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生きた供え物としてささげよう
生きた供え物としてささげよう
一九八○年二月十七日本部教会
ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。
「だれが、主の心を知っていたか。
だれが、主の計画にあずかったか。
また、だれが、まず主に与えて、
その報いを受けるであろうか」 。
万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、ア
ァメン。
兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだ
を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的
な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによっ
て、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、
わきまえ知るべきである。
ローマ人への手紙第=章 33~第一二章 2 節
今年、文先生は「家庭教会は天国基地」という標語を下さいました。その意味は、家庭教会を完成した
基台の上にことば神を臨在させることによって、天国を成そうというみ言だと解釈できます。
地上に神を中心として祝福された家庭が現れる前には、神はカインとアベルを通して復帰摂理をし
てこられました。また、このカイン・アベルの立場を立てる前には教会を中心として信仰生活にいそ
しむように指導されました。入教して食ロになると、教会で行うことに従うことによって天の側に所
属し、教会生活を通して、新しい心で神に侍ることのできる人を見いだすようになりますが、これがす
なわちアベルとカインとの関係を結ぶことだと教育を受けてきました。
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教会にいそしんで参席し、教会の教育に従いながら信仰者の世界を体験し、信仰に先立ったアベル
を選ぶようになる時、さらに具体的に信仰が生じるのです。家庭という名詞は、カイン・アベル関係を
基台として出てくる名詞であることを私たちはよく知っています。
今日この聖句を見ると、
「そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。
『だれが主の心を知って い
たか。だれが、主の計画にあずかったか。また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか』」
とあり、どのようにすれば主を喜ばすことができるだろうかという聖句が記録されています。
また、
「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は」という聖句の次に「万物は、神からいで、神によっ て
成り、神に帰するのである」という原則を述べています。そして第一二章では「兄弟たちよ。……あなた
がたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい」と記録されています。
信仰している人は、ある心をもっていますが、事実この心は主を知り、信じて生きなければならない
心であり、また神のみ旨を敬い、恩返しし、神を喜ばせなければならない心です。しかし堕落によって
心と体との関係が狂ってしまい、天の立場で心の願いどおりに行えなくなった体だということを悟る
ようになりました。
では、どのような心をもたなければならないでしょうか?このように深い神のみ旨を知る道理がな
いので、この体を供え物としてささげようとこの聖句で教えています。どうすれば自分たちの体を神
のものとして扱えるのかというのが問題です。信仰生活を始める人はだれでも、教会に通い始めれば、
自分の事情で生きるのではなく、み言を通して教会の法度に順応しながら生活し、自分の体がみ言に
よって主管されるようにして、そこから新しい心を得ながら生きなければならないのです。
信仰の初歩者はまず、この過程を経なければならないのです。この体を天のものとして扱い、新しい
心を復活させなければならないということです。この初歩的な信仰を誤ると、正しい信仰の道を行け
ず、そのまま後退するようになります。この体をどのように天の法で主管して内なる人を新生させる
のかということに全力を尽くさなければならないのです。
