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東京 大倉 廣文 堂 発行
シー}ーシー 『}ーーーーー
東京 大倉 廣文 堂 発行
結言
近世名歌德殿 を上施してよりこくに ケ年除、 今またその姉妹艦 と º いぶ べき
「上代名歌都稱 を刊行したのである。
古来、 萬業集の柱體背は極めて多く、 既に浮生无味の感がある。
然るに、 廣く記 ・紀・商業 に跨る語は ゆる上代名歌の評程普は未だけて 刊 行 された
るを聞かない。
依 つてこく に本書の判行を試みた次第である。
上代 名 歌 評 響 日 次
一、古事記の名歌
碑 武 天皇 の 御製 - -******* ** * *** * * ** ****** ******** ●●●●●●●● ● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● -***********************
:一
伊 須 気 余 理 姫 の 御歌 -- -- -* - *-****-*** ● ●●---**** ●●●●●●●●●●●● - ● --**** *** ●●● ●●●●●●● -**** ● ●

日本 武 奪 の 御 歌ii 吾
橘 媛 の 御 歌i 交
大 鶴 命 の 御 歌(仁徳帝): 入
大山 守 皇子 の 御歌i 、-** *--***-** ●●●●●●● ● *** *
一0
仁徳 天皇 の 御製(二 首)i 三
黒 姫 の 御 歌: :一吾
履中 天皇 の 御製ii 一交
臼 次 二
木梨 軽 皇子 の 御歌i 二入
赤 猪 子 の 歌i 三0
三、日本書紀の名歌
素 霊 鳴 奪 の 御歌i 三
彦火 々 出 見 奪 の 御歌i 三四
豊玉 姫 の 御 歌i ---*
三交
無 名 氏 の 歌(二 首)i -******* - ******** ********・・・・
三八
武内 宿 の 歌i 三
仁徳天皇の 皇后の 御歌i 三
衣 通 郎 女 の 歌(二 首)i 三吾
毛野臣 の 妻 の 歌i 三八
大 葉子 の 歌i“ 四0
作 有

市 者 間

黒 不

語洋

豊 愛
-

意 導 導 --

ー 望
並 皇子 舎人 の 歌(三
皇子


歌(二


上 * * 。。 不 * *
、良 詳 郎 子
の の " の の の の
播 大 石 山 作 阿 舎

歌 ssesesse ・・・・ こ* ・・・・・・・・●●sessessessる***・・・・・・・・eses・・・・』**********・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


一00
**** ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●******* ******* ************************************************
歌(十三首) 一0
歌(六 首)i - -● ● ● ●

人 郎 子 人









野 老 朝臣 の
「* 』-』
・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
笠 湯 作 高 聖

御製 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 二四七
武 天皇 の
二四入
橋 鷹 の 歌i
---
----
- ---
●●-
一吾0
者 不詳 の 歌
原 王 の 御 歌(三 首)i 一吾三
女 郎 の 歌i 一五七

伴 家 持 の 歌(六 首)i 一吾入



犬養 岡 暦 の 歌i
歌(四 首)i 一六入

者 不 詳 の
池 狭

一七三
野 芽 上 娘子 の 歌ii
一七四
田 朝 臣 の 歌i

一七五
碑 朝臣 奥 守 の 歌i
多 藤 作
者 不詳 の 歌(二 首)i 一毛交
の 歌 --* *--**--**-**
- *・・--** -
** 』--***--***** ・・・・---es
三毛入
原 朝臣
一入O
治 比 眞人 鷹 主 の 歌i

臼 次
目次
*******************************************ここ ここ* こ ここ******』ssessesseesesessessse 』
部 造 人 鷹 の
田 部 首 鷹 の ******************************************・・・・-こ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・- ・・・・

部 直 千 國 の ************************************************-*************** ●●●●●●
池 太 今

奉 部 興 倉 布 の ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ *******・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
田 部 荒 耳 の **************************************************-ここ**************************** -
田舎 人 大島 の
作 検 物

部 眞 根 の ************* -
椅 部 弟 女 の --**
者 不 詳 の **************************************** ****こ ここ **-****** ●●●●●●●●●●』**』** ess-』
ー目次、終ー
古事記 の 名 歌
草原の繁こきをゃにすがたたみいやさやしきて我が二人寝し
阿斯波良能。志郡古岐袁夜爾。須賀多々美。伊夜佐夜斯岐号 。和賀布多理泥斯。
C語 韓]
阿斯波良能 (あしはらの)ー「草原」 は革の生えてみる原を云ふ。こ \では狭井川のほとりをさ
していふ。
o志郡古岐変夜闘(しげこきをゃに)ー守部は「志郡は過なるべし。
べ ならば濁音の仮字を書く

*
ペければ也。去岐は深きの上略にて、但言の志都去伊、那都去伊など云める夫伊も、深濃の音便
匂 など





、ンコ

つきり屋長て


宣也

小みる
な「












*

て志 部
郡岐、阿都顧岐などいふ類なり、」 と記博に述べてみる。
○須賀多々美 (すがた〜み)ー「菅温」 で編んだ敷物をいふ。
O伊夜佐夜斯岐弓(いやさやしきて)ー「伊夜」は禰で、盆々とか、いよ〜とかの意である。「佐夜」
-
古事記の名歌
上代名歌評響 二
は「清潔め」の意で、清潔なるものを指していふと記博には説いてみる。
然るには温は「いやさやしきては鋼が上に多に数てなりはとゃと通なり又いゃいゃ8下のいを時
てさを助詞に置玉へるにも有るべし」といひ、守部も同様の説であるが、「シなり。
シツケイャガ
彼 瀬家の深き河漫の家なれば、天皇の御寝座に因て、 N上に発を敷たるなり。」の如くゃ、詳
しく説明してみる。
こ\には記博の説に従って左の通り解響した。
○和賀布多理泥斯ー「吾が二人寝し」で二人で寝たの意。
[歌 意]
狭井川の漫の蓋の茂っておる中に建てられた践が家で、菅撃をすがノ〜しく敷いて二人で寝たこ
とであるよ。
[語]
なだらかな格調である。この歌は碑武天皇が伊須気余理姫と畝火山の近傍狭井川のほとりで、一
夜相寝し給ひし後、姫が入内されてから後に以前の事を思ひ出されて、新枕の時代を追憶された
名歌である。
眞淵は 「こは人皇に至りて三十一文字の歌の初なり」 といってみる。
狭井川よ雲立渡り敵火山木の葉さやぎぬ風吹かむとす
佐章賀波用。久毛多知和多理。宇泥備夜麻。許能波佐夜藝奴。加是布加牟登須。
[語 ㎞]
O佐章賀波用ー「狭井川よ」 で「よ」は「より」の古語である。記博には狭井川の方からと解し
て居り、橘守部は 「よ」 を「に」 の意と見てみる。
許能波佐夜藝奴ー「木葉騒ぎぬ」である。木葉がさわ〜と音を立てて鳴ることであるが、守
部は軍兵を集めて騒ぐ意に取ってみる。即ち「軍兵を楽めてきゃめく北喰也」と云って居る。
【歌 意]
狭井川のあたりに雲が立ちこめて居り、畝火山の木がさわ〜と鳴り騒いでみる。ゃがて大風が
吹き出すことであらう。
[評]
「事アラムトスト云事ヲョソへタマへリ、タトへ歌ト云べシ」 と契沖は云ってみるが、格調高く
一首すべてが異常の緊張味を見せてみる。
古事記の名歌 三
上代名歌評響 四
畝火山書は雲とみ夕されば風吹かむとぞ木の葉さやげる
宇泥備夜麻。比流波久毛登章。由布佐濃波。加是布加牟登曾。許能波佐夜牙流。
語 輝]
O比流波久毛登章ー「ひるはくもとみ」 で、守部は 「書は雲と興に静り潜み居面の意也」。と云つ
てみるが、宣長は 「書者雲と居にて、雲と居とは、雲にて居るを云へり。夕には風となるべき雲
の書のほどは、未だ雲にて居るを云ふ、居とは起騒ぎなどせすて、山際などに懸りて、駐り、集
るを云なり。」と説明してみる。併し、この 「と」 は 「iの如く」 と解すべきであらう。従つて
書の雲のゃうに群ってみる意である。
[歌 意]
畝火山に書の間は雲の如く群っておて、夕になったら大風にならうとして、あのやうに木葉をさ
わめかしてみるのだ。油断はならないぞ。
[評]
比の歌は前の歌と同じ場合に歌はれたものである。碑武天皇が、伊須気余理姫との間にお生みに
なった皇子が三人在しましたが、天皇の崩御の後、この皇子達の庶兄である手研命が反逆を謀ら
れ、天皇の御位を奪はんとして、この皇子達を亡きものにしようとされた。姫即ち皇后はこの事
を醸知せられ、歌を以って皇子達に知らせられたのである。
前の歌の二句と終句とは急激な調であって、歌の内容にふさはしい句である。後の歌は前の歌程
急激な調ではないが、何となく力強い。共に深く印象づけられる御歌である。
やつめさす出雲たけるが偏ける太刀つづらさは纏き眞身無しにあはれ
夜都米佐須。伊豆毛多郡流賀。波郡流多知。都豆良佐波麻岐。佐味那志爾阿波濃。
【隠 輝]
O夜都米佐須(やつめさす)ー「八雲立つ」 の韓証であって出雲の枕詞。「夜都米佐須」は 「八津雲
立なり、八を八箇と云は、萬葉甘に、八代を夜都代とよめるが如し。米は欠毛の毛の通音也。多
㎞を候須と云るは、萬葉三に、バ ㎞、シ、績記十一にシ曲などあるが如し 」と守
部は説いて居る。
伊豆毛多郡流賀 いづもたけるが)ー出雲犯之である。多祇流は己の猛きをたのみとして共の地
方に威をふるうた者の稲で、熊曾建の類である。
○都豆良佐波麻岐(つ ゞらさはまき)ー葛豪で太刀の輸を巻いてみるのである。
8佐味那志闘同波濃シ無しにあはれ)ー守部は「銭精は今は銀鉱といへど、味と備と親しく通
古事記の名歌 五
上代名歌評響 六
へは、古は佐味と云ひしなるべし。和名抄に、「越中國新川 郡佐味 だ北とあり」と述べてみる
が、宣長は「佐味那志」を「真身無し」と解いて、外見の堂々たるにも似す、刀身は木片である
ことが哀であると説いてみる。
[歌 意]
出雲の島業師が偏いてみる太刀は、柄も輸もすべて、澤山の葛夢で巻いてあつて、外見の堂々たる
にも似す、刀身は木片であることが哀である。
[評]
比の歌は、日本武奪が出雲の國の、西長出雲料を殺された時の歌である。
日本武奪は出雲料を殺さんとせられ、先づ料 の友となつて籍川に水浴された。これより先、奪は
様の木を以て偽刀を作り偏いて居られた。奪は川から上つて、料の太刀と御自身の偽刀とを取替
へて、魅に向つて戦を挑まれた。この時、料の偏びた太刀は先に奪が偏びて居られた偽刀であっ
た貸め抜くことが出来なかつた。奪はこの隙に乗じて料を打殺されたのである。
さが む を
さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも
佐泥佐斯。佐賀牟能袁怒運。毛由流肥能。本那迦爾多知弓 。斗比斯岐美波母。
[語 霧]
o佐泥佐斯(さねさし)ー相模の枕詞。「佐泥佐斯は眞嶺刺にて、富士 賞を美賞て、㎞と云ひ、
共嶺の養立るを刺と云ふ。共刻は立也」 と守部は説明してみるが、宣長は「相模の枕詞とは聞ゆ
れども、いかなることとも未だ考へ得す」 と云つてみる。
O小野ー焼津附近を云ったのであらう。
O本那逸函多知豆(火中に立ちて)ー賊の放つた火の培の中に立つての意。
O斗比斯岐美波母(とひし君はも)ー「比は二つの心得らる。一 つには吾が問ひし君なり、二つに
は吾を問ひし君なり」 と宣長は云ってみる。さうして 「右二つのうち、後の意は今少しあはれも
深く、シに聞ゆめり、されど又古意なることは初の方今少し勝れる」と附け加へて居るが、こ
こには契沖・眞淵・守部の説に従って、「わが身の上を心配して美 なきかと尋ねて下された鍵しき
君よ」 の意に解しておく。
「歌 意]
相模の小野の燃え盛る火の中に在っても獅私の事を思つて、差 なきかと尋ねて下さつた親切な緑
しき我が夫よ。
【評」
古事記の名歌 七
上代名歌評響 八
この歌は、日本武奪が東國を征伐に出かけられた折、相模の國で賊のため謀られ、火難にお逢ひ
なされた。この時、奪の妃橘媛が詠まれた歌である。一首の上に奪の媛を思ふ情の切なるは初論、

媛が奪を敬慕さる、気持が溢れてみる。
しりこ はだ
道の後木畑をとめを碑のごと聞えしかどもあひ枕まく
美知能斯理。古波陀袁登責袁。迦微能基登。岐許延斯加料母。阿比麻久良麻久。
--
[語 輝]
○美知能斯理 (道の後)ー道とは東海道・東山道・山陽道などの道にあたる。「後」 は國を分けて
「前」、「後」 としてみた。こ\では日向の國をいふ。
O古波陀袁登資(木畑少女)ー「記博」 によれば、木畑は日向國にある地名である。木畑生れの少
女の意。
o岐許延期加村母(聞えしかども)ー聞いてみたがの意。
阿比麻久良麻久(あひ枕まく)ー相枕纏くの義で、互に手を頸に巻きつけて寝るのである。
[歌 意]
あの遠い日向の國の木畑少女は、拾も鳴る碑のやうに、その名だけ聞いてみたのに、今その少女
とかうして互に手をさし交して寝る精しさよ。
[評]
應碑天皇が日向の國に髪長姫といふ美しい少女の居る由を聞召して、これを召し入れ給うたので
あるが、太子の大鶴競命が天皇に請うて、その姫を賜はらんことを願った。天皇は豊明の宴の日
に姫を太子に賜ったのである。この時太子が喜びのあまり詠んだのがこの歌である。如何にも築
しい、嫡しい太子の気持が一首の中に殊に下の句によく表現されてみる。
千早振宇治の渡りに模とりにはやけむ人し我がもこに来む
知波夜夫流。宇遅能和多理週。佐袁斗理週。波夜郡牟比登斯。和賀毛古通許牟。
[語 騒]
O知波夜夫流(ちはやぶる)ー「碑」 に掛ける枕詞であるが、韓じて 「赴」「人」又 「宇治」 にも掛
ける。
cシとりにはゃけむ人し ー を取ってシなる人はー即ちシ
るに上手に敏擁なる人はの意。
O和賀毛古適許牟(我がもこに来む)ー「もこ」 は許所(もとどころ)のつゞまつたものであらう。
古事記の名歌 九
『員㎞
[歌
C評」

我が許に来れの意。宣長は「契沖が御方に速き者来るべしと語へるかと云へる、共意なるべし」
と説明してみる。
深せっのく を
如何
ここと


依あったか

察歌



られる 善ったか
し事
上は


如論

ゆの



あに
風が

す、

ばらく
とりる流何代悪 ある
詠で




。 ん せ、
の死

られ

ある
皇午

大山








水中
流しめでき






ら 子れ
ら 兵
らいて


しが
水と






大時
皇に


を げ子げの知鶴た の
伏子山中たんせ は
探大撃


こ鋼



使


郎され

告事
園に



られ
驚 大治川


皇る
と守



郎ひ位



さに
宇殺



とし
畔してん子山 た
そか 碑


この


崩御



大鶴















。 皇

れ くれ

助け
。 渡分

宇治川






おる
として
しよう











を し


意]

代名歌評響
一○
沖漫には小船連ららく黒崎のまさづこ吾妹國へ下らす
洪岐幣通波。袁夫泥都羅羅政。久漏邪岐能。麻佐豆古和藝毛。政運幣政陀良須。
【語 霧]
O袁夫泥都羅羅致(小舟連ららく)ー守部は「連なり渡るを、都羅々致と云は枕にするを、麻久良
具、豪にするを加豆良具と云と、同格の活用也」と云つて居る。「連ららく」は連なることである。
小舟が幾つも連なっておるの意。萬葉集巻十五に 「わたつみの、沖漫を見れば、漁する、海人の
少女は、小舟乗り、つららに浮けりi」とあり、同十九にも「布勢の海に、小舟つらなめ、眞
O久漏%岐能(黒崎の)ー黒崎は備中國小田郡にある地名である旨宣長は説明してみるが、或は浅
ロ郡の黒崎村である (沼田博士説) といひ、或は都窪郡中庄村大字黒崎である (早田玄洞氏説)
と説き、いまだ定説を見るに至らない。
O摩佐豆古和墓毛(まさづこわぎも)ー黒姫といふ美女の呼名であると守部は云つてみる。然るに
宣長は「魔佐豆古和墓毛、麻は にて発たる言なり。佐豆は萬葉七に、シ毛
シ云々とある、左豆は人の容貌を郡美たる将か若し然らは比も一っなるべし。佐豆古は、さ
にづらふ見を約めていへる稲にゃ、額 にはめてさにづらふと云は萬葉に常のことなり、されど
古事記の名歌 一
上代名歌評響 一二
彼 歌の継ての趣を以て思ふに撃たる稲なるべくも聞えず 女をいへりとも聞えず、群ならずおぼ
ゆ」と述べてみるが、その攻に「故 又思ふに、佐は例の真に通ふ言、豆は豆 字の誤れるにてま
ョ*古ならむか、 古は、萬葉三、又九に、眞間 手見名、十四に、伊思井照子と第たる稲なり
●●●●●●●●
容貌を美て駆と云は、下荒比質と云名、又萬葉十一に、毛 船所駆公などあるが如し、かかれ
ば、麻佐豆古は、賞佐照子ならむかi」と推定してみる。
ワガイモコ
また、眞淵も「まなこの類なり」と云って居る。和薬毛は吾族をっづめたのであって萬葉にもその
例が少くない。即ち 「黒崎出身のあの美しい私の愛人」 といふ意味に解す可きであらう。
O致適幣政陀良須(國へ下らす)ー故郷の備中國に下って騎らうとしてみるとの意。「下らす」 は
「只下るなり」と契沖は云って居るが、守部は 「今本郷へ下りいますよ」と譚し、「下らす」を「下
る」 の敬語と解してみる。
[歌 意]
難波の沖には、今日はいつもより澤山の小舟が連つて浮かんでおる。あれは備中の黒崎から来て
宮仕しておたあの美しい私の愛人が國へ騎らうとして船出してみるのだ。
比の歌の第一句第二句「沖遂には小井運ららく」に就て、宣長は「黒日賞は、シなどはあまた
にげくだ アマタ
ありとも、避下らむほどに、数の船に乗るばかりの人数はあるまじければ“」と述べて、「小舟
連ららくは黒日資の船丈ではなく、大方の船等のあまた浮べる」を云ったのであると説明してみ
る。
【評]
比の歌は、大鶴残命(仁徳天皇)が難波に都せられておた頃、吉備の海部直の女黒姫が美しいの
を聞召して、宮中へ召された。併し、姫は皇后の磐姫が嫉み給ふのを恐れて、故郷に逃れ騎った
天皇は高台から姫の舟出する有様を見て、この歌をお詠みになったのである。
情別の情が悲しくも心ゆくまで盛られてみる名歌である。
シに設けるシも吉何人と共にし採めば難しくもあるか
夜麻賀多運。麻郡流阿袁那母。岐備比登登。等母避斯都米婆。 多怒斯久母阿流迦。
【語 ㎞)
o夜麻賀多延山懸に)ー山の手の方にの意で、ここでは山の手の方の畑を指しておる。但し契沖
ゃ宣長は地名であらうと云つてみる。
C阿袁那 松楽)「今の燕青であるといふ説もあるが、一般的に青い英と見るべきであらう。
C岐術比登 吉術人)ー黒姫をさしていふ。「吾妹子などは語はすして吉備人ときこしっるは、吉
古事記の名歌 一三
上代名歌評響 一四
備にして、うら安く交ひ給ふを、うれしと駆 行艇なり、結句に合せて承るべし」と宣長は云 -
つてみる。
O等母適斯都米婆(共にし探めば)ー共に摘めばの意。「斯(し)」は意味を強めるための 助詞で
ある。
O多怒斯久母阿流迦(楽しくもあるか)ー楽しきことよの意。「迦(か)」は「かな」と同じく感動の
助詞。
[歌 意]
山の畑に時いた青菜を懐かしい吉備人と共に摘んでおると、何も心に掛ることなく、楽しいこと
であるよ。
[評]
この歌も仁徳天皇の御製であって、天皇は黒姫を継ひ給ふ情に堪へず、淡路島を見んと、皇后を
欺き給ひ、淡路島にて遥かに備中の國を眺められ、
押し順るや、難波の崎よ、出で立ちて、我が園見れば、淡路島、おのころ島、シの、小
も見ゆ、シっ島見ゆ
と詠まれたが、途に堪へすして吉備の國に渡られた。黒姫はその國の山畑に天皇の御座を願ひ大
製を奉るとて、 青菜を擁んだ時、 天皇も共處 《 永出でになって、 その歌をま家 になったので
ある。
移向於頭くび ドいて、 天皇の橋かた愛情が 1 首によく表はされておる。
** さ !

和 勝に興趣味をあげてきた 元磨きをひとも意
L
夜麻 從後 還。 那斯布技師匠。 秋元素都護。 曾被袁理空母。 和體和氣體米波。
[語 題]
o度航登陸遜(大和邊に)|帝都のある方を指して 公ったもので、 と( では難波の都をいよ。 今彰
の帝都は代々大和にあったので、 難波の帝都をも大和邊と機指していった もの である。
O還斯布將阿比丘(西風吹き上げて)| にし」 とは西風の義であるが、 職して西方を指すやうに
たつた のである。 西風が吹いて、 その風が本 へ 攻き上る様をいぶ。
O政手獎郡體(雲ばなれ)1試が吹いて、 雲が散りん)になるをいぶ。 此の何までは下の何の所で
ある。
O曾收费理登母(離さ 居りとも)ー達く離れて居るともの意。
O和體和得觀米波(我意れめや)1政は天皇の御事を忘れは致しませぬ の意。
古事記の名歌 -

一方
尋リ

上代名歌評響 一六
[歌 意]
西風が都の方へ吹き上げて、空の雲が四方へ離散するゃうに、仮令天皇と私とが別れ〜となっ
て、遠く離れて住んでおても、私はどうして天皇の御事を忘れようぞ、決して忘れはしないので
-
ある。
[評]
この歌は、仁徳天皇が、黒姫と別れて、都へ騎られた後、黒姫が詠んだものである、比の歌の上
の句は一種の叙景詩であり、それを受けて、下の句は強い感情を切質に表現した打情詩である。
一首の中に古代婦人の切質な感情を窺ふことが出来る名歌である。
たち ひ たつ こも
飛比野に寝むと知りせば立薦も持ちて来ましもの寝むと知りせば
多遅比怒通。泥牟登斯理勢婆。多都基母母。母知己許麻志母能。泥牟登斯理勢波。
[語 ㎞]
○丹比野 河内國丹比郡 (今の南河内郡の中) の地。反正天皇の丹比の柴垣の宮、雄略天皇の丹
比の高鷲の御陵などがある。
O泥牟登斯理務婆(寝むと知りせば)ー比虜に寝ると知ってみたならばの意。
}
たつごも
O多都基母(立薦)ー大碑宮儀式帳に 「蒲の立薦」、主計式に 「防薦」 が見えてみる。厳を編んで
作り、扉風のやうに立て、風を防いだのである。上代、天皇・皇子等の行幸の際及び祀先の祭祀
の時に用ひた。
○母知弓許麻志母能(持ちて来ましもの)ー持って来たであらうのにの意。
[歌 意]
比の寒い丹比野に寝なければならないと醸め知っておたならば、あの風を防ぐための立薦を持つ
て来るのであつたの に。
[評]
この歌は履中天皇の御製である。
履中天皇難波に座ししとき、大賞祭を撃げられ、駄しておられた時、皇弟撃江中皇子天皇を試し
奉らんとして宮に火を放つた。比の時阿知直は天皇を助け御馬に乗せ奉つて、大和へ行幸を願っ
た。丹比野に到って、天皇始めて醒め給ひ 「こ\は何虜ぞ」とお問ひになったので阿知直は詳に
事の次第を答へ奉つたときの御歌である。
-
古事記の名歌 一七
上代名歌評響 一八
天飛ぶ鳥もっかひぞ世御が音のきこえむ時は吾が名間はされ
阿麻登夫。登理母都加比曾。多豆賀泥能。岐許延牟登岐波。和賀那斗波佐泥。
C語 郷]
O阿麻登夫(天飛ぶ)ー空を飛ぶをいふ。
O登理母都加比曾(鳥も使ぞ)ー鳥こそ我が使なるぞの意。萬葉集にも、
妹に鍵ひねざるあさけにをしどりのこよととびわたる妹が使か (巻十三)
天飛ぶゃかりをっかひにえてしがも奈良の都のことつげやらむ (巻十五)
とある。
C岐許延牟登岐波(きこえむときは)ー聞えた時にはの意。
O和賀那斗波佐泥(吾が名問はさね)ー我が身の上を問うてくれよ。「佐」は「す」の活用形であり、
「ね」 は願望の意を含む助詞。
[歌 意]
遠く離れて度々逢ふことの出来ない吾が身の上であるから、せめて空飛ぶ鳥を私の使と思って鶴
の鳴撃でも聞えたら、その鳥に私の身の上を尋ねて下さい。
[評
あの
といふ




















