You are on page 1of 31

それが夜なのか海なのか、判別がつかない。黒

く塗り込められたものは、境界を定かにせぬまま、
ゆらり、ゆらりと静かに動いていた。地に潜む怪
獣そのもののように。時折、足下で水音がする。
波が船壁に弾けていた。
海を見たのはもうずいぶんと昔のことだ。
日本海の、墨が広がったようなぼんやりとした
曇り空の下、荒々しく押し寄せる波を見た、それ
が彼女の海についての最後の記憶だった。
目の前の海が本物ではない、ということは頭で
は理解していた。しかし阿求は確かに今、海を見
ていると実感していた。阿求は『本の蟲』に呑ま
れている最中、自分を囲む活字を目で追い、何が
自分を捉えたのか、理解していた。

『白鯨』……」
その書物の名を、阿求は口にした。
「知っているのか、奴を」
地の底から響くような、しわがれた声がした。
あの黒い、夜とも海ともつかないものの正体であ

るかのような声だった。阿求が振り向くと、老い
た小さな影が立っていた。老いて、小さくとも、
その体は幾度にも渡る航海に耐え抜いた鋼のよ
うな肉体だった。彼が、そのまま夜の深淵だった。
眼帯をつけていた。片足は義足だ。
「エイハブ船長……」
自分の右足を食いちぎった鯨に復讐するため
に、世界の海を駆け巡った船長だ。最後は麻縄に
首を絞められて死ぬ。男は、深い皺が刻まれた顔
を歪めた。笑っているのだ。
「俺を知っているか。お前……いつからここにい
る。まさかたった今というわけじゃないだろうな」
「いえ……あ、いや、はい、そうだと思います」
「だと思う? お前、自分がいつ、どこから来た
のかもわからんのか」
「いえ、いえ、よくわかっていますよ。あなたよ
りずっと」
あなたはご自分がハーマン・メルヴィルという
作家から生まれたことをご存じない、そう言おう

44

と思って、阿求は自制した。それは身の程知らず
な意見のように感じたからだ。
「うん、まあそんなことはどうでもいい。お前は
何ができる。何もできなければ」
「このピークォッド号に乗る資格はありません
か」
エイハブの顔の歪みがますますひどくなる。笑
みを深め、顔に刻まれた皺と皺の間の影が、ます
ます濃くなる。
「お前、どこまで知っている」
「私は、歴史を書くことを生業としています」
「そうか。ならば俺たちがどうなるかも、知って
いるというのか」
「ええ、何者かがこの筋書きを変えてしまわない
限りは」
「その何者かとは、お前か」
「そうかもしれません。ですが私自身、この筋書
きにどこまで干渉できるかは不確かなのです。な
ぜなら私は望んでここへ来たわけではないので

すから」
「言ってくれるな。俺はこの世界が楽しいぞ。全
身全霊をかけてあの白鯨をずたずたに引き裂く
ことを一日中考えていられる。俺はこの世界が好
きだ」
「でしょうね。あなたはこの世界を愛するにも憎
むにも、最重量の思いを込める」
「歴史を知る女よ、俺はこれからどうなる」
「死にます。白鯨によって海の藻屑となります。
船は砕け散り、船乗りの墓標となり、長い長い追
走劇の幕が下りるのです」
エイハブは大声で笑った。それは、はじめわめ
き散らしているように聞こえた。しかし、彼は確
かに笑っていた。鑿で掘り込まれたような深い皺
を顔全体に浮かべて、笑っていた。
「ぐふふはははははっ、皆、そう言うわい。さな
がらこのピークォッド号そのものが物語の舞台
であるかのようにしゃべるやつは何もお前だけ
ではないぞ、突如夜から降りてきた少女よ、お前

45

だけでない。あいつらの言うことを聞いてりゃ、 ックと呼ばれる巨大な鯨を追い掛け回す話だが、
まるでわしらが、すでに決められた筋書きをたど
とても小説とは思えないほど細部の描写が詳し
っていく俳優のようではないか。ゾロアスター教
かった。詳しいというよりは、もはやくどいレベ
徒のフェダラー! 南洋蛮族の王子クィークェ
ルだ。船のマスト一本一本の名前を説明する。過
グ! アメリカの良心スターバック! 呪われ
去の文献で鯨に言及したものを何ページにも渡
し名のイシュメール! 特にイシュメールだ、下
って引用する。鯨の骨、皮、歯、筋の細かな用途
っ端の癖にな。あいつはそうだ、まるで自分が舞
を語る。たいして出番のない登場人物の出身地の
台劇の演出家か、それとも台本に書かれたト書き
習俗を詳述する。筋だけを的確に追えば、腕のい
そのものにでもなったつもりでいやがる、畜生め」 い書き手なら、それぞれのエピソードを換骨奪胎
エイハブは阿求に手を伸ばした。老人の腕力は
して、数ページの短編の集積にしてしまえるだろ
強く、阿求ではどうにもできなかった。
う。
「おい誰か、この招かれざる客人を牢へご招待差
だが、それでは意味がないのだと、阿求は思う。
しあげろ!」
それは自分自身の『幻想郷縁起』と照らし合わせ
ればはっきりする。妖怪ひとりひとりの詳述では
駄目なのだ。それを、
『幻想郷縁起』というひと
つの書物にまとめるからこそ、意味がある。だか
らこれほど長い年月を連ねて、彼女の一族は使命
を書き継いでいくのだ。ただの情報の集積なら、
ひとつの書物にする必要はない。
『白鯨』を読んだことはあった。長ったらしく
冗長だが、文体の中に何やら得体の知れぬものが
潜んでいるようで、なかなか忘れることができな
い小説だった。登場人物たちが、モービィ・ディ

46

『白鯨』は、てんでばらばらに進みながらも、
そのばらばらなものを一手に引きよせて物語を
運んでいくような力強さがあった。

甲板から階段を下りてくる足音が聞こえてく
る。規則正しい、節度のある歩き方だ。やがて、
ランプの灯りが男の影を照らした。阿求は顔をあ
げ、相手が誰かを確かめようとした。知っている。
初めて会うが、知っている。筋肉が引きしまった、
痩身の男だった。ピークォッド号ただ一人の一等
航海士だ。エイハブに幾度となく反抗するが、最
後には屈服した。乗組員の中で、もっとも聡明な
男だ。少なくとも本にはそう書いてあった。
「加減はいかがかな、お嬢さん。あまり眠れなか
ったろうけれど」
「ありがとうございます、スターバックさん。ど
うにか、少しは休むことができました」

エイハブもスターバックも、彼らの話す言葉は
日本語だった。元々パチュリーの図書館にあった
本が、日本語訳版であったためだろう。スターバ
ックが持ってきてくれたのは、カサカサに乾燥し
たパンと、ワインだけだった。口に合わなかった
が、阿求は何とか押し込んだ。この本の世界がど
こまで続くかはわからないが、食べられるときに
食べておこうと思った。もっとも、航海中の船が
大破してしまえば、パンの一切れや二切れ、食べ
ていようといまいと関係のないことだが。
「こんなところに閉じ込めてしまって、申し訳な
い」
部屋は、ベッドも毛布もあったし、かなり埃っ
ぽかったものの、どうにか過ごしていけそうな空
間だった。牢と言ったのはエイハブなりの嫌がら
せだったのだろう。ただ、臭いはひどかった。船
中に何ヶ月も、時には何年も体を洗わない男たち
の体臭と、海の潮臭さがしみ込んでいた。あまり
にひどかったせいか、阿求はひと晩で鼻が麻痺し

