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侍る 生活に ついて の講話

私のすぐそばにおられる先生を実感するなら、私たちの生活自が変わってくるのです。
宋富雄(韓国家庭部指導課長)

侍る生活を個性完成

 私は家庭部の指導課長長をしている宋富雄です。教会生活や家生活について、私なりに感じたことが
ありましたので、いくつかの重要事項についてお話をいたします。子女の時代において、家庭を中心とし
て統一教会の食口たちが、天に侍る生活をいかにすれは良いか、侍る生活についてお話をしたいと思い
ます。これは祝家庭のみならず、食口全体に該当する話です。祝福家庭が中心となって、これを食口全体
に伝えるようにして下さい。そして、これはただ理論で終わるのではなく、その意味を悟って、実践して
下さい。実践する人は更に天の愛をうけることかできるのです。
 原理的にみるならば、旧約時代は行うことによって義とされる行義時代、新約時代は信義時代、そして
成約時代は侍義の時代ということを、皆さんは既に御存知のことと思います。人間の完成は侍る生活で
終わるようになっております。先生は侍る生活に対する具体的生活内容についてお話し下さったのです
が、今までこれがまともに伝えられなかったのであります。そのために、三大祝福をなしていくうえで重
要核心である個性完成について、若干の差異をみいだしたのであります。それで韓国においては、多くの
霊的に祈っておられる方たちが、天からこれに対する指示をうけ、啓示をうけて、刺激されている段階に
あります。
 侍る生活の基本はどこにあるのでしょうか。私たちは神の創造目的は三大祝福をなすことである、と
知っております。三大祝福の第一は個性完成でありますが、ではこの個性完成はいかにしてなされるの
でしょうか。元来、個牲完成した人間は神と一体となり、神の聖殿となり、神の性品をもつことによって、
結果的に神の心情を所有するようになります。そして 神のみ旨を悟って そのみ旨通り生活すること
によって、神に喜ばれる人間となるのでおります。このような人間が、即ち個性完成した人間であるとい
うことを、私たちは原理を通して良く知っております。原理講義はここからはじまるのであります。
 では、いかにしたら神様と一体化できるのでありましょうか。個性完成した人間は神と一体化した人
間であり神の聖殿となり、神の性品をもった人間であるということは良くわかっておりますが、私たち
がいかに生きることによって、神と一体となり、神の聖殿となり、神の神性を所有し、神の心情とみ旨を
悟った生活をする人間となりうるのでしょうか。こういう問題に対しては曖昧な点があるのです。原理

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講義を良くし、原理講論を沢山読めば、こうなるかといえば、ここにも問題があります。侍る生活は個性
完成と直結される問題であります。個性完成は侍る生活を通さずしては、侍る生活の完成なくしてはあ
り得ないのです。
 神と一の体とならなければならないと言われますが、では一体となった生活とはどのようなものでし
ょうか。それが即ち侍る生活であります。そのために、とくに子女の時代において、すべての統一教会の
食□たちは神と一体となった生活、即ち侍る生活を通して個性を完成し父母様が完成された如く、私た
ちも第二の完成、第三の完成をめざして、父母様の勝利的な基準を引き継ぐようにならなければなりま
せん。それはまず個性完成から出発しなければなりません。その後に家庭完成があり、そして万物の主管
性完成があります。

