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すみれさん(仮名)

1949 年沖縄生まれの女性。小学生の時からアメリカ人家庭でベビーシッターのア
ルバイトをしており、アメリカに憧れていた。英語教育に力を入れる高校と専門学校
に進み、卒業後はニュージーランド資本の貿易会社へ就職。アメリカ軍に努めていた
夫と知り合い、渡米、結婚。子どもを二人もうけるが、離婚。一生懸命仕事をし、自
立への自信も身に付けていく。現在は、元夫と「仲直り」をして再婚し、ニュージャ
ージーで暮らしている。

◆「アメリカへの憧れはありまし るし、冷房もついてるし。それで、
た」 その家でベビーシッターするから、
私の家は、外人の居住していると いろいろ見るんですよね。アルバイ
ころに近く、家には鯉を飼っていた ト代が 1 時間 50 セントで、楽しく
し、チキンもいたので、珍しがって、 て。ためたお金で自分の好きなブラ
かれらが私の家の敷地によく入っ ウス買ったりとかして。
てきていました。それで、接触があ
りました。私の高校は、英語力の養 ◆「不満はたくさんあるのに、言え
成に力を入れる学校でした。外人の ない。大和撫子じゃないけど。

英語の先生も 3 名いて。その頃、私 彼とは、専門学校卒業後就職した
は英語を結構話していました。若い ニュージーランド資本の貿易会社
から耳が早いんですね。外人と接触 で上司の紹介で会いました。私の英
があったから発音もよかったし。そ 語力は、深く掘り下げて話すのはで
れで、それを生かしていこうとして きなかったけど、不自由はしてませ
その高校に入って、専門学校もその ん。紹介されたとき、彼は既婚者だ
系列のに入りました。 ったんですよ。私は、「独身でハン
小学校 2 年生の頃からアメリカ サムでお金持ちで」って上司に要求
人家庭でベビーシッターのアルバ したんですけど、私は知らなかった。
イトをしていました。アメリカへの で、付き合って 3 か月後に、
「今
憧れはありました。私たちの住む民 は離婚中なんだけど」って聞いて。
家と、外人さんの家は、ものすごい それから 1 年半後に彼が仕事を終
違いがあるわけですよ。あそこはコ えてアメリカに帰るとき、まだ結婚
ンクリート建てで、ベッドルームが できなかったんですよ。それで、私
三つくらいあって、大きな冷蔵庫が の妹がアメリカ人と結婚してニュ
あるし、大きな wash machine があ ーヨークに嫁いでたんで、子どもが
生まれるっていうから、姉の私が手 未婚の母ですから就職ができない。
伝いに行くということで妹をダシ うちの人はアメリカ人だけど、グ
にしてビザを取ってアメリカに渡 リーンカードとかビザとか、詳しく
りました。それで、妹のもとからグ ないんですよ。妹の旦那が空港で
リーンカード取りました。まだ結婚 immigration の仕事してたから、彼
できないから。 が全部やってくれたのね。うちのハ
それで、彼が離婚調停全部終わっ ズバンドは頼りにならないなーと
て一か月後に子どもが生まれたん 思ったんですよね。その時もやっぱ
ですよ。だから、とってもフラスト し、語学力が足りなかったんです。
レーションしたんですよ。まだウブ ビジネスの面ではなんとかなるん
ですから、あの頃、25 歳っていっ だけど、男女のなんていうか、ケン
ても。自分の気持ちを彼によく伝え カにせよ、私は大和撫子じゃないけ
ることができないのね。大変ストレ ど日本人として言えないわけです
スを感じて、「もう沖縄に帰ろうか よ、言いたいけど。不満はたくさん
な」なんて思ったこともありました。 あるのに、自分で言いきれないわけ。
ピンポイントで英語も探せなくて。 「あなたが私をここに連れて来た
正式に結婚したのが、子どもが生ま んだから、あなたに責任あるでし
れる 1 か月前。だから大変不満があ ょ」って言えるようになったのは、
りました。(笑)だって、アメリカで ちょっと経ってからですよね。長い
