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タマノクルーズ案内資料

タマノクルーズ ~たまの東海道
たまの東海道~
東海道~ 案内資料

① 宇野 新浜塩田跡
天保13年(1842年)築堤、22町。(児島郡誌) 現在は、玉野市役所・玉野警察署などが建ち、市の
中心地となっている。古くは、他に古浜・中浜・沖浜などが新浜の西方・北方にあった。

② 宇野発電所名残の煙突
わが玉野市に電灯がついたのは、明治45年7月であった。(因みに日本に初めて電灯がついたのは
東京銀座で明治15年。)当時電気王とまでいわれた才賀藤吉が、宇野村に東児電気株式会社を設立。
磯辺に宇野第一発電所を建設し、宇野村一円に供給。大正8年、浜崎に宇野第二発電所を建設し、東
児島10ヵ町村全部に電力が供給されるようになった。宇野港の西岸にそびえているコンクリート製の高
い煙突は、当時活躍した宇野発電所の名残である。

③ 三井物産船舶部仮工場跡
大正6年7月、三井物産船舶部が当時宇野港で空いている県有地その他一部を借地して、玉へ造船
所ができるまでの仮工場を始める(宇野発電所名残の煙突より北方宇野駅寄り)。仮工場といっても3基
の船台が造られていた。同年12月には、木造貨物船海正丸1,200㌧が進水。岡山県で木造船とはい
いながら1,200㌧もの貨物船の進水式は初めてのことである。僅か2年足らずの間に、運送船・作業船
などを含めて26隻が建造された。大正8年5月、玉に造船所ができ仮工場を閉鎖する。

④ 田井 広潟浜塩田跡(現築港)
天保10年(1839年)築堤、25町13歩。築港老松通りの八幡宮に石造の燈台がある。塩田竣工記念
に18番浜埠頭に建立され、明治41年19番埠頭明神社に移転。(田井村誌)当時の運河(汐入川)の名
残を今もかなり辿ることができる。因みに塩田跡地を開発し、明治42年宇野港が築港され、明治43年
宇野線開通、宇高連絡船が就航した。(昭和63年宇高連絡船廃止)

⑤ 京の上﨟島(キョウノジョロトウ)のはなし(香川県直島町の無人島)
昔むかし、三宅の祖加茂の庄に、東郷太郎、加茂二郎、西郷太郎(諸説ある)という3人の兄弟があっ
た。長兄の東郷太郎は、都で結婚したため妻は都におり、弟の加茂二郎は田舎で結婚して妻を田舎に
置いていたが、この兄弟は同じ仕事を兄弟が交代で務めていたのである。従って、兄が田舎に下るとき
その妻は都に残り、弟が都にのぼるときその妻は田舎に残っていた。このため妻は、夫々の夫を慕いな
がらも次第に夫への疑いを深め、しかも二人ながら夫に会うことができなかった。思い余った二人の妻
は、お互いの不幸を苦にして直島と田井の間の海に身を投げて死んだのである。里人は、これを哀れん
で八浜の奥に光眼寺という一寺を建立し、丈六の観音像を安置してその菩提を弔い、女の形をした石を
この島の海辺に建てた。この話が拡がり、ここを通る上り下りの船、不知火の築紫の人までこの島を京
の女郎・鄙(ヒナ)の女郎と言うようになった。というものである。(玉野市史続編)他にも悲恋悲話が伝わる
この島に現在は灯台が建っている。

⑥ 喜兵衛島と師楽式土器製塩(香川県直島町の無人島)
近藤義郎岡山大名誉教授を中心とする調査団によって、喜兵衛島が1954年3月から1966年まで

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断続的に調査された。その結果、浜に散乱、又土器層をなすなどの夥(オビタダ)しい土器片は、昭和の初
めに邑久郡牛窓町(現瀬戸内市)師楽遺跡の発掘調査で正体不明なままに命名された師楽式土器であ
り、製塩に使用された土器であると結論づけた。喜兵衛島では主に6世紀から7世紀初頭の土器製塩が
調査された。師楽式土器出土地は市内南岸の各地にあるが、ことに番田大入崎の南側、山田品の作、
原、出崎海岸の船越、灰出、胡磨の浦、田井小学校付近、日の出、高辺、三井造船所構内、深井、宮田
山麓などに多く発見される。