れる
流さる



た 宿れ



















た 禰 を
子 太軍穂でれ禰子 なっ

宿。






逃は


らの




のて
穴た
赤、

皇子 あにるて子々れ

こといふ
つ。
人依

太天下

いは
す背




皇子
う穴穂
ゃ 、
また 、



の 太た


























。 子 。


し 天る




この



木梨



で 皇


飛こえ



使


きや










むぶ
鶴 少くたしり女



知い天


べ泣か
しぬ




泣羽

泣き の

み菊
しは





だれさ 打さるもしっ

だ笹



とゃ








しうに





寝 今く日 泣


安く


こそ


肌 の

山つ足





泣み




わ訪


くりがき高田



古事記


上代名歌評響 二○
であり、大郎女に贈られた歌である。「せちなる時の人情は、かくぞかし、おもひやれば、あはれ
なる御歌なり。」と守部も評してみるが、誠に裏情切々として譲む人の胸に迫るものがある。
み もろ たまがきつ
御譜に斎くや霊㎞きあまし誰にか依らむ紳の宮人
美母呂爾。都久夜多麻加岐。都岐阿麻斯。多爾加余良牟。加微能美夜比登。
[語 輝]
○美母呂爾(御諸に)ー「三諸」 即ち三輪碑赴 (祭碑は大物主碑) である。
o都久夜(斎くや)ー祀ひ祭る意である。記博には「築と云は土以て築たる恒にて、今世に所調
る築地なり、古には碑帖にも築たる垣ありけむ、さて比。に二つの意あるべし。一 つには、御室
の属に垣を築 なり。今一っには、垣を築て御室の境域を定むるなり」と云ってみるが、守部は
この説を否定して 「いみじき後世の俗意なれ。宮殿だに無かりし上代に、土以て、垣を築やうの
わざありなんや」 と云ひ 「おしなべて、幽冥 碑の御魂を祭り給ふは、皆森の諸木なりし事、後世
の今に至るまで、榊を用っるに准へてもさとるべきものなるをや。」 と述べてみる。
O多麻加伎(霊離)ー碑籍とも云ひ、玉籍とも書き、普通には碑赴の垣を云つてみるが、こ \では
碑霊の鎮座まします所、即ち碑赴のある所を云ふ。
O都岐阿麻斯(斎きあまし)ー祀ひ祭るに心の至極をつくす意。
O余良牟(依らむ)ー頼りとすること。
O加微能美夜比登(碑の宮人)ー碑に仕へる碑官のことである。
[歌 意
三輪碑赴の碑官が心をこめて一心に碑に所り碑を祭ってみるにもか\はらす、 碑は幸を興へられ
ないが、それかと云って、誰に頼らう。やはり碑に頼る外はないのである。
[評]
比の歌の出典は、古事記で雄略天皇が御機にお出ましになった時、三崎の漫で衣を溜いでみた美
少女があったので名をお尋ねになると引田部赤猪子と答へた。天皇はこの少女に向はれ何虜にも
嫁かす居れ、宮中に召すであらうと仰せられたので、赤猪子は只管御使の来るのを待つて年を経
*に八十 になった。シ子は年老いたが、なに天皇の事を忘れ得ず、色々の土産物を持って富
中に行った。天皇は既に赤猪子の事を忘れて居られたので何者かと尋ねられた。赤猪子は在りし
日の事を物語ると、天皇も思ひ出され、猪子の操の貞なるを賞し給ふと共に、
御室の厳概がもと概がもと、ゆゆしかも概原少女
といふ一首、及び
古事記の名歌 二一
上代名歌評響 二二
引田の若栗栖原若く漫に寝ねてましもの、老いにけるかも
の 一首を賜はつた。赤猪子は皇恩に感泣し午ら、泣く泣く天皇に和へ奉つたのが比の歌である。
天皇との約束を守り、年八十まで、操正しく、陸下の御召を待ち奉つた老娠のやるせない、洪し
い感情が 一種の哀韻となり嫡々として人の胸に迫るものがある。
日本書紀 の名 歌
八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を
夜句茂多菱。伊都毛夜覇鏡岐。菱魔語味爾。夜覇餓根菱倶慮。贈酒夜覇餓岐廻。
(碑代巻)
この数は素妻鳴奪が袋の川上に宮作りし給へる時の御歌てある。
「語
O素妻号倉 ー高天原を降り給ひ、築の川の漫にて、稲田姫の貸に大蛇を退治され、稲田姫と共に
住む宮、須賀の宮を建てられし時の歌である。
○察の川ー出雲の國にある。
O夜句茂多菱(やくもたつ)ー「八雲立つ」 で雲が幾重にも重つてみることをいふ。
O菱㎞語味爾(つまごめに)ー契沖と真淵とは「妻隠にと妻共にと二つの意あるべし」 と述べてみ
るが前者の意に解しておく。即ち「妻籠に」 で 「妻を住まはせんために」 の義であって、宣長の
「古事記停」 には「いにしへ婚姻には、まづその家を建るならはしにや有けん、萬葉 三に 「い
日本書紀の名歌 二三
上代名歌評響 二四
にしへにありけむ人の倭文幡の帯解かへて魔家立妻問貸けんとあるも、さる意にや」と述べて居
る。
O夜覇餓択薬倶慮(やへがきつくる)ー宮の周園に垣を幾重にも作るのと、雲の群り重つてみる有
様とをかけていふ。「垣とは、かこめる義なれば、雲を垣にとりなし、雲の立出るを、つくるとは

のたまひしなるべし」 と荒木田久老は説明してみる。
[歌 意]
今妻を住まはせょうと思って、幾重にも垣を作り、その中に宮を建ててみるが、垣ばかりではな
く、雲までが八重に立ちこめてみる。あ\この宮の中に妻を住まはせようとしておるのである。
[評] *
何といふ雄大な、古雅な歌であらう。面も雄大な調子の中に築しい、喜悦の情が溢れて居り、八
重塔作る、その八重擁をと同じ言葉を重ねたあたりは後世の人は到底及ばない手法である。
奥っ鳥鴨づくしまに我がみねし妹は忘らに世のことごとも
鉄企都郵利。刺茂豆句志磨爾。和我請顧志。伊茂播和素羅耳。撃能擁部験鄧母。
(碑代巻)
[語 ㎞]
o彦火々出見奪「木花之佐久夜昆資の御子で、古事記には「天津日高日子穂々手見命」と記して
ある。火培の中から現はれ出で給うたのでかくいひ、稲穂が盛に質る意の御名である。
C総企都 利(おきっとり)ー沖に棲む鳥なれば鶴とか鴨とかの枕詞として用ふ。萬葉集巻十六に
「おきっ島鴨ちふふねのかへりこばやらの崎守早く告げこそ」といふ歌がある。
o到茂豆句志磨(か*づくしま)ー「かみづく島」の意で「かみ」は碑の意である。「づく」は「秋
づく」「色づく」 の 「づく」である。碑めく島の意。
C和我請㎞志 わがみねし)ー吾率寝貸也。萬葉集巻十六にも吾率宿之とある。「率とは身に孵
るを云」 と守部は述べて居る。
Oシ母(ょのことごとも)ーこの世のあらん限りもの意。但し守部は「齢 ェ闘にて、
齢の限りまでを云意なり」 と云つて居る。
[歌 意]
あの刺々しい碑の宮で、自分と共に寝た少女のことは、比の世のあらん限り忘れることは出来な
い。
【評]
日本書紀の名歌 二五
上代名歌評響 二六
この歌は彦火々出見奪が海紳の宮で豊玉姫と始めて逢はれたことを懐かしく思ひ出して詠まれた
もので素朴な鍵愛歌である。
共の後、豊玉姫は生みませる皇子のうるはしき事を人博に聞きていたくあはれになり、 依つて海
より騎らんとしけれども、共のことはりなく、止むを得ず、妹玉依姫を遺はして皇子を養はしむ、
比の時、豊玉姫返歌を詠みて彦火々出見奪に献れり。
阿詞郷磨週。比詞利播阿利登。比到播伊環耐。企頭我撃贈比志。多輔妬句阿利計利。
(碑代巻)
[語 ㎞]
O阿判郷磨廻(赤球の)ー色の赤い珠。こ\では彦火々出見奪との間に生れた御子に将へて云ふ。
o企弾我暴贈比志(君がよそひし)ー君がよそひはの意で、「し」は意味を強る貸めに添へたシ
である。
【歌 意]
私と貴方との間に生れた子供は赤珠の輝くやうに美しいといふことであるが、それょり*私は貴
方の立派な装が思ひ出されて隷しくてならない。
[評]
子への愛情よりも、夫への愛情の方がより強いことを歌はれたもので、二句三句が、曲折してよ
く利いてみる。素朴であつて、面も女性らしさを失はす、後世の歌ほど表面的に強くないが、内
面には送れるばかりの熱情が流れてみることが窺はれる。
たこし
大坂に拝ぎのぼれる石群を手越に越さば越しがてむかも
鉄明佐介耳。菊ェ適煩例屋委。伊鮮務遅場。多誤鮮耳固佐摩。固鮮介氏務介茂。
【語 ㎞」
○話罪 佐介(大阪)ー大和國葛上郡にある。
O菱ェ恒例属(種ぎのぼれる)ー大阪へ石を取るため人々が次から次へと列をなして登つたので
ある。
O多誤ェ耳固佐摩(たごしにこさば)ー石を運ぶため 手から手へと順次に送るのである。「手越と
は、今世の言に手ぐりとも手どりとも云意にて、大阪より大市まで数萬の人々の、手ぐりに迎博
日本書紀の名歌 二七
上代名歌評響 二八
て運ぶを云り」 と守部は説明してみる。
o固辞令民務介茂 こしがてむかもー介茂(かも)は「かは」と同じで、反語である。越しがた
いであらうか、越し難くはないの意。眞淵は 「将越勝敷なりかてむかはあへむかなり萬葉に多き
詞なり 「も」 は助語なり。」と云ひ、又 「いしむらといふは大石群にていはむらてふに同じ故に手
ごしには堪しと云へりiこの 「介茂」 はこしがてんかはなり」 と 「日本紀和歌略誌」 に述べて
みる。久老は「将 越得 説地、萬葉集中に、不得、不勝の字を、かてなくとよませたり、かて
は得の字にあたれば、茶民務は得んといふに同じ、手越に越ならば越得んといふ意也」と説明し
ておる。
[歌 意]
あのやうに大勢の人が集つて列をなして登つて行ってみる。如何に遠くとも比の様に大勢で、石
を運び越したならば運び越すことは容易であらう。
[評]
この歌は、崇碑天皇の始に倭述述姫といふ方があったが、比の姫が大物主碑の妻となり給うた時
大物主碑は書は見えす夜だけお出でになったので、姫は書にも姿を見せ給ふやう碑にお願ひした
虜、大物主碑は承諾されて翌朝来て小さな蛇となって姫の横筒の中にお出でになった。姫は之を
御覧になり泣き叫ばれた虚、その小蛇は怒ち人の形となって空に飛び去り、御諸の山に隠れてし
まつた。姫は後悔されたが、途に及ばす、悲しみの果死なれたので、之を大和國城上郡大市に葬
つた。比の墓は書は人が作り、夜は碑が作られた。そして大阪山の石を運んで作つたのであるが、
その石を運ぶ人々は相輝いで手越に石を運んだのである。比の石を運ぶ有様を常時の人が歌つた
のが比の歌であるといふ。
一首は極めて寛質的で、質情質感をそのま〜、素朴に歌としたのであつて、上代の打情歌として
は優れたものであると思はれる。
朝 の御木の狭小橋まへっきみい渡らすもよ御木のさ小橋
阿佐志毛能。瀬概能佐鳥魔 志。魔 幣津者湖。伊和略羅秀暮庸。潮開能佐鳥魔志。
(景行紀)
[語 韓]
O阿佐志毛能(あさしもの)ー朝霧は朝のみあるものにて朝日にあへば直ちに消える故に、「消ゆ」
または「消え」の語にかけて用ひる枕詞である。「私記 目朝 場 消也、欲 ェ概 N発語也
とあり、比の説に従ふべし」 と久老は述べてみる。萬葉集巻十にも
日本書紀の名歌 二九
-
代名歌評響 三○
朝霧の消なば消ぬべく思ひつつ待つに比の夜を明しつるかも
とある。
O瀬概能佐鳥魔志(御木の狭小橋)ー御木は碑木を云ふ。碑木が倒れて自然の橋になっておるのを
いふ。狭小橋の 「狭」「小」 は共に音調を整へる接頭語であつて、橋といふのと同じである。
O魔撃津資湖(まへつぎみ)ー天皇の御前に伺候して政治を行ふ君、即ち諸卿をさしていふ。
O伊和修羅秀暮庸(い渡らすもよ)ー「伊」は接頭語である。庸は感敷詞。渡るのかまあiと云ふ
-
程の意。
[歌 意]
今日は天皇が行宮にお出でになったので、平生は践しい百姓などが渡っておるこの碑木の橋を、
有司百官が、威儀を正して渡つてみることであるよ。
[評]
この歌は景行天皇の十八年秋七月に天皇が筑紫の御木に行幸し給ひて行宮に在せし時、その虜に
倒れてみた老樹長さ九百七十丈の上を踏んで有司百官が往来してみた。
時人が之を歌ったのであるが、驚嘆の質感が率直によく表現されて居る。
近江のみ瀬田の渡りにかづく鳥眼にし見えねば慣ほろしも
阿布湖能溺。管多能和多利耳。伽豆匿苦利。梅耳志瀬曳泥魔 。異根酒倍呂之茂。
-
(碑功記)
C語 韓]
O阿布瀬能湖(近江のみ)ー近江の海即ち琵琶湖 である。
多し





(


)

(く の 利

にの意。古は橋がなく渡しであった。





づ○


)





」 瀬

で水 中にもぐること。かづく鳥は鳩鳥のことで
るこ



o






)



g












ほる
こと

あ ろ ある
い 。 つ凝て滞












居る

は感数詞。
[歌 意]
近江の湖水の瀬田の渡しに沈んだあの楊鳥のやうな敵の尻をどうしても見つけることが出来ない
残念なことであるよ。
【評]
日本書紀の名歌 -
三一
**
日本書紀の名歌 三二
比の歌は碑功皇后の御時、忍熊王が逆いたので、皇后は武内宿禰に命じて之を伐たしめられた。
賊軍途に利あらすして忍熊王も湖水に投じて死んだのである。依って武内宿禰がそのことを詠ん
だのが比の歌である。
近江のみ瀬田の渡にかづくとり開 すぎて宇治に捕へっ
阿布瀬能湖。湾多能和多利耳。介豆匿苦利。多那伽湖須疑互。子施耳等還倍菱。
碑功紀)
[語 ㎞]
O多那伽瀬須疑弓(田上すぎて)ー田上は川の名で宇治川の上流である。その田上川を過ぎて、す
つと下流でといふ意。
○宇治ー地名。
[歌 意]
近江の湖水の瀬田の渡しに身を沈めてしまったあの楊鳥のやうな敵の尻は田上川のすつと下流、
宇治でやつと捕へることが出来た。
[評]
この歌は前の歌と同じく武内宿禰の作である。忍態王の尻は歌にあるやうに、宇治の附近で発見
された。
比の歌の平明なるは既に守部が「一首シにして、かくれたる虜なし」と云ってみる通りであ
が、入水したのを指して鳴鳥に
るが 言へたのは、なか〜滑稽味を帯びてみる。
ふたへ
夏員の火員の衣三重着て園みやたりはあによくもあらず
那菱務始能。警務始能虐呂望。赴多弊者弓 。筒匿湖夜優利破。阿耳像匿望阿羅猫。
(仁徳紀)
(語 ㎞)
oシの火虫8衣 ー夏虫* 大里もどちらも戦のことを言はれた。
ので、賛をさして居られる。鍛は火を慕ふものであり、衣とは、賞が蘭を作ってその中にこもる
のを、衣を着たのに警へられたものである。
O赴多弊香弓(二重着て)ー衣を一重ならす二重も着ての意で、天皇が二人の皇妃をお納れになら
うとされたのに警へていはれたのである。
O箇匿湖夜優利破(園くみやたりは)ー園んだ上に更に園むといふことで、満足の上にも更に満足
日本書紀の名歌 三三
* } - * ******* * *
*
代名歌評響 三四
を求められるのをいつたものである。
O阿耳換匿望阿羅㎞(あによくもあらす)ー豊に善き事ならんやの意で、善いことではない、悪い

ことであるの意。
[歌 意]
夏虫の鷲が、一重ならす二重もの衣に園まれてみるやうに、二人の皇妃をお納れにならうとする
のは善いことでせうか、決して善いことではありません。
[評]
この歌は、仁徳天皇が二十二年正月に八田皇女を納れて妃と貸さんとされた時、皇后がお聴きに
ならすして、詠まれた歌である。尚このとき、天皇と皇后との間に次の如き歌の贈答がある。
シの立っるシをさゆづる絶え間継がんに並べてもがも (天皇)
この歌は八田皇女を妃とされようとして皇后に諫解を求められた歌である。之に封して皇后は、
衣こそ二重もよき小夜床を並べん君はかしこきろかも
と詠まれて拒絶された。天皇は更に、
押し照る難波の崎の双び演ならべんとこそその子はありけめ
と詠まれたのであるが、皇后は頑として、
「〜 } J〜 * 〜** *ミr こrg * 「く ー、1
Fつt V 、ノ ょ』 ( イ ニtd7 F・J 3 J7「*d* 1 〜 〜 さく 〜 r
と再度拒まれたので、天皇も赤、
朝妻のせ分の小坂を片泣きに道行くものもたぐひてそよき
と詠まれた。かくて、天皇と皇后との間には贈答の歌による問答が績いたが、途に天皇のため絶
好の機曾が生じ、
八田皇女を納れて記とされた3である。 **。
こな
吾が夫子が来べき得なりさきがねの蜘撃の信び今省しるしも
和餓勢故餓。句倍根像警奈利。佐競餓泥能。匿茂能於虚奈比。虚像比鮮流鮮毛。
(充恭紀)
[語 ㎞]
O和餓勢故(吾が夫子)ー我が夫、即ち天皇を指していふ。
O句倍相(来べき)ー来さうなの意。
佐接餓泥能(さ\がねの)ー「ささがに」に同じ、蜘蛛の枕詞。蜘 味は小さな響のやうである故か
くいふ。「冠鮮考」 に 『古今和歌集にも 「今しはと陀にし物をささがにの衣にかかり我をたのむ
る」とよみたり、こは私記に、佐ェ泥弧妹之別名也、言共鶴如 盤 世 左々原故云てふ如し、
日本書紀の名歌 三五
上代名歌評響 三六
さてかれさまをいへる一 つの名なれば冠らせてよめるなり、旦蜘蛛は篠にのみはあらねど、かた
によりていふも、本草に落鍋桑牛などいふ類ある事なり、旦古へは警をかねとも云つらん、人の
聞かにてふ癖を、萬葉に人之聞金とも書きたり』と述べてみる。
O匿茂能於虚奈比(くものおこなひ)ー蜘蛛の撃動即ち蜘蛛の巣をかけるをいふ。
O虐醸比鮮流鮮毛(今害しるしも)ー今害著しもであつて、今害は殊に目立つて、何となく、天皇
がお出でになるやうに思はれるのである。
【歌 意
]
我が夫の来さうな晩である。あの蜘蛛が軒端に糸を引いてみるのを見ても、そんな気がしてなら
ない。
C評
比の歌は充恭天皇の八年春二月、天皇が大和國高市郡の藤原宮に行幸し給ひし時、ひそかにシ
郎 を見給ひ、姫*赤天皇を懇してみた。その頃、天皇が姫の家を訪はれた時、姫は天皇8お出
でをも知らす軒端にた\すんで詠んだ歌である。 *
衣通郎女は充恭天皇の皇后忍坂大中女の妹で、容姿が非常に美しく、その肌の色が衣を透すほど
であったので衣通姫と呼ばれてみたといふことである。
宣長は「右の歌は詩に、(東山)嫌館在 戸、陸機云、一名長持、新州河内人、調 之喜# 比シ
著 人衣 賞シ 親客 至有喜也、この意に似たり、されど充恭の御時まだ他の園の書の来りて久
しからねば、もとよりこ\にもさる誘の有けんかし」 と記して居る。
【参考歌]
今しはとわびにしものをささがにのころもにかかりわれをたのむる (古今集)
わがせこがくべきよひなりささがにのくものふるまひかねてしるし* (古今集)
ささがにのふるまひしるき夕暮にひるますぐせといふがあやなさ (源氏物語)
とこしへに君も遇へやもいさなとり海の演藻の寄るときどきを
等虐鮮暗運。根弾母阿問郡毛。異舎難等利。宇弾能波摩毛能。余留等相等根弘。
(充恭紀)
[語 騒]
O釈鋼母阿間郡毛(君も遇へやも)i貴方もどうか遇って下さいの意。「ゃ」「*」は感数の助詞で
ある。
O異舎確等利(いさなとり)ー勇魚とりで鯨をとるをいふ。鯨取りは漁夫であり、漁師は海に出る
日本書紀の名歌 三七
-
代名歌評響 三八
者であるから、これよりして、海の枕詞として用ひるやうになった。
O波摩毛(濱藻)ー海岸の近くに生えてみる海藻をいふ。
O余留等根等根弘(寄るとき〜を)ー海藻が時々、磯に打寄せて来る様にの意。
-

C歌 意]
末長く何卒君も私に逢って下さいませ。あの演漫近くに生えてみる海藻が、浪に漂ひ午らも、時
々は、海岸に打ち寄せて来るやうに。
[評]
比の歌*充恭天皇が芽淳の宮に行幸された時衣通姫の詠んだものである。姫は姉君皇后に封する
遠慮から、天皇と度々逢ふことは出来なかったのである。日夜君側に侍し度い心を抑へて、時折
の行幸を待つ、切な可隣な姫の気持が一首の中に溢れてみる。
*

ひら がたけ ぬの わく こ
平潟ゆ笛吹きのぼる近江のや毛野若子い笛吹きのぼる
比温帯状喩。輔曳輔相能明模。阿符美能野。鶴那能倭倶吾伊。輔曳府相能明模。
(継鶴紀)
【語 輝]
o比撮等昧院(平潟ゆ)ー平潟は久老は近江國の地名をいひ、守部は河内國淀川の湊であると云っ
ておる。「ゆ」 は 「より」 の意、平潟より。
O輔曳輔釈能朋模(笛吹きのぼる)ー笛を吹き午ら登って行くの意。毛野臣の枢を載せた井が淀川
を添って行き、その枢を送る人々が哀調の深い送葬の笛を吹き午ら従って行く光景を云った。の
である。
O機那能倭倶吾伊(毛野の若子い)ー毛野の臣のの意。「い」は人名・人倫・職業等の名目に闘する
名詞の下に添へてその語勢を強める接尾語である。
[歌 意]
平潟の附近から、この淀川を派って行く葬ひ船の笛の音が聞える。あれは毛野臣の枢を送る人々
の送葬の笛の音であらう。あ、あのやうに、悲しい笛の音が川を派って行くことょ。
[評]
比の歌は継鶴天皇の二十四年冬十月に以前任那に使した調吉士が還って、毛野臣が三韓に於て亡
状あるを奏したので、天皇は#離子を使して毛野臣を召された。毛野臣は封島まで騎還して病に
羅り死んだ。依って故郷の近江に送葬せんとして山城の淀川を派って行く中、その妻が迎へに出
て河内國の平潟あたりで詠んだ歌である。
日本書紀の著歌 三九
上代名歌歌舞四O
第二位に於て「街攻きのぼる」とあり、また移向に比の何を重ねたので、表態の切なる情を心に
くい程よく表はしてある。
からくに*%
隣の敵の上に立ちて大乘子は都市長らすもや北本へ向きて
柯羅保爾能。非能階術館数族。於語解放器。比例市總領海耶。耶魔等座式裝店。
C於明記)
[語 羯]
O利羅佩爾能(韓國Q)|Tならくに」と云、パ一般に「廣國」と書き支那を指すものであるが、
と(ては新羅を去。
o基配備時能發區域の上に立ちて|上はほとりの意で、地域の航班に立っての意。
o於義大葉子|都靈の妻である。
O比例(領市)|機に建永光片であるが、廣義に見て、神などを元ったものとすべきであらう。
O南雅德拉邦(張らすもや)|南縣道(ふらす)はふるの延管。母部は感嘆調。
歷 ]
新羅の風に換にされた伊企様の妻大葉子は新羅の城の始近に立ち、日本を継い事って、日本へ向
つて袖を振つてみるよ。
[評] --
比の歌は、飲明天皇の二十三年秋七月に大将軍紀男麻呂、副将軍河漫臣境缶を遺はして新羅を討
たしめられた時、男麻呂の軍は大勝を占めたが、河漫臣の軍は大敗し、敵将の貸め生携にせられ
た。比の時調吉士伊企備も携になったが、勇烈で降伏することを肯んぜなかったので、新羅の闘
将刀を抜いて斬らんとし、伊企備に尻賢を日本に向け叫ばしめ、「日本の将我が尻 督を陥へ」 と
云はしめんとしたが、伊企備は反って新羅王に尻響を向け 「新羅王我が尻賢を陥へ」と叫んだの
で、敵将大いに怒り之を殺した。その時、伊企催の子男子と云ふ者も父と共に殺された。伊企健
の妻*共に比の場にあって、捨にされ、非常に悲しんでみたので諸将がこれを見て詠んだのが、
この歌である。
古来この歌は有名であり、下の句が殊によく利いて萬斜の情が含まれ、優れた作歌技個を示すと
共に、深く印象づける句である。
なほこの歌の類歌に、或る人の和して歌へる」 歌として
韓國の城の上に立たし大葉子は領市振らす見ゆ難波へ向きて
といふのがある。
日本書紀の名歌 四一
萬葉 集 の 名 歌
料の ヒ %ォホ㎞ きアシステラ 』 「ラ』 、マルtウ
盤 姫 皇后 思ニ天皇一御 作歌
たかやま いは ね し
かくばかり禁ひっつあらずは高曲の盤樹しまきて死なましものを
如比許。緑午不有者。高山之。磐根四巻手。死奈麻死物平。(巻二)
[語 輝]
○盤姫皇后ー仁徳天皇の皇后。
Oあらすはー宣長の 「玉のを」 に 「んよりはといふ意也。鍵つつあらすはは。継つつあらんより
は也。」と述べてみる。即ち、こ \では「自分は現在鍵 ひこがれてみるのであるが、かういふつら
い思ひをする位ならば、寧ろかうしてみないで死んだ方がよい」 との意。
O磐根ー岩の上部を 「いはほ」 といふに封し岩のねもとをいふ。又岩そのものをも 「いはね」と
いふ場合もある。
oしー意味を強める助詞。
Oまきてー「まく」 は四段活用の他動詞 (古語) で、こ\はその連用形である。枕としての意。
萬葉集の名歌 四三
-ー**
上代名歌評響 四四
Oましー未来の推量の助動詞であるが、質現し得ないことを仮想する場合が多い。
Oものをーものよの意。「を」は除情を含めた助詞。
【歌 意]
このやうに継ひつじけておるよりも寧ろ私はいっそのこと高山の岩根を枕として死んでしまひた
いよ。行き倒れて、高い山の岩根を枕にして死ぬるのはもとより悲惨極まる死方ではあるが、現
在の苦しみに比較すれば、むしろその方がましである。
[評]
稀に見る熱情家であらせられた磐姫皇后の天皇を思はれる情が横溢して除すところがない。蓋し
萬葉集前期中の傑作であらう。
中村憲吉氏は皇后深夜関中の御作であらうと云って居られる。古事記中の仁徳天皇と黒姫との御
闘係などを参照すれば興味深きものがあるであらう。(一 一頁参照)
参考 歌
かくばかり継ひつつあらすは石木にもならましものを物思はすして (巻四)
かくばかり継ひつつあらすは朝に日に妹が踏むらむ地ならましを (巻十一)
なほ、第三句以下の解輝に就いて「いづくにもあれ、山に葬らむさまをいへり。」といふ千藤など
の説と「山の磐を枕として、死なましものをとなり、山の磐を枕として死るは、くるしきことの
かぎりなるi」 といふ雅澄の説とが封立しておるが、「人の墓所には、磐をかまへて、中に具棺
を納る故に死ましものとはよめる也」 と長流も説明しておる通り、単に常時の葬り方を云つたも
のといふ説に従ふ人々は、契沖・眞淵を始め木村正鮮・折口信夫・豊田八十代・島木赤彦・鴻巣
盛廣の諸氏であり、反之、雅澄の説に賛同する人々には佐佐木信綱・井上通泰・橋田東撃・攻田
潤・澤潟久孝の諸氏がある。
作者が稀に見る熱情家であった事や、またこの歌の前後の三首殊にこの歌に横溢してみる異常な
る情熱に思ひ到ると、下の句はやはり雅澄の説に従ふ方が適常であるやうに考へられる。「磐根し
まきて」 が単に葬りの義であるとするならば、「死なましものを」 の上にわざ〜添へる程の必要
もなく、上の句の異常な緊張振りに封してでも不似合である。
㎞しゥ
額田 王 歌一首
ふなの つき ましほ
磐田津に船乗りせむと用得てば潮もかなひぬ会は溝き出てな
鍵田津爾。船乗世武登。月待者。潮毛可奈比沼。今者許藝乞菜。(巻一)
萬葉集の名歌 四五
上代名歌評響 四六
天武天皇紀に「天皇、初シ王女額田魔王子市泉女 」とある
額田女王は鏡王の娘てあって、鎌足の妻鏡ノ女王の妹に常る。
姉は大和ノ國平郡ノ郡額田ノ郷に住まって居られたのて、妹の額田王も赤こ\に居られた。
額田女王は最初大海人皇子(後の天武天皇)の妃となり十市皇女を生んだが、後に事情あって大海人皇子
の兄君天智天皇の后となった。
天智天皇の崩御後、天智天皇の皇子大友皇子が帝位に就き給うたが、大海人皇子は兵を吉野に撃げ、大友
皇子を近江の山前に敗り、大海人皇子が位に就き給うた。
: こ\に於て額田女王再び大海皇子の御許に騎り給うた。
斉明天皇紀に「七年春正月丁西期手寅御船西征始就 手海路 度成御船泊 手伊換熟田津一」とあるが、常時
唐の高宗の命に依って将軍蘇定方は二十萬の大軍を率みて、新羅に助勢し、百済を攻めてその城を陥れた
が、百済再撃を企て、援を我園に求めた。時拾も斉明天皇のモ年てあった。
天皇は中大兄皇子以下多数の幕僚を従へ、九州筑前逸はる〜下られ、朝倉の宮に本管をおいて親ら軍を
督し給うたが、不幸二賢の貸崩御遊ばされた。
比の遠征軍の中に額田女王が居られたのてある。
[語 輝]
o愛田津ー伊換園温泉郡の地名である。斉明天皇紀に「熱田津比芸シ 」と記されて。
O潮もかなひぬー「御舟出さむに叶ひたるを云」と古義に述べてみる。「かなふ」 は「叶」「適」
即ち適合するの意である。
O遭ぎ出でなー「な」は希望をあらはす助詞。遭ぎいでようよといふ意。
「許藝乞楽」を「こぎいでな」と訓んだのは『檜婦手』 に擁ったので、「古義」には「こぎてな」
と訓み、「略解」 には「こぎこな」 と訓んでおる。
春満は 「乞菜の二字をこなとよみては句意きこえす」 と述べて居る。
【歌 意]
愛田津で船出しようと思って月の出てくるのを待ってみると希望通り月も上り潮も満ちた。さあ
これから清き出さう。
[評]
月光を浴びた満潮の港、舟に乗らんとする大宮人達の歓喜、髪 弱として眼前に見るが如くである
「第四句」 の 「潮もかなひぬ」と強く切ったところ、また 「第五句」 の 「今は遭ぎ出でな」 と明
瞭な主観の強い句で結んだところ質に驚嘆す可き手腕と云はねばならぬ。
この歌の第五句は字除りであるが、却つてそれが切迫した気持をあらはし、又一句に濁音二っも
あり、なほ 「提起匿分」 の強い排他的意義をもつ助詞「は」 を入れてみることに依って異常の緊
張した意義をよく示して居る。ひとり 「第五句」 のみでなく、「第四句」 も赤喜悦溢る\句であ
-
萬葉集の名歌 四七
***
上代名歌評響 四八
る。完了の助動詞「ぬ」を以てとめてみる貸、この際極めて適切にその緊張味を示してみる。
後世の女性の歌に見るやうな感傷の弊はなく、また他の萬葉女流歌人にみるやうな直裁高能の表
現法ではなく、そこに溢るる許りの詩的情趣が含まれてみる。
か\る絶好の詩境は天票の歌才を騙って、世にも稀なる傑作を完成せしめたのである。
格調の高き、詩趣の豊なる、眞に比の歌の如きは藝術の絶封的境地に逸到達したるものといはね
ばならぬ。
佐佐木先生は 「萬葉歌風の雄健の調、力づよき感情といふのは こ\に存する」 (萬葉集選㎞第一
頁) と云って、比の歌を讃美して居られるが、吾人は初論その至言なるを思ふと共に、比の歌の
有する他の 一面の特徴、即ち詩趣、及びその卓越せるリズム等についての讃美をも附け加へたい
と思ふ。
要するに比の 一首の名歌は額田女王の萬葉女流歌人としての債値を高からしめるものである。
尚 「鍵田津に」 の 「に」 に就ては、諸説は鍵田津に於てと解してみるが、橘守部は 「比の歌は備
前の大伯より伊興の熱田津へ渡らせ給ふをりによめるにこそ」 と述べ、橋田東撃、湯本朝太郎の
諸氏はこの説に賛成して居られる。
アリマノミ、ョノカチシミ、マシテムスビタマ へルマッ
有 間 皇子 配 傷 継 松
-
いは しろ は ま まつ
て え
磐自の濱松が枝をひきむすびまさきくあらばまたかへりみむ
磐自乃。演松之枝平。引結。眞幸有者。赤還見武。(巻二)
[語 韓]
O有間皇子ー孝徳天皇の皇子。孝徳天皇の崩御後、斉明天皇重砕せられ、有間皇子は好臣蘇我赤
兄に謀られ謀反の企をなされたが、藤白の坂にて縦殺された。
常時紀伊牟基の温泉 (今の西牟書要郡湯崎) にましました斉明天皇が有間皇子を謀反の嫌疑によっ
てお召しになつたので皇子が引かれてゆく途中で詠んだのがこの歌である。
三十四
「飲明天皇 -
上シ天皇ーシ明天皇
「オ落王ーー孝徳天皇ー有間皇子
結 松枝 ー上代に於て木の枝や草の基など結んで置き、再び見るまでにそれが解けてをれば図
とし、解けすにをれば吉とする占があった。
O磐自ー紀伊日高郡の海岸の地名。
萬葉集の名歌 四九
盛で




