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ここは オズよ り遠い 場所

甘木数彦
提供:ハムカツ屋
http://www.hamkatsuya.com/

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 ヤモリの数が在庫と合わない。こんなことは店を始めて以来なかったことだ。逃げたの
だろうか。そう思った淡雪はヤモリの入った水槽を隈無く調べてみたが、特に異常はな
かった。それからもう一度ヤモリの数を数えなおしてみる。やっぱり一匹足りない。万引
きという線も考えてみたけれど、ヤモリをわざわざ盗むような人間がいるとも思えない。
第一、万引きくらいなら絶対に見逃さない自信が淡雪にはあった。
「レヴィ、知らない?」
殆ど期待せず、淡雪はまだ店の入口に立っているレヴィに声を掛けた。いつものようにレ
ヴィは押し黙ったまま、何も答えない。
 淡雪は少しの間あれこれ可能性を検討し、結局、判らないという結論に達した。ヤモリ
などそれほど高価なものではないのだから損失としてはたいしたことがない。しかし淡雪
の勘はそれがよくない前兆であることを告げていた。だが、だからといってどうするとい
うこともできない。ただ、起こるであろう何か良くないことに対して、それが起こったと
きに落ち着いて対処しようと心に留めるだけだ。
 淡雪は若い魔女だった。見た目は一二、三歳くらいの少女である。しかし若いとは言っ
ても人間としてはなかなかの年齢であるはずだった。
 淡雪が幸運にも雑居ビルの一角に店を構えるようになって、もう三年くらいになる。店
内は狭く、至る所に魔法用の剥製や干物、薬草や薬品がそれぞれ棚ごとに整頓して陳列さ
れている。棚はどれも同じデザインの飾り気のない物で、古ぼけてはいるがまだ充分に使
える。その焦げ色の姿には歪みも狂いも見えず、くすんだ色合いのガラス容器が幽かな光
を受けて屹然と並んでいる。容器の中にはガラスの歪みを透かして、朱黄色の液体に浸っ
た臓腑や固く詰め込まれた植物の干物が見えている。どれもこれも実際に使用するものと
いうよりは、魔女らしさを増すための飾りのように見えた。しかしそれが確かに使われる
証拠に、頻繁に使用されるガラス容器の底には、出し入れの際に剥がれ落ちた薄片が澱を
成している。
 ヤモリの入った水槽は他の動物、蜘蛛や鼠の入ったケージと一緒に傷みの激しい木のカ
ウンターの後ろに置かれていた。辺りには香のたるんだ匂いと薬品独特の刺すような酸臭
が入り混ざって立ちこめている。店には一つの窓もなく、照明も薄暗い。それは雰囲気作
りというよりは、魔女の扱う様々な材料が直射日光に変質しやすいためだった。そもそ
も、ここ、荒神町では窓があっても見えるのは隣接する古ぼけたビルやひび割れた道路ば
かりなうえに、場合によっては却って強盗などの侵入口となってしまうので、あまり好ま
れないのだ。 
 淡雪は念のために店内の隅々までを調べた。その名前の由来である真っ白な肌の淡雪は
全体的に暗い配色の店内で薄い照明に浮かび上がって見える。黒い長袖のワンピースをま
とっているので、光の加減によっては白い生首が浮いているようにも見える。
 店内に異常はなかった。最後に淡雪はレヴィの所まで行くとその小さな手を握り、カウ
ンター脇の籐椅子まで連れて行った。その間もレヴィは全く無反応だった。その彫りの深
い顔に一切の表情はなく、顔の皮膚は一度も伸縮したことがないためか、骨格と筋肉と脂
肪の上に隙なく張り付いていて、とても弾力ある物質とは思われない。レヴィはただ、淡
雪の先導に従って歩く。実際には、レヴィは淡雪よりも幾分背が高いのだが、ひどい猫背
であるため、頭が淡雪の肩辺りに位置している。
 淡雪は慣れた様子でレヴィを操作するかのように扱うと椅子に座らせ、自分の仕事の出
来映えを確認する。レヴィはいつもの姿勢でいつものように椅子の中央に過不足なく収
まっている。
 開店以来、レヴィは置物のように毎日同じ姿勢で椅子に座り、淡雪がそうしない限りは
動きもせず、時折まばたきをするだけで姿勢を崩さない。店に来る客の中にはそんなレ
ヴィの存在を気にする人間もいる。だが彼らがどれほど仔細にレヴィを眺めても得られる
ことは僅かで、簡素な服装であることと明るい鳶色の瞳を持っていること、そして金髪で
あることぐらいだ。年齢以前にそもそもレヴィが若いのか年老いているのか、それすらも

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判らない。異様な顔立ちというわけではないのだが、見る者が自然と不安を覚えるような
顔付きではある。
 淡雪は自分の椅子に腰を下ろすと、カウンターの上に置いたバッグからビニール袋を取
り出した。中には今朝コンビニで求めてきたインテリア雑誌が入っている。淡雪は最初に
オレンジ色を基調とした表紙をよく眺め、それからページをめくりはじめた。
 高価なインテリアや小物の類を購入したいという欲求は淡雪にはなかったが、インテリ
ア雑誌を眺めることは好きだった。そこにある爽やかで真新しいインテリアが、淡雪の普
段接している使い込まれた家具類とはあまりにもかけ離れているため、なにか異世界の器
具を見ているかのような気がしてくるのだ。だから淡雪にとって、インテリア雑誌を読む
のは設定だけのファンタジー小説やSF小説を読むのと近しい感覚があった。
 雑誌に掲載される物の写真を淡雪は丹念に見つめていく。もちろん記事もちゃんと読
む。そのため、淡雪にとってそれはそこそこに濃密な集中を要求することだった。その集
中感も淡雪はわりあい気に入っている。
 店の中に小動物の立てる擦過音と淡雪がページを繰る音だけがしている。夜の名残の眠
たい空気が部屋を満たす。小一時間が経つころ、その空気は鉄のドアを押し開ける軋みに
よって払われた。その日最初の客が来たのだ。淡雪は雑誌から顔を上げる。
 入口に立っていたのは若い女だった。二〇歳を少し回るくらいだろう。褪せた色合いの
赤いパーカーとジーンズという出で立ちで、化粧気のない顔の周りを明るい茶色の髪が縁
取っている。女は一瞬店内を見渡すと、窺うような顔付きで淡雪に話し掛けた。
「ここ、ゆき屋、ですよね」
「ええ。まあ、こちらへ。どういった御用件で?」
淡雪は商売用のやや鼻から抜けるような明るい声で言った。女はレヴィを気にしながらも
淡雪の向かいの椅子へ腰を下ろした。かつては座り心地がよかったのだろう布張りのアー
ムチェアだ。鶯色が、白っぽい疱瘡を患ったかのように所々で色褪せていた。
「あの、恋愛についてなんですけど。聞いてもらえますか」
「ああ、もちろんです。ええっと、内容によっても違うんですけれど、値段は二千円か
ら、上は五万円くらいですね。恋愛成就ですか、それとも別れた相手に復讐とか」
「片思いの相手と上手くいく方法がないかと」
女は言い難そうに話す。
「ありますよ。そういうお客さんは多いですし。今まで魔女に何か依頼したことはありま
すか?」
「いえ。初めてで。何か」
「いいえ、別に。じゃ、これに判る範囲でいいですから記入してください」
淡雪は机の大きな引き出しを開けた。中にはA4サイズの藁半紙が詰まっている。淡雪は
依頼内容別の付箋ごとに区切られたそこから一枚を取り出した。目の荒いその紙は、淡雪
の指先へ堅く引っ掛かる。
 紙には依頼者の名前や住所等の個人情報、相手の情報を書く欄が設けられていた。下の
方には細かい字で、相手に現在付き合っている相手がいるか、今まで相手に告白したこと
があるかなどの質問事項が並んでいる。机の上のペン立てからボールペンを一本引き抜く
と、淡雪はそれを添えて女の前に紙を置いた。女は怪訝そうな面持ちではあったが、おと
なしく記入欄を埋めていく。
「判らない所は空欄でも大丈夫ですから」
淡雪は女にそう言い、立ち上がった。店の右手の戸棚から幾つかの薬瓶を取り出し、傍の
作業机に並べる。
「書きながらでも今の状況を説明してもらえます? その紙と内容が重なってもいいです
から」
淡雪は瓶の一つを開け、ステンレスの匙で中の青い粉末を手入れの行き届いた秤に取る。
秤の受け皿にはパラフィン紙が一枚、敷かれている。紙が緩やかな粉末の塊を受けて縁を
震わせる。女はレヴィの方を一瞥し、話を始めた。

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「相手は大学のゼミで一緒なんですけれど、バイトで知り合ったとか言う人と付き合って
て」
淡雪は女の話に相槌を打ったり質問を挟んだりしながら薬品を次々とパラフィン紙に開け
ていく。
 最後の瓶から薬を開けると、秤の目盛りは一四グラムを指していた。淡雪はパラフィン
紙を両手で持ち、薬を包み込むと軽く揉んだ。半透明の紙越しに粉末の混ざり合うのが窺
える。最後に淡雪は口の中で何事かを呟き、紙に向かって息を吹きかけた。女は髪に記入
を終え、淡雪の行動を見守っていた。淡雪は女に向き直る。
「できました。これはあなたが飲んでください。いつ飲んでもいいですから。で、これか
ら調合する方は相手に飲ませてください」
淡雪は薬の入った紙を女に渡すと、作業机の引き出しから新しいパラフィン紙を取り出し
秤の上に載せた。
「この薬は何なんですか?」
「あ、これは引き金です」
淡雪はヤモリの水槽が置いてある棚に歩き寄るとその下段の水槽から足の多い百足にも似
た虫を一匹取り出した。女は虫を目にして顔をこわばらせる。
「私の薬を飲むと、その時点から魔法が発動する仕組みになってるんです」
慣れているのか淡雪は女の表情を目にしても気にせず続けた。そうしながらも素早く虫を
二つに捻じ切る。虫は二つになってもなお体液を滲ませて身をくねらせて動き回ってい
る。淡雪はそれを流しの脇の小さな陶鉢に入れ、流しで手を洗った。
「その虫は飲んでも平気なんですか?」
「大丈夫ですよ。狒狒色灰百足と言ってブラジルの方で採れる虫です」
淡雪は擂り棒を取って虫をすりつぶす。鉢の中の虫はしつこく体を跳ね暴れさせていたが
段々それもままならなくなる。やがて虫は砕けて細片となり、最初は外殻や内臓の見分け
が付いたのが吐瀉物のような粘液になる。淡雪は流しに擂り棒を置くと鉢を秤に乗せ、別
の棚から新しい薬瓶を取り出した。
「薬は目的によって変わるんですが、この薬そのものが作用して魔法が発生するわけじゃ
なくて、これはあくまで魔法の発生を促すきっかけでしかありません」
淡雪は次に干した薬草を鉢に入れ、すりあわせた。薄片の押し潰される、湿り気を帯びて
乾いた音が響き、白い乳鉢が汚穢を内側へ纏い付かせる。淡雪はそこへ少しずつ、様々な
薬品を足していく。とりどりの極彩色が暗灰に飲み込まれ、あちこちにダマとなる。淡雪
は擂り棒の先でそれらを丹念に一体化させていく。女は不安そうに手にした薬の包みを覗
き込んだ。
「副作用は」
「ありません。基本的に人体に有害な物は入ってませんから。繰り返しますけど、この薬
を飲むということが大事なんであって、薬自体の作用は人体に及ぶわけじゃないんです。
むしろ魔法の元になるのはあなたが書き込んだ紙の方です。その紙の情報を元に私が現実
を作り替え、それが魔法になるんですよ」
女はよく飲み込めないという雰囲気であったが、取り敢えずうなずいた。
「魔法について詳しく説明してもかまわないんですけど、退屈でしょうから。もし興味が
あるなら研究書が幾つか出てますし」
淡雪は最後に秤の目盛りを確かめると、鉢の中身を紙へ移した。これにも同じように何か
を囁き、息を吹きかける。
「できましたよ」
淡雪は再び女から薬の包みを受け取ると、慎重にテープで封をし、紙袋に入れて差し出し
た。
「併せて四〇〇〇円ですね」
女は言われるままに財布からお金を出して払った。
「これだけ、ですか?」

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「そうです。効果の方は保証しますよ。もし何かあったら電話してください」
淡雪は左のポケットから名刺を一枚取り出し、女に渡した。鈍い白に小さな文字の並んだ
素っ気ないものだ。そこには店の名前と淡雪の名前、そして店の住所と電話番号が書いて
あった。女はその名刺をバッグに仕舞う。
「相手にどうやって薬を飲ませるかはあなたの腕に拠りますけれど、どうしても上手くで
きない場合はそれもこちらでサポートします。効き目の継続期間は特にありませんから気
長にやってもらって大丈夫です」
淡雪は流しで鉢と擂り棒を洗い、最後に自分の手を入念に洗浄した。そして流しの上の棚
からポットと紅茶を取り出す。
「それは」
女が不安げに尋ねる。
「これは普通の紅茶ですよ。砂糖とかは入れますか」
「いえ。あ、でもミルクを」
淡雪は手際よくカップを三つ用意すると、ポットに湯沸かし器のお湯を注いだ。
「そちらの方の分ですか?」
女がレヴィを見遣る。
「飲まないんですけどね。一応」
「失礼かも知れませんが、どなたなんですか?」
女がレヴィに興味を示すのは、珍しいことではなかった。外界に全く何も発散しないせい
か、レヴィは却って周囲の注意を引くのだ。そのため、店に訪れる客は一様にレヴィへ関
心を持つか徹尾無関心を装う。
「レヴィって言って、本名はレヴィヤタン、あ、リヴァイアサンのことです。私の扶養家
族でして。意識は殆どないんですけれど、おとなしくていい子ですよ」
淡雪はカップへ均等に紅茶を注ぎ女とレヴィの前へ置いた。女がカップを手にする。濃厚
なダージリンの香りが鼻先を掠める。まだ少し不審そうな顔をしながら女は紅茶のカップ
に口を付けた。
「あ、美味しいですね」
淡雪も満足そうに微笑むとカップへ口を付けた。
「レヴィは、数年前に路地裏にいるのを見付けたんです。そのときは着の身着のままで。
ナイキのジャージを着てたんですよ。雪が降ってるのにそれだけで。寒そうでもなかった
んですけど放っておくと死んじゃうんじゃないかと思って。本当に冷たい手をしてたから
危なかったんでしょうね。それ以来うちにいるんです。本人が判ってるのかは怪しいです
けど」
「はあ」
女は曖昧に返事をした。
「私が若すぎるのが不安ですか?」
淡雪は一向に女から戸惑いの色の消えないのを察して尋ねた。
「いいえ」
女は慌てて手を振る。
「いいんですよ。どう見ても小学生か中学生くらいに見えますからね。これでも人間の年
齢ではけっこうな歳になるんですよ」
「ええ。そうですよね。見かけよりは長生きしてるって雑誌に書いてありました。あ、こ
のお店はその雑誌を見て」
「中華月報のことですね。この前魔女の特集をやるとかでインタビューに来たんですよ」
「でも、イメージしてたよりも普通な感じだったから安心しました」
打ち解けた雰囲気で女が言う。
「まあ、形はこうでも人間じゃないですしね」
「え、本当にですか?」女は一瞬たじろいだ後、それを埋め合わせるように近しげな調子
で言った。「ただの噂だと思ってたんですけど」

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「私達は魔女であって、人間とは違うんですよ。だいたい、人間に魔法は使えませんから
ね」
話の流れに戸惑うふうではあったが、女はそれ以上の感情を見せなかった。淡雪が人間で
はないと知ると途端に警戒する客が多いので淡雪は意外に感じた。嫌がらせをするつもり
はないのだが、自分が人間ではないことをはっきりさせるとその後の展開に色々と都合が
よいのだ。例えば、淡雪が人間ではないと知ると、客は魔法に対して不思議と素直に納得
したりする。
「じゃあ、私はそろそろ」
会話の途絶えたのを切っ掛けに、女は立ち上がった。
「はい。どうも。何かありましたらいつでもご連絡下さい」
女は一礼すると鉄の扉を押し開け、店から出て行った。
淡雪は自分のカップと女のカップを流しへ運んだ。レヴィの、一度も手を付けられなかっ
たカップはレヴィの前に置かれたままだ。
「お前も、いつの日かそれが飲めるくらいになるかねえ」
淡雪の声は酷く弛み、疲弊していた。それは確かに、老婆の声のようだった。レヴィは沈
黙でそれに応える。淡雪は溜め息を吐くと、古い歌謡曲を口ずさみ始めた。その声は既に
若々しい娘のそれに戻っていた。狭く薄暗い店に、物悲しい歌声が漂った。


満員の電車がホームに入り、ドアが開く。がホームに降り立つとその背後でドアはすぐさ
ま閉じられる。明英は周囲に目を遣ったが他に降りた人間は殆どいない。しかし明英は気
にした様子もなく、軽く眼鏡を押し上げると壁に取り付けられた駅名を確かめる。そこに
は荒神町の文字が記されてある。明英は軽く笑った。口の端に深い笑い皺が寄る。手にし
たアタッシェケースを握り直し、明英は改札に向かった。
 全体に人の気配の少ない駅を出る。駅前もひとけがないのは同じだった。駅前のロータ
リーにはタクシーの一台もない。ただ、道のそこかしこに落ちているゴミや、乾くままに
放置された吐瀉物が昨夜の名残を留めている。
「荒神町、ねえ」
首筋を軽く揉むと腕時計に視線を走らせ、明英は目指すビルへと歩き出す。
 歩道はあちこちが剥がれるままに棄て置かれており歩きにくい。それは車道も同じこと
であった。ろくに整備が為されない道路は果たして本当に車で走ることができるのか怪し
いものだった。通りに面して建てられた建物も皆荒れており、傷だらけの壁には落書きが
されていた。落書きとは言ってもそれは余所で目にするような絵やサインとは違い、独断
的な妄言や訳の解らぬ呪い風の記号などが目立つ。一応ビルの所有者に防犯の意識はある
らしく、どの建物も入口にはシャッターではなく太い鉄格子が設けられている。ビルの上
の方には各種バーや風俗店の看板が掛かっている。夜ともなれば入口脇に電飾の施された
プラスチックの看板が並べられるのだろうが、今は閑散としている。
「なかなかそれらしい街並みだ」
明英は誰にともなく呟く。
 およそ縦横に三キロほどある荒神町は現在、特定危険地域に指定されている。町には危
険性を伴った現実喪失者や薬物中毒者、犯罪者や蒸発者など、普通の場所では生活のしづ
らい様々な人間が暮らしている。駅周辺は歓楽街となっており、その大抵が暴力団によっ
て経営されている。歓楽街も駅から離れる程に違法性が高まり、表だっては誰も認めない
ものの、歓楽街周縁は麻薬や銃器に始まり人間に至るまで非合法売買の大掛かりな取引所
となっている。
 町の姿もさることながら、そこに住む人間の荒廃から荒神町はしばしば荒人町と呼ばれ
ていた。本来ならとうに町全体が摘発されていてもおかしくはないのだが、一般社会では
手に負えない存在が一カ所に集まってくれるのは却って都合がよい、という理由から再三
国会で対応が取り上げられるにもかかわらず、現在まで野放しになっている。

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「瓜の日に、踏み割れる歩廊、黒潰瘍」
周囲の荒れ果てた光景を全く気にせず明英は長閑に句を詠んでいる。仕事柄、この手の場
所には慣れているのだ。時折行き会う通行人は明英のスーツ姿に警戒の眼差しを投げかけ
るが、それすらも明英にはよくあることだった。
 一〇分ほども歩いたろうか。明英は俳句にあれこれ推敲を加えることに熱中していたせ
いで危うく目的のビルを通り過ぎそうになった。
 どこにもビルの名を記した看板はないが、確かにそこは探していたビルであった。鉄格
子は引き上げられており、ガラスドアの脇には警備員が立っている。明英は警備員に軽く
頭を下げるとドアを開け、狭いエントランスに足を踏み入れた。
 そこは雑居ビルだった。入ってすぐの所にテナントの名前を記したプレートが並んでい
る。目的の場所は四階だった。歯医者のプレートに並んで「ゆき屋」のプレートがある。
明英は咳払いを一つするとエレベーターの昇りボタンを押した。赤い扉が開き、小さなエ
レベーターが姿を現す。
 閉塞感溢れるエレベーターは辛そうに身を震わせながらゆっくりと上昇していった。明
英は「ゆき屋」に着いてからの流れを頭の中で手早く確認した。淡雪に関する情報が殆ど
ないので順調にことが進むかどうか確証が持てない。様々な不確定要素が列挙される。
 最後に大きく揺れ、エレベーターは四階に着いた。ドアが開く。明英は頭の中のリスト
を振り払い廊下に出た。
 廊下は薄暗く、誰も居ない。白く塗られた壁は黒ずみ、不健康な色合いの照明のせいで
余計に灰色がかって見える。エレベーターの正面は歯科医院になっているが鉄製の扉に営
業時間の記された看板が出ているだけで中の様子は判らない。実際に歯医者であるかどう
かも疑わしい。歯医者の前を通り過ぎ、その隣のドアの前に立つ。こちらも隣同様、無骨
な鉄扉に阻まれて中の様子が判らない。暫くの間を置いて、明英はドアを引き開けた。蝶
番の物々しい軋みが小さな廊下に響く。
「どうも」
幾分笑いを滲ませた声で明英は中へ入る。魔女の店に特有な臭気が明英の鼻を衝く。どこ
かで換気扇の音がしているが、あまり役に立ってはいないようだ。狭い店には所狭しと棚
が並んでいるが手入れは行き届いている様子だった。
「いらっしゃいませ」
淡雪の声が明英を迎える。そこに牽制の色が滲んでいるのを感じ、明英は淡雪が自分の来
意を察していることを知った。魔女の直感的洞察は侮ることができない。前々からこう
いったことになるという予測もあっただろうが。
「どうぞこちらへ」
言われるままに明英は淡雪の向かいへ座る。
「どういったご用件で」
白々しく淡雪が言う。声の調子はあくまで他の客のときと変わらない。
「いや、それがね、言いにくいことなんですが」
明英は座り直した。背もたれが頼りない音を立てる。
「実は今日用があるのはあなたではなくそちらの彼の方なんです」
笑顔を崩さず明英は言った。それに対して淡雪は別段驚いた気配もなく、ただうなずい
た。
「私はこういう者です」
明英はスーツの内ポケットから名刺を差し出した。気のないそぶりで淡雪はそれを受け取
り、自分の名刺を手渡した。
 明英の名刺には「防衛庁長官官房参外課 六司明英」とだけ記され、名前の下には代表
の電話番号が載っている。肩書すらない。淡雪はその名刺を異様な熱心さで凝視していた
が、明英の方は淡雪の名刺をろくに見もせず、内ポケットへ仕舞ってしまった。
「そんなに睨んだって何も出て来はしませんよ。それより、よかったら私にもお茶を貰え
ませんか?」

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レヴィの前へ置きっぱなしになっていたカップに目を留め、明英が言う。淡雪は自分がし
ようとしていたことが見破られた驚きを隠し、黙って立ち上がると二人分の紅茶の準備を
始めた。
「魔女に詳しいみたいですね」
「名刺ですか? 今回の仕事のために随分勉強しましたよ。何せ魔女相手は久々ですから
ね。前に会った魔女は奄美大島の外れに住んでいたんですけど、それはもう」
明英は低く笑った。
「魔女相手の民生委でもしてるんですか?」
「そう見えます?」
「まあ、真っ当な仕事をしてるようには見えませんよ。格好は普通ですけど」
「厳しいな。いやね、とにかく今回の私の仕事はレヴィ君を連れて帰ることなんですよ。
三年前にこちらの手違いで行方不明になってしまって、やっと最近あなたの所でお世話に
なっていることが判りました。それで今日はこうしてお伺いしたわけです。勿論、今まで
面倒を見ていただいた謝礼はお支払いする用意があります」
まるで自分がレヴィの伯父ででもあるかのような素振りで明英は語った。その前に湯気の
立つカップが置かれた。
「や。こりゃどうも」
明英はカップを押し頂くように両手で包み持つと中の紅茶を一口啜った。
「あ、いい茶葉ですね。私なんかには勿体ない。本物のピュアセイロンですね? 懐かし
いな、スリランカ」
「行ったことがあるんですか」
「ええ、昔にね。仕事柄あちこちを旅してます」
緩い茶飲み話が続く。淡雪も明英も本来の用件を忘れているかのようだった。しかし、そ
れでも二人の間を行き交う空気は張り詰めており、互いに相手を探るための緻細な詮索が
交わされた。
 ただ一人レヴィだけがそんな状況にも全く無関心で、物のように座っていた。カップの
中の紅茶には既に薄く埃が浮いている。
「さて、レヴィ君のことなんですが、どうでしょう」
あくまでも笑みは絶やさず、そのくせ声の調子の微妙な変化が明英の言葉に、妙な迫力を
持たせていた。しかし、淡雪はその声の凄みに全く動じることがなかった。
「急に言われてすぐに引き渡すのはさすがに」
淡雪の言葉を聞いて明英は感じよく微笑んだ。
「もちろんです。今日はまあ挨拶にうかがったまでで、また来ますよ。しばらくはこの町
に滞在しますから。五〇歳も過ぎるとのんびりした仕事が多くて。」
淡雪は上辺では納得するような返事をしたが、その実、明英の言葉を信じていなかった。
魔女の直感が明英の任務の重要性を囁いていたのだ。淡雪はいつものように、その声に
黙って耳を傾ける。 
「どうかしましたか?」
淡雪の意識がどこか遠いところを彷徨っているのを感じ、明英が問いかけた。淡雪はなお
も自分の直感を吟味しつつ、頭を振った。
「そうですか。ま、急にぼんやりすることは魔女によくあることみたいですからね。とこ
ろで、この辺りにビジネスホテルってありますか?」
「ビジネスホテル」
淡雪は暫し黙って考え込んだ。そんな淡雪を眺めながら明英は紅茶を飲んでいる。
「私が知ってる限りではありませんね。ラブホテルならいくらでもあるんですけど」
「ああ、やっぱりそうですか。ま、何とかしますよ。じゃあ今日は本当にどうもありがと
うございました。急に押し掛けたりして」
背後で扉の開く音がした。
「じゃ、私は帰ります。また」

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明英は笑顔のまま頭を下げ、足下に置いてあったアタッシェケースを手に立ち上がった。
入って来た若い男にも会釈をし、店を出る。
 さて、宿を探さないと。ラブホテルは中年一人じゃ入れてくれないからなあ。そんなこ
とを考えながら明英はエレベーターに乗った。
 一階のボタンを押すとエレベーターは大きく揺れ、下り始める。どこか頭上で重たい物
のぶつかり合う鈍い音が響く。明英は大きく溜め息を吐いた。脳裏に淡雪の、その名通り
の雪白い顔が浮かぶ。一見すると一三歳ほどの元気そうな子供に見えるのだが、よく見る
と明らかに普通の子供としては不自然な印象がある。どこがどうとは言えないのだが、淡
雪の顔は人間の子供の顔と言うよりは、古びた子供人形の顔といった感じだった。淡雪が
今の顔立ちになってから長い時間が経過しているせいだろう。魔女の肉体的成長速度は人
間のそれよりもはるかに遅い。
 エレベーターを降り、ビルから出ると明英は適当に歩き始めた。あまり駅前から遠くな
ると泊まれるような所はどこにもないだろうと考え駅周辺を歩き回る。どうしても見付か
らなければどこか余所に泊まり、荒神町へは電車で通うことになってしまう。早くも長引
きそうだと実感していた明英としては、多少の無駄でも省いておきたい気持ちがあった。
それに、この町で活動するのと余所の町から通いで活動するのとでは、前者の方が何に対
しても格段にやりやすい。
 淡雪が自分を全く信用していないのは明らかだった。その証拠にレヴィと防衛庁の関係
を一切尋ねてこなかった。自分が答えないか、もしくは嘘を吐くと考えているのだ。実
際、もしその辺りに話が及んだ場合は上手くはぐらかしてしまうつもりでいた。勢い発言
には慎重にならざるを得ない。そういうことには普通の人間より慣れているものの、酷く
疲れることに変わりはない。特にこのごろは年齢のせいか、職務に対する厭悪感が強く
なっている。
「もう外回りなんかしてる歳じゃないんだがな」
事態が長期化することを思うと、重く不快な疲労が明英に堆積した。


 水の流れる、とわとわという音がする。淡雪はカップを洗っていた。レヴィと明英の分
もだ。茶渋が着かぬよう、丹念に一つ一つをスポンジでこすっている。
「こういう日がそのうち来るだろうとは思ってたけど、実際になってみると、気が重い」
聞いていないのは知りつつも、淡雪はレヴィに語りかける。
 話しながら淡雪は明英のことを思い出していた。客が帰って、淡雪は明英の名刺から情
報を得ようとした。名前と職場、電話番号が判ればそこを手掛かりにして色々と明英につ
いて知り得ることがあるはずだった。淡雪は名刺に意識を集中させた。そうすると、ただ
判るのだ。そこに記してある以上の相手の情報が。それは読み取る元の情報が多ければ多
いほど纏まったものとなる。名刺一枚でもある程度の断片は知ることができる。しかし、
いくら努力しても明英の名刺からは何も判らない。名刺は人間にとってのそれと同様、所
属と名前、電話番号を記した紙片としてしか、淡雪の前に存在しなかった。
「駄目だ」
淡雪は机の上に名刺を投げ出して溜め息を吐いた。名刺は少しだけ机の表面を滑ると、ペ
ン立てにぶつかって止まる。淡雪が力を込めて持っていたせいで、両端が緩やかに湾曲し
ている。
 どうして何も判らないのか。理由ははっきりしていた。他の魔女が名刺に防壁を張って
いるのだ。そのせいで淡雪が名刺から明英の情報に接続しようとするのが阻まれてしま
う。淡雪は仕掛けられた防壁を解除しようと散々足掻いたが、巧妙な目眩ましに阻まれて
どうしようもない。
 明らかに防壁を仕掛けた魔女は淡雪よりも格が上だった。そして明英が事前に準備をし
ていたとなると、他にも魔女については色々と知っているに違いない。淡雪はカップを拭
いて棚に仕舞うと、机の上の名刺をポケットに突っ込んだ。

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「初めてあたしがお前と会ったときのこと、覚えてる?」
自分の椅子に腰掛けると、淡雪はレヴィに向かって言った。
 
 それは三年前の冬、淡雪が「ゆき屋」を開いて間もない頃のことだった。その日、荒神
町には雪が降っていた。朝から降り出した雪は日暮れ頃にはもうだいぶん積もり、淡雪の
履くブーツは一足毎に深く雪を踏み固めた。いつもなら賑わい始める時間なのだが、電車
が止まっているせいで今日は森閑としている。通りには客引きの姿さえなく、ただ入口に
出された看板だけが派手派手しい光を周囲の雪に照り返させている。
 薄暗い路地の前を通りかかったとき、呻き声を耳にして淡雪は立ち止まった。この町で
は売人とのトラブルや暴行などのせいもあって、瀕死の人間が裏通りに倒れていることは
少なくない。無視して行ってしまう人間も多くいたが、淡雪は相手の様子を見るくらいの
まっとうさを持ち合わせていた。罠である可能性も考えて、警戒しつつ路地の暗がりへと
入っていく。
 奥には二人の人間がいた。積み上げられたゴミ袋の陰に一人と、その傍らに一人。周囲
には血の臭いが立ちこめていた。ゴミ袋の上に倒れている男が出血しているのだ。腹部か
ら流れ出す血の筋が湯気を立てている。その熱で雪が、血に蝕まれるかのごとく溶けてい
く。もう一人の男は黒いジャージを身に着け、放心した様子で立っている。
「大丈夫ですか?」
「う、ああ」
 男は苦しげに返事を返す。歳は三〇くらいだろうか。しなやかな顔立ちだが無精髭が伸
びている。暗くともその顔に血の気がないのは見て取れた。
 男はしんどそうに目を開くと少しだけ頭を持ち上げた。その焦点は既に定まっていな
い。食いしばった歯の間から血のように吐気の塊が漏れる。
「あんた、誰だ?」
「私は淡雪。魔女です」
男の頭が落ちた。淡雪は顔を近付ける。弱り切っているせいで、男の声がよく聞き取れな
いのだ。
 男は暫く荒い呼吸を続けていたが、やがて言った。
「魔女なら、いいだろ。頼みたいことがある。そこの男を預かってほしい」
「はあ」
朦朧とした男の意識は、誰かに傍らの男を託すという思いに占められているらしい。聞き
入れてもらえないのではという疑いは掠めもしないようだった。
「内密に、匿ってやってくれ。俺はもうお終いだろう」
男は血にまみれた腹部を押さえて呻いた。弾みで上体が起きあがる。男は左手をゴミ袋に
着くと体を支えた。
「追っ手がいるんだ。魔女なら、何とかしのげるだろ。悪い、頼む」
男の言葉は内容に比して酷くずさんなものだったが、淡雪は男の腕に手を当て、うなずい
た。自信がなければともかく、死に瀕している男の頼みを断る気に、淡雪はなれなかっ
た。直感が警告を発しないせいもある。
「それからどうすれば」
「そこの男が持っている紙に書かれた文を相手に送ってくれ。迎えが来るはずだ。ほら、
いつここに奴らが来るか判らない。すぐに連れて逃げてくれ」
淡雪は励ますように男の肩を叩き、立ち上がった。
「ねえ」
残された男に声を掛ける。男は反応しない。
「ねえってば」
何度呼んでも、男に変化はない。耳が聞こえないのだろうか。それにしてもさっきから動
きがなさすぎる。
 近付いてみると、薄暗がりの中で男が若者であるように見えた。しかたなく淡雪は全く

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動くことなく立ち尽くす若者の手を取った。その手は今にも壊死するのではないかと思わ
れるほど冷たかった。一瞬躊躇した淡雪はすぐに手をしっかりと握り直した。
「付いて来て」
言って淡雪は走り出した。若者は素直に従う。その体に降り積もっていた雪が落ちる。地
面の雪が巻き上げられ、一歩ごとに積雪が足をやわく噛む。人の気配がない通りはいつも
より随分長く感じられた。静寂の中、店々の明かりが無音で瞬く。自分達の息遣いと雪を
踏む凝集音だけが辺りに響く。充分な距離を離れると二人は速さを緩めた。
「名前は?」
口から白い息を盛大に吐きつつ、淡雪は尋ねた。若者は返事をしない。立ち止まったとき
に偶々見ていた一点を見詰めて、降り続く雪を払おうともしない。
「なるほど」
淡雪は呟くと、若者の手を強く握り直し、家へ向かった。
 幸い、家までは殆ど誰にも会わずに帰り着いた。淡雪が住んでいるのは「ゆき屋」から
一〇分ほど歩いたところで、三階建ての古いアパートの最上階だった。左隣には暴力団員
が住んでおり、右隣には物静かなアルコール漬けの男が住んでいた。この町の隣人として
はどちらもまともな方だ。
 淡雪は若者の冷え切った体を暖めようと、濡れて重たくなったジャージを脱がせた。化
繊が肌にへばりつき、手間取る。
 ようやく脱がせたところで、さっきの男の言葉を思い出す。淡雪がジャージのポケット
を探ると案の定、畳まれた紙切れが出てきた。取り敢えずそれをポケットに仕舞う。
 若者の体はどこか海棲の哺乳類を思わせた。肌の角質は荒いのだが全体の印象はひどく
滑らかで、どこかゴム質を思わせた。死体のような血色の悪さは体が冷えているせいだけ
ではないらしい。淡雪は少し熱すぎるくらいのお湯をシャワーから出し、そこに若者を立
たせた。若者は熱がるでもなく迸る湯に打たれている。淡雪は男の体が温まるのを待つ間
に、ポケットから紙片を取り出した。あちこちに皺が寄って脆くなっているコピー用紙を
広げると、そこには数字が並んでいた。
「暗号かぁ」
よく見ると下にはメールアドレスが書かれている。送信先だろう。
「私に解読できるようなものじゃないだろうしな」
若者の言葉を信じてメールを送っていいものかどうか。淡雪は迷った。直感は沈黙を守っ
たまま何も語らない。いくら淡雪でも数字の羅列からはそれ以上何も読みとることができ
ない。諦めて紙片を再びポケットに仕舞うと、淡雪は石鹸とスポンジを取り、シャワーの
熱でまだらな赤みを帯びた若者の体に目をやった。
 翌日、男のいた場所に行ってみるとそこには何もなかった。血痕も雪に覆い隠され、男
との出会いが現実であったという痕跡はどこにもなかった。或いは男の言っていた追っ手
が隠蔽工作を行ったのかもしれない。悩んだ末にメールを送信した相手についても、メー
ルアドレスからアクセスして知り得た情報は男であるというだけ。そして誰も迎えが来な
いまま、淡雪とレヴィの生活は続いた。

「でも六司とかいう人が、あの人の言ってた迎えとは思えないんだよね。来るのが遅すぎ
るし」
 むしろ明英は追っ手の側である可能性が高かった。最初にレヴィを連れていた男の側
は、あの男が殺されたときに敗北が決定したのだろう。スパイ小説などではよくある話
だ。ただ、現実の世界においてそういう状況はまずないが。
 明英達の狙っているものが淡雪には想像できた。それを手掛かりとして推理することで
もある程度事態の全体像が描けるような気はしたが、淡雪は慎重にそうすることを避け
た。もう少し確証が得られるまでは下手に物語を作って先入観を持ってしまうのは危険性
が高い。
 それにしても、身に降りかかる災厄の相手が明英なら、気が重い話だった。一見へらへ

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らしている調子のいい男に見えるが、その裏にある何か暗いものが時折表へ滲み出すのを
淡雪は看取していた。その一瞬の浸出から見えるものは、荒神町の最奥にいる住人達より
もなお濃密で得体が知れなかった。
「係わった手前、最初から面倒なことになるのは判ってたけど。本当に上手くしのげるか
どうか、自信が揺らぐな。あんたのことなんだよ」
淡雪はレヴィを見た。レヴィは朝座ったときのままの姿勢で椅子に安置されている。生け
る屍よりもまだ死に近い。レヴィを見ているとそんな気にさせられる。
 淡雪がカップを拭いているとドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
淡雪は頭だけで入口の方を見る。
 入って来たのは男だった。ジーンズに白いシャツという出で立ちで、シャツから覗く手
も顔も程良い褐色に日焼けしている。
「リルケ。久し振り。日焼けなんかしてどうしたの?」
リルケと呼ばれた男は褐色の肌には似合わないような繊細な顔を綻ばせて笑った。リルケ
とはいっても、男は両親ともに日本人だった。そんな彼がなぜ昔の外国の作家と同じ名前
で呼ばれているのか、淡雪は知らない。彼女がこの町へやって来たとき、男はすでにリル
ケと呼ばれていた。本名もちゃんとあるのだが、その名で彼が呼ばれるところを淡雪は見
たことがなかった。
「だから、インドに行くって言ってただろ」
「え、あれ冗談じゃなかったんだ? だって、あんたビザなんか取れるの? っていうか
パスポートはどうしたの」
リルケは店内に歩き入ると、レヴィの頭を親しげに軽く叩くと椅子に座った。
「あのな、いくらこんな所に住んでるからって俺は別に犯罪者じゃないんだよ」
「へえ、今まで警察にバレたことなかったんだ?」
リルケは含み笑いを漏らした。
「あ、これお土産」
手にしていた小さな紙袋をリルケは淡雪に渡した。
「ありがと。開けてみていい?」
「どうぞ」
淡雪の小さな手が慎重に紙袋の封を剥がす。出てきたのは木箱に入った紅茶だった。
「え、これ高いんじゃ」
箱に刻印された銘柄を見て淡雪が声を上げる。
「ああ、まあな。でも他に土産買って帰るような奴なんてあんまりいないし。そのぶん一
人一人の予算を多くしたんだ」
「ありがとう。さっそく淹れてみる」
「で、こっちはレヴィに」
リルケは立ち上がるとレヴィに歩み寄り、その右腕にポケットから取り出した質素な数珠
を嵌めた。それは彩色もなされていない、些か不揃いな白褐色の萎びた種のような球を、
麻紐でつないだだけのものだった。
「お前、相変わらず冷たい手ぇしてんな。これはな、本当か嘘か知らんが菩提樹の実だそ
うだ。菩提樹ってのはお釈迦様が悟りを開いたっていう木だな。お守りだよ」
リルケは持っていたレヴィの手を膝の上に置き直してやる。袖口が緩やかに数珠を覆う。
「リルケは優しいね」
淡雪が言う。
「まあ、この町でまともな奴は貴重だからな。一ヶ月以上旅してたからこれから家賃の取
り立てをしなきゃならない。どうも暴力は暑苦しくて嫌いなんだよ」
祖父の代から荒神町に住んでいるリルケは町の奥深くにある一軒のアパートの大家兼管理
人をしていた。主な仕事は家賃滞納者の取り立て。荒神町で大家達の取り立てといえば闇
金融のそれよりも恐ろしいことで有名だった。荒神町の奥部に住む人間達におとなしく家

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賃を振り込ませるためには、大家に対する絶対的な恐怖によって服従させる以外にないの
だ。ただ、家賃さえ振り込み、アパートの規約を守る限りにおいては、たとえ入居者が指
名手配中の連続殺人者であろうとも一切干渉は行わない。
「そのくせ大家達ん中でも一番えげつない取り立てしてるじゃない」
「まあ、厳しくやらなきゃならんから。嫌だけど仕方なくやってるんだよ。お陰でこの頃
はだいたい全員が振り込んでくれる。あ、あといない間に死んだ奴も調べないと。面倒臭
いな。昨日の夜帰ったばっかりでさ」
「でも、その代わりに一ヶ月も遊んでたんだからいいじゃない。あたしもどっか行きたい
な」
淡雪は淹れたての紅茶をリルケの前に置いた。
「お前こそビザとかパスポートとか出るのか?」
リルケはカップの取っ手を持つと鼻先へカップを近付けた。名匠によって設計されたかの
ような綺麗な顔が和らぐ。その顔は女だと言われても通じるだろう。
「知らないの? 魔女は特別ビザが発行されて、普通の人とは色々違うんだよ。無期滞在
が可能だったり。あたしだって日本に来る前はチューリヒに住んでたんだから」
淡雪はレヴィの前にカップを置くと自分も椅子に座った。
「スイス? お前スイスで生まれたの?」
「ううん。生まれたのはハンガリー。で、母さんが死んでからチューリヒに引っ越した
の。他にもポーランド、オーストリア、エジプトなんかでも暮らしたし」
「それは知らなかった」
リルケはまた一口紅茶を飲んだ。鮮やかな水色の液体が形のいい唇を湿らせる。
「昼飯さ、まだだろ? 一緒にどう?」
淡雪は部屋の隅にある柱時計を見た。時刻は一一時四〇分を少し回ったところだった。
「行く。午前中はもうお客さん来ないだろうし」
「直感てやつか?」
「そう。あ、そうそう、あたし厄介事に巻き込まれたみたいでさ。リルケはあたしと親し
いからたぶん巻き添え食うと思う」
「何だよそれ」
「さっき防衛庁の人がレヴィを回収しに来たんだよね。それだけならいいんだけど、その
連れ戻しに来たっていう人が癖のあるおじさんでさ。引き渡したらどうもレヴィがヤバい
らしいんだよね」
リルケは淡雪からレヴィに視線を移した。
「まあ、それなら仕方ないな。けど、昼飯くらいおごれよ」
「あんたもあのおじさんを見たら自信なくすよ」
「そんなに大変そうなのか。名前は?」
「六司明英とか言う人で、防衛庁の参外課だったかな」
「公務員か。で、得体の知れない感じなんだろ。だったら殺しちゃうしかないんじゃない
か」
淡雪は黙り込んだ。確かに、今日会った感触だけでも明英から逃げるには明英を殺す以外
ないような気がしていたのだ。
「でも、あたしも暴力は嫌いだから。だからほら、攻撃的な魔法は苦手だし」
「いやそりゃ知ってる。まあいざとなったら俺が、な」
「返り討ちに遭うかもよ」
「そのときはそのときだ」
そう言われると淡雪には何も言い返せなかった。この町ではできるだけ相手に干渉しない
のが基本原則なのだ。
「お店が終わったら『くだん』の所に相談しに行こうと思ってはいるんだ」
リルケはうなずき、カップの紅茶を飲み干した。淡雪もそれに倣う。
「レヴィも飲めよ」

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リルケは立ち上がるとレヴィの所へ行き、その手へカップを握らせた。その指に力がこも
り、レヴィはカップへ口を付ける。喉が上下して紅茶が入っていく。
「こうしてやると飲むんだからなあ」
リルケは淡雪に話し掛ける。じきにカップは空になった。リルケはテーブルに置かれた
ティッシュを抜き取るとレヴィの口を拭いてやる。ティッシュが見る間に水気を吸って黄
疸色に染まり萎びる。


 午後の客層は地元の人間が多い。荒神町に住む唯一人の魔女ということで、町での知名
度も高いのだ。開業した最初の頃に比べると、今では地元の人間も魔女を利用することに
随分慣れてきた。相談の内容は様々で、恋愛関係は無論のこと一番人気のホステスに付き
まとうストーカーをどうにかしてほしいという依頼や、他店への引き抜きに応じた方がい
いかどうか占ってほしい等というものもある。時折、以前淡雪が依頼で掛けた呪いを、掛
けられた当人が祓ってほしいと言ってくることもある。そんなときも淡雪は淡々と依頼に
応じる。どのような願いであれ、自分に可能なことなら請け負う。それが荒人町の魔女
だった。
 店が終わったのは七時頃だった。最後の客を見送ってから片付けを済ませるとレヴィを
連れて店を出る。ドアには鍵の他に術的な封を施す。
 ビルを出ると町はゆるりゆるりとその日を始めつつあった。ぴたりとした制服を着た
バーテン達が店の看板を表に出したり店の前を掃き掃除したりしている。殆どのビルが鉄
格子を上げ、開店に備えている。ある意味で通りは昼間よりも明るかった。たくさんの人
工照明が互いの光を打ち消すようにしてその輝度を競っている。人のざわめきも微刻に増
え、会社帰りの客達が一日を終えるために辺りを漫歩している。
「ああ、淡雪さん。さっきはどうも」
ストーカー撃退を依頼してきたオーナーが頭を下げる。
「きっと上手くいきますよ」
淡雪は肩越しに笑いかける。
「ええ、それはもう、淡雪さんの実力は信用できますから」
オーナーも愛想良く笑った。
 雑踏を抜け、淡雪は荒神町の奥、二四丁目へと向かう。奥へ進むにつれ店の数は減り、
辺りに闇が混ざり出す。人気のない裏ビデオ販売店や麻薬の取引が主な非合法クラブと
いった、闇との親和性が高い店が増えてくる。
 一四丁目を過ぎた辺りで、表から店は消える。なくなったのではなく、その違法性から
どの店も隠れて営業しているのだ。大概の店は知っていなければ辿り着くことができな
い。道の舗装はいたる所で深刻な裂傷を起こし、一〇メートル進むのも一苦労だ。街灯な
どというものはなく、窓から漏れる幽けき光が辛うじて周囲を判別できるようにしてい
る。
 一帯が静まりかえっているせいで、駅前歓楽街の喧騒は遠い音の雲霞としてここまで届
いている。淡雪はレヴィが転ばないよう自分の肩を貸してやりながら暗がりを進んだ。
 狩りのために歓楽街へ向かう殺人鬼達と擦れ違う。彼らは淡雪と擦れ違う瞬間、欲動に
まみれた顔で淡雪を見るのだが声すら掛けずに通り過ぎる。淡雪が漂わせる人間との根本
的な違いを敏感に察知するのだ。淡雪は自分の発する雰囲気が人間に対して本源的な違和
感を生むことを知っていた。昼間はなるべく抑えているのだが、奥部へ行くときは逆にそ
れを発散させるようにしていた。それは一種の識票として機能し、殺人愛好者や現実喪失
者を自然と淡雪から遠ざけさせる。
 道端に座り込んでいた浮浪者が泣き出した。淡雪の発する常ならぬ気配が男の抱える、
妄想と呼ばれる物語に何か破局めいたものをもたらしたらしい。淡雪は男の前で立ち止
まった。男は淡雪から逃れようと、体を壁に押しつけて縮こまる。
「レヴィ、繋いで」