⑦ 牛ヶ首聖園のはなし
備前松島と呼ばれる景勝の所、明治末年別荘でも建てようと牛ヶ首を買収した岡山の西尾吉太郎と
いう人が、山の西に33間岩といわれる細長い巨大な自然石を発見。長さ80㍍にも及ぶこの岩が、西に
向いて南北に伸びているたたずまいは、熱心な日蓮信者である彼にとって、日蓮聖人入寂の姿に見え
たという。彼はこの露出した自然石を刻んで日蓮の涅槃像(ネハンゾウ)を形成し、この島全体を聖地にする
ことを発願したのである。広く日蓮宗の信者にも呼びかけ、これを聖園として世界的な信仰の島にしよう
という、全国的な運動がおこった。奉賛会の組織も全国的なもので、東郷平八郎、小笠原長生など当代
一流の将軍が名を連ねている。信者の奉仕による作業も進み、島には小さいながらも堂宇や宿舎もで
き、涅槃像の雛型も祀(マツ)って僧がこれを経営していた。しかし、その後の経過については明らかでな
い。牛ヶ首聖園の出現を信じ、信仰を持ち続け「南無妙法蓮華経」という唱和を唱えながら単身鑿(ノミ)を
振るって、日蓮の涅槃像を刻んでいる松下与市さんがテレビで紹介された時期もあったが、現在は鑿音
も絶えて久しい。

⑧ 田井新港(宇野港田井地区)
田井新港は、昭和58年度から国・県事業として進められ、平成元年8月、開港式が行われた。これに
より、3万㌧級の大型船なども入港出来るようになった。

⑨ 前丁場・先丁場 石の採掘場
天正11年(1583年)、豊臣秀吉が大阪城を築くに当り、田井の前丁場と先丁場の2ヶ所に石の採掘
場をおいた。前丁場は、和泉の国守が命を受け採掘に従事したので和泉丁場といい、先丁場は、阿波
の蜂須賀家が採掘したので一名阿波丁場ともいった。大阪城落城後も、残った石材を蜂須賀家が家康
から貰い受けて、明治に至るまで石番をおいてその石を管理させたという。その石の大きさは、長さ7.8
尺~1丈1.2尺迄、幅3尺4、5寸~4尺迄であった。これが総計38本あったと記録されている。現在は田
井新港が築港され、両採掘場共に海岸線より遙か奥になっているが、以前の水際や石切場であった有
様を今も偲ぶことができる。

⑩ 田井 前潟浜塩田跡
天保6年(1835年)築堤、14町4反8畝23歩。(田井村誌) 現在「わたなべ生鮮館」等が建っている
所。古くは福原浜塩田など周辺に古浜があった。(撮要録)

⑪ 田井 見能潟浜跡(一名城ヶ浜)
弘化元年(1844年)築堤、9町1反8畝10歩。(田井村誌) 現在は塩田跡地西寄りに新道が通って
いて、道路の傍らに塩竈さまの祠(ホコラ)がある。