o

飲食









なり







あるる





っ ㎞]

[ [
]
評 ]


[ 接ど



og












の 頭。

事 松が枝たっ地松るえ

生o


老ー

あ枝
土が
云、





みの

こいふ
即が




入飯



と擁





れるちれ 平



)


(








。 家いへけ
草枕 に と共にる録葉 。




萬この
採「




調

お集

され
。 知そる






そ情











調
悲 哀 に

る られる



顕好


さ紀謀反
か召

あて


だ時





、けっれ伊 。


たら
出来









あ比
でび こと
らう

る うる事り明分しくん代


結岩自分



に置演
自幸
精て
無通の
あ、

草るし枕





にあら
盛旅





あれ ○





上代




いひ

たび
まくら
くさ
O飯ー古、飯といふのは強飯のことである。
oシーシはシとしたのでかく。
O旅にしあればー「し」は意味を強める助詞。旅にあるとの意。
O椎の葉ー椎の葉は科の葉のやうなもので一枚へは飯を盛れないから、澤山の葉を敷いてその上
へ盛るのであらう。
歌 g
家に居れば、筒に盛って食べる食物もかうして旅の場合であると、椎の葉に盛っ て食ふことであ
る。
[評]
萬葉集初期の歌の適例ともいふ可き素朴軍純な比の歌の表現法に依って、 自己の運命のあまりに
甚だしき鍵化を嘆く裏情側々として譲者の胸に迫るものがある。
雅澄はこの二首を評して「契沖もいひしが如く、比の二首の御歌にその時の御心たましひと。
ていと身にしみて悲しきこと限りなし」といってみる。
また、眞淵も「萬葉新採百首」の中にこの歌を牧め、且「いかにも旅のわびしさ質にかくおはし
けん事を、今も思ひはからるる」 と評して居る。
五一
萬葉集の名歌
上代名歌評響 五二
D鳴ら望 へシウタ
中大兄ッ三山御歌反歌
こよ はた ぐも いり ひっく よ
わたっみの豊旗雲に入日さしこよひの月夜あきらけくこそ
渡津海乃。豊旗雲爾。伊理比沙之。今夜乃月夜。清明己曾。(巻一)
【語 韓

O第五句ーすみあかくこそ(奮訓)。さやけしとこそ(鮮案抄)。 あきらけくこそ(略解)。さやにて
りこそ(新訓)などの訓み方がある。
C中大兄皇子「後の天智天皇。「略解」には中大兄 命といふべきなりと云ひ、又「代匠記」にも
「中大兄皇子」とか「中大兄奪」とかいふが脱けたるなり』と記してみる。然るに古義に は「天児」
は皇子と申すと同じことなり、例へば古人 皇子を古人 大兄とも書く』と反較してみる。
oわたっみ「海碑(おほわたっみ、海若、海童)の御名を綿津見 碑といふ、それが韓じて海をわ
たっみといふ。槍演、うなばら、うみ。仙撃が「わたっみはとよはたくもの枕詞」と云ってみる
のは常らない。
Cシー丁度旗をなびかしてみるゃうにたなびいてみる雲をいふ。古本の朱書の傍注に「古語
海雲也、常 タ日 雲赤色也、似 幡也。入日能時者月光清也」とある。豊は「豊御酒」「豊革原」
]

[ ]


[ 希しい



O





さ、


ほの




といふ
から
やか
望 ない



る こは夕夜語よ
古O


今では



でに



。 月るにっ語夜
古o
云ー










単に
あて





あれる



ら」

















ける





* わたつみ味め世色大雲 あらう
る られ




に 「
先生
旗佐佐木
壮豊




景入
後な
認、


以外
趣萬葉
ぬ 詠でっみ 播磨


な岸
のに

。 ららく









御製







恐に



の る 豪
あたり
しい


い らしいた成新石る作線

萬葉
直いかにも


大壮大

あ的
流で
改。


完に



うの

し 照い







くれれ

が り
て 大きな夜っなす々日のる
お海上

あ廣
落。
赤雲
さが
うと
なゃ

天気
今よい



の 如たかるしはく
あの


で美
\


ゆが

示廣


おなる


たる像洋け
居「









大高き



想が
むを






たる
堂々
あたり 書い











のみ









。 く






萬葉


ー j}ー 1 - Jートし
-
上代名歌評 五四
よき相とすれば今管の月は必澄みて明なるべきを喜びて詠じ玉ふなるべし」と述べてみるが、焼
には 「今入日のさすを見ておほせられたるにはあらす、豊旗雲に入日さしてこよひの月あきらけ
くあらむことを未然よりおほせられたるなり」 と述べてみる。
「諸詳に三 句をさしぬの意とし、こ\を己曾あらめといふ意に解るは非なり」と「美久志」に述
べでみるのは兄である。「古義」も同説であるが、「こよひここより、御船にめし給はむの御心あ
りて、いよいよ月のさやけからむことをねがひ給へるにもあるべし」 との推定逸附けてみる。
島木赤彦氏は例に依って明快な批評を加へてみるが、氏の説は「代匠記」 に擁つてみるのでこ\
には省いておいた。又、佐佐木先生の説は 「代匠記」 や 「古義」とも異なってみる。即ち 「海上
はるかにたなびき渡ってみる壮麗な旗雲に入日の光がさしてみる。今夜の月よ、さやかに照らせ
ょかしと海上暮雲に夕陽の映する美しさを見ながら、その夜の月明を希ひ給うたのである」と。
正岡子規は 「比の歌の意義に就きて現在と未来との議論あり、予は初三句を現在の質景とし末二
句を未来の想像と解したし。且つ結句 「こそ」 の語を希望の意と解せすして 「こそあらめ」 の意
と解したく思へどi 」 と述べてみる。
なほ、右三説は各支持者があって、木村正鮮氏・折日信夫氏・豊田八十代氏は燈の説、山田孝雄
氏・鴻巣盛廣氏は古義の説、次田潤氏は佐佐木信綱先生の説に擁つて居る。
参考 歌
奈古の海の霞の間よりながむれば入日をあらふ沖つ白浪
ウチノオホマ へッキミァチハラ * マ へッ キミ、エタルウネべャスミ、コラトキヨミ
取出

Jw

歌 説

内大臣 藤原 ソ
参 一 首
*
われはもや安見足得たり皆人のえがてにすとふ安見見えたり
吾者毛也。安見見得有。皆人乃。得難爾貸云。安見見衣多利。(巻二)
[語 輝]
O藤原卿ー録足を指す。卿は三位以上の人に封する敬稲。鎌足は、皇極、孝徳、天智の三朝に歴
仕し、殊に中大兄皇子と共に蘇我氏を亡ぼし大化の改新を行ひ、大功を以て世に知らる。
o来女ー古は青衣と書いて「ウネメ」と訓んでみるが、青衣を着用し、領布、手樹を掛けて天子
の階膳を宰る女官の義である。「来」 は 「採」に同じく来揮の義であって、上代諸國の郡領以上の
者の姉妹や娘の中容姿端麗なるものを採用し、帝の御鱗に仕へさせたのである。
又一説にはシ女の義であるともいふ。
○もやー「も」 も 「や」も共に感動詞である。その二字が重ったもので 「もよ」 に同じ。 -
○えがてー形容詞 「がたし」 の語幹 「がた」 の轄化で 「得難」 の意である。
萬葉集の名歌 五五
霧 *-- * シ * シ
上代名歌評響 五六
Oすとふー「すといふ」 の義である。古くは 「すとふ」 とか 「すちふ」 とかいふが、後世は 「す
てふ」 と云ふ。
[歌 意]
僕は安見見を手に入れた。誰もが皆手に入れにくがつてみる安見見を手に入れたのだ。
[評]
第一句の感動詞、第二句第五句の繰り返し等いづれも美事な表現法である。素直に無造作にこの
喜悦をいひ放したところに大牢の味がある。
質にも比の歌は萬葉集の眞髄たる 「素朴さ」 を遺感なくあらはしたものであり、面もその云ひま
はしの自然にして強勤なるところに千釣の重みがある。佐佐木先生も 「萬世不易の命がある」 と
評して居られる。
「安見見得たり」トハ安見見 名チガラ、ョョハタャスク得タル意ァカネタリ」といふ「古義」
の説や「新考」の「幸にして易く相見るといふ心を名に添へたり」といふ説明は首肯しがたい。
比の歌は 「素朴」「放魔」 といふ酷が長所であつて、さる字句の技巧的な巧みさを弄してみるもの
とは思はれない。「古義」では
あはもや安見見えたり人皆の得がてにすとふ安見児得たり
と訓んでみるが、こ〜では略解の訓に従って前述の如く訓んでおいた。なほ「新考」 には 「みな
びと」 と訓んである。
天武天皇。天皇 野 常時 御 ェ 歌
良き人の良しとよく見て良しと言ひし吉野よく見よ良き人よく見つ
激人乃。良跡吉見面。好常言師。芳野吉見興。良人四来見。(巻一)
紀に 「八年己卵五月康辰朝甲申吉野宮に幸す」 とあって、壬申の蹴後天武天皇が吉野の離宮に行幸された
時の御製てあるが、由来吉野の離宮は雄略天皇を始めとして斉明、天武、持統、文武、元正、聖武の各帝
が行幸遊ばされたのてあるが、聖武帝の御代に至って、離宮を営まれる事は廃せられた。
抑々この離宮のおかれたのは遠く應碑天皇の朝てあっ たが、こ\は山水の勝地を以て聞ゆる中荘村大字宮
瀧の地てある。六田から吉野川を遡る事約二里牛、萬葉集中属々詠まれてみる通り、名勝として常時既に
人口に贈炎されてみたものて、この御製も赤讃美の御歌てある。
[語 ㎞]
○よき人ー「第一句」 の 「よき人」 は果して誰を指しでみるのかわからないが、貴い人とか勝れ
た人とかの意であるから、恐らくこの絶景を始めて世に紹介した人を指すのであらう。
○良人四来三ーこの句を 「ヨキヒトヨクミ」 と訓んでみるのは雅澄の外に、春満・宣長・守部等
萬葉集の名歌 五七
上代名歌評響 五八
である。
「代匠記」「萬葉考」は「ョキヒトョキミ」と詠んで前者は「ョキヒト」を皇后、皇子その他御供
の人々を指すものと云ひ、後者は「古天皇より臣下をさして君とのたまへる例多し」と述べて従
駕の臣を指してみると説明してみる。
又、荷田御風・橋千藤・木村正鮮は「ョキヒトョクミッ」と訓んで、上の句を打返して再びいひ
おさめたものと云ってみる。なほ、荷田東鷹も「ョキヒトョクミッ」と訓んでみるが、彼は 「ょく
みよと教へ給へるも、皇后を始め諸皇子に示し給ふ御意あるべし」 シ)と説いてある。
島木赤彦氏は「よしのよく見よとは天武天皇が額田王に封して仰せられたのではあるまいか」と
推定してみる。第一句の「よき人」は、天武天皇が吉野で仙人を御覧になったといふゃうなシ
から考へて、やはり古くからこの地に居た偉い人を指すのであり、また「第五句」の 「ょき人」
は、従駕の臣下をほめてかく仰せられたのであらう。
要するに「よき人」とは請はゆる「心ある人」で風流を解する人の意であらう。
【歌 意]
よき人が立派な所であるとよく見て云つた吉野をよく見よ、立派な所であるょ。質にょき人はょ
くも見たものである。
[時
「よ」 と云よ開頭を踏んで おて、 家公 の高校が言タ有 «いつとにも異動しておるのを認れ ? * で
ある。
元來者が の 歌は悲しみの歌に比し其の数少いが、 とれたとは使作のであら28
F適應後には 「 たび東宮を離し結び て比の吉野に おがれたまひし彼に 終に天下としろ
— 8 , ていたれば、比寿數。 とあるが、酸にさうした場合に神錄內親はしたものであら28
その御家は武湖の 商業新宗正音 大平の 「山帯音音質素の 商業集生關」に攻められてわる
スノラ~ コト~ ョ ・ マセルオホ~りタ
持続天皇。 天皇 ㎞
はる す ころ ،o
なっ S。 あめ か & *
春道さて更さたるらし自殺の衣 はしたり男の香甜
春過而。 夏來 反之。 白砂能。 表数有。 天之客員山ºcな y
武春天 天神天皇の孫女に はしまし、 天武天空の皇后となり約40 余四十 代 の天皇にし て食料
* ?* 代 の後李に はします。 帝位にぶ はす事 內年即も未だ年より同西年後、 ケトリş手
四十年前 に常 るº
C語 羯]
O自家— % 《 永 祿 大きくのは作学、「た、代称」 であって古における有類の義 自
萬業集 の名歌 *
五九

六○
上代名歌評響
移」とは多く競、今8継の木の皮で織ったもので「自布の衣」である。
従って自妙といふのは「枕詞」ではなく「衣」の性質を述べたものである。即ち「自妙」で造っ
た衣服の請である。
Oほしたりー「ほしてあり」 の意である。
O天の香具山ー大和磯城郡香久山村にあって、敵火山・耳梨山と共に世に 「大和三山」といふ。古
事記には「阿米能加具夜麻」と記してある。天とは美稲であるが、天から降って来たといふシ
に依つて 「天の」 といふのである。
時の皇居 (藤原の宮) は香具山の西北に常り、 十市郡鴨公村大字高館にあった。
-
[歌 意]
いつの間にか春も去って既に夏が来てみるらしい。 天の香具山の麓には自い着物がほしてある。
[評]
五月頃、梅雨も晴れ渡って高模から遠望してお詠みになったのであらうが、 季節の鍵化あまりに
早きを驚き給うたその生々しい感動が質によく盛られてみる。 --
更衣詩に「開 箱衣帯 隔年香 」とある通り、去年から箱に牧められてあった衣服を乾したり、
今まで着ておなかった衣服を乾したりするのであるから、さうした民家の年中行事の一っをまの
不 い なるせ製葉ほ の
萬ある




御「





調

載集
居を

。 述歌序しるべ




しき
み敷か
但て
順。

雑御製






から








残 甚て

つが




原作

みる すめてせ今具す妙らぎ 。
おだしくてる 和歌集



御製
けこの


白夏
ほし
香衣



改て


古山
載新
へ そかし








あざやか






活の


この

て の みる


る 切めて動象け者るれ 。
こてく常の し

止め
非名詞

よ場合
いに

。 で

み二
作て
印受ため
極た



躍が

あざやか




、 極らない
みも
忘優れ

な事


めてれる 形式
きかし
す深

しを

ある
しので

でさ

動機
表作歌

あなく
みに



ものるら面はた 時尚
なる日みり
御覧
詠あたり


あ哺

御製
した
今遊ば

す丈



我々


そこ
古備せとすら製今案



御抄


け和歌集




ほを

載ふし



たる
られ
家里 ず




















)


(
、 と聞か
ふな

こへ





け志





のごろりるい
ルタヒォ
k




ウめ







萬葉

たこ


ひし
あき

りれ


*ー・ - -*
上代名歌評響 - 六二
[語 輝]
O志斐「この姫の姓。「志斐の」の「の」 に就ては契沖は 「しひの姫がと宣ふなり」といひ宣長は
「貴むる言」 と説明し、久老は 「したしみよぶに用ふる言」 と述べてみるが「巻六に勢奈能我袖
母などいへる能にひとしきなり」 と眞淵は云つてみる。
これは
日の暮に確氷の山を越ゆる日は夫のが袖もさやに振らしつ
の場合の 「の」 を参照して除情を含めた助詞と見る可きであらう。雅澄もこれと同一の意見を持
つてみる。
眞淵の説が最も穏常であるから、こ\ではそれに従つた。
O姫ーおみな、おむな、背女、老いたる女。
Cいな「不ニ聴許 に同じ、即ち許さない、不同意をあらはす言葉である。いや〜など\いふに
常る。
O強語ー強ひてする話、こ\ではこの娠が無理やりにする話の義。
O聞かすてー聞かすして。
[歌 意]
聞くのはいやだと云つても、無理やりに聞かせるあの志斐の老婆の無理強ひの話も、近来しばら
く聞かすにみると継しくなったことであるよ。
[評]
「し」 といふ頭調を履んでみるので諸譜の意が一層よく出てみる。









ノ メミコノヨミ、マセルミウタフタッ
シ御 信歌
吾が背子をやまとへやるとき夜ふけてあかときっゆに吾が立ちぬれし
吾勢枯平。倭漫遣登。佐夜深面。鶏鳴露面。吾立霧之。(巻二)
この御歌は持統天皇の御時の歌てあろ。
大津皇子は天武天皇の第三皇子てあり、大伯皇女の同母弟て二歳年少てあった。
天武天皇の十二年以後政務を聴いて居られたのてあるが、朱鳥元年天皇の崩御遊ばさるるや叛旗を魏し、
事あらはれて捕へられ途に死を賜った。「博覧面能属、文、:多力面能撃レ剣」 と 「懐風藻」 に博へられて
みる程有能の御身を以て二十四歳の若さて他界されたのは惜しむべきてある。
詞書にもある通り、伊勢へは籍かに下られたのてあって、陰謀の成就の所願をこめると共に、肝脆相照ら
す御姉君大伯皇女に胸中を打あけ別をつげる貸てあったのてあらう。
萬葉集の名歌 六三
上代名歌評響 六四
【語 騒]
O吾背子ー背は女から男を奪んでいふ言葉であつて、夫・兄・情人など等に封して用ひるが、こ
この例のやうに弟に封してもいふ。
O大和へ遣るとー「と」 は 「とて」 の意であつて、上古には 「とて」 といふ用法はなかったと雅
澄は云つてみる。
○さ夜ー「さ」 は音調を整へる貸の接頭語であつて、「さ夜」「さ霧」 の如きもその例である。
oあかときー古語、明時の義であって、後の「未明」、「院」、「旭」に同じ。
[歌 意
弟を大和へ行かせようと思つて、別を惜しんでみる中に、いつしか時間が経過して、夜も更けて
途に黎明に及んだ。
見送ってみる中に院の露にしつとり私は濡れた事である。
[評]
或はこれが今誌の別れとなるかも知れない弟君をじっと見送って居られる大伯皇女の後姿をまの
あたり拝するやうな感がある。
この御歌は長瀬眞幸の 「萬葉集住調」 に牧められてみる。
たり あきやま きみ
一人行けどゆきすぎがたき秋山をいかにか君がひとり越えなむ

二人行好。去過難寸。秋山平。如何君之。濁越武。(巻二)
【語 ㎞]
Oゆきすぎがたき秋山ー鹿の鳴く音、落葉の風情、質にも洪しくて、物思ひなくてはゆきすぎが
たいであらう秋の山の意。
[歌 意]
肝磨相照らす私と一緒に行ってすら物思ひせすには通り過ぎる事が出来ないであらう秋の山道を
弟はどんなにしてひとりで越えて行く事であらうか。
【評]
「一人越えなむ」 と云つても皇子であるから従者はつれて居られたのであらうが、これは 「二人
ゆけど」 に封して 「一人」 と云つたのであつて、そこには最愛の弟の心中を思ひやる姉君の裏情
がよくあらはれてみる。
「代匠記」 に 「謀反の志をも聞せ給ふべければ、事の成るならすも寛束なく、又の封面も如何な
萬葉集の名歌 六五
『 *** シ * -"
上代名歌評響 六六
らむと思召す胸中よくあらはれて譲む人をして悲痛の感に打たしむる」 とある通り、誠に姉弟の
情をよく歌つて居られる。我が上代宮廷悲劇の背景をよく示す歌である。
また、下の句に封して置 淵は 「比二くさの調の悲しきは、大事をおぼすをりの御別なればなるべ
し」 と述べて居る。
なほ、折口博士はこの 一首を 「あなたが大和へ騎る途中にある、あの阿騎山は、わたしも知って
みる二人連れて歩いて居ても寂しくて通りにくい所であった。それに如何して、あなたが濁りで
越えてお行きなさるだらう」 と解して居られる。
高市皇子奪城上演宮之時姉本朝臣人磨作歌 反歌一
ひさかた あめ しきみ ゆる つき ひし
欠方の天知らしぬる君故に用中も知らに隷ひわたるかも
久堅之。天所知流。君故爾。日月毛不知。継渡鴨。(巻二)
[語 ㎞)
O高市皇子ー天武天皇の皇子、壬申の蹴の時功あり、持統天皇の朝に太政大臣となられ、十年七
月夢去された。御歳は三十。
O城上ー大和國北葛城郡にある地。
○残宮ー「アラキノミャ」と訓み、夢去されて未だ葬らざる前に祭祀をなす官。
oaきかたのー夫の枕詞 天の形はまるくて隠らなるを、鍵の内のまろくむなし“、シ
の天といふならんと覚ゆ」と「冠鮮考」には説明してみるが、「久方」「久堅」の字を常てる人。
天の枕詞であったのが、韓じては雨・月・雲・星などすべて天鶴のものに冠して用ひるゃうにな
り又更に韓じて、光、都、鏡などの枕詞ともなった。
o天知らしぬるー変去されたこと。碑となって天を領せられることからかくい。「ッッ。
「知る」の敬語法の連用形。領有・統治などの意。
O君故にー君なるにの意。
ツキ ヒ
o脂も知らにー月日の過ぎるのも知らないでの意。「知らに」の「に」は打 で「*」。
ある。守部は 「世は常闇となりし心ちして」 と解して みるがこれはよくない。
【歌 意]
早や碑去りまして、天をお治めになってみるのに、私達はなは、月日のたっの*えず、。
らお幕ひすることであるよ。
U評]
率直単純な表現法の裸に悲哀の情切々として譲者の胸に迫る*のがある。
六七
萬葉集の名歌
** j} "。。
代名歌評響
マルウッカ
"


