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永平二祖孤雲懐弉──その半生と『正法眼蔵随聞記』──

文学研究科国文学専攻博士後期課程満期退学 諏訪
 安弘
はじめに 正安二年正月十一日から開示したものを侍者等が筆錄しまとめたも
(3)
のである。瑩山紹瑾は少年時代に年久しく懐弉に奉侍し、剃度受戒
  弘 安 三 年( 一 二 八 〇 ) 八 月 二 十 四 日 夜 半、 懐 弉 は 寂 し た。 享 年 し、その薫陶を直接受けたという因緣がある。従って、諸伝記の中

─ 37 ─
八十三歳、辞世の偈に、 で最も信憑の高いものである。本論での史実は主として『傅光錄』
(1)
 八
十三年如 二
夢幻 一
シ ノ
。一生罪犯覆 二 彌天 一
フ ヲ
。 によるものである。
 而今足下無絲
去 ル。蹈 二

翻 シ虚

空 一

没 二
地泉 一



とある。自分の一生を振り返って見ると、彌天を覆う程の罪犯に満 一 おいたち
ちていると、宗教的罪業観に生涯悩まされたことを告白している。
 懐弉において、この罪業意識はどこから現われたものか、その克  永平寺二祖道光普照国師孤雲懐弉は、建久九年(一一九八)京都
服にどんな行動がとられたか、この小論で考察する。懐弉の生涯を で生まれた。生年月日、京都の誕生地は明らかではない。
『傅光錄』
綴った書物を精査してもこの罪業意識の根底にある具体的なものを では、俗姓藤氏、所 レ謂九篠大相国四代 ノ孫、秀通 ノ孫也とある。諸
示したものは見当らない。罪犯に相応する具体的事件・事柄も見当 伝を綜合すると、二祖国師は、法成寺関白藤原道長の次男堀河右大
永平二祖孤雲懐弉

ら な い。 懐 弉 の 人 物、 生 涯 を 明 ら か に し た も の に、 正 安 二 年 臣 藤 原 頼 宗 七 世 の 孫 で あ り、 九 篠 大 相 国 藤 原 伊 通( 一 〇 九 二 ―
(2) (4)
(一三〇〇)に成立した瑩山紹瑾撰の『傅光錄』がある。この書は、 一一六四)の曽孫である。藤原頼宗七世の孫につき、村上素道氏は、
瑩山紹瑾(永平四世一二六八―一三二五)が石川県大乗寺において、 系譜を図示して、藤原頼宗―俊家―宗通―伊通―伊實―伊輔―懐弉
と図示している。懐弉の父は藤原伊輔である。母には記錄がなく、 から始まる一家の凋落、鎌倉時代に入り、公家社会から武家社会へ
不詳だが、『傅光錄』にある母の訓戒のことばから、めぐまれない の時代の変革に伴い、宗教改革的気運が高まったこと等であった。
(6)
運命の星の下に生き続けた女性で浄土教の理解と信念を持った人で 「倶舍成実の二教、後に摩訶止観」
 懐弉が比叡山で学んだものは、
あると推測される。 とあるが、師円能法印は源信の流れを汲んでいるので、浄土教の素
(5)
修法印の紹介で
 懐弉が八歳の時(元久二年、一二〇五)叔父の実
養は十分体得していたわけで、懐弉は幼少年期に円能から浄土教を
比叡山に登り、円能法印のもとに投じ、修学を始めている。その後、 も修学したことは十分推測される。その上、叡山一帯に天台浄土信
建保三年(一二一五)、十八歳で落髪得度し正式の出家生活に入る 仰がみなぎり、民間の浄土信仰のたかまりの中で浄土教の宗教思想
まで十年間叢林で生活している。幼年時代から当代一流の円能法印 に心を引かれていたことと思われる。一方、鎌倉時代の初め、大日
の会下で修行生活ができたことは、後に永平二世として名をなさし 能忍が自ら悟を開いて禅法を唱え、摂津(大阪府)の水田(吹田)
めた要因であった。 に三宝寺を開創して日本達磨宗を形成した。文治五年(一一八九)
に、能忍は練中、勝弁を宗朝臨済禅の拙庵徳光の許に派遣し、印可

─ 38 ─
二 出家 を受け、その禅風はさかんとなった。能忍の弟子の仏地覚晏は、能
忍より印証を得て、師の寂後大和多武峰に入山して日本達磨宗の禅
  懐 弉 が 得 度 出 家 し 師 事 し た 円 能 法 印 は、 元 三 大 師 慈 慧 良 源 風を弘めるに至った。
( 九 一 二 ― 九 八 五 ) の 弟 子 源 信( 九 四 二 ― 一 〇 一 七 ) の 流 れ を 汲 ん
 こうして懐弉は叡山修学中に浄土教学と大陸伝来の専修坐禅の禅
でいる。又、横川尊勝院阿闍梨陽範の法孫に当たり、良超、浄遍、 学に接することになったのである。つまり当時の叡山は、「八宗兼
智円の三人の弟子を持っていた。(『諸嗣宗脈記』巻下天台宗脈図) 学の山」とも呼ばれたのである。
建保六年(一二一八)、懐弉二十一歳のとき、叡山の戒壇に登り菩
薩戒を受けた。 三 諸方徧参
 懐弉が出家した動機は、父伊輔をめぐる坊門白河流一門に多くの
出家者があったこと、祖父伊実が保元・平治の乱において上皇方に
 この頃の比叡山延暦寺は、俗化と退廃が世人の非難の的となり、
組し、それが原因で平治元年の叙目で解官され、翌年死去すること 社会悪の根源とさえなっていた。叡山開創者最澄の理想は、後継者
達により顧みられなくなり、仏教を富貴栄達の午段と考えるように 同じであったろう。
なった。そのため、貴族に接近して、仏教を貴族の御用宗教として、
 建保六年に懐弉は円頓菩薩戒を受けた。この年の三月に実父の伊
一家の繁栄や他家を潰す午段とする反面、厖大な土地が寺院に寄進 輔が六十五歳で亡くなり、懐弉の心に大きな変化が訪れた。比叡山
された。その結果、僧侶が私宅を営み私有財産を持つようになる。 の雰囲気が仏法の真理を求めることから逸れて、富貴栄達に傾いて
(7)
もんぜき
時のたつうちに門跡と呼ばれるまでになり、その地位は上層貴族の いることへの不満、修学中に触れた浄土教、禅への深い関心、そし
子弟に独占され、その他の重要な地位は、ことごとく二三流以下の て新たな菩提心が沸き起った。
貴族の子弟で占められるようになった。こうしたことが寺院を覆う 『傅光錄』には、
「ここに名利の学業はすこぶる益なきことを知り
 
