You are on page 1of 9

NII-Electronic Library Service

   川端康成と﹃易経﹄
│ 大阪府立 木中学校の校歌と校章の由来を中心に│
宮 尚 子
     
はじめに た校章は四の漢数字を模した通称﹁π︵パイ︶マーク﹂
   
  川端康成作品への古典文学の影響を指摘したもの
と 呼 ば れ る デ ザ イ ン で あ る。 こ れ ま で は 四 を 図 案 化
は多いが漢籍に特化した言及は管見の限り殆ど無い。 し た も の と 考 え ら れ て い た が、 漢 金 文 の 四 と 近 似 し
本 稿 で は 中 学 校 時 代 の 校 歌 を 通 し て﹃ 易 経 ﹄
﹃書経﹄ て お り﹃ 易 経 ﹄ や﹃ 書 経 ﹄ の 時 代 を 意 識 し て 採 択 さ

− 23 −
をどの程度受容したかを考察する。 れた可能性が出てきた。﹃易経﹄も﹃書経﹄も所謂帝
川端康成は明治四十五年四月に大阪府立 木中学 王 学 の 書 で あ る。 当 時 の 木 中 学 校 が、 今 で 言 う リ

校 に 入 学 し て 大 正 六 年 三 月 に 卒 業 し て い る。 現 大 阪 ーダー教育や生徒達の一致団結を標榜した教育を目
府立 木高等学校に受け継がれている校歌と校章は 指 し て い た こ と が 伺 え る。 本 稿 で は、 こ の﹁ 学 校 を
こ の 時 期 に 出 来 た 物 で あ る。 こ の 校 歌 の 歌 詞 は 一 般 一つの家庭﹂と考える意識が後の川端の﹁万物一如﹂
的な校歌と違って地名や校名が入っていない点が珍 に由来している点を指摘したい。
﹁万物一如﹂は川端
し い。 明 治 四 十 三 年 に 同 校 の 同 窓 会 の﹁ 会 報 ﹂ に 掲 文 学 の 根 本 的 思 想 で あ り、 仏 教 用 語 と い う こ と で 認
載 さ れ た も の と 今 の 校 歌 の 歌 詞 は 同 一 で あ る。 校 歌 識 さ れ て い る。 し か し﹃ 易 経 ﹄ の 影 響 も 考 慮 す る べ
の 歌 詞 は 四 書 五 経 の﹃ 易 経 ﹄ の 文 言 と 一 致 す る 個 所 き で あ る。 こ の 校 歌 と 校 章 に つ い て﹃ 易 経 ﹄ の 影 響
Shokei College

が見られることから宇宙的規模から人の営みと生き という視点で考察していく。
方 を 説 く﹃ 易 経 ﹄ の 影 響 が 強 い 事 が 指 摘 で き る。 ま
NII-Electronic Library Service
一、校歌について 治四十五年には出来ていた事が﹁会報﹂
︵第二十一号︶
   
大 阪 府 立 木 高 等 学 校︵ 前 身 は 大 阪 府 立 木 中 学 に よ り 確 認 で き る。 曲 は 大 正 四 年 二 月 に は﹁ 会 報 ﹂

校 ︶ で 明 治 末 期 か ら 歌 い 継 が れ て い る 校 歌﹁ 天 つ 空 に 掲 載 さ れ て い る。 こ の 事 か ら 川 端 康 成 が 歌 っ て い
みよ﹂の作詞は 木中学校の国語教諭であった多門 た 木中学校校歌と今の大阪府立 木高等学校校歌
力 蔵︵ 明 治 三 年 四 月、 伊 賀 上 野 に 生 ま れ る ︶ が 手 掛 と は 同 一 の 物 で あ っ た こ と が 指 摘 で き る。 全 国 的 に
け て い る。 多 門 の 担 当 教 科 は 国 語 と 漢 文 と 修 身 で、 は、 忠 君 愛 国 の 思 想 が 徹 底 さ れ 始 め た 明 治 三 十 年 代
検 定 に よ り 教 員 の 資 格 を 得 て い る。 明 治 三 十 三 年 七 に校歌が盛んに作られ始めている。
月 十 三 日 に 三 十 歳 で 赴 任 し て 以 来、 大 正 十 一 年 七 月  
前述の通り校歌が最初に紙面に引用されるのは次
十八日に退職するまで二十二年間同校に勤務してい に上げる明治四十五年の会報の中である。
る。 川 端 康 成 が 在 籍 し て い た 時 代 に 木中学校に勤 ︻資料①大阪府立 木中学校久敬会﹁会報﹂第二拾一