原理的過程を通して臨在

 では、この侍る生活の基本精神は何でありましょうか。それは、神が常に私と共におられるという事実
であります。私たちは原理を通して、神について良く知っております。神は心情の根本であられ、愛の根
本であられ、力の源泉であられます。しかし、その心情と愛は美と真と善を通して表れ、その力は秩序と
法則と原理を通して表れるのであります。このようになっております。そのために、私達が神に出会う方
法は、美と真と善の生活、秩序と法則と原理の生活を通してである、ということを私たちは原理によって
良く知っております。
 このような神様が私に臨在される時も、必ずこのような原理的な過程を通してこられるのであります
が、常に神様は私の右側にきておられるというのです。原理的にみる時、サタンは常に私たちの左側にお
いて役事をし、善霊や神の役事は右側に属するのであります。そのために、常に私の右側には天のお父様
がきておられるのであります。そのために、侍る生活の第一ポイントは常に私一人で生活するのではな
く、神様が常に私の右側に同行しておられるという事実を、徹底して感じることであります。更に、これ
は無形の神様ではなく、即ち真の父母様が私と同行されるということなのであります。
 日本において、食口たちが夢で啓示をうけるということは、神が既にその食口にこられたことをみせ
てくれたことです。実際韓国においても 一通間あるいは十日間先生が実際対話をかわす如く、右側に
立って同行されることがあるのです。そして 道を歩く時は一緒に行って下さり 買い特に行けば、こ
っちへ行こう、これを買おうと一つひとつ指示して下さるのです。ですから とても実感がこもってお
ります。そのような生活を一週間体験して、その後先生は消えてしまいました。では、そこにおいて何を
示そうとしたのでしょうか。先生が「私は常にあなたとともにいる」ということをみせて下さったのです。
「あなたが一週聞 このように私と生活した如く、これからも続いて生活し これを伝播しなさい」とい
うことであります。しかし その人は霊的になっている時はそのように感じていましたが先生が消えて

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しまうと もとの自分に戻ってしまったのであります。それ故に、侍る生活の引き継ぎができなかった
のであります。
  ここにおいて、最も基本的なことは、無形の天のお父様が私と同行して下さいますが、その無形の神
様が即ち実体の父母様として私と同行されるということであります。このような事実をもって、今から
は私は一人でいる時もみんなと一緒にいる時でも、絶対自分一人でいるのではなく、常に先生とともに
いるということを自覚して下さい。これは原理を通してみんな学んだことでありまのす。
 このように出発することによって、私たちの生活態度において、どのように現れなければならないで
しょうか。原理を聞いたばかりの頃「右の足を先に出しなさい。目上の方を右側に立てなさい。道を行く
時は男性は右側を行さなさい。座わる時は男性が右側に、女性が左側に座わりなさい」等々言われたこと
があると思います。それは結局どのような意味かと言えば、神が右側で役事するので、神側に近い人を右
側におきなさい、ということです。道を行く時も、座る時もそうだというのです。車にのる時も同じであ
ります。自分の尊敬する人とか、目上の人を右側にのせるのです。私たちが一般大衆の中に入る時も私た
ちは神に侍る者でありますので、常に右側の席をとって座らなければなりません。そして 右側ならど
んな席でもと言うのではなく、数理的に座らなければなりません。神は秩序の神であり、法則の神であり
ます。可能な限り右側の席をとり、そして神が常に役事する数理を選ぶのです。一教 三数、七数 八数、
十数、十一、十二、十三、十七、十八 二十一、二十三、二十七 二十八、このような教字が神が役事するの
を好む数字であります。一日の時間においても 一時、三時 七時 八時、十時 十一時、十二時は神が
最も役事しやすい時間なのです。もちろん、神はすべてに役事されるのでありますが。
 そのために、祈りを多くする生活をなしてみると、ある食□と面談する時も、その食□が何時に相談し
にきたかによって、いい内容をもってきたか、問題をもってきたかが判断できます。そのために このよ
うな侍る生活を通して個性完成に入っていけば 霊通など必要なく、韓国的にいえば道に通じるのであ
ります。これを原理的にいえば、個性完成なのであります。このように個性完成した人間であれば、はじ
めて会った人でも知ることができます。それは、霊通して知るということではありません。このような数
理的な生活をなして、常に座わる時も常にそういうことを意識することによって、天のお父様が私とと
もに同行して下さるからです。
 買い物をする時も同じてあります。私のお金で、私が買って、この品物は私のものであるということで
はなく、天のお父様とともに買うのであります。そのために、常に天のお父様の意志を打診して、買い物
をするのであります。ですから、自分の子供の買い物をするとしても、常に子女様たちを考え 天のお父
様を考えながら買い物をし、それを使うようにしなければなりません。また買い物をする時も、できる限
り数理的に買うのであります。お金を払う時も 左手で払って右手でうけとります。例えば、三百円のも
のを買うとしたら、ただ三百円を渡すのではなく、可能な限り千円札で払うのです。一数というのは共通
数でありますから、おつりを七教でうけとるのであります。七百円のものを買う時は、千円を渡して三教

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をうけとるのであります。品物一つ買うにしても、可能な限り数理的な観念をもって買い物をし 入に
接するのです。