シド
ウタ
へら

カキ、ノモトノアソミ、ヒトマロガメノミ







之首後
朝臣
柿本


ふく

紅を葉あきやま

-
も みちつ しげ ま 、 いもち し


茂み迷ひ ぬる妹を求めむ山道知らずも
秋山之。黄葉平茂。迷流。妹平将求。山道不知母。(巻二)
○紅葉を茂みー紅葉が茂ってみるのでの意。
○迷ひぬるー妻が死んで、山へ葬つてあり、再び騎つて来ないのを、紅葉茂れる山へ妻が迷ひ入
り、騎つて来ないと云ひかへたものである。
○知らすもー 「も」 は感動詞。知らないことであるよの意。
[歌 意]
秋の山の紅葉があまり茂つてみるので、山へ入つて迷つてみる妻を、何とかして尋ねて行きたい
のだが、どう行つてよいのかその山道を知らないのが悲しいよ。
[評
流石に萬葉時代を代表する名歌人の作だけあつて、流麗な歌調の中に、強く身に泌みて感ぜられ
る強い何物か ゞ流れてみる。
こ ぞ *みあきつく よ てら み いも こしさか
去年見てし秋の月夜は照せれど相見し妹はいや年放る
去年見面之。秋乃月夜者。難照。相見之妹者。弾年放。(巻二)
[語 ㎞]
○月夜ー夜は意味なく軍に月の意。
○照らせれどー照してみるがの意。
○いや年放るー次第に年を重ね遠ざかって行く。
[歌 意]
去年妻と共に見た秋の月は、去年と同じゃうに照してみるが、 共に見た妻は次第に遠ざかって行
くばかりである。
[評]
この



、前の二首とは一年後即ち妻の死んだ翌年詠んだ歌である。
人の感傷を誘ふところの多い月に封して故人を憶ふことは、古来漢詩や和歌に、その例*多いが
この歌に於ては結句の 「獅年放」がよく利いて、殊に悲しく寂しい感を起させる。
萬葉集の名歌 六九
代名歌評響 七○


アー



-
へノシニヒトチカ キ、ノモトノァッ、ヒトマ ロガョメルウタノカへシウタ
一 本朝臣人 磨 作歌 反歌
なみ あり そ まくら
湘っ波来よる荒磯をしきたへの税とまきてなせる君かも
奥波。来依荒磯平。色妙乃 枕等巻面。奈世流君香聞。(巻二)
【語 輝]
O狭界島ー讃峡國仲多度郡に属する島で、沙鋼島とも云ひ、多度津の沖臨飽諸島中の 一小島であ
る。
O敷材の「敷拷は寝床に敷くものであるから、床・枕の枕詞として用ひ、また韓じて衣・快・袖
に冠し、或は家の枕詞ともなつた。
Oまきてー沈としての意。
oなせる「「なす」に「り」のついたもので「なす」は「鍵」の敬語法である。寝て居られるの
意。
[歌 意]
沖の波が打ち寄せて来る荒磯に、その荒磯を枕として寝て居られる君の気の毒さよ。
沖 Q とう p さ まy、ミ ミ し 、g 、ミミ、う }、、。ミ き て ミ**r、「*
【評]
海演に旅人が磐れておるのを見て深い同情を寄せた歌である。か〜る日常質生活の裸に質見した
事を歌に詠んだところに先づ心をひかれる。
古今集や新古今集の歌人ならば恐らく取材としないところのものを扱ひ、面も無限の同情を寄せ
ておる獣にこの歌の眞債があり、又上代名歌の特質が認められる。
ヵ ㎞ョ い 形わニ収場
さ さ は やま われ いも わかき
小竹の葉はみ山もさやにさやげども吾は妹もふ別れ来ぬれば
小竹之葉者。三山毛清爾。蹴友。吾者妹思。別来濃婆。(巻二)
【語 ㎞]
O柿本人鷹ー博は詳でないが、上京して官に仕へたが、地位は極めて低かったらしい。終焉の地
は石見ノ國である。萬葉集中、赤人。旅人・憶良等と並び稲せられる名歌人である。
O小竹ー「ササ」とも、また「シヌ」とも訓むが、こ\では 「ササ」 の訓に従っておく。
Oみ山もさやにー「み」 は接頭語。「さや」は笹の葉が風に吹かれて互に鍋れ合ひさゃ〜と鳴る
萬葉集の名歌 七一
上代名歌評響 七二
をたとへたものである。
[歌 意]
妻に別れて山路を歩いてみると、笹の葉がさや〜と風の貸に鳴つて質に騒がしいが、自分はそ
の音にまぎれもせず、物思に沈んでとぼ〜と歩いてみる。あの継しい妻に別れて来たことであ
るから。
[評]
山中の寂家、笹の騒音と彼 の心中のやるせなき洪しさとの封照極めて巧みにして面も自然に表現
されてみる。
「さ」 の頭韻はこの歌に於て極めて成功して居る。但し第五句はや、蛇足の感がある。
「代匠記 にはこの歌の詠まれた時期を「是は人鷹が朝集使にてかりに上るなるべし。それは十
1月一日の官曾にあふなれば、石見より九月の末十月の初頃に立べき也」 と推定してみる。
尚、石見の山には特に笹が多く生えてみるといふ事を 「新考」 に撃げてみる。
第一句は「ささが葉に」 代匠記)、「ささの葉は」(略解)、「ささが葉は」(古義)。第三句は「蹴れど
*」(古義)、「まがへども」(代匠記)、「さわげども」(略解)、「さやげども」 新訓)となってみる。
に妹が結びし組吹きかへす -

-
栗路之。野島之前乃。濱風爾。妹之結。紐吹返。(巻三)
[語 ㎞]
。シし 「上衣にっいてみる紐を旅行に出る時妻が結んでやるのが常時の習慣であって、
家に って来て再び鍵の手によって解くまでは自分では解かないことになってみた。
シ」に「シとか下ひもとかいへるはしたの帯なるべし、今はうへ8㎞のはしs れ
たるを風の吹くをいふならん」とある。
また、守部は「除情比句に多くふくみたり」と述べてみる。
歌 意
]
シの時の濱風に吹かれて、旅慈しきりに湧く折柄、家を出る時妻が結んでくれた上経を
心なくも潮風が吹き翻すのである。
[評]
この 行は「難波の御津ょり船出して淡路の方へよりて船泊、そこより播磨の門より清出て、四 -
萬葉集の名歌
七三
-
上代名歌評響 七四
の國にゆくなり」と古義に述べて居るが、常時の如く通信機闘も交通機闘も不備を極めておた時
代の旅行は陸路も、海路も共に難渋 を極めたのである。
殊に航海術の幼稚な常時に於ては、海路は特に危険を伴ひ、旅人をして無限の化しさを感ぜしめ
たのである。
眞淵は「萬葉新探百首」の中に比の歌を採録し「こはただ旅行のときのさまなるに、妹が結びし
といへる少しの詞にてえもいはぬ心も侍るぞかし」 と讃嘆してみる。
また、「萬葉集佳調」 にも牧めて居る。
カキノモトアソミヒトマロ リアフミノクニマキノボルトキイタリテウチカハノ球 トリ ニョ メルウタセトッ
シ 近江國 上来時至 宇治河遊 作歌 一首
もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波の行方知らずも
物乃部能。八十氏河乃。阿自木爾。不知代経浪乃。去漫自不母。(巻三)
【語 輝]
Oもののふのー沈詞であるが、「もののふ」は弓節を持ってみるものであるから、 「矢」といはんた
めの枕詞といふ説もあり、また武士の姓が八十あるといふので 「八十氏」 にかかる枕詞といふ説
もあるが、こ \では後の説に従ふ。
「*ののふ」といふのは元来武人の義であるが、大伴・久米の諸氏らいづれも武人であって、上
古我が國では武を奪重したので、すべての廷臣を継稲して「もののふ」といふやうになった。「も
ののふのやそ」 が「宇治川」 といふための序である。
8*ろ「あみしろ」の略で、代」は撃代とか垣代とか云ふゃうに、他のものを以て代用せし
ある議で、即ちこ、では朝の代りをするといふ意であって、川の瀬に統を打ちこんで、それに竹
を編んで築のゃうなものをかけておいて、魚を捕へるやうに仕掛けておくのであるが、夜は特火
を養いて番をしてみて捕へるのである。延喜式には「山城近江國氷魚網代各一虜共水魚始 九月
逸 十二月三十日 貢 之」とあるが、「あじろ木」といふのは水上にあらはれた網代の抗である。
oいさょふ「獅像、俳御、滞り進ます、漂ひ休らふ、たゆたふ。こ\では流れ行かんとする波が、
しばしやすらふ事をいふ。
Oゆくへー行き向ふ方、前途。
O知らすもー「も」は感嘆詞である。即ち 「分らないよ」 の意。
C歌 意]
宇治川の網代木にさへぎられてしばしたゆたふ波の行方は遂に分らなくなることよ。
[評]
-
萬葉集の名歌 七五
七六
上代名歌評響
人の世の生住 の四相の中に暫く住するょと思ふに なく 和に遷されゆく。シ
ふれて暫しやすらふと見ゆるがやがて流過ぐるに感じてょまれたり」と契沖はいっ“。『
に比の歌の中心獣は「ゆくへしらすも」にあって作者が、しばし割代本にただょ。っ。
感じた異常な深味がこの歌の債値であらう。
契沖が論語の「子在 川上 目逝者如期不合 書夜 」を引用して説いてみる 。、全く。
人生の無常朝露の如きを敷いたものと見る可きであらう。
代匠記に契沖は「うち川のいさぎよくおもしろきにのぞみてながめを興きはまれ。
ならひにてあじろ木のもとにしばしいさよふとみゆる浪のゆくる。しらすなるに。人。
ふる程もこれにことならぬよと観するなり」といふゃうに無常観だと解 した。 。
いふ風に解韓されておたが、雅澄に至って、歌の意かくれたるところなし比は打 。、
て他によそへたる意も何もなきを、今打論に共の虜の景の日の前にうかびて、 。
るは、上手の作なればなるべし。然るを契沖が世の中の無常をたとへたる意に 。、
しもしか意得来れば、作者の意にそむけり」と反較した。
鴻巣・攻田・澤潟の三氏は契沖の説に従ひ、井上通泰氏・折日博士などは長之郷港の説に賛成し
てみるが、折日博士はこれは無常観にあらす、「近江から大和への通路は田上の斜谷を通って、
- “ーtts、、? ** jー
宇治へ出たので、湖水・瀬田川・田上川・宇治川と鍵移して行く様子を見ながらやって来た宇治
川」 の景色にすぎないと述べて居られる。
また佐佐木先生は無常の意にとるべきか、単なる質景を歌ったととるべきかは 「伐かに定めがた
い」 と云って居られる。併し作者の性格の多感な獣から考へても、又歌の下の句の調子から見て
も、無常観の歌と見るべきであらう。眞淵も無常観の歌として解響し、且 「萬葉新探百首」 の中
に牧れて居る。
なほ、「萬葉集佳調」も次の歌と共に牧めておる。
参考 歌
網代木にいさよふ浪の音ふけてひとりゃねぬる宇治の橋姫 (新古今和歌集)
大伴の三津の演漫を打曝しよせ来る浪のゆくへしらすも (萬葉集巻七)
カキノモトノアソミヒトマ ロガウタヒトッ
f
柿本朝臣人磨歌 一首
あふ みな
うみ ゆふなみ ち さりな こころ いにしへ
淡海の海夕浪千鳥次が鳴けば心もしぬに古おもほゆ
淡海乃海。夕浪千鳥。次鳴者。情毛思努爾。古所念。(巻三)
ノ [語 韓
]
萬葉集の名歌 七七
上代名歌評響 七八
○淡海の海ー近江の海、即ち琵琶湖を云ふ。琵琶湖が大きくて海の如く思はれるところから近江
の海といふ。
○夕浪千鳥ー夕浪の上を飛んでみる千鳥の意。千島はここでは初論複数である。
○次が鳴けばーおまへたちが鳴けばの意。
○次ー「ナンチ」、「チレ」「チ」 などと訓む。自分より下の者に封していふ第二人稲の代名詞。
○しぬにー務起 (おこりたつ) の反封で魔ふ意。「しと〜」「しほ〜」「偲ぶ」なども比の語か
ら出たものであつて、「しをれて」 「しなびて」 「心のしめり熱ふるさま」、「しなへ さまに」などの
意がある。即ちこ \ではひどく感傷的になるとの意に解すべきであらう。
○おもほゆー思はれる、偲ばれるの意。
[歌 意]
夕方近江の琵琶湖の波間を飛びつつ鳴いてみる千鳥よ、お前たちが鳴けば、さうでなくてもしを
れがちになってみる私の心は 一層感傷的になって、近江の宮の昔が偲ばれる事である。
[評]
人魔が近江の湖畔に立つて、数十年前の近江宮廷の全盛時代を偲んだ歌であつて、「天智天皇の大
宮敷かしし古へのしのばれたりけむこころ、今比 歌を謡にも、あらはにうかびて、あはれ堪へが
たし」 と雅澄も云ってみる通り古今に稀なる名歌である。
先づ第一句の 「あふみのうみ」といふ字除りのこの一句は悠揚迫らざる感を興へ漫々たる大湖水
を偲ばしめるに十分であり、且つ湖畔にあつた大津の宮の地を思はしめる。
又第二句は簡勤にして含蓄多き句であり、第三句は一轄して千鳥に呼びかけたあたり鍵化に富み
感激に満ちた下の句に連績してみる。殊に下の句に至つては明瞭に主観的な描寛となってみて、
作者の切々たる情感がよく溶み出てみる。
人暦の非凡なる手法は遺感なくこの 一首に発揮されておる。鋭い感受性と無比の放魔とは他の歌
人の追随を許さない獣であらう。
眞淵が「萬葉新採百首」 の中へその歌を牧めたのも、また故あるかなといふ可きであらう。
なほ、第一句は新訓萬葉集の訓み方に擁つた。
ヨメルクモチ
Be やまかは わた
せな ゅ、っきがため ㎞た
足引の山河の瀬の鳴るなべに弓月織に雲立ち渡る
足引之。山河之瀬之。響苗爾。弓月高。雲立渡。(巻七)
[語 韓]
萬葉集の名歌 七九
上代名歌評響 八○
O足引のー山の枕詞。宣長は「足引城にて、足は山の脚、引は長く引延たるを云、城とは凡て一構
なる地を云ひ、比は即ち山の平なる虜を云、共は周に限りありて自一かまへなればなり」と説き
雅澄は「まづ阿志は伊加志にて、 極木之と云なるべし、茂とは、茂穂、茂瀬木生、また重日、
藤ヶ、伊加之御世などの茂にて、ここは橋の木を度み菜えたるを要てシ木とは云るならむ」
と述べ、又「之美は即繁なり、これらに依るときは、シ木の山てふ意なるを、あをのをを略き
しにや」 と質淵は云つてみる。
○山河の瀬ー山中より落ちて来る瀬。 しず
○なべにー上の語と下の語とにか\る語で、「なるにつれて」の意。
o号月緑ー号月線は巻向山の率である。
[歌 意]
山中から落ちて来る川瀬の響が、ざあ〜と高くすると共に、弓月が線には雲がむら〜と立ち
こめたことよ。
[評]
初二句は極めてなだちかな調で、落着いた表現であり、後三句は、急激な調子である。従って、
物の急激な動きを如質に示して、質感の溢れた佳い歌となってみる。
ウアカハ ニテョメル ウタ
宇治河作歌
おほくらいり え ひミ ふし みかりわた
国様の人犯とよむなりいめ人の俊足が田非に艦渡るらし
巨棟乃。入江響奈理。射目人乃。伏見何田井爾。雁渡良之。(巻九)
[語 輝]
Oおぼくらのいりえー「おぐらの池」とも云ひ、山城久世郡の北部、宇治川の入江をなしてみる。
Oいめ人のー伏見の枕詞。射目人は射手のことで弓を射る人は伏して見るからかくいふ。(冠群考
参照)
O伏見が田井ー伏見は山城の地名。田井とは田のある虜をいふので、井は接尾語である。雲井の
井などと同じ。
[歌 意]
巨棟の入江が響き渡つてみる。伏見の田の面を、今雁が鳴いて渡ってみるらしい。
[評]
この歌は柿本人麻呂歌集の中に見えてみる歌で、内容からいへは、簡 量な歌であるが、比の二句
で切れておて、その二句が誠に堂々たる表現振りで、面も第三句以下もよくそれを助けて居る。
萬葉集の名歌 八一
代名歌評響 八二






要するに

雄 澤の気溢れ、壮大な歌調で、遺感なく萬葉振りを務揮してみる。
比の歌は 「萬葉集佳調」 に牧められて居る。

二句、入江鳴るなりー考
シプす㎞
Aし

正述 二、北沿一
は な
たらちねの母が手放れかくばかりすべなきことは若だせなくに
垂乳根乃。母之手放。如是許。無貸便事者。未貸國。(巻十一)
C語 騒]
C正述ニ心緒「他の何物をも材料としないで、直ちに作者の心情を歌ったものである。
oたらちねのー母の枕詞。「たらち」は「たらし」の韓にて、讃美の言、「ね」も奪稲。即ち母に封
する讃嘆奪敬の意をあらはしてみるので、「母」 に冠して用ひる。又轄じて 「親」 の枕詞となる。
O母が手放れー母の手を放れ一人前となること。
[歌 意]
母親の手を放れて一人前になってから、未だこのやうな術ない思ひはしたことはないのに、ほん
とに比の度は辛いことだ。
[政
魏のやるせたさをかと ったのであらう。 感情のほとばしるま) に直線的に読んだ力强 い印象 の深
い歌である。
第二位 は 「母が手はたれ C正義)、 母が手かれて (昭解)
第五旬は 「いまだ せなくに 古装)、 「いまだあはたくに 新考)
イデ マセル ゴ システ トッ てヤニトキナウ
班 教職 棒球 路。(樂 會)
解 をさら流 る宗の戦により とめる とにボの敵
法多藝如。 流水之。 教練。 與好政期與拜爾。 月影所見。 《德九
歷 院
o た% –水流から産 党に従って滅する。 たら は たりて お笑。 四度開の動
詞 「たきつ」 (古語)の連用形º
c "| 的加の情形で、後世の 使用 化と同じゅ
Oよとめるよと— 「法伦 る投 で、 池とは水が流れないで停滞しておると と。 從つて水 の流れた
いでわる所を流 といぶ。
萬業集 の名歌 八三
*}
***』 - - }
C評]

歌 章]
何所爾可。船泊貸良武。安濃乃崎。接多味行之。棚無小舟。(巻一)
いづくにか船泊すらむ安濃の騎こぎたみゆきし棚なし小瓶

岩とりるくのみ間 川
淀は
なのの

そふれる
よを

\
ひま
見い











や め









あが
あ故

たかな




る。

月て

のも影る 。
らう
ぎり 止き出し

そ動


ない


洗え




描様








眞れに 景かま動放りれ色 。
っ に





い 川

さ間


活奔居が
止自由

静し




急激
ざる


鏡 作る




未詳




され
遊ば





ない





有数
集中
山 者




-* -
なて

うなる





みるり なやかるっ影のし に


そ留
月、


さ淀
映が
みに

。 流び散っ


飛落ち




し水







みる
かと


では
れる
ぶき




萬るれ葉
ら「





調

居集

上代名歌評響

-*
ふなはて
あさき

八四
[語 議
黃永 ℃らじ とものみやつこ vにのみやつこ
O連|かばれ の名で 試・連 ・ 作 這 • 國 造 の中の第二位。
O能相|結 の とまるとと。 ふたとまり、ふたがかり、船の行き到るをいよ。 即ら徒相 の意である。
O安體の輸1所在不明、 或は遠江國演者都新居館であらう といび、 或は美濃國不被那今の荒井で
あらうかともいふº
Oときたみ|清さめぐると と。 「とき は濃くといふ動詞の運用形。 「たみ は たむ といふ動詞の
連用形であって、 「たむ (回)は江面するとと。 まはりくれる の意。
O概なし小舟—母親の始 いておない光。 柳は 和名跡 に 提、 不交大都、 大船隊投也」 とある。
非洲、ふたベり、 ふたがは で弁の 明敏にわたしてある技 で、水夫はと の上に上 つて藩 でのである。
[政 é
安體 の船を惜いで編 つて行ったあの勝のない小丸は今相 と と に延拓し てわる事であらうか。
-
{
T德洛杉」 にも 「旅行の情あはれあまりある海邊の脱將也」 と述べ て おるが、 表現節明 にして、
而九條龍溪き名歌である。
たば、 概無し小舟を読んだ政は
東萊集の名歌 八五
上代名歌評響 八六
㎞正 っち越え見れば笠難8島清きかくる棚無し小舟 s言
瀬をとめ柳無し小舟態出らし旅の宿りに艦の蓄きこゆ (奪交
などがある。
タケチノムラジクロヒトガタビノウタ
高市運黒人覇旅歌
にして 艦しきに曲 の弱のそほ船海に滞く見
客貸面。物継敷爾。山下。赤乃曾保船。奥援所見。(巻三)
【語 ㎞
O旅にしてー旅にて、旅行中の意。
O物こほしーこほしは古語にて継しに同じ。
O山下ー「地名なり、筑後園に有にや」と仙豊は云って居るが、契沖は「磯漫の山もとよりi」(代
匠記)と述べ、宣長は「やましたと訓べし、こは赤の枕詞也、さる故は古事記に春山乃、霞をとこ、
秋山の、したひ壮子と見え“」(玉の小琴)といひ、千薩も雅澄も共に比の説に従ってみる。
O赤のそほ船ー「赤」は形容詞 「あかし」 の語幹 「あか」 の韓じた名詞、即ち赤き色の意。「そほ
は騎士である。緒土で塗った赤い船の意。「公船者、以、朱漆、之」 とあるから、こ\では都の方へ
清ぎ騎る官船の意。仙覧は 「そほ船は小舟也」 と云つてみる。
○沖にー沖に於ての意。
[歌 意]
旅にみて何かにつけて故郷鍵しくおもはれるのにその上に、都へ騎りゆく朱色の官船が沖を遭い
でみるのが見える。
[評]
波の 色と官船の赤色との封照もあさゃかで印象鮮明であり、旅人のもっ望郷の衰松切なるをよ
くあらはして除籍がない。蓋し旅の歌としては上乗のものであらう。騎心矢の如く旅人の胸中千
々に蹴れるさま見るが如くである。
但し、契沖や賞淵は「山下」を「赤」の枕詞とは解してみないで、前者は 「磯漫の山もとより朱のそ
ほ舟の奥にこぎさかるを見る」 と解し、後者は 「今山下を出て奥へ接行を見て」 と説いてみる。
高市連照人
シぎこと予ナまじ う毎 やドう㎞こ撃
磯前接ぎたみ行けば近江の海八十の湊に鶴さはになく
磯前。授手回行者。近江海。八十之湊爾。鶴佐波二鳴。(巻三)
萬葉集の名歌 八七
上 代 名 歌評 殺 八八
C語 騒]
O磯前ー近江國坂田郡入江村大字磯といふ所であらう。
O接ぎたみゆけばー「たみ」 は 「めぐる」 こと。遭ぎめぐつてゆくとの意。
O八十の湊ーこれには二説ある。一は地名とし(略解・檜婦手参照)、一は多くの湊の義と解して
みる(古義参照)。宣長は、八坂村といふのがあるがそれは八十の湊の訛ったものであるとしてお
る。八坂村とすれば、坂田郡磯前から西南二里 (彦根から一里) の湖岸であるが、古義の説の方
が穏常と考へられるから、その方に従つておく。
現に巻七、にも「あふみの海漢八十ありいづくにか君が船泊て草結びけむ」とあり、又巻十三に
も「あふみの海泊八十あり八十島の島の崎々i 」 とある。
Oさはになくー「さは」 は多くの意で、澤山の鶴が鳴いておるのである。
【歌 意]
磯の崎を遭ぎめぐって行くと、多くの湊あたりに澤山の鶴が鳴いてみるのが聞える。
[評]
展開する琵琶湖の絶景は率直無技巧の裸に却ってよく表現され、殊に「第五句」 によって一層鮮
明となつ てみる。
皇子奪 営
あめ っ ちさこも を おもつかこ き み
天地と共に終へむと思ひつつ仕へまつりし心たがひぬ
天地興。共将終登。念午。奉仕之。情違奴。(巻二)
C語 輝]
O皇子ー日並皇子、即ち草壁皇子のことである。天武天皇第一の皇子、御母は持統天皇である。
天武天皇の十年皇太子となられたが、帝位に即かれすして、持統天皇三年四月御歳二十八歳を以
て夢去せられた。
O舎人ー東宮職員の舎人で、職員令に 「大舎人六百人」とある。「殿居」「殿侍」などから韓化した
のであらう。
O共に終へむとー天地の終るとき自分の奉仕も終る。即ち天壌のあらむ限りお仕へしようの意。
[歌 意]
天地のある限り、久しくお仕へしようと思ひながら、お仕へ申してみた私の心に違ふやうになっ
た。誠に悲しいことである。
[評]
萬葉集の名歌 八九
ーーー}ー 『
九○
上代名歌評響
「第一句」「第二句」 第五句」あたり、いづれも萬葉集の特徴たる直線的な力強い表現法であっ
て、亡き主君を思ふ表情が溢れておる。率直無技巧にして面もあはれ深き名歌。
眞淵も「ひたぶるに思ひ入りたる心をいふなり」 と評してみる。
なほ、略解に「皇子を天地とともに久しからんとおもひしと也」と解響してみるのは常を得ない。
なみだ
みたちせし撃を見るときにはたっみ海るる涙とめぞかねっる
御立貸之。島平見時。庭多泉。流涙。止曾金鶴。(巻二)
[語 ㎞]
立ち

o














即 語



お立ち






され
Oにはたづみー「には」は伐。「たづみ」は泉の意。即ち雨などが降って庭にたまって流れる水の
ことをいふ。韓じて 「流」 の枕詞として用ひる。
Oとめぞかねつるー「かね」は得ざる意。止めることが出来ない。
[歌 意]
皇子が魔々お立ちになって景色を賞せられた庭園を見るにっけても、皇子の在しましし日が思ひ
出されて、涙がとめどもなく流れ出ることである。
[評]
比の歌*舎人が、日並皇子の夢去のとき詠んだ歌である。亡き人が在世中常に好んでおた所のも
のを、ふとながめて在りし日を追懐する情は古人も今人も鍵りはない人情であるが、素朴率直な
表現の裸に云ひ知れぬ悲哀の情が切々として海れ出てみる。
撃の 多変の御階にさもら へど暗日も今日も各す こともなし
東乃。多藝能御門爾。難伺侍。昨日毛今日毛。召言毛無。(巻二)
[語 隠]
O東のー日に向ふ方で、東方の意。
O多藝の御門ー多藝は水が激し流れることである。御門は御殿の意。こ\では飛鳥川の水が島ノ
宮に落ちてみるところにある御殿で、後世の泉殿のやうなものである。
Oさもらへどー「さもらへ」は動詞「さもらふ」(四段活用) の己然形。「さ」は接頭語、「もらふ」
は 「もる」 の延音で 「さむらふ」 と同義、即ちここでは伺候してみてもの意である。
【歌 意]
萬葉集の名歌 九一
* シ
上代名歌評響 九二
東の水の落日にある御殿に、私達はかうして毎日伺候してみても、昨日も今日も、一向御召にな
ることもなく、誠に洪しいことである。
【評
この歌も前の歌と同時の作であるが、たゞ己の身上を叙しただけで、面も夢去の後のしみ〜感
じた洪しさを十分に現はして除すところがない。
ヨリ ア ス カノミ、ヤウシリシシ や ラノミャ ョ㎞
従 明日香宮 遷居藤原宮 之後志貴皇子御作歌
をで ふ あすか かぜみやこ をほふ
うねめの袖吹きかへす飛鳥風都を遠みいたづらに吹く

