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干渉される神様

アブラハムはそこからネゲブの地に移って、カデシとシュルの間に住んだ。彼がゲラルにと
どまっていた時、アブラハムは妻サラのことを、
「これはわたしの妹です」と言ったので、ゲ ラ
ルの王アビメレクは、人をつかわしてサラを召し入れた。ところが神は夜の夢にアビメレク
に臨んで言われた、
「あなたは召し入れたあの女のゆえに死なねばならない。彼女は夫のあ る
身である」。アビメレクはまだ彼女に近づいていなかったので言った、
「主よ、あなたは正し い
民でも殺されるのですか。彼はわたしに、これはわたしの妹ですと言ったではありませんか。
また彼女も自分で、彼はわたしの兄ですと言いました。わたしは心も清く、手もいさぎよく、
このことをしました」。神はまた夢で彼に言われた、
「そうです、あなたが清い心をもってこ の
ことをしたのを知っていたから、わたしもあなたを守って、わたしに対して罪を犯させず、彼
女にふれることを許さなかったのです。いま彼の妻を返しなさい。彼は預言者ですから、あな
たのために祈って、命を保たせるでしょう。もし返さないなら、あなたも身内の者もみな必ず
死ぬと知らなければなりません」 。

創世記第二〇章 1~7 節

復活の月、四月を迎えました。私たちは、イエス様の復活を記念し、願わざる不義の勢力、サタンの主
管下から解放され、心の主体者であり、生命の主体であられる神の真の愛の導きを受け、主管されよう
とする信仰者です。ですから私たちは、今まで神のみ旨と法と日を守り、神の前にすべての条件を守る
ことを生命視してきました。しかし多くの人たちは、神によって生きたいと思って信じているけれど
も、なかなか不義の勢力から解放されないでいます。神に主管されることは、そう簡単でないというこ
とです。

信じるという名のもとで神に主管されることや、神に直接干渉されることが容易なことでないこと
は、召命された私たちが神の命令にためらう時が多いのを見て、よく分かります。

アブラハムがゲラルに行った時のことです。アブラハムは自分の妻サラを妹だと言い、またサラは
アブラハムを兄だと言いました。それでゲラルの主アビメレクは、サラを自分の宮廷に召し入れまし
た。ところが、夢で神にとがめられ、これはどうしたことかと、とても驚きました。あとでアブラハムと
サラが夫婦であることが分かり、財物と奴隷を与え、送り返したという出来事を見る時、天が干渉でき
ない人がいる反面、アブラハムとサラのような人には干渉されたということが分かります。

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神が直接干渉された理由は、アブラハムの信仰も良く、サラの信仰も良く、またアビメレクも称賛す
るに値する人物だったからです。神がアビメレクに「あなたは召し入れたあの女のゆえに死ななけれ
ばならない」と言うと、アビメレクは驚いて、
「主よ、あなたは正しい民でも殺されるのですか。彼は わ
たしに、これはわたしの妹ですと言ったではありませんか。また彼女も自分で、彼はわたしの兄ですと
言いました。わたしは心も清く、手もいさぎよく、このことをしました」と答えました。神が再び、
「あ な
たが清い心をもってこのことをしたのを知っていたから、わたしもあなたを守って、わたしに対して
罪を犯させない」と言われました。罪を犯さないように守ったというのは、そのように清い心と潔い手
を天が知っていたということです。

今は信仰の結実する時

信仰する私たちはみな、一日も早く願わない不義の世界、サタン主管圏内から抜け出し、神にだけ主
管され、神にだけ干渉されたいと願います。

ところがこの聖句にあるように、干渉される神ではあるけれど、復活の途上にある私たちは実際に
神と話し合っているのでしょうか?神は私たちをして罪を犯さないようにする父ですが、そのような
神に干渉され、導かれ、直接に善悪の決裁を受けて生きる私たちなのかというのが問題です。正しいこ
と、間違ったことをはっきりと知って生きている私たちなのかを反省してみようと思います。

今日私たちは信じるという名だけをもって、ただ信じるふりをして、内的には神と直接的な関係は
なく、あいまいに生きる時がとても多いことをよく知っています。神を中心に生きるといいながら、実
際はそうできない時が多いことを私たちは悔い改めなければならないと思います。

