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慈 賀 県 立 大 学 人 間 文 化 学 ¥
音r 研 究 報 且二
1
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入居司文化 1999.3

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SCHOOL O F HUMAN CULTURES THE UNIVERSITY OF SHIGA PREFECTU円 E


-もくじ・
巻 頭 言/ 西 川 幸 治 ・ ・ … ・
…・ •. 1
………・・……・・…・ … … … 一 .

・特集考現学
考 現 学 の 再 構 築/ 川│添 登 .

. ・・ ・
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・・ ー..
.
....
2
座談会-新しい考現学のために
西川幸治/
高首好 /
黒田末書/
漬崎一志/
細馬宏通/
面矢慎介・・ 15
・トピックス
ネ ッ ト ワ ー ク 時 代 の 健 康 教 育 を 考 え る/ 東 山 明 子 .
.
..
..
..32
持久運動能力を増進させる食品の新しい機能/ 岡 本 秀 己 ・
・・・-43
.論文
ドクダミの防臭 消 臭 作 用 に つ い て/ 浦 部 貴 美 子 .
.
...
.-48
感性型人聞にみられる色彩感情/鈴 木 伸 子 中谷員三代 .
...
..5
4
反 応 型 分 散 染 料 に よ る 絹 の 染 色/ 道 明 美 保 子 一 一
一 61
教 育 実 践 に お け る 精 神 主 義 と 民 主 主 義/ 吉田一郎・・・・・・・ .66
・地域文化学とは何か
田 舎 の 文 化/ 高 谷 好 ー
ーーー・・・
ー・・・・・… ・
・…・・ー ・ 76
………・・ ・・ 0

・地域フォーラム
土 山 町 の 人 と 水/ 岡 田 玲 子 ••••••••••• ・ ・ 84
インタビュ ー -水口町における「地方での挑戦J/西川勝彦 ー
ー 94
野 鍛 冶 の 履 歴/ 上 田 洋 平 ・
・ ・


・ ・ ・


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・ 人 間 文 化 通 信 ・・ ー
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ー・ ・ ー1
ー 21
博物館学
-人 間 文 化 セ ミ ナ
日仏共同研究会
.朴慶植文庫
・モンゴル調査
-琵琶湖畔の赤力ブ干し・
INFORMAT
ION 「緑と水のくに J["みずうみのくに」こんな形容がよく似
- 近 江 ・ 町 な み の 点、
景(1) 合い、自然に恵まれ、文化を生み育んできた滋賀県。そし
て全土の 6分の lを占める 日本一大きいみずうみ琵琶湖。
ここに生きる人々は 、山 やj胡から、草木や水や、そこに生
編集後記 きる生き物たちから恵を受けて生活をしています。 このこ
とは滋賀県のみならず、近畿一円が、いや 日本中がその恩
恵に預かっています。
また琵琶湖は四季折々の叙情的な顔を見せてくれます。
春には霞がかった空、夏にはギラギラとまばゆい空、秋に
はコバルトブルーの杢を、冬にはなまり色の空と、それぞ
れの姿を受け止めその下で人々は季節に見合った生活をな
しています。
この写兵は琵琶湖の風物詩ともいえる 、赤カブ干しの線
7こを写したものです。毎年 1 1月の下旬から 1
2月にかけて 、
Jの湖岸で、 は、組ん だ竹竿に漬物用の大根や赤
彦根市松原 I
I
カフーをはさんで乾燥させるのです。今季は長雨と台風の影
響で野菜の収穫が少なかったため 、例年ほど多く見ること
はできませんでした。しかしこんな光景をみると「ああ冬
がきたなあ 、今年もあと少しでおしまいや。もうすぐお正
月がくるんだな j などと、いろいろな惣いを巡らさずには
いられない、そんな冬の琵琶湖のー景なのです。
写点文/野部博チ



鹿



じ九世似
かわ
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西 J
人間文化学部 学部長

この 『人間文化 1 5 ・6号は考現学を中心に編集することになった 。考現学は柳田国男


のもとで民俗学の調査をつづけていた今和次郎 によってとなえられた 。今和次郎は関東大
震災後の復興と 風俗の変化に注目し、その変化 を観察し、記録する作業をはじめた 。考現
学のはじまりである 。
ところで、私たちをめぐる生活の変化はまことにはけ、しい 。かつて、 どの時代にも経験
しなかった急激な変化の渦の中に私たちはたっているのである 。 しかも、 この急速な変化
に私たちはさしたる関心を示さず注意をはらうこともなく 、その流れに身をまかせている
のではなかろうか。考古学者が発掘調査でえた遺稿や遺物を克明に記録し、過去の生活空
聞を復元し考察する手法に学びたい 。現在の生活に深い関心をも って注目し、定点 ・定時
の観測をつづけ 、克明に記録する手法を開発 し
、 その変化の相を明らかにし、現在の生活
がはたして人間の生活にふさわしいのかどうか 、i
来い省、察の 上 にあるべき人間の生活を求
めたいというのが、私たちの考現学への新たな思いなのである 。
すでに、学部では考現学、保存修景論の講義を行っているが、 この 4月新しく開設され
る大学院には、地域文化学専攻に考現学保存修景の分野をおくことになった 。考現学的省
察の上に、蓄積された伝統と文化遺産を調査し再評価し 、 これからの生活空間に積極的に
活用する手法を 開拓したいとねがっている 。

サンチー近くのサトダーラ大塔(調査修復中)

人間文化 ・
特集・考現学

復E
考現学の再構築 が わ

川添
ぞえ

一銀座調査を中 IL¥として-

かわぞえのぼる
1927年東京生まれ。早稲田大学心理学科を経て同大建築学科
を卒業。 1953 新建築』編集長。 1957
年 『 年独立して建築評
論家となる。周年 『 民と神の住まい j により毎日出版文化賞受
賞。京都にシンクタンク(株)シィー・ディー・アイを設立。
現在、代表取締役所長。 1972年日本生活学会設立、理事長、
会長を歴任。1982年 『生活学の提唱 jにより今和次郎賞受賞。
1997年南方熊楠賞受賞。現在、郡山女子大学教授、日本展示
学会会長。著書に 『 裏側からみた都市 JNHKブックス、 r
r 木
の文明j の成立J問、 『東京の原風景 Jちくま学芸文庫、 『
都市
の歴史とくらし Jドメス出版など。

もともと私にあたえられたテーマは 、「考現学の ない、というのである 。今自身「考現学は概念を生


現代的意味 j である 。 これには、最近、様々なかた みおとしたまま 1
i
9
:
.ってある j としるしている 。そこ
ちでおこなわれている考現学は、私たちの生活や世 で、私たちは、意識するとしないにかかわらず、考
相の研究において 、他の諸学にくらべて、どのよう 現学は概念だけ、つまりは、その方法を学べは、いい
な現代的意味を もっているのか、ということもふく のであって 、様々な調査は 、その事例としてみれば
まれて いるだろう。とは いえ、かつて今和次郎らに よい、とおも ってい た。このことで私たちの言Ei
誌は 、
よっておこなわれ、中断したままにおかれていた考 梅梓と 一致していたのである。その結果、考現学の
現学を 、たとえ 批判 的にもせよ継承しようとするな 全貌を明らかにしようとする努力を、ややもすれば
ら、かつての考現学は、とのようなものであったか 忘れがちだった。 しかし 、資料の少なさをなげく前
を検証しておくのが当然の手続きであろう 。 に、その資料がどれほどあるかを、まず r
F
!Jらかにし、
今和次郎 ーその考現学j で、考現学にい
先年私は 『 その資料から、なにがかたれるのかを検討すべきだ
たるまでの今の足跡をたと、って、その成立と方法に った。
ついてはのべたものの 、考現学採集の具体的な内容 考現学の基本文献である今和次郎・青田謙吉編著
や、それが当時に、あるいは現在からみて 、 どんな 『モデルノロデオ J 考現学採集』の 2著ほか、
、同 『
意味をもっているか 、などについて触れることはで 現在、私たちの手にすることのできる単行本や著作
きなかった 。そこで、ここでは今和次郎らの考現学 集に収録されていない既発表資料や、仙の報告に引
が、もっとも集 中的におこなっていた東京の「銀座 j 用されるなどして、その存在したことの明 らかな、
を中心に、考現学採集がどのようにおこなわれたの いくつかの未発表調査のあったことも、はやくから
かを再構築することによって、それがもっ現代的意 しられていた。幸 い今和次郎の書斎にあった遺品は、
味を考えるための資料とすることにしよう 。 すべて工学院大学建築学科に保存されている 。その
発掘 ・整理は、いまだ十分と はいえないものの、か
1.資料 なりの未発表資料が発見されている 。 とはいえ、考
梅椋忠夫は考現学の方法を高く評価しながらも、 現学 2著をはじめ、諸雑誌などに発表されたものの
発育不良におわったと 、こ うかいている 。 原資料の多くは紛失しており 、他 にも失われたもの

今氏 らの努力に もかかわらず、考現学によって が少なくないと推測され、考現学の全貌は、いまだ
あつめられた資料 にもとづいて、なにごとかの社会 明らかにな っている とはいえない。
学的発言をおこなうという段階には 、 とうていきて けれども、可能なかぎりの現存資本│
すべてを集め
いない。 なにごとかをいうためには、資料の豊富な ても、それにもとづいて諸問題を縦横に論じること
蓄積が必要なのである 。
」 ができるほどのものではないことは、やはり事実と
考現学でなにごとかをかたるためには資料が足り して認めなければならないだろう 。 これらの資料を

2 ・人間文化
考現学の再構築

して語 らせ るには 、今 らが考現学によっ て


、 なにを と場合を限定し、その中にふくまれている目的とす
探ろうとしていたのか、彼ら自身の意図に沿 って 、 る項目のすべて を採集し記録す る全体的な把握と 数
はじめて可能になるとおもわれる 。 量的な調査にある 。 そして 、それぞれの調査を 他 の
場所、あるいは他 の場合と 比較し、 その時々の社会
2.方法 の横断面を 地層のよ うに積み重ね、 現代生活史を 立
今和次郎 らは、これ まで私 たちが手に するこ との 体的-構造的にえがきだそうとしたのである。
できる 以上 のかなりの調査をおこなって 、彼 らの生 それにもっともふさわしい場所 として考現学が選
きた現在を記録し、その集積の上に新しい学問の構 んだのは 、新しい世相の先端をい く銀座で ある 。最
築を意図していたし 、仮 に、自分たちができなくて 初の組織的な調査 1
192
5年初夏銀座街風俗記録j 以
も、正確な記録をとっておけば、後世きっと役立つ 後、様々な 形で、 くりかえ し調査 し、同じ方法によ
とも信じていた。梅椋忠夫は、つぎのようにものべ る他 との比較もおこ なって いた 。
ている 。
I
(考現学は )共時的社会科学から 一歩ふみだし 3.銀座調査
て、通時論的歴史科学の領域にふみこんだのであ なんらかの形で、銀座を対象とした調査は 、 きわ
る。
」 めてバラエテイにとんでいるが、単なる断片採集で
「それは、歴史の中でも 、現在史にだ けゆるされ はなく、上にのべた考現学の条件を 一応みたして い
た方法である 。現代史は 、現在学的方法と歴史学的 るものを列記すると、以下のよ うである 。
J法が交錯し 、共存しうる舞台である 。考 現学 は、
} (タイトル 、調査年月日 、採集者)
その現代史を舞台として 、いわば、定量的な観察歴 ① 1925年初夏銀座街風俗記 録 ( 1925 .5.7 ~23 )
史学の方法 をつくりだそうとしていたと いえ るであ 今和次郎、 吉 田謙吉他
J
ろう 。 ② 銀座通り商庖並び記録 (
192
6.6.
29) 新井泉男
それは方法だけだったのだろうか。彼 らは、その ③ 銀座のカフェ女給さん服装(19
26.初秋)
方法にもとづいて、実際に 、現代史を舞台として定 今和次郎、吉田謙吉
量的な観察の調査をお こな っていた 。であるとすれ ④ 銀座人出分布の表 (
196.
2 12.
4)
ば、限ら れた資料とはいえ 、もは や歴史に なっている当 今和次郎、岡田 達弥、桂正繁
時における現代史の理解に役立たないはずはない。 ⑤ 歳末の銀座通行人調査 (
192
7.2.
1 27) 矢野 ?
では、その方法によってえ られた資料
、 すなわち @ 銀座 ・夏帯の柄しらべ(19
28.
8.5) 吉田謙吉
調査結果は 、 どのような価値をも っているのか。今 ⑦ 東京各盛場人出分析(1929.
9) 土橋長俊
は、つぎのようにいう 。 ③ 銀座飲食庖分布状態 (
192
9.9)
「採集結果物の価値 は
、 それ らひとつひとつにお 石渡雅男 、今 吉 田加筆
いてはもちろん絶対的なものではない。が、それが ① 春の銀座・通行人メロデイ ー(1930.
4.
9)
類例の事項を代表しているという点で、それ自体だ 吉田謙吉
けでかなり絶対的な価値を発揮する場合があると考 ⑮1
931
年銀座街広告統I
I見 (
1931
.3.
21) 吉 田謙吉
えられる。しかし原則と してはそれが同類 の多くが ⑪銀座街風俗記録 093 1. 4 .4 ~ 6 ) 今和次郎
なされて 、統計にまでに た くわえられた とき、また ⑫銀座飲食庖分布状態 (
1931
.12) 今和次郎
は、採集した場所あるいは場合と、他の場所あるい 1
⑬ 和・洋装比率測定 (93
3.2.
25) 今和次郎
は場合における採集との比較考査の資料として貴重 ⑭ 銀座流行庖散兵線 0935.
9)
J
なのである 。 丸 ノ内洋装学院調査部
風俗、さ らに生活一般は、岡仁や都市などの社会 ⑮ 全同卜 九都市女性服装調査報告 (
193
7.5.
1)
的な空 間の ひろがりとともに、過去から未来へむけ 自由学圏全国友の会
ての時間の流れの中に存在しており、この連続する このうち、 G活)&:u)は、 工学院大学所蔵の未発表
空間と時 間 との同時に存在している「生活の場」が、 資料 。@⑪ は、他の報告に 引用 されているもの。⑦
考現学の対象とした「現在 j にほかならない。 だか は、東京、⑮は 、全国の一単位として銀座がとりあげら
ら考現学の単位は 、個々の事物ではなく 、場所と場 れているもの。他は独立した既発表資料である。
時間と空間 )であり 、その /
合 ( J法の特徴は、場所 銀座細見 j (春陽堂 1
なお、安藤更生 『 931)の巻末

人間文化 ・ 3
考現学の再精築

、 1
に 921
年8月末 日、 1
925年5月1
1日、 1
930年 1
2月2
0 のなごりがうかがえる。しかし、大正末年の「街頭」
日調査の「銀座商庖庖名調査表」がのっている 。更 とは、新中間層階級としての知識階級における「街
生は後に早大文学部教授となった安藤正純で、当時 頭」であり、学究のそれとは、ことなった意味をも
は、あめりか屋が出していた雑誌『住宅1の編集長 っている。すなわち 、街頭が家庭と職場の問で、自
で、今とも親交があり、「銀座街風俗記録」の調査に 立を主張しはじめたからにほかならないん
も参加したが、それは 1
925年の庖名調査と同じ日で とはいえ 、岩波文庫の宣言の民衆が、都市中間層
あり、あわせて調査したものであろう 。そして、こ としての知識階級だったのだから、街頭の語のもつ
の著には今らの調査ばかりでなく、彼自身による考 2つの文脈は、はじめから重なりあっていた、とい
現学的調査の 一部も引用している 。 したが って 、こ えるのではないだろうか。そして、今和次郎の考現
れも考現学銀座調査にくわえてよいかもしれない。 学は、早大教授だった彼が「書斎から街頭へ進出す
また③⑫⑪は 、銀座街全体の飲食庖や商屈の数や る」を実践したものともいえる 。
分布状態など、「応j を対象としているのに対して、 その街頭の代表は銀座だった。それは当時、銀ブ
それ以外はすべて、銀座通りの通行人の種類構成や ラといわれていたことにもあらわれている 。安藤更
服装など、「人j を対象にしている 。やや例外的な 銀座細見 j によると、銀ブラという言葉は
生の 『
ものに③があるが、いずれも銀座通りに面した庖の 1
915
年頃からいわれたとのことであるが、江戸時代
「カフェ一女給さんの服装」であることで同じ範鴎 以来の「盛り場」、たとえば浅草は、参拝、娯楽、
に属している 。前者(J苫)があらわれるのは、後者 飲食、買い物などの目的で人が集まるのに対して、
人)におくれること 4年である 。 したがって、考
( 銀座は無目的にぶらつくので銀ブラとよばれていた
現学が当初目的としたのは、あくまでも銀座通りに のである 。
あらわれた人の「風俗」そのものだった 。それが震
災後の東京の復興ぶりを紹介した今和次郎編『新版 5
. モダン
大東京案内』 に、包胞 を掲載したのを契機に、都市 図 lは 1
192
5年初夏銀座街風俗記録」の服装調査
東京における銀座という観点から、「銀座」そのも 項目のインデックス、図 2は採集統計表の一例であ
のを対象とする調査がはじめられたのである 。 る。 この調査は、最初の組織的調査なので、『今和
ここでは、このうちのいくつかをとりあげ、大正
末から昭和戦前期にかけての銀座とその変遂を、そ
れと関連した他の場所の調査と比較しながら、みて
いくことにしよう 。

4
. 街頭
山本明によれば、岩波文庫発刊(19
29)に際して
の「読書子に寄す」に、「それは生命ある普及の書
を少数者の書斎と研究室より解放して街頭にくまな
く立たしめ民衆に伍せしめるであろう 。」とある
「民衆」は、中学、高女程度の教育を身につけてい
る都市中間階級や農村の中農以上の人々のなかの知
識人を意味するであろうとし、また街頭にくまなく
立つの「街頭」 は大正末から 1
935年あたりまでのロ
ングラン的流行語であったと、次のようにかいてい
る。
「街頭は物理的には、江戸時代から存在する 。そ
れにもかかわらず、大正中期にあらためて人々の意
識にのぼったのは、当初は吉野作造、大山郁夫、河
上肇のような学究が「書斎から街頭に進出する」と 図 1統計図索引 (f1925年初夏銀座街風俗記録」
いう文脈においてである 。岩波文庫の宣言には、そ 婦人公論 J1925.7)

