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© Mika Kobayashi
写真を見るレッスン
写真の表面/写真の層(レイヤー)
文:小林美香
© Mika Kobayashi mika@marebito-editions.com
正面を真っ直ぐに見つめる端整な顔立ちの女性(図 1)
。
彼女の右側(見る方からは左側)の頬には黒い点描でマー
クのようなものが描かれています。よく見ると、ファッシ
ョン・ブランドのシャネルのマークのような図形とその下
に PARIS という文字が描かれているのがわかります。肌
の上に書き込まれているようにも見えますが、肌に注目し
てみると点描の脇に影があることから、肌の表面が少し盛
り上がって瘡蓋のようになっていることがわかります。何
かの傷跡の形にしてはあまりにも不自然ですね。彼女の顔
全体を引いてみると、顔の左右、頬、鼻筋、顎がうっすら
と白く光っていて、顔立ちがくっきりと立体的に見えます。
スナップ写真で何気なく撮った写真というよりも、照明を
あてて撮影したものであることが推測できます。そうする
と、この女性はファッション・モデルで、シャネルの広告
に出ているのでしょうか?そのために肌にマークを書き
(図 1) ダニエーレ・ブエッティ 込んだ?あるいは写真を撮った後にプリントの上から書
1996-1998 体何のために?、、
、と写真を見ているうちに疑問が次々と
湧いてきます。
実際のところ、この写真はスイスの芸術家ダニエーレ・ブエッティ(1956-)が制作した作品です。それも、彼
がこの女性を撮影したのではなく、女性が写っている写真で、ファッション写真や広告写真のような印刷された
ページを複写しているのです。
「写真を複写した写真」であることを意識してもう一度見てみると、背景の白い色
Fellows」(1996-1998)の一つとして制作されたものであり、このシリーズの中の別の作品 (図 2)──こちらは女
性の鎖骨の下あたりに、BULGARI と書き込まれています──を見ると、印刷された誌面であることがはっきりと
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写真を見るレッスン:写真の表面/写真の層(レイヤー)
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見て取ることができます。この二つの作品の中に書き込まれ
ている文字は、誌面の裏側から先の尖ったものを強く押しつ
けるようにして書かれたもの(書くときは左右反対というこ
とになります)であり、それを表側から見ると、あたかも女
性の肌の上に押された烙印や傷跡、瘡蓋のように皮膚の表面
から浮き上がって見える、という仕掛けになっているのです。
ブエッティはこの作品を通して、ファッション雑誌に登場
する美しいモデルの女性達の顔や身体は、ファッション・ブ
ランドや化粧品のような商品に結びつけられていて、その身
体自体が商品 と同様に物として扱われている、ということを
批判的に表していると、読みとることもできるでしょう。多
くの人が憧れの的になるような高級ブランド(そもそも、ブ
ランドという言葉は元来「烙印」という意味を持っています)
のロゴが、美しい女性の皮膚に刻まれた傷や烙印、痣のよう
(図 2) ダニエーレ・ブエッティ にも見えるグロテスクな印象を与えるものになっているとい
1996-1998 のような作品の意味合いに加えて、写真に施されている加工
がどのようなものであるかということや、加工を施された写
真を見てどのような印象を受けているのかということが、意識の中に浮かび上がってきたりもします。つまり、
普段何気なく見ている雑誌に掲載されている写真──(図1)や(図 2)の作品に使われている元の写真もその中
に含まれますが──は、すでにさまざまな加工や修整が施されているのにもかかわらず、私達はそのことをあま
り意識せず、それらの写真を、現実をある程度忠実に写し取ったものとして受け止めていることの方が多いので
はないでしょうか。
写真の修整/肌の修整
読者を惹きつけ、購買意欲を刺激するための広告写真やファッション写真には、商品や人を魅力的に見せるた
めにさまざまな修整や加工が施されています。フォト・レタッチャーという修整を専門とする職種もあり、デジ
タル技術の進歩により、修整の精度はますます高くなってきています。
たとえば、クリステーヌ・ボーリューというフォト・レタッチャーのサイト(http://cbeau.ca)では、修整を施
される前の写真と修整を施した後の写真を比較して、それぞれの写真に施された修整による効果を見て取ること
ができます。画面の明るさや商品の色合いが変えられているだけではなく、モデルの肌の毛穴や皺、産毛、シミ、
クマなどがきれいに消し取られていたり、手足が細長く見えるように修整されていたり、表情が微妙に変えられ
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ていたり、、、という風に、修整された写真だけを見ると、どこに修整が施されたのかが判らないほどほど、自然
に見えるような仕上がりになっています。
(図3)と(図 4)を比較して見てみましょう。
(図 4)は(図 3)に修整を施