繰女乃。袖吹反。明日香風。京都平遠見。無用爾布久。(巻一)
[語 ㎞]
O飛鳥宮ー飛鳥浄御原宮のことで、藤原宮から東南十数町の所にある。天武天皇から持統天皇ま
で都であつた。
O藤原宮ー持統天皇四年に起工し、八年十二月竣成し、浮御原宮から遷都せられた。
飛鳥の宮は今の高市郡飛島村大字雷と飛鳥との間であり、藤原宮は自標村大字四分の驚巣碑赴の
北方であつたらう。
O志貴皇子ー天智天皇第七の皇子で霊亀二年に夢ぜられたが、御誕生の年月は詳かでない。
光仁天皇の御父に常らせられたので春日宮御宇天皇と申上ぐ。
oうねめー「来女、懸」昔、諸園の郡の少領以上の姉妹の容姿優れたるものを宮中に召し、御膳
の事をつかどらしめたもの。ここでは初論藤原宮に仕へてみた宮女を指してみる。
○明日香風ー飛鳥地方を吹く風をさしていふ。「伊香保風」「佐保風」などと同じ云ひ方である。
○袖吹きかへすー袖を吹きうらがへすの意であるが、ここでは 「元来ならば袖を吹きかへす可き
答」 のといふ義である。
O都を遠みー都が遠いのでといふ意。
[歌 意]
今まで都であつた比の飛鳥の地も今では奮都となつてさびれ、元来ならば優腕な宮女達の袖を吹
きなびかすべき風も、今では都が遠くなつたので、た ゞ空しく物洪しく吹いてみる。
[評]
華かなりし過去を偲びながら、現在の洪しさを歌った気持が溢れてみる。
守部は 「宮女たちは遷りて後も、比皇子暫く飛鳥ノ地に残りておはししなるべし」 と推定してを
る。「藤原遷都は持統八年十二月であるから、この御歌はそれ以後のものである。或はその翌年
萬葉集の名歌 九三
九四
上代名歌評響
の春頃の御作ででもあらうか」 と澤潟氏は述べて居られる。
なほ、この歌は 「萬葉集佳調」 に牧められてみる。
また、比の歌の 「第一句」と「第五句」とは種々の説があるのでこ\に砦か述べておく。先っ妹
女の訓み方に就いて考察すれば、奮本には「たをやめ」と訓み、契沖はこれに従ってみるが、
満は「みやひめ」と改めた。又、眞淵は「嫁女と書は後の誤とす」 と説いて「壊女」と改め「た
わやめ」と訓み、千陰も同じく「たわやめ」 と訓んでおるが、雅澄は「妹字、媛の寛誤か“」と
云って 「をとめ」と訓んでおる。又、木村正鮮橋田東撃の雨氏はたをゃめ(妹女)、井上通泰。攻
田潤・島木赤彦の三氏はたわやめ(嫌女)と訓んで居られるが、佐佐木先生。折日。山田。武田。
澤潟。鴻巣の諸氏皆うねめ(嫌女)と訓んで居られる。併し、嫉女C県淵)・媛女(雅澄)・舞女C季
略)らはいづれも字を改めたものであるから、やはり妹女と訓むべきであらう。元来「妹女」は
「来女」 と記す可きである。
次に 「袖吹きかへす」 の解澤に就いて述べてみると、春満は「吹反、比二字、古本印本共に、ふ
きかへすとよめり。然れどもふきかへししなどやうに、過去のしの助鮮をそなへされはてにをは
全からす」 と云つて過去の意に解してみる。
眞淵は 「吹かへすと訓しはわろし」 と云って 「吹きかへせ」 と改めてみる。然るに、宣長はこの
説を否定し 「たわやめの袖をも吹かへすべき飛鳥風なれども、今は京遠くなりぬれば、さる女も
行通はねば、いたづらに吹と云也」 と説いた。
然るに、守部は「宮女のここに在し比は、袖ひるがへしっる明日香風のi」と述べ、又雅澄*
「比ノ一句は、袖を吹キ離せしといふ意にきくべし、これ過去しことを、現在の同にて云る一ッ
の格にてi」 と述べてみる。
守部、雅澄の説に賛成する人々は佐佐木信綱先生・井上通泰氏・武田耐吉氏・折日信夫氏。攻田
潤氏・澤潟久孝氏らであり、これに反し宣長の説に従ふ人々は木村正鮮氏である。
眞淵の説の常らない事はいふまでもないが、「吹きかへす」を「吹きかへしし」といふ過去の意に解
するにも及ばす、「吹きかへす可き」「吹きかへす答の」といふ現在の意に見る方が穏常であらう。
なほ、守部は「風だに然りといふと聞ゆ。もし下の心ありしも知べからねど、今はききしりが
し」 と述べて居る。
㎞y
志貴皇子権御歌
たるみ
稲ばしる撃最のBのきはらびの期え出づる春になりにけるかも
石激。垂見之上乃。左和良批乃。毛要出春爾。成来鴨。(巻八)
萬葉集の名歌 九五
代名歌評響 九六
【語 ㎞]
O志貴皇子ー施基皇子とも書き、天智天皇の皇子である。
O権ー喜びである。
○石ばしるー「垂見」 即ち垂水にか\る枕詞。
O垂見ー垂水で播津國豊島郡にある地名と見る説 (代匠記・考・略解・古義) と、垂れ落ちる水
即ち瀧と見る説 (仙撃投・新考・日譚萬葉集) とがあるが、廣義に解して瀧と見る方が面白いと
思ふ。
○上ー漢籍などの場合と同じく 「ほとり」 と解すべきである。
Oさわらびー厳で 「左」 は接頭語。
[歌 意]
水の激して瀧となってみるその瀧のほとりにも、厳の萌え出る春とはやなつたことよ。
[評]
調子の強い、生命の躍動して止まない喜びの溢れた歌である。
元来歌には古今を通じて悲しみの歌は多いが喜びの歌が少い。蓋しこの歌の如きは喜びの歌の中
の代表的傑作であらう。
「比御歌いかなる吉事にあはせ給へる時に詠ませ給ふとは知らねども、さわらびの根にこもりて
かがまりをれるが、もえ出づる春になるは まことに時にあへるなり。天智天皇の皇子ながら御
位につかせ給はさりしかども、時におうもかせられ給ひて、事に常り給ふこともなくて、御子自
壁皇子思ひかけぬ高御座にのぼらせ給ひて、光仁天皇と申し奉り、比皇子も田原天皇の御おくり
名を得給ひ、御子孫今にあひつづきて御位をつがせ給ふは、比歌にもとみせるなり。今承るも、
よろこばしき御歌なり」 と契沖は述べてみるが、又折日博士も「春の即興の歌として、単純化の
行はれた傑作である」 と讃嘆してみられる。
なほ、比の歌は眞淵の 「新採百首」 に牧められて居る。
シヒ ナガ マッ レルコ タミウタヒトツ
志 斐編 奉、和歌 一首
しひこさ
* ●
し し ー
否といへど語れ語れと語らせこそ志斐いはまをせ強語とのる
不聴難請。語濃語濃常。語許曾。志斐伊波奏。強語登言。(巻三)
C語 輝]
Oのらせこそー「のらせこそ iまを朝」と係結になってみる。後世いふ 「のらせばこそ」に常
る。
萬葉集の名歌 九七
上代名歌評響 九八
O志斐いー「い」は接尾語(前出)で 「木の國」 を 「紀伊の國」 といふのもその一例である。
[歌 意]
お話するのはいやで御座いますと申上げても語れ語れと仰せになりますので、やむを得す私は申
上げるのですのにそれを無理強ひの話と仰せになるのです。
[評]
この歌は持統天皇賜志斐姫御製 (六二頁参照) に封し御答へ申上げた歌であるが、譜講に封して
諸譲を以てお答へ申上げ、そこに君臣間の和やかな気分が漂うておるのは誠に面白い現象である。
「老女なれば繰返し議長し同じ物語を聞を上ぐるを否と仰せられ」たのであると契沖は遠べてみ
しひがた こちつけばなし
が、日譚萬葉集では 「評語り」 即ち 「附曾話」 だと云つてみる。
まさこ かた
ますらをがさっ矢たばさみたちむかひ射る雌方は見るにさゃけし
大夫之。得物矢手挿。立向。射流圓方波。見爾清潔之。(巻一)
[語 韓]
o舎人ー氏であらうが、停は未詳。巻二には舎人皇子とよみかはした歌がある。娘 といふのは
郎至に封する語である。宣長は「イラ」は「イョ」に同じく「イロセ」(伊呂兄) とか 「イロト」
(伊呂弟) とか親愛の意をあらはすものであるといっておるが、「イラ」は「色」の義、即ち年が
若いとの意だといふ説もある。「娘子」 を「イラツメ」と訓むのは氏の下にある時、「プトメ」と訓
むのは地下の名にある場合である。
この歌は持統天皇が伊勢へ行幸遊ばされた時舎人娘子が詠んだのである。
Oますらをー盆荒雄、ますらたけを、あらを、強い男の意。
oさっ矢ー狩猟に用ひる矢である。「さち矢」(猟失)ともいふ。「さつ」は「 」に同じく、「獲
物」の意で、「聖」などいふのはその一例である。
Oたばさむー「手挿み」即ち手に持つ意。
初めから射るまでは、序であるが、「的形」の的は「圓」とも書き、その形の鷹なる故にかくいふ
との説もあり、又目魔の義だともいふ。
O的形ー伊勢 國多気郡東黒部の演の奮名を的形ノ浦と云ひ、昔はこの浦の地形が的の形になつて
みたといはれてみる。
Oさやけしー清くさつばりしてみること、目のさめるやうな印象のあざやかなこと。
-
萬葉集の名歌 九九
上代名歌評響 -

一○○
【歌 意]
伊勢の的形の浦は質に目もさめるばかり美しい眺めである。
C評]
「射る」逸は序であって、この歌の中心酷は初論、第四句・第五句であるが、併し、この序のあ
る貸に第四句・第五句も一層あざやかに描かれてみるのであり、殊に上の句は女性の作者なるが
故に特に感じた印象であって、眞淵の調はゆる「ますらをぶり」をよくあらはした歌である。女
性濁得の感動を美事に躍動させてみるところにこの歌の特異性が認められなければならない。
[参考]
景行天皇の御製として伊勢風土記に載せてある歌
ますらをのさつ矢たばさみ向ひ立ち射るや圓方濱のさやけさ
アべ
%
阿部女郎歌二首
いまさら なに
発更に備をか慰はむうちなびき心は君によりにし物を
今更。何平可将念。打魔。情者君爾。縁爾之物平。(巻四)
[語 輝]
シ こ
O安部女郎ー博未詳。阿倍女郎と同じ人であらう。
O打魔ーこ\では 「よる」 に係る句である。
[歌 意]
今更かれこれと何を思ひ煩ふことがありませうか。私の心はもうすっかりあなたに廃いてみるの
です。
[評]

妖髄な、面も嫌味のない、調子もなだらかな佳い歌である。
安部女郎の歌は萬葉集中僅に数首あるのみであるが、面も萬葉女流歌人中の犬なるものであって
比の歌も次の歌と共に傑作である。
[参考歌]
道のべの尾花が下の思草いまさら更に何か思はむ (巻十)

天雲のよそに見しより吾妹子に心も身さへよりにしものを (四巻)
ここ ひ
許が背子は物な慰ひそ事しあらば火にも水にも酷なけなくに
吾背子波。物莫念。事之有者。火爾毛水爾毛。吾莫七國。(巻四)
萬葉集の名歌 一○一
上代名歌評響 一○二
[語 輝]
O物な思ひそー心配するな、案じるなの意。
O事しあらばー若しもの事があればの意。
O火にも水にもーこの次には言葉が省略されてみるので、火の中、水の中でも入るやうなことが
あつてもの意。
O吾なけなくにー私がおないのではない、私がみるではありませんかの意。二重の打消を用ひて
みる。
[歌 意]
吾が背の君よ、あなたには、何も案じるには及びません。若しかの事があれば、あなたの貸に火
の中、水の中でも厩は ない私が居るのですから。
[評]
愛する者の貸に、身も魂も投げ出した強烈な熱情のほとばしり出た情熱の歌である。契沖は 「わ
れならなくに」 と訓んで 「火にも水にも我れ君と共にならんの意なり」 と述べてみる。
シタシマウタ
相 問 《歌
そきしま Q %を くに 6% * たり ●
數論の大和の戦に太 人ありとし訳は 続か期かれ
式寫方。 山號及土井。 人二。 有年金者。 雅可將變。 な+ b
語 羯] *
O家馬の— 「試験者 に 操神起に「三年九月場 都於康城 是語頭龍宮崎起に 完年七月琴
使國機邦總裁高 句號 為機械島金利害 J 20 て、二代たがら秋にあまた年おはしまして名高
ければ、 さる比よりゃのつから大和の関の今一つの名の如くたりにひん。 例で後にとと財の都と
なりて も、 落 さと といふに疑わせ てよめるならん と云 つて居るo
oたにぶ 1 書 は 何で、書を借りて用いたのである。 他を広げら 8%
C歌 ]
日本の風の中に私の録する人が1 人とあると思 &たらば、 何しに私は愛さませ 28 真方より外に
は機しい人がないから、 とんな に貴方の事ばかりを思っ て愛< の です。
[時
執法而º進れるばかり掛の とふった数で、 藤する異性を愛慕する際奧の整が狗に送りや2た野
-
萬業集の名歌 | O
*
- } } }-*
上代名歌評響 一○四
に印象深い歌である。
巻ノ十二の 「うち日さす宮道を人はみちゆけどわがもふ君は只一人のみ」は内容に於て同じ歌で
あるが、前の歌の方が力強く譲者の胸をうっ。
もの も あ
たれ わ や さよ
離そ比の吾が宿に来呼ぶたらちねの眼にころばえ 悪ふ を
誰比乃。吾屋戸来喚。足千根。母爾所噴。物思吾呼。(巻十一)
[語 ㎞]
Oたらちねのー前の垂乳根と同じで母の枕詞。
oころばえー碑代紀に「務 残威之噴譲 」とあって大撃で叱られること。「え」は受身の助動詞
「ゆ」の連用形である。
○ものもふーこ\ろでは心配しておる意。
-
[歌 意]
誰ですか、私の家の前に来て私の名を呼ぶ人は。私はあなた故に母に叱られて心配してみますの
に。
C評]
初句において「誰れぞこの」と呼びかけたあたりは野趣があり、民謡風な素朴な歌である。恐ら
く女の詠んだ歌であって、男のことが母に知れ、母に叱られてみるにもか\はらす、女の気を知
らないで、男が訪ねて行ったとき、軽く怨んだ歌であらう。
ますらを こも なぐさ
大夫は友のさわぎに慰もる心もあら む聡そ蓄しき
大夫波。友之駿爾。名草溢。心毛将有。我衣苦寸。(巻十一)
【語 輝]
Oさわぎ 契沖は「駿。倉含切。駿馬也。そめきとよむべきやいまだ考へす。藤をあやまれる
か。藤 奪也。もし騒敷。騒動也」と云ってみる。奮本には「ソメキ」と訓んでみるが、「サワ
ギ」 と訓むべきであらう。
Oなぐさもるー慰むるである。
【歌 意]
大丈夫(男)達はたとひ心の中に物思ひがあっても、友と交つてさわいでおる中に、 心を慰めるこ
ともあるでせうが、併し女である私は、家の中に濁りでみますので、 心を慰める術もなく苦しい
ことであります。
萬葉集の名歌 一○五
上シ 一○六
[評]
女性の心からの告自であらう。この歌に依っても日本の女性は昔から家庭人であることが知れる
常時の赴曾相を物語る歌で、一種の力強い印象を興へる佳い歌である。

かにかくに はおもはず飛騨 人の打っ㎞の直通に
云云。物者不念。斐太人乃。打撃縄之。直一道二。(巻十一)
[語 ㎞]
○かにかくにー鬼や角と同じで、あれやこれやとの意である。
O斐太人ー飛騨匠に同じ、飛騨匠は飛騨國から出た工匠の義で、毎年、員数を定めて交番に京に
上り、木工寮に属しておた。元来、飛騨は山國で、その國の民は土木、建築に熟練してみた。
○打つ墨縄ー黒縄は大工が線を引く貸に用ひる道具である。
O直一道にー専心にの意である。奮本には「タダヒトスチニ」 と訓んである。
[歌 意]
私はあれやこれやと物は思はない。たゞ飛騨の大工が打つ黒縄のやうに、一意専心あなたばかり
-
を思つてみる。
C評]
直線的な力強い隷の歌であつて、熱情が巧みな警職に依って溢れるばかり表現されておる。
この歌は 「萬葉集佳調」 に牧められておる。
[参考歌]
かにかくに物は思はす朝露のわが身一 つは君がまにまに (萬葉集巻十一)
シヌフフルサトラ
思ニ故郷
ち きり つ ま よ やま かすみた な
滞き瀬に千厩 妻呼び曲のはに 立つらむ北南備の罪
清瀬爾。千鳥妻喚。山際爾。霞立良武。甘南備乃里。(巻七)
-
【歌意]
○故郷ー古くは己の故郷と、都との意がある。こ\では雨者を策ね示してみる。
O清き瀬ー清い川瀬。こ \では飛鳥川のことである。
O山のはー山のほとりである。
○霞立つらむー「らむ」は現在推量の助動詞で、上の句と霞立つとの雨句を受けて推量してみる。
○甘南備の里ー飛鳥の都の近くに甘南備山あり、その附近の地であらう。
萬葉集の名歌 一○七
上代名歌評響 一O八
[歌 意]
今頃はさぞあのきれいな飛鳥川の瀬には千鳥が妻を慕って暗く撃が聞え、山のほとりには霞も立
つてみるであらう。あの鍵しい碑南備の我が故郷は。
[評]
平城京に遷都された時、新京へ移った人が故郷を慕って詠んだ歌であらう。打情の歌としてもよ
りも、績景の歌として寧ろ藝術的香りの高い作品である。
なほ、第二句は 「千鳥妻よび」ー(古義)、「千鳥妻よぶ」ー(考)となっておる。
ヨスイカゾチニ

寄、雷
あまぐも かしこ
シに近く りて鳴る碑の見れば悪く見れば悲しも
天雲。近光面。響碑之。見者恐。不見者悲毛。(巻七)
[語 輝] (
O寄、雷ー雷に寄せて歌った継の歌である。初三句は鳴る碑即ち雷を異性に警へたのである。
o見れば恐くー 盤 は恐れ揮ること。
[歌 意]
私の態しく思ってみる人は雲の中で近く光ってみる雷のやうに思はれ、目前に見れば、恐れ揮ら
れて、心の中を申上げることも出来ず、それかと云って、あの方を見ないでみるのは悲しいので
ある。
[評]
女性の男性に封するやるせない継心を歌ったものであらう。中々巧みな警輸である。
上の句に封して佐佐木博士は 「簡潔に雷の壮観を詠み得てみる」と評して居られる。
ヌアソビ
野遊
ももしきの大官人は暇あれや梅をかざしてここに集へる
百磯城之。大宮人者。暇有也。梅平挿頭面。比間集有。(巻十)
[語 輝]
C**しきのー大宮の枕詞、「禁裏には、百の官の著座有故に、かくいふなり」と長流は云ってお
るが、真測はこれを否定し「百石城と書たるは、正字なり。多くのシたる皇城てふ意に
てはべり。i」 と述べて居る。
O大宮人ー大宮の 「大」 は美稲、宮廷に奉仕する人をいふ。
萬葉集の名歌 一 ○九
]

C
-

るれどるー ので
\

おO








つと
あ。






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ざしるり あOれ




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。 る 上やか廷時た活和代 。
生華平とにかく


しな
常殺


宮もの







生活 て


もの







から


こと

し るて

い おせし名のるっ



あそから
こ歌





仮部分





に巻
載書 古めて




と和歌集










採録

改。






して



し 集るり







みつけ

遊ん
楽しく
。 みとしてりると代平達 ]



人朝廷
泰官
あこ御は



飾と





うか
あら
ので 意

[
受る





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び なかし

し反語


\














とき合



さして


と「




今日






おる






こと




赤 る






上代

あ詞問る
疑意


助。

















なほこの歌は、巻七の 「ももしきの大宮人のまかり出て遊ぶこよひの月のさやけさ」と一 脈相通
するものがある。ともかく、比の歌は萬葉、新古今雨歌集の歌風の相違を知るには最もよきバロ
メークーである。
「暇なきは仕ふる人の常なるをここは春の野に梅の花かざしつつ遊ぶ日なれば暇あるやとよめる
●●●●●●●●
」 と置淵は云つてみる。
「萬葉新探百首」 にもまた 「萬葉集佳調」 にもこの歌を採ってみる。


寄、霞
かすみた あ はるひ くら
懇ひっつも今中は幕しつ霞立っ明中の奪取をいかに繋さむ
線午毛。今日者暮都。霞立。明日之春日平。如何将晩。(巻十)
【語 ㎞]
○鍵午毛ー鍵し午らの意。
[歌 意]
私は継しさに胸を焦しながら、今日はどうにか一日を暮らしたが、さて、霞の立ちこめて、気の
晴れない明日の春日の長い日を一鶴どうして暮したらよいのであらう。
萬葉集の名歌 * 一一一
上代名歌評響 一 一二
[評]
継する者のいらだたしい気持を遺感なく表はしてみる。殊に、第三句の 「霞立」 の句によつて、
退屈な春の日長にむすぼれたやるせない気持を如質に描寛してみる。
なほ、第五句は 「いかで暮さむ」(古義)、「いかに暮さむ」(略解) となってみる。
タナパタ
あきかぜ ふしらくも たなばたつめ あま
秋風の吹きただよはす白雲は織女の天つひれかも
秋風。吹漂藻。白雲者。織女之。天津領中露。(巻十)
[語 韓]
O吹漂藻ー吹き廃かす意。
O織女ー織女星のことである。
o天津領市ー歳女生のかけてみる領市のことで、天津は美禰である。
ひれ (領中) は、上代、婦人が肩にかけて正装の時の装飾としたもの、「ヒラ(平)の轄呼。局平
なるもの、即ちひらひらするものをヒレと稲へる。領又は肩にかける布片をヒレといひi」と
「古語鮮典」 には記してみる。
「融 意]
秋風に吹かれて廃いてみる自雲は、あの織女星のかけてみる領市であらうか。
[評]
この歌は七夕の夜の自雲を織女星の領市かと疑つて詠んだもので、なだらかな歌調であり、七夕

の夜にふさはしい歌である。
なほこの巻には 「天の河霧立ちのぼるたなばたの雲の衣の翻る袖かも」 と云ふのがあるが、封照
して味ふべきであらう。
ュラダチ
夕立

おき ぬ *
足玉も手球もゆらに織るはたを君が御依に縫ひあへむかも
足玉母。手珠毛由良爾。織旗平。公之御衣爾。縫将堪可聞。(巻十)
[語 韓]
O足玉、手珠ー上代人が頸。手首・足首などに丸玉や勾玉を纏つて飾りとした玉をいふのである。
Oゆらにーゆら〜と揺れて鳴る様をいふ。
ミ、トラシ ミハカシ
O君が御衣にー「公」とは牽牛星をさす。御衣はお召しもの即ち着物のことである。御執。御偏
萬葉集の名歌 一 一三
]


C
]

[ ]


[ え来るつとむ



こO



出かも
もが

疑問
うかと
だら



村里雨

家庭












)


(
。 庭 みき
ふこ
さめ
むら
くほろ

にぎさ
よこ かる





といふ
。 も 極めてる なく
あ赤

流麗
。 女らころが

気歌織女星




巧た
表を
とに





調


しい現み持っ心 御来る




とまで
こ物




出縫
あが

。してらと召 に
うか 動出で
手手



ま鳴ので
つ程

懸命
お一生







なみる
かするてで玉 じゃう

















出来


。 造




かるや考も
参へ

や」










渡として













雨降り













に く









上代


O庭草ー庭に生えてみる草。
O村雨ー一しきり降って止む雨をいふ。
O秋付ー秋の色の濃くなったことをいひ、色づくなどの 「づく」と同じ用ひ方である。
[歌 意] -
庭先に生えておる雑草に村雨が降りそ\いでみる折柄、懸離が洪しく鳴いてみる撃を聞くと、い
かにも秋になったことが感ぜられる。
【評]
一しきりさつと降った村雨に配するに蜂難を以てした作者の心境は心にくいまでに秋と云ふもの
に封して心が溶けておたに違ひない。秋の洪しさをしみ〜と身に泌みて感じた作者の質感が、
流麗にして、面も平明なこの韻律をなしたのであらう。
ヨスツキニ
寄、月
きみ き