4 ・人間文化
考現学の再構築

次郎ーその考現学』 にかなり詳しく書いたが、図 2
は単に統計表の例の lつとしてのせたにすぎなかっ ~/o
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合・イト " ψ 又 4,
.
/

たので、なんの説明もしなかった 。 いま、あらため
てみなおしてみると 、「男の革I
tJで 、あみあ げ62% 図 2集計された表
が短クツ 38%を大きくひきはなしている。これは当 crl925年初夏銀座街風俗記録J
)
時の東京の道路事情を反映しているのである 。 にも
1図j をみて、最初私は、こんな
給さんエプロン実視)
かかわらず、短革l
tは、黒よりも赤靴が多い、という
ものを採集してどんな意味があるのかとおもった
ところに 、ちょっとばかりモダンぶりをしめしてい
が 、実はエプロンこそが、 女給と他 とを区別す るも
るのかも しれない。 この調査日の天気は晴れだった
のだったのである 。
ので 、前日雨 だった日の調査ものせている 。 それを
ついでに銀座とともにモダンを代表していた丸ビ
みると、 2
49人中、オーバー -シューズ 1
7、 ゴム長
ルをみると、小池富久「丸ピルモガ散歩コース j
2
4がみられた。現在の銀座にオーパー シューズは
(
192
7)の採集したモガ 9例中、洋装 5、和装 4で

もちろんゴム長も、たえてみないものであり、東京
ほぽ半々である 。 権問保之助は 1
927年に、「人は
の道がいかにぬかって いたかがわかる 。 こういうこ
「モダン生活」という 。 たしかに銀座や丸ビルの 一
とを、事例ごとに検討していけば、当時の銀座と、
隅にそれらしきものはみられるが、そこにくる人も
その背景になっている東京の生活事情が、かなり詳
そこで働く人も、モダン生活などしておらず、モダ
しくうかぴ、あがってくるはずで、ある 。
ン生活なるものは、どこにも存在しない J
、とかい
今によると、モダンガールを略してモガと最初に
ているが、モダンらしきものも、この程度だったの
よんだのは、大宅壮ー とのことである 。先の小著に
である 。
もしるしたことだが、その頃の銀座通りにはモガが
俳佃するといわれていた 。 ところが考現学調査の結
7
. 盛り場
果は、銀座通りを歩く女性通行人 1
00人のうち、洋
では、銀座を他の盛り;場と区別するのはなんであ
装はわずか l人。 そんなはずないとおもってなんど
るのか。 図 3土橋長俊「盛り場の人出分析表」は
も繰り返してみたが、やはり 1%だった 、という 。
.(
『新版大東京案内1 19
29)掲載のものから神楽坂を
モダン東京のモダン銀座といわれながら、さほどモ
割愛し、配列も若干かえたものである 。人形町は、
ダンで、はなかった、ということになるかもしれない。
水天宮の縁日に東京第一の人出を集め、浅草ととも
に下町の盛り場。新宿と道玄坂 (
渋谷) は山の手郊
6 カフェ
外の廃り場。銀座と上野は 山の手と下町の両方から
モダン銀座を象徴していたのは、カフェだった 。
人の集まる都心の盛り場である 。
もともとカフェは、フランスのサロンを模したもの
ひとつとして同じものはないが、都心、下町、郊
で、それにふさわしい室内装飾で豪華な雰囲気をつ
外それぞれの 2ヶ所は、ほぼ同型とみてよい。上野
くり 、知的な 会話で女給が客をもてなし、コーヒ ー
は、比較的まんべんなく人の種類を吸収して家庭的
や洋酒を飲み、軽食も食べられるという 、貴顕富
な雰囲気を感じさせ、銀座は青年-学生-中年紳士
豪・有名文士のいくところた、った 。関東大震災以後、
の街、新宿は学生と奥様の街、道玄坂は中年 ・奥
大正デモクラシーの雰囲気のなかで、中間層知識階
様学生がほぼ同数である。
級や学生の集まるカフェとなった 。今利次郎らは、
新版大東京案内 j にのせられている石渡雅
同じ 『
学生たちとのたまり場にしていたカフェを「街頭の
男採集の「銀座一帯飲食庖分布状態」を、今と吉田
サロン」とよんでいたという 。 このことでは、後の
が広名のすべてを加筆し訂正したのが図 4である 。
喫茶庖に近いが、女給のいることと洋酒ののめるこ
その飲食庖の種類と軒数とを、洋風と和風に分類し
とで違い、警視庁は、普通喫茶庖と特殊喫茶庖とよ
てみると 、洋は、喫茶応、カフェ、ハ一、レストラ
んで区別していた 。
ンの 4種で、総計 1
59軒。手1
[は、和食、中華、そば、
今 ・吉 田 採 集 の 「 銀 座 カ フ ェ 女 給 さ ん 服 装 」
すし、おでん、天ぷら、鰻、鳥料理、しるこ、牛な
(
192
6)には、デパートとおもわれる地下 l
喫茶部や食
べの 1
0種と種類こそ多いものの総計 1
04軒と、洋風が
堂もふくまれているが、これを みると 、地下喫茶部
断然、多い。銀座は、やはりモダンな街ではあった。
の制服以外すべて着物である 。吉田謙背採集の「女

人間文化 ・ 5
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1

ミ 5
3
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可 ノ

3
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1 3
!
1庁
おでんや 1
1粁 6
7'肝 レストラン 2
6朝 6
i1
!
l
表 1銀座飲食屈の比較 (1931
) 食 ~ 1
7粁 3
2'
iI
'
1

なお、『新版大東京案内 』 にのせられた 2つの考 飲食~用一~町~何~、額ー『品J.H,長~引


田 1
926年 (UH和元年)1
931年(
昭和]
6年)
現学採集をした土橋と石渡は 、 ともに早大建築学科 そ ,
;
r wH 1
3粁
の学生である 。 71
<
. 5
軒 l
3'1
[
'
-
1
'.華そば 9
刺 7
i肝
8
. 工口 、
しる 」 8
i
j[干 7
!
1汗
1
931年に第 2函の銀座飲食庖分布状態調査がおこ
す し 6
軒 5
il
q
なわれ、その数字の 一部が「早稲田付近の飲食庖分
おでん 0
軒 4
!
1可
布図 J(
1931)に引用されている 。 それを(表 1)
みる
ミルクホール 7
軒 3
1
1汗
と、わ ずか 2年間にカフェは 2
6軒から 4
2軒 、パーは
5
3軒から 1
19軒、おでん屋にいたっては 11
軒から 6
7 w
五 ナ
先 2
軒 2
j
!l
f
軒へと 6倍もの増加である 。 しかも 1
930年は世界大 ロ
イ正午
'1-J
'
fl 3
粁 例年
恐慌の年だったことを思えば、かなり異常である 。 つ どん I
車l
' 2

昭和戦 T
前期についてかかれたものをよむと 、必ずと 牛なべ 0
軒 l
!1

いってよいほどエロ ・グロ ・ナンセンスという言葉
表 2早稲田飲食庖の比較 (1931
)
がでてくる 。そして、不況によって人々は将来への
希望をうしない、享来へとはしった、とかかれてい たず、両親親類からの援助で、その生活をようやく
る。そうした面もあったかもしれないが、ここは安 維持していたことは、大正末から明治戦前期にかけ
銀座細見 j の証言をきくことにしよう 。
藤更生 『 ての家計調査が明らかにしている。彼らの大部分は
「近年、東京のカフェ界で、もっとも著しい現象は、 地方の次三男で、いわば故郷をおわれた人々である 。
j
大阪の大カフェが感んに支庖を聞くことである 。 両親はその不倒さから 、大学卒業後も送金しつづけ
「昭和 5年の 6月には美人庄が銀座に関庖し、 3
0人 ていたのである 。 しかも昭和 にはいると大学卒の就
の大阪娘を女給として、数回に渡って飛行機で輸送 職難はきびしくなり、知識無産階級とよばれるよう
し一大センセーションを起こした 。1
0月には 日輸が、 になっていた 。当然、のことながら彼らは 、気分的に
ついで、 1 2日には赤玉が大資本を .
1月の 1 m
rして、カフ も経済的にもエロ・カフェを敬遠した。
ェ宣戦撹乱にかか った。 銀座は今や大阪カフェ、大
阪娘、大阪エロの洪水である。」 9.パーと喫茶居
「銀座を歩いているいわゆる先端人、モダンボー 安藤は、先端人はもはやカフェにいかず、喫茶庖
イ、モダンガールはカフェに行かない。 f
皮らの行く にいく、とかいているが、銀座に喫茶庖は地えてお
J
のは喫茶応である 。 らず、むしろ 5
4軒から 5
2軒へとわずかながら減少し
「カフェの客なんぞ古い会社員だの爺速や回会者 ている 。 そのかわりパー 2
倍 、おでん屋が6倍に増加
J
ばっかりだ 。 した 。 カフェはコーヒーばかりでなく、お j
酉も飲め
等々とかいている 。 これがエロ・グロ ・ナンセン た。 そこでカフェより簡便にお酒の飲めるパー 、 さ
スのエロである 。安藤は、大震災で打撃をうけた東 らにおでん屋が増えたのであろう 。実をいうと、カ
京に士、l
する大阪の大資本と大衆性による攻勢として フェとパーの区別は、さほど明確ではないが、大勢
いるが、大恐慌は大│波の商工業者を直撃し、苦境に はこのようなものだったろう 。
たったカフェ業者は、その資本にものをいわせて東 それでは │
喫茶庖は、まったく増えなかったのか。
京に活路をもとめたのではなかったろうか。それは 、 考 現 学 調 査 で わ か る 限 り で は 、早 稲 田 で 増 え た 。
これまでの乙にすまして、庶民には近よりがたかっ 「早稲田 付 近 の 飲 食 庖 分 布図 J(
1931
)によると、
た知的雰囲気を一掃して、カフェを大衆化した 。 し 19
26年から 3
1年までの 5年間に、喫茶庖は 1 6軒か ら
かも、それは安くはなく、逆にその仕掛けの大げさ 7
6軒にも増え、カフェは 7 軒から 4軒へと減少し、 26
なのに比例して高価だった 。 軒あったレストランはわずか 6粁になった。これに
東京の中間!吾は見識ばかり高くて 、その生活の内 対して、 1
7車│だった食堂は 3
2軒 に増えている(表 2。
)
情は、いたってつましく、給料だけで家計はなりた 学生の生活は、より地についた現実的なものにな っ

人間文化 ・ 7
考現学の再構築

ていたのである 。その中で、喫茶庖が激増している オアシスだ。電飾の看板には従来かたかなの西洋気


のは、彼らの生活のなかにとけこんだものになって 分のロマンチカルナもの 、あるいはグロあるいはナ
いたのだろう 。喫茶応が、中野、阿佐ヶ谷、など中 ンセンスばりのが多いのだが、こ のごろは大阪式の
央線沿線や大森などの郊外住宅地にひろがってい っ 進出で、たとえば [
麗人座会館』 というような従来
たのは 、こ の頃からとおもわれる。 の円本式紳士をもうなずかせるような美名(?)を
こうしてカフェは、 一方はパー-焼鳥屋へ、他方 冠するのがはやっている 。
j
は喫茶庖へと分解した 。 これはカフ ェのお 泊とコー これをみると、エロサービスのカフェは、必ずし
ヒーへの分解でもある 。かつてカフェは都市中間層 も大阪からのものではなく、新宿には 、その以前か
の職場と家庭との問に存在する「街頭」のサロンだ らあったもののようである 。当時は、早稲田もが「
宿
った 。それが分解して、パーは職場と、喫茶庖は学 も東京市外である 。私たちのイメージする郊外は、
園や家庭につながっていたのである 。 大正末から昭和初年にかけて、国電(現 JR'E電)
や私鉄の沿線に郊外住宅地が開発されて以後のもの
10.新宿 で、新宿は、それ以前の郊外に関連して、今和次郎
エロ・カフェが多か ったのは、新宿だった 。新宿 が 『日本の民家jのなかで、貧民とともに 、都市が
と銀座の飲食庖比較を、表 3でみると、喫茶庖 2
3軒 消化しきれないものをはきだすところ、とのべた
で銀座 5
2粁の半数弱。 カフェ 9
2軒がダントツで銀座 「場末 Jとよばれるにむしろふさわしかった 。
4
2軒を倍以上ひきはなしている 。パー 1
6*lは銀座 かつてのカフェは 、パーと喫茶庖に分解されて都
11 9~!l に遠くおよばず、おでん屋t2af も銀座 67軒に 市生活のなかに吸収されていったものの 、消化 され
対してごく少ない。 ずにはきだされたのが、新宿のカフェだったといえ
この比較は総数だから、面積あたりでみなければ、 るのではないか。新宿は 、畳は学生と奥様の街であ
不公平かもしれない。当時の銀座は掘に固まれてい ったにしても、夜は場末の盛り場にすぎなかったの
たので 、境界は明確だが、発展途上の新宿は、境が である 。
はっきりしないものの、銀座の約 4分の 3の面積と 現在でも、地方都市へいくと、表通りは立派に整
みられる 。 しかし、面積当たりの比率があまり意味 備されていても、ちょっと裏道にはいるとあやしげ
をもたないのは、新宿と銀座とでは、飲食庖の分布 な飲食庖が軒をつらねているところが少なくない 。
jが、まったく違うからである 。 このことにつ
の仕 } 昭和戦前期、すでに、全国の県庁所在都市で、 。。
いて今和次郎は、 銀座と名づけられた飲食街があったとされるが、そ

分布のうえでみれば、銀座では、ほほ均等に地 のほとんとは、場末の飲食庖街で、それが地方の
図のうえに散布されていて、より落ち着いた気分の 人々に、いわゆる「都市の享楽j という言葉に、ひ
散歩者たちへの構えだとみられるのであるが、新宿 とつのイメージをあたえるものになっていたのでは
における分布の相 l
は、 きわめてせっかちに部分部分 なかったかとおもう 。
に密集している 。かつての場末の様相をいまだに相 しかし、新宿のもつ昼と夜との 2面性は、銀座も、
当露骨に現しているといえるもののようだ。
」 本来もっていた性格だった。昼、銀座通りをぶらつ
とのべ、 三越百貨庖哀にある「文字通りの軒並み いて、新しい感覚を身につけていく 、新感覚充電装
のカフェ街」について、こうしるしている 。 置としての「昼の銀座通り」すなわち「街頭」と 、
「ここは東京中のこの種の名所のひとつである 。 夜、飲食庖の娠わう「夜の銀座街」すなわち「盛り
すなわち露骨なエロサービスあるいはインチキ式の 場」とである 。大阪カフ工業者の乱入は、銀座のさ
らなる盛り場化をもくろむものだった 。 これまでみ
飲詰耐4 空
空所 銀座 新宿 てきたのは 、その挑戦に対する東京人の応答である。
喫茶広 5
2軒 2
3
'1
カ フ ェ 4
2
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1
1.モガ
汗 9
2
'11
'
では、銀座の銀座たる由縁である新感覚充電装置

、 1
1
9!
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f 1
9粁
としての「昼の銀座通り」は 、どのようなものだっ
おでん屋 6
7*f 2
1
'1
!f
たのか。
表 3銀座と新宿の飲食庖の比較 (1931)
工学院大学に保存されている今和次郎の遺品のな

8 ・人間文化
考現学の再構築

かから、何かに発表するつもりで版下にかいたとお その構成の仕方がかなり違うのである 。
もわれる 、 卜レシングペーパーに 曇入れ した図表 9 ところで 「男」の「青年 Jに対して、 「女」の
点が発見された 。明らかに銀座通りを対象に調査し 「青年 ・令嬢・女子生の一部」という、やや っこし
たものだが、説明文はおろか標題さえつけられてい いくくり方は、なにを意味しているのだろうか。 こ
r
ない 。 ただ表中に「服部工事場 J 4月 4日 (
土)J れは当時の未婚女性のきわめて不安定な位置をしめ
「土、口 、月 」の文字がみえ 、服部時計庖 (
和光 ) しているように思うが、銀ブラをする「男」の 「

の工事中に 4月 4日が土曜日 だったのは、 1
931
年な 年j が、モホ、ことモダンボーイとするなら、これこ
ので、この年の 4月 4日から 6日までの少なくとも そモガことモダンガールなのであるまいか。そこで、
3日間をかけての調査だったことがわかる 。 r
1925 このモガに注目することにしよう 。
年初夏銀座街風俗記録jの 6年後、銀座通りを舞台 彼女たちは東側では 一般女性のほぼ半数、ともに
に、第 2回目の調査がお こな われていたのである 。 日曜日午後 41l寺をピークとする折線グラフのえがき
いずれも興味深いものではあるが、そのうちの 2例 方は、ほぼ同型である 。モガといえども、 一般女性
を紹介しておく 。 の一部であるから、これは 当然 かもしれなし、。かり
図 5は、曜日 -時刻による各種人出の変化である 。 に一般女性を既婚婦人、すなわち主婦とすると、彼
東側、西側 2つの表の中 央 を銀座通りにみたてて土、 女たちは主婦候補生であり 、主婦である母親とつれ
日、月の午后 4時と 8時の通行人数を左右対称にし だってきたものも含まれているだろう 。そして土曜
るしている 。上段は男、下段は女。男は一般人 、青 日午后 8時をピークとする男 青年のグラフと、お
銀座の庖員の意であろう )の 4
年、学生、銀庖人 ( 噛み合っていない。
よそ l
種、女は 一般人、青年 ・令嬢 ・女子生の一部、銀庖 ところが、西側 では 一変する。モガのグラフは 一
人の 3種に分類している。銀座通りの東側 には 3大 般女性と同じ H
程卜│ ・時刻に上下はす るが、その増減
デパートがあるため、一般人 の通行が多く、銀座マ は、はるかに大きく、土曜午后 8時のピーク時には、
ンは好んで西側、とくに中央交差点以南を歩いてい 男の青年 432に対して 37
8の約 4分の 3に達し、その
た。し たがって、東と西とでは、通行人の種類や、 折線グラフは、男 青年と 同型である 。つまり、男
性に伍して街頭を悶歩する新しい女性たちであり 、
また、男 ・青年の相手あるいは妻候補者である 。
周了直「互
E ・ 12.銀ブラ
斗~~ ~ 彼あるいは彼女たちは、どのように銀座をつまり銀