と仏法の真理を求めることより富貴栄達の地位を求めることが一層 て、ひそかに菩提心を起す。然れどもしばらく師範の命にしたがっ
顕著になる。道元は、『正法眼蔵随聞記』の中で次のように述べて て学業をもて向上のつとめとす。」とあり、叡山の現実を「名利の
いる。 学業」と断じ、下山を決意するのである。

─ 39 ─
(8)
「教道ノ師モ、先ヅ学問先達ニヒトシク、ヨキ人也。国家ニ知レ、
   師範とは、師円能であり、懐弉が所信を述べた時、猶しばらく学
天下ニ名誉セン事ヲ教訓ス。ヨツテ教法等ヲ学スルニモ、先此国ノ 業を続けるよう諭され、懐弉はこれに従い研鑚を続けたのである。
上古ノ賢者ニヒトシカランコトヲ思ヒ、大師等ニモ同ジカラント思 しばらくして、京都の六条近辺に住む母の意見を聞いて最後の決意
ちなみに (9)
テ、 因 高僧伝・續高僧伝等ヲ扱見セシニ、大国ノ高僧・佛法者ノ を固めようと考え、師円能の許しを得て、一時、叡山を辞した。母
様ヲ見シニ、今ノ師ノ教ヘノ如ニハ非ズ。…」 の実家に帰った懐弉は、これまでの叡山における修学と叡山の現状、
  ち な み に、 道 元 が 比 叡 山 に 登 っ た の は、 建 暦 二 年( 一 二 一 二 )、 自己の菩提心、決意、円頓菩薩戒の受見などについて母に語った。
翌 年 建 保 元 年( 一 二 一 三 ) 四 月、 公 円 天 台 座 主 に 就 い て 剃 髪、 翌 それに対する母の答えは、
( (
「わ れ 汝 を し て 出 家 せ し む る こ ゝ ろ ざ し、 上 綱 の 位 を 補 し て、

((
一〇日戒壇院で受戒している。六カ年経った建保六年(一二一八)
  
下山している。懐弉の在山期間は、元久二年(一二〇五)―承久二 公上のまじはりをなせとおもはず、たゞ名利の学業をなさず、黒
永平二祖孤雲懐弉

年(一二二〇)ごろまでの十五年間、両者が共に叡山で修行したと 衣の非人にして背後に笠をかけ、往来たゞかちよりゆけとおもふ
思われるのは、建保元年(一二一二)―建保六年(一二一八)の六 のみなり。」
年間であろうか、両者に交流があったかは不明だが叡山での体験は というものであった。
『傅光錄』の著者瑩山紹瑾は懐弉に近侍して
いた頃、直接聞いた懐石談で、具体性に富んだ女性のことばである。 の誰であるかは今一つ明確を欠いていたが、ここに至りその人品、
懐弉はこれを聞いて、出家者として不退転の求道心が沸き上がり、 資性等がやや明らかになった。この母のことばに呼応して、懐弉は、
直ちに黒衣にかえ、再び叡山に上らなかった。村山素道氏は、この 「時に師(懐弉)きゝて承諾し、勿ちに衣をかへてふたたび山にの
母のことばを補足して次のように再現する。 ぼらず」と新たな求道心を起し、叡山の衣を脱ぎ、黒衣にかえ、叡
( (
「ナヨ懐弉どの、善く聴きてョ、我身はソナタが、そのような麗
((

  山の学業を放棄したのである。
しき聖となり、尊き僧となられしを見れば学業のほどもさこそと察
 比叡を下りた懐弉は、「浄土の教門を学し、小坂の奥義」を聞く

せられて、かつは逝きし殿(藤原伊輔)に対し、かつは親族知己に ことになる。浄土の教門とは、法然(一一三三―一二一二)の弟子
しかしながら ( (
対し、冥加であり、驕りであり、感激の涙に耐へませぬ。 乍 併 、

((
善慧房証空(一一七七―一二四七)の門を叩いたのである。証空は
つらつら
ソは凡夫の浅はかなる料簡ヨ、 熟 近頃の出家沙門の有様を見れば、 その頃、京都西山の善峯寺の往生院に棲み、不断念仏の行に入って
ほか りょう ら
内道心を磨かず、後世の営みを事とせず、外 綾 羅を飾って唯公上 いた。承久三年(一二二一)の冬の頃であった。母の勧め、証空の
きん
の 交 り に 傲 り、 出 づ る に 乗 與 侍 衛 を 厳 か に し、 入 っ て は 其 座 を 錦 宗教的立場に同意したと思われる。証空は村上源氏の久我通親の猶