に獄ひしなえうらぶれわがをれば秋風吹きて月傾きぬ
於君隷。之奈要浦解。吾居者。秋風吹面。月斜鳥。(巻十)
C語 韓]
萬葉集の名歌 一 一五
上代名歌評響 一 一六
○しなえー心が妻えること。
Oうらぶれー心悲しく思ふこと。
Oつきかたぶきぬー奮本には 「烏」 とあるが、これは焉を誤つたものである。
【歌 意]
君を継ひ慕つて濁りやるせない思ひに心も業委え悲しく思つてみると、秋風までが心洪しく吹き、
月もはや西に傾いた。
C評]
この歌は自然と人事とを巧みに織り組んで居るから、秋夜月の傾くまで愛人を思ひ午ら、孤関の
洪しさをかこつてみる気持がよく出てみる。
あさか やまかげ みや まみ あさこ * ろ あ 象も
安積山影さ へ見ゆる山の井の浅き心を吾が思はなくに
安積山。影副所見。山井之。浅心平。吾念莫國。(巻十六)
[語 輝]
O安積山ー岩代國安積郡にある山。
o山の井ー清水の湧き出る泉である。
O浅き心をー安積山から山井之までは序であり、安積山の 「安」 は浅心平の浅に云ひ績けたもの
である。
[歌 意]
安積山の影さへはっきりと見える程浅いこの泉のやうに、私の心は浅く貴方を思つてみるのでは
ありません。
[評]
意味の曲折した名歌である。なほこの歌の左誌には「右歌停云。葛城王遣 子陸奥園 之時。國司
祇兼緩怠異甚於時。王意不、脱怒色題、面。難、設 飲離 不 肯 楽 於是有 前乗女風流娘子。左
手捧、解。右手持、水。撃 之王膝 面詠 比歌 爾乃王意解脱。楽 飲終日 」とある。これに依っ
て見ても落城王の怒を解いた程の名歌である事がわかるであらう。
現に貢淵も あさか山の歌はかく王の 心をなぐさめて、比度のことも成っれば、まことに歌の
父母のごとし。」と云つてみる。
但し新考には 「古義に膝ニ水ヲウチソッグチリといへれど膝に水をうちそ\がば王の怒は盆甚し
からむ案するに持水の二字は術文にて右手撃之王膝ならむ之は助字なり」 とある。
この歌は 「萬葉新探百首」 や 「萬葉集佳調」 に探録されておる。
萬葉集の名歌 一 一七
上代名歌評響 一 一八
ヤマノへノ オミラがアリシモロコシニトキ シヌビテクニ ヨメルウタ
第二句は「はやひのもとへ」(奮訓)、「はやくやまとへk考)、「はやもやまとへ」(略解)
「萬葉の歌人中、人磨と並稲すべき者を求むれば、そはむしろ赤人にあらて憶良なるべきことは、吾人の
認むる所なり」(歌撃論議一O九頁)と 佐佐木博士は推稲してみられるが、人魔、赤人などとはまた異っ
た意味における高葉代表歌人の 一人てある。
警明天皇の六年に生れ、天平五年六月三日年七十四を以て残した。即ち人魔と殆んど同時代の人てある。
文武天皇の大資六年、年四十二栗田眞人を大使とする遣唐使の 一行に加はり遣唐少録として唐へ渡らうと
したが、難船して引返し、大賞二年更に入唐し居ること約一年慶雲元年七月騎朝し、元正天皇の侍譲とな
ったが賞組二年伯者守となって任に赴き居ること六年、聖武帝の養老四年京へ騎り、後更に筑前守に任ぜ
られ、はる〜九州に赴いた。時に年六十六。在任六年天平三年騎任し、その翌年殺したのてあるが、常
時の先進園唐に遊んだ時代の新人てあり、且っ深き人間味をもった人てあった丈に彼の歌は非常に異彩を
放ち、今日吾人が上代の賞赴曾をもうか ゞひうる底のものが多い。
[語 輝]
Oいざー感動詞、誘ふときとか、心の進むときに用ふるが、こ\では前者である。
O子どもー略解には 「船人の諸人を云へり」。古義には 「諸人を云へり」。新考には 「従者を指し
て云へり」。選響には「従者などを親しんで指したのである」と。
遣唐使として同行した人々を親しみ指して云つたのであらう。
「個案抄」には「ましら」と訓み「次といふ古語也」と云ってみる。
O大伴のー「三津」の枕詞。昔大伴氏は代々大連の職にあつて、撮津、河内の雨國を領有しておた
ので、三津の枕詞となつたのであらう。
O三津ー今の大阪市南匿島の内に三津寺町の名が残つてみる。
[歌 意]
さあ、人々よ。早く日本へ騎らうよ。三津の演漫の松もさぞかし我々を待ちこがれてみることで
あらう。
[評
]
一見極めて無雑作に云ひ放ってみるやうであるが、望郷の念やみがたきものをよく詠つてある。
第一句に二つも「濁音」 を含み、又第三句の 「やまとへ」 と云ひ放して、「大伴のi」とすぐ次
に移ってみるあたり、除調を残し、下の句と相侯つて、作者の溢れんばかりの感情を質によく描
寛して居る。
萬葉集の名歌 一 一九
上代名歌評 一二○
第四句第五句は擬人法であるが、そこに豪も擬人法の臭味を感ぜさせないところに作者の異常な
感激と、それを寝す技個とが認められる。
交通機闘通信機闘の不備な上代、異郷に於て彼ら邦人がいかに寂客を感じたか比の歌が雄精に物
語つてみる。
故藤岡博士は 「もし人暦の格調と憶良の思想とを打つて一丸とするものなりしならんには萬葉集
の光彩念陸離たるものありしならむ」 と評して居られるが、この歌の如きは萬葉集四千四百の作
品中正に異彩を放つところのものといはなければならないであらう。
彼の歌は筑前守として九州へ下ってから後のもの、即ち死去前僅か五六年間のものがその大牛を
占めてみるが、比の歌は珍らしくも中年の面も異郷の空で詠んだものである。
海外に在つて詠んだものは萬葉集中質に比の歌一首あるのみである。
廣漠はてしなき大自然の大陸地から、なつかしい故國日本の柔かな自然の景色、松の縁を想像す
るとき、一年前船出したあの日本の海岸を思ひ出さすにはみられなかったであらう。古義に 「御
津乃演松は待といはむとて云るなり」 とあり、又新考に 「家人を松に擬したるのみ」 とあるのは
常らない。尚 「無情の松、たれをまち態ることあらんや」(鮮案抄) の説も肯定しがたい。
この歌は 「萬葉集佳調」 に牧められてみる。
「國語と國文學」(大正十五年八月競)所載、屋敷氏の「憶良の渡唐」を参照せられたい。
【参考歌]
いざ子どもゃまとへ早く自菅の眞野の棒原手をりてゆかむ (巻三)
いざ子ども香椎のかたに自妙の袖さへぬれて朝菜つみてむ (巻六)
自露の取らばけぬべしいざ子ども露にきほひてはぎの遊せむ (巻十)
ぬば玉の夜明しも船は接ぎ行かな御津の演松待ち継ひぬらむ (巻十五)
いざ子どもたはわさなせそ天地のかためし國ぞ大和島根は (巻二十)
あまの原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも (安倍仲魔)
は ノッノす ォ移 ガカル科キワウタグ浸リウタヒサッ
山上 臣 憶良 罪、宴 歌 一 首
おくらい まこ
億良らは今はまからむ子泣くらむそのかの獣も吾を得っらむそ
憶良等者。今者将龍。子将喫。共彼母毛。吾平将待曾。(巻三)
[語 輝]
O憶良らはー憶良は作者自身の名である。 「ら」は普通複数を示す接尾語であるが、こ\では複数
ではない。語調を整へる貸めの助詞である。
萬葉集の名歌 一二 一
『 } * -
* 。事
上代名歌評響 一 二二
O語宴ー宴曾の席から退去すること。
Oそのかの母もー子供の母もの意。
O吾を待つらむぞー家庭にあって我を待つであらうと推量したのである。
O第四句ーそのかの母も(略解)、そもかの母も(槻の落葉)、その子の母も(檜瀬手、新訓)といふ
やうに相違がある。
[歌 意]
憶良はもうお先へ失濃しよう。子供が宅では泣いておるだらうし、又その子の母も私を待ってお
るであらう。
[評]
家庭を思ひ、妻子を愛した憶良の家庭生活を如質に物語る名歌であって、上代人としては稀に見
る眞面目な道徳的な憶良の性格がよく窺はれる。現に眞淵も 「かく戯いひて共席を立けん様思ひ
やらる、かたくて旦おもしろき人と見ゆ」と評し、島木赤彦氏も「その率直さが自ら撃調に現れ
●●●●●●●●
上 と賞讃し て居られる。
殊に第四句に就て守部は 「いひなしつづけがらおもしろし」 と評して居る。
ピほ ジョラ功
偲子等歌 反歌
しろがね く がね たからこ
銀*黄金も環も何せむにまされる撃にしかめやも
銀母。金母玉母。奈雨世武爾。麻佐濃留多可良。古爾斯迦米夜母。(巻五)
[語 輝]
o珠ー金、銀、瑠璃、神確、環湖、環環、競項の七賞(他に異説あり)を指すのであるが、「金」
と「銀」とは第一句、第二句に云ったから、こ\では 「金」「銀」以外の玉をいふ。
Cなにせむにー何かせむ、即ち何にならうぞの意。
Cまされる賞ー「勝れる質」でこれは第二句の金銀珠玉を指す。即ち立派な質の意。
C子にしかめゃもー「しかめゃも」の「や」は反語、「も」は感動の助詞。子に及ばうか、子には及ば
ないといふ意。
【歌 意]
自銀*黄金*珠玉も何にならうぞ。かうした立派な質物でも子に及ぶものではない。
【評]
尻に人日に喰攻した有名な歌で、山上憶良が筑紫にあった時、國に残した愛子を慕って詠んだ歌
萬葉集の名歌 一二三
萬葉集の名歌 一二四
であらうか。鬼も角家庭的な温い情の持主としての憶良の歌としてふさはしい*のである。
親の子に封する愛情を詠んだ歌は古来数ある中にもこれは代表的なものである。
物質としては最も貴重な金銀珠玉を例として撃げ、これに比してすら子供に封する愛情といふ*
のがより重要である事を述べたのであって、何人にも解し易く、又よく纏まってみるので有名に
なつたのであらう。
敢布 私鶴 歌三首 (中録一首)
みやこ
離にシ住まひっつ都のてぶりわすらえにけり
阿麻赴 留









比都
伊 奈 美夜故能提夫利。和周良延爾家里。



(
)
【語、韓]
Oあまさかるー「ひな」の枕詞。都の方から部の國をのぞめば天と共に遠放りて見えるの意と云ふ
説と、天離るはひ(日)の枕詞であって、太陽が常に大空を運行し、離れてみるとの意であるとい
ふ説等がある。
O部 田舎の意でこ 〜では筑前をいふ。
O住まひー住むの延音。
○手ぶりー風俗の意。
Oわすられー「わすれられ」の意。
[歌 意]
私は遠い田舎に五年も住みっゞけてみるので、あの優に美はしい都の風俗は忘れられてしまった
ことであるよ。
[評
天平二年十二月大宰の帥大伴旅人卿が大納言となって中央政府へ騎る時の銭の歌であるが、山上
憶良が死んだのは天平五年のことであるから、憶良の晩年の作である。彼は碑亀三年筑前守に任
ぜられ、爾来比の遠國に在る事質に五年であるにも拘らず都へ呼び騎されなかったので、老いの
洪しさと不満とが常に彼の心に鬱積してみたのであらう。
齢七十に除る老地方官のやるせない憂 慣織の情がうかゞはれ一種いひしれぬ哀調がある。
「老いて遠き國の任に年へぬるおもひさこそ侍らめ」と古義にも述べてみる。
尚、この歌は眞淵の 「新探百首」眞幸の 「萬葉集佳調」 に牧められておる。
三首の中の後の二首は
萬葉集の名歌
一三五
上代名歌語種 | 11次
かく のみや意つき居らむあらたまのき 《行く年の限り知らずて
音が主 のみたま期がて変さらば系良の都に召上げ給はな
である。
食節間際歌謠 .
書の座を愛しとやさしと思«とも飛び らなかっ張に あれば
些問學 之學友在之等。 於母格林世。 飛立可歸鄉。 烏爾之 同民稱號。 秦王
C語 羯]
O家しとやさし と 2しと」 に苦しいとの意。 夜作之等は 離しと である。 愛しと思《正義
しいと思 《 左 の意。
Oかれ つ|は不能の意を表す。
O島にし|しは頭める航調。
月號 ]
かうして世の中に生きてゆくのは愛くもあり、 文配しく あると思 われと、 佛し島ではないの
だから飛び 去る ととも出來ない。
[時
此Q改は様安 の作で、 長政と共にあまりに有名た歌である。 後者の 心を歌ん“除すととろがたい
秋に下の何には質感がよの つれ たらお願い難をもっておる。
能 說服務教認 者
その こもな よろつよ かた ク Y な た
王やも空しかるべき事件に語り継く可さ名は立てずして
士也 难。 本模有。 萬代爾。 語類可。 名者不立之而。 德夫)
[語 羯]
Oお も1長詩であって、 「全しかるべきやもの意である。
oだし1無特殊タ の意もあり、 文苑去の意もあるが、 と ) では後者の義。
O高校に1本選に、 いつ7(までもº
o語り換く可さ|後世の人々がその 子孫に永く語り使 《 2る程の といふ意。
O名1功名手柄。
月改 ]
男子たるものが、 後世宗く世人がその子孫に語り様 《 る程の功績を挙げずして、 とのま人 死んで
萬業集の名歌 | 11
{ ( 1 ) | | | | | | | (, ) ,
上代名歌語錄 | 11 人
めけるものか。 此の歌には
方言、 山上德良臣法制之時、 藤原朝臣八東、 使 阿洛朗區東人,令。間 所,东之於 於是德
皮亞熱器已事。 有 得武漢靈魂 日,哈比歌
とある。
[]
陳良は比の年 (天平五年) 七十四歲を以て落に世を去ったが、 その愛國の全或德與李志れず、 病
中間かくの如くその表情を吐露したのである。 病德くして再び起ら離さを知り、 而も着國に何等
報める事なくして世を去るの悲哀を搭載 しと の歌を歌んだ。 整派共に下る比の歌は常受の人、 至
說の人たる遺民の航船から逃り出たる呼びで、 義し不打の名作といふ可さであらう。
命、 山金正 日 には北の歌を攻めて居る。 家神が
ますらをは名をし立つ べし後の代に聞き つぐ人も語りつぐがね C德十九)
Jいふ道和の 歌を遺しておる程で、 常時脈に共鳴者を出しておる のである。
第 1 位 は 「ますらやº 代作記)、 たととやも 古羅)、 「をの とやも K略解 、 「をの とやも K新劇
大 なって居り、 第三角は 「 全しかるべき」(古義、 新劇、 略號)、 「金しくある べき 先后起) となつ
て居り、 第五旬は 「名は立てすし て」 ( 日戦、 新制、 新考し、 各は立たすし て 始解、 考> Uたつ て
F月る
トジ
尋マ㎞ ノ
幸ニ志賀一時石上 郷 作歌 一 首
しらくも やま こき
こ\にして家やもいづく自雲のたなびく曲を越えて来にけり
比間貸面。家八方何虜。自雲乃。棚引山平。超面来二家里。(巻三)
【語 輝]
O幸ニ志賀 時ー二説がある。一 は元正天皇の御時であるといひ、一は持統天皇の御時であるとい
ふ。
O石上卿ー誰であるか分らない。雅澄は乙暦であるといひ、眞淵は乙暦の父、麻呂公であるとい
ふ。
Oこ \にしてー「こ\で」 の意。
O家やもー家とは都にある我が家のことである。八方は疑問の助詞 「や」 と感動の助詞 「も」 と
が重つたものである。
[歌 意]
こ \まで来てみると、はて我が家はどこらであらう。あの白雲の癖いてみる山を越えてはるん〜
萬葉集の名歌 一二九
* } }
- - -- シ* シ * * シ j 。
上代名歌評響 一三○
と来たことよ。
[評]
第三句と第四句が心にくい程、全鶴の上に利いて、遥かに遠く来たことを感ぜしめる。遠い旅路
に出た作者の心境を巧みに描いて除すところがない。久松潜一先生は「いかにも人間の心にしみ
こむ如き感のあるのは、旅に於いて感する寂宛 の質感から生じた歌であるからである。」と評して
居られる。
オホミコトモチノカミオホトモノマ へッキは ノホメタマフサヶラウタトラマリ 、ッ
大 宰 帥 大伴 卿 讃、 酒 歌 十 三 首(録一首)
こり
比の世にし難しくあらば来む世には嵐に鳥にもあれはなりなむ
今代爾之。築有者。来生者。鼻面鳥爾毛。吾初成奈武。( 三)
「語 寝]
O比の世にしー「し」は強める助詞。比の世即ち現世に於ての意。
○来む世ー来るべき世、即ち来世をいふ。
O濃に鳥にもー鼻にでも鳥にでもの意。
「歌意ロ
比の世に於て、酒を飲み楽しく倫快に過したならば、来世は轟にでも鳥にでも自分はなってもか
まはない。
[評]
徒に来世を恐れる俳教徒の来世萬能主義に封する抗議であり、我が上代人の楽天主義をよく発輝
してみる痛快な歌である。
但し佐佐木先生は「讃酒歌の中に属しつつ必すしも直接に酒の事が歌ってみない。讃酒歌の作者
としての大伴卿の人生観が歌はれた歌」と述べてみられる。
第二句 「たのしくあらば」(略解)
桐 花歌
我が闘に梅の花散る欠方の天より雪の流れ来るかも
和何則能爾。宇米能波奈知流。比佐可多能。阿米欲里由吉能。那何列久流加母。
(巻五)
【語 輝]
O久方のー天の枕詞(前出)。
萬葉集の名歌 一三 一
- - - -* -___- --
-_ - - - -__
_
上代名歌野縣 1 三 11
-
O天|本をさしていぶ。
o流れ來る| 作る ととをいよ。 ,
Oかも| か は疑問、 「も は感動の助詞。 *
C歌 ]
わたし の風に施の花が盛に散つて来る。 天から書が降って来るの かと思はれる程、 盛に散って お
-
るo
[]
此の歌は大學大作農人の館で海光化集を聞いたときの歌で、 主客合せて三十二首ある。 と の歌は主
人とあるから物論族人の作である。 因に海光化数には序がついてある。 今參考の 強めに掛けて見る
と、 大平二年正月十三日卒 于前者之定 中实會 也。 于 特利義不丹。 氣源源。 龍被 氧前之
松岡縣 道後之奇 航以時執務。據。 松科 羅而随.義。 タ神館,終。 島對 氣而逃, 其。 農曆新媒
注釋放假。 於是龍。天生。地。 他 將 條。 意 書 室之義 詞 幹線體之外部 族自放。 映然自
足º 非宗教牧師以植,情。 韓起 落架之為 古今天仍與安。 宣 城 國海關成中短歌 」 とある。
とれに依つて見ると、 九州の太宰府で海光化集は開かれたもの である。
此の歌は平明にして両も難易、 さながら批の時の 風雅な集 はを撃隊たらしむる%のがある。
第四句、第五句は描寝巧妙。

イシカハノマへッキミガウッサレテッカサノボルトき、 ャ ニ
程 艦魔娘 駆歌 首 (中録一首)
群なくばなぞ撃装はむ燃等なる黄樹の小橋も取らむと思はず
#集者。奈何身シ有。黄場之小規毛。シ毛不念。
[歌 意]
あなたがいらっしやらないならば何のために身じまひしませう。横営の中の黄楊の権も手にとら
うとは思ひません。
【評]
単純素朴、そこに何等の理智をまじへす、可隣な心情をさながら詠ひ上げたもので蓋しわが上代
に於ける鍵愛歌中の自眉であらう。
こ8シ、またシ」s中にシしてみる。
るに同じ」 と述べてみる。
略解には「毛詩に自 伯之東、首如 飛藩 営無 管汰 誰適貸 容と言へ
眞淵は第二句を「なぞみかざらん」 と訓んでみる。
萬葉集の名歌 一三三
***
-
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表の
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き 佐O葉鳥く保 の
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集 ケ衣服るじル 。




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同は

お」



意 いふ

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さこ

家持
して



は 普る

C

























か 通 にあたる



子 大母持葉人伴
C

郎女
旅坂上
萬父
家妹






叔女流



人 ]


[

では みれる

薄わが

だ衣服
ひ佐の


く風

く吹い








なからま保いる
どく 分。

書甥









男き出し
あら



共通
ける女


る 背右保子
佐吾



左我







)


(
。 吾
う背たく



いが


吹佐保
至な





すしるき子 大碁
せ へ
ホカノ 響



上代


坂数
ルトキニニシノイ
ニノカ

ウタヒトッ
ヨリ
オガ
オク
メガ
ラツ

シェ

[評]
萬葉集の歌濁得の直載の中に肉親の愛、女らしいこまやかな情の溢る、歌である。

チー






さや






*



たかね
みればま常にそふじの 撤に雪はふりける
田子之浦従。打出面見者。眞自衣。不霊能高嶺爾。雪者零家留。(巻三)
[語 輝]
O田子の浦ー駿河國庵原郡清見崎から東へ行くと、今は薩睡坂といふ山の下の清に昔の道がある。
こ\から向ひの伊豆の山麓までの海が田子の浦である。
C歌 意]
田子の浦に出て富士の高嶺を仰ぎ見るとその高い頂には真自に雪が降り積ってみる。
[評]
契沖が「古今の絶唱」と讃嘆措かなかったのも不思議ではない。表現が率直にして印象あざやか
である。我が國の誇たる富士の秀峰を詠んだ歌の中最も古きもの、一 っなる可く、面もこの手法
古今に卓越せる名歌である。雅澄は「打ち見たる景色をそのま\よめるにて何のむっかしき事*
萬葉集の名歌 一三五
上代名歌評響 一三六
なきをそのをりのけしき目の前にうかぶやうに思はる\は、上手の歌なればなり」と古義に述べ、
千薩も 「何事もなけれど今も見る如し」 と略解に讃嘆してみる。
眞淵は 「新探百首」、大平は 「山常百首」、眞幸は 「萬葉集佳調」 に各この歌を牧めて居る。
この歌が今日も廣く人口に贈炎されてみるのはもとより絶世の名歌なるに依るのであるが、また
一面 「新古今和歌集」 や 「百人一首」 に採録されたが貸である。
然るに 「新古今和歌集」「百人一首」 には第五句を「ふりつつ」 としてみて大いに本歌の意を害つ
てみる。「ふりっつ」なれば現に今降ってみる事であるが、こ\の「ふりける」は「ふれりける」
の意であつて、「雪が眞自に降り積つてみる」 と解す可きであらう。長歌に 「時じくぞ雪は降りけ
る」 とあるのを参照す可きであらう。
次に第二句の 「うち出でて見れば」 は、「田見の浦より東へうち出でて見れば」(略解)、「田見の浦
より沖へといふ意なり」(古義)、「田見の浦に」(槍婦手) といふやうに種々の解響がある。
佐佐木先生や澤潟・次田・鴻巣の三教授は 「檜婦手」 の説に従ひ、折口博士は 「田子の浦をば歩
きながら、すつと端逸出て行つて見るとi」 と譚し、武田博士は 「ユは、その虜をも含めてい
ふ意であるから次句にうち出でてとあつても、田見の浦から、他に離れ去るのではない。なほ田
見の浦で、眺望のきく虜に出るのである」と解響して居られる。
また、島木赤彦氏も「田子の浦から(ゆはよりの意)江づたひに出て見ればi」 と説明して居
られるが、武田博士の説が最も常を得ておるやうに思はれるから、この説に従って右の如く解響
しておいた。
眞淵も「こはまづ打出て田見の浦より見ればと心得べし」と云つてみる。
第三句 「ま自くぞ」(古義)

シダッ 「シき、ウェネ カナッキィッカノセイデマセル キノクニ ニトキ ャマべノスクネアカヒトガヨ とトジマタ タ
離シ。眠シ
う ら しほ み
若の瀬に瀬満ちくればかたをなみあしべをさしてたづ鳴きわた る
若浦爾。臨満来者。満平無美。葉漫平指天。多頭鳴渡。(巻六)
[語 輝]
o者の浦「明光滞とも書く、但し今日では和歌ノ浦と書いてみる。和歌山懸海草郡和歌浦町の海
岸。
Oかた「潟」で洲の意。潮水の来るときはその姿を没し、潮水の退いた時は姿をあらはす地。
Cかたをなみー「を」はこ\では「が」 の意。また「なみ」 はなしといふ形容詞の語幹に 「み」 が
萬葉集の名歌 一三七
-
-
4シ - - - iーーーーー』 ー
*-----
『j} } ・・・
----- --
-
-** 覧
上代名歌評響 一三八
附いたもので 「ないから」 といふ意になる。
C歌 意]
和歌の浦に潮が満ちて来ると鶴はおりる可き洲がないので、草の生えてみる海岸の方へ鳴き午ら
飛んでゆく。
[評]
この歌は眞淵の 「新探百首」 大平の 「山常百首」 にも採られてみるが、詩趣に富み、且、印象鮮
明、景中の動きが心にくき逸もあざやかに描寛されてみる。
眞淵は 「そのままに云ひつらねたるがおのづからよろしくととのひたるものなり。」 と評してみ
る。
カへシウタフタッ **
反歌二首 (山部赤人)
よし ぬきさやまま る
さ ㎞ ゾニ く
み吉野の象山の際の木ぬれにはこ \だも騒ぐ鳥の撃かも
三吉野乃。象山際乃。木末爾波。幾許毛散和口。鳥之撃可聞。(巻六)
[語 騒]
O山象ー吉野の宮 (標木の宮)近くを流れる象の小川といふ渓流(青根の案から出て吉野川に入

る)に沿って居る山の名であって、國稲村大字喜佐谷に今もその名がある。
O山の際ー山の重なりあうてみるところ。
oこぬれー 本の末 の約ったもので、後の将といふに同じである。
Cには「には」は「他に封へていふ詞なり、他所は然らすといふ意を思はせたるなり」と古義で
は云つてみる。
Oここだ「こ、だく」に同じ、許多、幾多と書く、多く繁く、又は甚しくといふ意である。
【歌 意]
吉野の象山の間の木々の棺には鳴き騒いでみる無数の鳥がみることよ。
[評]
島木赤彦氏は「赤人の沈潜した静粛な性格に徹して同じく人生の寂容所に入っておる。作者の主
が強烈に動いて、自然と自己とが一境地に融け合ってみる。赤人の傑作であり、集中の傑作」
して居られる。死の如き吉野山中の寂家の中の唯一角のみにある動き、静中動ありのまたな
き詩趣は質にもこの歌とその次の歌とに依って心にくき逸に表現されてみる。
客観で押し通した名歌面も除龍婦々として譲む人の胸に迫る力をもってみる。
中世の歌壇には全く見られない歌である。
萬葉集の名歌 一三九
シ ** シ 。
上代名歌評響 一四○
なほ、この歌は 「萬葉集佳調」 の中に牧められて居る。
ぬば説の夜の更けゆけばひさぎ生ふる消き河原に千厩しばなく
鳥玉之。夜之深去者。久木生留。清河原爾。知鳥数鳴。(巻六
[語 ㎞]
Oぬば玉の 「黒し」の枕詞、韓じて夜、夕、月、夢等にも冠して用ひるが、こ\では「夜」 の冠
群である。
「抑ぬば玉てふ鮮は、日本紀私記に、烏扇の質なりといへるをよしとす。i旦射干の質は黒き
玉の如くにして野に生る物故に、わが園には野質玉といふなるべし」と置淵は説明してみる。
oひさぎー板と書く。荒地や渓流のほとり、若しくは野火の焼跡等に生する審木で高さ普通は五、
六尺、時には二丈位に達する。葉は封生し、形は桐の葉に似てみて長い柄があり、嫌葉と葉柄は
美しい紅色を帯びておるので、「アカメガシハ」とか「アカガシハ」、もしくは「ァカメギリ」と呼
ばれておる。花は更期に開き、雌雄同株である。
Oしばなくーしば〜鳴く、しきりに鳴く、やます鳴くの意。
[歌 意]
C評]
春の にすみれ摘みにと来しそ野をなっかしみ『夜れにける
春野爾。須美濃採爾等。来師吾倉。野平奈都可之美。一夜宿二来。(巻八)

