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アンジェイ・スタシウク

「ヨーロッパは自らの栄華への不安がためにくたばる („Europa stirbt aus Angst um seinen
Wohlstand“)」(ドイツ・ツァイト誌)
「アンジェイ・スタシウク、ヨーロッパについて語る「血が流れ、人々が拷問に苦しむと
き、キエフのマイダンは沈黙に包まれる。」(Andrzej Stasiuk o Europie:"Gdy leje się krew i

torturuje się ludzi, nad kijowskim Majdanem zalega cisza")」(ポーランド・ティゴードニク・
ポヴシェフニ誌)

「この大陸はいったいどうなってしまったのか、私にはわからない・・・。」( „Я не
знаю, що сталося з цим континентом…“)」(ウクライナ・ジーチャ誌)
キエフの「マイダン」の革命家たちは木でできたカタパルトをつくりあげた。これでもっ
て武装警察を撃とうというのだ。我々がポーランドで「ウクライナ人」という場合には、
我々は「コサック」のことを考える。すると、勇猛果敢だが向こう見ずな馬にまたがる戦
士の姿が頭の中に浮かんでくる。ところが、そのコサックたちはここ数日すくなくとも歩
兵部隊のように戦っている。彼らはバリケード芸術の達人でもある。彼らはとあるバリ
ケートマシーンを組み立てた。その名も「フライホロド」といい、門や壁を打ち破るのに
一役買っているというわけだ。
今も彼らはカタパルトを作っている。この「マイダン」全体が、このウクライナの革命の
すべてが、写真の中でも、テレビの中でも、インターネット上でも、このカタパルトを、
あたかも未来における破滅を描いたストーリーが織り混ぜられたファンタジー映画のよう
に映す。
たちこめる黒い煙、燃えるバリケード、そこに、革命家たちはおのおのに、戦車の操舵主
あるいはウィンタースポーツの選手がかけているような眼鏡をかけ、工事現場の労働者や
ライダーそして予備役の兵士がかぶっているようなヘルメットをかぶり、プラスチックで
できたスキー用品をみにつけ、その上に、ガスマスクや死神の仮面をかぶり、またモンス
ターコスチュームに身をつつんだりしている。そして、スノーボーダーの一団が、自らの
ボードを楯にして戦いに参加している。あたかも行進太鼓のようにブリキを規則正しくか
き鳴らす音の背景で、モロトフカクテル(火炎瓶)が彗星のように闇を照らし出し、雪で
つくられたバリケードが、水をかけられて、この寒さの中で壁のように固くそびえる。
すべてがある種のおぞましいカーニバルのようだ。まるで穢れたと宣告された祭りのよう
に。向こう側は、モルドール(訳者注:ハリーポッターに登場する黄泉の国にの名称)だ。
黒ずくめの兵士達、四角形の楯の向こう側で、彼らは凍り付いたかのようにびくともしな
い、それは、時が経つにつれ、ローマ流のテストゥドのフォーメーションを形作る。そう
やって、ミリチアも銃撃から身を守るという訳だ。
されど。ヨーロッパよ。自らの自身の望みから目を背けないでもらいたい。このような光
景が現実に起こっているわけではない、と想像するのは、よくわかる。これはモルドール