臨在感のある生活

 それはなぜかといえば、常に神は原理的な生活を望んでおられるからです。これは、最初はとてもむず
かしいのであります。韓国では、朝 顔を洗う水を汲みます。その水を汲む時も一辺に汲むのではなく
三回に分けて汲むのであります。神が最も愛する教が三数なのであります。そのような生活を通して
我知らずのうちにそれが身について、生活化し、人格化する時 個性完成へとつながるのです。そのよう
な生活をしてみると、霊的にとても澄んできます。私たちが断食祈祷をし 徹夜祈祷をすることよりも
生活全体、朝起きて夜ねるまで二十四時間、先生と同行するようになりますから 身も心も清められま
す。私たちの身体は神の聖殿である と先程言いました。先生が常に私とともにおられる時、自分の身体
の用い方を勝手にすることができなくなるのであります。私たちが大統領に会いに行く時 または先生
御夫妻に会いにゆく時 髪の毛をボサボサにして、いい加減な服装で行くでしょうか。常に先生が同行
されるのに 外的にみる時、髪の毛や服装をいい加減にするでしょうか。また内的な心のもち方を自分
勝手にできるでしょうか。一人でいる時 どんな心でももつことができると思うかもしれませんが 先
生とともにいる私にあっては 心を勝手にもつことはできません。誰かを恨むこともできないし、悪□
を言うこともできないし、批評することもできないのであります。また不平を言うこともできません。常
に先生とともにいて、先生と相談する生活をしてみると、自分の心を自分勝手に扱うことができないの
であります。ですから、常に原理的なもの、先生の心を考えがえ、先生の立場に立って考えるので、その人
の心と言葉と行動が自然にかわるのであります。かわることがないとすれば その人は先生とともにあ
る生活をしていない ということであります。
 理論ではないので、このような生活は最初はとてもむずかしいのであります。なぜなら 堕落人間で
ある私たちは自分勝手に生きようとするからです。また理論がわかっても、実践過程においては霊的背
景がみなちがうので、その期間が短縮される人もいますし、時間のかかる人もいます。韓国をみてみると、
ある人は約三カ月以内にある基準をたてる人もおります。しかし、相当の時間がたっても大した成果を
あけていない人もおります。それは、個人の努力もありますが、霊的背景があるからであります。そうい
うものが問題となります。
 このように常に先生とともにある生活によって、心が清められ、外的にもキチッとするようになりま
す。先生御夫妻は今ドイツにおられますが アメリカにおり ドイツにのみおられるような方ではあり
ません。そのような生活をしてみると、直接感じられます。日本の食口たちも沢山の霊的体験があること
と思います。先生が現われて全てを指示して下さる夢をみるようになります。霊通して啓示をうけたり、

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幻をみるのではなく 最も基本的な平素において感じるある問題をおいて 祈ってみると、夢を通して
教えて下さるのです。このような生活を通して、それこそ道の生活がなされるのであります。これが私た
ち個人における最も基本的な生活なのであります。道を歩く時 車に乗る時、お金を使う時、人と対話す
る時、全ての時を先生に侍って生きている、という基本的原則が個人的な生活においてなされる時、霊感
が高まってくるのであります。そして、人の話を聞く時、判断が正確になります。そうなると 失敗とい
うことが段段なくなってきます。

