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神のみ業をしなさい

一九八○年七月

イエスが道をとおっておられるとき、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ね
て言った、
「先生、この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか 、
それともその両親ですか」。イエスは答えられた、
「本人が罪を犯したのでもなく、また、その 両
親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。わたしたちは、わたし
をつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けな
くなる。わたしは、この世にいる問は、世の光である」。イエスはそう言って、地につばきをし 、
そのつばきでどろをつくり、そのどろを盲入の目に塗って言われた、
「シロア ム(つかわされた
者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰
って行った。

ヨハネ福音書第九章 1~7 節

きょうこの時間には、拝読した聖句の中の「イエスは答えられた、
『本人が罪を犯したのでもなく、ま
た、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである』」という聖句を中 心
にして、神が働けるようにしようという意味を込めて、
「神のみ業をしなさい」という題目でもって お
話ししようと思います。

み言を聞いて目が開いたか

神はみ業をされようとする時、それをする対象を探されるというのです。ここで神と関係したこと、
すなわち私たちが伝道するとか、神のみ業をするとかいえば、まるで自分がそのみ業をするかのよう
に錯覚しますが、実は、神がみ業をできるようにしてさしあげようとする信仰姿勢が正常だというの
です。

少しこの聖句について説明すると、生まれつき盲人である人が、多くの人が出入りする礼拝堂で同
情を求めながら座っていたのですが、イエス様が弟子たちと共にその礼拝堂に入っていこうとされま
した。その時に「あの人はなぜ生まれつき盲人なのですか」という弟子たちの質問にイエス様は、
「本 人
の罪でもなく両親の罪でもない、彼を通して神のみ業を現すためである」と答えられました。

弟子たちは、あの人は目が見えないで何ができるだろうか、なぜあのように生まれつき盲人になっ
たのかという疑惑ゆえに、どのように見ればいいのか分かりませんでした。ところがイエス様は神の
み業を現すための存在と見られました。

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そして続けて、
「わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない」と言われ、つ ば
きで泥を作り、その泥を盲人の目に塗って、
「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われました。そ の
み言どおり盲人がシロアムの池に行って洗うと、目が見えるようになったという内容です。

あとの聖句を通して、イエス様は目が見えるすべての人々を、実はあの目が見えない人にも劣ると
見られたということが分かります。イエス様は人間を目の開いた盲人と見ました。神の霊に通じた目
で見るなら、今日私たち堕落した人間は、盲人だと見ることができるでしょう。

そのように見る時、盲人になった人間を再び探さなければならない、救わなければならないという
神のみ業というのは、本来の人間を取り戻すこと、生き返らせること、あるいは復活摂理をすること、
復帰摂理をすることだと、原理的に見ることができます。この盲人にも神は働こうとされたみ意を現
されました。

その次の聖句を見ると、泥を塗られた目を自らシロアムの池に行って洗わなければならない盲人の
責任があります。盲人がしなければならない責任、これは我々正常人には理解できないことです。つば
きで作った泥を塗ってくれるというので、そうしてくださいと言って、そのまま信じて座っているこ
とも理解できないことであり、盲人が池に行くということもそうです。盲人は杖で固い地面だけを選
んで歩くのに、池に行きなさいということはどれほど嫌なことだったでしょう。ところが池に行きな
さいというみ言に従順に従って行って洗うと、目が見えるようになったというのです。

これもまた、神霊のみ業として解釈すると盲人である私たちが目が開いて見えるようになるために
神が今み業をされているのに、果たして私たちは神のみ言を聞いて目が見えるようになったのかとい
うことを、一度考えてみるべきだと思います。

すべての被造物は神のみ業をしているといえます。すべての万物が神がつくった本質どおり、実を
結ぶならば、それがすなわち神のみ業をなしたことになります。例えばぶどうの木、あるいはりんごの
木がよく育って主人に真なる実を結ぶのなら、その木は主人の業をしている木だと見ることができる
のではないでしょうか?

