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ファントムファクトリー

声を上げて背中をこちらにもたせかけてきて、おとがい

顎から頬へとのぼっていく。そうするとメリーは小さく

る。そのまま相手の右頬に手を伸ばし、唇は左へすべり、

まず、後ろ髪を右手でかきわけて、うなじに唇をつけ

「えっ、ああ……うん」

「蓮子ごめん、ちょっと明日、早いから」

途端に腕の中にいる体がよそよそしく感じられた。

手を取った。握り返してくる。ひとつ順番が変わると、

た炎に、冷たい霧が浴びせられる。左手で、メリーの左

た。胸が軽くなった。もたれかかっていたメリーが、体

いた炎は、何度も風に吹かれ、今にも消え去りそうだっ

少しずつ冷えていくのがまざまざと感じられた。灯って

った。だが、服越しに触れ合った背中と胸の温かさが、

はじめ蓮子は、メリーが意味するところがわからなか

をそらす。白い喉が剥き出しになるから、そこに口を這
わせる。そのときにはもう、蓮子は舌先をほんの少し出
しているから、細い唾液の線が喉につく。
そう、いつものことだ。お互い、体がそれで慣れてし

月曜日も同じ流れだった。このあと、右手は頬から肩

まっている。

蓮子の部屋だった。メリーはワンピースだった。あのと

日曜日に同じことをしなかったろうか。ここではなく、

の新聞の縮小版だ。

科事典を思わせる分厚く大きな本が広げられている。昔

に向かった。机には、付箋が何枚も張りつけられた、百

重を自分の足で支えたからだ。彼女は椅子を引いて、机

き、メリーの降ろされていた左手は蓮子の太腿をたどた

「明日までにコピーする場所決めとかないと。午前中に

へ、そしてガウンの胸元へと滑りこんでいく。

どしく手探りで這いあがり、やがてその指先は足の内側

はもう帰さないといけないの」

言うということは、蓮子がわかっていない、とメリーが

わかっている。それは今日も言っていた。それを二度

へと寄っていった。それに応えるように、蓮子は腰を前
に押し出した。
今日はまだ、メリーの手が動かない。蓮子の内に灯っ

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机から離れ、自分のベッドにもぐりこんだ。今夜は、ビ

思っていることを意味する。蓮子は俯いた。そのまま、

不機嫌な唸り声を返しただけだった。

しさに少なからずショックを受けた。蓮子が茶化すと、

に論文の組み立てに没頭していき、その難しさ、ややこ

体が覚えていることをすれば、きっと人間は素直になる、

た雰囲気が戻ったような気がした。だから蓮子は、体と

ファミレスで夕食を取ったときは、少しぎくしゃくし

ジネスツインだった。バスルームを挟んでコの字型の造

る。机も冷蔵庫も別々だ。そもそもメリーがこういう部

と思い込むことにした。だが、誘惑は失敗した。

りになっており、ベッドがそれぞれ両端に配置されてい

屋を選んだ時点で、彼女の心積もりははっきりしている

ル時計の数字が発する光以外、闇に落ちた。

向こうのスタンドの灯りが消え、部屋は、枕元のデジタ

明日もこのままだったらどうしよう。しばらくすると

のだ。蓮子はそれでも、場の空気でなんとかなると思っ
ていた。空調のよく効いたビジネスホテル特有の薄いシ

今日はずっとこんな調子だった。すべて、歯車が合わ

ーツを、頭までかぶった。

ない。会話が弾まない。自分で自分の話す内容がつまら
なかった。頭で考えて、ふさわしい会話を選択しようと

た。蓮子がそうであるように、メリーも勉学に敬意を払

に、半ば無理についていったのが間違いかもしれなかっ

そもそも、メリーの論文の研究資料を借りにいく旅行

ろくでもない夢ばかり見てしまい、寝た気がしなかった。

が億劫に思えてきた。今日の寝覚めは、極めて悪かった。

ろうとするが、急に、自分の足で自分の体重を支えるの

ウンもそのままに、ベッドから足を降ろした。立ち上が

目が覚めたとき、もう十時を回っていた。寝乱れたガ

い、力を尽くし、それでもなお苦しめられることはある。

「メリー、いる?」

しても無駄だった。

小旅行の最中、はじめは軽く考えていたメリーも、徐々

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と思う方がおかしい。

だから。暇だからついてきた蓮子とは事情が違う。いる

うだ。何しろ午前中に返してしまわなければいけないの

メリーはとっくに資料館へ行ってしまった。それはそ

い込みに過ぎないことは、彼女自身よくわかっている。

時間を楽しむ、そういう役割のはずだ。それが蓮子の思

んとしてなさそうに見えて、要領よく立ち回って自分の

寝坊するのはメリーの役割のはずだった。蓮子は、きち

うところはきちんとしたがった。だが、旅先でうっかり

なくてもよかろうにと思うが、メリーは好んで、そうい

蓮子から見れば十分だ。どうせ出ていくんだから、畳ま

ベッドメイクに比べれば、皺やズレが見受けられるが、

む。シーツは綺麗に畳まれていた。本業のホテルマンの

コの字型の通路を迂回して、メリーのベッドを覗きこ

たような気がした。そのまま、窓の外から、国道と、名

端に調子が狂う。急に、アイスミルクティーの味が落ち

積もりもできたが、あると思っていたものがないと、途

はじめから持ってこないつもりだったら、それなりの心

しかし、あるべき場所に文庫本がない。ホテルに忘れた。

腹も落ち着いたので、スカートのポケットに手を入れた。

をちびちびと飲みながら、メリーを待つことにした。お

た。そこで遅い朝食を取り、食後のアイスミルクティー

そのまま吸い寄せられるように回転ドアに手をかけてい

らに降り散る薄赤いタバスコの雫を思い出してしまい、

の上で湯気を立てながらとろりと形を崩すチーズと、さ

こから、トマトの赤が一面に広がったパスタの海と、そ

面を久しぶりに見た気がした。蓮子もマンガは読む。そ

見本が提示してあった。モッツァレラチーズ、という字

前のわりには瀟洒な郷土資料館の外観を眺めていた。

郷土資料館の道路を挟んだ向かい側に、小奇麗なパス

セーターを着込んできた。それが、やけに暑苦しかった。

まだ冷え込むので、シャツの内側に保温性の高い薄手の

十二時を過ぎると、急に気温が高くなってきた。朝は

タ屋があった。表のウィンドウにメニューといくつかの

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悪くなってきたので、会計を済ませて外に出た。外の車

もう一時間以上店にいる。心身ともにだんだん居心地が

「遅かったわね、メリー」

「あら、蓮子。わざわざこっちまで来てたの」

蓮子の名が呼ばれた。

区切りついた。蓮子、ご飯食べよう。道向かいのパスタ、