信じるという口実をもって、自分自身を自らだましていることが多いのです。イスラエル人は、自分
たちが選民だと思いながらも、神の前に罰を受けました。すべての儀式を生命視するようでありなが
らも、実際は神が干渉できない民族だったということを、復帰摂理歴史を通してよく知っています。

復帰摂理歴史に現れた人物たちの中では、神が干渉できなかった人と、直接干渉された人がいまし
た。そう見ると私たちもこのまま生きていては神のとがめを受けるようになることも知らず、神と相
談しないで、自分の考えや事情のままにだけ生きている場合がとても多いのです。そうでありながら
も自ら信仰者だと思っているという事実を認めないわけにはいきません。

今は他の人が復活したと喜んでいるのでなく、私たち各自が主の復活を自分たちの生活の中で証さ
なければならない時であり、また信じることだけをする時ではなく、信仰の結実をしなければならな
い時です。このような結実の時に、神を父と信じ侍っている子女の立場がどのような立場なのかを、も
う少し明確にしなければならないと思います。

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従来の信仰形態は、私たちが天の事情を知らず、自分の荷が重くて信じた信仰であり、自分が悲しく
て信じた信仰でした。神が、そのような信仰をかわいそうに思って対してくださったので、聖霊を受け、
預言するなど霊的経験をすることができました。

しかしそれは、自分の事情が苦しくて天と因縁を結んだ経験にしかすぎない信仰であり、天が信じ
られる立場で天と関係を結ぶことができなかった従来の信仰であることを知っています。

エデンの園で、エバが堕落する時に神は干渉できなかったことを知っています。堕落した父母でさ
え自分の子供が間違ったことをするのではないかといちいち干渉し、どこかに行くといえば必ず尋ね、
悪い所なら無理やりにでも行かせず、間違ったことをしないように気遣います。それなのに、エデンの
園のアダムとエバは罪もない、神ご自身の息子、娘であるのに、取って食べると死ぬということを知り
ながらも、どうして神は干渉できなかったのでしょうか。その時神は知らなかったのでしょうか。知っ
ていたなら、堕落した父母でさえ自分の子供が間違ったことをしないようにしたりするのに、愛の神
が堕落するのを見ていただけなのでしょうか。これが今日まで、神学的に解明されていない大きな問
題だったのです。私たちは原理を通して、神がアダムとエバの堕落行為に干渉できなかった詳しい理
由を知っているはずです。

神はなぜ干渉できないのか

では、私たちの中で、いまだ神と関係が結ばれていない人はどんな人なのかを考えてみましょう。

神は私たちの父であり、愛の主体者なので、すべての人間が堕落した祖先の後孫となったことを悔
しく、かわいそうに思いながら、いかにしてでもご自身の主管圏内に救おうとされる方です。甚だしく
はご自身のひとり子イエス様を十字架につけてまでも、堕落した後孫をご自身の絶対的な主管圏内に
再び取り戻そうとされたのです。

ではそのような出来事が、どういうわけで起こったのかが大きく問題視されなければならないと思
います。このような事情を知ってみると、今日の私たちの信仰においても、あいまいに自分をほうって
おかないで、もう少し転換された姿勢で信仰しなければならないと思われます。

神を私たちは父母だといいます。聖書にも「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石
を与える者があろうか。魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。このように、あなたがたは悪い
者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがた
の父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」(マタイ七・9~11)という聖
句があります。これほどまでに神は私たちを子供と思われ、ご自身が創造されたみ意もって、私たちに
対そうとする父母の心情をもった方だということを、私たちはまず心に刻まなければなりません。神

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はそのような方だということをまず知らなければならないのです。

ところで、なぜ干渉できないのでしょうか。父母であり、絶対的な創造主であり、そのように全能な
方が、なぜ人間が罪悪の中で苦しむのを救い出すことができず、また、信じ従おうと努力しても、み言
を語れなかったのでしょうか。

さらにイエス様の弟子たちが迫害を共に受け、さらには、イエス様の前に来て、み言を聞いただけで
も、
「ナザレ人のイエスとその群れ」と言われ、社会から追われ、頼るところもなかったのに、その弟 子
たちにイエス様がこの世に来た目的について一言も語れなかったのでしょうか。そのように妻子と職
業を捨て、主に従う弟子たちに、この地に来た目的を語れなかったイエス様だったとは、驚くべきこと
です。どうしてそんなことがありえるのかというのです。

