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(博論様式5)

学 位 ( 博 士 ) 論 文 要 旨

学生番号 DS 13-002 氏 名 中西 学

研究指導教授 主査:絹谷幸二 副査:横溝秀実 坪田政彦 山縣 煕 研究領域 絵画

題 目

墨流しの研究
※芸術制作研究分野のみ記入

※作品テーマ 墨流しの応用としての作品「Luminous Flux」

※論文題目 墨流しの研究

要 旨(1200字以内)

私は作品制作において、日本の伝統技法である墨流しを応用している。なぜなら、宇宙の時間的ゆらぎが感じられ

る空間的形態を創出することができると考えたからである。墨流しは宇宙の根源的なかたちが生み出している波動を

作品にする上で、もっとも相応しい表現方法である。

このように宇宙のゆらぎや根源的なかたちを現わす手法を模索した結果、辿り着いた日本古来の墨流しの技法を現

代美術の分野に新たな表現として位置づけたいと考えている。そのための研究として墨流しの歴史や技法を考察する

とともに墨流しの制作における時間と空間の問題を考えることとする。

本論は、修了作品の表現形成としての墨流しの独自性に関する研究を主眼とする。墨流しが、いつ、どのように発

生したかを遡行し、墨流しの技法にみられる現象について考察する。墨流しを研究することは、墨流しと日本の風土

との関わりを明らかにすることでもある。

第一章の「墨流しの歴史と技法」では、平安時代後期の王朝貴族の遊びとしての墨流しの発生から推移について具

体的に叙述する。現在も古法墨流しが継承されている福井県の「越前墨流し」の実地調査をもとに技法の分析をおこ

なうとともに、現存する越前墨流しの料紙を検証する。さらに琳派と浮世絵の作例を挙げ、日本美術にみられる墨流

しの応用を確認してみる。

また作品制作に、墨流しと併用しているマーブリング(トルコのエブル、イタリアのマーブリング)と墨流しとを
比較検討し、墨流しの特徴を示してみる。

第二章では、墨流しにおける時間と空間という考え方とは、どのようなものなのかを思索する。墨流しの制作の時

間を墨流しの模様と流体現象から考察してみる。墨流しの制作の空間については、人と物、物と物といった、さまざ

まな「関係」に焦点をあて、墨流しの制作の本質に迫ってみる。また墨流しと現代の写真表現とを比較し、その時間

と空間の問題を考察する。墨流しの制作の時間と空間を「墨流しの時間と空間の射程」として論じる。

第三章の「墨流しの実践」では、制作論として、修了作品における墨流しの位置とその展開について述べる。作品

の制作背景と特徴を述べ、墨流しを応用した作品が、現代の表現としてどのような感覚を観る側に与えることができ

るのか、制作者と鑑賞者を結びつけることは可能なのかを考えてみる。

(本文総字数 31776 字)
(博論様式6)標題紙

平成27年度 学位(博士)論文

題 目
(日本語名)

墨流しの研究

(外国語名)

A Study on Suminagashi

※ 作品テーマ
墨流しの応用としての作品「Luminous Flux」

論文題目
墨流しの研究

研 究 領 域 絵画

研究指導教授 主査:絹谷幸二 副査:横溝秀実 坪田政彦 山縣 煕

学 生 番 号 DS 13-002

フ リ ガ ナ ナカニシ マナブ

氏 名 中西 学

※ 題目欄の作品テーマ・論文題目は芸術制作研究分野のみ記入。
目次

序・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1

第一章 墨流しの歴史と技法

第一節 墨流しの歴史について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4
第二節 墨流しの技法について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8
第三節 墨流しの多様性・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11

第二章 墨流しの時間と空間の射程

第一節 墨流しの時間・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15
第二節 墨流しの空間・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18
第三節 墨流しにおける相対的な時間と空間・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22

第三章 墨流しの実践

第一節 作品「Luminous Flux」について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 24


第二節 墨流しの応用としての作品・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・26
第三節 作品における時間と空間・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・29

結・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・32

参考文献等・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33
自作図版・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・35

墨流し(1)という技法は、平安時代後期の王朝貴族の遊びを起点とする。それは、川の水
面に墨をおとし、川の流れでつくりだされる模様の変化を楽しむ遊びであった。そののち、
たらい
宮廷の女人たちが、この模様の変化の面白さを宮中でも楽しむために、 盥 や水盤の水面に
墨を浮かべ、それを櫛で動かし、その模様を紙に写し取ることをしていた。そして、その
模様を写し取った短冊や色紙に詩歌を書くようになった。この遊びがやがて、紙の製法(紙
漉き)の発展にともない、装飾技法のひとつとしての墨流しとして一般化し、和歌や仮名
料紙などの意匠に応用されるようになった。(図 1)

図1 国宝 《西本願寺本三十六人家集》 三十六人家集 貫之集上 20.1×31.8 cm 紙本著色・墨書


平安時代 1112 年(推定) 京都・西本願寺 (日本美術全集第 9 巻 王朝の美術より転載)

鎌倉時代から室町時代における墨流しの確かな文献は見当たらないが、江戸時代中期に
なると、墨流しの技法を応用した多様な色や模様の料紙が生産された。また当時、墨流し
えいそう りょうし
の模様は単に古筆の装飾料紙(詠草料紙)としてのみならず、布帛の染色にも取り入れら
れ、さまざまな領域に応用された。墨流しの模様がのちに、江戸時代中期の鈴木春信の浮
世絵や尾形光琳の有名な『紅白梅図屏風』などの日本美術にも見られるようになった。
こうした時代の流れにより、墨流しの模様は、今も福井県の越前市に残っている。
修了作品は、外在的な古典技法の墨流しと制作者としての内在的な精神活動とをともに
内包する作品の制作を考えている。それは、墨流しを単に紙へ染色することに留まらず、
そこに新たな手法を加えることを意味している。つまり墨流しに固有の流動性に着目する
とともに、制作者の内的精神活動の表現としての制作に取り組んでいる。
墨流しによるこうした制作および研究のきっかけは、ある時、深夜のテレビ番組で NASA
(アメリカ航空宇宙局)のハッブル宇宙望遠鏡が捉えた宇宙の映像を観たことにある。

(1)『日本国語大辞典 第二版』7 巻 、1060 頁に、墨流染は「墨汁または顔料で水面に文様を作り、それを紙や布に吸い


とり、模様を染めとる方法。また、その製品。墨流し。
」と説明がある。このことから墨流しという言葉の用法には、装
飾料紙の技法と製品(料紙)の両方の意味がある。本論では原則として墨流しの技法を指すものとして用いるが、文章
の前後関係から製品をも含意する場合がある。

1
この映像には、銀河や星雲などが鮮明に映し出されているとともに、のちに本論で述べ
るように生命の生誕についての解説も含まれていた。そこに人類にとっての共通の原風景
を想い描き、それを作品にするための模索を始めたことが、この制作と研究の背景であり、
やがて、それが修了作品「Luminous Flux/ルミナスフラックス(光束)」に結実すること
になる。
その模索の当初において、有機生命体がもつ、根源的なかたちが生み出している波動を
作品にするのに相応しい表現方法の可能性を考えた。宇宙の映像にあった空気の動きによ
る連続的なゆらぎを美術作品へ置き換えるには、単なる描写ではなく、何らかの手法を導
入しなければならないと考え、思索を深めるとともに試行錯誤を繰り返した。
まず初めに取り組んだのは、西洋美術のシュルレアリストの手法であるデカルコマニー
(転写画)(2)のオートマティスムによる試作であった。しかし、その手法では思い通りの
動きを画面に創出させることは出来なかった。またアメリカ現代美術のカラーフィ―ルドペ
インティングの手法のひとつであるステイニング(滲み込ませ法)(3)も試したが、それで
も、連続する形象を現わせないことに気がついた。これら既存の方法では、求めている動
きが得られなかった。
制作方法を模索するなかで、改めて宇宙の姿に目を向けてみると、数ある銀河のひとつ
「渦巻銀河」
(図 2.A)の形が、幼少期に墨汁で試した墨流しと類似していることに気付い
た。

図 2. A Spiral Galaxy M83: The Southern Pinwheel B 広場家五十五代目作 《越前墨流し》 制作年不明

「渦巻銀河:南方の風車」 ©NASA 福井県武生市(現・越前市) (『染織と生活』第 7 号秋より転載)

うずまき わん かじょう わん
図 2 の A,B の比較で見られるように、銀河の中心から渦巻腕(渦状腕)が外側へ流れ、広
がる様子(A)は、墨流しの模様(B)と相似している。「渦巻銀河」の存在を知ったことに
より、墨流しの手法を作品に取り入れることを思いついた。墨流しの手法を用いることで、
時間的ゆらぎが感じられる空間的形態を創出することができるという確信が生まれた。

(2)「紙に絵具を塗り、二つ折りにするか、別の紙を押しつけてはがすときに生じる偶然の形態の効果に注目した手法」
『新潮世界美術辞典』新潮社、1985 年、975 頁
(3)「下地処理の施されていない素地のキャンヴァスに絵具を滲み込ませる技法。
」URL/art scape 上崎千『現代美術用
語辞典 ver.1.0』

2
このように、宇宙のゆらぎを現わす手法を模索した結果、辿り着いた日本古来の墨流し
の技法を現代美術の分野に新たな表現として位置づけたいと考えている。そのための研究
として墨流しの歴史や技法を考察するとともに墨流しの時間と空間の問題を考えることと
する。本文では、墨流しの歴史を縦軸とし、墨流しの実践を横軸に取り、墨流しの本質を
顕在化させることに重点を置いている。