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⑫ 慈照院(田井)
田井の池畑部落の山腹にあって、前面に広がる海には大小の島々が点在し、美しい景観を一望に収
めることができる。寺の創立者平田智清尼は、平教経の後裔、平田常右衛門の娘。平家一門が滅びた
当時、田井新左衛門尉信高を頼ってここに住みついたという。
信仰深い家庭で信心深く育ったお清は、19歳の時大病を患い諸方の神仏に平癒祈願をしたが、特に
お大師様には病気平癒の暁には四国霊場を21回巡拝します、という願かけをして信心した。やがて、
病気も全快したお清が初めて四国遍路に旅立ったのは、寛政2年(1790年)、22歳のときであったとい
う。それから8年、29歳までにお清は四国霊場を23回も巡礼する。21回からは「はだし参り」をしていた
が、このとき23番札所、日和佐の薬王寺で旅の出家から1本の杖と7足のわらじを授かったのである。
不思議なことにお清に杖とわらじを授かると、旅の出家はかき消すように姿が見えなくなった。お清は、
これこそ大師様から遣わされたものと信じ、いよいよ信心を深めたという。
若い身空で苦しい修業を重ねたお清の大師信仰は、いつの間にか生き菩薩として仰がれるようにな
り、寛政12年頃からは近郊近在の参拝者が増え始めた。ある夜、弘法大師が夢枕に立ち「これからは
汝に授けた杖によって諸人を助け得べし」というお告げがあり、それ以来、この杖を大師の象徴として益
々信者は増え、池田家や藩士の家中からも迎えられ、加持祈祷に出かけるほどになった。文化3年(18
06年)「慈照庵」という庵号を天城池田の隠居成心斉がつけ、そのまま続いていたが、昭和17年「見能
山慈照院」と改める。児島霊場第十三番札所である。(玉野市史続編)

⑬ 大薮沖 一文字波戸(仮称)
ヒラメの養殖の波よけとして、平成7年から築造工事が始められ、同10年3月に完成した。

⑭ 大薮浜塩田跡
宝永(1704~1710年)前築堤、2反。(山田村誌)大薮港の北方。

⑮ 大薮 浄光寺宝積院の標石、宝寿庵跡
児島霊場第七十一番札所。(諸説有り)元々は八浜にあったが、大正元年浄光寺が廃寺となり、この
寺の檀家が大薮に多かったので、明治の中頃「第七十一番宝積院」の標石を現在地に移転した。現在
は一間四方の本堂と前に小さい礼拝所を付け、お堂の中に大師像を祀ってある。この高台は、観音山と
呼ばれ宝寿庵があった。明治16年にはここに小学校が新築された。(同18年、後閑小に合併)現在の
ようにみかんが栽培されるまでは辺り一面梅林であった。山田八景にも梅林が詠まれている。南方遙か
内海に臨み、まことに景勝の地である。
漠漠山隈幾百梅 朔風凄冽冒寒開
観音報賽為霑潤 萬斛香衣帯月回 (詠、昭和3年山田村誌執筆者北畠翠溪)

⑯ 後閑ニュータウン
平成6年、埋立工事が完了。(平成9年造成工事完了)後閑ニュータウンには、若い世帯が多く入居し
ている。従って、後閑小の児童数は今や山田小の児童数を上回っている。

⑰ 福浦 岡浜塩田跡 宝永前築堤、7反8畝18歩。(山田村誌)後閑ニュータウンの北方。
福浦 中浜塩田跡 宝永前築堤、1町1反7畝11歩。岡浜に接続し南方。(同)
福浦 沖浜塩田跡 寛政の頃(1789~1800年)築堤、1町1反18歩。中浜に接続し南方。(同)

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福浦の塩田は、現在のケイエスゴルフ練習場の辺りから北方にあった。

⑱ 後閑 古浜塩田跡 宝永前築堤、1町2反3畝14歩。中筋溝の左岸。(山田村誌)
後閑 新浜塩田跡 明治15年(1882年)築堤、1町8反2畝。中筋溝の右岸。(同)