「まあね、ちょっと時間かかったわ。でも、なんとか一

時計を見るともう一時前だ。

通りは一気に増えていた。ホテルを出た昼前はとても静

だったが、昼になると普通にうるさいことがわかった。

結構おいしそうじゃない」

かで、都心から離れた地方の良さを満喫していたつもり

信号待ちすらもどかしい。そういう些細なことで苛立つ

蓮子は、口を開きかけて、そのまま何も言わず沈黙し

ほど、今の自分が不安定であることを、蓮子は認めざる
を得ない。ようやく青になって、国道を渡り、資料館の

た。沈黙はほんの一瞬だったが、メリーが理解するには

十分な時間だった。だから、その後に蓮子が言うセリフ
も、ほぼ完璧に予測できた。

両脇を駐車場に挟まれた石畳を行く。外で立ちっぱな

敷地に入った。

しというのも気が向かないので、とりあえず中に入って、

「ごめん……もう食べてた」

会や、地元有志の手話講座、有名オーケストラの興業予

駅のターミナルでちょっと買って食べればいいとのメリ

どこかに寄って食べようと蓮子は主張したが、結局、

なんだか今日は、ふが悪い。

入口のロビーで待つことにした。ロビーは広く、ご当地
文豪の記した手紙や、まだ電気が通って間もない頃の街
並みのミニチュアやらがウィンドウの中に飾られていた。

定のポスターなどを丁寧に読んでいった。そろそろ読む

ーの言い分に逆らえなかった。蓮子はさっきのモッツァ

それら展示物や、壁に張られた、近所の大学教授の講演

ものがなくなってしまうのではないかと危ぶまれる頃、

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何を馬鹿なあんたのことなのに、と呆れかえりながら、

考えているわ」

蓮子は視線をあげ、窓に映ったメリーと目を合わせた。

レラチーズとトマトのパスタを腹いっぱいに収めており、

地方の見慣れない町並みが、バスの窓を流れていく。

そこで、息を呑む。メリーの目が、いつもよりずっと優

「スランプかしら」

地方地方といっても、蓮子たちが通う大学もそれほど都

しい。初めて見るような表情だった。これだけ一緒にい

「かもねえ」

会というわけではない。他人から見たらあまり変わらな

てもまだ、自分の知らないメリーの表情があったのだと

もうケーキ以外は入らない。それでも、一回分のメリー

いかもしれない。それでもなんとなく、建物が全体的に

思うと、嬉しく思う反面、ふっと気が遠くなるような不

との食事の機会をフイにしたのが、腹立たしかった。そ

低い気がしていた。バスの中は七分ほど客が座っていた。

「私でよければ相談に乗ろっか」

まわりにも空席があった。蓮子は、窓側の席に座ったと

安を感じた。

の腹立たしさをメリーに向ける自分が、また嫌になった。

き一瞬不安になった。だが、メリーはきちんと隣に座っ

「あ……うん」

きかけた。

蓮子は窓ガラスの向こうに浮かんだメリーへ、うなず

てくれた。蓮子は窓の方を向いて、安堵のため息をもら

ではないかと、ふと思ってしまったのだ。

「蓮子。私、苛々しているようにみえた?」

した。メリーがそのまま通り過ぎて、後ろの席に座るの

「蓮子、どうしたの、さっきから」

る。

その、見たことのない目を蓮子へ向け、メリーは尋ね

越しに、お互いの足の外側が触れ合う。

「ん、まあ、誰だって期限が迫ればそうなるわよ」

メリーが蓮子に顔を近づけた。肩が当たり、スカート

「どうもしないわ。昨日から、どうでもいいことばかり

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蓮子は顎をひいて、帽子の鍔でメリーの目線から隠れ

熟だったし、系統立ってはいなかった。そういう、まと

まっていく感覚みたいなのは、なかったの。多分、ね。

メリーの輝くような顔を見て、蓮子はぽかんと呆気に

ようとした。

取られていた。今まで自分が思い悩んでいたのはなんだ

とにかく、この悦びは新鮮だった。だからこの楽しさを

その声は、とても明るくて、蓮子の顎をあげさせるに

ったのだろう。

早くあなたに教えてあげたくてしかたなかった」

は十分だった。ガラスの向こうで、メリーは困ったよう

「今日は、私が能天気すぎてたってだけだし」

な微笑み浮かべている。

「でもね、そこで私、思ったの」

「違うの、蓮子」

「全然じゃないけど、少し違う。私ね、提出期限に追わ

た。あの教授、結構プレシャーきついし、同じゼミに負

時間かけたら、できるかもしれない。けど、そもそも蓮

「この感覚を伝えるのはすごく難しいって。がんばって

き合った。

蓮子は窓から目線を百八十度変え、本物のメリーに向

けたくない奴がいる、だから、カリカリとかイライラと

子にとってはこんな感覚当たり前かもしれない。なんだ

れて苛々していただけじゃないわ。もちろんそれもあっ

かと無縁だったわけじゃ全然ない、それは確かよ。けど

かんだいって、学業での成績は、私とあなたは雲泥の差」

それがあまりに誇張された表現であることは蓮子自身

ね、私は嬉しかったの。自分で物事を調べて、論述して、

よく理解していたが、己を追い込むため、あえてそんな

何か答えのようなものが見つかったり、また隠れたりし

しかったの。こんなに勉強でワクワクしたのは大学入っ

「違うわね、私とそれ以外の学生が、よ」

て以来初めてだわ。そりゃ、大学に入るまでにも、こう

言い方をする。そういう願望があるのは事実で、そこに

て、そうして真実みたいなものに近づいていく過程が楽

いうことがまったくなかったわけじゃないわ。でも、未

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を乗せた。バスの中、あくまで公共の空間だ。メリーも

蓮子はそう言って、メリーの右手の上に、自分の左手

「まあ、言わなきゃ、わからないものね」

「だから、私が伝えようとしている大切な悦びが、もし

少しでも近づきたかった。

知っていたら嫌だなぁ、というのと、でもこんな悦びは

こんなところでおおっぴらに応えたりはしない。ただ、

そう、言わなければ、わからない。蓮子は、さっきの

そうそう味わえるものじゃない、もし蓮子が知っていた

メリーの告白に対して、応えなければならない。焦って

手を引くことはなかった。触れ合った手の甲と手のひら

やっぱり今さらのことのように思われたら嫌だな、とか、

はいけない。今すぐでなくてもいい。メリーの真摯な言

の温度が、みるみる上がっていくようだった。

ああそれにしても楽しい、楽しいって、そういうのがご

葉に報いるべく、誠実に振る舞おう、蓮子は言葉を探し

としても数少ないはず、だったら今の私の気持ちを共感

ちゃごちゃになってたの。私、自分の愉しみに夢中にな

してもらうのは蓮子にとってもいいことのはず。だけど

ってた」