− 24 −
務しており、川端達の一つ下の学年を担当していた。 号 明治四十五年︼

校 歌 の 作 曲 は 岩 城 盛 美︵ 明 治 十 八 年 八 月 六 日、 東 京 一、天つ空見よ日月も星も。其時違へず其道
に 生 れ る。 東 京 音 楽 学 校 選 科 修 了 生 ︶ で あ る。 校 歌 る。我等も各々力行息まず。本務を尽くし
が 作 ら れ た 時 期 は は っ き り し て い な い。 こ の 時 代 は て天意に副はむ。
そ れ ぞ れ の 学 校 に 必 ず 校 歌 が あ っ た わ け で は な く、 二、代々の跡見よ何れの国も。勤めて興り奢り
任 意 で 作 ら れ て い た。﹃ 木 高 校 百 年 史 ﹄︵ 大 阪 府 立 て亡ぶ。我等も互に荒怠誡め。至誠を致し
木高等学校校史編纂委員会編 創立百周年記念事 て国運扶けむ。

業実行委員会 ぎょうせい 平成七年十一月七日発 こ の よ う に 漢 字 の 表 記 が 多 く、 読 み 仮 名 も 不 明 で
     

  以 下﹁ 百 年 史 ﹂ ︶によると歌詞は明治四十三年に あ る。 次 に あ げ る の が 同﹁ 会 報 ﹂︵ 大 正 四 年 七 月 号 ︶
Shokei College

は 作 ら れ て い た よ う だ。 遅 く と も 川 端 の 入 学 し た 明 に掲載されている校歌である。
NII-Electronic Library Service
︻資料②大阪府立 木中学校久敬会﹁会報﹂第二拾七
号 大正四年︼ 1156 4

4
  453  
5511
  3212

4


︵前年多門教諭ノ作ラレシ校歌本年二月曲譜出来   一
  アマツソ
  ラミヨー  ヒツキモ
  ホシーモー
タリ︶ 二 よよのあ とみよ いづれの くにーも
            
校歌
︵一︶ 3322 1166 51323 221

4
4

4
4

4
4

4
4

4
     


天つ空見よ
  日月も星も
  其の時違へず
  その ソノトキ
  タカヘズ
  ソノミチー
  メグルー
道めぐる
  我等もおの〳〵
  力行息まず つとめて
      おこりー
  おごりてー
  ほろぶー
本務を盡して 天意に副はん

− 25 −
︵二︶ 05551 11765 535624 325
     


世々の跡見よ
  何れの國も  勤めて興り
  奢り ワレラモー
  
ーオノオノー リョクカウー ヤマズー
   
て亡ぶ
  われ等も互に
  荒怠いましめ われらもー
  
ーたがひにー くゎうたいい ましめー
   
至誠を致して   國運扶けん
  資 料 ① に お い て﹁ 誡 め ﹂ と 表 記 さ れ て い た 箇 所 が   05551 15132︱23313
  221


資料②では﹁いましめ﹂とひらがなで表記されている。
  ホンムヲー
  ーツクシテーーテンイニ
  ソハン
この会報では次ページに次に上げる略譜が付けられ
  しせいをー
  ーいたしてーーこくうん
  たすけん
ており旋律が分るようになっている。
     行天健。君子以自彊不息。︵易経︶
︻資料③大阪府立 木中学校久敬会﹁会報﹂第二拾七
     克勤于邦。克倹于家。
︵書経︶
Shokei College

