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― 私たちに必要なのはインターネットだけなのか

インターネットがひとつのメディアとして私たちの日常から政治経済、世界情勢にまで普及して
きたと供に、「ネットが人々を既存メディアから引き離し、やがて既存メディアはネットに殺さ
れるだろう」とまで言われてきた。確かに、あらゆる情報が電子化し、人々がみな等しくインター
ネットに繋がった世界を想像できなくもない。ネットの利便性を見れば、それもまたひとつの理
想的な情報化社会なのかもしれない。しかし、人間という生き物にそんな社会を作ることは可能
であっても、その社会で幸せに生きていけるのだろうか。
未来人でもない私はその疑問の答えを知らないし、マス・メディアの専門家でもないので根拠の
ある予想もできない。ならば今の私の知れる範囲で既存メディアのあり方について、未来の予想
のためでなく今現在を知り、残しておく事実としてまとめて置こうと思う。特に、ネットによる
既存メディアの無差別殺人の中でも、初期から取って代わると言われてきた紙メディアについて。

― 紙の総生産量の内訳と変化

2000 年の紙の総生産量は 3213 万トン。
使用内訳は,情報媒体(新聞・雑誌)としての出版用紙が約半分弱を占める。プリントアウトや
伝票という形で、作業上で使われる紙としての役割が 189 万トン。そのほかに主要な用途として、
流通を担う工業用の段ボールが、情報媒体と しての紙の役割と同じくらいの 1381 万トンを占める。
われわれの身近な紙であるティッシュペーパーやトイレットペーパーなど家庭用紙は意外と少な
く、171 万トン、包装用は 104 万トンになっている。
日本国内の紙の総生産量の推移を見ると、ここ 10 年ほど大きな変化は無く、ほぼ横這いである。
その原因として、ネットで情報を扱う機会がどんどん伸びてきている一方、ネット上で話題になっ
たブログの書籍化や、電子化された書類等をプリントアウトして保存しておく習慣が残っている
ためという見方もある。
どういう形にせよ、紙メディアは過去から言われてきたほどネットに痛めつけられてはいない。

― 紙から私たちは離れられないのか

私たちは生まれたときから紙に印刷された情報に囲まれて、そこで育った。だから印刷物を見る
ことは、空気を吸うようなものであり、印刷物のない生活は想像し難いほどである。しかし世界
中の人類がそのようなわけではないし、歴史的にみるとこれほど印刷物が多くなったのは現代の、
またとりわけ日本の特徴である。

欧米ではカレンダーや手帳は新年に向けての出版需要であるが、日本では企業がタダで配ること
が当たり前になっている。そのために何も書き込まれない手帳の方が、また壁に掛けられること
のないカレンダーの方が、使われるものよりも多く作られていることになる。
当然書籍の返本率の多さは、書店の棚の容量以上に多くの出版物点数が毎月発行されていること
と、そうなった一因でもある書籍流通問題に理由がある。オフィスの印刷物においても 3 分の 1 く
らいは捨てるものを印刷会社は納品していることになる。これら全体を含めて、従来の紙の上の
印刷ビジネスの足元は、今日かなり危なっかしいところにあるといえる。

通常オフィスでも一人 1 日あたりコピー用紙を 20 枚使うとすると、年では 5000 枚になり、その紙
代を考えても 2~3 年 使える電子ディスプレイの方が安くなるのは時間の問題である。これに対し
て紙が読みやすいとか、旧来からいわれている紙のよさを強調しても議論はかみあわない。相手
はコストで攻めているのだから。
コストからはずれて情報キャリアとしての紙の良さを強調しようとすると、なかなか難しい課題
がある。紙の将来については、オンライン化によりペーパーレス社会になると言われ続けてきた
がそうならなかった。今再びリアリティをもってペーパーレスが語られることが多くなってきた
理由は、情報はコンピュータの中にある時代になり、紙だけでは情報を管理できない側面が見え
てきたからである。

電子デバイスは家庭や教育現場にも広がっていきつつあり、さらに携帯電話が発達して、あるい
はウェアラブルコンピュータとして新たなものが登場して、人がどこで何をしていようとも、常
に手元にコンピュータがあるような状況になるだろう。これはユビキタスコンピューティングと
いわれていたものの実現である。
つまり、かつては紙は装置なしでも読めるといっていたことの裏返しで、例え紙がなくても情報
を得るには何の不都合もない時代が来ようとしているのである。コンピュータでアクセスできな
い情報はないとなったとき、紙はなくなってしまうのか、マイナーな存在になってしまうのか。
それとも、今と同じように需要があるのだろうか。