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淡雪はうんざりした口調で言う。レヴィは言われたとおりにした。仄かにレヴィが灰白く
発光したかと思うと、その光が淡雪と男に移った。途端に淡雪の視界は光に包まれ、男の
内面が押し寄せてきた。恐怖と混乱と悔悟と哀しみ。そして強烈な自己否定。淡雪はそれ
ら負の感情に呑み込まれまいとする。自分に男が流れ込んでくるのと同じように男へも自
分が流れ込んでいくのを感じる。あらかじめ心構えのできていた淡雪と違って、不意を打
たれ、しかも酷く意志力が弱まっている男は流れ込む淡雪に押し流されていた。
 それはほんの数秒のことで、すぐに光は消えた。同時に淡雪は現実へ立ち戻る。男の方
は茫然としてはいるが、その顔はとても安らかで落ち着いたものだった。淡雪の内面が持
つ強さが男に流れ込み、それによって男の精神が平衡を得たのだ。
 淡雪にもどういう原理なのか判らないが、レヴィはその場にいる人間の意識を接続す
る、コンバータのような特異能力があるのだ。そもそもは偶然に見付けた能力だったのだ
が、防衛庁はこの能力故にレヴィを保有していたのではないだろうか。そして今、明英が
レヴィを連れ戻しに来たのも同様の理由によるはずだ。
 男が落ち着いたのを見て取ると淡雪達は再び歩き始めた。今までにもレヴィの力を使っ
て異常者を沈静化させたり、囲まれたときに脱出の契機とした。どんな人間でも接続され
た後は茫然としてしまう。僅かに混ざり合った他人に意識が停止してしまうらしい。
 淡雪自身にその力は殆ど作用しないのだが、なぜそうなのか理由ははっきりしなかっ
た。人間ではないからかもしれない。
 淡雪は今も自分の中にある男の残流感に顔を顰めた。じきに消えてしまうものであるこ
とは知っていたが、消えた男の内面がどこへ行くのかは努めて考えないようにしていた。
単に消えてなくなるのなら問題はないが、残留物が知らぬ間に淡雪という人格を改変して
いる可能性もあるのだ。今の所、それらしい兆候はなかったが。
「くだん」が住んでいるのは荒神町の最奥、二四丁目の粗末な小屋の一つだ。二四丁目ま
で来ると町は廃墟と化している。そこには荒神町内ですらよそには住めないような人間が
暮らしている。
 淡雪はくだんの住む小屋の戸を押した。立て付けが悪いせいでドアは持ち上げつつ押さ
ないと開かない。淡雪は小さな体全体でドアを押す。暫くドアをずり押していると不意に
ドアは内に向かって開き、淡雪はたたらを踏んだ。
「おっと危ない」
部屋の中から声がする。それは伸びきったカセットテープを再生したかのような、不安定
で耳障りな声だった。部屋の中は薄暗い電灯が一つ点されているきりだった。
「こんばんは」
体勢を直した淡雪はレヴィを部屋に引き入れると、声の主に挨拶した。声の主は人でも、
魔女でもなかった。それは縺れ合った配線とチューブ、金属削り出しのパーツと七人の発
育不全な老人達からなる集合体だった。それこそは旧警視庁電技研が極秘裏に開発した第
一〇世代自律式コンピュータ「くだん」だった。くだんはそのCPUを人間とすることで
人工知能問題を強引に解決したものだった。一台だけ製造され、長く各省庁の頭脳として
働いていたのだが第一一世代自律式コンピュータにして初の人工知能制御である「はくた
く」シリーズの登場によって引退し、ここ荒神町へ派遣されてきたのだった。現在、荒神
町のあらゆる管理、維持などは全てくだんが独りで行っている。
 くだんは部屋中に分散にして配置されていた。入り口から見て左手前に一人、右手の、
それよりも奥に壁と接してもう一人。奥の方には真ん中に三人が壁の方を向いて、三角形
の頂点を描いて設置されている。残りの二人は入り口から奥の壁の中央付近に、天井から
金属製の細い板で、地面から辛うじて浮くくらいの高さに吊されている。入り口から右手
の方は入り口を向いており、もう一方は壁を背にしている。
 七人全員が首から下は金属製の細い鞘状のものに包まれており、首筋から始まって背骨
に沿って幾本ものケーブルが突き出している。暗い部屋にあってそれだけ色とりどりの
ケーブルは所々を金属製の短い筒でまとめられながら床や壁を覆っている。人が歩けるだ
けの隙間もあったが、全体の床面積からするとそれは僅かなものだった。

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「久し振りじゃないか。こんな年寄りに何の用だね?」
一番手前に接続されている人間が口を開く。その顔はホルマリンに漬けられた無頭児の遺
骸のようで、男女の別もはっきりしない。落ち窪んだ眼下に天井からの明かりが緩い影を
落としている。口の動きに合わせて、その周囲の影が伸び縮みする。
「あのさ、六司明英っておじさん知らない?」
「ああ、よく知ってるよ」
さっき口を利いたのとは別の頭が口を開く。しかし、室内には妙な音響効果があって、
喋ったのがどの頭なのか聞いただけでははっきりしない。その声も矢張り不自然なもの
で、過剰な抑揚のせいで言葉自体も聴き取りずらい。
「どんな人なのか教えて欲しいんだけど」
「そう。明英。あの子は可哀想な子だ」
「礼儀をわきまえてる。あの獣の導入を反対してくれた。まあ、どんなつもりだったのか
は知らないが」
「不器用なのが不憫でね」
頭達が口々に言う。淡雪の質問を意図的に曲解しているのだろう。みな明英の人物像しか
喋らない。それにしても明英が一般の公務員とは違うことが知れた。普通の公務員ならば
くだんとこれほど親しくなることはない。
「で、人物像は判ったから、もっと具体的な情報はないの?」
淡雪は誤解の余地がないように問い直した。
「さ、それはいくら淡雪の頼みでも聞けないね。部内秘扱いだ。そうか。そういえば明英
から今日この町へ来るような連絡があったねえ」
わざとらしく、あたかも今思い出したかのような口振りで奥の方にある頭の一つが喋る。
「そこをなんとか」
淡雪は縋るような口調で言う。
「そういったことに関して私達が厳格なのは知っているだろう? 同じ説明を繰り返すの
は嫌だよ」
声の調子に微かな苛立ちの混ざったような気がした。もっとも、人間離れした声から通常
の感情表現を読みとるのは困難であり、苛立ちの色を感じたのも気のせいかもしれない。
「いま、連絡があった。これから明英がこっちに来るそうだ」
頭が言った。くだんは常に複数の情報を並列して処理しているため、淡雪の相手をしてい
る間もくだんの元には刻々と情報が流れ込んでくる。街全体に張り巡らされた様々なセン
サーからも逐次的に状況は報じられているし、その合間に電話やメールもやってくる。し
かしそのせいで目の前の淡雪との遣り取りに支障が起こることはない。
「どうする? お前がいることは相手も了承している。一〇分もあれば来るだろう」
淡雪は明英と会うことで何が生じ得るか、できる限り考えてみた。結果、明英とくだんと
の会話から得る情報もあるだろうということで落ち着いた。今は僅かな断片であっても相
手の情報が欲しかった。それに、少なくとも今のところ明英が手荒な真似をする可能性は
低いはずだ。
「待ってる」
淡雪が答えると一番手前の頭がうなずいた。
「座っているといい」
淡雪はレヴィを促すと、古びた木のベンチに腰掛けた。長年使い込まれたベンチは所々ニ
スが剥げているが、その丹念な造りは些かも衰えていない。
 老人達が目を閉じた。淡雪との回線を遮断し、仕事に没頭したのだ。冷却装置のファン
がたてる精緻な回転音が急に鮮明になる。その音は人間の拍動のように途切れることな
く、絶えず部屋を満たしている。他に音をたてる物がないため、その回転音だけが唯一く
だんの稼働を証している。老人達の顔は内部へ意識を向けている今、完全に死んでいるよ
うに見える。しかしその、後部に張り出した脆い禿頭に収められた脳には膨大な量の電気
信号が流れている。公式な記録が正しいならば、くだんを構成する人間部分はとっくに有

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機体としての存続可能限界を越えているはずだ。以前、その死蝋のごとき肌に触れたとき
のことを思い出した。
 そのとき触れたくだんの頭の一つは年月を重ねた革製品のような滑らかな強張りを持っ
ており、見た目の血色の悪さとは裏腹に温かく、微かな湿り気さえ帯びていた。くだんが
清掃される姿など見たことがないが、頭達の肌に垢じみたところはなく、常に無機的な清
潔さを漂わせていた。そうしたごく些末なことであっても、くだんは決してその仕組みを
語ろうとはしなかった。これまでにも淡雪はくだんとの遣り取りからそれ以上の情報を得
ようとしたことがあったが、頑強な防壁に阻まれて成功したためしがない。どこかから大
量に供給されているはずの電力や老人達の栄養ですら、どのような経路で得られているの
かはっきりしない。
 ドアが開いた。淡雪は入口に目を遣る。しかし入ってきたのは明英ではなくスーツ姿の
初老の男だった。長身を心持ち逸らせるような姿勢で立っている。男は淡雪を一瞥した。
後ろに撫で付けられた髪が艶やかに光を滑らせる。
「奥へ」
くだんが目を開け男に言った。男は硬い表情でうなずくと部屋の奥へと進んで行った。淡
雪の視界からはくだんの影になって、男の姿は見えない。
「訴えによると、あんたが接収したビルは不当に詐取されたものだという。調査の結果、
その訴えの正当性は信ずるに値するものだった。よって未払い分の代金、八〇〇万円を相
手方に支払うよう勧告する。期限は一年。もし支払いが行われない場合は電気、ガス、水
道など各種公共資源の提供を停止する。ただし、そちらの言い分をこれから聞き、その内
容如何によってはこの決定はまだ変更される余地がある」
一番奥の老人が言う。淡雪はその言葉を聞くともなしに聞いていた。
「私達が訴えられるとはとんだ言いがかりです。確かに相手には納得のいかないことで
しょうが、私達が行ったことには何の違法性もありません。それはあなたもお判りでしょ
う?これは単純に相手の不注意のせいであって、私達に非はありません。だいたい、裁判
所ではなくここへ告訴したこと自体、相手の主張が法的には何の根拠もないことを証明し
ています。うちの会社もここで長いことやっていますからあなたに逆らうような馬鹿な真
似はしませんが、だからといって無理な命令には従えません。そもそも、契約のときに相
手も契約書は自分で見ているんですから、後になって見落としがあったにしてもこちらの
責任ではないでしょう。正直な話、もし裁判所にこちらが訴えた場合、判決はどうなりそ
うですかね?」
男の声が聞こえる。見掛けによらず高い声だ。こういう場面には慣れているのだろうか。
その声に緊張の色はない。
「そうだね。相手の考えにもよるが、まあ、あんた達が向こうに一五〇万を支払い、裁判
が終了後どちらの会社も即、摘発を受けて刑事裁判だ。そっちの判決ははっきりしてる。
どちらも幾つかの罪状で有罪。控訴も上告も棄却」
男は黙った。荒神町で営業を行う会社は暴力団が経営している場合が多く、場所柄もあっ
て司法に近付けないのはよくあることだった。男が代表して来たのもその手の「会社」な
のだろう。
 くだんは余剰演算能力を住民同士の揉め事や相談事の解決に貸していた。それをくだん
自身は「自分の構成要素の一部が人間であることへのつまらない感傷」と言っていたが、
淡雪にそう語ったときのくだんは確かに少しだけ感傷的なようだった。
「それにしても全額っていうのは」
男の声が徐々に小さくなって消える。
 ドアが開いた。その騒々しい音がくだんの言葉を淡雪の周囲から掻き消す。
「どうも、お久しぶりです」
入ってきたのは明英だった。淀んでいた空気が攪拌される。
「こんばんは」
明英は淡雪達に目を留めると感じよく微笑んで軽く頭を下げた。

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「ようこそ。久し振りじゃないか」
明英の傍の老人が口を利く。
「ええ、あれ以来すっかりご無沙汰してしまって」
「いやいや、お前の骨折りのお陰でこうして隠居していられるんだから、むしろありがた
いくらいだ」
「この町は気に入っていただけましたか」
「ああ、勿論だ」
二人の会話を端で聞いていた淡雪は、くだんが見せたこともないような優しげな声色で
喋っていることに驚きを感じた。それは、日頃耳にするよりは遙かに滑らかな、そのせい
で却って合成だと判るものだった。
「ご存じでしょうが、今回はこちらのレヴィ君を引き取りに伺ったしだいで。まあ、交渉
は難航中といったところですが、よくあることです。ねえ」
最後の一言は淡雪に向けられたものだった。急に話を振られたせいで淡雪は些か慌てた。
「え、ええまあ。急に言われてもこっちだって心構えがあるし」
「それはそうです。聞けばくだんはここで調停も行っているそうで。なんでしたら私達も
お世話になりますか」
明英が奥へ視線を投げ掛ける。先程の男はまだくだんに食い下がっているらしい。無理も
ない。無条件で相手の提示額を支払うなどということになれば会社へも組へも戻れない。
淡雪が返答に詰まっていると横からくだんが口を挟んだ。
「明英。お前もこの子もとても賢い。私達のような骨董品が知恵を貸すまでもない」
明英は笑った。話を曖昧なまま無効にする、そんな笑いだ。
「しかし、お元気そうでよかった」
「器物は人間よりも長く生きる。お前もいつまでも働いてないで親父さんみたいに引退し
たらどうだね。もう、それくらいの歳だろう」
明英は苦笑を漏らし、鼻の下を掻いた。
「いや、そうしたいのはやまやまなんですが、なかなか上が許してくれない」
二人は久闊を叙する年来の知己という構図をそのままに行っていた。それはごく自然なも
ので、努めて演技をしているというわけでもなかった。くだんとは親しいと思っていた淡
雪も、明英とくだんとの会話を見ているとどうしても割って入ることのできないような緊
密さを感じてしまう。
 二人が話を続ける間に、先に来た男が帰っていった。来たときよりも堅い表情をしては
いたが、そう暗い顔ではない。交渉はまずまず妥当な線で落ち着いたのだろう。暇つぶし
に漏れ聞いた会話の断片から男の情報へアクセスしようとしかけた淡雪だったが、思い直
してやめた。わざわざアクセスするまでもなく男の氏素性など用意に察しがつくからだ。
 淡雪の期待をもちろん知ってのことだろう。明英は決して自分を知る手掛かりになるよ
うなことは言わなかった。くだんも心得ていてそのような方向には話を進めない。結局、
くだんと明英との会話は三〇分近くも続いたのだが、淡雪が知り得たのは二人が本当に古
くからの友人であったということだけだった。
「淡雪さんとレヴィ君は、食事はもうお済みですか?」
明英は淡雪の方を向いて尋ねた。
「いえ、まだですけど」 
明英は淡雪に手を差し伸べた。
「この町のことは詳しくありません。よかったらどこか案内していただけませんか? 当
然、食事代は私が持ちますよ。ああ、何もあなたを子供扱いしてのことではありません。
女性には基本的に親切にすることに決めているんです」
一瞬、淡雪はレヴィを振り返り、直感が囁くのを待った。すぐに悪い予感が淡雪に到来す
る。しかし、状況からみてもここで引き下がるわけにはいかなかった。淡雪は視線をくだ
んに移す。
「この男なら大丈夫。厄介な相手ではあるかもしれないが、とにかく公正ではあるよ。そ

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れに比べて彼は、な」
「さんのことですか? あの人は今、タヒチにいますよ」
「ああ、知っている」
「で、どうします? ご一緒していただけますか?」
直感が、今の短い遣り取りのなかで何か重要なことがあったと、淡雪に教えた。しかしそ
れが何なのか淡雪には見当も付かなかった。だがそれを検討している暇はなかった。
「そうですね、お口に合うかは知りませんけど、まともなお店を紹介しますよ。レヴィ、
行くよ」
淡雪はレヴィの手を掴んで立たせた。
「では、三人ともまた遊びにおいで」
くだんの言葉に見送られ、淡雪たちは外へ出た。枠の傾いだ木の扉が呻きを上げる。
 
 外はすっかり冷え込んでいた。一丁目の辺りの空がネオンでに輝いていた。淡雪は右手
でレヴィの手を引き、明英は淡雪の左を歩いていた。淡雪も明英も無言である。淡雪は六
丁目に向かっていた。
「心配ですか?」
明英は不安定な足下を見詰めたまま言った。この界隈ではそもそも舗装自体が殆どなされ
ていない。時折、かつての車道の名残だった黒いタール片を目にするだけだ。風が砂埃を
薄く巻き上げていく。
「何がです? あなたがここへ来たことは、そりゃもう心配ですよ」
「いや、そうじゃなくて、くだんが私に肩入れするんじゃないかと」
それは不安感として確かにあったが、実際にはあり得ないだろうことは淡雪にもよく判っ
ていた。
「いいえ。くだんはこういったことに私情を挟まないみたいですから」
明英は満足そうに同意した。
「そのとおりです。私も色々な人と会ってきましたけど、彼らほど徹底して公正な、とい
うか常に妥当性を持っている存在には会ったことがありません。今の私には残念なことで
すけどね」
遠くに、奇跡的に生き残っている街灯が見えた。その白んだ光はその足下にうずくまって
いる者の姿をしけじけと浮き上がらせていた。直感が淡雪に警鐘を鳴らす。淡雪はレヴィ
を握る手に少しだけ力を込め、立ち止まった。
「どうかしましたか?」
明英も街灯の下の人影から目を離さずに問いかける。
「直感が、囁くんです。あの男はマズイって」
淡雪は小声で答える。言い終わるのとほぼ同時に電灯の下の影が立ち上がった。顔は逆光
になって見えないが、どうやら髪の長い男のようだった。黒いロングコートを着ている。
 と、短い破裂音がしたかと思った瞬間、明英の四メートルくらい手前の砂が崩音を立て
て飛散した。欠片が幾つか三人にも当たる。
「銃、ですね。追い剥ぎでしょうか」
まぶしさを遮るように目を細めながら明英が言う間にも、また破裂音がする。二発目の弾
丸はレヴィの頭上を越えて背後の闇に消えた。淡雪の耳は弾丸によって切り抜かれる空気
の音を聞き取る。
「魔法でどうにかできません?」
明英は悠長に構えている。
「できません。レヴィ、あの男とあたしを繋いで」
命令を下した途端、淡雪の視界が後退した。そして白い光に満たされる。全身の感覚入力
が瞬時に遮断され、繋がった男の精神を表象する疣だらけのぬめりが淡雪に付着する。し
かしすぐに光は消え、淡雪は現実感を取り戻す。街灯の下では男がくずおれていた。
「たいしたものですね」

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明英が動じる気配もなく言う。
「レヴィがあなた達の所に居たのなら、知ってるんでしょう?」
淡雪は男の残滓が消え去るのを待ちながら言った。男の残した腐塵は思った以上に醜悪
で、思わず淡雪は顔を顰めた。
「ええ、よく知っていますよ。しかしそうですか。魔女にはそんなふうに使えるんです
ね。初めて知りました。だからあなたはレヴィ君の引き渡しに乗り気じゃないんですね」
「攻撃魔法は好きじゃなくて。失敗すれば自分に跳ね返ってくるし」
「でも、この町にはあなた以上の魔力の持ち主なんていないでしょうに」
淡雪は明英を見上げた。眼鏡の縁が邪魔で、明英の瞳が見えない。
「油断は命取りです。特にこの町では」
「でしょうね。よく解りますよ。言ってみただけです」
明英も淡雪を見下ろす。気圧されたわけではないが、淡雪は視線を逸らすと歩き出した。
「ああなると、普通は立ち直るのにどれくらい掛かるんです?」
明英は淡雪に追い付くと尋ねた。
「人によって違いますけど、一〇分か二〇分くらいですね」
二人は俯せに倒れている男の前を通り過ぎた。男の顔は弛緩しており、それこそ気の抜け
たという感じの表情だ。薄く目が開かれており、時折瞬きをするので昏睡しているわけで
はないのが判る。まだ若い。二〇歳になるかならないくらいだろう。
「淡雪さんが平気なのは魔女だからなんかじゃなくて、ひょっとして慣れですか?」
明英は男に目を向けながら言う。
「どう思います?」
「そうですねえ」
淡雪の言葉を質問の拒否と受け取ったようで、考えるふりをしつつ明英は黙った。確かに
質問責めが鬱陶しくなったのは事実だが、淡雪にとっても何故自分が平気なのかは謎だっ
た。初めてレヴィによって接続を体験したときも淡雪は他の人間のように自失状態に陥り
はしなかったのだから、レヴィの力は魔女にさほど及ばないと考えるべきなのだろう。
 それからはさしたる障害もなく、一行は六丁目に辿り着いた。辺りはまだ町としての姿
を残している。淡雪はとある傷んだビルの地階へと、階段を下って行った。そこから突き
当たりまでは周囲と場違いに手入れがなされており、ちゃんと掃除をしている形跡もあっ
た。壁に取り付けられた電球の中で生きているものが疎らに点っている。
「ここは何のお店なんですか?」
階段の入口脇に立て付けられた「ごんどう」という看板を見て明英が尋ねる。
「お好み焼き屋です。味も値段もまともですよ」
三人は頑強な鉄の扉を押し開け、店内に入った。
「いらっしゃい」
カウンターの奥の厨房で働いている五〇代くらいの男が顔を上げずに言う。店内は階段と
同じように薄暗く、煙が充満して辺りを揺らめかせていた。テーブルはほぼ埋まっている
が、そこに座っている客達は少なくとも深奥部をうろついていた人間よりかはまともそう
に見えた。淡雪達は一つだけ空いていたテーブルに座る。すぐに若い男の店員が水の入っ
たコップとおしぼりを持ってやって来る。
「この町ではちゃんと水とかおしぼりが出る店だってなかなかないんですよ」
淡雪が説明する。
「でしょうね」
明英は湯気の立ち昇るおしぼりを指先で摘むと、軽く振って熱気を逃がしながら相槌を
打った。
「メニューはこれです」
テーブルの横のフックに吊り下げてあった油じみたメニューを取ると、明英の方を向けて
広げた。
「私はもう決めてますから」

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「そうですか。ええ、じゃあどうしようかな」
明英はメニューを覗きながらおしぼりで手を拭いている。淡雪は運ばれてきた水を飲ん
だ。荒神町の水はやけに薬臭いが、慣れてしまえばどうということはない。
「私はこの、牛筋とこんにゃくの奴にします。あとビールね。淡雪さんは何か飲まれます
か?」
「ええ。私とレヴィは烏龍茶を」
明英は先程の店員を呼ぶと注文を伝えた。淡雪とレヴィは豚玉だった。
「にしてもなかなか雰囲気のあるお店じゃありませんか。これなら都心にあっても通用し
そうだ」
明英は店内を見回して言った。店内は人が居なければ工事中と言っても納得できそうなく
らいで、およそ内装と呼べるようなものは殆どなされていない。壁の塗装は中途半端で、
ベージュのペンキが部分的にしか塗られておらず、その他の部分はコンクリートが剥き出
しになっている。また天井から下がる電球もただ黒いコードの先にソケットを付けただけ
のものに繋がれているといった具合だ。だがそれらが逆にシンプルで独特な雰囲気を醸し
出していた。
「ああ、そうだ。明日お見せしようと思ってたんですが、この男を知りませんか?」
明英はスーツの内ポケットから一枚の写真を撮りだした。そこに写っている男はあの雪の
晩、淡雪にレヴィを託した男のようだった。ただ、淡雪が見たとき男は写真よりも随分と
痩せこけ、髭が伸び、死にかけた人間独特の内側へ消え入るような顔付きをしていたた
め、印象が違いはした。
「さあ、知らないですね。この人が何か?」
淡雪は写真をじっくりと眺めると明英に返した。
「この男は以前防衛庁に勤めていたんですが、目下行方不明でレヴィ君を誘拐した犯人と
考えられているんですよ」
明英は内ポケットへ写真を仕舞いながら答えた。
「はい、こちらさん烏龍茶と生中ね」
さっきの店員が烏龍茶の小瓶と生ビールの中ジョッキを持ってくる。
「あ、どうも」
明英はビールの入ったジョッキを受け取るとさっそく口を付けた。泡の層が傾き、茶色が
かった黄金色の液体が波を打つ。淡雪は自分のコップとレヴィのコップに烏龍茶を注い
だ。
「美味しいですね」
明英が目を細くして言う。その嬉しそうな顔はどこにでもいそうな勤め帰りの中年のそれ
だ。その毒気のなさが余計に淡雪の警戒心を煽る。
「明日はどうするんですか?」
「そうですね、明日はもうちょっとレヴィ君の引き渡しについて具体的にこちらの条件を
提示させていただこうかと」
「無駄足かもしれませんよ。今ここで話してもらっても一緒だと思います」
「いえ、毎日お話しするネタは取っておかないと。消化仕事ですから無駄でもいいんで
す」
「はあ」
それ以上何かを言っても仕方がないだろうと思い、淡雪は黙った。明英は気にした素振り
も見せず、ビールを飲んでいる。やがてお好み焼きの種が出てきた。
「以前、二年くらい大阪に住んでたこともありましてね」
明英は手際よくお好み焼きの種を掻き混ぜ、ボールから鉄板の上へ空けた。
「それも仕事で」
「ええ、そうです。そこでお好み焼き屋の仕事を手伝ったことがありまして」
喋るあいだも明英はコテでお好み焼きをならしていく。淡雪はまだカトカトと自分の種を
混ぜている。

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「随分と面白そうな人生ですね」
「ええ、お陰様でそこそこには。あ、お好み焼き屋を手伝ったのは仕事の本筋とは関係な
いんですよ。色々と成り行き上そうなっただけです」
「まあ、そうでしょうね」
淡雪は自分のボールを置くと今度はレヴィの分を混ぜ始めた。早くも焼け始めた明英のお
好み焼きが淡雪の食欲をそそる。その匂いを嗅ぎながら唐突に淡雪は、明英との交渉が決
裂することをはっきり感じた。そうなれば明英は強硬手段に訴えるはずだ。それは明英自
身も予想しているに違いない。そして、明英を上手く撃退できる自信はない。そんな相手
と長閑に鉄板を挟んで夕食を共にしていることが淡雪には不思議だった。また、こうした
状況でなければ明英という人物を気に入っていただろうことが判るだけに、切なく感じら
れもした。
「これも美味しい。大阪のお店と比べても遜色ないですよ」
明英は厨房に立つ主へ話し掛けた。
「当たり前だ。この町でこの味を出すのがどれだけ大変か」
主は言い返す。
「材料の仕入れはどこでするんです?」
「そりゃ、企業秘密だ」
言って主は笑った。明英も声を揃えて笑う。度々この店を訪れる淡雪だったが、主が客と
談笑するところなど見るのは初めてだった。特別に相手の気を惹くようなことを喋ってい
るわけでもないのだが。淡雪は混ぜ上がった種を鉄板に流し込んだ。はぜる音と共に油が
跳んだ。
 会計を済ませて店を出ると涼やかな夜風が、全身に纏い付いたお好み焼きの匂いを吹き
流す。明英はビールに目の端を薄赤く染めていた。
「いい店でしたね。どうもありがとうございます」
機嫌のいい声で明英は言う。淡雪はしかしその言葉を聞き流し、内なる直感が再び不安を
呟く声に耳を傾けていた。
「どうかしましたか?」
淡雪は我に返ると小さく首を振った。
「送りますよ。宿はどこですか?」
「あ、どうもすいません。ええと、三丁目なんですけど」
「じゃあ、こっちです」
淡雪は暗い通りを、レヴィの手を引いて歩き始めた。
 歩きながら淡雪はまるでレーダーを働かせるように直感のささやきが大きくなる道を避
けて歩いた。そのためときに回り道をしなければならないこともあったが、明英は何も言
わず不意に横町へ逸れたりする淡雪に従った。
 丁度一二丁目に差し掛かったときだ。淡雪は角を曲がった狭い通りで立ち止まった。奥
は壁に塞がれ、袋小路になっている。
「追い付かれましたね」
明英が低い声で囁いた。淡雪はうなずく。
「逃げようかとも思ったんですけど振り切れなかったから、ここで片付けた方がいいかと
思って」
すぐに角を曲がって女が姿を現した。地味なスーツ姿で、大きく角張った眼鏡を掛けてい
る。引っ詰めた髪といい、わざとらしいくらいの事務員姿だ。おとなしい顔には化粧気も
ない。女は二人に目を留めると立ち止まった。淡雪が僅かに動揺した。
「知り合いですか?」
明英は女に目を据えたまま尋ねた。
「いえ。ただ、有名人ですよ。死なずの悠子とか呼ばれてます」
「さっきといい、この街ではよくあることなんですか?」
「ええ、まあ。ただ、今回は相手が悪いですね」

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「彼女の情報は」
「まずありません。狙われた人間は大抵殺されてますから」
悠子は地面から足を剥がすような仕草で二人へ向かって踏み出した。
「死なずというだけあって」
「死なないんでしょうね」
もう一足、悠子は歩みを進める。俯いているせいで表情はよく判らない。
「レヴィ、あの女とあたしを繋いで」
悠子が膝から崩れ落ちそうになる。すかさず明英はポケットから小さな金属の直方体を取
り出した。素早く悠子に向けロックを外して下方に穿たれた穴へ指を通し、トリガーを引
いた。悠子に向けた側面から空気の圧搾される音と共に銃弾が射出される。銃弾は悠子の
頭頂を打ち抜き、それで終わりのはずだった。が、悠子はくずおれながら膝を屈め、沈み
込んだ。顔はその動きに併せて持ち上げられる。銃弾はその少し上を掠めながら背後の壁
に当たり、不快な掘削音が辺りに響く。我に帰った淡雪は愕然とするが、すぐに気を取り
直して呪文の詠唱を始める。
 全身のバネをしならせ、悠子が明英に向かって飛びかかる。明英は右へ飛び退く。重た
い音がして地面から粉塵が上がる。そこからすぐに悠子は右へ跳ぶがその時には既に明英
は先程まで悠子が立っていた位置へ移動している。
「いや、ちょっと」
明英は言いさして銃をさらに悠子の足下へ向けて撃つ。悠子は器用に両足を広げ弾をかわ
す。スカートが拘束衣のように音を立て、開かれた足を止める。そこから間髪を入れず悠
子は両足で跳躍した。明英は差し伸べられた悠子の右腕を掴むとそのまま背負い投げる。
壁に叩きつけられた悠子の左手には明英のスーツの袖が握られていた。明英は左腕が熱と
痛みを放つのを感じた。皮膚が少しもぎ取られたようだった。
「淡雪さん」
明英は淡雪を催促した。悠子は微動だにしない淡雪を放置していた。明英を仕留めてから
でも勝てると踏んでいるのだろう。
 ややあって淡雪が呪文の最後を、まるでその声自体を悠子へ叩きつけるかのような勢い
で叫ぶ。悠子の周囲が急に霞んだ。周辺の空気中にある水分が圧縮されたのだ。軋るよう
な音と共に悠子の骨が次々と折れる。しかし淡雪も明英もその様をろくに見もせず、表通
りへと逃げた。淡雪はしっかりとレヴィの手を引いている。
 三人は限界まで走り続けた。路地から路地へ、闇と明かりを交錯させ横断して走る。
「もう、大丈夫です。諦めたみたい」
最初に淡雪が立ち止まった。明英も止まる。
「なんなんです? あれ」
明英は息を切らせながら言った。
「さあ、とにかく人間じゃないんじゃないですか。たぶんあれでもすぐに元気になるはず
です。普通ならあの魔法を受けた相手はすぐに粉砕されて赤っぽい霧になります」
「あの魔法はどれくらい続くんですか?」
「あれはと言って、調子がよければ一〇分くらい続きます。最後の方は水分が固化して粉
雪が降るんですよ」
「はあ。物騒ですね。もっとこう、火の玉をぶつけるとかできないんですか」
「空気を一〇〇度以上に熱することはできます。いや、私は本を見ないとできませんけど
そういう魔法もあります。魔法には、大きく二種類あるんですけど、知ってますか?」
「確か、呪術と魔術でしたっけ」
「そうです。私が得意なのは呪術の方です。結界を張ったり、恋愛を実らせたり。これは
幾ら立て続けに行ってもたいして疲れません。もうひとつ、大圧なんかの攻撃的な術の方
が魔術。こっちは魔女の力量にもよりますけど、呪術よりは疲労感が激しいんです。大圧
を一度放つくらいならあまり疲れはしませんが。どっちにしろ厳密な区分ではありませ
ん。それに分かれるとはいえ、魔法というのはどちらも環境設定を部分的に操るもので、

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別に無から有を生み出してるわけじゃないんです」
「そうですか――。あ、喉が乾きませんか?」
明英はハンカチを取り出すと顔の汗を拭う。
「近くにコンビニがありますよ」
「じゃ、そこでちょっと休みましょう」
淡雪の言葉どおり、見放された背の低いビル群を縫って歩くと、そこから二分もしないう
ちビルの一階にコンビニが見えた。煌々とした明かりが通りへ流れ出している。店内では
客が雑誌を立ち読みしていた。それは荒神町には場違いな、真っ当な光景だった。珍しい
ことにガラス張りの正面に、鉄格子はない。
「いくらコンビニの規格が統一されてても、あれじゃ危ないんじゃないですか」
明英は眩しさに目を眇める。
「いや、あの店は私が依頼を受けて結界を張ってあるんです」
「ああ、そうですか」
三人は店内へ入る。広い店内にはよその街と変わらず色鮮やかな商品が並んでいた。それ
は駅前ならまだしも、この辺りでは奇妙な光景だった。明英は緊張を解くと、雑誌コー
ナーの片隅にあるスタンドから夕刊を抜いた。
「明英さんもやっぱり凄い身のこなしでしたね。秘密兵器みたいなのも持ってたし」
「ああ、あれはちょっとスパイ映画の小道具みたいでしょう」
明英は得意そうだった。
「お茶でいいですね」
淡雪は壁面のドアを開け、中から烏龍茶のミニペットを三本取り出した。
「あ、ここは店内で飲んでもいいんです。後で空のボトルをレジに出せば」
「なるほど」
明英はキャップを外してボトルからお茶を飲んだ。喉が大きく動く。
「この街は、あれですね。滞在するだけで一苦労ですね」
「悠子みたいなのは滅多に居ませんよ。ああいうのは奇異な殺人者、奇殺者と言って数も
少ないんです。大概は最初に会った男みたいなものですよ」
「淡雪さん、死なずの悠子に会ったんですか?」
レジに立っていた店員が話し掛ける。このコンビニの店長だった。
「ええ、今さっき」
店長は感嘆の声を上げる。
「うちの店にも三週間ぐらい前に来ましたよ。入口で結界に阻まれてましたがね。お陰で
お客さん二人と日が昇るまで店内に缶詰です。あいつ、朝になるとどっか行くんですよ。
絶対に入って来られないと判っていてもあれは嫌な経験でした」
「ああいうの、一応賞金首なんですよ」
淡雪が明英に説明する。
「賞金稼ぎは成り立たないでしょう」
「ええ。いるにはいますけど、みんな趣味としてですね。狩る方も狩られる方も大して差
はないですよ。ただ、一般人を殺すか賞金首を殺すかの違いだけで」
「それでもやる気になる人間がいるんですね」
「まあ、殺して殺せない相手ばかりじゃないですから」
明英は空になったボトルをレジへ持って行き、夕刊と併せて代金を払った。淡雪も自分と
レヴィのボトルをレジへ出し、代金を払う。
「じゃ、そろそろ行きますか」
明英の言葉に淡雪はうなずく。
 店から明英の宿までは何事も起こらなかった。淡雪の直感も沈黙を続け、囁くことはな
かった。

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 翌日の昼過ぎ、明英が「ゆき屋」を訪れたときそこにはリルケもいた。
「初めましてリルケさん」
明英は初対面にもかかわらずにこやかに会釈する。
「あんたは?」
「私、六司明英と言います」
明英はリルケに名刺を差し出す。リルケもポケットから一枚の名刺を差し出した。明英の
目が、僅かに細くなる。
「俺だって名刺ぐらい持ってる」
リルケが差し出した名刺には「クリムゾンハイツ大家 リルケ」と書かれ、その下には住
所と電話番号が書かれていた。
「この町で使うことなんかあるんですか?」
「一応、住人には配る。気持ちの問題だ」
「地元民の意地ですか?」
「いや、そういうわけでもない。この町では名刺を持ってるのがまともな人間の証だ」
リルケは荒神町がまだ普通の町だった頃から住んでいる地元民だ。町の崩壊に併せて殆ど
の町民が出ていってしまったが、リルケの一家だけは伝来の土地に住み続けている。もっ
とも、リルケの家族はリルケを残して全員がすでに他界していた。
「まあ、君のこともよく知っていますよ」
明英はリルケの名刺を上着の内ポケットへ入れた。淡雪は立ち上がって紅茶の準備を始め
る。
「さて、淡雪さん。少しは考えてもらえましたか?」
「ええ。まあ色々と」
流しに向かったまま淡雪は答える。
「そうですか。ああ、謝礼の件なんですが、率直に言いまして、こちらの見積もりとして
はですね。レヴィ君を預かっていただいた間の扶養費及び謝礼としてですね、一〇〇〇万
ほどお支払いする用意があります。不自然に高いとお思いかも知れませんが、我々にとっ
てレヴィ君はそれだけ価値のある人物だということです。この町のこと、場合によっては
死んでいた可能性だってあったんですから。いや、生きていない可能性の方が高い。だか
らこうして助かって、しかも元気でいてくれたというのは非常にありがたい」
「その、レヴィの資産価値がどこにあるのか、教えてもらえますか?」
明英は苦笑いを浮かべながら腕組みをした。その前に淡雪は湯気の立ち昇るカップを置
く。中には先日と同じ紅茶が湛えられている。
「資産的価値、ねえ。まるで物みたいな言い方ですね。それはそうと、やっぱり気になり
ますか? 訊かないでもらいたかったんですけどね。やっぱり気になりますよね。一〇〇
〇万円ですからね。いやぁ」
困ったような表情を浮かべる明英をよそにリルケは紅茶を飲んでいる。全員に紅茶を配っ
た淡雪は再び自分の椅子に座った。
「で、どうなんですか?」
淡雪は身を乗り出す。明英は顔から笑みを消した。
「淡雪さん。あなたは彼の価値を知っているはずです。あなたは、レヴィ君が自分と相手
の精神を繋ぐ、そう仰いましたよね? 彼の価値はまさにそこにあります。彼は魔女では
ない。にもかかわらず通常ではあり得ないような力を持っている。その意味の重大さは解
るでしょう」
淡雪はうなずいた。そしてレヴィを見遣る。
「もし、それで私が、安いと言ったら」
明英は大袈裟に顔を拭った。
「一〇〇〇万円という金額の金を動かすだけでもどれだけ大変か、一般の方には解っても
らえないんでしょうね。本来なら公費として使われるお金ですよ。税金です。それを防衛
庁の予算から支払う。厳しい監査の中からです。予算会議を通すのに私がどれだけ苦労し

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たか」
「それでも例えば、私が一億じゃなきゃ駄目だと言ったら」
「それはまあ、上の方とも相談しますがね。私は防衛庁の代表としてお伺いしてますが、
交渉の折衝役でもありますからね。ただ、まず無理でしょう。せいぜい努力して一五〇〇
万円が限度でしょうね」
淡雪は明英の顔を凝視した。リルケのお茶を啜る音だけが聞こえる。
「今のは言ってみただけですから、まあ明英さんの言葉をあれこれ詮索はしません」
「じゃあ、逆に訊きますけど、金銭以外なら、どういう条件であればレヴィ君をこちらへ
渡してもらえますか?」
「それは……」
淡雪は言いよどんだ。
「あのさ。レヴィを引き取ってどうするわけだ?」
二人の会話に興味を示すことのなかったリルケが口を開いた。
「彼の能力の研究を行うんでしょうね。ただ、そちらは私の管轄ではありませんから何と
も」
「クローンとかいるんじゃないの?」
一瞬、明英はリルケの瞳を見据えた。
「クローン、ですか? 人間のクローンを作るのは法律で禁じられているんですよ。いる
わけないでしょう」
リルケは渋い顔をする。
「それで、淡雪さんはどうです」
「私は、レヴィを引き渡す気は今のところありません。これからも。レヴィは私が面倒を
見ます。必要なら研究にも協力させるかもしれません。ただ、あなた方にお渡しする気は
ありませんから」
「それは、交渉打ち切りと言うことですか?」
「まあ、そう取ってもらって構いません」
二人のやりとりを聞いていた弾みでつい言ってしまってから、淡雪は失敗したと思う。
やっぱりもう少し交渉を長引かせるべきだったのではないだろうか。だが、今更になって
撤回することもできない。
「いいのか。淡雪」
リルケの声に明らかな不安の色が混ざる。
「うん。法律的にもあたしがレヴィの面倒を見るのは正しいことだから」
淡雪は明英の顔を窺いながら言う。
「そうですね。その件については私も知っています。確かに、戸籍の上ではあなたとレ
ヴィは血縁関係にありますから」
「そうなのか?」
明英は立ち上がるとリルケの肩を軽く叩いた。
「そうなんですよ。戸籍の上では彼女の曾祖母とレヴィ君の曾祖父は兄妹なんです。そし
てそれは別に戸籍が改竄されたわけじゃなく、あなた方が生まれる何十年も前からそうな
んですよ。ちゃんと記録があります。おおかた淡雪さんが魔法を使って改変したのでしょ
う。証明はできませんが、魔女は情報操作が得意ですからね。戸籍の上の現実では、淡雪
さんとレヴィ君は生まれながらに血縁関係があるのです。もっとも、その現実は我々の現
実とは異なるものです。しかし、そのどちらもが等しく事実である。これが魔女を相手に
するとき厄介なことの一つでして、彼女たちは幾つか違った、しかし等しく正しい現実を
生み出してしまう。だから魔女の研究もなかなか難しいんですが。さて淡雪さん。戸籍の
上の現実と、あなたの現実とは一致しますか?」
顔中に笑みを含んで、明英は淡雪に会釈した。そして床に置いてあったアタッシェケース
を取り、明英は出口へ向かって歩き出した。
「ま、こちらとしては簡単に交渉を打ち切るわけにもいきませんからね。また明日、お伺

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いします」
 明英が出て行くとリルケは小さく舌打ちをしてズボンのポケットからヴォイスレコーダ
を取り出した。録音をオフにする。
「気付いてたな。録音」
「こういう世界で何年もやってきた人なんだから」
リルケは、淡雪の表情がおかしいことに気付いた。どこというのでもないが、表皮が鉱物
と化したかのような、酷く硬い感じがするのだ。
「大丈夫か」
「え、うん」
淡雪の肌から強張った印象が消える。しかしそれはなくなったのではなく、表皮の裏へと
移動しただけのようにリルケには見えた。
「なあ、明英が言ってた戸籍の話は本当か?」
「うん。あたしとレヴィは、生まれたときから血縁者だった。明英さんも言ってたけど、
あたしが魔法で文字通り過去を変えたの。まあ、あたしの魔法で変えられる過去は戸籍と
か帳簿とか、そういった記録類に限られるけど」
「その力で明英が防衛庁の職員だっていう過去は変えられないのか?」
「やってはみたけど、駄目だった。防壁が巡らされてて。たぶん、政治権力に協力してい
る魔女がいるんじゃないかな」
水槽に入れられたハツカネズミが、短く鳴いた。

 暗がりの中は明かりの下よりも温かい気がする。リルケは袋小路へと続くビル影に立っ
ていた。緊張感がリルケの胸元をきつくする。無意識のうちにリルケはズボンのポケット
へ手を入れ、そこに入っているナイフの柄を握りしめる。滑り止めに巻かれた細いザイル
が手に馴染む。その感触はこれまでに何度も味わってきたものだ。
 リルケの目は通りを歩く明英に据えられていた。明英が視界から消えるとリルケも暗が
りを抜け出し、次の物陰まで移動する。月の冴えた光が冷たい。
 尾行しているとはいえ、リルケは人目を気にしているわけではなかった。周囲に人はい
ないし、いたとしてもこの町で殺人は茶飯事だ。仮に殺人現場へ遭遇しようとも、面倒な
ので誰も関わり合おうとはしない。そうではなく、リルケは気付かれることなく明英に近
付く機会を窺っているのだ。真正面から挑んでもよかったのだが、それでは危険が大きす
ぎる。死なずの悠子に会ったときの状況を淡雪から聞いた限りでは、明英とまともに戦っ
て勝てる保証はなかった。
 しかし明英へ充分に接近する機会はなかなか訪れなかった。リルケは沸き上がる苛立ち
を何度も押し潰す。次第に明英の泊まるホテルへ近くなる。明英が角を曲がった。その先
は道幅が狭くなるはずだ。もうホテルは目の前である。少々強引であったが、リルケは仕
掛けることにして角を曲がった。
 そこに明英の姿はなかった。言葉へ表れる以前の、圧縮された恐怖がリルケの身を強張
らせる。その腕が掴まれ、リルケは小さなアパートの入口へ引っ張り込まれた。抵抗しよ
うと思ったときにはその首筋へ硬く、冷たいものが押し当てられていた。
「こんばんは。リルケさん。人の後を尾けるのは感心しませんね。自信があったんでしょ
うが、私に言わせればまだまだ。才能は認めますがね」
「淡雪は関係ないぞ」
「でしょうね。昼間、あなたのことも知っていると言いましたよね。淡雪さんはあなたが
賞金稼ぎだということを知らないのも、よく存じてますよ。あ、壁に両手を突いてくださ
い」
リルケは言われたとおりにする。明英はリルケのジャケットやズボン、足下など全身を丹
念に調べ、大振りのナイフ一本とメスに似た小さなナイフ一〇本近くを没収する。片手で
銃を押し当てたままなので、没収したナイフはスーツのポケットへと回収される。
「これは、投げナイフですか」

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明英は小さなナイフの一本を手に持ち、その重みやバランスを調べる。
「いいものですね。普通の銃は撃鉄を起こしトリガーを引く二動作。それに比べてこれな
ら暴発も弾詰まりもないし、ポケットから取り出す動作の延長で投げられる。技に自信が
あるなら、この町みたいな場所では銃よりいいかもしれませんね。それにこちらの大きな
ナイフもいい。柄と刃の合わせも見事だし、振りよいバランスだ。癖が強いでしょう?
オーダーメイドですね」
明英はくの字になった刀身の内側にある刃を親指でなぞる。
「よく喋るな。蘊蓄好きは淡雪に嫌われるぞ」
明英は笑った。
「忠告をどうも。私はどうもお喋りな質で。そうそうついでに。あなたを殺そうなどとは
思っていませんよ。まだ今のところは。淡雪さんとの交渉もありますし」
「俺が淡雪に今夜のことを話せば交渉どころじゃなくなるぞ」
「それはないでしょう。あなたは自分が、副業でお金をもらって殺人鬼を殺していること
を淡雪さんに隠している。真っ当な人間だと思ってもらいたいからですか? この町で殺
人なんてよくあることでしょうに。淡雪さんだって人は殺す。自分もまた、殺す相手と同
じ種類の人間だと思われるのが怖いからですか? 淡雪さん、狩る方も狩られる方も同じ
だって言ってましたよ。惚れた弱みというか。斜に構えていても可愛いもんですね。私は
そういう解り易さ、好きですよ」
「誰が、誰に惚れてるって」
「あなたが、淡雪さんにですよ。とぼけても無駄です。まあ、仕方のないことではありま
すけどね。魔女というのはフェロモンのようなものを発していてですね、人間を魅了する
んですよ。さてそこで、あなたの愛情は本物でしょうか。それとも魔女の力のせいでしょ
うか」
リルケは屈辱に身を震わせるだけだった。後頭部の銃口が敗北の烙印を焼き付けるよう
だった。
「それはどうでもいいことですけれどね。あなたにとって淡雪さんへの好意がどちらによ
るものか特定できないのであれば、どっちだって同じです。悩む必要はありませんよ」
その言葉の陰鬱さがリルケへ浸透するのを待って、明英は言った。
「ちょうどいい気分転換になりました。私はもう帰りますよ。ナイフは今夜の記念に貰っ
ていきます。悪く思わないでくださいね」
リルケの頭から銃が離れた。だが明英の足音が聞こえなくなってもまだ、リルケは壁に手
を付いたままだった。足の力が妙に抜け、そうしていないと立っていられなかったのだ。
明英の言葉のひとつひとつが、粘菌類のようにリルケを蝕んでいった。