-
• フラをしていたのだろうか。 図 6は、銀ブラの追跡
調査である 。道路内に書きこめないので、路巾を左
z
右に拡大し 、 A.B.C.D銀ブ ラ 4人の動忠良を記入し
- ている 。掲載にあたって、解りやすくするため Aを
強調してある 。
出発点が 4丁目交差点、西側南角 (
現在の 三愛前 )
になっているのは、先にのべたように、銀ブラ常習
者が西側、とくに中央交差点以南を好んで歩いてい
たからである 。 ところが、 4例のいずれも銀座八丁
目を往復し 、横道に入ることはほとんどなく、ふた
たび西側南にもどっていきつもどりつしている 。 ま
た、多くが交差点以外の信号機のないところを平気
で通りを横切っているのは 、車の交通量が少なかっ
たのである 。
Aでみると、出発点から まっすぐ南下して大徳
図 5銀座人出調査 (1931.
4) (
帽子庖)に入り 、同じ道を 出発点にもと'って通りを
(土学院大学建築学科所蔵) 横切り、北ヒして松屋、伊東屋前を通り、 三共 (

人間文化・ 9
考現学の再構築

i
手袋 j
市は、帝同ホテル前から 、つまり │
刈右下(商)から
曲がりながら入ってくるみゆき通りを 1 -
11
心に散在し
ている 。 JW
セを通行する女性全体に市める洋装の比
率は、 2
5年にわずか 1%だったものが、 1
933年の
和 ・洋装比率測定」では 1
「 7%になっていたものの、
大下は子供 .9:,学生で、それをのぞくと 3%と推測
されていた。そして 3
7年、つまり「銀出流行散兵線j
の 2年後の「全国 1
9都市女性服装調査報骨」の子供
を外した銀応の調査では、洋装 2
4.0%で、女学生を
のぞいて 1
4.0%になっていた O 洋装 l
市は、こうした
洋装の急│昇を先導していたのである。
5年前の銀座通り丙側には 、三丁 日に卜字屋、四
丁1
-1に山野の 二軒しかなかった楽器・レコード庖

、 一
三丁 1
1に軒をつらねているのは、この頃 、急速
にレコードが持及したからである 。
『モデルノロヂオ』所載の 1
192
5年初夏銀座街風
俗記録Jには、挿絵家の吉郎二郎の採集した、現在
の C Dプレイヤーにあたるラァパ型蓄?号機を、多数
の通行人がきいているスケッチが抱載されている 。
当時、者?音機は客寄せの道具になるほど珍しかった
のだ。 しかし録音技術は未熟だったから、戸来がせ
いぜいで、流行歌・童謡 ・浪花節をきく程度だった。
昭和に入る頃から、電気的な録音技術によってオー
ケストラや室内奈の観賞にたえるものとなり、さら
にスピーカ一、電動回転擦となって、首苔 (
電気蓄
図6
.銀座ブラ追跡調査 (
193
1.4) 音機 ) とよばれた 。 1935 年頃、ラヂオと~f.背機は、
(
工学院大学建築学科所蔵)
もはや家庭の文化的な必需品として急速に普及し、
同)で rい物をし、さらに 一丁 11までいってポンピ かつての知識人は読者人の別名だったように、新し
アン(喫茶庖)に入った。そこで一休みして、ふた い文化人はクラシック愛好家の別名といえるほどに
たび似!似通り東側 を南下、 七丁 11に人ったところで、 もなっていた 。そして、クラシ i
i
y ク鋸Iを目的とし
思い返して交差点を西側にわたり、そこを未練たら た「名山喫茶」が各地にあらわれ、はるか東北の岩
しく何度もゆききしたあげく、ついにあきらめて出 手県花巻の民村で、宮沢賢治がレコード鑑賞会をひ
発点にもどり、四丁目交差点を京側にわたって、ラ らき、童話「セロ弾きのゴ ーシュ」をかく、という
イオン(カフェ)前からパスにのって帰 った。 ことにもなったのである 。 そういう大きな背景で、
これをみると、この頃の昼の銀砲は、衣 i
盛りに限 銀座レコード j
古の急増ぶりをみていただきたい。
られ、しかも新感覚充電装置とよぶには、いかに情 モガ、モボたちが好んで歩いた銀座通り中央交差点
報泣が少なかったかをしめしている 。 人々は、なに 以
、作jの P
j1
[ J
!
1衰の街区には、画廊 ・工芸 1
J 1
5が散在して
ものかをもとめて銀座にくるが、 卜分には満足させ いた 。 このなかには 、由緒ある画廊 -工芸庖が少な
てくれず、いたずらに歩道をゆききしていたのであ くなかった 。 たとえば A、 B、 Cのしるしで示した
る。 しかし、この欲求をこえる願望が銀座をかえ ものがそうである 。 Aは『日本美の再発見』で者名
た。 なブルーノ・タウトが高崎工芸試験所で指導し制作
した工芸府ミラテス、 Bはイギリス ・チューダー王
13. 文化センター 朝の様式を得意とした様式建築家・平尾敏也のアン
考現学が、昼の銀座街全域を、はじめて記録した ティーク美貌堂。 Cは現存している相1
1京理らによる
のは、 1
935年9月「銀座流行広散兵線J(
同7)である 。 民芸問たくみである 。

1
0 ・人間文化
1
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考現学の再構築

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図 7銀座流行届散兵線 u流行J1935.10)

理空宇『竺竺竺士ゴ竺竺竺竺サ陣盟盟堅調樫空宇司開平間竺竺竺竺官
亡二二コ│ 「一一一l
f一一一寸仁二ゴ仁二コ仁二二コ自
仁~I. ヒヨしl
1 口己仁平仁司仁コ E
E二コ l∞∞~r---σ1 仁竺:4 仁?コ 1ヲコー二コ E
仁二コ l l 亡二1~[---' 亡コーコ亡二コ
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二コ,
---
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,1 [一一一寸亡豆込仁止己堕二二コ

仁L」口口トゴ長ヨョーよ語
圏彊盟国一一一晒~IC一一・3 巴コ仁二コ仁コ D

E
ii
1
i w 忌駐日頃
上図より、洋装庖、工芸広、音楽居、画廊をマークしなおしたもの

喫茶席は 1
他方 、│ 929
年 の5
4軒から 2
Ufに、 レスト た し か に 大 恐慌 は、農村に 打 撃 を あ た え 、 さ ら に
ランは 2
6粁 から 1
1粁へと 、 ともに半減していた 。 1
934年の大冷告は、東北農村 に著しい貧│杢│をもたら
こうして銀座街全域は文字通り東京の文 化 センター し、今利次郎 を農村生活改善へとかりたてた。 しか
へと変貌していた 。後に今和次郎は、余 11
去の増大に し、その 1
!1
末│
は、農村自身がかかえていた「小作制
よって「慰楽から教養へ」と移行するであろうと 、 度 j などを f
i
J
!i
o
i
l:
iしなければ、どうにもならない問題
将来に期待していたのは 、 こうした銀座の変貌をみ であった そしてその次三男たちは、都市に流入し
ていたからかもしれなし、。 てプロレタリアート、さらにはルンペン・プロレタ
リアとなって釘民街を形成し 、娘たちは売 られて公
14. 現代史の証言 娼-私娼にされた 。実は、本米ならカフ ェの,
:
y給に
考現学が次第に明らかにしていったのは 、モダン東 ついては 、それと士、l HI
比されていた公娼 .;
f ¥をさけ
京とさわがれながら 、東京 人の生活が7
2外 と簡素で で は 通 れ な い 川 題であって 、後者にはが'
iJ
:1
ニ氷山の
健康な文化性をもっていたことである 。 にもかかわ .i
「東京某附 ,
!
'
I J
j分析」の考現学調査があるなど、論
らず、 I
I
B利戦前史をひもとくと、ほとんど例外なく、 じなければならない多くの問題のあることは、iIl々
都市の享楽が、農村の貧 困 に対比されて、白年将校 承知している 。 けれども、つぎのことはいえるであ
たちに危機感をもたらし軍国主義にはしらせた、と ろう 。
かいている 。 そもそも都 d
iの事楽には、今手L
I次郎の批判した農

人間文化・ 1
1
考現学の再構築

村の E
E
:栄病・儀礼病を、農村の貧困には、これも考 は、演劇の何幕何場の「幕」と「場」にあたる。つ
現学の調査した本所・深川の貧民窟などを当てなけ まり、今利次郎は、舞台の上で演じられる俳優のし
れば、論理的で公平な比較の対象にはならない。 ぐさや衣装などをみて 、その人 々の性格や心情をも
本論の主テーマは 、銀座とそこに象徴された知識中 感じとれるように 、街頭をゆく人々からも、それを
間階層であった 。この階層に対比する農村のそれは、 読みとることができる 、と考えたのである 。むろん 、
独立自営農民としての中農であろう 。彼らは、日常 街頭の登場人物は、ある筋書きのもとに進行する実
はつつましく暮らしながら、正月など、親類縁者を 際の舞台と違うのは勿論、筋書きのないドラマとよ
あつめた年にせいぜい 2、 3回の宴会の盛大さを競 ばれるスポーツが一定のルールのもとにおこなわれ
いあ った。そのため宴会にしかっかわれず、普段は るのとも異なって、それぞれ自由に行動している 。
雨戸をしめて、ほこりっぽくな っているが、畳の腐 しかし、まったく無作為ではなく、そこにはある稜
るのを防ぐため 、床 の上 に畳を 2枚ずつ山型にたて の法則性があるはずである。人々が無意識・無自覚
て風を通しているか、 とにかく日常はまったく使わ のうちにおこなっている法則性の発見や、そこから
れない座敷をつくり 、宴会用の食器 ・調度類を道具 逆に、無意識 -無自覚の深層を解読しようとして考
蔵にぎっしり詰めこんでいた 。つまり年に 2、 3度 えだしたのが、統計や図示なとごの方法だった。
しか使われない座敷と道具蔵とのセットが、独立自 当然、のこととして 、今 らは 、街頭の通行人を舞台
営農民であることの象徴だ‘った。 日常生活財におい の登場人物に、自分たちは客席にいる観客という
ては、たしかに都市家庭の方がゆたかだったが、高 「水と油」の関係にあるとしていた 。 ところが、間
級生活財のゆたかさにおいては、はるかに農家がま もなく、調査するものとされるものとが、「同ーの
さっていたのである 。 これが今のいう虚栄病、儀礼 舞台」にいることからの 困難さを 訴えるようになる 。
病である 。 当時、科学は主体と客体とが明確 に分離されていな
都市の享楽に農村の貧困 、などというのは、明ら ければならない、としていたからであろう 。
かに「ためにする議論」であるが、現在にいたるま しかし、このことが考現学の視点に大きな意味を
でこのような農村は善 、都市は悪とい った農本主義 もたらした 。彼らは、銀座通りの散策者たちの風俗
によって、都市民の政策決定のプロセスへの参加を を記録しているつもりだったのに、実は、散策者た
さまたげてきた。 このことが、行政腐敗をもたらし ちが何をみたかを記録していたのである 。実際に、
ていることが、ようやく知られるようになってい 銀座通りにおける考現学採集の方法は、銀座八丁を
る。 京橋から新橋、あるいは逆に歩いて、行き違う通行
ともあれ、考現学は 、大正昭和戦前期の世相を、正 人すべてを、それぞれの調査項目によって採集する、
確に記録していたのである 。 という自らも通行人の一人となっておこなうものだ
った。それゆえ佐藤健二は 、考現学を「散策者のま
15. 生活の舞台 なざしのテキスト 化Jだという 。同様に「新家庭の
民家研究の先駆者として著名な今和次郎は、当時 持ち物調査」は「主婦のまなざしのテキスト化」で
さかんだ った演劇運動にもかかわって、いくつかの あろう 。そして 、この主体と客体との同 一化に、大
舞台美術を手がけていた。そして自測したある農家 正昭和戦前期の街頭や家庭のもつ 、それ以前の生活の
の土聞の詳細図をしめして 、物のおかれ方、散らか 場とはことなる、新しい場所の意味が生まれていた。
し方が、その家人の性格や心情をも表現していると f
li!
り場jは、群衆のなかの孤独を楽しむ場所で
指摘して、舞台美術との関連を示唆している 。彼は 、 ある 。そこには、群衆のなかにとけこむことによる
街頭や家庭を舞台にみたて、そこに現れる事物を通 「やすらぎ」や、誰とも無関係に独りになることの
して、 人々 の無意識 ・無自覚の層まで解明しようと できる「くつろぎ」がある。ところが「街頭」の散
思いたったのである 。 策者は群衆とは異なっている。見ても楽しいし 、見
たとえば、「考現学とは何か」で 、考現学の対象 られでも楽しいのが「おしゃれ」だ、と今和次郎は
を、1.人 の行動に関するもの、 2.
住居関係のもの 、 いったが、「街頭」には見る見られることによる散
3.
衣服関係のもの 、4.
その他、としているのは、 l 策者相互の無意識下の情報交換による、軽い刺激を
俳優の演技、 2
.舞台装置 、3
.衣装、 4.
その他 、にあ ともな った楽しさが生まれていた 。彼らは 一方的に
たるであろうし、考現学の単位である「場所と場合J 「慰楽」をあたえられる群衆ではなく 、「教養」をも

12 ・人間文化
考現学の再構築

とめる新しい文化の担い手であり、当然それは都市 この変化を先導したのは、 6
0年代末、学園や街頭
空間のあり方にもかかわってくる 。 を占領して暴れまわっていた「怒れる若者たち」が、
「盛り場jは、かつての浅草に代表されていたよ 7
0年代にはいると、もと労働着であるジャンパ 一、
うに、大きくてケパケパしい看板や旗、広告があふ ブルゾンを着て街にでて、流行から大きく南t
I脱して
れ、客寄せの声や音楽が道にひびいてくる、色と音 いったことであろう 。今和次郎は、「考現学概論j
の氾濫する喧騒の巷である 。そしてそれは、庶民の で、現在の風俗には、 1
8世紀の慣習、 1
9世紀の流行、
日常的なケから離脱した非日常的なハレの世界でも 20世紀の合理が共存しているといったが、若者たち
ある 。 これに対して「街頭」は人々こそが主役だか は、明らかに合理を選択したのである 。そして彼ら
ら、舞台装置である建築その他は、彼や彼女をひき は、青山、原宿、代官山など、もと高級住宅地で、
たて、浮かび上がらせる背景であり、看板・広告な 比較的緑が多く、センスのいい飲食庖、ブティック、
ど余計なものはできるだけ控え目な方がよい 。そし 食品庖などの点在していた地域をえらびだして散策
て街頭はまた、職場と家庭とにつながる日常的な生 路にし、フ 7 '
J ショナフル ・タウンとよばれた新し

舌空間でもある 。
j い街頭をつくりだした 。
カフェにかわって「街頭のサロンj となった喫茶 現在、街ゆく人々をみると、それぞれ異なってい
庖では、文化人、ジャーナリスト、サラリーマン、 て、きわめて多様であるが、全体的にみると、ほと
学生の情報交換の場になっていたことは、よく知ら んど同じ格好である 。つまり人々の服装は、社会の
れているが、家庭も、それに近かった 。先に「新家 大きな動きにはしたがいながら、流行からほとんど
庭の持ち物調査」は、「主婦のまなざしのテキスト 自由になっている 。 というのは、 8
0年代のバブル経
化」といったが、それは、他人の目を意識した「ま 済期、ファッションのキーワードとみていいのは、
なざし」だった。当時の知識中間層家庭には、親類、 シンプルとかナチュラルといった、あきらかに合理
職場の同僚や部下、同郷人、友人たちの来客がたえ へむかうものだったからで、つまり今が 1
9世紀の流
まなかったからである 。そして、客の中には小学校 行に対比させた20世紀の合理であり、それが社会の
から大学、高女にいたる子供の友人たちもふくまれ 大きな底流となり、その上に様々な流行が括れ動い
ていた 。 人々との交流のなかで、「家族の団らん」 ているのである 。例外は女子高校生であろう 。かつ
が営まれており、そうした都市空間の文化的なひろ て流行の担い手は、先端人、つまり少数者だったの
がりの 一大センターとして銀座が存在していたので が、いまの女子高生は群衆の一人になろうとして流
ある 。 行という集団の意志に支配されている 。したがって、
彼女たちの集まるのは「盛り場Jといえるのであっ
16.現代の課題 て、いいかえれば、街頭が家庭とも学校ともつなが
19
60年代の高度経済 成長期までの銀座 ・新宿な るものではなくなった象徴のようにおもえる 。
ど、都市の繁華街の街並みが貧相だったのにひきか 現在の若者は、朝シャンをし、きちんと服装をと
え、夜には活発な経済活動を反映してビルの屋上に とのえ、他人の目を意識して街にでる 。 ところが彼
きらめく巨大なネオンの数々がっくりだした絢』胸豪 らの部屋の乱雑さは眼をおおうばかりである 。 これ
華で幻想的な景観は、他国に例をみないものだった 。 は若者だけではない 。 「新家庭の持ち物調査」は、
しかし、ネオンサインが、いかに絢;欄なものとして 主婦のまなざしのテキスト 化であり、それは他人の
も、それらは地域から超越した商品広告で、都市そ 目を意識したまなざしだったが、現在の家庭は他人
のものの美ではけっしてなかった 。つまりは、新し の目を意識しなくなって、どの部屋も大きさや形の
いタイプの I
盛り場」にすぎなかったのである 。や まちまちな道具が氾慌し、それぞれが白己主張して
がてビルは高層化して屋上広告の価値は失われて、 いる 。今利次郎は、あまりにも整理された室内は、
商品広告はテレビの CMにうつり、繁華街での商品 生活が感じられない、といって、ある程度の乱雑さ
の告示は、商品そのものの庖頭での展示へと移行し を容認していたが、まさかこれほどになるとは、お
た。 こうして「盛り場」はショッピング・センター もってもいなかったであろう。
としての「街頭」へとかわり、アミユースメント・ かつて私は、なにもおかれていない日本座敷は、
センターとしての「盛り場」浅草の六区や新宿の歌 泰平のなかにいた武士が、自らの存在理由をもとめ
舞伎町は没落し、再開発を余儀なくされた。 て、日常に死と戦場とをみつめて、つねに待機の姿