私たちは、信仰の道を正しく行っていないにもかかわらず、自分をそのままほうっておくことが多
いのです。信仰する私たちは、体の事情や癖を、そのまま放置しておかないで、天の法の前に屈伏させ
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なければならないのです。ですからこの体をどのように天の法度に絶対従順に従わせるかが問題です。
今日の説教の題目の「体を生きた供え物としてささげよう」というのは、体をそのままほうっておい
てはいけないということです。この体を天のものと思うことです。この体がこの世の事情圏内におい
て、衣、食、住だけを解決しながら生きてはいけません。ただ私の事情圏内のものとしてだけ扱っては
いけません。自分の体は天のものなので天上世界の法度に従わなければなりません。この体を天上世
界の法度に合うように天のものとして扱うことが重要です。
供え物というのは、それをささげる人のものではなく、いったん祭壇にあげた以上は、受ける方の所
有物として決定されます。今日我々信仰者は、この体は天のものとして所有されていると信じていま
す。信仰する人が初めにしなければならないことは、まず自分の体が天のものであると信じることで
す。そのためには、体が天の法度に絶対従順に従わなければならず、自分の事情や思いのままに扱って
はなりません。ですから自分の体のことで、大きく闘わなければならないのです。
私たちはそのように努力し、また従順に従ってみなければなりません。そのあとで、自分の癖のまま
に生きていた自分が、天の法度によって自分の体を供え物として扱った時にどうなのかを試してみて
ください。果たして今まで生きてきたその時と違って、新しい心に変わるのか、また神が私と共にいる
ことを経験するのか、それとも天がうそを言ったのか。自分の体を天のものとして扱うので、神も私の
体を神のものだと言われるのかということを試し、確認し、体験してみなければならないのです。
まず最初にこの初めの段階を経験したなら、次には自分をアベルのものとして扱ってこそ、信仰が
一段階さらに深まっていくのです。信仰生活とは何かといえば、自分の体を天の側のものとして扱う
ことを知る生活だということを話しましたが、このような初歩の信仰は易しいようでありながらも、
その段階を越えるのが難しいのです。
それゆえまず最初に実践しなければならないことは、日曜日になればこの日を神の日として定め、
神聖なものとして守ることです。
「神聖なものとして守る」というのは自分の事情を完全になくして 、
天の事情を中心にしなさいということです。公的目的のためにあなたの体を完全にささげなさいとい
うことです。このように一日を神聖なものとして守ることによって、生活全体が神に所有された人と
して生きるようになるというのです。
その次に、私はアベルによって生きるようになっています。主によって生きるようになっていると
いうことは、教会によって生きる私にならなければならず、教会に所属し、教会の法度に従って生活す
るようになっているということです。また、このことはアベルが決定され、私を主管してくれるという
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ことです。
教会に通いながら、アベルを決めない人は、
「見物人信者」だといえます。
「見物人」という名詞がつ き
ます。信仰のアベルを決め、その人によって生きることはみ旨を貴んでいく具体的な生活になるので
す。このように、信仰の第二段階はアベルを決めることなのです。
この過程を経て、初めて家庭が出てくるのです。皆さんが教会に所属し、自分の体が神のものとなり、
神の法度によって食口になったのちにこそ、教会が私の家庭を天に所属させてくれるのです。ですか
ら教会を離れた家庭は、天のものとして認められないのです。自分の家庭圏内に天を所属させること
はできません。教会に所属することによって天に所属されうるようになるのです。
「教会」とは建物のことをいうのではなく、神に侍り、また神側の人物に侍る所をいうのです。すなわ
ちアベルに侍る家だといえます。それで教会ごとに責任者がいるのです。祭司長がいるのと同じこと
です。牧師がいるのです。このように教会は神の身代わりをする方に侍る家です。
それゆえ教会に所属するということは、天に行くことのできる人として登録されることです。サタ
ン側と関係のない神の代身者を敬う所が教会なので、草庵でも宮廷でも、そのような方に侍る所に神
が共におられます。このように神が共にいることのできる所を教会といいます。