― 出版ビジネスにおける「紙」

情報産業の一端にあると言われている出版社において、『情報』とそれを読者のもとに送り届け
る『メディア』であるところの『紙』が全く分離されていないところに、出版ビジネスの特質が
あるのではないか。
このことは、音楽ビジネスと比較してみると明らかである。例えば LP から CD への移行、カセット
から MD への移行はスムーズであった。それは、音楽を楽しむということに関しては、私たちは昔
からレコード、ラジオ、テレビ、またライブやカラオケなど、もともと多様な媒体を通して日常
的に行ってきた。ユーザも作り手もそのことになじんでいた。その点、出版は作り手の意識とし
ても受け手であるところの読者の意識としても全く分離していないのではないか。

― 紙メディアの生き残り方

・ 紙メディアの優位点

紙がメディアとして生き残るための最大の強みと言えば「紙がモノである」ということだ。かつ
て「本」は知識という形のないものを「本」というモノに物体化した。あるいは、「(紙のような
媒体の上に描かれた)絵画・写真」といったものは「景色や世界という形がありそうで、その姿を
なかなか形にすることができないもの」をモノという物体に変えた。あるいは、ポストイットは
よく伝言やメモを貼り付けたりすることに使われる。それが素晴らしいのは、伝言やメッセージ
を「一枚のポストイット」というモノとして姿を現させることである。モノとして伝言やメモが
姿を見せていれば、人はそれを把握しやすいに違いない。だから、ポストイットはそういう使わ
れ方をし、そして大ヒット商品となったのだろう。

そして今、それらに取って代わるものとしてネットが進出してきている。伝言のポストイットや、
紙書類や、写真や絵画といったモノとして姿を現された「何か」が、電子化の流れの中でまたモ
ノとしての姿を消そうとしている。モノの姿をしているからこそ(少なくとも二十世紀までの)人
が把握しやすかった何かがまた姿が見えないものになろうとしている。

「しかし、例えば机の上には仕事の紙書類があふれ、ディスプレイはポストイットの伝言で埋まっ
ているじゃないか?」「そんなに世の中に紙が溢れているのだから、やはり紙より電子データに
しないとダメなんじゃないの?」と思うこともある。だけど、それは紙が悪いのではなくて、単
に世の中の「仕事や伝言」が多くなりすぎていることが原因かもしれない。それらの「仕事や伝
言」が紙というモノとして姿を現しているから、紙が悪者に見えるけれど、それは紙というモノ
の形をした「何か」が多すぎるからかもしれない。電子化されたデータベースはえてして単なる
「ゴミ箱」になりかねない。それは、「何か」のモノという姿を変えたのではなくて、「何か」
というモノの数が単に多いから捨ててしまったというだけだ。

紙の特徴は「物質」であるということだ。人間は何かしら食べ物など「物質」を取り入れて生き
ていくわけだが、そのなかで、物質に対する親近感や物質を必要としている感覚が本能のなかに
あるのではないか。
情報とは、目に見えないものであり、それを具現化しているものは紙だということになる。情報
を聞くというよりも、紙の束を見て安心する。たとえば、本を買って読まなくても、近くに置く
だけで安心してしまうという感覚がある。その感覚は人類共通であり、本能に根ざすものではな
いか。だから、コンピュータで育ってきた世代になっても、情報を意識するものとしての紙はな
くなっていかないのではないか。

たしかに電子メディアは正確さや記録性においては圧倒的に紙に対する優位性を持っているわけ
だが、コンピュータの発明よりも紙の発明が遅かったらどうであっただろうか。紙はとても便利
で画期的な発明であり、紙ができたおかげで今までモニターで見ることしかできなかったものが、
簡単に外に取り出せて携帯もできる、ポケットに折り畳んで入れることもできる、といわれるの
ではないだろうか。
その意味では、紙はものすごく多様性を持っている。それに対して、電子メディアがひとつひと
つ検証し、打ち勝っていくためには、紙と同様に多様なインタフェースを開発していかなくては
ならないという局面がある。もうひとつは、電子メディアは見づらいという認識を持っている人
も多い。あらゆる環境のなかを、どのように大量の情報が流れていくかということに関する研究
がまだまだ立ち後れていて、可能性や潜在力の部分で語られてしまっている。
したがって、第 1 に紙の素材としての多様性に対応する電子メディアのハード面での立ち後れ、第
2 にコンテンツの部分で映像をどのように見せていくかという面からの研究の立ち後れ。この 2 つ
が相当にこなれてこないと、なかなか電子メディアは紙に打ち勝っていけない。

