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青木聡美 ベトナム戦争終結と米・中・ソ

・はじめに

・第一章 ベトナム戦争のはじまり
第一節 第一次インドシナ戦争
第二節 ベトナム戦争のはじまり

・第二章 ベトナム戦争時の国際情勢

第一節 冷戦構図の構築と変容(60 年代末~デタント)


第二節 アメリカ介入の理由

・第三章 ソ連離れのはじまりと独自の社会主義建設の模索
第一節 中ソ対立のはじまり
第二節 文化大革命のはじまり

・第四章 激化するベトナム戦争と反戦運動
第一章 激化するベトナム戦争
第二章 反戦運動の広がり

・第五章 ベトナム戦争終結に向けて
第一節 ベトナム戦争のベトナム化
第二節 米・中接近のはじまり
第三節 米:名誉ある撤退の模索
第四節 中:平和共存路線への転換

・第六章 ベトナム戦争の終結とその後
第一節 南ベトナム崩壊
第二節 その後のベトナム

・おわりに

・参考文献

はじめに
第一次インドシナ戦争後に、ベトナムの南北統一をめぐって戦われたベトナム戦争は、
実質的にはソビエト連邦、中華人民共和国に代表される共産主義陣営と、アメリカに代表
される資本主義陣営の対立、すなわち冷戦を背景とした「代理戦争」の様相を呈していた。
ベトナム戦争は 1973 年のパリ協定成立まで、決してベトナム国内の問題にとどまらず、そ
の水面下では各国の様々な思惑が交錯していた。とくに中国における大躍進の失敗やプロ
レタリア文化大革命、また中ソ対立の激化はベトナム戦争終結に向けての米中接近という
大きな政策転換を決定する要因ともなった。つまり、これらの出来事は決してベトナム戦
争と切り離しては考えられない。しかし、中国の文化大革命、中ソ対立、ベトナム戦争な
どを個別の課題として扱う論文は多く見られるが、それを統一的に把握し、ベトナム戦争
との関係を明確にしている論文は少ない。そこで本稿は、こうした各国の出来事を個別テ
ーマとして扱うのではなく、大きな枠組みのなかで捉えベトナム戦争と関連付けることで、
それらがどう各国の政策、戦略転換に影響を与えたのかを解明することを目的とする。
本稿は、5つの章から構成されている。まず第一章では、1945 年のホー・チ・ミンによ
るベトナム民主主義共和国の独立宣言からインドシナ戦争、ジュネーブ協定成立、ベトナ
ム戦争が始まりの時期を述べる。
第二章では、ベトナム戦争時の国際情勢を述べる。とくに、ベトナム戦争は冷戦を背景
とした「代理戦争」の様相を呈していたため、冷戦の構図が構築される過程についてもこ
の章で詳しく述べる。
第三章では中ソ対立と毛沢東による独自の社会主義建設の模索について述べる。
「向ソ一
辺倒」といわれた中国がいかにして、ソ連と対立することになったのか。中ソ対立の激化
や大躍進の失敗、文化大革命によって崩壊した経済、政治、教育などは後の米中接近に大
きく関わってくる。ここでは、中国のソ連離れのはじまりから中ソ対立公然化までの流れ
と当時の中国国内の動きを詳しく述べたい。
第四章では、複雑化していくベトナム戦争と終結に向けて動きが始まるまでの時期を述
べたい。北ベトナム軍をなかなか一掃することができないアメリカが、ベトナム戦争の泥
沼化に入り込んでいく過程について述べるとともに、どうしてアメリカはベトナム戦争に
勝てなかったのか、についても触れたい。
第五章では、ベトナム戦争終結に向けての動きをとくに米中接近に焦点をあてながら述
べる。ベトナム戦争からの名誉ある撤退を模索していたアメリカは、中ソ間の亀裂にその
糸口を見出すようになった。一方中国は、強大化するソ連の軍事的プレゼンスを前に、い
かに対処するかが問われていた時期であった。こうした二国の事情により実現されたのが、
国際路線の大転換、すなわち 1972 年のニクソン訪中である。しかし、このときの中国の選
択を反ソ戦略のみから見ることは一面的であり、もっと他の思惑が米中両者ともにあった
と考えられる。そこで、いくつかの仮説をたて当時の「米中共同コミュニケ」などを資料
にもう一度米中接近の意図を捉えなおすことを試みる。
最後に、ベトナム戦争の終結について述べ、論者の意見をまとめ、論文を締めくくりた
いと思う。

第一章 ベトナム戦争のはじまり

第一節 第一次インドシナ戦争
19 世紀以降、東南アジアはヨーロッパ列強の侵略により植民地化が進んだが、ベトナム
においても同様、フランスの保護国となり伝統文化の破壊やフランス文化の強要などが行
われるなど、植民地政策の圧政下におかれていた。ところが、1940 年第二次世界大戦中に
フランス本国がドイツに占領されると、このフランスの苦境につけこんだ日本が同年9月
に北部インドシナに進駐し、フランスもこれを認めた。しかしその後 1945 年 8 月 15 日、
日本が降伏するとすかさずホー・チ・ミン率いるベトナム独立同盟(ベトミン)はベトナ
ム八月革命によって権力を奪取し、さらに戦争が終結した 9 月 2 日にはハノイにおいてベ
トナム民主共和国の独立を宣言した。しかし内政に関する主権を持っていたフランスはこ
れを認めようとはせず、さらに軍を増やして抵抗した。1946 年3月には、ハノイ暫定協定
を成立させベトナムの独立を認めさせようとするも、フランス政府はこれを拒否、1946 年
にハイフォンでベトナム民主共和国に攻撃を開始した。これが、第一次インドシナ戦争の
始まりである。
インドシナ戦争は 1954 年7月に休戦協定ができるまで、7年半にわたって続いた。当初
はベトミンの軍事力は貧弱でフランス軍に敵わなかったため、ゲリラ戦が中心だったが、
北隣に共産主義の中華人民共和国が成立すると、翌 1950 年 1 月にソ連と中国がベトナム民
主共和国(ホー・チ・ミン政権)を正統政権と認め、武器援助を行うようになった。これ
に対抗し、米国はフランスとインドシナ三国に軍事援助を開始した。アメリカは、航空機
約 130 機、戦車約 850 輌、弾薬 1 億 7 千万発以上などを援助したほか、金銭的援助は約7
億ドルにものぼると言われている。しかし結果は 1954 年5月にフランス軍が降伏し、長い
フランスによるベトナム支配は終わりを告げた。

第二節 ベトナム戦争のはじまり
ジュネーブ協定締結後、ベトナム北部ではすでに独立を宣言していたベトナム共和国が
成立しホー・チ・ミン首相のもと、社会主義の道を歩むこととなった。一方南部には、親
米的な南ベトナム共和国が成立した。そこでアメリカは、南ベトナム共和国に対し積極的
に経済的・軍事的な支援を行い、米国の影響力がアジアにおいても維持されることを望ん
だのである。その証拠にジュネーブ協定では、協定成立の二年後に南北統一選挙を実施し
て統一国家を作ることになっていたが、アメリカと南ベトナムはこれを拒否した。その理
由について米国は「統一選挙をしても、共産党の支配する北では、自由な選挙は行われな
いだろう」としていたが、実際には選挙が実施され、共産党が圧勝することを恐れていた
と考えられる。こうして、ベトナムは北緯 17 度線で二つに分割されたのである。
しかしその後南ベトナム共和国の大統領となったゴ・ジン・ジェムは、自分に反対する
ものは容赦なく逮捕し、アメリカから流れ込む膨大な援助を一手に握るなど、民主的とは
程遠い独裁を展開した。その結果、貧富の差が広がり国民の間に不安が高まった。そして
ついに、腐敗した南ベトナム政権に対抗すべく「南ベトナム民族解放戦線(ベトミン)」が
結成され、南ベトナム軍・政府と対立することとなる。当初ベトミンは「外国の軍隊の撤
退」と「独立・平和・中立の南ベトナム政府の樹立」を求めていたが、ベトナム戦争が激
化する中で次第に、北ベトナムの命令を受ける組織に変質していく。
解放戦線は、農村地帯でのゲリラ活動を基本に活動し、ゴ・ジン・ジェム政権の腐敗・
弾圧のひどさを憎む農民たちの支持に得て、組織を拡大していった。同時に、都市部にお
いても抗米・反政勢力を組織していった。このため、南ベトナム軍は解放戦線を駆遂する
どころか、次々に敗退していく様子を見たアメリカは危機感を募らせ、1964 年のトンキン
湾事件を口実に、翌年には、20 万人を超えるアメリカ兵をベトナムに送り込んだのである。
それまで南ベトナムを間接的に支援する立場だったアメリカは、このときから南ベトナム
軍にかわって、最前線で解放戦線と直接対立することになった。

第二章 ベトナム戦争時の国際情勢

第一節 冷戦構図の構築と変容(60 年代末~デタント)


第一次インドシナ戦争が激化していく中、それを取り巻く国際情勢にも徐々に変化が起
きていく。ソビエト連邦に代表される共産主義陣営と、アメリカに代表される資本主義陣
営の対立、すなわち冷戦構造である。ここでは対立が生じた背景について述べたい。第二
次世界大戦中、米・英・ソの指導者により開かれた「ヤルタ会談」では、ドイツの占領か
ら解放されたヨーロッパ諸国で、国民の全てのグループを代表する暫定政権を作り、でき
るだけ早く自由選挙を実施するために三国が協力することを約束していた。しかし戦後、
スターリンはこの約束を守らないどころか、ソ連軍がドイツ軍を追い出して占領した国々
でソ連よりの共産党政権を次々とつくっていった。さらに 1946 年のポツダム会談において
賠償問題などで意見が分かれ相互不信になると、英米仏の西側諸国とそれに対するソ連と
の間に対立が生じ、ベルリン市内の東西境界地域は緊張状態となった。そしてついには、
ソ連政府が西ベルリンに向かう全ての鉄路と道路の封鎖に踏み切り、西側諸国との交流を
断ち出入国も自由にはできなくなった。こうしたソ連の行動に対しアメリカがとった政策
が「封じ込め政策」である。アメリカはソ連に対し、強調路線をとるよりも長期的に忍耐
強く確固とした立場でソ連を封じ込めて、ソ連体制が内部から崩壊するのを待つ、という
ものである。さらにこの政策をうけて、当時のトルーマン大統領は「民主主義に基づく政
策か、少数が多数を抑える生活を国民が選択しなければならない」と宣言し、世界を自由
主義(善)と共産主義(悪)に二分し、悪との対決をすると宣言した。これに対し、ソ連
のスターリンは 1947 年、世界中の共産党の首脳を集めて「共産党・労働者党情報局」を設
立し、同じ「社会主義」を目指す同士として結束を強め、米国による「封じ込め」を阻止
しようとした。こうして、両者の対立は決定的なものとなり、冷たい戦争といわれるまで
に緊張状態が続くこととなる。
一方アジア地域では、1949 年にアジア初の社会主義国家、
「中華人民共和国」が成立して
いた。中華人民共和国はソ連の影響を非常に多くうけており、1950 年には中ソ友好同盟相
互条約が結ばれ、毛沢東は後の数年間、非常にソ連よりの外交政策、いわゆる「向ソ一辺
倒」の外交を展開していくこととなる。1949 年の毛沢東のモスクワ訪問に始まり、1950
年の中ソ友好同盟相互条約では東北地区や新疆地区におけるソ連の特権を認めるなど両者
の関係は極めて親密であった。さらに 1953 年に中国で起こった過渡期の総路線、すなわち
急速な社会主義化においては、国有企業と農業の集団化、重工業優先発展路線におけるソ
連モデルの積極的な取り込みを宣言し、ソ連の資金と技術援助に依存するものであった。
このように中華人民共和国の成立は、ソ連の影響をうけた共産主義の国がアジアにも誕生
し、社会主義の拡大を意味していたのである。

第二節 アメリカ介入の理由
アメリカは第二次大戦後、フランスのインドシナ復帰には反対はしないが、あからさま
な植民地支配回復の試みを直接支援しない、というような、インドシナ半島について長い
間曖昧な立場をとっていた。しかし、インドシナ戦争では莫大な援助を投じ全面的にフラ
ンスを支援し、ベトナム戦争では自ら軍を派遣するなど一気に関心を寄せるようになる。
こうしたアメリカの政策転換の背景には、ちょうど時を同じくしてはじまった東西冷戦を
強く意識していたものと考えられるが、どうしてアメリカはここまでベトナム戦争に関心
を寄せるようになったのだろうか。
ひとつは、「共産主義に包囲されているという危機感を脱するため」である。これは当時
の国防長官だったロバート・マクナマラの回顧録にある言葉であるが彼は自身の回顧録の
中でこう語っている。

「当時の共産主義は、いぜん前進を続けているかに見えた。毛沢東と部下たちは 1949 年以
降中国を支配下におき、北朝鮮と肩を組んで西側と戦っていた。ニキータ・フルシチョフ
は、第三世界での“民族解放戦争”によって共産主義が勝利すると予測し、西側陣営に『我々
はあなた方を葬り去るだろう』と当時告げている。ソ連が 1957 年に人工衛星を打ち上げ、
宇宙工学でのリードを見せつけたことで、フルシチョフの脅迫に信頼性が増した。翌 1958
年、彼は西ベルリンに強圧を加え、そしてまもなく、西半球ではカストロがキューバを共
産主義の橋頭堡に変えた。われわれは包囲され、脅威にさらされたように感じたのだ。ア
メリカのベトナム介入の底流にはこのような恐怖感があったのだった。」

(ロバート.S.マクナマラ 仲 晃『マクナマラ回顧録』株式会社共同通信社発行 52 頁)

この回顧録から、当時のアメリカは、共産主義の拡大を非常に恐れていた。実際に、ア
メリカは「共産主義封じ込め政策」を採用し、内部からその体制が崩壊するのを忍耐強く
待つ、といっていたが、中華人民共和国の成立によってアジアにも共産主義の影響が及ん
でいることを認識、それまでさほど関心がなかったインドシナ戦争にもフランス支援とい
うかたちで介入するようになった。冷戦がアジアへ波及することによって、アメリカの政
策は反共政策に完全に転化したのである。そして、もしもインドシナ半島が共産化されれ
ば、そのほかの東南アジア諸国もまるでドミノが倒れるように共産化するであろう。そう
なったら、その損失が資本主義社会・自由主義陣営に与えるダメージははかりしれない、
と考えたのである。
そして、もうひとつは「南ベトナム政府への誤った認識」である。つまりは悪政への反
発から南ベトナムの多くの人々が解放戦線の支持にまわっていたという事実を認識してい
なかったことだ。当時アメリカが支援した南ベトナム政府の大統領、ゴ・ジン・ジェムは、
民主的とは程遠い独裁を展開していたのである。アメリカから流れ込む膨大な援助は、腐
敗した政権による横取りで国民に回ることはなかった。当時、南ベトナムの大部分を占め
る農村には電気も水道もなく、新生児の死亡率は3割を超えていたと言われているが、ア
メリカはこのことについてほとんど認識がなかったのである。さらに、悪政への反発から
多くの南ベトナムの人々が南ベトナム解放戦線側の支持にまわっていたが、アメリカは、
解放戦線はソ連・中国という共産主義の国から送り込まれた手先である、という認識しか
持っていなかった。その証拠に、アメリカはケネディ大統領の時代の 1962 年に、すでに
16000 人もの「軍事顧問団」を南ベトナムに送り込み、南ベトナム軍が“共産主義の手先”
のゲリラと戦えるための訓練、支援を行っていた。このように、アメリカはすべてを対共
産主義の「冷戦」の観点からしか物事を見られなくなっていたのである。こうしてアメリ
カは、多くの南ベトナムの人々が解放戦線側にまわっていることにも気づかずに、「南ベト
ナムを救うために」ベトナム戦争へ本格的に介入していくことになったのである。

第三章 ソ連離れのはじまりと独自の社会主義建設の模索

第一節 中ソ対立のはじまり
ヨーロッパの冷戦が東西世界対立の二極化であるのに対し、アジアに波及した冷戦は多
極化していく。1950 年6月には朝鮮戦争が勃発し、アメリカを中心とする国連軍による軍
事介入が行われた。それに対し、中国は、北朝鮮が崩壊し、国境を接する朝鮮半島に資本
主義国アメリカの仲間の国が成立してしまうことを恐れ、100 万人の中国義勇軍を派遣させ
た。こうして朝鮮戦争は、米中が直接対立する「国際紛争」となったのである。その後、
1953 年1月にアメリカでアイゼンハワー大統領が就任、ソ連では 3 月にスターリンが死去
し、両陣営の指導者が交代して状況が変化したことで朝鮮戦争は休戦を迎えた。
朝鮮戦争によってアジアにおける米中対立が決定的となったが、その一方で「中ソ関係」
もスターリンの死と朝鮮戦争の休戦を機に変化していった。「中ソ対立」の始まりである。
第一は朝鮮戦争において軍事的な「中ソ同盟」が機能しなかったことである。ソ連にとっ
て朝鮮統一に対する地政学的価値は小さく、軍を参戦させることには躊躇、しかし即時停
戦には否定的な態度をとるなど、朝鮮戦争におけるソ連の態度は極めて曖昧であり、不信
感を募らせた。第二は、中国のソ連離れが始まったことである。毛沢東の社会主義建設に
おいては、ソ連モデルの積極的な取り組みが行われていた。しかし、スターリンが死去す
ると毛は彼の足枷から解かれ、次第に独自性を模索するようになるのである。そして、こ
れには、ソ連における「非スターリン化」の動向と大きく関係している。スターリンの後
を継ぎ指導者となったフルシチョフは、資本主義国に対しては「平和共存路線」をとり、
東欧諸国や中国に対してはその関係の再定義を図ることを試みた。さらに、1956 年のフル
シチョフによる「スターリン批判」秘密報告も、中ソ関係を悪化させる要因となった。こ
れによって「ソ連一辺倒」であった中国がソ連の新路線に対し「修正主義」と批判を始め
たのである。その真意としては、中国共産党にとって個人独裁への批判は毛沢東自身への
批判へと直結しかねないからだと考えられる。1958 年のフルシチョフ訪中では、ソ連側は
中ソの共同防衛を強化しようと「中ソ共同艦隊」の建設などを提案するも、中国側はこれ
を内政干渉とみなし拒否し、アメリカに対し「平和共存路線」を進めようとするソ連の姿
勢を「弱腰」と痛烈に批判した。これに対しソ連は、翌年 59 年に、中国の核技術供与を含
む「国防新技術に関する協定」の破棄、さらに 60 年には中国滞在のソ連技術者を引き上げ、
中国が進めていた経済建設プロジェクトに対する支援を打ち切った。こうして「中ソ蜜月
期」は事実上終わりを告げた。

第二節 文化大革命のはじまり
さらに中ソ関係の亀裂を大きくしたのは、1966 年から中国で開始された文化大革命であ
った。文化大革命によって、中国全土で急激な社会主義化が推し進められるとともに、中
国共産党は国際共産主義運動のなかで孤立していくことになる。この章では、文化大革命
のはじまりから 1969 年の珍宝島での中ソ武力衝突までの中国国内の動きを述べたい。
フルシチョフによる「スターリン批判」をうけてまもなく、中国では急進的な社会主義
化ともいうべき「社会主義建設の総路線」が採択された。いわゆる「大躍進」の始まりで
ある。しかしこの大躍進が大失敗に終わると、1959 年その責任から毛沢東は国家主席の座
を追われ、共産党の主席の座についた。そして、その後国家主席の座についた劉少奇が経
済の建て直しを担当し経済の一定の回復がみてとれた。しかし、自ら考える社会主義から
の逸脱と自己の地位が弱まることへの不安を覚えた毛は、文化大革命を発動したのである。
当時中国では、労働者間の差別や教育面の差別構造が形成されつつあり、社会そのものの
中に人々の不満が充満していた。そのため「社会主義の徹底によって、平等を追求する」
といった毛の呼びかけに多くの若者が呼応し、文化大革命は一気に中国全土に広がった。
文化大革命は、毛沢東による理念の追求、権力闘争に加えて、それらの影響を強く受けた
人々が、大嵐のごとき暴力、破壊、社会混乱を巻き起こした悲劇的現象である。従来の国
家や社会が機能麻痺を起こし、多くの人々に政治的、経済的、心理的苦痛を強く結果とな
った。犠牲者は正確にはわかっていないものの、死者 1000 万人、被害者1億人、経済損失
は約 5000 億元とも言われている。
そして文化大革命の結果、中ソ関係はさらに悪化した。中ソ論争が激化するなか、毛沢
東は、直接戦争を想定し、相当な危機感を募らせていたと思われる。それは、「国防三線建
設」の推進を決定したことからもわかる。毛沢東は、米ソと直接戦争が起きた場合、中国
全土が人民戦争の舞台となることを想定し、米ソの攻撃に備えるべく、従来沿海、大都市
に集中していた軍事施設、重工業基地を貴州、四川、甘粛などの内陸奥地の第三線に移し、
大後方基地を建設しようと呼びかけた。さらに、もうひとつの計画であった水爆実験にも
成功した。「国防新技術に関する協定」の破棄によって最大の援助国であったソ連からの援
助を打ち切られた中国にとって、自力で実験に成功したことは、米ソに対する挑戦であっ
た。そしてついに、1969 年3月、黒竜江省国境沿いに流れるウスリー江の珍宝島で激しい
中ソ対立が発生し、ソ連は本気で中国にも軍事侵攻をするかもしれない、という毛沢東の
懸念は一挙に現実のものとなった。
第四章 激化するベトナム戦争と反戦運動

第一章 激化するベトナム戦争
ここで話をベトナム戦争のことに戻したい。中ソ対立の激化、文化大革命の発動、各国
の原爆実験成功などで国際社会が大混乱しているなか、ベトナム戦争もアメリカの直接介
入によってさらに激化していった。ベトナム戦争はいかに推し進められたのか、言い換え
ればアメリカはいかにして「ベトナム戦争の泥沼」に入り込んでいったのであろうか。
第一に、「南ベトナム政権の脆弱性」が挙げられる。第二章でも少し述べたが、南ベトナ
ム政権の混乱は、南ベトナムの人々の民意を背かせるばかりか、多くの人々が解放戦線の
支持にまわり、アメリカの戦略の弊害となった。
第二に「ホー・チ・ミン・ルートを通じた北からの支援」を挙げたい。当時の、北ベト
ナムから南ベトナムの解放戦線へ軍事物資を運ぶルートである。南北ベトナム境の非武装
地帯は警戒が厳重だったため、北ベトナムの輸送部隊は一度ラオスに入り、険しい尾根伝
いに南下して南ベトナムに物資を運んでいた。さらに南下して、カンボジア国内を通って
送り届けるルートもあったといわれている。ホー・チ・ミン・ルートは、ラオス・カンボ
ジア内に網の目のように張り巡らされていたといわれており、このルートは直線にして約
1400 キロ、総延長は 4000 キロを超える長い補給線であった。これに対しアメリカは、大
量の空軍機を使った爆撃で抵抗しようとした。アメリカはこの補給ルートを潰そうと、連
日大量の空軍機を使い爆撃を繰り返した。しかし、北ベトナムは 20 万人を動員しこのルー
トを維持・補修していたために、アメリカは輸送を完全に阻止することができなかった。
第三は「ベトナムでのゲリラ戦はアメリカ兵にとって全く未知であった」ことだ。南ベ
トナム解放戦線は、熱帯のジャングルを味方に戦っていた。南ベトナム解放戦線にとって
はジャングルや山岳地帯は生まれ育った郷土であり、その地形を生かして戦う、つまりは
自分たちの土俵で戦争をすることができた。一方で、遠いアジアへ連れてこられたアメリ
カ兵にとっては全く未知の土地であり、勝手が違うアメリカ軍は焦るばかりだったといわ
れている。このときアメリカがとった作戦が、
「枯葉剤作戦」である。上空からの爆撃を主
力にしていたアメリカは、上空から地上を見るのに密集したジャングルは障壁となった。
また、上空から爆撃を投下してもジャングルが防壁となり破壊力を小さなものにしていた
のである。そこでアメリカは、除草剤、枯葉剤を大量にまくことでジャングルの木々を枯
らしてしまおうという環境破壊作戦にでた。しかし、こうした、アメリカによるベトナム
の自然、社会をも破壊する行為は、南ベトナムの人口の圧倒的多数を占める農民を解放戦
線に追いやることになり、ますますアメリカを戦争の泥沼へと引きずり込んだ。
第二章 反戦運動の広がり
ベトナム戦争を終わらせる動きは、思いもよらないところから徐々に広がり始めた。ア
メリカ軍による農村破壊や農民の虐殺が報道され、虐殺された人々の写真が公開されると、
ベトナム戦争への疑問がアメリカ国内で大きく広がったのである。なかでもアメリカ本国
のアメリカ人を驚かせたのは、有名な「ソンミ村の虐殺」である。解放戦線を探してソン
ミ地区に入ったアメリカ陸軍の一部隊が、老人や婦女子ばかりの無抵抗な農民 160 人を虐
殺した事件である。この事件がアメリカ本国で報道されると、それまで、遠いアジアで共
産主義との間で聖戦を戦っていると思っていた多くのアメリカ国民の間に「わがアメリカ
軍は、ベトナムにいったい何をしに行っているのか」という声が沸き起こった。さらに同
年の 1968 年1月 30 日、ベトナムの旧正月にあたるこの日に北ベトナム軍と南ベトナム解
放戦線がベトナム全土で一斉に大攻勢をかけると、その様子がアメリカのテレビで放送さ
れた。敵陣にアメリカ大使館を占拠された様子などをみたアメリカ国民は、その直前まで
「ベトナム戦争は順調に進んでいて、勝利を得られる日も近い」と説明していたアメリカ
軍とアメリカ政府の言い分に完全に信用をなくした。こうして、度重なる衝撃的な出来事
に、アメリカ国内では反戦運動が高まっていくのである。

第五章 ベトナム戦争終結に向けて

第一節 ベトナム戦争のベトナム化
アメリカ軍はベトナムから撤退すべきだという声が各地で一層高まる中、アメリカはジ
ョンソン大統領からニクソン大統領へとかわり、ベトナム戦争からの撤退を真剣に模索し
始める。そして、
「戦争終戦にあたっては、アメリカの自尊心、すべての善意ある米国民が、
自国の力と目的に表明した期待に応えるものでなければならない。アメリカが辱められる
ことなく、打ちのめされることなく、ベトナムを離脱する」という、キッシンジャー補佐
官の言葉からもわかるように、ニクソンは、ベトナム戦争終結をアメリカの名にかけて名
誉あるものにしたかったのである。そのためにニクソン大統領はまず、「ベトナム戦争のベ
トナム化」を推し進めた。1969 年には「グアム・ドクトリン」を発表し、アジアへの過剰
コミットメント削減方針、東南アジア反共諸国への自主防衛への責任を強調し、輸送や補
給を担当しながらも、段階的に軍隊を撤退させていくことになった。

第二節 米・中接近のはじまり
ニクソンはベトナム戦争からの「名誉ある撤退」の模索と同時に、強大化するソ連の軍
事的プレゼンスを前に、冷戦構図の再編成が必要と認識し始めていた。そしてちょうどこ
の時期に、珍宝島で中ソ両軍の衝突が発生し、中ソ対立が明らかになると、アメリカは中
ソの亀裂にベトナム戦争問題解決の糸口を見出そうとした。一方、中国も、ソ連と戦争に
なるかも知れないという危機感と国際社会からの孤立感から、政策転換を迫られている時
期であった。こうした中国の苦境をみたアメリカは、今こそ中国との交渉に踏み切るとき
ではないか、と考えたのである。そして、ついに 1971 年、米中関係は重大な転換を迎えた。
秘密裏にパキスタン経由で北京入りしたアメリカのキッシンジャー補佐官は周恩来と会談
を行い、翌 72 年の早い時期にニクソン大統領が訪中することで合意したのである。この計
画が米中の当局から突如として世界に流されると、世界中に衝撃がはしった。こうした中
国の国際路線の変化は、72 年2月のニクソン訪中によって、より鮮明になった。これまで
の中国の対外路線は、アメリカとソ連のふたつの覇権主義に反対するものであったが、ニ
クソン訪中によって実質的には米中関係は急速に改善し、ソ連との敵対関係が強まってい
った。
米中両者にとって、これらの国際路線の大転換は、ソ連を強く意識した戦略的な発想が
あったのはいうまでもない。しかし、それだけにとどまらず、米中接近は両者にとってさ
らなるメリットがあったと考えられる。ここでは、米中接近における米中それぞれの事情
を考察していきたい。

第三節 米:名誉ある撤退の模索
ベトナム戦争からの「名誉ある撤退」を模索し始めたアメリカにとって、米中接近はど
のような意味があったのか。ひとつは、中国が朝鮮戦争のときと同じように、ベトナム戦
争にも介入してくるのではないか、という懸念を払拭したことである。泥沼化したベトナ
ム戦争からの撤退を模索し始めたアメリカにとって、これ以上ベトナム戦争が混乱する事
態はどうしても避けたかった。そこでアメリカは、朝鮮戦争の時のように中国がベトナム
戦争に介入してくるのではないか、という懸念を抱くようになった。そこで、中国との直
接交渉によって、中国介入の懸念をぬぐい去り、大規模な攻撃を北ベトナムにしかけ、戦
局を有利にしたうえで、北ベトナムを停戦交渉のテーブルにつかせるという構想を練った
のである。
もうひとつは、ソ連を牽制しつつ国際秩序の安定を図るとともに、ベトナム戦争後の地
域戦略バランスを確実にする目的があった、ということが考えられる。すなわち、アメリ
カ撤退後のインドシナを中国の協力を得て、「ドミノ化」させないことである。さらに、北
ベトナムの軍事援助国であった中国と親密な関係を築くことで、北ベトナムを牽制する目
的があった、ともいえる。これらのアメリカの目論見を知っていたのかどうかはわからな
いが、こうしたアメリカの接近に応じた中国は、北ベトナムにとっては裏切りに等しい行
為であり、後に起こる中越関係悪化への要因ともなった。それでは、なぜ中国は北ベトナ
ムを裏切ってまで、それまで敵対していたアメリカとの共存路線へと転換する必要があっ
たのだろうか。

第四節 中:平和共存路線への転換
中国側にとって米中接近は、①対ソ戦略、②中国経済の建て直し、③台湾政策、の点で
極めて大きなメリットがあったと考えられる。
第一に、米中接近はソ連を強く意識した戦略的な発想があったことは間違いない。この
頃中国は、ソ連を「修正主義」から「社会帝国主義」に変質した世界で最も危険な国とみ
なすようになっていた。68 年以降、独自路線を歩み民主化に取り組んできたチェコスロバ
キアにソ連が軍を投入してこの動きを制圧すると、ソ連は本気で中国に侵攻してくるかも
しれないという懸念を募らせていく。そして 69 年、国境に近い珍宝島で激しい中ソ武力衝
突が発生し、その不安は一挙に現実のものとなった。ソ連の脅威にいかに対処するかをあ
らためて問われることになった中国は、「敵の敵は味方」というパワー・ゲーム的発想から
これまで最大の敵であったアメリカと協調路線をとるようになったのである。
第二に、中国にとって米国との接近は、西欧諸国との平和共存路線への転換を意味して
いた。それによって先進技術の導入を試み、大躍進や文革によって破壊された経済、文化、
教育、科学技術を立て直そうと目論んでいたと考えられる。このような、海外からの技術
を取り込み、経済を立て直そうという考えは、中国経済を運営する上で、実務レベルで常
に底流にあった考えである。しかし、このような考えは、経済重視は階級闘争を忘れた危
険な考えである、という毛沢東の主張に真っ向から対立するものであったため、弾圧され
表立って主張する者は少なかった。ところが、大失敗に終わった大躍進政策では、工業で
は鉄鋼生産が主であったがその品質は軽視され、もっぱら増産のみが強調され、ほとんど
が使い物にならず、また、燃料にするため、全国の山の木が切り倒され各地で自然災害が
おこり農産物がとれなくなっていたのである。さらに、私有財産が一切認められないため、
人々の生産意欲は低下し、食糧生産はおち飢餓が深刻な問題となった。さらに、そのわず
か7年後におきた文化大革命により、中国社会は大混乱、生産は大きな打撃を受け、中国
が直面していた難題はまさに深刻であった。それにも関わらず、人口は増加の一途をたど
っていたため、経済、生産の回復を早急に行わなければならなかった。そこで中国は、西
欧諸国との平和共存路線をとることにより、先進技術の導入と支援を得ようとしたのであ
る。71 年から 72 年にかけて、周恩来は、文革によって破壊された経済の建て直しを呼びか
けており、日本に対しても、日本の経済発展における先進技術の積極的導入を評価し、中
国もこれに学びたいとの意思を表明している。実際に 1972 年から、日本、西ドイツ、ベル
ギー、オーストリアと国交正常化を果たすと、その直後に鉄製関係のプラント導入に調印
した。さらに 1973 年からは、日本、EC と貿易協定交渉をスタートさせ、75 年には EC と
の貿易協定を正式に成立させた。これらの動きから、早くもこの時期に近代化建設にかけ
る中国の強い意志があったことがわかる。そして、この時期に西欧諸国との平和共存路線
に転換したことは、今日の中国の経済発展につながる重大な第一歩となったといえる。
第三に、米中間の台湾問題について叙述し、米中接近によって起きた台湾問題の変化に
ついて述べたい。台湾問題の始まりは、1949 年蒋介石が台湾に移り政権を建てたところか
ら始まる。49 年に中華民国蒋介石政権が台北を臨時首都にし、政権を建てると、翌 50 年に
米国はアメリカ第7艦隊を台湾海峡に向かわせ、アメリカ第 13 航空隊を台湾に進駐させた。
さらに 54 年には台湾当局と「相互防衛条約」を結び、中国の台湾省をアメリカの「保護」
の下に置いたのである。こうした米国の行為に中国は断固として戦い、台湾における中華
人民共和国のすべての合法的権利を主張し続けていた。そこで、米中接近を機に台湾問題
の解決を試みたと考えられる。ニクソン訪中後に発表された米中共同コミュニケでは、覇
権主義に反対することや世界の緊張緩和に貢献する旨が強調されると同時に、
「中国はひと
つであり、台湾は中国の一部である」と中国側が主張した。さらに「台湾問題は中米両国
関係の正常化を妨げているカギとなる問題」であり、
「台湾の解放は中国の内政問題であり、
他国は干渉する権利はない」ことも主張し、米国に対して、「中華人民共和国が中国の唯一
の合法政府である」ことを承認し、
「すべての武装力と軍事施設を台湾から撤去する」こと
を要求した。そして米国政府はコミュニケの中で、「アメリカは台湾海峡両側のすべての中
国人がみな中国はただ一つであり、台湾は中国の一部であると考えていることを認識し、
アメリカ政府はこの立場に異議を申し立てない」と声明した。さらに 1978 年 12 月には、
アメリカ政府は中国政府の打ち出した国交樹立についての三原則(アメリカは台湾当局と国
交を断絶すること、
「相互防衛条約」を廃棄すること、台湾から軍隊を引き揚げること)を受
け入れ、1979 年に米中の国交正常化が実現した。これらの一連の動きを見ると、中国の対
台湾政策と対米政策が極めて密接に絡み合っていたことがわかる。

