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貨幣の価値と労働の価値

定常的世界では、労働を単位とした所得、すなわち労働の価値が低下する。財政マネタイズは、労働
の価値の対極にある貨幣の価値を低下させ、相対的に、労働の価値を高めることになる。仕事と生活の
調和も、余暇に対する選好が高まることで、結果として労働の価値を相対的に高めることになる。労働
の価値の高まりは、賃金や物価の上昇へとつながり、定常的世界を脱することのきっかけをつくること
になる。
このような経済は、1980 年代の半ばから 1990 年代初頭にかけてのバブル景気の中に、現在のデフレ
経済とは対極的な形でみることができる。バブル景気は、1986 年の秋に始まり 1993 年に終わりをむか
える。ただし物価が下落する中で雇用情勢が急激に悪化するのは 1990 年代の後半に入ってからであり、
それまでは、本格的な雇用調整は生じていない。
バブル景気では株価や地価など資産価格の上昇が注目された。実際バブルとは、資産価格がファンダ
メンタルズ(経済の基礎的条件)によって定まる価値以上の価格となることを指して名付けられたもの
である。日経平均株価の推移をみると、1980 年代半ばから急激な上昇が始まり、1989 年に株価はピーク
をつけ、その後は急激に低下する。株価は 1990 年代半ばに一時的にやや上昇するが、国内の金融危機が
表面化しアジア通貨危機が発生した 1997 年以降再び大きく低下することになる。
資産価格の上昇は、日本銀行が史上最低水準の公定歩合を維持するなど緩和的な金融政策を継続し、
さらに 1980 年代に経常収支黒字の削減が課題とされたことから、
国内企業に対する投資機会が縮小する
中での過剰な貯蓄の活用先として、株や土地に対する投機的需要が生まれたことによって生じた。また
二度にわたるオイル・ショック後の不況とインフレを短期間に克服したことが日本経済の将来期待を高
め、その過大な期待が株価や地価の上昇につながった可能性もある。このような資産価格の急激な上昇
は、2000 年代の「グレート・モデレーション」とよばれた先進国経済の長期安定期に、新興国を中心と
した需要が長期的に増加していくとの期待のもとで、地価や原油をはじめとした原材料価格が急激に上
昇した姿とも重ねてみることができる。

(Fig.10) フィリップス・カーブ
25.0 ただしバブル景気がもたらした価格の

20.0
1975年第1四半期 上昇は株価や地価だけにとどまったわけ
ではない。第二次オイル・ショック以後
(修正コアCPI前年比 %)

15.0
落ち着きをみせていた物価は、1980 年代
10.0 後半からその上昇幅が再び高まる。労働
2008年第4四半期

5.0 者の時間あたり賃金も同じ時期に上昇幅
を高めている。これらが生じた理由とし
0.0

1987年第1四半期~1992年第4四半期
て、資産価格の上昇が金融資産残高の実
-5.0
質的な増加をもたらしそれが生活者の消
0.00 1.00 2.00 3.00 4.00 5.00 6.00
(資料) 総務省「消費者物価指数」、「労働力調査」 (完全失業率 %) 費意欲を高めたという側面を指摘するこ
(注) 修正コアCPIは、消費者物価指数(生鮮食品を除く総合)について、消費税の創設および税
率改正の影響を除去したもの。
とも可能であるが、それにもましてこの
間名目国内総所得が増加していることが重要である。プラザ合意以降の円高は輸出産業に打撃を与えた
ものの、交易条件を改善し、このこともまた名目国内総所得の増加に寄与している。すなわち「バブル」
とは、貨幣に対して商品や労働力の価値が高まることをも意味していたのである。

