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ソ レ に 呑 み こ ま れ 、ど れ 位 の 時 間 が 経 っ た の か 。

「貴女は何が読みたい?」

黒が視界いっぱいに広がっていた。わさわさと
妖夢の周りを何かが蠢く。
漱石。そん

経てて崩れる様子に。

変わった嗜好ね、と誰かが囁く。

弾かれたように妖夢は楼観剣を抜いた。上段に

構えた刀を振るう。スパッと小気味良い音。両断
したのは襖だった。

斜めに斬られた襖の向こう。ひんやりした薄暗

い廊下があった。夜を見通すように、目を凝らす
妖夢へと誰かが問う。
「貴様、何をしておる」

手を伸ばし、ソレに触れる。夏目

な文字をズルリと鎖のように、引っ張った。

声の主に振り返れば、周りにあった文字の群れ

「え?」

首を傾げ、ポイッと放り捨てた。落ちた文字は

は消え失せている。代わりに布団から上半身を起

「なんだろう、これ?」

地面に、無数の文字が行き交う中へ、呑まれてい

こした老人がいた。こけた頬と異様に光る双眸。

ここは?」

嗅ぎ慣れた畳の匂い。それに、少しばかりの血の

館 に 居 た の だ 。そ れ が 今 や 、見 慣 れ ぬ 和 室 に 居 る 。

妖夢は慌てて辺りを見渡した。今の今まで紅魔

「あ、あれ?

厳格な表情でただ、妖夢を見つめている。

った。
妖夢は図書館に居た。だというのに、あの目に
残る紅の絨毯さえ、見えない。くすくすと、誰か
が可笑しそうに喉を鳴らす。
「誰ですか!」
妖夢は背後の異変に気付く。文字の群れが音を

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匂いが混ざっている。
「何だ貴様それは?

人間か?」

肩を大きく揺らす老人は張った声を出し、妖夢

を睨む。反射的に、すいませんでした。と、妖夢

「半分だけ人間です。えっと、ここは……?」

まう。――似ているからだ。自分の師に。

その偉そうな態度に、妖夢は益々肩身を狭めてし

は 頭 を 下 げ る 。ま た 老 人 が 不 快 そ う に 鼻 を 鳴 ら す 。

「ふん。侵入者がよくとぼけるものだ」

「お前、名は?」

妖 夢 の 半 霊 を 、老 人 は 訝 し む よ う に 睨 ん で い た 。

「とぼけてないですから」

妖夢です」

布団を汚し、口も汚し。老人は手の甲で口元を
拭った。

ふ ん っ 、と 老 人 は つ ま ら な そ う に 鼻 を 鳴 ら し た 。
「まぁ良い。貴様が人外だろうが、何をしに来た

「魂魄

嫌 ら し く 老 人 が 笑 っ た 。く く っ 、と 喉 を 鳴 ら し 、

「不吉な名だな」

のだろうが、最早関係がないからの」
彼は自分の掌を広げた。其処に何があるのか。
妖夢は眼を凝らして気づく。

みを潜めていった。

だけども「今際の出逢いには相応しいか」と、笑

音が生まれた。

「なぁ、頼みがある」

ごぽっ。沼の水面に気泡が浮いたような、丸い

「大丈夫ですか!?」

れも、中身が破けたように多量の血を溢している

「十八人。それが儂の殺す人数だ」

「その前に此処が何処かを」

ふと、真面目な表情で彼は告げる。

からだった。

「私の質問は無視ですか……!」

妖夢が駆け寄った。老人が血を吐いたから。そ

「ぉぇ、……大丈夫に見えるか?」

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妖夢は顔を顰めた。しかし、老人の眼は妖夢か
ら 虚 空 へ と 転 じ て い た 。見 て い な い の だ 。な ら ば 、

老人の頬に皺が深く刻まれた。子供のように笑

う人だな、と妖夢は思いながら問い返す。

「そう、殉死だな。あいつ等は殉死したいと許し

「付いていくって?」

先短い儂に付いていきたいという、輩が居る」

い。直ぐに逝くかもしれんな。だが、こんな老い

「見ての通り儂は病に朽ち果てる。そう時間がな

眼を細めていた。

が、いつも正しい事ばかりで、そつがない。つま

だな。昔からアイツは良い忠言役でもあった。だ

「ふん。理由などないわ。強いて言うならば、癖

「それは何故?」

だけだ」

「違う。単純に、儂があいつの言う事に頷けない

よね?

他の方には許可を出したのです

を請いに来た。本当は儂から光尚へと移り、仕え

らん男だ。そう思っていると、いつの間にか、弥

老人は昼間の陽を見るように、 「何故ですか?

てほしいのだが……。断ることは難しかった」

一郎の言葉に首を振ってしまってな。此度の許し

何を見やるのか?

「 で は 、そ の 十 八 人 が 死 ぬ 事 を 許 し た の で す か ? 」

も、断り切ってしまった」

熱意が足りなかったとかですか?」

「……まぁ、そうなるわな」

その判断が間違いだったと、老人は表情を曇ら
せた。

釈然としない声音で、老人は横目を妖夢に向け
る。

訝し

「だから、貴様に弥一郎を見ていて欲しいのだ」

む様子に、老人はニヤリと笑う。

妖夢は首を傾げた。何故、自分なのか?

「阿部弥一郎衛門通信。あ奴も中々許しを貰おう
としつこかったな。だが、断ってやったよ。カカ
カッ」

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「貴様はこの世ならざる者だろう?