同じように神に創造された人間は、自分が本然の人間として立派に育ち、命の木を完成させ、本来の
人間にならなければならないことを知ることができます。ですから今日、神が本来創造された人にな
るのが私たち人間の責任であり、神のみ業をすることになるのです。

神のみ業とは

神はその盲人を立派だと見ました。目が見える人よりさらに喜ばしい存在と見ました。それは聖句

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の中の「昼」という言葉の中に見いだすことができます。昼というのは主の前に喜んで従順に従える人
に会ったということです。夜というのは主体と対象が授け受けすることができないので重苦しく暗く、
暗黒が満ちているということです。言い換えれば、主が来ても見分けられない人間の世界が「夜」とい
うことでしょう。奇跡を見せても分からないというのです。全く受け入れない状態をいいます。

ところで聖句で、盲人を見たイエス様が「わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければ
ならない」と、このように言われたのを見ると、イエス様はその盲人の心を既に透視していたように思
えます。あなた方は目が見えても私のことが分からないけれど、目の見えない盲人は、私を知っている
ということなのです。

私が初めてこの聖句を見た時は、なぜ盲人をおいて昼だ、夜だと言われたのか分からなかったので
すが、のちにイエス様に喜んで従順に従えるその盲人の心霊を見て、このように喜ばれたのだと分か
りました。

盲人の求めるお金をあげるのではなく、つばきで泥を作り目に塗ってあげるとは、普通の人も嫌が
ることであり、さらに盲人が池まで行くのは嫌なことです。ところが聖書でその盲人がそのまま黙っ
ていたということが分かります。信じられないことをされるのに、従順に従ったという事実を見ると、
その盲人は主体者を見分けることができたといえます。

この復帰摂理の時に、あるいは救いの時に新生するということは、信じられないことに従順に従う
ことによって復活することです。この場面だけでなく、今日この蕩減復帰の時にも私たちは信じられ
ないことを信じて救いを得るようになっています。

聖書にある「死なんとする者は生きる」

「十字架を負うて私に従ってきなさい」

「滅びんとする者 は
興る」というみ言は全部が信じられないみ言ではありませんか。
「悲しんでいる人たちは、さいわい で
ある」
、「飢えかわいている人たちは、さいわいである」というみ言も、全部信じられないみ言です 。

信じられないことは別として、聖書は今日この世の人たちの考えとは正反対です。盲人に薬を塗っ
てあげても治るか治らないか信じられないのに、つばきで泥を作って目に塗るとは、いたずらのよう
な出来事です。イエス様は別のところでは患者たちに「病が治りたいのか」と尋ねもしたのに、ここで
は尋ねることさえされませんでした。何も言いませんでした。それだけ見ても、その盲人の内なる人が、
とても清かったといえます。目が見えないので手を出して物請いしていたけれども、その内なる人は
目が見える人よりはるかに主と相通じることのできる生命の所有者として、美と純真さをもっていた
に違いないと思います。

目が見えない者に泥を塗ったのですが、何も言わず従順に従い、シロアムの池に行きなさいと言わ

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れたのですぐに池に行ったのを見ると、これは既に内なる人と内なる人が通じていたと思われます。
そうでなければ、どうしてそのような行動ができるでしょうか。盲人が池に行くのは大変な冒険だと
いえるからです。

このようなことを見る時、今日復帰摂理はめくらになった私たちを、目が見えるようにしようと、様々
な逆境を越えさせるのだと思われます。今まで私たちが積んできた道は、本当に他の人が行かない道
であり、他の人が滅ぶという道であり、愚かだという道であり、狂ったという道でした。このような道
を歩んできながら、それなりに真の価値を悟り、言葉では表現できず、説明できない、受けた者にしか
分からない真なるみ言の生命を得ることを経験したように、盲人が池にすぐに行ったということは、
心の中に説明できない何かを得たのだと思います。

そのように、冒険するだけのある霊的な力を得たに違いないと思います。そのような視点から見る
時、その盲人は神のみ業をしたといえるでしょう。神のみ業とは何かというと、主体者を見分け、時を
知ることです。

信仰者の責任とは

農夫は春になると畑に行って種を蒔くのですが、それは農夫の仕事のようであるけれど、神のみ業
です。農作業することは農夫だけがするのではなく、神がされるみ業に時を合わせただけです。農夫が
時に従って種を蒔けば神が芽を出させ、育つようにし、そしてまた農夫は時に合わせて刈り入れをす
るのです。これは神がされるみ業を共にすることではありませんか。

今日、我々信仰者もそうです。信仰者の責任は、神がみ業をなすことができるように協助するところ
にあります。目が見えず座っている人を目が見えるようにすることが、神がされようとするみ業なら
ば、この人がシロアムの池に行って洗いなさいと言うとおり洗い、塗ってくれるままに従順に従った
ことが、この盲人としては神がされるみ業を共にしたということになります。この盲人には自分とい
う思いがありませんでした。愚鈍になれと言われれば愚鈍になり、間抜けになれと言われれば間抜け
になるのです。