-39-
バブル期は、労働需要が高かったにもかかわらずひとりあたりの労働時間は減少し、それによって時
間あたりの賃金も上昇した。この間労働需要が高かったことは、完全失業率が物価を加速させない完全
失業率の下限の水準にほぼ達しており、雇用情勢は事実上完全雇用を達成していたことからわかる
(Fig.10)。つまりバブル景気時には、雇用はその潜在的な供給力に達するほどの水準にあった。
労働時間の短縮は、
『前川レポート』にみられるような内需拡大に向けた要請によって政策的に推進さ
れたという側面がある一方、企業が労働者を自社に引きつける必要性があったことから進んだという側
面もある。労働時間の短縮を考えるとき、1988 年に施行された改正労働基準法により原則として週 40
時間労働制が導入されたことが銘記されるが、制度が浸透した背景には、バブル景気というその時代の
経済をとりまく環境も影響を及ぼしていたのである。改正労働基準法は、むしろ労働者の価値観にそれ
までとは違った認識を植え付けたという点において注目されるべきかも知れない。すなわちバブル景気
という時代は、貨幣の価値が低下するとともに勤勉な労働を美徳とする価値観が後退した時代でもあっ
たのである。
バブル景気という時代を問い直そう。それは「持続的な物価の下落と所得の停滞」として捉え直され
たデフレ経済の定義を反転させることで定義づけることができる。バブル景気という時代は、商品やそ
れを創る労働の価値が高まった時代である。ここでいう労働や商品の価値とは貨幣を尺度とした価格の
ことである。この価値は相対的に計ることができるものであり、絶対的な尺度をもたない。労働の価値
が高まることは、いいかえれば貨幣の価値が低下することである。

貨幣(紙幣)にはその素材以上の価値が付与されている。貨幣そのものがもつバブル的な要素を竹森
俊平はゲーテの長編戯曲『ファウスト』を参照しつつ説明する。49ファウストとメフィストは、ある帝
国において金の裏付けのない紙幣を発行することで財政問題を解決し、帝国の経済を復興する。この紙
幣は、皇帝領内に埋もれた無尽蔵の宝という実体のないものによって保証された不換紙幣である。しか
しメフィストの魔力と不換紙幣という無から有を生み出すバブルによって、
国家財政の危機は克服され、
その結果として国は豊かになる。
現在の紙幣は、国債とその償還を可能にする国家の徴税力を裏付けとしている。国債の残高が急増し
たり国家の経済規模を示す名目GDPが急速に縮小したりすることになれば、国債を償還する力が低下
したと経済主体に認識され、国債の価格が低下(名目金利が上昇)するとともに貨幣価値も低下する。
経済はインフレ基調となり、外国為替市場では自国通貨が下落する。この場合の国家に対する「信頼」
は、メフィストの「魔力」に相当する。
「信頼」や「魔力」は、いずれにせよ何らかの実体あるものによ
って支えられているわけではない。現在の紙幣がもつバブル的な要素は、メフィストらの紙幣となんら
変わるところがない。貨幣経済そのものがバブルの要素を含んでおり、貨幣経済を前提とすれば、バブ
ルは「悪」ではなく「合理的に」発生し得るものでもある。
「合理的なバブル」について、竹森はゲーム理論を用いたジョン・ティロールの研究をもとに説明す
る。ティロールによれば、
「動学的効率性の条件」すなわち「その経済における投資収益率が、成長率を
上回る」という条件が満たされないとき、国債で集めた資金を投資した上で償還するよりも翌期の国債
によって借り換えて償還した方が効率的な運用を実現したことになる。これを企業に例えるならば、株
価が投資収益率を超える勢いで上昇しているとき、総資産の一定割合にあたる資金を社債の発行によっ
て調達し、それを事業に投資し、翌期に収益を加えて償還する場合よりも、翌期に再び総資産の一定割