ある金持ちの青年が「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」(マタイ一九・
20)と質問したように、私たちも神のみ言どおりすべてなしたと思っています。しかし私たちは、神が
地上の人間を、ご自身の息子、娘と思っていながらも、まだ私たちの生活を直接干渉できずにおられる
ということが分かります。

神が人間の堕落行為に干渉できなかった原理的な三つの理由を見ると、第一に、創造原理の絶対性
と完全無欠性のために干渉できませんでした。第二に、神は人間を万物の主管位に立たせるために干
渉されませんでした。第三に、神のみ創造主であらせられるために、人間の非原理的な行動に干渉され
なかったとあります。創造原理によると、神はご自身が創造されたものだけに対される方なので、干渉
されなかったとなっています。理解するのが難しいみ言ですが、神だけが創造主なので、サタンが対す
ることのできる条件のあるものには干渉できません。

堕落した父母は、自分がさせなかったことを子供がすると、無理にでも干渉します。自分の主管圏内
にいる子供を殴ってでも、強制的にできないようにするのに、神はご自身が「するな」と言ったのにす
ることに対しては干渉されないのです。このように干渉できなかった神の心を考えてみても、エバの
堕落を知りながらも、どうして冷静に人間をほうっておくことができたのかと疑問を抱くこともでき
ます。

今日、堕落した父母が自分の子供に対して「するな」と言ったのにするのを見て、無理やりに抑圧し
てでもできないようにするように、神も干渉されるだろうと簡単に考えます。神を知らないのでそう
考えるのです。私たちは神が絶対者なので原理でない非原理的な行動は干渉できないことを聞いても、
それに対して何か実感がわかないので、生活があいまいになります。

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神は共にあってモーセに命令した

私たちは今、家庭教会活動を通して神の命令を受けて家庭を訪ねていきます。家庭教会活動は、神か
ら絶対的な保証を受けてしなければなりません。神はモーセをエジプトに送っておいて、モーセにだ
けみ旨をさせたのではなく、神が共にされました。神の命令を受けて行ったモーセは影法師として行
ったといえます。私たちも家庭教会活動をしながら神がどうされるか見よう、神が共にされるかを見
ようと試してみることができます。普通、神が共にいなくてもそれをそうしようとしているのにと、神
に抗議もしません。しかし抗議しなければなりません。
「神様、私は神様が行きなさいと言われたの で
行きました。それなのにどうして彼らはあのような態度を取るのですか」と。信仰姿勢がこうなってこ
そ、神と相対基準を結ぶことができ、神のみ旨を成せると思います。ところが、伝道に出てみても駄目
だ、行っても歓迎されないのは知れたことだと考えます。

モーセも、パロ王の前に行っても絶対に自分の言うことを聞かないだろうとあらかじめ知っていま
した(出エジプト記四・1)。しかし神は、
「私が共にいるから行きなさい」とモーセに前もって言いま し
た。神は、モーセが行って奇跡を見せても、パロ王はそう簡単に解放してくれないだろう、
「私がパロ 王
をかたくなにする」とまで言いました。それでパロは降伏してもかたくなになり、解放してやると言っ
てもしてくれず、そのようなことを何度も繰り返しました。このようなことをモーセ路程で見せてく
れたのは、将来天の側の民が戻ってきて、神と共にこの地の暗さを征服しなければならないことを前
もって見せてくれたのだといえます。

今日私たちは、神が干渉できずにいるということを、重大に思わなければなりません。

神は私たちになぜ相対してくれないのか

私たちは神の子女だと自称しているなら、神が私と共にみ旨をなしてくださるように談判しなけれ
ばなりません。過去にモーセやあるいはヨセフと共にいた神が、今日私たちと共にいないのでしょう
か。神が変わったとはいえません。神は永遠な方です。神は過去にも原理的であり、今も原理的です。過
去にも絶対的であり、今も絶尉的です。こう信じなければなりません。

私たちは少しずつ神が変わったようだと思う時があります。過去には強く出たのに、最近はなぜ強
く出てこられないのかと思うことがあります。何を見て分かるのかというと、昔は統一教会に来て恵
みを受けると、み旨に対する一大革命が起きたのに、今は原理を聞いても家に帰って寝て、お金を稼い
でというように、み言をほうっておくのを見ると、神は最近変わったと思いやすいのです。