号 大正四年︼
    大 正 四 年 で は﹁ ハ 調 ﹂ と 表 記 さ れ て い る の で ハ 長
校歌  略譜
  ハ調
  四分ノ四
  中庸ニ 調︵﹁ Ces-Dur
﹂つまりドの音で始まる。ただし﹁・﹂
NII-Electronic Library Service
がついているので高いドの音で始まる︶であること にそはん
が 分 か る が、 実 際 ど の 音 階 で 歌 わ れ て い た の か は は 世々の跡見よ
  いづれの国も  つとめておこり
っ き り し な い。 現 在 の 校 歌 は 変 ロ 長 調︵﹁ ﹂つ おごりて亡ぶ
B-Dur  
まりシの音で始まる︶である。 われらも互に
  荒怠いさめ
  至誠を致して  国
次 に 上 げ る の は 大 正 四 年 十 二 月、 府 へ の 認 可 稟 請 運たすけん

を行った際の歌詞である。   こ の よ う に 漢 字 表 記 の 違 い は あ る も の、 内 容 は 明
︻資料④府に認可の稟請を行った時の校歌 大正四年 治 四 十 五 年 当 時 と 殆 ど 同 じ で あ る。 前 述 の 通 り 校 歌

十二月︵百年史による︶︼ の歌詞としては珍しく学校名や土地名などの固有名
一、天つ空見よ日月も星も
  其時違へずその道
詞 が 入 っ て い な い。 百 年 史 に よ る と 明 治 四 十 一 年 に
めぐる 我等もおのおの力行息まず 出 さ れ た 所 謂﹁ 戊 申 詔 書 ﹂ の 影 響 が 強 い と 言 う。 こ

− 26 −
   本務を尽して天意に副はん
の 詔 書 は﹁ 勤 倹 力 行 の 詔 書 ﹂ と も 呼 ば れ る。 以 下 内
二、世々の跡見よ何れの国も
  勤めて興り奢り
容を上げる。
て亡ぶ
  われ等も互に荒怠いさめ
︻資料⑥戊申詔書︵明治四十一年十月十三日︶︼

   至誠を致して国運扶けん
朕惟フニ方今人文日ニ就リ月ニ將ミ東西相倚リ
  前述の﹁誡め︵いましめ︶﹂が﹁いさめ﹂と変更さ
彼此相済シ以テ其ノ福利ヲ共ニス朕ハ
れている。次に上げるのが現在の歌詞である。 爰ニ益々國交ヲ修メ友義ヲ惇シ列國ト與ニ永ク
︻資料⑤平成二十八年一月の校歌︵百年史による︶︼ 其ノ慶ニ頼ラムコトヲ期ス顧ミルニ日
天つ空見よ
  日月も星も
  其時違へず
  その道
進ノ大勢ニ伴ヒ文明ノ惠澤ヲ共ニセムトスル固
めぐる ヨリ内國運ノ發展ニ須ツ戦後日尚浅ク
Shokei College