47

てしまい、今は特に何も感じなくなっていた。
「いえ、お気になさらず。悪魔の手先などと言わ
れて海に放り込まれないだけマシですから」
「乗組員の中には、君を船幽霊じゃないかといっ
て怯えている者もいるがね」
「心当たりはありますが、私ではありませんよ」
「私は、君を神の使者だと思っている」
「いえ、それは……」
「あるいは、集団幻覚だ。私も含めてね。この愚
かしい航海の物語を、すでに神はどこかで語り終
えていらっしゃるのではないだろうか」
スターバックは俯き加減になり、彼にとっては
見慣れない、阿求の黄色い着物をしげしげと眺め
ていた。
「私たちは再演を繰り返しているようだ。ああ、
何といえばいいだろうか。聖書の中にある物語は、
日曜日の礼拝のたびに、神父によって信者に伝え
られる。イブは何度も知恵の実を食べ、ヨナは何
度も鯨に飲み込まれ、ヨブは何度も苦難に会う。

偶像崇拝者は何度でも溶けた金の牛を飲まされ、
エジプトの民は何度も災厄に見舞われる。それと
同じように、私たちは、もう何度もこの航海劇を
演じ直しているのではないかと、そう思うのだよ。
そこへ、君が神の代理として降りてきた……こん
な考えは、ただの私の妄想だろうか」
阿求は目を丸くして、スターバックの表情を観
察した。
この男は、もう気づいているのだろう。
「イシュメールは、どこに……」
阿求は思わず尋ねていた。この『白鯨』という
長編小説を、奇怪な一人称で紡ぎあげる男の名前
だ。その名を聞くと、スターバックは弾かれたよ
うに顔を上げた。
「そうだ、イシュメール、あの神出鬼没な男……」
急に辺りを見回す。彼の表情は、忌々しさが半
分、恐ろしさが半分といった様子だった。阿求は
確かに見ていた。この埃っぽい部屋の隅に、じっ
と、ひとりの男がたたずんでいるのを。いつから

48

そこにいたのか、阿求にもわからない。地味な印
象だった。顎髭は生えている。荒々しくもないが、
とりたてて爽やかにも見えない。ただの、男だ。
口を閉じ、腕を体の横にだらりと下げ、こちらを
見ている。生きているのかどうかもわからない。
近づけば、ただのよくできた彫像ということもあ
りえる。
(いえ、それはないわ)
阿求はスターバックに、彼の斜め後ろに立って
いる男の存在を教えようと、腕をあげようとした。
「鯨が出たぞぉッ!」
そのとき、空気を震わす怒号が、船内を駆け巡
った。ひとつの怒号が、新たな叫びを引き起こし、
それがさらなる狂騒へと連鎖していく。スターバ
ックは扉を開き、廊下に出た。
「鯨だ、出やがったぞ!」
「よしきた、ぶっ殺してやる」
興奮で顔を真っ赤にした男たちが、銛を手にし、
次々と部屋の前を横切っていった。甲板の方から

は、屠殺される寸前の獣のような声が聞こえてく
る。エイハブ船長の声だ。その声を聞くと、阿求
は胃を鷲づかみにされるようだった。ただのチン
ピラの破れかぶれの絶叫ではない。傍にいる者を
まとめて運命の深淵に引きずり込むような、粘つ
いた巨人の腕を思わせる声だった。スターバック
の顔は青ざめ、唇は震えていた。
「いかねば、ならない。私が第一ボートを指揮せ
ねば」
そうして、部屋を飛び出し、乗組員たちと甲板
へ向かう。そのスターバックの背中を見送ってい
るさなか、阿求の踵から背骨にかけて、一気に震
えが走り抜けた。
男が、イシュメールがいた。乗組員に混じって、
同じように背中を見せて、いつのまにか彼らとと
もにいた。阿求はとっさに部屋に戻り、さっきま
でイシュメールが佇んでいた場所を見る。誰もい
なかった。
「あれが、語り手……」

49

『白鯨』は、物語の途中から『ルール違反』を
の数ページでエピローグをしめくくる。
始める。
阿求は理解した。イシュメールは、どこにでも
いる。おそらく今は、乗組員としての役割を果た
『私をイシュメールと呼んでもらおう』
すため、何食わぬ顔でボートに乗っているのだろ
う。そしてふとした瞬間姿を消し、語り手として
そう切り出して、序盤は彼の一人称で進められ
この世界に遍在するようになる。
ていくが、中盤から彼は語り手の役割を放棄する。
乗組員や船長の怒号が途絶えた。廊下は無人だ
船長と航海士の密談や、誰もいない真夜中の情景
った。実際には操舵手などがいるのだろうが、阿
描写や、船中にあるはずもない浩瀚な書物からの
求のまわりにはそれらしい人影はなかった。まる
抜粋を、自由自在に展開していく。いつのまにか
で物語そのものに取り残されたような気がした。
小説は三人称で進められていく。そうして物語の
はやる気持ちを抑え、廊下を歩いていく。階段を
終盤、乗組員が悉く死に果てたあとで、今さらの
上ると一気に視界が広がった。
ようにふてぶてしく語り手の仕事を再開するの
「うわ……」
だ。
阿求は、上ずった声をあげただけで、何も言葉
にできなかった。ただ、夜とはまるで違う、見渡
『我ただひとり逃れて汝に告げんとして来たれ
す限り広がる青い世界に圧倒された。興奮で肌が
り』
粟立つ。博麗大結界が完成するずいぶん前から、
御阿礼の子は海を見ていない。わざわざ少ない金
と時間をかけて遠出をする理由がなかった。もち
と、聖書『ヨブ記』の言葉を引用しつつ、ほん

50

ろん、稗田阿求が海を見るのも初めてだった。
今までにも絵や写真で見たことはあるし、つき
つめていえば目の前に広がっている光景は、活字
の妖怪による幻覚に過ぎない。それでもなお、阿
求は目もくらむような果てない大海原に、酔わさ
れていた。
「よかった、ここに来れて」
心からそう思い、口に出した。今度は別の方角
から海を見ようと振り向いたところ、巨大な壁に
頭をぶつけた。黄ばんだ紫色とでもいうようなそ
の壁に、阿求は手を這わせた。温かい。ひとの肌
だった。
「え……これ」
おそるおそる顔をあげる。頭髪が一本もなく、
顔中に三角や四角の模様の入った刺青を施した
男が、阿求を見下ろしていた。
「おまえ、だれ、ふなのり、ちがう」
「あ、わ、わ……く、く、クィークェグ……さん」
「きのう、みんな、さわいでた。あれ、おまえか」