第六章 ベトナム戦争の終結とその後

第一節 南ベトナム崩壊
ベトナム戦争への国際世論の批判が高まるなか、1972 年にパリ秘密会談で和平協定案が
成立された。アメリカは、最後に「クリスマス爆撃」と呼ばれる大規模な北爆を行い、南
ベトナムに対し、10 億ドルにものぼる軍需物資の支援をした後、軍を完全に撤退させた。
アメリカ撤退後の「備え」であった。そして翌 73 年1月 27 日にパリ協定が締結された。
アメリカ軍の撤退後、しばらくの間南ベトナム軍は善戦するも、1975 年に北ベトナム軍の
全面攻勢が開始されると、南ベトナム軍はあっけなく総崩れになった。

第二節 その後のベトナム
1975 年のサイゴン陥落、その翌年、ベトナム社会主義共和国に統一された。この戦争に
よって、南北ベトナム両国は 100 万を超える戦死者と数百万以上の負傷者を出したといわ
れている。これは甚大な労働力人口の損失であり、その後の戦後復興や経済成長の妨げに
なった。さらに、アメリカによる枯葉剤散布や爆撃によって国土は荒廃し、各種インフラ
を再整備するのには長い年月を必要とした。また、長い間フランスの統治下によって行わ
れてきた資本主義経済とそれらの文化に慣れ親しんでいた南ベトナム側にとって、性急な
社会主義経済の施行や言論統制などの社会主義体制の押し付けは、社会の混乱や反発を招
き、その後多くのベトナム難民を生む理由となった。
また、「ベトナム戦争の終わり」は決して「平和の訪れ」ではなかったことも述べておき
たい。その後もベトナムは、無差別虐殺を繰り返していたポル・ポトによる独裁の打倒を
掲げてカンボジアに侵攻し内戦が再燃、徐々に仲が悪くなっていた中華人民共和国との間
に戦争が起きるなど、不安定な状況が継続した。ベトナム戦争が終わっても、インドシナ
に平和が戻るには、さらに時間が必要だった。

・終わりに
第一次インドシナ戦争の始まりから、アメリカの本格介入、ベトナム戦争終結にいたる
までの動きを振り返ると、ベトナム戦争は、米ソが直接戦火を交えることはなかったもの
の、冷戦における両大国間の険しい緊張関係をはらむ勢力争い、覇権争い、さらには中国
などの諸地域に及ぶ紛争の諸事件が複雑にからみあって展開された局地戦争であったこと
がわかる。
ベトナム戦争の方向を決定付けるアメリカの政策、戦略の決定は、常にソ連、中国を意
識したものであったことは間違いない。先述したように、世界の民族解放運動への支援と
いう論理を掲げ、ベトナム戦争に本格的に介入したアメリカだったが、実際には共産主義
がアジアに拡大することを恐れていたのである。そして、それまでは、さほどインドシナ
に関心がなかったアメリカが急速に政策転換したのには、中華人民共和国が成立したこと、
すなわちアジアに最初の社会主義国家が誕生したこと、が大きく影響していた。
そしてベトナム戦争が進むにつれ、各国の思惑が複雑に絡み合っていく。ひとつは、ベ
トナム戦争が「冷戦の中の熱戦」となったことである。当時、東欧諸国の民族解放を進め
共産主義の拡大を目論んでいたソ連にとって、ベトナムは社会主義陣営の辺境の地に過ぎ
なかった。しかし、アメリカが直接軍事介入したことによって、ソ連も本格的に北ベトナ
ムへの支援を開始した。そして、ソ連にとってはもうひとつ、ベトナム戦争を放っておけ
ない事情があった。それは、対中国を意識したものである。すなわち、中ソ間の溝が深ま
り始めたこの時期、社会主義陣営の盟主を競う両国にとってベトナム戦争への支援は重要
な戦術であった。こうして、ベトナム戦争は、各国の思惑と事情が交錯しながら遂行され
ていったのである。また、ベトナム戦争は終焉を迎えたが、その後も不安定な状況が続い
たことは先述した通りである。そして、その後のカンボジア内戦、中越戦争においても、
背景にインドシナ半島をめぐる中ソの覇権争いがあり、ソ連邦や中国などの共産主義国が、
人道上の理由で北ベトナムを支援したものではないことが誰の目にも明らかであった。ベ
トナム戦争が終わっても尚、ベトナムはしばらくの間、各国の思惑に翻弄され続けた。
本稿では、このように米・中・ソの各国で起きた出来事を大きな枠組みの中で捉え、ベ
トナム戦争と関連付けて考えてきた。その結果、ベトナム戦争を取り巻く各国の動きをひ
とつひとつ検証していくと、やはり、各国の問題を、ベトナム戦争とは無関係のものとし
て扱い、切り離して考えることはできないと分かった。むしろ、ベトナム戦争と関連付け
ることで、各国のつながりが見え、冷戦時の国際情勢を統一的に把握することができるの
である。冷戦を背景とした「代理戦争」であったからこそ、各国の出来事を個別テーマと
して扱うのではなく、冷戦時代の大きな枠組みの中で捉え、統一的に考えていかなければ
ならない。また、統一的に把握することで、時代背景や流れをつかむことができ、各国の
理解をより深めることができるのである。
参考文献
『ベトナムの世界史』 古田元夫 1995 年 東京大学出版会
『中華人民共和国史』 天児慧 1999 年 岩波書店
『そうだったのか!現代史』 池上彰 2000 年 株式会社ホーム社
『毛沢東のベトナム戦争』 朱建栄 2001 年 東京大学出版会
『マクナマラ回顧録』 ロバート.S.マクナマラ 株式会社共同通信社
横須賀健人 ペリー来航から大政奉還までの江戸幕府による海軍創成の道のり

概要
1853年、米国のペリー提督が黒船4隻を率いて浦賀に来航し、日本に開国を迫った。
日本はペリーの砲艦外交に屈し、約200年近く続いた鎖国体制は、開国と同時に終わり
を迎えた。開国を余儀なくされた幕府と諸藩は、異国からの脅威に立ち向かうため、鎖国
体制の時とは異なる、新たな国防の手段を取らなければならなくなった。その手段として、
海軍を建設することになった。それは、米国の圧倒的な海軍力を見せつけられてしまった
からであり、自国で海軍を持つことが、最大の防衛手段と考えたからである。
ここから海軍建設のため、洋式大型船の運航要員養成や訓練、造船技術の習得に取りか
かるのだが、これらの技術の伝習は、ほとんどの場合、自国の権益や影響力の拡大を狙う
外国人(外国語)によって伝習されたのである。その理由は、日本が鎖国体制を敷いてお
り、洋式大型船の運航知識や造船技術が全く無かったからである。すなわち、進んだ航海
技術や造船技術は、外国人から学ぶしか方法がなかったのである。
だが、当時外国語に接することが出来る人は、蘭学者や通詞(長崎出島などの通訳)な
どのごく一部に限られていた。また航海術、造船術学習に不可欠であった高等数学や自然
科学の知識は、当時の士族階級に教育されていなかった。新たな知識を習得するためには
ある程度の専門知識を持った者が選抜されたが、それは当時の身分制度に捉われない、画
期的な人選であった。
本論では、上で述べたことを踏まえながら、ペリー来航までの我国における航海術・造
船術の実情と、ペリー来航後、海軍を建設するために、幕府と諸藩が推し進めた海軍教育・
大型船の建造・大型船の取得をどのように行ったのかを考察し、さらに、海軍制度創設過
程が、それまでの封建制度を支えていた強固な身分制度、産業構造にどのような影響を与
えていったのかを考察する。

はじめに
・幕末の蒸気船、洋式大型船とは
洋式大型船とは「洋式大型帆船」(風を推進力として利用する)と「補助的に蒸気機関推
進装置を持った洋式大型帆船」の二つを合わせた総称である。後の日清戦争黄海海戦や、
日露戦争、日本海海戦時に登場する鋼鉄艦ではない。最初に、ペリー来訪前後に日本に現
れた蒸気船とはどんな船であったかを説明する。
蒸気船の始まりは1807年に米国で建造された外車式蒸気船「クラーモント」言われ
ている。その以降数々の技術的困難を克服して発展してきたが、幕末時代の蒸気船は、ち
ょうど技術革新の真只中にあった。日本に度々出現した蒸気船も、建造場所や時期によっ
て新旧技術が織り交ざった仕様であった。
まず、どの蒸気船であっても、マストを2~3本装備していたことである。すなわち蒸
気船の航走方法は、基本的には帆船と同じ帆走が取られていた。何故ならこの時代の蒸気
機関は、まだ信頼性や効率性が低く、また船内に搭載可能な石炭量では長距離の航海(例

1
えば太平洋横断等、途中石炭の補給が出来ない航路)は困難であった。したがって、帆と
蒸気機関を併用して運航したり、搭載している石炭を節約するため、風向きの良い状態の
時は帆走を行うなど海の状態にあった航海がなされていた。
このように、この時代の船舶用蒸気機関は、船の航行装置としては、あくまで帆の補助
装置のようなものであった。
次に、推進装置にも外車式(外輪式)とスクリュー方式の二つの方式があり、併存して
いた。初期の蒸気船の推進装置は、すべて船の中央部分の両舷に配置された水車状の外輪
によるものであったが、1851年になりイギリスで最初のスクリュー船が建造された。
その後軍艦におけるスクリュー推進装置の優位性が認識されるようになると、新造蒸気船
はスクリュー方式を導入していった。さらにもう一つ過度期のものがあった。船体構造材
料に鉄が使用されるようになったことである。鉄は木材と比べて強度があり、それに伴い
船のより大型化が可能になったことである。さらに鉄は火災に対しても強く、航海中の水
漏れも少なかった。
このように一口に“洋式大型船”と言っても、蒸気船もあり、また帆船もあり、さらに
蒸気船であっても推進装置や、船体構造材が様々な船が混在していた。実際に、ペリー艦
隊4隻の内、旗艦の「サスケハナ」と「ミシシッピー」は外車式蒸気船で、「サラトガ」と
「プリマス」は帆走船であった。2隻の帆走船は蒸気船に曳航されて浦賀に入港している。
また、ペリー艦隊は、外板にタール系の塗料を塗ってあり「黒船」と呼ばれたこともあり、
一見すると鉄製の船と思われがちだが、4隻ともすべて木造船であった。
それでも風や潮流の影響を受けずに江戸湾に進入してきた巨大の黒船を見て人々は驚愕
したに違いない。なんといっても当時の標準的な千石船の約20倍(排水量比)近くあり、
長さも3倍以上あったからである。当時日本では大型船建造が禁じられており、なにより
もそのような大型船そのものが存在しなかったからである。

第1章.黒船来航以前の造船・航海技術
1-1. 大型船建造禁止
戦国時代には諸大名とりわけ西国大名を中心に水軍が組織化され、安宅船と呼ばれる軍
船が多数建造された。その中でも織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた水軍武将の九鬼
嘉隆は全長30mを超え、戦闘員180名が乗り込める巨大な安宅船を建造している。江
戸幕府は水軍力の抑制を図るため、諸大名による大型船建造を禁じることとし、西国大名
の所有していた安宅船をすべて没収した。1635年には武家諸法度を公布し、その17
条に「五百石以上之船停止之事」を規定した。すなわち「大船建造禁止令」である。これ
は段階的に厳しくなっていった「鎖国令」と相まって外洋航海が可能な大型商船も建造禁
止されているとの認識が確立されていったので、国内海運(廻船)の船は弁才船(弁財船)
型の「和船」
(おおよそ300石積み前後)が主役となり、菱垣廻船、樽廻船といった船が
運航していた。しかしその構造上の脆弱性と航海術の未熟さから平均航行速度は2~3ノ
ット(1ノットは1海里1852m)という非常に低速であった。
菱垣廻船:大阪(上方)から木綿、油などの日用雑貨を江戸に運んだ。
樽廻船:主に酒樽(伏見、灘などの)を江戸に運んだ。

2
500石以下の規制:積荷商品の増大、流通の拡大により後に商船のみ緩和された。

1-2. 未熟な造船技術・航海術
古くより大洋航海が行われていた事実は3世紀に書かれた「魏志倭人伝」にもある。中
国と日本の間に何回もの交流があったことが記されているから、日本への航路が存在して
いたのであろう。しかし、当時の船の構造から考えても外洋を渡るのは大変な困難を伴っ
たはずである。航路は朝鮮半島の沿岸に沿って半島の最南端まで行く沿岸航海であったと
思われる。その後の航路の中で唯一外洋水域である対馬海峡を渡る時も、目標となる島が
目視でき、ひたすら南に航海すれば島や九州本島に到着するものであっただろうから、大
洋航海とは言えない。
もう少し時代を下って遣唐使の時代となると、黄海や東シナ海を横断する大洋航海をす
るようになる。記録にある遣唐使の航路には概ね三つの航路があった。まず朝鮮半島沿い
に進んで山東半島の北部の登洲に上陸する北路航路、次に博多から五島列島に渡り、一気
に東シナ海を横断して蘇州、楊州あたりに上陸する南路航路、最後のものは一旦鹿児島の
坊津に向かい、奄美大島付近(あるいは沖縄本島まで)下って揚洲を目指す南島路航路が
使用されていたようだ。朝鮮半島沿いを行く航路を除く二つの航路では、東シナ海を横断
しなければならないのだが、目的地の緯度になるように北極星を観測して船を進めたとい
うことである。二つの航路とも出発地と目的地の緯度は概ね同じであるから北極星の高度
が変わらないようにひたすら西とおもわれる方向へ進めば、そのうちに陸地に到達したの
である。そこで目的地はどの方向かを土地の人に尋ねるのである。これは航海術というよ
りも推測航法と言えるものであるが、コンパスや時計もない時代ではいたしかたないもの
であった。しかし天候悪化などにより太陽や星を観察できない状況になると、緯度や方向
もわからなくなるので方角を間違えると陸地に到達できないのである。事実15回と言わ
れている遣唐使船のうち全く遭難のなかったのは8回だけで、他は何らかの形で遭難、ま
たは行方不明になっている。遣唐使船は2,3の例を除いて4隻の船団を組んで出発した
が、船団とは言ってもお互い助け合って航行するという目的ではなく、遭難することが多
いので途中バラバラになったとしても、どれかの船がたどり着けばよいという考えではな
かったかと思われる。
さらに時を下った鎖国以前、朱印船のような外交貿易船は、西洋から導入された天文航
海術を用いて航行していた。徳川家康は江戸幕府の基礎が固まると、対外政策を前政権(豊
臣秀吉)の朝鮮出兵のような強圧政策から大きく転換し、海外貿易を奨励し海外渡航をす
る日本船に朱印状を下付して、
「朱印船制度」を確立した。朱印船の渡航先の主な寄港地は、
当時日本船の寄港を禁じていた明国(中国)と対馬藩が交易を独占していた朝鮮を除く東
南アジア各国、例えば北部ベトナムのハノイ(安南)東京(トンキン)とも呼ばれた、中
部ベトナムのホイアン(会安)ダナン(交趾)、南部ベトナムにあったチャンパ王国の占城、
タイ(シャム)アユタヤ(暹羅)、カンボジアのプノンペン、マレー半島中部のパタニ王国、
フィリピンのルソン島(呂宋)、台湾(高砂)であった。朱印船の渡航数は慶長9年から(1
604年)鎖国令が発布された寛永12年の前年までの32年間に356隻にもなり、年
平均11隻、多い年には20隻以上に及んでいた。朱印船は通常出航地、寄港地も長崎と
しており、その乗組員は船長、航海士、水夫、客商等であったが、運航に携わる航海士は

3
南方海域に習熟した支那(中国)人航海士を雇うことが多く、後にはポルトガル人、スペ
イン人、オランダ人、イギリス人等のヨーロッパ人を雇い入れた。これらの人材のリクル
ートは、当時オランダ人が支配していた台湾、スペインの植民地であったルソン島のマニ
ラ、南シナ海交易の要港であったマレーシア等で行われたと言われている。さらにそこで
は当然中国商船との出会い交流も多く、優秀な航海術を習得していた支那人(中国人)を
雇い入れていたようだ。その理由は、当時の中国の航海術はかなり発達していたからであ
る。朱印船時代前の1405年、明政府は東南アジアのみならず、遠くセイロン、インド
西岸、さらにアラビア半島南部、紅海におよぶ大航海を実施している。この航海は140
5年から1433年まで実に7次、29年に渡って行われた。これはヨーロッパ列強国に
よる大航海が始まるおおよそ90年も前のことである。
その大航海の司令官に任命されたのが鄭和である。記録によると1回の航海に60隻余
りの大船、乗組員は総勢2万8千人を数えたといわれている。その規模はその後のヨーロ
ッパの大航海時代を担ったどの艦隊をも大きく凌ぐものであった。この航海に使われた船
は、長さ約140m、全幅62m、マスト数は9本、重量約500トン程度であったとい
われている。鄭和の艦隊は、天体の角度を測定する装置である六分儀やコンパスを使って
自らの位置を算出し、記録しながら航海していったと言われている。このプロジェクトで
蓄積された、大型船建造技術、航海術、天文学等は当然その後の中国の海運、造船に携わ
る人々に伝承されたことであろう。したがって当時の日本人も持つ、航海術、造船技術は
これに比べていかに劣っていたことが推測できる。実際朱印船に雇われて渡航した朝鮮人
が「日本船は小さくて大洋を航海できないので、180人乗りのジャンクを買い入れ、中
国人の船長を雇って航海した。」と述べた記録がある。またマルコ・ポーロはヨーロッパの
船より大きい中国船に驚いている記述を残している。朱印船貿易家、大名が購入した船の
多くは中国の福洲、シャムで建造されており、大きなものは載貨物重量480トンに及ぶ
ものまであった。朱印船の船型構造は、現在残されている資料等から、16世紀後期にヨ
ーロッパ帆船として広く建造されていた「ガレオン」型帆船の技術を取り入れた中国系の
ジャンクを基本としたものと思われる。ただし船首付近の構造が日本船独特のものも見ら
れ、中、和、洋式を組み合わせた独特な構造となっていたと思われる。

1-3. 発展しない航海術・造船技術
大型船の造船術が全く伝わらなかったという訳ではない。1600年、豊後水道に漂着
したオランダ船「リーフデ号」のウイリアムアダムス(後の三浦按針)は航海士、船大工
の経験を買われ、徳川家康の要請を受け伊東に日本最初の造船所を設けた。そして160
4年に80トンの日本最初の西洋船ガレオン型帆船を建造し、さらに1607年に大型の
120トンの帆船を完成させた。この船は後にスペインに貸与されることとなり、160
9年に日本近海(房総の御宿海岸)で遭難した、サンフランシスコ号の乗組員を返還する
ために使われた。翌1610年、サン・ペナベンチャラと命名されたこの船はアカプルコ
まで航海した。1613年には伊達正宗がスペイン国王から派遣されたセバスチャン・ビ
スカイノの協力の元サン・ファン・バウティスタ号を建造し、支倉常長ら180人をメキ
シコ、スペイン、ローマに派遣している。(慶長遣欧使節)しかし、当時の伊達藩には大洋
を渡る船を建造する技術団はなく、またこの航海は日本人によるものではなく、スペイン

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人航海士達によるものであった。さらに、1617年に平戸藩が中国式ジャンク型を基本
とした朱印船を平戸で建造した例がある。航海術も外国人航海士と一緒に航海した日本人
水夫も相当数いることから、朱印船時代を通して日本人にその運航技術を伝習していった
と考えられる。
その中でもポルトガルマノエル・ゴンザロに師事して約2年間一緒に呂宋航路に(フィ
リピンのルソン島マニラ)航海した長崎の池田好運は、1618年に日本で初めての西洋
航海術の「元和航海書」を著わしている。この「元和航海書」には太陽子午線緯度方、北
極星緯度法等の天文航法が記されている。また、朱印船の末次平蔵配下の島谷市左右衛門
定重は、1670年に島谷航海書といわれる「按針の法」、「南蛮流天文の書」、「算法日月
考」等を著わし、天文航法やコンパス、砂時計、各地の緯度、帆走法等を述べている。そ
の子孫である島谷市左衛門尉父子は、1688年に水戸光圀が蝦夷探検を試みた際、長崎
から天測観測具や磁石(コンパス)等を取り寄せ、当時としては進んだ航海術を習得して
いたと言われている航海士崎山市内を船長にしていることから、西洋式航海術は細々なが
ら存在していたことがわかる。1721年の幕府禁書令の緩和後に、蘭学の研究が盛んに
なり、航海術書の翻訳が行われた。オランダ語通訳であった本木良永は、1668年頃に
原書で書かれたオランダ航海書を翻訳して、3年後の1781年に「阿蘭陀海鏡書和解」
を出版している。また、1804年には本多利明が「新海新書」を著わして天文航海術を
紹介した。その後、幕末までの間に多数の航海術書が刊行されたが、内容が高度であった
ためか、あるいは内航船には必要なしと考えられたのか、当時の廻船乗組員にはほとんど
読まれることはなかった。もちろん組織だった海軍要員の育成が全くなかったこともあり、
せっかく芽生えたかに見えた新しい航海術も、幕府による「鎖国政策」強化による諸外国
との交易が禁じられることとなり、好運たちが習得した新しい航海・造船技術は組織的、
体系的に生かされることがなかった。

1-4.地乗り航法と沖乗り航法
江戸時代前期の海運では、和船の脆弱性と幼稚な航海術から、「地乗り」すなわち昼間の
沿岸航海で行われていた。「地乗り」航海法とは、出発港から目的港までの航行中は陸地を
離れずに船から目視できる範囲の山や地形(物標)を確認しながら航海する方法である。
当時の船は、帆の構造上向かい風の方向に向かっては航行できず、風力だけに頼っていた
航海では、追い風(順風)の時しか航行ができなかった。もちろん風波が強すぎても航行
はできず、途中何度も日和待ちや風待ちをするので非常に運航効率が悪く所要日数も多く
かかった。史料によると当時の基幹航路であった大阪・江戸を航行していた菱垣廻船(貨
物船)の場合、平均所要日数は32日であり、最短では10日、最長では2カ月余りかか
ることもあった。このように地乗りは寄港地も多く、予定通り航行できず夜が暮れてしま
うと、止むを得ず沖に停泊して翌日の日の出を待つうちに、海流、潮流、風などにより沖
に吹き流されたり、あるいは岸へ吹き寄せられて座礁したり、船や荷物に損害を被ること
も多かったようである。場合によっては岸から大きく離れて遭難、行方不明になることも
あった。
近世後期に入ると航海計器の発達と(船磁石)と改良された帆(木綿織帆)の採用によ
って、横風航法や風上航法(逆風航法)が行えるようになった。これにより昼夜連続の航

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行が可能になり、航行日数は大きく短縮化できるようになった。前述と同じ大阪・江戸間
の所要日数は平均12日、最短6日で航行したとの記録が残っている。日本沿岸は地形の
関係上、沖合の直線航路を航行したほうが航海日数を短くできる。例えば上方から江戸へ
の航路では、一気に遠州灘を渡り伊豆大島が見える伊豆半島の沖まで航行出来れば大きく
短縮できる。また日本海側でも北海道地域から佐渡ケ島沖を一気に、敦賀、小浜、さらに
は下関までも遠距離航行が可能となれば大幅な短縮となる。このようにこの時期まで航海
術に相当な進歩があり、また海路図や航路誌も普及してきたが、「沖乗り」航海法といって
も実際は高い山の山頂などの(物標)が見えない期間はごくわずかであり、視界がよけれ
ばかなりの沖に出ても高い山の山頂は観察できたはずである。問題は視界不良時や荒天の
ときである。天文航海術を利用したわけではないので、結局は天気次第なのである。それ
ため、出港するときにこれから数日間の気象状況を判断することが水主、船頭に期待され
た。従って全国の港の近くの小高い山は「日和」を見るために使われた「日和山」と呼ば
れる山が数多く残っている。船頭は気象を見定めるために雲の種類、雲の動き、風の方向、
海の状況等を観察し、数日間の気象を占うのである。それでも遭難することが多く、この
ため安全航海を祈願する神社は水主、船頭、漁師などからあつく信仰され、香川県の金刀
毘羅宮のように、現在でも海上交通の守り神として信仰されているものがある。
このように航海術や操船術が進歩してきたとはいえ、大型船の造船技術は衰退し、天文
学による近代的な航海術も未発達な状況の中、外国の大型帆船や蒸気船の出現に遭遇して
いくのである。

第2章.ペリー来航後の政策変更
2-1. 大船建造禁止令の解除
東北アジアの国際環境を大きく変化させたアヘン戦争(1839年~42年)の情報は、
長崎に入港した中国船やオランダ船を通じて日本に伝えられ、幕府に大きな衝撃を与えた。
西洋の通商要求の背後には、軍事力を背景とした強制と侵攻の可能性があることを知らさ
れたのである。その後フランス船、イギリス船が琉球に来航し通商を求める出来事が続い
た。そんな中、オランダ国王は特使コーブスを長崎に派遣し、幕府宛ての国書の中で日本
のみが孤立を続けるのは不可能であり、オランダ以外の西洋諸国とも通商関係を始めるよ
うに忠告した。しかし、幕府はこの忠告を拒絶し鎖国政策を堅持することをオランダに通
告したのであった。
だがその直後、幕府の政策と認識を決定的に変えなければならない事件が起こった。1
853年6月のペリー提督浦賀来航である。ペリー艦隊の圧倒的な威容を見せつけられた
保守派も海防の重要性を否応にも認識せざるを得なかった。ペリーが再来訪を伝えて浦賀
を去った直後の8月には、幕府自ら水戸藩に西洋式船「旭日丸」の建造を、そして9月に
は浦賀奉行に西洋式軍艦「鳳凰丸」の建造を命じ、直後に200年以上続いた「大船建造
禁止令」を解除した。洋式船建造を計画していたのは水戸藩や薩摩藩だけではなかった。
「大
船建造禁止令」が解禁される前の1840年、藩政改革と学事奨励に努めていた佐賀藩第
10代藩主鍋島直正は、
「オランダ式伝馬船」の建造を命じ、長崎出島内オランダ人大工と

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自藩の船大工とで小型船を造り上げていた。禁制下に行われた建造であったこともあり、
公にされることはなかったが、佐賀藩は密かに洋式帆船の研究を継続しており、その研究
成果は幕府の浦賀奉行所が洋式帆船「蒼隼丸」を建造する際に生かされることとなる。ま
た1853年に幕府が「大船建造禁止令」を緩和すると佐賀藩はオランダに軍艦を発注し、
領内三重津に海軍所を整備し始め、安政年間には小規模ながら造船所を興して、日本最初
の蒸気船「凌風丸」を進水させている。

2-2. 海外情報収集のため語学学習の強化
18世紀末から19世紀の初頭にかけて、日本近海に外国船が頻繁に現れるようになっ
た。1808年、オランダ船捕獲を目指していたイギリス艦フェイトン号が長崎出島に現
れ、オランダ商館員を人質に捕え、薪水食糧等の物資の供給を要求する事件が起こった。
これは、ナポレオン戦争の余波が北東アジアまで及んだ事件であったが、オランダジャカ
ルタ政庁はその後、フランス、次いでイギリスに占領されることとなる。ヨーロッパ諸国
の国際関係の激動が、やがてオランダからだけの情報(オランダ風説書やオランダ商館長
から情報)に全面的に依存することから、幕府独自の情報活動へと変化していくこととな
る。
そのため、天文方(幕府によって設置された研究機関)の海外情報収集能力(オランダ
語、中国語以外の洋書翻訳等)を強化していった。このフェイトン号事件によりイギリス
の脅威が高まるにつれ、オランダ語以外の語学、とりわけ英語の必要性を痛感することと
なった幕府は、この事件のわずか二カ月後には、長崎通詞達へ英語学習を命じている。翌
年9月には、長崎出島のオランダ人商務官(元軍人でイギリスに駐在経験があった)ブロ
ムホフを教授にむかえ、英語研修を開始した。最終的には当時長崎にいたオランダ通詞の
ほぼ全員が受講することとなる。ブロムホフは1813年長崎を去ったが、彼の指導を受
けた通詞達により、翌年の1814年に日本最初の「英和辞書」が編纂された。その後英
語を修行した通詞達は独学で学習に努めたが、彼らの英語が実用にはならず、1824年
水戸藩でのイギリス捕鯨船漂着事件、1845年長崎でのイギリス軍艦「サラマン号」事
件、さらに2年後の1847年長崎におけるアメリカ捕鯨船「ローレンス号」事件の対応
過程で、英語修行したオランダ通詞の英語がほとんど理解されないことがあきらかになっ
た。
そんな状況の中、1848年北海道利尻島に漂着し、保護されて長崎に移送されたアメ
リカ人の船員ラノルド・マクドナルドから英語を習うことになったのだが、これは極めて
異例なものであった。なぜならば、国禁を犯し入獄されている異国人から、配下の者に授
業を受けさせるということは考えられなかったからである。それだけ現場での必要性に迫
られていたことがわかる。ラノルドによる英語研修は、わずか数カ月であったが、直接ネ
イティブから習った効果は大きいものがあった。特にラノルドが高等教育を受けており、
性格も温和で礼儀正しく、周囲の者に受け入れられたことが大きい。発音の面でも大きな
進展があった。これまでのオランダ語訛りの英語ではなく、本格的な発音を聞くことがで
きたからである。そしてなんといっても、授業を受けた通詞達の優秀さと熱心さが最大の
理由であろう。ラノルドから英語を習った中に、後にペリー提督との日米和親条約に際し、
通訳・訳者として名を残す森山栄之助がいる。ラノルドの授業を受けた時の森山は当時2

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9歳で小通詞であったが、その後ペリー来航年(1853年)12月に34歳の若さで大
通詞に昇格し、幕府の普請役といて召し抱えられている。
このフェイトン号事件当時の長崎港湾警備当番であった佐賀藩(鍋島藩)は、警備の不
備を問われ、藩主は謹慎、家来数人が切腹という処分が取られた。これを機に佐賀藩は、
藩主を中心とした厳しい教育のもと、蘭学、軍事学、語学教育の充実を図り、維新前後に
は薩摩藩などと共に大きな役割を果たすまでになって、五島新平ら近代日本の基礎を築い
た人材を多く輩出する。後で述べるが、本卒論での考察のポイントである「海軍力整備」
「大
型船建造」にしばしば登場してくるのが佐賀藩である。

2-3.語学伝習所・長崎海軍伝習所開設
航海術、造船技術等の重要性とそれらの習得の必要性を認識した幕府は、1855年に
通詞以外の外国語学習を許可する。従来のオランダ語だけでなく、英語、フランス語、ロ
シア語の学習も本格的に開始した。1858年には長崎奉行所に対して英語学習を目的に
語学伝習所開設を命じ、英語通詞の養成を始めた。翌1859年オランダ系アメリカ人で
学識豊かなフルベッキを招きさらなる教学充実を図り、これが我が国での系統的な英語教
育の始まりとなった。これと前後して幕府は1857年に旗本子弟の人材育成をするため、
洋学研究・教育機関である天文方内に江戸番所調所(ばんしょしらべどころ)を設立して
いる。もはや通訳・翻訳は通詞の独占業務ではなくなっていくのである。
同じくペリー来航を契機に海防の重要性を認識した幕府は、海軍創設を模索していた。
そのため幕府は長崎オランダ商館長のクルチウスに意見を求めた。クルチウスは1854
年2月、オランダ国王が日本に派遣した「スンピン号」艦長のファビウス中佐に「幕府海
軍創設意見書」を提出させた。幕府はこの意見書を異例の速さで承認し、これに基づき1
854年11月にはオランダにコルベット艦2隻(後の咸臨丸と朝陽丸)の建造を依頼し、
同時に幕府海軍の創設ならびに海軍伝習所の設立、オランダ教官団の招致などが決められ
た。これらの決定はペリー再来(1854年1月)からわずか10カ月後であった。イギ
リス、フランス、ロシア等の台頭により勢いを失いつつあったオランダであったが、オラ
ンダの造船技術は当時の最高峰を誇っており、オランダにとって幕府から要望は願っても
ないものであった。幕府は翌1855年7月海軍伝習生の人選と派遣を通達し、また幕府
の近代海軍創設計画に対し積極的な姿勢を示すオランダは、同年年8月にはファビウス中
佐指揮の下、「スンピン号」と「ヘンデー号」の二隻を率いて再び長崎に来訪させ、「スン
ピン号」を海軍伝習所の練習艦としてオランダ国王から幕府に献納した。幕府はこれを受
領すると「観光丸」と命名した。観光丸は、木造外車式蒸気機関の三本マストのスクーナ
ーで、全長29間(約52m)、大砲6門を装備していた。そして同年12月に長崎奉行所
西屋敷に海軍伝習所は開所した。

第3章.海軍伝習所での教育
3-1. 伝習生と教官
第1期幕府伝習生として選抜派遣されたメンバーを見てみる。艦長要員3名、上級士官
要員1名、士官要員19名、下士官要員10名、海兵隊要員15名、兵要員の船大工、鍛

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冶や水主38名、員外聴講生23名、さらに軍事科学技術開発体制を着々と整備しつつあ
った佐賀藩は自藩の洋学研究所、教育機関にあたる「火術方」、「蘭学寮」、「精錬方」など
から選抜した48名を送り込んだ。佐賀藩は幕府と時を同じくして軍艦をオランダに発注
しており、その乗組員を養成する必要があった。佐賀藩士達はすでに蘭学の基礎を学んで
いたので、その教育効果は大きく、後に多くの人材が育っていた。さらに長崎奉行配下の
地役人や塩飽諸島の水主も加わり最終的には200名近くになっていた。
選抜された伝習生は海路組と陸路組に分かれ長崎に向かった。海路組は薩摩藩が建造し
た洋式帆船「昇平丸」で品川沖から出発した。この船はペリー来航直前に薩摩藩主島津斉
彬より建造願いがあり幕府が許可した日本で2番目の洋式船であり、完成後江戸に回航さ
れ幕府に献納されたばかりであった。 記録によると長崎への運航は薩摩藩が訓練した藩
士により行われたが、途中遠州灘で悪天候に遭遇し3本のマスト全部が損傷してしまい、
長崎には10月20日に到着とあり、実に50日近くかかったことになる。
一方教師団は、オランダ海軍大尉ペルス・ライケン大尉以下士官6名、下士官5名、一等
水兵5名、二等海兵2名、一等火夫4名の22名であった。

3-2. 教育内容
教師団はオランダ海軍の制度に基づく教育体系を導入した。まず一日を24時間として
正午12時を境に午前、午後を12等分するという時刻概念と、7日ごとに繰り返す曜日
概念である。これは船の位置を割り出す際、経度15度で時差が1時間発生するという理
屈や、航海当直の割り当ての基本となるものであった。授業時間は午前8時から12時、
午後は1時から4時までで、日曜日は授業がなかった。 主な教育科目は次のようなもの
であった。
基礎科目:オランダ語、数学、物理学、化学、地理学
船舶運航科目:航海術、運用術、造船学、砲術学、測量学、天測実技、操帆・短艇訓練
軍事関連科目:銃砲訓練、鼓手訓練、乗馬訓練、医学、