・ そもそも、ネットと紙メディアは敵対するものなのか

電子メディアにはマス・メディアを担うということと違って、個人的な発信ができるという利点
が明らかにある。そうした社会的な役割の違いのほかに、技術的な観点から触れると、今の電子
メディアの多くは紙の確立した技術を模倣しようという形で進んでいるような気がする。はたし
て、それは電子メディアにとっていいことなのかどうか。
また、電子メディアが紙と決定的に違うのは、カラーが使えるということ。たとえば、電子ブッ
クなどカラー画面で見ることができる。一方、われわれが手にする紙、オフィスで手にするコピー
紙などはほとんどが白黒の世界。その違いは大きい。そういう意味で、まだ紙と電子メディアで
「追いかけっこ」をしている段階なのではないだろうか。

・ネットと紙メディアはともに進化していく

これまでテレビやコンピュータなど新しいメディアが出てくるたびに、常に紙はなくなるのでは
ないかといわれ続けてきた。しかし逆に、モニター画面では満足できなくて、必ずプリントアウ
トして見るという人間の習性があり、インタフェースとしては、紙の方が親和的であると言える
ことから、実際には今にいたるまで紙は生き続けている。

もし、まったく紙というものに触れないで育つということが可能であれば、紙に対して神話的で
ない世代も育ちうるだろう。ただ,人類というのは紙が好きなのではないか。というのは、情報
を運ぶという点において紙が好きなのではなく、例えば和紙というすばらしい生産物に指先が触
れた瞬間に、ああ素敵だなとみんなが思ってしまう。人間の知恵によって天然素材を加工し、人
間という有機体に働きかけるという恵みが天然 素材に内蔵されていて、その素敵さを享受すると
いう喜びが、紙という物質の中に含まれているのではないだろうか。その部分は、仮にまったく
紙に親和的でないような情報環境で育った人に対しても同様の喜びを呼び起こすのだろう。
そういう観点で、むしろ今までの新しいメディアが、紙の持っている潜在性を解放してきたと言
える。そしてネットというメディアは、人々に紙というものを再認識させ、新たな紙の存在意義
を見出させるにまで至った。今まで紙は、情報を載せなくてはならないものであり、重い荷物を
載せて運びなさいといわれていたようなものであった。それが、素材としての可能性を開花して
いくことで紙の未来を開きなさいといわれたようだ。

紙というのは環境形成の素材であるという点が最大のポイントで、なおかつ情報も載っていると
いうのが紙のおもしろいところである。ディスプレイはあくまでディスプレイなので、環境形成、
環境の定義は難しい。紙の可能性について問われるならば、コンピュータのメディアが発達して
いくのと同じだけの可能性を紙も持っているだろう。ある種のヴァーチャルな世界が進化するの
と並行して物質世界があり、この 2 つのパラレルワールドが、お互いに影響を与えつつ、進化して
いくという状況が長く続くのではないだろうか。

― 紙が無くなったら

万年筆を使い肉体を使って文字を書くということ、そういう身体性をもっている人間と言うもの
の存在を、紙は受け止めてくれる物質であると言える。言語や文字は、文字を書くという身体行
為を通し、ある種の身体性を持つ。環境のなかでの紙というのは、身体を必然的に宿命的に引き
受けている存在である人間というものを受け止めてきた素材なので、それがもし全部キーボード
に置き換わっていくと、私たちは自分たちの身体性を持て余すのではないだろうか。
また、私たちが何かを確実に残そうと思ったときに、自分のPCの HDD やサーバーにアップロード
しておくだけでは 100%信用はできない。紙の特徴として、何かを残そうという原動力になるのが,
紙の特質にあるのではないか。だから、もしも紙がなくなってしまう状況になるとすると、そう
いう文化的な活動自体が縮小していかざるを得なくなり、それは人類にとってとても勿体無いこ
とになる。