本論文の構成は以下の通りである。
第一章では、まず墨流しの歴史的考察をおこなう、その際、墨流しそのものの技法の分
析に加え、トルコの「エブル」、イタリアの「マーブリング」の装飾技法との比較検討を通
して、墨流しとは何かを考えることにする。
第一節では、平安時代後期の発生期における墨流しの位置と用途を確認し、次いで江戸
時代に多様化した墨流しが、どのように日本美術に応用されているかを、江戸時代中期の
浮世絵師・鈴木春信と琳派の画家・尾形光琳の作例から考察する。また、なぜ墨流しの技
法が日本で発展したのかを探る。その発展は日本人のものの見方と、どのように関係して
いるのかを考える。第二節では、今も墨流しの伝統を受け継いでいる福井県の「越前墨流
し」の実地調査(墨流し伝統工芸士・福田忠雄氏の取材)に基づき、その技法と性質を分
析する。第三節では、先に挙げたエブル、マーブリングと墨流しとを比較し、それらの相
違を明確にすることで墨流しの技法の独自性を顕在化させる。
第二章の墨流しの射程では、墨流しの制作における時間と空間の問題について考えるこ
とにする。また墨流しの時間と空間との問題を現代の写真作品のそれとを比較検討するこ
とで、墨流しの制作にみられる時間と空間を考察する。
第一節墨流しの時間では、墨流しの染料が水面に広がる模様に、どのような時間が生じ
ているのかを検討する。第二節墨流しの空間では、墨流しの制作に関わるさまざまな要因
の相関関係によって、どのような空間が生じるのかを検討する。第三節では、第一節と第
二節の考察をもとに墨流しの時間と空間とを現代の写真(遠藤湖舟[ゆらぎ]の作品)に見ら
れる時間と空間とを比較検討することで、墨流しの時間と空間を示してみる。
第三章では、第一章の墨流しの歴史と技法において見た日本の風土や美の捉え方と第二
章の墨流しの時間と空間についての考察を踏まえ、本論文のこれまでおこなってきた墨流
しの研究が、作品とどのように関係し、それがどのように反映しているのかを制作論とし
て展開する。
第一節で、修了作品「Luminous Flux」の制作背景と作品の特徴を述べ、第二節では、墨
流しを応用した表現技法を具体的に示す。第三節では、作品における時間と空間の問題を
論じる。また、こうして生まれた作品が、現代の表現として観る側にどのような感覚を与
えることができるのかを考えるとともに、制作者と鑑賞者を結びつけることは可能なのか
を考察する。

3
第一章 墨流しの歴史と技法

第一節 墨流しの歴史について

墨流しは、序において述べたように平安時代後期(12 世紀頃)の王朝貴族の遊戯に始ま
る。それは、川の水面に墨をおとし、川の流れによってつくり出される模様、すなわち偶
然の模様ができる様子を楽しんだことによる(4)。このように墨を川に流す王朝貴族の発想
は、今も年中行事として受け継がれている京都城南宮の「曲水の宴」(5)にあると考えられ
る。
それは水の流れに惹かれ、水の動きの面白さを活かした遊びであったといえる。やがて、
水の流れを墨流しに応用したと考えられる。
曲水の宴において、詩歌を詠むのは貴族のたしなみのひとつであり、創作した歌をした
ためる短冊とそこに書かれた文字は、興趣ある作品となっていた。
をのこで
平安時代には、男性が行書体、楷書体(男手)を使用していたのに対して、女性は文字
をんなで
を流れるように草体化させていった。この文字を極度に略体化(女手)するのは、女性た
ちの発想とされている(6)。当初、女人たちは草花で紙を染め、そこに詩歌を詠んでいた。
水の流れによって墨がつくり出す模様の変化の面白さを宮中でも楽しむために、そののち、
たらい
宮廷夫人や女官が、 盥 や水盤の水面に墨を浮かべ、それを櫛で動かし、その模様を紙に写
し取る技法が考えられた。その技法を短冊や色紙に応用することで、そこに詩歌を書いた。
やがて、紙漉き技術の向上にともない、装飾技法のひとつとして墨流しが、和歌や仮名料
紙などの意匠に応用されるようになった。
こうした平安時代の女人たちの感性が、墨流しへの関心を涵養したのではないだろうか。
じょうきょうでん にょうご
承 香 殿女御と称される藤原道子もそのひとりであった。藤原道子は、「西本願寺本三十六
人家集」の創作に携わったとされている(7)。
この国宝指定・全巻 37 帖の「西本願寺本三十六人家集」
(平安時代後期〔推定 1112 年〕)
のなかで、紀貫之と凡河内躬恒の和歌の装飾料紙が、墨流しを取り入れた現存する最古の
あつ よう
料紙である(図 1)。この三十六人家集の料紙には、主に厚様という雁皮質の厚手(鳥の子)
からかみ
や唐紙が用いられている。

(4)「典雅流麗なこの技法は、京都・南禅寺にある小川の、細い流れの上流から墨を流し、下流でそれを紙に写しとった
ものと伝えられている。」片野孝志 著『染紙の技法』総合科学出版、1980 年、106 頁
じょうし
(5)「(ゴクスイノエンとも)古代に朝廷で行われていた年中行事のひとつ。3 月上巳、後に 3 日(桃の節句)
に、朝臣が曲水に臨んで、上流から流される杯が自分の前を過ぎないうちに詩歌を作り杯をとりあげ酒を飲み、次へ
ひこう
流す。おわって別堂で宴を設けて披講した。もと中国で行われたものという。
」新村出 編『広辞苑 第六版』岩波書
店、2008 年、744 頁
(6)杉岡華邨「現代書道とかな」
『墨』六月臨時増刊 書体シリーズ―4 かな百科、所収 4 頁₋6 頁、芸術新聞社、1990 年、
5頁

4
このように、かな文字の草書体や墨流しの流麗さは女性特有の文化のひとつとして考え
られる。また、この墨流しの装飾料紙には、川や水路の水に恵まれている日本の風土なら
ではの情趣が窺える。水のイメージについて鶴岡真弓は、
「季節の移り変わりや無常の時間
を、そこはかとなく知らせてくる水のかたち。」(8)と指摘している。また鶴岡氏は、仮名に
ついて「時や風の流れそのままに生き死に揺れる植物が、ただその字形にたとえられるほ
どである。」(9)とし、こう続けている「三十六人家集の料紙の装飾は、水であり萩でなけれ
(中略)仮名の姿は風の『音』である。」(10)鶴岡氏が指摘するように、日本人
ばならない。
は水の流れ、時の流れを書の文字や文様のかたちに現わしているといえる。墨流しによる
装飾料紙は、三十六人家集のなかでも日本人の情感をもっとも感じとることができる。
この三十六人家集の料紙には、さまざまな装飾が施されている。それは紙漉きの工程で
き ら
紙を染色し、墨流しのほか、金・銀泥や雲母の型紋様、さらに草花の描写も施されていた。
この贅を尽くした装飾料紙は、流麗な仮名で綴られた和歌とみごとなまでに一体感があ
る。そこには季節の移ろいや、自然の流れを受け止め、それを楽しみとする日本人の美の
本質があるといえる。そのことについて高階秀爾は、「日本人にとっては美とはむしろ時
の流れとともに消え去りゆくもので、失われゆくものに対する愛惜の思いが、美意識の重
要な要素のひとつとなっているのである。」(11)と指摘している。鶴岡、高階両氏の考察か
らも、日本人が自然と一体化しようとする意識が高いといえる。
従って、平安貴族、特に女人たちは、川の流れがつくり出す偶然の模様に移ろいの美(も
ののあわれ)を感じ、それをかたちとして残すために、墨流しという手法を思いついたと
考えられる。中国から日本に伝播した墨と紙が、日本の貴族文化のなかで洗練され、やが
て墨流しの料紙になったといえる。
その後の鎌倉時代から室町時代においては、戦乱と武家社会のなかで、墨流しの展開が
見られず、確かな文献は見当たらないが、江戸時代中期になると、墨流しによる多様な色
や模様の料紙が生産され、今も福井県の越前市に残っている。
平安時代後期の料紙は、墨 1 色の墨流しの模様であったが、江戸時代中期では墨に藍色
と紅色を加えた 3 色となった。それは料紙の装飾のみならず、布帛の模様にも取り入れら
れ始めた。この布帛を染める墨流しは、紙染めとは異なり、水質や染める布地の状態(伸子
ふ く さ
張り)、さらに染色後の色止めに工夫を要した。その用途は、長襦袢や風呂敷、袱紗などで
あった。

(7)『西本願寺本三十六人家集』の 20 人筆説に「二十筆のうち、筆者が確定、もしくは推定されているのは、第一筆に
藤原定実(推定)第二筆に藤原定信(ほぼ確定)
、第三筆に藤原道子(推定)の三名のみである。
」とある。木下政雄 編
『日本の美5 168 三十六人家集』至文堂、1980 年、29 頁
(8) 鶴岡真弓 著『装飾する魂―日本の文様芸術』平凡社、1997 年、114 頁
(9) 鶴岡真弓 著 同書 186 頁
(10) 鶴岡真弓 著 同書 186 頁
(11) 高階秀爾 著『増補 日本美術を見る眼――東と西の出会い』岩波書店、2009 年、234 頁

5
こうした実用品のほかに、墨流しの模様は、浮世絵にも応用されるようになった(12)。
江戸時代中期の浮世絵師・鈴木春信(1725-70)の『見立寒山拾得』(図 3)と『女猿曳き』
(図 4)の背景に、墨流しの模様が木版画で再現されている。
『今、浮世絵が面白い!第 5 巻 鈴木春信』に、それは「一見すると墨流しの料紙に人物
を摺り込んだように見える下図だが、実際には背景専用の版を起こして摺っている。」(13)
とある。また『春信 美人画と艶本』では、その流れるような墨流し文様に目を凝らしてい
ると、背景がゆらゆら動きはじめて、人物像が手前に浮かび上がってくるようにも見える
べにずり え
とあり、墨流しを背景にした浮世絵は、石川豊信(1711-85)が紅摺絵(墨版と僅かな色摺り
の木版画)に取り入れているが、錦絵に墨流し模様を応用したのは鈴木春信が最初である
という。また錦絵の時代を迎えると、ほかの浮世絵師も背景の余白の処理にも凝り始める
ようになったとされている(14)。この時代の浮世絵師は、彫師、摺師の技術を駆使し、優れ
た版画を多数制作しているが、春信のように大胆な墨流しの模様と人物とを巧みに組み合
わせた浮世絵は、ほかに見当たらない。
春信の作品は、墨流しの模様を単に背景の余白の処理として取り入れただけではなく、
墨流しの模様のゆらぎがつくり出す空間を創出しているといえる。

図 3 鈴木春信 《見立寒山拾得》 31.7×20.7 cm 図 4 鈴木春信 《女猿曳き》 31.9×20.6 cm

間判錦絵 1765~70年 ギメ美術館 パリ (2点とも『秘蔵浮世絵大観 6 ギメ美術館Ⅰ』講談社より転載)