─ 40 ─
しゅう しかしながら
繡 にして其食を金玉にす。是れ 乍 併 槿花一朝の栄、浮べる雲の 子で道元とは通親を同じ父とする兄弟の間柄である。道元と同じく
いなづま そもそも
如く、夕の 電 に似たり。 抑 吾身が割き難き恩愛を割き、断ち難 承久の乱の朝廷側で戦後処理の悲惨さを味わい、証空は往生院で不
き愛惜の絆を断ちて、ソナタを出家せしめし事は朧気の志しではあ 断念仏を始めた。懐弉はここで、師の浄土教の立場、いわゆる西山
りませぬ。上綱の位に補せよと思はず、一山の貫首と仰がれよと願 義の奥義を極めたのである。『傅光錄』には、
「小坂の奥義をきく」
はず、唯朝な夕な神かけて願ふところは、どうぞ〳〵名利の覊にほ と記されている。それは、諸行非本願説、一類往生義の立場で、行
だされず、但遁世の志しを固うして假りにも名利の学業を爲さず、 門、観門、弘願門の三門を立て、それぞれに観経以前、観経所説、
道心を磨きて仏の本意を明め、禅定解脱を以て我身及び一切衆生を 弥陀の本願の名号を配し、この弘願のいわれを聞いて安心領解すべ
も導き給へ。然らば一生黒衣の非人にして、往来たゞ徒歩より行き きを説き、仏体即行説の上に立って弥陀の覚体の上に衆生往生が成
給ふとも、吾身に取りては本懐に存じまする。本望に存じまする。 就されると説き、平生の三心(真実に浄土を願う至誠心、深く浄土
…」 に願う深心、所修の功徳を廻向して浄土に往生すると願求する廻向
信仰心に厚い立派な母という印象を受ける。前記のとおり、父母 発願心)を具足し、帰仏の一念で即時に生即無生の往生ができると
 
いうものである。証空は、専修念仏の弾圧をさけ、教団維持のため、 峰の日本達磨宗に帰投する。
『傅光錄』には、
「後、多武の峰佛地上
諸行を本願の中にとり入れた。西山派が今日法燈を伝えるのは、こ 人遠く佛照禅師の祖風をうけて、見性の義を談ず、師ゆきてとふら
のためとされている。 ふ」と記されている。日本達磨宗僧団は大日能忍を始祖とする日本
 懐弉は、証空の浄土教(西山派)を修行して、その奥義を極めた 最初の禅宗の僧団で、臨済禅の規矩に則った修禅が行なわれていた。
が、結局機緣かなわず、自己の宗教的安心立命、具体的には、罪業 多武峰の仏地上人覚晏は仏照禅師拙菴徳光の祖風を受けて見性成仏
意識の克服と思われるが、得られなかったと思われる。 の義を談じていたので、その禅を学ぼうとその念下に参じたのであ
 貞応二年(一二二三)、懐弉は、多武峰の日本達磨宗の仏地覚晏 る。拙菴徳光は、臨済宗大慧派の大慧宗杲の上足で、その法孫に当
の会下に入参する。懐弉の思想的宗教的苦悩は、罪業意識の克服だ たる無際了派は道元が最初に掛搭した天童山の住持であった。
が、証空会下で解消されるはずが満足が得られなかったのは何故で
 懐弉が学ぼうとした「見性成仏」とは、
「すべての人は本来仏で
あろうか。一般に罪業意識の克服は、他力易行、悪人成仏を説く浄 あるということが体験としてつかみうること」、「自己の心性を徹見

─ 41 ─
( ( びん ぎゃ へい
「頻伽缾

((
土教で解消されるというのが通念であろうが、懐弉の場合には異な し、諸法実相の当体と一致させる」ことである。懐弉は、

っていた。懐弉だけが持つ特別なものであり、それは、日本達磨宗 喩」の公案により見性成仏の道理を覚知して、これまで内面にあっ
( (
の 開 祖 大 日 能 忍 に ま つ わ る 逸 話 で あ る。「 江 戸 時 代 の 卍 元 師 蛮 の

((
て常に苦悩の中核にあった罪業意識を払拭することができたと感じ
『本朝高僧伝』の能忍伝や『摂陽奇観』『蘆分船』などの劇作関係な た。『傅光錄』では、
「精窮群に超ゆ。有時首楞嚴經の談あり。頻伽
どによると、能忍は平景清が平氏滅亡の恨みをはらそうとして源頼 瓶喩のところにいたりて、空をいるゝに空増せず、空をとるに空減
朝をつけねらうのを止めさせようとした爲に景清に殺された人物で せずと云ふにいたりて、深く契處あり。佛地上人曰く、いかんが無
ある。」とある。更に、竹内道雄氏は、母の勧告が懐弉が日本達磨 始曠却よりこのかた罪根惑障悉く消し、苦みな解脱しをはると。時
宗入門に大きな比重を占めるという。そのわけは、母と日本達磨宗 に会の学人三十餘輩みなもて奇異のおもひをなし、皆ことごとく敬
教団のメンバーとの間に俗緣関係があったからと類推する。このた 慕す。」とある。懐弉は、自己の罪業意識を克服する最後の修行の
永平二祖孤雲懐弉

め、懐弉の母は、大日能忍と平景清にゆかりのある女性とするので、 場として日本達磨宗僧団に帰投し仏地覚晏より見性成仏の主旨を教
懐弉の罪悪意識はこの辺りにあるのではなかろうか。いづれにせよ、 示され、その体認として、
『首楞厳経』の中の「頻伽缾喩」の公案
西山善峯院で西山義の奥義を極めた懐弉は、安心立命を求めて多武 により悟り得たのである。仏地上人は、大衆の前で自己の発見、到
達 し た 境 地 を 披 露 す る 懐 弉 に、「 い か ん が 無 始 曠 却 よ り こ の か た、 れまで入っていたAの地の空気は、Bの地の空気が入ったときに、
罪根惑障悉く消し、苦み、みな解脱しおはる。」とその境地を証明 水差の両口を開いて缾を倒して出てゆくのが見えなければならない
したのである。 という理屈もつけられることになる。
 ところで、懐弉の悟り得た境地について、竹内道雄氏の所説をも  この頻伽缾喩の一段は、『首楞厳経』第二の二節にある釈尊と阿
こ もう じ ねん しょう
とに、まとめると次にようになる。先ず、「頻伽缾喩」の公案につ 難の問答で、「識陰は虚妄にして本因緣に非ず、自然の 性 に非ず」
びん ぎゃ へい が りょう びん が かめ
い て、 頻 伽 缾 と は、 迦 陵 頻 伽 と い う 美 声 の 鳥 を 形 と っ た 缾 、 つ ま の例としてあげた話である。つまり、認識した認識了別する作用と
しきおん
り水の入口と出口を持つ水差である。仮にその水差の水を入れる口 しての識陰も、対象の真実なる本性を認識する自性清浄心にめざめ
と水を出す口の両口をふさいで、その中に空気を満たしてAの地よ ないと、虚妄で真実でないことになる。またすべてのものが因緣に
しか
り千里を遠く離れたBの地に運んで、そこで両口を開いて空気を用 よってあり、自ら然ある自然の性を持つものであることを認識され
立てたとする。その時、中の空気は出るわけだが、その空気はAの ないことになる。仏陀の妙覚(さとり)を得て自性清浄心に達し虚
地の所属の空気が出たとするか、また現に水差の中には用立てたあ 空と一体の境地に達すれば、生滅の諸相はそのまま不生不滅の真理