二性々相の実体

 教会生活についてはどうでしょう。韓国の教会においては、これが一律的に実践できないので、協会長
が公式文をだしました。礼拝堂をみると、講壇があって、その上に机があり、そして黒板があります。イス
がここにおいてありました。これは既成教会式であり、天使長の形式であります。私たちは天の父母様、
実体の父母様に侍るのであります。韓国の食□たちにも、去年の家庭修練会の時に役事されたことであ
ります。本部教会に行って御覧になると、今は二つのイスが、父母様のイスがおいてあります。常に神は
右側に臨在されますので 中央から右側に父母様のイスをおいておきます。座っている方向から右側で
す。私たちは講義で二性々相であると言っておきながら、二性々相として侍らないのであります。それで、
韓国においても役事が沢山ありました。
 この前の家庭修練会においても 先生は必ず一度おいでになりました。その度毎に霊限が開けて、先
生の着ておられる服 色 御夫人のそれをみんな説明しました。その時、先生はトイツにおられた時で
したが、霊肉ともにこられた実体の先生よりももっと親しく感じました。このように 私たらにこられ
てメッセージを下きるのをみたりすると 本当に大変なことだと思いました。結局無形の神様が父母様
を通して役事として現れるのであります。そのために、先生は「あなたたちが私を研究しようとすれば、
一生かかって研究したとしてもわからないだろう」とおっしゃいます。そのような体験をしてみると、本
当にそうだと思います。同時にいろいろな現象が現れるのであります。
 父母様のイスは右側においてあります。そして、オルガンや聖歌隊等は先生の方(右側)に配置して
おきます。そして 指導者たちは右側です。教域長や夫人、必ず夫婦二人が一週間精誠を尽くして 恵み
をうけた内容をもって、食□たらに分け与えなければなりません。そのために 夫婦が必ず出なければ
なりません。そして司会者がでるし、外部から講師を迎えた場合には その方に一番右側に座って項き
ます。今まで韓国においても「教域長の夫人に出て前に座りなさい」と言っても うまくいかなかったの
であります。なぜなら 今まで一人で座ってきた習情があるからです。神の祝福とこの世の結婚は何が
ちがうのでしょうか。この世の結婚式では 主礼が一人で 男性が一人でていって祝祷したりして、主
礼をするのです。しかし 私たちの祝福は父母様お二人で出られて祝祷して下さるのです。

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 私たちの礼拝も同じなのであります。二性々相の神に侍るのでありますから、教域長一人ではなく、夫
婦二人が父母様の代りであります。その夫婦が一週間祈祷し、精誠を尽して、侍る生活を通してうけた恵
みを、聖日に食□たちに伝えて、このように授受作用をしてまわらなければなりません。教域長一人だけ
が前に出て座っていて、夫人はどてにいるのかわからない、だから役事がおりないのであります。神様が
教会にきてみると、天に侍って礼拝をするというのに、御自分の居場所がないと言おれるのです。そして、
御自分は息苦しいと言われるのです。祈祷をする人たちは、そのように感じるのですが、その原因は一体
何でありましょうか。いろいろあると思いますが、その中の一つは、御自分が韓国教会にきてみると、座
っている所がない、と言われるのです。これは最初、とても理事しにくかったのであります。至る所にお
られる神様だから、どんな所にでも居られることができるだろうに、御自分がきて座っている場所がな
い、ということはどういうことか理解できなかったのであります。
 しかし、原理的に再検討してみる時、今まで私たちは言葉では原理的に侍る生活をしている、と言って
おきながら、あまりにも形式がなかったということがわかるのであります。そのために、役事が起こらな
いのであります。社会においても また教会においても、組織的な活動をする時、もっと力がでるのであ
ります。それはなぜかと言いますと、神様は原理の神様であるからです。神のみ旨にあう組織をもって動
くようになれば、我知らずのうちに力がでるようになっております。そのために形式は絶対に無視する
ことができないのであります。そのために、全ての集会は神様と父母様が中心とならなければなりませ
ん。神様に侍って、朝の敬礼のようにひざまずいてはできないけれども、父母様に敬礼をして、そしてお
祈りをして、全ての集会がはじまるのであります。終る時もそのようにして終るのであります。そうする
ことによって、常に神様と父母様を中心とした生活をしなければなりませ人。
 また祈祷室をみる時、先生のお写真だけをおいてある場合がありますが、先生と御夫人お二人の写真
を必ずおいておくのです。外部の人が出入りする所にはお二人の写真をかけておくことができないでし
ょう。韓国の教会の場合、先生のお写真はかけておりません。祈祷室にお写真をおいています。そしてイ
スを二つおいています。それは無形なる神様を二性々相の実体の神様として侍ることになります。一緒
にうつされたお写真でもいいですし、お二人が別々にうつされたお写真でもいいです。今まで先生のお
写真だけということがありましたが、それはいけません。その他、敬礼式の時もお二人の写真をおいて敬
礼をします。
 教域長が説教をする時、その後に誰が現れるかといえば、先生が現れるのであります。説教して恵みが
おりる時には、霊的にみる食口たちの証しによりますと、その瞬間は教域長ではなく、先生のお顔に代わ
られるというのです。そうでなかったら、先生が後に立って笑っておられる姿がみえたりするというの
です。ですから、ここに光が発するのであります。居眠りも一人の食口が眠りだすと、みんなに広まりま
すが、恵みも同じであります。一人が天の恵みをうけると、これもみんなに広まります。教域長夫妻が一
週間そのような生活をして、説教で食口たちに恵みを与えると 次の週に「来るな」と言っても来るよう