人間文化・ 1
3
考現学の再構築

勢でいる、静かな緊張感だとかいたことがある 。少 ぎ」と「くつろぎ」を、現在の若者は 、ま るで乱雑


なくとも東京の '
'
1問層家庭は、武家の住様式ととも な室内を円らっくり、家族の '
:
1
-'
の孤独にもとめてい
支うけついでいた。それ
に、この緊張感も、ある科 j るかのようである 。
は家父長制家族というだけでなく、江戸以来東京で いずれにせよ、現在の家庭が接容をしなくなった
は、いつ大地浜、大火災がおそってくるかわからな ことは、家庭景観の乱雑化をまねくとともに 、家庭
いという前提のもとに日常生活が常まれていたから における子供の社会教育の機会を失い 、家庭そのも
-
である 。 まして、下町の俗り場、浅草や人7f;
IE
Tにあ のを社会から孤立させ、生活の解体とさえいわせて
つまる「庖員」に代表される奉公人は、毎 Hが緊張 いる 。ここに、生活研究の最重要課題のあることは、
の連続だったから、その休日には、緊張感から解き 事実として認められていいであろう 。
はなされて感り場へいき娯 J~ を楽しみ、群衆のなか 日本生活学会は、考現学の再興を目的のひとつと
にJ
里没して「くつろぎ」ゃ「やすらぎ」をおぼえて して 1
974年に活動を開始し、その後 、 n島俊一ら T
次郎のいう「慰楽 j である 。
いた 。 これが今利 l EM研究 p
J
i
"の佐渡小木町宿根木調査、栗田靖之・疋
これに対して、家庭での家族の 1l'1 策、より/~,体的 王│正博ら CD 1の「生活財生態学」、小川信子ら

i
f実上なかった、とする説
には「食事の問梁 j は、.L 「子供と住まい」等々、以前より規模も大きく、詳
が、近年有力になっている 。 実際、広の幼い頃、 細!など 現学的な調査が発表されているが、いずれも
φ

「食事の団緊」の語をきかなかった 。 食事は、子供 家庭 (
住生活) を対象としている 。そしてかつては
を媛ける場であり、食事 '
'
1の会話は祭じられていた 施設医療、施設福初だったものが、高齢化社会の到
からである 。では│叶策はなかったかというと、そう 米とともに、地域医療、地域悩祉をへて 、在宅医療、
ではなく「食後の団梁 j だった。 そして長男-長交 住宅介護が叫ばれて、家庭を地域社会との関連でと
が肢の年齢をすぎると「食'jTの団梁」へと移行した 。 らえな t:
:
!
li工ならなくなっている 。
しかも来害はたえまなくあり、とくに親しい親鎖な 本がけ,{、になっておこなった、生活学会有志の
J:の団梁にくわわり、絶
どの場合は、幼い子供も食・ j 『おばあちゃんの原宿一東京 巣鴨とげぬき地蔵の
好の社会教育の J
易にもなっていた。 また家庭が、学 考現学 jのJ
也蔵通りは、高齢者によってつくられた
者-芸術家 知識人たちが、たえずうど流する知識情 新しい「降り場」であるが、その舞台装置は、露庖
報交換の場であったことは、あまたの小説や随宅に から商庖街へと移行していることで、 一種の「街頭」
かかれている 。それは子供たちも同級であって、こ といえなくもない 。 その後、現在にいたるまで、
のことを通じて税たちは、子供たちカfなにをし、な 細々ながら調査を続行しているが、この場所をえら
にを与えているのかを理解していた 。 んだのは、ほかでもない。広が幼時からその近くに
ところが「家族の同築」は、とうの庁に消えさり、 住んで、縁日にたえずおとずれていたものの一人で
家庭は「家族のふれあい」とされていたものが、い あり 、いまでは高由令 1
5の一人になっているからでも
まではもっぱら「くつろぎとやすらぎの場」といわ ある 。考現学は、その中に自分自身を含んでいる 。
れるようになっている 。 このことについて広は、な したがって、かつての考現学が、若き今平日次郎らに
んの存観的な資料をもっていないが、ここ 1
0年ばか よって、未来へむかつて動きつつある現在を対象に
り女子大生の卒論の発表などをきいて、つよく印象 始められたように、未来を予感させる現在の先端的
づけられていることである 。かつて人々は、狼維な な「場所と場合」は、表い方々によって調査し考察
怒り J
j 揚で、群衆の中の孤独にもとめていた「やすら していただかねばならなし、

14 ・人間文化
特集・考現学

G
診新乙いず夜学の々めに
e屋説室'!:fjÆ~.Þ奇//j寺端、/万{;.!Il メ竺肝心?//l!ì4,ij一,b切符 't.~.必'/ilif会庁、7-ガ、何王子j

面矢 :考現学については、まだまだ私たち全体の認 ので、絵がJ
菌け るというので柳田 !

│リjさんに連れら
識は共通になっていないのが現状です。大学院でも れ民俗学の採集にでかけられたのです。柳田同男は
「考現学 ・保存修景 Jという専攻がありますので、 樹務符にはい 1
農政ワ:を学び今の農林水産省 ・農 l )、
今日はその辺のこれまでの経緯を含めて、まず I
河川 法
;!
l
iJ司参事員・民族院占記'n長をつとめたエリート
J
先生にお話しいただいて 、それからそれぞれの研究 僚だったのです。 ;
信' '
vl
rはもちろんフリーパスでい
の立場から考現学についてお訴をいただきたいと思 けるからおまえの旅費は山してやるというので、今
います。それから今回は高谷先生が、考現学に k
.
Jす さんは材[J旧 国男 について歩いたといわれています 。
る根底的批判l
というものを用意されているそうで 絵描いてですね。今和次郎は図案干│の卒業生だから、
す。いきなりそれを出されては話がそれだけに集中 農村住宅を見てすぐ絵にできる 。今ほどカメラが普
してしまいますので、徐 々に出していただきながら、 及していない当時、スケッチが必要だったのでしょ
議論を 盛り 上げていただきたいと思います。 うね。そうして 、柳田 さんのもとで、民俗学の手伝
西川田 この滋賀県立大学の開設にあたって、人間文 いをしておられた時に、関東大渓災に遭うのです。
化学部では、まず「地域文化」、「生活文化j の 2学 そうすると彼は関東大京災の廃坊のあとの変化に注
科にすることは決まったのです。 ところで、その段 b
lをして記録したいという気持ちに駆られて、新し
階で地域文化の方は地域文化財ということを考えて く変化していく東京の 1汀がどういう歩み方をするの
いたもので、地域文化の 切 り1
1はなんとかわかって かということを継続的に記録する 1:
"Jiをやってみた
いました。それに対して 、生活文化についてはどう いと思うのです。 1
923年に震災があ って 、1
924年こ
いう切り口をとったらいいものか'j:
JIらないので、し ろからその仕事が始まるのです。 1
925年には銀座の
ばらく悩んでいたのです。その時ふと考現学という 風俗調べというのをやられた 。そのスポン サーが中
言葉を 思い出 したのです。住生活と衣服と人間関係 央公論の烏中雄作かな、婦人公論の編集長をしてお
と食生活というような家政一般にわたる生活文化学 られたのです。その人がスポンサーで、紀伊国屋で
科。その切り口として、考現学というのを考えたら 展覧会をやって、非~;;;,. t
こ好評だ、 ったわけで す。 そう
非常に切りやすいのじゃないか、「考現学Jを共通し
た切り口とすれば、良いのじゃないかと、自信みた
いなもの が湧い てきたと いうの が正目なと ころです。
この時に改めて考現学というのを思い返したので
す。たしかに今和次郎さんの仕事はずっと眺めてき
ました。今和次郎さんという人の存在を知らされた
のは丙 山卯 三という京大の建築の先生からなので
す。阿川先生から『今和次郎という面向い先生がい
て、モダノロジーというのを言うているが知ってい
るか』と聞かれて、それで初めて知ったのです。そ
の時私が印象に残っている話があります。今和次郎
6
さんはいつもジャンパーにズック靴をはいておられ F

たんですが、その理由というのがおもしろい、今さ
んの学生時代、東京の美術学校の背学生だったので、
ある人のところに占:生となって住み込み、毎朝ご主
人の革靴を磨かされたそうです。その経験から先生
は生涯革新t
ははかなかったという、ある種の反骨精
神をきいた記憶があるのです。当時、非常にユニー I ~)à
クな先生が早稲田大学におられるという印象を作っ
たわけで、す。


ヂH次郎とその考現学 武蔵西多摩郡の山人足の小屋(今和次郎I
日本の民家 j1
922年採集)
西川 今和次郎はもともとは │
立│案科の卒業生だった

人間文化・ 15
新しい考現学のために

いう塁手Jきの中で柳田国男の逆鱗に触れて彼は破門に
されるわけです。そのあと彼は、どうも破門されて 梅梓,忠夫による評価
はっきりとしたのが、民俗学 というのは過去を探る 西川 ・梅梓忠夫さんが梅梓著作集の中に今和次郎と
学問で 、考現学は未来を考える 学問であるというこ 考現学という論文を書かれています。『今和次郎集j
とです。 この彼の考えが初1回国男先生の逆鱗に触れ 第一巻考現学(19
71)の解説を引き受けられ、今手日
たのではないか。いずれにしても 、今さんは変化す 次郎さんの仕事、考現学にひとつの評価を与えられ
る世相風俗というものを分析 ・考察することをやっ たわけです。梅悼さんが言っておられるのは、日本
てみたいというようなことを 言っ ているのです。各 にはたくさんの学聞があるけれど、ほとんとの学聞
自の精神の内にもち、そして自分としての生活を築 は全部翻訳したような学問である 。輸入したような
きながら 、一方で、世間の生活を観察する位置に立ち 学問である 。それに対して、この考現学に関しては
うるのだと告白したくなる」という境地で客観的な 日本の国産の学問である O そういう日本のまれな国
立場にたとうとしているのです。
動物学者が動物を、 産学であるところの考現学の創始者としての今和次
植物学者が植物に対するように或いは、裁判官が犯 郎という評価をしておられるわけです。そういうひ
罪者に対するように、そういう姿勢で感覚で接した とつの完結した理論体系を持ち、生み出すようなも
いと言っています。そういう態度で外から見ていく のではないけれども、現代社会の研究で、非常に有効
ような形で、客体として 、相手を考察していくとい な研究成果を提供できるものだと 。今和次郎は先ほ
うような姿勢で観察したいとしている O 考現学の対 ど言いましたように社会学の一種の補助学になると
象とするのは、人の行動、住まいに関すること、衣 いうような 言い方をしています。そういう評価を今
服に関すること、そして四つめがその他ということ さんがやっているということです。それからこれは
になっています 。 これはご存知だと思いますが、 すべて徹底した客観的な観察ということが大切だ

考現学入門 』 という筑摩舎房の筑摩文庫に載録さ と。すべて実地で見るということですね。社会的な
れてます。彼は考古学に対する考現学であり、考古 現実がどうな っているかということを忠実に観察
学が歴史学の一分野であったように、考現学は社会
学の隣接分野として位置づけられるんじ ゃないかと
いうような 言い方をしています。 これはちょ っと注
釈がいると思うのです。現在、考古学は歴史学の中
でかなり確固とした位置を占めてきていますけれ
ど、その 当時、今和次郎がこれを考えてるときは考
古学というのは歴史学のひとつの独立した分野では AA~.Æ.dIJLJd~(f)
IC む . ミιJ
なかった 。歴史学というのは文字を読んで文字の中 J)~~~,##~~~
から考えるという文献史学というのが正統であっ ##~~#訴'J1~~1j
て、民俗学も考古学も隣接する周辺科学のような扱 # ~J)#~)j~#;þ~~ ;
;
いしか受けてなかったのです。 ところが、文献の及
'
)T/;#jì}ìØ:ïr))>>;P;;~,仰)
ばないところの事実を考古学が資料として提供する I
Ec Or(;
ようになった 。 また 、歴史考古学の分野も開拓され
千字特骨骨骨骨骨特命
てきたのです。考古学と歴史学の関係は今和次郎の
骨'骨骨令骨骨骨骨守
時代とは少しずれがあるように思います 。 だか ら、 令押骨#骨骨件骨骨
社会学とその隣接科学、周辺科学としての考現学 と 特特骨骨骨骨骨骨脊阿
いうのもそういう関係で考えるべきではないかと思 f
t"

'
1
a n川9牛込au-sl3

います。 また、今和次郎は、こういうふうにも 言 っ ぺ{台俳 ~/Iν人千腕 ~i t­





てます。考古学に先史考古学と歴史考古学というの 事1 c
t , ~t-.tt:域~ (!'",~,,~ユ量 L
出品JV t
t モ普偽主主告し
h

_ 唱 ・ー
があるのに対して、考現学には未来考古学と文化考 レ7 ι +
F

t
" 舟官主
e ) t ,,

、?"
i-
現学というのがあると 。 σ却 <T3H'申 す ん ,~面J..:j/-/c.

今和次郎「本所深川貧民窟付近風俗採集J1
履物統計 ( 925年)

1
6 ・人間文化
新しい考現学のために

し、記録するということを言っておられます。例え 伝統を探るのが民俗学であれば、考現学は現代の日
ばひとつの部屋を見るならば、それを細大洩らさず 本の生態を探るという立場からひとつ新しい分野だ
丁寧にしらべあげるということ 。 これは西山卯三さ と言 っておられます。その他梅悼さんは 「
考現学と
んもやってますし、妹尾河童もやってます 。日可童 世相史Jを「季刊人類学」の 2巻 l号 に書かれてい
が覗いたヨーロッパ・ニッポン・インド』 など三作 ます。その中に日本人種の時の風俗異動の問題が出
をはじめ彼の仕事は考現学で、考現学の今日的な成 てて、民族学が歴史風俗学であり、村落風俗学であ
果です。 るのに対して、考現学は現代風俗学であ り、都市風
それから風俗の科学として位置づけている 。野外 俗学であると、そしてこのふたつの学聞が非常に類
科学として生態学 と並ぶものであるし、風俗科学と 似している点は徹底した直接観察法であり、野外科
して先ほと 言 ったような人の行動、住居、衣服、そ
ε 学であるということを言っておられます。 これが梅
の他という形です。考現学というのは風俗学であり、 梓さんの評論です。
風俗というのは慣習と流行と合理という 3つの要因
で決まってくる 。それぞ、れの要因の絡み合いを、記 百J
I
/卯三 と今期次郎
述するのが考現学の仕事だ。だからそういう意味で 西川 :それから僕が外から見ると、西山卯三さんの
民俗学、フォークロア Uol
klo
re) と非常に近い性 仕事は今さんが手がけた考現学の仕事を建築学とい
格を持っている 。現在の風俗学としての、風俗の学 う立場から、いわゆる近代的な学間の手法によって
としての考現学は過去の残存しているものを含めて それを非常に精綴なものに、都市の住居論とかをや
ありのまま全体を事象として問題にするんだという った人として評価されるのではないかと思います 。
ことです。また、民俗学が村落を対象とする村落風 だか ら西山さんの膨大な調査の結果か ら、有名な日
俗であったのに対して、考現学はどちらかというと 本の都市住居の中にある食寝分離論というようなも
主として都市を問題にする都市風俗学であるという のを選び出したりするような作業まで、西山さんに
ことです。従って、民俗学と考現学というのは総合 よって初めて可能にな ったと思います。私は西山さ
補完関係にあるだろうと。また、エスノロジー ・民 んはある意味で今和次郎の考現学の伝統を引き継ぎ
族学とも非常に近い関係にある 。
民族学が主として、 ながらそれをアカデミズムの中で発展させた人だと
未開社会を研究対象としているが、考現学は文明社 思います。そして西山さんの 『
住まいの考今学』の
会が研究対象である O そういうような意味でそのよ 中で、何故考現学でなくて考今学 なんだという質問
うな形で理解されるという言い方をしておられま に対して、西山さんが書いておられるのには、今さ
す。それから柳田国男と今和次郎を比較してどちら んは、考今学にすると今さんを考えるということに
も正統的なアカデミズムの外にあって、そして新し なるので、考今学と今さんの名前が重なるので、誤
い学問を研究した 。両方ともフィールド学者であっ 解を避けるために、現代の現を取ったんだろうと 。
て、現地に行って採集するというのが基本的な方法 僕は先ほど考古学の位置づけが歴史学の中で変わっ
で、全国をくまなく歩くのが民俗学であり、街頭に たというようなことをいいましたけど、西山さんも
立って、調査するのが今和次郎の考現学である 。た 最近は邪馬台国論争を見ても考古学がただ土器の発
だ今和次郎の方が柳田国男が手を触れようとしなか 掘調査をするだけの学問ではないことが多くの人に
った部分に、避けて通ってたような部分にむしろ力 理解されるようになってきた 。同じように考今学 も
を注いだと 。対比的には先ほども申しましたように 現代の事象、例えば今和次郎がやったような現代の
柳田国男はエリー卜官僚で、羽織袴に白足袋という 事象を断片的に集めるのではなく、 トータルな今、
のが似合う人でした。片っ方の方は早稲田の先生で トータルな本を考え直す学問として、打ち出してい
ジャンパーに運動靴というような格好です。柳田国 きたいと思ったから、自分は考現学ではなしに考今
男は民俗学というひとつの大きな学を建てて、民間 学という言葉を使うんだと 言 っておられます。 これ
伝承の会なんかを作って、その組織化に成功したが、 が今までの今さん、梅棒さん、西山さんに渡る 3人
それに対して今和次郎の考現学は、考現学プロパー の人の僕なりの理解なのです。
の雑誌を出すことも、創刊 しようともしない、そう 面矢 そういう考現学を敢えてこの 学部に導入し
いうことで差がついたというような 言い方を梅梓さ て、考現学をひとつの切り口として、生活文化分野
んがしておられますね。それから民俗、過去の変化、 を展開していこうという、その辺のところをもっと

