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アクティベート・リーフ No.633
JONAH
 
AND
 
ME
スコット・マクレガー
書にある物語で最も知られているものの一つは、最も不思議な物語でもあります。それはヨナとクジラの話で、ほとんど誰でも聞いたことがあり、日曜学校でも好んで教えられているものです。しかし、それは、「神さま、なぜですか」と尋ねたくなるような、当惑させられる話でもあります。 聖書にある最初の記述
1
によれば、ヨナは紀元前800-750年頃のイスラエルにいた人で、ナザレから数キロ離れたガテヘペル(ガト・ヘフェル)という町の出身でした。すでに預言者として名を馳せていた頃、アッシリアの首都ニネベに対して預言するよう神から告げられたようです。 ヨナはそれをためらいましたが、その気持ちはわかります。ニネベは残虐な帝国の邪悪な都だったのですから。歴史を見ると、アッシリア人はかなり敵意に満ちた不道徳な民族だという評判通りのことをしています。それに、破滅を預言する者となるのは、いつの時にも危険が伴うものです。 ヨナはこの任務にあまり希望を見いだせなかったので、正反対の方向へ逃げます。ニネベのある東に進む代わりに、西方のタルシシへと船で向かうことにしたのです。そこは、イスラエルの隣国であるフェニキアの商人が行く最遠の交易拠点であったと伝えられています。 というわけで、ヨナは船に乗り込んだのですが、じきに激しい暴風に見舞われます。船乗りたちは嵐を乗り切るため、積み荷を海に投げ捨てるなど、できることをすべてしましたが、どうしようもなくなって最後に、この災難が降りかかったのは誰のせいなのかを知ろうと、くじを引くことにします。くじが当たったヨナは、彼こそが問題の元凶であることを打ち明け、自分を海に放り込んでくれるよう言いました。そう言われても、船
 
© 2019 Aurora Production, Ltd. All Rights ReservedTranslated from English Activated Magazine Vol. 20-1
 
p8-9http://www.activate.jp
「アクティベートリーフ」は、英語
Activated
誌からの記事を翻訳したものです。その他の記事はホームページでご覧頂けます。
http://www.activated.org
乗りたちは乗り気でなかったようで、まずは船を漕いで陸に戻そうとしたのですが、成功しません。そこでヨナは、皆のために、自分を海に投げ込んでもらったのです。 しかし、話はこれでおしまいではありません。ヨナは謎めいた「巨大な魚」に呑み込まれました。一体何が起きたのかについては諸説ありますが、そもそも、この話全体が完全に自然な状況下では起こりそうにもないことです。たとえば、ヨナが魚の中3日間も生き延び、その上、ヨナ書の2章に記されているような祈りを捧げられるとは、超自然的な力が介在したとしか言いようがありません。そして3日後、神が命じられる魚はヨナを陸地に吐き出しました。おそらく、旅の初めに船に乗り込んだあたりでしょう。 案の定、神は今一度、ニネベに行って預言せよとヨナに命じられます。この任務を受けるか否か、選択の余地はないと気づいたヨナは、例の邪悪な大いなる都に向かいます。ヨナは都に入ると、一日中「ニネベは滅びる」と叫んで回りました。ところが、なんと、ニネベの住人は自分たちがよこしまな人間であったと気づいて、王の命令により、すべての人が悔い改め、荒布をまとって灰の上で断食をしたのです。しかも、家畜までもが 一方、ヨナは間もなく起こるであろう災いを見届けようと、ニネベ郊外の見晴らしのいい場所に避難していました。神が、災いを思いかえして、ニネベを滅ぼさないことにしたと告げられた時、ヨナは激怒しました。彼の反応は、次のように言ったも同然です「なんですって?! あれほど辛い経験をさせておいて、今度は気が変わっただなんて。一体、あの経験は何だったのですか!」 ヨナには少し同情できます。確かに辛い経験をしたのだから、いくらかの報いは期待していたのでしょう。それに、アッシリアは悪人の集まりだったので、当然の罰を受けるのを見たいと願っていたのではないでしょうか。しかし、それもなくなり、ヨナはおもしろくない気分でした。 結局、何が要点なのでしょうか。そもそも、なぜこの話が聖書に載っているのでしょう。 ヨナの話には興味深い点が幾つもあることに私は気づきました。まず、この物語は空想的にも見えますが、イエスはご自身に起こることの前触れとして、ヨナのこと2回言及しておられます
2
それは、死んで3日後によみがえるという明白な理由から語られただけではなく、もしヨナの物語を信じられるなら、なぜイエスやその言葉を信じられないのかと暗に問いかけておられたようでもあります。 また、この物語は、神が何かを求められた時、神から逃れようとせずにそれを行うことを教えてくれる、素晴らしい話でもあります。 この話から私が学んだ最大の教訓は、たとえ状況が変わったことにより、神が以前に示唆されたと私が思っていたことをなさらないことになっても、腹を立ててはいけないということです。私の人生を見ても、物事が自分の思い通りに行かず、かなりイライラしたことが何度もありました。私は自己本位にならないよう努めてはいますが、それでも自分を中心に物事を考えることがよくあるので、そんな時は自然と自分にとって何が最善かという観点から物事を判断してしまいます。けれども、神と他の人たちにとって何が最善なのかという観点から考えるのが、クリスチャン人生の原則です。そして、もし神が私たちの人生の物語に関わっておられるなら、どんなことでも起こりうるのです。
1. 列王記下 14:252. マタイ 12:38-41; マタイ 16:1-4

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