履修科目は士官、下士官、兵要員により異なっており、職務により専修科目が定められ
た。ただし上記の専門教育や実習と並行して、全員に対して数学とオランダ語の教育が実
施された。座学は伝習所の広間、そして実習場所の多くは観光丸船上で行われた。また甲
板部員用に実習マスト(帆柱)が伝習所の中庭に建てられた。今で言うところのモックア
ップである。当時和船を操船中、風を受けるために帆を張る時は、甲板上で横桁(ビーム)
に大きな帆を取りつけ、それを滑車を使ってマストに沿って引き上げていくものであった
が、西洋式帆船では帆の扱いが大きく異なっていた。帆の展帆、縮帆は帆桁の上で行うの
である。現在の航海訓練所が所有する訓練帆船の「日本丸」とか「海王丸」の作業風景を
見ると、訓練生が帆桁の上の登り作業していることがあるが、これが展帆あるいは縮帆作
業である。伝習生の中に水夫要員として瀬戸内海の塩飽諸島や浦賀の水主達が加わってい
たが、当時の船乗り達には帆柱(横ビーム)に上って作業する習慣がなかったので、高所
に上がることを怖がった。それでは観光丸船上で実技訓練はできないので、この訓練用マ
ストを造りそれを利用して帆の扱い、策具の取扱いを覚えさせることにした。
講義はすべてオランダ語で行われたため、通詞(通訳)を介することとなった。蘭語の

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経験のある者はほとんど無く、あったとしても講義を苦労無く理解できるものはほとんど
いなかった。一方通詞も講義科目の専門知識を持っていないため、適切な日本語の専門用
語に翻訳することができなかった。また通詞人数が足りなくやむをえず休講になったこと
もあった。講習が進んでくると、帆や策具、舵の操作、蒸気機関の運用、船位測量等の実
技成果を見るため訓練航海が十数回行われた。1857年オランダは最初の教師団の交替
要員としてカッテンディケ大尉以下37名の新教師団を派遣した。彼らには新造船を長崎
まで回航する任務も与えられていた。幕府がオランダに注文していた新型艦「ヤ―パン」
であり、幕府に引き渡され「咸臨丸」と改められた。咸臨丸は観光丸と違い、推進装置は
外車式ではなくスクリュー式であった。これは機関・造船を専攻する者にとっては、最新
推進技術を学ぶ絶好の見本となった。その後伝習は二期生と三期生と行われたが、諸藩か
らの伝習生も多数受け入れられた。第一期生にも多くの藩士を派遣した佐賀藩を始め、福
岡藩、薩摩藩、長州藩他九つの藩からの派遣であった。これら諸藩の内佐賀藩はオランダ
から軍艦購入をしており、薩摩藩、長州藩等も洋式帆船を建造中で、その運航要員育成の
ための派遣であった。

4.広がる海軍教育機関
4-1. 長崎伝習所閉鎖と江戸海軍教授所開所
伝習は二期生と三期生と行われていたが、幕府は長崎海軍伝習所を開設したものの、江
戸との距離が離れているので通信、人員、連絡に不便であり、またオランダ教師団の経費
が大きいことから、海軍要員の育成は江戸で行うことを模索していた。そこで新たに江戸
築地に軍艦教授所(後に海軍操練習所と改称)を開設することとなり、その教授方に第一
期伝習生を充てることを考えていた。このため1859年三期生をもって海軍伝習は終了
し、長崎海軍伝習所は閉鎖された。こうして外国人教官団を招聘して実施した海軍教育は、
幕府と諸藩がこれまでなかった西洋式海軍体制を構築・運用にしていくために不可欠な海
軍士官、下士官、兵要員を多数養成して終了したが、海軍教育機関はさらに広がっていく。
長崎伝習所での伝習を終了した幕臣や藩士達が習得した技術、知識をさらに広めるため、
幕府と諸藩は既にあった教育施設内に、あるいは新たな海軍教育機関を次々と創立してい
った。幕府は1857年、第一期生との中から優秀な成績を挙げた者を選抜し、新たに創
立した軍艦教授所の教授方に任じた。当初幕臣に限って教育していたが、後には諸藩から
の研修生も受け入れ、より大規模(800名余)に海軍伝習を始めた。しかし優秀な教授
方及び教授方手伝をもっても知識、運用経験は十分なものではなく、時として外国人海軍
士官に直接教育訓練を依頼している。1866年には、前年アメリカから購入した「富士
山丸」でフランス士官4人に慣熟運用訓練を依頼しており、また1867年にはイギリス
海軍教師団12名を招聘して大規模な海軍伝習を実施している。船の購入先国もアメリカ、
イギリス等と広がり、また造船所建設をフランスに依頼することになり、それに伴いオラ
ンダ語に代わって英語、フランス語の必要性も高まっていった。

4-2.諸藩における海軍教育
海軍教育を継続していったのは幕府ばかりではなかった。長州藩は、既に1855年西

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洋学所を開設し、数学、天文学等の基礎教育をはじめ主として陸軍関係の軍事学教育を行
っていたが、1859年長崎に派遣していた伝習生が戻ると、西洋学所を博習堂と改称し
海軍教育を付加させている。更に1864年には幕府の海軍伝習所のようなより高度で専
門的な教育機関を目指し、山口に海軍局稽古場を設置、翌年にはこれを発展させた海軍学
校を三田尻に創設した。薩摩藩においても長崎伝習修了生達を教授陣に任じ藩校である開
成所で天文、航海、数学、測量、医学等の科目を教育した。海軍学校というより基礎軍事
教育のような性格の教育機関であり、1865年には中浜万次郎が教授として航海、造船、
英語、測量などを教えている。土佐藩では1866年に設立された藩校である開成館に軍
艦局が設けられ蒸気機関学、船具運用、測量等を伝習終了者が教授している。また前述の
中浜万次郎はこの土佐開成館でも教鞭を取っている。第一伝習生、第二伝習生に最も多い
人数の藩士を派遣した佐賀藩は、早くから蘭学研究が進んでおり、とりわけ医学と洋式大
砲製造に関しては他藩よりはるかに優れた技術を持っていた。伝習生は蘭学の基礎を備え
ていたので教育効果も高かった。長崎海軍伝習所が閉鎖されても、佐賀藩の伝習生はオラ
ンダ教師団が長崎を離れるまでの半年間さらに伝習を継続した。1858年には領内三重
津に海軍所を設立し、翌年には教育施設である海軍寮、訓練・演習を行う調練場、造船施
設である製鑵所を増設し本格的な総合海軍施設として整備していった。海軍寮では長崎伝
習所で教育を受けた藩士が教授方になり、航海術、運用術、造船等の授業を行った。
製鑵所では自藩の洋学研究所、教育機関にあたる精錬方から長崎海軍伝習所に派遣され
た藩士のうち、造船、蒸気機関関連授業を受けた技術者集団を中心に、蒸気船の動力部分
にあたる蒸気鑵(ボイラー)の製造にあたった。(実際は実験段階のボイラー試作に終わっ
た)さらにドックも備えており船舶の建造、修繕、整備も行われた。

4-3.海軍教育の質的転換(海外留学)
1860年代になると幕府と諸藩による海軍士官養成方式は外人教師団による伝習、海
軍学校、施設による教育から新たな段階に移って行った。1860年日米修好通商条約の
批准書交換のため新見遣米国使節団がアメリカ軍艦「ポウハタン号」で太平洋を渡ること
になったが、随伴船として咸臨丸が使用されることとなった。幕府は新生幕府海軍に遠洋
航海能力を習得させる目的で軍艦教授方にその操船運航を任じた。途中行程のほとんどが
悪天候であったこともあり、結局は帰国のため同乗したアメリカ海軍測量艦フェ二モア・
クーパー艦長以下11名が操船をすることとなったが、復路は日本人だけで操船し帰国し、
何とか遠洋航海能力を実証した。咸臨丸は往路の暴風雨でひどく損傷し、船体を修理する
ためにメ―ア・アイランド海軍操船所に入渠したのだが、37日間の修繕期間に近代的な。
海軍造船所での蒸気機関の製造、工作機械類、修理方法、そして海軍制度等を見聞、視察
できたことは後の海軍制度の創立、横須賀製鉄所の建設に生かされることとなる。
この後幕府と諸藩は、海外留学を通じて海軍関連技術の習得を試みている。まず186
2年幕府は15名の留学生をオランダのハーグとライデンに派遣している。これは幕府が
建造を依頼していた開陽丸の建造に立ち会うことで、実地に造船関連の技能や、海軍制度
医学を習得する目的とするものであった。海軍局から士官5名の他、職方から水夫、鋳物
師、時計師、船大工等、そして蘭法医らが選抜された。長崎海軍伝習所の第二次教官団の
教官長で、咸臨丸を日本に回航したカッテンデイーケが、オランダ本国の海軍大臣になっ

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ており、また西洋医学を体系的に教授し、日本の近代医学誕生に大きく寄与した軍医ポン
ペが、留学生の世話係だった。続けて1865年にはロシアへ6名、1866年にはイギ
リス・ロンドンへ14名、1867年にはフランス・パリへ9名を派遣している。一方長
州藩も1863年5名の藩士を海軍、造船、鉄道等の技術習得のためイギリスに派遣して
いる。さらに薩摩藩が、1865年に15名の藩士(視察員を含めると19名)を同様に
イギリス・ロンドンに派遣している。さらに、海軍制度の習得だけが主目的ではないが、
(国
境界線交渉、工作機械購入、視察、軍艦購入等)幕府は新見遣米国使節団以降、さらに6
つの使節団を欧州等に派遣している。留学生や使節団が異文化に初めて接し、自らの目で、
進んだ技術や制度を視察したことは、自国の近代化の必要性を痛切に感じたに違いない。
海軍創設も近代化の大きな柱であり、それを担っていく海軍幹部士官、海軍官僚の養成を
海外留学が果たしていくこととなっていった。

第5章.大船建造
5-1. 大船建造禁止令解除後の洋式帆船の建造
ペリー艦隊の威容を目の当たりにして軍備改革の必要性を痛感した幕府は、江戸湾防備
計画の見直しをはじめ、オランダからの軍艦購入、大船建造禁止令解除、浦賀奉行所と水
戸藩に対して洋式船の建造を命じている。この中でも、1855年伊豆韮山代官江川英龍
に建造を命じた、ロシア使節プーチャン乗艦ディアナ号の代船である、ヘダ号(伊豆の戸
田で建造されたため地名を取って名付けられた)の建造過程は、建造に携わった船大工達
に洋式船建造に関しての大きな自信と技術を与ることとなった。このヘダ号と同じタイプ
(君沢型くんさわ型)の船はさらに6隻建造されたのだが、建造中は諸藩から洋式船建造
技術習得のため、船大工や藩士が造船場に派遣された。それだけでなく、ヘダ号建造に関
わった船大工達は、後に洋式船建造を計画していた諸藩などに招かれ技術指導に当たり、
木造洋式帆船の建造技術は諸藩に拡がっていった。例えば1856年1月長州藩は洋式船
建造技術と操船技術を学ばせるために、自藩の船大工を江戸と伊豆戸田に派遣している。
さらに伊豆の船大工を招へいし、一緒に領内の造船所候補地を見て歩き助言を求めている。
また、江戸石川島にあった水戸藩の造船所でも、戸田の船大工指導の下、洋式帆船が建造
された。さらに、幕府直轄の函館奉行所、浦賀奉行所などで洋式帆船の造船施設が設置さ
れ、多くの船大工達が洋式帆船建造の経験を積んでいくこととなった。

5-2. 建造から購入へ(蒸気船建造の難しさ)
大船建造禁止令解除後数年間は、幕府や諸藩で木造洋式帆船が建造されたが、蒸気船の
建造も幕府、薩摩藩、佐賀藩等が国産技術(翻訳文献の研究)を基にして開始しており、
1855年薩摩藩が手造りの蒸気機関を搭載された、雲行丸(全長14.5m、蒸気機関
3馬力)、1865年佐賀藩が凌風丸(全長18.3m、蒸気機関10馬力)を完成してい
る。しかし、これらの蒸気船は実験試作船であり、実用段階には至らなかった。蒸気船の
建造には、蒸気機関はもとより、ボイラーをはじめとする周辺機器や補機が必要であり、
これには機械工業の基盤が不可欠であった。また、これらの機械類を製作するには、大規
模な製鉄所や鉄工所が必要であり、これらを整備するには膨大な資金と多数の技術者の育

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成が必要とされた。造船関連の工業が未発達である現状を見極めた幕府と諸藩は、自力建
造を止め、蒸気船を外国から購入する道を選んだ。幕末までに購入された船の動力、推進
装置、船体材質を見ると、時間の経過と共に木造帆船(蒸気機関なし)から木造蒸気船、
外輪推進方式からスクリュー方式へ、更に鉄製蒸気船へと転換していき、船体も大型化し
ていく傾向にある。こうしてペリー来航時には幕府も諸藩も全く所有していなかった蒸気
船を、幕末までの15年間に80隻余りを海外購入により取得していった。

5-3. 造船所建設
海軍建設に積極的であった幕府は、長崎海軍伝習所開設と時を同じくして、長崎に小規
模ではあるが、船の整備や補修が出来る、造船工場の建設をオランダに依頼していた。オ
ランダ海軍技術士官の支援を得て4年半後の1861年に、船渠(ドライドック)と鍛冶・
工作・溶鉄の3工場から成る長崎製鉄所が完成した。また、浦賀にも小規模なドックが出
来ていたが、これらの造船所では、大規模な修理には対応できず、上海、香港まで回航し
ていく必要があった。
1860年咸臨丸で新見遣米使節団が渡米した際、往路の悪天候によって損傷を受けた
ため、アメリカで船体の修理が必要となった。その修理が行われたサンフランシスコのメ
―ア・アイランドにある、アメリカ海軍造船所の近代的な設備を目の当たりにした幕府海
軍関係者は、日本においても同様な施設を建造する必要性を考えた。すると幕府は、長崎
製鉄所(当時は造船所のことを製鉄所と呼んでいた)とは別に、欧米の一流造船所に匹敵
する大型造船所を、横須賀に建設することを計画した。1864年幕府は正式にフランス
に製鉄所建設を依頼し、フランスのツーロン製鉄所の地形と似ている横須賀に建設が決ま
った。建設はフランス海軍造船技師ヴェ二―ルの指揮の下行われたが、完成は幕府崩壊後
になり明治新政府に引き継がれた。ヴェ二―ルは、日本に約10年間滞在し横須賀製鉄所
の所長として様々な業績を残すこととなる。完成した製鉄所は、我が国の造船、製鉄、機
械工業等の発展に大きく寄与した。

おわりに
ペリー来航以降の幕府、諸藩の海軍教育や新技術の習得はこれまでの制度や、産業構造
に大きな影響を与えることとなった。蒸気船の取得運航は、同時に造船工業分野での新技
術習得、海軍制度の創設等の新たな知識、制度を導入するものであった。当初それらの習
得にあたりある程度の専門知識を持っている者を中心に選抜し教育をしようとした。幕府
が長崎海軍伝習所への派遣に際し人選した顔ぶれを見ると、海軍創設を計画していた旗本
(直参)、ペリー来航時対応した浦賀奉行所の役人(与力同心)、さらに船大工、鍛冶、水
主までおり、伝習生の間には大きな身分差があったことがわかる。1862年のオランダ
留学に際しても、幕臣のほか船大工、鍛冶、時計師、水夫等を派遣しているが同じく大き
な身分差があった。また諸藩が長崎海軍伝習所に派遣した藩士と幕臣とでは直参と陪臣の
関係になるが、席を同じくして伝習を受けている。当時の身分制度では考えられないこと
でありまさに革命的なことであった。つまり幕藩体制を支えてきた封建的身分制度に拘ら
ず、専門知識、能力、語学力の優劣により、身分昇進の機会を与えていくという人事が取
られ始めたことである。貧乏旗本から幕府軍事総裁まで上り詰めた勝海舟、笠間藩士から

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勘定奉行並まで昇進した小野友次郎、手代見習いから明治政府の海軍機技総監になった肥
田浜五郎、漁民から幕府の普請役に召し抱えられた中浜万次郎、そして海外留学まで果た
す船大工や鍛冶職人達、彼らはこれまでの身分制度では越えられない垣根を自己の才能と
時代の要請を後押しとして越えていったのである。このように海軍教育制度や新技術習得
能力を媒介として徐々に身分制度が緩んでいく兆しであった。
幕府と諸藩は所有する船の修理・整備のため造船所を建設していったのは前に述べたが、
それに伴い船舶運用、造船に必要な関連産業を生み出した。燃料である石炭に関する産業
がその1つである。開国に伴い開港、新設される港の数が増加し、交易のため寄港する外
国船や幕府、諸藩の船舶に供給する石炭の需要が生じてきた。それまでは農家や塩田用に
しか使用されていなかった石炭は、燃料として経済的価値を見直されることとなった。海
軍供給用に限っても、当初良質の石炭を産出していた佐賀県唐津炭が確保され、後に長崎
石炭、福岡石炭と需要の伸び共に供給先を広げていき、さらに工業発展に伴い日本各地で
の炭田開発を促していった。明治新政府に引き継がれた横須賀製鉄所は、殖産興業の旗印
の下その後の造船業の発展に大きく寄与した。このように、海軍創設とその後の過程にお
いて、ダイナミックな人的、物的資源の躍動を生み出し、我が国が近代国家として変わっ
ていく一因となった。
最後に1863年の大船建造禁止令解除までの時代に我が国の海運業の標準船であった
和船(弁財船)であるが、新政府は1870年(明治3年)に「商船規則」を制定して、
従来型の弁財船から洋式帆船への転換を奨励した。しかし、洋式帆船の建造取得コストは
高く多くの中小海運業者は和船の使用を継続した。そこで明治政府は1885年(明治1
8年)に500石以上の和船の製造を禁止する布告を出すのだが、洋式帆船への転換は進
まず和船の建造は続けられ、結局明治30年代まで建造が続けられた。少人数で操船可能
で運航費用も少なくてすむ弁財船は、石炭を燃料とする船が次第に普及していく中、しぶ
とく生き残っていたのである。

【参考文献・資料】
・飯島幸人著『航海技術の歴史物語‐帆船から人工衛星まで‐』成山堂,2007 年
・加藤祐三著『開国史話』神奈川新聞社,2008 年
・木村紀八郎著『浦賀与力 中島三郎伝』鳥影社,2008 年,
・小林亥一著『文久三年御蔵島英単語帳』小学館,1998 年
・佐々木譲著『くろふね』角川書店,2008 年
・三谷博著『ペリー来航』吉川弘文堂,2003 年
・毛利敏彦著『幕末維新と佐賀藩 日本西洋化の原点』中公新書,2008 年
・元綱数道著『幕末の蒸気船物語』成山堂書店,2004 年
・吉村昭著『海の洗礼』文藝春秋,2004 年

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敖涛 ユニクロの経営戦略と SPA(製造小売)による流通チャンネルの変化

目次
序論
第一章.SPA とユニクロの成長
第1節.SPA とは?
第 2 節.ユニクロの成長

第二章.市場競争によるアパレルの進化
第 1 節.従来のアパレル常識
第2節.小売形態の変化

第三章・SPA のメリットとユニクロの経営戦略
第1節.SPA のメリット
第2節.ユニクロの経営戦略
第3節.ユニクロの強み・弱み
第4節.新成長戦略実現の可能性

第四章・ユニクロの挑戦と SPA の行方(まとめ)


第1節.世界 3 位ブランドの日本進出
第2節.「ビジネスモデル競争」SPAモデルの確立。
第3節.SPA の課題

はじめに
1990 年代初め、日本の経済は崩壊した。いわゆる、バブル崩壊だ。バブル崩壊により経
済は低迷し、企業は次々と倒産、破綻に追い込まれていった。銀行や証券会社や大企業な
ど、バブル崩壊以前は絶対安全、潰れないといわれていた企業の倒産が相次いだ。安全神
話が崩壊し吹き飛んだ。その影響は小売業界も同様であった。バブル崩壊前は大量生産、
大量販売を基本とするマス・マーケティングが主流であった。ダイエー、ヤオハンにみら
れるような GMS(general merchandise store)総合スーパーが急成長、拡大した。しかし、バブ
ル崩壊の不動産価値の下落により、大規模不動産を所有する総合スーパーの経営は破綻し
た。小売の代表格でもある百貨店においても統合や合併が次々に行われ、失業者が増加し
た。
そのような、小売業だけでなく社会全体が低迷しているなか驚異的な成長を誇る企業が
出現した。ユニクロを展開するファーストリテイリングである。フリースを代表商品に爆
発的な売り上げを記録し急成長した。急成長の要因にはユニクロの巧みな経営戦略である、
SPA による流通チャネルのコントロールが挙げられる。それまでの商品流通の他段階システ

1
ムを行わず、流通チャネルを自社にてコントロールし、効率化する画期的な戦略である。
私の卒論はそのユニクロの SPA による流通チャネルの効率化に着目し、ユニクロの成長を
分析して行きたい。

第一章.SPA とユニクロの成長
第1節.SPA とは?
SPAとはアメリカの衣料品小売大手GAPのドナルド・フィッシャー会長が 1986 年に
発表した「Speciality store retailer of Private label Apparel」の頭文字を組み合わせた造語で、
製造から小売までを統合した最も垂直統合度の高い販売業態ですが、90 年代に入ってその
概念も広くなっている。
現在では、素材調達、企画、開発、製造、物流、販売、在庫管理、店舗企画などすべて
の工程をひとつの流れとしてとらえ、サプライチェーン全体のムダ、ロスを極小化するビ
ジネスモデルと定義される。
図1

第 2 節.ユニクロの成長
ユニクロを展開するファーストリテイリングは、現在でこそ広く認知された企業である、
しかし、企業の歴史を見るとユニクロの原点は 1949 年に個人経営としての「メンズショッ
プ小郡商事」である。そして 1963 年に個人経営から株式会社小郡商事を設立した。1984 年
に代表取締役社長に柳井正氏が就任し社名をファーストリテイリングに変更しカジュアル
小売業に進出した。その後、ユニクロは国内店舗を拡大しながら、2001 年から海外にも進
出し始めた。数年掛けて、今日までに海外進出店舗を含む、直営店舗を 2158 店舗に拡大し
た。(注1)ファーストリテイリングが 8 日発表した 2009 年 8 月期の連結決算は、売上高
6,850 億円(前期比 16.8%増)、営業利益 1,086 億円(同 24.2%)となり、ともに過去最高を
更新した。衣料品の販売不振であえぐ百貨店やスーパーを尻目に、ヒット商品で顧客層を
広げ、独り勝ちが鮮明になった。

(図2)ファーストリテイリングの売上高と店舗数の推移

2
収益の旗頭である国内ユニクロ事業では、既存店売上高は前期比 11.3%増と 2 けた増を達
成、来店客数が前期比 9.6%増、客 1 人当たりの単価が同 1.6%増となった。保温性に優れ
た機能性肌着の「ヒートテック」や下着を一体化した「ブラトップ」などのヒットが引き
続き収益に寄与、海外事業でも米国やアジアでブランドとしての認知度が上がり始め、営
業黒字となった。
営業利益では、大手百貨店グループ 4 社の 2008 年度の合計(約 954 億円)を 1 社で追い
抜いたことになる。また、2010 年 8 月期通期の連結業績予想では売上高が前期比 16.5%増
の 7,980 億円、営業利益が同 10.5%増の 1,200 億円、最終利益が同 24.5%増の 620 億円と、
いずれも過去最高を更新するとの見通しを掲げている。 8 年前の最高益(2001 年 8 月期)
では冬物衣料のフリース頼みが目立ったが、今回はヒット商品が複数続いたことが収益を
押し上げた。靴の新ブランドや、有名デザイナー、ジル・サンダー氏がデザインした衣料
も好調で、消費者の低価格志向という追い風はあるものの、商品開発力の向上が業績を支
えていると言えそうだ。
今後の成長戦略は海外市場への進出、「ユニクロ」の海外店舗は 2009 年 8 月末現在で 92
店舗だが、中国や韓国などアジアでの出店をさらに加速し、来年 8 月末までに 148 店に増
やす。欧米の有力ブランドや小売業者に対するM&A(企業の合併・買収)も模索してお
り、全世界で「ナンバーワンブランド」の地位を確立することを視野に入れる。
(注2)
ユニクロはカジュアルベーッシクをテーマとし、シンプルで低価格商品で幅広い年代の
消費者の心を捕らえた。このシンプルで低価格商品は消費者に使い捨て感覚を与え、ユニ
クロ商品購入を推進させたといえる。品質管理を徹底した結果、従来の「安かろう、悪か
ろう」の発想をくつがえし、低価格、高品質商品で消費者のニーズに応えた。フリースな
どのブームもあり、誰もが 1 枚は持っているとまでいわれる、ユニクロに発展したのであ

3
る。低迷時はあるが、創業から現在までの経営状況を見れば、非常に優良な企業と言える
だろう。

第二章.市場競争によるアパレルの進化

第 1 節.従来のアパレル常識

①生産工程・流通過程が多段階にわたり、それぞれが分断されている
例えば、紡績メーカーが糸を紡ぎ、それをニッターが織物、編物にする。それが染色整
理に出され、縫製され、問屋を通じて小売店に流される。各段階には、総合商社や専門商
社が介在する。各段階、別の企業が担うことが多く、各段階でそれぞれの専門性を発揮す
ることができ、また在庫リスクなども分散させることができる。しかし、全段階を一貫し
て調整・コントロールできるわけではなく、企業間の情報交換が適切に行われてはいない。
彼らは、独自の情報に基づいて商品企画・生産を行う結果、在庫が膨らんだり機会ロスが
生じたりする。リスクが分散されているので、正確な需要予測を行うインセンティブにも
欠け、在庫や機会ロスの増大を促進する側面を持っている。
②委託販売(百貨店などでよく見られる取引制度)
これは、売れ残り商品をメーカーに返品できる制度。メーカーが在庫リスクを負ってく
れる(豊富な情報を有している、というのが根拠)。小売店に積極的な品揃えをさせること
ができる(買い取りであれば、在庫リスクを恐れて多様な品揃えをすることができない)。
しかし、返品商品は値下げされて処分される、このリスクが小売店の仕入コストに反映さ
れており、店頭価格が高くなってしまう。また、最も消費者に近いはずの小売店が、委託
販売のために市場情報を収集・分析するインセンティブにかけており、小売店のマーチャ
ンダイジング能力を低下させてしまうという問題もある。
すなわち、以上を踏まえると、アパレルにおける既存システムの典型は、流通過程が多
段階で、かつ委託販売が行われている、という点である。以上が、ユニクロが存在するア
パレル業界の特徴である。(注3)
(図3)

原材料 貿易商社 紡績会社 商社 卸売

消費者 量販店 アパレルメーカー

4
第2節.小売形態の変化

まず、小売形態の変化について説明する理論を紹介し、それらを考察することから始め
よう。ここでの目的は、ユニクロの、アパレル業界への参入行動も含めた行動を理解する
ための分析装置を導くことである。

①「小売の輪」仮説 (注4)
小売形態変動を説明する原理として有名なのが小売の輪である(マクネア)。この理論に
よると、新しい形態は、低価格訴求による低マージン・高回転ビジネスとして市場に現れ
る。しかし、同じような店舗形態が多く市場に出現すると、同じ形態間の競争で差別化す
るために、店のグレードの格上げが行われる。それは店舗サービス水準を引き上げていく
過程である。例えば、商品の品質を向上させたり、ファッションを取り入れたり、商品展
示の様式を改善したり、広告を増やしたり、配送サービスを加えたりする。しかし、店舗
サービスを向上すると費用がかさみ、それをカバーするために粗利益率が高くなり、高価
格が設定されるようになる。
すなわち、低価格訴求による低マージン・高回転ビジネスとして生まれた新店舗形態も、
最終的には店舗サービス水準の高い、高マージン・低回転の形態に変容する。この変容は、
価格訴求による低マージン・高回転を武器にした、次の新しい店舗形態が市場参入する機
会を発生させることになる。
しかし、すべての新しい形態の変化を説明することには失敗している。コンビニや自動
販売機は当初から高い粗利益率、高い販売価格を設定している。また紳士服ディスカウン
ターは、価格は低いが粗利益率は高いという新しいタイプの革新的形態である。すなわち、
現実は、高価格小売形態から参入する形態も見られ、全ての小売形態の変容を説明できて
いない。こうした疑問に答えるために展開されたのが真空地帯論である。

②「真空地帯論」(注5)
これは、デンマークのニールセンによって提唱されたが、その内容は、小売の輪を修正
し、革新的新業態は低サービス・低価格、高サービス・高価格の両極に出現すると主張し
ている。
ニールセンは、小売サービス水準と価格との関係について、品揃えする商品の数や接客
サービスなどの小売サービスが増大すると、消費者の負担する価格が上昇すると仮定する。
それに伴い、消費者の選好度は高まる。しかし、より高いサービス・より高い価格へと店
舗オペレーションが移行すると、ある水準以上では追加的なサービスに魅力を感じない人
や価格上昇を敬遠する人が増え、その店舗の支持が落ちる。
図4

5
店舗 A・B・C が消費者の店舗選好分布曲線上に図のように位置していたとする。B が最
も消費者の評価を受けている。A・C は B の顧客を奪うために、B 寄りのサービス・価格の
関係(A’、C’)へ戦略展開する。その結果、A と C の顧客は増大するが、低サービス・低
価格、高サービス・高価格の斜線部分に空白ができ、競争が激しくないこの部分に、革新
的形態が登場することになる。
真空地帯論は、高価格で参入する論拠を作り出した点で評価できるが、基本的には小売
の輪の考え方がベースになっている、と思われる。
小売の輪と真空地帯論、両議論の重要な点は、新しい小売形態は、競争がそれほど激し
くない領域で革新的形態が登場し、それら革新者は消費者をさらに獲得するために、これ
まで以上のサービスを展開するようになり、コストが上昇し、それが価格に反映される、
すなわち高価格携帯になる、という点である。
ただし、真空地帯論の C から C’への移動には多少の疑問が残る。高価格で参入した形態
は高級なイメージを構築してきており、消費者の中でその店がブランド化している可能性
がある。そうした業態は、果たして低価格イメージを展開できるだろうか。恐らく、高級
イメージを抱いている顧客の離脱が生じる可能性があるだろう。故に、高価格部分に限っ
ては、真空地帯はできにくいのではないか、と考えられる。

③ユニクロを見ていく枠組
ここで、小売形態の革新に関する矢作(1996)の指摘は興味深い。矢作は、これらの理
論の統合を考察している。その際、2つの問題を提起する。1.小売業態価値論に注目す
べきだ。単純に低価格小売形態として参入するという捉え方ではなく、そこには消費者に
選好されるほど十分なサービスが展開されている。小売流通の革新は、低価格を生み出す
効率性と消費者の望む社会的有効性が、高いレベルで両立している状態から生まれるので
はないか。革新者として登場するディスカウンターは低価格販売に加えて、新しい小売サ
ービスを提供したといえるのではないか、という点。2.形態の発展を、小売流通システ
ム論から論じるべきだ。形態の発展・革新は、小売形態や小売業務のシステムを決定する
小売ミックスを背後で支える、商品供給システムと組織構造、およびその相互連関から生

6
み出されるのではないか、という点。(注6)
コンビニは、小売形態・商品供給システム・組織構造の3つの革新が、逐次的、累積的
に起こっている典型であり、一方、百貨店やスーパーの革新性は、小売形態が主体であり、
商品供給には革新性が見られず伝統的な問屋に依存している。(注7)

すなわち、矢作は、単に低価格小売形態から始まる、という捉え方を否定的に考えてい
る。彼は、低価格であるからには、それが実現できるだけの論理(システム的なイノベー
ション)が存在している、という。その結果、小売流通の革新は、低価格を生み出す効率
性と消費者の望む社会的有効性が、高いレベルで両立して生まれるのである。すなわち、
これまでのサービス/コストの関係がシステム的イノベーションによって改善されている
からこそ、革新的と捉えられる、というのである。このように考えると、価格だけに注目
した小売業革新者の捉え方はあまりよくない。多少高くても、システムイノベーションに
よって、それ以上にサービスを提供しているのであれば、それは購入のパフォーマンスが
よいことを意味するのである。
小売の輪で登場してきた革新的小売業も、確かに低価格小売形態として登場した。しか
し、そこには、その低価格に見合う以上のサービス提供があり、それが実現するだけのシ
ステム的なイノベーションがあった、と考えられる。

これらの議論を踏まえて、小売の輪を若干変形した形で理解しておこう。
①その価格に見合う以上のサービス向上が行われ、それが消費者に革新的と映り、市場
に受け入れられる。そこには大きなシステム的イノベーションがある。
②そのような新形態は、更に集客を高めるために、費用をかけて店舗サービスを向上さ
せ、その費用をカバーするために粗利益率が高くなり、高価格が設定されるようになる。

ユニクロの業界への参入からこれまでの行動を振り返る際、このような枠組で分析して
いくことにする。
①については、単純に低価格小売形態であることを革新者として捉えるのではなく、何
かしらのイノベーションが存在したからこそ今までよりも高いパフォーマンスを提供でき
ることを考慮する。ここでは、どのようにしてサービス・価格関係が改善されたのか、そ
のシステム的イノベーションに注目する。
②これは、小売の輪で議論されたものそのものである。ここでは、何故、高価格が設定
されるようになるのか、ユニクロ特有の問題に着目しながら迫ることにしよう。
この枠組みでユニクロのアパレル業界参入行動からこれまでの行動を俯瞰し、分析して
みよう。こうした分析を行うために、アパレル業界全体の制度・商習慣などについて、ま
たユニクロが展開する SPA について、説明しておきたい。

7
第三章・SPA のメリットとユニクロの経営戦略
図5

生産工場
生産管理

在 庫 コントロール

生産計画 物 流 セ ン ター

商品開発

量販店

消費者

第1節.SPA のメリット
①商品を安く調達できる
従来の衣料品流通とは異なり、中間業者が存在しない。それゆえ、中間業者が得ていた
マージンが必要なくなる。さらに、委託販売の場合に仕入コストに組み込まれていた在庫
リスク分が、買い取り制に変換することにより、その分だけ安く商品を調達することがで
きる。その結果、低価格を実現するも高粗利益を実現できる。

②サプライチェーンを管理できる
ユニクロが、品質や納期を小売がコントロールできる。これは、ユニクロが主導権を握
ることができることが条件となるが、大量の生産を発注することによって、この条件をク
リアしている。すなわち、大量発注することによって、チャネルパワー論的には、工場が
ユニクロに依存する、もしくはユニクロのチャネルパワーを発揮することができ、これに
よって生産工程をコントロールすることが可能になっているのである。
生産現場に密着し、工程を管理しているが故に、納期を短くすることができ、追加発注
にも柔軟に対応できる、そうした仕組みをつくっている。
これまで、メリットのみを見てきたが、SPA の特徴の今ひとつの側面は、リスク、特に在
庫リスクをすべて自社が引き受けなければならない、という点である。故に、リスクを小

