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2 個人と教会の発展のために

一九七0年六月二十六日

永遠性のある基盤をつくる

教会勢力は、教会長によって、ある期間が過ぎると、それ以上は発展できなくなる教会があります、
個人の信仰勢力が、ある期間が過ぎたのち、行き詰まるのと同じく、教会自体も、三十名や五十名ぐら
いで止まったり、人によって百名とか百二十名、ある数までいって、それ以上伸びないのです。百二十
名ぐらいの信者をもてば、理想的な教会です。

伝道師はみな若く、また、自分自身が人を指導できるぐらいの基礎がなかったり、知識的にもそうで
あったりします。また、国内の信者の統計をとってみれば、高卒の人が多く、それから先祖が良くて霊
的な協助が良かった人、その本性が良くてこの理念によって召命されて、今まで走ってきた人などが
多いのです。それで、これからの問題について考えてみましょう。

まず、個人がどれだけ全体に影響を及ぼす原動力者になるかということです。教会の教会長自身も、
一つの核心となって、無限に原動力をもつ者にならなければなりません。私たちは一生涯、原動力を発
動する基盤をつくっていかなければならないのに、ある期間が過ぎたら、もう行き詰まってしまう人
が多いのです。だから[生涯、地上にいる間、神に必要な者、神になくてはならない者となるには、どう
いう自分の内容と位置を獲得すべきか、という問題です。

パウロとイエス様は、死の十字架にまで、使命にあふれてその生涯を終えました。アルファとオメガ
が同じだったという生涯をもっています。私たちは、そうではないのです。私たちは、ある期間が過ぎ
れば無用な者になってしまうのが、私たちのくせです。三年なら三年間必要な者となって、そのあとは、
何となく変化してしまうのです。それで神は、それ以上続けられず、信仰人物を新たに選択されるので
す。

そこで私たちに、存在している今が、どれほど続くかということが問題です。今日に至った私たちは、
永遠に続けられるかという問題です。どれほど未来性のある仕事をやっているか、永遠性のある人格
か、永遠性のある基盤をつくっているか、です。

私たちは今、資本金をもって、もうけているのでしょうか、マイナスになっているのでしょうか、私
たちの存在基台、人格的な影響力は増えているでしょうか。一生涯生きながら財産を増やせば、支払う
のも増えるのですが、結果的に増えるのです。泉から水をいくら使っても、尽きないように、私たちの
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信仰もそうでなくてはなりません。泉は、いくら使っても、一定の水をいつも保っているのと同じく、
いくら私たちが心を尽くし、誠意を払っても、自分の出発当時の信仰自体、姿勢は維持しなければなら
ないのです。いくらその苦労、危険を経験しても、いくら自分が公のために使われても、自分はもうけ
なくてはならないのです。しかし、すぐ私たちは赤字になってしまうのです。

なぜかというと、そのお金は、涙なしにもうけたものだからです。お金というものは、汗なしにもう
けたものは、使いやすいのです。自分の手で成功した人は、使いながらも、もうけるという一方向性が
あることを見て、ポンと使うのに、汗なしにもうけたお金を持っている人は、使う道しか見えないので
す。これを使った結果、どれほど回ってくるという道を知らないのです。

それと同じく、私たちのもっている真理は、勝利したのちの真理でなく、私たちのもっている恵みは、
自分がサタンに勝利して得たものではなく、人からただ恵沢でもらったものなのです。だから、へたを
すると資本金までみな使ってしまいやすい立場に立っているのです、だから三年、七年たつと、赤字に
なって、損をしてしまうのです。それが、今まで信仰人物たちが失敗したやり方なのです。

だから私たちは、どういう経験をしても、どういうつらい味を味わっても、自分がもうけながら支払
わなくてはならないのです。払う時には、自分も誠意を払うとか、何のために働くとか、何のためにや
るとか、何かそれ以上のものをもうける見込みがあった時に、自分が涙を流しながら汗を流さなくて
はならないのに、ただもう、これが正義だ、というところばかりねらってやったのちには、みんな使っ
てしまいます。そういう面を私たちは、利[に、原理的に危険を経験するとか、冒険するとかするのです。