49
竹森俊平『資本主義は嫌いですか それでもマネーは世界を動かす』

-40-
合にあたる資金を調達しそれを償還にあてた場合の方が、より高い収益率を実現したことになるという
ことである。当期に調達した資金は、自社の事業とは関係のない企業に間接的に投資することなどによ
って自社の資産をみかけ上ふくらませておけばよい。つまりこれは「時価総額経営」という名の下にソ
フトバンクやライブドアといった会社の資産を拡大させた経営手法に相通じるものである。
「動学的効率
性の条件」が満たされない経済とは、具体的には、資本が過剰となり新たな投資による期待収益が低く
なった経済である。ケインズは経済が将来このような姿になることを想像し、
『一般理論』の結末で「金
利生活者の安楽死」を唱えている。しかし収益性のある投資の機会がなくなれば、過剰となった貯蓄に
よって「合理的なバブル」は引き起こされやすくなる。これは見方によれば一種の「ネズミ講」である
が、それはより高い効率性を実現する合理性をもつた「ネズミ講」なのである。
ファウストはさらに戦争において抜群の功績をあげ、その報奨として得た「広大な沼地」を開拓する
事業を行う。自由な土地を自由な人々とともに踏みしめることを夢見つつ、その予感の中でファウスト
の魂はメフィストに奪われる(ファウストが聞いた堀割のための鋤の音は、実際には、墓堀の音に過ぎ
なかった)
。竹森は、この「広大な沼地」は、フランス王立銀行総裁にして仏領ルイジアナの通商権と開
発権をもつミシシッピー会社を実質的に支配しミシシッピー・バブルの主役となったジョン・ロウによ
って開拓され、ハリケーン・カトリーナによって破壊されたニュー・オリンズ周辺の光景を思い浮かば
せるものだという。

(Fig.11) 貨幣流通速度(前年比)の推移
4
貨幣経済では、流動性が不況を引き

2 起こす原因となる。これはポール・ク
0 ルーグマンがベビー・シッター協同組
-2 合をモデルに簡潔に描いた話によって
-4 広く知られている。50不況とは、ケイ
-6 ンズがいうように、個人が現金を保有
-8 しようとすることが中心的役割を果た
-10 し社会全体が協調不足になってしまう
1980 1985 1990 1995 2000 2005 ために生じる。日本の金融危機、ある
(資料) 日本銀行、内閣府「国民経済計算」
(注)貨幣流通速度=名目GDP÷貨幣供給(M2+CD)
いは米国の大恐慌においても、生活者
は銀行から貨幣を引き出そうとし取り
つけ騒ぎのようなパニックを引き起こす。貨幣愛は嵐のように突如人々の心の中に高まる。経済が不況
に陥らないため、あるいは経済が不況から脱出するためには、信用を拡張しバブルの発生を容認するこ
とも、時には避けられないこととなる。
一定期間に貨幣が取引に使用される回数のことを「貨幣流通速度」という。51貨幣流通速度は、名目
の国内需要を金融機関から経済全体に対して供給される貨幣の量(マネーストック)52で除すことによ

50
ポール・クルーグマン(北村行伸、妹尾美起訳)『経済政策を売り歩く人々 エコノミストのセンス
とナンセンス』 。
51
貨幣数量方程式は、この貨幣流通速度 νを用いて、
M∙ν=P∙Y
と表される。ただし、M:貨幣供給(マネーストック) 、P:物価、Y:実質GDPである。よって、貨幣
流通速度は、
P∙Y Y
ν= =
M MP
-41-
って計算することができる。この貨幣流通速度の増減率をみると、不況の時期には大きく低下する
(Fig.11)