(12) 時系列では、鈴木春信の『見立寒山拾得』と『女猿曳き』(1765~70 年)以前に尾形光琳の『紅白梅図屏風』(1710


年頃)は制作されているが本論の構成上、先に鈴木春信について述べている。
(13)白倉敬彦 監修『今、浮世絵が面白い!第 5 巻 鈴木春信』 学研パブリッシング、2013 年、27 頁
(14) 中村真一郎・小林忠・佐伯順子・林美一 共著『増補・春信 美人画と艶本』新潮社、2003 年、8 頁

6
ほかに江戸時代中期の日本美術では、琳派の画家・尾形光琳(1658-1716)の国宝『紅白
梅図屏風』の画面中央に墨流しそのものを想起させる水流が描かれている(図 5)。

図5 尾形光琳 国宝 《紅白梅図屏風》 〈白梅図〉〈紅梅図〉 各 156.0×172.2 cm

(二曲一双) 紙本金地・銀地着彩 江戸時代 18 世紀(1710 年頃) 静岡県 MOA 美術館

しかし、その水流は、実際に墨流しを施したものではなく、もとは銀で描かれ、それが
黒変して異様な効果を生んでいる(15)。また左右の梅の木は、日本画の彩色技法のひとつ「た
らし込み」(16)によって描かれている。むしろ、その「たらし込み」による滲みの効果が、
より一層墨流しに近いといえないだろうか。なぜなら、最初に塗った色が乾かないうちに
次の色をたらすことにより、偶然の色彩形態を生み出す手法は、古法墨流しに通ずるとこ
ろがある。矢代幸雄が、日本絵画の「たらし込み」による滲みの類似例として墨流しの装
飾技法を取り挙げ、
「水と絵具――ここでは墨――との溶解関係の面白さを天然に形成せし
め、人為を越えたる有機的結合をもって、一つの特別なる美の世界を現出させるのである」
(17)
と言及している。このことからも墨流しやたらし込みは、水の流動性による偶然の効果
を取り入れていることが見てとれる。
次に、今も墨流しの伝統を受け継いでいる福井県の「越前墨流し」の実地調査(墨流し
伝統工芸士・福田忠雄氏の取材)に基づき、墨流しの技法と性質について述べる。

(15)『名画日本史』1 巻 イメージの 1000 年王国をゆく 朝日新聞社、2000 年、14 頁


(16)
「日本画の技法の一。色を塗って乾かないうちに他の色を垂らし、にじみの効果を生かすもの。
」『大辞泉 第二版』
小学館、2012 年、2279 頁
(17)矢代幸雄 著『水墨画』岩波書店、1969 年、93 頁

7
第二節 墨流しの技法について

ひ ろ ば よし はる
墨流し伝統工芸士の広場美治によると、福井県「越前墨流し」の由来は、およそ 850 年
にんぺい
前の平安時代後期の仁平元年(1151 年 2 月 1 日)に奈良春日大社の神託を受けた初代・広
場治左衛門が、秘伝の紅、藍、墨流し鳥の子紙の製造のために、良質の水を求めて諸国を
た け ふ
遍歴の末、墨流しに最適の生水が武生にあり、そこに定住したとされている(18)。
も が み
越前墨流しは、顔料を草木染料に徹し、墨は奈良墨、藍は阿波の藍、紅は最上の紅花を
用いることにより、平安時代の墨流しの優雅さや面影を表現しているという。(平安時代後
てんしょう けいちょう
期の墨流しは墨 1 色)現在、江戸時代初期から続く広場家(天 正 ・慶 長 年間に声価を整え
る)(19)の越前墨流しの後継者は、福田忠雄氏である。福田氏は、2000 年に墨流し伝統工
芸士として福井県の無形文化財技術保持者に認定されている(20)。当初広場家の越前墨流し
は、一子相伝の門外不出の秘法であったが、福田氏の代になると、墨流しが途絶えないよ
うに、墨流しの技法を広く知ってもらうため公開されるようになった。
福田氏の墨流しの実演は、井戸水を汲んだ水槽の水面に墨のほか藍や紅の染料と撥膜材
の松脂の付いた筆を交互に付ける。すると水面の染料と松脂が同心円状に広がり、それを
何度も繰り返すと、年輪のような模様ができる。(図 6)そこへ息を吹きかけ、扇子で風を
送ると、 ま る で 生 き 物 の よ う に 染 料 が 動 き 、 さ ざ 波 の よ う な 模 様 に な っ て い く 。
福田氏は、その模様をすかさず手漉き和紙に吸いとり、慎重に引き上げた。(和紙も福田氏
の手製である)目の当たりにした墨流しは、僅かな時間(5 分程度)で、模様を写し取った
一点制作(ふたつとない)の精微な美術工芸紙であった(図 7)。

図 6 福田忠雄氏による越前墨流しの実演 (2015年3月4日) 図 7 福田忠雄作 《越前墨流し》 (2015年3月4日)

(18)
『染織と生活』第 7 号・秋 特集 墨流し染、染織と生活社、1974 年、35-36 頁
(19)同書 37-38 頁
(20)福井県教育庁生涯学習・文化財課のホームページ『福井の文化財』に、「福井県ではこれまで、この技術を受け継
ぐ技術者を技術保持者として認定してきた。昭和 34 年に広場治左衛門氏(昭和 51 年没)
、昭和 59 年に広場美治氏(平
成 9 年没)
、昭和 61 年に山田幸一氏(平成 8 年没)
、平成 12 年に福田忠雄氏を認定した。
」と説明がある。

8
福田氏は、「墨流しをおこなうには、暖かくて穏やかな日が望ましい、その方が精神的に
も安定し、染料の伸びもいい。」という。紙漉きや墨流しは水温の低い冬場が適している。
しかし、技術者としての氏の精神状態、つまり心の動きが制作に影響すると考えられる。
また福田氏は、「墨流しは、経験を重ねても奥が深い技法であるが、それを写し取る和紙
の製法にも苦労する。」という。墨流しの模様を鮮明に写し取る紙の製法は、非公開であっ
たが、染料の吸収性に優れていることから雁皮質の鳥の子紙と考えられる。
「今の時代は多色の墨流し模様よりも、墨の濃淡だけの風合いが好まれるが、同じ模様
の大量生産を要求されるので困ることがある。
」と語っている。墨流しは、墨だけの素朴な
模様であっても、自然現象によって偶然をともない、同じ模様がつくれない染色技法であ
ることを示唆している。
かくしゃく
福田氏は御年 89 歳であるが、矍 鑠 とされていた。その理由として、国内はもとより、海
外にまで出向き、精力的に墨流しの実演をされているからであろう。しかし、特に気温の
高い場所(ハワイのホノルル、マレーシアのクアラルンプール)では、墨流し用の水槽の
水温も上がり、思い通りの制作ができず、大変困ったという。その対策として現地の水道
水の替わりにミネラルウォーターを用いて、墨流しを実演されたと聴く。
墨流しの染色に用いる水が、湧き水や地下水の純度の高い軟水であれば、制作工程に支
障が少ないといえる。墨流しをおこなう水質について、墨流し研究家の浅見素石は、「水は
温度が高くなる程粘度が低下して流動性を増し、人為的に制御し難くなるので、水温はな
るべく低い状態(つまり夏よりは冬)の方が扱い易いといえよう。」(21)と指摘する。
冬場は、もともと水温の低い井戸水の温度がさらに下がり、水の流動性も少ないため、
墨流しの制作の好条件のひとつになる。低温の高純度な水の働きは、染料の浮力を維持す
るとともに染料の急な拡散を抑制する。
このように墨流しは、鮮明な模様を染色するために、紙の吸水性が重要であるとともに、
基剤の水質が生命線であるといえる。
先に述べた広場家伝統の墨流しは創業以来、鑑賞用の墨流しの染色技法であったが、明
治以降は和紙のほか布帛にも墨流しを施したハンドバッグや懐紙入れなどの実用品を生産
していった。こうして、墨流しの製品が一般に流通していくことになった。
せいりゅう
越前墨流しの模様は、基本的に「正 流 」
「横流し」
「縦流し」
「渦」の 4 種の組み合わせで
構成されるが、図 8 の広場家五十五代目の作品は、今もなお模様が水面で動いているよう
に見える。
福田忠雄氏の墨流し工房が位置する越前市今立歴史民俗資料館には、越前市教育委員会
所蔵の江戸時代の越前墨流しの貴重な装飾紙が計16点保管されている。それらの紙資料は、
民具として重要有形民俗文化財の認定を受けている。

(21)浅見素石「墨流し染に関する私論と私観」墨流し特集号『かみと美』第 5 巻 第 2 号所収 2 頁₋8 頁 1986 年、3 頁

9
図 8 (序 図2.B) 広場家五十五代目作 《越前墨流し》 制作年不明

福井県武生市(現・越前市) (『染織と生活』第7号秋より転載)

図 9 《古紙・墨流し「鱗雲紙」》 36.5×49.7 cm 江戸時代(寛政年間1789~1800)

西本願寺・飯田榮助寄贈 重要有形民俗文化財(越前市教育委員会所蔵) 写真提供:越前市教育委員会文化課

その江戸時代中期から後期の間につくられた古紙は、墨や藍の単色のほか、墨、藍、紅
の3色の墨流しが奉書紙や鳥の子紙、短冊に施された多様な装飾紙である(図9)。
こうした墨流しの料紙について、越前市教育委員会文化課の佐藤登美子学芸員は、次の
ように述べている「墨流しには余白を多く取ったり、薄い色味を用いている。これは歌な
どを書きつけたときの文字とのバランスを考慮してのことと考えられる。」(22)江戸時代の
墨流しの料紙の用途は、書や詩歌の意匠であった。それは、平安時代後期の装飾料紙にお
ける墨流しの位置を継承しているともいえる。
ここで、墨流しはどのようにして出来るのか、その性質について述べることにする。
墨流しは水の動きを利用している染色技法であり、水面にできた模様は微風や時間経過
により変化するため、制作には慎重さと集中力を要する。地上では重力の影響で水の浮力

(22)佐藤登美子「江戸時代の越前美術工芸紙-紙の文化博物館所蔵の資料紹介-」
『和紙文化研究』第 20 号、所収 6 頁
₋16 頁、2012 年、15 頁

10
が抑制されるため、墨流しは、水と微かな油分との反発作用により、水面に滴下した染料
が浮力で残る。(時間経過とともに染料は沈下する)その水(液体)の表面張力を応用して
浮いている染料を基底材へ写し取っている。
ところが、浮力と水の表面張力には対流が生じており、表面張力は表面温度の低い方が
強く、高い温度は低い温度側へ引っ張られ、対流渦も強くなる。このことから墨流しは、
気温、湿度、さらに染料の性質により、水面へ滴下した染料の拡散が生じるため、制御が
困難であるといえる。
また全く同じ模様がつくれない一点制作であるとともに、水の流体から予期せぬ模様に
なり、その偶然模様を効果とするか否かは、作り手の捉え方次第といえる。
次に、修了作品の制作に墨流しと併用しているマーブリングの技法(トルコのエブル、
イタリアのマーブリング)を墨流しと比較検討してみる。