「そ、そうかしら」

ているみたいな」

「蓮子、変な顔している。どういう表情にするか、迷っ

で聞くことに徹するべきか。メリーはくすりと笑った。

たものか、一緒にうなずけばいいのか、それともあくま

目の前には国道らしき二車線の道路が横たわり、車がひ

ルにしては寂れている。そもそもここはただの歩道だ。

バスが去ってから、ふたりは辺りを見回した。ターミナ

向けていなかった。慌てて立ち上がり、バスを降りる。

夢中で、ろくに外の景色も、車内アナウンスにも注意を

ターミナルの駅名がアナウンスされた気がした。話に

ながら、メリーの手をぎゅっと握った。

「でも、なんだかさっきよりは伝わっているみたいで、

っきりなしに左右からやってきては、過ぎ去っていった。

蓮子は聞いている間、表情を決めかねた。笑い飛ばし

よかったわ」

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左方五十メートルほどの地点には陸橋もある。

「道路を渡りましょう」

「あれ……どこ、ここ。だってさっき、駅の名前言って

「うえっ、何でこんな路線多いのよ」

て、ようやくバス停に行きつき、時間を調べた。

信号は近くに見当たらない。仕方ないので陸橋を渡っ

たわよね」

「これ、間違えたのに乗ったら、ますますわけわかんな

ようやく、降りる駅を間違えたことを理解した。

「蓮子、これ」

と続いている。

駅名が記されていた。ただし、そのあとに『~公園前』

りも、こっちの路線がいいわ。この路線だったら十七分

「いえ、行くことはいくけど、かなり遠回りよ。これよ

じゃない」

「ああ、なんか来たわよメリー、ほら、これ、このバス

いとこ行くわね」

「っだあああもう紛らわしい駅名つけるんじゃないわ

メリーがバス停の標識を指差していた。ターミナルの

よ!」

たいした広さではない。

「でも、これはいくらなんでも遠まわりしすぎよ。ひと

乗りましょうよ」

「十七分待つくらいだったら遠まわりでいいからこれに

後に来る」

「まあ、どっちみち乗り過ごしていたから、関係ないけ

公園といっても、バス停の傍にひと区画分あるだけで、

どね」

「おしゃべりに夢中ですっかり通り過ぎたってわけ」

「ああ、行ってしまったわ。しかたない、十七分待ちま

ないかしら」

駅五分から十分として、五十分近く余計にかかるんじゃ

「ま、まあ過ぎたことは仕方ないわ。また駅に戻るわよ、

しょう」

路線図を見ると、ターミナルの駅は四つ前だった。

次のはいつかしら」

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「メリーのバカー、アホー」

っきと一緒。さっきのに乗ったがよかったわね」

「日曜だと……あら、二十三分後だわ。しかも路線はさ

「はぁ?」

「あ、ごめん蓮子、これ平日のだったわ」

高々と掲げており、そのせいかビルのどの階層からも殺

閉まっていた。多目的ビルは、巨大な貸金業者の看板を

古本屋はシャッターが下りている。コインランドリーは

店に入るのも面倒だ。怪しげな精米店には入りたくない。

うと思ったが、公園にそんなものはない。外食チェーン

雨脚は強まるばかりだった。近くの建物で雨宿りをしよ

気がたちこめているようにみえて、たとえ雨宿りであっ

「なんでこんなややこしいのかしら、駄目ねー」
ふたりは、ベンチもないバス停に立ち尽くした。ふと、

少し汗ばむくらいに、気温は上がっていた。今、そんな

た頃はよく晴れていたはずだ。冬なのに、体を動かせば

感じた。どちらからともなく空を見上げる。資料館を出

「コンビニひとつないだけでこんなにみすぼらしい思い

いて冷たかった。

た。すでに衣服はじっとりと濡れてしまい、肌に張りつ

満足に見つけることができず、とうに五分が経過してい

すぐに見つかるかに思えた屋根ひとつすら、ふたりは

ても近づきたくはない。

空はどこにもない。急激に曇った空から、冷たい風とと

蓮子は首筋に、メリーは頭頂部に、ひやりとしたものを

もに、ぽつりぽつりと水滴が振りまかれ始めた。

蓮子はぼやきながら、ビルの前を横切っていく。その

をするなんて。ああ、これでまた一歩、コンビニへの心

次は、ぽっかりと開いた空き地だった。手入れされてい

「うわちゃ……」

激しく降っているわけではないが、小雨といって無視

的依存が促進されていくわ」

できる範囲を微妙に越えていた。ふたりの、じきにやむ

ないらしく、腰の高さまで伸びた草が、まばらに生えて

「降ってきたわねー」

だろう、との予測というより願望は、大きく裏切られた。

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コンクリートに覆われている部分が多く、そこからは草

いる。びっしりと繁茂しているわけではない。砂利道や、

「結構バス停から遠いわね。あまり長居もしてられない」

さらに折からの雨で空気は湿っている。

蓮子は、やみそうにない灰色の雨空と、味も素っ気も
ない国道を交互に見やった。

「どう見ても心地よい雨宿り、というわけにはいかない

空き地の先に、トタン屋根の工場があった。数ヶ所破

はあまり生えていない。

れており、お世辞にも立派とは言えなかったが、屋根で

みたいね」

メリーはため息をつき、奥へ行く。

あることは確かだった。
「メリー、メリーっ、あったわ屋根よ、ここ!」

そう」

「あんまり勝手に奥行かないで、危ないわ。あんた転び

「お気遣いどうも」

嬉々として振り返る。メリーはほとんど諦めように、
両腕を広げて雨を受け止めていたが、蓮子に呼びかけら

かない足取りで縫っていく。

などが散らばっていた。メリーはそれらの間を、おぼつ

机や、積み重ねられたブロック、とぐろを巻いたホース

冷え冷えするコンクリートの地面には、錆びた鉄製の

れると、悦んで駆けてきた。
「でかしたわ蓮子、これでひと息つける」
元はドアがあったと思われる、長方形に刳りぬかれた
入口から、ふたりは中へ入った。

が零れ落ち、いくつも水溜りを作っていた。表面に赤錆

さいよ」

「そっち暗いから、水溜りを踏まないように気をつけな

「意外と奥行きがないのね。もう突き当たりだわ」

が浮いている。朝の冷えた空気を、昼過ぎの今になって

「ああ、浅いやつならもう何度か踏んじゃってるけど、

そこは廃工場だった。屋根の破れたところからは雨水

もまだ大事にとっているかのように、中は冷えていた。

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大事には至っていないわ。あら」
メリーの声がひと際高くなった。
「どうしたの、変な妖怪でもいた?」
蓮子はまだ入口付近でうろうろしていた。奥は暗いの
で、蓮子からはメリーの金髪ぐらいしか見えない。