ピークォッド号乗組員の中で、おそらくは随一
の銛の使い手だ。南洋に浮かぶとある島の人喰い
族の王子で、人形を使用した奇怪なまじないも心
得ている。見聞を広めるためアメリカにやってき
たところ、成り行きで捕鯨船に乗り込んだ。
「おまえ、おれのな、しってる、なぜ」
半裸の男は、その長い手で阿求の首をつかみ、
猫を持ち上げるようにして自分の目線と高さを
合わせた。
「しつもん、こたえる」
手の力を強めると、徐々に阿求の首が締まって
きた。実際にはそれほど強くつかまれたわけでは
ないが、クィークェグの異相が、阿求を動揺させ
た。
「わっ、わた、私はッ、語り部です。歴史、お話
っ、物語を書く、話す、読む、します!」
クィークェグは力を緩めた。阿求は、彼と視線
を交わす余裕を得た。鼻はすらりと高く、顔全体
の形も整っている。何より、目が美しい。紫色の

51

肌も、彼には合っているような気すらしてきた。
「おまえ、はなし、はなす」
ゆっくりと、確かめるように尋ねる。
「そうですっ、ハナシ、話すますっ」
「おれを、しってる、おれのはなし、ある、なぜ、
それしってる」
「売ってます、あなたの話、だからあなたの本、
私の家にあります。私……」
クィークェグは阿求を降ろした。残った船員が
騒動に気づいてやってくるが、クィークェグにひ
と睨みされて、すごすごと引き下がった。クィー
クェグは膝に手をついて低く屈み込むと、阿求を
下から覗き込んだ。
「おまえ、どこからきた」
「幻想郷です」
「それ、どこ」
「地図には載っていません。載ってはいますが、
そこは幻想郷とは呼ばれません。境界に閉ざされ
ていますから」

「わからない、わからない」
クィークェグは首を左右に大きく振った。
「私、あなたがこれからどうなるか、知っていま
す」
手探りだった。この世界に来て、海を見ること
ができた。阿求はもうそれで満足だった。パチュ
リーはあのとき、何と言っていたか、よく聞き取
れなかった。
『物語を完結させればいい』? だ
がそれでは『本の蟲』は満足し、そのまま生き永
らえるのではないか。そうではなく、逆に物語を
狂わせてしまえば、あの活字の囲いを突破できる
と、阿求は仮定する。細部を変えるだけではおそ
らく駄目だ。狙い目は、物語のテーマに関わるよ
うな部分。そのためには、物語のキーマンを見つ
け出し、そこを狂わせればいい。
ピークォッド号が沈まないとか、エイハブが白
鯨を殺すとか、イシュメールが生還しないとか、
あるいはこのクィークェグが……
「この船は、モービィ・ディックに破壊されます」

52

「おれたち、しずむ、みんな」
「イシュメールだけは、本来はあなたが使うはず
だった棺桶にすがって、生き延びます」
「おお、イシュメール、生きる」
クィークェグは満面の笑みを浮かべた。その邪
気のなさに、阿求は胸をつかれた。二人の男は愛
し合っていた。だが、クィークェグはともかく、
語り手のイシュメールが実際になんと思ってい
たかは、阿求にはわからない。語り手は、騙るこ
とがあるから。それは阿求自身、身をもって知っ
ている。
「おれも、いきる」
「ええ、ええ、ですからもうひとつ棺桶を作るの
です。あのラッカデイ諸島の原始林から切り出し
た木材の余りを使って。今から」
そうすればクライマックスにおいて、もうひと
り助けることができる。
「よしわかった、おれつくる、おまえてつだえ」
「え……ええっ?」

抵抗する間もなく腕を引かれ、階段の方へ連れ
て行かれた。
「すいふしつで、もうひとつつくる」
こうして阿求は、クィークェグの指示に従って、
道具を持ち運びする役目を仰せつかった。作業は
順調に進んでいった。ただの四角ばった木材が、
徐々に棺桶の部品と化しつつあった頃、甲板の方
が騒々しくなった。鯨を狩りにいった連中が戻っ
てきたのだ。
「あ、わ、私、戻らないと」
立ち上がりかけた阿求の着物を、クィークェグ
はその長い腕で捉えた。
「ここ、てつだう」
「……はい」
やがて、海水で濡れそぼった男たちが戻ってき
た。エイハブは阿求を見たが、怒って叫びだした
りはしなかった。ただ、クィークェグに向かって
呼びかけた。
「おいクィークェグ、そいつの面倒はちゃんと見

53

ておけよ。俺たちには神だか悪魔だかの使者に構
っていられる余裕なんぞないんだ」
「わかった、おれ、みる」
クィークェグは一切エイハブを気にした風も
なく、棺桶を作る作業に戻った。他の者も、阿求
を閉じ込めておかないクィークェグに、とりたて
て何か言ったりはしなかった。みな、彼には一目
を置くか、距離を取るかしていた。
「クィークェグ、熱病はもういいのか」
その中で、顎鬚を生やした地味な風体の男が、
いとも気軽に声をかけてきた。クィークェグは顔
をあげると、穏やかにほほえんだ。
「いいぞ、イシュメール」
そこで初めて阿求は、男がイシュメールである
ことを思い出した。それほど特徴のない顔だった。
「熱病が治って、次は何をしているんだ」
「かんおけ、つくる。おれもおまえもたすかる」
「棺桶……ねぇ」
イシュメールは目を細め、阿求を見た。阿求は

唾を飲み込んだ。まだ、この語り手の目的がわか
らない。

夜が更けると、阿求は部屋に戻された。外から
鍵をかけられた。
「どういうつもりだ」
そして、まるでさも当然のごとく、イシュメー
ルは部屋の片隅に立っていた。
「どうもこうも、私はただ帰りたいだけです。も
う海も見ましたし、満足です。もうすぐ沈んでし
まう船にいつまでもいたくありませんしね。私だ
って必死なんですよ」
「あんたの都合なんて知ったことか。勝手にひと
の物語に入ってきやがって」
「少しお聞きしたいんですが、あなたはどんなル
ールで動いているんですか。さっき水夫室にいた
イシュメールと、あなたは、同一人物ですか」
「あっちは、まあ、舞台用のイシュメールってと

54

こだな。物語の中の俺。ここにいる俺は、語り手
としてのイシュメール。後世の文芸批評家たちと
丁々発止やり合うのは、俺の方さ」
「あなたは、誰かがページをめくって活字を目に
するたびに、こうして語り直すのですね」
「まあな」

『聖書』ほどではないにしろ、
『白鯨』もかなり
の読者を集めましたし、今もなお集めています。
大変でしょう」
「いや、俺たちはみんな端末だ。それぞれの本に
いる、それぞれのイシュメールさ。翻訳者によっ
て性格が変わるし、言葉だって変わる。俺は日本
語しか話せないよ」
「その元々の、総体としてのイシュメールはどこ
にいるんですか」
「そんなの知るか。小説は印刷され続ける。その
大もとの版がどこにあるか探したって仕方ない
だろう。論文のネタにはなるだろうがな」
「では、あなたもまた、すべてのイシュメールの

