化するよう、踊ら
されてるだけな、んじゃないですか?」
「ま、そうかもしれないな」
伊助はあっさりと認める。
「そんな理不尽なもの、絶対に受け入れません。伊助さん、私はあなたやみんなを、必ず
この馬鹿げた仕組みから――」
笑おうとして、伊助は咳きこんだ。
「まあいい。お前はお前で、好きに生きろ。時間はたっぷり残ってるんだ。俺や歴代の抵
抗者がたどった思考を、ゆっくり追いかける余裕だってある」自分の重さに耐えかねるよ
うに、伊助の右手が土の上をすべって前に出る。「ただなあ節子。考え詰めればけっきょ
く俺たちは二人とも、初代首領の始めた遠大な仕掛けから外へは出られないんだ」
さらに右手が前に出る。伊助の肘は今や、まっすぐに伸びていた。
 不意に重たい衝撃が両足を襲った。衝撃波だと気付いたときにはもう体が前のめりに倒
れ、地面はすぐそこだった。

 目覚めると、節子はゆっくり周囲を見回した。あたりには誰もいない。昭平がいた場所
の周辺は、土がえぐれて大きなくぼみができている。節子は立ち上がろうとして、両足の
痛みに再び倒れた。呼吸を整えて痛みが去るのを待つと腹這いのまま両手で上体を起こ
し、腰から下を引きずるようにして一番近くの塀まで進んだ。そこで壁に背中を預ける。
 見上げると、太陽はまだ中天高くに輝いていた。蒼空の上の方を薄い雲が急ぎ足で通り
過ぎていく。
 心の中から大きなものが抜け落ちているようだった。しばらくして節子は、それが憂鬱
さだったことに気付く。最悪の状況なのに、なぜだか笑みが浮かんできた。くっくっと、
ノドを鳴らして笑い声が漏れる。自分でも何がおかしいのか、よく解らなかった。一番大
事な人と殺し合いをし、最悪の関係で分かれたというのに。
 きっとこれが変化ということなのだろう。組織との戦いへ身を投じる前は日常的にあっ
たはずのことなのに、今では生まれて初めて体験するかのようだった。
 戦いを通して感じていたのとは別の変化。目的へ向かって直進するのとは違う、まるで
連続性のない変化だ。
 誰かが塀を越えてくる。節子は物音のする方を向いた。塀の向こうに積み上げられたガ
ラクタを越えて、汽一郎が顔を覗かせた。
 節子は手を挙げて、無事であることを知らせようとした。しかし、その手は他人のもの
のように重く、節子は少し持ち上げるだけでもずいぶん苦労させられた。なんだか、また

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おかしさがこみ上げてくる。節子は汽一郎が近付いてくるあいだも、まだ小刻みに肩をふ
るわせ、声もなく笑っていた。

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終章
 節子は自分の部屋で独り、座っていた。損壊した壁の修理はまだされていない。早くも
砂ぼこりが、床へ薄く積もりはじめている。寝起きは別の部屋でしているが、布団以外は
まだそのままだった。
 汽一郎の話ではあの日、伊助から「着替えを持ってすぐ工場跡へ行くように」という内
容メールが届いたのだという。そこで汽一郎は自分の持っている服から節子でも着られそ
うなものを選ぶと、急いで工場跡へ向かったのだった。
 変身を解くと、節子は汽一郎から受けとった服を着て、体を支えられながらアパートへ
帰った。全身が血で汚れていたが、シャワーを浴びる気力もなくそのまま眠り込んでしま
った。
 病院へ行ったのは翌日のことだった。普通の病院で診察を受けると騒ぎになりかねない
ので、ヨ号組織対策委員会の指定病院を利用した。あちこちに打撲と裂傷。麻痺したスジ
も当分は治りそうにない。こうして部屋で椅子に座っている今も、まだ呼吸をするだけで
体中が痛む。
 伊助はあれっきり、どこかへ消えてしまった。汽一郎へメールを送った携帯電話も、破
壊されたのか反応が失われていた。
 節子は誰にも真相を話さなかった。組織の生き残りに襲われ二人で戦ったが、節子は攻
撃を受けて途中で意識を失ってしまった。おそらく伊助は生き残りを追ってどこかへ行っ
たのだろう。コキドーハイツの人々や委員会にはそう説明した。
 香奈と汽一郎は節子の説明を信じたようだった。忠晴と昭平はそれが事実ではないと察
したようだったが、なにも言わなかった。委員会も沈黙している。対策を協議しているの
か、協議された対策に基づいた行動なのか。
 香奈の中で、組織との戦いはようやく本当の終わりを迎えたように感じられた。それは
伊助と自分との関係が一度リセットされたということでもある。
 要するに自分はフられて、ようやく初恋のようなものが終わったのだ。節子はそんなふ
うにも考えていた。思えばずいぶんと長い「初恋」だったわけだが。
 もっとも、それが本当に恋心なのかは判らない。限られた人間関係の中で芽生えた、た
だの執着なのかもしれなかった。あるいは、同じ境遇に置かれた者として惹かれていたの
かもしれない。それを見極めることは、もう永久にできないかもしれない。
 やはり失われた伊助との関係を惜しむ気持ちはあった。けれどもそれは思っていたより
もずっと、しっくり節子の感情によく馴染むものだった。心地よくはないのだが、かとい
って辛くなるものでもない。
 伊助が生きている以上、組織はいつの日か活動を再開するはずだ。おそらく、コキドー
ハイツの人々を狙ってくるだろう。
 そうなれば節子は全力で香奈たちを守るつもりだった。もし伊助の言葉が本当なら、彼
女たちに数奇な過去を与えたのは自分ということになる。それなら、自分には住人たちの
平穏を守る義務がある。
 たとえ伊助の言葉が間違っていても、それでも節子はみんなを守りたかった。正体を偽
ることもなく、利害や職務も抜きで続けられる関係。もう遠い過去の記憶に残っている家