らその微小な音が離れなくなってきた。ずっと鳴り続け

る。低く、重く、心音のように。
「見える? 裂け目」
「ええ」

蓮子の問いに、メリーは即答した。右手を伸ばしてパ

動かす。

イプの一本を差し、触れないように、そのまま指を横へ

メリーの声のトーンは、高いままだった。蓮子は、床

「ここと」

「うん……ああ、でも『いた』っていうより」

に散らばる諸々を踏み越えて、早足でメリーに近づく。

上を見て、歯車の表面を差した。

が、メリーにはおそらく何かの境界が見えるのだろう。

メリーはパイプの方に屈みこんだ。蓮子には見えない

「そこに、ざっくりと。結構、豪快に開いているわ」

だんだんとメリーの背中がはっきりと見えてきた。同時

太いパイプが、何本も左右に走っている。ベルトの巻

に、その向こうにあるモノの姿も。

かれた歯車があり、無数のネジや計器が、海岸のフジツ

蓮子はそう信じている。その前提を疑ってしまっては、

「どこに、つながっているのかしら」

ボのようにびっしりと並んでいた。かすかに震えている。

秘封倶楽部は立ち行かなくなる。


『ある』……ね」

それは、指先を注意深くそっと触れさせてようやく感じ

「あっ」

「何、どうしたの」

メリーが声を上げた。

られるくらいの、微細な震動だった。震動とともに、音
が聞こえてくる。ふと気を抜くと聞こえなってしまいそ
うなほど、小さな音だった。時がたつにつれ、もう頭か

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「うーん、似てるけどちょっと違う。もっと整然とした、

「ライブとか、初詣の感じ?」

「ひとがね、うじゃうじゃいるの」

「それじゃわからないわよ」

「なんか、いっぱいいるわ」

が、体が、瞼が揺れるため、視界全体が揺さぶられる。

す。その振動は床と空気を通して蓮子にも伝わった。手

オルガンの管を思わせる排気口から、灰色の煙が噴き出

ような重低音とともに、機械が身震いしていた。パイプ

っと体を震わせ、反射的に頭上を振り仰いだ。胸を叩く

腹に響く音が、頭上で起こった。蓮子もメリーもびく

機械が、獣のようにあぎとを開いた。動物の口や牙よ

「あ」

り、もっと無骨で、角ばった、黒い骨組みだった。機械

でもなんとなく全体として、ライブや初詣よりも雑然と

どこの工場みたいに、どこか広いところで、何十人も集

の奥は、さらに込み入っていた。光がほとんど射さない

しているわ」

まって、こういう大きな機械にたかって、作業していく

ので、すべてがぼんやりとしか見えない。血管のように

「今度はどうしたのメリー」

の」

不気味に蠢くパイプが、縦横に走っているのだけはわか

「どっちよ」

「それってこの工場のこと? 何よ、境界の向こう側で

「目が合った」

は、みんなあくせく働いているって言うの。こっちには

る。

「これ、みんなで働いているのかしら。そうね、ちょう

誰ひとりいないけど」

「メ……!」

リーの腕に巻きつき、奥に引っ張り込む。蓮子も黙って

蓮子が叫ぶより先に、奥からコードが飛び出した。メ

「みたいね。これ、何の工場かしら。ベルトコンベアー
がずっとぐるぐる回っているの。何かを組み立てている
……」

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「いたたたたた」

れぞれがメリーの腕を逆方向に引っ張り合う。

見てはいない。いかせまいと、メリーの手を取った。そ

「私じゃ触れない……」

をかけようとするが、すり抜けた。

はメリーの服だった。さらに奥へ伸びているコードに手

だが現にメリーはこうして引っ張られている。蓮子は

腰を落とし、床に両足で踏ん張っているが、抵抗もむな

「うるさいメリー、ちょっと黙ってなさい」

しく、着実にメリーは奥へ向かっていく。蓮子は正面に、

妙なものを見た。暗闇に目が慣れてきたため、また、自

「いたたた、痛いけど蓮子がんばって、もっと引っ張っ

第二、第三のコードが伸び、メリーの腰、肩に巻きつ

分たちが動いているため、
『そこ』に『それ』があるのが

てあいたたた」

いた。均衡していた形勢が、一気に蓮子不利に傾く。今

わかった。
鏡だった。

まで計器盤に足をつけて踏ん張っていたが、それでも
徐々に引きずられ、蓮子まで機械のあぎとの中に入って

向こうのメリーは、こちらに引き寄せられている。向

行かせまいとしている。鏡を境に、コードがこちらと向

こうの蓮子も同じように踏ん張って、メリーをこちらに

いった。

蓮子はメリーの腕にしがみつきながら、なぜコードが

「こ……のぉ離せぇ」

打てば反射的に手を離すかもしれない。なのに、この機

ードで攻撃すれば、蓮子は防御しようがない。目や鼻を

っ張ってくる生き物のようなコードを見ていると、そう

ば、そこで行き止まりか、割れるかだ。だが、無言で引

鏡に到達したら、どうなるのだろうか。普通に考えれ

こうへそれぞれ伸びている。

械はそれをしてこない。蓮子は手を伸ばして、メリーの

いうこちらの世界の常識では計れないものがありそうで、

蓮子を捕えないのか不思議だった。捕えないまでも、コ

腕に絡みついているコードを触った。だが、触った感触

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蓮子は不安になる。メリーの指先が鏡に沈み込んだ。そ
こう側だった。