神の立場から誠意を尽くす

蕩減復帰は、今は苦労しても、マイナスになっても、いつかは利益が戻ってくるんだという自信をも
って、苦労するとか、迫害を受けるとか、損するとか、いじめられるとかするのです。何かもうけがある
という原則的な立場に立ってしなくては、結局、結果的には人に笑われたり、人に対して恥ずかしくな
ってしまうのです。そういう面を、信仰人物たちから学ばなくてはならないのです。

洗礼ヨハネは、相当蕩減生活をして民族的な立場の人物になっていたのですが、イエス様と付き合
った時には、人間的に付き合ったのです。どうして心情的に付き合わないで、人間的に比較したのでし
ょうか。イエス様の立場、イエス様の家庭、イエス様のものを、結果的に見て、付き合つたのです。歴史
的なこの人間の過去を知らないのです。神から見た未来に、どういう使い道のある人か知らないので
す。表れた瞬間の者を、結果的に見て、付き合ったものだから、洗礼ヨハネの立場からは、授受ができな
かったのです。自分の考えで、イエス様を見たのです。イエス様を見た時の内的態度が間違っていたの
です。入間的批判をしたのです。私たちも、そういう洗礼ヨハネの考え方、洗礼ヨハネの見方があって、
それを行うと、結局霊的に乏しくなってしまうのです。
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大先生も、何をやっても、それをやるんだという、その結果を目標に誠意を尽くすのです。家を造る
時も、私たちに相当説教されたのです。
「家を建てるというので、私はただこの仕事をやるんだ」と、
「 二
十八日間でやった」とこう思うけれど、大先生はこれをやるときには、歴史的に何か因縁があるし、こ
の期間内に完成しなくてはならない歴史的な内容に、誠意を尽くされるのです。

この建物はみすぼらしいけれども、先生が必要と思うこの期間に誠意を尽くすのですが、それは何
のためにやるかというと、歴史的な因縁があって、そしてまた、これによる民族的な目的があって誠意
を尽くすのです。これは一つの祭物です。それのために愛するのではなく、この物に対しての愛ではな
く、この物を通じて、その先の目的のために誠意を尽くすのです。先生のやり方はいつもそうなのです。

私たちは今、
「こういうふうにしないで、ああしましょう、こうしましょう」と、いろいろな意見が あ
って、先生と合わないのです。先生はそうする目的が今にあるのではなく、未来にあるのです。だから
今は私たちに合わないけれど、誠意を尽くす内容が違うのだから、これはもう燃えてしまってもいい
というのです。これに誠意を尽くすのではなく、これを祭物として、目的をまだ見ているのです。そう
いうやり方を、いつもやっているのです。

人を愛する時も、この人間を愛するのではないのです。三十六家庭を見て、
「君のために祝福した の
ではない」と言われるのです。
「君たちが今やめても、離れても、どうでも、私は君たちに尽くす責任 は
済んだ」と言われるのです。
「今君たちが離れても、神に対しての私のやる責任には誠意を尽くした の
だから、君たち以上の人を引っ張ってくるようになっている。君たちのために、祝福したのではない。
祝福は、君たちの、その結果のものではない」と。血統的な背後もあるし、それから神は、こういう人間
を神の前に祭物として使うのです。先生自身の情の内容が、永遠にどういうものであったかという、そ
こにあるのです。

私たちはただ、
「あの人間はああだ」と、現れたそのものだけを見て、それに比較して誠意を尽くそ う
とするのです。だから私たちは、その人によって打撃も受けるのです。環境によって打撃を受けるのは、
その環境だけに自分が関心をもったからです。そういう見方は、復帰摂理から見て、蕩減精神が違うの
です。それで私たちが、マイナスになるのは、ただそのもの、現在というそのものに、主管されやすい考
え方でゃっているからです。そこに相当な損があるのです。