での出来事ことであって、つまり、また別の大陸にある野蛮な国でのことだと。これは実
際は、また内輪で争いを起こしている彼のロシアでのことであって、つまり、出来れば、
かかわりあいにならないほうがよい、刺激しないほうがよい、邪魔だてしないほうがよい
のだと。
ロシアは大国だ。だから、そうした問題ともいずれはうまくやっていく。ロシアはいつも
なんとかやっている。それに我々がロシアの一部分の中に組み込まれるなんてことはあり
えない。そんなことになったらどうなるだろう?そうしたらカラムイク人が急にやってき
ていうに違いない。俺たちもだと。カラムイク人はといえばみなラクダとゲルで、それか
ら仏教徒で砂漠に暮らしている。
もしくは我々はモルドールを話題しているわけだから、モルドヴィン人でもよいわけだ。
ともかく我々はポーランド人とルーマニア人を受け入れているわけだから、文句が多少あ
るのはやむを得ない。とはいえ、ウクライナ人はタイヤをやくもんだからな、うちではタ
イヤなんてやいてはいかんわけだ。なんといっても環境破壊ものだからな。お巡りに焼き
タイヤを投げつけるために、なんだってあんな量のガソリンを使ったりするのだ・・・。
ベルリンからキエフまで 1332 キロメーター。ローマまでは 1500 キロ。パリまでは 1032 キ
ロ。マドリッドまでは 2300 キロだ。グーグルマップがそう出してくれる。しかし、地図な
んてものは、今年の冬ウクライナが過ごしている孤独さまで推し量って表示したりなんて
ことはしてくれはしない。2004 年にオレンジ革命が「マイダン」でおこったときには、
パーティもかくやの雰囲気だった。もちろん、その時の冬も厳しいことにはかわりはな
かったが。

ポーランドからは何千人ものの若者が、変革を支援するために旅立っていった。もっとも
重要な地位にある政治家たちもウクライナへ向かった。音楽家達は歌を演奏し、芸術家た
ちは連帯アピールのためのハプニングを催した。当時、オレンジ革命はポーランドでも同
時代の出来事であった。マフラーや帽章という形で、そしてスカーフにバンダナが車のア
ンテナに翻っていた。革命というのは、その時そうであったように、喜ばしき祭りである
のだ。
今日では真逆だ。というのは、本当に危険であるがゆえに、決してただのカーニバレスク
な戦いが繰り広げられているのでない。本当の戦いがくりひろげられているとき、そして、
現実に、血が流れ、人々が拷問を受けるとき、そんなとき、キエフの「マイダン」には静
けさの包まれる。それどころか、親ウクライナであり、異国での蜂起や革命に加わること
も常にいとわないはずの私の祖国も、待ちながらじっと事態を見守っているだけだ。
あたかもヨーロッパ連合そしてシェンゲン条約加盟後のこの年月の間が我々に打算や用心
なものを教え込ませたかのようなのだ。我々はもはやかつてのようにバリケードに突撃を
かけたりなどしない。ただ様子見、とそれ以外のヨーロッパがいうのだ。私たちはいった
いどうしてしまったことだろう。お互いに助け合うということの意義なるものへの信念を

失ってしまったのだろうか?
そんなところに今この「マイダン」での出来事だ。それは 2004 年のときよりもさらに差
し迫って重要かつ危険であるというのに。しかし、どのように?ウクライナ人には信念と
力なるものが育ってきているというのに、我々にはそれが失われてしまったとでもいうの
か。
なぜ我々はあの時と同様に「キエフとワルシャワとは運命共同体だ!」と声高に訴えたり
しなくなったのか。というのも、祭りは終わりを迎えたからだ。今やすべてが凍り付き、
ゴムとガソリンのこげる匂いが充満し、夜の暗闇がすべてを包み込みと、孤独がまわりを
しめる。そして、はたしてやつらは襲ってくるのだろうか、はたしてやつらはぶち殺しに
やってくるのだろうか、というような不安が駆け巡る。
ヨーロッパは狭い大陸だ。それも一つの大陸でただ半島ではない限りは。そのような狭い
国土であるとか民族であるとか都市であるとかがひしめいているなかでの孤立とは、なに
がしら常軌を逸しているし、残酷なことでもある。ポーランドは 1939 年に完全なる孤立
(いや、裏切りだ)の中にあることを余儀なくされた。それも相当昔の話だ。

だが、テレビカメラに取り囲まれたバルカンのことを思い出すだけでもはや充分ではない
か。バルカンも同様の孤立にあったにもかかわらず、全世界はバルカンが屠殺場と化して