先に述べたように、不況は個人が現金を保有しようとすることが中心的役割を果たし社会全体が協調
不足になってしまうために生じる。このことは貨幣流通速度の動きからも確認することができる。個人
が現金を保有しようとすれば
(流動性選好が強まれば)
、マネーストックが増加しても物価は高くならず、
貨幣流通速度は低下する。53貨幣流通速度の低下は、市中に供給されている貨幣の実質的な価値(購買
力)である「実質貨幣残高」が大きくなることと整合的である。54
さらに、
経済が流動性の罠に陥ると、
(Fig.12) マネーストック(前年比)の推移
30
中央銀行が貨幣の発行を増やしても経
済に対する一切の効果をもたらさない。
20
名目金利はある「下限」に達し、企業
10
の資金借り入れ需要はこれ以上増加し
0
ないことになる。このとき、銀行が預
-10 金と貸し出しを連鎖的に繰り返すこと
マネタリーベース
-20 貨幣乗数 で、中央銀行が発行する貨幣の数倍の
M2 +CD
-30 規模(この倍数を「貨幣乗数」という)
1980 1985 1990 1995 2000 2005 にマネーストックが拡大するという信
(資料) 日本銀行、内閣府「国民経済計算」
(注)貨幣流通速度=名目GDP÷貨幣供給(M2+CD)
用創造の機能が弱まり、マネーストッ
ク自体が拡大しなくなる。1990 年代半
ば以降、企業の外部資金に対する借り入れ需要は弱まるが(前出 Fig.5)、それに応じてマネーストック
の規模は停滞している。その後は日本銀行の量的緩和政策とその解除によってマネタリーベースは大き
く変動したが、マネーストックの規模に対するその効果は限られたものとなっている。マネタリーベー
スが増加ないし減少しても、貨幣乗数がその反対方向への効果をもつことで、マネーストックを動かす
効果は小さなものとなっている(Fig.12)。
名目金利がある「下限」に達してもなお企業の資金借り入れ需要を増加させるには、予想インフレ率
が高まることで、企業が投資の水準を決定するにあたって参照する実質金利を引き下げることが必要に
なる。実質金利の高止まりをもたらした予想インフレ率の低下は、継続的な物価の下落を経済主体が予
想することで生じる。これはいかにして、何がきっかけとなって生じたのだろうか。岡田靖は、名目貨
幣供給の増加率が一定の定常均衡にある経済がある時点を境により低い名目貨幣供給の増加率となる定
常均衡に移行すると、物価の粘着性によって、物価上昇率が新しい定常均衡へ移行する過程ではゆるや
かなデフレが継続することをベネット・マッカラムのモデルを用いて説明している。55この移行過程で
は、貨幣供給の一時的な増加によってデフレを終わらせることができず、経済は流動性の罠に陥る。日

となり、実質GDPを「実質貨幣残高」で除したものに一致する。
52
マネーストックとは、信用創造を経て金融機関から経済全体へ供給された貨幣の総量のことであり、
中央銀行が供給する貨幣の量であるマネタリーベースに貨幣乗数を乗じたものとなる。
53
個人が現金を保有しようとするようになれば、貨幣供給が増加しても物価は上昇せず、貨幣流通速度
は低下する。なお、先に触れたクルーグマンのモデルでは、貨幣流通速度は暗黙に1であると想定して
いる。
54
実質貨幣残高が変わらずに実質GDPが低下しても、貨幣流通速度は低下する。
55
Yasushi Okada “Is the Persistence of Japan’s Low Rate of Deflation a Problem?” (ESRI 国際コ
ンファレンス「 “失われた10年”における日本経済の変貌と回復」提出資料) 。

-42-
本の貨幣供給の増加率は、1980 年代は 10%程度であったが 1990 年以降は0~3%となっており、それ
をきっかけとして、ゆるやかなデフレが継続するようになったと考えられる。また、労働生産性が一定
の水準で上昇している中、この長期のゆるやかなデフレと賃金の短期的な硬直性によって、完全失業率
は急激に上昇した。56岡田は、日本が流動性の罠に陥ったきっかけを人口減少など実物的な要因ではな
く貨幣的な要因から説きおこすと同時に、その貨幣的な要因が長期にわたる経済停滞をも引き起こすこ
とを指摘している。
クルーグマンの議論にもとづいて考えると、実質金利を企業が一定の予想収益を確保できる水準にま
で引き下げることができれば、企業の資金借り入れ需要は再び増加する。このことは、マネーストック
の増加率をもとの経路に引き上げることにもつながる。しかし一方で、人口減少によって、企業が行う
設備投資の予想収益率である「資本の限界効率」は低下している。求められる予想インフレ率の上昇、
すなわち貨幣価値の低下はより大きなものとなる。人口が減少する中で、
「マルサスの悪魔O.
」を鎖に
つなぎ止め、生活水準の向上を促進するためには、ひとりあたりの資本の増加と、それに応じた所得と
消費の増加が実際に生じることが必要である。貨幣の価値が低下し労働の価値=商品の価値が上昇する
ということが、しばらくの間継続して生じ続けることを経済主体が信用する、そのような経済の機構的
な変化があれば、それに応じて「資本の限界効率」は高まり、上述の条件は満たされることになる。