十年前でもみ言を聞くと徹夜祈祷もし、慟哭もしながら自分の家に帰れず、友達の家を訪ねたりし
ました。そうかと思えば、自分が信じていた教会の牧師を連れて来ようともしました。ところが最近の

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人たちの信仰する姿勢を見る時、神が変わったともいえるけれども、神は変わっていないと見なけれ
ばなりません。むしろ昔の人たちのみ旨に対する基準に比べて、最近の人たちの基準が変わったと見
なければなりません。

昔も今も変わらない神なのに、今日の人たちをおいて、神は変われるでしょうか。神の心情は変わら
ないと見なければなりません。父母に孝行する心、兄弟を愛する心、自分を愛する心は昔も今も変わっ
ていないといえます。

それなら自分を愛することより、公的なことをさらに愛せば、神が対してくれるようになっている
ことを私たちは学び、経験しています。神はイスラエル選民を火の柱と雲の柱で導き、戒められたのに、
なぜ途中でほうっておいたかというと、それはエホバの神が選民から去ったと言った時でした (民数
記十四・34)。外的に物事をする時、十分の一献金をささげながらも、ささげたくてささげるのではな
く、仕方なくささげる時、また羊をささげよといわれたので常に醜い羊やびっこの羊を供え物として
ささげた時、神が全く現れなかったのです。祭壇に来て儀式を守りながらも、心情があふれてしたこと
ではなく、祖先たちが守った伝統なので仕方なく守った時には、神が全く現れませんでした。

この聖句にも、あなたが清い心をもっているので、罪を犯させないようにしたとあります。この聖句
は、昔も今も愛の基準、愛着心の基準に従って対されるということです。以前は干渉された神が干渉さ
れないようになるのは、人間の愛の基準があいまいになったためだといえます。神が変わっていない
とすると、地上の信仰者たちが変わったという責任を感じなければなりません。

神の干渉を受けられない理由

では、どのように変わったのか。
「公的な愛着心」が低くなったといえます。言い換えると、み旨を 慕
う心が流れたといえます。信仰生命が病にかかったといえます。二人の主人に対しているので神が相
対できないことが分かります。

アブラハムはいつも神と対話しながら関係を結んで、あなたの後孫を天の星のように、地の砂のよ
うに増やすように祝福するから、三つの祭物を供えなさいというみ言を聞きました。そのような宇宙
的な祝福の祭壇に、鳩一羽を裂かずにささげたので、時間が過ぎて夜遅くなってもエホバは現れませ
んでした。それを、もう一方で考えると、神は気まぐれ屋のように思えます。供え物を準備して供えれ
ば、必ず来て受けるかのように約束したのに、供えたのに全く神が現れなかったということになりま
す。

それは天だけが対することのできる供え物でなく、サタンも対することのできる供え物だったので、
神は、その祭壇に現れられなかったということを、私たちは知ることができます。そういうことを見る

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と、サタンの干渉は受けているのに、神の干渉は全く受けられない理由は、この世と天の両方に仕える
ためだと考えるしかありません。二人の主人が対することができるように信じているためだと考えら
れます。一人の主人だけが対することができるように信じなければなりません。神だけが対すること
のできる基準を立てて信仰しなければなりません。

信仰者たちがこれをはっきりと知っていけば、疲れもせず、どんなことがあっても神による生活を
続けられるのです。おなかがすいている時、御飯を慕うことより神が願うことをさらに慕い、衣・食・
住よりもみ旨に対する愛着心をさらにもてば、神が対することができます。

イエス路程で見ると、自分の信仰、自分の事情のために、切実に訪ねてきた人たちに、イエス様は「あ
なたの信仰があなたを救ったのです」(マルコ五・34)と言われました。自分の事情にとらわれていた
らい病患者たちが、主の衣を一度触りさえすれば治ると聞き、絶望するしかない状況においてイエス
様お一人を通して生きる道があると考えたので、心情の愛着心が高くなりました。その人たちは、愛着
心も高く、信仰が絶対的であったといえます。