 部屋に戻った明英はアタッシェケースを机の上に置くと、その横に没収したナイフを並
べた。室内の落ち着いた照明が刃先で輝く。スーツを脱いでネクタイを外すと、明英は脱
いだスーツの内ポケットから携帯電話を取りだした。定時報告のため、登録された番号へ
発信する。三回呼び出し音が鳴ったところで相手が出た。
「もしもし、僕だけど」
「あ、柊。お疲れさま。今日はどうだった?」
電話の相手の声は明英を柊と呼んだ。その声は、明英自身と同じであった。
「いやそれが難航しててね。今日は危うく交渉決裂になりそうだったよ。だからちょっと
戸籍のことなんかを話しておいた。それとさっきリルケに襲われかけてね。逆にナイフを
没収してやったけど」
「相手としてはどう?」
「二人ともまだ若い。考えが浅いよ。ただ、能力的には何とも厄介だ」
「柊が失敗するようなことはないだろうけど、こっちもみんな心配してるから。気を付け
て。相手は魔女なんだから」
明英は少しの間を置いて言った。

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「ありがとう。できれば交渉の段階で仕事が終わればいいと思うよ。でも、上の方には交
渉による解決は見込めそうにないって言っといて」
「解った。じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
電話が切れる。明英は携帯を充電器に差し込むとベッドへ腰を下ろした。安くひ弱なスプ
リングがたわむ。
 仕事の前にすることがあったのを思い出した明英は立ち上がると、ベッド脇に置いてあ
るコンビニの袋から買ったばかりの下着を取り出し、それをベッドの上に置いた。そして
バスルームへ行き服を脱ぐ。ユニットバスなので脱いだ服は便器の蓋の上へ丁寧に畳んで
置かれる。
 蛇口をひねると最初からお湯が出る。この町にしては立派なことだろう。細身の筋肉の
上をお湯が流れる。明英は自分の体を見下ろした。目には見えないがその肉体が加齢に抗
しきれず緩み始めているのを感じる。腹筋に手を当てると、外へ向かって静かに剥がれ始
めているような気がする。
 明英はその想像を打ち消すように俯き、降りかかる水流へ頭を差し出した。頭皮の凝り
がほどけていく。深い吐息が自然と口から出る。湯がその頭を濡らし、髪先から細いうね
りとなってバズタブへ満ちていく。
 風呂から出ると二日分の洗濯物を持って明英は地下へ降りた。そこにコインランドリー
があるのだ。五台の洗濯機は全て空で、濁りのある蛍光灯の下で口を開けている。
 洗濯物を洗剤と一緒に放り込むと、蓋に付いている鍵をかける。二〇〇円を投入すると
洗濯機が作動する。明英はドラムの中で洗濯物が踊る姿を暫し眺め、部屋へ戻った。
 部屋に帰るとすぐにアタッシェケースを開く。中には淡雪達の情報を記した書類や参考
資料の束を始め、ノートパソコンなどが収められている。パソコンには資料の中でもプリ
ントアウトされていないものが記録されている。明英はそれら全てをテーブルへ並べた。
ナイフは冷蔵庫の上へどける。
「さて。面倒な予習を」
パソコンのスイッチを入れ、椅子に腰を下ろす。交渉が決裂した場合の作戦を立てるつも
りだった。事前に採取された淡雪達の情報を眺め、そこに会ってからの所見を付け加え
る。淡雪の欄には淡雪が使える魔法のリストと詳細も記されていたがそこに「大圧」はな
かった。まだ他にもリストにはない魔法があるはずだった。
 リルケについての情報は淡雪よりもずっと多かった。一応荒神町で生まれ育ったため、
色々と記録が残っているのだ。それに比べて海外で長らく暮らしていた淡雪の方は日本に
来る以前の記録がほぼ抜けている。
 レヴィについての記録は、さらわれる以前のものが膨大にある。その中には様々な数値
を並べただけのものがかなりの量を占めていた。その部分は読み飛ばしながら、明英はパ
ソコンに資料から気付いたことを打ち込んでいく。
 その作業が終わると、明英は分厚いファイルを取った。表紙には「オズ理論」と書かれ
た青いラミネートシールが張ってある。
 このファイルが今回の交渉における切り札だった。中に記されているのは国家が独自に
組織したプロジェクトチームによる魔女研究の成果だ。国防に関する情報という名目によ
り、日頃は厳重にアクセスが制限されている。それは明英とて例外ではないのだが、任務
の性格上その全てをこの町へ携行することが許可されたのだ。
 ファイルを開きかけた明英はそれをテーブルに戻し、立ち上がるとベッドのサイドテー
ブルに置いてあった魔法瓶から番茶を注いだ。夕方に入れ替えてくれたのだろう。まだ熱
い。小さい胴丸の湯呑みの縁を挟み持って椅子に戻る。テーブルへ湯呑みを置くと挟んで
いた指がはりはりと痛い。
 あらためてファイルを手に取った明英の顔へ苦さが掠める。ファイルを開くとそれは
はっきりしたものになる。最近、部屋の明かり程度では小さい文字が読みにくくてしょう
がないのだ。卓上ライトを点すとましにはなるが、それでも目が疲れて以前ほど文字を追

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うことはできない。年を取るということが実体的になる瞬間というのは、幾度繰り返して
もなんとも遣りきれない思いがする。
 朧字をおうる眼の心許なき。句を詠んでもいまひとつだ。
「追うると老うるを掛けてもなあ」
一人呟くと明英はファイルに向かった。

 ヤカンでお湯を沸かしていると、昔のことを思い出す。母親が電気ポットを嫌い、よく
そうしていたからだろう。
 淡雪が母親と死に別れて四〇年近くになる。そのとき二人はフィンランドの田舎に住ん
でいた。深い森に抱かれた寒村で、一年の大半は雪が空間に満ちていた。
 母親はある日突然、空から降ってきた家に潰されて死んだ。そのとき淡雪達は森へ薬草
を摘みに行くところで、幼い淡雪は母親の一〇メートルくらい先を歩いていた。
 突然の轟音に驚いた淡雪が後ろを見ると、母はすでに家の下敷きになっていた。玄関脇
から揃えた両足の先だけが覗いている。その足が履いている草臥れた黒のブーツを見て、
淡雪は家に敷かれているのが母だと悟った。
 家は辺りの森が孕む灰色がかった色彩とは異なり、やけに清々しく淡い色で塗られてい
た。玄関はパステルイエローだったし、窓枠はミントグリーンだった。壁の白は僅かしか
ない陽光を吸い寄せたかのように屈託なく輝いていた。造り自体は五〇年代カントリー風
で、アメリカの絵本で見た家とよく似ていた。その、全体の陽気さが母親の両足と相まっ
て酷く醜悪だった。
 茫然としている淡雪の前で家は段々と薄れていった。母親の足もそれにつれて薄れてい
く。五分ほどで全ては消えてしまった。家があったところの地面には些かの変化もなく、
そこで起こったことの痕跡は微塵ほども残っていなかった。淡雪の記憶はそこから数日分
が失われている。
 淡雪の記憶は、家のベッドで膝を抱えて座っているところから再開する。そこからさら
に一週間ほどかけて取り敢えず母親の死から立ち直った淡雪はカルカッタへと旅立った。
なるべくフィンランドとはかけ離れたところへ行きたかったのだ。
 そこで知り合った「象牙」という名の歳老いた魔女が淡雪に教えたところによると、魔
女というのは必ず、アーリーアメリカンスタイルの家に押し潰されるか、忽然と現れたエ
プロンドレスの白人少女にバケツで水を掛けられて死ぬのだという。どうしてそんなこと
に? そう尋ねた淡雪へその魔女は一揃いの本を貸し与えた。それはライマン・フランク
ボウムというアメリカ人作家の書いた「オズの魔法使い」シリーズであった。それは随分
古いものらしく、表紙は黄ばみ、ページは手垢に汚れ、至る所がセロハンテープで補修し
てあった。
 一作目は「オズの魔法使い」。その本の主人公はドロシーという少女で、時代は一九五
〇年代らしい。その本の冒頭、ドロシーの住む家が竜巻に巻き上げられ、たまたま着地し
たのが「悪い魔女の上」だった。そのため、ドロシーは周囲の人々に英雄として讃えられ
る。初日はそこまで読んだだけで気持ちが悪くなってしまい、それ以上読み続けることが
できなかった。魔女が存在するよりもずっと昔に書かれた本の中で、母親の死に様が描か
れているのだ。しかも子供向けらしい簡単な言葉で。それまで淡雪の中にあった、「何か
確かな自明さ」が崩れ去るような、妙にはっきりとした不安が淡雪を落ち着かなくさせ
る。
 さほど長くもない「オズの魔法使い」を読み終えるのに、淡雪はほぼ一ヶ月かかった。
それは、話としては魔法の国に降り立ったドロシーが数々の苦難の末に元の世界へ帰ると
いう、よくあるジュブナイル小説だった。しかし、その全編がことごとく淡雪の不安感を
掻き立てた。なにがそんなに不安感を煽るのかと、その正体を見極めようとした淡雪だっ
たが、ついに特定はできなかった。それはたんに、母親の死に様が描かれているというだ
けでは説明のつかないものだった。
 物語の中盤にはたまたま水の入ったバケツを持っていたドロシーが転んでその水が悪い

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魔女に掛かり、その魔女が溶けて滅びるというくだりもあった。読了した淡雪はすぐに象
牙のところへ足を運んだ。
 淡雪は老いた魔女から、魔女についての様々なことを教えられた。フランクボウムはた
だの人間であること、「オズシリーズ」はただのファンタジーであること、だからこそ魔
女の死に様と「オズの魔法使い」の魔女の一致はタチが悪いことなど。他にも、魔女は人
間を魅了する力が自然と備わっていること、人間よりも長命であること、魔法や魔力の使
い方もたくさん習った。象牙は淡雪にとって先輩であり師であり育ての親だった。また、
象牙と親しかった魔女研究家の老学者、オズワルド・アクロイドからは人間について色々
と教えられた。
 象牙が持っていた「オズシリーズ」は今でも淡雪のアパートの本棚に並べられている。
象牙が死んだとき、形見分けで貰ってきたのだ。象牙が死んだのは一人で居たときだった
ため、果たして家に踏まれたのか水を掛けられたのかははっきりしない。
 本棚の片隅に置かれた「オズシリーズ」を見ると、いつも淡雪の心の一隅に沈む漆黒が
意識される。オズワルドは淡雪の抱く不安を魔女全てに共通する「実在することの不安」
と呼んでいた。魔女の精神の根本には、自分が虚構の存在なのではないかという不安が人
間よりも根強くあるというのだ。魔法を生業にするようになって以来、この言葉は淡雪の
意識に影として付きまとった。
 昼間、明英の言った言葉が思い出される。自分の記憶の中にある現実と戸籍上の現実。
異なっているにもかかわらず、両者が共に等しく現実なのだ。つまり、そこに関しては現
実がふたつ存在することになる。確かに、淡雪の現実に拠れば戸籍は虚構ということにな
る。しかし、戸籍に拠れば淡雪の記憶こそが虚構ということになるのだ。淡雪にとって魔
法の行使とは、ある意味で自分の現実強度を相対的に下げることであった。それでも自分
という存在の現実味に自信があれば問題はないのだろう。しかし、魔女には自分の存在の
根本へ常に「オズシリーズ」が突き付けられている。そのせいでどうしても、戸籍の上で
の現実こそが現実であるという見方を否定できない。たとえそれを創り出したのが自分の
魔法だという記憶が有るにしても。
 そんなことを考えているうちに気が滅入ってきた。お湯が沸く。淡雪は沸騰したお湯を
ティーポットに注いだ。中には自分の調合したハーブが入っている。魔女の精神安定に効
き目のある配合だ。充分に茶を抽出してから二人分のカップに注ぎ分ける。片方は椅子に
座っているレヴィのためのものだ。
 カップを口元に運ぶと薬草茶の饐えたような刺激臭が鼻を掠める。癖の強い味だった
が、淡雪は気に入っていた。お茶は母親の名に因んでと名付けられている。初めて魔女と
しての母親に教わった調合だからだ。
 お茶を飲むと多少気持ちが落ち着いた。レヴィにもお茶を飲ませる。口にお茶を含ませ
ると、勝手に喉が動いてお茶を飲み下す。時間を掛けて淡雪はレヴィの体内に残雪を注ぎ
入れる。
 淡雪の中で何かが小さく爆ぜたかと思うと机の上で携帯電話が鳴った。電話が掛かって
くるときはいつも、その直前に小さな直感が弾ける。それはひょっとしたら、電波そのも
のが淡雪に影響を及ぼしているのかもしれない。
 着信はリルケからだった。
「もしもし」
「あ、俺だけど。今、亜鉛にいるんだ」
「亜鉛」というのは淡雪達がよく行くバーの名だ。
「解った。すぐ行く」
「ん、じゃあ」
電話が切れる。
「レヴィ。亜鉛に遊びに行こ」
淡雪は外出用の薄手の黒いコートをレヴィに着せると自分もお揃いのコートを身に着け家
を出た。

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 「亜鉛」は三丁目のビルの三階に入っている。地元の人間が多いバーだ。内装は理科室
を模しており、マスターは生粋の荒神町育ちだ。
 ドアを開けると店内を流れるテクノの音が俄然大きくなる。リルケは店の奥の方にある
テーブル席に座っていた。グラス代わりの平底試験管に入っているのはジントニックだろ
う。目を凝らせば縁にはちゃんと塩が盛られている。
 どう見ても子供である淡雪を呼び止める者はいない。客達はちゃんとそれが誰であるの
かを心得ていたし、仮に普通の子供であってもこの町では誰もそんなことは気にしない。
「ツイカを」
注文を取りに来たバーテンに淡雪は東欧産のスモモ酒を頼む。すぐに透明な液体を満たし
たビーカーが出てくる。
 淡雪はさっそく一口飲んだ。スモモ酒とはいえ、アルコール度数はかなり高い。喉の奥
から火照りが生まれ、胃の腑と口腔へ広がる。
「何かあったでしょ」
淡雪の声にリルケは顔を上げる。
「ああ、顔が読めるんだったな」
「そう。本を読むようにね。今のあんたの顔にはロクなことが書いてないよ」
「なんて書いてあるんだ?」
「悔しさとか不安とか、そんな感じ」
「そうか」
リルケは淡雪の、切れ長の双眸を見据えた。
「明英との交渉はそのうち打ち切りになるんだろ?」
「うん。たぶんね。レヴィを渡す気はないし」
「実力行使で来たら、勝算はあるのか」
淡雪は手元を見詰めた。頬に繊糸のような黒髪が落ちかかる。
「ないよ。負けるかも」
「なら、どうしてそんなにこいつに拘るんだ?」
リルケは淡雪の隣に座ったレヴィを指した。
「ちゃんとした理由はあるよ。でも、話したくない。あんたこそ、どうしてこの件に関わ
ろうとするの? そりゃ気持ちは嬉しいけど、その理由がよく見えない」
「言えない理由ってなんだ? 向こうが悪でこちらが善で、人道的な立場からレヴィを悪
い国家権力には渡せないって、そういうんじゃないんだろ?」
リルケの語調が厳しくなる。
「もちろん違う。けど、あたしの質問に答えてよ」
リルケは黙った。淡雪が促しても答えない。不自然な空気がテーブルを支配する。
「お前が先に答えるのがスジだろ? 先に質問されたんだから」
淡雪は少し考えて、試験管の中のツイカを飲み干した。
「じゃあ、話す。でも、引いたりしないでね」
「ああ。話して見ろよ」
「あたしがレヴィを明英さんに渡したくないのは、第一に直感がそうしないように囁くか
ら。二人を会わせるだけでもかなりマズイみたい。おかげでここ何日か、頭の中は直感の
鳴らす警鐘で一杯」
「その直感は当てになるんだよな、やっぱり」
淡雪はしっかりとうなずく。
「比べようがないけれど、魔女の直感は人間のそれとは違うから。何て言うか、それは嗅
覚とか触覚とかと同じような、能力の一つなの。もちろん、いつも的中するわけじゃない
けど、ボールを投げたって投げ損ないっていうのはあるわけでしょ? でも、魔女である
以上あたしは常に自分の直感に無条件で全てを賭けてきたし、これからもそうするつも
り。それでもし全て失うようなことがあっても、それは純粋に自分の力不足だから」
淡雪はそこで言葉を切るとバーテンにウォッカを注文する。リルケは淡雪の漂わせている

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真摯さを尊重して黙っていた。
「第二の理由は、当たり前だから。少なくとも、私にとっては。母親が死んでから、私は
大勢の人に保護されて生きてきた。一緒に暮らした人もいるし、ただ力になってくれた人
もいる。私にとっては母親だけじゃなくて、そういう人も家族っていう気持ちがあるの。
だから、レヴィだって私から見れば家族になる。だいたい、三年も毎日世話してきた人を
実験台にするから渡してくれって言われて、私が簡単に渡せると思う?」淡雪はそこで一
旦言葉を切った。リルケの様子を窺っているようだった。しかしリルケが何も言わないで
いると再び口を開いた。「だから、その、この子はあたしの守らなきゃいけない人なの」
言い切ってから淡雪は俯いた。その顔には含羞が広がっている。
「家族なあ。ずいぶん古くさいことを言うんだな」
淡雪はほんの僅かに顔を上げた。
「そりゃあ、あんたよりもずっと古い価値観の中で育ってきたお婆さんだからね」
二人のあいだに時間がわだかまる。
 バーテンがウォッカの入った試験管を置き、空になった試験管を下げる。リルケはマグ
ロのカルパッチョを注文した。
「俺は、まあ、最初は明英が厄介でもそれほど危ない相手だとは思ってなかった。だか
ら、その、友達が困ってるのをちょっと助けようとしただけなんだ。それが予想以上に手
強かった。それで、お前がそんな手強い奴を相手にしようっていうわけが知りたかったん
だ。で、レヴィを明英に渡したら駄目なんだろ。何が起こるかは別として。なら、やっぱ
り放っておくわけにはいかない」
リルケが取り繕うように言った。
 明英にレヴィを渡すことで起こる事態がリルケにとっても困ることだという理由はない
のだが、淡雪はリルケに対してその指摘をしなかった。淡雪としてもリルケの助けが欲し
くないわけではないのだ。それに、どうしてリルケが自分達に力を貸そうとするのか、そ
の理由を淡雪は知っていた。魔女にとって表情やちょっとした仕草、言葉遣いなどから相
手の感情を読みとるのは容易い。リルケが自分に対して抱いている感情を淡雪はとうに承
知していた。
 二人がそれぞれの思考に沈んでいると、カルパッチョが運ばれてきた。発色のよいルッ
コラや紫キャベツを敷いた上に、エナメル質の透明さを持ったマグロの切り身が乗ってい
る。全体に掛け回されたドレッシングが粘性の筋となって艶めいている。二人は物思わし
げな顔をしたままフォークを持ち、その手を皿へと伸ばした。


 その後も明英は毎日「ゆき屋」へやって来た。そうして形ばかりの交渉を行うと、あと
は一時間くらい雑談をして帰っていく。インターネットを利用してホテルで他の仕事をし
ているらしい。
「下っ端に暇は許されないんですよ」
明英はあるときそう言った。その顔にはどう見ても裏がなく、心底そう思っているかのよ
うな苦笑いが浮かんでいた。もしそれが演技であるなら、魔女である自分の目が誤魔化さ
れることはないという自信が淡雪にはあった。ところが時折明英の顔からは、そのときの
苦笑のように韜晦ではない表情が現れることがあった。芝居ではないのだから本心だろう
と考えるのがいつもの淡雪だったが、発言の内容は事実と思えない。そうした捉え難さは
明英への警戒心を掻き立てると同時に、関心をも抱かせた。
 明英の訪問が日常化するにつれ当面の間は打ち解けた態度で接しても問題ないように感
じられて、淡雪は随分と親しみを表すようになった。もちろん、明英がレヴィの引き渡し
に関して強硬手段に訴えた場合はすぐにそれなりの対処をするつもりではあったが、そう
でない状況ならば、明英は悪い話し相手ではなかった。
 リルケは淡雪ほど簡単に明英と馴染むことはなかった。二人が鉢合わせるとリルケの雰
囲気の強張るのが淡雪には感じられた。そして巧妙に隠そうとしてはいるものの、そこに

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は憎しみや不安といった色が混ざっていた。淡雪と親しげに話していることへの嫉妬も見
て取れた。何度かリルケの情報にアクセスしてみようかと考えもしたが、何とはなしに躊
躇われるものがあって実行はしなかった。
 そんな状況はある日唐突に終わった。先に仕掛けてきたのは明英だった。それは実にさ
りげなく静かなものだったが、淡雪へはそれで充分だった。
 その日、「ゆき屋」には淡雪と明英、リルケとレヴィがいた。
「ところで、淡雪さんはオズの魔法使いという本を御存知ですか?」
それまでの話題が一段落して短い切れ間が訪れたとき、明英はそう言った。何気ない口調
ではあったが、語尾から抑揚に至るまで計算されたものであることが感じられた。
「え。ああ。シリーズは全部持ってますよ」
突然の展開に動揺しながらも淡雪は答えた。明英は嬉しそうに微笑むとリルケに向かって
言った。
「魔女と、オズの魔法使いとはなかなか深い因縁があってね。リルケ君は読んだことがあ
りますか?」
リルケは事態が全く異なる局面へ突入したことにまだ気付いていない。
「昔、絵本で読んだことが」
リルケの、そこはかとなく鋭さを含んだ視線を柔らかに受け止め、明英はうなずいた。
「ひとまずはそれで充分です。今度淡雪さんから借りるといい。なかなか面白いですよ」
明英は今度は淡雪に顔を向ける。
「政府のプロジェクトの一つに魔女の研究があって、ちゃんとプロジェクトチームがある
んですけどね。魔女とオズシリーズとの関連が思いのほか、成果を上げているんですよ。
それで俄かにその研究が注目を集めてまして。最近では魔女のことをドロシーと呼んだり
してるんですよ。別にうちのチームが言いだしたことじゃないんですが、ライマン・フラ
ンクボウムの研究をしていた文学者の説に、ドロシーと魔女は同じ存在であるというもの
があるんです。あ、フランクボウムというのはオズの魔法使いの作者ですね。で、詳しい
説明は省きますが、その学説が今になって、現実の魔女の研究にあたって非常に深い意味
合いを持つことが判ったんです」
「それは、具体的にはどういう?」
淡雪は自分の声がどうしようもなく緊迫しているのを感じた。極力抑えようとするのだが
上手くいかない。見知らぬ不安が喉元を締める。
 明英はにこやかな表情から一転して渋面になると腕を組んだ。
「さて。それはちょっと話せませんね。いや、個人的には話しても大したことはないと思
うんですが、一応機密扱いになってるんです。ま、お役所は何かにつけ秘密にするのが好
きですから。いくら当のドロシーの頼みでも。すみませんね。いや、こんな話題を持ち出
した私も悪いんですが」
ドロシーという単語を明英は心持ち強調して発言した。自分がドロシーになぞらえられる
ことに淡雪は自分でも意外なくらいの嫌悪感を覚えた。平静さを何度も取り落としそうに
なり、その度に淡雪はうろたえた。自分の過剰な反応も明英は知っているのだろうと考え
ると殴りつけてやりたくなった。
「いやがらせですか?」
思わず言ってしまう。
「何がです? 機密保持がですか? それはどうでしょうね」
淡雪は顔に血が這い集まるのを感じてリルケを見た。リルケも何かが起こっているという
ことは理解しているようだがいまいち状況が掴めないらしく、中途半端な顔をしている。
「大丈夫ですか? 顔色が妙ですよ?」
明英に覗き込むようにされ、淡雪は顔を背けた。
「大丈夫です」
声を抑えようとして不自然な小声になってしまう。
「そうですか。じゃ、今日はもう帰りますよ。ではドロシーさん、また」

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明英は置いてあったアタッシェケースを掴んで立ち上がると淡雪の頭を軽く撫で、店から
出ていった。それまでそんな行動を明英は取ったことがなかったので、淡雪もリルケも硬
直してしまった。ドアの閉まる音と共に淡雪は子供扱いされたという屈辱に、リルケは嫉
妬に、胸郭を圧され我へと返った。
「大丈夫か、淡雪」
リルケの手が軽く差し伸べられて止まる。淡雪は見かけのままの子供のように切なく頭を
垂れる。
「うん。平気。なんかドロシーとか呼ばれたら自分でもびっくりするくらい気分が悪く
なっちゃって。魔女にとってオズの魔法使いっていうのは」
そこで淡雪は口を噤み、その薄い唇の狭間から細長く息を吐きだした。淡雪の顔を覆った
影が揺らいだように、リルケには感じられた。
 淡雪は座ったまま半身をねじると背後の棚から一冊の本を取った。それをリルケに差し
出す。それは大判の、黒い装丁がなされた大部の本だった。タイトルは「魔女学」、作者
は萩尾志穂と書かれていた。
「それ、よかったら読んで。あたしが説明するよりもずっと詳しいし解りやすいから」
リルケは本を手元へ引き寄せた。
 淡雪は顔を上げた。束の間、二人は相手の目を見詰める。淡雪の眸が心無し輪郭を弱め
ているように見え、リルケの総身をざわめきが駆け抜けた。
「あ、お客さんが来る」
淡雪は左手へ顔を向けた。駅の方角だ。
「じゃあ、俺ももう帰るよ」
リルケは本を抱えるとドアを目指した。淡雪は天井を見上げると後ろへ深く体を倒した。
天井板の模様が手前へせり出すように感じ、目を閉じる。リルケはそんな淡雪を見遣る
と、静かにドアを閉めた。

 リルケは所有するアパート「クリムゾンハイツ荒神」の最上階、五〇五号室に住んでい
た。狭い、簡素な部屋だ。備え付けの収納などは何もなく、リルケ自身の持ち物も少な
い。ベッドと衣装ケース、パソコンとそれを乗せたテーブル。もう一つ、部屋の中央にお
かれた家具調こたつの上には使いかけのマグカップなどが蝟集している。部屋の奥には小
さな窓があり、そこへベッドが寄せられている。壁のハンガーにはコートが掛かっていた
が、どれも型崩れしており、新しい物ではない。この部屋へ移ってくる以前の全てが、こ
の部屋からは欠落していた。
 自室に入ると最初にリルケはメールをチェックした。真光町女子大生殺人事件の犯人が
荒神町内に潜伏しているので、生きたまま捕獲して警察へ引き渡して欲しいという依頼が
来ていた。メールのチェックが済むとネットで株式を確認する。副業で個人投資家もして
いるのだ。アドバイザーと相談をして持ち株を幾つか売りに出す。
 それらの作業が一通り終わると、リルケはベッドに腰掛けた。ソファ代わりに使われる
せいもあって寝具類は一様に瀕死の様相なのだが、リルケはもう何年も、自分の意識をそ
れらに注いだことがなかった。
 脇には淡雪から借りた本が置かれている。リルケはそれを手に取ると序から読み始めた
のだが、すぐに閉じると投げ出してしまった。本はめくれた掛け布団の上で暗く弾む。
 このところ、精神が幌で覆われたかのように暗い。どうしたわけか打ち解けた感じで明
英と雑談を交わす淡雪を見ていると、自分一人が酷く子供であるような気がした。二人の
遣り取りに上手く入っていくことができないのだ。それは話題そのものがリルケには付い
ていけないような高度なものであるせいもあったし、二人の合間にある自然な緊密さがリ
ルケを拒んでいるように感じられるせいもあった。いったい二人がどうやってそんなもの
を醸造することができたのか、リルケには推測もできなかった。
 とはいえ考えてみれば、淡雪は自分よりも寧ろ明英との方が年齢が近いはずなのだ。話
が合っても不思議ではない。そうであっても、淡雪と親しくする明英への嫉妬はどうしよ

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うもない。自分が疎外感を覚えなければならないという理不尽さへの憤りもある。そんな
ことに淡雪が気付いていないはずはないのに、それを放置しているのも腹立たしい。この
まま自分には理由が解らないままに淡雪と明英の交流は続くのだろうかと、リルケは暗澹
とした気分で想像する。日増しに淡雪の中で相対的に自分の存在感が薄れていくことの恐
怖が肺の辺りに凝って感じられる。それでも、淡雪が親しくしているうちはこれ以上明英
を殺そうとすることもできない。
 しかし、今日になって事態は急変した。またもやリルケには理解不可能な事由によっ
て、明英が淡雪へ見えない戦いを仕掛けてきたようなのだ。詳しいことは借りてきた本を
読めば判るはずだが、これでもう明英の命を奪ってしまっても構わないということがリル
ケには喜ばしかった。以前は失敗したが、新たな手は考えてある。
 実行するなら早いほうがいいだろう。リルケは淡雪が痛々しく傷付いていた姿を思い出
した。しかしその前に依頼された女子大生殺しの犯人を捕まえなければならない。そちら
こそ一刻も早く手を打たなければ犯人が他の犯罪者に殺されてしまう。リルケはコートを
羽織るとポケットに新しく調達したナイフを満たし、部屋を出た。
 最初に向かったのはくだんの所だった。全てをくるむような春の陽気の下、リルケは慣
れた足取りで混み合った通りから通りへと抜けていく。
 荒神町は背の低いビルが多い。大抵は町が荒廃する以前に建てられたもので、どれも古
く傷んでいる。 入居率も悪く、壁面へ掲げられた看板には空きが多い。むろん、看板を出
すのが憚られるようなテナントも場所によっては多いのだが。裏通りはどこも完全に通り
道でしかない。治安が悪すぎるため、店を構えたりするどころではないのだ。以前は入口
があったであろう部分はその殆どが塗り込められ、漠然とした長方形としてその痕跡を壁
に留めている。だが、昼の時間帯であればそういう所も人通りはある。地元の人間はたい
てい表通りを使わずに、町を縦横に走る裏道をつないで効率的に移動を行う。それは、乗
り物を所有することが厄介事の種でしかない町民にとって当然のことだった。
 狭い路地を突風が抜ける。砂塵の流れにリルケは目を伏せる。首筋の汗に砂粒が刷かれ
る。春の昼間にコートは些か暑すぎる。リルケは首筋を撫でると砂の感触に眉間を狭め、
コートを脱いだ。ポケットから、明英に奪われたのと同じ大振りのナイフを取り出すと尻
ポケットに移す。見上げると、細く切り取られた蒼穹が、薄く煙って平板に見えている。
 二四丁目に近付くにつれて行き交う人の姿も途絶える。犯罪者にしろ誰にしろ、そもそ
も二四丁目に住んでいる人間がそれほどいないのだ。ビルもまるまる打ち捨てられたよう
なのが多く、崩れた壁が路地を塞いでいる所もある。それらの建物はドアや窓などもとう
になくなっており、コンクリートの箱が辛うじて存在しているといった感じだ。どれも老
朽化が進み、最底辺の浮浪者でさえ倒壊を恐れて中には入らない。また、表通りも荒廃ぶ
りは酷く、電柱なども折れたものがそのまま置き去りになっている。剥き出しになった鉄
骨が赤錆て、周囲の地面をも朱茶に汚染している。
 くだんの小屋は少し開けた場所に建っている。そこはまるで荒神町の頂上ででもあるか
のように、綺麗な円を描いた半壊のビルに囲まれている。噂では、くだんに悪意を持って
近付こうとする人間は軍事衛星からのレーザーで灼き殺されるという。周囲のビルが崩れ
ているのもその痕跡だとのことだが、事実は定かではない。静まった壊景が、その穏やか
さゆえに凶状を感じさせた。早くも傾き始めた日差しが、小屋に腑の抜けたような物憂い
影を作っている。
 リルケは目を眇めると周囲を見渡し、それから小屋へと近付いた。粗末な造りではある
がそれは汚れのせいであり、傍へ寄れば意外と頑強な構えであることが知れる。しかし、
建物を乗せている地盤の緩みによる影響は避けられないらしく、所々にひずみが見て取れ
た。リルケがノックをすると、入るよう声がする。
 窓のない部屋には燭光の低い明かりが点っている。急に暗がりへ入ったせいで視界の
隅々に赤や緑の朧な環が流れる。それに慣れてくると部屋の大部分を占めるケーブルとく
だんの姿が見えてきた。
「久し振りだね、リルケ。旅はどうだった?」

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入口傍の頭が口を利く。
「いや、よかったよ。あんたには実感できないだろうけど、実際にその場へ行って、そこ
へ身を置くというのはいいもんだ」
「よくよく日に焼けて」
くだんが一瞬、目を細めたような気がした。リルケの鼻孔が心持ち膨らむ。
「今日は、副業の用で来たんだ」
「相場の予想はしないよ」
「いや、人捜しの方だ。知ってるくせにとぼけるのはよくないぞ」
声の主が奥へ移る。
「失礼な。人間の流儀に合わせているんだろうが。何でも先回りして喋られると嫌な気が
するだろう?」
リルケはその言葉を無視した。
「で、用件なんだけどな。真光町女子大生殺しの犯人がこの町にいるらしくって、生け捕
りにしなきゃいけない」
「居場所は教えられないよ」
「知ってるよ。この町にいる以上、俺も相手も等しい権利を有する個人であり、例え俺が
望もうとも相手が望まないことが明白な場合、俺だけをひいきして居場所を教えるわけに
はいかない。もっとも、警察が令状を持って来でもすれば別、だろ。何度も聞いた。そう
じゃなくて、そいつがまだ生きてるのかどうかだけ知りたいんだ。普通の人間らしいか
ら、もう殺されてる可能性もある。死体を探しても無意味だ」
声だけでくだんはうなずく。人間部はかなり以前から、動く筋肉を失っている。正面を向
いていられるのもうなじから伸びた原色のケーブル類に保持されているためだ。壁や天井
に張り巡らされたケーブル。その鮮やかな赤青黄色黒茶紫様々な色が空間の雰囲気を黙々
と歪めている。
「いいだろう。それなら問題はない。幸いにも、お前の探している男は無事にまだ生きて
いる。監禁もされていないし、怪我もしていない」
リルケはくだんの、町中に張り巡らされた外部神経に意識を馳せた。それがどうやって維
持されているのか想像も付かない。
「判った。ありがとう。あ、もし死んだら俺の携帯に連絡して」
「そうしよう。今度は旅の話でも聞かせに来てくれ」
「メールでも同じくせに」
「そう言うな。年寄りの感傷だよ」
リルケは低く笑うと、部屋を出ようとして足を止めた。そして右腕を大きく一つ振る。
「あのな。今、思い付いたんだけど」
「どうした?」
「俺が探してる人間は普通の人間だ。発見が遅れれば殺されるだろう。ということは、
だ。例えそいつが捕まれば警察に行く人間だとしても、無駄に死ぬことで更正の機会を失
うのはよくないんじゃないか? つまり、早くそいつを捕まえるのも、それに協力するの
も、人命尊重の意味で大切なんじゃないか?」
くだんが、声だけで笑う。楽しそうだ。
「それで、どうした?」
リルケはくだんへ向き直る。
「だから、だ。人道的立場に立ってあんたは俺に、男の居所を教えるのが最善じゃない
かっていうことだ」
拍手の効果音が鳴る。
「むろん、それは何の問題もない。そうそう、頭というのはそうやって使うものだ。特
に、ルールが相手のときは」
壁に接したくだんの、床に近い側面から一枚の紙が出てくる。リルケはケーブルを踏まな
いよう注意しながら近寄ると、身を屈めてそれを取る。

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「男のいる場所だ。そこに潜伏している」
素早くリルケはプリントに目を通した。八丁目の棄てられたビルがマーキングされてい
る。そこを軽く指で弾くと、リルケは紙をポケットへと仕舞った。
「ありがとう。感謝するよ」
そうして、今度こそリルケはくだんの小屋を後にした。
 
 リルケが立ち去ると、小屋の奥にわだかまった暗がりから明英が姿を現した。
「嫌だなあ。リルケ君、機転が利くじゃないですか」
明英は弱り声で言う。
「随分と弱気だな」
二人の老人が同時に言う。
「この町に住み続けることの意味をここ何日かで思い知らされたからですよ。まともじゃ
ない人に出会わなかった日はない。そんな町に住み続けようと思うことも、実現させるこ
とも、並の人間では叶いません。それはあなたもですよ」
「それ――」
言いかけて別の老人に声が移る。
「それはそれ。私達に関しては、おおかた島流しにでもしたつもりなんだろう。ここは首
都から近くて遠い」
くだんの言葉を明英は笑って取り合わなかった。
「故郷に骨を埋めたいとか殊勝なことを言いだしたのはあなたでしょう。まったく。懲り
ない人ですね」
くだんは黙っている。明英は滑らかな弧を描く、くだんの外装に触れた。仄かに暖かい。
「淡雪をあまり苛めてはいかんよ」
また、別の場所から声がする。
「ええ。必要最低限にしていますよ。あなたもあの子には思い入れがあるようだ」
くだんの語り手は転々と移動する。今度は明英の目の前の頭が口を開いた。
「お前もだろう? それで計画が果たせるのか」
「大丈夫ですよ。私は自分の好意が魔女の特性によるものだと心得てますから」
「特性によって惹かれることと、本心から気に入って惹かれること。己の中で両者に差異
がないのなら、そうやって区別することに何の意味がある? お前もひょっとしたら、魔
女の特性なんかとは関係なしに淡雪を気に入っているのかもしれんだろう」
「それはそうですが。まあそれと、個人的な感情を仕事に優先させるなんて私ぐらいの歳
にもなるともう無理です」
そう言うと明英は沈黙した。珍しく真剣な表情だ。たっぷり五分は経過する。
「こうじんや淡き雪にぞ映えにけり」
「俳句を考えとったのか。こうじんは黄色い塵と荒ぶる神か」
「荒れたる人、もです」
「感想は、言わずにおこう。ああ、計画を次の段階へ進めるのはまだにした方がいいぞ」
「そうですね。ドロシーは当分、今のままということで」
「しかし計画が成功して、獣やら獣使いやら、官庁の奴らが慌てふためくのを想像すると
今から楽しみだ」
「でも気を付けないと。はくたくも馬鹿ではありませんよ。木更津君も頭は切れますし」
明英はくだんから身を離すと床のアタッシェケースを拾い上げた。
「そうだな。難敵であればそれだけ勝利の感慨も深くなる」
「そのとおり。では、私もこれで」
明英はくだんに会釈すると、ドアを押した。夕日の朱が部屋へ這い込む。もう一度頭を軽
く下げると、明英はドアを閉めた。同時に室内の照明が落ちる。
 
 明らかに勘が鈍っている。淡雪は凍えた笑みを客に向けた。客の用件を当てようとして

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失敗してしまったのだ。
「では、こちらの用紙に判る範囲でいいですから書き込んでください」
そう言って淡雪は椅子を立ち、戸棚を回って薬品を集める。脳裏に、白いエプロンドレス
を纏った白人の少女が浮かぶ。少女は腕に子犬を抱いて屈託なく微笑む。そのブロンドの
髪が日差しに透き通る。頬にはそばかすが散っている。ドロシーだ。淡雪はその映像を打
ち消そうとするが上手くいかない。不安感が心を乱す。
 頭の中の、頑丈さだけが取り柄の魯鈍げな少女と自分とが同じだというのは耐え難いも
のがあった。ドロシーの姿は魔女にとって、理不尽で滑稽な死をもたらす死神のそれに他
ならなかった。しかし、魔女の直感は明英の言葉が真実であると囁く。魔女も、魔女に最
期の水を浴びせる少女も、根は同じ存在だと。どちらも虚構の存在であると。
 虚構。フィクション。そういった言葉が淡雪は恐ろしかった。自分の存在が虚ろである
と言われているような気がするのだ。確かに、たとえ仮構の存在であるにしても、淡雪に
は自分が存在しているという確かな実感があった。それに、今の状態なら自分が実在して
いないのであっても、実在していることとの間に差は感じられない。しかしそれでも、そ
うした理屈の届かない場所に不安はあった。どれだけ言葉を連ねても、その裏に付きま
とって払われない死角からの呼び声が、淡雪という存在の立つ足場を取り外そうとする。
さらに、母親が死んだときの出来事がその呼び声を補強する。
 日頃、深く悩まないというのを信条としてきた淡雪にとって、今の状況は酷く居心地が
悪かった。いとも簡単に精神の追い詰められていくことが不甲斐ない。
 考えに没頭している間も淡雪の手は材料を擂り潰し、混ぜ合わせ、重さを量る。客の語
る現状説明も頭のどこかはきちんと聞いていて、魔法を練り上げる。見る間に、紫紺の薬
が小袋に封じられる。淡雪はその袋を客に渡し、一通りの説明をする。
 三万円の代金を受け取り客を送り出すと、淡雪は深く息を吐いて椅子に沈んだ。このと
ころ、疲弊が酷い。
「レヴィ。お前の」
老女の声が滑やかな少女の唇から漏れる。言葉は中断されたまま、部屋の中に漂う。空想
のドロシーがにわかに老いていく。肌は艶が失われ、皺ばみ、髪は輝きを濁らせる。袖か
ら覗く腕にも、顔にも、アメリカ南西部の日差しが植え付けたシミが、内から沸き出して
くる。淡雪は立ち上がると流しへ行き、残雪を煮出してカップに注いだ。冷め切らぬ内に
一口呷る。口蓋の皮が収縮し、剥がれる。その痛みに淡雪は軽く口を開け奥歯を引き結ん
だが、気持ちは幾分落ち着いた。
「今日はもう、お店閉めよっか?」
幼い声がレヴィに向けられる。レヴィは変わらぬ不動のままだ。淡雪は立ち上がると店内
の片付けを手早く済ませ、レヴィを連れて店を出た。ドアの前に臨時休業の札を掛ける。
 淡雪は家に帰るといつものソファにレヴィを座らせ、玄関脇に置いてあったゴーグルと
箒を持って、アパートの前に出る。
 淡雪はゴーグルを装着すると、鼻の当たる部分などを指で調節した。ゴーグルは大きく
頑丈で、そもそもはヘルメットに付いていたものだ。
 ゴーグルを身に着けると、淡雪は体の前に箒の柄の側面をあてがった。箒は有り触れた
もので、竹の柄の先に硬い茎で編まれた刷毛が付いている。しかしその箒には、あらかじ
め飛翔が可能となるような術が施されている。
 淡雪は箒から術を解放する。それから五分ほど待つと、箒を引き倒しながらゆっくりと
膝を曲げていった。膝が地面へ近付くにつれ、淡雪の体の下に弾力性のある何かが生まれ
る。そして、膝が地面まであと一〇センチほどのところで、淡雪は足先を地面から離し
た。浮いている。浮力の安定性を確かめるように、淡雪は箒に跨ったまま二、三度体を揺
する。寒天の上に乗っているかのような弾力が傾きを押し返し、揺れはすぐに収まる。柄
の頭を軽く持ち上げると、箒は静かに滑り出す。
 箒は緩やかな勾配を描いて、上空へ昇っていく。垂直に上昇することも可能なのだが、
徐々に高度を稼いでいるという感覚の方が淡雪には好みだったのだ。

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 普段の移動のとき、淡雪は箒を使わない。運動不足になってしまううえ、人目を引くか
らだ。荒神町の端から端までなら淡雪の脚でも歩けないことはない。
 地上から一〇〇〇メートル上がったところで箒は水平移動へ移った。寒風が柔らかな刃
となって、淡雪の肌を切る。箒が急に加速した。淡雪の体が僅かに後方へ滑る。全身に掛
かる圧力に、淡雪は飛翔を覚える。後方へ拭き流される髪のはためきや服の暴れが、淡雪
の心に疾走感を求めさせる。そうして箒は速度を上げる。
 大きな弧を描いて、淡雪は左へ曲がった。そのまま進めば海に出る。淡雪の肌は斬りつ
ける空気の冷たさに色を失い、緑黒の血管が、肌に筋目となって現れる。
 視界を占めるのは上天に連なる薄青と眼下の大地。上昇と下降、旋回と直進を自在に織
り交ぜつつ、箒は沿岸を目指す。その動きの性急さが淡雪を箒から振り落とそうとする。
身に加わる力の変動はしかし、予定調和的な危機として淡雪を楽しませるばかりだった。
袖が肩口までめくれ上がっているため、剥き出しになった二の腕がまともに風を受けてい
る。そこもすでに冷え切って、はっきりとした感触はなくなっている。吹き付ける空気の
壁に阻まれて呼吸が苦しい。速度と自由さ、肉体を苛む負荷が淡雪の意識を純化し、忘我
へと運ぶ。沿岸が見える頃には、淡雪の意識は猛速で疾走する箒と一体化していた。淡雪
は、空を自由に切り進む速度そのものとなったかのようだった。死へと無限に漸近する快
楽が淡雪の全てとなる。
 海に沿って飛び続ける速度が上がっているために、淡雪はかなりな前傾姿勢になってい
た。箒の軸は微塵もぶれない。さらに速度を上げる。
 今や、地面は曖昧な色面の連続となっていた。一つ一つのものが見分けられない。淡雪
の意識からレヴィが、リルケが、くだんが、そして己の名前が剥がれ落ちる。淡雪という
魔女は、ただ空間を射抜くものでしかなくなる。海面に向かって急降下し、衝突する寸前
で再び舞い上がる。急激な加圧の変化が酩酊感を高める。血液までもが圧力によって偏向
して流れるように感じられた。
 何度もそれを繰り返し、その度に下降の軌道は深くなり、ついには箒の頭が波の頭を掠
めるまでになる。飛散した飛沫が淡雪の頬を濡らし、密度を増した磯の香りが体内に充満
する。
 散々海辺を飛び回ると、疲労感が高まる。空を飛ぶには連続的な力の消費が要求され、
疲労度が高いのだ。
 淡雪は帰路に就く。高度と速度をゆんなりと下げる。それに伴い名前が、自我が、関係
が、淡雪を日常へ引き戻す。しかしそれらはどこか軽みを得たようであった。和らいだ重
苦しさに淡雪は満足げな息を吐く。荒神町が見えた。淡雪は箒の角度を深めた。
 家の玄関前に明英が立っていた。明英は淡雪に気が付くと頭を下げた。淡雪の表情に硬
さが塗り重ねられる。
「封印がしてありますから、開けられませんよ」
声から棘を除去しきれない。
「いえ。あなたを待っていたんですよ。お店に行ったら休業とあったので」
淡雪はドアの前で小さい手を翳すと一言呟いた。鍵の開く音がする。
「ドライブですか?」
淡雪の担いだ箒に目を留めて言う。
「そうですよ。明英さんも今度乗せてあげましょうか?」
明英は笑みを広げる。
「遠慮します。振り落とされそうで恐ろしい」
淡雪はドアを開けると、明英を招き入れた。
「そこの椅子に座ってください」
明英は言われるままに、レヴィの隣へ座った。淡雪はヤカンを火に掛け、残雪を暖める。
「何の用なんですか?」
「いや、用と言うほどのこともないんですが。よかったら夕飯を一緒にどうかと」
淡雪は答えない。