岩井克人は『貨幣論』において貨幣というものの根拠をつぎのように説明している。マルクスの価値
形態論では、あらゆる商品に対して「等価形態」にある一つの商品が、均質的で、分割可能で、耐久的
な金という商品にその地位を譲り渡すことによって貨幣となる。ここで「等価形態」というのは、マル
クスが「単純な価値形態」

20 エレのリンネル=1着の上着

を表記したときの「1着の上着」に相当するものである。このときリンネルは「相対的価値形態」にあ
るとされ、上着と交換されることによってその価値が表現される。一方上着は、リンネルという主体に
対して客体、図に対する地にあたるものであり、価値を表現するための尺度となる。このようにマルク
スの価値形態論の原初的な段階では、二つの商品がそれぞれ主体と客体の位置を占める非対称的な関係
によって満たされた場が存在していることになる。このときリンネルは、上着を尺度とすることでみず
からの価値を表現するが、等価形態にある上着にはその価値を示す根拠となるものが存在しない。しか
し単純な価値形態では、等価形態はあたかもそれ自体が価値をもつものであるかのようにみなされてし
まう。岩井は、マルクスがこの出来事を「とりちがえ」とよんでいることに注目する。
マルクスはそこからさらに、20 エレのリンネルが上着だけでなく、茶やコーヒー、小麦、金などさま
ざまな商品を等価形態とすることでみずからの価値を表現する「全体的な価値形態」と、それまで主体
の位置にあったリンネルが客体となることによって、主体となった上着や茶、コーヒー、小麦、金など
の価値が表現される「一般的な価値形態」という、二つの中間的な価値形態を導く。そして一般的な価
値形態における等価形態がある素材的な特性をもつ金属におき換わることで、貨幣形態は生まれること
になる。

56
ただしこのモデルにおいて流動性の罠が生じるには、①価格および賃金調整の不完全性、②名目利子
率は貨幣需要関数の独立変数となること、が前提となる。

-43-
現在では、貨幣は、金や銀という素材から、金地金等との交換が約束されている兌換紙幣を経て、そ
の交換が約束されていない不換紙幣へと替わっている。いずれにしても貨幣、すなわち主体である商品
の価値を表現する尺度となる等価形態の価値は不問のまま残されている。しかし岩井によれば、マルク
スは、この貨幣の価値を労働価値説によって、つまり労働生産物としての金によって説明するという経
路を用意していたとする。
なおこの経路は、
マルクス自身が述べているデーヴィッド・リカードの考えに相当するものでもある。
リカードは、金の価値をそれらに対象化されている労働時間の量によって規定し、ほかのすべての商品
の価値は、この金の価値によって規定されるとした。57マルクスは、ここから貨幣についての数量説的
な視点によって物価の高騰と下落について説明している。岩井は、この労働価値説による貨幣価値の根
拠付けは破綻していることを指摘する。不換紙幣はそれ自体まったく無価値なものでありながら、単な
る価値の記号として貨幣の完成された形態となる。しかしその記号は、記号されるものと記号するもの
との関係に恒常性があるからこそはじめて記号としての働きをするものである。実際には、財源に乏し
い国家が紙幣の量を増やすことがあるためこの恒常性は成立していない。58マルクス自身も「紙幣は流
通するから価値をもつ」というように、その価値が無根拠であることを認めている。
岩井はさらにここからマルクスによっては語られていない貨幣の神秘について語りを進めていく。全
体的な価値形態と一般的な価値形態との関係には、リンネル(最終的には貨幣)を媒介項とすることで、
その一方の形態が別の一方の形態の成立を可能にする循環論法が潜んでいる。この循環論法が無限の繰
り返しをすることで、新たな価値形態が生じる。この新たな価値形態に、労働時間の量や主観的な欲望、
さらにはある商品を貨幣として強制的に使わせることになる共同体の申し合わせや君主の勅令や市民の
あいだの契約や国家による立法といった外部的な要因はいっさい入り込む余地はない。
価値形態論における貨幣は、このようにして循環論法的に成立することになる。さらにそこに交換(取
引)という行為を行う人間を導入し「交換過程論」の視点からみると、貨幣が成立する根拠は、それを
また誰かほかの人が貨幣として引き受けてくれることが期待できるという事実そのものということにな
る。ここには、自分の欲望ではなく、他人の欲望が介在している。このようにして、貨幣自身の価値は
どのように根拠付けられるのかという問いは、市場経済という過程の中で無限に先送りされ続けること
になる。
貨幣が存在しない物々交換の経済では、ある商品Aを「売る」ことで必要とする別の商品Bを「買う」
ことは、それとは対照的に、商品Bを「売る」ことで必要とする商品Aを「買い」たいと考える別の経
済主体との偶然の出会いがない限り不可能である。貨幣経済においては、貨幣という特殊な商品がおお
くの経済主体間の間をとりもつことによって、偶然にしか生じないという交換の困難を克服することが
できる。物々交換の経済では、売りは必ず買いをともない買いは必ず売りをともなう。貨幣経済であっ
ても、貨幣は単に交換のための媒体となるにすぎないときには、売りと買いはつねに均衡している。
しかしこの均衡は、貨幣が流動性というその特性をあらわにすることで崩れさることになる。貨幣経
済の中で、貨幣とそれによって購買される他の商品との間のバランスがゆらぐとき、経済には二つの危
機が生じることになる。
第一の危機は、いうまでもなく経済全体が突如として需要不足の状況になるときに訪れる。この場合
に起こる危機がマルクスが待望した恐慌であり、我々の言葉でいえば「持続的な物価の下落と所得の停