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になります。霊的に引っぱる力があってこそ、人々は集ってくるのです。理論だけではとてもむずかしい
のであります。このような生活が徹底してなされていく時、霊肉ともの水準がかわってくるのでありま
す。

父母様とともにある生活

 これが家庭生活の場合はどうなるでしょうか。これが家庭教会の運歌であります。家庭をもった人は
自分たちのお部屋をもっていることと思います。そこに必す父母様お二人の写真をかけて、私たちの誓
いをかけます。そして一部屋しかないのにイスをおくわけにいきませんので、座布団をおくのです。先生
の座布団は白で、御夫人のはピングです。このように座布団を用意して、父母様がおられるというように
思って敬礼をし 祈るのです。これが侍る家庭生活であります。実際の侍る生活をむずかしく思う必要
はありません。私たちの家庭に父母様が来られているというように思って あらゆる準備をすればいい
のです。しかし 今は百バーセノトはできないので、私たちは父母様の座布団を用意しております。しか
し 自分の家ももつようになれば、父母様のお部屋を基本として設計し、建設していかなければなりま
せん。そして 父母様のお部屋には休まれる布団を用意するのです。先生は霊的に来られるのでありま
す。祈っていてそういう経験をして、韓国では準備した人たちが多いのであります。先生が直接来られる
のであります。
「他の家庭を全部まわってみたが みんな眠っていた。しかし、あなたの家だけはまだ 寝
ていなかったので、あなたの家に来たのである」と話されたり、
「私は今夜あなたの家に泊っていく」と お
っしゃったりするので、急いで布団などを準備する、ということもあります。無形なる神様が私と常に同
行するので、実質的にも来られるのであります。
 この前 私たちが集会をした時にあったことについてお話しましょう。それは私たちが祝福家庭を教
育する期間でありました。最初の日に、劉協会長様がこられました。先生は最初の日からきたかったので
すが、こられる条件が備わっていなかったというのです。二日目には安先生が劉協会長のために沢山お
祈りをしました。劉協会長は霊界で着る服をそのまま着て、丁度十時にこられました。
「私は十二時に は
帰らなければならない」とおっしゃって、二時間のうちに、今回の教育の意義はこうである、ということ
を全部伝えられていかれました。金協会長に送るメッセージでありました。そして、終る一日前に先生が
こられました。先生が「今は時代的な恵沢が本当にいいのに」と叱られるのであります。その時、私たち食
口の心情が相当沈常している時でした。
「先生の二十一年路程は終った。来年の四月までは自立期間で あ
る。今は、本当に時代的な恵沢がとても良い。時代的な恵沢によって、今回この教育に参加した人たちは、
心情の基準が一段階高まっていく。今回の教育の意義は、あなたたちが死んで霊界にいった時わかるで
あろう」とこのようなメッセージを下さいました。

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 私たちは礼拝をうけた後に、恵みに包まれた霊的雰囲気を感じるでしょう。讃美歌を一曲歌ったとし
ても、その讃美歌の意味がかわってくるのであります。父母様とともにある個人生活、家庭生活、教会生
活をなしていく時 今まで感じることのできなかったことを、多く感じるようになります。このような
基本的な生活を通して、悟る次元が異ってくるのであります。そうなっていくと私たちは漠然とした神
様ではなく、本当にいきておられる神様を感じることができます。そして、神様が父母様の中に生きてお
れることを実感するようになります。