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「ひょっとして、昼間のことを怒ってるんですか? ドロシーと呼んだことを」
淡雪の方が僅かに持ち上がる。
「私をドロシーって呼ぶのはやめてください。魔女にとってそれがどれだけ嫌か、知って
るはずです」
「すいません。では改めましょう。ドロシ、いや、淡雪さん」
わざとらしい言い間違えに淡雪は怒気を感じる。
「ああ、あそこに並んでいるのはオズシリーズですか? 原書で読んだんですね。そうい
えば、日本に来る以前はあちこちの国を転々としていたとか。これは自分で?」
「貰い物です」
淡雪は残雪の入ったカップを明英とレヴィの前に置く。明英はカップを顔まで持ち上げ、
怪訝そうな面持ちで湯気に鼻を晒した。
「変わった臭いですね。薬草茶ですか」
恐る恐る一口啜り、眉根を寄せる。
「残雪と言います。害はありませんが、人間の舌には合わないかもしれません」
淡雪はそう言うと明英の向かいに座り、自分も残雪を口に含む。縁の鮮やかなエグみが口
に広がる。
「しかしですね。これは未だに私達にも判らないんですが、どうして魔女はドロシーに、
失礼、小説の主人公になぞらえられるのがそれほど嫌なんですか?」
明英は果敢に残雪に挑戦しながら尋ねる。
「明英さんも、私達がどうやって死ぬのか知っているでしょう? 死神に例えられるのと
同じようなことです」
 明英は考えるように鼻を鳴らした。
「ただ、人間は死神に例えられようと癌に例えられようと、そこまで嫌がったり過敏に
なったりしませんからね。他にも何かあるんじゃないですか? だいたい、ドロシーとい
う言葉を聞くだけでも駄目だというのは普通じゃあないでしょう?」
ドロシーという音が淡雪の平静さを蝕む。カップに入った残雪を飲み干し、ヤカンから二
杯目を注ぐ。
「それが判れば、私も対処のしようがあるんですけど。理屈じゃないんですよ。魔女の性
質の一つとして決まっているというか」
「でも、魔女という存在のそんなに深いところに、なんでファンタジー小説の主人公でし
かないドロシーが絡んでくるんです? あなた方の祖先はあの小説から抜け出してきたん
だという説もありますよ。あなた方はこの世界に現れたフィクションだと」
「やめてください」
淡雪は明英の言葉を遮る。
「そう。そうなんですよ。あなた方は常に、この世界に存在していることへ不安を感じて
いる。あなたはドロシーと呼ばれるのが嫌なのではない。そこから派生する、自分は実在
しないのではないかという思いが嫌なんですよ。あなたはその不安を、人間以上に実体的
に感じている。何せあなたは、文字通りの意味で、水を掛けに来る死神のドロシーと同じ
存在なのですから。あなた達の多くが僻地に住むのも、あれは想像のエメラルドの都から
無意識に距離を取ろうとしているから、だそうですよ。あなた達は半ば以上、虚構の存在
なんです」
なおも明英は喋り続けていたが、その言葉を最早淡雪は聞いていなかった。簡単に淡雪の
自我は瓦解していく。階層状になった彼女の意識が順次溶解し、本人すら知覚していない
魔女としての芯が姿を見せ始める。
 身を抱え、椅子から落ち、床に丸まり震える。そんな淡雪の変化を明英は最初から予測
していた。すでにこれまでも何人かの魔女で実験済みのことだ。強大な魔力を持つ魔女と
いえども、ドロシーや存在の不安定さから話を進めると容易に精神が途絶してしまう。明
英は口を閉ざした。あまりやりすぎると廃人になってしまう。やがて、淡雪の動きが止
まった。明英は淡雪から目を離さない。

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 淡雪が軽く右手を振るった。鈍い裂濁音が響く。明英は一瞬だけ顔を顰めると、椅子か
ら転げ落ちた。その音で淡雪は我に返る。事態を把握するのに数秒が経過する。淡雪の目
の前で明英が血を吐く。その紅に淡雪の意識が反応する。
「どうしたんですか? 明英さん?」
明英の、半ば閉じられた目が淡雪の顔を捉える。その顔からは早くも血の気が失せ、肌も
荒び始めている。
「ちょっとやりすぎちゃいましてね。自業自得ですよ」
溜め息を吐いたのだろうか。喉の奥が鳴る。そして咳。血が押し出される。床のフローリ
ングがその血を弾いて拡げる。
「内臓が」
淡雪の言葉に明英はうなずく。
「まあ、また、会いましょう」
それきり、明英は目を閉じてしまった。淡雪の呼びかけにも反応しない。ただ、胸が僅か
に上下している。その度に体のどこか深くで、液体の泡立つ音がする。淡雪の見ている前
で胸の上下は段々少なく、浅くなり、薄くなり、口の端から血が零れ、不随意筋が身動ぎ
をし、その間も呼吸は幽けくなり、微動になり、遂に止まる。心臓に手を当てても反応は
ない。
 死んだ。その言葉がほどけるように淡雪の意識へ浮かぶ。少なからず死というものに立
ち会ってきた淡雪だったが、命が消える瞬間というものをこれほど意識したことはなかっ
た。悲しくはなかった。悲しみを覚えるには、淡雪は明英との間に壁を造りすぎていた。
だが、何かがあるのは確かだった。欠落感や喪失感とは異なる感触。悲しみの僅か手前で
留まっている感触だ。もったいないという言葉が、正しくはないが近いような気がした。
優れた人材が失われたことを惜しむ気持ちに似ている。そこに加わるのは風味ほどの哀惜
だ。
 片付けよう。そう思い淡雪は台所から大きな黒いポリ袋を持ってきた。その行動はこの
町における人命の軽さによるものではなく、むしろ動転の一種だった。
 呪文によって明英の体を浮かせる。服に血が付かないよう気を付けながら、淡雪は死体
を頭から袋へ詰めていく。頭部の血が袋に張り付いて、思うように中へ入れられない。明
英の体を頭から肩、肩から胸と少しずつ袋を寄せながら入れていく。傷だらけのフローリ
ングに血は押し潰され擦り込まれ、早くも乾き始めている。慇懃な鉄臭さが淡雪の嗅覚を
麻痺させる。 
 足先まで袋へ入れると、淡雪は口を縛った。中で体を丸めるようにしてあるので、外か
ら見ても何が入っているのかは判らない。淡雪が袋の下に手を回して何事かを呟くと、袋
の高さが上がる。
「レヴィ。行こう」
淡雪は左手でレヴィの手を引き、立たせる。右手は腰の辺りに浮く袋の口を握っている。
二人は一〇丁目を流れる川へと向かった。先頭に淡雪、その少し後をレヴィが手を引かれ
て行く。二人の脇にはゴミ袋。袋は淡雪に引かれるまま、宙を滑っていく。
 途中で雨が降り出した。粒の細い、濃密な雨だ。淡雪が頭上に空気を密集させて斥力を
張ると、雨滴は透明な半球に阻まれ、脇へと滑落する。路地の中でも比較的通行人の多い
道を歩いているのだが、道行く人は淡雪達に無関心だ。皆、傘を面差しに被せ、俯きがち
に歩いている。すれ違う人間の中には時折、傘も差さずただただ濡れて歩いている者もい
る。そうした人間は一様にどこか研ぎ澄まされた無為とでもいったような雰囲気を抱えて
いる。
 よく見ると淡雪の斥力は周囲や地面にも及んでおり、水はけが悪く、早くも水没しつつ
ある路面の水たまりを押し退けている。色褪せた水色のジャージを着た男が淡雪達を囲う
見えない障壁を叩きながら付いてきた。障壁は硬い物ではないため、男の手にゆるりとし
た振動が返ってくる。それが面白いのだろう。淡雪に睨まれるとぎこちない笑みを浮かべ
て男は離れ去った。

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 河は町の西端、一〇丁目の脇を掠めている。対岸はもう隣町だ。名前をと言う。川幅の
広い一級河川で、緩やかな流れが滔々と連なっている。両岸とも河川敷が整備されている
はずなのだが、不法投棄されたゴミに埋もれて判然としない。水の色も悪く、黄粉に錆鉄
を混ぜ込んだかのごとき色だ。
 斜面を転げないよう、淡雪はレヴィの腕を引いて慎重に下りる。濡れた草をローファー
が踏みしめる。
 錆び付き腐朽した残骸の合間を抜けて川縁に至ると、淡雪は斥力を解いた。途端に春の
冷ややかな雨が淡雪の髪を湿らせ服を濡らす。額に張り付いた前髪を横へやると、淡雪は
川へ向けて明英の入った袋を押し出した。袋は淡雪達のもとを離れ、河の中程へ滑り進
む。丁度ポリ袋が川の中央へ差し掛かったところで淡雪は袋の浮力を消す。
 音が、する。としゃん、という音だ。そして袋は一旦淡雪の視界から消える。そしてや
や下流に先端が浮かび上がり、順調に流されていく。川の嵩が増すにつれ、袋の流れも軽
快さを増すだろう。  
 再び斥力が淡雪とレヴィを包む。雨粒が透明な場の周囲を覆い、二人の姿を滲ませる。
淡雪はもう一度濡れた髪を横へ撫で付けると、レヴィの手を取って歩き始めた。耳朶から
の滴が肩に落ちる。


 かねてから依頼のあったキャバクラへ行き、淡雪は結界を張った。店は雑居ビルの三階
にあり、淡雪が尋ねると店長が出迎えた。痩せて、頬骨の高い初老の男だ。髪にも鼻の下
の髭にも白いものが目立つ。
 淡雪は店長の目の前であらかじめ用意しておいた材料を調合する。蛙三匹、キャラメル
六粒、硝酸ナトリウム、蓬、酸化鉄、その他。それらを生理食塩水で伸ばしながら練り上
げる。立ち上る臭気に店長は眉をひそめる。
 ドア前のタイルは事前に業者が剥がしてあった。調合が終わったパテを淡雪はタイルの
ない部分に空け、コテで均等にならす。
 ならし終えると、淡雪は立ち上がり呪文を詠唱する。店長は耳をそばだてるが、淡雪の
声は小さく口中で震えるのみで、何を言っているのかは聞こえない。
 詠唱は一時間も続いた。最初は淡雪の後ろに控えていた店長だが、呪文が一五分を越え
たところで一旦店内に姿を消した。次に出てきたときはコーヒーの入ったマグカップを手
にしていた。立ち尽くし、微動だにしない淡雪の背中を眺めながら、店長はコーヒーを啜
る。インスタントコーヒーの過剰な酸味にはうんざりしているが、つい飲んでしまう。
 漫然と淡雪の背中を見詰めていた店長は、不意に不思議な思いにとらわれた。確かに淡
雪の見た目はただ少女なのだが、どうしてもそういうふうに意識できないのだ。目の捉え
る画像と認識との間にズレが生じている。巧みに背景と合成された人物の映像を観るよう
な。終夜営業空けの疲労からだろうか。どうもそうは思えなかった。店の女の子にそのこ
とを話して聞かせる自分の姿が頭をよぎる。
 最後の一節を唱え終えたらしく、淡雪は店長に向き直った。
「はい、無事終了しました。ええっと、これでこの店に降りかかる有形の災難は防がれま
す。つまりまあ、不幸とかそういった実体のないものは防げません。保証期間は基本的に
無期限。故意に結界を破ったと思われる場合は適応の範囲外です。まず問題はないと思い
ますが、もし何かあった場合は連絡してください。ああ、前にも言いましたが、ここのタ
イルは後で業者が来て直します。一度修理したら滅多なことでは開かないようになってい
ますから。詳しいことはこちらを読んでください」
淡雪は脇に置いてあった大きなトートバッグから契約細目と領収書を取り出した。店長は
ズボンのポケットから一万円札の束を取り出すと、そこから一〇枚を抜き取って淡雪に渡
した。淡雪はもう一度それを数え直すとバッグに収め、持っていた紙を渡した。
「じゃあ、お疲れさまです」
言うと淡雪は踊り場を抜け階段を下った。

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 この時間、町の繁華街は辛うじて昨夜の熱気を保持している。明け方まで営業していた
店の遅番の人間が、帰宅間際にラーメン屋などで食事をしているからだ。しかし、そうし
た人間の数は少なく、これから日暮れまで始まる長い寂寞の気配が辺りには押し寄せてい
た。
 風が、臭気を孕んで淀んだ空気に朝の清げな空気をこき混ぜていく。淡雪は真っ直ぐ
「ゆき屋」へ向かった。既にキャバクラへ行く前に開店準備を済ませ、レヴィは店に置い
てきたのだ。
 「ゆき屋」に着いた淡雪はそこに立っていた男を見て、ふやけた声を漏らした。
「どうも、おはようございます。まだ早いとは思ったんですが、昨日のこともあったから
急いでお会いしようと」
男は和やかな笑みを浮かべて言った。間違いない。明英だった。
「死んだはずじゃ」
明英は肩を竦めるようにして少しだけ笑った。
「死にましたよ。あなたも確認したはずです」
明英はそこで淡雪の背後を見遣った。
「レヴィ君は?」
「中に、います。今日は用があって、さっき一旦ここへ来たんです」
戸惑いながら、淡雪は答える。
「そうですか。あ、すいません」
明英はドアの前から離れる。淡雪は促されるようにドアの前へ立ち、結界に施された錠を
解く。動揺しているわりに落ち着いた動作だ。
「それにしても、どうして」
中へ入りながら、淡雪はやっとそう尋ねる。
「それは、秘密です。まあ、魔法が使えるのは魔女だけではないということですよ。レ
ヴィ君のようにね」
淡雪は振り返る。
「じゃあ、あなたも」
頭を振って明英は否定した。淡雪は気持ちを落ち着けるために流しのヤカンに水を入れ、
コンロに掛けた。やがて、水がヤカンの内壁を叩く甲高い音が響きだす。
「こうしてみると、レヴィ君っていうのは不思議な顔をしてますね」
淡雪が振り返ると、明英はレヴィに歩み寄りその顔を観察している。その姿や話しぶり、
何気ない動作に至るまで、魔女の目を以てしても、見れば見るほど明英本人のものだ。柄
にもなく気味の悪さを感じて、淡雪はヤカンに目を戻した。
 店のヤカンは赤く塗られたやや大振りのもので、シルエットはアルマイトの昔ながらの
ヤカンと同じだ。その形と色具合が気に入って買ってきたのだ。
 赤く滑らかなヤカンの側面に意識を注ぐ。魔法で明英が蘇ったとは考えにくかった。淡
雪の知っている限り、死んだものを生き返らせることのできる魔女は一人しかいない。そ
れも噂に聞いた程度で、実在するかどうかも怪しい。明英が偽物であるはずはないのだ
が、不死身というのもあり得ない。早々に考えは行き詰まる。まだ惑乱の余波から抜け
きっていないのも事実だ。沸いたお湯で三人分の紅茶を注ぐと、淡雪は座り慣れた椅子へ
腰を下ろした。脳裏には相変わらず凶兆を告げる警報が渦巻いているが、最近ではそれは
通底音になってしまって、別段意識されなくなっている。
 茶器の触れる音だけが、仄暗い店内に響く。何とか明英にそれまでとは違うところを見
出そうとした淡雪だったが、その努力は虚しいものだった。明英と目が合う。淡雪は自分
の顔に血が集まるのを感じた。その赤面の原因が理解できぬまま、淡雪は下を向く。
「どうかしましたか?」
明英の声には、明らかに淡雪が顔を赤らめたことに対する揶揄の響きがあった。しかしそ
れは魔女でもなければ気付かないほどのものだ。
「いえ、何も」

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淡雪は答えてカップを口へ運ぶ。アールグレイの、少し煙ったようなフレーバーが鼻腔を
満たす。
 恥じらいという言葉が浮かんで、淡雪は思わず口の端で笑ってしまった。魔女として目
の前の男よりも長い時を重ねてきた自分がなんであれ恥じらうなど、ありそうにないこと
だった。しかし、今自分の中で凝っている感情はそれ以外にないような気がした。
 身の内に生じた感情を持て余していると、ドアが開いた。
「あのお、すいません」
入ってきたのは中学生くらいの少年だった。
「どうぞ、お入り下さい」
言いながら明英は立ち上がる。
「では、淡雪さん。また」
明英は戸口の少年に軽く一礼すると出て行った。
「いらっしゃいませ、こちらへどうぞ」
営業用の声になると、淡雪はさっきまで明英の座っていた席を示した。
 少年はこの町の子供ではないようだった。荒神町の子供なら誰もが早いうちに身に付け
る深みが顔に表れていないのだ。
「で、どういったご用件で?」
淡雪は少年のために紅茶を入れると砂糖とミルクを添えて差し出し、尋ねた。少年は湯気
の昇るティーカップへ一瞬目を向けたが、手を着けようとはしない。淡雪は少年を観察し
た。
 中学三年生くらいだろうか。あまり手入れのされていない堅そうな髪は中央から二つに
分けられ、少し盛り上がっている。その髪の生え際から顔の全体にかけてニキビが広がっ
ているが、別に脂っぽい印象はない。成長期半ばの、痩せてもいないのに頬のこけたよう
な顔立ちに子供から大人へと肉体が移行しつつあるのが窺える。
「あの、父さんの様子がおかしくて」
「そうですか。ちょっと待ってください」
淡雪は机の引き出しを開けると紙束の間から覗く付箋の見出しに視線を走らせ、少年に目
を戻した。
「具体的にはどういう?」
少年は言い淀んだ。萎縮しているのか、上手く説明する言葉が見付からないのか。取り敢
えず淡雪は少年の緊張をほぐすことから始めることにした。
「家はどこに?」
「家は、粟倉です。あ、僕の名前は飯岡健夫です。」
粟倉といえば川を挟んだ隣の町だ。となると、隣町まで出掛けないといけないのだろう
か。淡雪は名刺を取り出すと健夫に渡した。健夫はいかにも名刺を貰い慣れていない人間
らしくそれを片手で受け取る。
「魔女に会うのは初めて?」
「え、あ、はい」
健夫は名刺から顔を上げると答えた。妙に居心地が悪そうだ。淡雪は健夫を見詰め、相手
が不審に思わない程度にその表情を読み解く。
「そこに座ってるのはレヴィ。その、あまり気にしないで」
淡雪の視線の先を見て、健夫の目が見開かれる。今まで気付いていなかったのだ。
「気に」
「ええ。ちょっと、ね」
淡雪は含みを持って笑ってみせる。そういうことをされた経験もあまりないのだろう。健
夫の表情は何かになりかけて遅滞する。それで淡雪はやっと、思い至る。
「私、幾つぐらいに見える?」
「一一? 一二?」
その声には僅かな苛立ちが混ざる。自分が間違えることが判っていながら答えさせられて

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いるのを感じ取っているのだ。淡雪はなるべくあいてを褒めるかのような笑みを浮かべて
うなずく。
「そう。でも、実際の歳はあなたのお祖母さんよりもたぶんもっと年上。魔女は人間より
も歳を取るのが遅くて」
健夫は驚くでもない。知っていたというよりは、上手く反応できなかったのだろう。
「えっ、じゃあ」
健夫は何か言おうとして黙る。
「どうしたの?」
「別に。それで、父さんが」
 健夫の話によると、健夫は父親である信夫と二人暮らしだった。そしてその父親は数週
間前からどことなく様子がおかしかったそうだ。上の空だったり、帰宅が不定期だった
り。健夫は父親が会社員であることは知っていたが、具体的にどんな仕事をしているのか
は知らなかった。ただ、これまでそんなことはなかったらしい。
 おかしいとは思った健夫だったが、しばらく様子を見ることにした。そう言いはしな
かったが、真実を知ることに不安も感じたのだろう。
 ところが、ある日父親は急に姿を消してしまった。最初はすぐに帰ってくると思ったそ
うだ。ところが、一週間経っても帰ってこない。それで学校に相談した結果、警察に捜索
願を出すことになった。それからすぐに荒神町の駅で降りる信夫を見たという情報は得ら
れたのだが、その途端に警察の動きは鈍くなってしまった。信夫も荒神町がどういう所か
知っているだけにその辺の事情は判るつもりだが、相手は自分の父親だ。悠長に待ってい
るわけにもいかない。そんなとき、近所に住んでいて何かと面倒を見てくれる小母さんか
ら淡雪のことを聞き、尋ねてきたのだった。
「それじゃあ、依頼というのは」
「父さんを捜してください」
聞き取りづらい口調から、淡雪は健夫が父親の生存をあまり期待していないことに気付い
た。荒神町について多少なりとも知っているのなら無理もない。淡雪は「尋ね人」という
付箋を探すとそこから紙を一枚抜き出し、今話したことをそこへ書き込むように指示し
た。
 特に何の質問もせず、健夫は渡されたボールペンで紙に必要事項を記入していく。その
ペン先から不揃いな文字が生み出されていくのを淡雪はぼんやり見ていた。そして、ふ
と、気が付いた。クローンだ。
 考えてみれば簡単なことだった。今日会った明英は昨日殺害した明英のクローンなのだ
ろう。どちらもクローンという可能性だってある。そう考える方が生き返ったと考えるよ
りも筋が通っている。法律で禁じられているからといって、政府がクローン人間を所有し
ていないという保証はない。おおかた、明英達は誰か優秀な人間から造られたのだろう。
そうすれば、必ずではないにせよ、最初から優れた資質を持つ人材を手に入れる率が高く
なる。それに、発見を避けるため川へ死体を流しはしたが、明英が防衛庁のエージェント
であり、かつ非合法なクローン人間であるとするならば、体内に現在地や生命の有無など
をモニターする装置が取り付けられていても当然だろう。二人目の明英の、いかにも人の
良さそうな、それでいて何もかもを等しく見下したような笑顔に怒りが湧く。
 しかし一方で、再び明英と会うことを喜ぶ気持ちもあった。魔女の目ですら見分けられ
ないほど一人目の明英と二人目の明英とが似ているのなら、両者を区別することに意味が
あるだろうか。淡雪は健夫の質問に答えながら、二人の明英を別人とする理由を考えた。
記憶の問題にしても、あれほど詳細に同一人物を演じている以上、最初の明英の行動や会
話を今の明英もある程度は把握しているはずだ。思考様式にしても、会った限りでは個人
内の誤差程度にしか差異はないようだった。そうやって考えていくと二人は、少なくとも
淡雪にとっては、同一人物と見なしても構わないことになってしまう。わざわざ差異を探
したところで、あまり変わりはないだろう。
 問題としては、今後明英と対決する間で、いったい何回明英を殺さなければならないの

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かということがある。そうならないことを願いはするが、そう思い通りにもいかないだろ
う。とはいえ、秘密保持の徹底を考えれば、残りの明英はあまり多いということもないだ
ろう。
 健夫が用紙に記入を終える。自分の考えに没頭していた淡雪は、慌てて立ち上がると棚
の間を動き回る。二つ、三つ、ガラス容器が並べられる。その中で揺れるなにやら締まり
なく膨張した材料を健夫が不安げに凝視する。続いて薬瓶が並べられる。こちらは、瓶自
体はどれも同じ暗茶色の物で、そこに白いラベルが巻かれている。頻繁に使われているの
が、ラベルの縁に寄ったシワから判る。
 全てが揃うと口元に手を当てて軽く咳払いをし、健夫の顔を見て白々しく笑みを浮かべ
る。健夫はすでに自分がどういう目に遭うのか、殆ど確信しているようだった。
 腕捲りをすると淡雪はぎっしり蛙の詰まったガラス容器の蓋を開け、傍らに置く。堅い
和音が響き、蓋が摘みを軸にして僅かに転がる。小さな氷挟みを使って淡雪は中から蛙を
一匹取り出した。元は薄緑だったのだろうが、漂白されてしまい黄ばんだ朧な色をしてい
る。大きさは蝦蟇蛙くらいあり、異様に突起が多い。とはいえその突起はどれもしなび、
それでいて水分に膨れ上がっていた。淡雪はそれを、蛇口の下で流水の注がれている金属
ボールに沈めた。
 それからも淡雪は次々と材料を取り出し、下処理し、刻み、量り、混ぜ、詠唱し、摺り
合わせた。健夫が落ち着かなげに辺りを見回す。
「はい、これを」
淡雪は擂り鉢の中にでき上がった泥様の物へスプーンを突っ込むと、健夫の前に差し出し
た。健夫はそれが放つやけに立体的な悪臭を避けようとして顔を背け、横目で淡雪の方を
向く。
「飲むんですか?」
「そう。大丈夫。毒は入ってないから」
「いや、でもちょっとこれは。えー」
健夫は空笑いをする。無理矢理冗談として流してしまおうという試みは当然のように通用
しなかった。
「嫌なら、諦めてください。魔法以外の手であなたのお父さんを捜すのなら」
先程の笑いの名残をまだ口の端に留めたまま、健夫は逡巡する。しかしやがて紅茶へ砂糖
とミルクを入れるとよく掻き混ぜ、それから擂り鉢の中のスプーンを手に取った。
「一口だけでいいから」
健夫はやや上目遣いになりながら、スプーンに載った妙に照りのある黒々としたペースト
を口に運んだ。そしてそれを前歯で口の中へこそげ入れるやいなや紅茶を飲み干す。淡雪
はすかさず用意しておいた、温くなった紅茶を満たしたグラスを渡す。健夫はすぐさまそ
れも飲み干す。
「お疲れ様」
ねぎらいの言葉に健夫は口をきつく結んで目を強張らせ、せわしなくうなずく。不意に胃
が、今飲み込んだ物を押し戻すのではないかと心配しているようだ。
 しばらくそのままの表情でじっとしている健夫に、淡雪はもう一杯紅茶を出した。健夫
はそれに砂糖を入れて一口啜ると、ようやっと口を開いた。大きく息を吐き出す。
「お疲れ様。まあ、魔女に怪しげな薬は付き物だから。絵本なんかで見たことない?」
「ああ」健夫は鼻をすする。「あります」
「私達が魔女って呼ばれるようになったのは、ああいう本の中の魔女に似てたからなん
だ」
そう言いながら、淡雪は自分の言葉を信じ切れずにいた。確かにそう思っていた頃もあっ
たが、「オズの魔法使い」に出会って以来、それは気休めにしても頼りなかった。
「あとこれを」
淡雪は部屋の片隅に置かれた棚の引き出しから水晶玉を取り出した。ちゃんと錦色の袱紗
に乗せてある。袖で僅かな埃を払うと、淡雪はそれを机の上に置いた。

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「いかにも占いますって感じでしょ?」
淡雪は水晶玉を手で示す。
「それじゃ」
スプーンでペーストを掬うと、素早く淡雪はそれを口に入れた。そのまま自分用のマグ
カップに注いだ残雪でそれを流し込む。それから朱唇に付着した黒褐色の残りを舐め取
り、残りの残雪で飲み下す。
「さて」
健夫が書き込んだ藁半紙を小さく畳んで左手に握ると、淡雪は健夫の右手を取った。その
滑らかで肌理の細かい肌合いに緊張する健夫をよそに、淡雪は目を閉じる。暫くそのまま
でいてから目を開け、両手はそのままに水晶玉を覗き込む。
 健夫は水晶玉の向こうに見える屈曲のきつい部屋の風景から淡雪の真剣な顔へ視線を移
し、最後に自分の手を握る繊手に目を止めた。その感触はあまりに緻妙で、自分の皮膚で
さえ傷が付いてしまいそうだった。
 同じ物を見ているのに、淡雪と自分では見えている物が違う。そう考えると急に淡雪が
自分とは違う生き物だという実感が湧き、健夫は落ち着かなくなる。やがて、淡雪が顔を
上げた。しかしすぐには健夫の方を見ず、宙を睨んで口元を動かす。少しのあいだそうし
ていた淡雪は満足そうな声を挙げると、健夫に視線を戻す。
「うーん。お父さんは生きているんだけど、二〇丁目の辺りに居てね」
そこで淡雪は言葉を濁す。荒神町の傍で暮らしてきた健夫にはその含むところが判った。
その辺りは奇殺者と呼ばれる、怪物のような人殺しがうろついているような場所だ。そん
な所で生きているということは、そこには何か厄介なことがあるはずなのだ。
「じゃ、ちょっと探しに行ってくるからあなたはここで待ってて。もしいつまで経っても
帰ってこなかったら、これから渡すメモに書いてある番号へ電話して。リルケっていう人
が電話に出るから、その人に頼んで駅まで送ってもらって欲しいの。間違っても一人で帰
ろうとしたら駄目。もう一人で帰るには危ない時間になるから」
淡雪は返事も待たず机の上のメモ用紙にリルケの電話番号を書き入れると健夫に渡した。
健夫はおとなしく紙を受け取る。わざわざ説明などしなくても淡雪の指示に従う必要性が
理解できるのだ。
「あの、そこの人は?」
健夫はレヴィを見遣って尋ねる。
「ああ、連れて行くから。大丈夫」
淡雪はテーブルの一番下にある引き出しを開く。中には木でできた試験管立てが並べられ
ていた。ゴムの栓がされたものもあるが、殆どの試験管は口を開けて空になっている。淡
雪はその、ゴム栓がされた僅かばかりの試験管を抜き取った。ガラスが木の縁に当たり、
その振動が他の試験管を震わせる。
 試験管は全部で五本あった。それぞれ菫色や橙色など、色が違う。ただ、どれも一様に
精彩を欠き、白みを帯びた色感だった。
 淡雪はそれらを無造作に上着のポケットへ入れた。ポケットが試験管に押し張られ、不
格好に歪む。淡雪は固さを確かめるように、その歪みを軽く手で押さえる。ガラスの擦れ
るな音が鳴った。


 家に帰って回収した箒を握る手に、淡雪は力を込める。空を飛んで目的地まで行けば楽
なのかもしれないが、多少の時間を短縮するくらいのことで、たとえ僅かなものであれ余
分な疲労は避けたかった。
 景色は既に町の形骸と化していた。もう一八丁目なのだ。通常の町並みに比べると、周
囲には遙かに陰影が多い。しかし、淡雪が不安を掻き立てられているのはそんなことのた
めではなかった。いつにも増して人の気配がしないのだ。数こそ少ないが、通常なら物陰
には現実理解力を失った者などの姿がときおり散見される。しかし今日に限って誰もいな

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い。おかげで襲われたりする手間は省かれているのだが、その理由を推測すると全く喜ぶ
気にはなれなかった。おまけに、そうした人間を追い払うためにレヴィを連れて来たのが
無駄になってしまった。
 直感は淡雪に、すぐにでも引き返すよう告げている。それは数日来続いている、明英に
対する警報感と入り混ざって淡雪の思考を掻き乱す。
 遠く、一丁目辺りの喧噪が地を這うようにしてここまで漂ってきている。物陰に滞溜し
ている人間達の気配に打ち消され、日頃は聞こえない物音だ。後にしてきた方角を見遣る
と、毛羽立ったような廃ビルの向こうに朱黒く染まった夜空が拓けていた。
 淡雪は視線を地表へ戻す。かつては名前のある通りだった場所だ。まっすぐ進めば一九
丁目を掠めて二〇丁目に出る。今は至る所で劣化した舗装が剥げ、マンホールのあった部
分には下水口まで続くいびつな穴が開いている。暗いせいもあって、穴に落下して死ぬ人
間もいる。そのため、この辺りでまともな人間はみな、目の見えない人間のように一歩一
歩を探るように踏み出すのが常だった。
 淡雪にはそうした地面の裂傷が鮮明に把握されていた。人間同様、視覚には捉えられて
いないのだが、直感によってそこに穴のあることが判るのだった。
 オズワルドが以前、魔女の直感を蝙蝠の超音波に例えていたのを思い出す。蝙蝠は空間
に対して超音波を発し、その反射の具合で空間的な進行方向の状況を知るが、魔女は時間
に対して直感を発し、その反射具合で時間的な進行方向を知るというのだ。その話を聞い
たときはあまり納得しなかったことを憶えている。蝙蝠の比喩は直感の一面を巧く説明し
てはいるが、魔女の直感は蝙蝠の超音波ほど精度も鮮明さもないなど、食い違う部分もあ
るからだ。とはいえ、直感の力で把握される世界の中を歩いていると、確かに蝙蝠のよう
だという気もする。無数に存在する未来の可能性に対して直感を働かせ、その中から「穴
に落ちる」という未来、「穴に落ちない」という未来を察知し、それを空間的な理解とし
て知覚する。それは蝙蝠の世界把握と似ているかもしれない。不意の崩落にだけ気を配り
ながら、淡雪はの脇を歩き続ける。箒の先が振れて、乾いた音を立てる。
 前方に光芒が見えた。闇に慣れた視神経が痛む。淡雪は光源から目を逸らした。
 光を発しているのは、この周囲で一つだけ生き残っている街灯だった。そしてそれは、
そこからが二〇丁目であることを示している。元々の地図では、大通り沿いの一九丁目と
二〇丁目の境はもう少し奥だったらしいのだが、判り易いということで今ではその街灯こ
そが、荒神町の奥部である二〇番地域の端緒とされているのだ。
 他にも二〇丁目に至る道はあるのだが、大半は粗大ゴミに埋もれてしまっており、通れ
る部分もいつ埋もれてしまうか判らない。そのため二〇丁目以降の町へ行く場合、淡雪の
店の方角からだとこの大通りを抜けて行くことになる。そんな人間など滅多に居はしない
のだが。
 ただ、荒神町が生まれて以来立ち続けている街灯の存在自体は町民全体に広く知れ渡っ
ていた。噂では最後に明かりを取り替えてから数十年が過ぎているという。普通ならあり
得ないようなことだが、場所柄を考えれば納得できる。こんな場所の街灯など、たとえ壊
れようが電気が切れようが、補修されることなどないからだ。
 灯りへ近付くにつれ、風景は少しずつ明度を上げていく。朧気な稜線が徐々に形を結
び、直感によって構築されていた世界像が視覚からなるそれと差し変わる。
 街灯の前を通り過ぎようとして、淡雪は立ち止まった。目を眇めて輝きを見上げる。ほ
どなく、瞳孔が光量に適応する。
 幾度も前を通ってはいたが、じっくりと眺めるのは初めてだった。淡い水色の塗装は殆
ど剥がれ落ちてしまっており、錆色の本体に青褪めた染みが拡がっているかのようだ。場
違いに優雅な弧を描いた水平部分からはめくれ返った塗料の表皮が垂れ下がっている。少
し膨らんだ楕円形の先端は、照射される輝きのせいで存在感が希薄だった。しかしそれは
街灯本体にも言える。街灯は内に送電線を内包した金属などではなく、地下から輝きを吸
い上げて先端から噴出する、薄くて軽い筒のようだった。
 頭を戻すと闇の幕に残像が投影される。色を失って不確かさを増した姿は、眼球の振動

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に併せて揺れ動く。淡雪はきつく目を瞑る。だが残像はさらに曖昧さを強めるばかりで、
相変わらず瞼の中に見えた。諦めて目を開くと、再び前へと進み始める。
 
 壊れた何かを足で脇へ除ける。伝わる感触は軽い。プラスチックだ。淡雪はその音を気
にする様子でもなく、階段に足を乗せる。その先にはかつて入り口だった部分が、四角い
穴となっている。自動ドアが嵌っていたのだろうそこは、光の欠如によって黒く塗り潰さ
れている。
 三階建ての建物はかなり原形を保っていた。驚いたことに側面には、傾いてはいるもの
の、建物の名前を記したプレートまで残っていた。「サンエイBLD.」、そこは健夫の
父親の居所だった。もっとも、時間が経過しているために移動してしまった可能性もあ
る。水晶から得た情報をGPSに似た魔法に反映させ、相手の所在をリアルタイムで知る
こともできたのだが、それにはあらかじめ一日がかりで準備をする必要があった。もっと
も、こんな時間に普通の人間が通りをうろついていて、無事でいられるとも思えない。普
段ならば。
 それでも取り敢えず、建物の中に入ってみるのは無駄ではないだろう。所持品でも落ち
ていればそれから信夫の現状を手にすることも可能だ。淡雪は屋内へと足を踏み入れる。
 闇が質を高める。窓から入り込む外の闇が、ここではまだ明るく感じられる。湿ったコ
ンクリートの臭いがする。淡雪はレヴィと繋いだ手に軽く力を込めると、見えもしない目
で階段を探した。
 そのとき、階上で微かな音がした。靴底と床の間で砂利の擦れる音だ。同時に直感のも
たらす警報が絶叫する。本当ならすぐにでもその場から逃げ出した方がいいのだろうが、
職業意識が逃走を踏みとどまらせる。
 頭上からの軋轢音と、階段を通って流れてくる靴音とが、上の人物が少しずつこちらへ
向かっていることを教えてくれる。淡雪は窓際に移動すると壁に箒を立てかけてポケット
に手を入れ、試験管をひとつ取り出す。薄闇に翳すと、浮き上がるその中身は鶉色をして
いた。
 残響が消え、相手が一階へ降り立ったことが知れる。しかし、階段自体が淡雪からは見
えない位置にあるため、相手の姿は知ることができない。それでも直感の騒がしさや、す
ぐそこに居るにもかかわらず気配が全く感じられないことなどから、向こうが奇殺者であ
ることは察せられた。
 奇殺者は階段を下り切った所で暫しのあいだ立ち止まっていたが、やがてゆっくりとこ
ちらへ向かって歩き始めた。試験管を握る手がやけに熱く感じられ、淡雪は親指と人差指
だけを残して、掌を開く。ガラスと皮膚の間に溜まった熱が、夜気へと逃げていく。
 奇殺者は襲ってくるでもなく、淡雪達へ近付いて来た。そして、かろうじて姿が見えな
い場所で止まった。
 たったそれだけのことが、淡雪には驚きだった。奇殺者がすぐに襲いかかってこず、そ
れどころか黙って相手と対峙するなどあり得ないことだからだ。
「子供?」
中年の男の声がした。その声の響きには怯えも、熱っぽさも感じられなかった。ただ単純
に驚いただけという様子だ。
「信夫さんですか?」
男は答えない。
「健夫君に頼まれて、あなたを捜しに来ました。けど」
言うなり淡雪は手に持った試験管へ呪文を唱えると投げつけた。ガラスの割れる音がし
て、空気が白々と輝く。
 輝きの中に浮かび上がったのは空気中に生じた膨大な荷電に全身の筋肉を硬直させら
れ、引き千切るかのごとく顔を歪めた男の姿だった。男は太っており、禿げ上がった頭に
眼鏡をかけている。スーツ姿だったが、ジャケットとネクタイは身に付けていない。眼鏡
からは空気に罅が走ったかのように、細く枝分かれした静電気の筋が揺らいでいる。立て

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かけた箒を手にすると重低な空気の唸りを耳にしながら、淡雪は走って逃げ出した。
 影となった固体の間を淡雪はレヴイを連れて駆けていく。時折広場のような場所へ出る
と、そこだけは月明かりのおかげで周囲の様が見通せる。やはり、生きているものの姿は
ない。レヴィと繋いだ方の腕が、不規則に引っ張られる。
 さきほど放ったという魔法は、二〇秒ほどしか効果が続かない。本来ならそれだけあれ
ば、喰らった人間は絶命するからだ。それに、淡雪の能力と粉の量との問題もある。 確
かに普通の人間ならあれを受けて生きているなどということはないが、相手は奇殺者だ。
おそらくもう、こちらを追跡し始めているだろう。箒で飛んで逃げようかとも思ったが、
それには立ち止まって数分の時間が必要だ。おそらく、術が発動する前に信夫は追い付い
てしまう。
 喋る奇殺者の噂を少し前に耳にしたことを淡雪は思い出す。そのときはあり得ないと思
い、忘れていたのだ。噂によるとその奇殺者は、会話こそ成り立たないのだが、言葉を発
するという。他にどんなことが言われていたか知ろうとして淡雪は記憶を掻き回したもの
の、それ以上の情報は聞かなかったということが思い出されただけだった。
 瓦礫を踏み跳ばす音が急激に接近して来た。淡雪は箒を地面におくと、再びポケットか
ら試験管を抜き取る。
手元に目を走らせると、中身の粉末は菫色をしていた。淡雪は足を止めると栓を開け、中
身が飛び散らないように静かに粉へ息を吹きかけ、再び栓をする。ほどなく、粉は上の方
から徐々に液体と化していく。
 一連の動作はほんの短い間だったのだが、もう信夫は姿が見えるほどこちらへ迫ってい
た。大きく左右に振られる腹が波立っている。
「おーい」
信夫は走りながら手を振る。何が起きているのか全く理解していないことが窺われる、暢
気な口調だ。淡雪は信夫の進行経路へ試験管を叩き付けた。中身が撒き散らされると、鉄
屑や雑多な石くれがたちどころに形を失い、均一な高さになる。そこを信夫が通過しよう
とする。と、信夫は派手なしぶきを上げて地面に飲み込まれる。波も治まらないうちに地
面は凝固する。後にはまだらな色をした平板な地帯が残る。という魔法だった。地下一〇
メートルの深さに埋まった信夫を残して、淡雪はまた走り出す。すぐに箒から力を解き放
とうかとも思ったが、そのあいだ無防備になってしまうことを考えると、確実に数分の猶
予が手に入らない限りは危ない。
 徒労感が肉体疲労を促進する。どうしても信夫を始末する案が考えつかないのだ。虚電
と土汁を立て続けに放ったせいもある。魔法の力は施術者の能力以外にも得手不得手など
で大きく変わるのだ。魔術系の魔法が得意な魔女ならばともかく、淡雪では奇殺者を滅ぼ
すほどの力はない。
 ともかくも逃げ切ることだ。引き攣れるような心臓を宥めながら、疲労感を堪える。視
界の端に、屋上の看板から地表まで、綺麗に半分だけ残っているビルが過ぎった。二〇番
地域に幾つかある目印の一つだ。淡雪はそちらへ進路を変更する。ビルの脇に一八丁目へ
抜ける道があるはずだった。
 今度は随分、時間稼ぎができたようだ。淡雪は少しだけ歩調を緩める。それだけで膝か
ら下の力が一気に抜けそうになった。
 断面と隣の敷地に建つ建物の間へ、淡雪は入って行く。路地とはいえ、広さはわりとあ
る。ビルの、倒壊した部分の占めていた空間があるからだ。普通なら、倒壊したはずのビ
ルの片割れによって道は塞がれるはずなのだが、そんな瓦礫はどこにもない。その理由に
ついて様々な憶測が存在するが、業者によって撤去されたわけでないことは確実だ。
 近付くまで気付かなかったのだが、ビルの周りには粗大ゴミが大量に投棄されていた。
以前はそれほどでもなかったのだが、今や道が殆ど覆われている。一つ一つは明るさが足
りないせいで見えず、複雑な起伏の影となって淡雪を苛出させた。これではこのまま進ん
でも、奥で道の塞がっている可能性が高い。別の道を探そうかとも思ったが、この近くは
全て似たような状況だろうし、離れた場所まで行って新しい道を闇雲に探すような体力は

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ない。それに、うっかり入った道が同様に行き止まりということだってある。
 足をおろすたびに足下が揺れ、崩れる。ぶつかり合った粗大ゴミがけたたましく鳴りな
がら、淡雪の足をくわえようとする。淡雪は幾度もよろけ、堅い角に脛をぶつける。転び
そうになったレヴィに、たびたび腕を持っていかれそうになる。その度に離れそうになる
腕を握りなおす。と、手が堅い物に触れた。見るとそれはレヴィの腕に巻いてある、あの
数珠だった。
 なんとかゴミのない場所を踏んで行きたかったが、あまりに足場が悪すぎて直感でもど
こが大丈夫なのか把握できなかった。気が急くばかりでなかなか前へ進めない。すぐ左に
はビルの、刃物で切ったかのような断面が見えている。その端に辿り着くにはまだあと四
分の一ほどが残っていた。足運びは乱雑さを増し、足音は盛大になる。
 踏み、下ろし、崩れ、滑り、崩し、踏み込み、引き抜く。ぶつかる。空を、踏み、足場
が失せ、転ぶ。放置された物の立てる、不快な堅さの音。
 淡雪はレヴィとともに転んでいた。突起が胸を強打する。呻き声を上げて見てみると、
それは自転車だった。荒神町では目にすることのない物だというのに。
 幸い、試験管は割れていなかった。立ち上がった淡雪は激怒に駆られ、フレームの中央
を思い切り蹴り上げる。二度三度と蹴飛ばすと、自転車はそこから折れてしまった。よほ
ど錆び付いていたらしい。淡雪は横倒しになったままのレヴィの手を掴み、引く。レヴィ
はその動きに促されて立ち上がり、一歩を踏み出そうとしてまた倒れた。何かにつまずい
たという倒れ方ではない。慌てて淡雪はレヴィの脇に行くと、左足を触った。
 足首は早くも熱を帯び、腫れ始めている。どうやら骨折はしていないようだが、こんな
場所を自力で歩くのは無理だろう。それどころか、走ることさえできない。混乱に押し流
されそうになり、淡雪は大きく深呼吸をした。全てが信夫に対する怒りへ変わる。淡雪は
投げ出された箒を取ろうと身をかがめる。
 遠くで微かに足音がした。信夫だ。淡雪は思わず、周囲に視線を巡らせた。寸断された
ビルの八階の上にある、大きな看板広告の半分が目に留まる。決断は早かった。淡雪はポ
ケットから残りの試験管を取り出して中身を確認するとそれぞれに術を施す。疲労感が高
まり、重力の力にさえ体が引き倒されそうになる。しかし、ここで困憊するわけにはいか
ない。看板を支える一本だけ残った柱にどうにか意識を集中させ、淡雪は呪文を唱え始め
た。
 唱え始めてから一分と経たないうちに信夫が姿を現す。
「探したよ」
信夫は嬉しげに言うと、散乱したゴミを踏み越えて来る。淡雪は信夫を一瞥すると、手に
した試験管を投げつける。爆ぜるようにして幾つもの甲高い音が響き、信夫の服が、皮膚
が真空と空気中との境界で切れる。指先から肩口までが裂け、首筋から血が吹き出す。信
夫は気にせず歩き続けようとするのだが、あちこちに現れる気圧差へ体が吸い寄せられ思
うように動けない。亜切という魔法だ。しかし淡雪はそちらを見はせず看板に目を据え、
詠唱を続ける。レヴィは倒れた姿のまま、身動ぎしない。
 最大限の速度で淡雪は言葉を紡ぐが、なかなか終わりに辿り着かない。焦りを押さえて
信夫の方を見ると、ちょうど亜切が終わったところだった。すかさず淡雪は苔緑の粉が
入った試験管をぶつける。
 信夫の体が炎に包まれる。再び淡雪は看板に注意を向ける。視界の端で火光がちらつ
く。周囲の粗大ゴミが灼け熔けるせいで醜怪な臭いが漂う。風の具合で熱気が淡雪の所ま
で吹き付ける。信夫は火炎に視覚を奪われ、その場に転ぶ。水の跳ねる音がした。液化し
た金属へ信夫が倒れ込んだせいだ。信夫がもがく。その間も淡雪の詠唱は続き、音節に分
けることも難しいような言葉が変拍子を刻む。その拍がテンポを上げ、滑らかな調子とな
る。上目遣いになった淡雪の、火に照る頬が心持ち弛む。
 ついに最後の音素が、弧を描いて上空へ消える。すかさず淡雪は、火の消えかかった信
夫に向けて、最後の試験管を投擲する。空気中に白輝豊かな茫雲が広がる。その一部が残
り火を打ち消し、蒸気が昇る。そしてその中心では信夫が凍り付いていた。