第三節 墨流しの多様性

墨流しとマーブリングは一見すると似ているが、実際には、その技法と性状は異なって
いる。
ここでは、ヨーロッパのマーブリングの基となった中東のエブルを取り挙げ、日本の墨
流しとトルコのエブル、イタリアのマーブリングとの違いを述べることにより、墨流しの
独自性を示すことにする。
エブルは、トルコの装飾技法のひとつである。Ebru とは、トルコ語で雲を意味する Ebr
を語源としている(23)。エブルは 16 世紀のオスマン帝国時代に最盛期であった。それは、
主にスルス体(アラビア文字の書体の一種で優美な曲線で構成されている)で書かれたア
ラビア書道やコーラン(聖典)の装飾として重宝された。近代になり、エブルの模様が機
械で生産されるようになり、手づくりのエブルの実用品は、ほとんどない。また現在では
トルコ・イスタンブールに、チューリップやカーネーションなどの花を描くトルコ独自の
絵画作品、いわゆるエブルアートをつくる専門のアーティストが多数いるという(24)(図
10)。
一方、イタリアのマーブリングは、大理石模様に例えて付けられた名称である。
マーブリングがヨーロッパに知られるようになったのは、中近東を訪れたヨーロッパの
旅行者がトルコ紙(エブル装飾紙)を土産として持ち帰ったものが最初だといわれる。
その後、エブルの秘法がローマで、トルコ風の料紙装飾美術に関する文書などにおいて、

(23)久米康生 「マーブル技法の源流」
『百万塔』 第 73 号、紙の博物館、所収 19 頁₋24 頁、1989 年、21 頁
(24)駒崎加奈「トルコのエブル(マーブリング)について ―歴史・技法・用途」東京外国語大学外国語学部 地域・国
際コース南・西アジア課程トルコ語専攻卒業論文 2003 年、3 頁
(25)駒崎加奈 同論文、23 頁 Phoebe Jane Easton, Marbling a history and a bibliography, LosAngeles,1983 年 33
頁(この箇所の引用は、原文が確認できないため、孫引きとなる。

11
製本業者の間で広まったのがマーブリング紙の起因とされている。その技法は、盛期ルネ
サンスを契機として、イタリアを中心に 17 世紀にはヨーロッパ(イギリス、フランス、ド
イツ各国)に広まった。それは、ルネサンスの三大文明のひとつ 1440₋50 年に始まった活
版印刷により紙製品の生産が急速に普及し、印刷技術が確立したことが大きな要因になっ
ている。さらに、本が富裕層でない一般の人々にも広まってきたのと同期し、本の装丁に
は好都合な素材としてマーブル紙が注目され、人気を博したという(25)(図 11)

エブルとマーブリングの伝統的な技法は、清水にトラガカントゴム(トラガカントゴム
ノキ〔小アジア産豆科ゲンゲ属の低木〕から滲出するゴム質)の成分を混入した水溶液を
つくる。その水の比重を重くした水溶液が染料の制御を可能にする。この点が、純正の水
で染色する日本の墨流しと大きく異なっている。
染料は粉末状の鉱物(石、金属等)の原料に、黒い液体状の雄牛の胆汁(オックスガル)
こんこう
を混ぜる。それは水面に浮かべた数色の染料の混淆を防ぐのと、紙へ転写した染料の耐久
性を保つためである。エブル、マーブリングの染料のトーンは、墨流しの淡い色に比べ、濃
い色合いである。また、墨流しが息や扇子の微風で模様を生み出すのに対し、エブルやマ
ーブリングは、専用道具を使う。エブルは馬の尻尾の毛と薔薇の枝を用いた手づくりの筆
で模様をつくり、マーブリングは、鉄製の針や数種類の櫛によって、さまざまな模様をつ
くる。
これらの材料と道具は、繊細な花の表現や複雑な模様をつくるために工夫されたもので
ある。エブルとマーブリングの材料の成分や技法は、およそ同じである。ただ、マーブリ
ングは基底材の紙にミョウバン(明礬水)を塗布し、染料の定着力を強めている点が異な
っている。
このようにエブル装飾紙の影響のもと、マーブリングの技法が開発されたことから、エ
ブルとマーブリングの染色技法は不可分な関係にあるといえる。

図10 《鑑賞用のトルコ・エブルアート》 図11 《マーブル紙の見返し》 フランス・パリ 装丁本

Onder Cankurtaran作 29.8×21.0 cm 2011年 (筆者蔵) 18.7×12.6×2.6 cm 1895年 (筆者蔵)

12
またマーブル紙はヨーロッパを初め、欧米諸国で知名度があるのに比べ、トルコのエブ
ル紙は、用途が主に鑑賞用のため、日本ではあまり知られていない。こうしたゴム樹脂の
水溶液に油性系染料を用いるエブル、マーブリングに対し、純正な水を用いて膠を混合さ
せた草木染料と松脂で染色する墨流しとは、異なる性質の装飾技法であり、色調も違って
いる。
福田忠雄氏の古法墨流しに見られように、墨流しの模様は水の表面張力や対流の作用に
より、ふたつとない偶然形態を生成している。他方、エブルとマーブリングも同じ模様を
再現できないが、墨流しと異なり粘質の溶液となることから染料を制御し、具象形態や装
飾模様の染色が可能である。このことからエブルとマーブリングは、自然現象(風や水の
対流)による影響や偶然性が墨流しに比べ少ないといえる。
古法墨流しのように純正な水を用いて模様を生み出す手法は、ほかの装飾技法あるいは
絵画技法に見当らない。
それは、日本に高純度な水があり、良質の和紙が生産されたことも相まって墨流しが発
生したと考えられる。表1は、これまで述べてきた墨流しとエブル、マーブリングの主な
特徴を比較したものである(26)。

【表 1】墨流しとエブル〔マーブリング〕の主な比較項目

墨流し エブル〔マーブリング〕

溶液 地下水 トラガカントゴム

色相 黒 藍 紅など 多様な色

混成物 膠・松脂 オックスガル(牛の胆汁)

染料主成分 草木染料 鉱物(石、金属等)

基底材 鳥の子和紙 トルコ紙 〔明礬水塗布の紙〕

染料滴下法 局所的点在 全体に散布

技法 息や筆による 専用道具による

溶液の流れ 自然による 強制的流れ

模様の制御 困難 容易

初期模様 (例)同心円 (例)小石模様 〔櫛目〕

生成模様 (例)渦模様 (例)花 〔プケー・羽根模様〕

用途 装飾料紙、着物 装飾料紙、鑑賞用エブルアート
財布、名刺入れなど 〔書籍の装丁、文具の装飾〕など

(26)田中久美・藤野清次・児島彰「5U−01 CG によるマーブリングと墨流し技法の比較研究」情報処理学会 第 58 回全
国大会、広島市立大学情報科学部情報工学科、1999 年の「表1:伝統的墨流しとマーブリング」を参考に作表した。

13
「墨流しの歴史と技法」の章では、時系列に沿って墨流しについて叙述した。平安貴族
が自然の川の流れによって墨流しを生み出し、それを装飾技法のひとつとして上質な紙に
染めていたことを確認した。この時代(宮廷人)の自然に対する美意識は、のちの鈴木春
信の錦絵や琳派の日本美術に見られるように、移ろい、流れ、いわば時間のひとつのかた
ちとして継承されていたのではないだろうか。
また、越前墨流しの取材を通してマーブリングとの違いがあることを示し、墨流しの技
法の独自性を顕在化してみた。
次の章では、墨流しの様態にみる現象、すなわち墨流しの時間と空間とはどのようなも
のなのかを考察する。さらに、墨流しにおける時間と空間と現代の写真にみられる時間と
空間とを比較検討してみる。

14
第二章 墨流しの時間と空間の射程

第一節 墨流しの時間

墨流しの模様が、染色後の和紙のなかで揺らいでいるように見えるのは、なぜだろうか。
そのことが、墨流しの制作における時間と空間に関係しているのではないだろうか。
前章で述べたように、越前墨流しは僅かな時間(5 分程度)で制作をおこなう技法である。
その限られた時間内において、墨流しの形態は刻一刻と変化していく。水面で展開する模
様は、それぞれの瞬間に異なる時間を示しているのではなかろうか。
時間の概念のひとつには、過去から未来に向かって流れる現象としての時間がある。
それについて、哲学者の滝浦静雄は「過去・現在・未来にしても、前・後にしても、そ
れぞれ一つの系列を形成しているし、時間がしばしば流れに喩えられるのも、流れこそが
流動的な系列に最もふさわしいイメージを提供するからであろう。しかし、系列といって
」(27)と指摘している。当
も、その形態はいろいろあり、その捉え方もさまざまであろう。
然のことだが墨流しの模様は、流動的な時間の系列のなかで生成される。
そこで、前章の第三節【表1】
(13 頁)に示した墨流しの初期模様と生成模様の時間に照
準を定め、墨流しの異なる現象としての時間について、越前墨流しの制作時間の一例を計
測し、その時間に基づき考察してみることにする。
越前墨流しの初期模様と生成模様は、それぞれ同一時間(約 1 分 50 秒)で展開している。
しかし、それらの様態には異なる特徴があるといえる。
その墨流しの様態について中谷宇吉郎は、氷河の流動性を例えに、こう述べている「墨
流しは、水面につくった薄い墨膜に、たくさんの孔をあけ、それを揺り動かしたときにで
きる模様である。孔をつくるには、微量の脂肪を使うので、この孔というのは、実は脂肪
の薄い膜なのである。この脂肪の薄膜と、墨の薄膜とは、揺り動かされている間も、決し
てまざらない。それで墨の線条と、白いところすなわち脂肪の線条とが、交互にならんだ
恰好になる。別の言葉でいえば、二本の墨の線条間には、必ず白い線がはいる。それで墨
の線条は、どんなに曲がりくねっても、常にならんでいて、互いに交錯することはない。」
(28)
中谷が指摘するように、墨流しの形状は水面が流動することにより、線が不規則に変化
する。これは、墨流しの初期模様と生成模様の様態に異なる性質があることを示している。
つまり、2 つの様態のなかに異なる時間が存在していると考えられる。