したものですが、アイシャドウの色も変えられていますし、皺や白目の色などを比べてみると、修整後の写真で
は格段に美しく滑らかに見えるようになっているのがわかります。
(図 3) (図 4)
このよ うなフォト・レタッチャーの技を目の当たりにすると、雑誌、とくに女性向けのファッション雑誌に掲
載される化粧品の広告などに登場するモデルの毛穴一つない滑らかな肌は、実際は照明による効果や、撮影後に
施された修整によって作り出されたもので、現実のモデルのありのままの姿からはかなり違っているのかもしれ
ない、と疑ってみたくもなります。ここ数年女性向けの雑誌広告では、頻繁に毛穴をなくす(目立たなくする)
ためのさまざまな化粧品が喧伝されていますが、このような傾向はデジタル技術を駆使した画像の修整が盛んに
行われるようになった過程と連動しているのかもしれません。つまり、雑誌の誌面に掲載されるような滑らかで
美しくしかも自然に見える肌は、化粧品による効果だけではなく、写真の修整による効果なしには成り立たない
ものなのでしょう。
また、このような高精度なフォトレタッチツールは簡単に操作できるものものになったので、フォト・レタッ
チャーという専門的な職業に就く人だけではなく、広く普及して、一般的に使用されています。たとえば具体的
な例として、インターネット上で流通するアイコラ(アイドルコラージュ)のように、アイドルや主に女性の有
名人の写真を加工して、他の人のヌード写真と組み合わせたりするようなもの(その当人を侮辱するような内容
のもの、見る人によっては不快感を与えるようなものも多くあります)があります。広告写真などで修整・合成
を施された写真を頻繁に眼にするだけではなく、パソコンを用いて誰でも比較的簡単に写真を操作することが可
能になった現在、写真のあり方、写真に対する見方は大きく変わってきていると言えるでしょう。つまり、写真
に表されているのは、現実をあるがままに捉えたものであるという、写真の真正性に対する信頼はすでに大きく
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写真を見るレッスン:写真の表面/写真の層(レイヤー)
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揺らいでいます。また、写真が操作や修整を施した複数の層(レイヤー)によって出来上がっていて、写真以外
の要素──絵画やコンピュータ・グラフィックス──が画面の中に組み込まれていたり、一瞬写真と見紛うばか
りの高精度のコンピュータ・グラフィックスも数多く出回っていたりするなど、写真と写真ではない像の境目が
限りなく曖昧になってきているのです。
1990 年代以降、デジタル技術による写真の修整・加工やコンピュータ・グラフィックスが進歩・普及するなか
で、写真に極端なまでの加工を施したり、コンピュータ・グラフィックスの技術を駆使したりすることで、実際
にはあり得ないような姿に仕立て上げたり、架空の人物像を作り出したりすることで、人という存在のありよう
に問いを投げかけるような作品を手がける芸術家たちが次々と活躍するようになってきました。彼らの作品は、
デジタル技術による写真・画像の操作と、生身の身体に施されるさまざまな操作をかけ合わせるような方法で捉
えていて、現代社会の中で生活する私達の身体に与えられている強迫観念や不安感、危うさなどを露わにしてい
るようにも思われます。ここでは、アジズ+クッチャーと渡辺豪の作品を紹介し、彼らが作品の根底にある考え
を探ってみてみたいと思います。
アメリカの芸術家ユニット、アジズ+クッチャー(アンソニー・アジズ(1961-)とサミュエル・クッチャー(1958-)
の二人組)は、1990 年代初頭からデジタル技術を駆使して共同で写真や映像、インスタレーション作品を制作し
ています。1994 年に制作された「ディストピア」は、さまざまな人物の肩や首から上をとらえたポートレート写
真で構成されています。展示風景(図 5)を見ると、それぞれの人物の頭部が鮮やかな色の背景の前で捉えられて
いて、大きなプリントとして制作されているのがわかります。それぞれの写真を見ると、写された人の眼や鼻の
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写真を見るレッスン:写真の表面/写真の層(レイヤー)
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穴、耳、口という顔の開口部がすべて皮膚によって覆われて塞がれてしまったかのような、不気味な状態になっ
ています。タイトルの「ディストピア」とはユートピア(桃源郷・理想世界)の対極にある、
「地獄郷・暗黒郷」
のことです。それぞれの人物は、顔の輪郭を除く顔の特徴を全て奪われてしまったような状態になってしまって
いて、触覚以外の全ての感覚器官も失ってしまったように見えます。アジズ+クッチャーは、
「地獄」をある場所
や環境としてではなく、人の存在や知覚の有り様の問題、すなわち人としての存在の証や知覚する能力、また何
かを表現するという手段を強制的に何かによって操作され、奪われてしまった状態、として表しているようです。
(図 6) 〈Dystopia〉マリア (図 6) 〈Dystopia〉クリス
個々の 作品には、