人間文化 ・ 17
新しい考現学のために

補足していただけますか。 僕はもう一回見直すべきではないかなと私は考えて
西川 考古学者は遺跡を調査して遺跡の構成を明ら いるのです。考現学の先駆として、今和次郎は近世
かにします。そして、その遺跡や遺物から 、過去の の風俗をえがいた各種の名所図会とともに、喜多川
生活の相、生活の実態を推定復元するのが考古学の 守貞 に注目してます。江戸時代に書かれた『守貞漫
仕事だと思います。 ところが現在 、私たちは本当に 考』です。『類緊近世風俗志 原名守貞漫考j とし
はげしく変化する生活環境の中に生きています。つ て出版されています。分析的な科学的な色彩が見ら
い先ごろまでテレフォンカードは大変便利なもの れないとしながら、考現学の先輩としているのです。
で、どこからでもテレフォンカードがあったら電話 あの時代の江戸 ・京都・大阪の三都の比較なんかお
がかけられる便利なものだと思っていたのに、最近 もしろいと思います。
はあまりはやらないと思います。みんな携帯電話を 面矢 近世風俗史 Jというのは江戸時代の考現学
持つようになりましたから、そのようにどんどん変 みたいな感じですね 。絵もいっぱい入ってますし
わっていくわけです。 しかしそうやって変化してい ね

く実態を僕らは変化しているということすら気付か 西川 :そうです。江戸時代の考現学です。面白いで
ないで変化の波の中に呑み込まれているのです。そ す

れでほんとに良いのかどうか、僕ははなはだ疑わし 面矢:江戸時代の事物辞典的な意味合いで、私もよ
いと思います 。やはり考古学者が遺跡や遺構から過 く使いました。
去の生活の実態を復元的に考察するように現在に生 西川 :私もよく利用させてもらいました。守貞によ
きる我々は現在の生活がとのように変化しているの ると江戸の町並みは路上に炉番所や髪結い、井戸が
か、その変化がはたして人間の生活にとって良いの ならび、民家に高低があり「一覧粉々たり jといい、
か悪いのかも含めて、その実態を明らかにする必要 いっぽう、上方の京阪では路上にあるのは炉だけで、
があるだろうと。考現学というのをそういう意味で 民家に高低のなく「一望整然たり」としています。
ところが上方は軒先がすーとしてあるし、道に物を
置いたりしないで、整然としている 。そういう非常
に鋭い目で見ている。この時代、分析的で、科学的
でないというのはどうも 。やっぱり、そういう時代
だったと思うのです。
面矢田 今和次郎著作集の「生活学」の巻を西山さん
が解説していて、その中にも書いてあるのですけど、
西山さん自身は今和次郎の仕事というのをほとんど
読んで、いなかった 。ただ名前は知ってるし、面白い
ことだというのは判ったけど、建築学者であること
さえ知らなかった 。 この解説を書いた昭和 4
6年の時
点で I回しか会つてない。でも今和次郎の本は一応
ちらちらと見てたと O だけどだいぶしてから「私の
住宅研究を今先生と同じ生活学派だと批評し、私を
今先生の弟子だろうと言っている人がいることを耳
にした。そうかもしれない」と書いています。お互
いたまたま似たようなことをやっていたという立場
で、直接の影響関係ではないということを明言 して
ます。
西)
1
1:京都と東京ということもあるし。
面矢:ただ二人が似た志向を持っていたということ
はいえるかもしれません。今和次郎も日本社会党の
保谷分会長だったことがあります。それから近代主
漬物屋のあいすまい(西山卯三 f り 。1
住み方の記jよ 948年採集) 義的という意味では今和次郎は考現学をだんだんと

1
8 ・人間文化
新しい考現学のために

離れ、農村の生活改善に走り回りまわるようになり
ます。
西川 ・そういう意味では今和次郎の方から柳田民俗
学に対してはちょっともの足らんところがあったと
思うのです。今さんの方は農村の生活改善にぐっと
傾斜してゆきますからね。
面矢 ・柳田に破門されたというのは今さんなりの言
い方で、実はめざすことが違って、自分から離れて
いったのが真相だろうと、いま考えられています。
続きまして、今日おいでの皆さんから少しざっく
ばらんに今和次郎考現学について、あるいは今和次
郎に関わらず、考現学といわれているものに対する
お考えをひとつずつ出していただいて、だんだんと
議論を深めていっていただきたいと思います。西山卯
三さんの話がありましたから、 j
賓崎さんから…… 。
ウラ ンパートルのゲル調査 (1996年。面矢慎介
・ 山根周)

考現学 と考古学、ぞ Lてモンゴル調査 に分散されているところが、ウブルハンガイがと守っ


賓崎 .僕は建築学的調査より考古学的調査をやって
j かで作って、デリバーされると、なかなか調査がや
いた時の方が長かったと思うのです。そこで考古学 りづらかったというのがひとつ。それから切り口が、
と考現学の絡みについて言わせていただきますと、 似たような切り口になってしまって、結論に持って
考古学の方もどんどんエリアが広がっていった学問 いくのがちょっとやや大変なところがあったという
なのです。本来は先史とか古代が考古学の対象でし のが、そのいろいろやってみたところの簡単な印象
た 。 約 15~20年くらい前から中世考古学、中世が考 なのですけど。今からどうするかというのはまだ考
古学の対象に入ったのです 。その時点で、近世、江 えきれてないですけど。
戸の遺跡を丁寧に掘っていたら、あほ扱いされたの 面矢 ・切り口がというのは、考現学的な切り口でや
です。 それが近世考古学まで伸びてきて、じゃ、近 るとみんなだいたい似たような調査になりがちだ、
世までで良いのかなというと例えは¥ある調査報告 ということですか。
書なんか見ると、防空壕の断商図までとってあるの 賓崎 .そうですね。 というかモンゴルの場合、見て
j
ですよ 。防空壕から出てきた軍靴とか飯ごうが遺物 いくときの要素が余り多くないのじゃないかと 。大
として扱われて、そうすると戦後まで、第 2次世界 体中の家具とか、置かれているものは基本的に遊牧
大戦までが考古学の対象になりうるのかという話に を前提としてますので、まず、携えている物が少な
なってきます。そうすると考現学と考古学の境とい い。非常に機能がどれもびしっと決まって、その違
うか、対象としての物、ょうするに物を見て、客観 いがあんまり少ない。 だから次の調査の時にそれを
的に物を語らせるという意味では比較的手法という どういう風に帽を広げるかというのはちょっと難し
のは似通ってますし、発想も似通っているので、そ い問題だなと思って O
の境目というのはず、っと繋がってきているんではな 西川 この大学では「モンゴル遊牧生活の変容と将
いかという気はしてるんです。 ただ、その先はまた 来像j という科研の海外学術調査をつづけています
ちょっと違ってきますけども、考古学と考現学では。 が、モンゴルを考現学の対象の地に選んだのはよか
そういう意味で僕は違和感なく見てるのですけど ったと思ってます。モンゴルの遊牧社会は持続して
も。今度はなんて言ったらいいのでしょうかね。 ち いくのか、それから遊牧社会が持続するとしても、
ょっとその先は今度はモンゴルの方でず、っとゲルの 変容していく部分はあると思います。 たしかに、首
調査とかやっている時に、いろいろと考えてはいた 都のウランパートルを中心に都市では大きく変化し
のですが、なかなか実際にやってみて難しいところ てます。物の考え方とかを含めてこれからやっぱり
があると 。 ひとつはさっくばらんに言いますとモン 観察、要観察地域やと 。非常に魅力のあるテーマだ
ゴルなんかのケ、ルは比較的同一地域で作って、全部 と思ってます。だから後で言おうと思ったのですけ

人間文化 ・ 1
9
新しい考現学のために

と¥定点、定時観察がモンゴルの考現学的調査には ちを全部町に集めて、寄宿生活をさせるので、すね。
絶対必要なのです。おそらくモンゴルはこれからも そうすると極北の地で、ツンドラの地で生活してい
変化するにちがいない 。おそ らくいろんな面で観察 く技術だとか知識だとかが全部なくなってしまう 。
しなければならないでしょう 。今年はツエルゲル村 考現学の対象として学校教育をみるのは面白いとは
に八木英二 さんが行くのです。八木さんが調べるの 思いますが、ちょっと悲しくなることも多くあると
は教育の側面です。私は教育の面から遊牧杜会の生 思うのです。モンゴルの場合、だからその辺をいか
活が微妙に変化する可能性があると思うのです。 ア にうまく切り抜けていくか。やっぱり近代教育とい
フガニスタンで聞いたのですが、遊牧民が遊牧して うものは伝統生活を壊して行かざる得なくて、新し
いるところを先生が移動し、訪問しながら教育する い人間関係を作っていくことになるのかどうか。
というシステムです。モンゴルでは、夏のシーズン 西川.そうでないもうひとつの道があるのか、その
は子供は中心地の小学校の近くの宿舎に入って、そ 辺が難しい。
こから学校へ通う 。冬は親たちがゲルを中心地へ持 日本ではどちらかというと、「平凡の教育jが無
っていって、学校の周辺にゲルを張 って 、そこから 視されたから、大変な歪みが起こっているわけです。
子供が学校に通うというシステムですね。 日本でも 取り返しのつかないような、そこで、もう一つの近
江戸時代の近世末になって来ると、近代をめざして 代化のなかでの教育を求めての模索がはじまってい
都市構想を経世思想家たちが提案します 。市を造 っ るのです。日本でもモンゴルでも、これからの変化
たらいいかということを色んな人が言い出すので を考現学的に考察しなければなりません。
す。その中に出てくるのは、かなり学校を核とした
地域構想があらわれてきます。おそらく寺小屋が普 体系佑されない学問
及してたから、 小学校を単位としたような学校区を 面矢.先ほどの定点観察の話に戻りますが、考現学
設定していく 、という考え方です。僕は面白いなと の調査はー カ所に 、一回行ってそれで何かを記録し
恩うのは教育が、大きなウェイトを持っている 。学 てきても、それ自体としては余り意味がない。全く
校が重要な佼置を占め 、新小地域の構成に大き い役 別のところで同じことをやって比較する か、たとえ
割をはたすのではないか。モンゴルのこれからの地 0年後に行 って 比較するかしないと、 記録に意味
ば1
域を動かしていく可能性すらあるのじゃないかと。 が出てこなし、 。その場でやったこと自体は実は余り
だから八木さんの調査にものすごく期待しているの 意味を持っていないという、研究する立場とすれば
です。 非常につらいところがあります。後生利用されるか、
黒田 ,その学校教育は初等教育なのでしょうけど、 あるいは自分自身でまた別のところでやって、研究
そこでうまくモンゴルの伝統的な価値観が受け継が を方向づけない限りは余り評価されないということ
れていくと良いですね。 です。西山さんが今和次郎たちの調査については実
西川 :これはや っぱり 別の問題かも しれませんが、 はおそらく本音のところでかなり批判的な部分があ
教育は学校教育だけで、教育というものが評価され ったと思うのは、非常に断片的なものが多いからで
がちなのですね。一般の家庭での教育だとか、地域 す。今和次郎が残したもの、出版されたものという
がやる教育だとか、親方のもとでの修業や柳田国男 のは 。 これは商業誌に発表されたためでもあるし、
がいう「平凡の教育」は無視されがちなのです。そ 今和次郎自身が生活改善の方を一生懸命ゃるように
れが日本の近代化の中でも顕著に出てきたので、そ なって、考現学の方は発表をやめっちゃったという
ういう点が気になりますけど。近代化の中でのそう ことがあるのです。だから考現学の蓄積というか、
いう傾向が。 発表された業績というのは非常に少ないのです。ノ
黒田圃 親がゲルを持っていって、そこに冬の間だけ ートの形で、膨大 に残っていると、川添登先生がこの
一緒に住む。冬だから家畜の世話は余りできないか 間の講演で、言ってましたけれども 。だから構想はあ
もしれませんが、そういう伝統的な生活を片っ方で ったのだけども、結局うまく行かなかったというの
堅持しながら、教育を受けるというシステムが割合 が本当なのですね。失敗してしまった。ただその精
うまく行く強いかもしれませんね。前ソビエトでや 神は良いというふうに梅梓さんは言ってるわけです
っていたのは 、徹底的に少数民族の文化を近代化し けど、実際にこれまでの蓄積ということで言うと非
ていくやり方でしょう 。ですから少数民族の子供た 常にみすぼらしいものしかないと言っていいと思う

20 ・人間文化
新しい考現学のために

のです。銀座調査ぐらい しかま とまって残ったもの 考現学にもともとなじまな いんで はないかという気


がないのですから 。後の もの はほとんどが断片。 も がするのです。体系化 しよう とす ると、現在までの
う一人の今和次郎の相棒の吉田謙吉の方がもっとす 出来上がった科学的な方法で体系化するしか多分認

、い 。断片的でほとんどアートに近いというか、こ められないという気がするのです。別の方法が確か
れで一体何になるのかというようなのが多 いのです にあるに違いないとは思うんですけど、今和次郎も、
ね。そういう意味で学問界からはほとんど無視され 西山さんも名前しか知りませんけど、西山さんの出
続けて来て、 7
0年代になって、ちょ っと評判にな っ 発点はこれを読みますと、びっくりするくらい近代
たけれども、それもおそらく世の中に統計を使った 主義者ですね。 日本の封建的な暮らし、非衛生的な
社会調査とかアンケー ト調査などがすごく行き渡っ 住まいを改革していく新しい生活、文化的な生活を
て、そういうものにあき あき してきた人たちが、あ 築き上げるんだとうたいあげている 。今和次郎もお
っこれ面白いんじ ゃな いと飛びついたのじ ゃないか そらく農村改善だか ら……
と思うのです。つまり 社会調査みたいなものが、広 西川. ところが僕ね 、途中で西山 さんの考え方も変
く精綴に行われる ようになって初めて、こういう素 わってきていると思うのです。
朴な調査が脚光を浴びたというところがあると思う 黒田 多分変わらざるえないでしょうね。近代的な
のです。だから今和次郎の構想とは違う形で、いま 学問体系を基擦に出発しでも 、実際の現代の生活自
考現学の評価がされているのだろうと思います。 体がそういう体系に合わせることを許さないという
E

黒田, うまく 言 えないのだけど、体系化というのは か、そういうものだと思います。僕たちの生活とい


!

うのはもっと色んなことが混じってて 。


=

要一



三三一
ネ一

茸一


度一


句一

介b

西川 .今言われるのは一番大 切な ことゃないかなと

隠I 思います。そのおそらく科学的なと か、分析的なと
か、或いは普遍的だということを今まで求めてきた

国「 わけです。僕は前に京大にいるときに朝鮮からの学
生がある街の調査を研究テーマにしようとしたら、

j守J
そんなモノグラムみたいなもので学問にならんと 言

[ われたことがあるのですね。私はそうではない のだ
州国市川斗

と抗弁しました。 なにか科学的な法則みたいなのが
あって 、それに従って、地域計画をしたり、都市計
画をしてきた結果、私たちの住んで、るどこの地域も
都市 も面白くなくなり、魅力 が無 くなったのだから、
今はその逆でモノグラムみたいなものこそ大切なの
じゃないかと言ってかばった記憶があるのです。
『これからの住まい』に情熱を燃やされた西山さ
んが晩年には歴史的な景観文化財 の保存に非常に情
熱をもやされたのです。だから 一番大切なのは教育
をどう持っていくかということです。変なことにな
ると当に地域、新しい地域を構成するために過去の
ものが全部捨てられてしまったり、モンコルがモン
ゴルでなくな ってしまう ような、遊牧社会が消滅さ
せてしまうような方向にいく可能性があるような気
がします。 しかし、うまく 行けば柳田国男が言った
「平凡の教育」と、「非凡の教育j とが、うまく結び
っくことになるのですが、書物の中から真理をかぎ
取 っていく 、「非凡の教育j だけが、教育だと 誤解
ガラスの割れ方と捕貼(1928年採集。吉田謙吉 『
モデ されてしまう 。 しかしそうじゃないのだと 。家庭で
ルノロジオ j より) 親がしつけ、自信を持って子供を育て、おじいちゃ

人間文化・ 2
1
新しい考現学のために

ん、おばあちゃんがきちんと自信を持って孫を見 、 未来のまなざしを置いている学だと 思 うのです。こ


親が子供 を育ててきたそういう社会 、「
平凡の教育j れは今あるけども失われていくものだ、或いは今あ
とい うのを見直さなければ駄目だと思うのです。モ るけどこれは現在のものというより過去の痕跡やね
ンゴルもその ように動けば良いんだと思います。モ ん、という考えがすごくあると思うのでAすね。だか
ンゴルの近代化 とどうタッチするかと言うのではな ら今行っている観察というのはなんの役にたっかわ
く、考現学もそうだけども 、特に 、僕ら考現学班の からへんけど、僕の知らない未来から見たときに面
方はず、っと移動しながら比較しつつ見て歩いている 白いんではないかとか、或いは失われたものとして
だけども、ノj
、貰雅男さんの場合は一定のツェルゲル 面白いんではないかというふうに現場観察以外の時
村の中に入ってみてるという視点がある O しかし観 間に視点をおくことで充足していると思うのです 。
察者であるということは 、生活者ではないんでね、 たとえば日本の民家で藤森照信さんがあとがきで、
その辺のところに違いがありますけどね。考現学も 日本の民家って自分が田舎に行って 、田舎暮らしし
のめり込むにはそこに立ち入らないと 。 ているときは別におもしろいと思わへんかったけ
ど、東京に 出てきて何年か暮らして改めて読み直し
考現学と行動学 たらすごいしみるもんや、といった内容のことを書
細馬:さっき面矢さんが言われた今和次郎のことな いている 。 この感想には考現学というのが今こ こに
のですが、断片的な観察が多いということは僕も筑 いて 、充足するのじゃない、ということがよく表れ
摩文庫の本を読んだときに思いま した。僕はちょっ ている 。別の視点を観察者が持っていてそこから照
と世代が違って 、考現学は今和次郎から入ったのじ らすとなんか今の観察って気持ちいいとか、今こう
ゃなくて 、赤瀬川原平のような路上観察学会関係の やって淡々と数えている数字が楽しいとかそういう
人たちの著作を読んで、、そこからさかのぼるように 感じつであると思うのですね。そういう感覚には窓
入ったのです。考現学の末商として興味深いものに かれるんですけど一方ですごく違和感も感じてま
トマソンというようなものがありました 。街中の物 す。考現学というのはそれをどうするかというと僕
件の中から作られた当初にあった機能が停止してい の見た範囲では全部瞬間で切っていくのですね。建
るものを敢えて探していくというものです。そうい 築もそうだし、或いは銀座の歩いていく人の服装も
うトマソン物件が何で面白いのかという説明はでき そうで、すね。銀座の人々を観察しでも行動の連続を
ないのだけれども、集めていくと妙な感じがする O 見るわけではない。あ 、今眠っている 人がいるとか、
で僕は考現学の魅力も 、そこに感じる違和感も両方 あの服にはこすれた跡がつ いているという風に 、全
とも トマソンみたいなものに入ってると思うのです 部瞬間的で切っていくのです。するとそこに行動の
ね。 というのは一応考現学は現という字が付いてま 時間というのが出てこない 。 この人がこういうた、
すけど、あれは現在を見ているようで、実はそこに l]
そうしたらこう言い返した 、 という ような r j
jのあ