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族や友人は、たしかにそんな存在だったはずだ。
 それに、たとえ不確かで噂によって改変されたものでも、「いま知っている現実」こそ
が節子にとっては唯一の現実だ。だからその現実の中身がどんなに変わっても、節子から
すれば周囲の人々との関係は常に同じ、「他に代わるもののない」特別な関係なのだ。
 とはいえそれらは別の流れであって、家族を殺されたことに始まる一連の流れとは、も
う別物のような気もした。
 そもそも節子は伊助を放っておく気などなく、どうにかして探し出すつもりでいた。伊
助を見つけてどうするのか。言ってやりたいことは山ほどあるが、はっきりとした考えは
ない。
 だがそのときが来れば、答えは自然と出るような気がした。また戦うのかもしれない
し、もっと別な展開になるのかもしれない。
 吹き付ける熱風を正面からとらえ、節子は小さくうなずいた。それは何気ない仕草だっ
たが、待ち受けるものや情報技学という理不尽な仕組みに、あくまでも抵抗するという決
意の現れだったのかもしれない。
 背後でドアが開いた。振り返ると香奈が立っていた。少しずつ人の顔が判るという状況
に慣れてきているそうで、誘拐されていたとは思えない元気さだ。最初の頃は香奈の飲み
込みの早さを不思議に思ったりもしたが、もともと適応能力が人並み以上に優れているよ
うだった。物心が付いたらまず最初に、引き継いだ記憶やそこから得た知識と折り合いを
付けるということを繰り返してきたためかもしれない。
 今にして思えば、香奈を連れ去ったのはほぼ間違いなく伊助だったのだろう。その後に
起った出来事を考えれば、あのタイミングで他の誰かが香奈を連れ去り、そして何もせず
連れ戻すことなどありそうにない。
 おそらくどうにかして刺激を与え、事態を動かそうとしたのではないか。節子をとおし
てコキドーハイツの人々を不死者にしようと考えていたのなら、伊助自身が裏から介入す
ることで進行を促すというのはあり得る。結果的に、それは上手くいった。
 香奈は忠晴との話も上手くまとまったらしい。汽一郎も含めた三人の関係は、はたで見
ていても拍子抜けするほど急速に善転している。
「珍しいですね。お店は休みなんですか?」
戸口に立った香奈へ、節子は声を掛けた。
「まあね。それでさ、これからフライングエイプに行こ。今日は年に一度のお客様感謝デ
ーで、昼間っから営業してるから。当日だけの限定メニューなんかも格安で出してて。ま
あ、本当は今日ってあいつの誕生日でさ。そのままだと忘れられたりしそうだから、って
ことでわざわざ感謝デーとかいって人を集めてるんだけどね。ホント、そういうところは
寒いというか何というか。誰も忘れたりしないのにね」
いかにも嘆くように言うと、香奈はドアの枠に手を掛けた。
「忠晴さんは」
「来ないって。酔っぱらいが大勢いる中にまぎれこんで、ケガでもしたらどうするんだ、
だってさ。誰もそんなにはしゃがないのに」
香奈は不満そうだった。

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「いえ、案外危険かもしれませんよ。香奈さん、酔っぱらうと手が出るじゃないですか」
「な! いやあれは冗談じゃない。そんなに強く叩いてないし」
節子はわざと黙っている。
「ちょっと黙り込まないでよ」
「いえ、忠晴さんの肉体が香奈さんの力に耐えられるかどうか……」
節子は微笑んだ。不意に香奈の手が伸び、節子の眼鏡を外す。
「眼鏡、外して行きなよ。私の手があたったらよくないから。悪くないんでしょ? 目」
節子は少し迷って、うなずいた。
「そうですね。眼鏡はもう、やめます」
今度は香奈が笑みを浮かべた。
「じゃあ今日はそのお披露目にしよう。あ、準備が終わったら私の部屋に寄って」
「準備、ですか」
節子はあらためて部屋を見渡した。準備しようにも、ほとんどの物がここ数日で風にさら
され使い物にならなくなってしまった。
 てきとうに買いそろえた生活の品々も、こうして失われてしまうと少し寂しい気がし
て、節子は意外に感じた。けれどもその寂しさは、まんざら悪いものでもなかった。
「部屋はこんなですし、いいです。このまま行きます」
節子は椅子から立ち上がると、香奈と一緒に部屋から出た。ゆびぬき通りは今日も晴れ
で、強い強い風が吹いている。
――(了)
 

提供:ハムカツ屋
http://www.hamkatsuya.com/

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