トントンと行くもんだと思ってた ことパートナーしてると、ほどけて
のに、結婚もしないうちから子ども きますよね。
ができてしまったから。一人ぼっち 新しいフィールド、子どもの病院
で寂しかったんですよ。結婚前は彼 とか、メディカルの。1 歳の時まで
は仕事で軍に行きますよね。私はま はこういう注射してないといけな
だ結婚してないから軍に入れない いとか、何かしらみんな、自分にか
んですよ。だから、彼が軍の中で買 かってきて、彼はあんまりタッチし
い物して家に持って帰って来る。私 ない。サポーティブじゃなかったん
は independent の性格で、自分で車 ですよ。私の頭の中には、彼が全部
運転して買いたいもの買って帰っ やってくれるっていう思いがあっ
てくるのが好きなんですよ。でも、 たわけですよ。だけど、そうじゃな
家にいて、スーパー行ってぐるっと かったから。それで、子どもができ
回って帰ってくる。それが一日のル て 3 年後に別居するはめになった
ーティンでしたね。その間になにか んですよ。それで妹の家に居候させ
仕事すればいいんですけど、やはり てもらって。それで、昼間は子ども
といられるように夜の仕事を探し ね。下の子がまだ 10 でしたから、
ました。レストランで働きました。 子どもたちが自由に行き来できる
子どもは、妹の旦那の非番の時に見 ようにお互い近くに住みました。離
てもらったり、そうでなければ妹の 婚してたけど、子どもの親同士だか
子どももいたので妹と二人でベビ ら、休日には家に呼んで一緒に食事
ーシッターを雇いました。 したりしてました。うちの人は、彼
女がいたけど、ある時別れたんです。
◆「もう歳とったから二人で」 それまでもうちに入り浸っていた
それからしばらくして、彼とまた りしたので、またもう一度結婚しま
一緒に暮らすようになりました。と した。何でも分かり合えてるからっ
ころが、うちの人は、とても性質的 て。もう歳とったから二人でって、
に弱い人で、仕事で大変なトラブル 5 年ぐらい前ですよ。
それでここに。
があって、神経質になって病院に入
院したんですよ。それで、私の方は ◆「私でもアメリカで一人で生きて
長男が高校 3 年生の時、ギターが欲 いける」
しいっていうんで誕生日に私が買 日本に帰ろうと思ったか? そ
ってやったんですよ。うちの人は うですね、初めは思いました。でも、
「必要ないのに」って言ったんだけ 離婚して帰るのが悔しいじゃない
ど。息子はそれで、学校のグレード ですか。子どももいるし。妹がニュ
が落ちて、悪い仲間と付き合うよう ーヨークにいたから、どうにか私は
になったんですよ。それで、うちの 日本人世界に入ったんですよ。それ
人は、私がギターを買ってやったか までは日本本土の方とお付き合い
ら音楽のグループとつるんでるっ なくて。本土のレストラン、京都風
て私を責めるわけですよ。息子は のお店でしたけど。働いている人は
時々窓から飛び降りて家を抜け出 日本人。そこでいろんなことを学び
したりして。私は夜中懐中電灯を照 ましたね。日本料理とか、日本語、
らして近所の森とか探しに行った 東京の人たちの話し方とか。
りして。心配じゃないですか、ティ あそこで人生変わったな、と。
「あ、
ーンエイジャーだから。何か吸って 私でもアメリカで一人で生きてい
たり、ね。学校もあんまり行かなく けるんだ」と思いました。あの頃、
て。 1 年で 1 万ドル溜めたんですよ。私
うちの人は神経で入院したり、子 でもこんなに溜められた、と。
どものことでもお互いに責め合っ (すみれさんは、沖縄料理のラフテ
たりして、それで離婚したんですよ ーを作って振舞ってくれた。インタビ
ューの途中、図書館に行っていた、
すみれさんの夫が帰ってきて、にこや
かに挨拶してくれたのが印象的だっ
た。)

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