う残っているのは左腕と左足だけで、残りは全部鏡の向

「泣いているのはあなたの方に見えるけど……安心して

の光景を、蓮子は自然なものとして受け入れた。だが、

蓮子、多分、これってそんなに物騒なことじゃないわ」

「メリー、待っててね、すぐに助けにいくからね、泣い

メリーの腕から離れ、鏡に飛びつく。硬い、乾いた音

「なんでわかるのよ」

ちゃ駄目だよ!」

がした。蓮子は、自分が鏡に拒否されたことを知る。蓮

だからといってそのことを容認するわけではない。

子の引きがなくなったため、コードは早々とメリーの右

「なんとなくよ。それに、こんなめちゃくちゃな世界だ

「メリーを、返せぇっ!」

半身までを鏡の向こうに引き込んだ。

ったら、私たちをどうかしようと思えばすぐにどうかで

「勝手にひとのツレを拉致して、殺伐じゃないもなんも

きたはずよ。それをしないんだから、そんなに殺伐とし

あったものじゃないわ。それに、こんな、鏡の中に連れ

「メリー、メリーッ」

鏡の向こうから、メリーは蓮子を見た。向こう側にい

込むなんてめちゃくちゃする連中、いきなりおかしくな

「だ、大丈夫よ蓮子。痛くもなんともないわ。頭も、今

たメリーと蓮子は消えていた。蓮子の姿が、鏡に映って

た目的じゃないと思うわ」

いない。

るかもしれないでしょう」

のところはっきりしている」

「なんなのよこの鏡、ってかこのわけわかんない機械

行く。とうとうこちら側に残ったのは左手首だけになっ

話している間にも、メリーはどんどん鏡の向こう側へ

蓮子は両手で鏡を叩くが、そんなことをしている場合

た。一番握りやすかった左手首も鏡の向こうへ沈んでし

は!」

ではないと気づき、再びメリーの腕を引っ張る。だがも

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私がどこかへいくはずがないでしょう」

「心配しないで、蓮子。大丈夫だから。あなたを置いて、

「あ、ああっ、ああっ、メリー……」

かめない。

まった。汗に濡れた蓮子の手は、メリーの手をうまくつ

「メリー、待ってて、すぐ助けにいくからね」

る。

ニふたつか三つ分だ。隈なく調査して、正体を暴いてや

い。この機械、いくら大きいとはいえ、せいぜいコンビ

か、もしくはコードを操るようなものがあるかもしれな

なかった。機械の中を探索する。どこかにあの鏡を壊す

ずいてみせた。なぜメリーがこの状況で落ち着いていら

思う。いつまでも解放してくれる様子がなかったので、

こまでしなくてもどうせ逃げられないのに、とメリーは

メリーに巻きつくコードの数は増える一方だった。こ

***

「うん、わかってるけど……ああっでもこれ……クソッ、
鏡が、手がすべる……」
最後に残った薬指の第一関節も、沈んだ。沈んだあと

れるのか、蓮子は理解ができない。ただ単に、蓮子を安

退屈になって、そのまま眠ってしまった。

も、メリーはこちらを見て、自信に満ちた眼差しでうな

心させたいというそれだけのためかもしれない。それと

がやがやとしたざわめきで、目を覚ました。工場にい

も、自棄になってひたすら楽観的にものを考えようとし
ているだけなのかも。

鏡に、蓮子の像がうっすらと映った。元の鏡に戻ろう

越える。巨大な吹き抜けの構造になっていた。この空間

た。壁沿いに足場が設けられ、ざっと見ても階層は十を

た。向こうの壁がかすんで見えるほど広い、大工場だっ

としている。それとともに、向こうにいったメリーの姿

の、至るところにベルトコンベアーがうねっている。地

「あ……」

が薄れていく。もう蓮子は大声でわめいて鏡を叩きはし

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ファントムファクトリー

をかぶった、灰色スーツ姿の男たちが群がり、めいめい

尽にベルトが這いまわっていた。その両脇に、山高帽子

面だけではない。都心の高架のように、空中にも縦横無

「ハリボテかぁ、そりゃそうよね」

画のセットを作るのに近い。

よく組み立てられていく。家を建てるというよりは、映

作業場では、卓袱台や畳が山高帽らの手によって手際

る。

そこに、びっしりとコードが這いまわり、絡みついてい

けていく。壁の裏側は、パソコンの基板によく似ていた。

ひと部屋分の大きさを持つ壁に、障子や廊下を張りつ

に作業をしている。網状の床や、梯子、移動床、ありと
あらゆる足場が彼らを支えていた。メリーは傍を流れる

湯呑が乗っていた。急須もある。卓袱台に畳、障子、

ベルトコンベアーに目をやった。

柱、襖、みな大きさも形も異なるものが、ベルトに乗っ

認するように、山高帽たちが部屋に上がり込んだ。まる

縁側の畳部屋のセットができあがると、出来栄えを確

が、関連性はあった。

で有名人の部屋のセットを見るように、卓袱台を撫でた

て、メリーの横を通り過ぎていく。大きさも形も異なる

「和室でも建てるつもりかしら」

で、ゴッホの黄色い部屋をその通りに組み立てたのを、

り、湯呑に頬ずりしたりしている。メリーは以前美術館

見たことがある。感じとしては、あれに似ていた。

いくつかの支流のベルトが混じり合い、終点の作業場
に運ばれていく。

近くのベルトには、赤いリボンや、白い袖が流れてい

「見たところ洋風のものがないから、純和室ね。さすが
に珍しいな」

見ると赤い布でまとめられた髪の毛だった。メリーが急

る。陰陽を象った球体や、お札が続く。黒い束は、よく

「縁側もセットで作るつもりね。それにしても、こんな

になまなましく感じ始めたのは、それらが明らかに、建

木の板、瓦がある。それに踏み石も。

工場で家建ててどうするのかしら」

41

ファントムファクトリー

の工場が、拍手で満たされた。向こうの壁に光の裂け目

運ばれていくハリボテに拍手を送った。この広大な一個

から浴びせられる。作業中の者たちもいったん手を止め、

載せられ、運ばれていった。スポットライトが遥か上方

完成したハリボテは、その大きさに見合ったベルトに

どう体を動かそうとしてもコードの束が邪魔をする。

なっていなかった。何か椅子に腰かけている。そして、

あまりに効かない。寝返りも打てない。そもそも、横に

布団の中で眠気と戦っているだけにしては、体の自由が

かない。ちょうど目覚めたばかりのときのように。だが、

けている。立ち上がろうと思ったが、体が思うように動

ているかもわからない。ずっと、足元で低い音が鳴り続

が現れ、下から上へと広がっていく。シャッターの上が

「ん……なにこれ」

物ではなく人間を装飾するものだからだろう。

る音が、聞こえる。やがて拍手がやんだ。

テが出荷されたことで、ひと段落ついたらしい。それぞ

な顔をしていた。

けた。のっぺりした顔だ。他の男たちも、みな同じよう

山高帽をかぶった男が、メリーの横から笑顔で声をか

「おお、お目覚めですか」

れの作業をいったん切り上げると、談笑したり、何人か

「お待ちしていましたよ、マエリベリー・ハーンさん。

工場内に、弛緩した空気が流れた。あの和室のハリボ

で連れだってどこかへ行ったりして、三々五々、散らば

歓迎します」

り始めた。
メリーは一連の作業の間、興味深く彼らを眺めていた。

眼差しで見ていることに気づいた。まだ頭がぼんやりし

「さっきの和室は何かしら」

アーの動きにそって歩いているからだ。

男は、息が弾んでいた。メリーが乗ったベルトコンベ

て、状況をよく把握できていない。いったいいつからこ

「ああ、あれは『縁側』という空間を幻想加工して、出

一方、いつのまにか彼らもまた、自分を好奇心に満ちた

の工場に自分がいるのかも、なぜさっきから視界が動い

42

ファントムファクトリー

た者が、何かあなたと似たような形をとったからといっ

「さあ、どうでしょう。仮に幻想加工後に出荷先で現れ

「出荷先では、どんな姿になるのかしら」

「ええ」

「あら、それじゃあ私も出荷されるの」

荷したんです」

でも蓮子は、前に進んでいるという実感をまったく得ら

や、どこに何の道具が置いてあるかまで把握した。それ

廃工場内も、地面を這いずり回って調べもした。間取り

な壁にぶつかるばかりだった。機械から一度外に出て、

よって、新しい扉が開いたりもした。だが、結局は新た

ネジがあれば回し、蓋があれば全部開けた。そのことに

機械の中を隅々まで探していた。ボタンがあれば押し、

メリーが連れ去られた鏡の前を横切ると、声をかけら