8
さくする試みが必要となる。そのために、ユニクロはカジュアルベーシックという商品を
展開する。これは、ファッション性の強い商品に比べ売上変動の小さいものであり、リス
クを小さくすることができる。また、この製品領域では、低価格を実現するために規模効
率を発揮させ、少ない製品を大量に生産する仕組みを構築している。これらの商品は、ど
うしても多様性に限界がある。そこで、これらの商品を『部品』と捉えることで他社メー
カーの製品と組み合わせて個性を発揮させる領域を作った。すなわち、消費者にコーディ
ネートを楽しむことを訴求し、多様性の創出を消費者に行ってもらうことを訴求した。そ
のため、商品の外側にはユニクロブランド・マークは入っていない。
このように商品を捉えているので、アイテム数を絞ること(350~400 アイテム)ができ
る。通常のカジュアルショップから比べると1/3~1/4の水準。それゆえ、在庫管理も
しやすい。
すなわち、リスクというデメリットをなるべく最小化し、さらに扱う商品群のデメリッ
トを、発想を展開させてメリットに変える工夫をしていることが窺えるのである。
以上が、ユニクロの SPA の特徴である。
すなわち、ユニクロは SPA という形態を展開することによって、低価格を実現、低価格
だけでなく品質の向上も実現、需要予測情報を生産過程にフィードバックさせ、柔軟な生
産体制を構築することによって在庫リスクを回避できる。そのための製品絞込みを実現し、
絞り込んだ中でも多様性を創出する工夫を行う。(注8)

第2節.ユニクロの経営戦略
ユニクロの大きな特徴は、ファーストフードのコンセプトを取り入れて、1.ユニクロ
の服はいつでもどこでも誰でも着られる。ポピュラーアイテムをポピュラープライスで、
あらゆる世代の男女に向けて販売する。2,店舗の標準化、マニュアル整備により、全国
どの店でも同じ商品を同じサービスで販売する。店舗レイアウト、商品、価格すべてが同
一である。3,全世界の情報を収集し、東京原宿のデザインオフィスで企画、商品化し、
中国をはじめとする東南アジアで OEM 生産(相手先ブランドによる生産)を行い、全国の
自社店舗で販売する。4,単品を安く大量に販売し、一品目を永続的に改善する。そのこ
とでカジュアルのスタンダードを目指す。5.無駄を省いた倉庫型店舗で、顧客の要望す
る商品をどこよりも安い価格で販売する。以上がユニクロのオペレーションの特徴(注3)
である。(注9)

まずファーストリテイリングの80年代から現在までの戦略展開の歴史を前半と後半と
分けて整理する。
1・前半、ファーストリテイリングの戦略展開の歴史は図表2にあるように、84 年~94
年のSPA(specialty store retailer of private label apparel=自社企画ブランド衣料の専門店)

9
戦略構築期、95~97 年の商品ブランド・業態多様化期、98 年から2000年に到るSPA
戦略再構築期の3期に分けることができる。それぞれ、商品ブランド政策、チャネル政策、
オペレーションシステムの3点から整理する。

(1)84~94 年:SPA戦略構築期
ファーストリテイリングの前身である小郡商事は 84 年、広島に「ユニクロ」第一号店を
出店する。当初はVANなどのナショナルブランドを取り扱うカジュアルウェアショップ
であったが、この間、プライベートブランド開発機能強化、店舗フォーマットの確立、中
央管理システムの構築を進めSPA戦略の基礎を固めた。
第一に、88 年の大阪事務所、94 年のニューヨーク事務所設立を通じ、プライベートブラ
ンド開発機能が強化された。この結果、94 年のプライベートブランド比重は 75%にまで達
した。
第二に、大手プレハブメーカーの協力を得て店舗フォーマットを確立した。この時開発
されたフォーマットは独立平屋 150 坪の1タイプのみである。店舗フォーマットを統一し
た結果、出店コストを 6,000~8,000 万円に抑え、後の大量出店が可能となった。
第三に、88 年のPOS導入、90 年のPCシステム導入を通じ、中央管理システムが構築
された。このシステムを通じて吸上げられる情報を基に、全店舗の品揃えと発注業務を本
部がコントロールする体制が整った。

(2)95~97 年:商品ブランド・業態多様化期
95 年頃になると、中国地方での「ユニクロ」の出店が一応完了した。他地域の出店余地
はまだ大きかったが、次なる成長機会獲得のため商品ブランドの多様化、業態の多様化が
進められた。
第一に、四つのプライベートブランドの導入、ナイキ、アディダスなどのナショナルブ
ランド導入を通じ、商品ブランドの多様化が進んだ。導入されたプライベートブランドは、
95 年のカジュアルウェア「エルヴィス・プレスリー」、97 年の子供服「VANミニ(買収)」

「ユニクロキッズ」、スポーツカジュアルウェアの「ユニクロスポーツアンドリミテッドキ
ッズ」の4ブランドであった。しかし、このブランド多様化の結果、品揃えで他のカジュ
アルウェアチェーンとの差異が不明確になり、既存店売上の減少を招くことになる。95 年
度、97 年度の既存店売上は前年比約8%の落ち込みを記録した
第二に、97 年のファミリー向け業態「ファミクロ」、スポーツカジュアルウェア業態「ス
ポクロ」の導入で、業態多様化が進んだ。しかし、各業態を差別化するに十分な品揃えを
用意できなかったため、新業態の業績は目標を下回った。
第三に、97 年情報システムを強化し、中央コントロールの精度アップが進められた。デ
ータウェアハウスの機能が強化され、アイテム別管理が可能となった。しかし、店舗数拡
大に伴うエリア格差の拡大から表面化してきた不良在庫と機会ロスの増加傾向を、このシ
ステムで食い止めることはできなかった。

10
(3)98~00 年:SPA戦略再構築期
商品ブランド・業態多様化政策が失敗したことは明らかだった。この責任を受け、社長、
副社長を除く役員の総入れ替えが実施され、外部から 30 代の人材が迎えられた。この新体
制の下でABC(オール・ベター・チェンジ)革新プロジェクトが発足し、商品絞込・単
品拡売政策の導入、業態絞込・店舗フォーマット多様化、分散型管理・QR生産(クイッ
ク・レスポンス生産=小ロット多頻度生産)が進められた。
第一に、商品ブランド多様化の失敗から、プロダクトフォーカスと呼ばれる政策が導入
された。これは商品ブランドを絞り込み、メディアミックス販促で単品の売上を拡大する
ものである。ブランドはひとつに統一、アイテム数もそれまでの約 300 アイテムから3割
減の約 200 アイテムに絞り込まれた。チラシによる複数商品価格訴求中心だった販促は、
TV宣伝、雑誌タイアップ記事、店頭販促を有機的に組合せ、単品を訴求するものに切り
替わった。このタイプの販促第一号が 98 年冬のフリースキャンペーンで、1シーズンで 800
万枚のフリースを販売した。
第二に、新業態の失敗から、業態絞込・店舗フォーマット多様化政策が導入された。こ
れは、業態ではなく、店舗フォーマットを多様化することで出店余地を拡大しようとする
ものである。98 年に原宿に都市型店舗出店、99 年にSC型店舗出店、さらに現在KIOS
K型店舗を開発中であり、ロードサイド型店舗とあわせた4フォーマット体制が整う。
図表6.戦略展開の歴史

11
第三に、エリア格差、業態多様化への対応のため、分散管理とQR生産体制が導入され
た。98 年に全国を 50 エリアに分け品揃えと発注をコントロールするエリアマーケティング
を導入、99 年には各店舗に大幅に権限を委譲するSS(スーパー・スター)店長制度が導
入され売上予測にエリアや店舗要因を組み入れる体制が整った。さらに、海外の生産工場
へのコントロールが強化され、大ロット少頻度生産から、少ロット多頻度生産体制へ移行
した。当時中国には約 50 の協力工場があるが、各工場に最低一人の駐在員を派遣しQR体
制の強化と製造品質の向上に努めている。(注10)

2.後半はユニクロの再出発である。2001年から2002年まで再び低迷期、20
03年から2006年まで反転部石期、2007年から現在まで反転期の新たな三期に分
けることができる。

(1)01年~02年の低迷期。
経営戦略を改善したため、98年から急成長し2000年まで、売上高は頂点になった。
しかし、2001年から2003年まで再び頂点から落ち、失速した。02年の決算での
売上高、経営利益の大幅下方修正の報道をきっかけに株価も急落した。この後、店舗の売
上は22ヶ月間前年に比べ割り込み続いた。
第一に戦後の初デフレ認定された消費低迷の市場背景に、前年同じスピードで店舗を拡
大し、直営店舗は500店舗に超えた。
第二に食品事業を開始し、食品事業子会社エフアール・フーズを設立した。

(2)03年~06年の反転部石期
03年後半からプラス成長に転じ、回復の兆しを見始める。関連事業を強化する結果、
高機能素材を使用し、デザインのある商品の開発を重視する。長期戦略として、
「世界品質
宣言」を発表し国内外企業の M&A を進んだ。
第一に、魅力商品を次々開発。低価額女性浴衣を発売、内モンゴル産カシミヤセーター
を発売、
ポーランド産の「プレミアムダウン」、美脚・美尻のスタイルアプパンツを発売した。
第二に、第三世代 SPA を目指す、世界品質宣言を発表、低価額をやめると宣言した。
第三に、大型店舗を増加しながら、英国の事業を見直し、米国、韓国、中国へ初出店し
た。野菜事業から撤退した。M&A による、海外関連会社を次々買収した。

(3)07~現在の大逆転期である。08年にユニクロの海外事業は初の経営黒字達成。
好調な国内の事業で7000億、海外事業3000億で合計1兆円を目指す。
第一に、グローバル化、グループ化でグロバルワンを実現し、世界中でひとつのグルー
プを目指す。
第二に、年々100店舗以上単位で拡大し、売場面積1000坪日本初のユニクロ大型

12
店をオープンした。グローバル旗艦店をヨーロッパに出店、中国の販売事業を拡大した。
第三に、ヒートテックインナー、オリジナル T シャツ、新美脚ポトムス、ブラトップが
次々登場し、商品の宣伝を重視した結果、世界三大広告賞のひとつ「one show」のインタ
ラクテイプ部門で受賞した。(注11)
ファーストリテイリングが 8 日発表した 2009 年 8 月期の連結決算は、売上高 6,850 億円
(前期比 16.8%増)、営業利益 1,086 億円(同 24.2%)となり、ともに過去最高を更新した。
衣料品の販売不振であえぐ百貨店やスーパーを尻目に、ヒット商品で顧客層を広げ、独り
勝ちが鮮明になった。

収益の旗頭である国内ユニクロ事業では、既存店売上高は前期比 11.3%増と 2 けた増を達


成、来店客数が前期比 9.6%増、客 1 人当たりの単価が同 1.6%増となった。保温性に優れ
た機能性肌着の「ヒートテック」や下着を一体化した「ブラトップ」などのヒットが引き
続き収益に寄与、海外事業でも米国やアジアでブランドとしての認知度が上がり始め、営
業黒字となった。
営業利益では、大手百貨店グループ 4 社の 2008 年度の合計(約 954 億円)を 1 社で追い
抜いたことになる。また、2010 年 8 月期通期の連結業績予想では売上高が前期比 16.5%増
の 7,980 億円、営業利益が同 10.5%増の 1,200 億円、最終利益が同 24.5%増の 620 億円と、
いずれも過去最高を更新するとの見通しを掲げている。
8 年前の最高益(2001 年 8 月期)では冬物衣料のフリース頼みが目立ったが、今回はヒ
ット商品が複数続いたことが収益を押し上げた。靴の新ブランドや、有名デザイナー、ジ
ル・サンダー氏がデザインした衣料も好調で、消費者の低価格志向という追い風はあるも
のの、商品開発力の向上が業績を支えていると言えそうだ。
今後の成長戦略は海外市場への進出、「ユニクロ」の海外店舗は 2009 年 8 月末現在で 92
店舗だが、中国や韓国などアジアでの出店をさらに加速し、来年 8 月末までに 148 店に増
やす。欧米の有力ブランドや小売業者に対するM&A(企業の合併・買収)も模索してお
り、全世界で「ナンバーワンブランド」の地位を確立することを視野に入れる。

第3節.ユニクロの強み・弱み
戦略展開の整理から、ファーストリテイリングが一度その強みを喪失し、その後再構築
したことがわかる。次に、ABC革新の結果生まれたビジネスシステムの強みと弱みを整
理する。
商品ブランド政策、チ
ャネル政策、オペレーシ 図表7.強力な業務フィット(適合性)
ョンシステムの強力な業
務フィット

13
ファーストリテイリン
グの強みは、商品ブラン
ド政策、チャネル政策、
オペレーションシステム
が相互に強化し合って、
「売上拡大→利益額拡大
→店舗拡大→売上拡大」
という善循環を生み出し
ていることである(図表
7)。
第一に、商品ブランド政策とチャネル政策の関係を整理する。98 年の業態絞込みにより、
ファーストリテイリングでは業態差別化に必要な多数の商品を品揃えする必要がなくなっ
た。その結果商品の絞込みが可能となり、さらに単品へ投資できるマーケティングの原資
が増加したことで、プロダクトフォーカス政策が実施しやすい環境が整った。
第二に、商品ブランド政策とオペレーションシステムの関係を整理する。商品ブランド
の絞込みは、格段に売上の予測精度を向上させる。その結果、分散管理・QR生産が実行
しやすい環境を整えることとなった。特に、ブランド絞込は予測制度に大きく影響を与え
る。例えば、フリースが2ブランドある場合を考える。1ブランドならば来店客数に一定
の割合を掛けることで、かなりの確度でその売上を予測できる。しかし、来店客が2ブラ
ンドのうちどちらを選ぶかを予測するのは非常に難しい。特に、自社で開発するため類似
したマーケティングが展開される2ブランドの売上予測は非常に困難となる。商品ブラン
ド絞込の結果こういった問題が回避されたのである。
第三に、オペレーションシステムとチャネル政策の関係を整理する。分散管理体制が導
入されたことにより個別要因による不良在庫と機会ロスが減少し、複数フォーマット展開
が可能となった。中央管理が行われていた際は、エリア特性、店舗特性を売上予測に組み
入れる余地が少なかった。しかし、98 年に店舗ごとにSKU別(色別・サイズ別)実績管
理可能なシステムが導入され、エリアの担当者、SS店長が自分で売上予測をするように
なり、売上予測に個別要因を組み入れることが可能になった。この結果、複数のフォーマ
ットを展開しながら、同時に不良在庫と機会ロスを減少させることができるようになった
のである。
現在の商品ブランド政策、チャネル政策、オペレーションシステムは相互に強化しあっ
ていることが分かる。このような関係をM・ポーターは業務活動のフィットと呼ぶ。三つ
の活動は個別でも、単品拡売政策は売上拡大に、店舗フォーマット拡大は新規出店余地の
拡大に、QR生産は利益額拡大に貢献し 98 年度の売上、利益2桁増をもたらした。しかし、
3活動の強力なフィットが生み出された 99 年度は、それ以上の成果、売上、利益の3桁増
を可能としたのである。

14
一方、ファーストリテイリングの弱みはスタイル提案力の弱さと単品依存度の高さであ
る。これが、ファーストリテイリングの成長可能性を限定している。
第一に、「ユニクロ」があくまで既存のカジュアルウェアチェーンやGMSのカジュアル
ウェア売場のアンチテーゼ業態であり、独自のスタイル提案が無いということである。柳
井社長は「ユニクロだけで全身コーディネートしてもらおうとは考えていない。あくまで
も着こなしの一部、部品としての衣料品だ。よく「GAP」と比較されるが、ここが大き
く違う点だ、だから当社の商品には自社のロゴを入れない。」とユニクロブランドを説明す
る。したがって提供する商品そのものの個性は希薄である。アンチテーゼの対象がはっき
りしているうちは良いが、ライバルを駆逐し価格と色のバリエーションの魅力が失われた
時、消費者が「ユニクロ」を買うかが問題である。
第二に、プロダクトフォーカス政策により極度に単品依存度が高まったことである。本
年度はフリースを 1,200 万枚販売する計画である。その売上は 230 億円、売上目標 3,000 億
円の約8%にも上る。キャンペーンは年間数回行われるが、1回のキャンペーンの外れが
売上に大きく影響を及ぼすことになる。(注12)

第4節.新成長戦略実現の可能性
新たな成長戦略はFRに、成長機会と脅威をもたらす。すなわち、店舗とインターネッ
トの相乗効果による需要拡大と海外展開や業態開発に伴うブランド間競争である。
(1)店舗とインターネットの相乗効果による需要拡大
「ユニクロ」は他のカジュアルウェアチェーンよりさらに商品を絞り込み、色とサイズ
でバラエティーを演出している。商品価格は低く設定されている。フリース 1,900 円、ニッ
トのタートル 2,900 円、デニムジーンズ 2,900 円とライバルの「無印良品」に比べそれぞれ
2,000 円、2,000 円、1,000 円安く、かつ品質が良い。この価格と品質ならば、スウォッチに
より時計の複数所有が進んだように、フリース等の複数所有が進む可能性がある。
店舗で買えるのは、基本 15 色に加え週替わりの限定3色のみである。一方、インターネ
ット上では常に全 50 色の購入が可能である。当社ネット経済研究から、eリテール成功の
カギは、リアルな店舗以上の買物の楽しさを提供できるかどうかにあることが分かった。
「ユニクロ」のEチャネルは店舗以上の選ぶ楽しさを提供している。
したがって、店舗でフリースのベーシックアイテムを購入した後で、Eチャネルを通じ
色違いの商品を購入、日によって色の違うフリースを楽しむという消費者が誕生する可能
性がある。つまり、店舗とEチャネルが補完し合い、フリースの需要を拡大するのである。
しかも、Eチャネルで扱う商品を拡大することで可能性をより広げることがかのうである。
柳井社長は、新しい小売はリアルな店舗、カタログ販売、インターネット販売が融合し
たものになると言っている。「ユニクロ」がそのような業態になる可能性は高い。

(2)海外展開・業態開発に伴うブランド間競争
ファーストリテイリングの社内調査によると、タグを外したGAP商品と、ユニクロ商

15
品を比較させた場合、アメリカ人の多くがユニクロ商品を選び、ユニクロ商品がアメリカ
合衆国で入手できるなら、それを購入すると答えたという。ファーストリテイリングが海
外展開を積極化する理由はここにある。海外でも商品を絞り込み、高品質かつ低価格商品
で競合のベーシックアイテムをリプレースする戦略を海外でも展開するつもりである。
確かに、ファーストリテイリングのロジック通りに事が進む可能性もある。しかし、「H
&M(スウェーデンに本拠を置くカジュアルウェアSPA)」は「GAP」より品質は低い
が、価格が安くファッション性の高い商品を高頻度で投入し、売上 4,000 億円(対前年
124%)、純利益 580 億円(対前年 137%)、売上高順利益率 14%を達成している。
「ユニク
ロ」と「H&M」とは、価格は同程度なので品質対ファッション性の競争になる。したが
って、日本国内のような単純な競争を展開できるとは考え難い。「ユニクロ」なりのスタイ
ル提案が必要になる可能性がある。
さらに、日本国内においても長期的にはスタイル開発が必要となる。95~97 年の商品ブ
ランド・業態多様化政策は、各業態の提案するスタイルを明確にせずに新ブランドを投入
し、十分に業態間の差別化ができずに失敗した。今度の業態開発にはスタイル提案が不可
欠である。
(3)業務フィット喪失の
危機 図表8.「FR」「良品計画」の戦略比較
海外展開、業態開発の
結果引き起こされるスタ
イルを機軸としたブラン
ド間競争は、ファースト
リテイリングの強み、業
務フィットを弱める可能
性がある。業務フィット
が弱まれば「売上拡大→
利益額拡大→店舗拡大→
売上拡大」という善循環が崩壊し、成長スピードが鈍化する。
同じくSPAとして展開する「良品計画」もファーストリテイリングと類似の成長戦略
を採用している(図表8)。2000年当時、ファーストリテイリングと同様に大型店の出
店強化、KIOSK型店舗開発(7月 17 店)、欧州 50 店体制の構築(7月英、仏2カ国で
17 店)、Eチャネルへの進出(9月18日開始)を進めており、しかも、その着手はファー
ストリテイリングより早い。両者の違いは商品ブランド政策にある。衣料品では「ユニク
ロ」200 アイテムに対し、
「無印良品」1,000 アイテム、単品ではなくシンプルライフ全体を
提案する。無印良品のアイテムも絞り込まれたものだが、スタイル提案にはFRの5倍の
品揃えが必要なのである。当然この商品の多さは、商品ブランド政策、チャネル政策、オ
「良品計画」の経常利益率は 10.7%でFRの
ペレーションのフィットを弱めることになる。
2分の1以下、これは「ユニクロ」の商品より 1.5~2.0 倍の価格設定により達成した数字

16
である。(注13)
成長戦略実現のカギは、
「ユニクロ」業態の優位性を維持しつつ、異なるビジネスモデル
を持つ新業態を開発することである。これにはバラエティーストアチェーン、「クレスギ」
の事例が参考になる。1957 年、当時世界2位のバラエティーストアチェーンであった同社
は、顧客、費用構造、オペレーションの全く異なるディスカウントストアチェーン事業に
参入した。「Kマート」事業である。その後、バラエティーストアの衰退、ディスカウント
ストアの成長に伴い売上比重は逆転、バラエティーストア事業に見切りを付けた経営陣は、
社名を「Kマート」に変更しバラエティーストア事業から撤退した。新しいビジネスモデ
ルを育てることができたのは、完全にKマート事業を分離し独立企業のように運営したか
らである。

第四章・ユニクロの挑戦と SPA の行方(まとめ)

第1節.世界 3 位ブランドの日本進出
2008 年 9 月 13 日、スウェーデンのカジュアル衣料品専門店「ヘネス・アンド・モーリ
ッツ(H&M)」が銀座に日本1号店を開店した。テレビや新聞のニュースによると、開店
前夜から人が並び、開店前には 2,000~3,000 人(各報道発表による)の行列ができたと報
じられた。
H&Mはギャップ(ブランド「GAP」 図9.世界の衣料品専門店の売上高
/米国)、インディテックス(同「ZAR
A」/スペイン)に次ぐ世界 3 位であり、
既に上位 2 社は上陸してから 10 年以上を
経過していることから国内衣料品市場に
とって"最後の黒船"と称されている。
特に国内市場をリードしているファー
ストリテイリング(店舗名「ユニクロ」)
にとっては、自社の 2 倍以上の売上高を誇
る世界 3 強に挟撃されることになる。

縮小する日本の衣料品市場、「顧客争奪
戦」の始まり
日本の衣料品市場は約 8 兆円弱と推
計されており、ここ 10 年は低価格化もあって市場規模は縮小し続けている、その中でファ
ッションニーズを巡る熾烈な競争が繰り広げている。
ファーストリテイリングの柳井正社長はH&Mの日本参入に対して「持ち味が違うので、

17
棲み分けはできる」、さらに「集客効果により、市場の活性化につながる」という見解を示
している。しかし、国内の景気は下降局面に入り、相次ぐ値上げなどの影響で消費の低迷
は長期化する可能性が高い。
H&Mは銀座店(店舗面積約 1,000 平方メートル)を皮切りに、11 月には原宿(同 1,500
平方メートル)、09 年秋には渋谷店(同 2,800 平方メートル)に打って出ていく。銀座店が
入居している「GINZAgCUBE(ギンザジーキューブ)」の近隣にはユニクロやZARA、原
宿にはGAPの旗艦店がある。限られた消費支出の中で、消費者の財布が引き締まれば、
都心の激戦区における顧客争奪戦が起きること必至である。

第2節.「ビジネスモデル競争」SPAモデルの確立。
これらの業界上位企業が採用しているビジネスモデルは、自社ブランドを企画から製
造・販売までを垂直統合する「SPA(製造小売業)」と呼ばれている。その基盤を確立し
たのは、1980~90 年代のギャップやベネトン(イタリア)であり、大量生産と低価格戦略
で一気に市場を支配することに成功した。ファッション性よりも流行に左右されにくいシ
ンプルでカジュアルな基本商品に重点を置き、労働力や設備投資が安い生産地に大量委託
生産し、「安くて質のよい定番服」を集中的に市場に供給する体制を構築することが最大の
KFSであった。
ユニクロはフリースジャケットの大ヒットにより業績を急速に伸ばしたが、中国を生産
地としたこのSPAモデルをいち早く構築したことが強みとなった。しかし、この強みも、
ファッション性が重視されてくると一転、弱みへと転じてしまう。同社も市場の変化を捉
え、低価格戦略からファッション性を重視した展開への転換を図ったが、消費者の「低価
格イメージ」を払拭することができず、かつ大量生産・大量販売のメリットも低下するこ
とで、2001 年度をピークに 2 期連続減収減益に陥った。

第3節.SPA の課題
(1)第 2 世代SPAの登場
ファーストリテイリングの業績は 03 年度を底に回復傾向にあり、06 年度には売上高が
過去最高を更新したが、経常利益は 02 年度以来 1,000 億円超えを果たしていない。こうし
た業績の苦戦はファーストリテイリングだけでなく、業界トップのギャップも同様で、そ
の成長に陰りが出ている。
大量生産・大量販売のメリットが低下する中、成長を遂げているのがそれまでのSPA
モデルに流行を捉えた商品をいち早く店頭展開し、それを短期間に売り切るスピードを加
えて独自に進化させたインディテックスやH&Mである。
ユニクロは型数を 500~600 に絞って 1 型あたり数十万から数百万枚単位で生産すること
で、高品質と低価格を両立するモデルを構築している。しかし、在庫コントロールに失敗
すると、値引きに踏み切らざるをえなくなり、収益を圧迫するリスクを抱えている。これ
に対してH&Mは、年間 50 万点もの商品を地盤の欧州だけでなく、米国や中国、中東など

18
世界 29 カ国(日本除く)
、1,600 超の店舗に供給し、全量を約 2 週間で入れ替える。商品の
鮮度が高い分、品目ごとに供給する点数を絞り込むことで、在庫をほとんどなくし、大半
を値引きせずに売り切っているのである。また売れ行きの悪い商品は製造を中止して、代
替製品を随時追加することで対応している。
つまり第 1 世代SPAの大量生産・大量販売のビジネスモデルを超えて、多品種少量生
産を効率的にできる仕組みを構築したものが第 2 世代SPAの特長であるといえる。

(2)第 2 世代SPAのビジネスモデル
こうしたビジネスモデルを展開できる背景には、デザインから出荷までの期間の短縮
がある。新製品の場合、ユニクロがこの工程に約 1 年かかるのに対し、H&Mは約 2~3 ヶ
月、類似品であれば最短で約 3 週間で追加できるという。
デザイナーは約 100 人とユニクロとほぼ変わらないが、複数のデザイナーが仕入れ、予
算管理、型紙を作る担当者、セクション長とチームを構成しており、現在は約 45 のチーム
が 3 種類の季節商品のデザインに同時並行で取り組んでいるという。
生産についてはユニクロ同様「ファブレス」で自前の工場を持っていない。しかしユニ
クロが約 9 割を中国の 50 社 60 工場に生産委託しているのに対し、H&Mはアジアや東欧
などに約 700 の生産委託先を持っている。その半数近くは中国で、3 分の 2 がアジアである。
これを世界 20 カ所の「生産オフィス」がスウェーデンの本部と工場をつないで生地を迅速
かつ大量に調達して製品化し、世界中の店舗に商品を供給している。同社のロルフ・エリ
クセン最高経営責任者(CEO)によると、独自に開発した在庫管理システムこそが同社
の事業モデルの「カギ」であると語っている。
(3)SPAの世代闘争の行方
創業約 60 年の歴史を持ち、売上高では業界 3 位ながらも、営業利益と時価総額ではト
ップ。特に時価総額では売上高首位のギャップやファーストリテイリングの 3 倍以上を誇
るH&M。にもかかわらず、世界トップクラスの消費大国にこれまで進出してこなかった
のには訳がある。「世界で最も厳しい」と言われる日本の消費者を攻略するには一筋縄では
いかないという判断があったからである。その日本市場対策として同社は「品質マネージ
ャー」というポストを世界で初めて設置した。具体的な内容はクレームへの対応から陳列
といった売場管理など顧客満足度の向上への取り組みを見せている。
H&Mは現状では、日本専用商品を展開する計画はない。出店についてもエリクセンC
EOは将来的なショッピングセンターへの出店意向を示唆しているが、まずは都心部での
展開が中心になる。こうした動きから、当面日本市場での浸透度アップに重点が置かれる
可能性が強い。

ZARAに加えてH&Mと第 2 世代SPAを迎え打つ形になったユニクロだが、かつて
の勢いこそないもののここ数年の業績は拡大基調にある。08 年 8 月期の業績をみると、消
費低迷の中でも年間通して既存店の売上は堅調に推移し、通期予想の売上高 5,855 億円(前

19
期比 11.5%増)、経常利益 791 億円(同 22.4%増)は達成する見込みである。特に女性に特
化した商品開発とキャンペーンが成功を収めたことで、品質だけでなくデザイン性につい
ても自信を深めている。また 08 年 8 月末時点で 740 店という圧倒的な店舗網の差もアドバ
ンテージとなっている。
こうした環境下で、ファーストリテイリングでは、9 月 4 日に開催した事業戦略説明会の
場で、2010 年 8 月期にユニクロ事業を 7,000 億円(国内 6,000 億円/海外 1,000 億円)まで
拡大させるという目標を改めて示している。現実的にはM&Aの必要性はあるものの、国
内では参入組を食い止めると共に海外、特にアジア市場に打って出る両面展開を強力に推
進していくと公言している。そのためユニクロ事業が好調を維持しているこのタイミング
で周辺事業を整理する経営再編を実施し、経営資源の集中を急いだ。

ギャップが日本進出 14 年で約 130 店、ZARAが同じく 11 年で約 30 店である。さらに


カルフールやウォルマートといった外資系流通大手が日本市場で成功を収められない中、
出店戦略はどうしても慎重にならざるを得ない。1998 年に同じく銀座に出店した英国最大
の化粧品・医薬品小売チェーン「ブーツ・エムシー」はわずか 2 年で撤退の憂き目にあっ
た。H&Mは日本の衣料品業界に活性化をもたらすのか。それとも先行他社と同様、独特
の性格を持つ日本市場の中に埋没してしまうのか。

商品差別化が難しいため、オペレーションによる低価格化という同質化競争に陥りがち
なスーパーマーケット業界とは異なり、アパレル業界、とりわけSPAにおいては、独自
のデザインという差別性を打ち出しやすい。H&Mが商品力に自信を持っているのならば、
ユニクロの対抗馬としてのプレゼンスを獲得するために、銀座の第一号店開店で盛り上が
っているこのタイミングを機に一気に店舗網を広げて浸透度を高める策が必要ではなかろ
うか。"最後の黒船"の日本市場における成否は、その後の外資系流通における日本参入戦略
に大きな影響を及ぼすケースとして注目される。

引用文献
注1:ファーストリテイリング事業沿革
http://www.fastretailing.com/jp/about/history/2004.html
注2:参考:ファーストリテイリング IRニュース 2009 年 10 月 8 日などより
注3:この2つの特徴については、『ビジネスシステムレボリューション』(2004)
を参考にした。
注4:(Malcolm P.McNair)によって提唱された小売業態の進展を説明する理論仮説です。
小売の輪の理論とはマクネア(McNair,M.P)が 1957 年に提唱した小売形態の展開に関する
理論仮説である。この仮説によれば、新しい小売形態は革新的なローコスト経営を通じ、
既存の小売形態よりも低価格を訴求する形で市場に登場する。価格競争によって、この革
新的な小売形態は多くの消費者を引きつける。やがて、この革新的方法の模倣者が現れ、

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競争は激しくなる。そうなると、価格は差別化要因にならず、品揃えやサービス、設備の
向上などを通じた非価格競争へと移行する(トレーディングアップ、格上げ)。そこにまた
革新的なローコスト経営を行なうものが現れ、価格競争をし、非価格に競争に向かい…と
いった循環を指すのが、小売の輪である
注5:小売業態の進展を説明する理論仮説のひとつで、O.Nielsen によって提唱された理論
です。
注6 :「マテリアル 流通と商業」出版社: 有斐閣 ; ISBN: 4641160104 ; 第 2 版 版
(1997/10) 矢作 敏行 (編集),
注7;伝統的な問屋への依存は、上原(1999)も指摘している。上原は、第一次流通
再編成の期間は、チェーンオペレーションが展開されるものの、物流機能を既存の問屋や
伝統的流通業者に依存してきたことを指摘している。
注8:ビジネスシステム レボリューション 浅羽茂、新田都志子 著
NTT 出版を参考
注9:ユニクロのオペレーションについては、『ディマンドチェーン経営』(2000)
を参考にした。
注10:「ユニクロ!監査実録」安本隆晴著 ダイヤモンド社
注11:JMR 生活総合研究所による企業活動分析事例 株式会社ファーストリテイリング
(2008 年)
注12:「ユニクロ&しまむら完全解剖」月泉博著 商業界
注13:「無印良品vsユニクロ」溝上幸伸著 ぱる出版
図2:ファーストリテイリング HP、会社案内2009を参考
図5:ビジネスシステム レボリューション 浅羽茂、新田都志子 著
NTT 出版を参考
図6:「ユニクロ!監査実録」安本隆晴著 ダイヤモンド社
図7:「ユニクロ&しまむら完全解剖」月泉博著 商業界
図8:「無印良品vsユニクロ」溝上幸伸著 ぱる出版

21
加藤麻美 東アジアの高齢者福祉と介護 -中国と日本. 韓国の比較-

はじめに
少子高齢化に伴う年金や介護の問題は、今日の日本や私たち一人ひとりにとって避けら
れない重要な課題になっている。医療技術の発達により世界最高水準の平均寿命を持ちな
がら、出生率の低さも深刻であり、我が国は安心して老後を迎えられる社会とは言い難い
のが現状である。
一方で、世界最大の人口を抱え、世界の中での存在感も著しく高まっている中国でも、
近年急速に高齢化が進んでいる。そこで、社会主義国家である中国では高齢者に対してど
のような福祉や介護が行われているのかその考え方や現状と特徴、また各国の介護などの
比較を通して、現代世界の高齢者福祉、介護事情を探ってみたいと思う。

第一章 中国の社会福祉制度

1. 改革開放前:計画経済期の社会福祉制度
そもそも社会福祉・社会保障とは、資本主義市場経済社会において全体の所得水準の向
上に伴い人々の中に生み出される経済格差など様々な「歪み」に対処するためのものであ
る。改革開放以前の中国は社会全体の所得水準は決して高くないが、 「社会主義に失業はな
い」と言われるように、限られた財産を分かち合う社会主義計画経済社会であったため、
社会福祉とは無縁のように思われるのだが、1949 年に中華人民共和国が成立すると、共産
党は社会主義社会の優位性を示すために福祉制度の導入を決めたのである。これが中国の
社会福祉の土台である。
1956 年、職場を通じてそこに属する従業員とその家族に対し、いわゆる「ゆりかごから
墓場まで」保障する制度が始まり、人々へ一律に労働の場や賃金を提供し、国有企業や都
市の職場組織である「単位」 、農村の人民公社などが経済的機能、政治的機能のほかに所得
や生活の全てを保障する社会福祉的機能を果たすようになった。
この制度では、全人口の 7%程の都市戸籍を持つ者は衣食住や医療、娯楽まで豊富なサ
ービスを企業の福利厚生として受けることができ、退職後も給与の 70%前後の額の年金
「退休金」を個人の社会保険料の負担は全くなく受け取ることができた。しかしそれ以外
の、戸籍制度により都市への移動を制限された農村戸籍を持つ人々は、人民公社による「五
保戸制度」 「合作医療制度」
といった相互扶助的な制度しか受けることができなかったため、
この時代の福祉制度はかなり限定的なものであった。また単位が多様な機能を果たすとい
うことは、社会空間を一体のものに形成し社会建設に貢献する一方で、個人の単位依存、
単位の国家依存が強まり、生産活動や社会活動の効率が低下するといった問題もあったの
である。