私たちが初めて信仰をもつ時、教会に登録し、教会に所属して教会の仕事をしたり、み言を学ぶよう
になると、自分の心がうれしくなります。教会に通っていなかった人が教会に来てみ言を聞いて、従っ
てみて良かったという思いをもつようになれば、神が相対してくださるようになります。それゆえ自
分も知らない喜びと平和の感情が生じるようになるのです。
.ところが、私たちの中には原理的に学んでも実際の生活をそのようにしない人がたくさんいます。
ただ見物する食ロになってしまうというのです。書類上は登録していても、実際には信仰生活をしな
いのです。真なる信仰生活というのは主によって生き、主のために生き、主の事情を身代わりとして受
けながら生き、主の願いに自分が責任をもって生きる生活であり、そうなってこそ「主によって」生き
る生活なのです。このような問題を、具体的に明確にしなければなりません。
私たちが新たに導いた食口に対しても、このような原則によって関心をもち、彼らを育てなければ
なりません。教会に通いながらもアベルと関係を結ばなければ教会と距離感を感じ、教会に対する愛
着心がなくなります。教会が慕わしくありません。ある程度はみ言を聞いたことによって喜ぶ期間が
あるけれども、その期間が過ぎれば、だれかと直接的な関係を結んでこそ、次の段階に信仰が一段階上
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がるようになっているのです。
ですからみ言を聞いて心が喜ぶ期間が終わる前に、信仰の主体者と授け受けしながら喜びの中で教
会に参席しなければなりません。この関係を結べないようになると、ある期間は通っても途中でやめ
てしまいます。授け受けする人がいないために相談する相手がいないので、み言は聞いたけれども心
が重苦しくなっていくのです。そうなる理由は、自分の本心が主体者を探さなければならないと願う
からです。ですから主によって生き主に返ろうという、そういう関係をもたなければならないのです。
きょう本部教会に集まったのは、大部分がみ旨を中ひとした機関や企業体と関係をもっている兄弟
です。もし、そのような関係がなくて信仰の中心に侍りもせず、教会長とも関係を結ばずにただ生きて
きたのなら、その人の心霊は絶対に育つことができません。これは絶対的な法則です。
それで私が他の教会に巡回に行く時は、教会長との関係を尋ねてみます。
「教会に何年ぐらい通い ま
したか?」
、
「七、八年通いました」
、
「そうすると教会であなたは何をしています か?今職場はどこにあり
ますか?」
、
「どこどこで働いています」
、
「そうするとあなたは教会で何を受け持っています か?」
、
「何 も
「そうですか。日曜学校も受け持っていないのです か?山、
受け持っていません」
、 「日曜学校も受け持 っ
「それでは教会に行って何をするのです か?」
ていません」
、 、
「礼拝だけ受ける」と言います。それで「 礼
拝には欠かさず毎週行きますか」と尋ねると、「時々行く」と答えます。これが問題なのです 。
教会に責任のない人は、一回置きぐらいにしか行かなくなります。これは授け受けする入がいない
からです。教会で自分を待つ人がいないので、自分が退屈になれば行くというようになるのです。教会
は家庭と同じような所です。父母は食事の時間になれば子供を待ちます。もし子供が帰ってこなけれ
ば、父母はずっと待ちます。帰ってくる時間がとても遅くなれば、気をもみながら思いつく所を探して
みます。このようになってこそ食口(家族)だといえます。
教会はそのような所にならなければなりません。教会で主人になった食口は既に相互関係をしっか
り結んでいます。自分が行かなければ待つ人がおり、また自分が行けば会うべき人がいます。
「教会に行くことは、神の前に礼拝を受けに行くことなのに、だれかに会いに行くことなのですか?」
と反問するかもしれません。もちろん神の前に礼拝も受けますが、み旨で精誠を尽くした人同士が互
いに会いに行くことでもあります。私よりさらに精誠を尽くす人、すなわちアベルに会いに行くこと
が重要なのです。なぜでしょうか?そのアベルは、神の代身者なので、実体の神に会いに行くことにな
るからです。このような関係がない食口は、ただ「月に何回か行ったり来たりします。時間があれば来
て、聖日に忙しい事情ができれば自分のすることをしてしまう食口になってしまいます。
私たちは主によって生き、アベルによって生きることによって、今年は信仰基台と実体基台を確保