原理的に解釈すれば、ここにいる一人は、その一人だけではないのです。歴史的な内容を連続してい
るし、未来的な願いをもっている者だから、神から見た時のこの存在物は、私たちの見たものと全然違
うのです。神の立場で私たちが、この「循環」というものを取り扱わないものだから、結局、霊的には乏
しくなってしまうのです。それはピントが合わないからです。そういう面で、私たちは一生涯の生活を、
過ぎ去ったのちには、悔い改めなくてはならないことが多くなってくるのです。

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だから、神の立場からの思いでいつも誠意を尽くせば、霊的に相当敏感になります。そのもの自体に
主管されないで、現在というものに主管されないで、現在というものを歴史的に、あるいは永遠的に、
観察の仕方をよく知ったなら、霊的に敏感になるのです。なぜかというと、霊的に実体的相対関係が結
ばれるから、自分という立場が神の立場になってしまうので、自分も主管されるのです。考え方によっ
て、そうなるのです。そういう面が信仰生活で、一番貴重なのです。それを連続していけば、とても成長
します。

死んでも神のもの

そのように教会長たちの信仰基台が発展していけば、自然に貴重な人物として組み立てられ、組織
されるのです。私たちは、現在というものに歴史性と永遠性を知らず、打

撃を受けるものだから、この時間を超越できないのです。私たちは、この時間圏内にいる者ではない
のです。

実際、考えてみてください。私たちは、現在にいる者ではないのです。未来にいる者です。未来の者で
あって、現在の者ではないのです、だから復帰というものは、歴史的に済んだものを解決しながら、永
遠に生きていくのです。そこさえよく解決すれば、蕩減条件が立つのです。

アダムの家庭において、カインがアベルのことで減少感を受けたのです。未来を見ずにおぼれてし
まったのです。現在に、もぐってしまったのです.沈められてしまったのです。自分はそういう問題に
触れる立場ではないのです。未来において、偉大になるからです。今アベルが祝福を受けたところで、
それに関係する必要はなく、現在に主管される必要はありません。減少感を受けたそのものも、もはや
その時間圏内に主管されています。時間圏内におぼれてしまっているのです。そこが一番問題です。

私たちもどんな事件にぶつかっても、それが起きた理由を早く知って、これが来る以前の自分の方
向を移動してはいけないのです。こういう事件、危機、危険がやって来る前の自分の態度が、未来性、希
望をもった安全な態度だとしたら、それがぶつかってきても、自分はその姿勢に責任もたなくてはい
けません。こういう事件が、環境が変更になっても、自分がその態度を守らなくてはならない責任があ
るのです。そこが自分のもつべき責任であって、その関係をどういうふうにするか、これをどういうふ
うにすればいいかという責任は、自分はもっていないのです。だけれども、すぐ私たちはもう、
「この 環
境を、これを通して」というようになってしまうのです。だから、それに主管されてしまうのです。

「これをどうしようか」と言わずに、その時、自分を捨てなくてはなりません。危険な時には、自分と
いうものは捨てるのです。なぜかというと、神の立場だからです。神が、自分たちをそういう場面に指
導してきたからです。イスラエル民族は、紅海の前に神が導いてきたのだから、これは困ったと思う必
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要はなかったのです。自分が歩いてきたのではないのだから。モーセとか、雲の柱、火の柱が導いてき
たのだから、自分が心配する必要はなく、導いてきた神が心配すべきだったのです。

「やあ、困った」、私たちの考えは、いつもそうです。いつもそれで失敗します。その時には黙ってい れ
ばいいのです。
「行くんだ」と、行くというその目的観だけもっていればいいのです。それだけで、黙 っ
ていればいいのです。そういう時に、忍耐が必要であって、どうしたら逃れられるか、どこへ逃げよう
か、どこへ避難するかという考えは必要ないのです。そこに、
「生きんとする者は死に、死なんとする 者
は生きん」ということがあるのです。そういう時には、死のうとしていればいいのですが、生きようと
するから間違えるのです。