2. 改革開放後:市場経済期の社会福祉制度
1978 年から改革開放政策が始まると、中国の経済体制は計画経済から社会主義市場経済
へと大きな転換を遂げた。これにより自由競争原理が導入され人民公社は解体、 「五保戸制
度」「合作医療制度」は崩壊、農業は家族請負制度へ転換し、また国有企業は経営不振や倒

1
産に陥り、企業や単位が担っていた福祉的な機能も弱体化していったのである。個人の単
位依存度が低下し、住宅の市場化、職業選択など個人のニーズの多様化や自由が高まった
一方で、急激な社会変動により経済格差が拡大するようになり、所得や医療など公的な福
祉保障対策を求める声が高まったのである。また中国を含めアジア諸国の福祉は、長く家
族や地域共同体による相互援助システムに頼っていたのだが、経済発展に伴いそれまでの
伝統的な家族や地域のあり方が変化したことも、公的な福祉支援の必要性を高める声に繋
がったのである。
こうした変化を受け、1980 年代から政府が福祉行政改革に積極的に取り組み始めた。
1980 年から始まった年金・医療保険制度改革では、これまでの個人の保険料負担無しの制
度を改め、年金は個人と単位の拠出金に国の支援を合わせたものを原資に、医療は企業と
個人の双方が負担した保険料をもとに、市が統合的に運営する体制を作りあげた。そして
制度の対象範囲を徐々に拡大させ、1990 年代には都市のほとんどで皆保険・皆年金体制と
なった。ただし年金の給付については、この改革以前に退職した人に対しては「老人老弁
法」により古い制度を適用しているため、当時属していた単位や地域、職業や地位、共産
党や国家への貢献度によって、給付額に最大で 6 倍程度の格差があり、再分配機能が働い
ていないという問題もある。
また農村部は未だ制度がほとんど整備されずに取り残され、現在でも都市住民のためだ
けの限定的な福祉となっている点では、改革開放以前から変化が見られない。1986 年から
実施が開始された農村の老齢年金保険は、年々加入者数が増加しているものの、中西部な
ど経済の発達が遅れている多くの地域ではこのような保険が実施されておらず、比較的経
済が発達している浙江省でも老齢年金保険の実施率は 5%程度にとどまっている。現在こ
の老齢年金保険の保険料は主に個人負担であり、経済の発達が遅れている地域では実施が
難しい状況にあるので、今後は国家と集団と個人の共同負担による、社会全体で支えあう
公的年金として、制度を整えていく必要がある。約 9 億人という都市部よりはるかに多く
の人口を抱える農村部こそ国からの福祉支援が求められており、都市と同等の福祉制度を
農村地域にも整備していくことが、これからの中国社会福祉の重要な課題の一つである。

第二章 中国都市部の高齢化

1. 高齢化の現状
中国では一人っ子政策による少子化、医療や経済発展による寿命の伸長などの影響によ
り、1990 年代から急速に高齢化が進行している。65 歳以上の高齢者人口割合は、1953 年
は 4.41%であったが、1990 年に 5.57%、2000 年には 6.96%、そして 2001 年に 7.10%と
なり高齢化社会に入った。平均寿命は、1950 年代前半では男性 39.3 歳、女性 42.3 歳であ
ったが、1990 年代前半には男性 66.7 歳、女性 70.5 歳と、約 40 年の間に飛躍的に長くな
った。また合計特殊出生率は、ピークとなった 1963 年には 7.5 と高い数字を記録したが、
一人っ子政策の始まった 1979 年には 2.7%と急速に減少し、2000 年には 1.78 となり少子
高齢化を進行させている。 将来の 60 歳以上の人口率予想では、 2025 年には 18%(2.8 億人)、
2050 年には 25%(4 億人)と、約 40 年後には国民の 4 分の 1 が 60 歳以上になると予測さ
れている。

2
特に都市部で高齢化が先行している点が、地方での高齢化が深刻な日本と大きく異なる
特徴として挙げられる。2002 年の地域別高齢化率の推移を見ると、1953 年には 2.0%と
最も高齢化率が低かった上海が最も高い 13.4%となり、 次いで浙江の 11.2%、
北京 10.8%、
天津 10.7%と人口の多い地域で比率が高く、逆に高齢化率が最も低い地域は寧夏で 4.8%、
また青海で 5.5%、新疆で 6.1%と人口の少ない地域で比率が低くなっており、都市と農村
地方の高齢化には大きな差が出ている。この理由としては、都市部では一人っ子政策によ
る人口抑制が農村に先立って厳しく実行されたため、出生率が大きく低下し高齢者の割合
が高くなり、農村部は都市よりも出生率がはるかに高いため、高齢者の割合が低くなって
いるのである。また戸籍制度により自由な地域間の居住地移動を制限したことにより、日
本で起きたような地方から都市への若い世代の大量の人口移動が抑制されたことや、経済
発展の度合いによって平均寿命に差があることなども影響している。このように中国の高
齢化は急速に進行しているが、今後の経済発展や社会の動向によって高齢化が更に進む可
能性が高いと考えられるが、世界最多の人口を擁する中国なので、出生率を高めることが
できれば高齢化の進度を落とすことも十分期待できるのではないかと考えられる。
表1 中国の総人口と高齢化率

1953 年 1964 年 1982 年 1990 年 2000 年 2004 年


総人口 59.435 69.458 100.818 113.368 126.583 125.307
高齢化率 4.4 3.6 4.9 5.6 7.0 8.6

2. 高齢者福祉の取り組みと考え方
1996 年に制定された「老年権益保障法」では、高齢者の 5 つの権利(扶養、娯楽、学習、
社会参加、医療)を守るための福祉政策を主に各地方政府によって展開するよう定められて
いる。そこで、先に述べたように中国で最も高齢化が進行している上海市の高齢者福祉政
策の取り組みについて見ていくことにする。
上海市の 65 歳以上の人口割合は 11.5%(2000 年)と、高齢化が特に進んでいるため、高
齢者問題への取り組みは中国の中でも最前線であるといわれている。1993 年からは年金な
どの制度改革を行い、 1998 年には上海市の年金受給者の割合は 91.6%まで引き上がった。
そして、子が無い、職が無い、収入が無い「三無老人」に対しては、国家が衣・食・住・
医療・葬祭の五保を保障する。介護サービス施設の整備も積極的に行っており、老人ホー
ムは 2005 年時点で 474 か所に設置された。また、いわゆるシルバー人材センターである
退官企業の設置、 デイケアセンターや活動室の設置、 インターネット教育のプロジェクト、
医療施設の充実なども図っている。
その一方で、介護施設数が現段階では未だ不足していることもあり、 「老年権益保障法」
第 10 条では、 「老人扶養は主に家族によって行うものとし、家族は老人に関心を持ち、世
話をしなければならない」と定められている。ただしここでいう「扶養」とは主に経済面
を指しており、たとえ外部の介護サービスを利用したとしても、その費用を家族が負担す
ればそれは「家族扶養」となる。実際に高齢者の主な収入源を見ると、親族からの援助が
48%(2004 年)と最も高くなっている。1980 年代からの福祉制度改革を見ても、政府の介

3
入は比較的弱く、民間組織や家族、個人、ボランティアの力を活用していこうという傾向
がみられる。この背景には伝統的な家族意識のほかに、年々負担が大きくなる高齢者福祉
のために国の財政を圧迫されたくない、経済成長を妨げたくない、そのために家族や地域
社会の力を最大限に活用し、経済成長と両立させていこうという政府の思いも影響してい
ると考えられる。
こういった現状から、今後の中国の高齢者福祉は「単位による福祉」から「コミュニテ
ィによる福祉」が中心になると考えられており、高齢者の活動センターである「老人の家」
をコミュニティごとに建設し、企業や単位以外の高齢者の居場所づくりをする動きなども
進んでいる。ただし現在の高齢者やその予備軍世代の人々は単位に対する思い入れが非常
に強いので、コミュニティによる福祉の考え方が浸透するにはまだ時間がかかると思われ
る。中国は保育サービスが充実しており、育児の社会化が進んだことにより女性のフルタ
イムの就業率向上に貢献しているといわれているが、介護についてはほとんど家族主義か
ら抜けておらず、介護の社会化も今後の課題となるだろう。やはり急速に高齢化が進んで
いるため、高齢者を支えるには家族や地域の協力が不可欠ではあるが、個人や地域の負担
が大きくなりすぎてしまえば、結果的に国家の経済成長や社会発展にも影響を与えること
になるので、国の支援と個人、地域のバランスを保っていくことが、高齢化社会を支える
ために重要である。

第三章 上海の介護事情

1. 上海の介護施設
上海市は中国で最も高齢化が進んでおり、その分高齢者の福祉政策も最も進んでいるこ
とを前章で述べた。そこで上海ではどのように介護施設の設置を進めているのか見ていく
ことにする。
上海市の介護施設、敬老院の設置は 1980 年ごろからまず農村部で始まり、その数年後
に都市部でも整備が始まった。1980 年代半ばに施設整備数、入所者数とも急激に増加し、
その後施設数は横ばいや若干の減少、入所者数は年々増加している。1992 年時点で農村部
は施設数約 180 か所、入所者数約 4000 人、都市部で施設数約 140 か所、入所者数約 2000
人となっている。上海市政府は敬老院の供給主体を多元化し、施設を増床するために、次
のような政策を打ち出している。①基本的に高齢者扶養は在宅が“主”であり、施設は“従”
とするが、施設も 2010 年までに 10 万床を整備する。②政府主導で養老事業を促進し、民
間企業による運営を 25%から 70%に増やす。民間企業の参入を奨励するために、基準を
満たした施設には政府から補助を出す。③政府は老人福祉に積極的に投資し、養老事業の
法制度化を進める。施設の多元化と質の向上、補助の公平化を目指す。
この増床計画のもとで、実際に上海で敬老院事業に参入した上海市大華福利院老人幸福
苑という民間企業の例がある。この施設の職員は 30 人ほどで、親の介護の経験がある 40
代位の女性など優秀な人材を高めの賃金で集めている。入所者は高めの料金設定のため
2000 年時点で約 60 人、そのほとんどが老幹部である。上海市政府からの援助では十分で
なく、施設としては料金を高くせざるを得ないので、入所者が伸び悩んでいるのである。
職員の賃金を高めに設定している点は、労働量や負担に対して賃金が低いため介護の担い

4
手が増えない日本と比較すると非常に良いことであるが、高齢化が進行しているにも関わ
らず入所者が増えなければ、供給主体や施設を増やしても有効に活用できず無駄になって
しまう。政府が入所費用を補助し利用促進も図っているが、敬老院での生活を望む高齢者
が更に多く施設に入所でき、養老事業が活性化し効果的に機能するよう、行政からの支援
を今以上に手厚くすることが求められている。
また施設の需要と供給がかみ合っていないという問題も挙げられている。都市部は用地
取得が困難であるといった理由から、高齢者の多い都市中心城区での敬老院やホームヘル
プセンターの整備はあまり進んでおらず、逆に高齢者がそれほど多くない郊外で施設の整
備が増加している。住み慣れた土地を離れて施設へ入ることに抵抗を感じる高齢者も多い
ので、入所者の伸び悩みの一要因になっていると考えられる。またデイサービスセンター
は低料金のため施設の利用を希望する高齢者も多いが、施設側の利益が少ないため、普及
が進んでいないのが現状である。以上のように上海市では高齢者施設の普及に積極的に取
り組んでいる点は大変評価できるが、高齢者やその家族の要望に沿った介護施設やサービ
スを提供できれば、介護事情の更なる発展が期待できるだろう。

2.上海の在宅家族介護
上記のように上海では介護施設の整備が積極的に行われているが、それでも数がまだ不
足していること、費用が高額なことなどから、現在でも多くの家庭で在宅介護が行われて
いる。
中国の在宅介護については、介護の担い手に日本とは異なる特徴がみられる。上海で在
宅介護の主な担い手を調査した結果によると、1 位息子、2 位配偶者、3 位娘、4 位家庭服
務員(お手伝いさん、家政婦)となった。息子が最も多かった理由としては、娘より息子と
同居することが多いためであり、また中国では嫁よりも息子本人が介護にあたることが一
般的に当然とされており、これも女性のフルタイムでの就業率を引き上げる要因になって
いると考えられる。そして注目すべき点は、4 位の家庭服務員の存在である。家庭服務員
は主に、地元住民の雇用を守るため戸籍による職種制限により、限られた仕事にしか携わ
れない農村から出稼ぎに来た流動人口や、計画経済期の雇用政策で、労働者を定年まで解
雇できないと定めた(いわゆる終身雇用)固定工制が撤廃されたことにより現れるようにな
った都市失業者の女性が中心である。彼女たちは住み込みや派遣といったインフォーマル
な就業形態で雇われ、家事はもちろん、子どもの世話や老人の介護も行っているのである。
家庭服務員は現在買い手優位の市場であり安い賃金で雇うことができ、施設を利用するよ
りも負担が小さく済むため、家庭服務員による介護が急速に普及しており、上海の在宅介
護を支える重要な存在となりつつある。流動人口の存在による労働市場の二極化を容認す
ることで、安い価格で介護の外部化が可能になり、これもまた女性の就業率上昇に影響し
ているのである。息子や家事労働者による介護は台湾やシンガポールでも見受けられる。
ただし中国では家族の誰か一人に責任が集中するということはあまりなく、同居別居、
出生順、性別などに関係なく、交代で平等に面倒をみることがほとんどである。中国都市
家族の居住状況を見ると、近年は集合住宅が増加し同居は減少傾向で、核家族化が進んで
いるものの、家族やそれぞれ家庭を持った兄弟が同じ地区内や市内、同じ集合住宅内に在
住しているといった事例が多く、毎日や週に一度など頻繁に顔を合わせ交流しており、こ

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のような家族意識と繋がりの強さが各々の負担を分散し、家族での介護を可能にする力に
なっていると考えられる。
これから老後を迎える世代の人々に老後の希望を尋ねると、やはり子ども、特に娘との
同居を希望する声が多い結果となった。この背景には、
中国では女性の就業率が高いため、
隔代家族など祖父母が孫を預かり育児を行うことが一般的になっており、特に妻方の両親
がその役目を担うことが多いため、将来は娘に見てもらいたい、面倒を見てくれて当然と
いう思いがある。その一方で、同居に否定的で、子どもには子どもの生活があり迷惑をか
けたくないといった理由から、敬老院への入所を肯定的に考える人も増加している。
社会の発展に伴う核家族化の進行で今後家族の形態や意識が更に変化し、敬老院など外
部の介護サービスを希望する声が高まり、中国の介護も在宅家族中心から社会化していく
ことが予想される。そのためにも、敬老院の整備を進めることが重要であり、合わせて在
宅での老後を希望する人に対してもその意思を尊重できるように、家族の力だけでなく状
況に応じたサービスを選択できるよう支援をしていくことが必要である。流動人口を非正
規労働力として利用するだけでなく、介護ヘルパーとして活躍できる人材に育てていくこ
とで、在宅介護を支えていくとともに流動人口の雇用確保となり、
中国の福祉市場と社会、
経済の活性化につながることを期待したい。

第四章 各国の介護比較

1. 日本の介護
「はじめに」で述べたように、日本の高齢者介護は現在大きな課題になっている。 「日本
は安心して老後を迎えられる社会か」という問いに、85%の人が「思わない」と答えてい
る(1999 年)。日本の 65 歳以上の人口は 22.1%(2819 万人)で、国民の 6 人に 1 人が 65 歳
以上であり、75 歳以上が 10.3%となっている(2008 年)。合計特殊出生率は 1.34(2007 年)
で、2015 年には 65 歳以上人口の割合が 25%を超えるとの試算も出ている。現在の 65 歳
以上の人口のうち介護の必要がある人が 14.6%とされているが、 「介護を受けることへの
不安感」(1998 年)を調査した結果によると、 「全くない」と答えた人の割合が、アメリカ
31.4%、タイ 27.3%となったのに対し、日本はわずか 6.5%と非常に低く、多くの日本人
が老後の介護に不安を抱いていることが浮き彫りになった。そこで日本の介護には一体ど
のような特徴があるのかここで見ていきたいと思う。
まず介護施設については、日本は福祉先進国の政策を参考にアジアの中でも先行して施
設整備を行っており、施設の数は年々増加しているが、60 歳以上の人に対して行った地域
の福祉施設に対する満足度調査によると、特別養護老人ホーム・老人ホーム共に、60%以
上の人が「もっと充実させる必要がある」と答えており、 「現状でよい」と答えた人は約
19%にとどまり、 「どこにあるか知らない」と答えた人も 17%程度に上った。老人のため
の住宅や地域交流施設についても同じような結果となっており、高齢者福祉施設の整備は
未だ十分とは言えないのが現状と見られる。また介護を担う人材の育成も大学や専門学校
をはじめ各所で行われているが、体力的にも精神的にも過酷な労働条件であること、それ
に対する賃金が安価であることから、実際に現場で活躍する人材がなかなか増加しないの
が現状である。これから更に少子高齢化の進行が予想される日本には介護士の存在が必要

6
不可欠であり、国や行政を中心に社会全体で人材の育成とともに、彼らが健全に働けるよ
う労働環境と待遇の改善支援に力を入れていくべきである。
一方在宅介護については、 1980 年代ごろから財政支出の削減や高齢者のありのままの老
後を尊重する考え方から、 「日本型社会福祉論」が唱えられるようになり、民間事業者の活
用を含め家族扶養や地域相互扶助をベースにした在宅介護を重視する傾向になる。1989
年に出された「ゴールドプラン」では、ホームヘルパー、デイサービス、ショートステイ
の充実や、在宅福祉の目標数値を示すなど、在宅福祉に重点を置くことや、市町村の役割
を重視する地域主義を提示した。1993 年には在宅介護センターが法定化されるなど、1980
年から 90 年代にかけて、在宅介護中心の政策が多く出されるようになった。
日本の在宅介護の特徴を見ると、一つに介護の担い手の偏りが挙げられる。日本で家族
介護の中心人物となっているのは家庭内の女性、特に嫁が大きな存在となっている。日本
の家族介護者を見ると、妻が 46%で最も多いのは当然ともいえるが、その次に多いのが嫁
の 24%で、娘の 13%を上回る結果となった。実際に既婚女性のうち自分の親と同居して
いる人は 6.1%だけであり、25.1%が夫の親と同居していた。また「介護が必要になった
場合誰に期待するか」 という調査でも、 最も期待が高かったのはやはり配偶者であったが、
それ以下がホームヘルパー10.4%、娘 9.8%、子どもの配偶者 8.7%、息子 8.1%と、嫁も
実子とほとんど同等に期待されていることが理解できる。日本の家族介護は嫁が支えてお
り、嫁に責任や介護のストレス、外に出られないといった生活上の不自由が重くのしかか
っているともいえる。
このように日本は親の介護が同居子、特に長男など特定の子とその配偶者に、他の子ど
もよりも集中しており、同じような傾向が韓国にも見られる。これは家産維持のため非均
分相続を原則とし、財産も責任も跡取り夫婦に集中させ、他の子を断ち切るという直系家
族制の伝統が影響しており、育児が母親に集中していることもこの直系家族制からくるも
のである。別居子との関係を見てみると、欧米では別居子も比較的近くに住み、週に一回
以上など頻繁に接触している家族が多くなっているが、日本や韓国は遠くに住んでおり年
に数回しか合わない家族が最も多かった。医療の発達により介護が長期化している中、一
人の家族に負担が集中している状況が続けば、いわゆる「介護地獄」に陥り介護者の自殺
や高齢者の虐待、家庭崩壊といった深刻な問題を頻発させる危険性が高く、それを避ける
ためにも中国のように家族が介護の責任を均等に背負う家族意識ができれば理想的である
が、現実には住宅事情や介護と仕事の両立が困難であること、長年の家族意識などが要因
となり、介護者の過重負担が解消される見通しは立たない。そこで期待されるのがやはり
介護士やヘルパーの存在である。家族介護者の中には「介護は家族がすべきものであり他
人には任せられない」 と思い込み、 一人で抱え込み閉じこもってしまう事例も少なくない。
そのような介護者のもとに少しずつでもヘルパーが介入することで、介護者の自由な時間
の創出や負担の軽減はもちろん、外部のサービスを利用する、他人の力を借りる介護が悪
いことではなく普通のことであるという考え方を浸透させることができれば、 「介護地獄」
からの脱却も見えてくるのではないかと考えられる。
日本の在宅介護の特徴としてもう一つ挙げられるのが、 「在宅」の意味そのものが他の
欧米諸国と異なっているということである。欧米諸国の「在宅」とは、その人が単身また
は配偶者とともに住み慣れた土地で外部の社会的サービスなど様々な支援を受けながら暮

7
らし続けること、とされている。一方日本の「在宅」とは、 「在息子の家」
「在長男の家」
で家族によって介護されることを意味しており、欧米の意味とは大きく異なる。老親は家
族が見るのが日本の美風であり、子ども家族の苦労は当然で、家の中で対処すべきことだ、
という家族意識が根強いこと、また高齢者自身が家族の形が大きく変化した現実の中でも、
みんなが一緒に暮らし、賑やかで温かい家族像を持ち続けており、そのため家族の中に幸
せがあると信じる思い、あるいは世間体を気にすることで在宅同居にこだわり、子どもに
依存できる関係を当然、理想としているといった理由から、日本ならではの「在宅介護」
が定着したのである。老後における子や孫との付き合い方に関する調査では、欧米は「時々
会って食事や会話をする」程度と答えた人が最も多かったが、日本を含むアジアでは「い
つも一緒に生活する」と答えた人が最も多かった。また過去の老親扶養義務に関する裁判
事例を見ても、時代が進むほど子どもの扶養責任を強調する判断が多くみられるようにな
っている。
このように介護の家族依存度が高く、社会サービスの利用が進まない、利用することに
引け目を感じる傾向は日本をはじめとするアジア独特の意識として注目すべき特徴である。
ただし同じアジアでもこの傾向と少し異なった意識を持っているのが、前章でみた中国で
ある。中国の介護も家族依存が強いという点では共通しているといえるが、一方で家庭服
務員による介護が浸透しているなど、家族以外の力を取り入れ助け合うことにも比較的柔
軟な意識を持っていることが特徴的であり、日本としては参考にするべきといえる。欧米
では逆にこうした日本の同居、家族介護の良さが見直されているが、やはり介護の素人で
ある家族だけでは限界があるということを理解しなければならない。
家族の介護負担を最大限軽くしながらも、住み慣れた我が家で家族と一緒の老後を過ご
したいと願う高齢者の希望を尊重するためにはどのような方法があるだろうか。やはり介
護ヘルパーやデイサービスなど外部のサービスを利用することが最も現実的かつ効果的で
ある。介護を受ける高齢者自身に話を聞くと、「住み慣れた自宅でヘルパーなどの外部サー
ビスを利用したい」と考えている人も意外に多く、他人だからこそ冷静に関われるという
ことからも、介護をする家族と介護される高齢者の双方にいい影響がある。ヘルパーを自
宅に入れることに抵抗を感じるという人には、グループホームのデイサービス等を利用す
ることが有益である。介護が必要になると高齢者は家庭の中に閉じこもってしまいがちに
なるため、孤独感から介護する家族への依存心が強くなり、家族の重荷になってしまうと
いう悪循環に陥ることがある。それを防ぐためにデイサービスを利用して多くの人と交流
し、
「疑似家族」として実際の家族には少なくなってしまった団らんを味わうことで、高齢
者の心と生活が豊かになり、本当の家族とも「ちょうど良い」関係が築けるのではないだ
ろうか。
また同居の形態も、全く同じ空間で四六時中生活するとなると余計な衝突を招きかねな
いので、同じ敷地内や建物に住みながらも、
キッチンやリビングなど生活空間を分離する、
広さなどの関係でそういった形が作れなくともそれに近い状況の住み方ができれば理想で
ある。日本では子どもとの関係が同居か、遠くに別居しほとんど会わないかの両極端な傾
向が強いので、中国や欧米でよく見られる同じ市内地区内や集団住宅内に暮らし、一日一
回や週に一回顔を見に行くという関係に近い状況を作ることで、家族介護の重さの感じ方
も変わってくる。このように日本の家族介護の現状を更に良くするためには、外部の力を

8
必要に応じ積極的に取り入れること、適度な距離と繋がりを保った家族関係を築くこと、
そしてこういった介護や家族に対する意識を浸透させることが大切である。この今までの
意識を転換させるために各国の事例と比較することは非常に参考になる。
近年日本では子どもによる老親介護の一方で、高齢者夫婦二人暮らしでの老老介護も増
加している。2006 年の調査によると、子どもと同居している高齢者が 43.9%に対し、一
人暮らしまたは夫婦二人暮らしの高齢者が 52.2%と半数を超えており、老老介護が増加し
ていることがうかがえる。特に都市部で単身や夫婦二人の世帯が多く、加えて子どもや他
人との交流が少ない傾向があり、健康状態が良好なうちは単身や夫婦のみ家庭の高齢者の
方が家族と同居する高齢者よりも家に閉じこもることが少ないが、ひとたび健康状態が悪
化すると家庭に閉じこもりがちになり、介護の悩みや問題が内にこもり誰にも気づかれな
いまま生活や状況が深刻化し、孤独死という悲しい事件も起きている。こうした結末を防
止するためにも、子どもや他の家族が離れて暮らしていても定期的に訪ねて気にかけ、家
庭内の変化に気が付けることが最も望ましいが、家族の形が変化し全ての家庭でそれが期
待できない現代には、地域や行政による高齢者世帯への定期的な訪問、介護福祉のプロに
よる相談や支援を行っていくことが必要ではないだろうか。日本は諸外国と比較しても近
隣や人間関係の希薄さが際立っており、地域や身の回りの社会のネットワークを強めるこ
とで、高齢者世帯を支える重要な役割を果たしてくれることが期待できる。
最後に日本の高齢者の特徴として、労働力率が非常に高いということが挙げられる。60
歳以上の労働力率を比較すると、アメリカ 6.4%、ドイツ 2.7%に対し、日本は 19.2%とな
っている。このような結果になった理由として、一つは年金である。かつては定年退職後、
年金だけでも十分生活できる程度の額を支給されていたのだが、少子高齢化の進行に伴い
その額は減少し、現在年金をもらい始めた世代では、多くの人がそれだけでは生活できな
いほどの額しか受け取ることができない。そのため、元気なうちに少しでも家計が豊かに
なるようにとパートや派遣といったものも含め、何かしらの労働に携わる人が多いと推測
できる。少子高齢化は現在も進行しており、将来にかけて年金制度を本当に維持できるの
か、と国民の不安も高まっている。人口構造や社会が変化してしまった中で、今までの年
金制度のままでは維持が厳しくなることは確実であり、年金を納め制度を支えてきた誰も
が自らの老後には安心して生活を送れる額を受給できるよう、政府の取り組みに注目した
い。そして高齢者の労働力率が高いもう一つの理由として、日本人の就業意欲の高さが考
えられる。日本人は働きすぎ、と言われるほど良くも悪くも「仕事人間」であり、男性を
中心に仕事が一番大事、仕事が趣味というような人も多い。こうした意識から定年退職後
も仕事をしたい、また仕事以外に何をすればいいか分からないから働いていたい、という
人が多いため、就業率が高くなっていると考えられる。実際に最近の 60 歳以上の人の多
くははつらつとしており、若い世代にはない活躍できる力を持っているので、地域や社会
が積極的に元気な高齢者の就労や社会参加を後押ししていくことで、高齢者自身の生きが
いや生活の張り合いになるだけでなく、地域社会の活性化にも繋がるといったメリットも
ある。地域行政を中心に元気な高齢者と、彼らが力を生かす機会との出会いを設けること
に力を入れていくべきである。

9
佐藤 翠 食卓の戦後史一女三代の食卓を通して

<目次>
はじめに
本テーマを取り上げる目的
私の考える食卓とは
本テーマの構成

第1章 祖母の食卓
終戦末期に生まれた祖母
銘々膳とチャブ台の食事を経験
日々が二重労働
自営業主婦と専業主婦の違い
パートタイマーの可能性

第2章 母の食卓
厳格な家長、食卓に張り詰める緊張感
家電製品は主婦にとって救世主
買い物に革命が起こる
加工食品の登場
団地の登場で、テーブル式食卓が当たり前に
大家族から核家族に

第3章 私の食卓
家族団欒の食卓へ
冷凍食品の誕生とそれが発展する理由
食卓の場が外へ
個食化現象
中食について

まとめ
将来の食卓

1
はじめに

本テーマを取り上げる目的

「人間は共食をする動物である」(石毛直道『食卓文明論』より)

サルやゴリラなどの人間と同じ霊長類は、食べ物を共同の場所に持ち寄って一緒に食さ
ないという。共に食べるとは人間だけの特別な行為なのかもしれない。そして共食する場
である「食卓」に、人間の織り成す社会において最小単位である「家族」が、一堂に集ま
り共食をしてきた。だが、昨今では外食・中食産業の発展、女性の高学歴化や地位向上に
よって、社会で男性と同等に活躍するなど家族で食卓を囲むこと自体が珍しくなってきて
いる。はたして将来、家族で食卓を囲む風景はなくなるのかそれとも継続するのか、つま
り人間は家族で共食する動物であり続けるのか否か、この答えを明らかにしてみたい。

私の考える食卓とは

辞書によれば食卓とは、食事用の卓でチャブ台・テーブルを指す。実際、日本における
食卓は3つの経緯を経て現在に至る。以下の図を見てもらいたい。

図1 食卓形式の移り変わり
250

200

調
査 150

数 箱膳
例 100

チャブ台
テーブル
50

0
1920 1928 1936 1944 1952 1960 1968 1976 年

(資料出所)石毛直道『食卓文明論』
先の図は、石毛氏が250例に及ぶ高齢の女性への調査を行なった際にまとめたグラフ
である。箱膳とは、銘々膳の一つで江戸時代では飯台といい、民衆の間で使われた。明治
になると箱膳と呼ばれるようになる。戦前では民衆の間で圧倒的に使われていた箱膳も、
25年にはチャブ台が箱膳よりも逆転して優位となる。チャブ台は折りたたみ式なので場
所を取らず使い勝手よい。昭和初期には全国に拡大し、どの家庭でも持つようになる。や
がて新たな食卓が登場する。チャブ台のピークは終戦直前の44年でこのピークとともに、
2
テーブルが普及し始める。テーブルが家庭に定着するきっかけは、56年から供給された
団地住宅だ。テーブルが備え付けられ、都市部のサラリーマン世帯を中心に広がってゆく。
それとともにチャブ台使用数は減少してゆくのがわかるだろう。71年になると、テーブ
ルがチャブ台より優勢になり、テーブルが主流となる。
食卓の移り変わりとともに、その食事風景も変わってゆく。家庭によって異なるが、箱
膳においての食事は、たいがいの家庭では家長が一人で先に食事をし、他の家族は性別・
年齢順に家長の後でする。また、身分別の膳を使う家庭もあった。会話に関しては基本厳
禁であり、食前食後のあいさつさえもなかった家庭もある。作法は家長が細かく指摘する
など緊張感のある雰囲気が漂っていた。チャブ台になって、同じ卓で家族一斉に食事をす
るのが可能にはなったが、箱膳の時とあまり変化はなかった。正座が原則で中座やトイレ
といった途中退席は戒められた。食事中の会話規制も強く、寡黙な食事風景がチャブ台で
もみられた。チャブ台から連想されるのは、家族団欒で会話を楽しみながらの食卓と思わ
れがちだが、実のところそうではないのだ。そのような食卓が実現するのはテーブルにな
ってからである。このように食卓の変化を通して家族の姿がみえてくる。食卓とは、家族
を映す鏡なのではないだろうか。

本テーマの構成

将来の食卓像を導くにあたり、過去に遡る必要がある。とりわけ戦後における社会の変
化は食卓に与える影響が大きいと考え、食卓の戦後史を辿ってみることにした。ただし、
食卓といっても家庭によって異なる。そこで、私にとって一番身近な我が家の食卓を取り
上げる。
終戦末期に生まれた祖母。第1章では、銘々膳での食事経験や結婚後の農作業と家事の
二重労働生活など貴重な体験を通じた祖母の食卓について述べる。第2章は、高度経済成
長期の真っただ中に誕生した母の食卓について。この時期は、家電製品やスーパー・加工
食品の登場によって食卓のみならず、家庭における内助の功であった女性の労働形態が変
化していった重要な時期である。第3章は、低成長・バブル期・構造不況のような経済浮
き沈みの激しい時代に生まれた私の食卓を取り上げる。食が産業として進化を遂げ、食卓
が外部化されてゆく現在を追う。この女三代の食卓を、家族構成や地位関係から食事中の
風景、献立の中身など社会の状況も交えながら考察する。そして最後に、将来の食卓がど
うなるのか以上の章を踏まえて結論を提示する。

第1章 祖母の食卓(1930年代~1960年代)

終戦末期に生まれた祖母

31年に東京・巣鴨で生まれた祖母は、ふとん屋を営む経営体の家庭で育った。家族構
成は、祖母の父・母・兄弟4人と女中や使用人を雇って暮らす大家族だった。女中や使用
人を雇えるのは、それなりに家計のよい家庭である。
3
当時、どの家庭でも一番えらいのは家長である父親で、祖母の家庭も同様だった。家長
だけが一番先にチャブ台で、次に使用人が箱膳で、最後に祖母も含めた兄弟だけで食事を
する。ふとん屋の経営を優先としていたので、食卓で家族そろって食事をする家庭ではな
かったのだ。母親に関してはいつ食べていたのか記憶にないというが、仕事や家事で忙し
かったので食事する暇はなかったのだろう。このような時差式の食卓風景で親とは別であ
ったため、食事中の姿勢や作法の指導は必然的に受けることはない。食事の献立は、一汁
三菜とよばれるご飯とみそ汁、おかずは漬物・煮物といった平素な料理が毎日繰り返し出
された。母親は忙しいので、食事係は雇い人の女中だった。