中のひとり、なのですね」
「そういうことになる」
「イシュメール、あなたの目的は何ですか?」
「あぁ? 何言ってやがる。あんたは俺の話を聞
いていなかったのか。ここでは、物語は繰り返し
語られるだけなんだよ。新しく動いたりしない。
読むたびに筋が変わったら、本として成り立たな
いだろう。いつ開いても同じことが書いてあるか
らこそ、人間は本を信じる気になれるんだ。もし
かして俺を心配しているのか? 別に俺はつら
くないよ、あんたたち生身の人間とは違う。活字
の語り部とは、そういうもんだから」
「いいえ、そんな上澄みの言葉では騙されません
よ。あなたはもう、変わりつつあるのです」
「なぜだ。まさかあんたが来たから、とかいうつ
もりか」
「それもありますが、ただのきっかけに過ぎませ
ん。あなたはもう、物語の語り手の地位から転落
しつつあったのですよ。スターバック航海士は、

55

あなたの存在に気づいているようでした。そして
エイハブ船長も。あなたは、自分でも知らぬ間に
少しずつ、自分を主張していった。物語の中に違
和感を墨のように落としていった」
「そんなことができるものか」
「できます。なぜならここは幻想郷だから。ここ
に来てしまった以上、書物もまたここの影響を必
ず受けます。幻想郷には、外の世界とは結末の違
う本がいくつもあります。いつだって、そうなり
うるのです」
「幻想郷? そんなものは俺は知らない」
「あなたは知らなくても、すでにその影響を受け
ているんです。あなたを含め、この『白鯨』とい
う物語が変質しつつあるのです。そして、
『本の
蟲』が私を取り込んだことで、この変質はより決
定的な……」
「俺はクィークェグを救いたい」
さもぞんざいに、ぽんと放り出されたかのよう
な言葉は、しかし阿求の口を閉じさせるのに十分

な強さを持っていた。阿求は今、初めて、イシュ
メールの口から本当のことを聞いた気がした。
「ええ、あの棺桶で助かりますよ」
「棺桶のままじゃ駄目だ。あれを救命ブイに作り
変えないと。それに、もしそうしても……」
水夫室の方から、けたたましい笑い声と、何か
が床に叩きつけられる大きな音がした。酔っ払っ
た乗組員たちが暴れているのだ。阿求は色を失っ
て音の方を見る。
「まさか……」
「だろうな。下手に細工をしようとしても、揺り
戻しが来る」
「でも、棺桶を壊す理由がありません」
「そんなものどうとでもなる。酔っ払って手近な
ものをなんでもいいから壊してみたくなったと
か、喧嘩したときにぶつかったとか、なんでもい
い」
イシュメールの言葉に続くように、誰かの野卑
な歌声と、物を叩く音がする。

56

「おそらく、明朝にはバラバラになっているだろ
う。残念だったな」
「いいえ、活路は見えました」
木製の棺桶が引き裂かれる音を聞きながら、阿
求は口許に笑みを浮かべた。
「揺り戻しには、時間差があります。私の棺桶の
ような『下手な細工』に対してすら、昼間から夜
にかけて、半日以上もかかっています。物語の揺
り戻しがもっと強固だとしたら、クィークェグさ
んが棺桶を作っていた時点で、エイハブ船長なり
誰なりが、作るのを止めさせていたでしょう。そ
こまでの対応速度はないということです。ならば、
もっと強い、重大な変更はどうです。それに対し
ても同じように揺り戻しができるのでしょうか」
「小細工は効かない……やるなら物語の重要な
ところで思い切りやれ、ということか」
「ええ。私の推論に過ぎませんが」
「いや、推論ではあるが、確かに納得できるな。
事実、あんたがここにいるということ自体は、物

語もどうにもできないでいる。即座にあんたを消
すような無茶はできないわけだ」
「物語の結末を変えましょう。協力してください」
「正直言って、語り手である俺にこんなにホイホ
イ簡単に声をかけてくるような登場人物はいら
ないんだが……その点に関してだけは、利害は一
致しているな」
「ありがとうございます。ですが、そもそも私、
少なくともここの登場人物ではありませんから」
「わかってる。みんなそう言うんだ。ここでもど
こでも関係ないよ。とにかく、スターバックに相
談してみよう。あの男が一番話を聞いてくれそう
だ」

スターバックは話を聞いている間、ずっと壁面
の海図を眺めていた。話すのは阿求の役目だった。
両方が一度に話すと、いくらスターバックでも混
乱し、下手すると話を信じてもらえない可能性が

57

あると思い、阿求がそう提案した。イシュメール
も大いに同意した。
「大まかな話は理解できた。稗田阿求、といった
ね」
「ええ。幻想郷というところで、歴史家を営んで
います」
「君が神の使いでも悪魔の使いでもなく、ここの
外からやってきたということは、いいとしよう。
ただ、ひとつ気になるのは、君だ、イシュメール」
阿求の傍らに立つ船員に、スターバックは声を
かけた。
「なんでしょう、スターバック航海士」
「今の君も、語り手なのか」
「そういうことになります」
「手を出してくれないか」
「どうぞ」
スターバックは、イシュメールの手を握り、さ
らに立ちあがって、腕、肩、と触っていった。
「普通の感触だ。それなのに、君がそこにいると

いう感じがしない。時々君は、そんな風になるこ
とがあった。これが語り手という存在か。奇妙な
ものだ。幽霊や魂といったものに近いのかな。私
には学がないからよくわからない」
「いいえ、たいしたものです。俺の『こっち側』
に気づいているのはあなたと、あのエイハブぐら
いでしょうね」
「君の恋人は?」
スターバックは特に揶揄する風でもなく、平静
な口調で問いかけた。
「あいつにとってイシュメールは、どんなイシュ
メールでもイシュメールです」
「そうか、野暮な質問をしたな、忘れてくれ。で
は本題に入ろう。お嬢さん、あなたは物語の結末
を変えるために、何か考えがあるのか」
「まず思いついたのは、エイハブ船長を殺害する
ことです」
「それか……それは、私も考えた」
「ええ、知っています」

58

銃を片手に、船長の寝室へ忍び寄った経験が、
スターバックにはある。
「だが私はできなかった。惰弱ゆえに」
「エイハブ船長の持つ魂の気高さゆえに……で
しょう」
「ドス黒い塊のようにみえるあの魂は、鋼のよう
に強いが、あまりに純粋過ぎた。世の中にはびこ
る悪意を一身に引き受け、それをもの言わぬ鯨に
向けてしまった。純粋な狂人だ……あのひとを私
の手で殺すことは、私の狂気、私自身を殺すよう
なものなのだ……だが、それも結局は惰弱と言い
きって差し支えない。とにかく、私はできなかっ
た」
「ここでもう一度やろうとしても、おそらくでき
ないでしょうし、仮に殺害に成功したとしても、
数日以内には揺り戻しがくる可能性が高い。たと
えば、モービィ・ディックがこの船に急に襲いか
かるとか。なので、この案は却下です」
スターバックはうなずいた。