― 新メディアは既存メディアを殺さない

今までは、映像や文字が載るメディアとして紙は文化の主役であった。しかし、短中期的な記録
性、保存性、伝達性に関しては他のメディアが台頭し、むしろ紙より優れてきたことは否めない、
数十年後に紙メディアがそのままの形で生き残っているのかは期待できないだろう。

しかし、紙は情報を運搬、記録、伝達する点ではもはや主役ではないが、それだけの物質ではな
い。素材そのものが持つ別の側面について見直す機会を与えてくれたのは、紙をこの世から消し
去るとまで言われた、インターネットという新しいメディアだ。

メディアの歴史を見直してみれば、新しいメディアが生まれるとき、必ず既存メディアは死滅す
るのではないかと言われてきたが、新聞等の紙メディアはラジオ等の音声メディアに殺されるこ
とはなかったし、TV等の映像メディアが音声メディアを殺すこともなかった。確かに新メディ
アの進出により、既存メディアはある程度の縮小を余儀なくされてきた。しかし、それは新メディ
アの誕生により、私たちが今まで頼りきって膨れ上がった既存メディアへの接し方のバランスを
模索し、学習してきた結果であるとも言える。また、一方では私たちに頼られていることで陳腐
化してきた既存メディアが、自身の強み、弱みをもう一度見直し、スマートな形で世に送り出す
ことで生き残ろうとしてきた努力の結果であるとも言える。

― 紙メディアのこれからの役目

新聞、広告、書籍などの紙を媒体にしたメディアはこれからも無くなりはしない。そして、それ
らは今までのような規模で世に出ることは無くなるだろう。しかし、紙メディアはそれ自身とし
て受け手、送り手の模索と学習によって与えられた役割を持った形で存在していく。ラジオにも
TVにも、インターネットにもできない紙の役割がもたらされたとき、紙メディアはある種の完
成を向かえるのかもしれない。それはメディアとして最も古い存在だからこそ可能なことだ。イ
ンターネットという、いまだに赤子のように手のかかるこの新しいメディアにも、またいつか生
まれてくるメディアによって完成にされる日がやってくるのだろう。

インターネットによってもたらされた既存メディアの見直し、その中でも最も影響を受けた紙メ
ディアは、メディアとしての紙ではなく、紙という物質そのものを省みられるにまで至った。人
間の知恵によって天然素材を加工し、人間という有機体に働きかけるという喜び、そしてその喜
びをくれたものが確かにそこに存在しているという喜びが、紙という物質の中に含まれているこ
とを私たちは再確認してきたのだ。

単なる改善や見直しでなく、再構築、または生まれ変わると言っても良いほどの機会を与えられ
た紙メディアは、これからどういう形で生きていくのか。それに対する明確な答えは私には出せ
ない。それは、これからの私たちが紙メディアに何を求め、紙メディアはどこまでそれに答えら
れるのかを知り、紙メディアがこれからの世の中でどうやって自分を生かしていけるのかを学ぶ
ことで形作られていくことだろう。その中で私が言えることは、これまで以上に紙メディアは洗
礼され、私たちには無くてはならないものになっていくと言うことだけだ。兎にも角にも、今は
まだ紙メディアの完成形を語る時期ではなく、紙というものは私たちにとって何なのか、これか
らの私たちに紙メディアは何ができるのかを語り合う時期なのだ。

― 文献研究を通して、卒業制作に込めたいもの

現在、ネット上では WEB2.0 という言葉がそこらじゅうに溢れている。ではこれから私たちの年代
が作り上げるネット社会を WEB3.0 と言うのなら、幼いころからネットに親しみ、ネットリテラ
シー、情報リテラシーに優れた年代(私の希望的観測でしかないが)が作り上げる WEB4.0 の社会
には紙メディアがどういう役割をしているのか、そしてその答えは今現在の紙メディアの見直し
によって決まってくる。どうか私は、WEB4.0 の社会の中でも紙メディアが単なる保存手段などで
はなく、人々の心を打つ存在であってほしいと願っている。そのために、人の手で書かれ、人の
手を渡って伝わる情報の温かみを垣間見せる作品を作りたいのだ。

― 参考資料

シンポジウム「2050 年に紙はどうなる?」及び
「2050 年に印刷はどうなる?」による報告記事から

それでもあえて、紙を使う?(TechnoFocus 2001.7.9 号から)

未来は今のため,今は未来のため (TechnoFocus 2001.9.3 号から)