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 頭上で幾重にも折り重なった鋼の軋みが轟く。大圧によって、看板を支える柱の根本が
潰断したのだ。
 看板は緩やかに傾き、それから一瞬動きを止め、急速に先端から落下し始めた。潰れた
部分が屋上の縁を打ち割り、反動で今度は看板の板が床部分を割り砕く。
 看板の落下はやけにゆっくりに感じられた。虚空を大仰に回転する。実際には数秒のこ
とだろう。四分の一回転する間もなく看板は地表に激突する。淡雪が目を閉じる。周囲の
地面と粗大ゴミが四散し、柱の一部が信夫を掠める。それだけで充分だった。氷結した信
夫は粉砕され、ゴミや塵と共に弾け飛ぶ。欠片が顔に翳された淡雪の手の甲に当たり、淡
雪は思わず手を引っ込める。
 地鳴りがやんで目を開けてみると、看板は予想した以上に淡雪達の近くへ届いていた。
無謀な試みであることは最初から判っていたが、実際に落下の衝撃でひしゃげた鉄柱を間
近で目にすると、もう終わったことなのに皮膚が粟立つ。手の甲を見ると、少しだけ血が
出ていた。レヴィの方は飛んできた小さな残骸が肩を直撃したようで、裂けた服から血を
流していた。他に怪我してはいないことを確認すると、淡雪はレヴィを座らせる。
 ゴミの中から入れ物になりそうなものを探すと、錆び付いたクッキー缶が見付かった。
蓋は取れてしまっており、歪んだ表面にあったはずの模様も見えなくなっている。淡雪は
散らばった信夫の断片をできる限り回収して容器に入れる。もう魔法の効力は切れてお
り、全ては湿った肉片と化していた。小指と薬指を含む左手の半分が発見できたので、最
後に淡雪はそれを一番上に乗せ適当な板で蓋をして魔法で固定すると、店に帰るべく置か
れたままの箒へ歩き寄った。
 
 深夜営業の診療所に寄ってレヴィを診てもらってから店に戻ると、残っていた気力まで
が消え絶える。頭が重く、目を開けているのもつらい。やっとのことで階段を上り、ドア
を開けるとそこには健夫が残っていた。
「帰らなかったの?」
わざわざ健夫へ顔を向ける気力もなく、淡雪は問いかけた。
「心配で。怪我、したんですか?」
「え、ああ、足をちょっと、ね。打撲らしいんだけど、打ち所が悪くて一時的に足の筋肉
が麻痺してたみたい。注射したら何とか歩けるようになったけど」
健夫が戸惑いに満ちた相槌を打ったので、淡雪はやっと最初の質問が自分に向けられたも
のであることに気付く。
「えー……と。私は大丈夫」 
淡雪はレヴィを椅子に座らせると部屋を横切り、素材保存用の冷蔵庫の扉を開け、手にし
た容器を仕舞う。
「あの、それは」
「これは――」
言いさして淡雪は口を噤み、初めて健夫を見た。
 健夫はこんな顔立ちだったろうか。淡雪は不安げな健夫を不自然なほど長く見詰める
と、流しのヤカンから冷め切った残雪をカップに注いで飲み干す。そしてもう一杯を注ぐ
と机の向こうに回り、椅子に座った。カップをテーブルの上に置くと、眠気が押し寄せ
る。健夫は何も言わない。言うべきことを言うだけの決心が着かないのだ。淡雪とレヴィ
の様子も、決断を鈍らせる要因となっていた。淡雪は意識が一点に吸い込まれる心地よさ
に抗えなくなる。
「あの」
健夫の声が淡雪を、眠りの敷居から連れ戻す。しかし意識の一部はそのまま眠りの中へ引
き込まれたままだった。
「父さんは」
淡雪は薄目を開ける。健夫の姿が滲んで見えた。健夫は顔を俯けている。覗き込めば、緊
張に硬直した表情が目にできただろう。その悲壮感に淡雪は腹立たしさを覚えた。自分が

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死ぬような目に遭うだけならまだしも、もうすこしでレヴィを失うところだったのだ。
闘ってでも守り抜こうとしている者を。
 それが理不尽な怒りであることは解っていた。しかし、疲れ切った淡雪にその気持ちを
抑えることは難しかった。それではよくないと思いつつも、言い回しや話の手順に気を遣
うだけの余力がなかった。
「残念だけど、あなたのお父さんは奇殺者になってた。理由は解らないけれど、とにか
く、私たちも襲われて。退治したの」
ほぼ完全に目を閉じた状態で淡雪は言った。半ば寝入りかけているせいで、自然とその口
調からは感情が欠落していた。
「そう、ですか」
またもや淡雪が眠りそうになる頃、やっと健夫は呟いた。その声は表向きでしかないにせ
よ、わりに落ち着いている。予想してはいたのだろう。淡雪を責めることもない。奇殺者
については一時期マスメディアの関心の対象となったため、多くの人間がある程度のこと
は知っているのだ。淡雪はカップから残雪を飲む。液体が内壁から浸透し、体中へ行き渡
るのが感じられるようだった。
「あなたのお父さんには賞金が掛かっててね。支払いはだから、そのお金で充分」
その言葉に真実は半分しか含まれていなかった。確かに、回収した信夫の体をくだんの所
へ持っていけば賞金は出る。表面上肉片は奇殺者を殺した証拠を示すためとされていた。
もっとも、それがくだんに回収されてしまうことなどから、賞金は奇殺者退治そのものに
ではなく、肉片のサンプルとしての価値に対して支払われていることは、明らかだった。
珍しい奇殺者の体であれば、たとえまだ大物ではなくとも支払われる額はなかなかのもの
だろう。それでも今回の依頼は赤字だった。試験管五本に入った粉末のせいだ。それらは
どれも非常に希少な物質を原料としているため、一本当たりのコストが途轍もない額なの
だ。使ったのが一、二本なら儲けも出ただろう。けれども五本ともなると、とても賞金で
は埋められない。死なずの悠子でも倒せば別だが。
 健夫は急に金銭の話をされて些か気分を害したようだったが、昏倒寸前の淡雪の姿や、
最悪の事態に直面したことから受ける衝撃に圧倒され、自分でもそんなことには気付かな
かった。
 健夫は深々と息を吐き出すと立ち上がった。それは健夫の物語が淡雪の手から離れてい
く合図となっていた。淡雪は何も言わない。健夫も何も言わない。
 立ち去る健夫がドアを閉めるときにはもう、淡雪は眠りに落ちていた。


 柔らかな暗さに明英は目を細くする。闇は滲むように形を成し、部屋の主を浮かび上が
らせる。
「柏か」
くだんの声だった。
「ご無沙汰しています」
挨拶をしているのは紛れもなく明英だ。
「御存知でしょうが、柊が昨日死にました。それで二番手の登場というわけです」
くだんは黙っていた。感慨を噛みしめているように見えなくもない。
「淡雪さんの所へは、さっき顔を出してきましたよ。死人が生き返ったと思ったらしくて
随分取り乱してました。さすがに今頃は手品の種に気付いたかもしれませんが」
一人目の明英である柊は確かに死んだ。くだんの前に立っているのは二人目の明英、柏
だった。二人はという人物のクローンなのだ。
 六司慈英も明英と同じく優秀な政府のエージェントだった。そして引退後、慈英は自ら
のクローンを数人造り、子供として育てたのだ。表向き、人間のクローンは禁じられてい
るため彼らは六司明英という一人の人物として育てられた。今になってもそのことを知っ
ているのはくだんや政府高官などの一部の人間に限られている。柏や柊というのは、ク

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ローン一人一人の呼称だった。勿論クローンといえども個性はあるのだが、彼らは生まれ
たときから巧妙に「六司明英」という人物を演じてきた。その偽装は今や完全の域に達し
ており、少なくとも明英を演じているあいだ、彼らに差異はなかった。淡雪でさえ見分け
られなかったのはそのためだ。また、長らく演じ続けるうちに、柏や柊の言動所作と明英
というキャラクターのそれとが融合しつつあるのも事実だった。
「計画の進捗状況は?」
くだんが、声を低くして問う。
「一応把握してますけど、詳しい感じはこちらで淡雪さんと接してみないと。ただ、もう
すぐドロシーとトトを切り離す段階なんじゃないかと思います」
「私達も聞いている範囲ではそのようだな。木更津は何か言っていたか?」
「さて。別に何も。ただ、はくたくは疑ってるようでしたけどね。でもまだ大丈夫です」
会話が途絶える。明英は部屋の奥へ回った。そこにある小さな丸椅子に腰掛ける。
「それにしても、いくら事故だったからって、柊もそんな不注意をするとは思えないんで
すけどね」
明英の目の前で、老人の姿をした端末は嘆息した。
「淡雪が憎いか」
「それは、大切な兄弟を殺されたわけだから憎いですよ。ただ、実際に会うとどうも」
明英の言葉尻が弱くなる。
「そう。そこだ。魔女は人を惹きつける。ただその魅了の仕方は独特だ。たんに虜にする
のではなく、魔女の場合、人間の欲望の対象に成り代わることでそれを可能にする。相手
が気付かぬ間に、だ。欲望の対象は人によって異なるが、それを永遠に到達できないもの
や死の概念と関連づけた学者もいる。お前達の場合」
明英が納得の声を上げる。
「それは柊にも言いましたか?」
「いや。気付いているものと思っていたんだが」
沈鬱な気配が閉ざされた室内に充溢する。
「気を付けましょう。私は以前、魔女とやりあったことがあるんですが、その時の苦労か
ら今回はちょっと新しい手を試してみようと思ってるんです。魔女を相手にするには、自
分が会ったら駄目なんです」
「それなら、最初からお前が来ればよかったんじゃないか?」
「そうなんですが、ちょっと私は手が離せない状況だったんですよ。それに、未経験者に
経験を積ませるほうが先々のことを考えれば得です」
明英はそう言うと、軽く眼鏡を押し上げた。

 店を終えてアパートに帰った淡雪は錆の浮いたドアの前にエメラルドグリーンのメモが
貼り付けられているのを目にして嫌な予感がした。エメラルドグリーンは魔女にとって不
吉な色なのだ。重い足取りでドアに歩き寄る。メモにはこう書かれていた。「ドロシー・
ゲイル嬢へ、まずはご挨拶まで」。淡雪はメモを剥ぎ取る。セロハンテープに付着して、
赤茶の塗料が剥げてしまう。
 誰がやったのかは明らかだった。明英だ。こんな、一行足らずの言葉に動揺してしまう
自分が煩わしかった。メモを握りつぶした淡雪はそれを手すりから通りへ向かって投げ捨
てる。メモを触った右手がむず痒く感じられ、淡雪はその手を服の裾で擦る。
 その翌日から明英はまったく「ゆき屋」へ現れなくなった。代わりに、淡雪の生活範囲
へエメラルドグリーンのメモが紛れ込み始めた。
 メモには「オズの魔法使い」からの引用や、オズシリーズに絡めた言葉が記されてい
た。「黄色い道はどこですか?」、「ドロシー・ゲイル女王陛下、オズの国勢はどうです
か?」、「ドロシーへ、オズマ姫によろしく」、「ドロシーへ、南のよい魔女グリンダに
会うこと」、「バケツに水は張られている。あとは西の魔女にかけるだけ」等々。それら
無数の小さな言葉の断片は少しずつ淡雪を追い詰めていった。メモは、荒神町に偏在する

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砂埃のように、淡雪の行く先々に付いて回った。淡雪がふと向ける視線の先に、脚を踏み
出すその先に、行きつけの店の入口に、アパートのドアに、窓に、店の郵便受けに、気が
付くとメモは貼られていた。それらの言葉は淡雪の自我を僅かずつ締め上げ、歪ませる。
魔女は僅かな力で容易に、ドロシーというキャラクターへ傾斜させられる。己がドロシー
でもあるという認識は淡雪にとって、あまりにも違和感がなかった。ある日頭上に現れる
家の主、バケツの中の薄汚い水を浴びせかける終焉の少女。魔女に死をもたらす唯一の存
在であり、小説の登場人物であるドロシー・ゲイルと実在している自分とが同類である。
這い回る蒸し暑さのような実感が淡雪から集中力を持ち去る。
 当然、すぐに淡雪は明英を捜したのだが明英は既に宿を引き払っており、行方を掴むこ
とができなかった。人口が多くないと言ったところで、どこかに隠れている人間を手掛か
りもなしに見付けるのは難しい。特に都市計画というものの全くない荒神町は、町全体が
道によって細分化され、迷宮のような様相を呈しているのだ。
 その晩も、店が終わった淡雪はレヴィを従えて夜の荒神町を彷徨っていた。一八丁目の
表通りも道はゴミに覆われている。ただ二〇番地域と違うのは人の通る真ん中だけ黒いア
スファルトが顔を覗かせていることだ。照明になるものといえば中天に掛かる月だけだっ
た。
 そんな一八丁目の一角に立っている、切れた送電線の垂れ下がる電柱にエメラルドグ
リーンの紙片を発見し、淡雪は頬を硬直させる。レヴィを待たせゴミを踏みつけてそこま
で行くと、紙には「トトに気を付けて」と書いてあった。その言葉に思わず後ろを振り返
る。レヴィは淡雪が待つように言ったその場所で、漠然と佇んでいる。淡雪は電柱からメ
モを剥がすと足下に捨てた。
「トトに気を付けて」その言葉の意味を考える。トトというのはドロシーが連れいている
犬の名前だ。そして、自分をドロシーになぞらえるなら、連れているレヴィがトトという
ことになる。いよいよ本気でレヴィを連れ去ろうということだろうか。
 道の反対側からスーツを着た男が近付いてくる。その手に握られたナイフの刃が、ビル
間から差し込む月明りを吸い寄せ、反射している。周辺に二人以外の人間はいない。
「レヴィ。あの男とあたしを繋いで」
そう言ったのは男がかなり傍に来てからのことだった。目が男を捉えても、それに対する
反応が思い浮かばなかったのだ。ここ数日、認識と反応までのあいだに時間的な隔たりが
広がっている。
 淡雪の視界が閃光に包まれ、男が前のめりに倒れる。その手からナイフが投げ出され、
重みのある硬音が響く。
 視界が戻っても、男が意識を失っているという情報を脳が理解するのに数秒の時間を要
した。男が倒れていることの意味が脳髄に浸透すると、淡雪はレヴィを促してその場を立
ち去った。
 一八丁目を東に抜けるとそこは二一丁目だ。捨て置かれた建造物が居並び、割れかけた
道路は未舗装路よりも歩きにくい。歩行者のいないそこを、淡雪は覚束無い足取りで歩い
ていく。首筋をこごめるようにし、猫背になって歩く淡雪の影が道に薄く落ちている。
 ふと気配を感じ、淡雪は顔を上げる。二人の行く手を阻むようにして少女が一人、立っ
ていた。少女の顔は月光の影になり、淡雪からは見えない。しかし、月明かりに透ける長
い黄金の髪と、宵の空を思わせるワンピースが、おかしな鮮やかさで目に映える。少女の
右手にはバケツが下げられていた。
「ドロシー」
殆ど動くことなしに、淡雪の唇が少女の名をなぞる。それに応えるかのように、ドロシー
はバケツに左手をそえ、胸元で構える。淡雪は振り返るとレヴィの手を引っ張り、全力で
走り出した。
 脇腹が痛むほど走っても、足場の悪さと打撲の影響がまだ残っているレヴィのせいで、
それほど速度が出ない。しかしドロシーは気配をちらつかせるばかりで、決して淡雪に追
い付こうとはしない。幾度も振り返りたい衝動に駆られる淡雪だったが、そんな余裕がな

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いことは判っていた。これ以上足が鈍れば、ドロシーは簡単に彼女を捕えるだろう。
 淡雪の視界の端を黒いものが頻繁に過ぎる。月の光の届かない、路地の入口だ。そこへ
飛び込めれば身を隠しやすいような気もするが、真闇の中を転ばずにいるのは至難の業だ
し、信夫のときのようにそこが粗大ゴミの投棄場所となっているかもしれない。そんな場
所へ足を踏み入れれば、却って動けなくなるだけだ。もし路地が道として機能していたと
しても、そもそも隠れるくらいでドロシーをやり過ごせるとは思われない。
 自分がどこをどう走っているのか、途中から淡雪は見失っていた。ただ、背後に広大な
怖気がわだかまっている。その圧力は時間と共に増していく。
 どこまで進んでも辺りの風景は代わり映えがしない。そのせいか、同じ所をただ回って
いるだけのような気にさせられ、それが淡雪から逃走の意志を削ぐ。
逃げなければという意欲は少しずつ剥落し、淡雪の走りを鈍らせる。疲労がそれに追い打
ちを掛け、とうとう淡雪は立ち止まった。急な変化に反応できなかったレヴィが、淡雪の
腕を引っ張る。淡雪はそれを両の足で押し殺し、やや前のめりになった姿勢からレヴィの
手を離して、振り向きざまに虚電を放つ。詠唱や粉末のない分、威力も真冬のドアノブか
ら受ける静電気と大差ないものになってしまうが仕方がない。背後でレヴィの転ぶ音が大
きく響く。
 指先に痺れが奔ったかと思うと、淡雪の精一杯差し伸べられた手の先に仄青い放電が起
き、見えない導線を伝うかのようにして迫り来るドロシーを包む。
 電荷の網は一瞬ドロシーの顔を照らし、首筋に直撃した。全身を包むほどの量もないの
だ。当然それは、全く効き目を現さなかった。諦念と己の悔恨に全身が硬直し、臆面もな
い恐怖が肢体に炸裂する。
 ドロシーは目の前で立ち止まった。その顔は輪郭の定まらない、雑徭とした表情を浮か
べている。頬に浮かんだそばかすを除けば、肌理の細やかな肌は死蝋であるかのようだっ
た。田舎育ちの少女の利発さと愚鈍さまでもが、淡雪にはありありと見て取れる。
 ドロシーは右手でバケツの底を支えると、躊躇うことなく中のものを淡雪へ浴びせた。
淡雪は反射的に目をつぶる。
 何も起こりはしなかった。一〇秒ほどが経過し、淡雪は静かに目を開く。そこには誰も
いなかった。辺りを見回しても、いるのは地面に横になったままのレヴィだけだ。風が正
面から吹き付ける。
 やがて淡雪はすさんだ周囲へまだ少し訝しげな視線を巡らせながら立っていたが、真相
に思い至った。自分を追い掛けてきたドロシーは幻だったのだ。そう考えてみると思い当
たる節がある。淡雪の前に現れたドロシーが妙に鮮やかだったことだ。現実認識能力が衰
えるとともに、周囲の世界は淡雪にとってどこか遠いものに感じられていた。ところが、
ドロシーの存在感はそれら現実の事物に比べて遥にリアリティがあったのだ。虚構認識能
力が向上している。その考えは、頸を柔らかに締められるような圧力を淡雪に与える。だ
が、実際にそうなのだろう。今の淡雪にも、自分が精神的に追いつめられていることは自
覚できる。
 現実よりも虚構に近付いているという認識を淡雪は打ち消そうとする。ただたんに精神
がまいっているだけだ。自分に向かってそう言い聞かせようと、報われない努力をする。
転んだままの姿勢で俯せになっているレヴィを助け起こす。幸い、腕に幾つか擦り傷があ
るだけだ。血が滲んで、細い模様を形作っている。
 落ち着いて周囲を見回すと、本当にまばらにではあるが街灯が設けられている。その中
でも生き残って光を放っているのは三つに一つくらいなものだが。しかし、街灯があると
いうことは九丁目以内であるはずだった。一〇丁目以降には二〇丁目の入口にあるもの以
外、生きている街灯はない。憶えている限りでは二〇丁目から概ね北へ向かったはずなの
で、おそらく一五丁目を越えて八丁目の辺りだろう。見知ったものがないかと道の両側に
目を彷徨わせた淡雪だったが、そういったものはないようだった。建物の多くは窓ガラス
が割れており、壁の傷みも激しい。だが所々に補修の形跡があり、段ボールで塞がれた窓
の隙間から光が漏れている所もあるので、そこがまだ生きていることが知れる。

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 月に背を向けて進めばだいたい北へ向かうことになる。途中で見覚えのある場所へ出る
かもしれないし、最悪でもいずれは町の縁に辿り着くだろう。淡雪は重たげに瞼をしばた
たかせると月を背後に歩き始めた。
 荒神町は角の丸い菱形をしている。鋭角の両端が一丁目と二四丁目になっており、鈍角
の東側が一〇丁目である。川で遮られている北東側は別として、その他の三辺は高い塀で
隣接する町と隔てられている。そのため、原則として町へ入るには一丁目を通過しなけれ
ばならない。ただし、塀の所々には抜け穴が存在しているため、その場所さえ知っていれ
ばそこからも町へ出入りすることは可能だ。また、塀で仕切られているとはいえ、好んで
荒神町の傍へ住むような人間はおらず、町の周辺地域は打ち捨てられた荒れ地や、二〇丁
目のような粗大ゴミの集積地などになっている。
 幸い、少し歩くと程なく見覚えのある通りに出た。壁に緑のペンキで大きく、目玉に似
た不可解な記号の書かれたアパートがあったので記憶に残っていたのだ。真北ではなく少
し西寄りに進んでいたらしく、淡雪達のいる場所は七丁目と八町目の境界近くだった。
 廃油のような疲労が淡雪の埋に溜まっている。もう帰って休みたかったのだが、家の前
に翡翠色の紙切れが張られているだろうことは確実であり、それだけでアパートに帰るの
がためらわれる。かといって、ここに立ち尽くしているわけにもいかない。この辺りは死
なずの悠子と並ぶ最悪の奇殺者、黴医者の出没範囲だ。黴医者は白衣をまとった痩せた男
で、その白衣に散った無数の血痕が黒ずんで黴に見えることからそう呼ばれている。これ
まで何度か淡雪も遭遇したことがあったが、悠子同様レヴィの接続能力は効果がなかっ
た。それでも二〇丁目ほど足場が悪いわけでもないし、普段ならどうにかしのげるかもし
れないが、今の淡雪では難しい。気は乗らないが、帰ってしまうのが最善だろう。
 朧げに分散している意識をかき集めると、淡雪は家までの道のりを思い出そうとした。
だが、どうしても道程を思い浮かべることはできなかった。必ず途中で違う道のりと混ざ
り合って、判らなくなってしまうのだ。おまけにだんだん、ひとつのことに思考を集中さ
せるのが困難になってくる。いつまでも埒があかないので、体が憶えていることを期待し
ながら、淡雪はアパート目指して移動を開始した。
 夜は表通り以外まともに歩けはしないというのに、淡雪達は誰とも出会わなかった。蟲
を内部に抱えているかのような傷んだ建物の間を二人は淡々と歩く。淡雪の右手にはレ
ヴィの右手がしっかりと握られている。その、少し冷たくて控えめな張りのある掌の感触
が淡雪は好きだった。全くコミュニケーションの取れないレヴィが、少しだが近しく感じ
られる気がするのだ。それが一方的な思い込みにすぎないのであるとしても、それはそれ
でかまわないと淡雪は思っている。
 歩いていると、逐次正しい道が思い出される。曲がるべき角、進むべき交差点。それら
は近づけば自然と脳裏に再生され、行き過ぎればまた混濁の泡沫へ消えてしまう。
 吹き渡る夜風は既に初夏の気配を含んでいる。穏やかな大気の匂いだ。夜闇と薫風、滑
らかなレヴィの肌が淡雪の心を宥める。強張りがちな淡雪の顔付きが心持ち弛緩する。
 六丁目へ近付くにつれ、町の姿は整ってくる。建物は形を留めており、道に捨てられた
ゴミの量も減っている。ただ、生活する人間の数が多いためか、生ゴミの腐臭が漂ってい
る。それは不快ではあるが、この地区が人間が暮らせる程度には安全であることの証明で
もある。他の町に比べれば惨憺たるものなのだが、二〇丁目以降の荒れようからすればま
だ町らしい。
 七丁目から六丁目に入り、斜めに横断すればそこはもう一四丁目だ。建物と建物の間を
抜け、淡雪はアパートを目指す。気乗りしないのは変わらないが、やはり力ある奇殺者と
応戦する状況に陥った場合のことを考えると、今夜はもう安全な部屋へ戻る以外に選択肢
はなかった。
 ビルの合間の一〇メートルほどの狭い道に入ると、途端に空気が冷ややかに感じられ
る。通りと比べてそれほど差があるはずはないのだが、ビルの影に包まれると、そこだけ
冷気がわだかまっているようだった。その感触はまるで影が、淡雪を優しく覆うかのよう
だった。闇に愛されているという感覚は淡雪に限らず、全ての魔女にとって快いものだっ

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た。その存在の基本的な嗜好として、魔女は闇を好む傾向にある。それは何も悪の比喩と
してではなく、単純に好きなのだ。彼女たちが黒い衣服を身に着けているのもそのためで
あるし、店内が薄暗いのは薬品のためばかりではない。
 闇と薄明かりの単調な反復に淡雪の集中力は失われていく。人が一人やっと通れるくら
いの狭いビルの狭間で、とうとう淡雪は足を止めた。壁に身を預け、全身が隈無く暗がり
に抱きしめられるのを味わう。小さな顎を持ち上げて空を仰げば、漆黒の帯の間に暗灰色
の夜空が覗いている。その淡い、沈み込むような光景が淡雪を覆う闇の肌合いのよさと一
体となって、淡雪の張り詰めた緊張をやわやわと緩めていく。
 意識を無理矢理まとめ上げている意志の枷を外せば、自我は小さな断片となり静かに拡
散していく。感覚が、思考が、名前が、存在が、無窮の奈辺へと消えていく。それは淡雪
にとって想像していたような恐ろしいものでは決してなく、懐かしささえ感じられる穏や
かなものだった。虚無へと還ることの心地よさに、自己以前の段階にまで還元された淡雪
は喜悦の吐息を漏らす。夜は恬淡と更けていく。
 
 明英は組んでいた腕をほどいて両の眉を持ち上げた。左の手を眉間に当て、額を揉む。
明英は淡雪達を尾行していた。普段ならすぐに気付かれてしまうのだろうが、明英の仕掛
けた言葉の数々で精神的に弱っている今の淡雪に見付かる恐れはなかった。
 淡雪に従って冥茫たる荒神町を抜けていくと、変哲のない路地で淡雪は立ち止まった。
一瞬、気付かれたかと緊張した明英だったが、そうではなかったらしい。淡雪は壁に寄り
かかると動かなくなってしまった。その横では放ったらかしにされたレヴィが、何をする
でもなく静止している。物陰からそんな二人の様子を窺っていた明英は、淡雪の意図を掴
みかねていた。まともな状態にないとはいえ、あまりにも不用意だ。明英でなくとも、奇
殺者に襲われたらひとたまりもない。今、淡雪とレヴィに死なれるわけにはいかない。
 手持ち無沙汰な明英はズボンのポケットから小さな端末機を取り出した。左端にあるス
イッチを入れると端末は待機モードから目覚め、液晶画面に画像が表示される。それはこ
の周辺の地図だった。中央には赤と緑の点が輝いている。淡雪とレヴィだ。明英は詰まら
なさそうに二つの輝点を眺めていたが、再び待機モードのスイッチを入れるとそれをポ
ケットへ入れた。
 衛星を利用した位置認識システムの使用で淡雪達の居所を割り出すのは容易だった。明
英はただそれを参考にしつつ行く先々にメモを貼っていけばいいだけのことだった。
 魔女に会うことなく、その精神を少しずつ疲弊させていく。初めての試みだったがこれ
ほど上手くいくとは明英自身思ってもいなかった。当初考えていた問題は殆ど発生してい
ない。しかし、それでも不安材料はあった。まず第一に、今もそうなのだが淡雪のレヴィ
保護能力の低下がある。そもそもレヴィの回収が今回の仕事の目的なのだから、荒神町の
危険要素によってレヴィの命が奪われるようなことはあってはならない。はやくこちらの
手元にレヴィを置いてしまいたいのだが、まだそうするべきときではなかった。
 第二の不安としてリルケの存在が挙げられる。このところ、明英はリルケの執拗な攻撃
を受けてきた。明英は淡雪を追い詰めながらリルケの追跡をかわしてきたのだ。リルケに
負ける心配はあまりしていないが、かといって手を抜ける相手でもないので煩わしかっ
た。殺してしまえればいいのだが、それは得策ではなかった。計画の遂行にあたって、リ
ルケが役立ちそうに思えるからだ。そのため、常時周囲に気を配って不意の襲撃に備えて
いなければならない。またこのところリルケはどこからか手に入れた拳銃を使うように
なっており、ナイフを使っていた今までに比べて格段に危険性が増している。
 拳銃は荒神町ではあまり一般的な武器ではない。弾丸にしろ維持にしろ、とにかく金が
かかるためだ。それに、拳銃そのものを得るだけの金でさえ持っていない人間が多い。
従って、荒神町の人々の主要な武器はナイフや金属バットだ。特に殺人鬼の場合、死体を
切り刻む目的などから鋭利なナイフを好んで用いる。町に来てからほぼ毎日のように、
様々な動機から襲いかかってくる人間と遭遇する明英だったが、リルケ以外に銃を持って
いる者など見なかった。勿論、組関係者や闇ブローカーなどは銃を持っているのだろう

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が、そういった人間は普段銃を抜くようなことがない。
 リルケの厄介さは他にもある。茫洋として暮らしている淡雪と違って、リルケには発信
器を取り付けられないため、どこにいるのか察知できないのだ。
 急に近くで物音がした。明英はそちらを向く。その手にはすでに、例の直方体型短銃が
握られている。明英の左八メートルくらいの所にある古寂びた建物の入口から男が出てき
た。髪も髭も伸びるに任されており、服は綻びだらけで、ちゃんと身にまとえているのか
も怪しい。
 男の左手には鉄パイプが握られている。先の方が鍵字に曲がっており、なかなかの重量
感だ。もっと近寄れば、その禍々しい威圧感の表面に乾いた血痕が見られるかもしれな
い。話をするのは時間の無駄だろう。そう判断した明英は腰の辺りで肘を固定すると、男
に向かって発砲した。素早く反動を腰骨で受け止める。
 鈍磨した音と共に男の手から鉄パイプが落ちる。突如発生した激痛に男は呻き声を上げ
る。明英は続けて数発、引き金を引く。四肢が勝手な方向に投げ出されながら、男は倒れ
る。明英は男に近付くと、頭に向かってもう一度打った。反動で軽く頭が弾み、制御のな
くなった肉体が緩慢に動く。明英は銃を宙に振って冷ましながらさっきまで立っていた場
所へ戻る。淡雪達はまだそこにいた。明英は短い視線を倒れている男に向け、また淡雪へ
戻す。これまでも何かを待つことはあったが、今回は些か緊張を欠く。時間を巧く遣り過
ごすには俳句をひねるのが一番だと、以前柊が言っていたのを思い出す。柊は俳句を作る
のが趣味だったようだが、ついに一つも目にすることはなかった。柊が俳句を一切残して
いないのは万が一第三者に発見された場合、そこから六司明英という人物の同一性が破綻
するような事態を防ぐためもあるが、柊自身の照れもあったのだろう。クローンの中では
柊が最も繊細な神経を持っていた。柊のことを思い出すと、あらためて淡雪への冷え冷え
とした憎しみが湧いてくる。明英は静かに咳払いをすると眼鏡を押し上げた。
 暇を持て余す微かな苛立ちが明英の集中を妨げる。緊張感が自然と漸減していく。あく
びを噛み殺して明英は待ち続ける。淡雪がこれほど長い時間いったい何をしているのか、
全く想像が付かない。明英のメモにこの頃かなり堪えている様子だったので或いは精神が
崩壊でもしてしまったかという懸念も浮かぶが、さすがにそこまで脆くはないだろう。
 一時間近くが経過した。幾つかの気だるい思惑が明英を微かに不快な気分にする。その
感情を抑えながらなおも待っていると、何の前触れもなく淡雪が壁から身を離した。明英
は急いで隠れる。ややあって淡雪の方を物陰から見ると、丁度歩き始めたところだった。
レヴィが邪魔で直接その姿は目視できない。明英は淡雪が通りを抜け、左へ曲がるのを見
届けてからその後を追う。
 アパートに着くまで邪魔が入ることもなく、尾行は順調に進んだ。しかしその順調さと
は裏腹に明英の精神は鋭さを増す。淡雪のアパート周辺にはリルケのいる可能性があるか
らだ。効率よくこちらと出会うため、リルケは淡雪の生活圏で待ち伏せしていることがよ
くある。
 淡雪のアパート周辺は番地のわりに小奇麗な場所にあるため、わけもなく積み上がった
廃材の山にリルケが潜んでいるような気遣いはなかった。その分、襲われた場合に自分が
身を隠せる場所も少ないのであったが。
 幸いに今夜リルケはいないようだった。淡雪の住んでいる階を見上げると、やがて踊り
場から二人が出てきた。いつものように事前に明英が貼っておいたメモを淡雪がドアから
剥がし、通りへ投げ捨てる。風に吹かれたエメラルド色の紙片が月光の中、地面へ落下す
るのがよく見える。その紙屑が地面へ到達するのを待つことなく、明英はその場を立ち
去った。


 数日が過ぎた。だがもはや淡雪には実際に何日が経過したのか、判らなくなっていた。
ドロシーに追われた晩以来、淡雪の意識はますます取り留めのないものとなり、現実感も
その効力を失っている。「ゆき屋」は営業を中止したままとなり、淡雪は殆ど外に出るこ

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ともなく、漠然とした、言語以前の思考でもって最低限レヴィの世話をする以外は微睡み
の中で暮らしていた。
 覚醒と睡眠のあわいで、断片の緩やかな集合体と化した淡雪は言い知れない暖かみを知
覚していた。それは現実よりも鮮やかな認識の彩度を放ち、駘蕩として淡雪を覆った。自
我がより大きくしっかりとしたものに包まれるという感覚は、日頃存在することへの不安
を感じている淡雪にとってこれ以上ないくらいに落ち着ける状態であった。そこでは自己
が拡薄化しているがゆえに、自分が虚構であるか実在であるか、そうした煩いまでもがそ
もそも意味を失ってしまうのだった。
 それはまた、不思議と淡雪に強い郷愁を呼び覚ますものでもあった。今までに暮らした
どの国へと向けられるのでもない、生まれる以前のどこか無限に隔たった場所への呼び掛
けだ。その呼び掛けに応えたいという衝動が、淡雪の内側をもの狂おしく擾乱する。自分
を、自我を拡散させるほどに彼方からの呼び声は、暖かみは、親密さは強くなる。それに
呼応して淡雪という存在はさらに希薄化する。それが自分の創り出した幻想かもしれない
ことはわかっていた。しかし実際にそれが淡雪へもたらすものを前にすると、実在するの
かどうかなど、どうでもいいことのように思われた。
 空腹や眠気などの生理的欲求に牽引され、水面へ浮かび上がるように時折、淡雪の意識
が緩くではあるがまとまりを取り戻すことがある。そんなとき淡雪は怖ず怖ずと立ち上が
り、自分やレヴィの食事を準備したり買い物に出掛けたりするのである。
 淡雪が覚醒すると、レヴィは最後に見たときのままの姿勢で不動を保っていた。本当に
不随意筋の脈動以外は全く動かないのだろう。見る度にレヴィは器物のような雰囲気を強
めていた。それを目にすると、保護者としてとうに機能しなくなっていることを実感させ
られ淡雪の心は引き絞られる。何とかしなければと思いはするのだが幽かな呼び掛けには
抗えず、結局は再び失我の薄明に融解していってしまう。
 淡雪の瞼が物憂げに開いた。密やかに顰められた眉が鈍化した淡雪の知覚を思わせる。
重たげに首を左へ向ければレヴィは流しの横の椅子に腰掛けている。その姿に意識の明度
が上がる。途端に空腹と喉の渇きが感じられた。壁に掛けられたカレンダー付きの時計は
最後に淡雪が活動してから三日が経過したことを示している。
 立ち上がると関節の強張りのために軋むような感触がある。栄養が酷く足りないせいで
体に力が入らない。レヴィに向かって足を踏み出せば足裏の感覚は酷く心許ないもので、
およそ硬さを持った床とは思えなかった。
 レヴィの頬を手で触るとざらつく感触があった。ややあって、それが埃であることに思
い至る。よく見れば黒いシャツの肩にも、ほんのりと灰蒼色を帯びた層ができている。淡
雪は掌で静かに、その埃を払った。
 取り敢えず何か飲もうと思い立ち、淡雪は冷蔵庫を開けた。しかし中は殆ど空で、醤油
やケチャップといった僅かな調味料と、いつ買ったのか思い出せないまま捨てそびれてい
る飲みかけの牛乳しか入っていなかった。
「レヴィ、立って」
気怠そうに淡雪が言うと、レヴィはぎこちなく立ち上がった。淡雪は財布と鍵を入れた
ポーチを持つと、レヴィの手を引いて玄関を出た。

 外に出た淡雪はそこに置かれている毒々しい萌葱の包装が施された箱に気が付いた。不
安の予感にその瞳孔が開く。
 手前を振り返ればそこには見慣れたメモ。淡雪はそれを読むと箱を拾い上げた。軽い。
「ごめん、レヴィ。ちょっと戻ろ」
淡雪は箱を脇に抱え、部屋へ引き返した。
 ソファへ座ると淡雪は目の前の机に置いた箱を凝視した。直感がその中身を囁く。後戻
りのできない、痛々しい物であると。
 やがて淡雪はその白く細やかな手を伸ばし、箱の包みを開け始めた。爆発物の解体を行
うがごとく、慎重にテープを剥がし、折り目を戻す。

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 現れたのは靴箱であった。箱にはルイ・ヴィトンのロゴが記されている。明英が送り主
であることを考えれば、おそらく本物だろう。
 蓋を開けて出てきたのは淡雪が予想していたとおりの物だった。銀のパンプス。ヒール
はあまり高くなく、燻し銀のアッパー部分は構築的でありながら繊細さを失っていない。
踵のバックルに小さくルイ・ヴィトンのロゴがシルバーであしらわれているが、その他に
装飾はない。シンプルなデザインで、その分シルエットの典雅な美しさが際立っていた。
しかし淡雪にはそのプレゼントを素直に喜ぶことができなかった。「オズの魔法使い」に
おいて、銀色の靴はドロシーが最後に故郷へ帰るために使用される。その靴を履いて踵を
三回打ち鳴らすと、靴は履いている者を望む場所へと連れて行く力があるのだ。
 この靴を履いて踵を鳴らせば自分も望むところへ、あの呼びかけの源泉へ行けるのでは
ないだろうか。もしそうなら、英雄となったドロシーが変哲ない田舎娘に戻ったように、
自分も魔女という厄介な個性からもっと穏やかな何かへ、戻った方がいいのかもしれな
い。
 その考えが馬鹿馬鹿しいものだというのは解っていたが、それでも現実検討能力の衰え
た淡雪にはその考えが虚構であるがゆえの実感的な説得力を持っていた。ドロシーと自分
が一体であるならば、自分もあの少女がカンサスへ帰ったように、帰ることができるかも
しれない。しかしどこへ? その疑問に答えるように、あの呼び声が聞こえた。淡雪が帰
るべき場所、現実や虚構といったものの境界が無効となる、無我の世界だ。
 かつてないほどの強烈な郷愁に淡雪は息を詰まらせた。自分が今いる世界において異邦
人なのだという確信が、寄る辺ない心細さを淡雪に与える。自分が本来ここにいるべき存
在ではないという実感。北欧にいようがエジプトに居ようが、アジアのどんな国に居よう
が感じることのなかった違和感だ。しかしそれは意識されていなかったというだけで、気
付いてみれば最初から常に、その感覚は淡雪の深層にあったのだった。
 淡雪にとっての現実の中で、靴はすでに既製品ではなくオズの国より届けられた帰郷の
ための魔法具として捉えられていた。バックルの意匠でさえ、呪的なイコンとして見られ
る。
 自己の薄滅から繋がるものを知った今の淡雪には、自己をドロシーと同一視することさ
え受け入れられるような気がしていた。それに自分を無へと近付けることに心地よさを覚
えてしまうと、自分が虚構の存在であり、本質的に存在の基盤を持ち合わせていないかも
しれないという考えは、恐怖や不安の対象ではなくむしろ些細なことであるかのように感
じられた。
 一方で、衰弱してはいるもののまだ生き残っている現実感が淡雪の妄想を嗤う。そんな
ことあるわけがない。仮に自分とドロシーが根本的に同じ存在であるにしても同一人物で
はないのだし、靴はただの靴にすぎない。それに何処であるにしろ帰ると言ったところ
で、残されたレヴィはどうするのか。淡雪は向かいに座ったレヴィを見る。早くもレヴィ
は周囲の器物と融和し始めているようだ。生物としての実在感が感じられない。
 望郷の欲動と現実認識との狭間で淡雪は悩んだ。両者が、まるで淡雪とは別人であるか
のように二手に分かれて譲らない。懊悩を抱えた淡雪は靴とレヴィとの間で視線を彷徨わ
せる。
 欲動を抑え続けるだけの精神力は淡雪には残されていなかった。どうせ履いても何も起
こりはしない。そんな言葉でレヴィへの罪悪感を赦免しながら、淡雪は片足ずつパンプス
を履いていった。厳かな儀式が執行されるかのような静寂の下で、靴はまるで淡雪の足に
合わせてその身を変形させたかのように足へ馴染んだ。ソファに座ったまま、端正なパン
プスが足を彩っている様を眺めた途端、淡雪の中で望郷の想いが明瞭な形を伴って迸る。
双眸から音もなく涙滴が零れる。
 切なさに哀惜を覚えると共に、淡雪は自分が涙していることを驚いた。それほどまでに
強い感情の揺らぎに晒されることがあるなどとは思ってもいなかったのだ。
 震えながら立ち上がると淡雪は足を見下ろす。膝から力が抜け落ちそうになるのを必死
で堪える。スカートの裾から覗いている脹ら脛がどうしても小刻みに震えてしまう。

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 一度だけレヴィに目を向けると、転ばないように細心の注意を払いつつ右足を上げ、淡
雪は踵を三度打ち鳴らした。その途端意識が雲散し「淡雪」という名の自我は霧消した。

 陽光は早くも春を脱却し夏へと滑り込み始めている。リルケは悄然とした眼差しで窓の
外を眺めている。
 昨日も明英に出会えなかったことでリルケは焦っていた。これでもう三日連続で明英を
逃し続けている。明らかに最初のころと比べ、明英は隠れるのが巧みになっている。リル
ケの行動パターンを分析しているとでもいうならまだしも、町中に存在する朧な情報網に
さえ引っ掛からなくなっている。
 ベッドから降りるとリルケはテーブルに出してあったマグカップへコーヒーの粉末を入
れ、湯を注いだ。よそよそしいインスタントコーヒーの香りが部屋に漂う。少し熱いのを
無理に啜ると口全体に渋みが広がる。もう一口飲むとリルケはマグカップをテーブルへ置
き、出掛ける仕度を始めた。
 銃を手に入れても、それ以外の相手のためにリルケは相変わらずナイフも持ち歩いてい
た。リルケの収入と比較して弾丸は決して安いものではないし、やはり馴染んだナイフの
方が扱いやすいためだ。それに、腕を鈍らせたくないという思いもある。リルケは黒い
カーゴパンツのあちこちに取り付けられたポケットへ鞘にはまったナイフを落とし込んで
いく。
 拳銃はアパートの三階に住んでいる暴力団員から買ったものだ。あまり信用のできる人
間でもないのだが、それでも銃を持っていそうな人種の中では一番まともだった。
 弾丸とのセットを即金で支払うのはかなりきつかったのだが、この町でカードやローン
といったものは駅前の店くらいでしか通用しない。まして、個人同士の売買ならなおさら
だった。
 弾倉へ弾を装填すると、俄かに拳銃は存在感を帯びて感じられる。銃に詳しくないリル
ケにはそれが何という名前なのかも判らない。売るときに相手の男がPナントカというド
イツ製だと言っていたのだが、それが優れた銃であるのかどうなのかもはっきりしない。
当然のようにホルスターなどないため、ロックの掛かった小ぶりの拳銃をリルケは無造作
に腿のサイドポケットへ突っ込む。
 アパートを出ると真っ直ぐ三丁目に向かう。情報屋に会うためだ。このところ音沙汰が
なかったのだが、今朝起きてみると明英らしき男に関する新しい目撃情報が手に入ったと
いうメールが来ていたのだ。発信時間は今日の早朝になっている。どうも日毎に明英は潜
伏先を変更しているようで、情報がそれほど役に立つとも考えられないのだが頼んでおい
た手前、情報を受け取りに行かないわけにもいかない。せめて調査費だけでも支払う必要
がある。
 情報屋の店は三丁目の奥まった一角の、ことさらに日当たりの悪い二階建のビルの二階
にある。一歩店へ踏み込むと、染み付いた煙草の匂いがした。
 狭い店内には古いパソコンが二台、事務机の上に並んでいるだけだ。それと三台の電
話。今ではあまり見ないファックス付きのやつだ。机の前には応接用のテーブルとソファ
が置かれているのだが、リルケはそれに人が座っている所を見たことがない。
「いらっしゃい」
パソコンから顔を上げ、年老いた男が眼鏡越しにリルケを見る。この店の主だ。情報屋は
この主と、息子の二人で営まれている。息子はどうやら外出中のようだ。早朝にメールが
来ていたことを考えれば、或いは家で休んでいるのかもしれない。副業の関係で情報屋と
の付き合いは長いのだが、それでもここの営業形態はいまひとつ理解できないものがあ
る。
「メールが来てたので」
リルケが切り出すと主は加齢に弛んだ首を落とし込むように曲げてうなずいた。
「座んなさい」
言われるままにリルケは主の向かいにあるスツールへ座った。油のとっくに切れたスプリ

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ングが呻きを上げる。そのスツールは腰を下ろすたび、今度こそ背もたれが折れるのでは
ないかという気にさせられる。
「依頼してた件だけどね」
主は煙草に火を点けると一口吸い、鼻を鳴らした。
「いくらです?」
「五万だ」
思わずリルケは驚きの表情を浮かべてしまった。慌てて打ち消すが遅かった。
「明英とかいう男を見たって話はメールで知らせたと思うが、実はそれだけじゃないん
だ」そこで主は言葉を切り、煙草の灰を灰皿へ落とした。「先に5万」
 リルケは財布を取り出すと、そこから一万円札を五枚取り出し、机の縁に置いた。確か
に代金を支払えるという証明だ。主はそれを一瞥するとまた大きな身振りでうなずいた。
主の癖なのだ。
「話によると、昨日の夜一〇時くらいに、七丁目の大船ビルの横でそれらしい男を見たっ
ていうことだ。ただな、そのとき男が連れていたのが聞いたところからするにどうもあの
淡雪の養ってる、なんだ」
「レヴィ、ですか」
リルケの声が強張る。
「そうそう。どうもそのレヴィらしいんだ。それだけじゃない。二人は今、二一丁目の昔
はセンチュリークラウンビルって名前だった場所にいるみたいなんだ。センチュリークラ
ウンビルって言って判るかなあ。もうお前が生まれる前には潰れちゃってたんだが」
リルケに心当たりの建物は浮かばなかった。
「そうだろうな。そこで、だ。ここに昔の地図がある。な? この丸で囲ってあるのがそ
こだ。これを手掛かりにしてりゃあだいたい判るだろ」
主は一枚のコピーを差し出した。荒神町がまともだった頃に作成された地図だ。
リルケは地図を受け取ると、五万円を主の方へ押し遣った。
「確かに」
主は受け取った金を胸のポケットへ畳み入れた。リルケは立ち上がると店を出た。
「がんばれよう」
主の声が背中越しに聞こえた。
 リルケはまず最初に淡雪の元へ行くか、それともまっすぐ二一丁目へ行くか迷った。こ
のところの淡雪のことを想う。淡雪は相当に参っている様子で、リルケが話し掛けても上
の空、返事をしても要領を得ないことが多い。先日などはどうやらドロシーの幻覚に追い
回されたらしい。それがどういう意味であるのか、「魔女学」を読んだ今ならおおよそ想
像がつく。そんな状態の淡雪からレヴィを連れ去るのは容易なことだったろう。最悪の場
合、淡雪はまだレヴィが連れて行かれたことに気付いていないということも有り得る。疲
労と不安にやつれた淡雪の顔が思い出され、リルケは明英に憎悪を覚える。仮に自分の淡
雪に対する想いが魔女の特性によるものであるにしても、今明英に抱いている憎しみは本
物だという自信があった。すっきりとした判りやすい殺意は、リルケの取るべき行動を明
確なものにする。軽く周囲へ視線を巡らせると、リルケは一四丁目へ向かって走り出し
た。ポケットの投げナイフがぶつかり合い、金属音を奏でる。
 急いでいるときに走らなければならないというのは酷く焦りを掻き立てる。人通りも疎
らな朝の街路を疾駆しながらリルケはそう実感する。しかし、たとえなにがしかの乗り物
があったとしても、一〇丁目以降の路面では走行不可能だ。規則正しい呼吸を続けながら
リルケは大きな歩幅で地面を蹴り上げる。その足音は周囲の壁に叩きつけられ、僅かに残
響する。
 一丁目から離れるにつれ、道は悪くなる。基本的に倒壊した建物の瓦礫やゴミ、死体だ
けは回収されることになっているが、一〇丁目を越えるとそれも怪しい。表通りにこそな
いが、少し路地に入ると得体の知れない有機物が腐敗している。季節が夏へ向かうにつ
れ、悪臭は激しさを増す。真夏ともなれば、生まれた頃からそうした臭いの中で育ってき