我等も各々
  力行やまず
  本務を尽して
  天意
庶政益々更張ヲ要ス宜ク上下心ヲ一ニシ忠實業
NII-Electronic Library Service
ニ服シ勤儉産ヲ治メ惟レ信惟レ義醇厚 健 全 に 運 行 さ れ て い く と い う こ と で、 そ の よ う に 君
俗ヲ成シ華ヲ去り實ニ就キ荒怠相誡メ自彊息マ 子 も、 自 ら 努 め、 学 問 に 励 み、 人 と 交 わ り、 職 務 を
サルヘシ 全 う し、 怠 る こ と は な く 規 則 正 し く 健 全 に 行 わ れ な
抑々我力神紳聖ナル祖宗ノ遣訓ト我力光輝アル け れ ば な ら な い ﹂ と い う 意 味 で あ る。﹁力行息まず﹂
國史ノ成跡トハ炳トシテ日星ノ如シ寔 や﹁ 天 つ 空 見 よ 日 月 も 星 も
  その時違へず   その道
ニ克ク恪守シ淬礦ノ誠ヲ諭サハ國運發展ノ本近 る ﹂ に 影 響 が 出 て い る。 ま た 最 古 の 歴 史 書 で あ る
ク斯ニ在リ朕ハ方今ノ世局ニ處シ我力 ﹃書経﹄の虞書﹁大禹謨﹂にある﹁成允成功、惟汝賢。
忠良ナル臣民ノ協翼ニ倚藉シテ維新ノ皇 ヲ伭 克 勤 于 邦、 克 儉 于 家、 不 自 滿 假、 惟 汝 賢 ﹂ も 舜 が 禹
弘シ祖宗ノ威徳ヲ對揚セムコトヲ庶幾 に 治 水 を 成 し 遂 げ る よ う に 命 じ て い る 場 面 で あ る。

− 27 −
フ爾臣民其レ克ク朕力旨ヲ體セヨ︵傍線
  宮 ︶ ﹃易経﹄は森羅万象の変化法則を説き、共同体の存亡
  ﹁宜ク上下心ヲ一ニシ﹂には一致団結して物事に当 に言及した古代中国の周の時代の書物と言われてい
たる姿勢、﹁勤儉産ヲ治メ﹂には校訓﹁勤倹力行﹂が、 る。 周 は 太 公 望 な ど で 知 ら れ る 優 れ た 家 臣 集 団 が そ
﹁自彊息マサルヘシ﹂には﹁我等も各々
  力行やまず﹂ れぞれの能力を生かし協力して築いた理想国家だっ
が、﹁日星ノ如シ﹂には﹁日月も星も 其時違へず た。 当 時 の 木中学校では大正二年から生徒達の作
   
その道めぐる﹂にそれぞれ影響が見られる。 業 に よ り 水 泳 池 が 作 ら れ て い た。 こ れ も 校 訓 で あ る
  出 典 と な っ て い る﹃ 易 経 ﹄ と﹃ 書 経 ﹄ に つ い て 次 ﹁勤倹力行﹂を実践したものと言われているが、禹王
に 説 明 す る。﹃ 易 経 ﹄ の﹁ 乾 為 天 ﹂ に あ る﹁ 天 行 健。 の 治 水 と 重 な る。 こ の 結 果 日 本 で 最 初 の 水 泳 池 が 完
君 子 以 自 彊 不 息 ﹂ は﹁ 天 行 健 な り。 君 子 以 て 自 ら 彊 成することとなる。
Shokei College

め て 息 ま ず ﹂ と 読 み﹁ 天 地 は、 と て も 健 や か に っ   校歌が制定された当初の 木中学校は、一致団結、
ていくということ、途切れることなく、規則正しく、 家 庭 団 欒 を 意 識 し た 教 育 が 行 わ れ て い た。 初 代 校 長
NII-Electronic Library Service
加藤 吉 は 教 員 に、 異 動 す る こ と な く 長 く 勤 務 し て の 中 に﹁ 四 ﹂ を 入 れ 込 ん だ も の が 使 用 さ れ て い た。
研 鑽 を 深 め る こ と を 推 奨 し て い た。 そ の 為、 教 職 員 諸 事 情 で 明 治 四 十 二 年 に はπ の 字 に 良 く 似 た 校 章 が
や 生 徒、 卒 業 生 た ち の 間 で﹁ 自 分 た ち の 学 校 ﹂ と い 使 用 さ れ 始 め た。 こ れ が 現 在 で も 使 用 さ れ て い る 校
う 意 識 が 強 く な っ て い っ た。 こ の 団 結 力 は 現 在 の 章で通称﹁π ︵パイ︶マーク﹂である。︵図1︶この
木 高 等 学 校 に も 色 濃 く 受 け 継 が れ て い る。 こ の よ う 特 徴 的 な マ ー ク は﹁ 四 の 字 を 少 し 図 案 化 し て ﹂ 作 ら
な 土 壌 か ら 川 端 康 成 に は 集 団、 団 体 に 帰 属 す る 意 識 れたと大阪朝日新聞に次のようにある。
が高まったと言える。 ︻資料⑦  昭和十六年五月十一日﹁大阪毎日新聞﹂