⑲ 後閑 西湖寺跡と高心の墓
後閑地区の高台に西湖寺跡がある。沖の海が一望でき、中国の西湖の景色に似ているところから名
付けたという。山田八景にも「後閑帰帆」が詠まれている。現在は、大師堂と一棟になった高心の墓のお
堂がある。この墓は昭和34年、県の文化財に指定されている。墓は、正面に「沙弥高心幽霊之位」、左
側面に「至徳二年乙丑七月」と年号がある。(至徳2年:1385年)高心の俗名は伝わっていないが、元南朝
の武士楠木正儀(マサノリ)に仕えていたが、南朝が衰えるとともに児島に来住し、或いは直島にも隠棲した
と言われている。石塔にはカキ殻がついており、これには次の伝説がある。
高心が直島にいた頃から彼の徳を慕っていた人たちは、彼の死後も追慕の情が深く、墓を譲ってくれ
るよう後閑側と交渉したが決裂、ついに後閑にある墓を密かに奪って帰った。ところがその者たち悉く腹
痛に悩まされ、「高心の墓の祟り」と気付き、後閑へ返そうと船出した。しかし、中藻の辺りで舟は動かな
くなり、困り果てた直島の村人は、墓を海中へ投じ逃げ帰ったのである。その後、後閑の部落に疫病や
火事が次々におこり、祈祷者に占わせたところ、「高心の墓の祟り」とのことで、後閑部落の人たちは百
方墓の所在を捜索し、海中に沈んでいる墓を引き揚げ現在地へ祀った。というはなしである。(玉野市史
続編)

⑳ 沖須賀遺跡と山田中学校
昭和55年、山田中学校校舎改築に伴う発掘調査で、古墳時代および平安~鎌倉時代の製塩炉跡や
土壙(ドコウ)など発見。炉は煎熬(センゴウ)に、土壙は鹹水(カンスイ)溜土壙と考えられ、沖須賀遺跡と命名さ
れた。出土した製塩土器の一つが玉野市立図書館資料展示室に展示してある。
山田中学校は、昭和22年、新しい教育制度により六・三制が実施され、山田中学校が山田小学校に
併置され、昭和25年、現在地に新築された。又、昭和56年、現在の新校舎が完成した。

21 胡麻の浦

かつて山間には水田があり、白砂青松の海辺では地元の人たちがキャンプや海水浴を楽しんだ。
又、遺跡もある。現在は日本ペイントマリン株式会社臨海研究所がある。(昭和48年から船舶塗料の研
究)

22 投石(ナゲイシ)(出崎)

出崎の投石は、出崎半島先端近くの海上にある角形の岩で、およそ東西3.5㍍、南北9㍍で、満潮時
海上へ3㍍ばかり露出する。(山田村誌)
十禅寺の頂上から鬼が投げてここに落ちたと言われるものである。この投石にまつわる次の話が残っ
ている。ある日、西湖寺に寄食していた高心は、漁船を雇って出崎の辺りへ魚釣に出かけた。その時、
舟を操っているお浪という娘が近づいて来たので呼びとめ、投石の上に上がって二人でしばらく語り合っ
た。お浪は漁師の娘に似ず明るく賢い性格で、高心はその聡明さにすっかり魅せられたのである。投石
でのかたらいが機縁となり、お浪は高心の徳に帰依して道を求めるようになったが、どうしたことか間も
なく世を去ってしまった。高心はお浪の死を深く悲しみ、沙弥(僧)となり、ひたすらお浪の冥福を祈りなが

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ら、まるであとを追うように死んでいったのであった。住職は、寺で客死した高心の死を悼み、彼の石塔
を境内に建てたということである。(玉野市史続編)

2○3 出崎遺跡
出崎半島突端灰出の古墳時代の一号墳・二号墳が、平成4年、高圧送電線鉄塔・ケーブルハウス新
設に伴い発掘調査された。その際出土した遺物や調査の模様は、玉野市文化センター2階「郷土資料
展示室」に展示してある。又、岡山大学により出崎半島の6地点で古墳時代の遺跡調査が行われた。
出崎の和鏡(市文化財)は、灰出の頂上部で昭和30年発見、平安末期のもので経塚(末法思想)の
福蔵品として使用されていたものであろうと想像されている。これも市文化センター「郷土資料展示室」
に展示してある。