いくのをただ眺めているのみであった。1939 年と比べたとき、おおいなる進化とよべるき
ことがあった。それは倒錯と非道の度合いにおいてだ。我々は偽善を承知でこう言い続け
る。つまり、バルカンはいまもそうであり続けているし、ずっとそうあり続けて来たし、
そこいる人々ですらもそれを望んでいるのであると。
ウクライナではそんな偽善を貫くことは難しいのでありますぞ、紳士淑女の皆様、残念な
がら。というのも、ウクライナの人々は我々の為に戦っているのであるから。いわゆる
「ヨーロッパ的価値」なるものが、なにかを買ったり所有したりできる、という風に思わ
れているのであれば、皆様方はなにかを錯覚してなさる。それが最上であると思われるの
であれば、ヨーロッパという名のこの半島だか岬だかの周りに壁でもたてるがよろしかろ
う、そうして、そこに自己満足と表面だけの安心と卑猥な健全さに満ち満ちたゲットーで
もつくればよろしい。それから、その周りに、それ以外の世界が、我々の領域を犯そうと
して、近づいてくるかどうかを監視するために見張りをずらりと並べればよい。そうやっ
て我々は生きながらえることになるだろう、いつの日か不安と同族婚と倦怠のなかで滅亡
を迎えるまで。
この大陸はいったいどうしてしまったことだろう。かつてもちあわせていた精力と勇気と
外部への意欲であり未知への探究心そして活力とはいったいどこへいってしまったのか。
我々は自らの足でこの地球の反対側の果てを告げる世界の果てまでも歩むことができたの
だ。もちろんそうだ、我々は恐ろしいこともしてのけた、けれど、大きな実りをももたら
した、これも確かだ。

世界はもう長きわたりこのユーラシアという名の怪獣の果てにあるこの笑止千万な半島を
あたかも呪縛されていたかのように眺めている。今日、我々は自ら窓際に立ちカーテンの
外側を不安げにながめている。そこでは誰も、南無三、突如「自らの価値なるものを再確
認」し始めたりしないのである。もうそれができないというのではあれば、どうせならで
きるだけそこから遠くはなれてくれたまえ。いっそうのことモルドールにでもいれば済む
事だ。
それでもやりようはある。価値をめぐる戦いは続いている。なにも、すべてを持とうとは
思わないことだ。価値なるものは壁や監視塔なんぞで囲い込めるものではない。それがた
めに、アフリカからの難民をつまはじきされている地中海沿岸地域のように自らを要塞化
してしまうことなどできない。我々のいう価値なるものを、ポーランドの東の国境で打ち
止めに捨てておくことなどできないのだ。
共産主義が幅をきかせていたころ、ポーランドにはこんななぞなぞがあった。それはこう
だ。「ソ連のお隣りさんは誰?」というものだ。「ソ連のお気に召した誰か」、それが答
えだ。同じ様なことが、今日のヨーロッパにもあてはまる、ただ、全く正反対な形で。ソ
連とは違い、ヨーロッパは隣人たちと境を狭しとひしめき合っている。
ヨーロッパは、それ自身が代表している(もしくはしていた?)価値なるものが、自身の
名ばかりともいえる境の向こう側で、体現されているということに気付こうとも思わない
のだ。この大陸は、この現在、かのような状況を目の前にし、震え上がるばかりで、それ
もその状況は怒りをもたらすばかりなゆえにだ。ヨーロッパは自らを矮小化し、縮み上
がって、カーテンの向こう側に息をひそめている。取り憑かれたように、利益と損失を算
えている。ヨーロッパは自らの足下にたいする恐怖でくたばろうとしている。そして、自
身のおぞましいほどの安寧と、反吐がでるほどの裕福さと、鼻持ちならないまでの自己満
足ぶりへの不安からと。
2014 年ウクライナの冬の出来事はヨーロッパにとっては一つの敗北なのだ。凍り付く寒さ
のキエフからの映像を私はみた、そして、自由のために死のうとする人々を。そして、こ
の数十年の間にヨーロッパで同様の「源」からわき上がって来たような出来事を探してみ
よう。すると眼の当たりにするのは 1953 年のベルリン、1956 年のブダペスト、1968 年の

プラハ、1970 年のグダンスクなどだ。ところが、この大陸の半分を見る限りでは、この自
由の危機に対して、半信半疑な抗議のみがインターネット上で散見されるのみだ。憂うべ
き光景である。