─ 42 ─
とでも空気はあるのだが、その空気はBの地で入ったBの地の所属 であることが覚知され、この不生不滅の真理は如来蔵(衆生のうち
の空気とするか、というものである。この公案は、頻伽缾の中の空 にある仏となりうる可能性)そのものである。又こうした清浄心は
気は、空気の本性から考えて、Aの地から来たA地の所属のもので 迦陵頻伽の缾に盛られた空気のようなもので、たとえ己の肉体が滅
もなく、Bの地より入ったB地の所属のものでもない。したがって しても滅し去ることなく、他の身に移り入って永遠に生き続けてゆ
この議論は、空気の誤れる概念を前提とした戯論なのである。つま くものである。諸伝記には、「空の去来無きを知り、識の生滅無き
り、空気の本性を知らないで、頻伽缾中の空気はAの地から来たA を明らむ」とある。懐弉は、これらの道理を知り、罪業意識が悉く
地の所属のものだと理屈をつけて主張すると、それに対してそうで 虚妄の識陰のゆえであることを悟るのである。
あれば、その空気はBの地の空気の貯えてあったのを取り去って入
ったことになり、そうするとBの地には一時空気が無かったことに 四 道元との出会
なると主張することもできることになる。また逆に、現に頻伽缾に
ある空気がBの地で入ったB地の所属の空気であったとすれば、そ  嘉禄三年(一二二七)九月、道元は、宋より帰国し、京都建仁寺
に入る。帰朝後、『普勧坐禅儀』を選述、宣布し、宗教界に知られ 元に信伏し、そのまま引続いてその許で修行し正法の仏法を承知し
るようになる。宗教界では安貞二年(一二二八)四月興福寺の衆徒 ようと願った。道元は、自分は正伝の仏法を伝来し護持し来っては
がその雜人殺害のかどで多武峰宗徒と爭いを起こし合戦に及び、興 じめて日本国中に弘通しようと志している。今は建仁寺に仮に居住
福 寺 衆 徒 ら は 多 武 峰 に 向 か っ て 合 戦 を 企 て、 多 武 峰 の 堂 舎、 僧 房 しているが将来は別に所地を得て定住しようと思っている。もし幸
六十余宇を焼払った。比叡山延暦寺は多武峰の本寺であったので、 い私がところを得て草庵を結んだことを知ったら尋ねてお出なさい
興福寺の乱暴に延暦寺衆徒も蜂起し、興福寺領の近江の荘園を没収 と言った。懐弉は道元の志を聞き、将来の入門が許されたことを喜
した。興福寺の大衆は奈良七大寺を閉鎖し、放火するなど反撃し、 び、時期の至るのを待つことにした。
ついに朝廷、幕府間の政治問題にまで発展し、世情は騒然たる有様
であった。多武峰にあった日本達磨宗僧団はこの事件のまきぞえに 五 観音導利興聖宝林寺
会い、堂舎僧房は破壊焼亡し、僧団のメンバーは離散の運命に逢っ

─ 43 ─
た。懐弉は師覚晏と行を共にし、なお多武峰の山奥の一角に庵を構
 寛喜三年(一二三一)春、道元は、建仁寺から京都山城の深草安
え隠梄し、僧団の新たなる展開を模索していた。 養院に閑居した。建仁寺僧団の腐敗、堕落、比叡山僧の迫害、天童
 その頃、宋より帰国した道元が建仁寺を拠点に布教活動を開始し、 如浄の示寂による心理的変化等で深草に移った。安養院で、「弁道
『普勧坐禅儀』一巻を選述したのを知った懐弉は、道元に参じ初相 話」を発表した道元は、徳風高まり参集帰依する僧俗が増したので、
見を試みた。寛喜元年(一二二九)十一月頃であった。このときの 外護者の正覚禅尼、弘誓院(藤原教家)らの招請で、極楽寺跡の仏
模様は、『傅光錄』に次のように記されている。「はじめて対談せし 殿と寺坊の修理改築をし、天福元年(一二三三)の春に竣工し、観
時、両三日はたゞ師(懐弉)の得處におなじく見性霊知の事を談ず。 音導利院と名づけ、安養院より移錫した。文暦元年(一二三四)冬
時に師歓喜して違背せず、わが得所実なりとおもふて、いよいよ敬 懐弉が入参した。翌嘉禎元年(一二三五)八月十五日道元は懐弉に
歎をくはふ。やゝ日数をふるに、元和尚すこぶる異解をあらはす。 仏祖正伝菩薩戒法を授けた。嘉禎元年(一二三五)十二月には、雲
永平二祖孤雲懐弉

時に師おどろきてほこさきをあぐるに、師の外に義あり。ことごと 納(修行僧)の要請にこたえるため、修行道場である僧堂を建立し
くあひ似ず、ゆゑに更に発心して伏承せんとせしに。」と。 本格的な弟子の養成と坐禅の普及を決意して僧堂勧進疏を作り各方
懐弉は自己の境地が未熟であったことを悟り、更に発心して、道 面に浄財を募った。嘉禎二年(一二三六)十月十五日僧堂開単を祝
 
し上堂説法した。寺の名は、「観音導利興聖宝林寺」とされた。 しゆく也。是を宗とすと、宋土の寺院に住せし時も、衆僧
入門した懐弉は、早速道元の説く正法の仏法である只管打坐の基 に見ゆべからず。
 