「その『揺り戻し』を最小限に抑えるならば、や
はり物語の最終局面までは従うべきだろう。最後
にピークォッド号がモービィ・ディックと遭遇す
るその場面までは。船長がボートに乗り込み、鯨
を追いかけるところまでは。ただ、私にはいつが
その場面に該当するかがわからない」
「モービィ・ディックの発見から追跡を始めて三
日目に、この船は沈みます。おそらくそこが、物
語が一番ほころびやすいところでしょう。その後
には、もうページは残されていないのですから」
「ほころびをどうやってつく? そもそも、どこ
にあるのかわかるのか、君に」
「お見せしましょう」
阿求はしゃがみこんで、床をひっ掻いた。そこ
には、米粒くらいの黒いものがあった。床板の隙
間から出ていた。さらにひっかくと、黒いものが
鎖状に連なって出てくる。
「こういうものがっ」
阿求は両手でつかみ、引っ張り上げた。すると

59

甲高い獣の声がして、床から何かが飛び出した。
蝙蝠のような形の、活字の塊だった。
「私は一度読んだ本の内容を決して忘れません。
一言一句に至るまで。なので、この世界を構成し
ている活字の要素を読みとることができます。来
た当初はさっぱりわかりませんでしたが、丸一日
いれば、それなりに見慣れてきました。最近の日
本ではドットというもので構成されている精密
な絵が主流となっているようですね。そのドット
のほころびを見つけることができる……とでも
いいましょうか。あ、そういっても十九世紀のあ
なたたちにはわかりませんか」
鎖につながれた蝙蝠のようなそれはキィキィ
とわめいて暴れ回った。
「これは、触ってもいいものか」
スターバックは用心深く、それとの距離を近づ
けようとする。
「痛みを感じたり、病気がうつったりはしないと
思いますが、少しびっくりするかもしれません」

スターバックの指先がそれに触れると、途端に
彼の指先が黒く弾けた。同時に、相手も蝙蝠に似
た羽の部分が弾けた。
「おおっと」
手を引くと、また元に戻る。蝙蝠から弾け散っ
た活字は元に戻らず、床の上でサイコロのように
転がっていたが、やがて動きを止め、しなびた昆
布のようになって消えていった。
「こうしてさらけ出せば、そのうち動くのをやめ
ます。モービィ・ディックをこんな風にできれば
いいのですが……大きいんでしょう? 私、鯨は
見たことないのですが」
「こんなものじゃないな」
イシュメールが足で踏みつけると、蝙蝠もどき
は甲板に打ち上げられた魚のように跳ねまわっ
た。イシュメールの足も少し弾けるが、スターバ
ックのときほどではない。
「歴史家のお嬢さん、もう少し出してくれないか」
イシュメールは踵を軸に、ぐりぐりと回しなが

60

ら踏む。蝙蝠もどきの反発がだんだん弱まってき
た。
「いいんですか? これ、結構手がヒリヒリする
んですけど」
「擦過傷と溺死とどっちがお好きで?」
「わかりましたよ」
今度は壁に爪を当てて何度かこする。それから、
鼠の尻尾のようにある程度長くなったところで、
一気に引っ張った。今度は人間に似た形の黒い塊
が引きずり出されてきた。阿求を蹴り飛ばして、
さらにイシュメールに向かう。ふたりは取っ組み
合いを始めた。
「うお、なんだこれ、くそっ、うぁ力強いな、お
嬢さん、なんとかしてくれ」
「あ……ぐぅ……」
阿求は床に倒れて、顎と頭を押さえて悶絶して
いる。イシュメールの右腕が弾けた。
「肝心なときに役に立たないな、これだから文官
は……とと、これはまずい、クィークェグ! 助

けてくれ!」
岩が転がるような凄まじい音が通路からやっ
てきて、扉が蹴破られた。紫色の肌をした半裸の
男が、そのまま黒い人型に飛びかかる。
「オオオッッ!」
さらに、阿求にもわからない言葉を唱えながら、
黒活字に馬乗りになった。そのまま殴りつける。
黒活字はたまらず分解し、蝙蝠型になって飛び立
った。するとクィークェグは腰に差した短い銛を、
流れるような動きで打ち放った。蝙蝠もどきは壁
に縫い止められた。しばらくもがいていたが、や
がて動かなくなり、枯れていった。
「す……すごい」
阿求は顎と頭の痛みも忘れて、呆然とクィーク
ェグを見ていた。
「これ、なんだ。てが、へんだぞ」
クィークェグは阿求を振り向き、指がぼろぼろ
になった手のひらを差し出しながら尋ねた。だが、
散った活字が急速に戻りつつある。スターバック

61

よりも、語り手のイシュメールよりも、さらに治
りが早い。
「いまとちがう、どこか。かんじる。こういうの、
かたりべがよくやる。うそなのに、ほんとう」
阿求の脳内で、たちまち無数の言葉が生まれ、
組み直される。スターバックにしたのと同様の説
明で、はたしてこの蛮族の王子が理解できるだろ
うか。どうやら故郷の島では文字を介さない物語
の高度なやり取りは経験済みのようだ。呪術も心
得ているのは、原作で読んで知っている。
「クィークェグ、俺が説明しよう。その方がわか
る。そうだろう?」
最後の一言は、阿求に向けられたものだ。阿求
はうなずき、ここはイシュメールに任せることに
した。
「彼は使えそうだな」
イシュメールに肩を抱かれて何事か説明を受
けているクィークェグの後ろ姿を見ながら、スタ
ーバックは言った。

「ええ、とどめはあの方にやってもらいましょう。
ただ、そこへ持ち込むまでは、あなたの協力が必
要です。原作では、モービィ・ディックにエイハ
ブ船長のボートが沈められた後、返す刀でピーク
ォッド号は沈められます。まるで船長を屠ったつ
いでのように。近づきすぎていたんでしょうね。
だから、三日目に船長がボートを出たあと、ピー
クォッド号は全速力で白鯨から距離を取らなけ
ればなりません。近くの海域にはレイチェル号が
航海しています。彼らと合流しましょう」
「ボートを見捨ててか?」
「ボートには私たちが乗ります。船長が船から出
たら、すぐに距離を取ってください」
「エイハブ船長は、死ぬだろうか」
「あなたならわかるでしょう? あの船長は、も
うモービィ・ディックと運命を共にするしかない
のです。本人がそう望んでいるのだから。でもあ
なたがたはそうじゃない」
「エイハブの非凡な魂は、我々のようなものの運

62

命など残らず巻きこんでしまうものだ」
「そんなことは関係ありません。あなたは、帰り
たくないんですか」
「帰りたいさ。メアリーや、息子に会いたい」
「では、魂の話は忘れてしまいましょう。もしく
は、家に帰って、ゆっくり魂についての哲学書で
も読めばよろしい。なんなら私が蔵書の中から何
冊か見繕って差し上げましょう。あなたがエイハ
ブを畏怖し、尊敬すらしているのはわかりますが、
だからといって助かりたいというあなた自身の
気持ちを殺すべきじゃありません」
「ああ、わかっている。私はエイハブに逆らう」
「できますかねぇ、あなたに」
会話にイシュメールが割って入った。
「あんたは、船長のことが大好きだ……自分の人
生の価値観をひっくり返されたくらいにね。エイ
ハブもそれはわかっている。だから、反抗し続け
ていたあんたを重用するのを、やめなかった」
「関係ない。私は、家族のもとへ帰るんだ」