「……嘘だったら怒りに戻ってきますよ」

見守るような眼の色だった。

よく、嗅ぎ

慣れた匂いがするわ。――何処から来た?」

だの当てずっぽう。しかしながら、老人の言葉は

「儂を怒るか!

に 呆 け て 、そ れ か ら カ カ カ ッ と 高 笑 い を 響 か せ た 。

ふと、老人が眼を丸くした。虚を突かれたよう

正鵠を射ていた。妖夢は戻りたい。あの幻想郷の

面白い。良いだろう、それも良い。ふん、叱られ

ソレは勘なのだろう。適当も良いところの、た

紅 を 萃 め た よ う な 赤 い 赤 い 館 へ 、そ の 図 書 館 へ と 。

るなど、忘れて久しいわ!」

ろうが」

い。もし嘘だったら叱りに来ればいいだけの話だ

「いや、いや、嘘じゃないぞ。良いから行って来

「やっぱり嘘なんですよね?」

突然の歓喜に妖夢の方が呆気にとられた。

カカカッ、それは面白い、嗚呼

「幻想郷という場所から、私は来ました」
「それはどうやってだ?」
――答えられなかった。ここに居る理由を、妖
夢自身が知らないからだ。
困惑する妖夢を見て、老人はますます笑みを深
める。

りの道楽に見えた。視界の隅に映るのは、先ほど

まるで叱られるのを良しとするような、老人な

れるはずだ」

吐いた血の塊だった。

「だったら行くがいい。あ奴なら、きっと応えら

「本当ですか?」

「分かりました」

彼の吐いた血も、わざとだったのかもと、妖夢は

了 承 す る と 、老 人 は 元 気 に 笑 い 始 め た 。す る と 、

「本当だ」
老 人 の 細 め た 眼 に は 、好 奇 の 色 が 浮 か ん で い た 。
まるで子供が落とし穴を掘り、その悪戯の結果を

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内心で疑ってしまう。疑いはすれど口にはしなか

夢は歩みを強く踏み出す。

をくれない。人々の喧噪にかき消されそうで、妖

脳裏に浮かんだのは、紅魔館での異変。文字が

った。
何故なら、老人が死にそうなのは、他人よりも

氾濫し、視界を埋め尽くした光景。

誰かの声が、未だ耳に残っている。

彼自身が、そして、彼自身よりも妖夢の方がはっ

――嗅ぎ慣れた匂い。

ふと、妖夢は歩を緩め、辺りを見渡した。耳を

『貴女は何が読みたい?』

この部屋に居て、妖夢は落ち着いていた。花の

掠めた言葉を探し始めたのだ。その為に、前方か

きりと分かってしまったからだ。

蜜のような、濃い臭い。それは自分の主が放つ不

ら向かってくる男性に気が付かない。彼も妖夢に

ではない。誰の眼にも止まらない存在に。

つまるところ、妖夢は幽霊になったのだ。半分

としない様子で男の背中を見送った。

嗚呼、やっぱり慣れないなぁ。と、妖夢は釈然

行った。

スッと妖夢を通り過ぎた。文字通り、通り過ぎて

気 付 く 頃 に は 、男 性 が す ぐ 眼 前 に 。厚 い 胸 板 が 、

「あ」

気 が 付 か な い 。・

吉な匂いにも似ていたのだった。

人 の 行 き か う 町 の 大 通 り を 、妖 夢 は 進 ん で い た 。
熊本藩主が病で死んだ。
嗚 呼 、あ の 老 人 は 逝 っ た の か 。妖 夢 は 道 す が ら 、
空を見上げた。陽は真上にて輝いていた。人の群
れが熱気を生む。フヨフヨとした半霊には誰も目

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「――弥一郎は」
喧噪の中、探した言葉が妖夢に届く。
「腹を斬らんのかよ」
威圧的な物言いだった。一人の男が少年ともい
える年頃の男に、嫌らしい笑みを向けていた。
「父上は腹を斬るなと殿様に言い付けられた。そ

ていた。だから渡りに船でもあった。そして、そ

の船が沈むのは好ましくない。

妖夢も刀を抜いた。その仕草でさえ、周りの人
の体を透過していた。

「……斬る、いや、斬り伏せる」

妖夢は小さく呼吸を整える。師であり、祖父で
もある魂魄

妖忌は、斬れば分かると言った。妖

こにどのような心情があったのか、察する事も出

――誰にも触れられない。

しかし、だからどうした?

え?

と 、妖 夢 は 眼 を 丸 く し た 。そ の 丸 い 眼 が 、

「おい、お前何処見てやがる?」

を整える。目標は男の抜いた刀だ。

静かに妖夢は刀を構えた。深く息を吸い、呼吸

い。ただ目前の少年に意識を向けているのだ。

睨む男の傍へ歩み寄る。彼は気づく素振りさえな

熟者の言い訳だと、妖夢は眼を尖らせた。少年を

そんな事実は、未

死者の恨みを絶ち、神の秘技さえも切り伏せる。

忌は概念さえも切った。水面に映る月を両断し、
手前ぇ、首を落とされてぇ

来ぬのか、愚図が」
「愚、図……だと?
か」
あっさりと男は刀を抜いた。人々が異変に気づ
き、鋭い叫び声が響く。
対する少年の手に武具は見当たらない。だとい
うのに、脅える事もなく、男の視線を真っ向から
受け止める。
妖夢は事の成り行きを、人の囲いに紛れて見つ
める。探していた張本人ではないが、その息子で
あれば阿部の屋敷に辿り着ける。妖夢は道に迷っ