57
カール・マルクス(武田隆夫、遠藤湘吉、大内力訳)『経済学批判』

58
もし貨幣が金であった場合でも、流通している間にその量は摩耗することになる。

-44-
滞」というデフレそのものである。岩井は、現実の恐慌がどのようにして生じ得るかをクヌート・ヴィ
クセルのいう不均衡累積過程によって説明する。すべての商品の市場が同時に需要不足に陥れば、価格
の切り下げはすべての商品に同時に起こり、その結果価値形態としての商品の相対的な関係はいっさい
変わらないまま物価は下落し、需要不足の状態も依然と変わらないままに残されることになる。このよ
うな物価の下落は、ひとつの商品の需要が縮小することでその価格が低下するという相対価格の変化と
はまったく異なるものである。そしてこの過程は、その翌期においても同じように生じる。このように
して「見えざる手」の含意とは異なり、経済は累積的に不均衡の方向へと押し流されることになる。
このようにして生じた不均衡は、ケインズのいう乗数過程を経ることで、経済全体に広範囲に生産と
雇用の圧縮を生じさせる。しかしこの第一の危機は、資本主義に対する本質的な危機とはいえない。現
実の経済は、
例えば 1929 年の世界大恐慌においても破壊的な事態に陥ることはなかったことに岩井は注
目している。そして経済を破壊的な事態へと陥れることなく安定させてきたものこそ価格や賃金の粘着
性であるという。このように、新古典派経済学や近年のニューケインジアン・エコノミクスにおいてま
さに非自発的な失業が生じる原因とされている価格や賃金の粘着性は、逆説的なことに、ここでは不均
衡の累積過程に対する歯止めの役割を果たすことになる。
一方第二の危機、つまりハイパー・インフレーションこそ岩井が注目する資本主義にとっての本質的
な危機である。先に述べたように、貨幣の価値にはそもそも根拠はない。ある日突如として貨幣が貨幣
であることをやめてしまえば、無限の循環論法の上に成立している価値形態は「巨大な商品の集まり」
となり、資本主義社会は解体することになる。歴史的に生じたハイパー・インフレーションは一国内の
経済に限定されたものであった。しかし経済がボーダーレス化する中で「世界貨幣」たる基軸通貨にハ
イパー・インフレーションが生じれば、資本主義を支える価値のアンカーはどこにも存在しないことに
なる。