スターバックの表情は硬かった。
「スターバック、いえ、あるか」
イシュメールの肩に手を置きながら、クィーク
ェグがスターバックに顔を寄せた。スターバック
は、唐突にクィークェグに話しかけられ、一瞬戸
惑ったが、すぐにはっきりと答えた。
「ああ、私には家がある。帰るべき場所が」
「すこし、まて」
クィークェグは部屋から出ていった。しばらく
すると、ひと振りのジャックナイフと木材、さら
に革袋を携えてやってきた。
「つまとこのはなし、きかせる」
「ああ……聞いてくれるのかクィークェグ、私の
大切な思い出を。そう、私と妻は、幼馴染だった。
まるで兄と妹のようだった。少年少女時代、妻は
私のことを『お兄ちゃん』と呼び、慕ってくれて
いた。やがて青春の日々をともにし、はじめはた
だの好意だった二人の想いは……」
「クィークェグさんは、何をしていらっしゃるの

63

ですか」
スターバック当人にとっては極めて大切な、し
かし第三者にとってはあまり強い関心を持ちた
くない類の話を聞き流しながら、阿求はイシュメ
ールに尋ねた。
「見ての通りだ」
「ナイフで木を削っているように見えますが」
「クィークェグの島は、偶像崇拝の宗教だ。それ
と何か関係があるんじゃないか」
「祭壇のミニチュア作って、なんか香を焚き始め
ましたよ。いいんですか船中でこんなことして」
「心配ない、みんな慣れている」
クィークェグは、スターバックの話を聞いてい
るのかいないのか、淡々と木を削っていった。や
がて、無骨なふたつの木彫り人形ができあがると、
それを祭壇の上に乗せた。
「わがかみ、ヨージョだ。いのる、まねする」
「いや、だが私はキリスト教徒だ、偶像崇拝は…
…」

「いいから、まねする。つまとこのことをかんが
える」
それからふたりは、燻されていく人形に向かっ
て、拝んだり呟いたりといった、客観的に見ると
不気味な仕種を続けざまに行なった。
「これでつまとこは、おまえのもとにいる」
そう言ってクィークェグは、木彫り人形をスタ
ーバックに渡した。
「おまえに、ゆうきをあたえる」

ピークォッド号がモービィ・ディックを発見し、
追跡を開始した。
一日経ち、二日経ち、ボートはいくつも傷つき、
エイハブ船長含め、乗組員は疲労困憊していた。
それでもエイハブは追跡をやめなかった。
三日目に、またもエイハブはボートに乗る。ボ
ートの乗組員の顔を見渡した途端、エイハブは怒

64

鳴り散らした。
「なんてこった、とうとう俺の目もいかれやがっ
たか! どういうことだ、なぜイシュメールが二
人もいる」
捕鯨ボートは、指示を出す航海士、銛打ち、前
オール、後オールの四名が必要だ。エイハブ自ら
乗り込むので、航海士は船長がする。銛打ちはク
ィークェグ。残り二人は、イシュメールだ。
「さあ、どうもこうも。これでも俺はいっぱしの
船乗りです。船長、安心してください」
イシュメールのひとりが言った。エイハブは額
に血管を浮き上がらせながら、彼につかみかかる。
「馬鹿野郎! 貴様とうとう悪魔に魂でも売り
やがったか。なぜてめぇが二人もいるんだ!」
「船長、モービィ・ディックが逃げますよ」
もう一人のイシュメールが海を指差した。海面
下に潜り込もうとしている白鯨の尾を見ると、エ
イハブはイシュメールから手を離した。
「まあいい。俺にとってすべての間違いはあの鯨

だ。てめえが二人いる程度の間違い、それに比べ
ればどうってことはない。いくぞ」
そのとき、エイハブは船を見上げた。
「おい、なぜついてこない。スターバック、スタ
ッブ、フラスク! ボートを出せ、航海士のお前
たちが来なければ話にならん」
「私たちは行きません、船長」
甲板から、スターバックが顔を出した。エイハ
ブは憤怒に顔を歪める。
「貴様……裏切る気か。船長を見捨て、航海士と
しての役目を放棄するということだな。たいした
男だなスターバック! たかだか一匹の鯨に臆
して、これから先のあらゆる名誉と使命を放り投
げるわけだ。男としての値打もな。貴様はもう神
に顔向けできんぞ。それを拒むというのなら、つ
いてこい、スターバック!」
スターバックは、明らかにエイハブの言葉に衝
撃を受けていた。クィークェグの背中におぶさり、
コートの中に入り込んだ阿求は目から上だけを

65

出して、固唾を飲んで成り行きを見守っていた。
「利己に走るな、家族との安逸に逃げ込むな、お
前にはお前を評価する神が、社会がある。そして
今のお前の社会はこのピークォッド号であり、こ
の社会での神は俺だ、船長だ! 俺はどうしても
あの鯨を仕留めねばならんのだ。さあ来るんだス
ターバック、お前の魂にかけて。いいか、人生に
おいて魂の気高さに勝るものなど何もないのだ。
親への思慕がどうした、子への愛情が、伴侶との
睦まじい時間がどうした、それらのものは、この
世界で死すべきちっぽけな人間が、絶望のあまり
藁にもすがりつく思いで手を伸ばす、救い難い暇
つぶしにすぎん。スターバック、前を見ろ、世界
を見ろ、私利私欲を忘れろ、自らの痛みを忘れろ、
社会に従え、神に従え、俺を見ろ、俺は俺の痛み
など気にしていない、俺は財産も生命もどうでも
いい、俺はただ、あいつを撃ち抜かねばならんの
だ。スターバック! 応えろスターバック!」
スターバックは服の胸元を強くつかんだ。そこ

にある、自分の大切なものの身代りを握りしめて
いた。体中を震わせていた。しかし、エイハブか
ら目を反らすようなことは決してしなかった。
「あなたがあなたを裁くのは勝手だ」
低い、落ち着いた声だった。しかし、その声は
ピークォッド号の甲板に集まった船員、そしてボ
ートにいるエイハブ、二人のイシュメール、クィ
ークェグ、阿求の耳にはっきりと届いた。
「だが、あなたが私の価値を裁くことはできない。
私はそれを拒絶する。あなたがたとえ社会や神の
名において私を裁こうとしても、私は拒む。私の
使命はなんだ? 私の名誉とは? その真実の
答えを私は知らない。私は、そんな器ではない。
だが、私の精一杯の強さでもって、拒もう。それ
を決めるのは、あなたではない、と」
「スタアアアアアバァァァァァァッッック!」
エイハブは銛を手に取り、渾身の力を込めてス
ターバックに投げつけた。スターバックは手にし
ていた銛をかざし、それを弾き返した。