府立 木中学校では最近同校章を創立当時の校
    二、校章について
章に復活しようと協議を進めてゐる。
  川 端 康 成 の 母 校 で あ る 大 阪 府 立 木 中 学 校 は、 明
す な は ち 現 在 の 校 章 は︵ 中 略 ︶ 四 を 図 案 化 し た

− 28 −
治二十八年に大阪府第四尋常中学校として創立した。 あ ま り に も お 粗 末 な も の で あ り、 校 章 と し て ふ
大阪で四番目に出来た中学校であるが、第二、第三、 さわしくないといふのがこんど問題となつたの
第四尋常中学校の創立年は同時なので実質大阪府で である。
二番目に出来た公立中学校であった。︵明治六年に創   しかしこのパイマークの形は図案化したものでは
立した大阪府第一尋常中学校は現大阪府立北野高等 な く 篆 刻 体 を 使 用 し た 可 能 性 が 高 い。 パ イ マ ー ク の
学 校、 明 治 二 十 八 年 に 創 立 し た 大 阪 府 第 二 尋 常 中 学 形が漢金文に酷似しているのだ。
︵ 図3 ︶ 漢 金 文 と は
校 は 現 大 阪 府 立 三 国 丘 高 等 学 校、 大 阪 府 第 三 尋 常 中 漢 時 代 に 金 文 を 模 し た 字 体 で あ る。︵ 漢 金 文﹁ 漢 代
学 校 は 現 大 阪 府 立 八 尾 高 等 学 校、 大 阪 府 第 四 尋 常 中 に 確 立 し た 篆 刻。 甲 骨 文 字、 金 文 文 字、 篆 書、 楷 書
学校は現大阪府立 木高等学校である︶創立当初の と 変 化 し て き た。
﹂﹃篆隷字典﹄より︶金文は古代中
Shokei College

校章は他の尋常中学校と同じで六陵︵六角形の星形︶ 国 の 殷 や 周 時 代 に 使 わ れ て い た 文 字 で あ る こ と か ら、
NII-Electronic Library Service
そ の 周 時 代 を 意 識 し て 使 用 さ れ た 可 能 性 が 高 い。 同
校の図書館には﹃康熙字典﹄ ︵文栄閣 明治 年︶
  ﹃補       結論  万物一如思想との関連
2

刻段氏説文解字 ﹄︵ 明 治 年 ︶ が 所 蔵 さ れ て お り、   以 上 の 考 察 か ら、 川 端 康 成 が﹁ 万 物 一 如 ﹂ に 共 感
11

いずれもこの字体を確認することが出来る。﹃類聚名 し た 理 由 の 一 つ に、 大 阪 府 立 木 中 学 校 で 受 け た 教
義 抄 ﹄︵ 図 2︶ に も 似 た 字 体 を 確 認 出 来 た。︵ 同 校 に 育 が 関 係 し て い る と 思 わ れ る。 学 校 全 体 で 取 り 組 ん
こちらの所蔵は無い︶校歌と校章が制定されたのが で い た 集 団 教 育 が、 校 歌 や 校 章 か ら 見 ら れ る。 こ の
同 じ 時 期 な の で い ず れ も 周 の 文 王・ 武 王 の 時 代 を 意 時期に 木 中 学 校 に 勤 務 し て 国 語、 漢 文 の 科 目 を 担
識 し た リ ー ダ ー 教 育 が 目 指 さ れ た と 思 わ れ る。 一 般 当してた多門力蔵の二十周年記念の文章があるので
的に旧制中学校の校名や校訓には周の文王を意識し 次に引用する。