現在の不換紙幣は、確かにその素材そのものに価値はない。とはいえその紙幣は中央銀行の負債とし
て計上されている。そして一方の資産の側には国債がある。つまり不換紙幣は国債によって裏付けられ
ているのである。ある日突如として貨幣が貨幣であることをやめてしまい市場での交換において誰も紙
幣を受け取ってはくれないという出来事、つまり岩井のいうハイパー・インフレーションは、国債価格
の暴落(金利の高騰)と同じである。つまりハイパー・インフレーションとは、図らずも国家の「財政
破綻」という出来事を定義することになる。国家の徴税権を前提とすれば、経済の規模(名目GDP)
が十分に大きく、経済全体としてみた国内貯蓄が国債残高を上回っていれば、その国債はいずれ償還さ
れる。しかし国家の徴税権が信頼されていない場合や、経済の規模とは乖離した巨額な国債残高が存在
する場合には、ハイパー・インフレーションすなわち「財政破綻」という事態は現実のものとなろう。
日本の財政・金融政策について、財務省は財政の均衡(財政は経済の動きに中立であるべきで歳入と
歳出は均衡させるべきであるとする立場)を重視するとともに、日本銀行は物価の安定を重視し金融の
引き締めを志向する傾向があることが指摘されている。これは「財政破綻」という国家の危機に対する
本能的な反応であるとみなすことかできるように思われる。岩井はハイパー・インフレーションが資本
主義における本質的な危機であることの理由として、貨幣の価値にはそもそも根拠がなくそれが突如と
して起こり得ることをあげている。しかし貨幣が国家に内在するものとして存在していることを考えれ
ば、その危機は国家の経済政策運営しだいによって管理することが可能なものだといえる。
とはいえ財政・金融政策にかかるこの「本能的な反応」は、貨幣愛という人間の心性にも相通じるも
のであるのかも知れない。本来的には、財政も金融も国民経済の安定のための一翼を担うべき政策ツー

-45-
ルである。いわば国民経済を主人とし、それに仕える従者の立場にある。ところが貨幣愛という人間の
心性によって財政・金融政策がその本来的なあり方から逸脱し自律的な運動を始めることになれば、第
二の危機(ハイパー・インフレーション)を回避した資本主義に、ふたたび第一の危機(デフレ)が襲
来することになる。59
2008 年秋のいわゆるリーマン・ショ
(Fig.13) 実効為替レート(名目)の推移
140.00 ックに端を発するグローバルな金融経
Broad
済危機において、先進主要国は財政に
Major Currencies
120.00 よる巨額の総需要喚起政策を行うとと
(1997年1月=100)

もに、非伝統的な金融政策によって中
100.00
央銀行のバランスシートを大きく拡大
させた。しかしにもかかわらず、現在
80.00
までその危機を完全に克服したとはい

60.00
いきれない状況が続いている。貴金属
1990 1995 2000 2005 2010 や資源の価格は高まりそれらに対する
(資料) FRB
貨幣の相対的な価値は低下しているが、
世界通貨である米ドルがハイパー・インフレーションを起こすことによって世界中の生活者が商品を追
い求めるような事態にはいたっていない。実際、米ドルの実効為替レートは、経済危機以後度重なる金
融緩和政策を行う中でも大きく低下するような動きをみせていない(Fig.13)。
岩井のいうハイパー・インフレーションとは、名目貨幣供給の伸びが一定のもとで物価が上昇し続け
るという非貨幣的なハイパー・インフレーション均衡と同じものであろう。60しかし近年の経済危機に
おける上述のような現実をみると、岩井の語るところとは異なり、資本主義にとっての危機とはいまだ
デフレの方にあるようにみえる。特に人口減少が現実のものとなった日本では、需要の停滞によるデフ
レのリスクはこれからも高いままである。