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男から少年へと転じた。少年もまた、妖夢を見つ
めていた。
「まさか、見えてる?」
誰かが叫んだ。余所見をした少年の首へ、男は
刀を振ったのだ。
「っ!」
咄嗟に妖夢は刀を振り下ろす。初動作は遅れど
も、人間の域では追い付けない速度で。
甲 高 い 音 が 響 く 、人 の 絶 叫 か 、刀 の 折 れ た 音 か 。

膝を崩し、倒れ果てる。

先ほどまでの喧噪が、嘘のように静まった。ヂ

リヂリと陽射しの熱が地面にこもっていく。そん

な音が聞こえるようでもあった。
「助かったよ」

少年は自分の掌を見下ろしながら、妖夢へと告

げた。手は真っ赤だった。指の腹が裂けているの

だ。泉のように溢れる傷口から、白い骨が覗いて
いた。

事の推移を見守っていた人々の視線が浮上した。 「大丈夫ですか!」

しかし、少年は答えなかった。妖夢が誰にも見

えないと気づいている風に、視線も向けず人の囲

突如折れた刀の行方を追ったのだ。照り付ける陽
射しに煌めく刃。その輝きが陰る。

いへと歩き出す。

少年の傷は深い。恐らくは、家に帰り、手当て

妖夢は気づく。血が点々と地面に染みていた。

「あ」

する訳でもなく、倒れた男を憐れんでいる。

残された妖夢と群衆は困惑していた。ただ何を

「なっ」
一瞬の出来事だった。
跳ねた少年が空を掻くように腕を回した。折れ
た破片を掴み、そのまま男の頭へ。
「ぅげゃ」
男 は グ リ ン と 、白 目 を 剥 い た 。小 汚 い 声 と 共 に 、

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をするまで血を流すのだろう。

阿部弥一郎衛門通信の屋敷は、竹林の山に囲ま

妖夢は短く感心する。棒と棒の打ち合い。少年

二人が細長い棒、恐らくは槍の練習をしていた。

彼等に視線を注いでも、妖夢に見向きもしなかっ
た。

それ

妖夢には判

余程、眼先に集中しているのだろうか?

とも、単純に視界に映らないのか?
断が付かない。

仕 方 な い と 屋 敷 へ と 上 が っ て い く 。玄 関 を 過 ぎ 、

律儀にも靴を脱いで「失礼します」と。
「嗚呼、さっきの……」

血の跡を追った妖夢が門を潜ると、庭先から硬

佇んでいた。淡々とした表情で、頭を小さく下げ

廊下を滑り、振り返った。すると先ほどの少年が

その声は背後から。思わず妖夢は飛び退いた。

い音が連鎖的に響く。カン、こん、カカカン、コ

る。

れていた。

ン。妖夢には懐かしく、心地が良い音だ。

「先ほどは助かった。僕は死ぬつもりだった。死

ん で 、父 上 の 汚 名 を 少 し で も 雪 ご う と し た ん だ が 、

あの少年には見られた。他の人にも見られるの
ではないかと心配でもあったのだけど。そんな懸

返って箔がついてしまった」

柔和な顔つきなのに、温感のない声音。まるで

念を押し退ける音でもあった。
「へぇ」

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人の言葉だった。子供染みた笑みが妖夢の脳裏に

――そう言え。きっと、あ奴も驚くだろう。老

「死ぬつもりって」

浮かんだ。少ししてから、妖夢は消え入りそうな

人形のような少年に、妖夢は眉をひそめた。

「殿様が病に果てた。だけども家臣である父は後

声で語尾に「多分」と付け足した。

ふと、少年の表情が失せる。能面のような顔を

を追わなかった、って言われてるから。だから…
…。息子の僕が潔く父の為に死ねば、ちょっとは

父という言葉を出した時だけ、少年は、年相応

白い色の顔。そして、ジリ、と地を踏み締め、腰

っているような――そんなサラリとした不気味で

繕った。笑ってるような、泣いているような、怒

の口調を見せた。恐らくはソレが地の性格だろう

を低く構える。町中で男に向けた視線を、妖夢へ

良くなるかと思った」

と、妖夢はなんとはなしに思う。

と注ぐ。

を軋ませた。落ち着いた仕草で少年から、妖夢に

玄関の異変に気付いた者が居たのだ。彼は廊下

過ぎ去り、その背後へと。

あっ、と少年は口を開ける。彼の視線は妖夢を

に、張りつめていた。

に溶けていく。場の空気は突いたら弾けそうな程

妖夢は突然の変化に戸惑う。刺々しい声が静寂

「今更、死神が何のようだ」

「殿様って、忠則さん?」
妖夢は教えられた名を告げた。
「忠則さん!」
突如、少年の声が跳ね上がった。信じられない
と、言外に叫んだのだ。
いや、でも、本人がそう言ったし……。そう、
弱気に妖夢は返した。
「あんた、いや、貴女は一体?」
「死神」

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目を向けた。

「はい。実は、殉死を断ってしまった阿部弥一郎

たのだ」

た表情も和らいだようだった。

彼は小さく息を吐いた。心なしか、無愛想だっ

「そうか」

衛門という方の様子を見て欲しい、と」

「七之丞。この女子は誰だ?」
堂の入った声が響く。少年とは違う、年季の入
った口調だった。
「父上。この者は死神です!」
突拍子もなく告げられ、だけども、父上と呼ば