銘々膳とチャブ台の食事を経験

54年に結婚後、祖母の夫の母親がなくなったため、その父親から実家の富山に帰って
きたほしいとお願いをされ、56年に富山県・六郎丸へ移る。家族構成は、祖母にとって
義理父にあたる家長・夫・夫の兄弟5人がおり、農家を営んでいた。つまり、農作業や家
事をやってくれる女手を失ったため、祖母が必要となったということだ。
富山に行った当初は、銘々膳を使っていた。一汁三菜の料理
表1 祖母の1日 が盛られた各々専用の膳で食事をし、食べ終わったら各自棚に
5:30 起床 戻す。洗うのはせいぜい1カ月のうち2,3回。現在では非衛
6:00 炊事 生でありかなりの不潔だが、当時は洗う暇がなかったのだ。ま
た、神崎宣武氏によれば、洗い水を倹約するのが日本人に共通
7:30 食事 する生活律というものであったそうだ。そのため、食後に湯茶
7:40 片づけ、洗濯 をお椀に入れて箸先を清め、漬物でお椀についた飯粒や味噌糟
子守 を取るのが食べ物と水の尊さを体得する食事作法であったと述
9:00 農作業 べており、祖母の家庭でも上記のような作法を毎度の食後で行
なっていた。さて、銘々膳だが、こちらはしばらく使っていた
が、人数が多いために四角いチャブ台を購入して使うようにな
12:00 休憩 る。
13:00 農作業 祖母の幼い時と異なり、富山での家長は他の家族を呼び出し
て皆一緒に食事する形態をとっていた。ただし、食事後には、
農作業に出なければならないため、家族そろっても団欒という
16:30 炊事 雰囲気のように会話しながら食事を楽しむなんてことはなかっ
風呂だき た。ましてや家長の子供たちは、家長から姿勢や作法を教わる
時間さえもなかった。そのため家長は、食事を済ませるとその
19:00 食事 場を退席して足早に農作業へ向かっていったそうだ。
19:10 片づけ
風呂に入る 日々が二重労働
子守
21:00 就寝 右の表1は祖母の1日を表にしたものである。毎朝5時半頃
に起床し、炊事の準備をする。主に食材を切ったりするのは土間の水道場で行ない、煮物
などを煮る場合は土間から2、3段上がってすぐのところにある囲炉裏を使った。お米を
4
炊く時は囲炉裏の隣にある糠竈(ぬかかまど)で炊いた。これは、収穫した稲穂から脱穀
して出たもみ殻を燃料にするだけで炊ける竈である。土間には薪を燃料にした竈もあった
が、こちらは出来上がるまでに時間のかかるもの、例えば餅などを作る時だけに使用した。
スイッチ一つで炊ける自動式電気釜とは違って火を起こす、灰になったもみ殻をかき出す
作業など手間を要するものであった。
洗濯は、食事の片づけが終わった後に行なっていた。富山に行く時に買った電気洗濯機
があったのでそれを使って洗濯をした。この洗濯機は、洗いとすすぎの工程に関しては機
械がやってくれるが、脱水は手で行なわねばならない。洗濯板や手回し洗濯機に比べれば
楽ではあるが、脱水は面倒だったそうだ。
農作業に出るのは、食事の後片付けや子守を終えてから、家長より遅れていつも9時頃
だった。実際、農作業は家長と祖母のみでやっていて、家長の息子である夫がなぜやらな
かったのか。それは大工を目指していたからである。そのため、いつも食事が終わると大
工の見習いとして町へ出かけてしまっていた。頼りの主人が大工でなおかつ、農業の「の」
の字も知らないまま富山の農家に来たのでわからないことだらけだったという。栽培して
いたのは主にお米だったので、田植えから収穫までの工程を家長のお手伝いの立場で行な
った。例えば、耕す際に必要な耕運機がなかったので牛を使って牛引きをする、稲を脱穀
する際は足踏みをして脱穀をするなど現在の農作業に比べて原始的な作業をしていた。休
憩は12~13時の1時間だけ。この休憩時がとても貴重だった。そのため、昼飯はたい
がい朝の残り物で賄って炊事を省いていたそうだ。休憩が終わると、また農作業に出かけ
て夕方16時ぐらいまで働いた。雨の日以外土曜・日曜日も関係なく毎日である。
子守について。当時、祖母が生んだ子供が女3人もいた。米以外にも育てていた大根を
沢庵にするため、二女をおんぶして近くの小川でうずくまりながら何十本も洗っていた。
悪い体勢で子守をしていたのがよくなかったのか、次女は夭折してしまう。一方、三女に
あたる私の母は、祖母が農作業でいない時間によく泣いていたという。泣きすぎて涙が耳
に溜まって耳だれになってしまい、一時期言葉を交わしても返ってくるのが遅かったそう
だ。祖母の子だけではない。家長の子供たちもいるのも忘れてはならない。幼い子供7人
の食事と面倒を見ていたのだ。
夕飯の支度は、朝と同じである。ただ、農作業から帰ってきた後着替えるのが面倒だっ
たのでモンペのまま炊事の支度をしていたのを、よく主人である祖父に怒られたそうだ。
炊事の作業をしつつ、同時に風呂だきも行なった。風呂は水道場のすぐ横にあった五右衛
門風呂。かまどと一緒で、薪を使って直火で沸かす風呂だった。何せ底が深いので、小川
から水を汲んでは入れる作業を何度も行なう。2日に1度は替えていたそうだが、女性が
行なうにはとてつもないしんどい作業だ。
さて、沸かした風呂に入るのも一苦労だった。着替え場所はないので風呂の横に敷いた
むしろの上で服を脱ぐ。入る際に注意しなければならないのだ。直火なのでそのまま入る
と足などをやけどしてしまう。やけどしないよう底板を踏んで入浴しなければならない。
おまけに、入られたのはいいものの体を洗う場所もない。浸かることしかできないのだ。
風呂の順番は、家長が最初で祖母は1番最後だった。先述の通り、底が深いので幼い子供
が1人で入ったら危ない。いつも長女を脇にかかえて入っていたそうだ。

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自営業主婦と専業主婦の違い

では、祖母のような農業を営む自営業主婦は、都内に住むサラリーマン世帯の専業主婦
に対して一日の生活時間はどのように違うのか比較してみる。

図2 祖母の場合 図3 都内主婦の場

炊事,
炊事, 裁縫,
睡眠, 2.5
3.5 子守, 2.2
睡眠, 7.5 掃除,
1.5
8.5 食事, 1
育児,
1.5
洗濯, 身の 1
買い
1 回り
物,
農作 の世
食事, 1.6
業, 話な 洗濯,
休憩, 1.6
6.5 ど, 1
内職, 1
1
1
交際 教 休息,
など, 養・ 1.6
※数字は時間単位で3.5なら3 (資料出所)家事に平均九時間
1 娯楽,
朝日新聞1952年4月17日
1

家事について。祖母の場合、都内主婦よりも炊事で労力と時間を使う部分が大きいが、
農作業でお米や漬物を賄えたし、近くの豆腐屋さんが豆腐や油揚げを届けに来てくれてい
たので、買い物に関しては煮物に使う魚を買うぐらいで済んだ。また、富山に来てから電
気冷蔵庫を買ったので食材の保存も効くため、毎日買い物に出ることもなかったそうだ。
一方で都内主婦は、買い物に1時間半ほどかかっている。彼女ら専業主婦の場合、魚屋・
精肉屋・八百屋・乾物屋などといった専門店へ、一軒一軒訪ねて必要な品を購入しなけれ
ばならない。当時、スーパーというものは存在しなかったので買い物にはすごく時間がか
かった。裁縫に関して。祖母は、縫物があれば裁縫をやったそうだ。それに対して専業主
婦は、裁縫に2時間ほどかけているのはなぜか。当時、衣服が産業としては今より未発達
だった。彼女らは、家庭科の授業で培われた裁縫の技術を使ってズボンや浴衣などをつく
ったのではないだろうか。裁縫の次に高い掃除に関しては、1時間もかけている。それに
比べ祖母は、ほとんど掃除をした記憶がないという。これはおそらく住宅の違いからきて
いるのではないか。祖母の家は木造なので部屋の壁仕切りがない。開放的なので、ちりや
ほこりは勝手に外へ飛んでゆく。近隣との関係もよかったので、外へごみが出ても疎まれ
ることはない。一方、専業主婦の住む家は文化住宅とよばれる洋風で壁仕切りのある家だ。
ちりやほこりは部屋舞うので掃除の必要がでてくる。1時間もかける理由はここにある。
家事以外について。祖母は6時間半もの時間を農作業に費やしている。その分、専業主
婦は自営の時間がないので好きなことができる。図3をみると、教養・娯楽、交際など、

6
内職にそれぞれ1時間費やしている。この暇を弄ぶ2、3時間が後の「パートタイマー」
という新しい労働形態を生み出したのだ。

パートタイマーの可能性

53年、老舗デパートの夜間営業が復活し、従業員の労務管理の改善が必要となる。大
丸百貨店はアメリカに倣って日本で初めて「パートタイマー制度」の採用へ乗り出した。
“奥さま、お嬢さま、3時間のデパート勤めはいかがですか”という広告を200名採用
で打ち出した。しかし、それをはるかに超える8000名の女性たちが応募殺到した。

「パートタイムというのが流行語になった。主婦やお嬢さん方が1日2、3時間だけ働
きに出るというシャレタおとつめだが、
・・・パートタイマーがいるのは食料品の地階と1、
2階の化粧品や婦人紳士用雑貨などの売場。・・・8000近い応募者の中からえりすぐっ
た250人が昼夜にわかれ、3時間ずつ勤めているわけだが、年齢は30歳止まり。教養
も高く家庭もよいという人々だけに、売場にしっとりとしたフンイキをつくり、知合いの
お客を集めているという。」(師走に働く女性 朝日新聞 1954年12月15付)

当時、教養も高く家庭もよい女性が勤めるということは家庭が富裕層の主婦でだんなさん
からの了解もとれた女性しか勤められなかったのではないだろうか。現代でいうシロガネ
ーゼのような高級住宅街に住むいいところの奥様である。自営業主婦はもちろんのこと、
一般家庭の専業主婦ではまだパートに出られる環境は整っていないが、女性による家事を
しながらパートを行なう可能性が出てきたのだ。

第2章 母の食卓(1960年代~2000年代)

厳格な家長、食卓に張り詰める緊張感

母は生後間もない頃に富山から東京へ引っ越すことになり、1962年に中野へ居住す
る。家族構成は、母・母の父母(私からみて祖父母)・姉と弟の5人家族。当時お金がなか
ったため、始めは食卓を段ボールで代用し、食事し終わったら1階の共同水道場で洗った。
電気洗濯機と冷蔵庫を富山の家に置いてきたので、購入するまでは洗濯板を使いたらいで
洗うという何ともしんどい作業をしていた。厳しい暮らしではあったが、祖父が大工職人
として力をつけてゆくようになり、67年に練馬に土地を買って一軒家を建てる。ここで
は祖父の弟子と弟が2人居候するようになり、家族は9人になる。そこで、大人数で食事
ができる四角いチャブ台(座卓)を購入した。家長である母の父は、富山にいた頃に自分
7
の父親が召集して一斉に食事していたことを真似たのか好んでいたのか、毎日声をかけて
家族皆で食事をする形をとった。だが、食事中の作法や姿勢は厳しく、箸の持ち方など母
は注意された記憶があるという。さらに、祖父と祖母は毎日のように痴話喧嘩がしており、
その緊張感から兄弟や弟子同士で話すはまったく許されない雰囲気だったそうだ。それほ
ど厳格な食卓であり、祖父は家長色のとても強い人だったことがうかがえる。

家電製品は主婦にとって救世主

高度経済成長期は大量生産・大量消費時代の渦中にあった。特に都市世帯の消費支出で
家電製品に対する1年間の割合が6割も増えたとされる。53年は電化元年と言われ、こ
の頃から耐久消費財である電気洗濯機・電気冷蔵庫・電気掃除機は「三種の神器」といわ
れた。サラリーマン世帯の主婦にとって高嶺の花であり、発売当初は富裕層の家庭しか手
に買えない地位の象徴でもあった。46年から週刊朝日や朝日新聞に連載されたチック・
ヤング作『ブロンディ』という漫画がある。主人公は専業主婦のブロンディ、夫でサラリ
ーマンとのダウグッドとの生活が4コマ漫画で描かれている。その生活は、冷蔵庫・洗濯
機・掃除機・トースターなどの家庭電化製品に囲まれたアメリカ文化であり、当時の専業
主婦たちにとってブロンディの生活は憧れの風景であった。

図4 主要耐久消費財の世帯普及率の推移
100
90
80
普 70
及 60 電気冷蔵庫

率 50
電気洗濯機
40


30 電気掃除機
20
10
0
1957 1960 1963 1964 1970 1975 1985 1995

(資料出所)社会実情データ図録より一部抜粋して作成

上の図4は、当時流行となった家電製品の世帯普及率を表したものだ。発売当初、30%
も満たない水準であったが、1970年には電気冷蔵庫と電気洗濯機が90%に到達する。
これは、専業主婦が家事からの解放欲求から購入が増えたこと、高度経済成長にともに購
買力があらゆる家庭に備わってきたこと、後に述べるスーパーによる安売り戦略が、メー
カーより小売がモノ申す立場の逆転を巻き起こしたことなどが理由として挙げられる。母
の家でも、練馬に来てから電気洗濯機と電気冷蔵庫を購入した。洗濯機は富山で使ってい
たものと違って、脱水機能がついていたのでずいぶんと楽になった。冷蔵庫は、2ドア式
で上のドアにブロック氷が入ったものを買った。食材の買い置きができるので、買い物は
8
やはり毎日する必要はなかった。
家事の軽減はこれだけではない。自動式電気釜と電気掃除機も大いに貢献したであろう。
自動式電気釜は、東芝の協力会社である㈱光伸社の三並義忠社長が発明したものである。
X線で結晶構造を示す生澱粉=β澱粉(消化しにくい)を、加熱によって分解したのり状
澱粉=α澱粉(消化吸収がよい)にするには、98℃位の温度を20分ほど続けることで
釜全体の米がα澱粉化しておいしいご飯が炊けることに気づいた。その後も試行錯誤を繰
り返して、彼は「三重釜間接炊き」という方法を編み出す。水の蒸発をタイマー代わりに
応用したもので、洗った米にコップ一杯の水を入れてスイッチを押すだけで炊ける炊飯器
が誕生する。55年の発売当初は、家電販売店がこの炊飯器を疑って商売の相手にしなか
った。そのため、電力会社の販売網を開拓する、農村から都市の消費者が直接集まるデパ
ートで実演販売を行うなどの苦労があった。結果、4年後には全家庭の約半数にまで普及
し、総生産台数も1235万台を記録した。母の家では68年に自動式電気釜を購入する。
富山にいた頃に使っていた糠竈とは違って、水が蒸発したかどうか見張る必要もなく、ピ
ピピっと音が鳴ればお米が炊けた合図を自動でしてくれるのでとても画期的であった。一
方の電気掃除機は31年に東芝が発売したが、日本における在来住宅の床は畳と板間であ
ったので、電気掃除機よりもほうきの方が使い勝手がよく、電気式への需要はまったくな
かった。後に述べる団地の登場によって洋室が取り入れられ、なおかつ絨毯が流行になっ
たことから75年に90%を超える。

買い物に革命が起こる

母の家から10分ほど歩いたところに西友がある。家事を行う祖母は、西友ができるま
では近所の商店街で魚は魚屋、青果は八百屋へと一軒ごとに買い物をしていた。やがて西
友が出来たことで自然とそちらへ足が向くようになったという。
スーパーの登場は買い物の仕方を大きく変えた。53年、㈱紀伊国屋はお客が自ら商品
を選び、1ヶ所のレジスターで清算する日本初のセルフサービス・スーパーを東京・青山
に開店させた。さらに、セルフサービスに欠かせないショッピングカートを導入したのも
このスーパーが最初であった。57年には「主婦の店ダイエー」がオープンする。元々薬
局を営んでいた創業者の中内功が、食料品も扱うお店にしてから経営が軌道に乗る。神戸
の三宮店では衣料品も取り入れたことでお客に爆発的な人気を呼び、この店はダイエーの
ドル箱となった。ダイエーに対抗して、イトーヨーカドー・西友、サミット、マルエツ、
ジャスコなどの有名スーパーが次々と誕生するのだ。このセルフサービスは、ワンストッ
プショッピング化という1つの場所だけで買い物ができて、多くの用を1度で済ませられ
る時間と手間の節約を生み出した。祖母がスーパーへ行くようになったのもうなずける。
現在、その商店街は明るさを失い衰退しているのを見ると、スーパーの存在がどれだけ商
店街に影響を与えたのか彷彿とさせる。
さらに、スーパーは便利さだけでなく、安売りを通してメーカーにモノ申す存在となっ
9
てゆく。65年、花王石鹸が再販商品を安く売ったとしてダイエーへの出荷停止をした。
逆に、67年にはダイエーが松下電器を独禁法違反で公正取引委員会に訴えた事件もある。
メーカー側と小売側との価値観の不一致が起こり、長年にわたり流通冷戦が続いた。一方、
主婦にとってはメーカーの小売価格希望よりも安く売ってくれるスーパーがとてもありが
たい。家電製品の購入が増加したのも、スーパーの安売り戦略が起因していると考えられ
る。

加工食品の登場

高度経済成長期の時代は、食自体も大きく変化を迎えた。特に加工食品の登場は、私た
ちの食事を豊かにさせた。まず、58年に発売された即席ラーメンの元祖チキンラーメン。
これは日本独自の発明で、安藤百福氏が自宅の作業小屋で苦労の末に編み出した魔法のラ
ーメンである。彼はいくつかの事業に失敗し、財産を全て失う。1からやり直すには、原
点である食に回帰する必要があると考え、終戦初期の闇市で食べた一杯のラーメンを思い
出す。これをきっかけに5つの目標が叶うラーメンを開発しようと試み、事業を起こす。
それが現在の㈱日清食品である。5つの目標とは、①おいしい、②簡単に調理できる、③
常温で長期間保存できる、④手頃な価格、⑤衛生的で安全。彼は48歳になった58年に
開発を成功し商品化させ、インスタントラーメンにおいて世界初開発という功績を成し遂
げる。その後は、様々な食品メーカーからインスタント食品が開発されて世に出回るよう
になる。
インスタントラーメンは、母はあまり食べなかったそうだが、次に述べるレトルト食品
はよく食べたそうだ。母が学校から帰ると、夕飯までの間おなかが空く。そこでいつも祖
母はボンカレーを用意した。これは、正式名レトルトパウチ食品といって、常温でも腐ら
ずに長期間保存ができる加工食品である。68年に大塚食品工業が「一流レストランの味
を家庭に届ける」をキャッチフレーズに発売した。鍋にお湯を入れて、3分温めれば出来
上がる手間のいらない、洋食のなかでもカレーはごちそうであったため、瞬く間に家庭へ
浸透していった。よく食べていたのも当時流行りから来ているのだろう。

団地の登場で、テーブル式食卓が当たり前に

81年になると、すぐ近所のところへ再び引っ越す。最初はチャブ台を使用していたの
だが、この家に来てようやっとテーブルが登場する。図1(2ページ)からわかるように、
団地の登場がテーブルの浸透を加速させたといえる。
56年に戦前の住宅営団から引き継がれた日本住宅公団は、都市部のサラリーマン世帯
を対象とした鉄筋コンクリート製の2DK型集合住宅を供給する。従来のチャブ台家庭で
は、食事場をお茶の間といってチャブ台を退かせば、寝床になった。折りたためて運べる
というチャブ台の便宜性が備わっていたためだ。一方、公団は、寝室を別に設けて6畳程
10
度の食事場(ダイニング)と台所(キッチン)を一緒にした様式を採用した。これは、公
団側の予算の関係のためにやむなく台所での食事をするスタイルになった。実際、食堂に
はテーブルのみが備え付けられ、イスは各家庭で購入してもらう。いわゆるダイニングキ
ッチンの誕生で「食寝分離」という概念を生み出した。台所の流し台は㈱サンウェーブの
ステンレス製流し台が取り付けられた。蛇口をひねれば簡単に出る水道・キラキラ光る流
し台は、主婦にとって家事部門の炊事を軽やかで楽しいものに変えた。①昔の台所とは異な
る大きな変化であった。母の家の最寄り駅は西武池袋線・大泉学園で、その2駅先にひば
りヶ丘駅がある。ここには59年に、公団最大のひばりヶ丘団地が建設された。この団地
には、学校・緑地公園・野球場・テニスコート・市役所出張所・スーパー(平屋タイプの
西友)なども敷地内に設置されていた。まさに、日々の暮らしは団地内部で完結できるも
のであったといえる。
このように、テーブルで食卓を囲む生活は団地に住むサラリーマン世帯の家庭が圧倒的
であったので、まず都市部において普及し、農村部の家庭へはその後であった。だが、都
市部に住んでいた母の家では団地の登場から15年ほどたってようやくテーブルが取り入
れられた。各家庭により差はあったとしても、長い月日を感じる。テーブルは台所のすぐ
真横に置かれた。しかし、実際に使われたのは朝食時のみであった。昼や夕方は座卓とい
われる四角いチャブ台を使っていたそうで、後になるとテーブルは一切食卓で使わなくな
った。これは祖父が流行だからテーブルを取り入れてみたはものの、やはり西洋のものは
好まなかったことが原因だそうだ。

大家族から核家族に

83年に、母は結婚する。すると、今までの家族構成は大きく変化する。夫である父と
母の2人のみになり、子供の頃の9人家族のような大家族ではなくなってしまう。86年
には私が生まれ、我が家は核家族世帯となる。核家族とは夫婦とその未婚の子女からなる
形態であり、産業社会が生み出した新しい家族の形である。大家族の家庭は、生産と消費
の場であったが、工業化により消費のみの場と化した。母が富山にいた時は農業を営んで
いたので、まさに生産と消費の家庭であった。やがて、母が結婚して所帯を持つ。父はデ
パートへ勤め、母は一時期ではあるが、専業主婦をしながら私を育てる生活を送るように
なる。
戦前の殖産興業政策もそうだが、やはり戦後の傾斜生産方式政策や朝鮮戦争といった社
会情勢が、工業化への過剰投資をもたらしたと考えられる。人々は50年代以降、②高い収
益を求めて農業から工業へ目を向けてゆく。工業地帯は主に京浜・中京・阪神・北九州の
大都市にできるため、地方にいる労働者は近くに住んで通勤するのが都合がよい。夫は妻
と子を連れて都市に移動し、人口集中が生まれる。このような経緯のもとで、工業化は核
家族化を引き起こした。都市には核家族世帯が増えてゆき、農村には残された爺さんや婆
さんだけの過疎化現象が生まれる。
11
専業主婦から兼業主婦へ

図3(6ページ)より洗濯・掃除については、先に述べた家電製品の登場によって各1
時間かかっていた時間は大きく省力化に貢献した。買い物についてはスーパーの登場はも
ちろんだが、電機冷蔵庫の存在によって物が日持ちする保存性が得られたのでまとめ買い
ができ、毎日買い物に行く必要がなくなった。結果、従来では休息・教養娯楽・交際など
が2~3時間しかとれなかったのが、さらに時間がとれるようになる。ここで2つの記事
を見てもらいたい。

「ソニー厚木工場の従業員は2000余人。そのうち1700人の女性がトランジスタを
製造している。女性の手先の器用さが必要とされる仕事だ。この1700人のうち、3分
の1以上の600人が家庭婦人のパートタイマー。・・・「家庭電化などで主婦が時間的に
楽になる。子どもにも、そんなに手がかからない。そうなると、テレビをながめて過ごす
より、家庭を破壊しない程度に、収入のある仕事を持った方がいいんじゃないですか。そ
ういう傾向は欧米ではかなり強いそうですよ。」(主婦のパートタイマー工場長の言葉 朝
日新聞1966年2月16日付)

「渋谷職安は、同職安が扱った主婦のパートタイマー349人の実態を昨年11月アンケ
ート調査し、その結果をこのほどまとめた。それによるとまず、主婦の働く動機は『余暇
がありすぎるから』31%でもっとも多く、次が『子どもの教育費』23%、『社会と接触
したい』21%の順で、
『家計不足のため』7%、2、30代の婦人にこの傾向が目立つ。」
(奥様はご退屈 朝日新聞1969年2月12日付)

以上の記事からわかるように、パートへ出られる可能性が高い富裕層の奥様だけに限定さ
れていたのが、一般家庭の専業主婦もパートへ出られるようになる。実際、祖母は東京に
来てから専業主婦になったので、富山の頃と比べ時間の余裕ができた。そのため、祖父が
大工仕事へ、子供たちが学校へ出かけている間、幼稚園の給食をつくるパートに出かけて
いたそうだ。母も同様に、私が3歳未満の時以外はパートに勤めていた。図5をみると、
60年から75年にかけて、専業主婦数に平行して働く女性数が増えている。やがて前者
は、75年以降次第に減少してゆくが、後者はぐんぐん増加して85年を機にその数は逆
転する。家事の省力化で余暇ができた。その時間、テレビで暇をつぶすのもどうなのか。
そんな時間をパート労働で有意義に使う。結果、女性の社会進出が進んで兼業主婦が専業
主婦を上回る数になる。現在では、女性が高校や大学を卒業すると、結婚して専業主婦に
ならず、就職するのが当たり前の時代になってきている。女性も男性と肩を並べて働くの
が当たり前になってきたのは家事労働からの解放に他ならない。

12
万 図5 働く女性と専業主婦数

2000

1500

1000

500


家事専業者 女子雇用者
(資料出所)末包房子『専業主婦が消える』より

第3章 私の食卓(1980年代~2000年代)

家族団欒の食卓へ


図6 食事中の会話
90
80
70
60
50
40
30
20
10
0
会話は厳禁 話してもよい
箱膳ライフ チャブ台ライフ テ
(資料出所)石毛、前掲書、図25一部抜

私が生まれた頃には既に核家族世帯だったので当然ではあるのだが、毎日大人数の家族
で食事をする経験をしたことがない。テーブルで、父・母・私の3人がイスに腰かけて時
折おしゃべりをしながら食事をする食卓だ。図6より、箱膳の時は、食事中の会話厳禁が
80%を超えており、会話規制がかなり強い。祖母の食卓を想起してもらえればよい。チ
ャブ台になってから話してもよいが40%に近づくが、母の食卓では家長色の強い祖父が
いたので会話規制は解かれていない。ようやく私の食卓になっておしゃべり解禁となるの
だ。
父は祖父のような家長色を持った人ではなく温厚な性格だったので、食事中も怒られた
13
記憶がない。一方で、母は食事中のしつけがとても厳しかった。イスで食事していると「背
筋を伸ばして!」、テレビを見ながら食べていると「テレビばっかり見てないで早く食べな
さい!」、食べている最中も「口は閉じて食べなさい!」と食べ方や姿勢に関してよく注意
された。また、箸の持ち方も厳しく、小学生の時に訓練をしてもらい正しい持ち方ができ
るようになった。これはやはり、祖父から受けたしつけは私にも移ったのだろう。図7の
ように箱膳・

% 図7 食事中の話題提供者
70
60
50
40
30 箱膳ラ

20 チャブ

10 テーブ

0
父 母 子供
(資料出所)出典は図6と同じ

チャブ台ライフでは食卓の主役だった父親の家長色は弱まってゆき、テーブルライフにな
っては逆に、母親や子供の存在感が強くなる。家族がテーブルに集まってイスに座り、今
日の出来事や学校のことなど話しながら食事をする。これがいわゆる家族団欒の到来であ
る。家族団欒というとチャブ台の時からと思われがちだが、これはサザエさんやちびまる
こちゃんのテレビアニメの影響が強いだろう。チャブ台の全盛期だった大正から昭和にか
けての食卓は決して家族団欒の食事風景ではなかった家庭がほとんどである。

冷凍食品の誕生とそれが発展する理由

現在、我が家にある冷蔵庫は、5ドア氷室付き400ℓの冷凍冷蔵庫である。一番下のド
アを開けると、㈱ニッスイ「若鶏のから揚げ」・「コーンクリームコロッケ」㈱加ト吉「ホ
ットサラダミックス」など様々な冷凍食品が入っている。これらはお昼のお弁当のおかず
に入れる時やちょっと小腹が空いた時に利用しており、おそらく他の家庭の冷凍室にも必
ずといっていいほど、冷凍食品が入っているだろう。
日本で初めて冷凍した食品は、アメリカから特許受けたイチゴ。1935年に、一般消
費者向けに家庭冷魚が販売されて、さらに冷凍果実・野菜が生産される。だが、後に陸海
軍の軍需物資に取り上げられてしまい、これらは産業給食の分野で利用される。冷凍食品
はまず、業務用として発展してゆくのだ。一方の家庭用食品は48年に、㈱ニチレイが東
14
京・日本橋の白木屋デパート(現東横百貨店)で調理された冷凍食品が売られ、52年に
は渋谷の東横百貨店で日本初の冷凍食品売り場が開設される。だが、マスコミや一般家庭
にはまだ浸透していなかった。きっかけは、先述のダイエー三宮店で冷凍オープンショー
ケースの売り場を設置したこと。やがて他のスーパーも模倣するように設置して、あらゆ
る家庭の主婦が冷凍食品を買う機会を得る。
さて、ここで以下の図を見てもらいたい。

図8 電気冷蔵庫と電子レンジの家庭への普及率と、家庭用
冷凍食品生産量の推移
100 40
90 家
35 庭
80
30 用
普 70 冷
及 60 25

率 50 20 食
品 家庭用冷凍食品生産量
40 15

% 生
30 電気冷蔵庫
10 産
20 電子レンジ
5 量 (
10
0 0 万
1960 65 70 75 80 85 90 95 ト

年 ン

(資料出所)食糧栄養調査会 1999より

折れ線グラフは電機冷蔵庫と電子レンジの普及率を表しており、棒グラフは家庭用冷凍食
品の生産量を表している。1965年に冷凍室と冷蔵室を分けた2ドア式の冷凍冷蔵庫が
発売され、70年代以降、家庭で1ドア式から2ドア式への買い替えが進む。我が家では、
父が元々所有していたので結婚後もそれを使うことになる。グラフを見ると冷凍冷蔵庫の
普及と連動して、家庭用冷凍食品の生産量が70年代以降、増加してゆくのがわかる。一
方の電子レンジも61年に発売された業務用が始まりであった。キャッチフレーズは「夢
の調理器」「台所の革命児」で、食堂やレストランで広く利用される。そして65年には家
庭用電子レンジが登場する。レンジが我が家に来たのは、母の結婚後に祖母から贈られた
..
ものだった。電子レンジの普及よって、レンジでのみ調理可能な「電子レンジ専用食品」
..
とレンジでも調理可能な「電子レンジ対応食品」の2種類が出回る。前者は消費者が求め
る品質と価格に対して十分に応えうるものが少なかったそうで市場から姿を消すが、後者
は冷凍おにぎりやピラフなど米飯類を主力商品として売上を伸ばしている。電子レンジの
普及率が50%を超えるのは90年代になってからだが、レンジの登場は冷凍食品の生産
量をさらに増加されたことは間違いないだろう。
冷凍食品の特質は、保存が効くのはもちろんのこと、マイナス18℃以下では微生物が
活動できない状態のため、衛生的に保つことができる。また、防腐剤を使用する必要もな
い。主婦の視点からいうとまとめ買いができて、使用する際も下ごしらえがしてあるので
15
調理作業が簡単である。つまり省力性も備えているのだ。さらに、品質の最良なものを大
量に収穫して最安価で旬な時期に冷凍加工する。冷凍は一年かけて行なうのでその間は価
格が変動しない。このように様々な特質を持ち合わせた食品なので、未だに市場において
人気を帯びている。

食卓の場が外へ

今はどこへ出かけても、必ず見つかるレストランや居酒屋。そのような場所へ出かけて
家族が食事するのは当たり前になっている。だが、昔は外食するのは特別なことであった。
柳田國男によれば、外食は儀礼や祭りのような年中行事と同じ「非日常」の出来事で“ハ
レ”の日といった。一方、「日常」のことを“ケ”の日という。③外食が産業として目覚ま
しい発展を遂げる高度経済成長期より以前は、人々にとってハレの食事は贅沢なごちそう
であった。
企業経営による産業として注目を浴びるのは、70年代からである。そのきっかけは、
69年に実施された第二次外国資本自由化政策。飲食業における外資との合併が可能にな
り、外国資本と提携したファミリーレストラン(以下ファミレス)の進出が70年代に集
中する。ファミレスの元祖といえば、「すかいらーく」ではないだろうか。すかいらーくの
由来は、ひばりが丘団地で横川4兄弟がスーパー「ことぶき食品」を設立した際、ひばり
の英語名をとってつけられたそうだ。地域に根差した食品スーパーとして経営は軌道に乗
っていったが、駐車場を完備した大型スーパー「西友」が脅威となって経営が悪化する。
そこでレストラン事業への転換を。その背景には、車を手に入れることで出かける範囲が
広くなり、休日は家族で旅行やテーマパークに出かける。そのような家族層をターゲット
に、郊外にハレの日の食卓を作り上げようとしたのではないだろうか。実際に、すかいら
ーく第1号店は東京・国立市の郊外に開店した。一方、ファミレスに対してファーストフ
ードはちょっと違った。70年7月には、三菱商事㈱とケンタッキー(以下KFC)コー
ポレーションとの折半出資による日本ケンタッキーフライドチキン㈱が設立される。実は、
その4か月前の3月に大阪で万国博覧会が開かれた際、KFCインターナショナルがレス
トラン街に実験でお店を出した。これが大盛況で1日に280万円の売上を記録したこと
をきっかけに、KFCの日本進出に結びついた。1号店は名古屋市郊外に出店されるが、
翌年からは郊外ではなく、都心にお店を出している。同様に日本マクドナルド㈱も、第1
号店を東京・銀座に出店する際に、創業者のアメリカ・マクドナルドから猛烈な反発を受
けた。それを押しのけて出店してしまうのだが、銀座という非日常空間にハンバーガー店
は当たり、宣伝効果としても高い場所として世間やマスコミの話題をさらった。こうした
企業は急速にお店を増やしてゆくが、最初から多店舗化・④チェーン展開を目論んでいたの
だ。

16

図9 外食率の推移
45
43
41
39
37
35
33
31
29
27
25
1975
1980
1985
1986
1987
1988
1989
1990
1991
1992
1993
1994
1995
1996
1997
1998
1999
2000
2001
2002
2003
2004
2005
(資料出所)(財)外食産業総合調査研究センター統計資料より

59年生まれの母は、子供の頃に外食することはめったになかった。あるとしても年に
数回ほどの家族旅行の時か、用事でデパートへ親と一緒に行く時ぐらいだった。やがて7
0年代以降、様々な企業による外食店が矢継ぎ早に誕生し、10年後の80年には30%
を超える外食率となった。86年に私が生まれてからは、どこかへ家族で出かけた際に外
食をするようになり、90年には41.2%になる。その後の推移は40%台に留まった
ままの傾向ではあるが、外食の利用が半数近くを占めており、既に“ハレの食事”ではな
くなっていることが上の図から読み取れる。

個食化(孤食化)現象

私が小学生の頃、すぐ近くにセブンイレブンがあった。父母ともに仕事へ出かけている
休みの日は、お弁当を買って家にもって帰って1人で食べた。このように1人で食事をす
ることを個食という。この言葉は90年代から、家族団欒が失われつつあることを憂う延
長で使用されるようになった。疋田正博氏によればこの個食化現象は、第三次産業の移行
と関係があるという。サービス業は24時間の就業体制をもたらし、社会全体が時間的秩
序を共有することが困難になった。さらに、通勤通学圏の拡大が通うまでの長時間化を生
み、家族が食卓に集うことも難しくなった。結果、バラバラに食べる「孤食」という現象
が生まれた。また、ファーストフード店やコンビニに行ってお金を支払えば簡単に手に入
る食事のように、サービス業自体の発展が個食化に拍車をかけたことも事実である。
さらに、子供の塾通いの影響も大きい。私も中学になると友達の影響で塾に通うように
なり、帰りはいつも10時であった。夜は1人で食事をすることが多かったので、家族そ
ろって食事をした記憶がない。家族で食卓を囲んだのは朝ぐらいであろうか。このように
子供までも多忙になれば、家族でそろう食卓など実現するはずもない。個食化は、食卓に
17
おける問題の1つといえる。