24 石島(イシマ)

石島は、香川県直島町井島と南北に分けている。北が玉野市石島である。人が居住しているのは玉
野市石島で、平成19年4月現在、世帯数38戸、島民114人(男57人・女57人)である。島の人々は、
主に漁業と農業を営んでいる。(島の外へ通勤している人もいる。)島には胸上小学校石島分校があり、
中学生はスクールボートを利用して東児中学校へ通っている。

25 林原類人猿研究センター

平成13年、林原類人猿研究センターが出崎にでき、チンパンジーの研究が行われている。

2○6 円山(マルヤマ)城跡
出崎の円山にある。緋田(アケタ)日向守貞信は、播州東山緋田荘に居城していたが、落城し円山に来
て、元亀年間(1570~1572年)に築城。3代目の則信の時この城も落城。則信は、作州湯原に落ちゆ
き、その弟と家臣は沼に土着、郷士として子孫長くここに住んだと伝えられる。

27 出崎海水浴場

昭和9年、瀬戸内海が国立公園に指定された。かつて田の浦と呼ばれていた出崎も、海水浴場として
脚光をあびるようになる。田の浦は山田八景にも詠まれている。又、平成18年の海水浴シーズンから
は、「ドッグビーチ」が開設され、(太陽殖産株式会社)ライフジャケットを付けた犬たちが話題を呼んでい
る。

28 沼浜塩田跡

宝永(1704~1710年)以前の開発、2反8畝。明治34年再発増築、8反2畝。(山田村誌)沼地区東
方黒山の麓。

2○9 熊野神社
沼の黒山にある。家都御子神(ケツミコノカミ)(素盞鳴尊)を祀る。紀伊熊野神社の末社若王子大権現より
勧請されたとのことで、元は若王子大権現と言っていた。明治36年、火災に遭い翌年再建。又、最近修
復工事を行った。(平成17年修復完成)

30 鳥打峠

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かつては交通の難所であったが、大正2年、難工事の末開鑿(カイサク)拡幅した。当峠の沼方面との分
岐点に後閑の東作平氏が開鑿記念として建設した石標があり、往時を回顧する縁(ヨスガ)となっている。
大正9年、西田井地から田井に至る道路が郡道となり、同12年、県道に編入される。鳥打峠は、その後
も度々開鑿拡幅工事を重ね今日に至っている。峠より山田側・後閑側へと下りながら風光明媚な景色が
広がり、山田八景にも詠まれている。平成11年、東野﨑塩田跡地へ新県道が開通した。(鳥打峠~西
田井地川尻)

3○1 東野﨑塩田(南浜)
後に塩田王と呼ばれる児島の野﨑武左衛門が、天保12年(1841年)に築いた入浜式塩田である。
73.3㌶の広大な塩田には、1番から38番までの37塩戸(17番を欠く)の製塩場を設け、独特の経営
方式を創案導入して安定した塩田経営を行い、近隣各地から技術を持った人々も集まり、山田は次第
に繁栄へと向かっていった。

32 ナイカイ塩業株式会社

創業者野﨑武左衛門が文政12年(1829年)備前児島の地で塩づくりを始めて、爾来一貫して製塩
業に携わる日本で唯一の企業である。天保11年(1840年)、東野﨑塩田南浜に東野﨑支店(東野﨑会
所と称呼)を設置。(塩竈神社西方現独身寮前汐入川(六間川)対岸付近)明治9年(1876年)、東野﨑支
店と改称。昭和23年、現在地へ移転。又、現在の社名は昭和49年(1874年)から使用されている。真
空式製塩、流下式塩田の発明、イオン膜法海水濃縮設備等々、常に技術革新の先鞭を切っている。