− 29 −
た 物 が 多 く 引 用 さ れ て い る。 熊 本 県 立 濟 々 黌 高 等 学 ︻資料⑧多門力蔵﹁二十周年記念日に遭ひて懐ふ所を
校 の 校 名﹁ 濟 々 黌 ﹂ も﹁ 多 士 済 々﹂ か ら 来 て い る。 陳ぶ﹂大阪府立 木 中 学 校 久 敬 会﹁ 会 報 ﹂ 第 二 拾 七
全国で帝王学を意識した集団教育が行われていた時 号 大正四年七月︼

代 な の で 優 秀 な 人 材 を 指 す﹁ 多 士 済 々﹂ の 時 代 を 意 私は常に学校を家族的にしたいと思つてゐます。
識 し た 金 文 が 使 用 さ れ る の は 自 然 な こ と で あ る。 校 尤も学校を家庭的にしようといふ人はいくらも
章の由来に言及した同時代の資料は見つかっていな あ り ま す が、 私 の い ふ の は そ れ と 違 ひ ま す。 所
い が、 校 歌 に 合 わ せ た 校 章 で あ っ た こ と は 間 違 い な 謂家庭主義は単に学校の内部即ち教師と生徒と
い。 の 間 を 家 庭 的 に や つ て ゆ か う と い ふ の で、 卒 業
生 は 除 外 し て あ る の で す。 併 し 学 校 は 工 場 で は
  以 上 の 事 か ら、 通 称 パ イ マ ー ク で あ る 校 章 は 古 代
Shokei College

中 国 の 周 時 代 を 意 識 し た 金 文 の﹁ 四 ﹂ を 使 用 し た も あ り ま せ ぬ、 卒 業 生 は 輩 出 さ れ た 製 造 品 と は 違
のであったと推測する。 ひ ま す。 卒 業 生 は 学 校 の 生 ん だ 子 で、 切 つ て も
NII-Electronic Library Service
切 れ ぬ 肉 親 で あ り ま す。 私 の い ふ 家 族 主 義 は、
教 師 が 親 た り 生 徒 が 子 た る 外 に、 在 校 生 は 弟 と

(大阪府立茨
木高等学校校史編纂委員会編 創立百周
年記念事業実行委員会 ぎょうせい 平
し て 兄 た る 卒 業 生 を 敬 慕 し、 卒 業 生 は 兄 と し て
︱︱ 親 の 手 を 放 れ て 自 活 し て 居 る 兄 と し て ︱︱
弟 た る 在 校 生 に 友 愛 の 情 を 寄 せ、 且 卒 業 生 中 の

『茨木高校百年史』
伯たり仲たる人は其の叔たり季たる人を指導し

成七年十一月七日発行
誘掖し相提携して社会に活動するといふ風にし
た い と い ふ の で、 斯 う な ら ね ば 学 校 教 育 の 本 意
は徹底されないと私は思ふのです。

【図1】
  このように学校を一つの家族と捉えている意識が

− 30 −
教 員 の 間 で 高 い。 こ の よ う な 教 員 が 校 歌 や 校 章 の 作
成 に 携 わ り、 機 会 あ る ご と に 集 団 意 識 を 奨 励 し て い
た形跡が伺われる︵生徒日誌︶ことから、
﹃易経﹄な
どの帝王学の基本理念が生徒たちに浸透していった

【図2】『類聚名義抄』
ことがわかる。以上のような点から川端康成への﹃易
経﹄﹃書経﹄の影響は、大阪 木中学校の校歌と校章
を 通 じ て 浸 透 し た こ と が 指 摘 で き る。 皆 で 一 つ に な
る 経 験 を し て い た こ と が﹁ 万 物 一 如 ﹂ を 享 受 し た 一
つの要素であると考える。
Shokei College
Shokei College

【図3】服部畊石編『篆刻字林』資文堂 昭和 2 年発行※説文古文…『説文解字』にある俗字。

− 31 −

NII-Electronic Library Service

You might also like