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しなければなりません。天国の基地をつくらなければなりません。既に教会に所属した私たちが家庭
に天国の基地を造成しようとするなら、内的に信仰基台を造成しなければなりません。
私たち各自はこのような責任を任されているのです。ですから教会に所属した皆さんは、自分と信
仰の関係を結んだ人、すなわち私を待ってくれ、私が必ず会わなければならず、私と授受関係を結べる
アベルをもてなければ、天が私に責任をもつことができないのです。
「あなたが私を知らないといっ た
ので、私もあなたを知らない」という立場に陥ってしまいます。
今の時は家庭教会が天国の基地にならなければならない時なので、間違えば霊的にさらに追い込ま
れるようになります。次に信仰基台を立てられなければ霊的に追い込まれ、自分の心の居場所がなく
て、心が抑圧されるようになります。
先ほどお話ししたように、原理か素晴らしくて教会に来るようになっただけでは、人は心が安定し
ません。ある期間までは原理が素晴らしくて来ますが、その期間が過ぎれば心が安定しません。教会に
来たけれども、人の家に来たように感じます。それは自らそのようにしたからです。自分を綿密に指導
してくれ、原理をよく教育してくれたその人が、自分に責任をもってくれています。み言を納得させて
くれた人が自分を忘れないでいます。私の心に感動と刺激を下さった人が私に責任をもっています。
その人に感謝する心で記憶していなければ、知らぬ間に不信するようになります。私たちが天を不
信するようになるのは、自分のためにいる人を記憶できない時に不信の道に陥るようになることを知
って注意しなければならないのです。私たちの信仰の道は、アベルをしっかりつかんでこそ信仰基台
が造成され、信仰が安定するのです。
「生きた供え物になりなさい」というみ言は、心情の供え物のことをいいます。心情的に授け受けす
ることのできる実体基台を成しなさいということです。聖なる生きた供え物は心情の供え物だと見る
ことができます。生きたとか死んだとかいうのは心情の基準を見ていうからです。
仕方なく生きる人は既に精神的に死んだ人です。慕わしくて生きる人は心情的に生きた人であり、
そのような人であってこそ教会が慕わしくて来ます。生きた供え物として心情があふれて、自ら進ん
で生きる生活は生きた生活だと見ることができ、仕方なく行動する入、無理にする人は死んだ人だと
見るしかないのではないでしょうか?
生きた供え物になりさえすれば、神は供え物を通して働こうとされると話したことがあります。私
たちは信仰に自信をもたなければなりません。
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今日私たちはあることをしようとする時、難しく考える傾向があります。原理が分からないので伝
道できないといいます。それは、とんでもない話です。原理が分からないことより、原理を悟ったこと
に対してどれほど感謝しているのかというのがもっと大きな問題なのです。信仰している人は原理が
分からないので伝道できないと思っては駄目です。原理を知った分どれほど感謝していて、どれほど
誇りたい心があるのかによって神が役事されるのです。神はそのような人を通して働きたがるので、
私がするのではなく、神がされるのです。
イエス様はカペナウムからエルサレムに行かれながら、ご自身がだれなのか見分けられる人を探さ
れました。私たちも家庭教会運動を通して、私を見分けられる人がいないだろうかとさかんに歩き回
ってみましょう。私がこの地域を任されたのだが、この地域で私を見分けられる人がいないだろうか。
私を夢でも見て待っている人がいるはずだという心をもって行けば、間違いなくそのような証を聞く
ようになります。
今まで私たちは活動しながら何度もそのような経験をしました。ここにいる人たちもたくさん経験
したことでしょう。神が働けるようにしてさしあげましょう。神が私を供え物として受け取れるよう
にしてさしあげるのが私たちの責任です。
それでは、どのようにすれば私と相対基準を結んで授け受けすることのできる信仰基台を成し、ど
うすれば実体基台を成し、神が働けるようにしてあげられるのでしょうか ?一生懸命精誠を尽くさな
ければなりません。私たちが今、神のみ旨を成してあげられないことは原理的に見る時、信仰基台と実
体基台が成されてないからだといえます。このことはみ言をおいて授け受けすることのできる相対が
いなければ、神が働くことができないということです。私たちは家庭でも信仰基台と実体基台を成さ