3○3 三五の灯台跡
灯台は35番製塩場付近にあったので、俗に「三五の灯台」と呼ばれ親しまれていた。嘉永5年(185
2年)石造りの常夜灯が山田港に設置され、明治初年の頃木造に改築、昭和20年頃まであった。大正
14年以降は、別に電灯台を堤防上に設置していた。山田港のシンボルとしての再建を望む声もある。

34 東野﨑塩田(北浜)

武左衛門は、文久3年(1863年)、胸上浜に属する東野﨑塩田北浜19.7㌶を完成させた。

35 はね橋「明神橋」

はね橋は当時の帆船が通過する際、橋の中央部が一方向水平に開閉する仕掛けにしてあり、船乗り
たちは竿で自在に開閉しマストを通過させていた。現在、昔の面影を辛うじて残している橋は、「明神橋」
とも呼ばれている。以前は木製であり、大正15年、コンクリート製に造り替えられているが風化が著し
い。橋は、山田港に注ぐ落合川(運河)の風物の一つとなっている。長く塩田の歴史を伝えていって欲し
いものである。はね橋は、二番・十番・二十番各塩戸の前にもあった。

3○6 塩竈神社
天保9年(1838年)東野﨑塩田の開発を始めた年、陸前(現宮城県)塩竈神社から勧請された。御神
体は塩竈の石、祭神は塩土老翁神(シオツチノオジノカミ)である。普通明神様と称される。本殿(御神体を祀る
神殿)は平成17年に改築された。境内には明治17年、三島毅撰の「東野﨑浜塩田之碑」がある。

37 蛭子座跡・大黒座

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大正2年(1913年)、現玉野市で初めての劇場「蛭子座(エビスザ)」(建坪170坪、収容人員1,000
人)ができ、後「大黒座」もできた。演劇・活動写真などの興行が常に行われ、地元民はもとより八浜・鉾
立・胸上等遠隔地からも観客が来た。大黒座は、今も石材加工場として使用されている。

38 サンマリン保育園

山田保育園と胸上保育園が統合され、平成16年開園した。

3○9 塩務局(後の専売公社)出張所、現「しおさい」
明治38年、味野塩務局の出張所が山田の白石に設けられ、明治41年、本庁舎が原に落成移転し
た。官制改正され、専売局味野収納書山田出張所になる。後も官制改正により度々名称変更。やがて
宇野港が開発築港され、後に業務は宇野へ移転する。昭和16年頃からは、当時の山田村役場として
使用される。昭和39年に当時の玉野市役所山田支所は現在地に新築移転、現在は老人いこいの家や
東地域ミニデイサロン「しおさい」として活用されている。裏に付属するレンガ造の建物は、かつて塩専売
に関わる公文書が保管され、「文書庫」と呼ばれている。明治時代の庁舎と文書庫がセットで現存する
例は全国に3例しかなく、この貴重な文化遺産を長く後世に残したいと、山田市民センターまちづくり講
座生が発起人となり、現在保存に向け活動中。

40 無動院

行相山一宮寺無動院と称し、真言宗。室町時代、弘法大師の再来と言われるほどの名僧であった増
吽(ゾウウン)僧正によって中興された。本尊は、聖観音立像、82㌢の小像ながら平安時代の特色を表し、
市内に現存する最古の仏像といわれ、昭和34年に市重要文化財に指定された。増吽僧正は、備中国
分寺・由加山蓮台寺・滝の正蔵院・日比観音院等々の中興・再建に尽力された。貞治5年(1366年)、
現在の香川県東かがわ市に生まれ、当地の与田寺で剃髪、高野山で修行、書画・彫刻にも優れてい
て、各地に仏画や版木が残されている。宝徳元年(1449年)最期を予告して、無動院山の故郷讃岐が
見える所で念仏行に入り、入定されたと伝えられる。今も顔の部分を開けた石棺(伝)が残っている。東
児結集の「聴聞」は、増吽が始めた行事で連綿と現在も続いている。無動院も乱世(寛文とも)廃寺にな
ったが、元禄7年(1694年)、梶岡常楽院住職宥円によって再興された。又、昭和62年、傷みが激しか
った御堂が人々の善意により修復された。
本堂の南西に文政4年(1821年)常楽院行雅の勧進でできた経蔵がある。中には「黄檗(オウバク)本
一切経」約800巻が納められている。
明治13年には、御堂の南方に第42番学区養才小学校が新築された。(学区は山田村・東野﨑村・
西田井地村・東田井地村)同校に奉職した岡武三郎の碑がある。明治26年、御堂の北方に校舎を新
築、第一尋常小学校と改称。(学区、山田・東野﨑)明治35年、現在地へ校舎を新築移転する。無動院
は、山田八景にも詠まれており、現在も一円の眺望は素晴らしく、春には桜の花見も楽しめる。児島八
十八ヶ所霊場めぐり第九番札所である。