て、必ずしもその何かと今のあなたがイコールというわ

れた。見ると鏡の向こうに、山高帽をかぶった、灰色の

れない。

山高帽が何を言っているのかわからないが、なんとな

スーツを着た男が立っていた。四角い顎には、健康的な

けではない。それは、この幻想工場の解釈が生んだもの

くおもしろそうだったので、メリーは黙って話を聞いて

黒い髭が群がっている。目はぎょろりと大きく、唇は厚

「宇佐見蓮子さんですね」

いた。そもそも、逆らおうと思っても、腕一本すら自由

い。

ですから」

に動かせないのだ。

情豊かに語りかけた。

山高帽の男は、きょとんとしている蓮子に構わず、表

して」

「初めてお目にかかります。実は、困ったことがありま

「蓮子、待っててね。そのうち戻るわ」

***

蓮子は途方に暮れていた。何か手がかりはないかと、

43

ファントムファクトリー

「どうやらあなたがいないと、うまくベルトが作動しな

ミラーのようなものですよ」

歩くと、靴の底と床がこすれ、キュッキュと耳障りな

音がする。リノリウム張りの床だ。

「なんだか病院とか大学の廊下を歩いているみたい」

大げさな身振りでため息をついてみせる。まるで舞台

いようです」

俳優のようだ、と蓮子は思った。

「はあ」

「オネットム」

「あなたは何者?」

「そういう雰囲気が、私は好きなんですよ」

聞かずともわかっていたが、一応聞いてみた。

「誰の」

「もちろん、マエリベリー・ハーンさんのです」
鏡から、腕が差し出された。

「ご存知ですか」

「確か『紳士』って意味の外国語だったかな」
「そうです、よくご存知で」

蓮子は無言でその手を取る。山高帽がゆっくりと手を

「おいでいただけますよね」

引くと、蓮子の体は手から順々に鏡へ沈んでいった。水

「敵にほめてもらっても嬉しくないわ」

ないわよ。それで、メリーを利用しようとしたけどうま

「ほう、敵ときましたか」

くいかないものだから、今度は私を連れてきたってわけ

面に入るような波紋も広がらない。ただ、通過した部分

まっすぐ奥へと続く通路は、眩しいくらい明るかった。

でしょ」

の周囲が少し盛り上がるだけだった。

等間隔に蛍光灯が並んでいる。鏡を完全に通過したこと

「だってそうでしょう。勝手にメリーを拉致ってんじゃ

がわかると、蓮子は山高帽の男から手を離した。

「まあ、おおむねその通りです。しかしあなたも妙なひ

「工場側から見たときは暗かったのにね」

「向こうからは暗く見え、こちらでは明るい。マジック

44

ファントムファクトリー

「メリーを人質に取られちゃしょうがないわ。それに、

とだ。敵の誘いにわざわざ乗ってきていますね」

すか。他に何かしましたか」

りません。それで宇佐見蓮子さん、あなたはどうなんで

います。話したことがないくらい、なんということもあ

んが、まあそうです」

「人間、という言い方がこの場合適切なのかわかりませ

「あんたたち……境界の向こう側の人間でしょ」

「暴力は反対ですな」

これ、メリーの受け売りだけど」

ことはやったわ!」

り、一緒に……あと、とにかく色々したわ。だいたいの

買い物したり、本の感想言い合ったり、一緒に旅行した

たり、授業受けたり、一緒にお昼ご飯食べたり、一緒に

「話したことがあるどころじゃないわ。一緒の大学通っ

だと言い始めたので、蓮子は頭に血が上った。

唇が厚くて顔が大きいくせに理屈っぽいことをぐだぐ

あんたたち、殺すとかなんだとか、そういう物騒なこと

「何がしたいの。メリーを食べる気?」

「それがどうかしましたか」

とは縁が遠そうだもの。最悪の事態は免れるかなって。

「私たちはそういうことはしません。私たちはマエリベ

「そら、ごらんなさい」

「あんた何さまなの」

蓮子は開いた口が塞がらなかった。

けです。あなたと同じですよ、宇佐見蓮子さん」

リー・ハーンさんのことをもっとよく知りたい、それだ

「あんたらと一緒にしないで。あんたら、メリーと話し

「ええそうですよ。それがどうかしましたか。話したこ

あった。オネットムは、怒気を孕んだ蓮子の声を意に介

いてもおかしくないような、無愛想な観音開きの大扉が

通路は終わっていた。扉の上に『手術中』と書かれて

とがないから知らないという理屈は成り立ちませんな。

することなく、取っ手をつかみ、勢いよく開いた。その

たこともないでしょう」

私たちはマエリベリー・ハーンさんのことをよく知って

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ファントムファクトリー

芝居がかった仕種を見て蓮子は、この観音開きは、映画

紫色のワンピース。『バイオハザード』
。レターセット。

お椀。丸められたレシート。預金通帳。

トランプ型麻雀、住民票、冷蔵庫、小型聖書、壊れた

志 四十一巻 関羽の不覚』

柱時計、チャーシューラーメンの食券、肉まん、
『三国

ストロベリーパフェ。

館や劇場への入り口と表現したほうがふさわしいと思っ
た。

ベルトコンベアーに流れているものを見れば、蓮子は、
この工場で何が行なわれているかを理解することができ

オルガン。

半分溶けた京人形、ロザリオ。

パー、おもちゃのプラネタリウム、ゲームボーイ、鞭、

た。

大学ノート。

マフラー、
『高慢と偏見』
、ナプキン、トイレットペー

財布。
ブラジャー。

「全部、マエリベリー・ハーンさんに関わるものです。

蓮子は、このすべてを知っているわけではなかった。

彼女にかかわるものすべてを抽出し、みなで共有しよう

つまりこのベルトには、蓮子の知らないメリーが乗って

口紅。

切符。
『虐殺器官』
。コンドーム。

いるということだ。十八歳以前のメリーが、そして十八

『イエローマジックオーケストラ』

算盤。ケータイ。鍵。白帽子。

というのです。どうです、すばらしいでしょう」

『一九八四年』
。ピンセット。広辞苑。

歳以降でも、蓮子の前では見せたことのないメリーが。

ホテルの領収書。

カッター。ハブラシ。体温計。

46

ファントムファクトリー

「……馬鹿げてるわ」

あることを、物量で思い知らせて欲しい、だからこのベ

代わりに反論を吐いた。

「ええ、私は、もっともっとメリーのことが知りたい」

ちが、まったくないわけではなかった。

ルトコンベアーショーをもっと見ていたい、と思う気持

「できるわけがないわ。人間がたった一日過ごすだけで、

「そうでしょう、そうでしょう。それが人間の自然な感

蓮子は焦りが胸元からこみ上げてくるのを飲み込み、

いったいどれほど多くの事物と接していると思っている

情です」

んでもない、ただの恣意的な物語よ。百の事物を積もう

て場面を構築しようとでも? そんなの、すべてでもな

う。ああ、ちなみに、今のあなたが連れ出そうとしても

「マエリベリー・ハーンさんのところにご案内しましょ

た。

オネットムは大きく首を縦に振り、満足げに息を吐い

の。ひょっとして、重要イベントに登場したアイテムだ

が、万の事物を積もうが、それが完全なメリーになるわ

無駄ですよ」

けを抽出しているの? 印象的なシーンだけを抜き出し

けがない!」

「やってみなけりゃわからないわ」

ベルトコンベアーの支流が集まり、大きな流れとなる。

「ではやってみるとよろしい」

「ええ、それでもやります」
鷹揚な態度で、オネットムはうなずいた。蓮子の言う
反論など、とうの昔に聞き飽きたといわんばかりで、少

ていた。その真ん中、台風の目のように空いた場所に、

ベルトの始点は、コードや様々な器具で埋め尽くされ

メリーが仰向けに倒れていた。

しを動揺したそぶりを見せなかった。
「だって、あなただって興味あるでしょう」

服も下着も、彼女自身の持ち物は何も身につけていな

「私は……」
興味はある。まだ自分が知らないメリーがいくらでも

47

ファントムファクトリー

かった。腕も足も、胸も腰も剥き出しだった。代わりに、

すよ、宇佐見さん。試してみるといい」

「その類の言い抜けもしません。肉体的には、我々は一

ゃないでしょうね」

「実は唾を垂らしたりはできますとか、そういうオチじ

せんよ。安心してください」

ん。あなたが恐れているような事態は一切起きておりま

「ご心配なさらず。私たちは直接触れることはできませ

ていた。

重にも巻きついている。蓮子はメリーを呆然と見下ろし

が飛びだしていた。白い太腿に、黒々としたコードが幾