「お金を下さいという人にはお金でもあげるものなのに、私の目になぜどろを塗るのか」と不平を言
うことはできなかったでしょうか?しかし彼の中に自分がなかったということを見ると、既にイエス
様との間が相当な感銘と恵みで結ばれていたと見ることができます。それがなかったなら従順に従え
なかったでしょう。さあそれでは聖句についてはこれぐらいにして、私たちの生活について考えてみ
ましよう。

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主の命令に生きれば目が開く

今日私たちが一番嫌がることは何ですか?人々は静かに座って生活しているのに、
「立って出かけ よ
う」

「ふろしきを包もう」という言葉を聞くのを一番嫌がります。イスラエル民族が出エジプトする 時、
「ふろしきを包もう」

「出かけよう」と言うと、みな不平を言いました。盤石から水を得た時とか、天 幕
を張って休んでいる時ごとに「もうちょっと休みましょう」

「もう少したってから行きましょう」と 言
うことが多かったのです。

今日の皆さんも、今まで第一次七年路程、第二次七年路程を過ぎて第三次七年路程に入って、先生が
天国実現という標語を下さるので、
「今や天国が来たのか、家でも建てよう、ふろしきを包む心配が な
いので、これからは子供も生んで育て、学校に通わせ、楽に休もう……!」、こう思っているのに、天か ら
「目的地がまだ遠いのでさらに行こう」という命令が下りました。「神様、どうしてそっと し

ておかないで苦しめるのですか」このように不平を言うかもしれませんが、そっとしておくと目が
見えるようにならないからです、そっとしておくとただこの世の人と同じように、めくらそのままで
座って食べて、生きることしか知らないからです。あなたたちはそのために生まれた人ではなく、また
目の前に見える現実の中で平安を見いだすために来た人ではなく、目が見えるようになるためにこの
世に生まれた人なので、肉身を使っている間に目を開けなさいということです。

肉身を使っている間に私たちは、シロアムの池を探して暗くなった目を開けなければならないので
すが、どのようにすれば開けることができるのでしょうか。それは私たちが主の命令を受けた時だけ
可能です。主の命令が下った時が昼だというのです。主が命令をしなければそれは夜であり、主の命令
を受けた時が昼だというのです。これを貴く感じられなければなりません。

主の命令を喜ばなければなりません。神の願いが私に及ぶ時、喜ぶことのできる人になろうという
ことです。恨んだり不平を言いながら行くと目を開けることができません。神が私たちに命令を下さ
れたというのは、神がみ業をなそうとすることなので、喜んで従えば目を開けられるということです。

私たちは、今まで信仰生活をしてきましたが、目を開けられませんでした。それゆえ今、神は私たち
に目を開く法を教えるために新しい命令を下されたと思います。自分が目の見えない盲人だと思われ
るなら、神の命令に喜んで従ってみることです。

原理は主体と対象がよく授け受けすれば力がわき、光になり、喜びになるといっています。ですから、
主体と対象が相対基準を結んだ時を昼ということができます。反対に夜という言葉は、自分がどうや
って生きれば主のみ意どおり生きることなのかよく分からず、
「お父様、どのように生きなければな り
ませんか」と尋ねなければならない時の状況をいいます。どう生きたらいいのか分からない人は夜に

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生きる人であり、命令を受けて生きる人は昼に生きる人です。ですから命令を受けて生きようという
のです。

ところで今回韓国の食口たちには、新しい神の昼が来ました。主の命令が下りました。喜んで従えば
シロアムの池で目を洗うことと同じです。喜んで従ば目を開けられます。神が私をさらに復活させる
ために命令されました。さらに育てるために命令したのです。人の目が暗くなるのは自分の事情、自分
の考えのためです。しかし主の命令に生きれば目が開くということです。命令に生きれば神が主管し
てくれ、神が干渉してくれますが、自分によって生きれば盲人になるのです。

み言の本質を所有した私

今統一教会は目を開けるべき段階に来ています。今や統一食口は手足も体もみな生じたようだけれ
ど、目だけ開けられないのだと思います。大多数の統一教会の食口の考えは完全なようであるけれど
も、目が見えていないと見るのが正しいと思います。それゆえ、この目を開けるために、先生はもう一
度私たちに四十日期間を許されたのだと思います。

私はこのように解釈して、きょう皆さんにお話ししましたが、皆さんは私が自分なりに考えて話し
たことだと思わないで、啓示として受け取ってくだされば幸いです。あまりに長く教会に通った人た
ちは、純粋かつ純真にみ言を受け取りません。そうなると損をします。さあ、今回の期間に皆さんは人
の心配をせず、自分の心配からしましょう。