はずの体が小さく見えた。

肩を落とした為か、妖夢よりも幾分か、大きい

半霊を見つめた。

「ところで、様子を見るとは、どの程度の期間な

れた男は笑いもしない。ただ妖夢の傍に浮遊する

「ふむ。さて、その死神が何用で?」

のだ?」

あの方はなんと仰ってい

が拾い上げていった。

けてしまう。間の抜けた声を、ひんやりした廊下

ふとした問いかけに、妖夢は「あっ」と口を開

「え?」

それとも死神などと

妖夢は、まさか、すんなり受け入れられるとは
思ってもなかった。
「何だ、迷い込んだのか?
狂言を……違うか」
男は半霊を延々と見つめている。理解のできな
いソレが、死神という信憑性を高めていた。

それは一体?

「忠則さんって方から頼まれまして」
「何?

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妖夢は数日を、阿部弥一郎の屋敷で過ごした。

何 の 事 や ら さ っ ぱ り だ と 、妖 夢 は 眼 を 瞬 か せ る 、
「そうなんですか?」
「お前が来てからだ」

言い掛かりだ、と妖夢は呆れたように顔を背け
る。

「時々、考えに深けている時がある」
「いつもじゃないですか」

「……僕が話しかけても、まったく聞こえない程
なのにか?」

妖 夢 は 庭 先 を 見 や る 。整 え ら れ た 庭 木 に 敷 石 と 、

池に付けられた水遊びの竹筒がゆらゆらと揺れて
いる。

「 き っ と ア レ で す よ 。夕 飯 の 献 立 が 単 調 だ か ら と 、

かぽーんと、耳からよく抜ける音が響く。

之丞と弥一郎だけにしか、妖夢は認識出来なかっ

当主直々に頭を捻ってるんでしょう」

奉公している者や仕えている者、数は居ても、七

た。

「んな訳があるか」

に疎い妖夢でさえ、気遣うほどに彼の声は尖って

七之丞は苛立っていた。半人前と呼ばれ、機微

「父の様子がおかしい」
ぽつり、と七之丞が漏らした。縁側で隣り合わ
せにお茶を啜っている時だった。

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いる。

私がですか?」

「まったく呑気な奴だ」
「の、呑気?
声を震わせて問い返す。妖夢の中で、呑気とは

どうでしょうか?

と、妖夢は口にしつつ、七

之丞を見て、硬直した。

彼は心底から蔑むような目で妖夢を見たからだ。

「そんなに食事が大切か……?」

うっ、と妖夢は引き攣った笑みを浮かべた。
「本当に貴様という奴は」

自分の主人や博麗の巫女を指して言う筈だった。
「当然だ。どう生きてきたらそうなるのか、理解

「あ、お前から貴様になった。客人に対して、そ

自 分 が 従 者 だ か ら こ そ の 指 摘 だ っ た 。自 分 な ら 、

れは無いでしょうが」

が出来ん」
呆れた七之丞はつまらなそうに庭先を見た。
「だって献立は大事じゃないですか」

こんな事は絶対に言わないと、強い口調だった。

「だから何だ。お前なんかお前で十分だ」

「当主が考える訳ないだろう」
そうですかねぇ、と妖夢は眉根を逸らせた。

「有り得ない。私は妖夢だと何度言えば――」

「……父上か」

断固とした態度に、妖夢は渋々と口を閉ざす。

「だから何だ。お前なんか貴様で十分だ」

そうだよ、と七之丞は溜息をついた。
「きっと良からぬ事を考えているに違いない」
今度は、妖夢が溜息をついた。
七之丞は考えすぎる性質だった、出逢ってから

屋敷の中から、妖夢を呼ぶ声が届いた。
「何の用だろ?」

ずっと、巷で流れる噂を懸念していた。それは見
てる方が疲れるぐらいに。

「さぁ?

とりあえず、行って来いよ」

「……あ、鴇だ。鴇鍋なんて――」

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妖夢は席を立った。残された七之丞は、遠ざか

は な か っ た 。語 る べ き 想 い が な か っ た 訳 で は な い 。

むしろ、一目で心の底まで察したのだろう。

――弥一郎が切腹をするのだ、と。

っていく足音に耳を澄ませる。そして、ぽつりと
呟く。

殉死しなかった。忠則と名乗った老人の後を追

主からの言葉を守りに来た少女。

弥一郎は都合の良い

何故、死神を遣わせたのか?

とは、どのような意味か?

る。

を斬るという。茣蓙を敷き、居住まいを正してい

そして、今、妖夢と五人の息子の前で、彼は腹

を伝える為。彼は見届けたいと告げた。

妖夢を部屋に呼んだのは、殉死するという意思

死を求めたと、否定はできない。

死者は口を持たない。だから、死者が弥一郎に

ように意味を捉えた。

様子を見て来い

め手になったのかもしれない。死神。仕えていた

もしれない。もしくは――妖夢という存在が、決

わなかった。そんな噂に、彼は苛立っていたのか

「鴇か。鴇鍋も良いかもしれんな」

妖夢は静かに目を開けた。
踏みしめた砂利の感覚を確かめながら、すぅ、
と浅く息を吸った。そして、ほっそりと吐いた。
それでも、心臓は静まらない。ドクドクと鼓動が
五月蠅かった。
昨日から雨がシトシトと降り、五月闇の空は晴
れていない。湿った空気が肌に張り付く。
弥一郎が妖夢を部屋に呼んでから、数日が経っ
ていた。
彼は、五人の息子達を呼んだ。彼らの間に言葉

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「兄弟喧嘩はするなよ」
そう言って、小太刀で腹を割り、自分で首筋を
左から右へ刺し貫いた。
――妖夢は眼を閉じた。しかし、瞼の裏に鮮明
な赤い飛沫が張り付いてしまう。
ドッ、と鈍い音。弥一郎の体が倒れたのだ。人
が 死 ん だ 。足 場 が 崩 れ る 幻 音 も し た 。妖 夢 は 再 び 、
眼を開けた。
五人の兄弟は、七之丞も含む彼等は、今後の事

が見つめていた。

これからどうするのか?