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たリルケでさえ外を歩くと軽い嘔吐感を誘われることがある。今でさえ外部の人間には充
分耐え難いものなのだが、リルケは気にすることもなく腐汁を踏み散らして行く。足首の
上まである重厚なワーキングブーツへ飛沫が飛ぶ。
 さすがに息が上がり始める頃、淡雪の住むアパートへ到着した。三階の部屋まで一気に
駆け上がる。惨状を予測して、リルケの頬が柔らかみを失う。
 淡雪の部屋のドアには妙に明るい色調の翡翠緑をした紙片が貼られていた。これが淡雪
の言っていたメモだろう。読んでみると「ドロシーへ、心よりのプレゼントを。帰郷され
たし」と書かれている。リルケはメモをドアから剥がすと、ポケットへ入れた。
 ドアに鍵は掛かっていなかった。大きく息を吸い、吐き出すとリルケはドアを押し開け
て部屋へと踏み込んだ。
 中は散らかっていた。しかしそれは荒らされたというよりも、淡雪がこのところ片付け
を怠っているせいであるようだった。流しにも洗われていない食器が重なっている。
 そして、淡雪はテーブルの傍らに倒れていた。下半身は左を下にし、上体は半身になっ
て俯せになっている。両手は足へ向かって差し出され、その足には銀色のパンプスが履か
れている。銀の靴といえば確か「オズの魔法使い」に出てくる魔法の道具だったはずだ。
ある程度の知識を得たリルケにとって、淡雪の足先を覆っているパンプスは禍々しさを発
しているように感じられた。
「おい、淡雪、淡雪」
リルケは脱力している淡雪を抱き起こし、体を揺すぶる。首が不規則に傾ぐ。
 なかなか意識を取り戻さない淡雪に不安を抱き、リルケは淡雪の脈を探った。確かに拍
動が感じられる。名前を呼びながら、淡雪の頬を軽く叩く。その度にリルケの掌へ淡雪
の、やつれてもなお柔らかな頬の感触が伝わる。
「レヴィが、レヴィヤタンが攫われたぞ」
リルケは額に汗を滲ませ、淡雪に言葉を発する。しかしその声すらも淡雪を呼び返すには
弱すぎた。
 何か気付けになる物でもないかとリルケは部屋を探して回ったが、残念ながらそういっ
た物は見当たらなかった。苛立ちを覚えながら淡雪の傍らへ戻ると、リルケは淡雪が履い
ている銀のパンプスを脱がせた。そしてそれを投げ捨てる。部屋の壁にぶつかり、パンプ
スはくぐもった音を響かせて床に転がる。
 淡雪の足は美しかった。歪みも傷も全くない。のびやかな曲面の集合が優美な調和をも
たらしている。リルケは息を殺したまま、手にした淡雪の左足をそっと床に下ろした。
 もう一度軽く頬を叩いてみたが、反応はない。心配ではあるが、あまりぐずぐずしてい
ると明英達を逃す可能性が高くなる。リルケは取り敢えず淡雪をソファに寝かせた。それ
から万一淡雪が目覚めた場合に備えて手近にあった紙切れの裏へ伝言を記すと、部屋を立
ち去った。
 ここから二一丁目まではあまり遠くない。リルケは体力を温存するため、少し抑え気味
の速度でひた走る。援軍を頼むことも検討してみたのだが、時間が惜しいのと却って相手
に気取られやすくなるという理由から諦めた。走るたびにポケットに満載された殺器達が
振れる。
 センチュリークラウンビルはすぐに判った。それは名前こそ知らなかったものの、見
知った建物だった。周辺で最も高い建物だったからだ。だが高いとはいえ、中程から先は
倒壊してしまっており、現在は一六階までしか残っていない。それでもビルは周囲を睥睨
するかのような雰囲気を漂わせていた。御影石の履かれた外壁の鈍い漆黒が、巨きさだけ
では持ち得ないような重厚さを添加している。
 センチュリークラウンビルに近付くと、焦る気持ちを抑えてリルケは比較的原形を留め
ている建物の壁に寄り添った。そこからならその建物が遮蔽になって、明英が見張ってい
たとしても見付かる恐れはない。一度壁に体を預けると、リルケはあらためて呼吸を整え
た。緊張しているのが判るが、悪い感じはしなかった。張り詰めた気分は来るべき戦闘へ
の高揚を掻き立てる。

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 ビルまではおよそ一〇〇メートルある。壁の端からそちらを観察するリルケだが、取り
敢えず視界の届く範囲に明英はいない様子だった。勿論、上の方の階からこっそりと辺り
を窺っているのならリルケに明英を発見することはできない。しかしそれでも警戒しない
よりはマシだろう。
 五メートルほど向こうに廃車が見える。リルケは身を低くするとそのままの姿勢で車の
陰へと走り込んだ。途中で一度、生ゴミに足を滑らせて転びそうになったが、どうにか辿
り着く。今にも外れそうな、錆び付いた前部ドアに体を押し当てる。ややあって、少しだ
け立ち上がると屋根越しにビルの方を見る。大丈夫なようだ。
 そうした地道な移動の繰り返しの果てに、とうとうリルケはビルの入口まで行き着い
た。かつて閉ざされていたはずのシャッターはとうの昔に破壊され、ちぎれた名残が縁取
りのようにして、玄関の桟を飾っている。
 リルケは薄暗い屋内に足を踏み入れた。周囲の明るさが低下するのに合わせて瞳孔が縮
小する。すぐに暗さへ視界が順応する。
 屋内は荒れ放題になっていた。備品と呼べるようなものは一切なく、ドアも大半が取れ
てしまっている。床も舗装がなくなっており、そこここでセメントの基部が剥き出しに
なっている。明かりといえば割れた窓から差し込む光だけだ。
 リルケは壁に身を沿わせ、極力足音を立てないように注意しながら上への階段を探し
た。安全の点から考えて、二人が一階にいるとは考えられないからだ。
 灰色の濃い薄明かりの中、歩いていると埃が舞い上がり、その粒子が光線の中を神経質
に舞う。じきに口の中にもいがらっぽい感触が進入してきた。音をさせないようにしてリ
ルケはそっと唾を吐く。
 階段はビル中程の左端の壁にあった。おそらく逆側にもあるだろう。リルケは下から上
体を乗り出し、階段の様子を窺った。何の物音もしない。しかし階段を曲がって折り返し
に立った途端、待ち伏せしている明英に撃たれないとも限らない。目を閉じれば想像の明
英が、階段を上り切ったところの壁に身を隠してこちらを待っている姿が浮かぶ。恐怖が
首をもたげそうになり、リルケは急いでそれを押し殺した。実戦において不必要な恐怖は
足手まといでしかない。程良く押さえ付けられることで恐怖は程良い緊張へと転化する。
 見えない相手の反応を試すかのように、リルケは階段の一段目に足を置いた。何も起こ
らない。続いて一段、そしてもう一段と階段を上がる。折り返しまで来ると一旦立ち止ま
り、上の様子を探る。誰もいないようだ。覚悟を決めてリルケは二階まで一息に登り切
る。そして再び壁に張り付く。極度の緊迫感に口元が強張る。それは見ようによっては笑
顔とも取れる表情だ。リルケの日焼けした褐色の肌を汗の玉が滑り落ちる。
 壁際から顔だけを出して周囲を観察する。見える限りでは誰もいないようだ。しかし、
角々の向こう、目の届かない場所に明英が潜んでいるように感じられる。それだけではな
い。目に入る物陰の全てに想像の明英が隠れて、こちらを狙っているような気がする。
 よくない傾向だ。リルケは自分を戒めた。警戒は必要だが、それも過剰になれば害悪で
しかない。今感じている明英の気配は全て己の感じる恐怖の投影でしかない。リルケは思
い切って廊下の中央へ進み出る。
 静寂の透明な流体がリルケの全身を柔らかく押し流す。その、あるかなきかの淡い感触
を研ぎ澄まされたリルケの肌はまざまざと知覚する。左右の壁が無限に遠く感じられる。
 角から角、部屋から部屋をリルケは忍び渡る。感覚は時間の経過と共に鋭さを増し、限
界まで引き絞られた意識が痛いくらいだった。無意識にポケットへ手を差し入れ、リルケ
はナイフの感触を確かめる。使い慣れたナイフの手触りは高ぶった神経の荒びを、滑らか
なものに変えてくれる。外から見た建物はなかなか大きく感じられたが、実際内部を回っ
てみるとそれよりもさらに大きく感じられた。部屋を一つずつ探して歩くと、二階だけで
二〇分近くが経ってしまった。もちろん、普通に歩けばもっと早く済むのだろうが、どこ
に潜んでいるとも判らない明英を警戒しつつの探索なのでどうしても移動効率が落ちてし
まう。
 結局、二階にはレヴィも明英もいなかった。リルケは深い溜め息を吐き出すと再び呼吸

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を殺し、三階へと上って行った。
 三階の捜索を開始して一〇分ほどが経過していた。リルケは西側の部屋を調べていると
ころだった。その端から数えて四部屋目の前に来たとき、椅子に座ったレヴィが見えた。
その瞬間、頭で判断するのを待たず、体が勝手に部屋へ踏み込んだ。ポケットから拳銃を
抜きつつ全速でレヴィへ駆け寄り、そのこめかみに銃口を当てる。
 そして目を上げれば、左手の壁際に立った明英がこちらの頭を狙い、銃を向けていた。
左手にはジュースの缶が握られている。明英は銃口をリルケに向けたまま少し屈み、缶を
床へ置いた。
「珍しい銃を持ってますね」
微塵も緊張を感じさせない声で明英は言う。
「そうか。銃のことはよく知らないんだ」
リルケも極力落ち着いた声で答える。
「珍しいんですよ。大事にしてればコレクターがいい値段で買ってくれます」
「売ってやろうか?」
明英は笑って返事をしなかった。
「やっぱり私一人じゃないと見付かってしまうものですね。特にレヴィ君はこっそり連れ
て歩くには不向きだ。で、あなたはこれからどうするんです?」
「レヴィを連れて帰る」
「この状況からは無理でしょう。またの機会に譲ってくれませんか」
明英は一歩踏み出そうとした。
「近付くな。撃つぞ。あんたも今レヴィに死なれたら困るだろ」
「それはあなたも一緒でしょう」
「困るのは淡雪で、俺じゃない」喋りながらもリルケの脳裏は目まぐるしく稼働してい
る。咄嗟にレヴィを人質に取ったものの、何か考えがあったわけではないのだ。「あんた
に連れて行かれるくらいなら、レヴィを殺した方がマシだ」
明英の目線が揺らぐ。
「だから、またの機会にすればいいじゃないですか」
「もう今の状況からじゃ後戻りできないだろ。だいたい、いまここでレヴィをあんたに渡
したら、すぐに駅から町を離れようとするだろう。だから次なんてのはない。俺は本気
だ。レヴィを連れて帰るか、ここで殺すか、だ」
圧縮した声の裏にできる限りの強さを込める。自分の声の力だけが今のリルケには頼り
だった。もしその力が足りなければリルケはレヴィを殺さざるを得ないだろう。それはそ
のまま自分が明英に撃たれることをも意味する。
「ま、あなたがレヴィ君を撃ったとして、こちらは彼の細胞が一つでもあればクローンニ
ングも可能ですから」
「それで上手くいくんなら、最初からこんなとこまでレヴィを連れ戻しには来ないはず
だ。どうせクローンが上手くいかなかったからこいつを取り戻しに来たんだろうが」
明英は大袈裟に嘆息して見せた。
「厭なところに気が付きますね」
二人は暫し無言で視線を交わした。レヴィは起きていることを知覚すらしていないのだろ
う。こめかみに銃口を押し当てられたまま微動だにしない。
 明英の目は柔らかな稜線に象られているが、その瞳は凶冥を孕んで底知れなかった。高
額賞金首の奇殺者と対峙しても感じないような、重たい威圧がリルケを襲う。目を逸らし
たいという欲求にリルケは必死で抗う。自分の視線に少しでも恐怖が滲んでしまえばそれ
でお終いだと自分に言い聞かせる。
 明英の表情から何かが影を潜めた。途端に視線から圧力が消える。
「ま、今回は私が引き下がりましょう。私と違って、あなた方はレヴィ君を連れてこの町
を出て行くようなことはないでしょうから。次の機会を待ちますよ」
明英はリルケに銃の先を向けたままゆっくりと後退し、部屋の入口を出て行った。足音が

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遠ざかるにつれ、引き絞られたリルケの緊張が解けていく。足音がついに聞こえなくなる
と、リルケはその場にへたり込んだ。
「リルケ君、またお会いしましょう」
窓の外から明英の叫ぶ声が聞こえた。その声には明らかな笑いの気配が混ざっていた。

 ドアが開くと自動的に部屋の明かりが点いた。柔らかな光が部屋に満ちる。入口に近い
老人が、重たく緩んだ瞼を持ち上げた。
「おや、明英」
くだんの言葉に明英は苦笑いを浮かべた。
「いやあ、苦労しましたよ。撃ち合いなんかになったら洒落になりませんからね。でもま
あ無事にレヴィ君は彼の手に渡りました。こちらがわざと返したことにも気付いてないよ
うです。今頃は気付いたかも知れませんけど」
「それはご苦労」
明英は壁際の長椅子に座った。
「まったくですよ。こっちは演技と言っても、けっこう緊張しますから。心臓に悪いし、
あまりこういう小細工はするべきじゃありませんね」
「お前らしくないことを言うな」
明英は溜め息を吐いた。
「いつもいつもそう思ってはいるんですよ」
どこかにあるスピーカーからわざとらしい笑い声がした。
「本当ですよ。少なくとも私は」
「柏、突拍子もない案はいつもお前が考えていたような記憶があるんだが」
明英は軽く咳払いをした。
「とにかく、これでトトをドロシーへ返すところまで計画が進んだわけですから、まあ順
調ですよ」
「淡雪が危なかったようだが」くだんの声に苦渋の色が混ざる。「私達としては、なるべ
くあの子にも余分な苦労はさせたくないんだよ」
「そう、あれはちょっと匙加減を間違えましたね。柊を殺したことのお灸を据えてやろう
と思ったら、やりすぎてしまいました。でも結果的には上手くいってよかったですよ」
くだんのどこかが溜め息を吐いたようだった。実際には機械の空圧部が稼働した音なのか
もしれない。幼い頃からくだんとは面識のある明英だったが、くだんのハード面に関して
はほとんど何も知らなかった。だいたい、以前はスピーカーから録音された笑い声を流す
などといった機能もなかったのだ。この町へ移設されるときに増やしたのだろう。住民に
気味悪がられるのを緩和するつもりでもあったのかもしれない。極度に人間味のない生活
しかしたことがないせいで、くだんはなかなかに対人能力が低い。そのせいで時折、そう
いう見当外れなことをすることがあったのだ。明英も人のことは言えないが。
「結果的に、というのはあまり関心できんな」
「そうですね。感情に走りすぎました」
「まあ、兄弟を殺されたのだから無理もないんだろうが。葬儀をすることもできないし
な。お前達の立場からすればあれくらいは仕方がないか。特に、死んだのが柊だったとあ
れば」
無言で二人は死者を想った。
「柊が計画の達成に参加できなかったのが残念です」
明英の声には幾つかの虚が空いているようだった。くだんのどこか奥深くでまた、小さく
噴出音がしたようだった。


 ぼやりと視界が潤み、締まり、潤み、ややあってしっかりと像を結んだ。それから徐々
に意識が作動を開始する。しかしまだ稼働率は低いらしく、どこか周囲が薄膜を被ったよ

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うに感じられる。
「淡雪、判るか、返事しろ」
見覚えのある青年がこちらを覗き込んでいる。褐色の肌に短く刈り込んだ髪。その下の心
配そうな顔が一つの名前を呼び起こす。
「リルケ」
喉が強張って、酷い声だ。相手には何と言ったか聞き取れなかっただろう。だがそれでも
リルケの顔付きは明らかに和らいだものとなった。一瞬リルケは視界から外れ、すぐに
戻ってきた。
「ほら、水だ」
淡雪は差し出されたコップを受け取った。手に上手く力が入らないせいで取り落とさない
ようにするのが難しい。コップを口に運ぶ。その縁が触れて初めて、自分の唇が異様に乾
いていることに気が付く。水が流れ込む端から、口内が、喉が、潤っていく。一気にコッ
プの中の水を飲み干すと、淡雪は深く長く息を吐いた。
「どうなったの?」
まだ焦点の定まらない頭でそう尋ねる。リルケはこれまでの経緯を語った。
「それで、レヴィを連れて部屋に戻ったらお前は相変わらず意識を失ったままだった」
どれだけ呼び掛けても気が付かない淡雪をどうしたものかとリルケが思案していると、突
然レヴィが薄く光を放った。数秒で朧光が消えると淡雪が目を開いたのだった。
 話を聞き終えた淡雪は急に失ってもいない世界が確かさを取り戻したかのように感じ
た。レヴィの発した仄かな輝きは淡雪をレヴィが自発的にどこかへ繋いだことを物語って
いた。どんなことであれ、レヴィが自分から行動することなど今までになかったことだ。
それにしても、他にはリルケしかこの場にいないというのに、レヴィは自分をどこに繋い
だのだろうか。疑問の塊が陸続と淡雪の思考へ雪崩れ込む。それらが賦活剤となって淡雪
の精神は段々とまとまりを形成していった。
「レヴィ」
淡雪はリルケの横に立ったままあらぬ方に首を曲げ佇んでいるレヴィの名を呼んだ。しか
しレヴィは全く反応しない。淡雪はレヴィをしげしげと眺めた。変わった様子は見られな
い。本当に自分から淡雪を繋いだとは考えられない。淡雪は試しにレヴィへ接続してみた
が、やはり背後に読み取れるのはいつもと同じ無謬の空白ばかりだった。
「ねえ、リルケはレヴィが自分から何かしてるとこなんて見たことある?」
淡雪はガスコンロの前でお湯を沸かしていたリルケに話し掛けた。その声は随分としっか
りしている。
「いや、ない。今日のが初めてだ」
判り切った回答が帰ってくる。淡雪は立ち上がるとレヴィの方へ歩き寄った。自分でも驚
くくらい足の筋肉が衰えている。意識を失うかなり前からこうなっていたのだろう。そん
なことにさえ自分は気付かなかったのだ。
「レヴィ、こっちを向いて」
淡雪の声に、レヴィはゆっくりとそちらを向く。蛇口を僅かにひねるかのような、何の感
情もない動作だ。
 淡雪は自分の小さな手で、レヴィの頬を優しく挟んだ。冷たく乾いた肉感が掌の下で息
づく。淡雪はレヴィの双眸を覗き込んだ。
 レヴィの目を見ると、生きていても本当に何も映し出さない瞳があるのだという実感を
持つ。薄いパラフィン紙を貼り付けたかのようなそれは、人形の目にも通じる偽装感が
漂っていた。何も汲み取ることのできない目だ。
「レヴィ、どうもありがとう」
淡雪は透徹できるものなど何もないかに思われるレヴィの意識へ、短いながらも最大限の
親しみを込めて言った。その言葉が届いたのかどうか伺い知ることはできなかったが、淡
雪はレヴィの頭を暖かな仕草で撫でると、落ちるようにソファへ身を沈めた。ちょっとし
た動作に過ぎないことなのに、鈍い疲れを感じる。淡雪は短く唸った。

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「体調が悪いんならベッドで横になってたらどうだ?」
リルケの言葉に淡雪は体を起こした。
「いや、大丈夫。ちょっと体力が落ちてるみたい」
淡雪の答えにリルケは怪訝そうな声を上げた。
「お前、ついこの前まで毎日明英を捜して町ん中をうろついてたんじゃないのか?」
「え、何それ?」
「憶えてないのか。はっきりとは言ってなかったけど、そんなようなことを話してたぞ。
俺も見掛けたことがあるし、最近魔女が町を歩き回ってるって噂にもなってた」
淡雪はここ最近の自分の行動を思い出そうとしてみた。確かに言われてみれば朧げながら
そんな記憶のある気もするが、漠然としている。
「困った。記憶が殆どない」
淡雪の声は苦々しそうだが、どこか軽みが含まれていた。その声の調子に以前の明るさが
滲んでいるのを感じて、リルケの口元に小さな笑いが浮かぶ。
「それにしても、さっきから気になることがあるんだけど」
淡雪は再びソファから立ち上がると部屋の端へ向かって歩き出した。ドアから南西に当た
る場所だ。そこに置かれた脚付きのクローゼットの前でしゃがみ込む。一つ一つの仕草が
いかにも自分の体を重く感じている人間のそれらしく、不安定で力無い。リルケはコンロ
の火を消すと、淡雪を見守った。
 クローゼットの下に手を差し入れると、淡雪は黒いボロ切れのような物を取り出した。
あちこちに灰色の埃が玉になって引っ掛かっている。よく見るとそれは小さい動物の毛皮
であることが知れる。
「それは」
リルケは目を眇めて何とかそれの姿を正確に捉えようとする。
「え? ああこれは黒猫の毛皮。あたしが剥いだんだけど、詳しい製作法は聞きたくない
でしょ? で、これがこの部屋に張った結界の要になってるの。もし結界が破られればこ
れにそれが反映されるから判るんだけど、見た限り異常はないみたい」
淡雪は毛皮の表面を撫でたり裏返したりして検分を済ませると、再びクローゼットの下に
押し戻した。手に付いた汚れを叩いて立つ。
「これで毛皮が二つに千切れでもしてたら、どうにかして結界を破ったっていうだけのこ
とだからまだ簡単なんだけど」淡雪はリルケを見遣って続けた。「毛皮が無事で、明英が
この部屋へ入れたということは、明英にこちらへの害意がなかったってこと。それか、あ
たしが鍵を掛けてなかったか」
淡雪は顔を僅かにしかめながらソファへ戻った。
「明英に、俺達が知らないような企みがあるっていうことか」
「あたしたちに話してた目的が嘘とも思えないから、たぶん名目上は本当にレヴィの回収
ということで派遣されてはいるんでしょうけどね」
淡雪は思い立ったように本棚の所へ行くと、最下段の端から一冊のノートを取り出した。
「それは?」
「レヴィと会った最初の頃に色々とレヴィについて調べたことがあって、その時の記録。
医療検査はしてないけれど。普通の町医者に診せたからって、何か判るとも思えなかった
から」
リルケはヤカンからカップに中身を注ぐとテーブルに置き、淡雪の開いているノートを横
から覗き込んだ。そこには淡雪の癖のある字で数字や言葉などが書き込まれている。その
頃はまだ漢字を充分に憶えていなかったようで、平仮名表記が目立つ。所々に英単語も見
られる。そのページはレヴィの脊椎反射を調べた際の記録だったらしい。「Hit by
fist……身を引く」、「熱い物にふれる(湯五〇度)……手を引く」などといった記
述が延々と続いている。淡雪はノートにざっと目を走らせる。度々ページをめくる手を止
めそこに書かれている内容を読んでいるが、役立つ情報は見付からないらしく、後半は殆
ど飛ばしてしまった。

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「これを書いてたときもあんまり成果はなかったんだけど、今読み返しても役に立つよう
なことはないみたい」
「俺も見てみる。基本的なことでも、レヴィについて知っておいた方がいいだろ」
淡雪はノートをリルケに渡した。
「この、テーブルの上に載ってるのは?」
「ああ、それか? 残雪とかいう、前に出してくれたやつ。体調が悪いときに飲むといい
んだろ? 前と同じ缶に入ってたから煮出しといたんだ」
「ホントに? ありがとう」
淡雪はマグカップを手にすると、立ち上る湯気に鼻を差し出した。青草の粋を凝らしたよ
うな香りを嗅ぐだけで全身が内から清められるような気がする。一度口に含めば濃密な薫
香が喉から鼻へと抜け、体の芯にある重さを拭い去る。愛おしむかのようにして、淡雪は
カップに満たされた残雪を飲む。その間も思考の機構が目まぐるしく稼働を続け、明英の
真の狙いを探り続ける。しかしそれでも持っている情報の少なさはいかんともしがたい。
当面は情報収集が最重要課題となるだろう。あまり期待はできないが、くだんに尋ねてみ
ることも必要だろうし、もう一度レヴィを調べてみる必要もある。
「とにかく今はレヴィを連れて行かれないようにしながら様子を見るしかないよね」
「そうだな。ただ、またメモなんかが仕掛けられたらどうする?」
淡雪の表情が愁いを帯びる。
「あたしが持ち直したのを見て向こうが諦めてくれればいいんだけど。まあ、続くようで
もあたしが早い段階で今日みたいにレヴィに自分を繋ぐようにすれば大丈夫だと思う。今
回限りしか効き目のないものでもなさそうだし。ただ、」
「ただ?」
淡雪は答えない。リルケは何故だか、淡雪の沈黙へ居心地の悪さが含まれているように感
じた。なぜそんな感触を覚えたのか不思議に思っていると、淡雪が口を開いた。
「はっきりとは憶えてないんだけど、ここ何日間か、すごく、何て言うのかな、懐かし
いっていうか、悲しいっていうか、上手く言えないんだけどすごく大切な何かを考えて
た、いや、経験してたのかな。違うな」
歯切れの悪い煩悶を淡雪は切れ切れに喋る。どうにか思い出して言語化しようとしている
のに、上手くいかないようだ。
「要するに、それが気になるってことだろ」
「そう。リスクが大きいし、そこに至るまでが辛いのは判るけど、もう一度その状態に自
分を置いてみたい気もする。今回のことに関係があるとか、そういうことじゃなくて。あ
たし自身にとってとても重要なことだって気がしてならないの」
リルケはノートを閉じるとコンロの前へ行き、カップに残雪を注いだ。一口飲むと少しむ
せる。
「癖が強いけど、慣れればこれはこれで美味いかもな」
互いの物思いがそれぞれを自己の内面に潜行させ、沈黙の緞帳が二人を隔てる。
「なあ、ここに入れたっていうのは、明英がレヴィを連れ去る気がないことの証明だって
言ったよな。それってどういうことだ? ここの結界ってどうなってるんだ?」
リルケの問いが泡のように漂う。
「結界は低解度の予知能力を持ってるの。解度っていうのは高ければ高いほど詳細な予知
が可能で、うちの結界くらいの解度だと、漠然とどんな種類のことが起こるのかを知る程
度ね。それで、結界はそこを通過するものが術者にとってどのようなことを行うのかを予
知でもって察知して、通したり弾いたりするの。予見範囲は約三日。判断は人間がするよ
うにけっこう曖昧な基準で行われるんだけど、その手の判断はべつにくだんみたいなコン
ピュータでもしてることでしょ」
「そうか」
そしてまた、二人は黙思へ埋没する。

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 翌日からも「ゆき屋」は再開されなかった。淡雪はレヴィの再調査や憶えている限りの
メモの検討などを行った。また、魔法によって明英の居場所を知ろうともしたのだが、よ
ほど強力な魔法に守られているらしく成果は上がらなかった。
 リルケは本業や副業の傍ら明英の所在を突き止めるべく町内を歩き回った。明英はレ
ヴィをリルケに取り戻されて以来、すっかり姿を見せなくなっていた。しかし町を出たわ
けではないらしく、情報屋からは時折、明英らしき人物の目撃報告がもたらされていた
し、エメラルド色のメモもときどき思い出したかのように淡雪の生活へ挿入されていた。
 最初にメモが貼られていたのは淡雪が回復してから四日後のことだった。淡雪とレヴィ
の二人が買い物から戻ってみるとアパートのドアに貼られていたのだ。そこには「ドロ
シーへ、トトをお返ししました」と書かれていた。嫌悪感に駆られた淡雪だったがメモを
捨てることはせず、代わりに保管することにした。以前の口振りからすると明英は魔女に
ついて淡雪が知っている以上のことを知っているようだったため、メモが何らかのヒント
になるかもしれないと判断したのだ。「オズシリーズ」の精読もそうした観点から取り組
まれた。つまり、「オズシリーズ」をあらためて自己理解のための手掛かりにしようとい
うのだ。魔女自身にとっても魔女というのは未だ謎の多い存在だった。
 以前なら嫌悪感のせいで、そんな試みなど決してしなかっただろう。だが、今の淡雪は
自分でも理由が解らないままに、「オズシリーズ」へたいした動揺を感じなくなってい
た。その原因が自分の記憶から失われた間に存在することは想像できるのだが、具体的に
何がどうなってそれほど根元的な変化がもたらされたのかは知ることができなかった。
 レヴィの調査は早々に行き詰まってしまった。最初に、レヴィが自分のことを固有の存
在として認識しているのかどうかということを調べたのだが、そうであると思わせるよう
な結果は得られなかった。次に、淡雪と同じ状態に陥った人間であればレヴィは誰でも自
分に繋ぐのかを調べたかったのだが、そもそも自分がどのような状況にあったのかが思い
出せない。リルケにも尋ねてみたのだが、その間は殆ど会っていないということで、とに
かくぼんやりとしていたという以上のことは判明しなかった。また、仮に自分と同じ状態
を再現できるにしても、検証を行うには最低でももう一人魔女が必要になる。
 再調査がことごとく頓挫する中で淡雪は少しでも突破口を手に入れられないかと、過去
のノートを詳しく参照しなおしてもみた。それでも当時の淡雪がどれほど熱心にレヴィを
解析しようとし、成果が上げられなかったかを思い知らされただけだった。例えば日本語
が堪能になってから記された「レヴィが人工的に造られたと仮定する場合」という大きな
項目の一つ、「レヴィの軍事的利用の可能性」という項目だけでも考えられる可能性の列
記が小さな字で延々八ページも続いている。しかもそれはどれも推論の域を出るものでは
ない。レヴィについて知り得ていることが圧倒的に少ないのであるから当然のことではあ
る。今に至るまでで新たに知ったことと言っても、せいぜいが「自分はドロシーに、レ
ヴィはトトに例えられる」ということくらいなものだ。
 そのこと自体は不思議ではなかった。現在の段階で魔女と「オズシリーズ」について一
般に解明されている事柄はごく僅かなのだ。「オズの魔法使い」の中でさえ、ライオン、
かかし、ブリキの木こりといった要素が現実の魔女とどのように結びつくのかという点は
まるまる欠落している。物語の三者が現実の魔女や魔法に関連を持つのかどうかさえはっ
きりしない。魔女や魔女学者達の間に幾つかの仮説はあるのだがどれも決定力に欠け、定
説化するには及んでいない。
 「オズシリース」の他の巻についてもほぼ何も判っていないと言っていい。「オズのオ
ズマ姫」の巻などは研究がなされているという話さえない。魔女とドロシーの同一視が成
り立つことでさえ淡雪は明英から聞くまで知らなかったのだ。ただし、明英を含めた組織
が魔女について、一般に知られているよりも多くの情報を持っていることは確実なよう
だった。
 自分とドロシー、レヴィとトトという関係があるのならば、他の魔女達にとってもトト
に相当するものがあるのだろうか。その疑問を淡雪はリルケに話してみた。リルケも「魔
女学」を読んだのだから、何か有効な着想が浮かぶのではないかと期待したのだ。近所の

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蕎麦屋で昼御飯を食べているときのことだ。
「使い魔じゃないのか」
淡雪の話を聞いたリルケはそう言った。淡雪が疑問の声を上げる。
「使い魔って、よく物語に出てくる魔女が手先にしてるやつ?」
「ああ。ああいった使い魔ってのは黒猫とか鴉とか鼠とかだったりするけど、現実の魔女
にとっての使い魔っていうのは下僕じゃなくてパートナーみたいなものじゃないかと思
う。俺も最近、日本語版の「オズの魔法使い」を手に入れて読んだんだけど、魔女とドロ
シーが同じなら、いつも一緒にいるトトは使い魔なんじゃないかっていう気がしたんだ」
魔女について学び、推論を口にするのは難しいことではない。学ぶべき知識がまだそれほ
ど多くはないからだ。
 淡雪はかき揚げを一口囓ると黙って咀嚼し、少しふやけた食感を味わった。リルケの意
見を検討しているのだ。
「でも、「オズシリーズ」の魔女は基本的に使い魔めいたものを持ってないじゃない。そ
れに、魔女とドロシーが根本的に同じものだとしても完全に対称だとは限らないし、「オ
ズ」の魔女とあたし達も全く一致するわけじゃない。リルケの考えは言われてみればそん
な気もするよ。思い出してみれば動物であれ人であれ、これまで会った魔女はみんなパー
トナーって呼べる相手がいたし。でもそれだけじゃ根拠が薄い。使い魔の概念は「オズシ
リーズ」の外から持ってきたものだし。もしリルケの説が正しいなら「オズシリーズ」以
外の魔女観念にも現実の魔女との相関関係があることになる。それももちろん考えられる
けど、今のところは他にそういう指摘がされたっていう話もあんまり聞かないしね。推論
をするのは大切なことだけれど、今はそれが正しいかどうか検討している時間の余裕がな
いのが問題なんだよね。でも、思い付きとしては面白いかな。それだとオズの魔法使いは
誰なんだろう」
「くだん、かな」
もともと考えていたのだろう。リルケは即答する。
「あ、確かにそうかも。くだんって人間離れした力もあるし、もともとよそから来たんだ
し。あの辺の道は舗装が剥がれちゃって砂っぽいから、黄色い道って言えなくもないよ
ね」「ま、エメラルドの都って言うにはほど遠いけどな」
淡雪は蕎麦つゆを啜る。
「明英さんは、頭もいいし勇気もあるからブリキの木こりとかどう?」
「ああ、あいつは心がなから、ちょうどいいんじゃないか」
そう言うリルケの声に棘はない。
「でもじゃあ、ライオンとかかしは誰なんだろう」
リルケは伸びやかな顔で淡雪の話を聞いていたが、やがて神妙な面持ちでうなずいた。
「思い付きだからな。上手くは何もかも当て嵌まらないだろう。なんなら俺がライオンな
り、かかしなりでもいいんだし」
「リルケは勇気も知恵もあるじゃない」
「どうかな」そう言ってリルケは、空気が重くなる前に言葉を継ぎ足す。「どっちにし
ろ、俺達がいかに魔女とかレヴィについて何にも知らないかが思い知らされるな」
そして少し伸びてしまった蕎麦をリルケはたぐる。変に甘味の強いツユだが、その甘辛さ
がリルケは気に入っていた。
「向こうはレヴィについてどれだけ詳しいのかな。あたし達より詳しいのは確実だけど、
未知の部分だって絶対にあるはず。それだから明英さんもレヴィを連れて帰る任務を与え
られたんだろうし。向こうにとってレヴィにはまだ価値があって、しかも代わりはいな
いってことでしょ。ひょっとしたら今回のことは誰も全てを把握してる人なんかいなく
て、みんな手探りと推測で進めてるのかもしれない」
そう言うと淡雪はレヴィに向かって、箸を取るように言った。レヴィはぎこちない動きで
箸を持つと、ぎこちない動きで言われるままに蕎麦を食べ始める。だがすぐにその箸から
蕎麦は滑り落ち、薄茶の滴がテーブルに散った。

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73
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 携帯電話のアラーム音に明英は目を覚ました。ポケットに手を入れてアラームを切ると
立ち上がって伸びをする。強張った筋が音を立てそうな勢いでほぐれる。大きなあくびを
すると明英は窓辺へ歩き寄った。
 そこは一九丁目の廃ビルの二階にある一室だった。元は事務所だったようで、詰め物の
はみ出した四人掛けのソファが一つ壁際に寄せてある。
 窓の外はすぐ隣のビルの亀裂に侵された壁になっており、そのせいで朝の光はほぼ入っ
てこない。昨夜はソファの比較的無事な箇所に座って寝たのだが、それでも疲労は充分に
取れた。仕事の性質上、どんなところでも眠れるようになっているのだ。窓の前に立った
まま、明英は履いているズボンを叩いた。特殊な素材で作られているため、スーツもシャ
ツもシワになっていない。
 出しっ放しになっていたノートパソコンや書類などをアタッシェケースに片付けると電
気シェーバーで髭を剃る。それからスーツの上を羽織り、明英はビルを出た。時刻は七時
四〇分。昨夜のうちに目を付けておいたコンビニヘ明英は朝食を買いに行く。
 陽光の下を歩きながら、明英の表情は暗かった。久し振りで昔のことを夢に見たのだ。
それに触発され、思考の流れは自然と過去へ方向付けられる。
 レヴィは正式名称を「拡力者養成プロジェクト検体”甲―一”」という。通称名は「あ
なほべ」。拡力者養成プロジェクトの数少ない成功例として関係者間では有名な存在で
あった。
 拡力者養成プロジェクトとは政府が機密裏に進めていた計画で、魔女に匹敵する能力を
有する人間を養成しようというものだ。目標とされたのは超能力者に近い存在だったが、
定義上そうした人間は「拡張能力保持者」略して「拡力者」と呼ばれていた。通常なら
「拡能者」と呼ばれるのだろうが、なぜか慣例的に「拡力者」という呼称が流通している
のだ。 研究にあたっては様々なチームが組まれ、中には魔女を有するチームもあった。
名前にある「甲」というのはレヴィが、胚の発生段階で遺伝的な改良を施すことで拡力者
を生み出そうという計画から生まれたものであることを表している。
 その「あなほべ」の奪還指令を受けたとき、明英達も面識こそなかったもののその存在
は知っていた。指令書には資料としてあなほべについての様々なデータが添付されてい
た。あなほべは自己に周囲の人間の意識を接続し、融合させてしまう能力を持っている。
また、自己の意識が他者に汚染されるのを防ぐため、あなほべ自身の自我というものは全
くの空無に設定されている。ただし、この精神の真空状態がどの程度の耐久度を持ってい
るのかは今のところ不明で、場合によっては他者の意識の汚染を受ける恐れがあった。ま
た、その能力は幾つかの段階に設定されており、一人から数百人までを接続することが可
能である。もっとも上限の方は理論上割り出された数値であり、確定的な値ではない。
 自我意識がないため敵味方の区別ができず、誰の命令も無差別に実行してしまうといっ
たことを始め他にも不明点や欠点が多く、あなほべの実用配備は不可能視され、それより
はむしろ「あなほべ改」を造るための実験材料としての役割が期待されていた。
 クローン明英達はこれらの資料を詳読するうち、あなほべがある能力を持っていること
に気付いた。その能力に基づき、明英達は一つの計画を練った。それは成功すれば、かね
てより彼らが抱いていた望みを実現する可能性があるものだった。
 コンビニの店内は清潔に保たれ、町外のコンビニと寸分違わぬ内装、品揃えを誇ってい
た。周辺が廃墟であるだけにその恒常性は却って異常だった。そもそも、殆ど誰もいない
この二一丁目でどうやって商売が成り立っているのかもはっきりしない。或いはコンビニ
経営は道楽で、店主は他に副業を営んでいるのかもしれない。ともあれちゃんとした店が
あるのはありがたいことだった。少しだけ迷って、明英はアンパンと牛乳を購入した。
 なおも追憶に浸りながら店の前で明英はアンパンの袋を開き、食べる。最初の一口は餡
に到達せず、囓られた断面は僅かに黒い中身を覗かせているが、白いパンの奥に閉ざされ
ている。明英は微かに塩気のあるパンを噛むと牛乳で流し込んだ。濃厚さに欠ける牛乳の
味わいが口の中を冷やす。

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 今日は最初に、くだんの所へ行くことになっていた。最初は頻繁に道が判らなくなって
いたのだがこの頃は土地勘が育ってきたらしく、あまり道に迷うこともない。このコンビ
ニのある界隈にも初めて来たのだが、くだんのいる小屋がどの辺りにあるのかおおよその
見当は付く。食べ終わったパンの袋と牛乳の容器を店の備え付けたゴミ箱に捨てると、明
英は目指す方向へ歩き始めた。
 いつものように、剥がれて倒壊しかけた風景の中を歩いていると唐突に広場へ出る。そ
の中央にくだんの小屋が見える。小屋から七メートルほど離れた所に見たこともない焼け
地ができていた。黒く焦げた土が歪な円を描いて広がっている。噂の軍事衛星レーザーに
灼かれた者の跡だろう。明英はその焦げ跡を踏まないように迂回し、小屋へと入った。ド
アを開けた途端、冷気を帯びた空気が明英の全身を包む。空調機は見当たらないにもかか
わらず、くだんの小屋の中はいつも涼しい状態に保たれているのだ。
「おはよう、明英」
「おはようございます」
明英は会釈をすると小屋の奥まで進み、そこにある椅子へ座った。足下にアタッシェケー
スを置く。
「そろそろみたいです。今週に入ってから集中的にメモを貼って回ったのですが淡雪に変
化がないところから判断するに、何らかの手段で正気を維持しているようです。ひょっと
したらレヴィが関係しているのかもしれません。それならそれで都合がいいんですが。た
だ、御存知のようにこれからが難しい。もう一度淡雪さんからレヴィ君を引き離すのは困
難を極めるだろうことが予測されます。私自身も無事に遂行できるか自信がありません。
ただ、ここまで来て死ぬわけにもいきませんからね。柊のように計画の実現に立ち会えな
くなってしまうのはやはり嫌ですから。とはいえ正直に言って、次の段階を成功させる方
策が思い付かない状況ではあるんですが」
「確かに、ここからが本当に難しい局面だ。慎重にやらないと全てが無駄になってしまう
恐れもある。それに、私達としてもこれ以上お前達に死んで欲しくはないしな。淡雪が苦
しむ期間も長引かせたくはない。そういえば昨日淡雪が尋ねてきたが、お前達のことは喋
らなかったよ。随分せがまれて悪いとも思ったんだが、そればかりはな」
発言の途中で語る端末が頻繁に入れ替わる。その度に声は思いがけない場所から届く。声
はどれも似通っているが、柏にはその違いが判る。
「兄弟達はどんな様子ですか?」
「楠はお前も知ってるだろうが参外課の事務所で後方支援をしている。欅は台湾の仕事が
そろそろ片付きそうだ。杉は昨日から仙台に出張中だ。柊のことがあるから、みんなお前
のことを心配しているぞ」
他の兄弟が自分を心配している。その言葉を明英が本気にしていないだろうことは明らか
だったが、にもかかわらずその顔に珍しく、率直な優しさが宿る。明英の前の老人が目を
開く。やや浮腫んだ目蓋越しに黒目がちな瞳がそんな明英を見詰める。
 柏の顔に浮かんだ感情が自分にではなく、他の明英達へ向けられることがあったなら、
全ては大きく違っていただろう。もっともそれは、柊以外の全ての明英にも言えることだ
が。くだんは内心そう演算する。
「そういえば、木更津君とはくたくとが何かやったそうですね」
老人が嘲りを込めてうなずく。
「二人とも仕事を放り出して突然出奔したそうだ。上の奴らめ、えらい慌てて私達にまで
連絡してきた。あんな獣といい加減な女に仕事を任せるからいかんのだ。ところが奴ら、
後任も「ごほう」とかいうぼんくらを採用した」
忌々しそうな口調に明英は苦笑した。
「ごほうは前々からはくたくの手伝いをしてましたからね。管理者は磯崎一二三君といい
まして、園田さんの後輩だそうですよ」
「園田か」
言ったきりくだんは押し黙る。

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「では、私はもう行きます」
「ん、そうか。気を付けてな」
明英はくだんの小屋を後にした。初夏の日差しに冷えた明英の肌が暖まる。
「さて、どうしたものか」
明英は思案に暮れた。ここ数日レヴィを連れ去る計画を錬っているのだが、全く名案が思
い付かないのだ。リルケも目障りだがやはり最も障害となるのは淡雪だった。試したこと
はないが、単純に拳銃で撃ったとしても弾は淡雪の肉体に到達できないだろう。
 他の魔女に協力を要請するのが一番楽な手ではあるし、これが普通にレヴィを取り戻す
のであれば明英もそうしただろう。しかし部外者を身近に呼んでそれを欺きつつ自分達の
企てを遂行するのは手間だった。特に勘の鋭い魔女に対して隠し立てを行うのは、それだ
けで倍以上の労力が必要となる。そう考えると面倒ではあっても、全てを自分で処理する
しかない。
 政府とは全く関係のない魔女を雇うという手も考えたが、それでも魔女は身の危険を察
知して逃げてしまうだろう。それに在野の魔女は群れないわりに同族意識が強いため、対
魔女用の魔法を依頼したとしてもなかなか応じてはくれない。
 今回の任務へあたるに際して、企画部からは魔女の術を無効化する魔法を携行するよう
に勧められもした。以前も魔女と対峙したことのあった明英はそれを断った。先回はそう
してから任務に赴いたのだが相手の魔女にあっさりその術を解除されてしまい、危うく死
にかけたのだ。その時はすぐに本部へ連絡をし、解除魔法の解除と再防御を依頼したのだ
が、それも作動した翌々日には解除されてしまった。要するに魔法防護の術とその解除術
とのせめぎ合いは泥沼化するだけなのだ。片方の魔女が相手の魔女に対して圧倒的にな魔
力を有していればそうした事態は起こらないと、そのとき術を掛けてくれたという魔女に
後で教えて貰ったのだが、現在政府に協力している魔女でも呪術系の魔法において無敵と
いうわけではないとのことだった。仮に淡雪が魔術系の魔法に強く、呪術系の魔法に弱い
魔女だったなら、それでもそれは有効な手段だったかもしれない。しかし現実は逆だ。下
手に防御魔法で安心しているとあっさりそれを破られ、初歩的な魔法で命を落とすことに
もなりかねない。
 せめてリルケだけでも処理しようかという考えが幾度も浮かぶが、あまり気乗りのする
思い付きとは言い難かった。経験とこれまでの接触から考えて、リルケのような人間はな
かなかしぶといはずだった。
 どうしようか考えるうち、いつしか明英は三丁目まで来てしまった。この辺りまで来る
と町はちゃんとした体裁を整えている。廃棄されたビルもまずなく、一丁目で働いている
人間が暮らすためのアパートなどもある。明英は二つのアパートに挟まれた小さな公園へ
足を踏み入れると、歪みの激しいゴミ箱の隣に据え付けられたベンチへ腰を下ろした。勝
手に移動されないよう、ベンチの脚は地面に埋め込まれたコンクリート製の土台にボルト
で固定されている。
 公園には誰もいなかった。三丁目のような番号の若い番地の公園では、浮浪者の段ボー
ルハウスなどがよく見られるのだが、それもない。
 荒神町には明英が最初想像していたよりも浮浪者の数が随分と少なかった。一〇丁目よ
りも奥では危険すぎて生活しづらいし、それよりも駅に近い場所では養える浮浪者の数に
限度があるためだ。一〇丁目以降の廃ビルで生活する浮浪者もいるのだが、その数は町番
号の数が増えるに従って急激に減少する。
 明英が潜伏する先を概ね二〇丁目周辺にしているのは浮浪者との揉め事を避ける意図が
強い。もちろん普通の人間であれば、二〇丁目周辺に現れる奇殺者と遭遇した場合、まず
助かる見込みはない。しかし明英はどうにか対処できるだけの自信と技量があった。それ
さえ持ち合わせていれば頻繁に起こる小さな厄介事が減る分、荒神町の深部はむしろ暮ら
しやすかった。
 実際、その地域を転々とするようになってから常人離れした人間に襲われた経験は今ま
でのところ三度しかなかった。いずれも確かに面倒な相手ではあったが逃げ切れないほど