時間ゃなくて、その結果出てきた跡みたいなばっか
りが感じられる 。そこがちょっと行動学とずれてい
る!惑じがするのですね。僕 自身はエレベーターの中
の会話分析というのをやってまして 、考現学だと呼
ばれることもあるんですが、やはり考現学っていう
より行動学なのかなと自分では思います。エレベー
ターの中で人が話している、面白いな 、終わりじゃ
なくて、そこには会話のやりとりがあって、エ レベ
ーターという場が、声が行き交うことでどんどん更
新されていくんです。そのおもしろさというのが圧
倒的にある 。
僕が読んでてかっこいいなと思うのは今和次郎な
のですけど、でもシンパシーを感じたり、より現代
トマソン第 1号・四谷の純粋階段 (1972年採集。赤瀬
的だなと思うのはむしろ柳田国男なんです。遠野物
川原平ほか 『路上観察学入門』より)
語などはいわば失われゆく物語ですけど、でもそれ

22 ・人間文化
新しい考現学のために

を物語っている人というのは現在形としてちゃんと
生きているように読める。ところが今和次郎の本は
読んでいくとどんどん失われていく感じがする 。 こ
れは確かにこの人が観察したすごくヴイヴイツトに
自の前にあったものなんやけど、でももう絶対これ
返ってこないものや 、そうい う感じがすごくするん
です。だからく内っとくるんですけども、自分が同じ 廃屋のカマドと鍋(多賀町向之倉)

やり方で研究するかなというとちょっと違う 。 す。その時に廃村なんか見て非常に面白いと思った
面矢田 梅梓さんの本から引くと、柳田の方はすごく のは、ものすごく変化が激しかった跡が如実に表れ
文章力があるのに対して 、今さんの文章はよく判ら ているということです。面矢さんと高谷さんと 一緒
ないようなのが多くて、魅力あるのは残された図表 に行ったところなのですけど、向之倉という廃村が
とか、スケッチのほうだったとあります。シンノ fシ ありまして、どしっとした倉付きのいい家があって、
ーということでは、確かにそういう面があります 。 そこの炊事場を見ますとアルミの鍋がごろごろと落
今和次郎という人が、どういう人だったのか、文章 ちてた 。 さぞやいい漆器だとか、食器、瀬戸物を使
からだけではよく判らないところがあるのですね。 って生活していただろうと思われたにも関わらずア
細馬 ・赤瀬川原平さんのその後の仕事とかは、今和 ルミの鍋がいっぱい落ちてるのですよ 。それを見ま
次郎のある瞬間芸の側面をすごく洗練させた感じが すとあるモダニスムのなれの果てみたいな感覚を抱
します。 トマソン物件の写真を見てもそういう感じ いたんです。すごくちぐはぐな感覚でした。
がします。彼みたいないわば美術畑の人が今和次郎 それからそこにお住まいた、った方にお話を聞くと、
の良いところをビシッと切り取ったのがかつての考 また山村のイメージが一変するような話が出てくる 。
現学の性質をすごく象徴的に表していると思います。 何人かがアメリカに行って、ロサンゼルスで成功し
[次郎とその相俸の吉田謙吉というの
面矢 ・当時今手1 て、そこでビルをいっぱい建てた 。彦根市にお金を
は、アバンギャルドな芸術家だったのですね。そう 寄付したり、その当時大正時代に、結構行き来して
いう意味でも当時の考現学モデルノロジオグループ るのです。向之倉の山村からロサンゼルスに。立体
というのと、路上観察学 i
J
Rという人たちはかなり近 写真の立体視鏡とプロマイド一式がとってあったり、
い。メディアとの近さもあるし・ また、大きな洋行用のトランクがあ ったり、僕らは
西川 .非常に近いでしょうね。 発見できなかったのですけどアメリカのセルロイド
面矢 .路上観察学派は筑摩書房ですし、モデルノロ のきれいな人形があったそうです。 とにかく雪に閉
ジオ学派は中央公論社です。本屋とタイアップして じこめられる山村のイメージ 、息つくような坂を登
いるのですね。知的ディ レッタントという意味では っていく 山村ですけど、貧困で山仕事で辛く生きて
近いのです。 しかし今和次郎はそれじゃあかんとい たというようなイメージがそういうものでぱーっと
わば改心して農村の生活改善に向かっていったのだ 霧散霧消しちゃうのです。それと全然違った、大げ
ろうと思います。ある意味ではそこに時代性を感じ さにいうと世界との交通があるし、アルミ鍋みたい
ます。 な文化の香りのするものにとびついていく 。そうか
と思えば片つぼで井戸神社というのがありまして、
地域庭崩識と考現学 そこに神木の桂の大木がどーんとあって、それとそ
黒田・時間 の問題というのは考現学で重要だと思う ばの井戸を大切にしているような生活なんです。
のですが、今までほとんど考えたことがありません 昭和 4
0年代に急速に過疎化 してい って人がいなく
でした 。考現学の中で僕自身が担当する部分は地域 なるのですけど、僕らが非常に興味があるのは、そ
展開論という話になっているので、今廃村だとか、 ういう生活全体なんです 。辛い寂しい山村というだ
過疎の村をときどき見回って、どういう生活の変化 けではなくて、それがベースにありながら、神様を
が起きたのかということを考えたり、聞き込みをし 大事にする、森を大事にする生活をしつつ、一挙に
たりすることをぼちぼち始めているのです。ですか アメリカに駆け抜けていく o 或いは日本の生活の具
ら考現学というよりは、ほとんど先ほど浜崎さんが 体的な物での近代化が始まったときにそれを取り入
仰った考古学の延長みたいなことをやっているので れていく 、そ ういう風な生活を何とか見直すことが

人間文化・ 23
新しい考現学のために

できないかと考えています。それによってもう少し まはやっているものと 、あ る合理性みたいなものと


過疎問題だとか 、或いは人間の自 由・ 欲望 ・近代化 いう 三層のモデルを作っているのです けど、その時
というものを再評価できないか、そんな感じなので に慣習の中には今となっては意味のないものがある
す。でそういうものを考えてたのですけど断片的じ とい ってるのですね。現時点で考えているのです 。
ゃいけない。セルロイドのアメリカ人形と井戸神社 慣習或いは伝統といわれているものが今となっては
をどうつなげるのかというような 話 なのでむずかし 意味がな い と判断するのは 観察した今さんですね 。
い。おそらく人間の行為は分裂した 、統一的なもん その判断にはある時代性が、時代性を含む限界があ
じゃないでしょうね。 とい って
、 体系的に理解でき ると思います。
るようなものじゃないで終わ ってしまったらつまら 西川 .今和次郎でさえという感じを僕は受けますね。
ない 。何 とか全体を表せる方法がないかと思 ってい
るのです。そういう全体性 を視野におくようにすれ トタン屋視をめぐがって:保存修景と考現学
ば時間の欠如やデイレッタンチズムに陥ることはな 面矢 ・ただ今和次郎のスタンスとして よ く例にヲ │

いという気がしてます。でも僕のいってるのはほと れる話ですが、ある集落の 中にい って、わらぶきの
んど考古学ですからね。
細馬さんの言う未来からの、 家と瓦ぶきの家とトタン葺きの家があったとすると、
過去としての現在を見る考現学とは違います。 今までの普通の民俗学者だったら必ず藁葺きの一番
西川, 考現学は未来を考える学問だと思ったと今和 古い家に行 くだろうと 。そこが村のき もいりだった
次郎は言 っています。柳田国男の批判は、 彼は破門 りして、一番話も聞けるかなというので。そこで終
と呼んで、
いるんだけど、破門されたのは過去から離 わってて、他の瓦ぶきとトタンぶきの家は無視され
れて過去を考えるのじゃなしに、未来を考える視点 ていたと 。考現学の立場としてはその 比率を、瓦葺
に移ったからだと 。その点はどうですか。 粁あったのが藁
きが何軒、 トタンが何軒で、たった l
画矢.現在じゃなくて未来、そこ まではそんなには 葺きだったということをきちんと記録して、その全
言 つてないのですけど 、現在をありのままにとらえ 体像をとらえるのだということをきかんに言ってい
ると言うことはいろんな調査で言 ってます。未来に るんですね。だから未来 までは考えていないかもし
ついてはそんなには語つてないのですね。 れないけれど、 トタン屋根は忘れちゃ駄目だという
西川 ・私はその点で観察するというのは絶対に必要 軒しかいけ
ことを言っていると 思います。おそら くl
だと思います。定点 、定時観察もを繰り返さなけれ ないと思ったら、その時代 を一番表しているトタン
ばならない。それから正確に、明確に記録する手法 屋根を調べるというのが今さんです。従来の民家研
も開拓しなければと思うのです。それと未来を考え
るという点で、私は考現学というのは観察と記録の 'ifJ.9ト阿伶守谷, ほ11 手11ト
董 11
上にたって、省察というか、現在の生活が先ほどの S89P 広昼, L
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是正付 s 子薙 μ l
町 11
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モンゴルがどう変わるか判らないと言いましたけれ
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ども、日本の方がもっと深刻かも判らない。近代化 材車手袋号~~u:;:.t,ヌ . .


8・.
J陸
・ *寸山 =-/;'p
のなかで捨ててしまったものをもう 一回見直さなけ 念毎.,岳 4

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瓦ニ耕幸主 1

二 ι
5.1
ればならないときに来ているような気がします。梅 中J;克己 9
鴨6


平 次 世p骨
締ーさんは「学問としての考現学は 、せっかく誕生し R本If曹
市生 ;t ~o ・
ながら 、 うまく育たなかった JI
考現学は、学問と
しては発育不良におわっているといっていい」と、 F
1;句
指摘しておられるし、今和次郎さん自身「その概念 目本式
を産み落としたままに放っている j と述べておられ
る。私たちは、この考現学を現時点であらためて見 7
&
; も 4
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.2

直し、新たな展開をはからなければならないのでは 13
' .
2'
1


ないでしょうか。
面矢・ 今和次郎は風俗というものは慣習と流行と合
理という 3つの要素のせめぎ合いで成り立っている 郊外住居の統計 (1925年。東京・阿佐ヶ谷付近。今和
次郎「郊外風俗雑景J)
と言っています。昔からある慣習と 、流行でたまた

24 ・人間文化
新しい考現学のために

究者はそうじゃない 。建築の研究者もわらぶきを調 方にないの?


べようじゃないかということになるでしょう 。 高谷'ほとんどトタンをかぶってますね。
西)
1
1:そうでしょうね。それはちょ っと追うかもし 賓崎.君がt
j l
l
lもほとんどかぶってたと思うのです 。
れませんが、今和次郎が生活に主点を置いたよう形 西川.それはしょうがないと思います、それは 。
で、建築学とは違うんだと、いうような 言い方です。 漬崎 茅を使うのと、藁を使うのとはまた違うと思
逆に 言 えば建築学にある意味で改変を迫った分野 うのですけど、コンパインが藁を寸断して始末する
が、面が今和次郎にもあったし、西山さんにもあっ のです。 このごろのやつは、これぐらいに切 ってば
たんじゃないかと僕は思うのです。 ーっと飛ばしますでしょ 。 もう一回田んぼに鋤き込
黒田: しかし歴史的な景観の保存といったらトタン んだり、農家の人が長いままでは始末が悪いだろう
屋根は無視しちゃうんでしょう 。 って 言 うので、わぎわざコンパインにかけて、これ
面矢 :トタン屋根は日本のある時代を象徴するもの くらいに切ってぼーっと飛ばしているのです。それ
だから、残していかなければいけないのではないで をやられたらわらは使えなくなるのですよ 。一 時

しょうか。保存修景の立場からも 。今から 2
0年前で 畳も日本で困って、韓国産の稲わらを入れて立を作
すが、群馬県で僕は全部の屋根がピヵピカに光った ったら虫が大発生して問題になったのが7、8年前か
トタン屋根という村に行ったことがあります。それ 1
0年ぐらい前なのですよ 。今ちょっとコンパインで
が流行だったのだと思うのです。慣習でもなければ 切り刻むのは止めて取っているとは思うのです。一
合理ともちょっと 言 えない。流行として集落全部が 時畳も危なかったです。稲わらを使ってやる屋根も
ぴかぴかの屋根にしていたのです。 危なくて、 ;
宇e
!易も殆ど無くなってきていますし、あ
漬崎 :いや、あれは多分葺き替えの手が足りなくな れもほっといたら他の植物がわーといきますから、
ったんだと思います。結とか村落組織とかが屋根を 四方八方からふさがってきていると思うのですけど。
維持できなくなってトタン屋根で覆ってしまいま
す。 トタン屋根だとメンテナンスがいらなくなるの 現代の新 Lい考現学
です。ただ、あの傾斜になると瓦ではできないので 面矢 一通りい ったところで、そろそろ高谷さんに 。
す。 きついでしょう 。そうするとトタンでないと覆 西川・ 高谷さん、 一万両断でいって下さい。
うことができないのですよ 。瓦だと落ちますからね。 高谷 ・新しく出来る大学院の専攻名に考現学という
そしてどうしても仕方なく変えたかたちにな った時 のを付けると学部長がいわれた時、私は少なか らぬ
期がそこら辺だと思います。 抵抗を覚えました。考現学という学聞がすでに存在
面矢 :流行というよりも合理だということですか。 しており、その内容は私などがこの新専攻でやろう
潰崎:若い人が村から出たとか としていたこととかなり違うと思えたからです。そ
西川:やむをえずでしょうね。 れでそのこと l
tし上げると 、学部長は「いや、現代
黒田: しかし、藁葺きだとか茅葺きの屋根をトタン を考える学問ということだから、君の考えているこ
にしたのは、おそらく傾斜の効果だと思うんですけ とと同じです」と 言われました 。それで夜、はここは
ど、そんなに醜く見えないですね。 念を押しておいた方がよいと考えて、「旧来の考現学
潰崎 :いや、色合いもあると思いますけど。 ではないのですから、機会のあるごとに私達の考え
黒田 :そり ゃ、もとに比べれば醜いですよ 。ただ町 ている新しい定義を説明するようにしなければなり
工場だとか、下町の中にあるトタン屋根のカ y トか ませんね」と申し上げて引き下がりました 。今日は
らすると透かにましだという気がします。 その機会でもありますので、私の考えている考現学
西川 ・復元可能だしね。 について少し述べさせていただきたいと思います。
面矢 .なんかハイテクな感じがしましたね。ぴかぴ 新しい大学院構想、が議論になったとき、これだけ
かに光って、夏なんかまぶしいんですよ 。 は忘れではならないと思っていたことが2つありま
西川田 茅もないしね。茅で葺く技術も非常に難しい した。 ひとつは時代は変わりつつあるということで
問題で。 しかし、白川村だとか、京都の美山町など す。激変を目の前にして大学院が作られようとして
では、伝統的建造物群保存地区として指定され、保 いることです 。第2は、この大学は規模の小さな地
護されていますが、滋賀県で、はまだ、具体的な保存 方大学で、地方大学は中央大学とは別のやり方があ
はとられていないようです。茅葺きの民家は朽木の るというです 。 この 2つのことを常に頭に置いて、