目を開けることは人にしなさいという前に、自分がまずしなければならないことです。
「伝道がう ま
くいきません。統一教会の食口であることをみな知っているので、全く受け入れてくれません。それで
伝道する力が出ません」と、このように言うのですが、こう考える人たちは間違っています。私たちに
は伝道の結果よりも、私と神との関係がどうなっているのかがより重要な問題だというのです。

泥が問題ではありません。またその人が以前にシロアムの池で顔を洗ったことがないでしょうか。
何度も洗ってみたけれども、行きなさいと言われたので行ったのです。その動機が過去とは違ってい
ます。今行きなさいという人は、過去と違う人です。今行きなさいという人は、私たちに目を開けられ
るみ業をさせようとして、私を通して神のみ業をさせようとして行かせるのです。

これと同じように今まで私たちがみ旨をした期間は罪を清算し、血統的なものと関係を切り、この
世と分別しようと活動した期間、すなわち蕩減期間でした。ところで第三次七年路程に入ってからは
成熟する期間、すなわち結実すべき期間に、子女たちを結実させるために神が命令されたのです。目を
開いて万物を眺め、天地を眺められる人に復活させるために命令する期間です。この期間は前とは全
然違う期間です。

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今回、神学生たちが慶尚北道に動員される時にも「この期間皆さんに神の霊に通じた目を開かせ、ま
た聖霊の証が各所で起こるようになるでしょう」と教育して送りました。以前は迫害を受けに出かけ
ました。絶えず追われ、多くの苦労をしに出かけましたが、今回は神が直接み業をするために私たちを
送ったのです。

皆さんも試してみてください。皆さんの中で献身できる人は一度試してみてください。果たして先
生のみ言が合うのか合わないのか試してみようというのです。イエス様のみ言が合うか合わないか、
シロアムの池に行って洗ってみましょう。洗ったのに目が開かなかったのですがと言いたい人はこの
機会に、果たして私の目を開ける神なのか精誠を尽くして活動してみてください。聖霊が証する神の
み業なのか、活動してみようというのです。

私たちは今の時を結実する時だといいます。結実する時なら、み言を知る私たちが、どうしなければ
ならないのかということをみ言によって探さなければなりません。今私たちはみ言の自分を探してい
ます。今までの自分でなく、み言による自分を、自分自体の内で結実しようとしているのです。ここに
私たちの精誠がさらに集中しなければならないと思います。

み言による私、み言の本質をもった私、み言による感情を所有した私、み言によって復活した私にな
ければならない段階に来ているのです。ですから今回の活動は、背後の世界がとても変わっています。
「天勝日」以降は、霊界が動員されてみ業をしようとする時代になりました。

今まで私たちはサタンと闘う、すなわち分立するみ業をしたけれども、これからは霊界が動員され、
多くの実を結ぼうとする時になったのです。今や私たちもこの時を実現させなければならないと思い
ます。神をしてみ業をできるようにしてさしあげないといけません。自分も行かず、人をも行かせない
ようにする人にならないようにしましょう。

私もイエス様のようになれる

では、どうすれば神が私を踏み台として、私を供え物としてみ業ができるようになるのかというこ
とが問題です。

盲人が目が見えるようになったあとに、うわさが多かったのです。
「あの人はこじきではないか、 ど
うやってあのように変わることができたのだろうか」と、とても多くの人を驚かせました。盲人も、自
分がどうなったのかよく分かりませんでした。目を開けた方がどういう人なのかは分からないけれど、
ただ礼拝堂のこじきだった私の目を開けてくれたと証しました(ヨハネ九・25)。その人がだれなのか
と尋ねられても、「知らない」と言いました。しかしうわさはとても広まりました 。

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今この時はみ言で伝道する時ではなく、人で伝道する時です。み言を宣布して伝道する時ではなく、
人が人を伝道する時なのです。人が変わった姿を見て、うらやましくて来る時だと思います。原理が宣
布されたのち、多くの人々が原理を知りました。多くの人たちが良いことをたくさん言い、多くの人た
ちが良いという方法をみなしてみましたが、結実した人がいません。

今まで多くの人が実際に結実を結べなかったのは、結果として今日まで多くの人をだまし、他人の
救いの道をふさいできた歩みだったからだということを私たちは知らなければなりません。ですから
私たち自身も病気にならなかったか、世俗化しなかったかを顧みなければなりません。

では、だれを基準に立てて見分けるのでしょうか?神のみ言を伝えたイエス様に似なければなりま
せん。他の人たちは、イエス様は聖霊による懐妊で生まれた神の息子なのでイエス様に似ることはで
きないといいますが、私たちの教会では、私たちもイエスのような人になれる、肉身をもったイエスに
ならなければならないといいます。これが今日私たちの教会の決定的なみ言です。