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でもなかった。明英はよく知らなかったが、三人とも通り名を以て呼ばれるような存在で
あるらしかった。
 こうした奇殺者達の、人を遙かに超える高い身体能力と異様な特殊能力は考えように
よっては魔女よりも不思議である。二人目の若者などは腕をサイドスローで思い切り振り
抜くだけで無尽蔵に衝撃波を発生させていた。死なずの悠子にしてもそうだ。魔女ですら
死なないなどということはないのに、なぜ人間である悠子が死なないのだろうか。そう言
えば、「拡力者養成プロジェクト」の中に荒神町の、名のある奇殺者を研究するという計
画があったが、その後何も聞かないところを見ると、どうやら中止になったか成果が上が
らなかったらしい。無理もないだろう。
 奇殺者に思いを馳せているうち、明英の頭にある考えが浮かんだ。と、同時に明英の顔
に何とも言い難い、情けないような表情が浮かぶ。
「それは、うん」
思い付いた考えをあれこれ検討してみる。考えれば考えるほど馬鹿馬鹿しく、それでいて
有効な手段であるように思われた。面倒ではあるが試してみる価値はある。リルケで上手
くいけば淡雪にも効果が期待できるだろう。
「そんなに僕も若くはないんだけどな」
実行を決意すると、明英は力無くそう呟いた。必要な手順が素早く考案される。その第一
歩として明英はくだんへ電話を掛けることにした。次いで事務所へも。
「あ、もしもし、僕だけど」
「ああ、柏か。定時連絡以外に電話してくるなんて珍しいじゃないか」
電話口にでたのはやはり明英と同じ声の持ち主だった。
「ちょっと、頼みたいことがあるんだ。庁内の魔女に頼んで魔法障壁を張ってもらいた
い。解除されてもいいんだ。なるべく早く。さんがいれば香炭さんに頼んでくれ」 
「判った。急ぐとしよう。じゃ、気を付けて」
「ああ。また後で」
明英は電話を切ると少しの間そのままの姿勢で立っていた。
 原則として魔女の張る人用結界は被術者が直接魔女に会って施術してもらう必要があっ
た。しかしクローン人間は例外だった。クローン間では一人のクローンに施されたある種
の術は全員に及ぶという特性がある。結界もその一つだ。これを、クローン同士が同一人
物ではないにせよ、何らかの一体性を持っているためであるとする考え方がある。シンク
ロニシティとは違うのだが「クローン同位体説」として学者などに支持されている。 そ
の日から明英はリルケの生活周期を調べ始めた。原始的な手法ではあるが、リルケに張り
付いて尾行を行ったのだ。気付かれないようにするだけならば簡単だ。いくらリルケが日
頃から緊張感を持って生活しているとはいえ、長年尾行を行ってきた明英の方が上手だっ
た。
 調査の結果を明英はこまめに記録していった。その結果、リルケにも特定の生活習慣が
あることがわかった。だいたい毎日夜になると「亜鉛」という名前のバーに行くのだ。あ
まり酒を飲んでいる様子はないが、知り合いに会いに行くのが目的であるらしい。店に行
くのが夜の八時頃で、一一時を過ぎるくらいに店から出てくる。淡雪も一緒にいることが
あるが、基本的にはリルケ一人だ。明英はその時を狙うことにした。
 
 馴染みの店員に見送られ、リルケは「亜鉛」を後にした。外には温い風が流れている。
リルケはアパートの方へとゆっくり歩き始める。
 店から三分ほど歩いたとき、リルケは立ち止まった。騒々しく走る足音がこちらへ近付
いていることに気が付いたのだ。直感的にリルケはカーゴパンツのポケットへ手を入れ、
投げナイフを一本、手に滑り込ませる。
 二つ先の角を曲がって現れたのは明英だった。咄嗟にナイフを投げるがあっさりかわさ
れる。よく見ると明英は顔に満面の笑みを浮かべていた。
「おおい、リルケ君。久し振りですね」

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リルケはそんな明英の態度には頓着せず、弾丸の装填された拳銃を構えようとした。
「私の後ろです。後ろ」
明英は拳銃を目にしても嬉しそうに駆け寄ってくる。リルケが狙いを定めようとしたその
とき、明英が現れたのと同じ角から二人の人影が現れた。リルケはその二人を見た瞬間、
きびすを返して走り始めた。肩越しに振り返って明英を追う人間の顔を確かめる。賞金稼
ぎをする自分でなくとも、それが誰なのかは一瞬で判る。「死なずの悠子」と「長外套」
だ。どちらも荒神町最悪の奇殺者である。
「なっにやってんだよ」
リルケは追い付いた明英に怒鳴りつける。
「いやあ、たまたま厄介なのに見付かってしまって、振り切れずに逃げ回るうち君に出
会ったというわけです」
「わけです、じゃないだろ。俺も危ないじゃないか。とにかくこっちへ行くと人通りが多
くてまずい。そこを左に」
明英は言われるままに細い小道へ入る。その背後でビルの壁が砕ける。
「あっちの、長いコートを着た背の高い人。あの人が何か投げてくるんですよ」
明英の口調は相変わらず長閑で愉快そうだ。楽しげな雰囲気がひしひしと伝わる。つられ
てリルケも何やら楽しいような気がしてくる。
「あれは長外套って言ってな、殺した奴の歯を投げてくるんだ」
「歯? それで壁が砕けるんですか? 凄いですね」
「あいつらに理屈は通用しない」
二人は人のいない方へと走り続けた。道に捨てられた粗大ゴミや外れた雨樋などを軽快に
飛び越えて夜の荒神町を疾駆する。
「一人で逃げ回るよりもずっと心強いですよ」
明英が首を竦めながら言う。そのすぐ脇を長外套の放つ歯が掠める。
「あんた、俺をわざと巻き込んだだろ」
リルケは後方を一瞥するとナイフを投げる。夜の暗間を裂いてナイフが悠子の肩口に刺さ
る。しかし悠子は全く気にも留めない。確認はできなかったがたぶん血も出ていないはず
だ。リルケは再び振り向くと今度は長外套にナイフを投げた。それはちょうどコートの合
わせ目に、吸い込まれるようにして消えた。何事もないかのように長外套も走り続ける。
「器用ですね」
言いながら明英も振り向きざまにバックハンドで銃を撃つ。弾は悠子の額を捉えた。悠子
は少しだけのけぞり、また走り出す。
「どうやって振り切ったらいいんです?」
明英は横倒しになっているゴミバケツを飛び越えると言った。
「知らん。こんな阿呆みたいな状況は初めてだ。だいたい、亜鉛は三丁目だぞ。長外套は
一五丁目の辺りにいるんじゃないのか」
「さあ、死なずの悠子さんに遭ったのが一七丁目で、走ってるうちにもう一人が増えたん
ですよ」
リルケは足下に落ちていた鉄パイプを走りながら拾い上げ、器用に後ろへ放った。悠子の
左手がそれを上空に弾き上げる。続いて明英も落ちていた鉄屑を前傾姿勢で拾い、後ろへ
放る。鉄屑は長外套の投げた歯に当たって空中で割れた。
「冗談だろ」
それを目撃したリルケが叫ぶ。こちらもすっかり楽しげだ。
「ええ、冗談ですよ」
不意にそう言うと、明英はリルケの前に足を差し出した。突然の展開に付いて行けず、リ
ルケは盛大に転倒する。
 リルケは怒声を上げるが明英は振り返らず走り続けた。リルケはその背中を睨みながら
立ち上がろうとした。背中に手を感じる。僅かなタイミングで、その手は空を切った。リ
ルケは背後を見ることなく全速力で駆け出す。転んだときにぶつけた膝が痛い。明英への

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怒りが捌け口を求めて一気に内圧を高める。しかし今はそれどころではなかった。二つの
死がすぐ後ろを追尾してくるのだ。その間延びした息遣いさえ聞こえる。肩を痛みが奔っ
た。長外套の投げた歯が掠ったのだ。痛みに脳が僅か、収縮する。リルケはしかし速度を
落とさなかった。
 それから五分ほども走っただろうか。二人は相変わらずリルケのすぐ後ろを追ってく
る。リルケは速度を緩めないよう注意しながら拳銃を手に取り、安全装置を外すと立ち止
まった。同時にトリガーを引く。至近距離からの発砲を受けた長外套が衝撃に耐えられ
ず、後ろへ倒れる。立ち止まれなかった悠子の右手がリルケの左腕を切り裂いて過ぎる。
その熱い痛みを圧し伏せ、リルケは元来た道を逆走し始めた。
 二人が体勢を立て直してリルケを再び追い掛けだしたとき、リルケはかなりの距離を稼
いでいた。
「あんの野郎」
とっくに姿を眩ませてしまった明英へ毒づきながらリルケは脳を最大稼働させた。
 これまで悠子のような相手と一対一で出会ったことはあったが、二人同時に相手をした
ことなどなかった。どうすれば振り切れるか見当も付かない。焦りを押し殺しながらリル
ケは必死で周囲に気を配った。打開策を求める意味もあったが、万が一行き止まりになっ
た道へ入り込んでしまえば終わりだからだ。勘頼りの地理認知によってそうした袋小路を
リルケは避けながら、どこへ行くというでもなく道々を駆け抜ける。
 牽制のために時々投げているうち、とうとうナイフが底をついてしまった。拳銃は弾丸
が勿体ないので余程のことでもないと使えない。それに、銃で撃ったからといっておとな
しくなるような相手でもない。
 夜を、廃材を、砂埃を越えてリルケは駆け続ける。荒涼とした夜道を三つの足音が渡っ
て行く。心底楽しそうだった明英の顔が眼前に浮かび、その度にリルケの地面を蹴り付け
る足へ力が籠もる。こんな策に嵌って死ぬわけにはいかない。悠子に薙ぎ取られた左腕が
熱っぽい。肉を大きく持っていかれたらしい。脳内に分泌される物質の効果で知覚力が増
しているのに、周囲から徐々に現実感が失せる。まるで投影された虚像の中を行くよう
だ。恐怖感も薄れていく。思考が研ぎ澄まされる一方で脳の働きが確実に鈍っている。
 背中に怖気のある痛みが破裂した。自分の胸から小さな物体の飛び出るのがはっきりと
見えた。長外套の放った歯が当たったのだ。リルケの顔で驚愕と悶えが交錯する。小さな
穴からの血がシャツを黒く浸食していく。涙顔になりながらリルケはなおも走った。さす
がに呼吸が上がっている。足音の一つが急激に距離を詰めてくる。悠子だろう。リルケは
短く声を漏らすと速力を上げた。
 幅四メートルくらいのビル間を抜けるとき、壁に取り付けられたパイプが外れかけてい
るのが目に止まった。通り抜けざまにそれを思い切り引き倒す。鈍い音が響いた。多分長
外套が倒れてきた鉄パイプにまともにぶつかったのだろう。思い切り体を前傾させ、地を
嘗めるように走っている悠子はおそらくパイプの下をくぐり抜けたはずだ。しかしこれで
運が良ければ長外套は振り切れたはずだ。彼らから逃げるにはとにかく好機を求めて走り
続ける以外、手段はない。まともに戦ってどうにかできるような相手ではないのだ。
 さっきの着弾で肺に穴が空いたのだろうか。息苦しさが苦痛を引き連れてリルケの心身
を苛む。呼吸をするたびに厭な混濁音もする。痛みの塊にねじ伏せられ、周囲への注意が
逸れる。体だけが勝手に逃走を維持しているが、リルケの意識は自己の損傷に惹き縛られ
ている。思考の幅が熱によって圧着されてしまったかのようだ。
 神経の疲弊が痛みを暫し遠退ける。気が付けば背後の足音は一つに減っていた。やはり
長外套は置き去りに成功したようだ。しかし油断はできない。彼らは獲物が見えなくなっ
てもどうしたわけかその後を正確に追い続けられるのだ。気が緩んだところを思わぬ場所
から襲われることがある。前にそうやって油断していて、突然頭上から降ってきた奇殺者
に命を奪われた賞金稼ぎがいる。
 悠子の体が伸びたかのように感じられた。どう考えても一足では詰められないような距
離を埋めて、悠子の手が背中を掠ったのだ。鋭い閃光が感じられ、それはすぐさま痛みに

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転換される。上体が衝撃で前に流れる。転ぶまいとして足を前に踏みだし、その分速度が
相殺される。思い切って立ち止まり、リルケはその場にしゃがんだ。勢い余ってその場で
少し前に滑る。その後頭部を悠子の膝が打つ。そして悠子はそのまま駆け抜ける。リルケ
は衝突の反動で前のめりに倒れ、地面に手を着いた。そしてすぐに立ち上がる。悠子も一
旦立ち止まり、戻ってくる。リルケはその腹めがけて銃を撃った。悠子の推進力と弾丸の
推進力とが拮抗し、一瞬悠子は宙に静止する。
 リルケはすぐさまもう一発撃つ。それは悠子の首に当たり、悠子の頭は妙な角度へ捻れ
る。そこへリルケは、ポケットから手持ち用のナイフを取り出しつつ走り寄り、さらけ出
された首筋へ思い切り突き立てる。
 ナイフを引き抜きながら後方へ飛び退ったリルケの目に、悠子の首筋から吹き出した黒
血が映る。悠子は傷口に手を当てながらその場へ崩れ落ちる。死にはしないだろうがこれ
でしばらくは動けないはずだ。リルケは背中に意識を集中させながら、その場を走り去っ
た。急激に身体が重くなり、反応が鈍くなる。リルケは近場の診療所を目指して歩調を緩
める。咳をするとその口から、泡混じりの血痰が飛び散った。

十一
 重傷を負ったリルケは家と診療所を往復する生活を余儀なくされた。再び明英の襲来が
起こるのを避けるため、通院時間はランダムにしていた。
 話を聞いた淡雪が見舞いに訪れると、リルケの上半身には至る所に包帯が巻かれてい
た。傷はかなり深いものであり、肉をもぎ取られてしまっているため回復には時間が掛か
るということだった。長外套の放った歯は体内を貫通したため、大掛かりな摘出手術は免
れていた。
 詳しい経緯を聞いた淡雪はあらためて相手の厄介さを痛感した。そんな手があるなど思
いもしなかった。それに、例え思い付いたにしても普通の人間に実行できるようなもので
はない。無傷で二十丁目の辺りから三丁目まで二人を誘導してくるというだけでも信じが
たい難行だ。
 次は当然自分の番だ。確かに悠子や長外套のような「名前持ち」の奇殺者を同時に何人
かぶつけられたらかなりの苦戦を強いられるだろう。命を落とす可能性も高い。リルケと
違って走り続けるような脚力のない淡雪は正面からの応戦をするしかないからだ。だが、
信夫一人にすらあれほど苦労したのだ。あのとき使ってしまった薬品も、まだ補充できて
いない。ともかく生活周期を崩すことで明英に襲撃をされ難くするしか今のところ防御策
はない。
 見舞いからの帰り、淡雪は「ゆき屋」へ寄った。材料となるヤモリや蜘蛛の世話もあっ
たし、明英からのメモが貼られていないか確かめるためでもあった。しかし今日はそれ以
外にも用事があった。明英に呪詛を行うためだ。離れたところの相手へ強い力で物理的障
害をもたらすこの術は魔女の間ではわりと有名な魔法だった。最初は術が破られると仕掛
けた本人に呪いが帰ってくるという欠点があったのだが、それも今では改善されている。
真偽は不明だが日本に生まれ育った魔女が民俗学における「呪詛」の概念に想を得て編み
出したとされる魔法だ。ただし、術を行うにはかなりの時間が必要となる。
 店に着いた淡雪はまず最初に動物への餌やりを片付けた。ほぼ自失状態にあったあいだ
世話を怠っていたせいで、材料となる動物の数は激減していた。水槽の掃除もそろそろし
なければいけなかったが、それは次の機会へ回すことにする。
 一通りやるべきことを終わらせると、淡雪は棚から引っ張り出した「魔法大鑑」を参照
して呪詛の手順を復習し、さっそく準備に取りかかった。定められたとおりに手早く薬剤
や鼠などを混ぜ合わせ、処理していく。材料は順番に大鍋へ投入され、繰り返し煮詰めら
れていく。その度に生理食塩水を加えて嵩を足す。生理食塩水は薬を生成する際に基礎と
して便利な素材だ。それが人の体液に近いためなのかは判らないが、どの魔女も常にある
程度の量を保持していた。部屋の中に荘厳さと卑しさが混じり合ったような悪臭が立ちこ
める。合間に淡雪は剥がした鼠の毛皮や蜘蛛の脚を別の焙炉で煎じ、でき上がったものを

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80
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小瓶へ詰めた。換気扇は回っているのだがそれでも臭いはかなりのものだ。水槽に入れら
れた材料用の生物達が落ち着かなげに騒ぐ。 
 混色の原理に従い、薬液の種類が増えるに従って鍋の中の液体は黒に近付いていく。混
ぜる匙の描く軌跡が薬液の粘度を伝えている。
 呪術系の魔法は実績経験から来る自信もあるし、手慣れた行為であることからくる気安
さもある。秤の目盛りや擂り棒の手触りは、これまで自力で生きてきたのだという自負を
呼び起こす。自分の能力が十全に発揮されているのだという実感も楽しかった。そしてそ
れらは淡雪の精神を鼓舞し、なだめる。
 作業を開始してから四時間が経った。鍋の中の液体は最後に煮詰められ、飴色となって
底の方へ僅かに残っているばかりだ。淡雪は戸棚の一つから未開封の注射器を取り出し
た。袋から取り出すと鍋の中の薬剤を注射器で吸う。
「とりきたる とりはことのはにゆらぎたる さえずりのだいほうのかなたおわししてい
ぎぇうのこうきしろしめし れんげのみねんかすみふれまぼす」
術を編み出した魔女がどこからか引用したという文言を唱えると、淡雪は注射器を己の左
肘の裏に刺した。ゆっくりと薬を血管に注入する。淡雪は心持ち顎を上げ、目を閉じて精
神を落ち着かせる。そんなはずはないのだが、照りのある緩い黒色をした薬品の、血管を
流れる様子が判るようだ。
 実際の血液の流れよりも速いペースで流れる薬品の動きに沿って、血管からなる身体感
覚が形成されていく。それは暫く淡雪の内部に留まっていたが、やがて内部の循環を抜け
出し、どこか遠くへと伸びていく。やがて、淡雪は明英と繋がった感触を察知する。明英
の血管が自分のものの延長のように感じられた。その繋がった向こうへと淡雪は全ての薬
剤を押し遣る。薬は淡雪の側から流れ出し、そして消えた。それにつれて相手の血管との
繋がりも薄れていく。だが、一旦薄れかけたそれは再び鮮明なものとなり、そこを経路に
薬品が淡雪へと逆流する。返ってきた薬品はもはや力を失い、ただの不快な液体と化して
いた。
 淡雪は目を開き、術の失敗を悟る。防壁だ。いつのまに張ったのか、明英は呪詛を遮る
壁を巡らしていたのだ。
 考えるまでもなく明英がこちらの呪いに対して対抗策を用意しているのは当然のこと
だった。自分の読みの杜撰さに淡雪は歯を食いしばる。せっかくの準備が無駄になったと
いう思いよりも、術の失敗したこと自体が悔しい。自分の腕に対する自信が嘲られたよう
な気分だ。
 もしも充分な実力があれば、どれだけ結界を張り巡らせてもそれらを押し退けて術は相
手に到達する。権力に取り入るような魔女に、最も得意とする魔法で破れたのだ。相手に
対する理不尽な怒りが湧く。次いで無気力感がその上に重なる。
 すぐには明英の結界を解く気になれなかった。淡雪は鍋や擂り鉢を流しに漬けると脱力
して椅子に座り込んだ。背もたれが軋む。
 むず痒さに見ると、注射を刺した部分から微かに血が滲んでいる。淡雪はティッシュを
一枚取ると、それで血を拭った。
「まだ、血は赤いか」
囁く声は掠れ、いやに年老いて響いた。
 血が青い偏向を帯びたとき、魔女の寿命は尽きると言われている。その時が来るのは魔
女によって様々であるとも言われるが、青みがかった血液の色は鈍く輝く黒檀のようであ
ると一般に表現されている。「オズの魔法使い」において、挿絵の悪い魔女の肌が苔緑色
なのも、もうすぐ死ぬことを暗示しているのだとされていた。母親が死ぬ間際、血の色は
どうだったろうか。見た覚えはない。 
 昔のことを思い出そうとすると、淡雪の心裡へ閃痛が走った。わけもなく物悲しい感傷
に、淡雪から表情が抜け落ちる。
 呪詛の副作用が足から侵入してきた。最初に足から力が抜け、次に手が震え、目眩がす
る。最後に意識が少しぼんやりとして、その状態が数分続く。意識の根幹に係わる身体感

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覚を急激に改変し、再びもとへ戻すという行為に肉体が付いていけないのだ。
 自分の体の境界が揺らぐということは、「自分」という意識が揺らぐことでもあった。
副作用に支配されているあいだ、淡雪はいつも自分が誰なのかを見失いそうになる。
 いつもは不安を覚えるその感覚が、なぜか今回はひどく心地よかった。なぜなのかとい
う疑問は反射的に浮かぶが、失活した淡雪の思考はそれ以上進展しない。暖かな感覚に覆
い尽くされた淡雪の中心で、その疑問だけが動き回る。
「あ……」
朧げな声が、淡雪の脱力した口から漏れる。自分が味わっているのと同じ感覚を思い出し
たのだ。
 それは明英のメモに精神を蝕まれていた時期の終わり、どこか遠くからの呼びかけに
よってもたらされていた感覚と同じだった。
 その感覚に没入しているあいだ、そこには空間感覚も時間感覚もなかった。揺らぎのな
いどこかへ均一に広がっているのは意識だった。ただその意識からは「淡雪」という要素
が抜け落ち、唯一あるのはひたすら存在しているという認識だけ。言語思考すらもない。
そこでは、全ての不安が消え去っていた。
 思い出した途端に副作用は引いていった。同時に様々なものが押し寄せる。淡雪は消え
ゆく感覚の残滓を求めたがそれも虚しく、やがて通常へと戻されてしまった。
 思い出してしまうと、それを求める欲動は無視できないものとなって淡雪を苛んだ。そ
ういえば、ドロシーに追われた晩、細い路地の中で自分を救ったのも、同じ感覚だったよ
うな気がする。
 だがそれで、なぜ自分がそれほどドロシーに対しても「オズシリーズ」に対しても不快
さを覚えなくなったのか、その理由もそれで説明できる。そうしたものの存在は一種の保
証として、自分の不安を軽減していたのだ。
 淡雪にはそれが悪い思いつきではないような気がした。事実はともあれそう信じること
は、現状から生じる精神的な負担を幾分か和らげてくれる。
 切迫感を伴った衝動に拘束される一方で、淡雪はその想いを悪い兆候だと見なしてもい
た。どれほど望ましい「何か」があるにせよ、今は自分という存在への執着を鈍らせるわ
けにはいかない。そんなことをすればたちどころに明英の策に陥落されてしまう。
 それに自分を頼り、自発性の片鱗すら発揮して淡雪を棄我から救ってくれたレヴィ。ど
れほど報われることがなくとも淡雪のために重傷まで負い、それでもまだ淡雪に変わらぬ
好意を抱いてくれているリルケ。二人の存在がある。特にリルケに対しては、その気持ち
を知りながらわざと知らぬふりをしているだけに罪悪感がある。あの感覚を渇望するあま
りに個執を投げ出してしまえば、そんなレヴィやリルケに対してあまりにも酷い仕打ち
だ。たとえ二人の好意が、そもそもは魔女の特性によって醸された虚実であるにしても、
一度生まれてしまった以上、その発生経緯を問うことに意味はない。虚実によって生まれ
たのだとしても、ここで淡雪を失えば味わう苦しみは同じだからだ。
 淡雪は欲求からではなく罪の意識から、自我の芯に棲む気力によって望還の想いをねじ
伏せようとした。不意に淡雪の意識が途絶する。 

 次に気が付いたとき、時計の上では三時間が経過していた。まただ。そう思って淡雪は
顔を顰める。レヴィに繋がれて意識を取り戻して以来、時折こうした意識の中断が起こる
のだ。一度リルケと一緒に居たときに同じ事が起こった。リルケに後で聞いた話では、そ
の間淡雪は全く身動きも反応もせず、その場に座り続けていたという。
 いったいどうしてそんなことが起こるのか判らなかった。魔女達の知恵の集成である
「魔法大鑑」にもそんな事例は載っていなかった。この本は魔女達が一定の材料で作成し
た特殊なインクで書き込みを行うと、世界中の同書が自動的に更新されるという特性を
持っている。書き込まれる内容は様々で、魔法だけではなく魔女そのものについての記述
もなされる。淡雪もこれまで何度か書き込みをしたことがあった。
 記憶が失われるというのではなく、本当に意識の働きが中断してしまうのだから気絶に

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似ている。しかし気絶のような倒れたり目を瞑ったりといった動作は一切ない。もし野外
でそんな状態になってしまえば意識を失っている間に殺されてしまうかもしれない。
 単純に思考停止が起こっているだけのようなので、レヴィによって連れ戻された意識散
逸との関連性があるのかどうかははっきりしなかった。
 対処したいとは思うのだが何をどうすればいいのかもよく判らない。医者に行ったとこ
ろで、魔女の肉体の変調が人間の医者にどうにかできるとも思えない。
 大小様々な気掛かりが淡雪の周りを隙間なく取り囲んでいる。元々の問題だけでも大変
なところへ、今やあの感覚への欲求が加わっている。その鬱陶しさに淡雪はうんざりして
机へ突っ伏した。
「どうしてこんなことに」
情けない声で言うと淡雪は嘆息した。
 そもそもはレヴィに対する庇護欲から明英の要求を受けなかったわけだが、今となって
は明英の計画を阻止することが目的だ。直感が囁いていたのはこのことだったのだと今更
のように思う。それに、今の明英は淡雪が、前の明英を殺したことを許しはしないだろ
う。クローンは一般的に心理的紐帯が非常に強いか、もしくは激しい近親憎悪を抱きあう
ことが多い。どうもクローン明英達は前者のようなので、おそらく今の明英も自分のこと
を内心は殺してしまいたいと思っていることだろう。
 命を狙われること自体はよくあることだが、その相手が明英だというのは気の滅入るこ
とだった。怪我のために発熱し、何が起きたかを話すのがやっとだったリルケの姿が思い
浮かぶ。いつだったか二人で死なずの悠子と交戦したときの、明英のしなやかな身のこな
しが眼裏へ蘇る。何気なく淡雪はレヴィに目を向けた。ここへ来てからもう数時間、レ
ヴィは自分の籐椅子に座ったまま動かない。相変わらずその静謐は器物のようだった。
 偶然レヴィを保護してから今まで、いつも一緒にいるにもかかわらず一度も自分達の思
いが交錯したことはない。常に傍らにいても、レヴィは遥か彼方にいるも同様だった。だ
いたい、淡雪はレヴィの本名も知らない。
「レヴィ」
戯れに名前を呼んでみる。レヴィは何の反応もしない。
「レヴィ、立ち上がって」
溜め息混じりに言うと、今度は反応があった。レヴィは無駄のない動作で立ち上がる。
「少し歩いて」
言われるままにレヴィは狭い店の中を歩き回る。
 レヴィが理解するのは単純な命令だけだ。正しいコマンドを入力したときにのみ作動す
る装置のようだ。くだんや、殆ど接したことはないが最近の人工知能搭載型コンピュー
ターの方がまだ個性を感じさせる。
 きっと淡雪が知らないだけで、レヴィを扱うコマンドはまだあるはずだった。明英はそ
れを知っているのだろうか? おそらく知っているのだろう。それが瑣末なものであるこ
とを淡雪は祈った。レヴィが背の低い台にぶつかる。
「レヴィ、止まって」
すぐにレヴィの動きが止まる。
「椅子に戻って座りなさい」
淡雪はレヴィが言われたとおりにするのを見届けてから苦い空虚さを感じつつ、流しの擂
り鉢を洗い始めた。
 洗い物をしているとリルケのことに考えが回った。最初から危険であることは明らか
だったのだ。だが、ついいつものように差し伸べられる手を掴んでしまった。そして掴ん
だ手は、あるときは時間の必然によって消失し、あるときは淡雪の意志によって振りほど
かれた。それは淡雪が母と別れてから幾度も繰り返されてきたことであり、全ての魔女達
がその営為と共に積み重ねてきたことだった。
 母親と別れてから様々な地を転々とした淡雪だったが、どこへ行っても常に誰かしら淡
雪を助けてくれる人物に出会ってきた。それは年齢も性別も様々だったし、援助の内容も

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多岐に渡っていた。単なる道案内から始まって住居の一室まで、彼らはみな自分なりの好
意から淡雪に持てるものを提供した。
 そうした好意の数々を淡雪は自然と受け取ってきた。最初はその度に感謝と驚きを覚え
ていたのだが、それが自分のような魔女の持つ特殊能力の一つによるものであると知って
からは感謝こそすれ、どこか当然のものとして享受するようになっていった。少なからぬ
時を経るにつれ、淡雪は人間の好意というものについて習熟していった。その特異さと強
度、厄介さや他愛もなさに。
 リルケが自分に力を貸すのもありがたくはあったが、断ることなど思いもしなかった。
もっとも、たとえ思い付いたとしても明英相手に助力を絶つような余裕はなかった。しか
しいざこうしてリルケが深手を負ってしまうと、自分のしていたことの重酷さが実体的な
ものとなって感じられる。
 リルケの好意が、どのようなものであれ淡雪の応答を望んでいることも承知していた。
淡雪を見詰める顔に浮かぶ欲望と渇望と抑制が魔女である自分には簡単に見て取れた。そ
して、それに応えないことがリルケを苛んでいるということも
 思考が意識を失う前と循環してしまっていることに淡雪は気が付く。だがそれを止めら
れない。
 これまでにも淡雪に対して恋愛めいた感情を抱いた人間はいた。しかしいつも淡雪はそ
れを知りつつ留保し続けてきた。その結果は決して愉快なものではなかったが、それは仕
方のないことだと考えてきた。しかし、その仕方のなさが今度ばかりは淡雪を苛立たせ、
糾責した。淡雪とて問題を簡便に回避するために「仕方がない」という考えに到達したわ
けではない。そこにはそれなりの経験や過程が存在した。だが、消去法的に成立したその
考えが綻びかけている。その起点に自分の罪悪感が存在するにせよ、リルケに対して仕方
がないでは済ませられないという思いは、意識すればするだけ淡雪の中で確固とした痛み
となっていった。
 鬱悶としているうちに片付けが終わってしまった。闇い物思いに沈んだままレヴィを連
れて、淡雪は「ゆき屋」を出た。

 いつの間にか寝ていたらしい。リルケはベッドの上に身を起こした。背中の傷が引き攣
れ、痛む。見れば窓からの日差しは既に夕方の気配を含んでいる。縫合した胸の傷が痒
い。巻き直した包帯の上からリルケはそっと傷を撫でる。
「起きた?」
淡雪の声がする。リルケが声のした方を向くと、淡雪はパソコンの前に座っていた。ネッ
トを回覧して遊んでいたようだ。
「悪い。せっかく見舞いに来てもらったのに寝たりして」
「怪我を癒すには寝るのが一番って言うし、気にしないで」
淡雪は椅子から立ち上がった。
「何か飲む?」
「ああ、冷蔵庫に牛乳が入ってるから、それを」
淡雪はグラスを二つ用意すると冷蔵庫を開けた。中から取り出した牛乳を流しの上のグラ
スへ注ぐ。流しが淡雪の背には少し高いため、身体を伸ばして注ぐことになる。その仕草
は危なっかしい。そんな淡雪の姿を見ると、まるで淡雪が外見相応の子供のように思え
る。「ゆき屋」も淡雪のアパートも、置いてあるものは淡雪の背丈に合わせてそろえられ
ているせいであまり意識しないが、日常的に身の回りにある物は元々、子供の身の丈には
余る大きさなのだ。
 淡雪はグラスに口を付けた。白い液体がグラスの端を唇の形に縁取る。口を離せば薄白
い跡が残る。子供らしい小さな唇へ付着した牛乳を舌が舐め取る。
「飲まないの?」
淡雪に見惚れていたリルケはその言葉で我に帰る。
「ああ」

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手にした牛乳を飲むと、重たい甘味が冷たく口を潤す。
 淡雪は毎日リルケの見舞いに来ていた。リルケとしては嬉しいのだが、淡雪が今回のこ
とに責任を感じているせいだろうことは想像が付いた。明英の件について、リルケは何の
関わりもない。勝手にやったこととはいえ普通の好意で命を危険に晒すのは不自然だ。
きっと淡雪は、自分が淡雪に対して抱いている気持ちに気付いているのだろう。後ろめた
さが湧く。どれだけ自分より年上であるといっても、淡雪の少女としての外見が、自分の
想いを正当化することを阻む。けれども、それが本当の理由なのだろうか。
 明英の言葉が蘇る。自分は淡雪に利用されているだけなのだろうか。これまで幾度とな
く繰り返してきた問いが首をもたげる。淡雪が自分の感情に気付いていながら、あえてそ
のことに触れずにいるのだとしたら。あり得ないと言い切れないだけの根拠がある。それ
が辛い。信じたいという希望と、執着心に由来する疑義とがリルケを宙に吊り上げる。
「なあ」気が付くと口が動いていた。緊張感が高まるのをよそに、リルケの口は淡々と情
念を言葉へ変える。「魔女は、人間を惹き付ける力があるんだってな」
淡雪が返事をするまで、一瞬の間があった。
「ええ」何かを探るような抑揚だ。リルケは顔を覆いたい衝動に駆られる。
「その力がいつから魔女に備わったものなのか正確には判らないけれど、最初からそう
だってみんな信じてる。おかげで魔女は人間に狩られることなくこうしていられるんだっ
ていう話」ただ事実を述べているだけだという単調さがその声にはあった。「それが、ど
うしたの?」
あからさまな迂回だ。だがその稚拙な明白さは淡雪らしくなかった。
「いや、何となく、な。貸してもらった『魔女学』にそう書いてあったから尋ねてみただ
けだ」
「あの本、もう全部読んだ?」
「いや、もう少し。最近は株取引以外何もできないからよく読んでるけどな」
話題が軸からずれていくのを感じる。しかしリルケにはそれを押し留めるだけの勇気がな
かった。会話は連鎖的に軸から離れ、日常の会話へと流れていく。
「雨」
淡雪の言葉に窓の外を見遣ると、確かに雨が降り出していた。雨粒が窓に一つ二つと張り
付いていく。
「傘、持って来てないのに」
「泊まってくか」
リルケの言葉に淡雪が固まる。二人の間に氷温の、目に見えない緊張が結晶する。
「冗談だ。寝かせる場所もないしな。傘ぐらい貸してやるよ」
「レヴィの分もある?」
リルケはうなずく。当のレヴィは壁にもたれて床に座っている。完成間近で投げ出された
彫像のようだ。黒いTシャツから覗く二本の腕は白磁調で、とても柔らかさと弾力がある
など信じられない。高い鼻梁をやや俯けて、ベッドから見下ろすと眠っているようにも見
える。
「起きてるのか? レヴィ」
淡雪もレヴィを見る。
「起きてるよ。目が開いてるから、たぶん。でも、レヴィにとっては起きてるのも眠って
るのも同じなんじゃない?」
「意識がないからか。でも、本当にレヴィに自我はないのか?」
淡雪は首を傾げ、僅かに肩を持ち上げた。稚い顔の周りで黒髪が揺れる。
「ひょっとしたら、あるのかもね。知りようがないことだけどさ」
リルケは傷が触れないよう左脇を下にしてベッドへ横になった。
「本当ならそろそろ店子から家賃を集めないといけないな。この怪我じゃ無理だけど。魔
法でどうにかできないか?」
「魔法で。できなくはないけど。人を操って特定の行動をさせるのって意外と難しいんだ

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よね。だから幾つかそういった魔法はあるけど、どれもいまいち。家賃を払わせるには、
例えば規則に絶対服従する魔法なんかがあるけど、そしたら家賃を払うには何でもするよ
うになっちゃうからね。盗みでも殺人でも。家賃を払うために大家を殺して金を奪ったっ
て話も聞いたことあるし。払えなくて自殺する人とか。面倒なことが増えるだけだよ」
「そうか。なかなか都合よくはいかないんだな」
「魔法にも原理がある以上、得手不得手はあるの」
雨音を増す空はたちどころに部屋を暗くする。淡雪は電気を点けた。蛍光灯が瞬き、安定
する。部屋中が灰汁を含んだような光に満ちた。レヴィの下を向いた顔に、深い影が落ち
る。
「三本の矢って話、知ってるか? 要するに力を合わせれば一人よりもいいっていうこと
なんだが」
淡雪はリルケの胸元を見ている。リルケはそれと知られぬよう、静かに深く息を吸う。
「つまり、俺達、しばらく一緒に行動した方がいいんじゃないかっていう」
リルケの声は話す途中で小さくなり、止まった。淡雪は少しの間考え込む。
「でも、これ以上リルケを巻き込めない」
言ってから淡雪は、負けたような顔をした。
「巻き込むも何も、俺は明英と勝負する理由がある」リルケは左腕を包帯の上から軽く
握った。「俺にこんな怪我を負わせといて、明英に報復しないわけにはいかない。荒神町
の人間と敵対するっていうのがどういうことか、判らせないとな」
リルケは口実を差し出してみせる。
「それは、確かにそうだけど」
「だろ。それで、もしお前がよければ、どっちかの家で一緒にいた方がいいんじゃない
か?俺は確かにこんな身体でまだ充分には動けないにしても、もう随分とよくなってはい
る。足手まといにはならないだろ」
淡雪は答えなかった。二人の間で無言の気配が交錯する。
「いや、嫌ならいいんだ。強制はしない」
淡雪は口の端でほんの少しだけ笑みを形作った。
「いいよ。うちの方が広いから、うちに来なよ」
その声は不自然なくらい含みのないものだった。その態度だけでリルケには充分な答え
だった。
「俺さ、」
言いさしてリルケは口を閉ざす。淡雪は言葉の続きを促さない。寂明が雨音だけを纏っ
て、部屋の中を占める。誰も、動かない。リルケは左腕の怪我が脈打って痛んでいるの
を、遠くの出来事のように感じている。骨折のようなせつなさが、リルケの埋に満ち狂
う。その激しさにリルケは右手で頬をさすった。
「どうしたの? 平気?」
リルケは答えない。なおも問い続ける淡雪に、力なく手を振り返す。
「ちょっと、傷が痛んだんだ。もう治まった」
淡雪は黙ってリルケの顔を見詰める。探られているという感触が、リルケの意識の奥深く
をなぞる。リルケは淡雪から顔をそむけた。
 大気中の塵芥を集めた雨粒が、執拗に窓へ吹き付ける。

十一
 生活に必要最低限の荷物をまとめて、翌日リルケは淡雪のアパートへ移った。少ない荷
物を担いでアパートの階段を上ると、淡雪は玄関の前でリルケを待っていた。
「ようこそ。荷物はそれだけ? 一応、リルケの荷物が入るように少しは片付けておいた
から。狭い場所だけど、遠慮なく」
少しだけ弾んだような淡雪の声に、リルケの顔がやや明るくなる。
「それじゃあ、今日からよろしく」

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86
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リルケはそう言うと、淡雪の後へ付いて中へ入った。
 室内は以前訪れたときの荒れ方からすると、明らかに生活感があった。そうして見る
と、案外広い部屋だったことに気付く。
「ほら、新しい同居人が来るのに散らかってたらまずいかな、なんて思って。こんな機会
でもなければしっかり部屋の整理なんかしないし。あ、荷物はそこに置いて」
リルケの感想を察したかのように、些か照れたような口調で淡雪が言う。
「何だか、別人の部屋みたいだな。お前の部屋って、こんなに広かったんだ」
リルケは荷物が置けるよう開けられた一角に担いでいたバッグを下ろしながら言った。
「うん。自分でもちょっと落ち着かない感じがする」
淡雪はそう言いながらヤカンに水を汲み、コンロに掛ける。ヤカンの表面に付いた水滴の
蒸発する音が気持ちよく響く。
 二人とも、前日の重苦しい雰囲気は欠片も表へ出さなかった。むしろ、不意に訪れた共
同生活を楽しんでいるようだ。共謀と呼ぶにはあまりにもつたない振る舞いだった。
「レヴィ、よろしく」
ベッドの縁に座ったレヴィの肩をリルケは軽く叩く。
「洗濯機とかお風呂の説明は後でするから」
「ああ、家事の分担も決めた方がいいだろ」
「もちろん。お客さんじゃないんだから」
リルケは軽く鼻を鳴らした。
「この家、パソコン繋げるか?」
淡雪の目線が部屋の四周を泳ぐ。
「さあ、どうなんだろ。悪いけど自分で見て。あたしにはよく判らない」
リルケは辺りを簡単に見回したが、目に付く所にそれらしいものはなかった。
「ま、後で探そう。時間はあるんだしな」
ヤカンの口から湯気が昇り、笛が鳴った。淡雪は火を止め、ティーポットに湯を注ぐ。
「この前、リルケからお土産に貰った紅茶。お茶請けも買ってきたんだ」
淡雪は流しの端に置いてあった紙袋から小さな袋に入ったクッキーを取り出す。
「駅前の、あの店か」
リルケは紙袋にプリントされた店のロゴを見て言う。荒神町唯一の洋菓子屋だ。
「俺が小さかった頃はもう何件かそういう店もあったな」
「何年前のこと?」
「お前が還暦を迎えるよりは前のことだ」
「そんなに歳じゃあ、ないんだけど」
なぜだかリルケは少しだけ得意げに笑った。淡雪は不服そうに唸ってみせる。
 リルケとレヴィがテーブルに着くと淡雪はクッキーの盛られた皿を据え、紅茶を注ぎ分
けた。淡雪とリルケは素朴な甘味のあるクッキーを摘み、無駄口を叩き合った。クッキー
が皿を叩く軽い音と、乾いた咀嚼音と。久し振りに和やかな空気が漂う。柔らかな幸せを
感じ、リルケは嬉しさに包まれていくもの悲しさを覚えた。その感情に束の間、リルケは
口を噤む。
「どうしたの?」
「何でもない」
リルケは素っ気なくそう答えると、皿からクッキーを一枚取った。そうして一度ずれた軸
は戻ることなく、奈辺へ伸長していく。

 共に暮らすようになってから明英は現れぬまま、二週間が過ぎた。まれに翡翠色のメモ
を目にすることはあったが、せいぜい五日に一枚くらいの頻度でしかない。
 共同生活はときに緊迫を孕むが、概ね穏やかに経過した。二人は互いの思惑の核心に触
れぬよう、細心の注意を払った。どちらかがつい判然とした発言をしてしまっても、もう
片方は聞かないふりを装うのが暗黙の規約となっていた。今はその問題に取り組んでいる

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ような場合ではないのだ。
 淡雪は「ゆき屋」を再開した。もちろん、店にはリルケも付いて行く。しばらく休んで
いたせいか、客足は多かった。忙しく立ち働く淡雪の傍らでリルケは副業の一つである投
資に時間を費やすようになった。パソコンは「ゆき屋」が再開される際にリルケが購入し
てきたものだ。
 働いているときの淡雪は子供らしい外見には不似合いなほど堂々として見えた。それは
業務用の演出もあっただろうが、成功の反復によって培われた自然な態度でもあるのだろ
う。迷いのない淡雪を傍らに感じるのは心地よいことだった。
 また、リルケのリハビリもかねて淡雪達は家賃の取り立ても行った。魔女がいるという
だけで大抵の人間は反抗心を失うらしく、通常よりもかなり楽に取り立ては終わった。
「こうやっておとなしくしてる方が収入はよくなりそうだ」
リルケは駅前で買ってきた経済誌をテーブルに置き、言った。淡雪はそんなものを読んで
いるリルケの姿など見るのは初めてだった。
「株をやってるって言ってたけど、本当にちゃんと勉強したりしてるんだ」
「当たり前だろ。前々から俺の収入は半分が投資の利益で成り立ってるんだからな」
「どう見てもそんな人間には見えないのに」
淡雪はリルケに薬草茶を差し出す。リルケはそれを受け取ると、息を吹きかけて少しだけ
啜る。
「この味にもだんだん慣れてきたな。前ほど不味く感じない」
そう言いつつ、リルケは残りを無理矢理に呷るような飲み方でカップに満ちた液体を飲ん
でいる。
「口、火傷した。あ、そうだ。見掛けに寄らないと言えばお前だってそうだろ。魔女だっ
て黒ずくめじゃなしに普通の格好をすれば人間に見える」
「見えはするけど、たぶん雰囲気で魔女だって気が付かれると思うよ」
リルケは淡雪を眺めた。
「そうだな。魔女はどんな格好でも魔女なのが判るな。どうしてだろう」
「人間とあたし達が同じなのは、見掛けだけだから」
その言葉の重さを推し量るように、リルケは宙を見据えた。「忘れられがちではあるが、
確かに魔女と人間は根本的に違う生物なのだ」という「魔女学」の一節を思い出す。それ
によると魔女が、従来の考えで言う「生物」であるのかどうかも実際のところははっきり
しないのだという。しかしその言説は、淡雪を目の前にするとどうしても納得のできるも
のではない。だからといって、その説をあっさりと否定するほどリルケは魔女に対して無
神経ではなかった。
「明英さんはどうしてるんだろ」
「そうだな。情報屋からは何の連絡もないし。一旦町を出たのかもしれない」
「だといいんだけど」
「そうそう都合よくは運ばないよな」
「そりゃね。だいたいドアにメモがまだ貼られるじゃない。それに」
「直感が何か言うのか?」
やや眉根を下げて淡雪はうなずく。
「どのみち、待ってればいずれは向こうから接触してくるだろ。だからこうして何もして
ないわけだ」
リルケは故意に軽い口調で言った。
「受け身はあんまり好きじゃない」
「俺だってそうだ。でも闇雲に動き回ったってしょうがない。だいたいお前、まだ急に動
きが止まるの治ってないだろ」
リルケの言うとおりだった。接客の途中でさえ、突然淡雪が停止することは何回かあっ
た。そんなときは傍らにいるリルケが客に謝罪をして出直してもらうか、待ってもらうか
するのだが、大概の客は不安を感じて帰ってしまう。