と 、妖 夢 は 問 わ れ た 。

厚い雲は散り散りとなり、氷河のようでもあっ

た。空に浮かぶ半月は所々が隠されながらも、柔
らかい光を注いでいた。

いつかのように、妖夢と七之丞は縁側に腰掛け
ていた。

を話していた。親の死に様が見事だと、讃えてい
た。

「そういえば、私は元の場所に帰る為にここへ来

他人事のように妖夢は告げた。

たんですよね」

「なんで?」
それが妖夢には信じられなくて、涙腺が震えだ
した。

「元の場所?

冥府とか地獄?」

親が死んだのだ、泣くべきだろう。

「冥界です。いえ、幻想郷。もしくは吸血鬼の住

「キュウケツキ?」

まう紅い館ですね」

敬う者が亡くなったのだ、悲しむべきだろう。

そんな妖夢の泣き出しそうな顔を、七之丞だけ

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妖夢は彼の横顔を見た。

別れは辛くないのだろうか?

七之丞の舌に馴染んでいない言葉だった。
「嗚呼。そういえば、ありがとうな」

七之丞も妖夢を見返した。視線が交わると、妖

人死にが出た

屋 敷 の 静 け さ は 、残 さ れ た 妖 夢 の 胸 を 締 め 付 け た 。

静寂は何をもって訪れるのか?

彼はそれだけ言うと、席を立った。

「今日は疲れたから寝る」

様にした。

夢がそれとなく視線を夜空へ転じる。七之丞も同

夜は寒い。寒いと心に染み入るものがある。妖

色のない瞳を前に、妖夢は口を閉ざす。

った。

眼は口ほどに物を言う。場凌ぎの言葉は要らなか

夢 の 中 の 問 い か け は 溶 け る よ う に 、消 え て い っ た 。

「何の事ですか?」
いや、分からないならいい。と、七之丞は首を
振った。

妖夢

五月の夜風は肌寒い。暖かくなるまでは少し、
遠いだろう。どれくらい此処に居るのか?
はぼんやりした頭で考える。
「しばらくは此処に居ると良い」
七之丞がボソリと告げた。
「じゃあ、そうさせて貰います」
夜の静けさは柔らかい。妖夢の言葉を優しく飲
み込んでいった。
口元に漂う余韻が続く間に、妖夢は言葉を続け
た。
「死んでしまいましたね」
「嗚呼、殉死したな」
あっさりと七之丞は返す。悲しい響きはない。

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此処は何処なのか?
意味はなかった。

地名で分かっても、何の

ただ日々を過ごす中で、妖夢は幻想郷へと戻り
た い と 思 っ た 。最 初 は 、い ず れ 戻 れ る だ ろ う 。と 、
侮っていた。しかし、その兆しが見えず、人の死

慌ただしく女中が走り去っていくのを見届ける。

いつもならば、洗物などを抱えていたのだけど。

今は大きな風呂敷を抱いていた。疑問に思いつつ

も、妖夢は七之丞を探した。
「あれ」

不意に、前方に人影が見えた。男だった。妖夢
はその男を知っていた。

弥一郎の死んだ日に屋敷に呼ばれた兄弟の一人

で あ り 、二 男 だ っ た 。妖 夢 は 息 を 呑 む 。そ の 男 が 、
自身を見れるのか否か。
「……」

眼も言葉も向けず、彼は硬い表情で通り過ぎて
行った。

やはり、慣れないなぁ。と、頭を掻く。
「おい」

れた声がした。

妖夢は背筋を跳ねらせた。すぐ背後から聞きな

あてがわれた寝室を出て、廊下を進む。

「っと、丁度良かったです」

を見てしまってから、妙に白玉楼が恋しかった。

騒々しい物音は、屋敷の朝の日常でもあった。

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言葉と裏腹に、七之丞は顔を俯かせ表情を隠し

た。その時、垣間見えた。彼は下唇を噛み締めて

と、

眉をひそめていた。
いた。

振り返れば七之丞が、何やっているんだ?

「丁度良いってなんだ?」

あっさりといつもの平坦な面を上げ、七之丞は

「分かった。達者でな」

んですよ。貴方の父は亡くなってしまいましたか

踵を返した。突き放すような、キビキビとした動

「ええ、そろそろ御暇させて貰おうと思っていた

ら、自分なりに元の世界へ戻る方法を探しに行き

妖夢は静かに頭を下げた。今際の表情が気にな

作だ。
弥一郎衛門は妖夢の質問に答えられなか

ったのだけど、それが足を止める理由には成らな

ます」

元の場所に戻れるのか?

阿部
った。ここが何処か?