主に似なければならず、ともしびを掲げなければなりません。一言でいうと、白い服を着て、ともし
びを掲げてこそ、天の人だといえるというのです。これこそ今日私たちが自分自体の中で結実するよ
うにしなければならないことです。神の人としてともしびを掲げようということは、目が見えるよう
になるということと同じことになります。

「見える」「見えない人」が入れ替わる 時

それでは、どこで自分が目が開いて見えるようになったことが分かるかが問題になります。私たち
自身が自らを知らなければならないのではないでしょうか。それは信じない家を訪ねてみてこそ分か
ります。今回神学生たちも信じない家を訪ねますが、何というのかというと、
「こんにちは、私を知っ て
いますか?私がこのように訪ねてきたのですが、知りませんか?」というのです。すると、夢で見た人だ
といって入りなさいと歓迎するか、全く知らないと門前払いするかの二種類の家に分かれます。

ある神学生は家に入るや否や、
「こんにちは、私を知りません か?」と言うので、その家の主人が「よく
知りませんけど」と言ったそうです。それでもう一度、
「あなたの家の先祖が動員されなかったので す
か?私を知らないと話にならないのに……」。それでも「知らない」と言うので、
「ああ、ここには本当 に
人の子がまくらするところがないなあ」と言いながら出てきた学生もいます。

去年の冬にも学生たちが多くの経験をしたのですが、今年の夏は、先生が皆さん全員を動員された
ので、喜びながら行きさえすれば目が開いて見えるようになります。行かなければ盲人そのままでい
るしかありません。目が見えるようになるには自分と正反対の人のところに行かなければなりません。
嫌いな人の家を訪ねていってこそ、目が見えるようになります。なぜなら、反対する家や欲深い家では、

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背後の霊がじゃまをするか、教えてあげるかのどちらか一つを選ぶようになっているからです。

以前にも私が本部教会の食口たちに注意したことがありますが、今は私たちが間違えば、かえって
打たれるようになります。統一教会に入ってきて、座って盲人そのままでいたなら、外部から目が開い
て見えるようになって入ってきた人にかえって踏まれるようになっています。「あなたは何年前に 入
ってきたのか。このような者が統一食口なのか」と、こうなります。目が開いて見える人が入ってくる
日には、見えない人は踏まれるようになっているのです。

今や正しく入れ替わるのです。危機に来たということです。ですから早くから統一教会に入ってき
て愛をたくさん受けた人は病気になりやすいのです。なぜ病気になるのかというと、愛の包みに押さ
れて、受けた恵みにこたえられないので、自分にとつて重荷となるしかないのです。これは私が言った
ことではなく、先生のみ言です。私の言葉ではありません。

神がすべてを準備しておられる

時は危機に来ました。重荷になってきたなら、天の恩賜によって圧死せずに、自分の内なる人を健全
に育てるために、神の命令に従順に従ってください。時は昼です。真っ昼間です。今は働く時であり、時
が過ぎれば働かせません。先生はおっしゃらないというのです。しなさいという時が祝福の時です。し
なさいという時、喜んで活動してみてください。

皆さんに信仰の子女三人以上を伝道してきなさいといっても、ああ、どうしたらいいのかと心配し
ないでください。神は準備しておいて、私たちに行きなさいと命じられるのです。神がみな準備してお
いて、行きなさいというのです。皆さんは、行きさえすればいいのです。行かない人は目が見えません。
目を開けることができません。
「行けば会うだろう。行けば、待っているだろう」このように神は準備 し
ておいて、私たちにさせるのです。過去にたくさん経験しませんでしたか。

さあ、この夏、私たちは各自の職場で、また一日に一軒でも知らない家を訪ねてみて、果たして神が
今どのようにみ業をしているかを知りましょう。神は私たちを通してみ業をしようとし、私たちを先
頭に立たせようとするので、私たち各自が、この機会に協助者、すなわち神と共になす者になろうとい
う意味で、この聖句をもってお話ししました。

七月は六月に続いて聖霊に証させようという主題をいつも忘れないように願います。自分一人では
なく、私によって、数多くの背後の霊界が復活し、降りてきて私たちと共にみ業をしようとし、霊界に
いる数多くの聖霊がこの地に来て嘆息しながら失った子女を探そうとするこの時、このような天運を
私たちは一瞬も忘れずに、今回の活動に臨むことを願います。

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