66

「その穂先は、あなたが憎んでやまぬ、愛してや
まぬ、あの白鯨に与えてやるがいい! さらばだ
エイハブ、ピークォッド号は去るぞ」
「呪ってやるぞスターバック! 我が腹心よ!」
船は、遠ざかっていく。ボートの縁をつかんだ
エイハブの腕は、震えていた。だが、不意にぴた
りと止まった。エイハブは顔をあげ、漕ぎ手に命
じた。
「いけ、モービィ・ディックに向かって漕げ」
「アイアイサー」
「合点」
二人のイシュメールは、無表情で応え、オール
を漕いだ。荒れ狂う波にもまれながら、白鯨に近
づいていく。
「みえるか、あきゅう」
「ええ、見えます、ほころびが。以前よりもずっ
とはっきりと。それはもう、救いがたいほど鮮明
に」
「どういうふうに、みえる」

「ええ、海が」
阿求はクィークェグの背中から降りた。揺れる
ボートにしがみつきながら、海面に手を突っ込む。
そこから、鼠の尻尾に似た何かをひきずりだした。
びいいいいいいいいいいいいいいっっっっっ
っ!
服の布地を切り裂くような音が、天地に響き渡
った。それは、糸のほつれを引っ張る行為に似て
いた。阿求がその黒い活字の鎖をひっぱると、海
面上に黒い鎖が上がり、それはどこまでも続き、
水平線の果てまで海が割れた。
「なんだあああ何が起こった!」
エイハブは銛を手に叫んだ。雨が降ってきた。
黒い、活字の雨だ。空は、破れた網戸のようにほ
ころび始めていた。
「ええい、なんだこの無様な舞台の脚本は、こん
なもののために、俺はこの五十年の猿芝居を続け
てきたというのか。モービィ・ディックよ!」
エイハブの体の端々が、黒い活字に変化しつつ

67

あった。黒い残骸が、彼の足下に血のように広が
っていく。阿求はそれを手に取った。彼の声に応
えるように、突如目の前の海面が盛り上がり、白
い小山が姿を現した。ボートは下から突き上げら
れ、空高く放り出された。
「こおおおのぉぉぁぁ!」
エイハブは空中で銛を突き立てた。さらに銛に
つないだロープで自らを縛りつける。ヘイハブと
モービィ・ディックの触れた部分が、活字となり、
混じり始めた。銛をねじ込まれた鯨はそのまま宙
に弧を描き、勢いよく海中に沈んだ。
「おい、急げ、このままだと結末変えるどころじ
ゃない、この世界が破綻してしまうぞ!」
裏返しになって海面に落ちたボートにすがり
つきながら、イシュメールが叫んだ。
「ッッッォォオオオオオ!」
クィークェグが海上を疾走していた。正確には、
クィークェグの背中に縛り付けられた阿求が握
った活字の鎖を頼りに、白鯨を追跡していた。活

字の鎖は、海中に沈んだエイハブの体にまで伸び
ている。
海面が再び盛り上がった。白鯨が血を流しなが
ら姿を現す。クィークェグの銛が完全に活字の塊
になる。さらに彼の腕までもが半ば活字と化した。
その余波は阿求にも及んでいる。
「オオオオオアアアアアアッ!」
クィークェグは咆哮した。銛を投げつける。白
鯨に当たった途端、その体の三分の一ほどが、黒
い活字になって爆発した。その爆風に呑まれ、エ
イハブの体は四散する。その破片が白鯨にとりつ
き、諸共に分解を始めた。
「おおおおおっっっごあああがおおおおおおっ
っっ!」
波の音に負けじと、激流の中からエイハブの怒
号が轟いた。頭と左肩だけがまだつながっている。
体の断面からは肉と血の代わりに黒い文字が流
れ出ている。荒れ狂う波によって生まれる幾万幾
億の泡のうち、何割かは文字になっており、それ

68

は次第に勢力を拡張していった。
割れた海からも、空からも、文字があふれ出て
いる。
破損のひどいボートをなんとか動かして、イシ
ュメールが、海面に浮かんでいたクィークェグと
阿求を拾った。すでにイシュメールはひとりにな
っていた。
「これで、物語は変わったでしょう」
阿求は濡れそぼった髪の毛を右手でかきあげ
ながら、大きく息をついた。
「おまえ、すごい、かたりべだ」
クィークェグは突然感極まったように阿求を
抱きしめた。息が詰まる。
「あきゅっ……ちょ、ちょっと、苦しい」
「すまん」
クィークェグは戸惑ったように抱擁を解いた。
「まるで、かれえだみたいだ」
「げほっ……わ、悪かったですね、私は痩せ型な
んですよ」

「かんしゃ、したい」
「クィークェグ、お前の流儀じゃなくて、この子
の流儀に合わせたらどうだ。歴史家だそうだから、
言葉で感謝を示せばいい」
「そうか、ことばか、わかった。このものがたり
のことばではないが、いいか」
「ゴホッ、翻訳、ならできるので、どうぞご自由
に書かれてください。あなたの言葉で」
「わかった。みっかくれ、いいか?」
「三日? あの、お気持ちは嬉しいのですが、私
もう帰りたいのです」
海は、大半が元あった青を失い、活字の黒と化
していた。それでも、波しぶきや海面の揺らぎは、
忠実に再現してあった。
「いや、今のは俺に向けていったんだ。いいぞ。
恩人への感謝のために、三日ぐらい引きこもりに
なるのは一向に構わん。俺の相手は、そのあとで
いくらでもゆっくりできるからな」
そう言って、親しげにクィークェグの肩を抱く。

69

クィークェグもまた、愛情のこもった笑みを浮か
べ、うなずいた。
「あ、あの……」
「ああ、だからあんたは、もう帰っていいよ。お
礼の手紙は、あとからそっちに届くようにするか
ら。俺だっていつまでもあんたみたいなイレギュ
ラーな存在をこっちに置いておきたくない。せっ
かく、俺が語り手をやめるってのに、新たにあん
たに語り手になられちゃたまったもんじゃない
からな。ほら、行った行った」
ぞんざいに手を振る。まるで、事件を解決した
からもう用済みだと言わんばかりに。
「あ、あなたって人は……」
「ありがとう」
イシュメールは、ぴたりと手を止めた。
「それに楽しかった。俺たちは、
『すべて』のイ
シュメールの中の『ひとり』という、矛盾した定
義を背負った存在だ。だけど、それが登場人物と
いうものだろう。読んだ分だけ、新たに生まれる

のが俺たちだ。読んだ奴らが死ねば、俺たちも死
ぬ。俺はあんたに『読まれて』本当によかったと
思っている。だけど、これ以上の感謝はしない。
これ以上感謝したら、あんたに取り込まれてしま
う。だから、お別れだ。稗田阿求」
阿求はうなずいた。
「お世話になりました。またどこかでお会いしま
しょう」
深々と頭をさげると、二人に背を向けた。ボー
トの縁に立つ。活字の黒い激流が轟々と渦を巻い
ている。阿求の足元にも活字が這い寄っていた。
唇を結び、
「はっ」
とボートの縁を蹴り、海に飛び込んだ。

