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映画研究者である同僚が学生のため(ならびにご自身の研究と映画的逸楽のため)に上映会を日常

的に開いていることは関係者の間に知らぬ者のない事実である。持ち前の乱視を口実にしつつ映画に実

に疎いという表象文化論の担当者としてはあるまじき持病を克服するに格好の環境にあるわけだが、活用

できていないのはひとえに私の怠惰もさることながら「大学改革」に振り回される現場の惨状ゆえである。

そんな中、本日はイングマール・ベルイマン『叫びとささやき』を上映するという。こういう機会でもなければベ

ルイマンをスクリーンで観ることもそうはないであろうと思い、仕事の合間をぬって馳せ参じることにした。

http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=8578

先を急ぐためストーリーの要約は『ベルイマンは語る』から借用しておこう。森の中の大邸宅を守ってきた独

身のアングネスに病で死が迫り姉と妹が最後の別れに来ている。しかし少女時代からの互いの感情の食

い違いを解ききれない。アングネスは忠実な召使アンナの胸に抱かれて息をひきとる。

全編を埋め尽くす鮮烈な赤、人物の苦痛・苦悩をたたきつけてくるような「叫び」、ひっきりなしに挿入され

ている(と言うよりはシアターに侵入してくるような)「ささやき」、どれもが、時に身体的な拒絶反応を誘う

かもしれないが、いずれにしても生理的に深い爪痕をまずは残さずにいない。

しかしながら今まさに書き付けたこうした字句が、そして DVD の解説に登場する「女性の性と死、愛と苦

悩をあぶりだす」といった表現が陳腐そのものでしかなく、実際に強烈な場面を指摘しようとするなら、いや

がおうにもたとえば苦痛にのたうち回るアングネス、そして姉妹をも否定する怨嗟を吐き出す姉カーリンの顔

がすぐに浮かんでくる。基調色の赤ですら今日ではもはや陳腐の括りを出るものではないかもしれない。
では、この映画において今なお私を居心地悪くさせるのは何か。始終ひそひそとついてまわる「ささやき」が

ある種のホラー映画のような効果を持ち得ているようにも思われるが、しかし最終的に提示されるはずのお

ぞましいものはここでは死んだアングネスの身体であり、それは細部にわたり克明に描写されることはない。

「もう腐っている」と冷静に言い放つ姉の言葉も(*)、「復活」のパロディーのようにすら響かず、あるいは

『カラマーゾフ』のゾシマ長老の腐敗のような動揺を引き起こすこともない。

(* 映画の着想を「夢に似ていますが夢そのものとは言えません。なぜなら、その時私は絶対に覚めて

いるからです」と説明するベルイマンの言葉はおそらくこのシーンをよく説明してくれる。復活という「奇跡」は

このような覚醒――だが夢からの?あるいは映画からの?――によって否定されている。)

インタビュー「それは夢から始まる」の中で、脚本執筆という労働に先立つ「恩寵」の時間として着想を語る

ベルイマンは、映画の最終局面、アングネスの手記から再構築された至福の時間においてささやかな救済

を提示しているように見える(名づけ親の牧師はアングネスの魂の平安よりむしろ彼女に託された現世の

われわれの救済を祈っている)。

しかし、栄光もなく復活してしまったアングネスは虚無に慄きながら召使に抱かれて二度目の死をむかえる。

少し前のシーンで聞こえていた赤子の鳴き声はこの流産する復活の予兆だっただろうか。

恩寵と復活の徹底的な否定が静かに静かに沈黙に吸い込まれていく中で、もはやささやきも聞こえていな

いのに、いやそれゆえに、居心地の悪さが後を引く。
最終バスに乗り込むため感想も言わずに出てきた言い訳として、ここにこうして駆け足のコメントシートを残し

ておくというわけだ。

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