ロベール・ボワイエは、南米諸国に自国通貨を放棄し米ドルを用いたいという「ドル化」の願望があ
ることに関連して、それ(ドル化)はこれらの諸国の経済に大きな影響を与え混乱を引き起こすもので
あることを指摘している。61ドル化は自国の金融政策を無効化し、一国の経済に貨幣価値の「足かせ」
をはめることになるだろう。この「足かせ」によって、ドルという貨幣の価値のもとに自国の労働や商
品の価値を隷属させることを意味する。すなわち金融政策が無効化されるとき、岩井のいう意味におい
て本源的な価値を持たない等価形態である貨幣が一国の経済の中で主人として振る舞うことになってし

59
一方現下の経済危機においては、ギリシャのように、財政への信頼が失われ、支援と引き替えに(金
融政策の自由度をもたない中で)緊縮的な財政運営を求められるケースがみられる。これは、それまで
国民経済を過度に優遇してきたツケを支払わされているという解釈ができる反面、同国の体制を弱体化
させる懸念も生じる。このことは、ひいては通貨(ユーロ)への信頼を失わせることにもつながりかね
ない。こうした観点から、世界通貨基金(IMF)やそれを補完する役割を果たすべき国際開発金融機
関等の重要性が指摘できる。
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「マクロ経済学の解説を目的としているのではないこの論文では、議論を必要以上に錯綜させないた
めに、貨幣供給の持続的な上昇によって総需要と総供給が一致している均衡状態においても進行してい
くインフレーションを無視している。 」(岩井前掲書 217 頁)

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ロベール・ボワイエ『 〈インタビュー〉貨幣とは何か──社会関係としての貨幣』
(藤原書店 環 Vol.3
2000.Autumn 所収)

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まうのである。
ボワイエが指摘するように、
「世界的な、国際的なレヴェルで、次元で活動している金融機関、金融資
本家、あるいは多国籍企業の経営者にとって、ドル化は大きな勝利」である一方で、
「そうしたグローバ
ル性(国際性)でもって活動していない勤労者、中小企業経営者、あるいは農民」にとって、ドル化は
敗北を意味する。ドル化によってグローバルな金融資本や多国籍企業はそのリスクを縮小することがで
きるが、ローカルに活動する経済主体はそのリスクの調整弁となる。一国の経済は、流動性が足りなく
なることで社会全体が協調不足になるという不況の引き金を抑制する手段をもたず、国内の経済主体は
つねにデフレのリスクにおびやかされ続けることになるだろう。

デフレという危機に際して労働や商品の価値を高めることはできるのだろうか。それはこれらを相対
的な価値尺度として支えている貨幣しだいである。このことはまた、労働や商品がグローバルな金融資
本や多国籍企業と対立する存在であることを浮き彫りにする。
ここでひとつの事例をとりあげよう。日本が占領下にあった 1949 年、日本政府は米国政府からの指令
である「経済安定9原則」にもとづく「総合施策大綱要旨」を策定し、予算編成作業に着手する。その
際、ジョセフ・ドッジがGHQの財政顧問として来日する。いわゆる「ドッジ・ライン」である。
「経済
安定9原則」は、財政の均衡と賃金・物価の安定を図り、これらの諸施策によって単一為替レート(そ
れまでは、貿易は国によって管理され、為替レートは商品によって異なっていた)を速やかに設定する
よう日本政府に求めるものであった。ドッジ・ラインにより、石橋財政のもとでの傾斜生産方式に活用
されていた「復興金融公庫」による債券の発行が禁止され、それに代わるものとして、GHQの管理下
に「対日援助見返資金特別会計」がおかれた。補給金の削減によって企業の合理化が進む中で、日本経
済はデフレに陥る。しかしその後の朝鮮特需によって、結果的に景気は回復した。ドッジ・ラインへの
評価にはさまざまなものがあろうが、それが日本経済にデフレをもたらした一方で、単一固定為替レー
トの設定によって米国金融資本が日本国内で活動する際のリスクを軽減する効果をもつものであったこ
とは注目されるべきであろう。
主体としての商品や労働の価値を支える貨幣の価値に「足かせ」を掛けないことで、デフレのリスク
をコントロールし、商品や労働の価値を保ちあるいは高めていくことによって、経済主体間の軋轢を抑
制することができる。経済において、貨幣ではなく、商品や労働が主人であるべきことを改めて認識す
る必要がある。

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