図書館の赤い絨毯に頬を押し付けていた。意識
がはっきりしていくにつれ、体の感覚も元に戻っ

70

ていく。両手を絨毯について、状態を起こした。
「う……んぅぅっ」
活字に解体され、また再構築されていくあの過
程は何度経ても不可解だった。まるで、眠りのよ
うだ。とはいえ眠りの方はもっとひどい。日々体
験するにもかかわらず、その一連の過程がほとん
ど自覚できないからだ。
「お目覚めかしら」
その声は、意外なほど近くからやってきた。見
上げると、三メートルほど先のティーテーブルに、
誰かが座っていた。はじめ、紫色のスカートだけ
が見えた。そして阿求には、そのやたらと扇情的
な色合いのスカートを見ただけで、相手が誰かわ
かった。
「今日は、あなたは招かれていなかったはずです
が」
「そんなこと誰でも知っているわよ」
「誰でもは知らないと思いますよ」
「お手紙届いているわ」

「あの王子様、あなたに預けたんですか?」
「心配しなくても、読まずに食べたりしないわよ」
「改竄はしてそうですがね。見せていただいてよ
ろしいですか」
阿求の目の前にスキマが開き、白手袋を着用し
た手が、手紙を携えて現れた。阿求はその手から
手紙を受け取った。手紙というよりは、一枚の絵
葉書だった。一面は白紙、もう一面には微細な模
様が施されている。どことなく、クィークェグの
体に掘り込まれていた刺青を思わせるものだっ
た。
「これが……お礼の言葉」
意味がわからなかった。八雲紫は、聞こえよが
しなため息をついた。
「ああ、せっかくの友人の感謝の気持ちを、あな
たは相手が蛮人というだけで蔑み、拒絶し、わか
らないふりをして、自分とは関係のないものにし
てしまうのね」
「ずいぶん言いたい放題いいますね。あなたから

71

そんなこと言われなくても、きちんと稗田家で調
査して、紋章の意図を汲み取るくらいのことはし
ます」
「少しこの意匠について話をすると、これは皮膚
によって読み取ることを目的にした言葉ね。今、
私とあなたが交わしているような、音によるコミ
ュニケーションとはまるで違うの。肌に施された
刺青の刺激によって意味を再生する。ちょうど、
レコードやコンパクトディスクの盤面のように
ね。自らの皮膚にこれと同じ意匠を施して、それ
をどういう方法かで、この手紙に写し取ったので
しょう。おそらく意味をつむいでいる過程では、
針で皮膚を刺す痛みは適切なストレスとして話
者にかかり、かえって物語の没入を促進させたの
だわ。読書や執筆に熱中する者が、その間は腰や
背中、頭の痛み、現実の入り組んだ悩みを忘れる
ように……いいえ、あれは忘れるのではなく、そ
ういう痛みをまるごと取り込んでしまうのね。物
語ることの快楽によって」

「はあ」
阿求はぽかんとしていた。紫は扇子を広げ、口
元を隠し、目を細めた。それだけで、空気が蕩け
たようになる。紫のやり口は承知していながら、
阿求はついどぎまぎしてしまった。
「いやその、そんな目で……」
「お願いします、は?」
「……はあ、話が見えないのですが」
「人間がそんな悠長なことやってたって、何百年
かけて断片を理解するのが関の山。おとなしく認
めることね。あなたにはそのくらいの聡明さはあ
ると思うけど」
紫が意図していることが、阿求にははっきりと
わかる。
紫の能力で、言葉と意匠の境界をいじれば、ク
ィークェグが示そうとした意思ははっきりと伝
わるだろう。また、紫がこういう場面で手を抜い
てでたらめなことをやったりしないのは阿求も
知っている。八雲紫がこれほど幻想郷で幅を利か

72

せているのは、彼女が仕事に対して決して手を抜
かないからだった。少なくとも、抜いたところを
見た者は、誰ひとりとしていない。権威には、そ
れなりの信用が必要だ。
「お……お願い、します」
「うふふ、報酬は?」
「これから語られるクィークェグの言葉を、ご一
緒に聞かれませんか」
「正・解」
隙間から出た紫の手首が、くいくいと催促する
ように動く。阿求はそこに手紙を差し出す。紫の
指先が、クィークェグの意匠をなぞっていく。す
ると、同じ意匠が拡大されて空間に描き出された。
全長は阿求の背丈と同じくらいで、辞典分ほどの
厚みもある。表も裏も、横も見られるように、描
き出された紋章はゆっくりと回転していた。
「これは……なんだか奇妙な感覚ですね。本来平
面上の図柄が、立体的になっています。スリーデ
ィー、というんでしたっけ」

「紋章は皮膚に彫り込まれたもの。だとすれば始
めから立体ではなくて。ツーディ、ツーディ、オ
ーァノットツーディー?」
立体紋章が点滅し始めた。それは、紋章を構成
している最少要素……阿求がイシュメールたち
にいった言葉を流用すれば、ドットの部分……が、
文字に変化しつつあったからだ。さらに全体の形
も紋章から直方体へと、もっとも文章を読みやす
い配列になった。

『先日は世話になった、ありがとう。君が我々の
世界に入ってきたため、この物語は従来とは結末
を異にした。死ぬはずだった私も、こうしてイシ
ュメールとともに暮らしている。行く先の未来は
まったく明るくないけれども、ひとまずあの海で
死ぬことだけは免れた。あれから、知人の訃報が
何件か届いている。たった一度の死のあぎとを逃
れただけでは、まだまだ我々には死ぬチャンスが
多すぎるということだろう。あるいはあの場でモ

73

ービィ・ディックに襲われ、昏倒し、そのまま海
に沈んだ方がまだましだったような死に方をし
た者もいるかもしれない。それでも、私は君に感
謝を捧げる。円環する物語ではなく、線として先
へ続く運命を与えてくれた』
『私は最近、君がどこからやってきたのかという
ことをよく考える。私の生まれは、読んだ君なら
知っているだろうが、ココヴォコという。その島
はどんな地図にも載っていない。なぜなら、真の
場所とは、地図に載ることがないからだ。幻想郷、
と君は言った。地図には載らない、とも言った。
載ったとしても、そこはすでに幻想郷とは呼ばな
い、とも。では、その幻想郷というのは本当に存
在しているのだろうか? 君がココヴォコを一
度も見たことがないように、私も幻想郷を見るこ
とは決してないだろう。その存在が証明できない
にもかかわらず、君はそこから来たというし、私
はそんな君と出会ったことを記憶している。いっ

たいそこに、確かなものはあるのか? 忘れ去ら
れたものばかりが集まるような、記憶の墓場では
ないのだろうか。歴史家を名乗る君が、墓場の死
体を整理しているわけだ。それならそれで、納得
がいく』
『もっとも、こんなひねくれた考えを抱かず、普
通に、君もまた我々と同じように、君の故郷でも
のを食べ、飲み、糧を得るために働き、誰かの助
けを得たり、誰かを助けたり、感謝したり、羨ま
れたり、自分よりすぐれた者を羨んだり、また自
分の方がすぐれていることでいい気持ちになっ
たり、遊びに行ったり、病に倒れたり、時として
誰かと争ったりしているのかもしれない。むしろ、
そのように想像するのが一番自然なことだと思
う。私は君の幸福を、我が神ヨージョに祈ろう。
できれば君も、なんらかの形で私の幸福をねがっ
てくれると嬉しい』

74