神の立場では、そういう神の祭物をみな結果主管しようと思って、危険な立場に立たせてきたので
す。殺そうとするのは、結局神が主管しなければならないからです。殺そうとしても、じーっとしてい
れば主管するつもりなのです。神はイサクを殺そうとしました。でもイサクが黙っているから、神は主
管しなくてはなりませんでした。それなのに、殺そうとしたら生きようとするので、神は主管できない
のです。

そういう場面場面が、私たちの生活に、波のごとくぶつかってくるのです。だからそういう時に、私
たちは心情的に、自分というものにとらわれないで、全体を心配することができるかが問題なのです。
私たちにぶつかってきたものは、自分だけのことではないのです。全体のことなのです。全体のことと
思って、貴重に取り扱うのです。

だれの立場かというと、神の摂理の立場で、いつも考えなくてはならないのです。神を忘れて考えて
はいけません。自分というものもそうです。信仰とは、出発当時に、自分が神と共にあり、神のものだと
した、それを継続することです。終わりまで神のものだと、死んでも私は神のものだとするのです。

イエス様は、自分は神の息子だという信仰で一生涯を貫いたのです。どんな迫害があっても、自分は
神の息子だというその信仰}点ばりで、立派な生涯になったのです。私たちはそうではないのです。そ
ういうところで失敗が反復してきたので、そこからどういうふうに.私たちは発展するかということ
です。

学ぶ姿勢を失うな

理解したもので指導しようとすると、自分は発展できないのです。指導者になって、だんだんと発展
できなくなるのです。なぜかというと、自分が指導者だと思っているからです。伝道者だと思っている
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からです。
「伝道者は人を指導するのだ」という立場に立つと、結局自分は、その型にはまってしまう の
です。あらゆる人から学ぼうとすること、学ぼうとする態度がいつも大事です。

指導者は、学ぼうとする欲望をもっていれば、その人に必要なものが分かるのです,「何を教えよう。
どういう原理を教えよう」、こう考えると、自分というものが問題になるから、いくら信仰生活を何 十
年やっても、「新しい人にも学びたい」となるのです 。

「どういう経験も、私はもうした。もうああいう経験は済んだ」と。そういう過去のことによって、現
在を貴重に思わないと、結局、固まった欠点のある人になるのです。だから年を取った人で、
「現在」を 、
自分も過去に経験した「現在」と思う人は、そこが間違っているのです。
「現在」というものは、きのう で
はないのです。だから、いくらきのう自分がこれを経験していても、きょうの経験は、全部性質が違う
のです。

イエス様は、自分を絶対視しながらも、人の事情に巻き込まれたのです。自分を絶対視しながらも、
かわいそうな人には、主管され、共に泣いた、そういうところがあるのです。そこがイエス様の違うと
ころです。

私たちは、絶対視すると愛情が流れないのです。
「原理」が思想に固まってしまうのです。
「原理」を 消
化した自然人間(本然たる人間)になるようにと、人間を正常化する目的なのに、
「原理」という理念 に
とらわれてしまっているのです。そうなると、結局一つの思想家になって、豊富な人間性をもった人間
同士の関係が崩れ、孤立しやすいのです。

私は「原理」を悟ったと、悟ったそのものに主管されて、結局、盲目になりやすい危険性が私たちにあ
るのです。そういう面もあるということを知り、私たちの霊的成長を中心として、考えてみなければな
らないのです。

「原理」を貴重にする

私たちが、伝道師たちに主張していることは、
「原埋」を貴重にするということです。それから大先 生
をいつも中心にしながらも、そこが基準であるということです。
「原理」が私たちの霊的基準です。大 先
生が私たちの情的中心です。これによって、どれほど繁殖力を高めているか、どれほど自分が貴重に思
っているものを、自分の生活に展開できるか、です。貴重に思っていたものは、責任をもたなくてはな
らないのです。ここが難しいのです。