(27)滝浦静雄 著『時間―その哲学的考察』岩波書店、1976 年、84 頁


(28)中谷宇吉郎 著 紀行集『アラスカの氷河』岩波書店、2002 年、330 頁

15
まず、墨流しの制作時間による特徴として、水面に展開される模様を比較してみる。
墨流しの初期模様は、染料と撥膜材の松脂によって同心円状になる。その形態に注目する
と、染料と染料の間には必ず松脂による透明の余白が存在する。(中谷のいうところの孔、
脂肪である)つまり染料がブランク(空白)をはじくことにより、連続的な同心円に広が
るのである(図 12)。

図 12 墨流しの初期模様(同心円状) 越前墨流し福田忠雄工房

この初期模様において、水面の中心に染料と松脂の筆を交互につけてできる同心円の形
態は、時間の間(ま)を現わしているといえないだろうか。なぜなら撥膜材の松脂の筆を
水面につける間隔は、動作の間(ま)、すなわち行為の間(ま)であり、水面に次々と生
まれる同心円状の余白は、物質の間(ま)である。
このように墨流しの連続する同心円の初期模様は、約 1 分 50 秒のなかに、間(ま)をお
くことにより、生起していると考えられる。
フランスの美術批評家ロラン・バルトは、日本の間(ま)という概念について「日本の
美学には、空間・時間というカント的カテゴリーはないが、それよりも精緻な間隔(日本

『間』)というカテゴリーがあるのだ。」(29)と言及している。さらに、間(ま)を
語では、
禅の精神であり、悟りであるとし、西洋では、それを天啓、あるいは覚醒と訳している(30)。
バルトが日本の美学として指摘している「間」を捉えると、墨流しの時空間は、水と風
の作用を取り入れ、そこに流れを生み出し模様を染めるという、時間の流れを視覚化する
かのような特徴が見られる。またそれは、自然現象を受け入れ、自然と一体になろうとす
る日本的な禅の考えに通じているといえる。

(29)ロラン・バルト 著、沢崎浩平 訳『美術論集 アルチンボルドからポップ・アートまで』みすず書房、1986 年、


119 頁
(30)ロラン・バルト 著 同書、126 頁

16
一方、生成模様は、筆を用いず、息や扇子で水面に微風を送り、年輪のように広がった
初期模様を変化させることで生み出される。ここでも撥膜材による余白があるため、染料
と染料は、どれほど水面が揺れても交差しない。
この生成模様は、初期模様と同じように染料と染料に物質の間(ま)が生じる。
しかし、生成模様は同心円状よりも水面の模様が揺動している点に、特徴があるといえる。
またそれは、形状に分類すれば、初期模様の同心円の幾何学的形態に対し、生成模様は
水面の動きにより、さざ波のような有機的形態へと変化するのである。
墨流しの生成模様は、約 1 分 50 秒において、初期模様の時間の間(ま)とは異なった、
微風によるゆらぎの時間が流れているといえる。
このように墨流しは、同一時間において水面の同心円の模様が、時間の間(ま)となり、
次にさざ波の模様がゆらぎの時間となることから、2 つの異なる時間が存在していると考え
られる。
墨流しの模様に、こうした特徴が見られるのは、どのような現象が関係しているのかを
確認し、さらに異なる時間について検討してみる。
初期模様の制作は、無風に近い状態で水面に同心円の輪を連ねていく。その際、筆をつ
ける力が水面に加わり、染料による水の表面張力が生じるが、水面の動きは僅かであり、
水の対流もほとんど発生しない。つまり水の流体現象が、あまり起こらないのである。
一方、生成模様の過程では、息や扇子で水面に風を送ることにより、水の動きが強まり、
対流も活発になる。生成模様は、この水の流体現象の差によって、初期模様の同心円が揺
れ動きながら、さざ波のように変化する(図 13)(図 14)。

図 13 墨流しの生成模様の過程 1 図 14 墨流しの生成模様の過程 2

越前墨流し福田忠雄工房

この連続するさざ波模様が展開する水面の揺れは、はっきりと確認することができる。
墨流しは、水の流体現象をともなう技法である。それは、水の動的性質、つまり異なる
制作過程の時間における水の波動が、同心円状の初期模様となり、次いでさざ波状の生成
模様となる。
このことは、同一時間における水の波動の違いが、異なる時間を示していると考えられる。

17
滝浦は、時計の動きを例にとり、「時間を万物を押し流す川の流れのようなものと捉え
る限り、われわれは、見た眼には多様な幾つかの運動を同一時間内での異った運動として
捉える権利があるばかりではなく、逆に、互いに一致して見える幾つかの運動をそれぞれ
異った時間における運動の偶然の一致として捉える権利もあることになる。」(31)というよ
うに述べ、同一時間内における多様な運動の捉え方を指摘している。
時間が一方向に流れていることに変わりがないとすると、墨流しは、形態が同心円から
曲線へ進行することから、つねに揺れ動いている時間として考えられる。
しかし、初期模様と生成模様において、形状は同心円の幾何学的形態と曲線の有機的形
態に分類することができる。
また水の流体現象を比べると、水の波動、つまり水の運動に差異が生じ、それぞれの模
様に、時間の間(ま)とゆらぎの時間という特徴が現れている。
こうしてみると、墨流しの制作時間は異なる時間が結合したもの、あるいは複合的な時
間を包含しているといえる。
しかし、墨流しの模様が染色後にもかかわらず、揺らぎ続けているように見えるのは、
墨流しの複合的な時間だけではなく、空間との関わりによることも、また考えられる。

第二節 墨流しの空間

墨流しが示す空間とは、どのようなものだろうか。空間について考えると、そこには時
間が関係する。すなわち時間と空間は一体化したものとして捉えられている。
しかし、滝浦静雄は「空間においてはすべてが同時的に存在する以上、空間という『形
式』のもとには『継起』はありえない」(32)と指摘している。そうであれば、時間の継起は、
時間に符合し、空間は明らかに外に現れているものを指すことになる。
それは、空間が外在しているのに対し、時間は内在していることになるといえる。
こうしたことを踏まえ、墨流しの空間を時間と分離させて考えてみることにする。
空間の定義は、広義に解釈されているが、主に絶対空間と相関空間に区別される。それ
に基づくと墨流しが示す空間は、制作者である人と物、水と染料という物質と物質の関係
がつくりだす相関空間(事物の存在にともなう関係性)といえる。
しかし、墨流しの空間は、このような相関関係だけではなく、さまざまな「関係」によ
って成り立っていると考えられる。
ここでは、墨流しの空間における相関関係について、越前墨流し(福田忠雄氏)の制作
過程を追いながら検討してみる。

(31)滝浦静雄 著『時間―その哲学的考察』岩波書店、1976 年、30 頁


(32)滝浦静雄 著 同書、62 頁

18
越前墨流しの制作環境では制作の実践に関係なく、工房内には水槽が存在している。
工房は静止空間であるが、水槽と室内の空間には、すでに「位置関係」がある。それら
は、高さ、幅、奥行きの 3 方向からなる広がり、すなわち 3 つの座標軸を用いて数値で表
すことができる空間である。
越前墨流し工房の水槽の大きさは、およそ高さ 6cm×幅 110cm×奥行き 80cm である(図
15)。

図 15 墨流しの工房と水槽(相関空間) 越前墨流し福田忠雄工房

次に、制作者(ここでは、福田忠雄氏)によって水槽に 1.5cm 程度の水がはられ、室内


と人、人と物、物と物などの「相関関係」が生じるとともに、水槽には水面上と水面下に
それぞれ空間が存在する。
やがて、水の揺れがおさまり、水面が安定すると制作が開始される。
制作者により同心円状の初期模様が、水面上に次々と生み出される。ところが、このと
きすでに、水面下の空間では、最初に滴下した染料の細い線が、雲のように水中に漂って
いる。つまり染料は徐々に沈下を始めているのである。その沈下する染料は、水面上の初
期模様の同心円の最外周部にあたる。
このように墨流しの水の空間では、水面上の模様の生成と同時に、水面下の染料の沈下
による現象が起こるのである(図 16)。この染料が漂いながら沈んでいく性質は、純正な
水による染色技法とする墨流し特有の現象である。
前章の第二節で述べたように、良質の水は、染料の浮力を保ち、染料の急な拡散を抑制
しているが、水面下の空間では、図 16 のように染料が外周部から順次沈下する。そのため
制作者は、片方に 3 本の染料の筆を持ち、一方は撥膜材の松脂の筆を交互に使い、すばや
く模様をつくらなければならないのである。
墨流しは短時間に、こうした相関関係になっている。

19
図 16 墨流しの染料が沈下を始める様子 (染料が水中で雲のように漂う)

越前墨流し福田忠雄工房

次の制作過程では、制作者によって水面に微風が送られ、生成模様の展開される空間へ
と移行する(図 17)。この風の影響により、水の波動が強くなり、水中にゆっくりと漂っ
ていた染料が、揺れながら拡散を始める。このように水面上と水面下の空間では、生成模
様の展開と同時に染料の拡散が起こるのである。墨流しの水の空間では、このような現象
がともなうのである。
またこの制作過程においては、微風によって水を波動させるため、風という原因と波と
いう結果の「因果関係」の空間といえる。

図 17 息を水面に吹きかけ墨流しの模様を生成する(水と微風の相関空間)

越前墨流し福田忠雄工房

こうして 3 次元の空間で展開された墨流しの模様が、2 次元の和紙に写し取られる。


水面の染料は和紙に染色され、水面下の染料もまた和紙に吸収され、水中には、ほとん
ど染料が残らない。それは、和紙の吸収性が優れているからである。
ここでは、墨流しの模様と基底材の和紙が、図と地、いわば「主従関係」となっている。
だが和紙に模様を写し取らない限り、主従関係は逆転するといえる。それは水面の墨流し
の模様が和紙に染色されないと、やがて水面の模様は崩れ散るからである。

20
このように墨流しの制作は、短時間にさまざまな関係の空間を示しているといえる。
なぜなら空間と物質の位置関係、人と物質、物質と物質の相関関係、風による水の波動の
因果関係、さらに図と地の主従関係というように、多元的な空間構造であることが考えら
れるからである。
そこで、これまで考察した墨流しの制作における時間と空間にどのような関係があるの
かを以下、図 18 に表してみた。