41 山田 岡浜塩田跡 正徳6年(1716年)築堤、2町2反1歩。原部落の東方。(山田村誌)

山田 合田浜塩田跡 文化の頃築堤、1町2反1畝1歩。岡浜に接して南方。(同)
山田 中浜塩田跡 文政の頃築堤、1町8反3畝25歩。合田浜に続き南方。(同)
山田 六蔵浜塩田跡 寛政の頃築堤、1町9反9畝1歩。5反余は明治31年開発。中浜の南方。
(同)

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42 才崎(サイザキ)

胸上港の西風を遮る位置にある。現在はナイカイ塩業株式会社に接している。
海抜25㍍の城山は胸上城址であり、「吉備温故秘録」によると「高畠和泉守の一族である高畠源兵衛
が胸上の城に居た」とあり、「備陽記」には城主を「高畠源太兵衛」としている。
平家の落人の伝承「しのごじょさま」の話もある。それは、ひのえ御前の奥方がここに流れ着かれたの
を村の子どもたちが見つけ、村人達はこれを葬っておまつりしたと伝えている。

43 胸上港

江戸時代から明治にかけて、内海沿岸では下津井・吹上・田の口・日比・胸上が主要な港として栄え
た。(江戸時代初期、備前藩は26ケ村(うち児島郡8ケ村)を「加子浦」(必要に応じて幕府や大名の船の
御用を務める)に指定、胸上村もその中に含まれていた。)
胸上は風待ちに適した良港として各方面から帆船の出入りが多く、また漁港の基地としても重要な位
置を占めた。木炭・薪・柿などを積んで吉井川・旭川を下って来た高瀬舟が来航し、石島港を経て讃岐方
面へ向かう中継基地ともなっていた。それらの船の帰り荷としては塩や衣料が積まれた。
しかし、三蟠港から汽船が出るようになった明治10年(1877年)以後、帆船航路は漸次衰退する。明
治43年(1910年)の国鉄宇野線開通後は宇野港が発展、胸上港は漁港としての役割を果たすのみと
なった。現在では海苔の養殖も盛んである。(大正9年~昭和33年、定期船「三力丸」が岡山へ就航、山
田→胸上→番田→小串→宮浦→三蟠→福島→京橋を、一日一往復していた。)

44 東児が丘マリンヒルズゴルフクラブ

平成3年(1991年)開場、1992年正式オープン。面積140万㎡。
石川遼プロがアマチュア時代、2007年に行われたマンシングウェアーオープンKSBカップに初出場、
日本のプロゴルフ大会において史上最年少優勝を達成した。世界最年少優勝記録(15歳245日)として
ギネス・ワールド・レコーズに認定され、一躍有名になった。

45 波張崎(ハバリザキ)