人間文化 ・ 2
5
新しい考現学のために

私は新しい専攻のことも考えていました 。 なると、どうも自信と使命感に欠けるところがある。
そんななかで「現代を考ーえる学」としての考現学 「日本をきれいにするためには日本の伝統を守る必要
1
というのが提案されたのです。私は1'、なりに考えて、 がある j という発言をすること自体に臨路するよう
この新しい考現学は 3本の柱からなるべきだと考えま な所さえあるのではないのでしょうか。将来のこと
した 。学術としての柱、オピニオンリーダーとして を考えるといいながら、進むべき方向の意志表示と
の柱、学生の育つ場としての柱、この 3本の柱です。 いうことになると途端に腰が砕けていて、保存修景
第 lの学術としての柱は、今まで皆さんで議論し との繋がりが、 一気にダメになってしまっている。
てきたようなことです。綿密に観察して、きっちり 例えば、こんなことがあります。今どんどん建て
と記載することです。 ただ、考現学の場合、確かに られている一般の民家で す。安いから、あるいは 一
断片的な資料になってしまう危険性があります。 だ 見格好がよいからということで新建材を用いた 、無
からそれを避けるためには定点観察を徹底的に行う 文化の建物が激増しています。こういう現状に対し
必要があると思っています。できれは¥専攻が持つ ても、はっきり、その是非が論じられるような、そ
共通のフィールドというのを決めておいたらどうだ ういう前向きの考現学にしなければならないのでは
ろうか。そんなふうに考えています。 ないでしょうか。現代や未来を考えるということは
第 2のオピニオン ・リーダーにな るというのは 、 「踏み絵 Jをする ことと表裏一体です 。私がオピニ
現代的な問題に対してはっきり意見を述べるという オン・リーダーといっているのはそういうことで
ことです。考現学は将来のことをも考える学問だと す。時代が変わろうとしている今、強く求められて
いうことですので、それは大変結械なことです。 た いるものは、そういう勇気、知恵を背景にした勇気
だ、私としてはもう一歩踏み込んで、相当ラデイカ だと私は考えるのです。新しい考現学にはそういう
ルな発言をしてもいいのじゃないかと思っているの 覚悟が求められていると私は考えるのです。
です。例えは、世間の動きに対しても、良い場合は良
いといい、惑い場合は悪いからやめろ、といった意 学生の育つ場と Lて
見表明をはっきりすべきだと思うのです。考現学は 高谷 .次は第 3の学生の育つ場としての考現学とい
そこまで行くべきだと思うのです。 うことです。 これに関してはこんな例を挙げること
考現学は保存修景と一組にな って専攻を作るとい ができます。今年の環琵琶湖文化論実習はつい最近
うことになっているのですが、このことを思うと、 終わったのですが、その中のひとつの班は実にユニ
この組み合わせももっと活性化する必要があると思 ークな 実習をいたし ました 。いろいろの所を訪ね歩
うのです。保存修景の場合は、日本の良き伝統を発 いて知恵を得るという方式をやめて、土山町ーのある
婦、保存していくことを実に意欲的にやっています。 山里に落ち着いてそこをじっくり見たのです。そこ
ここでは悪しきものは消えてもよいが、良き物は残 の老人クラフの人達十数人と、こちらの学生3
0名が、
すべきだという考え方が定着し、自信を持って仕事 いわばお見合いをし、気のあった者同志が幾組もの
をしておられるのです。 ところが、 一万の考現学と 小さなグルー プを作り 、同一グル ープの人達は朝か
ら晩まで一緒にいて、いわば一緒に生活したという
のです。あるグループは畑に 一緒に行って草取りを
し、日Ijのグループは大きな家に招き入れられて、老
人達の人生航路を聞き、等々したのです。 ところで
その実習が終わって学生の多くが述べた感煙、は「実
にいい経験をした」ということだったようです。田
舎の家があんなに大きくて、と、っしりしているのに
はひ‘っくりしただの、おじいちゃん、おは、あちゃん
達は信じられないくらいに親切だっただの、それで
も昔はいろいろ苦労があったらしい、でもそれがあ
ったからこそあんなに親切な人達になったのじゃな
いか、などといったことを本当に体を持って感じた
環琵琶湖文化論実習にて (菅浦班) そうです。そして、その結果、 一生忘れることのな

26 ・人間文化
新しい考現学のために

いようないい経験をした、ということになったよう それは可能だと思いますよ。それはやっぱりまだ
なのです。私はこのケースに考現学のひとつの重要 滋賀県立大学の先生とか学生との親密感とか、信頼
な局面を見るのです。 感が深まってくれば一緒に語り合いましようとかそ
不幸なことに最近の学生達はあまりにも人工的な ういう場になれば僕はそれが地域の活性化にもつな
場だけで育てられてきました 。学校では教師の授業、 がると思うのです。それは黒田さんの言われるのは
帰るとテレビ、それに何よりも都会での生活それ向 僕は視野の中においといてもいいと思います。
体が人工的なものです。人間らしく生きる場を持ち 高谷 先ほど黒田さんが話されましたけど、僕らも
得ないままに今日に至っているのです。その結果が ぴ、っくりしたのですよ 。向之倉に行 ったと きに 。ほ
どんな具合の悪い結果を生んで、いるかは私達の特よ んとに行きにくい山の中なのですが、アメリカに行
く知るところです。 日高学長は、この大学は学生の ってえら い金持ちになった人もいるわけです。そし
「育つ」場であってほしいといわれますが、「育つ場」 て生き生きしてるのです。ああいうのは行って初め
というのは具体的いうとこういうふうに人間的に成 て知ったのです。
長する場なのだと私は思います。そういう場を用意 西川 田どこですか?
することがこの大学の役目なのだと思うのです 。 黒田.多賀のちょっと入ったところです。
そんなことは学問とは関係のないことという反論が 細馬, 河内の風穴がわで、すね。
あるかもしれません。でも私はこれからの学問とい 高谷 .近くです。風穴より上に上がりますけど。
うのはそういうものであるべきだと思うのです。外 黒田・ そこよりもっと近いところですけど、桃原と
に出て、自分の肌で感じ、土地の文化を知り、 i
止の いう、桃の原と書く集落があるのです。そこはここ
移り変わりを見定め、自分の生き方を考えていく 。 から車で 2
0分ほどで行ける近いところなのです。そ
そういうものが人間文化学部の求めるべき学問の一 れがまた過疎にな ってい るのです。 ところが集落全
局面だと思うのです。 こういうことは極めて重要な 体がきれいで、し っかりと した家があ って 、何軒か
ことであるにも関わらず、巨大な中央の大学ではや はもう穴が開いて倒れかかっているような所もあり
れません。地方のこじんまりとした私達の大学のよ ますけど、集落全体としては非常に立派な家が建ち
うな所でこそやりうることなのです。新しい考現学 並んでいて 、件まいが素晴らしい。
にはそういう柱をも装備したい、とそのように思う 高谷: あの辺をね、定/~~として具体的に、うちの考
のです。 現学のフィールドにできないか、などと思うのです。
以上、考現学で狙わねばな らない 3本の柱を lドし 西川 :そこは人が住んでいるのですか?
ましたが、第 3のものをも入れようとすると旧来の 黒田 :まだ4軒ほど住んでいるのですけど…
考現学とはだいぶ違うということになるのではない 西川 :僕はそういうところへや っぱり、廃村になる
でしょうか。第 l点の学卒1
,[としての考現学、これは 前にサポートをするという効果もあるしね、
旧来のものと同じです。第 2点は半分旧来のものと 黒田 :そこはついこの間まで、お多賀さんのゴボウ
同じといってよいのではないでしょうか。ただ、踏 というので有名で、京都にゴボウを出している 。お
み長会をしろ、オピニオン ・リーダーになれ、などと 多賀さんのゴボウなしには京都人は正月は迎えられ
いうと、ひどく生臭く聞こえ、それは違うというこ ないといわれていたらしい。それからスキー場だっ
とになるのかもしれません 。 たらしいです、長い!日l
。そういうところだったにも
黒田、武邑 (
尚彦)両氏は私と同じ専攻に人られ 関わらず、しかも今いい道がついてますので彦根か
るのですが、この 3人は大体似たような考えを持っ ら1
5分ぐらいで通えるにも関わらず、道がついた途
ているのではないかと思います。黒田さん、和I
か補 端人が流,'1::"しちゃって過疎になってしまった。
足していただくことがありましたらお願いいたします。 西川 ・不思議なことですね。
黒田 :体験というか、体感というのは、実際にその 高谷 .だから先生も学生もよってたかつて、過去を
生活をやらなあかんのです。例えば君ケ畑の小学校 掘り出すわけです。 だが同時に未来を
を分校にするという計画も進んでますけど、僕はむ 西川 .いいで、すね。
しろ分校よりはあそこの空き家を貸してもらうとい 黒田 ・すごく残念なことに便利になればなるほど村
うことの方がはるかに大事やと思うのです。 から人がいなくなっちゃって崩れていく。先ほど西
西)
1
1:それは分校を基地にしてや って 下さい。 川さんは若い人が農村、農家が素晴らしいというの

人間文化 ・ 27
新しい考現学のために

いのですね。
西川 .しかし、うちの大学でやるとすれば、やっぱ
り最先端、東京というわけにはいかんしね。せいぜ
い京都・ ・
..
..
細 馬 .いや 、僕は彦根とか琵琶湖沿線のような郊外
で成り立つ学つであると思うんです。先ほどちょっ
と話していた携帯電話をひとつとっても、 JRの琵
琶湖線というのはじつは携帯電話の最先端なんで
す。何故かというと東京のほとんどの沿線では今携
帯電話は電車の中でイ吏っちゃダメなのです 。混雑し
多賀町・桃原の山村 てるから携帯電話の使用はお断りしている 。 ところ
が関西は比較的まだ混雑が緩いので小声でお願いし
は判らないと仰いましたけど、僕はむしろ車で 1
5分 いますとか、他の人に迷惑にならないようにお願い
で彦根に通えるのにすっかりいなくなる方が理解で しますといったぐあいに、車内の携帯電話は認めら
きない。そういうこともひっくるめていろいろ知り れている 。 そうなると例えば携帯電話というのは本
たいし、そういう素晴らしい今崩れ去ろうとしてい 当に人の迷感になるのかなとか、あるいは電車で携
る山村文化の場所に学生にどんどんいってもらえる 帯電話で話すというのはどういうやり方を取れば周
ような形にしたいなと思います 。 囲の人々に許されるのかな、という研究は、例えば
西 川 .面白いと思うね。 そういう小さな所からやっ ]R琵 琶 湖 線 で 出 来 る の で す 。東 京 で は 上 か ら の 通
ていくといいので 、国道開発計画とかがあ って、ば 達で禁止されているけど、ほんとにそれはそれでい
ーっと行くと寂しいですね 。 よくないですね。 いのか。 ほんとは携帯電話をめぐってもっと違うコ
高 谷 .今の向之倉もそうですが、そこを出た人は彦 ミュニケーションが出来るのじゃないか、それを例
根に住んでいます 。 向之倉の研究するためには今の えば彦根近辺で調べるということが出米ると思うの
彦根をやらなければいけない 。 だから何も山村の研 です 。
究というのは山村だけに閉じこもっているのじゃな 西 川 .それやって下さい 。
いくて問に直接関わりますし、そういう絡好でやり 細馬・ じつは今、学生に携帯電話の会話というのを
ますと… … とらせているところです。
西川 .そらモンゴルではツ ェルゲル 村で、こちらで 他にも、こういう大学で、出来る研究はいろいろあ
は杉U京で . ります。 たとえばこの大学のドアというのは実にた
黒 田 '桃 原 は 学 生 の 上 問 者 に 教 え て も ら ったので くさんあってしかも開けにくい 。 開け間違う人が続
す。彼が言うには大悌次郎が桃原といういかにも桃 出しているけれども、あれはーイ本どういうことにな
源、郷らしい名前に惹かれて登ってきたのですが、寂 っているのかというので、一 回生の実習で、 ドアの
しいとこやといって帰って行ったらしし、 。 でも僕は 開閉行動を観察させています。色んなドアに見はり
行ったときの天気が良かったせいか全然、そういう感 をつけて誰がとcっちの手でどうやって開けて 、いつ
じは受けませんでした 。すばらしいところでした 。 間違うのかというのを見るわけです。 そういう観察
によってもちろん考現学的に数をカウントできます
都市の考現学と田舎の考現学 けど、それだけじゃなくてどういうデザインだった
黒田 話は変わるんですが、こういう話をするとい らちゃんと機能するんだろうという話に持っていけ
つも気になるのが、僕たちの視野から都市が抜け落 ると思います 。
ちていることなんです。現代文明そのものは 、僕な あるいはパスの停留所に行列が出来ますけど、そ
んかとうてい追いつけないような進行をしているの の行列というのがすごくルーズな行列なんです。東
ですが、それをどう把握していくのかとか、未来を 京みたいに H
IJに並んで、それが前から l
順番に入っ
考えるときに現代文化の最先端をどう視野に取り入 ていくのじゃない 。 みんな行列をイ乍っているのかど
れていくのかというのが僕にはちょっとよく判 らな うか判らない状態で、パスが来ると何となくお互い
の}J[~l 番を意識したりしなかったりでぞろぞろと入っ

2
8 ・人間文化
新しい考現学のために

ていく 。単純に列を作って守りましようというルー れによって「愛されることがない、あるいは愛され


ルはないのだけれども、お互いあいつは先に来たよ る資格のない私」というこだわりがポロッと落ちて、
な、後に来たよなとル ースに覚えてて、ルースに覚 ああ私もこの世に生まれてよかったなというような
えた規則から適当に自分達の規則を作っちゃうらし 感覚を、再生の感覚ですね、そういうものをもっ人
いのです。 こういうのは完全な都市部でもないし、 が結構いるというような話で、マンガというのはす
田舎でもないし、よく判らない中間的な場所で起こ ごい作用しているのだなと判ったんです。それから
ることだと思うのです 。それは研究の価値がある 。 都会育ちの学生の何人かは この大学も居心地が悪い
しかもこういう現象は必ずしも彦根ローカルなもの らしいんですね。たまり場がないのがたまらないと 。
ではない。多分人聞がよく自分でもまだここにはど あまりにもどこもかしこも 明るすぎるし、ルーズに
んなルールがあるか判らないというところでとうや 出来る場所がない。喫煙場所がない。ぞろぞろとし
って ルールを産みましょう 、あるいは崩しましよう てても場が持たない。いつまでたっても大学への違
というときに普遍的に起こることだろうと僕は思っ 和!惑がなくならなし、。そういわれると、大学の構造
てます。だから高谷先生の話に付け加えるとしたら、 はなんか中途半端な気がしますね。例えば広い階段
もちろん山村に出かけるということもフィールドだ なんかはみんなが集まりやすい場所なのだけど、あ
と思うのです。が、いかにもありふれた琵琶湖線と ちらの広場の階段で人が座っているのほとんどみな
いう場所だったり、南彦根という場所だったり、そ いし、そこの橋の階段も使ってません。第一あの橋
ういう場所も実はフィ ールドになるのです。ただそ の上に人が居るなんて見たことがない 。
れは断片的に記録すればよいというのではなく、や 西川 ・僕もあまり上がった記憶がないね。下しか通
っぱり何回も出かけていって、そこにどういう i

買JI らない。
があるのかということを考えていくというのが必要 細馬・ 確かに建築家の人として無駄な空間を作った
ではないかと思うんです。そこで見られるルールが つもりだと思うのです。 ところがそれが透けて見え
どうやって出来るのかというのは、現代を考える上 るというか、無駄に見えないのじゃないですか。 こ
でおもしろいテーマだと思います。 の学部の下の廊下にベンチがあったり、憩いの場は
刺1馬さんの言ってることは僕も学生にや って
黒田 . たくさん設定しであるのですが、設定しであるとこ
もらいたいなという感じです。僕自身も悩むことが ろにはまりにいくのはやっぱり憩わされてるようで
あって、というのは自然だとか、田舎の伝統的な生 辛いのじゃないでしょうか。
活だったとかいう話をしたときに学生がときどき、 西川 もう少し時間がかかったら、住み替えも、使
都会育ちの学生が反発するんです。彼等は自分にと い替えもすると思うからね。変わ ってくると 思いま
って 、ごちゃごちゃした下町だとか、飲屋街とかネ すけどね。
オンは自分にとっては森みたいなものだと 。農村の 黒田 ,ただ白由な変形とい うのを許されない管理則
伝統的生活がいかに素晴らしいものかということ みたいなものがありますね。それは芝生の中に入っ
が、わしには全然わからへんと 。そんなこと考えて てはいけないとか、ロープを渡していたりとか、ベ
もしんどくなるだけやという感想を書く学生がとき
どきいます。 自分達と切り離されたところでそうい
う風に自然を守れだとか、自然生活はいいのだとい
う話になっちゃうと、これは嫌になる 。それはよく
判るんです。そうすると彼等の感覚がはぐくまれた
都市生活というものも考現学は未来を考えるという
のであれば、我々は視野に入れるべきであると思い
ます。
それで、漫画を研究している人に来てもらって話を
してもらったのですけど、直接的には繋がりが出て
くる話にはならなかったのですけど、学生は結構楽
しんでました。現代の少女漫画が日本女性の精神的
滋賀県立大学 (
センタ フロ ック内の風景)
な救いとして作用している 。心に傷を持った人がそ

人間文化・ 2
9
新しい考現学のために

ンチを勝手に引きずってこの辺に設営にしようとか こういう反発は逆に研究の動機になっていくってこ
出来ないですし・… ともありうるかなと思いました 。 自分にとって違和
細馬.転用の楽しみつであると思うんです、若い人 感があったり、え何でこんなことしてるのこの人ら
の間に 。ほんまは別な風に機能しているものを談笑 というのがわからへんことの方が、むしろ見えやす
の場に使っちゃう楽しみとか、日Ijの集合場所として いし記述できるということもあるんじゃないかと 。
用意されていないところに集まる楽しみとかあると 都会 v
s田舎というケースに限らずこういう違和感
思うのです。 ここには無駄な空間があります、ここ が研究のきっかけになったりすることがあるのでは
にこんな感じです 、 という風に 。建築物の方がサー ないか。例えば、ある都会からある都会へ行ったと
ビスしてしまうと、自分で転用する楽しみがちょっ きに違和感が発生するかもしれないですね。 ここを
と減るかなと、僕は個人的に思います。 出て東京でそういう違和感をスタートに研究する人
高谷.黒田さんの言われた大都会の研究というのは が出てもいいと思います。 もちろんその人の資質と
必要だと思いますね。 これは絶対やらなければいけ いう問題はあると思いますけど。
ない。だけど、ちょっとこれは難しい 。 逆にその人がそこを好きやからそこを記述したら
黒田 ・僕自身の感覚にもあう気がしない・ ええとは限らないとも思います。
西川 ・私は地方の中都市が、これから面白いし、大 高谷 今、黒田さんから病的な犯罪が近ごろよく発
切だと思います。東京を、どう調査し、巨大都市の 生しているという話が出ましたが、西川先生はその
将来像をどう描くか、東京の人がやったらいいので、 辺の原因を考えるあたりまで考現学の中に一
私たちはまず彦根とか、長浜とか 、近江八幡など、 西川田 その辺は僕の視野にはなかったで、すね。
身近なところで。 高谷 ,我々は自分達でやれるかどうかはしれません
黒田 :でも、中学生とか、高校生の殺人事件なんか が、その辺まで広げたいなという気はあるんです 。
は今や田舎や中都市の方が多いくらいでしょう 。人 学問としては綴密さを欠くかもしれないけれど、目
口比にしたら東京でもっと発生しでもいいはずなの 配りとしてはその辺まで入れて、全体像といいまし
に。だから人間関係の希薄さや地域社会の崩壊は都 ょうかね。
市だけでなくて、うまくいってないということはも 西川 .現代社会の病根に、深く ……。それは農村に
う、そのへんの美しい農村の中でも同じことが進行 も山村にも者日会の中にもあるのでしょうね。
しつつあるのだと思った方がいいのじゃないでしょ 高谷 ・それで学問になるのかと 言われるかもしれま
うか。かえって 、田舎の方が怖いという、目が届か せんが、やってみてはどうかなと思うのです。 こん
ないから怖いというような人も居るのです。 な小 さな大学で、折角現代を考える考現学を作った
細馬目 黒田さんが都会育ちの学生が田舎の伝統に反 のだから。 (
終)
発することがあるという話をされたのですが、僕は