イエス様がある人に、
「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」と言われ た
「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます 」(マ
時、
タイニ五.26、27)と言いながら、自分の事情を成すために、冷たくあしらわれても飛びついてきたのを
見て、称賛したけれども、神のためにそのように信じる信者に会えなかったイエス様は寂しく、相対を
もてなかったのです。その時「あなたの願いどおりになるように」と言われたので、戻ると病が治って
いました。ところがそのような人たちは去っていきました。イエス様の前に来て、そのように哀願した
人たちは自分の目的を成すと、あいさつもせず行ってしまいました。

最近の人たちは昔の人よりさらにそうだと思います。自分の事情が差し迫っている時には、とても
切に信じます。ところが自分の事情が差し迫ってもった信仰は、自分の信仰にはなりえますが、天を信
じる信仰、主体者に対する信仰ではないのです。自分の事情が楽であれば神の事情を心配する者がい
ないとは、気の毒なことです。私たちは肉身を使っているから、自分がおなかがすいて不安になれば天
の事情が分かるけれども、自分がおなか一杯になり安定すれば、神の悲しみがこの地にいっぱい満ち
ていても、感じられず、途中でやめてしまう例を信仰者の路程で見ることができます。

善霊人たちは相対できず嘆息している

私たちの多くは、信仰上、病にかかっていると思われます。今日神の干渉を受けているのか、受けて
いないのかによって自分が正常なのか、そうでないのかが分かります。自分が間違えば戒めを受ける
のか受けないのか、また自分が正しいのか正しくないのかを、主体者によって確定されたという事実
がなければならないのではないかということです。神は生きている方です。私たちは死んだ神を信じ

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ているのではないかを、よく考えてみなければなりません。神に侍っていると言いながらも、神の直接
的な干渉や主管がなく、戒めもないなら、どういうわけなのだろうかを各個人が問題視しなければな
らないと思います。

ところで、霊界にいる善霊人たちは私たちに相対できず嘆息しています。地上にいる信仰者たちが
仰ぎ見れば積極性をもって協助するのに、地上にいる人の中で仰ぎ見る人がいなくて、協助しように
もできないというのが霊界にいる聖徒たちの嘆息です。これは地上でも同じです。

私たちも原理を聞いて伝道しに行き、各家庭を訪ねながら、嘆息することが多かったのです。なぜな
ら原理について討論したがる人に会うのが難しいからです。そして聖書のみ言をもって心配する人が
いません。一軒一軒訪ねていっても、
「私たちは信仰しているので、信仰してない家にでも行ってく だ
さい」と言いながら、門をばたんと閉めてしまいます。これは本当に心苦しいことです。聖書をつかん
で神のみ旨を知ろうという人に会いに行ったのに、私たちは信じているので訪ねてこないでください
と言われれば、どうすればいいのでしょうか。私たちが協助してあげようと訪ねていったのに、何も言
えず、戻ってくるのと、霊界にいる聖徒たちが地上に訪ねてきて、協助しようとするのにできないのと、
立場が同じであることが分かります。

それではどうすれば神の干渉を受けられるのでしょうか?初めて教会に来た人たちは聖日を犯せば、
天が少し干渉してくれます。聖日を守れば、その条件によって一週間の間天を慕う心が保たれます。と
ころが聖日に礼拝を受けに来なかったということは、自分の事情で忙しかったということです。礼拝
を受けに来ることより、神がさらに願うことをするなら何ともないのですが、礼拝を受けることより、
さらに神の前に誇れる生活ができない時には条件に引っかかるようになるのです。そのような人は必
ず、教会に通いながら、教会のためにしようとした条件によって戒めを与えてくれます。しかしその条
件がみななくなってしまうと、ほうっておかれます。これを知らなければなりません。

戒めを受ける人は、それでも何かみ旨のために公的に立てた実績があるので、神が愛しているとい
う証です。そのような人は、神がほうっておけないのです。

何か信じようという心があり、また実績がある人には天が干渉してくれます。ところが干渉したの
に理解できなければ、ほうっておきます。ほうってしまえば今まで聖霊が協助していたのに、その時か
ら協助しなくなるので霊界の階級が低くなります。それで根のない木のように時がたてばたつほど心
霊が渇き、家庭の運勢が少しずつ下がっていくようになります。