自分が貴重に思ったものはあるけれども、他を貴重にする人を、それと同様に取り扱うのは難しい
のです。イエス様が、
「自分は息子だ、神のひとり子だ」と、こう思った目的は、罪人を神の息子に救う た
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めです。そのための自分が貴重であって、救う目的を果たせなければ貴重ではなくなるのです。これは
貴重なものでなくなるのです。目的があるのです。

イエス様が自分を貴重に思うのは、大衆のためです。自分が自分を誇ったのは、罪人のために誇った
のです。ただ自分がそうだから誇ったのではなく、
「私は光だ。私を愛せ」と言ったのは、自分のため で
はなかったのです。
「私を貴重にすれば罪人が救われる」ということを、教える目的で言ったのです。そ
ういうところが、イエス様の親心なのです。

既成教会の今までの歴史の延長は、自分たちが救われて、自分たちを貴重に思いながら、どれほどま
た仲保者として、目的を貴重にするかが問題になっているのです。私たちも、どれほど人を愛するか。
自分という基準が立って、これをどういうふうに横的に、平面的に開拓していくかが問題になるので
す。

それがなかなかできないから、教会が、約二十から三十名集ったら、それ以上増えなくなるのです。
二十から五十名くらいになったら、
「カイン・アベル」というトラブルが出てくるのです。これは結局 、
それ以上任せられないという、サタンの讃訴の印なのです。それ以上の人間を取り扱えない段階だと
いうことになるのです。

情的に授受する人をもつ

だから、教会長は、付き合っている人と、どれだけ情的に授受しているかということです。主従関係
は、貴重に思うけれども、自分と平面的な左右、前後の関係を貴重にしないのでは、駄□なのです。かえ
って主従関係を知らなくても、左右、前後の関係を正面視したら、かえって幹部が訪ねていくくらいの
貴重なことなのです。私たちは、全然反対なのです。それは、原理的に言えば、実体基台です。そこが一
番難しいのです。

それが信仰の路程です。蕩減をどのようにするか。原理的に、私たちの瞬間瞬間をどう解釈していく
かということです。私たちは、貴重なものをもった者としての立場に立っているのです。間違いやすい
面が分かれば、ある程度責任をもって、私たちは成長していけます。

疲れた人には、霊的に慰めてあげる人が必要です。自分も何も知らずに、大勢と一緒に、自動的でな
く、団体的になって頑張ってやったのちには、何か乏しいのです。それは、理念的な、人格的な活躍では
なかったからです。そういう時に、内的に兄弟たちを、原理的に解釈してやりながら、霊的に慰める、析
りをもつた人がいなくてはならないのです。

自分を中心にして離れた人がいたのですが、そういう危険を防ぐには、初めからその人の生活の仕
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方、その人の信仰の仕方を、理念的に教育していかなければならないのです。平生の考え方が、理念を
中心としていなかったので、離れたのです。自分の生活の一つ一つをぼかして、整理しなかったのです。
それは結局、教育してやらなかったからです。だから私たちはいつも、信仰の座談会、懇談会が必要な
のです。

個人個人に、付き合う人がいなくてはいけないのです。それでお医者さんみたいになって、一人一人
を診断して、その人の考え方、その人の喜んでいる時の考え方、
「原理」に刺激を受けた時のことなど 、
この人を分析してやらなければなりません。なぜかというと、その人が「原理」を聞いた時、命をささげ
たいという決意をもっても、どういう位置で決意をしているのかを、知っておかなければならないか
らです。そうでないと、霊界のほうに通じた場合、危険性があるのです。考えてみると、そういう人は元
からずーっと、そういう基台をつくってきているから、そうなるのです。だから、元から見てやらなく
ては駄目です。