なければなりません。私たちの家庭から、み言を中心として授け受けする家庭にならなければなりま
せん。
最近食口の中に、心情の火が燃えている人を実によく見分けられる人がいます。人の心を詳しく読
む人がいます。私たちはそのような人を特定の人だと思って特別に聖霊が降りるとか、霊通するとい
いますが、実体基台を成せば、だれでも同じようにできます。それは霊的にだけ分かることではありま
せん。実体基台を成せば情と情を授け受けする世界になるので、詳しく人の心を読むことができます。
そうなると家庭教会活動をする時も、どれほど人を探すのが易しくなるでしょうか。家庭教会活動を
する皆さんは、まず各自が原理的な家庭として実体基台を成さなければならないということを私は強
調したいのです。
そうなった基ムロの上に自分の区域の家庭を訪ねて全力を尽くせばいいのです。そうやって毎日行
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きなさいとお父様が言われました。三六〇軒の中に毎日行きたい家庭を三軒つくりなさいと言われま
した。
伝道は、簡単にもできるし、難しくもなります。皆さんは自分の責任の限界が分かれば、そう難しく
考える必要がないのに、自分がなすべき責任は考えず、ある先入観をも
って、相手側からまず自分を慕わしく思わせようとする心で、人に強要します。そうする前に、その
人の事情を知ってどうにかして喜ばせることができないだろうかと、相手
のために祈祷してあげなければなりません。
私たちは対人関係において、相手をとても喜ばすことのできる分野をもたなければなりません。多
くの人は、努力せずに自分のやり方で人を導こうとするので、苦労をしながらもかえって人を不快に
し、へとへとにさせます。ですから、近所の家をしばしば訪問しながら事情をたくさん知り、その家の
事情を心配する心をもてば自動的に訪ねざるをえないし、喜んで対話するようになります。事情を知
らなければ、訪問するのが大変なのです。自分が心から心配してあげればその家では、喜んで迎えるよ
うになるのです。
今年私たちは天国の基地を確保することに力を尽くさなければなりません。事をなそうとすれば、
実体基台を成さずには絶対に突破していけないと思います。原理的に考えると、その方法でなければ
ならないのです。そういう原理的な方法から離れて、組織を動員したり、経済的な投入によって宣伝を
したり映画を上映したりして人をたくさん集めても、それは結局みな流れてしまうのです。そうなっ
たのちに、もう一度収拾するのは大変です。私たちは今まで様々な方法で伝道してみましたが、失敗し
たことが多かったのです。私たちが疲れないようにしようとするなら、日ごと私たち自身が恵みを受
けなければなりません。
仕事のために働けば疲れ、恵みを受けるために働けばいつも楽しいのです。いつも楽しくやれる方
法で私たちは生きなければなりません。その人のためにと気遣って、かえって自分が疲れるようにな
ります。無理に伝道しようとするのは人を主管する結果となり、伝道になりません。ですから私がその
人のためにしてあげられることはないのか、また、私がその人を喜ばせられることはないのか?このよ
うに考えればいつも恵みを受けるようになり、疲れず、いつも楽しいのです。そうでなければ人に教え
ようと思う時、苦しい思いになるのです。
私たちは今年一年の間、着実に信仰を積んでいかなければならないのですが、まず私たち自身が人
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の心を分からなければなりません。人の事情を感じられる人になることが先決だといえます。そのた
めには各家庭を訪ね回りながら、その家庭の事情をつかんで泣いてあげられる感情がなければなりま
せん。それゆえ苦労をしてみなければならないという結論が出るのです。
人の事情を自分の事情のように思いながら、自分の感情を本然の感情に復活させるしかないという
結論が出ます。自分の事情にとらわれた者は片意地になりますが、人の事情ゆえに苦労する人は心霊
が豊かになります。それを難しい言葉でいうと、実体基台を成さなければならないというのです。
皆さん!家庭で実体基台を成しましょう !家庭で実体基台を成さずには絶対に家庭教会運動は不可
能です。なぜなら、神が共に働けないからです。神は共に成すことのできる関係になってこそ、訪ねて
こられるのです。
私たちは、主の心を体血しようと努力しなければなりませんが、そのためには私の心とあなたの心