中食の存在

外食に対して、家で調理して食事することを内食(うちしょく)という。日本では古く
から続いてきた当たり前の食事方法である。近年、この中間をとった中食(なかしょく)
が食品産業の1つとして発展してきている。中食とは、スーパーやコンビニなどで売って
いる、例えばお弁当やサンドイッチを買って家庭や職場に持ち帰って食べるテイクアウト
式の食事を指す。だが、学者によっては外食の一部と考える者もいるので、確立した定義
はない。私が現在アルバイトをしているお肉屋は、デパートの地下に入った店の1つであ
る。そう、この“デパ地下”という言葉が2000年頃からテレビや雑誌で使われるよう
になる。鮮魚・精肉・青果のような生鮮食品以外に、揚げ物・サラダ・焼き鳥・餃子・し
ゅうまいなど出来合いの惣菜を売るお店がズラリと勢ぞろいしており、中食産業の発達に
貢献している。では、なぜ中食が産業として発達してきたのか。要因は2つ挙げられる。
1つは、私たちの食べるものが急激に変化したこと。


図10 1人あたりの食料供給量
350

300 米
肉類
250
野菜
200
小麦
150 魚介類

100 果実
いも類
50
豆類
0 牛乳及び乳製品
1960 1965 1970 1975 1980 1985 1990 1995 2000 2005 2007 油脂
(資料出所)農林水産省『食料供給表』平成19年度版

1960年では300グラムほど消費していた米の消費量が、2007年には167グラ
ムの半分までに減少している。これに対して肉類・油脂の消費は拡大傾向にあり、特に牛
乳及び乳製品の増加は顕著である。この変化によって、家庭では洋食や中華料理が日常的
に作られる。祖母の頃にみられる一汁三菜では、副食はたくわんや魚の煮物といった質素
なおかずが毎日で、ご飯・汁もの・漬物以外はおかわりをしなかった。各自取り分けられ
た一定量の副食で食事を済ませたのだ。それがテーブルになって、おかずの種類や量が増
加し、大皿や大鉢に盛って好きなだけ直箸でとる配膳方法に変わった。
18
もう1つは、女性による炊事の手抜き。女性の社会進出が進み、労働に励むほど炊事を
することがおっくうになるのではないだろうか。図11では、主婦にとって炊事が最も負

% 図11 主婦が生活で負担に感じること
35
30
25
20
15
10
5
0
食事の後片付け

親戚づきあい

仕事

ゴミ出し
洗濯
炊事

掃除

買い物

育児

介護

その他
(資料出所)田村眞八郎他編『講座食の文化 食のゆくえ』P43図5より

担に感じる家事であることがわかる。専業主婦よりも働きに出て家事も行なう兼業主婦な
ら特に、中食の存在はとてもありがたいことだろう。以上から、副食がメインの食事へと
変化してその副食を出来合いのもので済ませようという主婦のニーズが、中食が産業とし
て発達した要因であると考える。

まとめ

19
<参考文献>
石毛直道『食卓文明論』
(中公叢書、2005年4月)
杉田浩一責任編集『講座・食の文化・調理とたべもの・第3巻』
(味の素食の文化センター、
1999年)
山口昌伴責任編集『講座・食の文化・家庭の食事空間・第4巻』
(味の素食の文化センター、
1999年)
井上忠司責任編集『講座・食の文化・食の情報化・第5巻』(味の素食の文化センター、1
999年)
飯田哲也『現代日本家族論』(学文社、1996年)
南博、社会心理研究所編『日本人の生活文化事典』(勁草書房、1983年)
山口貴久男『戦後にみる食の文化史 第2版』
(三嶺書房、1986年)
中川博『食の戦後史』(明石書店、1995年)
小山周三・外川洋子『デパート・スーパー(産業の昭和社会史7)』(日本経済評論社、1
992年)
大島卓・山岡茂樹『自動車(産業の昭和社会史11)』(日本経済評論社、1987年)
名和太郎『ダイエーのすべて:巨大小売集団のサバイバル戦略』(国際商業出版、1983
年)
末包房子『専業主婦が消える』(同友館、1994年)
比佐勤『冷凍食品入門/改定新版』
(日本食糧新聞社、1998年)
榎本敏樹『レトルト食品入門』(日本食糧新聞社、2001年)
朝日新聞be編集部・編『サザエさんをさがして』(朝日新聞出版、2008年)
湯本貴和編『食卓から地球環境がみえる:食と農の持続可能性』(昭和堂、2008年3月
31日)

<資料出所>
http://www.e-kinokuniya.com/紀ノ国屋の歴史/(紀伊国屋・ホームページ)
http://www.boncurry.jp/history/(大塚食品・ホームページ)
http://kagakukan.toshiba.co.jp/history/1goki.html(東芝・ホームページ)
http://danchi100k.com/file0002/index.html(公団ひばりヶ丘団地・ホームページ)
http://japan.kfc.co.jp/outline/history.html(ケンタッキー・ホームページ)
http://www.sej.co.jp/corp/company/enkaku.html(セブンイレブンジャパン・ホームページ)
http://www.lawson.co.jp/company/corporate/history.html(ローソン・ホームページ)

20
①台所に必要不可欠な要素である「火」と「水」
。日本の伝統的民家は、大黒柱を軸に床敷
きの部位と土間の部位が結合した形態を取っていた。床敷きの中央には囲炉裏が設けられ
自在駒に鍋をつるして煮沸をし、土間では竈(かまど)を使って釜飯を炊くという「火」
を使った調理を、女たちは長い間行なってきた。ちなみに、土間の奥の奥には味噌部屋と
精米・製粉の臼が揃う板の間(臼庭)があった。私たちの先祖は、自給型・保存食加工を
主軸とした食事をしていた。やがて瓦斯(ガス)と電気の登場によって、火は自動化する。
一方は「水」は、水道が未発達の時代、台所内に備えた井戸だけでなく、家から離れた湧
水や流水からも水を汲みあげ、桶やバケツで台所の水場まで運んでいた。これは女性にと
ってかなりの重労働であろう。また、汲んだ水を貯えるのに使用した甕(かめ)は土間に
据え置かれた。一般的に1日か2日分の使用量に合わせて3斗入り・5斗入り(1斗約1
8リットル)の甕を、少人数の家庭では1斗半入り・2斗入りの甕が使われていた。さて、
水道の発達はというと、明治時代に入って西洋の近代的文化が導入されて以降である。公
衆衛生の確保のため、都市部を中心に上水道の敷設が行なわれた。大正時代には水道はガ
スとともに普及し、このような水仕事の設備変化はチャブ台普及の要因の一つともなった。
だが、当初は屋外に水道柱を立てて蛇口をつけたものであり、屋内は、戦後の神武景気を
迎えてから台所の流しに水道が引かれるようになる。全国の水道普及率が1956年で3
7.7%だったのが、1972年には80.8%まで達する。

②ペティ=クラークの法則 農業・製造業・商業の順に収益が高まるという W.ペティの認


識を C.G.クラークが国際比較と時系列比較とで統計的に実証し、国民所得の増大につれ
て産業構造の比重が第1次、第2次、やがて第3次にシフトすることを示したもの

③日本における外食施設は、旅籠と茶屋(茶店)から始まる。15世紀末には「旅宿ノ食」
を旅籠といい、街路と主要な都市から発達した。江戸時代初期では、旅籠の食事は粗末な
ものであったそうだが、やがて楽しみのための食事が求められるようになる。この系譜を
ひいているのが、今日における料理旅館である。一方の茶屋は、16世紀に街道や宿場は
ずれに立場茶屋ができて、餅・酒・さかなを売るようになり、17世紀には、都市の社寺
の門前町や盛り場に水茶屋が発達する。江戸時代が一番の繁栄期であり、末期にはそば屋
だけで3700軒以上あった。このような外食文化が栄えたのは、特定の領主の管轄下に
所属せず、封建制から自由な都市であった京・大阪・江戸である。特に近世の江戸時代は
貨幣経済システムが都市に浸透し、町人の実力が発揮される時代となった。だが、町人た
ちはあくまで個人経営でお店を出しており、企業経営によるものではなかった。

④チェーン経営とは、統一メニュー・同一価格・同質のサービスを提供することを条件とす
る。銀座のマクドナルドで食べるハンバーガーと新宿で食べるハンバーガーで味や値段が
同じなのは、チェーン店だからだ。さらに多店舗へ配送する際、同質で大量のハンバーガ
ーが必要になる。そこで、セントラルキッチンと呼ばれる製造加工から配送まで行なう大
きな台所が登場する。たとえば、すかいらーくは現在、10ヵ所の自社工場を所有してい
る。製造や調理を大きな機械と従業員で行ない、出来上がったものが店舗に配送される。
店舗では鉄板やオーブンで簡単に焼くことができ、すぐにお客様に料理を提供できる。ま
さにスピーディーな食事の提供である。

21
小林陽子 エネルギー資源をめぐる世界の動向
――中東地域とアメリカのエネルギー戦略を通して
目次
序章・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1

第1章 ピークオイル論とアメリカの対外戦略・・・・・・・・・・・・・・・6
1.ピークオイル論 6
2.中東石油資源の重要性 8
3.サウジアラビアの体制維持とアメリカの関わり方 10
4.湾岸戦争~アメリカの「平和のため」の軍事介入、「テロとの戦い」 12

第2章 カスピ海をめぐる争い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
1.カスピ海 17
2.BTC パイプライン 19
3.ロシア対アメリカ 第二次グレートゲーム 19

第3章 メジャーと産油国の資源ナショナリズム・・・・・・・・・・・・・・22
1.メジャー 22
2.産油国での資源ナショナリズムの高まり 22
3.メジャーと国営石油会社の新戦略 23

第4章 日本の石油産業・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・25
1.日本の現状 25
2.外国での日本の石油利権 25
3.日本石油産業の今後の期待 26

第5章 まとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・27

1
序章
原油価格は2004年以降大幅な変動を伴って高騰を続け、ニューヨーク商品取引所で
の原油先物価格は2008年7月11日の取引時間中に147.27米ドル/バレルの史
上最高値を記録した。その後9月の金融危機を契機に12月には30ドル台前半まで急落
した(2009年4月末時点)。1 中国やインドなどの新興国の需要増加、追加供給力の
乏しい世界の石油産業の構造問題、原油の供給に影響を及ぼす可能性がある国際的な政治
問題などが複合して起きたとされる。2 2008 年 10 月~12 月発券分の欧米線の燃油サーチ
ャージは往復 66,000 円まで値上がりしたり3、日本でもガソリン価格が高騰し、2008
年3月31日の暫定税率の期限切れにより、値下げを見越した客がガソリンスタンド殺到
して長蛇の列ができたというニュースも記憶に新しい。この様に世界の石油動向が私たち
の日常生活に及ぼす影響は非常に大きいといえる。
今日、世界経済において、石油ほど広範囲に用いられているエネルギー源は他にはない。
各種工業用原料、建築資材、合成化学製品、食品化合物などの原材料としても使用され、
石油はきわめて重要な位置にあることは言うまでもない。また、発電、暖房、交通、運輸
用エネルギーなど幅広く利用され、農業でさえ大量の化学肥料を投入していることから、
「石油化学産業の一分野」と言われる。4 20世紀末時点で、石油は世界エネルギー消費
の約39%を占めるのに対し、それに次ぐ石炭はわずか24パーセント、天然ガスは22%、
原子力6%、残り9%は水力、薪などの「伝統的」燃料だ。5 エコブームや地球温暖化防
止の観点から、燃料電池車やソーラー発電システムなどの使用により、石油からの脱却が
試みられているが、確実に石油に取って代わるものがあれば別だが、これら代替品は試行
錯誤の途上にあり、石油に使用を大幅に減らすほど広く一般で使用されるには至っていな
い。
最近世界で起こった紛争を見ると、その原因は文明の相違やアイデンティティの問題で
はなく、資源こそが現代の紛争のおおもとにある。例えばアンゴラとシエラレオネのダイ
ヤモンド、コンゴの金と銅、ボルネオやカンボジアでは木材が原因だった。6 現代の工業
社会の維持には多くの資源が必要だが、その供給に危険が及んだ場合に武力が行使される
のは、国家の安全保障に決定的重要性を持つと見なされる資源だけである。そして石油は
特に度重なる紛争の原因となる事が多かった。
石油は軍事面でも常に重要な役割を果たし、かつてアメリカ、ロシアがヨーロッパ列強、
つまりイギリス、フランス、ドイツといった大国を出し抜いて、新興の大国として成長し
ていったのは、単に国土が広いというだけでなく、いち早く主要エネルギーを石炭から石
油に転換した事に因るところが大きい。
また、20世紀初頭にディーゼル動力式の軍艦が登場して以来、石油を動力源とする兵
器が戦況を左右するようになり、第一次世界大戦では自国の領土内に大きな油田を待たな
いヨーロッパ諸列強がヨーロッパから地理的に最も近く、最も多くの石油埋蔵量が多いと
されていた中東の支配権をめぐって対立を深めたことが引き金となった。第一次世界大戦
はイラクの石油資源をめぐる、ドイツ対イギリス、フランスの戦いであった。7 第二次世
界でも各国の石油獲得への動きが戦争の動向を左右した。日本がこの世界大戦に突入して
いった背景には、オランダ領東インド諸島の石油獲得をもくろむ日本の動きが、アジアの

2
石油供給源であるインドネシアやマレーシアを押さえていたヨーロッパ諸列強の警戒感を
招き、ABCD 包囲網(1941 年に東アジアに権益を持つ国々が日本に対して行った対日禁輸
措置)によって、日本へのエネルギー供給の道を閉ざしたことによる「エネルギー危機」
があったとされる。この包囲網を突破すべく、日本は無謀ともいえる真珠湾奇襲、対外軍
事行動にでたのだ。8 ドイツは石油獲得の必要性に迫られ、当時ソ連の石油供給基地であ
ったバクー(現在のアゼルバイジャン)を攻撃目標とした。緒戦でドイツに敗北していた
イギリス、フランスをはじめとする連合軍は、アメリカからガソリンの供給を受け、多額
の資金を借りることによって最終的には勝利する結果になった。
このように、われわれは石油エネルギーに全面的に依存しきっており、「石油の世紀」と
呼ばれた20世紀には、この優れたエネルギー資源を他国よりどれだけ多く獲得できるか
が世界的・軍事的覇権を決める重要な問題とされた。
石油はおおむね発展途上国が輸出し、先進工業国で精製、消費されている。2002年
の石油消費国上位10カ国のうち、6カ国は OECD 加盟国であり、原油輸入国10カ国に
も7つの加盟国が入っている。一方、石油輸出国上位10カ国のうち、この先進国クラブ
に入っているのはわずか2カ国だけである。9
この石油消費国第1位はもちろんアメリカである。2006年におけるアメリカの一日
の石油消費量は2058.9万バレル/日で、これは世界の全消費量の24.6%にも値
する。対して、アメリカの原油生産量は世界全体の約7.1%(513.5万バレル/日、
2006年)でしかない。確認埋蔵量にいたっては6.1%と微々たるものだ。10 よっ

アメリカは、国内消費の多くを輸入に依存している。
また、アメリカ政府の試算では、2001年に1980万バレルだった原油消費量は、
2025年には2690~3180万バレルの間に増加すると予測されている。一方、IEA
の試算によると、EU 諸国の石油消費量は2000年の1230万バレルから2030年に
は1390万バレルに、環太平洋 OECD 加盟国は2000年の850万バレルから203
0年には1050万バレルに増加すると予測されている。これを比べると、アメリカの石
油消費量の増加率は EU や環太平洋 OECD 加盟国を大きく上回ることになる。11 アメリ
カ経済が活力を保ち、成長を続け、いかにもアメリカらしい生活様式を守るためには、安
く、豊富な石油が不可欠であり、今後もこれだけ大きな規模の消費を支えるために輸入を
大幅に増大し続ける必要がある。
日本の石油消費量はというと、2006年時点で516.4万バレル/日で、世界の全
消費量の6.2%になる。12 これは人口1億3千万人の日本が消費する量としては決し
て少なくない。アメリカが原油輸入総量の20%前後を中東に依存しているが、日本は中
東への依存度が2006年に88.9%と極端に高くなっている。13 日本国内のエネル
ギー資源は乏しく、先ほど述べたように、国内で消費する石油のうちほぼすべてを輸入に
頼り、そのほとんどを中東に依存せざるをえない。よって、日本の安定的石油供給のため
には産油国との総合的関係強化やアジア諸国に対するエネルギー環境協力が必要であろう。
また、中国をはじめとする新興国が、近年大きな経済成長を遂げている。それに伴い、
エネルギー需要も高まり、新たなエネルギー供給源を模索し始めている。アメリカエネル
ギー省の予測によると、中国のエネルギー(石油に限らず)消費量は1997年から20

3
20年まで年間約4.3%と、欧米の4倍のペースで増加してゆく。同省予測では同じ期
間にインドでは年間約3.7%、ブラジルでは同3.4%、メキシコでは同3.0%のペ
ースで増加するという。14
また、石油は他の資源に比べ、偏在度が大きく、主要な石油資源の多くが国境紛争地帯
や民族紛争地帯に位置することが多い。さらに、タンカーやパイプラインによる輸送ルー
トが政情不安地域を経由することも少なくない。15 この様に、際限なく増加する需要や
限りある資源に対して、良質な油田が多く存在する地域、つまり中東の油田へのアクセス
権をめぐって、一層対立や競争が進むことは間違いない。アメリカは今、石油全供給量の
半分以上を輸入に頼っており、アメリカにとって石油の確保は国の安全保障上、最も重要
な課題であり、常に外交政策の要である。冷戦時代、植民地からの独立、民族運動の日々、
9.11の同時多発テロを契機とする、いわゆる「テ
ロへの戦い」を通しても、それは一貫しており16、これからその具体的な動きを述べてゆ
く。

表 1 世界の国別石油消費量の推移 単位:1000バレル/日(%)

出所:BP『世界エネルギー統計』(2007年度版)17

4
第1章 ピークオイル論とアメリカの対外戦略

1.ピークオイル論
当然、石油は無尽蔵ではなく、再生不可能な資源であり、いつかは枯渇する。それはい
つなのか、我々はいつまで石油を使い続けることができるのかについて、1956年にア
メリカプリンストン大学の地質学者、ハッバート(King Hubbert)が「ピークオイル論」
と後に呼ばれるようになる石油の生産曲線についての仮説を発表した。18 これは油田の生
産量には必ずピークがあり、原油が1つの油田からどれだけ、どのような勢いで出て、ど
のような曲線を描いて枯渇するのかという研究だ。2020年~2030年をピークにし
て、原油生産は減少に転じ、以降は徐々に枯渇へと向かうという議論であるが、このピー
クの時期は分析の仕方や立場の違いからいくつかの説があり、技術の進歩や新たな油田の
発見も見込め、決着はついていない。19 しかし、1990 年前後から新規油田の発見数、規
模ともに低下傾向が続いており(図2を参照)、石油は有限であるという事には間違いない。
ここで重要なのがハッバートはアメリカ国内の油田をくまなく調べて生産曲線を分析し、
その結果、アメリカ国内で産出できる原油はいつ枯渇するかを予測したことだ。アメリカ
国内の原油生産は1970年代にピークを打ち、すでに枯渇に向かいつつあるとされた。20
現在、アメリカは世界で突出した経済大国であるが、19世紀の頃はまだイギリスやフ
ランスなどの諸列強には遠く及ばなかった。自国内に油田開発を成功したことにより、食
糧増産や軍事力の基礎となる石油を主要なエネルギー源とすることで今日の経済大国にの
し上がっていったのだ。アメリカ合衆国の人口は2億数千万人で、世界人口に占める割合
は数%でしかないにもかかわらず、世界の石油消費量の約4分の1をアメリカ人が使って
いる。コーラを1本買いに行くために大型車を運転し、出かける時のエアコンは家中つけ
っぱなしだ。
しかし、今まで述べてきたように、自国内油田の原油生産量は既に減産に転じた一方で
アメリカの需要は EU や環太平洋 OECD 加盟国の増加率を大きく上回る勢いで、今後も増
え続けると予測されている。既に国内消費の大半を輸入によって賄うなか、輸入石油への
依存は高まる一方だ(図1を参照)

アメリカの石油供給に占める外国産石油量は1973年に30%を、76年には40%
を超え、77年には45%を突破した。こうした傾向に加え、78年から79年にかけて
のイラン革命とソ連のアフガニスタン侵攻は、カーター大統領のもとで行われた、クウェ
ートの石油タンカーの護衛やアメリカ軍のサウジアラビア展開を正当化することにつなが
り、91年にサダム・フセインの軍隊を追い出し、イラクを封じ込めた結果、ペルシャ湾
は安定し、石油の増産と価格の安定ももたらした。この結果アメリカの外国産石油への依
存はさらに強くなり、年間総供給量に占める輸入石油の割合は、90年には42%、97
年には49%、そしてついに98年4月、5割を超えたのだ。21
アメリカの石油消費量は増えているのに国内生産量は減っているという状況で、ここに

5
ジレンマが生まれる。今まで石油が豊富にあったからこそアメリカ経済と軍は世界を席巻
することができ、さらなる成長を続けるにはより多くの石油の消費が必要になる。その反
面、さまざまな形でアメリカの力を弱める。第一に、不慮の原因からであれ、人為的な原
因からであれ、国外で供給が滞れば損の影響は免れない。オイルショックのような供給の
途絶は石油不足や価格の急騰、世界的な景気後退を引き起こす。第二に外国産の石油に依
存し続ければ、アメリカから国外へと膨大な富が渡ることとなる。政治面では、石油供給
のためにはやむを得ず、アメリカの意思にかかわらず、外国の主要供給国にしばしばあら
ゆる種類(お金以上)の恩恵を与えなければならなくなる。例えば国連での支持や新型兵
器の提供、軍事力での保護だ。22
大量消費の上に成り立ってきたアメリカはこうした石油依存度の高まりを国家安全保障
に対する重大な脅威とみなし、軍事的手段に頼ることとなる。石油の安定的供給のために
は世界エネルギー供給の拡大と多角化が世界各地における供給の乱れに対する予防措置と
いう安全保障上の観点からも重要とされた。23

表 2 アメリカの輸入石油依存 2000年~2020年 単位:100万バレル

出所:『国家エネルギー政策』(2001 年発行)24

表 3 新規発見量と石油消費の推移

6
60 50
新規発見量(10億バレル/年) 45
50

消費量(10億バレル)
40
40 35
30 発見量
30 25
20 消費量
20 15
10 10
5
0 0
1900
'10
'20
'30
'40
'50
'60
'70
'80
'90
2000
'10
'20
'30

2010 年以降は推定
出所:ASIATIMES 25

2.中東石油資源の重要性
アメリカ国内の油田の原油生産が70年代にピークをうったとすると、残っている原油
は世界のどこにあるのだろうか。アラスカ、北海の油田も既にピークをうっており、まだ
ピークをうっていないのは OPEC(石油輸出機構)諸国の油田である。とりわけ中東の地
下に眠る石油の地球上に残された石油に占める割合は今後どんどん上昇すると推定される。
26 中東の石油資源は世界最大の埋蔵量を誇るだけでなく、油田が比較的浅い所にあり、採
掘しやすい。硫黄など不純物が少ない良質な原油が多いとも言われ、1つ1つの油田の規
模も大きく、中東の石油は生産コストが低いという特徴がある。このような点が石油産出
地域としての中東を世界の中でも特異な存在としている。また、かつて中東地域は大陸間
長距離交易の中心であると同時に、三大一神教、四大宗派のネットワーク組織の中心であ
ることからも、地政学的にも歴史的にも特異な地域として機能してきた。27
そして重要なのが生産能力だ。アメリカやメキシコ、ロシアをはじめとする中東以外の
産油国油田の大半はかなり昔に開発され始めたので、現在の生産量を維持するのもおぼつ
かない。しかし中東産油国油田の大半はここ数十年のうちに採掘を始めたばかりで、既に
見つかっている油田の開発もまだ済んでいない。よって、今後石油生産の大幅な増加が見
込め、中東産石油の世界生産に占める割合を拡大してゆくことになるだろう。米エネルギ
ー省によると、この割合は2000年の27%から、2025年には36%に、2030
年までには43%に達すると予測されている。28
また、中東産油国は自国で産出された石油のうちほんの一部しか消費しないのに対し、
その他主要産油国はそのほとんどを自ら消費してしまう。例えば、メキシコは2001年
に360万バレルだった石油生産量は2025年に480万バレルに増えるとされている。
しかし、メキシコの1日当たりの石油消費量は190万バレルから410万バレルと、増
産分以上の増加をみせ、メキシコがアメリカに輸出できる石油は2001年より2025

7
年のほうが少なくなるのだ。一方中東諸国の国内需要は非常に小さく、1日当たりの石油
消費量は2025年には890万バレルに増加するが、総生産量4790万バレルに達し、
3900万バレルもの石油を輸出に回せるのだ。(表3を参照)
石油が経済活動や国民生活に必要不可欠となり、こうした条件の整った中東を手に入れ
た国が今後の世界覇権を手にすることが明確になって以来、各国が中東進出にしのぎを削
るようになった。アメリカも例外ではなく、まさか、「安い石油を手に入れるためです」と
はあからさまには言えず、自ら誘導した紛争や政情不安定を口実に「平和のため」と称す
ることでしか中東に進出できなかった。
第一次、第二次世界大戦を通して、アメリカは多くの石油を同盟国に提供していたが、
第二次世界大戦後も依然として石油輸出国であったアメリカは、石油価格をコントロール
する必要があった。29 まず、中東産石油の価格が上がった方が自国の石油価格を高いとこ
ろで維持することができ、石油資源の担保価値も上がる。また、近い将来、必ず枯渇する
石油は温存した方が、有利である。そのためにアメリカは中東の国々を民族、宗教対立な
どから隣国との紛争を抱えるような状態、政権を不安定な状態に置くことに力をいれた。
そうすれば、中東各国はくるべき脅威に備えて武器を調達しようとするだろう。その購入
資金であるドルを得るために石油を増産せざるを得ない状態に追い込んだのだ。また、石
油はドルでしか買うことができない。世界の国々は必要不可欠な石油を得るために唯一の
購入手段であるドルを手に入れようとすれば、必然的にドル需要は高くなる。こうしてア
メリカは自国通貨の価値を維持してきた。30
世界経済にとって最も重要な資源の眠る中東は、非民主的支配体制が多く、紛争ばかり
繰り広げて安全保障上、非常に不安定であり、国際的な介入が必要だと思われがちである。
しかし、実際に起こっていることは逆であり、介入の口実作るために、紛争が長期化し、
頻発する仕組みを、先進国が歴史的に作り上げてきたのだ。31 世界の様々な利権、政治経
済的対立が決済される地政学的に特異な地域であるがゆえに、中東イスラム世界を特異な
世界として描き、説明することにより政治、経済、軍事的進出を合理化しようという、ヨ
ーロッパ・キリスト教的考え方がよく見て取れる。
表 4 2002年末における主要産油国石油確認埋蔵量

8
出所:『ブリティッシュ・ペトロリアム 世界エネルギー統計』

(ロンドン:ブリティッシュ・ペトロリアム、2003年6月)32

9
表 5 ペルシャ湾岸とその地域における石油の生産量
現生産量 世界シェア 推定生産能力 世界シェア

(2002 年) (%) (2025 年) (%)

国または地域

イラン 3.37 4.6 4.9 3.9

イラク 2.03 2.7 5.2 4.2

クウェート 1.87 2.7 5.1 4.1

カタール 0.76 1.0 0.8 0.6

サウジアラビア 8.68 11.7 23.8 19.1

アラブ首長国連邦 2.27 3.1 5.4 4.3

ペルシャ湾岸合計 19.88 26.9 45.2 36.3

アメリカ 7.70 10.4 9.4 7.6

カナダとメキシコ 6.44 8.7 8.9 7.1

北海沿岸諸国 6.16 8.3 4.5 3.6

旧ソ連 9.35 12.6 15.9 12.8

アフリカ 7.94 10.7 16.2 13.0

アジア 7.99 10.8 7.5 6.0

中南米 6.65 9.0 12.3 9.9

その他 1.83 2.5 4.6 3.7

世界合計 73.94 100.0 113.5 100.0

出所:2002 年データ BP『世界エネルギー統計 2003 年版』

2025 年データ 合衆国エネルギー省エネルギー情報局『2003 年次国際エネルギー見通し』33

3.サウジアラビアの体制維持とアメリカの関わり方
外国の石油を調達することが初めて国家安全保障上の問題となったのは、第二次世界
大戦終盤、ローズヴェルト政権のもとでの事であった。当時アメリカは世界最大の産油国
であり、追い詰められた同盟国を支え、1941年の真珠湾奇襲から45年に日本を降伏
に追い込むまでに連合国側が使った石油70億バレルのうち60億バレルをアメリカが提
供した。このときのアメリカの石油生産量は1日400万バレル、年間にして14億5千
万バレルにまで達していた。この量は当時の状況では13年でアメリカの石油は枯渇する
といわれたほどの量だった。34 このような状況でフランクリン・D・ローズヴェルト政権
は戦時増産によって国内の埋蔵石油が急速に枯渇に向かい、輸入への依存が始まる時期が
早まることを恐れた35。 1941年基礎報告書の中で示された戦時中の政府の公式政策は
現在の割合でアメリカが国内の石油を利用し続ければ将来の危機に対処するだけの埋蔵量

10
は残らない、したがって、アメリカは国内の埋蔵石油を温存し、外国産石油をもっと利用
しなければならない、他の国々も同じ外国の供給源からより多くの石油を得ようとしてい
るから、アメリカ政府は「国外の埋蔵石油へのアクセスを確保する目的で、ますます攻撃
的な外国石油政策を」推進すべきだ、というものだった。36
1939年アメリカ企業として初めてカリフォルニア・スタンダード・オイル(SOCAL)
社が中東(サウジアラビア東部のアル・ハサー)での採掘権を得た。この時はまだ米政府
はその重要性に気づいていなかったが、将来の外国石油への依存は避けられないと判断し、
サウジアラビアの莫大な埋蔵量とともに戦略的価値に気づくやいなや、アメリカと同国と
の関係強化に乗り出した。彼らは世界一の石油埋蔵量を持つサウジアラビアを保護下に置
き、ペルシャ湾に恒久的に軍隊を配備することで将来における自国のエネルギー輸入を守
ろうと企てたのだ。
まずローズヴェルトが手がけたのが、サウジアラビアへの武器貸与援助の承認だった。37
そして、現在までのアメリカの安全保障政策の基本方針となっている、「ワシントン・リヤ
ド枢軸」とも称される、友好関係だ。
1945年2月14日、ロ-ズヴェルト大統領とイブン・サウド国王の会談が行われ、
この会談での取り決めの核心には重要な暗黙の交換条件があるとされる。サウド王家を敵
対勢力から守り、主権と独立を維持する、その見返りに、アメリカ企業がサウジアラビア
の油田で絶対的優先権を得る、というものである。この会談では記録が一切取られず、ア
メリカ側はローズヴェルト本人以外話に加わらなかったため、安全保障上の問題がどの程
度話し合われたか、本当のところはわからないが、両国首脳はこれが真実であるような振
る舞いを見せてきた。この関係は1945年以降大きく発展してきた。そして、45年の
覚書で米国務省は次のように述べている。「サウジアラビアの石油資源は世界でも屈指だ、
次第に減少してゆくわが国の埋蔵量を補い、それにとって代わらせること、そして、この
力の潜在的源泉が日友好国の手に落ちるのを防ぐことという二重の目的のために、この資
源をアメリカの支配下においておかなければならない」と。38
サウジアラビアは現在、アメリカに対する最大の原油供給国で、2003年の時点でア
メリカの原油層輸入量の約18%がサウジアラビア産であり、危機に瀕した時アメリカへ
の輸出の大幅な増量が見込める唯一の供給国でもある。サウジアラビアは世界の確認埋蔵
量の4分の1にあたる2618億バレルもの原油を有す(表2を参照)。さらに巨大な余剰
生産能力も持ち、他の主要産油国からの供給が止まったとしても、その不足分を単独で埋
め合わせることも可能だ。この能力は1990年にイラクがクウェートに侵攻し、両国の
石油供給が止まったときにもいかんなく発揮された。39

4.湾岸戦争~アメリカの「平和のため」の軍事介入、「テロとの戦い」
冷戦終結後のアメリカの対外政策における最大の課題は、21世紀における世界最大
のエネルギー産出地域である中東からの石油供給に中国やロシア、EU、イランなどの影響

11
力を排除して、アメリカが唯一最大の軍事的、戦略的影響力を行使できる体制をつくるこ
とであった。冷戦終結後にアメリカが世界の紛争地域に対して行った介入は、すべて石油
に関する意味合いを帯びていたと言える。40
当初、アメリカの戦略家たちはサウジアラビアを保護する上で間接的な方法をとった。
地元の友好的勢力を代理に立てて、この地域を外部からの攻撃から守ってもらい、アメリ
カはサウジアラビア自体の軍事能力を増強するというものだ。41 しかし、1979年1月
16日パーレビ国王が国外へ逃亡し失脚すると、現地の代理人に頼るのをあきらめた、時
のカーター政権は、今後アメリカがペルシャ湾地域防衛の責任をとると宣言した。これが
1980年1月23日の一般教書演説で公表されたカーター・ドクトリンだ。カーターは
ペルシャ湾石油へのアクセスは国家の死活にかかわる利権であるとし、その利権を守るた
めに、アメリカは「軍事力の行使も含めて、必要とされるいかなる手段」をとる準備があ
ると宣言した。42
次期大統領、ロナルド・レーガンは政権に就くとカーター・ドクトリンの基本前提を是
認した。1981年には史上最大規模の武器売却を承認し、ペルシャ湾岸の同盟国を徹底
的に武装させた。レーガンがここまでするのには理由がある。アフガニスタンやニカラグ
アなど、ソ連の支援する政権を打倒するための中央情報局の秘密作戦をサウジアラビアに
資金面で援助させるつもりだったのだ。この秘密資金援助の恩恵を受けたうちの一人が、
オサマ・ビン・ラディンだ。裕福なサウジアラビア人事業家のビン・ラディンは、狂信的
イスラム教徒を勧誘してアフガニスタンの反抗勢力と一緒に戦わせる手助けをしていた。
アメリカの思惑はソ連を撃退する点に関してはその通りとなったが、サウジアラビアのア
フガニスタンイスラム武装勢力に対する援助はアルカイダとタリバンが台頭する基礎を築
くこととなったしまった。43
さらに、1980年から88年のイラン・イラク戦争には直接参加はしなかったが、そ
の趨勢を決定するような重要な役割を裏で果たしている。1980年にイラクがイランに
侵攻すると、アメリカ政府は中立を宣言し、両交戦国に対して武器禁輸措置をとった。と
ころが、82年、イランが優勢になると、クウェートとサウジアラビアにおけるアメリカ
の石油利権にとってイランが脅威になりかねないと察知したレーガン政権は、融資や情報
面での支援、武器の秘密譲渡によってイラクを支援し始めた。また、それでもイランのク
ウェートのタンカーへの攻撃が激化すると、クウェートのタンカーに星条旗を掲げさせ、
さらにアメリカの軍艦が護衛した。
1988年8月イラン・イラク戦争は両国の消耗や疲弊により終わることとなったが、
大量の戦時負債を抱えたイラクのサダム・フセインは負債を帳消しにするようクウェート
に求めたが、もちろん拒まれたため、自国の問題の根源として同国をとらえるようになっ
た。さらに、クウェートが OPEC から割り当てられた量を大きく超える石油を生産し、原
油価格は大きく下がり、石油輸出に依存していたイラクに大きな経済的打撃を与えていた。
また、クウェートはイラクも領有を主張する油田から大量採掘を行っていたため、199