そして、慰めたという人の立場が、だれを中心として慰めたかが問題です。そういう人のことを聞い
た時には、すぐに教会長、地区長に報告して、私はこの人にこういうふうに慰めたということを、地区
長なら地区長一人と相対関係を結んで、その人を指導しなくてはなりません。こんなふうに自分一人
が自分の立場で原理的に解答を得たとか、自分の意にそってこう発表したとか、そうなると、霊界から
直接主管されてしまうのです。

それが霊界から来ても、地区長に、
「霊界からこういう話があるのですが」と相談してみるのです。そ
れで、地区長が、
「それはいいね。いい恵みですね。いい真理ですね。とても貴重な悟りですね」と、こ う
一応認めたなら、それから、
「ああいう状態だから、私はこういうふうに答えました」とか、それとも 、
「地区長、こういう方面を指導してみてはどうですか。あの人はこういう面に乏しいんですが。地区長、
こういうふうにあの人と付き合ってみてはどうですか」と話すのです。

自分が悟っても、地区長との関係を貴重にしなければならないのです。人間というものは、結局エバ
と天使長との相対関係なのです。今の話は、結局アダムの家庭で起きたことが反復したのです。だから
その時エバが、
「天使長はこう言っていますが」と、アダムに相談すればいいのです。相談しないで、
「 そ
うですか。神様は食べたら死ぬと言ったのですよ」とこう、自分の立場で神からもらった内容を、結局
天使長に言ってみたのです。言ってみたのだけれども、自分には自信がないのです。ただ食べるなとい
う戒めを聞いたことを、天使長に渡したのです。

そうでなくて、兄弟から何か質問を受けたとすると、地区長に、
「こういう相談が来ましたが、私は こ
ういう立場で答えました」と報告するのです。そして、その人たちの考え方が、地区長を中心としてい
るのかいないのか、それを見てあげなくてはならないのです。

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私たちは、地上の人間と情を結ばないと、信仰しながらも、すぐ霊的に主管されやすいのです。
「原 理」
を貴重に思っても、人間との関係が親しくない人は、みんなそうなってしまうのです。
「原理」を貴重 に
思いながら、教会を貴重に思わない人は、みな孤立してしまうのです。教会に来ても、兄弟との授受が
できない人がいるでしょう。孤立してしまうのです。

いつも「原理」を貴重に考えていて、相当深みのある人の場合は、人と付き合ってみると、みんな浅く
見えるのです。その人が、教会の中で、青年の中で、一番知的に高いとか、
「原理」の理解が深い場合、そ
ういう深さを第二、第三の人に伝えなくてはならないのです。それを、自分一人で保っていれば、危険
なのです。

なぜかというと、規範を作らなくてはならないのです。自分が貴重に思ったものは、目的のために貴
重なのであって、自分一人が貴重なのではないのです。
「原理」を悟っても、自分一人で喜んでは目的 に
かなっていないのです。

元に戻すのに三倍の誠意を尽くす

秘儀というものは、人を愛さなくてはならないのです。自分が分かったなら、
「神と自分」とが分か っ
たなら、人をどのように愛するかが問題なのです。そうすれば絶対危なくないのです。

いくら指導者が自分より下の入でも、その指導者を養いながらでも、指導者にするのです。人を愛す
る、人を貴重に思う人は、いかなる人に対しても指導者として侍ることができるのです。そういうとこ
ろが今まで、六千年間、困難な問題だったのです。

私たちは、自分をよく原理的に解釈します。そのように、知らない人を伝道するよりも、まず因縁を
もった私たち兄弟同士を見ていって、
「原理」を聞いていったん決定すれば絶対に離さない、という 教
会の在り方になれば、サタンの讒訴がないのです。

一回教会を出れば、戻るのがそれほど難しくなるのは、この離れた人の責任が、私たち、残っている
人にあるからです。全体が復興できないのです。この人を私たちは、結局失ったのです。なぜ失ったか
といえば、その人を見る見方が間違ったとか、人の見方を知らなかったとかが原因なのです。