さらにその下、たわわにふくらんだ乳房からも、コード

いるのかわからない。目の下からコードが生えていた。

は開いているが、夢現をさまよっており、蓮子が見えて

く配線は、そのまま奥の基板へ続いていた。メリーの目

はめられていた。美しく黒光りしているその腕輪から続

利害が一致しているのです。あなたは、メリーさんのこ

「よく考えてください、宇佐見さん。あなたと私たちは、

で私が手伝わなきゃいけないのよ」

「メリーなんてなれなれしく呼ばないで。それに、なん

手伝ってください」

が滞って仕方ない。これは大変もったいないことです。

いい。だから、あなたが手伝ってくれないと、出荷作業

て、メリーさんはほとんど思考をしていないと言っても

うフィルターがかかっている。あなたのことを考えずし

リーさんが思い返すモノのほとんどすべてにあなたとい

出荷が妨げられる。宇佐見さん、あなたのせいです。メ

を知ることができます。ただ、肝心かなめのところで、

出し出荷し続けることで、触れること以上のメリーさん

「触れることはできませんが、こうして様々なモノを抽

あのときのコードと同じだ。

蓮子はメリーの腕を取ろうとした。だが、すり抜けた。

切マエリベリー・ハーンさんに手出しはできません。存

とをもっとよく知りたいでしょう、先程自分でそうおっ

頭の上で組まれた両手首を拘束するように、黒い腕輪が

在の仕方が違うのですから。今は、あなただってそうで

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ファントムファクトリー

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ファントムファクトリー

しゃいましたね」
「否定はしないわ」
「ええそうでしょう。それだけじゃありませんでしょう。
蹂躙したいでしょう、支配したいでしょう、侵したいで
しょう。誰だって、そうです、みんなそうです。知りた
いでしょう、仲良くなりたいでしょう、すべて同じこと
です。誰だってそうです。あなたは我々の行為に参加す
る資格を持っています。彼女のすべてを知るのです。そ

オネットムの声は耳障りだった。声の抑揚ひとつとっ

してその結果を公表し、みなに遍く行き渡らせましょう」

「それって、おもしろくないわ」

蓮子は言い放った。

「それって、全然恋じゃない」

拍手がやんだ。エンジンは弱まり、ベルトは調子が悪

蓮子は再びメリーに手を伸ばす。普段のことを思い出

くなった。

「宇佐見蓮子、あなたは我々の欲望を代表するのです。

尋ね合う。今日はどんな方法で? と。指先からまず会

いつものように、指先から触れ合い、そして絡み合い、

せばいいだけの話だ。

さあ、マエリベリー・ハーンを解体しましょう。そのあ

話は始まる。そうして、互いの息遣いから、重ね合った

ても、腹の中が苛立ちでぐるぐると湧き返るほどだった。

らゆる姿を晒し、そうして隅々まで、肉の人かけら、骨

胸と胸に響く互いの心音から、会話は深まる。

蓮子の指先が、メリーの二の腕の柔らかな部分を押し

絶句した。

無駄だ、触れっこない、と叫ぼうとしたオネットムは、

の髄に至るまで、味わい尽くすのです」
オネットムの演説に応えるように、他の山高帽は拍手
をした。工場は万雷の拍手と、気勢を上げるエンジンと、
回るベルトの音で満たされた。

50

ファントムファクトリー

ていた。爪の先が、メリーの皮膚に埋もれる。二の腕か

「メリー」

蓮子はその腕で、好きなだけメリーを抱きしめた。

「ね、言ったでしょ、すぐ戻ってくるって」

工場の高層に据えられていた足場が崩れた。下にいた

ら肩へ手を這わせる。鎖骨に親指を這わせた後、改めて
肩を強くつかむ。乳房から生えたコードを指先で払う。

山高帽たちが、慌てて逃げる。各所で天井が崩れてきた。

あっさりとコードは断ち切れた。
蓮子は口元をゆるめる。

子は両手で慈しむようにメリーの頭をつつんだ。縁を刺

はいつものワンピースを身にまとっていた。さらに、蓮

それぞれの部位に従って服もまた触感を変える。メリー

のひらを滑らせる。肘の尖った服、乳房の柔らかな服、

を、その手のひらが思い出す。そこから腕へ、胸へ、手

の感触を思い起こす。メリーの体温が移ったワンピース

肩から手を離し、手のひらを覆うような形にする。布

突破していく。

小物、なぜか激しい勢いで転がり込んでくる山高たちを

ら倒れてくるハリボテや、箱から地面にぶちまけられた

った。蓮子はメリーを抱え起こし、出口を探した。横か

が、エレベーターが一斉に動き出し、工場は大騒ぎにな

山高たちが右へ左へ駆けまわる。トラックが、クレーン

トがちぎれ、機械が煙を吐いた。事態を収集させるため、

ていく。地面が揺れ、建設途中のハリボテが崩れ、ベル

さらに、ぴしり、ぴしりと鋭く長い亀裂が、壁に刻まれ

繍したかわいらしい帽子がそこに姿を現す。ぼんやりと

「よくも私の工場をめちゃくちゃにしてくれましたね」

「普段は、こんな早く脱がないわ」

開いたままだったメリーの目が、一度閉じた。そして、

「ご、ごめんなさい」

オネットムがふたりの前に立った。

「なんだか、いいわ。目を開いたら、すぐにあなたがい

「謝る必要はないわ、メリー。向こうがちょっかいかけ

瞼が震える。ゆっくりと持ち上がった。

るってのは」

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ファントムファクトリー

てきたのが悪いのよ」

いのなら、もう一度あのコードをつけて、出荷を手伝っ

てもらう。話はそれからです」

メリーはあっさりとそう言い、蓮子の袖を引いた。ふ

「こんの……」

メリーをかばうように腕を横へ伸ばし、蓮子はオネッ

たりは早足でオネットムから遠ざかっていく。大混乱に

トムを睨みつけた。オネットムは蓮子の言い草を鼻で笑

「私も、あなたとこんなに趣味が合わないとは思いませ

「結構です。出口は私たちで探しますので。いこ、蓮子」

んでした。こんなことがわかっていたら、わざわざこっ

陥っている工場を背に、壁際に並んだドアのひとつをあ

い飛ばす。

ちに招くことはなかった。ああ、時間の無駄でした」

「ちょっとメリーあんたは黙ってなさい」

「でも、結構楽しかったわ。また誘ってくださいね」

っと穏やかにしなさいよ」

「それはこっちのセリフよ。あと次に招くんだったらも

よ。ここは、ちょっとこみいった夢のようなもので、完

「なんとなくね、境界の薄いところを見つければいいの

「出口って、わかるの、メリー」

していた。

至るまで分岐しており、頭がおかしくなりそうな構造を

てずっぽうで開けた。薄暗い通路は、上下左右、斜めに

「では、帰りたまえ。私は仮眠を取ってから、修復作業

全な異世界ってわけじゃないわ。わりと簡単に破れるは

オネットムは大仰にため息をついてみせた。

に入る」

しっしと手を振る。

「いやねえ蓮子、聞いてばかりで。あなたが見つけるの

「どうやって探すの」

ずよ」

「ちょっと、送っていってくれないの」

よ」

急に態度を変え、まるで犬でも追い払うかのように、

「そんなヒマはない。もしどうしても送っていってほし

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ファントムファクトリー

「はいはい、そうね」

ちょっと頭が良くてかわいい女の子なだけよ」

「そんな見つけられるわけないでしょう。私、普通の、

「ええ、月と、星ね」

「ね。月と、星よ」

は問題ではなかった。

くっつけ合っている蓮子とメリーにとって、そんなこと

半球が内側から光った。無機質なコンクリートの壁や天

メリーはその半球を床に置いた。スイッチを押すと、

本的には変わらないわ。ええ、もうわかったわ。私たち

比率が違ったり、余計な空間がくっついているけど、基

の世界の、あの工場そのままなのよ。ちょっと大きさの

「結局、ここは向こうの……私たち風にいうならこちら

蓮子は会心の笑みを浮かべた。

「わかったわ」

場所は……

時は、十四時二十一分七秒。

星に目を凝らす。

蓮子は壁に見入る。コンクリートの空に流れる、月と

「境界なんて見つけられないわよ」
「でも、時と場所を見つけることができるわ」
メリーは手のひらに少し余るくらいの、黒い半球を持
っていた。
「あんた、いつのまに」
「さっきベルトコンベアーに乗っていたのを拝借したわ。