長成期の人が神の干渉を受けるには

個人や家庭、社会、国家がみなそうなるようになっています。蘇生期の人を干渉する時は、条件によ

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って干渉されるのです。その次の長成期の人は、主体者の事情を中心に干渉されます。神の真情を知り、
公的な目的のために生きようと出発した以上、父の事情を中心に息子として責任を果たさなければな
らないという方向性をもっている長成期の人たちは、どのように干渉されるのでしょうか?このよう
な人たちは礼拝を受けに来なくても直接干渉されません。それは、自分の心霊状態が影の下に入るこ
とは自分で自覚するようになるからです。そして公的な事情をもった人は、その事情を繁殖してこそ
心霊が豊かになるようになっているからです。公的事情を抱き、その事情を授け受けできなければ自
分の信仰が重苦しくなります。

私たちはみ言を通して神の事情を知りました。しかし、神の事情を知りながらも、その事情を解決し
てさしあげるために努力できないでいると、自分の心霊が重苦しくなります。神の事情を知りながら、
それを解怨してあげられない時、暗やみの中に入らなければ統一教会は偽りの教会だということにな
るでしょう。

神は努力しない者はほうっておきます。ですから自分の心霊がそわそわして、暗やみに覆われて豊
かでなくなります。そうなるともちろん何の啓示もなくなります。父母の苦しい事情を知る人は、神の
事情を知るようになります。神は本当に悲しんでおられる方であり、切ない方だということを知るよ
うになるというのです。

神は現代の地上の人間の生活を見られて喜ばれるでしょうか。悲しまれるでしょうか。神は高層ビ
ルを建て、自動車が多くなるのを見て、
「イエス様はこの地に来てろばに乗っていたのに、最近の子 供
たちは自動車に乗っているので微笑ましい」と思われる方ではありません。

今日この場に参席している皆さんは、神は悲しい方であることをよく知っています。そのような神
の事情を知る人は、神のような悲しみの立場を決して離れられないでしょう。悲しい感情から抜け出
られないことでしょう。このように長成期の信仰者たちは神の事情を知っている人であり、イエス様
の悲しみを知っている人たちです。神、すなわち父の事情を知らずに生きる人々のゆえに神は悲しま
れるというのです。

神の悲しみを抱いて家庭を訪問しよう

さあ、それでは私たちはどうしなければなりませんか。神の悲しい心情にこたえて家庭訪問をしな
ければなりません。そして神が果たして共にいるのかいないのかを試してみなければなりません。そ
れにこたえてくれないならば、神は偽りの神になるのです。神ご自身の悲しみを抱き、この家あの家と
訪ねるならば、霊界では黙っていません。もし黙っているなら、霊界には地上で無念な思いを抱いて生
きて死んで行った霊人たちが限りなく多いということもうそになります。地上で肉身をもった人間が
創造主のやるせないみ意を抱き、この家あの家と訪ねながら、そのやるせない事情を解怨してあげる

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ため対話しようと訪ねていったのに、無知な民が冷遇するので、さらに神の悲しみが込み上げてきて、
涙を流して帰る時、その涙を神が知らないふりをするなら、神はいないと見なければなりません。

私たちが家庭教会活動をしながら冷遇されればされるほど、恵みを受けるようになっています。歓
迎される所ではなく、冷遇される所で神の心情が相続されるのです。冷遇されるのが嫌だという人は、
いまだに二人の主人に対する人だという事実を明確に知っておかなければなりません。嫌だというの
を神の悲しみとして受け取ることのできる人が、天の相対される人です。

イエス様は、どんな方ですか。悔しいことに出遭い、追われながらも地上の人をつかんで哀願しなが
ら、
「神がそれでも人類をご自身の子供として救おうとされる」という事情に慟哭したイエス様の心 を
見て、神は一番信じられる「私のひとり子」だと言われませんでしたか。

それでは、信じられない人とは、どんな人ですか。いいことだけ好む人を、信じられない人だという
ことができます。初めてここに来た人たちは、このようなことを聞くと理解しがたいかもしれません。