本的修行、すなわち『普勧坐禅儀』の趣旨の理解、そこに示されて     実の得道の爲には、只坐禅功夫、佛祖の相伝也。是れに
 
いる結跏趺坐の坐禅修行の習熟であったろう。修行が始まってまも 依って一門の同学五根房、故用祥僧正の弟子也、唐土の禅
な く、『 正 法 眼 蔵 随 聞 記 』 の 筆 錄 が 始 め ら れ た。 嘉 禎 年 間 院にて、持斎を固く守りて戒経を終日誦ぜしをば、教へて
(一二三五―七)に、懐弉が興聖寺で、「学道 ノ至要、随 レ
聞 記錄 ス」
クニ
捨しめたりし也。
したもので、学道精進し、道元の言行の一部始終を聞書きしたので (懐弉)弉公 問 云、 叢 林 学 道 の 儀 式 は、 百 丈 の 清 規 を 守 る べ き か。
ある。一般に随聞記は道元の宗教思想を知る入門書と評価されてい 然に、彼にはじめに、 「受戒護戒をもて先とす。」と見たり。
るが、懐弉が道元の行実と思想の中で最も共感し、感銘したものを 亦今の伝来相承の根本戒をさづくと見たり。当家の口決面
撰述したものであるから、そこに懐弉の撰択があり、懐弉の宗教思 授 に も、 西 来 相 伝 の 戒 を 学 人 に 授 く。 是 則 今 の 菩 薩 戒 也。
想となった道元禅であり、懐弉自身の登場もあり、行実と思想の伝 然るに今の戒經に、
「日夜に是を誦ぜよ。
」と云へり。何ぞ

─ 44 ─
記的事実でもある。 是を誦ぜんを捨しむるや。
まもる
叡山修学中から証空の小坂の奥義、多武峰の仏地上人に見成の義 (道元)師云、然り。学人最百丈の規縄を 守 べ し。 然 ニ、 其 儀 式、
 
を聞くに至るまで、懐弉は罪業と戒律の対立観に立って苦悩した。 護戒・坐禅等也。「晝夜ニ戒を誦じ、専ら戒を護持す。」と
ここに道元の只管打坐を聞くに当たりこの問題を改めて提起したの 云ふことは、古人の行李にしたがふて、祇管打坐すべき也。
いづれの
である。随聞記に懐弉は質問者として登場する。随聞記二巻一章に、 坐禅の時、何の戒を持たれざる。 何 功徳来らざる。古人
(お) い げう
(道元)戒行持斎を守護すべければとて、又是をのみ宗として、是 の行じをける處の行履、皆深心あり。私の意樂を存ぜずし
を奉公に立て、是に依て得道すべしと思ふも、又是れ非也。 て、只衆に従て、古人の行履に任せて行じゆくべきなり。
只衲僧の行履、佛子の家風なれば、從ひゆく也。是れを能
  こ の 問 答 は、 道 元 よ り 仏 祖 正 伝 菩 薩 戒 を 授 け ら れ た 嘉 禎 元 年
事と云へばとて、あながち是をのみ宗とすべしと思ふは非也。 (一二三五)八月十五日より間もない頃のことである。道元は、仏
然ばとて、又破戒放逸なれと云に非ず。若亦如 レ是執せば、 子は、仏位に到るためには、教えに従って真実の修行をしなければ
邪見也、外道也、只佛家の儀式、叢林の家風なれば、随順 ならない、その修行は只管打坐である、と衆僧に述べた後、言った
なづく
のである。真実の悟りを得るには、ひたすら坐禅の功夫に励むのが (懐弉)問云、四十八經戒の中に未受戒の所犯を犯と 名 と 見 ゆ。
いかん
仏祖から受け伝えられた教えである。私と同じ建仁寺門下の五根房 如何。
( ( も
隆禅は、唐土中国の禅院で持斎を固く守って、『梵綱戒経』を一日
((

(道元)答 云、不 レ然 。彼の未受戒の者 の、 今 受 戒 せ ん と す る 時、

中声を出して読んでいたのを教えてやめさせたと話した。ここで懐 所 造 の 罪 を 懺 悔 す る 時、 今 の 戒 に 望 め て、 十 戒 を 授 に、
ぼん せる ぼん
弉は、同門の五根房隆禅が、『梵綱戒経』を音読していたのを道元 犯 輕


ヲ ヲ
犯すと云也。以前所造罪を犯戒と云に非ず。

が教えてやめさせたと言ったことばに触発されて、修行の道場では、 (懐弉)問云、今受戒せん時、所造の罪を懺悔せん為に、未受の者
百丈懐海(七四五―九一四)の清規にある、「受戒護戒を第一とす をして懺悔せしむるに、「十重四十八輕戒を教へて読誦せし
しものもん
る」とある。最近私も授けられた、『梵綱戒経』にも、「日夜これを 」と見たり。又 下 文に、
むべし。 「未受戒の前にして説教す
となえよ。」とある。それなのにどうして戒経をとなえるのをやめ べからず。
」と云へり。二度の相違如何。
させるのですか、と質問したのである。罪業と戒律は懐弉の最大関 (道元)答云、 受 戒 と 誦 戒 と は 別 也。 懺 悔 の 爲 に 戒 經 を 誦 す る は、

─ 45 ─
心事であったのである。これに対して道元は、百丈禅師の規矩を守 猶是念經なるが故に、未受の者、戒經を誦ぜんとす。彼が
から とが
るのは当然であるが、そこで定められている規則は、護戒・坐禅す 為に戒經を説んこと、不 レ可 レ有 るレ咎。下文には、
「利養の為
ることである。戒経に示された戒の読誦にとらわれて、坐禅をおろ の故に」未受の前に是を説くことを修せんとす。最も是を
そかにするのは、本末転倒である、と述べたのである。 教べし。
( (
(懐弉)問云、受戒の時は、七逆の懺悔すべしと見に、如何。