図 18 墨流しの時間と空間の考察図

墨流し工房の静止空間(時間の流れ)
制作者の位置空間(染色に要する時間)
微風を送る空間(時間)
(水槽断面図) ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

水面の空間 (限られた時間に墨流しの模様が生成される)

水の空間 水面下の空間(時間とともに染料が沈下する空間)

こうしてみると、墨流しの時間と空間は、複合的な時間と多元的な空間が一体化した、
あるいは交差した時空間であることが考えられる。
墨流しの制作において、時間は異なる時間が結合しており、空間は多元的な相関空間を
有することとなり、これらの時間と空間は相互し、同期しているといえる。
このような墨流しの時空間は、時間と空間における新たな間(ま)として考えられない
だろうか。
この章の一節において、墨流しの初期模様には、時間の間(ま)を現わしていると述べ
たが、この時空間においては、先の時間の間(ま)だけでなく、異なる時間とさまざまな
相関空間が複雑に結びついた間(ま)といえる。
墨流しの模様が、和紙に染色されても揺らぎ続けているようにみえるのは、異なる時間
が多様な相関空間と融合することにより、3 次元で捉えきれない、いわば 4 次元的な展開を
示しているからではないだろうか。
ところで、このような墨流しの時間と空間に共通するような創作表現が、ほかにも見当
るだろうか。
次に、墨流しと現代の写真作品とを比較検討することにより、墨流しと写真表現におけ
る時間と空間の問題を思索してみることにする。

21
第三節 墨流しにおける相対的な時間と空間

今日においては、音や映像さらにコンピューターグラフィックスなど、さまざまなメデ
ィアによる作品が時間的な動きや空間的な広がりを表現している。こうした時間と空間を
現わしている多様なメディアのなかで、現代の写真に焦点をあて、墨流しの相対的な時間
と空間として比較検討してみる。
写真の基本的な機能として、再現つまり記録、伝達、および表現としての作品が考えら
れる。写真が単に対象を写す再現にとどまらず、対象に内在しているものを捉えたもので
あれば、作品表現の写真として鑑賞者に伝わるのではないだろうか。それは、作者が対象
を見つめ続けるという意識、つまり眼差しによるものであろう。
こ しゅう
ここでは、現代の写真家・遠藤湖 舟 (1954-)の代表作「ゆらぎ」シリーズの写真を取り
挙げる。その作品表現においては、時間的、空間的な広がりが見られ、古法墨流しの時間
と空間との共通点を見出すことができるからである。
遠藤湖舟は、1954 年長野県生まれの写真家である。幼少期に触れた野山や星空が「美」
の原点となり、中学生の頃から天体写真を撮り始めた。早稲田大学理工学部卒業後に本格
的な写真家活動を行い、2004 年に千葉県の九十九里で撮影したブラッドフィ―ルド彗星の
写真が話題となり、フランス、イタリア、アメリカの天文雑誌の表紙を飾った(33)。
遠藤氏の「ゆらぎ」シリーズは、2015 年 5 月 8 日から 5 月 18 日の期間、大阪高島屋(7
階グランドホール)において開催された遠藤湖舟 写真展「天空の美、地上の美。」~見つ
めることで「美」は姿を現す~で発表された。
展覧会は音楽コンサートのように、前奏曲に始まり、第一楽章「月」から第六楽章「か
たわら」そして終曲で構成され、第五楽章に、
「ゆらぎ」シリーズの 21 点が展示されてい
た。
それらは、青空や新緑、紅葉などさまざまな自然の景色が水面に映り込んだ瞬間を捉え
た写真であった。なかには、都会のネオンが水面にゆらぐ様子を撮影した色あざやかな写
真も含まれたていた。(大阪道頓堀川の水面にネオンが映り込んだ写真)
展示会場の三曲屏風に見立てた写真やアクリル板の大作は、ゆらぎの時間と空間を切り
とったかのように観る側に迫るものであった(図 19)。
その「ゆらぎ」について、遠藤氏は、「水は周りの色彩を乗せ、風に揺らいで刻一刻、形
を変える。一瞬たりとも同じ形は現れない。」(34)と述べている。まさしく、遠藤氏の写真
「ゆらぎ」は、古法墨流しが水面に微風を送り、同心円の形態を変化させ、一度きりの模
様を和紙に写し取ることと共通している。

(33)遠藤湖舟写真展「天空の美、地上の美。
」~見つめることで「美」は姿を現す~ 高島屋展覧会フライヤー
『毎日新聞』2015 年 5 月 7 日夕刊、9 面
(34)同展フライヤー

22
遠藤氏の写真「ゆらぎ」は、時間の流れで変化する自然の姿が水面に反射し、その揺れ
の様子を逃さず写真に収めている。そこに移り変わる時間と、自然の景色つまり空間とが
同期した作品として表現されている。

図 19 遠藤湖舟写真展 「天空の美、地上の美。」 ~見つめることで「美」は姿を現す~ 第五楽章「ゆらぎ」の展示会場

2015 年 5 月 8 日(金)~5 月 18 日(月)大阪高島屋 7 階グランドホール

墨流しと遠藤氏の写真「ゆらぎ」を比較してみると、どちらも水面に現れた形象である。
墨流しは、その水面の模様を和紙に染色し、写真は水面の光景をカメラで記録する。
つまり 3 次元の水の空間を 2 次元の支持体の空間に留めているという点も同じといえる。
また、墨流しは人為的に微風を送り、水の動きを利用する技法である。一方、遠藤氏の
写真「ゆらぎ」は、自然の風が水面を揺らす現象を写真に捉えている。こうした点は異な
るが、どちらも風による水の動きが生み出す一度きりの模様であり、二度と目にできない
というような光景である。
こうしてみると、古法墨流しと遠藤氏の写真「ゆらぎ」は、時間を視覚化しているととも
に、同じ形象が立ち現れることのない瞬間を写しとったものといえる。
墨流しと遠藤氏の写真が写しとった形象は、単に過去のものではなく、今もなお連続的
な動きを現わしていると考えることもできる。
すなわち、墨流しと写真「ゆらぎ」は、時間と空間が分離していない、ひとつの時空間
のなかで、かたちが更新したものとして捉えられる。

最後の章では、制作論として、これまで考察してきた墨流しの作品制作における位置と
その展開について述べることにする。

23
第三章 墨流しの実践

第一節 作品「Luminous Flux」について

これまで、墨流しの歴史と技法を初め、墨流しの制作における時間と空間について考察
してきた。これらを踏まえ、私の作品に墨流しの技法がどのように関わり、展開している
のかを制作論として述べてみる。
序において述べたように、墨流しによる制作および研究のきっかけは、ある時、深夜の
テレビ番組で NASA のハッブル宇宙望遠鏡が捉えた宇宙の映像を観たことにある。
このハッブル宇宙望遠鏡は、宇宙空間に打ち上げられた望遠鏡で、大気や天候による影響
を受けないため、地上からの観測では不可能な高精細な天体の画像を数多く撮影している。
それは、抽象絵画のような「北アメリカ星雲」や美しい銀河(主要な銀河の型は、渦巻
銀河と楕円銀河)や木星の大赤斑(巨大な渦による縞模様)など、神秘的な宇宙のさまざ
まな姿を捉えている。(図 20 A.B)

図 20. A (NGC7000)The North America Nebula in Infrared B(序 図 2.A) Spiral Galaxy M83: The Southern Pinwheel
「北アメリカ星雲」 ©NASA 「渦巻銀河:南方の風車」 ©NASA

ここで、墨流しの手法を作品に取り入れるきっかけになった銀河のひとつ「渦巻銀河」と
は、どのような構造なのかを述べる。
『天文学辞典』によると、
「渦巻銀河」
(図 20.B)は「中心部から渦巻状に広がる星,ガス
および塵を含む明るい腕をもつ銀河. ハッブル型 S. 通常は, 二つの腕が銀河の周りを 1 周
以上して完全に取り巻いているが, 四本腕のものや三本腕の例さえも知られている.(中略)
渦巻腕は活発な星形成の場所であり, その外見を支配しているのは種族Ⅰ(星の分類のひ
とつ)の明るく青い大質量の若い星およびガス状の H II 領域(電離した水素が光っている空
間)である.(中略)渦巻構造は明らかにある大きさ以上の渦巻銀河だけに存在するらしい.
(35)
多くの不規則銀河や矮小楕円銀河のような小質量銀河には渦巻は見られない.」 (図 21)
と解説されている(36)。

(35)岡村定矩 監訳『オックスフォード天文学辞典』朝倉書店、2003 年、38 頁。(括弧内は筆者による付記)


(36)岡村定矩 監訳 同書 75 頁に、ハッブルの銀河の分類を音叉の形状で左の早期型から右の晩期型までを示した図が
ある。渦巻構造が見られるのは棒渦巻銀河と称された銀河である。図 20.B「渦巻銀河:南方の風車」は Sc に属する。

24
図 21 音叉図(エドウィン・ハッブルの銀河の分類) (『オックスフォード天文学辞典』 より転載)

この説明にある「渦巻腕」は、生命の起源を考えるにおいて重要な点が示されている。
せいかん
渦巻腕は星の生誕場所であり、ガスと塵を含む星間空間になっている。星間空間には、
星と星の間に、塵やガスのほか、僅かな粒子も存在する。細胞を組成する元素の炭素(C)、
窒素(N)、水素(H)、酸素(O)、いわば DNA に不可欠な遺伝子の元が星間空間で生成され
ているという(37)。
その酸素や炭素の発生について、物理学者の村山斉は、「宇宙に『星』が誕生し、その内
部で核融合反応が始まってからのことです。」(38)と述べている。また恒星内部でつくられ
た元素は、星そのものが爆発(星の寿命による超新星爆発)と次の星の生誕を繰り返し、
その結果、地球にもさまざまな元素があるという。星の爆発が起こらなければ、私たちの
体をつくる炭素も地球に存在しなかったという。さらに村山氏は「つまり、私たちの体は
『星くず』でできているのです。」(39)と宇宙と生命の関わりに言及している。
このようにハッブル宇宙望遠鏡が捉えた数多くの宇宙の姿を知ることにより、宇宙の果
てはどうなっているのだろうか、生命はどのように生誕したのかということを考え、作品
制作に取り組むこととなった。
そこに人類にとっての共通の原風景を想い描き、それを作品にするための模索を始めた
ことが、やがて、修了作品の「Luminous Flux/ルミナスフラックス(光束)」に結実する
ことになる。