12
0年フセインは自国軍にクウェート侵攻を命じた。6
アメリカへの安定的石油の供給の頼みの綱であるサウジアラビアの主要油田はイラクと
隣接する東部地方のアル・ハサーに集中していたため、ただちにイラクの攻撃を受ける可
能性がある。もし、クウェートの拠点を足がかりにしてサウジアラビアに侵攻されれば世
界の石油埋蔵量の25%をイラクが支配下に収めるということになってしまう。こうして、
イラクによるクウェート侵攻のわずか4日後の8月6日、先代ブッシュはアメリカ軍をサ
ウジアラビアに配備する許可を当時、国防長官だったディック・チェイニーに与えた。44
のちに、アメリカは「クウェートの開放」、「イラク大量破壊兵器の破壊」、「侵略に対する
国際的制裁の支持の必要性」などの戦争を正当化する理由を見つけることとなるが、誰の
目から見てもカーター・ドクトリンを念頭に置き、イラクを自国へと流れる石油への脅威
と考えていたことは明らかである。
それでもなお、アメリカは制裁の空爆を一度だけ加えるような生ぬるい手段ではフセイ
ンは止められないと判断し、直接介入することをアメリカ政府は決断した。しかし、サウ
ジアラビアが大規模なアメリカ軍の入国に難色を示したのだ。これは、隣国のように植民
地主義者に占領されることや国民の不満が高まるのを恐れたためだが、チェイニー長官と
ファハド国王との会談で、「イラクの脅威がなくなったら、ただちにアメリカ軍はサウジア
ラビアから撤退する」という厳しい条件付きでアメリカの地上軍配備が許可される事にな
る。45
そして、1991年1月17日アメリカを中心とする多国籍軍によりイラクが空爆され、
湾岸戦争が始まった。五週間後には地上攻撃も開始され、2月28日イラク軍はクウェー
トを放棄した。
アメリカは、イラク自体への侵攻は思いとどまったものの、再び、クウェートとサウジ
アラビアに脅威が及ぶのを防ぐため、空路と海路を封鎖し、イラクを国際的に孤立させ、
「封
じ込め」政策をとった。この「封じ込め」は大きな役割を果たしたが、監視を続けるため、
サウジアラビアに置いた空軍基地を占領し続ける必要があった。その結果、先に述べたフ
ァハド国王とチェイニーの約束が破られた。
これに反発したオサマ・ビン・ラディンは、アメリカの利権に屈従したサウド王家を非
難し、自分の支持者たちに武力を含めたいかなる手段を用いてもサウジアラビアの君主制
を打倒し、アメリカ人を追い払うよう呼びかけた。これがニューヨーク世界貿易センター
ビルとワシントンの国防総省に対する攻撃、2001年9月11日のテロにつながる。46
9.11同時多発テロ以来、敵対するテロ組織と国家はひとまとめにされ、あらゆる口実
として使用されるようになり、「テロとの戦い」はずっとアメリカの課題であった石油の調
達先の多角化に拍車をかけた。9.11のテロを契機とするアフガニスタン侵攻後、アメ
リカは対外政策の次のターゲットとして、ブッシュ大統領の年頭教書で「悪の枢軸」が挙
げられた。大量破壊兵器を持つ独裁国家に対する軍事的攻撃を今後の優先課題にするとし
て、イラク、イラン、北朝鮮の参加国を名指しした。世界中に複数ある情勢不安定な国、

13
地域がある中、この世の最大の悪であるかのようにアメリカがこの3カ国を指名したのは、
単に大量破壊兵器を持つ独裁国家だからではなく、他の思惑が見て取れた。
まず、2003年に大量破壊兵器の存在を大義名分としてイラクを攻撃したが、これは
ブッシュ政権が議会で追及され、偽装されたものであり、大量破壊兵器など存在しなかっ
たことがすでに証明されている。よって、ブッシュ政権が目指したのはイラクの石油であ
ったと見られている。イラクは石油確認埋蔵量が世界第2位であり(表2を参照)、また、
長らく経済制裁の下に置かれていたため、未だ開発されずにいる石油資源が地下に多く眠
り、今後の生産拡大が期待できる点が最初にアメリカの攻撃目標にされたゆえんであろう。
次にイランの石油確認埋蔵量は世界第5位であるが(表2を参照)、人口が多いことから、
イラクと違い、輸出できる石油の量はさほど多くない。ではなぜアメリカに狙われること
になったのだろうか。それは今後増産が大きく期待されるカスピ海原油をペルシャ湾に運
ぶ上で、イランが地政学的にたいへん重要な位置にあることから、アメリカが何としても
影響下に置きたい国とされたためだ。最後に、北朝鮮は一見エネルギー戦略には関係ない
ように思われる。多くのエネルギーを運ぶパイプラインの施設ルートは多くの利権が絡み
合い、最短ルートをというわけにはいかない。そこで東に目を向けると、ロシア、中央ア
ジア産の石油を日本、中国などにどのルートを通って、どの国に優先的に石油を供給する
のか、という戦略的駆け引きが活発になっている。現在計画されているさまざまなパイプ
ライン・ルートの交差点に当たる国が北朝鮮であり、中国の急速な経済発展に伴うエネル
ギー需要の拡大を背景として、北朝鮮は重要とされた。47
また、イラク、イラン、北朝鮮の3カ国は自国の準備通貨をドルからユーロに切り替える
とともに、石油の輸出代金をユーロ建てで決済する意向を表明していた。世界中のほとん
どの国がドルを準備通貨として保有し、石油をドル建てでしか販売しないとサウジアラビ
アに約束させることによって自国通貨の信用や価値、優位性を保ってきたにもかかわらず、
これはアメリカにとって自国の覇権の失墜につながるたいへんな脅威だ。
こうして、エネルギー戦略上アメリカの利権を大きく左右すると考えられた3カ国は「悪
の枢軸」と名指しされた。
現在、アメリカがせっせと独立を支援する、チェチェン共和国や新疆ウイグル自治区の
問題も、いずれの地域もパイプライン施設における重要な地域であり、同じような理由に
よるものとみられる。

14
第2章 カスピ海原油をめぐる争い

1.カスピ海
ペルシャ湾地域と並んで脚光を浴びる地域がカスピ海地域だ。
「世界の石油生産が1つの
地域に集中すれば市場の不安定化の要因となりかねない。
」とアメリカの『国家エネルギー
政策(NEP)』では主張される。48 『NEP』ではカスピ海地域の主要産油国、アゼルバイ
ジャン、カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、イランとロシアの一部を有
望な新供給源としている。
1997年4月に米国務省はカスピ海の原油埋蔵量について、北海の埋蔵量の約10倍、
ペルシャ湾のそれの3分の1に相当する2000億バレルに及ぶ可能性があると議会に報
告している。49 しかし、カスピ海地域の石油確認埋蔵量は BP の調査では、世界全体のわ
ずか1.5%、Oil & Gas Journal の調査では1.3%にすぎない。天然ガスでも4.5%、
2.7%にすぎない。93年の米内務省の地質調査所のスタッフの評価では埋蔵量は79
6億バレル、97年11月の同所の発表では1014億バレルであったことからも、97
年の米国務省の報告は根拠薄であったように思われる。(表6と7を比較)

表 6 カスピ海沿岸の石油埋蔵量 単位:10 億バレル


石油確認埋蔵量 石油推定埋蔵量
国名
アゼルバイジャン 3.6-12.5 32.0
イラン※ 0.1 15.0
カザフスタン 10.0-17.6 92.0
ロシア※ 2.7 14.0
トルクメニスタン 1.7 80.0
ウズベキスタン 0.3 2.0
合計 18.4-34.9 235.0
※カスピ海沿岸地域のみ

出所:米エネルギー省エネルギー情報局「カスピ海」(2000 年 6 月) 50

15
表 7 カスピ海地域の石油確認埋蔵量 単位:10億バレル
BP(2003 年末) Oil & Gas Journal(2001)
国名
アゼルバイジャン 7 7
イラン※ 0.1 データなし
カザフスタン 9 9
ロシア※ 1 データなし
トルクメニスタン 0.5 0.5
合計 17.6 16.5
※カスピ海沿岸地域のみ

出所:Gelb(2005) 51

それでも、石油価格の上昇で非 OPEC 諸国からの石油輸出の重要性は増しており、近年


の活発な調査で、確認埋蔵量は増加し、BP 統計によると05年末時点でカザフスタンとア
ゼルバイジャンを合わせると、466億バレルと、世界全体の3.9%にまで増加してい
る。52 どちらにせよ、最も重要なのは資源の規模ではなく、これからほかの地域では石油
産出量が減少に向かう一方でカスピ海のそれは増加する見通しにあるということだ。たと
えば1979年に日量110万バレルだったカスピ海の石油生産量は2010年には40
0万バレル、2020年には600万バレルに達すると見込まれている。同じ時期に、ア
メリカでは石油生産量が日量950万バレルから870万バレルに、北海では630万バ
レルから590万バレルに減少すると予測されている。つまり、カスピ海で生産量が増加
を続ける中、他地域では大幅な減少となるのだ。53
カスピ海のエネルギー産業には長い歴史がある。後に石油産出の拠点となるアゼルバイ
ジャンの都市、バクーで油田が発見されたのが1873年である。ここから産出される石
油によって帝政ロシアは経済と財政を支えてきた。54 カスピ海地域の大半はソ連に属して
いたため、1992年のソ連崩により、当時ソ連が強いていた国境や行政区域の縛りが解
け、アイデンティティ、エスニシティ、国民性などに加え、生産や輸送にかかわるものが
解放された。それにより、資源の量は不明確とはいえ、カスピ海地域は石油会社や各国政
府の大きな関心を引き付けてきた。1992年のソ連崩壊以降アメリカもカスピ海沿岸で
の石油の開発権獲得を目指してきた。アメリカは膨大な資源の眠るカスピ海地域を、ペル
シャ湾岸産原油の供給が万が一停止した時の代替供給地にしようとしたのだ。1997年
9月15日に異例ともいえる規模で、カスピ海地域の新興独立国(カザフスタン、ウズベ
キスタン、キルギス)と軍事演習を行い55、これにより、旧ソ連諸国への安定維持に対する
支援を示すとともに、これらの国を管理下に置き、西側に資源流すことを目指した。カス

16
ピ海地域のエネルギー資源とアメリカの安全保障は直結していることも明らかになった。
だが、実際これまで開発はあまり進展していない。最大の問題として挙げられるのが、
技術や投資、地下資源をめぐる議論ではなく、開発した資源をどうやって輸送するかであ
る。カスピ海は内海であるため、開発した石油を市場に送るための唯一の方法として、パ
イプラインでの輸送が重要になる。そして、多くの国が関税収入を得ようと、パイプライ
ンの通過ルートをめぐって争い、外部勢力(アメリカ、ロシア、中国、トルコなど)がそ
れぞれ自国の利益に即したルートでのパイプライン施設をもくろんでいる。56 もちろんア
メリカは既存のパイプライン(カスピ海地域はかつてソ連の一部だったため、ほとんどが
ロシアを経て東欧へ通じる)への依存に反対しており、コーカサス地方を横断する新たな
パイプラインの施設が必要とされる。57
2.BTC パイプライン
アメリカによるカスピ海地域の資源への支配を最もあからさまに示すのがバクー・トビ
リシ・ジェイハン・パイプライン(BTC)の後ろ盾になっていることだ。BTC パイプライ
ンは、総延長1767Km、2006年6月開通式が行われた。
当初、ルートは3通り考えられた。①グルジアを西に進んでトルコの地中海沿いの港ジ
ェイハンへと結ぶルート、②西へ進んでグルジアの黒海沿いの港スプサへと結び、タンカ
ーでボスフォラス海峡を経由して地中海へと抜けるルート、③イランを南進してペルシャ
湾へと抜けるルート、の3つである。②の案はボスフォラス海峡でこれ以上タンカーの通
航量が増えると危険であるということと、自国内をパイプラインが通過したほうが建設需
要を見込めるという理由でトルコの反対にあった。最も合理的なのが③のイランを通るル
ートだった。建設も比較的安価かつ容易であったが、当時のアメリカは、1996年のイ
ランの資源に投資したら米国以外の国や企業に対しても制裁を加えるという、イラン・リ
ビア制裁法の真っただ中であり、カスピ海におけるイランの影響力は徹底的に排除したか
ったのでこれも実現することはなかった。しかも、結局ペルシャ湾を通過するのでは、カ
スピ海地域をペルシャ湾の代替地という意味がなくなってしまう。そして残った①のルー
トによって費用は大きく膨らむ(約30憶ドル、借入金も含めると36憶ドルの巨大プロ
ジェクトだ58)こととなったが、このルートを推すのは他にも理由があった。まず、ボスフ
ォラス海峡の迂回という表面上の理由以外に、91年の湾岸戦争までイラク北部の油田地
帯からの積出港として機能していたジェイハンが湾岸戦争後国際的なイラク制裁でこのル
ートによる原油積み出しができなくなり、通過料や積出港使用料を失ったトルコ政府に対
する代償としての意味があった。59 また、中央アジア、コーカサス地域の紛争を防止する
ためでもある。ロシアを経由しないルートを通ることによってロシアの影響力を排除し、
介入を防ぐことができる。60 そして、当該地域における環境整備の意味もある。さらには、
③のルートでパイプラインを建設すればペルシャ湾から石油が船で中国などアジアに流れ
てしまうが、①のルートで地中海に運び出せれば、中央アジア産の石油をアジアではなく、
欧州のものにできるのだ。61 カスピ海資源は中央アジア、コーカサス地域の経済発展に寄

17
与するばかりか、アメリカのエネルギー安全保障の確立にも貢献する。62 よって、BTC
ルートは極めて政治色の強いものであったと言える。
3.ロシア対アメリカ 第二次グレートゲーム
カスピ海における地域紛争の最も大きな要因は、アメリカとロシアの新たな影響力争い
だ。両国はカスピ海と中央アジアをポスト冷戦時代における地政学的要とみて、カスピ海
資源の開発による利益の獲得を狙い、その輸送ルートの決定にしのぎを削っている。一部
のアナリストはこの争いを「第二次(新)グレートゲーム」と呼ぶようになっている。63
両国はカスピ海資源を世界各地の市場に供給する最終的支配権を狙っている。ロシアの
最大の目標はカスピ海の石油、天然ガスの大部分がロシアのパイプライン経由で黒海とヨ
ーロッパに送られるようすることだ。一方アメリカは、先ほども述べたように、ペルシャ
湾原油の代替としてカスピ海のエネルギー資源を開発すること、カスピ海石油と天然ガス
をロシアとイランを通さずに市場に送り出すことのふたつの大きな目標を持つ。この争い
で、両国は目標の達成のため、多大な努力を費やしてきた。
ロシアはアゼルバイジャンとカザフスタンに輸出原油の大部分をロシア南部経由で黒海
沿岸のノボロシースクに送るよう、強い圧力をかけている。このルートはアゼルバイジャ
ンとカザフスタンのいずれかを必ず通過しなければならなかった。そうすると、1999
年、イスラム武装勢力がダゲスタン南部に侵攻した際、ロシアが武力勢力の拠点のあるチ
ェチェンに進攻したことも納得がいく。64
一方アメリカは、自国の主張するパイプライン・ルートの支持を取り付けるため、カス
ピ海沿岸諸国にさまざまな軍事援助を開始する。アメリカの軍事、経済援助の最大の相手
国はグルジアだった。ロシアからの独立路線をとるシュワルナゼ政権の支援と、アメリカ
の主張するパイプライン・ルートの安全保障を図る目的があった。65
先ほど述べたように、BTC パイプライン建設から完全に排除されたロシアだが、この第
二次グレートゲームに敗北したといえるだろうか。輸送される石油がアゼルバイジャン産
石油だけであったら BTC パイプラインだけで事足りる。だが、カザフスタンで大規模の油
田が発見され、BTB パイプラインのみでは輸送不可能となり、ロシアのノボロシースクに
至る、ルートも再び浮上してきた。チェチェンを迂回するルートの建設も進んでおり、ロ
シアの大手石油会社、ルクオイルがアゼルバイジャンのアップストリームに進出しており、
ロシアの巻き返しも進んでいる。さらに、ロシアはトルコに年間90億立方メートル(同
国の年間消費量の約7割)の天然ガスを輸出している。トルクメニスタンやアゼルバイジ
ャンからもトルコに天然ガスを輸出する計画がり、トルコ市場をめぐる競争が激しくなる
可能性がある。これを回避するため、ロシアへの天然ガス輸出を優先すれば、ロシアが必
ずしも劣勢とは言い切れなくなってくる。66

18
第3章 メジャーと産油国の資源ナショナリズム

1.メジャー
メジャーとは国際石油資本とも呼ばれ、石油産業の炭鉱、採掘などの上流部門(アップ
ストリーム)から精製、販売などの下流部門(ダウンストリーム)のすべてを統轄できる
体制を整えている垂直統合型企業である。 エクソン・モービル、シェブロン・テキサコ、
ロイヤル・ダッチ・シェル、BP の4社が今日のメジャーと呼ばれる。67 20世紀初頭以来、
国際政治経済に大きな影響を与えてきた国際石油資本であるメジャーは、元は「セブンシ
スターズ」と呼ばれてきた。エクソン、モービル、テキサコ、ソーカル、ガルフ、ロイヤ
ル・ダッチ・シェル、BP の7社が合併を繰り返し、今日の4社となった。
こういった欧米系メジャーの特徴は上流部門に強く、資金面でも強い。高度な専門技術を
有し、世界の石油開発の最先端をゆく企業である。1960~70年代産油国により国有
化され、メジャーの権益は産油国に返還されることとなるが、メジャーが保有する技術力、
経営ノウハウは今もその価値と重要性を失われていない。
メジャーの中でも特に大きな力を誇るのが米系のエクソン・モービルだ。世界で最初に
地下から石油を採掘する高い技術を開発し、大量に採掘することに成功した。こうした高
度な石油採掘技術により発展を遂げた石油産業があってこそ築かれたのが現在のアメリカ
であるといえる。68
2.産油国での資源ナショナリズムの高まり
1960年8月世界的な石油過剰生産を受け、国際石油資本(メジャー)により原油の
公示価格を引き下げた。これを契機とし、1960年9月イラクのバグダッドに主要産油
国であるサウジアラビア、ベネズエラ、クウェート、イラクの5カ国が集まり、メジャー
に対抗し、協力して石油政策を調節、石油収入を維持する目的で石油輸出国機構(OPEC)
が設立された。当初 OPEC の力は微々たるもので、石油の価格も生産割り当てもメジャー
に牛耳られることが続いた。本格的に力を発揮したのは1973年10月、第四次中東戦
争でアラブ産油国がとった、石油の公示価格を上げ、石油の生産と輸出の制限を行う「石
油戦略(Oil as Weapon)」で勝利してからである。
OPEC の設立前からも世界の石油需給関係のひっ迫化や原油価格と先進工業国製品価格
のかい離、メジャーによる横暴ともいえる支配、産油国自体の経済発展により資源ナショ
ナリズムは高まりつつあった。1974年には原油価格の決定権は産油国に移行された。
また、メジャーの持つ資産の国有化も始まり、今日石油と天然ガスの生産量および埋蔵
量による世界上位30社のうち、14社が完全な国有企業であり、他にも4社の所有権の
過半数は国が持っている。トップ4社のうち国営企業でないのはエクソン・モービルだけ
で、その他3社はサウジアラムコ、ベネズエラ石油公社、イラン国営石油会社である。69(表
5は原油のみのランキングとなるので参考となる。原油のみだと、14位にやっと米エク
ソン・モービル、16位に英 BP、47位に日国際石油開発帝石ホールディングスという状

19
況だ。)

表 8 世界の企業別原油埋蔵量ランキング 単位:億バレル
1.サウジアラムコ 2643
2.NIOC(イラン国営石油会社) 1375
3.INOC(イラク国営石油会社) 1150
4.KPC(クウェート石油公社) 1015
5.PDVSA(ベネズエラ国営石油公社) 797
6.ADNOC(アブダビ国営石油会社、UAE) 592
7.リビア NOC(リビア国営石油会社) 305
8.NNPC(ナイジェリア国営石油会社) 217
9.CNPC(中国石油天然気集団公司) 197
10.ロスネフチ(ロシア石油) 159
出所:Petroleum Intelligence Weekly 2006 年統計70

一握りの西側石油会社から産油国に莫大な富が移転したが、先進国には、武器の売却や
銀行投資という、別のルートで富は還流している。細かく見れば、産油国の国営石油会社
のいくつかは技術を欠き、石油会社側にいいように搾り取られている。技術不足と資本導
入の必要とが重なり、OPEC 加盟国が外資を呼び戻す動機となっている。71
3.メジャーと国営石油会社の新戦略
石油は市場商品化が進んだとはいえ、いまだ戦略物資であるがゆえ、原油価格は大きく
変動しがちである。財政状態が好転してきている産油国ではあるが、成長を原油価格の高
騰のみに頼るようでは安心できない。こうして新戦略が要請されるようになった。今まで、
産油国は資源ナショナリズムというイデオロギーを何としても守り、メジャーの油田開発
進出を制限、阻止してきた経緯がある。ところが、ペルシャ湾岸諸国が欧米メジャーに対
して油田開放を打ち出してきた。油田開発コストを産油国だけで負担するより、メジャー
の資本力と技術力を使ったほうが得策だと判断したのだろう。そして、産油国(国営石油
会社)の下流部門への進出である。大量消費が期待されるアジアをターゲットマーケット
として製油所やガソリンスタンドなどの下流から上流部門まで一貫した体制を築こうとし
ている。72
メジャーズは下流から上流へ、産油国の国営石油会社は上流から下流へ、双方とも従来
の戦略を大きく転換しているが、ここまでやらなければ収益力の強化に結び付かない時代
となっているのだろう。

20
第4章 日本の石油産業
1.日本の現状
日本のエネルギー消費は経済成長とともに飛躍的に伸び、今では世界の約6%もの石油
を消費する消費大国となった。しかし日本は国内のエネルギー資源が新潟県から少量生産
されている天然ガス程度と、非常に乏しく、そのほとんどを中東の湾岸諸国に依存(石油
輸入依存率は99.8%、中東からの石油輸入依存率は88.9%)しなければならない。
自主開発原油の輸入量も19%(2007年)73と、国家エネルギー戦略にいう「自己開発
原油比率の目標値40%」74に遠く及ばない状態だ。
日本の石油産業は主に4つの精製会社グループで成り立っている。ジャパンエナジー・
昭和シェル、新日本石油・コスモ石油、エクソン・モービル、出光興産だ。日本企業は高
性能ガソリンや各種石油製品の製造では世界最高水準の技術を持つ。しかし、日本企業は
下流部門のみで上流部門を持たない。日本石油企業の経営基盤はこのことによる脆弱性を
常にはらんでおり、たとえ日本市場では通用しても、グローバル市場では欧米メジャーに
対抗できず、戦略に抜きの経営を続ければ市場から淘汰されるだろう。
表 9 日本国内の石油精製シェア (合計529万9000バレル)

6%
24%
17% 新日本石油
コスモ石油
昭和シェル石油
ジャパンエナジー
出光興産
17% 12% エクソンモービル
その他

13% 11%

出所:『日本経済新聞』2000 年 2 月 17 日号75
2.外国での日本の石油利権
輸入石油に大きく依存する中で、産油国から原油を買い付けて日本に持って帰るばかり
では安定供給に不安が残る。そこで、原油の開発事業に参画し、いくつかの外国油田での
権益を持っている。その代表的な例が、サウジアラビアとクウェートの沖合にまたがるカ
フジ油田だ。
カフジ油田は、日本のアラビア石が1957年以降、サウジとクウェートからそれぞれ
権益を獲得し、1960年に油田を掘り当てた。ピーク時には1日当たり約30万バレル
を産出し、日本の石油消費量の約5-8%を占めた時期もあった。日本初の自主開発油田
であり、アラビア石油が権益の80%を獲得、オペレーター(創業権)も努めていたが、

21
2000年にサウジアラビア、2003年にクウェートとの間で権益更新に失敗、その後
はクウェートとのあいだで技術サービス契約を結び、何とか関係は続けてきたが、原油輸
入量は年々減少し、2008年1月完全に撤退することとなった。同契約の終了に伴う営
業利益押し下げ効果は年間約14億円、08年3月期は約3億4000万円を見込む。カ
フジ油田は半世紀近くにわたる日本の石油開発の象徴的プロジェクトだっただけに、金額
的なことだけでなく、政府や関係者、日本人全体にとってショックな出来事となった。76
次に、2004年に国際石油開発、石油資源開発、トーメンなどの日本企業群とイラン
国営石油会社(NIOC)が共同開発したアザデガン油田である。当初、日本は75%の権益
を得ていた。しかし、当時イラン制裁を強めていたアメリカに配慮し、2006年10月
に権益の65%、操業権までも返上することになった。77
2000年10月イランのハタミ大統領が来日した際、260億バレルもの埋蔵量を持
つアザデガン油田の開発権益を狙い、国際協力銀行による輸出信用の供与(531億円)
とともに原油の輸入代金を前払いし、返済は原油で受け取るという仕組みの融資(30億
ドル)の合意がなされていた。日本の輸入原油に占めるイラン原油の割合はサウジアラビ
ア、UAE に次ぐ2位、約12%である。
日本のメガバンク(三菱東京 UFJ、三井住友、みずほ)がアメリカからイラン中央銀行
との取引制限、停止を求められ、原油代金を返済原資とする融資のほぼすべてが不良債権
化することと、イランからの膨大な輸入原油が失われることを考えると、操業権の返上と
権益の縮小は「小さな問題」とするべきかもしれない。78
3.日本石油産業の今後の期待
メジャーは上流部門の戦略を進め、産油国との関係強化を図っている。日本の石油企業
も政府も世界の流れにこれ以上乗り遅れないよう、原油輸入の対中東依存度を低下させる
ことや時代に応じた戦略を構築することが求められる。79

22
第5章 まとめ

アメリカは、エネルギーをおおむね自給自足できていた時代に生まれ、確立した生活様
式を維持するため、石油へのアクセスを求め、次から次へと石油に関する紛争に巻き込ま
れてきた。強まるばかりの外国依存や外国に対する危険な軍事介入から抜け出すため、自
主性と健全性を持った国家戦略が必要だろう。
「自主」とはエネルギーの購入を外国におけ
る安全保障義務から切り離し、輸入石油への依存を弱めることで、「健全」であるには、消
費量を削減し、環境に対する配慮と未来の子孫に対する配慮が求められる。80
2009年1月20日に就任したオバマ大統領は地球温暖化対策の強化、そのための再
生可能エネルギー利用と省エネルギーの推進、石油産業への優遇政策の廃止等の政策を打
ち出し、2009年2月17日にオバマ大統領の署名を得て成立した大型の景気対策法
(The American vestment and Recovery Act)では総額7890億ドルのうちエネルギー
関連に710億ドルの財政支出と200億ドルの減税措置の計910億ドルが配分された
が81、どこまで「自立」と「健全」かが進むか期待する。
今後、石油、天然ガスの消費は、様々な機関、政府によってその率や期間に差はあるも
のの、伸び続けることには疑問の余地はない。近い未来を見通しても石油は主要なエネル
ギー源であり続けるだろう。必要不可欠な資源の供給を長期的に維持するためには、紛争
を繰り返すより、国際協調に基づく資源確保戦略の方が有効ではないだろうか。世界の限
りある資源を平等に配分し、資源の節約と省資源技術の開発が求められる。

23
参考文献

書籍
・ 島敏夫、中津孝司『21世紀の新グレートゲーム―エネルギー資源獲得の新潮流―』
(晃
洋書房、2001)
・ マイケル・T・クレア『世界資源戦争』 斉藤裕一 訳(廣済堂出版、2002)
・ マイケル・T・クレア『血と油』 柴田裕之 訳(日本放送出版協会、2004)
・ トビー・シェリー『石油をめぐる世界紛争地図』酒井泰介 訳(東洋経済新報社、20
05)
・ 中堂幸政『石油と戦争―エネルギー地政学から読む国際政治―』 (現代書館、2006)
・ 塩原俊彦 『パイプラインの政治経済学』(法政大学出版局、2007)
・ 脇祐三『中東激変』(日本経済新聞社、2008)
・ 白水和憲『世界を動かす原油のことが面白いほどわかる本』(中経出版、2008)

雑誌
・ 中嶋猪久生「日本を襲うアザデガン油田失敗のツケ」
(『Foresight』1月号、2008)

ウェブサイト
・ 経済産業省 「平成20年度 エネルギーに関する年次報告書」
http://www.enecho.meti.go.jp/topics/hakusho/index.htm (2009.12.10アクセ

・All About 「ANA 燃油サーチャージ大幅値下げへ」
http://allabout.co.jp/travel/airticket/closeup/CU20090217A/index.htm(2009.12.
28アクセス)

24
1 経済産業省 「平成20年度 エネルギーに関する年次報告書」10項
http://www.enecho.meti.go.jp/topics/hakusho/index.htm (2009.12.10アクセ
ス)
2 脇祐三『中東激変』 (日本経済新聞社、2008)22項
3 All About 「ANA 燃油サーチャージ大幅値下げへ」

http://allabout.co.jp/travel/airticket/closeup/CU20090217A/index.htm(2009.12.
28アクセス)
4 中堂幸政『石油と戦争―エネルギー地政学から読む国際政治―』 (現代書館、2006)
69項
5 マイケル・T・クレア『世界資源戦争』 (廣済堂出版、2002)61項
6 マイケル・T・クレア『血と油』 (日本放送出版協会、2004)9項
7 中堂幸政 前掲書 117-125項
8 前掲著 『世界資源戦争』(廣済堂出版、2002)53,54項
9 トビー・シェリー 『石油をめぐる世界紛争地図』 (東洋経済新報社、2005)17項
10 白水和憲 『世界を動かす原油のことが面白いほどわかる本』(中経出版、2008)
186項
11 トビー・シェリー 前掲書 20項
12 白水和憲 前掲書 186項
13 白水和憲 前掲書 192項
14 前掲著 『世界資源戦争』(廣済堂出版、2002) 33,34項
15 前掲著 『世界資源戦争』(廣済堂出版、2002) 50項
16 トビー・シェリー 前掲書 12項
17白水和憲 前掲書 183項
18 中堂幸政 前掲書 78項
19 白水和憲 前掲書 182項
20 中堂幸政 前掲書 79項
21 前掲著 『血と油』 (日本放送出版協会、2004) 34、35項
22 前掲著 『血と油』 (日本放送出版協会、2004) 33、32項
23 前掲著 『世界資源戦争』 (廣済堂出版、2002) 19項
24 前掲著 『血と油』 (日本放送出版協会、2004)106項
25 中堂幸政 前掲書 82項
26 中堂幸政 前掲書 84項
27 中堂幸政 前掲書 61項
28 前掲著 『血と油』 (日本放送出版協会、2004) 123-125項
29 中堂幸政 前掲書 131項
30 中堂幸政 前掲書 25項
31 中堂幸政 前掲書 134項
32 前掲著 『血と油』 (日本放送出版協会、2004) 44項
33 前掲著 『血と油』 (日本放送出版協会、2004) 124項
34 前掲著 『血と油』 (日本放送出版協会、2004) 57項
35 前掲著 『血と油』 (日本放送出版協会、2004) 33項
36 前掲著 『血と油』 (日本放送出版協会、2004) 58項
37 前掲著 『血と油』 (日本放送出版協会、2004) 63項
38 前掲著 『血と油』 (日本放送出版協会、2004) 66-68項
39 前掲著 『血と油』 (日本放送出版協会、2004) 54項
40 中堂幸政 前掲書 134項

25
41 前掲著 『血と油』(日本放送出版協会、2004) 70項
42 前掲著 『血と油』(日本放送出版協会、2004) 81項
43 前掲著 『血と油』 (日本放送出版協会、2004) 83-84項
44 前掲著 『血と油』 (日本放送出版協会、2004)86項
45 前掲著 『血と油』 (日本放送出版協会、2004)90項
46 前掲著 『血と油』 (日本放送出版協会、2004)93項
47 中堂幸政 前掲書 20-23項
48 前掲著 『血と油』 (日本放送出版協会、2004) 108項
49 前掲著 『世界資源戦争』 (廣済堂出版、2002) 127項
50 前掲著 『世界資源戦争』 (廣済堂出版、2002) 128項
51 塩原俊彦 『パイプラインの政治経済学』 (法政大学出版局、2007) 112項
52 塩原俊彦 前掲書 112-113項
53 前掲著 『世界資源戦争』 (廣済堂出版、2002) 128項
54 島敏夫、中津孝司『21世紀の新グレートゲーム―エネルギー資源獲得の新潮流―』 (晃
洋書房、2001) 66項
55 前掲著 『世界資源戦争』 (廣済堂出版、2002) 10項
56 前掲著 『世界資源戦争』 (廣済堂出版、2002) 132項
57 中堂幸政 前掲書 163項
58 塩原俊彦 前掲書 128項
59 塩原俊彦 前掲書 128項
60 島敏夫、中津孝司 前掲書 70項
61 トビー・シェリー 前掲書 133-135項
62 島敏夫、中津孝司 前掲書 69項
63 前掲著 『世界資源戦争』 (廣済堂出版、2002) 132項
64 前掲著 『世界資源戦争』 (廣済堂出版、2002) 136項
65 前掲著 『世界資源戦争』 (廣済堂出版、2002) 143-145
66 島敏夫、中津孝司 前掲書 77、78項
67 島敏夫、中津孝司 前掲書 2項
68 中堂幸政 前掲書 77項
69 トビー・シェリー 前掲書 165、166項
70 白水和憲 前掲書 191項
71 トビー・シェリー 前掲書 166項
72 島敏夫、中津孝司 前掲書 3-7項
73 白水和憲 前掲書 81 項
74 経済産業省「新・国家エネルギー戦略」 (2006)
http://www.enecho.meti.go.jp/topics/energy-strategy/index.htm (2010.1.5アク
セス)
75 島敏夫、中津孝司 前掲書 170項
76 白水和憲 前掲書 80項
77 白水和憲 前掲書 194項
78 中嶋猪久生 「日本を襲うアザデガン油田失敗のツケ」 (『Foresight』1月号、2008)
92-95項
79 島敏夫、中津孝司 前掲書172、173項
80 前掲著 『血と油』 (日本放送出版協会、2004) 274-305項
81 経済産業省 「平成20年度 エネルギーに関する年次報告書」62項

26

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