夜も次第に更け渡って、樹の生えてみる清い河原に、千鳥がしきりに鳴いておる。
眞る







なほ









調








。 傑れるて作 赤
幸 。

の の



ものの
せる
現存
として
つ詠歌


らだ
居 佐以て
と又






し先生


博域








こもの
をも



佐木
いふ
の士た みる


。 ま氏木いっるん 」
結緊


みた
あで

姿



軽。


な滑り

島て


彦」


は 心きく島後けたでられる地
する
そが
か。

まを

し五

う連

最句法

千て

鳴に

引し
と からう
巧を
非表も



集あ手する

傑蓋
の 作中る腕凡現みく 詩
あ有数






。 深ける
山中
吉野




傾寂





千鳥


また
といふ




趣 夜



ふしてこ界みつにけ




押『



既ぬれ


あゆく

澄異常

世て

ひ入っ


まれ
胆部宿禰売人駅四首(中録一首)
萬葉集の名歌


一四一
-*
r } "〜』 * シ 『 シ -
上代名歌評響 一四二
[語 輝]
野をなつかしみー野のなつかしさにの意。
[歌 意]
春の野に墓を みに来たのだが、春の野の 色があまりに面自いので、自ることも忘れて、思は
す一夜そこで寝たことである。
-
C評] - -
この歌は「萬葉新探百首」「萬葉集佳調」 に採られて居り、大自然を愛し、大自然の懐に抱かれる
ことを願って止まなかった自然歌人赤人が己の好むま\の風流に、全く自己を没入した時生れた
即興歌であらう。平明な調の中に我が上代人の素朴な風流心が流動してみる。
「革つむは衣招む料なるべし」と略解には書いてあり、また、井上通泰氏もこれに賛成して居ら
れるが、自然を愛する上代人はたドなぐさみに花を摘んだりする場合もあったであらう。
また「すみれは革ではなく蓮華草」 だと景樹は云っておるが、こ\にいふ 「すみれ」は俗にいふ
「角力取り草」 の義であらう。
眞淵は「共野漫わたりの家にやどれりしを、すみれ喉野にねたりとは云なせるならん。古の歌は
質を虜の如く風流にいひなすが多く、後世は慮を質の如くとりなすめり」と云ひ、「シ
にも『「一夜ねにける」は野宿をしたのではなく、革咲く春の野の家に宿ったのであるか、或は若
草を菌にごろりと寝て、泌々と春色を賞してみるうちに、何時しか日も暮方になつてみたのを興
じて、かう云ったのであらう」と述べ、又、この歌は将腕であって男女の闘係を詠んだものであ
らうとの推定説もあるが、大自然を愛する上代人の歌であるから、やはり野宿したと歌の表現通
りに解す可きではあるまいか。
上代人の生活、趣味があまりに後世のそれとはかけはなれておる貸に、比の歌の如き心境は後世
の人々には容易に肯かれす、従って、偶々上代人と共通の童心をもつた良寛の如き歌人を除いて
は、後世右の歌の如き境地を詠む人は絶無であつた。
飯乞ふとわが来しかども春の野に革摘みつつ時を経にけり
道のべにすみれ摘みつつ鉢の子を忘れてぞ来しあはれ鉢の子
霞立つ永き春日に子供らと手まりつきつつ今日もくらしつ
などの良寛の歌が僅に、赤人の右の歌と一脈相通するものをもつてみるやうに思はれる。
蓮月の
宿かさぬ人のつらさを情にて鷹月夜の花の下駄
などは果してどの程度のものであつたか疑問である。(「今古歌話」参照)
萬葉集の名歌 一四三
]


[
そる




青土






言葉
といふ
固める
練り





ある
ので
。 の 用



寧質




O




奈良
即ち





といふ
よし





青土


なる楽


る 小以て
天O

と老





を元






し、


ある
ので
なりた平野 シる武官ー

次o

太宰府
九州

大で









あ一人


。 ]


[
枕して









といふ
ある
奈ので





と土




ひ 詞 を以て
良坂



る め


例説



と麻



やう


土地





その
へば
いふ





葉 あらう

。 詠の頃のる野ん 旅人

小梅






こ大夫

あは

そ人


この
恐らく
もから
の たら


さ時代

あ文化


天見
正。
大年

太宰





のながら伴月平る 丹 の
青 花






奈良

匂 しみやこなにはあを
く ら

寧都


)


(









者 楽
- 響



上代






ごとく

なり
さかり
いま
奈良の都は、あたかも咲き盛ってみる花のやうに、今や全盛を極めてみる。
[評]
奈良の極盛時代即ち聖武大帝時代の天平の文化盛なりし時代を如質に歌った名歌である。平明な
調の中に、満足と倫脱との感情が流露してみる。
無技巧であるところに却つて満院の喜悦がさながらに溢れてみると言ふ可きであらう。
我が上代にかくの如き名歌を見出し得るは我が國民の誇とすべきであらう。
比の歌は 「新探百首」「萬葉集住調」 の中に牧められてみる。
ートッ



*れ


1 ひげ ここ
艦は弱知る避なししかいふ君が額なき如し
勝間田之。池者我知。運無。然云君之。髪無如之。(巻十六)
[語 ㎞]
○新田部親王ー天武天皇の皇子である。
o勝間田の池ー大和園生駒郡都跡村六條砂村にある池。
C歌 意]
萬葉集の名歌 一四五
代名歌評響 一四六
私はょく知ってみます、勝間田の池には蓮が一本もありません。さう云はれます君の顔に髪がな
いのと同じやうであります。
[評]
戯作の歌としてあまりに有名である。正岡子規も「共の質池には蓮多くあり、共の人には類多く
あるを反勤にいへる所、滑稽にして面自し。比の歌の第二句 「池は吾知る」 とあるは、「池は蓮な
し」といふべき共の中へ 「吾知る」の一句を挿入したる所、最も巧なる言葉づかひなり。後世の
歌、比の鍵化を知らさるがために軍調に堕ち了れり」と云ってみる。
因に比の歌には次の如き左誌がついておる。
「右或有人聞之目。新田部親王。出遊千塔裸 御 見勝間田之池 感 諸御心之中 還 自 彼池
不忍 隣愛。於時語 婦人 目。今日遊行。見 勝間田池水影溝溝。蓮花均約。可隣断腸不可
得言。爾乃婦人作ニ比戯歌。専輌玲詠也」
とある。
蓮多きを蓮なしといひ、撮多きを なしと戯れておるところに、又か\る高貴なる方に封しても
敢てかくも抑揄したところに上代人の素朴純眞を見る可きであらう。
シェ 節度使 卿 等 御歌。 首
シの行くとふ避ぞおほろかに思ひて行くな天夫の伴
大夫之。去跡云道曾。凡可爾。念面行初。大夫之伴。(巻六)
[語 ㎞]
O天皇ー聖武天皇。碑亀元年御即位。天平勝賞八年五月崩御。
O節度使ー天平四年八月、藤原房前を東海山陽の節度使に、多治比懸守を山陰道の節度使に、藤
原宇合を西海道に節度使とされた。これ我が國における節度使の濫艇である。
○大夫ー立派な男子。
Oゆくとふみちぞー行くといふ道ぞの意で、大夫のみ行くことの出来る道であるぞの意となって
みる。「道」は特に或る目的を以て行く事をいふと宣長は説明してみる。
Oおぼろかにーおほよそに、おろそかに、等閑にの意。
○ますらをのともー伴は人々の意。大丈夫達よの意。
[歌 意]
大丈夫たる者のみ行くことの出来る旅であるぞ。おろそかに思って行くな、大丈夫達ょ。
-
萬葉集の名歌 一四七
上代名歌評響 -
一四八
C評]
個地に大命を帯びて行く節度使の募苦を思はれ、彼等の行を盛にすべく励まされた御製であるが
臣下を思ふ大御心の優漫、又帝王の御威厳は質に比の御製に溢れておる。
「山常百首」「萬葉集佳調」 に採録されておる。
尚第二句は「行くとふ」(略解)、「行くちふ」(古義)となってみる。
『トセトイフトシミゾノ エサルフチハラ
四 年 壬 申
& カシノ ムラジムシマロがヨメヒトッ
高橋 連 鼻磨 作歌一首枯短
いくさ ここあげ
ょ いき
をのこ
や ㎞
千萬の軍なりとも言撃せずとりて来ぬべき男とぞ思ふ
千萬乃。軍奈利友。言撃不貸。取面可来。男常曾念。(巻六)
天平四年八月に藤原房前を東海東山二道の節度使に、藤原宇合を西海道節度使に任命されたのて鼻鷹が長
歌と反歌とを詠んてその行を祀し、慰撫激励したのてあった。
高橋シは天平頃の歌人としてその技術赤人などにも比肩す可き人て殊に東國博説を詠み萬葉集中の一異
彩として認められてみる。
『度使は昔一方面の所都を督し、軍旅の事ある地方には族節を賜って征討の事に常った。節度といふのは
出征を命ぜられた将帥が天子からその符節として、陽はる太刀、旗、 鈴などをいふ。
[語 ㎞]
O軍ー軍隊、軍勢の義。
○言撃ー揚言、高言、興言、とやかういふ事。新考に 「吾れよく取り来んなどいはんが言撃げな
り」 と述べてみる。
Oとりて来ぬべきー討ち平げて来る可き、即ち征伐してくる可きといふ意である。
[歌 意]
たとひ敵兵は幾千萬居つても、彼是と大言壮語などせず、獣々として征伐してくるたのもしい丈
*
夫だと私は信する。
[評]
直線的な堂々たる歌、出征将軍の沈勇をた\へ、その壮園を激励した名歌である。送別歌として
は、蓋し傑作の一 つであらう。
「山常百首」「萬葉集佳調」 の中に採録されてみる。
第五句の 「男」 は
「ますらを」(代匠記)、「をのこ」(略解)、「をとこ」(古義、新考)
となつてみる。
萬葉集の名歌 一四九
** }--
*** - ● ●* }
一五○
たびびさやこ あが こ あ
㎞の宿りせむ野に継ふらば静子はぐくめ天のたづむら
客人之。宿将貸野爾。霧降者。吾子羽裏。天乃鶴群。(巻九)
績記に、天平四年八月以二従四位上多治比眞人廣成 貸 遣唐大使 従五位下中臣朝臣名代貸 副使 判官四人
録事四人云々。同五年間三月授 面刀 夏四月遣唐四船。自ニ難波津一進発。とある。
[語 輝]
O旅人ー遣唐使の 一行を指してみるが、初論その中に吾子を含めて云つてみるのである。略解に
「たび人は則吾子をさしていふ」 といつておるのは常らない。
Oはぐくめー鳥が難を羽含み養ふからかく云ふのである。雨翼で覆ひかばつてくれよの意。
[歌 意]
遺唐使の 一行が野宿するであらう野原に、もし霧が下りて寒いときには、何卒お前達のその翼で
私の愛見を羽含み保護してくれ、大空を飛んでおる鶴の群よ。
月 時]
操然たる大唐文明を取り入れんがため に離 タ しくも高里の 波源を執っ て遠く異國に使する人々 が
華々しき使命の際にかる歌劇を産んだととも決して熱くはなかったであらう。
航海衛の幼稚にして、 遺唐使の船船%義度か羅破しておる常時に於て最愛の 一人子を遠く書 《還
す母の資特別 々 として と の 一 首に躍動するを見る。
期の 子を思念其情を読んだもの に撤兵の名歌があるが、 とれは無名の老婆の歌だけにそとに理智
もたく、 思想もなく、 作歌上の 修養も準備もない。
しかしその ひたぶるの 感情が知っ てと の歌をまたなく後れたもの として おる。
脚は 天と 戦に するがあはかなり 前は大 なる敵に 幕の心にて いい出たるは受器
の いと深し」 と 述べて居るが、 と の第五旬は原に と の 歌を変数ならしめておる。
作者の子を思 成帝 不安の神4るととる義にかる空想にまで走る。 敵に比の第四句、 第五
とそ人間の資格をさながらに試験したもの であっ て、 ひとり商業集の名歌といふ史ではなく、 上
代における不 平日不應の候作 といふ可きであらう。
前の 君たくば」 の歌と共に上代無名歌人の作たがら古に修正さ名歌であり、 1 つは 熱愛
歌 っは 「母性愛の 歌」 として没撃である。
萬業集の名歌 1 ㎏
上代名歌評響 一五二
眞淵は「新探百首」の中にこの歌を牧めて居るが、「まことの歌故しらべまでととのへり」(萬葉
考) と讃嘆の撃を斉まなかつた。
又、井上通泰氏も 「めでたき歌なり」 と賞讃して居られるが、無名の 一老婆の歌としてはあまり
に優れておるといふのであらうか、「或は大伴坂上郎女の代作にあらざるか」 と云つて居られる。
なほ、長瀬置幸もこの歌を「萬葉集佳調」の中に採録して居る。
第五句 「つるむら」(略解) となってみる。
[参考歌]
天飛ぶや雁の翅のおほひ羽のいづくもりてか霧のふりけむ (巻十)
なほ巻十九にある
そらみつ 大和の國 あをによし 奈良の都ゆ おし照る
難波に下り すみのえの 御津に船乗り 直渡り 日の入る國に
遣はさる わがせの君を かけまくの ゆゆしかしこき すみのえの
わが大御碑 船の軸に うしはきいまし 船艦に 御立したまして
さし寄らむ 磯の崎々 遭ぎはてむ 泊々に 荒き風浪にあはせす
平けく 率て騎りませ もとのみかどに
反歌一首
沖っ浪漫派な立ちそ君が給清院り来て津に泊っるまで
は同じく比の時の遺唐使一行に加った人の妻がその夫の無事を所って詠んだものであるらしいが
到底 「旅人の」 の名歌に及ぶ可くもない。
、比の時の遺唐使出発に際し憶良の詠んだ歌は巻五に、笠金村の作った歌は巻八に出てみる。
因に、この廣成の一行は唐よりの騎途暴風に逢うて四隻の船が四散し、言語に絶する苦難を常め
たのであるから、今日右の歌を譲む時一層感概深いものがある。
ホキt ョシスニテョミ*
ほかラDォ*き
ダ **
マ へルウタヒトッ
湯原 王 芳野 作歌 一 首
よし ぬ なつみ かは かは よき かも なやまかげ
吉野なる菜摘の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山影にして
吉野爾有。夏質之河乃。川余村爾。鴨曾鳴成。山影爾之氏。(巻三)
【語 羅]
O湯原王ー天智天皇の皇子施基親王の御子である。
O吉野なるー吉野にあるの意。
o楽湖の川ー夏筆川とも書く。吉野川のことを吉野郡園奥村大字楽摘あたりではかくいふ。
萬葉集の名歌 一五三
上代名歌評響 一五四
O川淀ー水の淀んでみる虜。
o山影にしてー山陰での意。
【歌 意]
吉野にある楽摘の川の清く澄んだ川淀で、鴨が暗いてみるよ。あの山藤で。

第一句から第四句まで極めて流陽、第五句も一首全鶴によく利いておる。物静かな山中の川漫の
情景を描寛したスケッチ風な歌で、清裏な感じのするよい作である。
比の歌は 「萬葉集佳調」 の中に牧められて居る。
ユハラノオホキミタマ へルラトメニ ウタラタ
源魔王「シ 歌三首 (中録一首)
)を いも
#には見て手にはとられぬ用のうちのかつらの如き妹をいかにせむ
目二破見面。手二破不所取。月内之。極如。妹平奈何責。(巻四)
[語 ㎞]
O湯原王ー天智天皇の皇子施基皇子の第二の御子に常らせられる。
O月のうちの桂ー和名抄に 「衆名苑云、月中有河。河上有、桂。高五百丈。」 とあるもので支那の
博説に依つたのである。
[歌 意]
目には見てみながらも手に取る事の出来ない、あの月中の桂のやうな、妹を如何にすべきであら
う。
C評]
第五句の強勤な表現法は質に比の歌を活かしてみる。支那の故事を警喩として用ひたのも適宜で
あり、一鶴に簡勤にして上代の隷愛歌としてよくその特徴をあらはしてみる。
伊勢物語には 「目には見て手にはとられぬ月のうちのかつらの如き君にもあるかな」 と訂正して
掲載されてみる。
湯原毛。撃撃歌
夕月夜心もしぬに自 のおくこの庭にシくも
暮月夜。心毛思努爾。白霧乃。置比庭爾。幡軽鳴毛。(巻八)
[語 輝]
O湯原王ー天智天皇の皇子施基皇子の御子である。
萬葉集の名歌 一五五
-- -- -**●" シ * * }
-
上代名歌評響 一 五六
o夕月夜ー省月夜、タ月の照る暮方の意で「夜」は添へたもので意味はない。
O鳴くもー「も」 は感嘆詞。
[歌 意]
夕月が淡く輝いてみる夕暮時、心もしほる\ばかり、一面に自い露が置いておる庭先に、 哀れ深
く幡峠が鳴いてみる。
[評]
深く自然に親しむことの出来た萬葉人にして初めて詠み得る歌で、 秋の夕の物洪しさを如質に表
はして除すところがなく、殊に第二句と第五句との組合せが極めて面自い。
「夕月夜」「自露」「幡難」といふやうに多くの物を一首に纏めて統一するといふ難事に*流石に
湯原王の非凡な作歌技術があらはれてみる。
先づ「タ月夜」と「しら 」とを巧みに 出し、第五句「こはるきなく*」と はシ
とめたあたり秋の夕の叙景歌として絶世の名歌ともいふ可きであらう。 蓋しこの歌の幽龍は萬葉
集中の出色であらう。
古義に 「夕月の幽かにてりて心も魔ゆるばかり、物あはれなる夕暮にj 」 とあつて「心もしぬ」
を第一句にかけて説明してみるが、こ\ではその説に従はなかった。
陸奥之。眞野乃草原。難遠。面影貸面。所見云物平。(巻三)
[語 輝]
O笠郎女ー博は未詳。一説には沙弾満誓在俗の時の女といひ、また一説には笠金村の女といふ。
家持に愛され、彼との贈答の歌が多くある。 *
O家持ー大伴旅人の子で、内舎人として召され、天平十八年には越中守となり、累進して天平賞
字元年には兵部大輔、同二年には因幡守となり、延暦二年には中納言となり、三年には持節征東
将軍となり、同四年に夢じた。家持は多情多感な歌人で愛人も極めて多く、それら愛人との贈答
歌も集中に多い。萬葉後期を代表する歌人として、その名はあまりに高い。
O眞野ー磐城國相馬郡眞野郷、今の眞野村の地。
O草原ー「カャハラ」 と訓んでみるが、草の生ひ茂つた荒野をいふ。
O遠けどもー遠いがの意。
O面影にしてー面影にといふ意。
萬葉集の名歌 一五七
上代名歌評響 一五八
○見ゆとふものをー見ゆといふものをの意。
[歌 意]
陸奥の眞野の荒野は大層遠いが、しかし、一度よく見ておけば、思ひ浮べて眼前にありありと見
えると云ふことです。
C評]
疎くなった仲の男に封する怨を腕曲に述べた歌で、繊細な調の旦っ上品な歌である。
尚、宣長は 「みちのくのまののかや原はたゞ遠きことにのみ云る也、面影と云にかかることには
非す」(玉の小琴) と云つてみるが、その説は常らない。
この歌は眞淵の 「新採百首」、眞幸の 「萬葉集佳調」 に牧められてみる。
なほ、第五句は「見ゆとふものを」(略解)、「見ゆちふものを」(古義) となってみる。
さ かすみみ
ほ やまいも な ひ
佐保山にたなびく霞見るごとに妹をおもひて泣かぬ日はなし
佐保山爾。多奈引霞。毎見。妹平思出。不泣日者無。(巻三)
妻を失った悲しみが未だ去らないのて更に詠んだ歌。
[語 ㎞]
○佐保山ー妻を佐保山に葬つたのである。
○霞ー萬葉集では秋の霧、春の霞を共に 「霞」 と云ってみる。
[歌 意]
いとしい妻を葬つた佐保山に廃いておる霞を見る度に、亡き妻のことを思ひ出して泣かない日は
ない。
[評]
この歌は大伴家持が妻を失った時詠んだもので、家持は天平十一年彼が二十歳前後内舎人時代に
最初の妻を失ったのである。率直な表現の中に限りなき哀熱切々として吾人の胸に迫るものがあ
る。
コトホグミチノクノクニョリイダャルクガネチミコトソリチウタヒトッ マタミチカウタ
賀ニ 陸奥 國 出、 金 語 書一歌一首井 短歌
すめろぎみ よさか あづま みちのく やま く がね はなさ
天皇の御代楽えむと東なる陸奥山に黄金花咲く
須質呂伎能。御代佐可延牟等。阿頭麻奈流。美知能久夜麻爾。金花佐久。(巻十八)
C語 韓]
萬葉集の名歌 一五九
tーーーー } 『 ト』し ーし -** * シー』 シ
上代名歌評響 一六○
O賀 陸奥國出 金請書 ー天平十五年十月、聖武天皇は大昆慮遮那備鋳造の業を天下に御務表に
なり、三四ヶ年の歳月を関して東大寺の大備を御造営になったが、この大備を塗る錬金一萬数百
雨が足りないので御心を悩まされたる折柄、天平二十一年二月陸奥國小田郡から黄金九百雨を奉
った。天皇は大いに喜び給 、如来の感應に依るものとされて四月には年競を天平感質と改めら
れた上、大碑宮及び畿内七道の諸赴に奉幣して御報告になり、群臣にも語を賜り、且つ位を賜っ
た。大伴家持*越中の國に在ったが恩命を被って従五位上に叙せられたので、遥かに長歌一首、
反歌三首を作って、之を賀し奉つたのである。
O天皇の御代ー天皇の御治めになってみる御代。
[歌 意]
我が大君の御治めになってみる御代のいよ〜築えるしるしとして、東國の陸奥の山々に黄金の
花が咲いたことである。
[評]
荘重、重厚な調子の歌で、はるか越中の國から、都の方に向って、恭しく賀し奉っておる家持の
姿が眼前に浮ぶ。
この歌は長淵の 「新楽百首」、大平の 「山常百首」、眞幸の 「萬葉集住調」 に牧められてみる。
あさミ)ご き は あさ こ ふなひさ
朝床に聞けば避けし射水河撃藩きしつつ歌ふ船 人
朝床爾。聞者遥之。射水河。朝己藝思都追。唱船人。(巻十九)
[語 輝]
○射水河ー越中國にある川。
O朝遭ぎしつつー朝早く舟を遭ぎながらの意。
[歌 意]
朝早く眼がさめて、床の中で耳を澄まして聞いてみると、射水川を遭いで行く舟人の歌が遥かに
聞えて来る。
[評]
この歌は家持が越中園にみたときの作である。一首の調子はなめらかであるが、内容は感傷的で
作者の寂しい心境がよく窺はれる。
この歌は 「萬葉集佳調」 に牧められておる。
萬葉集の名歌 一六一
*ー 『ー* 。
上代名歌評響 一六二
*
十二 日遊覧布勢水海 船引泊於多耐 湾 望 見藤花 各「述、 懐「作
ふちなみ かげ うみ そこきよ
藤波の影なる海の魔清みしづく石をも環とぞ吾がみる
藤奈美能。影成海之。底清美。之都久石平毛。珠等曾吾見流。(巻十九)
[語 ㎞]
O布勢水海「越中國氷見郡にある湖水。氷見潟ともいひ、また十二町潟ともいふ。東方に湖日が
あり、富士湾に注いでみる。
O多耐湾「多耐の浦で、氷見郡宮田村に在って、氷見町の南一里、布勢湖からも一里ある。但し
古は宮田村あたりまで湖があつた。
O藤波ー藤のことである。語源は藤魔で、豪がしなひ魔くのでさういふのである。
O影なる海のー陰にある湖のの意。
C之都久ー水中に沈んでみるのをいふ。
[歌 意]
藤の花の咲いておる 陰にある湖の底が除り美しいので、底に沈んでみる石までが珠かと見える。
[評]
春の湖漫の美しい景色を詠んだ歌であるが、藤の花の美しさと相封して碧色の波珠の如く美しい
湖底の石、かうした物が家持のすぐれた作歌技個によつて手際よく統一され詠みこなされてお
る。
カマ*ミカノこァ ケテュトニョメルウタフミラ
三毛三ェ二記

K ゞ * ふ A \㎞
春の 野に霞たなびきうら がなしこのゆふかげに鷲鳴くも
春野爾。霞多奈批伎。宇良悲。許能暮影爾。豊 奈久毛。(巻十九)
「語 種)
O二十三日ー天平勝賞五年二月である。
Oうら悲しー「うら」 は 「心」 の意。即ち「心悲し」 であつて、心中一種の悲哀を感すること。
Oゆふかげー夕暮。
O鳴くもー鳴くは終止形であり、「も」 は感嘆詞である。
[歌 意]
春の野に霞がか、ってみる折柄、日も西に傾いて、貸が夕陽の中で洪しく鳴いてみるのを聞くと
何んとなく心悲しいことである。
萬葉集の名歌 一六三
『1』i 』* j = * 。ー ・シ 。。 シ*『ー} 『
上代名歌評響 一六四
【評]
古来春の歌、貸の歌は数多あるが、比の歌境は多く比を見す、流石によく家持の鋭い詩人的感覚
をあらはしてみる。