(37) ライアル・ワトソン 著『生命潮流』工作舎、1981 年、29‐30 頁


(38) 村山斉 著『宇宙は何でできているのか』幻冬舎、2010 年、85 頁
(39) 村山斉 著 同著、86‐87 頁

25
「Luminous Flux」(40)とは、天文学用語のひとつであり、「光束」と訳され、人が光の量
によって感じる心理的な状態を意味するが、私の作品は宇宙の果てからとどく光をイメー
ジし、制作をおこなっている。その光から私たちが受ける遠い記憶を表現している(図22)。
第二節では、墨流しの技法を応用した修了作品を具体的に示すことにする。

図 22 中西 学 Luminous Flux (ルミナスフラックス/光束) シリーズ

《Luminous Flux 54》 130.3×194.0×6.0 ㎝

ミクストメディア(木製パネル、和紙にアクリル絵具、ポリエステル透明樹脂、他) 2013年

第二節 墨流しの応用としての作品

既述したように、私は作品制作の模索の当初において、有機生命体がもつ、根源的なか
たちが生み出している波動を作品にするのに相応しい表現方法の可能性の有無を考えた。
宇宙の映像にあった空気の動きによる連続的なゆらぎを美術作品へ置き換えるには、単
なる描写ではなく、何らかの手法を導入しなければならないと考え、思索を深めるととも
に試行錯誤を繰り返した。
まず初めに取り組んだのは、西洋美術のシュルレアリストの手法であるデカルコマニー
(転写画)のオートマティスムによる試作であった。

(40) 文部省 『学術用語集 天文学編』(増訂版)日本学術振興会、1974 年、233 頁


「視覚を生ずる能力により評価した、放射エネルギーの時間あたりの流率。ルーメン(lm)で表す。[“光束”という
とき、視覚特性とは無関係な“光束”の意味で使われることもある。] 」『マグロウヒル英和物理・数学用語辞典』森
北出版、1989 年、482 頁

26
デカルコマニーは、ドイツの画家マックス・エルンスト(Max Ernst,1891-1976)(図 23)
や日本の瀧口修造(1903-79)の、描画では現わせない偶然の効果を取り入れた作品の手法
として知られている。
私がおこなった方法は、キャンバスに絵具を置き、紙を擦り付けて揺動を与えてみた。
その絵具と絵具の摩擦による意外な形象も生じたが、単調さが拭い切れず、画面に流動感
を創出させることは出来なかった。
ほかに、アメリカ現代美術のカラーフィ―ルドペインティングの手法のひとつであるス
テ イ ニ ン グ ( 滲 み 込 ま せ 法 ) も 試 し て み た 。 ア メ リ カ の モ ー リ ス ・ ル イ ス ( Morris
Louis,1912-62)(図 24)やヘレン・フランケンセーラー(Helen Frankenthaler,1928-2011)な
どの画家が、素地のキャンバスに、絵具を直接注ぎながら滲み込ませるステイニングによ
る作品を制作している。
私はキャンバスを床に置くだけでなく、垂直や斜めにするなど、絵具を操作してみた。
この手法の際、デカルコマニーでは試さなかった絵具と液体メディウムを混合させ、絵
具の流動性を生み、キャンバスに滲み込ませたり、流してもみた。またキャンバスのほか、
さまざまな紙にも試したが、それでも、連続する形象を現わすことができなかった。
こうした手法を用いることにより、宇宙空間に漂うゆらぎを現わせるのではないかと試
みた。しかし、これら既存の絵画技法では、私が求めている連続的な形の動きが得られな
かった。

図 23 マックス・エルンスト 《風景》 16.0×22.0 cm 図 24 モーリス・ルイス 《金色と緑色》 237.5×352.0 cm


カンヴァスに油彩 1939 年 岡崎市美術博物館 アクリル、カンヴァス 1958 年 東京都現代美術館

制作方法を模索するなかで、改めて宇宙の姿に目を向けてみると、数ある銀河のひとつ
「渦巻銀河」の形が、幼少期に墨汁で試した墨流しと類似していることを想起させた。
「渦巻銀河」の存在を知ったことにより、作品制作に墨流しの手法を取り入れることを
思いついた。この墨流しの手法を用いることで、時間的ゆらぎが感じられる形態を創出す
ることができるという確信が生まれたといえる。
こうして墨流しによる制作を始めたが、もっとも苦心したのは墨流しを写しとる和紙の
問題であった。

27
和紙全般は洋紙に比べ繊維が長く、堅牢であるといえる。そこで、墨流しをさまざまな
和紙に染色してみたが、色がぼやけてしまうなど鮮明な色を和紙に写し取ることができず、
時間を要した。
そこで、第一章で触れた三十六人家集の料紙には、雁皮質の厚手(鳥の子)が用いられ
ていることを確認でき、墨流しを鳥の子紙(41)におこなってみたところ、それまでの色と模
様が鮮明に写し取ることができたのである。
こうぞ みつまた が ん ぴ
図 25 は、主な和紙の原料である「 楮 ・三椏・雁皮」の繊維の比較である。右図(【雁皮・
がんぴ】)のように、細い繊維が密集した雁皮を主な原料とする鳥の子紙の特徴は、紙の表
面が平滑になり、吸収性に優れ、墨流しや紙染めに適した和紙であると考えられる。

図 25 主な和紙の原料の繊維比較 (10 倍拡大写真 目盛 0.5mm)

【楮・こうぞ】 【三椏・みつまた】 【雁皮・がんぴ】

(URL 和紙屋の杉原商店「和紙の研究室」より転載)

墨流しによる制作の当初、このような和紙の問題のほかに墨と撥膜材でおこなう手法で
は、単なる模倣に過ぎず、また画面の奥行きと広がりを得られず何らかの工夫が必要であ
った。
墨流しの染料は淡い色調で、その趣が墨流しの特徴のひとつでもあるが、染色後の画面
に奥行きを求められない。
そこで作品の画面に奥行き、すなわち空間を生み出す方法として墨流しの模様を重ねて
染色してみた。しかし、線条は複雑になるが奥行きを得られなかった。
そこでは、墨流し特有の淡い色が層になるだけで、模様による前景と後景の関係にはな
らなかった。
このような方法は、伝統的な墨流しではおこなわれない。それは、墨流しの一度きりの
模様が和紙と相まって古風な美術工芸紙となるからである。

(41)
「鳥の子紙は雁皮を材料とする和紙である。色が鳥の卵のようであったから「鳥の子」と名付けられた。古くから
、 、 、 、
最高級紙として珍重され、現在でもとりのこの高級品は高価な紙の代表である。
」 片野孝志 著『染紙の技法』総合科
学出版、1980 年、6 頁

28
次いで、墨流しの模様にマーブリングによる染色を施してみたところ、墨流しの模様を
損なうことなく、画面に奥行きが生じた。それは、不透明な淡い色調の墨流しの染料と透
明度があり濃い色調のマーブリングの染料が、交差することで画面に奥行きが生じたので
ある。
墨流しと性質が異なるマーブリングの技法を用いることにより、墨流しの特徴をより一
層現わすことができ得る、すなわち墨流しを補うための技法としてマーブリングを導入す
ることとなった。
こうして、私の作品は、墨流しとマーブリングの染色技法を併用し、多色版画のように、
あるいは色彩のフィルターを重ねるように染色し、その色彩が多層化した和紙を支持体(木
製パネル)に集積させて画面を構成している。さらにグリッター(ラメ)を混入した透明
のポリエステル樹脂を画面に溶け込ませ物質感を生成させている。
物の色と質感について、小松英彦は「異なる素材は固有の光学的な特性を持つ。それは
反射だけではなく、吸収、透過、屈折、干渉、散乱など、素材の物性に応じた、光と相互
作用する仕方に関係するすべての光学的な性質が関係するだろう。」(42)と指摘する。
私は作品の表面を透明のポリエステル樹脂で覆うことにより、光の性質を取り入れ、視
覚的な効果を考えたからである。
このように、私は伝統的な墨流しの技法を応用し、マーブリングによる透明色、グリッ
ターと透明のポリエステル樹脂を加え、作品を展開させている。
古法墨流しの製品は、主に実用品であり、伝統工芸の領域に属している。しかし、私は
宇宙のゆらぎを現わす手法を模索した結果、辿り着いた日本古来の墨流しの技法を現代美
術の分野に新たな表現として位置づけたいと考えている。従って、古法墨流しを周知する
意味においても、作品の表現形式は墨流しの技法が基本となっている。

第三節 作品における時間と空間

この章では、修了作品の制作背景である宇宙の現象、ならびに墨流しの技法を応用し、
展開させた作品について述べてきた。最後に、それらの作品には、どのような時間的な動
きと空間的な広がりがあるのかを示すとともに、作品が観る側にどのような感覚を与える
ことができるのかを考えてみる。
第―章において、取り挙げた鈴木春信の錦絵や尾形光琳の屏風絵には、墨流しの模様を
応用した時間的な展開が見られる。またそれは、墨流しの模様が、画面の背景や中央に配
されていることにより、空間的な奥行きや広がりが生じているといえる。

(42)小松英彦「色と質感を認識する脳と心の働き」近藤寿人 編『芸術と脳―絵画と文学、時間と空間の脳科学―』
9 章 所収 200-213 頁 大阪大学出版会、2013 年、211 頁