それを知らなかったというのは、結局、自分たちが、自分を知らなかったのです。教会に一遍因縁を
結んだというのは、天から送ってきた先祖のいい人だとか、何か歴史的な目的があって入っているの
です、、そういう人が離れたというと、残っている人が困るのです 。

この人がまた戻ってくるにはどうするかというと、この人が離れずにやらなければならなかったこ
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とを私たちがやれば、戻る可能性があるのです。その人と因縁を結んで、一緒に行けば、ある結果があ
ったはずなのに、その人を失ってしまったのです。そのため、三倍私たちが誠意を尽くしてある成長を
した場合には、代わりの人が来るか、その人が再び来るかするのです。結局、人を失えば、相当私たちが
損をします。私たちには蕩減責任があるのだから。

そうなってしまった時に、どういうふうに指導するかというと、親切に付き合います。離れたなら私
たちは付き合わないという、その目的で付き合うのではないのです。そういう意識をもたずに、私たち
が付き合ってある期間が過ぎると、その人が原理的に自分を悟るように、原理型を良くしなくてはな
らないのです。今離れても、
「離れる な!戻れ!」と言うのではなくて、
「離れるのも神様のみ旨がある の
だろう」と、こう認めながら、
「天から蕩減期間があるか、あるいは使命があるか、意味があって離れ た
のでしょう」と、同じ復帰摂理の責任をもっているという観念をもって付き合うのです。

それから自分の意見を発表させるのです。
「原理的に私はこう思うのだが、あなたはどう思う」と 言
って、話をするのです。
「あなたの存在する立場を原理的にそう思っているのか、私が見るときには こ
う思うのだけれども」と話し合うのです。もう既に済んでしまったことは、認めてやらなくてはなりま
せん。別の原因があってそうするのだから、それを認めてやりながら、これからの問題、この次の問題
を取り扱ってやります。結局、それは責任者によるのです。

責任者は医者

責任者は関係を結んだなら、一々導いてやらなくてはいけません。責任者は医者だと思えばいいの
です。いつも伝道師たちに言うのです、
「教会長は病院の院長さんだ」と。それで教会に入った人は、 入
院した人と同じです。そう思えば間違いないのです。だから、いつも情的な生活を見てやらなくてはい
けないのです。

指導者には、三役事のおばあさんがいなくてはならないという理由は、そこにあるのです。医者も、
自分を診断してくれる人がいなくてはなりません。自分も相談しなくてはならないでしょう。もしど
こかに開拓に出たとすると、そこには地区長もだれもいないから、私が責任をもたなければなりませ
ん。そうすると、私に責任をもつ人がいなくてはならないのです。

だから、メシヤなら、初めてメシヤが開拓に来たなら、洗礼ヨハネがイエス様を見てやらなくてはな
らないのです。洗礼ヨハネが、イエス様の先生の立場に立って、ある期間は過ごさなくてはなりません。
だからイエス様は、洗礼ヨハネを先生として、相談する期間があるのです。六カ月なら六カ月間。そう
して、洗礼ヨハネも一緒に暮らしてみたところ、
「イエス様が自分よりも霊が高い」とこう思って相 談
してくるのです。
「私はこう思うのですが、イエス様はどうですか」

「それはこうだろう」

「ああそう で
すね」と、こうお互いに、だれが先生だと決まらないのです。
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開拓地では人を立て、育てる

私たちは開拓に行っても、初めは自分が中心になってはいけないのです。その地方のだれかを中心
にして、その人に相談して、ただ理念だけは自分が補給しながら、その人がこの理念を喜べば、その人
を主体者としていくのです。