を知るところから始めなければなりません。また主の心を知ろうとする前にみ言によって自分の心を
しっかり啓発して主体者の心をよく敬い、実体基台を成して生きれば、新しい私として復活します。教
会に属している人の中で信仰の中心を立てられない人は、教会長と相談してでも、指導を受けてこそ、
皆さんの心霊が成長するのです。
漠然としている人たちに注意しておきます。青年は教会の仕事を受け持たなければなりません。教
会の仕事を受け持ってこそ復活すると宣言します。
「日曜日だけでも献身するので、仕事を任せてく だ
さい」と申し出なさい。仕事を受け持ってこそ天と関係を結ぶのです。
礼拝だけ受けてそのまま帰る人は、その次から来なくなります。天の事情と自分の事情が合わない
のに、どうして来ますか?しかし教会と因縁をもてば天と事情が合うようになります。皆さん、試して
みてください。教会と因縁を結べば、教会に奉仕できる方向に自分の事情は天が協助して取り計らっ
てくれますが、教会にいかり綱を結ばなければ自分の事情がしょっちゅう反対に回るようになります。
このような原則を知らない人は、教会に行こうとしたのに、仕事ができて行けなかったと弁解しま
す。しかしその人は、いかり綱を結ばなかったのでおかしな方向に事情が引っ張られるからだという
ことを知らないのです。初めは、一週間、二週間と遠くなり始めて、次第に何カ月と遠くなっていきま
す。そうして蕩減を受けると恥ずかしく思うのです。
蕩減をたくさん受けた人が再び気を取り直して教会に来る時に、事情を問われると、恥ずかしがる
のです。そうして蕩減を受けたという言葉が嫌いで、事情を隠す場合があります。病は誇れば治せると
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いうことわざのように、自分のねじれた事情を告白しなければなりません。それをそのまま隠すと、そ
の人は原理的な成長ができなくなります。なぜなら神はすべての出来事を通して、原理的な教育をさ
れるからです。原理的な教育は原理的な理解がなければならず、すべての出来事に対して原理的な分
析をせずにそのままほうっておけば、再びその事件が繰り返されます。同じ出来事に遭うようになる
というのです。
蕩減が繰り返されるのは、神が原理的な教育をする目的があるからであり、蕩減を受けるその人が
原理的に理解しようとせず、ただ蕩減の事件が過ぎ去ることだけを願うので、繰り返されるのです。再
び蕩減が繰り返される時には利子がついてきます。この言葉は加重された蕩減条件を意味します。原
理的に悟れない食臼は何年たっても信仰がいつも足踏み状態のままです。私たちは勇敢に事件を見つ
め、解剖し、分析して、その出来事を通して恵みを受けなければなりません。
恥ずかしい事件の中にとても大きな恵みが隠れています。絶対に、恥ずかしいからといって隠さな
いでください。恥ずかしさの中に永遠に忘れられない宝物が隠れています。ですから恥ずかしいとい
ってそれを自分一人のうちにとどめて、事件に出遭わなかったように過ぎてしまおうとせず、自分を
指導してくれる人にゆだね、相談して分析し、原理的な教育を受けてこそ、もう二度とそのような事件
が繰り返されないのです。そうすることによって、原理的に成長するからです。
私たちの体と心が神を慕い、神の前に心情を尽くす供え物にならなければなりません。今年天国の
基地を成そうとするなら、まず実体基台を成さなければなりません。
きょうは私たちがもたなければならない信仰の基本姿勢について、一部お話ししました。信仰の基
本姿勢を明らかにして仕事をしなければなりません。ただ心配ばかりしないでください。心配させる
ために神が仕事を任せたのではありません。喜びなさいと願って任せられたのです。仕事をする時心
配から始める人は、非原理的な思考をもった入として天を不信する人です。神が私たちに仕事を任さ
れる時には、ご自身がしようとされて任す、ということを知らなければなりません。ご自身がまず基台
を築いておいて、やりなさいというのです。ですから喜んで生きた供え物になって働きましょう。
「 祈
祷する時には、家庭で実体基台を成して、家庭教会運動を通して天国の基地を成させてくださいと祈
りなさい。信仰の基本姿勢を正確にしていかなければなりません。
神はうそをつく方ではありません。私たち全員が生きた供え物になる生活を通して、お父様のみ旨
を共になしてあげる者になることを願いながらお話ししました。
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