先生に百パーセント臨在される神

 家庭教会の基本精神について ドイツの副協会長がとても適切な表現をしてくれました。この人は七
十九年当時副協会長をしておられ、今現在どのような責任をもっておられるかはわかりませんが。以前
はカトリックの復興師をしておられ、統一教会に入教した人であります。この人は入教後五年目に副協
会長になったのであります。この方が韓国に来られて証しをしたことがありました。そのお話の中に、家
庭教会の基本精神が正確に表われていました。韓国の食口たちは既に経験していたことでありますが
ドイツにおいてもあのような方がおられるんだ と感銘をうけたほどです。
 この人がアメリカへ行ったのであります。アメリカへ行く前に 先生との出会いを霊的に体験し、そ
してアメリカで先生にお目にかかったのであります。ある日 食□とともにある家を訪問するために、
カトリック教会の前を通りました。以前自分が属していた教会でありますから 入りたくなって中に入
ってみました。一周して出てくると 神様が「あなた どんな感じがしましたか」と聞かれたそうです。
その人は「寂しくて ガラーンとしていて いたくありません」と言えると 「私もあなたが感したよう
に、カトリックに対して感じています」と言われ そして食□たちが今から行こうとしているその家を
示して「これから、私は大きな家ではなく あの家に行って住みたいと思う」とおっしゃったそうです。
そして その時はそれがどんな意味なのかわからなかったそうです。その後、先生は家庭教会の摂理を
宣布されたのであります。それてこの人はこのことだったのかと悟ったそうです。
 ですから、家庭教会の根本は天のお父様が私たち個々人と、そして家庭の中にともに生きるというこ
とです。ヨハネの黙示録二十一章に、見よ、神の幕屋が人とともにあり、神が人とともに住み 人は神の
民となり 神自ら人とともにいまして 人の目から涙を全くねぐいとって下さる。もはや 死もなく
悲しみも 叫びも 痛みもない。先のものが過ぎ去ったからである」とありますが、このみ言が成就する
時がくるのであります。これがホーム チャーチの意味なのであります。ですからホーム チャーチを
相当する人が個人的にも 家庭的にも天のお父様を迎え入れる生活をしなければなりません。
 今まて証しされた方たちの共通した内容は何かといいますと 神に対する真摯な信仰がある時 神
様が役事なさり 仕事が順調にいくということです。そのような生活がなされなければなりません。ま

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た、ある時このような体験をしたそうです。食口たちと野外に出て、景色のいい所に行ったそうです。き
れいだなぁ、と感じていた時に、神様が「あなたの目で私もちょっと見てみよう。あなたの身体を使わせ
ておくれ」と言われながら、神様が身体に入ってきたそうです。沢山の霊的体験をしていましたが、その
ような体験ははじめてだった、ということです。そのような体験の後、先生にお会いして、神様が先生に
百パーセント臨在されていることを知ったそうです。そして、本当に父母様は生きておられる神様であ
ることを、更に感じたそうです。
 このようなことを、私たち全食□が実感し、遠くにおられる先生ではなく、私のすぐ側におられる先生
であることを実感していくならば、私たちの心のあり方、言動、生活自体がかわってくるのであります。
それは即、天のお父様の生活になっていくのであります。先輩、指導者たちがこのような生活を継続して
いかなければなりません。そして、水が上から流れる如く、先生が食口たちを愛して育てる如くになって
いけば、私たちは自然に発展していくようになるのです。過去の歴史をみてもわかるように、外部が問題
ではなく、常に内部か問題なのであります。内的に私たちが天の心情に燃えるようになれば、自然に広ま
っていくようになっているのであります。
 教会でしたら、父母様のイスを必ず準備して下さい。家庭においても、父母様の座布団、食器、布団等を
準備して、いいかえれば、父母様が私たちの家庭にきておられると思えばいいのです。父母様のために朝
御飯をよそって、一日中おいておくのではありません。三十分後ぐらいにはもってきて、食べて下さい。
また、食□たち同志でおいしいお菓子などを買ってきた場合でも、ただお祈りして食べるのではなく、父
母様がおられると思ったら、持っていって召し上って頂くでしょう。父母様に捧げて、しはらくしてから、
みんなで分けて食べるのです。
 侍る生活の基本は、神様が無形で遠くにおられるということではなく、父母様を通して私の家にきて
おられるということです。外出の時も、父母様と同行し、教会でも常にともにあり、家庭でもそうです。最
初は混沌とするかもしれませんが、このような生活を続けていくと、はっきりと区別されるのでありま
す。そうすることによって、子女の時代に父母様の全ての心情と内容を相続し、更に発展することができ
るでしょう。そうして、完成の段階へ入っていくのであります。

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