かった。

ていた。その雲は幻想郷まで連なっているのでは

悠々と流れる雲は細長い。端から端まで繋がっ

く。

屋敷を出ていった妖夢は、空を見上げながら歩

その先には町がある。

両 脇 に 短 い 草 木 が 並 ぶ 。緩 や か な 下 り 道 だ っ た 。

頭を捻ってくれたものの、良い答えは貰えなかっ
た。
あの嘘吐き爺、と憤っても、あの老人は既に他

冥界でそれらしい霊魂が居たら、絶

界している。死ねば手が届かないと思っているの
だろうか?

対に叱ってやると、妖夢は心に決めていた。
「……そうか、それはこちらとしても、都合が良
い」
「え?」

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ないと、思ってしまうぐらいに。
視界いっぱいに蒼が広がっている所為かもしれ

った。

まるで悟り妖怪のように。
「ふっ、くふふ」
思い出し笑いが一つ。

ない。屋敷に居た時の焦りが微塵も消えていた。
幻想郷へ戻る、その為に出たのだけど。

あの二人は顔に出るのだ。親に似るのが子供。

常に真面目な顔をしてるのだけど、何も家の柱に

「これじゃ、まるで逃げたみたい」
見知らぬ世界の他人の家。

小 指 を 打 っ て ま で 、保 と う と し な く て も 良 い の に 。

で、妖夢には痛々しさが理解できた。

隠そうと表情を繕うも、状況と態度と顔色一つ

殆どの人間の眼に止まらないとはいえ、いや、
むしろ誰にも悟られないから、人気のある他人の
家は居ずらかった。

図書館で出逢ったあの無愛想な少女もまた、柱

脳裏に浮かんだのは本物の悟り妖怪。

傍には誰もいない。訥々と妖夢は言葉を紡ぐ。

に小指をぶつけたら、静かに悶絶するのだろう

「それに最近、何か忙しそうだったし」

「大体、こっちの人が私の欲しい答えを知ってる

か?

「幽々子様だったら、あ。紫様だったら何とか出

むにー、と自分の頬を掴んで伸ばす。

「はぁ」

た。――嘘だった。

意地が悪いと思いつつも、笑みが止まらなかっ

わけないじゃないですか」
妖 夢 は あ ま り 、弥 一 郎 の 屋 敷 で は 喋 ら な か っ た 。
借りた猫のように静かに居座っていた。
それは何も、肩身が狭かったからじゃない。多
弁を労する必要がなかったからだ。彼等は、弥一
郎と七之丞は思慮深かく、意を察するのが上手だ

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来 ― ― て も 、や ら な い で す よ ね 、あ の 方 は 。う ん 。
「あ……」

いと、思わせる瞳ばかりだ。

不気味に思いなが

遊歩に近かったからだろう。そして今も、活気に

陽は西へと傾きかけていた。屋敷から町までが

た。

妖夢は、思っていたよりも、時間を取られてい

通り過ぎ町へ、大通りへと入る。

篝火をの松明が二本。外からの目印だ。それを

町に近づくにつれ、喧噪が広がっていった。

らも、町へと歩を進めた。

今の集団は何だったのか?

ないと、伸ばしかけた手を引っ込める。

呼び止めようとも、妖夢は認識されない。仕方

やっぱり一人で何とか戻るしかないか」
自分を慰めるように頷くと、不意に無数の話し
声が届く。
「光尚様のお言葉だ。命を惜しむなよ」
先頭を務める男が、硬い声で告げた。彼らは十
八人居た。それぞれが手に慣れた刀を腰に差して
いる。
やはりというか、身構えた妖夢に気づかず、彼
らは過ぎ去っていった。

「まったく。哀れな一族だ」

――妖夢は足を止めた。振り返り、見開いた眼

彼らは哀れだと言いながらも、嘲笑する気配は

まわる。呉服屋、雑貨屋、和菓子屋、魚屋、蕎麦

行き場がないのだから、自由気ままに店を巡り

流されるようにフラフラと。

なかった。それが怖かった。皆が皆、眼を据わら

屋。

を向ける。

せていたのだ。人を斬っても動じないかもしれな

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「あ」
ふと、妖夢は空腹を感じた。
目の前には甘味処。茶団子にあんみつなども出
している。大きく開いた店先で、赤い布地の長椅

時だった。
「何だって!」

背後の喧噪を突き破った声に、妖夢は背筋を跳
ね上げる。

恐 る 恐 る と 、振 り 返 れ ば 体 格 の 良 い 男 性 が 居 た 。

向かい合うのは線の細い男性だった。

子。その上にある、お品書きを見つめながら頭を
悩ませた。

「いよいよ阿部一族は……」

地を蹴った。

なんで!?