井に、星空が映し出された。

昔、私が使っていたものだから、すぐにわかったわ」

「プラネタリウム……」

あまりに安っぽいと言われても仕方ない。そもそも映し

かり頭に叩き込んでいる。蓮子はメリーの腕を引き、気

工場内の間取りは、メリーがいない間の探索で、すっ

がどこにいるか」

出される壁や天井がごつごつとしており、途中で像が歪

の遠くなるような迷路の中を、迷わず進んでいく。階段

子供のおもちゃだ。本物のプラネタリウムに比べたら、

む。しかし今、お互いの体温を感じるくらいに肩と腕を

53

ファントムファクトリー

を何度も上ったり下りたりした。右へ左へ曲がった。そ
れでも蓮子は迷っていなかったし、それをメリーは完全
に信じた。
今までコンクリートで覆われていた空間に、唐突に土
壁が現れた。それはコンクリートの舗装が途中で終わっ

集中講義の日程は二週間だった。県外から招かれた教

授らしい。急遽決まった臨時講義だった。蓮子とメリー

てしまったかのようだった。土壁には、暗いトンネルが
穿たれている。

が大教室にやってきたときには、すでに五、六十人が席

にぎっしりと詰まっていたので、集団の最後方、大教室

メリーは神妙な面持ちでうなずいた。前の方があまり

う気持ちはよくわかるわ」

って沸いた単位を取るチャンス、無駄にしたくないとい

「ああ、やっぱり単位が欲しい人はいるものね。急に降

についていた。全員、前の方に陣取っている。

「ここよ」
蓮子はメリーの手を握った。強く握り返してくる。
「すごいわ、蓮子」
メリーの意志が、言葉で表情で仕草で、手触りで伝わ
ってくる。たとえメリーの内側まで理解しつくしたとし

される。蓮子にとって、こんな楽しいことをやめられる

の位置的には真ん中辺りに、ふたりは座った。

ても、そのたびに、こうして新しいメリーの悦びが更新

はずがなかった。

「そりゃ、中には純粋な学術的好奇心で申し込んだ人も

たじゃないんだから」

「この全員が? まさかそんなことないでしょう、あん

蓮子は満面の笑みを浮かべた。ふたりは手を硬くつな

「すごいでしょ」

ぎ合って、先の見えないトンネルへもぐっていった。

54

ファントムファクトリー

いると思うわ。たとえばこの……」
「他学部だけど、わざわざ事務に申請書提出してまでこ

講義内容 産業革命初期イギリス労働環境の社会倫理学

「何よ偉そうに。蓮子なんかおとなしくイソギンチャク

概要

対象学部 文・法学部(他学部要申請)

講師名

的アプローチによる考察

でも切り刻んでいればいいんだわ」

蓮子は自慢げに言って、メリーの言葉を遮った。

の講義に参加しようとしている、私みたいにね」

「私、そういうのしないし。興味はあるけど」

から工場制機械工業への移行、すなわち工場の誕生は、

未定

「この講義も興味あるの?」

欲望の画一化、大量生産及び大量消費サイクル化と、現

けではない。だが今回は、そういう事前の打ち合わせは

ふたりで示し合わせて同じ講義を取ることが、ないわ

錬金術史において思考された第一種永久機関的運動が、

会へ出荷され、欲望の機械的運動を作り出した。それは

せない要素である。大量の工業製品は幻想加工により社

代まで続く倫理的潮流の道程を考察するにおいて、欠か

産業革命によりもたらされた、家内制手工業

「まあね。あんたもいたってのは意外だったけど」

まったくなかった。

現実へ具象化したともいえる。この講義の目的は、工場

して考えた場合、どこで境界を引くのかを、英の初期労

「あんた、もっと文学ブンガク、詩的シテキしてるやつ

働争議、仏のシャルル・フーリエの四運動法則論にみる

が好きなんじゃなかったっけ」

メリーは頬を膨らませるが、蓮子は偏見でなく洞察の

における創作→幻想加工→出荷の過程を、商品を主体と

つもりだ。ケータイで大学のサイトに入り、集中講義の

理想的労働間、エミール・ゾラの諸作品にみる工場労働

「偏見よ、それは」

概要文を改めて読んでみる。

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ファントムファクトリー

環性を取り上げる。

日の押井守の諸作品にみる大量生産品と欲望の不毛=循

者の大衆的描写を中心に考察し、最後には番外編として

通に尾根先生もしくは尾根教授と呼称してください」

呼びますが、みなさんは学生で、教わる身分なので、普

「トーマス・尾根と言います。友人は私のことをトムと

蓮子は開いた口が塞がらなかった。まったく予想して

いなかったといえば、嘘になる。だが、こうも直球で現

「講義自体も、意味わからなくなりそうだわ」

義紹介になったんだと思う」

概要を提出したもんだから、こんな意味のわからない講

「まあね。多分、先に間に合わせの標題出して、あとで

「でも、それ見て蓮子は来たんでしょう」

「標題と全然違うのよね……」

いけませんよ。困難は人生の先生です。さあ、私と一緒

はきちんと苦労して書いてくださいね。苦労を恐れては

かくのお勉強だ、楽しくしましょう。ですが、レポート

す。脱線も結構、なんなら場所を変えたっていい。せっ

いて、学術的な姿勢を崩さずに、お教えしたいと思いま

「これから二週間、みっちりと、私が興味ある事柄につ

を二個は頬張らんばかりに口を大きく開けていた。

れるとは思わなかった。隣を見ると、メリーもまた、卵

「メリー、あんたはどうしてこの講義に」

にめくるめく知的幻的興奮の世界を旅しようではありま

蓮子はひと通り見直した後、ぼそりと呟いた。

「え、だって」

姿の男が現れた。彼はそのまま教壇に登った。顎一面に

しているのは蓮子とメリーだけで、前方に陣取った集団

大教室は、拍手に包まれた。ぽかんと口を開けて放心

せんか」

髭を生やしていたが、きちんと整えられていたので、清

は熱心に手を叩いていた。よく見ると彼らは、男女入り

チャイムが鳴った。時間ぴったりに戸が開き、スーツ

潔な印象だった。

56

ファントムファクトリー

混じっていたが、みな、服が紺や灰といった、地味なく
すんだ色合いのものを身につけていた。
「ではまずプリントを配り、これから二週間、どのよう
に勉学に取り組むかのガイダンスを行ないます。せっか
くノートを広げてくださっている方々は申し訳ないが、

尾根教授の指示に従い、受講生たちは机の上を整理し

一度しまっていただきたい」

た。そのとき、多くの人が、手に何かを持ち、それを足
元に置いていた。ついさっきまで、みな、机の上にこん
もりとした帽子を置いていたのではないかと蓮子は疑っ
たが、いくら記憶をたどっても、その像はぼんやりとし
ていて、曖昧だった。

余計な詮索を諦めて、授業を受けることにした。
わりとおもしろかった。

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