波張崎貝塚は県下の貝塚の中でも一番古いものの一つで、ヤマトシジミ貝を中心に、カキ・ハイガイな
どが発見される。ヤマトシジミばかりの小さい貝塚もあり、瀬戸内海岸に淡水産の貝類がすんでいたこと
を証明するもので、当時この地が海からはかなり遠く離れていたことを示す史跡でもある。石鏃や縄文時
代の早期といわれる押型文土器片なども発見されている。又、この付近よりは石炭(亜炭)が採掘され、
江戸時代末は製塩の燃料資源となり、戦後しばらくも燃料資源となった。

46 北興化学工業株式会社

同社岡山工場として、昭和28年(1953年)に発足。農薬と化成品の製造販売を中心に展開。最近で
はファインケミカル部門に経営資源を傾注するとともに、バイオテクノロジーを駆使した新規事業分野へ
の研究開発にも積極的に取り組んでいる。

47 大入崎(ダイニュウザキ)遺跡

無土器(先土器)時代のサヌカイト(讃岐石)制石器や破片、縄文時代早期の押型文土器片などが出土
している。サヌカイトは、対岸四国から陸地伝いで歩いていって入手したものと考えられている。先端には
古墳も現存し、北岸には塩浜もあった。

8
タマノクルーズ案内資料

かつては、「番田芋」の名産地である。(現在は紫芋も栽培され、玉野の名物となっている。)波張崎とと
もに展望のよい海岸の小半島であって、備讃瀬戸の諸島より讃岐の連山を遠望し、屋島・五剣山を中景
に、小豆島・豊島も近く、犬島より邑久の丘陵もよく見える。又、波張崎との間は、「吉浦」の海岸砂丘と美
しい砂浜が続いている。

48 東児の七ヶ寺 (
○ )内数字は、児島88ヶ所霊場札所の番号
中蔵院(1番)、瑞泉院(2番)、福寿院(3番)、三宝院(4、5、6番)、常楽院(7番)、龍乗院(8番)、明
王院(88番)。寺には仏像・仏画など、玉野市指定重要文化財が多く保存されている。
龍乗院の本堂・鐘楼門・石段および石垣は、2007年に国の登録有形文化財に登録された。
室町時代の高僧「増吽僧正」によって始められた「聴聞」行事は、七ヶ寺が輪番で毎年行われている。
(玉野市重要民俗資料に指定)

49 鉾島(ホコシマ)

神功皇后が三韓との戦いの帰りにこの島に上陸して鉾を立てられたと伝えられ、そこから「鉾立」の地
名ができたといわれる。そのとき、漁民が鯛に桜の花をそえて献上したのを喜ばれて、桜鯛の名称が起こ
ったと伝えられている。又、島の東に鉾立て岩が現在も残っている。鉾島へは、干潮時には徒歩で渡るこ
とができる。
神功皇后にまつわる伝説は他にも色々とあり、胸上地区の小高い山から瀬戸の海を望まれて、「晴れ
やかな所だ。胸が晴れた」とおっしゃったといい、それが「胸上」の地名の由来であるという。番田の八幡
宮の山を「遊亀山(ユウキサン)」と呼ぶようになったのは、神功皇后三韓征伐の帰途ここに船がかりした。そ
のとき、大きな亀が遊んでいたので名付けた。その二匹の大亀が石になったのが「亀石」であると伝えら
れている。

50 塩田

備陽記(享保6年(1721年)成立)
塩浜 番田村 3町4反9畝2歩半 北方村 3反7畝17歩半
下山坂村 9反4畝24歩半 胸上村 6町4反22歩半
東田井地村 1町2反9畝25歩半 上山坂村 1町7畝6歩
梶岡村 1町4反9畝5歩 西田井地村 3町6反9畝9歩半
児島郡誌
元治1年(1864年) 東分塩田(番田浜)開墾 小崎平右衛門

〈参考文献〉
山田村誌 玉野市史 玉野市史続編 児島郡誌 東児町史 田井村誌 玉野の文化財 玉野市遺跡一覧表
広報たまの 野﨑家の研究 海のもつ可能性を求め続けて 垣間見た吉備の原始古代 撮要録