子供を抱える父母は自分の子供に、自分がいい、あるいは悪いと言えず、かんしゃくを起こせません。
子供たちの悪いこと、悲しみや苦しみを父母がみな負おうとするのが真の父母です。反対に子供は物
心がつくと、いいことだけを好むことができなくなります。その理由は、父母を喜ばせられなかったか
らです。父母が自分たちを育てながら、貧しく、悲しく、迫害を受けた過去があれば、その子供たちは父
母の悲しみを解怨してさしあげる時まで、自分によいことだけを好むことはできないのです。父母の
悲しみがまだ残っているのに、もつばら自分の思いで好むのは、物心のついていない子供です。自分を
中心に喜ぶ人は、父母を知らない人だということになります。

今の時は家庭教会活動を通して、私たちの雰囲気に火がつかなければならない時です。教会に来て
恵みを受けるのではなく、自分が受け持った家庭教会の任地で、神の事情を知り、恵みを受けなければ
ならないのです。そして教会に通っていて、私たち各自の家庭に難しいことがあれば、私にもう少し神
の事情を分かるようにさせようというみ意があるのだと、受け取らなければなりません。絶対に難し
いとか、十字架だとか考えないでください。心霊を豊かにするために、対象と共にみ言によって授け受
けする授受作用をしていけば、神が干渉して私たちの心霊を育ててくださいます。霊界にいる数多く
の聖霊たちが、私たちを分担して見ています。ところが、あいまいなので、ほうっておくように感じら
れますが、もう少し積極性をもてば、背後に天との関係を必ず体験するようになります。

神は地上にみ旨を成すことを目的に摂理されるので、この地で、ご自身の事情のために心情の基台
を築いてきた人物を土台として、み旨をされようとする原則が分かります。そうして今は、自分たちの
善悪に対する干渉をさらに受けなければならない時だということが原理的に分かれば、自分の生活を
あいまいにほうっておけないというのです。自分を自らだまさず、私を自らほうっておくなというの

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です。

神は涙と実績ある人に干渉される

今や私の生活に神が干渉してくださるかどうか試してみなければなりません。果たして神が私たち
一人一人に干渉してくださるのかを試してみましょう。それでも干渉してくださらないのなら、神が
正しくないのか、私が干渉を受けることのできない人でしかないのか、分別しながら生きなければな
りません。そして神が昔も今も変わらない方だということをはっきり知って、神を自分の父にする責
任が各自にあります。

私が神を父だといえる実績があれば、私は神の子供になれるし、父といえる実績がなければ私は神
のものだといえません。神が私の父になるのか、ならないのかは、各自が生活の中で成し遂げるべき責
任いかんにかかっているのです。

ですから蘇生期の人は、条件を厳守しながら、神が私と共にいることを感じなければなりません。平
素の生活で責任を果たせば、神も干渉してくださいます。アブラハムは神から召命を受けた時、神に対
する慕わしさの基準が高かったので、目的地も分からないのに「はい」と言って出かけていったのです。
そう解釈しなければなりません。アブラハムが神のことを考えてもいなければ、「アブラハム よ!お前
の妻とおいを連れてお前の家から出なさい」と神が呼ばれたとしても、すぐには応じられないという
のです。

神は愛なので、絶対に強制的に主管できません。心情的な基準が高まってこそ主管されます。すなわ
ち、公的な実績と涙がある人に干渉するというのが、神が立てられた原則です。そうなので、人を通し
て多くの情の基台を築いて高まらなければなりません。そうすれば、自分が誤っても神は責任をもっ
て訪ねてきてくださるようになっています。それは原理のどこででも見いだすことのできるみ言です。
この家、あの家と訪ねながら、人の悲しみを通して神の悲しみをたくさん感じるならば、その基台が実
績となって実を結ぶ時が来ることになります。

神は今働かれる時です。神が聖霊を動員して、み旨をされる時なので、地上でアンテナ(愛着心)が高
い人物が現れさえすれば、審判を下そうとされるのです。このように終わりの日に、この地の聖徒たち
と共に、審判の権勢を行使される時が来たのに、相対できる人物が現れないので、どれほど嘆息してお
られることでしょうか。

私たちは神に干渉されなければなりません。神は私たちと共に、み旨をしようとされています。モー
セをエジプトに送る時、神が共にいると約束されました。アブラハムを呼ばれる時にも、神は共にみ旨
をなすと言われました。ヨセフをエジプトに送った時にも、神は直接的な計画があってヨセフをして、

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獄中を経るようにされたのです。

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