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「動かないときのお前って、レヴィみたいだぞ」
「レヴィ? 動かないから?」
「いや、そうじゃなくて。まあそれもあるけども、それだけじゃなくてもっと雰囲気みた
いなものが似てる。淡雪の格好をしてるのに中身はレヴィが入ってるみたいな。レヴィに
は中身らしい中身もないから、レヴィの中身の空っぽが入ってる感じか」
 こちらがそれと気付かないうちにレヴィによって繋がれているとは経験的に考えにく
かった。前回のようなこともあるのだから、レヴィが自発的に他人を繋ぐ可能性もないで
はないが、それなら判るだろうという自信があった。それに「繋ぎ」を行っているあいだ
のレヴィは全身が発光しているので、リルケも気付くはずであった。
 レヴィの力に、出会った当初感じていたような不安と疑念が生まれる。自分がレヴィの
能力について知っているのは全て経験と推論によるものでしかない。しかしそれが正しい
という保証はない。しょせんは人間であるレヴィになぜそんなことができるのかも、ま
た、人と人とを繋ぐということが実際にはどういうことなのかも、全く不明なのだ。自分
は無自覚に、途轍もなく危険な力を弄んでいるのかもしれない。今まではそれでも問題が
発生しなかったので、淡雪もだいぶん安心していた。しかし、それは偶然これまでそうで
あった、というだけなのかもしれない。
「もし明英さんがこのことを知ってるんなら。あたしがそうなるだろうっていうことを
知ってるんなら」
「でも、目的はレヴィだろ。いや、それで今お前を封じることができれば。レヴィを連れ
て行きやすいか。でもそれならこの前でもできたはずなんだろ? じゃあ今更お前の動き
を潰す意味が」
淡雪は神経質そうに指先でこめかみを叩いた。
「ちょっと待って。それはそうなんだけど、あくまでレヴィが中心なんだけど。えー、何
かもう少しで判りそうな気がする。言葉にはまだならないけれど、もうあと一歩で答えが
出そう」
淡雪は「明英、レヴィ、トト。リルケ、あたしと明英にリルケ」などと呟きながら必死に
考えている。
「例えば、あたしとリルケがレヴィに繋がれたとして、レヴィはあたしとリルケを直接繋
いでいる。だからあたしにはリルケの内面が、リルケにはあたしの内面が流れ込む。二人
を繋ぎっぱなしにしたらどうなるんだろう。混ざり合う?」
「おい、淡雪? よく話が見えないんだけどな」
淡雪は忙しなくリルケに手を振ってみせた。
「さっき、動かなくなったあたしがレヴィに似てるって言ったでしょ。そうなったのは、
意識を失ったあたしをレヴィがどこか、それとも、誰か、に繋いだから。繋ぎ合う時間が
長ければ、繋がれた両者は混ざり合うと仮定するとしたら、あたしはその繋がれた逆端に
いた何か、それとも無、と完全にじゃないにしても混ざり合った可能性がある。それと
も、レヴィにあたしが似ているっていうのは文字どおりあたしとレヴィの内面が混ざり
合ったからかな。それならレヴィは自分とあたしとを繋いだ?」
「それは憶測だろ。それに、お前の言葉が正しいんならレヴィの中にもお前の要素が混
ざってないとおかしい。でもそんな気配はないだろ?」
淡雪は額へ軽く手をあてがうと黙った。
「そっか。そうだよね」
「だいたい、その話が明英とどんな関係があるのかも」
「レヴィとあたしを繋がせることで、レヴィに自我を芽生えさせたい、とか」
「だから、芽生えてないだろ? それに、こいつに意識が生まれたからって、それがあい
つにどんなメリットを持ってるんだよ?」
深々と唸ると、淡雪はカップの残雪を飲み干した。
 
「ドロシーへ」そう書き出したきりのメモパッドは明英の左手に握られて、その掌に温め

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られるばかりだった。右手にボールペンを持ったままで、明英は渋い顔をしていた。淡雪
に送りつけるメモの内容が思い浮かばないのだ。集中的にメモを貼る必要があるにもかか
わらず、これまで既にけっこうな量を書いてきたため、書くことが尽きかけているのだ。
周囲には反故になったメモ用紙が散乱している。風が吹き抜けるとそれらは干涸らびた音
を立てて転がる。
 明英は屋上に立っていた。狭い荒れ部屋に籠もっていることに倦んで、屋上へと通じる
扉を外して出てきたのだ。
 屋上は出口から先の半分が滑落して失われてしまっており、隅には瀕死の蔦がうなだれ
て生えている。明英はその、崩れ落ちてしまった部分の縁に立っている。足下には残骸の
散らばる屋内が見えている。
 八階の上にいるため、見晴らしは悪くない。と言ってもさして眺めがよいわけではな
く、視界には薄黒く腐枯した建物の、茶錆をまぶしたような壁や屋上が広がるばかりだ。
頭上の空は芯が抜けたようになって、どこかだらしない青さだ。そのふやけたような碧空
を見ていると、こちらにまで気怠さが移りそうだった。
 計画が完遂を目前とするにつれ、明英は自分が緊張しているのをはっきり自覚するよう
になっていた。それはこれまでの仕事で感じることのあった任務遂行中の張り詰めた緊張
感とは異なり、ただ感じる者を怯えさせ、鈍らせるたぐいの感情だった。抑制してしまい
たいのだが、思うようにコントロールが効かない。
 不安材料があることも緊張を増していた。計画の枢要をなす肝心の理論が、確定的なも
のではないのだ。失敗すれば後がないのに、やってみるまで成功するかどうか判らない。
日頃は任務の価値になど頓着しない明英なのだが、自分のための計画ともなると別だっ
た。失敗したくないという思いが、たんなる職務上の損得を越えて明英を拘束する。
 そろそろ計画の最終段階を実行してもいいのかもしれない。メモパッドとペンをポケッ
トに仕舞いながら、明英はそんなことを考える。
 これまでの観測から、淡雪がこちらの目指す状態に仕上がりつつあるのは判っていた。
問題はどの程度まで仕上げればいいのか、ということだった。あまり待ちすぎると向こう
にこちらの計画内容が露見してしまう恐れがある。かといって、ここで焦って不十分な仕
上がりのまま計画の最終段階を実行してしまうと、柊の死も、これまでの苦労も、全て無
駄になってしまう。 
 携帯電話の呼び出し音が鳴った。明英は電話をポケットから取り出すと耳に当てた。
「もしもし、明英です」
「私達だよ」
電話の向こうから歪んだ金属質の声が聞こえる。くだんだ。
「これはどうも。どうしました?」
「いや、計画の仕上げはいつになったら実行されるのかと思ってな」
明英は答えなかった。
「やっぱりな。決めかねていると言うんだろう? 慎重になるのは判るが、決断の遅延は
感心しないぞ。もうそんな時間もない。いいか、よく聞け。今から一〇分前、庁内の査問
部で緊急会議の要請があった。どういう経路で知られたのかはまだ同定できないが、お前
達に疑義が持ち上がっている。やつらがどれくらいのことを知っているのかははっきりし
ないが、『あなほべ』とお前達の資料だけでも推測には充分だ」
明英は全身に嫌な汗を感じた。
「それで、残りの三人にはすぐそちらへ行くよう知らせておいた。最も早くここへ辿り着
けるよう、私達が今も力を貸している。お前達はどうやらのんびりしすぎたようだ」
明英は肺に溜まっていた空気を吐き出した。
「ですが、まだ」
「もう、選択の余地はない。全ては動き出した。止まることはない。まあ、庁内のやつら
のことだ。すぐに動きはしないだろう。はくたくと木更津の件もまだ落ち着いてはいない
しな。それだけの猶予があれば充分だろう。柏、しっかりと、な」

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90
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通話が切れた。明英は重い物でも扱うかのような動作で携帯電話をポケットへ仕舞った。
「やれやれ」
そうひとりごちると、明英は短く笑った。そうして右手で顔を一撫でする。
「何も私達を追い詰めずともいいでしょうに。くだんも人が悪い。それとも、親心を示し
たつもりなのか。にしても乱暴な」
自分達の計画を、少なくともその可能性を漏らしたのが他ならぬくだんであることを、明
英は確信していた。おそらく、ここへきて慎重になりすぎている明英に、行動を起こさざ
るを得ない状況を作り出したのだろう。どのみち庁内に露見せずとも、計画が失敗すれば
全てはおしまいなのだ。逆に、計画が成功した後でなら、誰が何をしようと構いはしな
い。くだんとしては自分を僻地に追いやった人間達へ計画の成功を見せつけ、嘲笑う意図
もあるのだろう。
「皆が来るまでに、少し下準備でもしておくかな」
言うと明英は下へ降りるため、崩れ落ちた部分に背を向けると歩き始めた。その足下で、
まだ残っていたメモ用紙が踏まれて音を立てる。
 全員が荒神町へ集まるということは外参課に誰も居なくなることを意味する。課とは
言っても外参課は明英しかいないのだ。
 そもそも明英が数人のクローンであることを知っている人間は庁内でも数えるほどしか
いない。またそのことを隠し易くするため、外参課の仕事内容や構成人員を知っている人
間もまず存在しない。たまに庁舎へ出向いても、明英は一つの連続する記憶を持った人間
として扱われる。そのことにどの明英も不満を抱きはしなかった。明英達自身も自分達は
本来、同一人物である方が自然なのだという意識があるためだ。その認識は幼い頃、父親
である慈英から度々聞かされた話に由来する。
 まだ明英達が幼かった頃、慈英は五人の明英がクローンであるとは言わず、元々一人
だった子供が五人に分かたれてしまったと言い聞かせていたのだ。その方が明英達が同じ
人間として振る舞うことに疑問を持たないだろうと判断したのか、冗談めいた感傷のつも
りだったのか、或いはもっと深い理由でもあるのか。今となってはなぜ慈英がそんな説明
をしたのか、明英達には知る由もなかった。
 自分達がクローンであるが故に同じ顔や声を有しているという事実を知ったのはわりと
大きくなってからのことだった。しかし、事実を知っても小さい頃から信じてきた自分達
は同じ人間であり、そのために「明英」という名の下に同じ人間として存在することを要
求されるのだという理解は実感として残り続けた。そしてそれはいつしか、本来あるべき
自分からの疎外感として消し去りがたく全ての明英を捉えるようになったのである。
 勿論そんな考えは幻想でしかなく、統合された本当の明英などという人物が最初から存
在しないことなど充分に解っていた。それでもなお、真の明英となることは五人の明英に
共通した憧憬としてあった。
「叶わぬ夢、だとばかり思ってたんだけどなあ」
屋上から立ち去る間際、誰にともなく明英は呟いた。 
 
一三
 自分のすぐ後ろ、伸ばした左手の先でレヴィの荒い息遣いが聞こえる。淡雪は緩みだし
た手に再び力を加える。そのすぐ脇の地面を「縊れ鬼」の放った衝撃波が直撃し、踏み固
められた砂が舞い上がる。前方を走るリルケは時折振り返り、こちらを気にしている。リ
ルケは淡雪を衝立として先に逃げているというわけではないのだが、走っているうちに自
然と差が付いてしまうのだ。
「リルケ、そこを左」
淡雪の声に従い、リルケは角を曲がる。
 淡雪達はもう一〇分以上も走り続けていた。明英達に追われているのだ。背後から明英
の足音と、数人の奇殺者が立てる靴音が迫ってくる。
 淡雪がちゃんと角を曲がれたか、リルケは肩越しに確認する。大丈夫だ。さらにその向

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91
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こうには明英が二人、走っている。それに先導されて奇殺者達。顔触れから察するに、そ
れらはどうやら五丁目周辺と一〇丁目周辺の二集団に分けられるようだ。どちらも、二人
の明英がそれぞれに連れてきたのだ。これほどの人数を一度に目にするのは初めてで、中
にはリルケにも顔と名前が一致しない者もいた。
 明英は淡雪達三人が昼食を食べに外へ出たところを狙ってやって来た。最初、明英は一
人だけだったが、逃げ回るうちすぐにもう一人の明英一行が合流したのだった。
 明英達も普段と違い、必死の雰囲気が漂っていた。口元の笑い皺のせいで多少にこやか
には見えるのだが、眉間の緊密感や額に滲む汗などからそれと知れる。彼らもたんに自分
を囮として奇殺者達を先導しているにすぎないのであり、奇殺者はそんな明英達にもまた
攻撃を加えてくるためだ。おかげで二人とも、軽いながら傷を負っている。
 おそらく他にも同じような明英がいるのだろう。町中を走っていると時々、淡雪の直感
が警戒を促す。できる限り淡雪はその警告に従って進路を変更した。警告された方向の先
には他の明英達がいるはずだ。
 しかし逃げ続けるにつれ、他の明英達も確実に淡雪達へ近付きつつあるようだった。今
では頻繁に進路を変えなければならなくなっている。時折、奇殺者をのぞく四人は足をも
つれさせ、転びそうになる。その度に、他の三人に緊張感が伝播する。
 大きな通りに出たリルケが一瞬右を向き、すぐに左へ走り始めた。その意味を察して淡
雪も素早く細い路地を抜ける。
 すると案の定、新しい明英の引き連れた一隊がこちらへ向かって走っていた。淡雪は彼
らに背を向けるとリルケの後を付いて走った。
 狭い路地を抜けた二人の明英と新しく現れた明英とが合流する。これで三人だ。やや
あって、そのさらに後ろを走る三つの奇殺者集団も合流する。今度現れたのは二〇丁目辺
りに出現するやつらだ。彼らが互いには決して攻撃しないことに淡雪は気付く。
 何だか正体の知れない物体が淡雪の右頬を浅く傷付けていった。思わず振り返りそうに
なるのを堪える。淡雪もリルケも、そしてレヴィも、奇殺者の攻撃に傷付いていた。服に
鉤裂きが無数にできており、その下から紅血の滲む傷口が顔を覗かせている。
 レヴィは淡雪よりも悲惨だった。痛みを感じないのか動きが鈍る様子はないのだが、こ
めかみから派手に血が流れ出し、顎から首元を朱色に染めている。しかしその表情はいつ
もと変わる様子がなく、何も知らぬげだ。体の揺れに、顎の先から血の滴が跳ぶ。
 追いすがる集団にレヴィの「繋ぐ」効果のないことが恨めしかった。普通の人間なら何
人に追われてもいっぺんにそれで片付くのだが、彼らにはそうもいかない。リルケも今回
は最初から後方にナイフを投げるようなことはしなかった。先回、そのことの無意味さを
痛感させられたからだろう。あるいはまだ少し、急激に体をひねると傷が痛むのかも知れ
ない。 
 町の人々は足音の塊にただならぬものを察知するのか、どれだけ走っても見当たらな
い。稀に逃げもせずその場に留まっている人間もいるが、そうした人間はすぐに奇殺者の
一団によって殺されてしまう。奔流のような集団に呑み込まれて見えなくなったかと思う
と周囲に水っぽい物体の潰れる音が響き、地面に踏み荒らされた血溜まりが広がるのだ。
しかしどこへどう回収されているのか、死体は僅かな断片を残して消え去ってしまう。そ
れで彼らの足並みが落ちるかというとそうでもなく、変わらない速度で今や六人となった
獲物を追い続ける。
 体力を温存するため、誰一人として無駄口を利かなかった。三人の明英もそれは同じ
だ。疲れているせいもある。
 特に肉体的には子供である淡雪が最も消耗していた。大きく地面を蹴るたびに長いス
カートの、足にまとわりつくのが重く感じられる。止まりたいという欲求が幾度も淡雪か
ら速度を奪う。追ってくる奇殺者が五人くらいなら、運がよければどうにかできるかも知
れない。もう一人ぐらい力のある魔女がいれば、一人ずつしか通れないような袋小路に逃
げ込んで応戦することだってできる。しかし、リルケには楯となって淡雪が詠唱を唱える
だけの時間を稼ぐような力はないし、仮にそれが可能でもざっと見ただけで奇殺者の数は

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一〇人を超えている。それらを一撃で行動不能に追い込むような魔法は淡雪には使えな
い。余程の名案でもない限り、逃げる以外にはどうしようもないのだ。威力の弱い攻撃魔
法なら詠唱のいらないものもあるのだが、僅かな間の足止めにもならない。
 疲弊しきった淡雪の顎が自然と持ち上がる。脇腹の痛みに気を取られ、視界が空の青一
色に占められても、自分が上を向いていることに暫く気付かない。ややあって自分が空を
見上げたまま走っていることを理解すると、淡雪は慌てて視線を引き下げる。地面に散ら
ばるゴミや瓦礫に足を取られて転べばそれで終わりだ。
 リルケを引く手が汗まみれになって痺れてくる。それを意識しないように努めている
と、だんだん思考が遅滞してくる。道端の障害はちゃんと避けるし、直感の導きに従いも
するのだが、それ以外は何も考えていない状態だ。虚ろになって淡雪は駆ける。
 リルケも体力的な余裕はまだあったが、精神的には淡雪よりも追い詰められていた。長
外套と悠子に襲われた夜の絶望感が蘇ってくる。口の中には乾ききって粘つく唾液が溜ま
り、喉が不快な音を立てた。腕や胸に開いた傷は治りきっておらず、浅く早い呼吸の度に
痛みが明滅する。汗が染み込んでひりつくのも気になった。
 何か追っ手を振り切るのに役立つものはないかとリルケの目は忙しく周囲を彷徨うのだ
が、そんな都合の良い物はなかった。一度、ビルとビルの間を抜けるときに崩れやすそう
な壁がありはしたのだが、足を止めて壁を打ち壊すような余裕は当然ながらなかった。振
り向いて淡雪に魔法で壊させようとしたときにはもう広い通りへ出てしまっていた。
 さらに幾つか道を経て、彼らは走り続けた。終焉の定まらない逃亡は甚だしく意欲を挫
く。淡雪達は限界を迎えつつあった。
 しかし、事情は明英達も似たようなものだった。どれほど危険なことに慣れ、高い身体
能力を持っていると言っても、荒神町の凶暴さの粋を集めたような奇殺者の群れから逃げ
続けるのは楽なことではない。おまけに淡雪の勘のよさのせいで四人目の明英、欅がなか
なか合流できないのだ。このままでは膠着状態から抜け出せないうちに、無駄な疲労ばか
りが増えてしまう。直上からの照りつけの元、一行はいつしか二二丁目に入っていた。
 朦朧とした頭で淡雪は一つの疑問について考えを巡らせていた。なぜ、レヴィまでもが
追われるのかということだ。今の状況で一番先に死ぬ恐れがあるのは身を守る方法のない
レヴィだろう。明英達にもレヴィを助けてこの状況を抜け出せるとも考えにくい。だが、
明英達にとってもレヴィを死なせる気はないはずだ。それともそれは自分の勘違いなのだ
ろうか。答えらしきものは少しも浮かんでこない。その疑問さえ疲れと痛みによって途切
れ途切れになる。
 もう少し行けばくだんのいる小屋の前に出る。そう思った途端、淡雪はとても単純なこ
とに気付いた。不意に、力尽きたような周囲の町並みが目に入る。
「リルケ」
声を振り絞り、淡雪は叫んだ。振り返ったリルケに向かって手招きをする。リルケが少し
だけ速度を緩めた。
「どうした?」
「くだんの家、に、逃げ込めば」
リルケは口を開き、無言で叫んだ。
 淡雪はそこからくだんの所まで最短で行ける道を記憶から探し出した。
「三つ先の角を右に」
ゴールが決まったお陰で足取りが軽くなったように感じられた。淡雪はもう一度レヴィの
手をしっかりと握り、足を速めた。
 一歩毎に目指す場所へと近付いていく。その実感が淡雪の心にしっかりとした補強材の
役割を果たす。迷惑だろうが何だろうが、くだんは奇殺者達を小屋へ招じ入れるわけには
いかない。実際に見たことはないがくだんは彼らを始末するため、衛星によるレーザーで
焼き払うだろう。どれだけ人間の域を超えている彼らでも、大出力のレーザーが直撃すれ
ば一筋の焦げ跡と化してしまう。おまけに、運がよければ明英達も一緒に排除されるかも
しれない。

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93
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 とうとう二四丁目までやって来た。沸き立つような安堵が淡雪の中を衝き上げる。もう
あと二つほど角を曲がればくだんの小屋がある広場だ。片付けられぬまま道を塞ぐ建材の
成れの果てさえも、それほど気にはならなくなっていた。路地へ入り、埃を蹴立てて狭い
通りへ出る。そこを左へ。ここまで来れば明英達も淡雪の考えに気付くだろう。しかしも
う、どうすることができるでもない。彼らにとっても後背の集団は制御の効くものではな
いのだ。明英達も逃げ切ることを目標に切り替えたはずだ。そうするとくだんの小屋の中
が全ての決する場所となる。そんなことを考える余裕さえ淡雪の中には戻っていた。
 ふと以前、リルケがくだんをオズの魔法使いに喩えていたことを思い出す。ここにはト
トも居ればブリキの木こりも居る。リルケが、本人の言うようにライオンなら足りないの
はかかしだけだ。いや、かかしは居る。しかも大勢。知恵を持たない殺人者の群れを、思
わず淡雪は振り返る。自分達の踏んでいるのは未舗装な黄色い道だ。嫌な予感がした。直
感がざわめく。
 すると突然、淡雪達の行く手にある横道から一人の明英が姿を現した。逃げ延びること
へ気を取られるあまり、気が付かなかったのだ。
 その明英は一同を目にすると、いつも明英が漂わせている精一杯にこやかな声で言っ
た。「いやあ、予想的中ですね」
こちらへ向かう明英の背後にも数人の奇殺者が居た。
 驚いた瞬間、思わず淡雪の左手が緩んだ。しまったと思う間もなくレヴィは後方へ取り
残される。淡雪は慌てて立ち止まり、振り返った。レヴィはすぐに減速し、淡雪の方を見
詰めたまま停止した。それを追って来た明英の一人が抱え上げる。と、その明英は逆を向
き、奇殺者の群れへ突っ込もうとした。その刹那、レヴィがこれまでにない強烈さで青褪
めた光を発した。そして淡雪達はその光へと飲み込まれた。

 中心から端に行くにつれ、急速にぼんやりとしていく映像だった。像の中心にいるのは
淡雪だ。チューブストラップのワンピースを着て、氷の浮いた細長いグラスを持ってい
る。いつだかの夏、リルケの記憶だった。淡雪は顔をやや伏せるようにして、テーブルの
一カ所を見詰めている。そのテーブルは「ゆき屋」にあったものだ。
 目の前にいる淡雪はすぐそこに居るにもかかわらず、酷く遠くに感じられた。手を伸ば
してもそれは空間を滑るばかりで、淡雪へは永劫に届かない。
 それは、リルケの感情でしかない。手なんて伸ばせば届くのに。淡雪はそう思うのだ
が、繋がれたリルケから流れ込んでくるやるせなさの前にはそんな言葉など何の意味も持
たなかった。結局、最後まで届かなかったんだよな。リルケは己の記憶を、感慨を深く見
守る。 目の前の淡雪が、汗で頬に張り付いた髪を指先で描き上げ、リルケの方を見る。
目が合った。淡雪の唇が何か言いそうな形に歪む。
 しかし次の瞬間、現れたのは横たわる死体だった。死体は男なのか女なのか、確かにど
こからか差し込む光で顔までもがはっきり見えているのに、ただそれが死体である以上の
ことはどうしても認識できない。それどころか、死体を見下ろす人物は自分が誰という意
識さえない。
 死体はこちらへ顔を向け、手足をバラバラに投げ出して倒れていた。それを淡雪は、淡
雪に流れ込んでくる記憶の持ち主は、ただ見ている。そこには何の感情も欲望も思考もな
い。ひたすらに眼前の光景を知覚するだけだった。
 目の端で何かが動いた。と、死体がゆっくりほどけるのが判った。皮膚と、その下の筋
繊維が自然とめくれ返ってその下の頭蓋や眼球が露わになる。肉体の下をくまなく流れて
いるはずの血液は全く姿を現さない。服に覆われた内側の胴体からも自然と皮や肉が骨か
ら浮き外れているのが、見えないにもかかわらず、はっきりと認識される。もう一度、何
かが動いた。すると体の中心線を軸に服が切断された。ほどけた肉の斥力によって服が左
右に開く。中から作り物のような肋骨と、それに抱え込まれた肺が現れた。
 その、横になった死体の姿に重なって、眠る淡雪の姿が滲み出す。つい最近のことだ。
窓の外からの微かな明かりに朧暈と浮かび上がる淡雪の寝顔を、リルケは息を殺して見て

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いる。摩耗して半ば姿を失った感情の残骸が拮抗しているのを感じる。今にも闇と沈みそ
うな淡雪の肌へ、それよりもなお暗い影が曖昧な輪郭を形作っている。
 均衡の一部が綻びる。リルケの手が静かに、淡雪の額へ置かれた。その掌を通して這い
伝わってくる気持ちの悪い冷気に僅か、指の関節が強張った。
 事務所のドアを開けると、自分が座ってコーヒーを飲んでいた。楠は一瞬、自分が場違
いな場所へ現れてしまったかのような錯覚を覚える。自分が顔を上げ、こちらへ微笑みか
ける。
「楠、早いじゃないか」
「柊こそ」
楠は我に返って言い返す。しかし、部屋へ入ってきたときに感じた違和感は消え去ること
なく楠を落ち着かなくさせる。
 コーヒーを飲んでいると、事務所のドアが開いて自分が入ってきた。その自分と目が合
う。偽物がいる。相手の目に浮かんだその言葉に、柊はいたたまれなくなる。自分という
存在がいることへの自信が揺らぐ。
「楠、早いじゃないか」
口が勝手に笑みを作り、入ってきた自分を本物の六司明英から、その不完全な一部へと貶
める。
「柊こそ」
楠の返事に柊はやっと、自分もまた不完全な本物である実感を持つ。しかし、最初に感じ
た自分というものへの頼りなさを完全に拭い去ることはできなかった。
 でもそれは、柊の記憶ではない。柊はもう居ない。だから全てはその場にいた楠の憶測
なんじゃないのか? それはまあ、そうだけど。柊はそんな風には感じない。だからこそ
柊以外の明英達は柊を大切に思っていた。そして、柊以外の四人は互いを本物から模造品
へ貶め合いそのことに傷つき、それでも皆が同一人物だと感じ、結果的に自分によって自
分が阻害される痛みに苦しむ。しかし本当に柊だけがそうではなかったのか。淡雪は疑問
に思い、リルケは疑問に思う。
 雪が、虚空から湧き出すようにして際限なく降っている。淡雪は手袋をしたレヴィの手
を引いている。その光景を初めて見る他人の記憶のように感じてもいる自分に、淡雪は意
外な思いを抱いた。ややあって、それが自分の記憶ではなく、レヴィの記憶であることに
思い至る。ではレヴィの意識はもとより存在したのだろうか。一同はその気配を探ろうと
するが、虚しく終わる。広がる記憶も体験者の感情は欠落しており、奇殺者のそれに似て
いる。
 不意に腕が引っ張られる感触があった。雪に足を取られて転んだのだった。淡雪は振り
返ると慌てて抱き起こし、膝に付いた雪を払ってやる。
 雪に冷えた手が暖かなものに包まれた。いつの間にか辺りは穏やかな温気に満ちてい
た。淡雪は太った年輩の女と手を繋いで歩いていた。淡雪の繊手を握っている女の手は大
きく、浮腫んでいた。その手からほぼ同じ太さの手首が続き、染みの浮いて弛んだ腕が伸
びている。女が淡雪を見た。淡雪は当時のような安堵を覚える。その安堵が全員に分有さ
れる。女は淡雪がミラノに住んでいたころ、世話をしてくれていた人だった。淡雪はその
人を手伝って、パン屋で働いていたのだ。しかしその女性はもう、二〇年以上も前に亡く
なっていた。
 これまでに淡雪の手を引いてきた様々な人の姿が流れていく。淡雪はその一人一人のこ
とを思った以上にはっきりと記憶していた。くだんは慣れない感触に戸惑いを覚える。明
英達の羨望が、淡雪に淡雪を羨ましがらせる。
 手の温もりが消えた。代わりに澄み切った空気が張り詰める。普段の淡雪ならその冷気
を不快に思うはずなのだが、今は妙にそれが心地よかった。
 幾つもの場所が同時に見えていた。何の装飾もない、簡素な部屋だ。スーツを着た人々
が立っている。それは淡雪にも見慣れた光景だった。正確には淡雪の中のくだんの中の淡
雪にとって、だ。それは同時に淡雪の中のリルケの中のくだんの中の柏の中の淡雪でもあ

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る。
「だから、お前達は同じ人間ではない」
五人の青年に向かって言う違うにもかかわらず同じになってしまったくだんが。
「生まれたときには同じだったかもしれないが、時を経るごとに差異が生まれ、お前達を
隔てていく」
「でも、それならどうして今、私達はこれほど知能にせよ体力にせよ、似通っているので
すか?」
欅が尋ねる。
「それは、それこそ偶然だ」
くだんはかつての己の、その発言を苦々しく思う。どうすればそんなことが可能なのか理
解できないほどの不用意さだ。でも偶然だったんだろう。リルケの言葉に明英の誰かが応
える。そうだったのかもしれない。ただ、実感としては違ったんだよ。
 これほど一体となった私達でさえ、完全な同一化は起きなかった。私達は一つの人格が
曖昧に分裂したようなものだ。
 だから実を言えば、私は賛成していなかった。ではなぜ手を貸したのか。それは、私が
望んだから。くだんは、明英達が望んだからこそ手を貸したのだ。恩義から? 違う。私
なら、私がなぜそんなことをしたのか理解できるだろう。同じひとつの自我なのだから。
自分の思考が幾つにも分かれて、勝手に違うことを考えている。他人の思考が自分の中へ
流れ込んでくるのとは違う、自分の意識を使って他人が考えているような感じだ。逆に、
まるで自分が他人の脳を使って考え事をしているような感じもある。さらに外側のどこと
も知れぬところから、大量の情報が流れ込んでくる。
 自分を取り囲む人間は全て見知った顔だ。明英達だ。しかしそれを見ているのは自分の
自分の目ではなく、自分の他人の目だ。自分の他人の口を使って、自分が質問に答えてい
る。
「つまりお前達は、明英と呼ばれる組織に所属する個人だ。企業も個人の集積でありなが
ら、全体としては単一の名前を持った存在となるだろう?」
いや、自分ではない方の自分だった。
 そうした感覚は、記憶を共有している意識達にとって自然に実感することができた。レ
ヴィの光に飲み込まれた自分達が無限な合せ鏡状の自意識をなしている今の状態と、似て
いる。自分の意識が単独で独立しているのではなく、相互に精神が入り混じり合い、自分
というものの輪郭の果てがいつのまにか別の精神となっているような、境目がないせいで
はっきりとした自分というものが失われている状況。
 それに、そうした経験は他ならぬ自分、かつてくだんだった自分の経験でもあり、そう
ではなく自分はリルケだったのに不思議と違和感はなく、そうではなく自分は。
 自分という言葉が誰を指すのか、はっきりとしなくなる。複数の人物の記憶を等しく自
分のものとして所有している思考の連なり。それを考えているのはいったい誰なのか。光
に包まれた誰というのでもない、けれどそれらの合成とも感じられない。なぜなら、自分
ならこんな考え方はしない。けれど、こんな考え方はしないと思う自分は、それなら誰な
のか。これが私と私が望み、私と私と私を巻き込んだことの結果なのか。いや、そうじゃ
ない。結果的に私も今のような私を望んでいた。
 全ては僅かばかりの偶然が重なっていただけのことだ。レヴィの中に愛着が芽生え、そ
の対象と引き離されそうになるとき、力は外へ向かう。愛着との一体化を望むために。レ
ヴィにはそうできる力があった。外へ向かわせることはもとから可能だったのだ。ただ、
そうするためには力を引き出す対象が必要だった。愛着でも憎しみでも何でもよかった。
私ほど愛着を私に引き起こさせる者はいない。それは基本的に持っている性質のせい。そ
れがレヴィの力を外へ引き上げた。リヴァイアサンを大海から釣り上げる、釣針と釣糸と
いうわけだ。私はそんな気取った表現をしない。あるいは、する。
 それにしても、レヴィは? 彼は私ではない。奇殺者だった私でさえ私だというのに。
その私とは誰か? 私は自問し、自答する。私こそがレヴィだ。全員の自我が融解し、芽

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生えかけていたレヴィを形作ったのだ。では私は? 私はレヴィだ。レヴィという名で表
されるより大きな自我として互いを補い合い、同一化したのだ。そしてレヴィはすでに私
と混ざり合ってしまった。だから私はもう、レヴィでもない。
 しかしすぐに、そんなことはどうでもいいことのように思えてくる。そもそも、何が不
安というわけでもないのだ。それどころか、どれほど傍にいようが、真の一人を目指そう
が、人を殺そうが、得られなかった充足と平穏が揺らぎなく自分を満たしていた。それを
自分は一度手に入れていたことを思い出す。自分というものの境目が消失し、存在だけが
ある状態へと繋がっていた記憶だ。今はそのときの記憶にある状態とよく似ていた。それ
どころかひょっとしたら、全く同じものなのかもしれない。すると、レヴィの持っていた
力は人間の拡張された能力などではなく、その根本を魔女の魔法と同じくするものなのだ
ろうか。或いは魔女の魔法の素因の方が、全ての人間が共通に持っているものと同じなの
だろうか。別物だが、偶然に同じ現象を生み出したとも考えられる。
 確かに、前の自分は、こんなに理屈っぽい考え方などしなかった。だが、自分は前々か
らこういう考え方をしていたということも解っている。
 突然、自分の中に不完全な境界の薄氷が張った。それは明確さを増すと同時に、境界の
囲んだ範囲の中から次々と自分を排出し、その内側に自分を流入させる。その不快な動き
に自分は動揺するが、外側へ排出される自分は相変わらず穏やかなままであることに気付
く。境界はすごい速さでその内と外とをはっきりと隔て、自分と自分を分かつ。それまで
自分として認知されていた存在が他人として感じられる。
 境界内へ囲い込まれることに抗おうと、淡雪はもがいた。そこで、自分というのが淡雪
を指していることに気付く。それに、もがくことのできるような身体感覚も蘇っている。
最後の瞬間淡雪は、必死で手を伸ばすレヴィの姿が見えたような気がした。
 
 外気の中へ淡雪は一気に押し出された。空気の感触に皮膚が粟立つ。数センチほど落下
して地面に横たわった淡雪はその場に上半身を起こし、目の前の物体を見上げた。
 それは白い壁だった。上下左右に延々と広がっているが、よく見ると頭上遙かにある空
の稜線から、ごくなだらかに表面の湾曲していることが判った。ただその白い壁は視界を
覆い尽くすほども大きいので、見詰めているとすぐに遠近感がおかしくなってしまう。静
止していてもこちらへ迫ってくるように感じられた。
 壁とは言っても、実際の壁のよう物質感はなかった。確かに白く均質なものが広がって
いるのだが、それはどのような質感も持っておらず、揺らぎのない白さであるだけなの
だ。白光がまっすぐ進まずに、特定の地点で留まり続けているせいで、こんなふうに見え
るのかもしれない。しかし、元は光であっても、輝きを放つという感じではない。淡雪は
正面に目を据えたまま立ち上がった。手に付いた砂を払い落とす。
 蕭々と吹き抜ける風が淡雪の髪を乱す。しかし淡雪は気にしたふうでもなく、目の前の
白域を眺めている。辺りには誰もいない。風に巻き上げられた埃が白さの境面に触れ、中
へと消える。そして消えてしまうときもその後も、表面にはどんなに小さな動きも起こら
ず、かたくなに凪ぎ続けている。
 白さの境界へ淡雪は右手を伸ばした。しかし手は途中で止められ、体の脇へ引き戻され
る。一度抗体ができてしまった今、光に触れたところで手に何も変化が起きないだろうこ
とは容易に想像できた。そしてそれを実際に目にする気にはなれなかったのだ。同じ場所
へ戻りたい。そう思いはするものの、無理であることはよく解っていた。レヴィの能力は
自分に通用しないのだ。
 これからどうしようかと考えて、もうレヴィもリルケも、明英さえもいないという当た
り前のことに気付いた。彼らは皆、レヴィの作り出した場の中で分かちがたく混ざり合っ
てしまったのだ。彼らは白く切り取られた空間の中にいるのではなく、空間全体に均一に
拡がっているのだろう。
 もう後戻りは起こりえない。淡雪が魔女である以上、それは仕方のないことだった。だ
からこそ、これまでレヴィの繋ぐ力は自分に大きな影響をもたらさなかったのだろう。

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この場に立ち尽くしていても何も起こらない。誰も戻ってこない。もう後戻りは起こりえ
ない。人間である以上、それは仕方のないことだった。
 それでも、淡雪はその場から立ち去ることができなかった。たとえ、幾日その場にいよ
うと何も起きないことが判っていても。友人達を全て失った淡雪にとって、家に帰ったか
らといって待っているものなどないのだ。くだんも消えたということはじきにこの町が機
能しなくなる。もう電気やガスといった全ての公共サービスが停止しているはずだ。こん
な町のことだから、復旧がなされる保証もない。
 目の前が揺らいだ。無欠の白さを目にしていたせいで錯覚を起こしたのかと思った淡雪
だったが、そうではなかった。自分の足が一歩、そちらへ踏み出していたのだ。足下で踏
まれた砂利が軋む。また一歩、足が出る。
 そこへ立ったからどうなるというのでもないことは充分理解していたが、今の淡雪に自
分をわざわざ押し止めるほどの気力もなかった。
 遠近感が狂っているせいで少しも近付いている気がしないが、確かにそれは接近してい
た。四歩目を踏み出すと、淡雪は自分が中へ入ったことを知った。
 そのまま真っ直ぐ淡雪は歩き続けようとした。だが、幾らも進まないうちにその場へ座
り込んでしまう。視界が白に塗り潰され、音も完全に遮断されているせいで平衡感覚が保
てないのだ。淡雪は両足を投げ出し、後ろ手を付いて頭を上向ける。しかし視界に何の変
化もないせいで、妙な感じがする。空気の微かなさやめきさえも聞こえない。耳がむず痒
い。淡雪は左手で神経質に耳を触る。しかし、服が擦れ合う音も聞こえない。空気がない
のだ。それでも窒息するということはなく、肺は習慣的に膨縮を繰り返している。手をす
ぐ目の前にかざしても、その手が見えない。光が反射して物が見えるという作用が、機能
していない。
 漫然と見えない滑らかな地面の固さを感じながら、淡雪は揺らぎのなさに身を委ねる。
「リルケ、レヴィ、明英さん、みんな」
淡雪は大きな声で呼んでみる。空気がないので声は自分でも聞こえないが、確かに周囲の
空間へその呼び掛けの広がっていくのが、気配で感じられた。
 寂々たる静けさに向かって、淡雪は一心に耳を傾ける。ややあって、何かが聞こえた。
それは音と言うよりも、幽かに鼓膜を震わせる感触とでもいうようなものだった。そし
て、それきり何も聞こえることはなかった。
 しかし、淡雪にはそれで充分だった。凡庸な、それでいて痛烈な寂しさがこみ上げる。
弾き出されたばかりの場所へ戻りたいと願っているのは、何も平穏が得られるためではな
い。彼らと別れたくないからだ。一体となったときに流れ込んできた彼らの記憶は淡雪の
中にまだある。一人一人の持っていた記憶や感情が、永遠に分かち得ない他人のものとし
てではなく、淡雪の中にある。だからこそ尚更に、彼らとの離別は独寂の想いを掻き立て
る。痛みに晒されて初めて、淡雪はここ数分間の自分が感情を停止させていたことに思い
至る。
 結局は「オズの魔法使い」から逃れられなかった。愛すべき人々と別れ、現実の世界へ
戻るドロシーの姿は今の自分とよく似ている。淡雪はそのことに再び嫌悪感を覚えるよう
になっていた。オズの魔法使いとの符号こそが自分から木こりもかかしもライオンも、そ
してオズの魔法使いやトトまでをも奪い去ったのだから。もちろん、全ては明英達とくだ
んの仕組んだことだ。それでも、魔女という存在がオズシリーズと無縁のものであれば、
事態はこんな結末を迎えはしなかったのではないだろうか。普遍的な死の象徴ではなく、
個人的な喪失の体験と結びついているせいでいっそう、オズシリーズは淡雪にとって耐え
難いものとなった。
 とはいえ、それはどうでもいいことでもあった。大事なのは魔女がオズシリーズと密接
に結びついていることなどではなく、リルケや明英に二度と会えないということだ。
 リルケの抑制された、それでいて強烈な好意が淡雪にのしかかる。自分がこれほどの感
情を無視していたという残酷さ無意味さに気が沈み、同時に、その想いの鮮烈さや暖かさ
に喜びを感じる。だが、その嬉しさを与えてくれた相手はいない。

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 さらに、淡雪への思慕だけを核として意識を芽生えさせたレヴィの、別れ際に感じた必
死の顔も去来する。そのレヴィの自我はすでに、光の中で形を失っているだろう。だから
きっと、自分と別れることになった悲しみをレヴィは感じないはずだ。けれども代わり
に、レヴィが感じるはずだった悲しみは淡雪に残っていた。
 本来の所持者が失われたにもかかわらず、彼らの個人的な記憶と思念は淡雪の中に残留
する。それは彼らが片付けられなかった個人的な問題を全て、淡雪が預かることを意味す
る。そして淡雪は本人でないがゆえに、それらは解決されることがない。
 様々な人間の思い残しは、淡雪が一人で抱えるにはあまりにも大きく重たい。それが加
重ではなく自重として認識されるだけ余計に。だが、誰も他に引き受けてくれはしない。
独りきりで引き受けるしかないのだ。ふと、淡雪はその考えに引っかかりを感じる。
 私は一人きりになってしまった。もし状況が「オズの魔法使い」と重なるならば、ここ
にはくだんもレヴィも一緒にいなければおかしい。あの本で最後、気球に乗って現実世界
へ戻るのはドロシーとトトとオズの魔法使いなのだから。それに、もしレヴィの作り出し
た場が以前体験した感覚と同質の物であるなら、そこがドロシーの立ち去ったオズの国と
呼ぶには歪曲がある。だいたいこの場所、くだんの居た二四丁目こそがエメラルドの都で
はなかったのか。
 「オズの魔法使い」と出来事との間の齟齬に淡雪は気力を得る。今回のことと「オズの
魔法使い」とはやはり関係がない。そう考えるだけで多少の慰めにはなる。少なくとも立
ち上がるぐらいには。一度だけ惜しむように周囲を見回すと淡雪は立ち上がろうとした。
 動いた指先に触れるものがあった。何か小さく、堅い物。淡雪は指先でそれを掻き寄
せ、掌中に握り込む。乾いたそれは手の皮膚を柔らかく押し返す。
 立ち上がった淡雪は短い呪文を唱えた。付随する仕草も単純だ。それでも効力は完全
だった。淡雪は進むべき方向へ向きを変えて歩き始め、数メートル進んだところでよろめ
いた。どれだけ道が判っても、平衡感覚が失われていることはどうしようもないのだっ
た。
 淡雪が唱えた呪文は「居標識」という魔法で、これは魔女の持つ直感能力を限定的にだ
が増幅し、吹雪や濃霧などで道に迷った際にこの魔法を使うと、どこへ進めばいいのかが
判るのだった。何度もよろけ、転びながら淡雪は少しずつ進んでいく。
 やがて、唐突に視界が蘇る。音が、空気の揺らぎが押し寄せる。淡雪は眩しそうに目を
細める。外からの感覚入力が急に増したせいで何とも妙な感じだ。
 目が慣れてくると淡雪が立っているのはビルの名残の内側であることに気付いた。壁の
二方が光壁に沿って綺麗に切り取られている。若干薄暗いそこから頭を上げると、穏やか
な蒼穹が矩形に覗いていた。
 かつて、意識が朦朧としていたときに体験した感覚も、もしこの世に顕在化すれば同じ
ように見えるのだろうか。淡雪は視界を埋める白を前に、そんなことを思った。
 それから、淡雪は握っていた手を開いた。中にあったのは思ったとおり、レヴィの手首
にあった数珠だった。安そうで、軽く、不揃いな珠が粗末な紐で繋がっている。これまで
にたった一つだけ、レヴィへ贈られたプレゼント。リルケがたった一つだけ、レヴィへ
贈ったプレゼントだ。贈り物は他人同士だからこそできる。淡雪にとって大切な他人だっ
た二人が、他人同士として繋がっていた証拠だ。淡雪は再び顔を上げる。
 もし自分が考え付いていないことから、「オズの魔法使い」と現実との齟齬が解消され
二つが完全な一致を見るにしても、それはそれでかまわない。オズシリーズでドロシーは
その後も二度オズの国を訪れ、最終的には仲間達とそこへ永住することになるのだ。それ
は他人同士が他人同士として暮らすことでもある。決して、境目のない「私」として暮ら
すことではない。
 その考えが間違っていた場合だって、望みが失われるわけではない。明英も言っていた
ように、元来魔女は現実を書き換える生き物だ。全ての魔法はそうした行いの多様な現れ
でしかない。それならレヴィと自分の戸籍を書き換えたように、彼らの失われている世界
を書き換える方法が見付かるかもしれない。その現実が自分の記憶の中にある現実と異

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なっていようが、かまいはしない。
 動きは前触れなく始まった。不自然なほどの滑らかさで、白さが縮み始めたのだ。それ
は醜いひずみとは対極の、きわめて均整のとれた動きだった。レヴィが破格に発揮した
「繋ぐ」効果が限界を迎えて失われつつあるのだ。
 それを目にしても淡雪は焦らなかった。ここから消えても、彼らは死ぬわけではない。
またいつかどこかで会うことはできる。
 それ自体がおとぎ話のように過剰に美しく縮み続ける光は、今や球体をなしていること
が見て取れるくらいになっていた。球体の下半球は地面の下に広がっていたのだ。くだん
と繋がっていたおびただしい数のケーブルや配管の断面が見える。配管の断ち切れた先か
らは様々な液体が力なく流れ出し、えぐれた土を濡らしていく。
 そのうちに球体は見えなくなり、やがて消滅した。けれどもそれは光塊が、現在淡雪の
属する時空間上から消えたというだけでしかない。
 ここに実在しなくなった彼らは、淡雪の接した感覚と同じような存在形式になっている
のだろう。寂しくないわけではないが、可能性に期待が持てるというのは随分と助けにな
る。
 壁が切り取られた向こうに、二四丁目にしては珍しく大勢の人の姿が見えた。淡雪は
人々のざわめきを耳にしながら風の強さに初めて気が付き、その暖かさと爽澄さに夏の萌
芽を感じた。
 
一四
 よほど周到にくだんは荒神町を自分に依存させていたようで、くだんが消えたその時か
ら町は正常に機能しなくなった。事態を把握していない政府は大いに慌てたようだったが
それはもはや淡雪には関係のない、ニュース番組の中身の一つでしかなかった。
 町へ留まり続ける理由を失った淡雪はアパートに戻ると数日をかけて身の回りの品をま
とめ、店とアパートの契約を解除すると荷物を業者に預けた。新しい生活場所を見付けて
からそこへ配送してもらう約束で、当面必要のない家財を保管してもらうことにしたの
だ。動物は町へ放った。いつもなら次の居場所を決めてから引っ越しをするのだが、今回
ばかりはできるだけ早く町を出たかった。
 大きく膨らんだボストンバックを抱えて淡雪は人通りの絶えた真昼の道を歩く。荷物の
重さに慣れないせいと舗装状態が悪いせいとで、淡雪の歩みは覚束ないものだった。空気
中にゆったりと確実に膨らみつつある夏の気配が、浮きあがるような心地よさで淡雪を取
り巻く。
 混ざり合ってしまった皆の意識が実世界の時空間に制限を受けない以上、淡雪もまたそ
れらに拘る必要はない。どこへでも行き、彼らと再会する方法を探せばいい。まだ若い淡
雪に、残された時間は潤沢にあった。きっとまたリルケやレヴィや明英やくだんに会える
はず。それは希望ではなく、意志だ。
 手始めに、知恵や力によって名を知られている魔女達の所を巡ってみようか。同じ魔女
の頼みなら、彼女たちはきっと快く助力してくれる。行き先が辺境の地ばかりになるが、
魔女は都市よりもそういう場所の方が好きなのだ。淡雪は屹立する岩壁や錯綜する森林に
思いを馳せる。久しくそういう場所へは行っていない。
 肩から落ちそうになるボストンバッグを掛け直すとその拍子に思わず転びそうになる。
踏み出した足が頼りない舗石の上をしっかりと捉えた。(完)

提供:ハムカツ屋
http://www.hamkatsuya.com/ 

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