29
しかし、私の作品は、こうした墨流しを応用した日本美術とは異なり、画面全体が墨流
しとマーブリングの形状によって構成された、いわゆる抽象画である。
その作品の制作過程において、墨流しの模様の染色では時間的な問題が優先される。な
ぜなら墨流しの技法は水の波動を利用していることにより、水面に滴下した色料を制御す
ることが困難であり、予期せぬ模様となる。つまり、時間のなかに偶然という要素がとも
なうのである。
みなかたくまぐす
文学者の野内良三は、南方熊楠(1867-1941)(43)の偶然を「縁」とする考えを次のよう
に述べている「熊楠は森羅万象の現象を『不思議』と捉え、世界は『諸不思議』の織りな
す複雑で流動的な全体(構造)を形づくっていると考える。
(中略)熊楠の考えでは、
『心』
と『物』の結節点で生まれる『事』としてあらゆるものが現象する。」(44)こうした「事」
(現象)は「心」と「物」が織りなすこれを連鎖結合であると指摘している。
この「心」と「物」の連鎖結合は、私自身が墨流しの制作をおこなっている時間のなか
に意識する。それは、水面に展開させた墨流しの模様をどの瞬間に染色しなければならな
いかを思考するからである。
そのことは、前章で比較検討した古法墨流しも、遠藤氏の写真「ゆらぎ」にも現れてい
るといえる。すなわち、表現者の内在的な精神と外在する対象との呼応が一致することに
より、時間的な偶然が生み出されるといえる。
一方、染色を施した和紙による構図作成の過程では、空間的な問題が優先される。
さまざまな模様に染色された数多くの和紙の繊維をほぐし、それらを支持体に継ぎ合わ
せることにより、模様が一体化した画面を創出させている。この過程では、偶然性がほと
んど見られず、必然的な画面構成となっている。
そこには構図があり、多様な模様に染色された和紙は、作品の部分として画面に配置さ
れ、作品の全体像が決定されるのである。
このような部分と全体の構図の考えについて、岩田誠は「画家の脳のなかでは、空間的
な配置の決定の前段階ですでに対象の形や色が決定されていたにせよ、実際の描画行為に
おいては、ほとんどの場合に空間的配置、すなわち構図が先行する。
(中略)高次大脳機能
の面から構図というものを考えると、部分と全体という問題に行き当たる。ヒトの精神活
動には、部分から始まって全体に迫るボトム・アップ的なアプローチによるものと、まず
全体をおさえてからその構成要素である部分に迫っていこうとするトップ・ダウン的アプ
ローチによるものとがある。思考というプロセスを例にとれば、前者はディジタル的、分
析的な思考であり、後者はアナログ的な、いわゆる水平思考である。前者は膨大なデータ

(43)「民俗学者。生物学者・民俗学者。和歌山の生まれ。米国・英国に渡り、独学で動植物を研究し、各国語に精通。
大英博物館に勤務し、論文などを執筆。帰国後は田辺市で粘菌の採集や民俗学の研究に没頭した。奇行の人として知
られる。著「南方閑話」
「南方随筆」
「十二支考」など。」 『大辞泉 第二版』 小学館、2012 年、3499 頁
(44)野内良三 著『偶然を生きる思想「日本の情」
「西洋の理」
』日本放送出版協会、2008 年、210‐211 頁

30
からの論理的思考であり、後者は直感的な感覚的思考である。(中略)近代的な絵画の制作
においては、トップ・ダウン的アプローチが圧倒的に優勢である。これは、ひとつには、
描画という行為における制約因子として、スペースの有限性ということがあるからだろう。

(45)
と指摘している。このことから私が作品の部分から全体を構築させる方法は、ボトム・
アップ的なアプローチによるものといえる。その部分の構築が画面に秩序ある空間を生み
出していると考えられる。
また私の作品の画面は、さまざまな線の動きと色彩の濃淡によって埋め尽くされている。
そ れ は 、 ア メ リ カ 抽 象 表 現 主 義 の 画 家 の ひ と り ジ ャ ク ソ ン ・ ポ ロ ッ ク ( Jackson
Pollock,1912-56)(46)に象徴されるオールオーヴァ(画面をひとつのパターンが制御する)
のような画面を呈しているともいえる。しかし、私の作品画面は、オールオーヴァの絵画
にみられる余白が、ほとんど存在せず、墨流しとマーブリングによる形状が、画面の空間
に展開している。
形と空間の関係について、アンリ・フォションは「形のまわりにたっぷり用意されてい
む き ず
る空間は、形を無疵に保ち、形の定着を保証するがごとき趣きを呈するのに対して、余白
が無視されていると、形同士が何かにつけ曲線をよじらせて合流し、まじり合うようにな
かな
る。理に適った規則性を示して連結、接触をくり返していた形の群れが波のようにうねり
ながらどこまでもつづくにつれて、部分部分の関係はもう見分けることもむずかしくなり、
」(47)と指摘している。フォションの指摘は、私
始点も、終点も、慎重に隠されてしまう。
の作品において、墨流しとマーブリングの流動的な形態による画面空間が(作品を観る側
に)一見すると、入口も出口も分からないような画面に映るともいえる。
私の作品が、鑑賞者にどのような感覚を与えているのかを考えると、作品の画面に展開
された多様な形状と色彩が混沌としていることにより、どこを中心にし、見るかという問
題もある。だが、鑑賞者は、中心を意識せず、自由に画面を眺めることが可能になるとい
える。すなわち作品における空間は、鑑賞者の空間として考えられる。
この空間のほかに、作品を通して、墨流し特有の時間的な流れを観る側にも共有するこ
とは可能なのか。作品を覆っている透明のポリエステル樹脂が、視覚的な印象とその表面
に触れてみたいという触覚を喚起させ得るのだろうか。つまり視覚を通して、ほかの機能
を覚醒させる共感覚を与えることができるのだろうか。
このような作品と観る側の問題については、今後も墨流しの研究を継続するとともに、
さらに思索することとしたい。

(45)岩田誠 著『見る脳・描く脳―絵画のニューロサイエンス』東京大学出版会、1997 年、112‐113 頁


(46)「ポロックの絵画の主要素である線の集積による画面は、過去の絵画のようには焦点が存在しない、もしくは
画面全体が等質であるがゆえにすべてが焦点、すなわち多焦点であるといわれている。換言すれば、それは全体が
部分であり、部分が全体になっている。
」 藤枝晃雄 著『新版 ジャクソン・ポロック』東信堂、2007 年、183 頁
(47)アンリ・フォション 著、杉本秀太朗 訳『[改訳]形の生命』平凡社、2009 年、52 頁

31

これまで、宇宙の映像をきっかけに、そこにある生命の生誕という原風景を現わす時間
的なゆらぎを作品にするため、墨流しの研究に取り組んだ。墨流しの歴史や技法を考察す
るとともに墨流しの制作における時間と空間の問題について論じた。

第一章では、墨流しの歴史叙述をおこなった。そこで明らかになったのは、墨流しは、
平安時代後期より、豊かな自然つまり水に恵まれた日本の風土に根差した水の波動が生み
出す独自の手法であった。その良質の水は、紙漉きに適し、墨流しの基水となった。
越前墨流しの純正な水による染色技法は、マーブリングと比較検討したように、ほかの
装飾技法、あるいは絵画技法には見当たらないということであった。
琳派の画家たちの「たらし込み」による滲みの効果は、水の流動性による偶然をともな
う形態が生成するという点では墨流しと共通している、ということだった。墨流しは、日
本の地形と風土とが相まった水の文化を象徴するひとつとして考えられる。
第二章は、墨流しの様態を分析することによって、墨流しの現象、すなわち墨流しの制
作における時間と空間の問題を思索してみた。そのことで分かったのは、墨流しの制作に
おいては、時間と空間は不可分な関係であること、つまり時間と空間が一体となって、形
態を生み出しているということであった。さらに墨流しの時間と空間と遠藤湖舟の写真「ゆ
らぎ」の時間と空間とを相対させ、それぞれがもつ時空間を考察したことにより、それら
は時間と空間が分離していない、ひとつの時空間のなかで、かたちが更新したものとして
捉えられた。
この章では、ロラン・バルトの「間」(ま)という問題が顕在したが、本論では考察する
に至らなかった。この「間」(ま)については、今後考察することにする。
第三章の制作論では、墨流しを応用した修了作品「Luminous Flux」を通して作品の時間
と空間を考察してみた。それにより、墨流しは作品に偶然が生み出す時間的な動きを与え、
画面の空間的な広がりの要素になっていることを確認することができた。

一般に墨流しという名称や模様は周知されているが、その独自の技法や優れた製品につ
いては詳しく知られていない。またそれは伝統工芸の範疇に収まるものであり、美術の分
野において墨流しを応用した作品はほとんど見られない。
今後墨流しの技法を新たな表現として現代美術の分野に位置づけられるように、墨流し
の研究を継続し、作品の創造性を高めることを課題としたい。

32
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文部省 『学術用語集 天文学編』(増訂版)日本学術振興会、1974 年

矢代幸雄『水墨画』岩波書店、1969 年

ライアル・ワトソン『生命潮流』工作舎、1981 年

ロラン・バルト、沢崎浩平 訳『美術論集 アルチンボルドからポップ・アートまで』みすず書房、1986 年

参考資料

遠藤湖舟写真展「天空の美、地上の美。 」~見つめることで「美」は姿を現す~ 高島屋展覧会フライヤー


『毎日新聞』2015 年 5 月 7 日夕刊、9 面

参考 URL

art scape「現代美術用語辞典 ver.1.0」 http://artscape.jp/dictionary/modern/index.html#dictionary1


NASA APOD http://apod.nasa.gov/apod/astropix.html
福井県教育庁生涯学習・文化財課「福井の文化財」http://info.pref.fukui.jp/bunka/bunkazai/

和紙屋の杉原商店「和紙の研究室」http://www.washiya.com/labo/index.html

取材協力

福田忠雄氏(墨流し伝統工芸士)インタヴュー、2015 年3月4日

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自作図版

図 1 中西 学 Luminous Flux (ルミナスフラックス/光束) シリーズ

《Luminous Flux 38》 181.8×227.3×6.0 ㎝

ミクストメディア(木製パネル、和紙にアクリル絵具、透明ポリエステル樹脂、他) 2013年

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図 2 中西 学 Luminous Flux (ルミナスフラックス/光束) シリーズ

《Luminous Flux 59》 91.0×91.0×6.0 ㎝

ミクストメディア(木製パネル、和紙にアクリル絵具、透明ポリエステル樹脂、他) 2014 年

図 3 中西 学 Luminous Flux (ルミナスフラックス/光束) シリーズ

《Luminous Flux 61》 91.0×91.0×6.0 ㎝

ミクストメディア(木製パネル、和紙にアクリル絵具、透明ポリエステル樹脂、他) 2015年

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図 4 中西 学 Luminous Flux (ルミナスフラックス/光束) シリーズ

《Luminous Flux 72》 194.0×130.3×6.0 ㎝

ミクストメディア(木製パネル、和紙にアクリル絵具、透明ポリエステル樹脂、他) 2015年

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図 5 中西 学 Luminous Flux (ルミナスフラックス/光束) シリーズ

《Luminous Flux 74》 194.0×130.3×6.0 ㎝

ミクストメディア(木製パネル、和紙にアクリル絵具、透明ポリエステル樹脂、他) 2015年

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図6 中西 学 Luminous Flux (ルミナスフラックス/光束) シリーズ

《Luminous Flux 80》 91.0×73.0×4.0 ㎝

ミクストメディア(木製パネル、和紙にアクリル絵具、透明ポリエステル樹脂、他) 2015年

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