叫ぶよりも早く、トッ、と妖夢は

が落ちたら襲うのだろう」

「討ち入りが向かっているらしい。恐らくは、陽

ひょろりとした男が頷き、言葉を返した。

阿部という言葉が妖夢の耳を引っ張った。

「昼食忘れてたから」
誰に言うでもなく、妖夢は恥ずかしげに頬を染
めた。
とはいえ、言う程にはお腹は減っていない。少
しつまみたい程度の、口寂しさがあったのだ。長
椅子には男女が一組いた。丸い皿に団子が積まれ
ていた。
「……」
彼らの前にて、手を振るう。見られていない事
を確認しながら、妖夢はそっと手を伸ばした。悪
いとは思ったけど、何故か罪悪感がなかった。鶯
色と紅白の三色。鶯色団子に指先が触れる、その

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なかった。人の死が、あちらこちらで無造作に転

炎を迂回し、玄関へと向かう。

がっているのだから。

走り、叫ぶ。地を蹴り、屋敷へと戻っていく。

勇 ん だ 叫 び 声 と 、槍 と 刀 の 衝 突 音 が 響 い て い た 。

「燃えてる!」

煤けた匂いがした。それが妖夢には嫌だった。

薄暗い廊下に、客間から誰かが転がってきた。眼

を押さえ、痛みに身を仰け反らした。ズッ。その

陽が落ちかけ、夜闇が薄らと辺りを覆う。
近づくにつれ、煤けた匂いが強くなった。

張った胸に槍が突き刺さる。

彼は応えず、そっぽを向いて辺りを見やる。狼

「……」

きく違っていたから。

たくて、妖夢の知ってる彼の冷ややかな目とは大

ゾッ、と妖夢は背筋を震わせた。黒い視線が冷

下の仄暗さを詰め込んだような、黒い目で。

声を荒げる。すると、七之丞は妖夢を見た。廊

「何してるんですか!」

男は、少年は、知っている。七之丞だった。

刺された男を妖夢は知らない。だけど、刺した

「っ」

妖夢は呼吸を荒げながら、門を潜る。すると、
庭先から一気に立ち込めた匂いが鼻を突いた。赤
い匂い。ごく最近、覚えがあった。脳裏に浮かぶ
のは、弥一郎のあの胸を抉るような死に様だ。
庭を這うように、火が広がっていた。
紅い景色に黒い影がのたうち、転がっていた。
黒く焦げていくソレは、すぐに動きを止めた。妖
夢は最期を見たのだ。
「七之丞」
ぽつり、と漏らす。よくよく見れば、死体の体
格は大きい。
少年である七之丞ではない。だけど、安心でき

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が獲物を探しているようだった。
「妖夢」

しまう。

七之丞は再び、名を呼んだ。

「覚悟!」
七 之 丞 の 向 か い の 襖 か ら 、男 が 飛 び 出 し て き た 。

懇願するような、悲痛な響きがあった。泣き笑

う顔で、彼は腕を伸ばす。それでも、妖夢は立ち

刀を振り上げ、襲い掛かる。
トッ、と流れるように七之丞の槍が胸を突いた。

尽くしていた。呆然と彼を見つめ、だからその背

「覚悟っ!」

後の暗闇が、ユラリと揺れた事に気づく。

綿を押すように、ふわりと差し込まれた。
男の口から血と呻きが漏れた。膝を崩し、倒れ
伏せた。

妖夢が叫ぶよりも早く、七之丞の腹から何かが

突き出た。赤く濡れた刀だった。

「……妖夢」
彼は初めて、妖夢を名前で呼んだ。

「ぐぅ」

が二本。前へ弧を描くように白楼剣を振るう。

咄嗟に妖夢は背後に手を伸ばした。そこには刀

「待ちなさい!」

を、刀を持った男が真っ赤な目で睨みつけた。

七之丞は床に手を付く。緩やかに曲がった背中

り裂いた。血と臓物が飛び出した。

刃を手で押さえ、しかし、刀は腹を横合いに切

槍を持った腕を落とし、七之丞は妖夢へと、一
歩、踏み込んだ。むわり、と血の匂いが漂う。妖
夢は後ずさった。
「あ」
そう呻いたのは妖夢か、七之丞か。もしくは二
人の言葉だったのかもしれない。
急に妖夢は、七之丞との間に亀裂が奔ったよう
に思えた。渡ることが出来ず、進むのを躊躇って

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――スパリ、と小気味の良い感触があった。手
から脳の芯に響くぐらいに、綺麗に人を斬った手
応えだった。
男は血走った眼を妖夢に向けた。見えない筈だ
っ た 。し か し 、彼 は は っ き り と 妖 夢 を 睨 ん で い た 。
細 め た 眼 か ら 、ふ っ と 光 が 抜 け る 。男 は 刀 を 離 し 、
代わりに自分の腹を押さえた。

「くぅぅ、ふっはっ!

気にするなぁっ!」

妖夢の表情は酷かったのだ。だから、男は面を

上げ、無理やりに繕った笑みを向けたのだろう。

「だが、お前のような女子に手をかけさせてしま
って、すまなんだな」

男は喉を震わせ、慰める。妖夢には理解が出来

なかった。憎むではなく、安心させようとする声
音が。
「七之丞ぉ」

横 に 裂 か れ た 傷 は 深 い 。押 さ え て も 色 々 溢 れ た 。
それは血肉を象った命だった。

「あい分かった」

た。

とは返さなかった。妖夢は脅えながら

これが介錯だ」

がった。――落ちた音が、異様に耳にこびり付い

もなく、男は首を断たれた。ごろん、とソレが転

刀を拾った七之丞が、大きく構えた。止める間

「ぅぅ……っ」
「苦しいか……?」
男を見下ろした七之丞が問う。男は、小さな声
で告げた。――見事だった、と。
その賞賛が自分に向けられたと、妖夢は暫く理

何を?

「妖夢。見たか?

うな気がした。魂とは違う、気配をかき消すのと

頷いた。

解できなかった。ただ、初めて人を手にかけたよ

は違う。暖かい血肉を斬るとは、命を奪うことだ
と実感していた。

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「じゃあ、頼む」

妖夢は息を呑んで、眼を見開いた。心臓を掴ま
れたようだった。
「……ぃ、嫌です」

因が上げられるのだろうか?