((
 この時点においては、懐弉は、戒律と坐禅は対立するものと考え
ていた。その懸隔感を解決するため、祖錄や経典を重視していたこ (道元)答云、実懺悔すべし。受戒の時不 レ許ことは、且抑止門とし
とが窺われる。又、戒律について、『随聞記』二巻四章に次の問答 て抑る儀也。又上の文は、破戒なりとも、還得受せば清浄
じから
がある。 なるべし。懺悔すれば清浄也。未受に不 レ同 。
いう
(懐弉)懐問云、犯戒と言は、受戒以後の所犯を道 か、 只 又 未 受 以 (懐弉)問云、七逆旣に懺悔を許さば、又受戒すべきか、如何。
永平二祖孤雲懐弉

前の罪相をも犯戒と道べきか。 (道元)答云、然也。故僧正自所 レ立ノ義也。旣に懺悔を許ば、又是


くい
(道元)師
 、答云、犯戒の名は、受後の所犯を道べし、未受以前所 受戒すべし。逆罪なりとも、悔て受戒せば可 しレ授 く
。況菩薩
作の罪相をば、只罪相・罪業と道て、不 可

から

道 二
犯戒 。
ふ と

は、直鐃自身は破戒の罪を受とも、他の為に受戒せしむべ
し。 仏行の実践の中に罪根の消滅があることを悟ることができたと思わ
この問答では、懐弉は、「梵綱経」に二箇所に矛盾があるという。 れる。
 
一つは、犯戒が戒を受けた後に戒を犯したことを言うなら、四十八 『傅光錄』第五十二章本則に、第五十二祖永弉和尚。参 二 元

和尚 一


 
輕戒の中に未受戒のとき犯したということはどうか、二つは未受戒 一日請益 ノ次 デ、聞 下
一毫穿 二
テ ツノ
衆穴 一
因緣 上

。卽 チ

省悟 。

晩間 ニ礼拝 シ問 テ
ナルカ
者を懺悔させるのに、「十重四十八輕戒を教えて読誦させるよ」と 曰、一毫 ハ不 レ門如 何 是 レ衆穴。元微笑 曰 ク、穿了也。師礼拜 ス。と
シテ
あ り、 そ の 後 の 文 に「 未 受 戒 の も の の 前 で 戒 を 説 い て は な ら な い 」 あり、懐弉が「一毫衆穴を穿つ」の言葉を含む因緣談によって大悟
と説くが矛盾ではないか、というものである。又、受戒の時、「七 したことが記されている。この「一毫衆穴を穿つ」の言葉が含まれ
逆の懺悔せよ」とあり、一方、「七逆の人のため現身に受戒せしむ る因緣話は、石霜楚円と全明上座、全明上座と径山の洪□との因緣
ることを得ざれ」とある、この関係はどうか。後の質問に対し、道 談として、道元撰述の『正法眼蔵三百則』
(嘉禎元年(一二三五))
元は、破戒の人でも懺悔して、重ねて受戒すれば、清浄であるとい の中に見られるものである。「一毫衆穴を穿つ」は仏法の真理を比
う。たとい逆罪(父・母・阿羅漢を殺す、仏身より血を出す、僧団 喩で現わしたものである。毫とは真如、無物の不源、宇宙の本体、

─ 46 ─
を破壊すの五逆罪)であっても悔いて受戒を求めたら授けるべきで 万法をして万法たらしめている法性である。衆穴とは人間界・生物
ある。菩薩は、たとい授けるべきでない人に授けたために自らは破 界をはじめ現実をして現実たらしめている一切の森羅万象の中に全
戒の罪を受けようとも、人のために受戒さすべきである。懐弉は正 て顕現しており、逆に現実今の森羅万象を通じてのみ我々は真如法
伝の仏法である道元禅の戒律観と罪業観を悟ることができたと思わ を感得できるのである。しかし真如は真如として、万象は万象とし
れる。 て絶対で、両者の関係は平等即差別の関係にありながら現実の世界
にあるがままに現成していることである。
 かつて懐弉は、多武峰の覚晏会下で、『首楞厳経』の「頻伽缾喩」
 懐弉は、
のくだりで、「空をいるゝに空増せず、空をとるに空滅せず」の語 「 一 毫 は 問 わ ず、 如 何 な る か 是 れ 衆 穴 」 と 自 己 の 境 地 を
句によって、覚晏に罪根惑障の消滅を証明されたが、道元禅に接す 開陳した。即ち、一毫たる只管打坐が衆穴たる全ての生活を貫き統
るとそれは罪業意識の完全消滅ではなかったことに気付いたのであ 一するものであると悟ったのである。道元は懐弉の境地を、「穿却
る。経典の上で戒律に関する語句について学問的検討を加え、背後 了也」と認め、印可証明をした。嘉禎二年(一二三六)十一月中旬
に坐禅の実践よる現実的解釈を加え、懺悔の功徳力を信じて日々の の冬安居の結制に入った頃のことであった。更に、十一月十八日嗣
書を授けられ嗣法相続したのである。 自利なれども、道を行ずることは衆力を以てするが故に、今心を
 嘉禎二年十二月除夜、懐弉に最も記念すべき日が訪れる。道元か 一つにして参究尋覓すべし。玉は琢磨によりて器となる、人は練
ら初めて興聖寺の首座に請ぜられ、道元に代って秉払(払子をとっ 磨によりて仁となる。何の玉かはじめより有 レ光、誰人か初心よ
て主席占め法座を開くこと)し、「洞山の麻三斤」を提唱説法した。 り利なる。必みがくべし、須 ク
練 る。自卑下して、学道をゆるく
しレ
懐弉三十九歳である。『随聞記』五巻四章に書かれている。 する事なかれ。
はじめて しゅそ
嘉禎二年臘月除夜、 始 請 懐 弉於興聖寺 首 座 。 卽 ふ 参 次、
     古人云、「光陰虚くわたることなかれ。」
ズ ニ
二 一
首座 一
請秉払。初任 二 、卽興聖寺最初(の)首座成。 今問、時光はをしむによりてとゞまるか。をしめどもとゞまら
  