「マリア」(図 6)や「クリス」(図 7)のような、人物に固有の名前がタイトルとしてつけられ
ています──それがモデルになった人物の名前なのかどうかは判りません──し、大きなプリントとして引き伸
ばされることによって、傷跡や髭、皺、シミや毛穴のようなそれぞれの皮膚を間近に見て取ることができるため、
個々のポートレートは、個人としての存在や、その身体の生々しさが逆に強調されているようにも見えます。ま
た、作品を見る人は、写されている人の顔からその人を把握する手がかりを奪われている不気味さと同時に、そ
の人の内側と外側の境界面としての皮膚の存在に圧倒されることになるのです。 つまり、個々の作品に捉えられ
ている人が「のっぺらぼう」の状態であっても、その皮膚の生々しさが、見る人それぞれが自分自身の体に置き
換えて、「もし私がこういう状態になったらどうしよう・・・。」と想像してしまうような、一瞬の悪夢に引き込
まれてしまうようなリアリティや説得力を持っているのだと言えるでしょう。この「ディストピア」という作品
以外にも、アジズ+クッチャーの作品には、全身像や、身体の臓器、内部の細胞などを題材として、身体とそれ
が置かれている環境との相互関係を想起させるような要素が見られます。
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写真を見るレッスン:写真の表面/写真の層(レイヤー)
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ひたすら表面としてとして存在するヒト 渡辺豪の「フェイス」
アジズ+クッチャーが実在する人の像や表皮に基づきながら、それにデジタル技術で操作を施すことによって、
人であって人でないような存在を作り出しているとするならば、もう一人の芸術家渡辺豪(1975-)は、実在しない
人物をコンピュータ・グラフィックスの技術を駆使して作り出しています。彼の作品も、アジズ+クッチャーの
作品と同様に、大型の作品として制作されていて、作品の前に立つと、画像として表される皮膚のあり方がとて
も強く印象に残ります。
(図 9)フェイス("ポートレート")2
(図 10) フェイス("ポートレート")12
作品の展示風景(図 8)を見ると、ライトボックスの上に、全体的に白っぽい、正面を向いた顔のプリント(半
透過性のフィルム)が貼られているのがわかります。画像の後ろから照明が当てられているため、展示空間の中
にいると、正面を向いた顔──若い女性のように見えます──の眼が光り、画面の中から、こちらが見られてい
るかのような感覚を味わうことにもなるのです。
これらの顔は、実在する人物をモデルとして撮影されたものではなく、コンピュータ・グラフィックスの 3D ソ
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写真を見るレッスン:写真の表面/写真の層(レイヤー)
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フトで作成された人物の形状の上に、人間の皮膚の画像を貼り付けて制作された、架空のものです。したがって、
人の顔として非常に端正な外形を具え、睫毛の生え際や眉毛の一本一本、額や鼻の脇の毛穴、唇の縦皺にいたる
まで、顔の表面が細部にいたるまで精緻に描き出されているのにもかかわらず、白い背景とその漂白されたよう
な皮膚の色調によって、三次元的な顔の奥行きよりも、表面的の感覚が作り出されています。それぞれのポート
レートは、共通する形状の上に表皮が貼り付けられているため、相互に極めてよく似ているものの、
「ポートレー
ト2」
(図 9)や「ポートレート 12」
(図 10)を見比べてみると、顔の輪郭や目の位置や形、色、鼻や唇の幅など、
微妙な違いが作り出されているのを見て取ることができます。個々の作品の精緻なディテールと、作品の間の微
妙な差異は、それぞれの人としての特徴を表すものというよりも、相互の差異を数値的に表す役割を果たすもの
になっていて、誰かと名指される人としてではなく、あくまでも「ヒトのかたち」として見える像のバリエーシ
ョンとして立ち現れています。また、正面を向いた眼はガラスの球体のように、瞳孔が開いて、瞳の一部が照明
によって白く光っています。この眼は何かの対象を見つめる眼差しと言うよりも、見る側を寄せつけずに拒絶す
る冷たい光線のようです。
アジズ+クッチャーの「ディストピア」が個人の顔立ちの特徴である感覚器官を剥奪された皮膚としての顔だ
とするならば、渡辺豪の「フェイス」は、内側あるいは、その奥にある肉体を持たない、ひたすら表面としてし
か存在しない平面像なのです。つまり、彼らの作品はお互いにそれぞれが持ち合わせるものを失った状態にある
と言えるでしょう。写真の表面に修整や加工を施していくこと、あるいは限りなく写真に似せた表面を作り出す
こと、どちらの作品の表現方法もデジタル技術の進歩に伴って、広く行き渡ってきた技法なのです。私達の身の
回りに れかえる写真と隣り合わせにる技術を使って作り出されているからこそ、彼らの作品に表されている人
の姿──表皮としての人のあり方──は、見る側の心をざわつかせるのかもしれません。
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