阿部弥一郎衛門の息子は五人いた。彼の嫡子で

ある権兵衛は武士の結をそり落とした。

それも、殉死した十八人と自分の父の墓前で。

当然ながら、殉死するというのは、付いて来さ

せた殿様もさることながら、付いて逝った武士に

七之丞は腹を押さえながら槍を拾う。臓物が零
れないようにと。

と っ て も 、誉 れ で も あ っ た 。そ う い う 風 潮 だ っ た 。

「武士とは、意地と糞の塊のようなものだ……」

それだけの事でしか無かった。

それだけの事だった。

た。まるで――あてつけのように感じたのだ。

ては、不愉快だった。光尚という若き藩主は憤っ

それが忠則という権力者の後を継いだ者にとっ

権兵衛は誇りを捨てたのだ。

いう決意表明は、他人の眼にどう映るのか?

だから、名誉ある死人の前で、武士を止めると

「僕じゃあ無いんだ。兄さん達を頼む」
そう告げると、彼はフラフラした足取りで彷徨
い始める。敵を探し始めたのだ。
廊下から玄関の方へ。そこには火の手が回って
いた。――先にあるのは死体が転がる火の海だ。
「なんでこんな事をぉ!」
答えは無かった。ふらりと、炎の中を進む影は
すぐに消えていった。
立ち尽くす妖夢の耳に微かな苦悶の声が届く。
廊下の奥の方にある、客間の一つからだった。
――例えば、殺し合う状況とは一体、どんな起

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息も絶え絶えに、男が畳の上で転がっていた。
赤子のように体を丸めている。
妖夢は眼が夜色に馴染んでいる為、おびただし
く零れた血がくっきりと見えた。
彼は、妖夢が今朝の廊下ですれ違った人物だっ
た。
今や、彼らの眼はっきりと妖夢を捉えていた。

ふっ、と彼は静かに笑う。

人の体を断つのは心地良い。水を切るのとは全

然違うのだ。手を突き通すような感触がとても好

い。だからこそ、怖かった。

「だが、安心して欲しい。己らは皆、死ぬ事が恐

ろしいとは思っていない。死ぬべき場所で死ねな

い事が恐ろしいのだ。潔く死にたいだけだ。だか

ら、手助けしてくれないか?」

助けろと言いながら、斬れという。

何故ならば、死神だから。死に瀕した者の眼に映
るのは当然だった。そういう設定だったのだ。誰

いよいよ、妖夢は気が狂いそうだった。そう自

覚すると、頭の中で何かが弾けた。

かの意志に薄々、妖夢は気づいていた。
「七之丞が言っていたのは、お前か。ならば、頼

そう捨て鉢な気持ち

「分かりました」

声で了承する。

嗚呼、と妖夢は嘆くような、呻くような、苦い

む」

「しっかり頼むぞ。……そうだ。七之丞の首も頼

で刀を構える。

ソレで良いんでしょう!

む」
――斬れ、と言う事だった。
黙って彼は居坐りを正す。弱った体で正座を組
む姿は、どこか滑稽だった。
それでも、妖夢は笑うことが出来なかった。
「……なんで、いつも、いつも私が?」
「あぁ、死神とは難儀なんだな」

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「アイツはどうやら、貴女に惚れていたようだか
らな。アイツも報われるだろう」
「報われる?」
そんな筈がないと、睨みつける。我慢のしよう

残された人は?

が無かった。惚れた人の手にかかる。ならば、手
にかけた人は?
喉に熱い塊がせり上がった。
「ほんっとうに自分勝手、馬鹿ばっかりだ!

なんでそんなに死にたがるんです

頭がおかしいんじゃないんですかっ!」

んでですか!
か!?

妖夢の言い分は尤もで、しかし、武士にとって
は理解してはいけない言葉だった。

すまないな、と彼は付け足した。
「……そぅですカ」

妖夢の変調を、彼は言及しない。
「なら、頼んだ」

「ワカリマシタ。では、イキマス」

刀を振り上げて、振り下ろす。鈍い音がした。

首を断って畳を裂き、床をも貫いてなお、柄を握
る拳が地を打ったのだ。

しばらく、妖夢は腰を屈めたままで居た。物思

いに深けていると、その間にも誰かの死ぬ気配が
あった。

「もう、なんでなんて尋ねないです、生きて欲し

いなんて、願わない……!」

だから、と小さく歯軋りを鳴らす。

だが、彼は理解はしていた。ただ、賛同しない
だけ。だから、一言だけはっきりくっきりと返す

彼等は皆、死にたがり屋なのだ。――だから、

う。

一度死神だと名乗ったのだから、役目は全うしよ

のだ。

「それが武士だ」

「本物の、あの方だったらどうしたんだろ」

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自殺ならやめな、と彼女はよく言う。その癖、
呑気に居眠りばかりしているらしいのだから、し
ょうもない。その達観した様は、返って泰然とし
ている。自分とは、違う。
――半人前。そう、半人前だから。と、妖夢は
涙を溢した。ポロポロと零れる程に、諦めが付い
ていく。涙は感情だった。それを溢しながら、ふ
らりふらりと歩を進めた。
ギ ュ っ と 握 っ た 刀 が 、揺 ら 揺 ら と 不 気 味 に 輝 く 。
妖夢は、彼らの首を落としに向かった。

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