畑漫として髄魔を競ふ春の景にも一法の寂家がある。それは日没時だ。薄く垂れこめた霞の中に
タ陽を浴びて驚が鳴いてみる。長閑な中に一種の哀慈を感じる。さうした気持を作者は十分にこ
の歌に依って表現してみる。「奪鳴くも」ととめたあたり、堂々たる作歌技術をあらはしてみる
が、殊に注意す可きは、「うらがなし」といふ主観の一句が家持の感傷的な気持を非常によく示し
てみる。
なほ、この歌の解響に就ていへば、雅澄は 「心なつかしく豊のなくよ」と譚しておるが、井上通
泰氏は「第二句にてしばらく切りてウラガチシコノュラカゲニとつゞけて心得べし」と説き、雅
澄の解響を反験して「もしさる意ならばかならすウラガチシクと云はざるべからす」と述べてお
る。また、橋田東撃氏は「うら悲しと三句で切りi」といひ、澤潟氏も「春の野に霞がたなび
いて何となく悲しい」と三句で切って解響して居られる。なほ、雅澄は「宇民悲」を「心配 し
き」と云ふ意に解してみるから「ま心なっかしく魔のなくよ、さても興あるけしきや」といふ
ゃうに解響してみる。又、千藤も 「うらは心、かなしは愛る意也」と云つて居る。
かぜ おこ ゆふべ
我が宿のいささむら術吹く風の書のかそけきこのダかも
和我屋度能。伊佐左村竹。布久風能。於等能可蘇気伎。許能由布敵可母。(巻十九)
[語 韓]
Oいささむら竹ー伊佐左については次の如く諸説がある。
「いささかにかろくして風になびきやすき竹也」仙発の説)、「五十小竹村竹なり」「イササカナル
村竹チリ」(契沖の説)、「ちいさく生たる竹也」(長流の説)、「伊は発語左は世高の約にて、小の意左
々也加などの左に同じ」(眞淵の説)、「いささむらだけは小群竹也。小きことをいささかといへり、
いは発語也」 千葉の説)、「五十竹葉群竹なり「五十は数多きをいふ稲なり(難澄の説)
武田・折日・井上の三氏は契沖の説に従ひ、次田氏は雅澄の説に賛成して居られるが、比の歌の場
合は契沖の解標に従ふのが穏常と考へ攻のやうに解しておいた。
[歌 意]
わが庭の少しばかり群ってみる竹に、そよ〜と風が吹いてかすかに音を立てておるのが聞える
さびしい夕方であるよ。
[評]
萬葉集の名歌 一六五
代名歌評響 一六六
前の歌と同じく大伴家持が越中國にみた時の洪しいやるせない気持を詠んだ歌である。都を離れ
て遠い雪の國越中に寂しい生活をしてみる彼の姿が偲ばれる名歌で、歌調も赤極めてよい。
殊に比の歌は前の歌とは反封で、客観的描寛で豪も主観を交へす、面もそこに云ひ知れぬ衰調を
博へてみる。
なほ、前の歌と比の歌とに封して、久松先生は 「家持の自然観照が封象と自己と融合った境地に
まで進んでみるのを感する。i 」 と評して居られる。
い* 源 犬養 宿禰 岡 磨 應、語 歌 一 首
六 年 甲 成。海
あめつち ミとき
御眠あれ生けるしるしあり天地の楽ゆる時にあへらく思へば
御民吾。生有験在。天地之。薬時爾。相楽念者。(巻六)
[語 韓]
O六年ー聖武天皇の天平六年。
○海犬養宿禰岡暦ー博未詳。
○御民あれー陸下の御民たる我。
Oいけるしるしありー生きてみる甲斐がある。
O天地1天下、 國家。
Oあべらく1達 へるの延管で、 達 《る事を の意。
C歌 ]
體下の御民たる私は、 か( る國家族首の御代に生れ合はせたのを思よとしみん)生き中葉のある
事だと感する家第である。
月時
「佛 州の子孫º 「第五旬の学総り たといつれも興い情感を盛るにふさはしく、 「生けるしる
—%" *第 1向におきその次に 「天地の楽める時にあべらく思《 性」 を置いたのもと の場合車
*に満を東へる。 後に 第五 」は正に高校をして大年8集めらしめる所以 名 であ
ら うº
ひと『漢景象中の作作 といよにとまらず、 廣く発が上代の名歌であり、 わが文化史研究上經打
9岁 。い*? き歌で、 皇室の御意思に感激し、 操练たる文化を題歌した劉氏の壁として次ぐ
我が図民の至赛,とすべき文學であらればならないo
なば、 比の歌は 「山常自首」 に攻められて わるº
海業集の名歌 ビ
1 次く -
fi:ー! よー!*ーj} ー も **** シ - -
O
働 情陳 思 盤 所論認之 古語
いり えす きり きみこ し
江の清鳥はぐくもる君をはなれて継ひに死ぬべし
武庫能浦乃。伊里江能清鳥。羽具久毛流。伎美平波奈濃弓 。古非爾之奴倍之。(巻十五)
[語、輝]
O使人ー遣新羅使のこと及びその従者をさしていふ。
O調ー歌と同じである。
o武庫の浦ー擁津兵庫附近の地を去ふ。武庫乃海・六見乃泊・武庫能和多里などといふのと同じで
ある。
O入江の清島ー入江の洲に居る鳥。羽具久毛流と言はむ貸の序である。
Cはぐくもるー羽の下に含み愛すること即ち愛撫することで、「ハグクモル」 は 「ハグクム」と同
じである。
[歌 意]
私を非常に可愛がって下さる貴方は今武庫の浦から舟出しようとしておられますが、私は貴方を
離れては無れ死をするでや 2º
月起
鄭使が任務を帯びて彼地に渡るべく非出しようとする際に、 その妻が読んだ%であら28
隣の神が元以下に生«しく塗られて居り、 東面を察しくるであらう女の委託に接头 四
く描き出される歌である。
*? © 2ş Y ، 6た あいき ℃
君が行く海邊の宿に勝寺 をは音がたちたけく感と知りも
之曲人。 海邊方夜神翼。 奇里多多妻。 安武多知本家人。 伊使等之理學 史
歷 歴
O成がたったけく—者が立ち抜くであって、 私が立つて栄して かる の。
Oいき|意である。
C奚 寫]
%承行の途中、海邊の宿に繋が立ったたらば、私が食方建しさおおたり、 正3 年 3
る点が幾大 なったのだと思って下さいo
商業集の名歌 一次 元
シ シ シ * ** シ
上代名歌評料 一七○
[評]
家に寂しく孤関を守ってみる妻が、旅に出た夫に贈った歌であらう。霧を息に警へた思想は古い
が洪しい女の心が、歌の上に溢れておて除すところのない名歌である。
C参考歌]
大野山霧たちわたるわがなげくおきその風にきりたち渡る (巻五)
わがゆるに妹なげくらし風早の浦の沖べに霧たなびけり (巻十五)
よぶね おき べ おさ
我のみや夜罪は潰くと思へれば沸逆の方にかちの音すなり
和濃乃未夜。欲布顧波許具登。於毛敵濃婆。於伎敵能可多爾。可治能於等須奈理。 >
(巻十五)
[語 ㎞]
○我のみー私だけがの意。
O沖漫の方にー「べ」 は軽く添へた詞で意味はなく、沖の方にの意である。
Oかちの音すなりー「かち」後世の所請かちではなく、櫓や瀬の義に用ひられてみた。
「カは羅の古言、チはト(物)の韓呼であらう。」と「日本古語鮮典」には説いておる。樹の音が
するよの意。動詞の終止形に 「なり」 が添うたもので感嘆の意となつてみる。
「歌 意]
私だけが夜舟を遭いで行くのかと思ったが、沖の方でも夜舟を遭いでみる人があると見えて櫓の
音がするよ。
[評]
遺新羅使達が長門の浦から船出した夜月を観て詠んだ三首の歌の最後のものだが、しんみりとし
た調子の歌で、四園静寂の中にはるか沖合を遭いでゆく夜舟の音が聞えるやうな名歌である。遣
新羅使達の詠んだ歌の中で屈指の佳作であり、萬里の波藩を蹴って遠く海外へ使する人の月明海
上の幽思今尚この名歌にとゞまつて吾人の胸を打つこと切なるものがある。
この歌は 「萬葉集佳調」 に採録されてみる。
ミこ つかひ え みやこ
天飛ぶや艦を使に得てしがも奈良の都にことっけやらむ
安麻等夫也。可里平都可比爾。衣弓之可母。奈良能弾夜古爾。許登都礎夜良武。
(巻十五)
[語 輝]
萬葉集の名歌 一七一
上代名歌評響 一七二
○天飛ぶやー「天飛ぶや」 で 「や」 は詠嘆の助詞であつて、空を飛んでみるの意。
O雁を使にー雁を使にすることは蘇武の雁信の故事から思ひついたのであらう。
○得てしがもー得たいものだの意。
O許登都凝夜良武ー許登は 「言」 で、都凝は 「告げ」 であつて、言博にする即ち消息を博へてゃ
らうの意。
[歌 意]
空を飛んでみる雁を使として得たいものだ。雁を使とすることが出来れば、それに頼んで、奈良
の都の私の家に 音信をしようと思ふのだ。
[評]
雁を材料として詠んだ歌には 「天飛ぶやとりもつかひぞたづがねのきこえむときは我が名問はさ
ね」 と云ふのが古事記に軽太子の歌として撃げてある(前出)。異國にあって郷慈にとさ\れたも
の\心から泌み出た質情質感の溢る\歌である。
この歌は員淵の 「新探百首」 に牧められてみる。
ナカトミ ノアソミャカモリガ アヒテクラ べノメニ ョパ へルサス
中臣朝臣宅守。要 蔵部女 娘 狭
ハ けチタマ へりショシノミチノクチノクニ コ、ニメテチゲキャ
配ニ 越前 國一也。是於夫婦相 魔
オクリコタ フルウメ ムッチアマリミツ
贈答 歌。六十三首。(中録一首)
ゆなが て
君が行く避の長手を繰りたれ魔き ぼさむ の数もがも
君我由久。道乃奈我氏手。久里多多禰。也伎保呂煩散牟。安米能火毛我母。(巻十五)
[語 輝]
C中臣安守「蔵部女といふ妻があるのに、狭野芽上娘子と鍵愛闘係に陥ったため 越前國に流され
た。蔵部女も狭野芽上娘子も博は詳でない。
O長手ー長路、長い道中。
o繰りた、ねー手許へ手繰り寄せて小さく折りたたむこと。「たたね」は下 一段活用の他動詞 「た
たぬ」(古語) の連用形。
C焼き亡ぼさむ天の火もがもー焼き棄てるであらう碑の震火があってくれ、ばよいのに。「ががも」
は希翼の感嘆詞。
[歌 意]
萬葉集の名歌 一七三
上代名歌評響 -
一七四
あなたが配所へ流されてゆくあの長い道中の道をなくしてしまふ霊火があればよいのに、
C評]
萬葉女流歌人中の自眉といはれる茅上娘子の傑作。自分故に遠く越前へ流されてゆく愛人の身の
上を思へば質に堪へがたき苦悩であらう。されば愛人の配所に行く事をやめさせたいとの切質な
思ひは途にかく空想にまで至ったのである。
感極って悲哀途に比の歌を生む。今日尚譲者の肺腕を衝くものあるは一っに比の歌の傑作なるが
故である。「強きこと火の如き作である」と佐佐木先生は評して居られる。
瀬野襲配魔 天碑 襲国撃守 歌一首
てらてら め がき まを おほみわ を
撃のシさく大郡の男餓鬼たばりてその子生まはむ
寺寺之。女餓鬼申久。大碑乃。男餓鬼。被賜面。共子将播。(巻十六)
C語 輝]
O池田朝臣ー萬葉末期の人で、名は眞枚と云った。
○大碑奥守ー池田朝臣の友で、非常に疫せてみた人らしい。
O餓鬼ー「昔は伽藍とある所には、怪食の悪報をしめさむために、餓鬼をっくりおけるなるべし」
と契沖は云つてみる。
Oたばりてー賜りて、もらっての意。
C生まはむー「うまふ」に「む」を添へた語で「産まう」といふ意。
[歌 意]
寺々の女餓鬼が云ふには、あの大碑の朝臣は非常に疫せてみるので、丁度疫せた自分達の夫とし
て似合はしいから、夫として迎へて、その子を産みたいものだと。
[

戯としても辛錬すぎる。殊に終句はよく利いてみる。
ほさけつく お
あ そ はな へ
備造るまそほ足らずば水たまる池田のシが のヒを掘れ
備造。眞赤不足者。水淳。池田阿曾我。鼻上平究濃。(巻十六)
[語 ㎞]
oまそほー「g」は接頭語である。「弱」は赤土。
O水たまるー池田の池に る
萬葉集の名歌 一七五
上代名歌評響 一七六
Cあそー「吾兄臣」 の約で、友を親愛して呼ぶ語。
[歌 意]
備を作るとき若し赤土が足りなかったら、あの池田朝臣の鼻の上を掘るとよい。
[評]
熊鬼に封して備を以て答へた常意即妙の歌、面も池田朝臣の歌に報いた大碑朝臣の幸錬なること
前者に劣らない歌である。この歌に依ってみると、池田朝臣は赤鼻であったらしい。鬼も角、こ
の雨人の親しい間柄が想像されて微笑させられる歌である。


ら ひげ そ ひ うまつな
# いた ほう し な
ミリ ゃ い ド -
*
法師等が髪の刺抗馬繋ぎ痛くな引きそ法師泣かまし
法師等之。髪乃刺抗。馬繋。痛初引曾。僧牛甘。(巻十六)
[語 輝]
C素の刺抗ー薬を刺った後また少し髪が伸びてみるのを抗に警へたのである。
O痛くな引きそーひどく引張るなの意。
o泣かましー松岡調の説の如く「チカマシ」と訓むのが穏常であらう。泣くであらうといふ意。
『シ シノ』
シの の刺株に馬を繋いで、ひどく馬を引張るなよ。法師達が 泣くであらうから。
]

[











俗た
上代人

その刺銃が青々と見えてみたのを詠んだも

。、上代入が可美味を解すること奇抜である。なほ第五句は訓に諸説がある。即ち「なからか
。」 シ 、「なからかむ」(古義)、「なげかむ六新考)、「奥かむ」新訓)となってみる。


だんおち しか
ささをさ
なれ
㎞ゃ然もな言ひそ黒長らがえっきはたらば源も滋かまし
壇越也。然初言。氏戸等我。課役徴者。次毛牛甘。(巻十六)
C語 羅]
O壇越ー「楚云ニ陀那鉢底 譚貸 施主 陀那是施。鉢底是主。i」(寄騎博一)
*語ではDuaradといひ、施主の義である。越は施の功徳を積んで己の貧窮の海を越えるとい
**味。即ち壇那(Dua)と同義で、今日の所請樹家の意。「植越は奮課の音なり。新講には壇
那といふ。」と契沖は云って居る。
萬葉集の名歌 一七七
瀬 シ - *** ****ートーー*
上代名歌評響 一七八
O里長ー五十戸長即ち村長で村々の課税を取立てる役人の義。考には「イへ ヲサ」と訓んでみる。
Oえっきー課税のことである。これは役(えだち)と課(みつぎ)とを合せて云つたものである。
Oはたるー催促し責め徴することである。
[歌 意]
壇家の人達よ。そのゃうに云ふものではない。お前方も課税を取立てる里長が来て、租税を催促
し責めたら泣くではないか。
[評]
これは前の歌に報いたものである。上代には僧侶には課税がなかったのである。お互に相手の短
所を撃げて、辛疎無遠慮に嘩笑し合つてみるのも面白い。
なほ、第五句は「滋も契かむ」新m)となっておる。
いざ窮等戯業 な 地のかためし園そ天和撃根は
伊射子等毛。多波和射奈世曾。天地能。加多米之久爾曾。夜麻登之麻禰波。(巻三十)
「語 護」
いさ足等ー高奈良 三がこの年の六月反逆を企てて発言したが、その 一味の人々を指して三1つ
たものであらう。
「こ の子ドモは英語の毒子に常れり」 と井上通泰氏は述べて居る。
C言なせ き事するな3意。「たまわさま せ」と発解に説いてあるが、真淵は「モ行にて
大にいま こ 謀反をもいふべし」 と述べてみる。
O藤言 朝臣 H美押際である。
「設
反逆に興した人々よ馬鹿な事をしてはならない。わが日本国ニ天地の碑々が国め給うた司である
て、だからいくら 受逆の三が出たとて徴動だにするものでよない。
評一
享美理 は言道 現が言宝を蒙るを貫つて反逆を企て設ニれたものである。押 及逆を企てる数
前、奈良証言が反逆を企て試ニれたときこの歌を作つたのであるが、自分も赤数年を出ですし
て前者の撤を履んでみる。思へば惑既深きものがある。
第一句は 「反逆に興した人々を指す」 と契沖はいひ、千李は「天の下の人をさす」 と説いておる
萬葉集の名歌 一七九
代名歌評響 一八○
*
が、佐佐木先生も井上通泰氏も共に契沖の説を支持し、攻田潤氏は「何れとも見えるやうである」
と述べて居る。
なほ、この歌は 「萬葉集佳調」 にも牧められてみる。
彰 ュ㎞ ) ロ』やら
関三月於 衛門督大伴古慈悲 宿禰家 銭「之入唐副使
ッカヒノスケオヤジコマロスクネララウタ
同 胡磨 宿禰 等
からくに ゆ
韓園に行きたらはして蘇り来むますらたけをに酒たてまっる
韓國爾。由伎多良波之氏。可敵里許牟。麻須良多家平爾。美伎多氏麻都流。(巻十九)
[語 韓]
O大伴古慈悲ー大伴祀父麻呂の子である。壬申の蹴に功のあつた大伴の吹負の孫。
O大伴胡鷹ー大伴家持の甥である。
○韓國ー唐國である。
タラハシ
行きたらはしてーたらはしては 「満足て」 の義。行つて任務を十分終へての意。
Oますらたけをー盆荒猛雄で大丈夫、即ち堂々たる男子の意。
Oみきー御酒。おほみき、おみきに同じ。
[歌 意]
唐國に行って、十分任務を果してお騎りになるべき大丈夫達に、どうか無事にお騎りになるやう
にと斬つて酒を獣じます。
【評
この時の大使は藤原清河で、副使は胡麻呂と吉備の眞備とであった。この歌の作者は多治比眞人
腐主である。悠々として追らざる古模な調子で、どつしりとした荘重味のある名歌である。
た ち、は 、
かしこみいそにふりうのはら渡る父母をおきて
於保吉美能。美許等可之古美。伊蘇爾布里。宇乃波良和多流。知知波波平於伎弓。
(巻二十)
[語 ㎞]
oいそにふり「種々の説があって一定してみない。雅澄や井上通泰氏、折日信夫氏、澤潟久孝氏
などは磯に舟が鋼れる意と解し、契沖は「磯ニ袖ヲ振テト云へルニャ」と説いてみる。
Oうのはらー海原の韓証である。
萬葉集の名歌
上代名歌評響 一八二
O助丁ー防人府の役人の階級名であらう。「スケノョボロ」と訓む。
o丈部造人魔ー博未詳。丈部は杖部とも書き撃使部で使丁の一種、第八代孝元帝の後裔
--
[歌 意]
大君の語を奉じて、かうして磯の岩角に舟を常て午らも大海原を渡って任地に赴くのである。都
に父母を遺して。
[評]
忠君愛國の赤心を吐露した名歌。
サカタべノオビトマ日
坂田部首鷹
まけばしら祀めて作れる殿のごと在せ母乃自画かはりせず
麻気波之良。賞米弓 豆久濃留。等乃能共等。己麻勢波波刀自。於米加波利勢受。
(巻二十)
[語 羅]
○まけばしらー眞木柱である。
O祀めて作れるー祀詞を述べて造る意。上代に於ては新に家を建てる時には毒詞を唱へたのであ


]


[
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[ 田部 。

O




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首府 はる

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0


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せ り の
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防打县衛 は





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さ 古いのん常今


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0
通議
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読た

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もて
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º 下さい で


いら





段 資つまでも


















いた


やう



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面 本


夫 。

不身


作者









の 詳
原 も


道路







さ子




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刑部*


郡上
市原

千 フソタ

政ォッ
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商業

羯*

チク
シ『" " " """ " 『ー『』『ーシシシ
『ーシーーーj -
上代名歌評響 一八四
Oくまとー隈虜、人の目に鍋れない隈のところ。
Cしほほに「仙覚は「しほ〜」との意であると云ってみる。ここでは涙のために袖が濡れそぼ
つことを意味してみる。
[歌 意]
魔の垣の曲角に立ち隠れて私を見送ってくれた妻が袖もしぼるばかりにひどく泣いたあの時の有
様が偲ばれる。
[評]
防人出陣に絡む一悲劇、宛としてステージの一場面、もとより無名歌人の作ながら悲痛極まりな
き名歌で、防人の歌の中での傑作である。
第五句は「ぞ*はゆ」 契沖)、「そもはゆ」(古義)となってをり、雅澄は「そもはゆ」 は東語で「お
もほゆ」 と同義と説いてみる。
リべノヨ ソフ
おほきみ
りみなくて大君のしこのみたてと出て立っわれは
那布興利波。可敵利見奈久互。意富伎美乃。之許乃美多互等。伊混多都和例波。(巻二十)
【語 羅]
○しこー「醜」 で、罵る意から韓じて、こ\では自己を卑下して云つてみる。
○みたてー御婚である。天皇のため敵を防ぐ身を橋に警へたのである。略解に 「防人は天皇の御
婚といふべし」 と記してみる。
○火長ー検非違使の部下の職名である。衛門府の衛士の中から選任したのである。兵十人を一火
といひ、頭を火長又は火頭と云つた。屯営の中十人一房にみて炊事の器を同じくするので火とい
ふ名稲が起ったといふ。
○今奉部興曾布ー今奉部は東人の姓で新騎化人なる祭部氏の意。興曾布は名。
[歌 意]
今から身をも家も忘れて自分は大君の御貸にこの卑践な身を御婚と捧げて、出かけて行くのであ
る。
[評]
大君に封する至忠至誠の眞心が流露して居り、文學的に見ても稀に見る名歌である。内容といひ、

歌調といひ、申分のない歌で、熱情の溢れを感する。
萬葉集の名歌 一八五
ー -ーーー}""
上代名歌評響 一八六
火長 が田部シ
シの離を祀りて撃失貫き鉱業の慰を指して行く我は
阿米都知乃。可美平伊乃里利互。佐都夜奴伎。都久之乃之麻平。佐之互伊久和例波。
C巻二十)
[語 ㎞]
O幸矢貫きー即ち征矢を製・胡籍などに挿すこと。
○大田部荒耳ー博未詳。
C歌 意]
天地の碑々に武運長久を所って、征矢を澤山製に挿し、自分はこれから筑紫に向って出発するの
である。
[評]
萬葉人にして始めて詠み得る素朴な面も雄澤な歌である。武装した純朴な上代人の姿が髪撃とし
て吾人の目前に浮ぶではないか。
ー-i} ー
コし
㎞シとし
【語 輝]
。 ㎞ (巻二十)
og表ー 3シ 紐、着る、裁つ、 袖、
O来ぬゃー来ぬるよの意。 *に因あるものに冠する枕詞
。しにしてー なしにての意
[ 霊]
出陣しょうとする私の表の獅にとりすがって泣く子供達を残してこ\までやって来た事である
よ。その子供らは母のないあはれな孤見達なのだ。
[評]
出陣の兵士に絡む悲劇の中には時にかくも悲惨極まる哀話がある。
我が上代における歴史上の大事件たる防人に闘聯ある歌の中でも、最も悲惨を極めた歌である。
萬葉集の名歌 一八七

j}『』 1 ー -ーーーーー
上代名歌評響 一八八
防人の偽らざる告白であるところに、上代歌たる債値を十分務輝してみる。
っくし
いはろにはあしぶたけどもすみよけを筑紫に至りてこふしけもはも
伊波呂爾波。安之布多気勝母。須美興気平。都久之爾伊多里氏。古布志気毛波母。
(巻二十)
[語 輝]
○いはろにはー「家ろには」 で家ではの意。「ろ」 は接尾語、「いは」 は昔の東國方言。
○あしふー「蓋火」 で 「アシビ」 の東國方言である。
○すみよけをー「住みよけを」 で 「住みよきを」 と同じである。
○こふしけもはもー「鍵しく思はむ」 と同じである。
O橘樹郡ー武蔵國に古あつた郡名。
○上丁ー防人府に属する下役人。
o物部真根ー博未詳。
[歌 意]
家では革を折って楚くやうな貧しい住居であるが、住みよいものであるから、筑紫へ行ってから
は、どんなに我が家が鍵しく思はれることであらう。
[評]
東國人が方言をそのま\用ひてみる貸、難解歌ではあるが、それだけ親しみ易い感じがする。殊


に第二句は貧しい東國人の賭家の生活が偲ばれて、印象を深からしめるに大いに役立
役立つてみる

作者
この

市井無名の人であるが、それだけに赤裸々に偽らざる人間の叫をさながらに聞くの感
がある。
くさまくらたび まる
草枕旅の丸寝の紐
[語 韓]
○草枕ー旅の枕詞。
萬葉集の名歌
『 「"シ j『ー} } 『シ*} * ** 『
上代名歌評響 -
一九○
○丸寝ー帯を解かす着のみ着のま\で寝ること。
Oこれのーこの。
*
○持しー持ちの東語である。
[歌 意]
旅行先で丸寝をしてもし着物の紐が切れたならば自分の手でおつけなさい。この針で持って。
[評]
山河幾百里を隔て鷹かし不自由な苦勢多き生活をするであらう夫の事を思ひやる可隣な妻の心中
が非常によく描かれてみる。殊に第四句・第五句には女性らしい細かな心遣ひがよく出てみる。
蓋し防人に闘する幾多の歌の中の傑作であらう。
「『あが手とつけろこれのはるもし』 には、粗朴な方言からくるはがゆさが一層痛切に身にしみる
感がある。」と久松潜一先生は評して居られる。
なほ、折口信夫氏はこの歌を 「旅のごろ寝に、下椅の紐がきれたら、わたしの手だと思うて、お
つけなさいよ。比の針でもつて。」と譚してみられる。
サキットシサ 、モリフウナ ヒトウタ へのッ初サノナキラ 、ヒトすホきナ、ッノクラキカミッシ サイ レノ%
昔 年 防 人 歌英。主 典 刑部 少 録 正七 位 上 ぶ 伊美
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吉諸君。妙 寛 贈ニ兵部 少 輔 伴 宿禰 家持
ゆ ひこ みこ も
残* 安 浅 下 お
防人に行くは誰が夫と問ふ人を見るが美淡しさ物思ひもせず
佐伎母利爾。由久波多我世登。刀布比登平。美流我登毛之佐。毛乃母比毛世受。
(巻二十)
-
[語 輝]
○美しさー美しいことであるの意。
○物思ひもせすー何の心配もなげに、即ち平気での意。
[歌 意]
防人となつて行くあの男は一鶴誰の夫なのですかと平気で話してみるのを聞くと、その人の気楽
さをしみ 〜と美しく思はれる。
[評]
作者は何人かわからないが恐らく防人の妻であらう。防人にゆく人を見送るといふので、人々が
大勢街頭に立つてみるが、その人々が「あの防人は誰の夫か」 と平気で噂してみるのを聞いて詠
萬葉集の名歌 一九一
「口
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』 『 シ
* シ シ
上代名歌評響 一九二
んだものであるが、その可隣な作者の気持は、この素朴無技巧な歌の中によく漆み出てみる。
市井の匹婦が詠った歌であり午ら千古に朽ちない所以は、さうした自然の悲痛な叫びの詠まれて
みるが貸であって、正に人間的の歌といふべきであらう。
第五句の 「物思ひもせす」 は 「物思ひもせす問ふ人を」 と第三句へ繰り返して課さなければなら
ぬといふゃうな無理な方法を用ひてみながら、なほ旦、「物思ひもせす」の一句に依つて、作者の
悲痛極まりなき心情をよく吐露してみるのである。






昭和 印





昭和






発行
印川




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京橋 者大

東京
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十 倉
者著
発行

発行定金


市地目橋
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著者

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東京 高中 判 纏 実 大園
㎞ 大塚 龍夫 著 ㎞
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鶴 古口三日 響
我が國家の城立・日本精神の胎生 碑語時代の 生活などは古事記によつて関明せらる。欧米文化
に毒せられつ〜ある現代日本の各赴曾層は、その反動として日本主義復興への気運を醸醸し、古
典の再玲味を行はんとしてみる。この際、大塚先生が周到なる用意の下に全響を試みられた本
書こそは全國民の必譲に値する。なほ、本書は第一篇に古事記の日譚を掲げ、第二篇にその譚
文を示し、更に第三篇に原文を探録したもので、この三篇を封照すれば、何人も古事記の内容
がわかる。希くば隆園民の清隠をのぞむ。
一高等 七判 三 三○ 一園八十
㎞ 沼澤 龍雄 編 ㎞
苗」 薫 紀行 全集
自然の感節と俗雅を止揚した俳味とて日本文學に一新生面を開いた苗
薫の俳文學の精粋を網羅した名篇興趣淡々無限!
「第一篇」 紀行集 ・ 「第二篇」 文集 ・「第三篇」 句集 ・ 「第四篇」 終焉記 ・「第五篇」 遺語逸
事 ・「第六篇」苗集翁年譜 ・「第七篇」 闘係書目 ・ 「第八篇」・索引
萬 葉 集 全 響
學校・園書館・書斎に挿架、日夕愛請の 一大名著、! 全六 冊
萬葉集は最も文學的香気の高い世界最古の歌集であるが、その訓譲も、解講も、考諡も匿々様
々だ。本書は著者濁自の創見によって古来の成説をも反験した程の力作で、語誌正確、日譚明
快、考謎委常、批評穏健、質に萬葉集研究の最高水準として噴々の濃讃を受く。必譲を望む。
第第 萬葉集二十巻の中、その書様が凡て一音一字式なる巻五巻・巻十五の二冊を文法學の
一二 上から詳細に研究したもので、これによって我が上代國語の語義・語格・語感を知番
することが出来、旦歌そのもの 、内容をも鑑賞することが出来る。
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第判継布子園入金五園三十銭
徹 郎 著 ㎞ ****
田「本 「謝
如何なる文學 書 も話 響 本 も網羅解説 し て 完全 無比
○解説した原本約千二百冊、その組織は著者・製作年代・形態・内容特質に分つて極めて詳密。
○本文諸本は古寛本・古板本・活版本の継べてを掲げて、その系統・所在を明示してある。
○参考書は誌響・研究・評論の成書は初論、論文・解説を掲げた全集名講座名及掲載雑誌を撃ぐ。
法立脚萬葉 シ入金ニ圓八+
㎞ 大塚 悦 三 著 ㎞ ㎞ゼ 刻
助詞 と 助動詞 の 研究
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小・中・高等寧校の教官も、生徒も、また文検受験者も共に困惑するものは我が國語の助詞と助
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で、研究書として、参考書として、國語研究家の必備良書である。
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