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赤尾晃一

明治5年2月創刊
戯作者・条野伝平/仮名垣魯文,
絵師・落合芳幾,地本問屋・西田
伝助らが参画。江藤新平,大隈重
信のバックアップがあった
岸田吟香,福地源一郎らが入社し,
社説欄も常設した
江戸と明治の“架け橋”型新聞
日新眞事誌
ジョン・レッディ・ブラックが
明治5年3月に創刊。
明治7年1月に,征韓論に破れた
江藤,板垣,後藤らは左院に
「民撰議院設立建白書」を提出。
「日新眞事誌」に掲載され,新
聞間で大議論を呼ぶことになる。
早期開設を主張する民権派が主
流を占め,政府に同調して漸進
的に議会を開くべきだとする“官
権派”は「東京日日」「曙新聞」
程度。
明治8年,ブラックは太政官府で
任用され,「日新眞事誌」は廃
刊となった(外国人発行人制限)
新聞発行は内務省の許可制で,
国安を妨害するもの(不敬罪・
官吏侮辱罪など)は内務省が発
行を禁止または停止する
事実の有無にかかわらず,他人
の名誉を傷つけるような事象を
曝いて知らせることを罰する。
被告に弁明の余地は与えない
政府系の新聞は保護され,政府
を批判する新聞は発行禁止処分
もできる仕組み
議会開設が近づけば,統制する
力も増す。言論・信教・思想・
学問・良心の自由も通用しない
社会制度へと向かう
新聞紙条例の起草者は井上毅ら伊
藤博文のブレーン。新政府の中枢
部で憲法制定・議会開設にかかわ
る人たちだから,政府の方針に協
力的ではない一派と組む新聞紙
(例えば『日新真事誌』)は好まざ
る存在だった
富国強兵と大陸への拡大路線
(征韓論)を主張する新政府と,
非拡大と民本主義の議会政治を
望む自由民権派が対立した
逮捕を見越して代理編集長を立
てたり,発禁になっても題号を
変えて継続発行したり,不自由
を活発に押し返した
「時事新報」 明治15年3月1日
ブランケット判の「大新聞」

「讀賣新聞」 明治7年11月2日。
タブロイド判の「小新聞」
日清・日露の戦争報道で,経済
的に弱味がある新聞社が淘汰
新聞の「報道新聞化」。本山彦
一の“新聞商品主義”
国安から「安寧秩序と風俗の乱
れ」へと拡がり,弾圧の標的は
社会主義者や無政府主義者。
1910年に幸徳秋水らの大量検
挙・処刑で所与の目的を達した
政府は,論敵・政敵の口を封じ
るために新聞紙法を利用する
週刊平民新聞(1903~05)
社会主義思想の宣伝・普及を行
う新聞
秋水は大逆事件
(1910)で死刑と
なる
公判に付する以前における予審の内容、
検事が掲載を差し止めた捜査または予審
中における被告事件に関する事項
犯罪を煽動もしくは曲庇しまたは犯罪人
もしくは刑事被告人を賞恤もしくは救護
しまたは刑事被告人を陥害する事項
陸軍大臣、海軍大臣または外務大臣が軍
事または外交に関して掲載を禁止した事

安寧秩序を紊しまたは風俗を害する事項
皇室の尊厳を冒涜し政体を変改しまたは
朝憲を紊乱しようとする事項
白虹事件
1918年,シベリア出兵に反対す
る「非拡大派」は,米騒動に端
を発する不安定な世情の中で,
寺内正毅内閣を激しく批判
「大阪朝日新聞」が“舌禍事
件”をおこし,社長・主筆が引
責退陣し,公平穏健に反したと
し“不偏不党”を掲げるに至る
「金甌無欠の誇りを持
った我大日本帝国は今
や恐ろしい最後の裁判の日に近
づいているのではなかろうか。
『白虹日を貫けり』と昔の人が
呟いた不吉な兆が黙々として肉
叉を動かしている人々の頭に雷
のように響く」
1918年8月26日付「大阪朝日」夕刊
「白虹日を貫く」は中国の故事
で「内乱が起こる兆候」あたり
の意味
内務省などが問題にしたのは
「日=天皇」を前提とした不敬

不買運動が起こった
内務省警保局保安課が拡充され,
全県警察に特高課が設置され,
28年改正で最高刑は死刑に
社会主義・社会運動だけでなく,
反戦を唱える思想家・宗教団体
なども弾圧の対象となった
菊竹六鼓―福岡日日新聞で「あ
えて国民の覚悟を促す」を執筆
(1932年5月)。軍人の政治参加
を非難
桐生悠々―信濃毎日新聞で「関
東防空大演習を嗤う」(1933年8
月)。不買運動が起こり,退社
に追い込まれ,個人誌「他山の
石」を発行
保護観察法
1936年,思想犯も関係機関が疑
いを持てば,問答無用で拘束さ
れた(41年3月には改正治安維持
法で“予防拘禁制”が導入)
小林多喜二の獄死。滝川事件な
ど「天皇機関説」が弾圧対象と
なり,表現や学問の不自由が公
然と明らかになる
1937年,日中戦争が本格化と同
時に設置。大本営陸・海軍部報
道部が発足し,軍隊に関する記
事は大本営発表のみに。陸・海
軍大臣に関する記事も掲載禁止
となった
1938年。精神・物資などの統制
1941年,新聞連盟が設立され,
記者会規約を制定。各省庁の記
者クラブを一つに限定した
用紙割当を理由に,一県一紙の
新聞統合が官民協力の下で実施
された
東京朝日新聞の中野正剛は「戦
時宰相論」(44年1月1日)で東條
英機に苦言を呈し,利敵罪で検
挙され,釈放後に割腹自殺
44年に朝日新聞を退社した緒方
竹虎が“情報局総裁”に就任し
ている
共産化を疑われた中央公論や岩
波書店などの出版人約60名が逮
捕され,約半数が有罪,獄中死
4名,出所後衰弱死4名など
2010年,拷問による自白強要が
あったと横浜地裁が認め,有罪
に異議を唱え続けた5人が実質
無罪を勝ち取った
販売部数競争に勝つために,商
業主義煽動主義に陥りエスカ
レートしていく新聞業界
大本営発表という「強力な統制
による偏向情報」を,感情に訴
える味付けで大量拡販される過
程で,読者の社会認識は極端に
偏っていった
東京日日(現:毎日)・朝日・讀
賣の主要三紙の総販売部数は,
31年に400万部,37年に700万部,
41年に850万部と急伸した
事実に忠実に報道しようとすれ
ば,検閲を受け,軍部の激しい
不買運動にあう

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