そして役事のおばあさんを三人立て、私たちのために祈ってもらうとか、相談してみるとか、何をし
ても許可を受けてするのです。
「自分が貴任者だから」と勝手にするというと、ちょっと難しい。ち ょ σ
と良くない。自分が決定したいけれども、その人に相談すれば、
「ああそうですか」と言って、向こう で
喜んでくれます。人をまず喜ばせておいて、自分が行動して初めて、兄弟がだんだん増えていくのです。
それを、四位基台で見守っていくのです。そういう教会の兄弟をつくって、外的に活発にします。

私たちも肉体は一線にいて忙しく働いても、霊的には静かに、いつも自分の境遇を観察しなくては
ならいのと同じことです。教会もそうなのです。心に属する信者と、肉体に属する信者とに分けて見る
のです。

中心者が第一線に立ってやると、盛り上がる期間だけは盛り上がりますが、いつも盛り上がるので
はないのです。中心者が一線に立つ場合、退く基準線があるのです。ある期間だけ、兄弟を慰労する目
的で、一線に立つのであって、一線に立つ目的で立っているのではないのです。教会の信者たちを、兄
弟たちをそうするために、自分が動機になってやるけれども、そのあとは、みんなが一線に立ちます。
行動的動機ではなくて、みんなの霊的動機にならなくてはならないのです。

そうでなくてはならないのに、結局、自分の愛で握った対象者を、それを第二の自分として、自分の
代わりになって働く中心者になるまで成長させずに、自分が先頭に立っているのです。先頭に立ちな
がら、その人を育てて、先頭に立つようにしなくてはいけません。第二の自分をつくらなくてはならな
いのです。それは自分によります。自分はその人のできない部分を責任をもちながら、その人を先頭に
立たせるのです。

だから、自分は育てなくてはいけません。イエス様も、洗礼ヨハネが一線に立たないから、伝道し始
めたのですが、洗礼ヨハネがやれば、自分は引っ込んでしまうのです。だから皆さんも、六カ月なら六
カ月、ある期間を決めて、自分は先頭に立つけれども、六カ月過ぎたあとは、自分の代わりに立つ人を
見つけて、中心者に育て、個人指導しなくてはならないのです。ずーっと個人指導して、自分ができな
ければ地区長に任せてくるか、とにかくだれかに任せて、中心者を養ってこなくてはならないのです。

自分は一線に立って活躍しても、その目的は、第二の自分になる人間を中心として、誠意を尽くすた
めです。だからその人をつくるまでは、あまり大勢とつき合ってはなりません。イエス様も、ある青年
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が、
「私も先生についていきます」と言った時、
「人の子にはまくらする所がない」と言ったのは、洗礼 ヨ
ハネという人間を探さなくてはならないからです。だから学校の中で開拓する時も、学校の中でだれ
を中心に立てるか、他の人を伝道しなくていいから、その人一人に誠意を尽くして立てれば、中心にな
らない者百名より、中心になる者一名のほうが、約三カ月なら三カ月、六カ月なら六カ月で、その人さ
え立てば、学校全体に影響があるのです。

日曜学校へ通った者の中で、大宗教家が出てきたというのです。日曜学校の時期は本当に、宗教的刺
激が激しい時だからです。だから日曜学校をやらなくてはならないです。本当なら、正式なら、そうな
のです。教会教育、宗教教育というものは、本当に貴重なのです。

親にどう対すか

親に対しては、この理念によって健全に生活しているのを知って信頼しているのなら、それでいい
のです。それで親は救われているのです。血統的に関係のない人を自分の親より以上に愛せば、ある期
間を過ぎたなら、自分の親は自然に分かってくるのです。

自分の家庭を直接は伝道できないのです。他の人から褒められて、
「自分の子が世間でああいう立場 に
いるから」と認められるようになったら、家庭でも感動するのです。自分で直接できないのです。心配
する必要はないのです。ただあまり心配させないように、便りで自分のやっている仕事を報告すると
いいでしょう。親の立場をいつも思っているという証拠を見せて、尊敬しながら、自分の使命はこう
いうことだと、親が心配しないくらいに自分の活動や生活
を報告したら、自然に時が来たら、来ますよ

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