ズ ニ
むなしく わたら
小参云、宗門の佛法傅来の事、初祖西来して少林に居して機を ざるか。又問、時光 虚 度 ず、人虚渡る。時光をいたづらに逃
  
まち、時を期して面壁して坐せしに、某年の窮臘に神光来参しき。 すことなく学道せよと云也。如 レ是参同心にすべし。我獨擧揚せ
初祖上乗 ノ器なりと知て、接得す。衣法ともに相承傅来して、皃 ん に 容 易 に す る に あ ら ざ れ ど も、 佛 祖 行 道 の 儀、 皆 如 レ是 な り。

─ 47 ─
孫天下に流布し、正法今日に弘通す。初て首座を請じ、今日初て 如来にしたがって得道するもの多けれども、又阿難によりて悟道
なかれ
秉 拂 を お こ な は し む。 衆 の す く な き に は ゞ か る こ と 莫 、 身 初 心 する人もありき。新首座非器也と卑下することなく、洞山の麻三
ふん よう わづか く
な る を 顧 こ と な か れ。 汾 陽 は 纔 に 六 七 人、 薬 山 は 不 満 十 衆 也。 斤を擧揚して、同衆に示すべしと云て、座をおりて、再鼓を鳴し
いひ
然れども、佛祖の道を行じて、是を叢林のさかりなると云き。 て、首座秉拂す。是興聖最初の秉拂也、弉公三十九の年也。
不見竹の聲に道を悟り、桃の花に心を明めし、竹豈利鈍有り迷
 嘉禎二年十月十五日開単した僧堂は、
   「七間の堂宇を立て、堂内
あらんや へだて
悟 有 。花何ぞ淺深有り賢愚有ん。花は年々に開くれども、皆得 に 隔 無 く 長 き 床 を 設 け て 衆 僧 あ つ ま り 住 す 」 と 長 連 牀 を 設 け て、
きくもの
悟するに非ず。竹は時々に響けども、聴物こと〳〵く證道するに 衆僧環座して昼夜に行道できる宋朝禅林の清規によった正規の僧堂
非ず、只久参修持の功にこたへ、辨道勤労の錄を得て、悟道明心 で、無住一円(一二二六―一三一二)の『雑談集』に、「一向の禅
する也。是竹の聲の獨り利なるに非ず、又花の色のことに深きに 院の儀式、時至て仏法房(道元)の上人、深草にて大唐の如く広床
永平二祖孤雲懐弉

おのづから
非 ず。 竹 の 響 き 妙 な り と 云 へ ど も、 自 の 緣 を 待 て 聲 を 発 す。 の坐禅始て行ず。其時は坐禅めづらしき事にて、有信俗等拝し貴か
ひらく
花の色美なりと云へども、獨 開 るに非ず、春の時を得て光を見 り け り 」 と 或 僧 が 語 っ た と 記 さ れ て い る 程 で あ っ た。 翌 年 に は、
る。学道の緣も又如 レ是。人々皆道を得ことは衆緣による。人々 『典座教訓』『 出 家 授 戒 作 法 』 を 撰 し、 暦 仁 二 年( 一 二 三 八 ) に は
「重雲堂式」がつくられ、興聖寺僧堂の規矩が厳格に示された。こ して重ねて受戒すれば清浄である、と答えている。懐弉は重ねて、
うして修行の環境は整えられ、懐弉は、修行と『正法眼蔵』の書き 七逆は重い罪で現身に得戒也ずとありますが、懺悔すれば清浄にな
写しに邁進することになった。 る、とおっしゃいましたが、清浄になったら受戒させてよろしいで
すか、と問う。道元は、これは栄面が立てた解釈だが、懺悔を許さ
六 罪業意識 れた以上は、さらに受戒するがよい、たとい逆罪であっても悔いて
受戒を求めたら授けるべきである。菩薩はたとい授けるべき人でな
 前述のとおり、懐弉の遺偈に、自分の一生は弥天を覆う程の罪犯 い人に授けたため自らは破戒の罪を受けようとも人のため受戒させ
に満ちているとある。若い時より罪業意識に目覚め、その克服を目 るべきである。いずれ懺悔の功徳力の大きいことも説いているので
指して浄土教の京都西山往生院の証空に参じ、次に大和多武峰の覚 ある。
晏の日本達磨宗の禅に投じ、一時罪根惑障消滅の解脱を得たのであ
 七逆ということばから「本朝高僧伝」の能忍伝の逸話が想起され
るが、その後、興聖寺に道元に参じ、なお涌出する罪業観と戒律観 る。能忍は、平景清が平氏滅亡の恨みをはらそうとして源頼朝をつ

─ 48 ─
及び坐禅との対立観を克服して、懺悔の功徳力により滅罪を知ると けねらうのを止めさせようとした為に景清に殺された人物である。
共に、「一毫衆穴を穿つ」により大悟の境地に到達して、修証妙修、 又、母の勧告により懐弉は、日本達磨宗に入門したと推測すると、
修証一如の奥旨を極めて、道元より嗣法相続が行なわれるに至った。 母と日本達磨宗教団のメンバーとの間の俗緣関係が浮上する。竹内
罪犯覆 二
彌天 一
」の後、「而今足下無絲去。」と今
 遺偈には、「一生 道雄氏はこれらのことから、懐弉の母は大日能忍および平景清にゆ
ノ フ ヲ
は罪根惑障がみな解脱して拘束を受けるものがないと境地を語って かりのある女性と類側する。だが、景清に娘があったがそれが懐弉
いる。懐弉の罪業意識を払拭したものは、懺悔の功徳力であろう。 の母なのか全くわからない。いづれにせよ、七逆の罪が懐弉の罪業
前述の『随聞記』二巻四章に、懐弉が、受戒の時は七逆の受戒を許 意識に影響があるのか分からず推測の域を出ない。
さずとあるが、一方では七逆の懺悔をさせよとある、この両所の関
 道元の罪業観は、『正法眼蔵』の各所に見える。
係はどうかと問うているのに、道元は、まことに懺悔すべきである。 「 ま た む か し 犯 罪 あ り し と き ら は ば、 一 切 菩 薩 を も き ら ふ べ し。
 
七逆の者の受戒を許さないとは、ひとまず抑止門と言って衆生の悪 もしのちに犯罪ありぬべしとてきらはば、一切発心の菩薩をもきら
をいましめ抑えてから仏道に導くやり方であり、破戒の人でも懺悔 ふべし。かくのごとくきらはば、一切みすてん。なによりてか仏法
現成せん。かくのごときことばは、仏法を知らざる癡人の狂言なり。 究的理論的追求の態度が窺える。それに対する道元の答得は、一応
かなしむべし」(礼拝得髄) 理論をもって答えつつもいつしか理論を越えた宗教的立場に誘引す
り やく
「浄信一現するとき、自他おなじく転ぜらるるなり。その利益あ るというものである。その一例は、
『隨聞記』の最終章六巻二十四
 
まねく情非情にかうぶらしむ。その大旨は、ねがはくは、われたと 章である。ここでは、道元が「学道の最要は、坐禅是第一也。
」と
ひ過去の悪業おほくかさなりて、障道の因緣ありとも、仏道により して大宋の人が多く得道したのは坐禅を尃にしたからであると説い
ごうるい
て得道せりし諸仏諸祖、われをあはれみて、業累を解脱せしめ、学 たのに対し、懐弉は、打座と看語を並べて学するに、語錄公案には
道さはりなからしめ、その功徳法門、あまねく無尽法界に充満弥綸 百千に一つ心得られはしないかと思われることもあるが、坐禅はそ
せらん。」(渓声山色) れ程の事はない。それでも坐禅を好むべきかと質問する。道元は公
「かの三時の悪業報、かならず感ずべしといへども、懺悔するご 案話頭を見ていささか慮知念覚する様でもそれは仏祖の道にとおざ
 
と き は、 重 を 転 じ て 軽 受 せ し む、 ま た 滅 罪 清 浄 な ら し む る な り。」 かる因緣である。無所得、無所悟にて、端座して時を過ごせば、そ

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(三時業) れは祖道である。古人も看語・祗管坐禅共にすすめたが、猶坐を専
 このように『正法眼蔵』の中に懺悔の功徳力によっていかなる罪 らすすめた。話頭で悟を開いた人が有ったとしてもそれも坐の功に
業も解脱できると述べられている。懐弉は、『梵綱経』の一言一句 より悟の開けた因緣であると答えた。興聖寺での修行も時が経って、
にわたり綿密に参究をつづけ、疑問とするところにつき質問し、同 『隨聞記』の筆錄も最終章を迎えても懐弉の学究の態度は変ってい
時に坐禅の体験を重ね、自己の罪業観の消滅を実感できるまでに至 なかった。
ったであろう。
 懐弉が自己の肖像にしたために自賛の偈頌がある。日付は明らか
でないが、
七 あとがき 感 ズル
醜陋 ノ質 人中第一極非人
 罪業所 レ  
 従来赤脚
学 二
唐歩 一
 未 レ 二
ニシテ
ブ ヲ


草鞋 一

見 二

本身
ル ヲ

永平二祖孤雲懐弉

( (
弉の質問は、師の教示を一応素材

((
 懐弉は学究の人でもあった。懐  罪業意識の克服と坐禅の修行の真只中での心境を告白したものか。
として確認し、その上で別の反対的資料をあげて、それらの矛盾の 懐弉が永平二祖を継いで十五年、僧団内を平穏無事に治め、一時徹
解決を問うもので、自己の罪業意識もさることながら、そこには学 通義介に寺の経営を委譲したが、五年後反対運動が起き、再び塔主
として再登院する。弘安三年(一二八〇)入滅まで内外の騒動に忙 ( )竹内道雄著前掲書八十~八十四頁
17 16 15 14

殺されつつ勤めを終えたのである。 ( )「梵綱戒経」禅学大辭典下 一一六九頁
( )「七逆」中村元著前掲書中巻六八五頁
注 ( )中世古祥道著「叡山における二祖」懐弉禅師研究所収一〇七
(1)竹内道雄著「永平二祖孤雲懐弉禅師伝」春秋社 昭和五七年 頁 祖山傘松会
四月
(2)横内了胤校訂「傳光錄」瑩山紹瑾 昭和四九年月岩波文庫
(3)竹内道雄著前掲書二七六頁
(4)村上素道著「永平二祖孤雲懐弉禅師」大阪参禅会 昭和三年 
二~四頁
(5)竹内道雄著前掲書四十頁

─ 50 ─
(6)竹内道雄著前掲書五十一頁
(7)「門
 跡」中村元著公説佛教語大辞典一六七二頁 東京書籍株式
会社、平成十三年六月
(8)西尾実 鏡島元隆、酒井得元、水野彌穂子 校訂「正法眼蔵・
正法眼蔵隨聞記」日本古典文学全集四〇〇頁 五巻七章
(9)「高僧伝」中村元広説佛教語大辞典上四四三頁
( )横内了胤著前掲書一一四四頁
12 11 10

( )村上素道著前掲書三五頁
( )田村 円 澄 著「 法 然 」 人 物 叢 書  日 本 歴 史 学 会 編 
二三一・二四八頁
( )竹内道雄著前掲書三九六〜八頁
13
永平二祖孤雲懐弉

EiheiⅡ Koun Ejou


─ half his life and“Shobo Genzo Zuimonki”

SUWA, Yasuhiro

 Rev.(Reciered)Ejou was two older than Rev. Dougen a founder of Sodo sect. He meet
Rev. Dougen in 1228, then he was thirty one. Since then he study to practice ascetic
discipline with about twenty old under Dougens sect.
 He don’t want to past from Dougen as an attendant always. He has a great respectful
for Rev. Dougen.
 When he was young, he wandered few parts. The first, he went to Hieizan Enryaku
temple to study Tendai sect. The second, he transfer to Jodo sect, The third, he went to
Nihondaruma sect to study Rinsai Zen.
 The last, He met Rev. Dougen in Kousei temple, There, he learn the Syusyo Itijo, that is
training and enlightenment is one and the same.
 His achievement in Dougens sect is the copied “Syoubou gennzou” of 95 Volumes and
inform future generation.
 “Syoubo genzou zuimonki” was wrote by Rev. Ejou. He heard and wrote Dougens
lecture.

─ 51 ─

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