Comment
考現学と消費生活? な か たに まさよ
中省員三代
滋賀県立大学人間文化学部

いつだったのかも覚えていないくらいの記憶であ ことになって、こういう前置きをせざるを得ないと
るが、「衣関係 j の書物を読んでいて「今利次郎の いう事がその現れかもしれない。あくまで独断と偏
考現学」なる言葉を始めて知った 。多分、その後も 見はお許しいただいて 。
見聞きしていたのであろうが、私自身の意識の中に、 私は 「
消費生活論」と 「
服飾デザイン j を担当し
直接飛び込んでくるということはなく、素通りして ているが、考現学が消費生活や服飾に関わることも
いたと思われる 。そして、この滋賀県立大学生活文 多いのではないかと考えている。
化学科における教育、研究の共通の切り口として 流行といえば、衣領域を思い浮かべる人が多いが、
「考現学」がおかれることになっても、充分理解で 衣生活と流行は切り離しては考えられない。そのト
きていないというのが実状である 。 コメントを書く レンド分析や衣服着用時の心理分析のための手法と

3
0 ・人間文化
新しい考現学のために

して定点観測は明治の頃から行 われてきた。それが 態を観察、調査、記録し比較分析を行っている 。つ


「考現学」として提唱されてから、広く用いられる まり、考現学的追求であろうが、これはまさしく、
ようになり、現在も同様に多くの研究者に使用され 消費生活の社会学で、あり、そこから自分自身の生活
ている 。 を見直し、生き方を考えるのは消費者教育そのもの
一方、昭和 3
0年代前半に生じ、我々の消費生活の だと思う 。
内容を大きく変えた諸変化 は「消費革命Jといわれ 消費生活に関する調査を行うのに、考現学を無意
るドラスティックな変化であった。 識のうちに取り入れているということに違和感はな
たとえば、被服では、和服から洋服へ、しかも使 い。 しかし、片や考現学は学問 としては非常に暖昧
い捨て文化の象徴といわれる既製服へと様変わりし もこで、他の学問、研究の便利な手法、手段として
た。ことほど左様に新製品が一般家庭に広く普及し、 存在するものと考えていいのだろうか。生活研究の
消費需要パターンの変化をもた らしたといえる 。 ま 補助手段に甘んじているのだろうか。
た、近年、囲内消費の冷え込みが言われている中に 現在の人口や商品数などから考えて、非常・に多く
あって、若者向け商品はよく売れているという 。若 のサンプル数を必要とする調査研究にはどのように
い人にとって魅力的で手にいれたいものが、技術革 対応していくのだろうか。科学性や普遍性などとは
新や流通の変化で以前よりも安く提供されるという どうして接点をもつのだろうなどなど、疑問を感じ
状況なのである 。 さらに、カードなどの利用が若者 ているのも事実である 。
の購買力を拡大し 、行動空間 を広げ、消費行動を変 しかし、徹底的に生活を観察し、そこで使われて
化させており、情報通信の消費も極めて今日的であ いるモノを変化 という位相で見てスケッチしたり、

っ。 図表にしたりしている考現学は夢があ って 楽しいな
私は、こういった消費行動 や消費生活の変化の状 とも考えている今円この頃ではある 。

C
omm
ent
はやがわふみ と
早川史子
滋賀県立大学人間文化学部

これまで考現学の視点から食を考えたことはなか い。 日本は今、これまでの「食生活=家庭生活の一
った 。厚生省が昭和 2
0年から毎年全国の家庭を対象 部」という図式が大きく崩れてきている 。「食事の
に無作為抽出で対象者の家族の栄養調査を実施し r r
意味 J 料理の技法 J 食卓の人間関係」なとともずい
て、食料の需給状況、日本人の栄養摂取状況、食品 ぶん変化してきた。考現学的立場でこれらのことを
摂取状況、さらに最近では食事は誰とするか、朝食 採り、食事長J
i!、料理を作る意義などの変化も明らか
は食べるかなど食環境も含めて調べている 。 これ以 にし、その是非を論じることも必要なことだろう 。
外にも食べ物の日書好調査、味覚テストなどの調査研 ただ、食事の内容や食卓の風景をのぞかれることが
究や食生活と疾病の因果関係を明らかにする目的か 恥ずかしいと思う人もいる 。家庭に入り込んで、の食
ら疫学調査も盛んに行われ、現在の様々な食の実態 調査は重要不可欠だが、また困難な部分でもあり、
が報告されている 。 これまでのようなアンケート調査が中心になりがち
現代の日本の食の生態を採るという立場が食の考 である 。過去においても上流階級や祭紀に関わる食
現学であるならば、上記の調査も考現学の一種に入 の記録は残っていても、本当に知りたい一般庶民の
るかもしれないが、この種の調査がフィールドでの 食生活に関わる資料は非常に乏しい。 このことを考
観察という考現学の手法をとっていないことから考 えると、過去と未来の橋渡し役として、様々に変化
現学が求めているものとは異なるような気もする 。 する食生活の今の実態、を観察し、考察することは、
また、 I
考現学・保存修景jの言葉から受ける印象 現在に生きている我々がやらなければならないこと
は有形物を対象にする学問のように思える 。 のひとつかもしれない。
ここで、私なりの食の考現学の一例を述べてみた

人間文化 ・ 3
1
トピックス

ネットワーク時代の 東山明子

健康教育を考える
人間文化部 生活文化学科人間関係コース

1.今 日 の 健 康 観 れ、育てられ、その生活を保障される。 3
. すべて
今日、幼児を持つ親が子ともに望むことの 一つに の児童は、適当な栄養と住居と被服が与えられ、ま
「健康な子どもであってほしいj という願いがあげ た、疾病と災筈からまもられる 。 9
. すべての児童
られる 。「心のやさしい J1
素直な J1
感受性の豊か は、よい遊び場と文化財を用 意され、わるい環境か
なj等のことばも精神面での健康を願うことばに連 らまもられる」とうたわれている 。児童の基本的人
ねられる 。幼い子どもを持つ親たちは、子どもたち 権としての健康に育成される権利を保障する責任
が育 っていく上で心身が健康であることが重要なこ を、保護者や社会、さらには国家の責任としている 。
とであると考えていることが分かる 。成人の場合も、 すなわち、健康であることは基本的人権の一つであ
例えば余暇の過ごし方について、スポーツや身体ト り、国および国民は教育によって健康な児童を育成
レーニングなど、心身の健康を維持し増進しようと することを責務としているのである 。
する内容や、心身のリフ レ γ シュに貢献する内容に 学校教育の中で健康あるいは保健体育として健康
関心が向けられている 。 このように今日の人々は、 教育を受けた後も、生命の続く限りは自分を取り巻
健康であること自体に価値があることを認めている く環境の中で自分自身の心身と付き合わざるを得な
といえよう 。 い。学校教育の範鴎に入らないところでの健康に関
19
48年に国際連合の世界保健機関 (Wo
rldH
eal
th わる問題が最も解決が困難であり、そのために複雑
O
rga
niz
ati
on)は、健康について次のように定義し 化もしている 。 さらに学校教育の枠外の環境が学校
た。すなわち、「健康とは 、身体的、精神的および 教育に多大な影響を与えている 。 したがって地域に
社会的にも完全に良好な状態であって、単に疾病や 生活する人々の健康に関わる問題を解決すること
虚弱でないということだけではない」 。 このことは が、健康教育の究極の目的であるといえよう 。
1、すなわち、
全体適'1: トータル・フィットネスとし
ての体力とも同義的に解釈される )
おとともに、心身 I
I. 健康教育の発展過程
の健康だけでなく社会的な健康にも 言及した点にお 健康教育は 5
0年以上前に 、衛生知識普及を目的と
いて画期的な健康の定義であるとして、今日も到達 して始まり、時代とともにその時々の健康問題や社
するための健康観の理想として位置づけられてい 会状況を反映して変化してきている 11。昭和 2
2年
る。 19
( 4
7年)制定の保健所法の保健所事業の第一項に
日本国憲法第 2
5条には 、「
① すべての国民は、健 は「衛生思想の普及及び向上jが揚げられていた 。
康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する 。 昭和 5
7年 0
982年) には老人保健法において「健康
② 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社 教育は、心身の健康についての自覚を高め、かつ、
会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければ 心身の健康に関する知識を普及啓発するために行わ
ならない 。」と示されている 。健康な生活を営むこ れる指導及び教育とする j と規定されている 。すな
とは基本的な権利の一つであり、国は国民の健康を わち、今日でも法律上では健康教育イコール知識の
守り保証していく責任を有することを宣言 している 普及と捉えられている 。 しかし現実には、健康教育
のである 。教育基本法第 l条 (
教育の目的)におい の中心が知識普及であったのは国際的な健康教育の
ても、「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国 歴史からみても、今から 5
0年も前のことであった。
家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個 吉田 19は健康教育の発展の歴史を 、繁明期に始ま
人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的 り、確立期から発展期、そして成熟期、さらに転換
精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して 期への過程であると説明している 。(図 1参照)
おこなわれなければならない」とし、教育の目的は すなわち、繁明期とは健康教育が始まった 1
940年
身体的、精神的、社会的に健康な国民の育成にある 代の知識普及の時代である。感染症が人々の生命を
と宣言 している。さらに児童福祉法では、「①すべ 脅かしていた時代には衛生知識を持つ専門家が知識
て国民は、児童が心身ともに健やかに生まれ、且つ、 のない 一般の人々を教化して危険から遠ざけること
育成されるよう努めなければならない。②すべての が衛生教育の最優先事項であり、かつ情報の伝達も
児童はひとしくその生活を保障され、愛護されなけ 今日のように容易ではなかったことから、一般の
ればならない。」と定められ、児童憲章においても 人々も衛生知識に飢え、衛生知識に対する関心が高
11.すべての児童は、 心身 ともに、健やかにうま く、広報活動と 一体化 した民衆教化のための衛生知

32 ・人間文化
ネットワーク時代の健康教育を考える

転倹期
1
99
0年 代 学 習 媛助の時代
学習媛助型 (
健康学習 ・
Empowerme円t
)

指導型


問吋期 I
:
l… …
1
9
悶 7
附…
1
98
0年代教育診断・教宵介入の時代
(ThePRECEDEframeworkJ

確立期 " … 年 代 繍 態 度 駒 附 (

K
… │
由州)

同 I 1
叩知識普及の時代 │
知識 (knowl
edge)
ー習慣 (
pra
ctices)
→行為 (
act
ions
)一行動 (
behavi
or) ・ライフスタイル ーQOL

図 1 健康教育理論の発展過程(吉田亨 (1994)健康教育の歴史と栄養教育、臨床栄養 8
5(3
))

識の普及を目的とした衛生教育が始まった。 ずれの時代も、指導する側にいる保健医療従事者が
1
950年から 1
960年代になると、知識の普及だけで 主体となって教育を受ける人々の優位に存在し、縦
は直接健康水準の向上を望むには無理があることが の関係で上から下に指導を施し、よりよい方向へ導
理解され、健康についての正しい知識を与えること くという形の指導型の教育であった 。 ところが現在
が健康に対する望ましい積極的態度を形成し、その を含むこの 1
990年代の健康教育は発想の大きな転換
結果として健康的な習慣を形成することができると がみられ、教育を受ける人々が主体であり、保健医
いう KAPモデル (Knowl
edge,
Attitudes,
Practices) 療従事者は援助する側に回るという従来の縦の関係
の考え方が一般化してきた。教育が知識のみならず が横の関係となった「健康学習jの時代であり、健
態度や習慣 ・行動を変容することができるという考 康教育の転換期であるととらえられている 。
えに立った健康教育の確立期である 。
ところが、 1
970年代になると、知識をいくら与え i
l
l. 健康学習とは
ても期待通りの結核診断受診や予防接種への行動変 健康学習は学習援助型の健康教育として日本で作
容がなかなかみられないことから、これまでの健康 り出された理論であり、 1
987年に石 J
I
I'が健康学習
教育のやり方に行き詰まり、ジレンマに陥ることに の考え方を紹介したのが始まりである 20。ほぼ同時
なる O そこで、社会心理学を用いた社会的行動の心 期にさまざまな立場の研究者たちが、同様に健康 に
理機構の解明手法から 、「ある予防的保健行動をと 関する学習の重要性を指摘している lHOIJ
.
!
l
。 o
C

る可能性は、その人が感じるその病気の脅威と、そ 吉田ら 16)lI)はこれらの健康学習の概念を伝統的な


の人が感じるその予防的保健行動による利益とに、 健康教育と比較して、健康学習は 「共感的 理解」

大きく左右される J21)という保健信念モデルが開発 「双方向のコミュニケーション形態」、「保健医療従
されてきた。この時代は社会心理学の時代であり、 事者の聞く技術の重要性」、「住民同士の関係の重視」
健康教育の発展期ととらえられる 。 の4つの特徴を有していることを報告している。
1
980年代半ばからは、グリーンらの提唱した「プ すなわち、第 lの特徴である「共感的理解」とは、
リシード ・フレイワ ークJ)
,の考え方により、それ 保健医療従事者が一般の人々と同じ高さに位置し、
までの健康教育の最終目的であった行動が中間目的 人々の思考過程にそって理解し、この理解に基づい
とされ、生活の質の向上が健康教育の最終日的とな て学習の援助を行うことである O 伝統的な健康教育
った 。行動に影響する要因を解明し、働きかけるこ では、保健医療従事者は専門家として一般の人々よ
とによって行動を変容させることに力が注がれ、教 りも高い位置から住民の抱える問題を専門家の視点
育というよりもむしろ行動への介入という傾向の強 で理解し、教育を施そうとしてきたともいえる 。伝
い教育診断 -教育介入の時代であり、健康教育の成 統的健康教育では問題理解の基本が診断的理解であ
熟期とされる。 ったとも言え、これに対して健康学習では 一般の
ここまでの健康教育の繁明期、確立期、発展期、 人々と同じ回線での共感適理解がこれに変わってい
成熟期は、知識に始まり、習慣化から行為・行動の るのである。
変容、さらによりよいライフスタイルから生活の質 第 2の特徴である「双方向のコミュニケーション
の向上へという目覚ましい発展であった。しかしい 形態 」とは 、 コミュニケーションの主体は一般の

人間文化 ・ 3
3
ネットワーク時代の健康教育を考える

人々であり、その人々からの問いかけに対して保健 危険であるかを知っていて、柵で人々が危険な川に
医療関係者が行うフ ィードバ y クが人々の主体的な 近づかないようにするとともに、その 川が危険であ
学習への援助として重視される 。伝統的な健康教育 ることを人々に周知しているのである O 感染症時代
においてもコミュニケ ーシヨンは重要視されてきて の衛生教育が健康教育の主体であった時代には、危
はいたが、コミュニケーションの主体はあくまで保 険な川に近づくことさえしなければ、人々は自分の
健医療従事者であった 。健康学習では主体は一般の 生活を何ら変える必要はなかった。専 門家は人々の
人々であり、保健医療従事者は主体からの働きかけ 意見を聞くことはなく、専門家が問題を的確に診断
に応じて主体を支える存在に変わったのである 。 して人々に 一方的に指示を与えていたのであり 、
第 3の特徴である 「
保険医療従事者の聞く技術の 人々の意見よりも専門家の診断のほうが確実である
重要性j とは、健康学習の教育援助技術の変化につ と考えられていた。それに対して右のイラストは、
いてである 。伝統的な健康教育では、 speakingと 現在の健康教育 ・健康学習を表わしている 。健康づ
e
xpl
ain
ingが基本的教育技術と考えられていたが、 くりは 一生の課題であり、健康づくりの基本は、栄
健康学習では l
is
ten
ingとa
ski
ngが重要で、あり、人々 養、運動、休養であるといわれている 引が、これら
の本音を引き出し問題を明確にするための聞き上手 は人間の生活そのものであり 、人々の生き方そのも
であることが求められている 。 のでもある 。 したがって、単純な禁止や勧誘によっ
第 4の特徴である 「
住民同士の関係の重視jとは、 てすぐ変えることのできるものではない 。今日の
集団の中で住民自身の経験から学び相互に支え合い 人々は、もはや危険な川を遠巻きにして川と無関係
考え合うことが学習において重要であるという考え な自分の生活を続けていれば安心な状態にはなく、
方である 。 危険な川の中で泳いでいて、しかもず、っと泳ぎ続け
ケイト・ロリグ博士(アメリカ、スタンフォード なければならない状態にあるといえる。川の側では
図 2)は健康教育と健康学習と
大学)のイラスト ( コーチが声をかけてくれるが、ずっと泳ぎ続ける
の違いを分かりやすく説明している 21 左のイラス 人々に対してコーチはパートタ イムであり、常に側
トは、伝統的健康教育を表わしている 。専門家であ にいるとは限らないのである O 刻々変化する川の流
る消防団 (
保健医療従事者を意味する )がどの川が れの変化に自分の力で対応する必要がある 。泳ぎ続
ける時の問題点は泳いで、いる人が一番よく知ってい
るというのが現在の健康教育の考え方である 。 コー
チ (
専門家)は泳いでいる人の問題提起をもとにそ
の問題点を客観的に分析し、それぞれの人にふさわ
しい泳ぎ方をその人と共に探求するという形で協力
するのである 。

N. 健康学習の実践
健康教育の理論面が整ってきている現在は、より
良い健康学習の方法論をめぐって様々な模索が行わ
れている 。最近インタ ーネットやパソコン通信とい
った電子ネットワークが拡大し、地域性を離れたコ
ミュニテイが生まれてきている 。 キャンパス・セク
注1
シュアル・ハラスメント ( ) 注 2)
、ペットロス ( 、
ダウン症情報(
注 3)
などのホームページが悩みを寄
せる場や相談の場として活用されている 。電子ネッ
トワークでは、不特定多数の間でのメッセージや情
報の交換が可能である 。 また、個々人がそれぞれの
都合の良い時間にコンピューターの記録を利用した
図2 ka t
eL or
ig博士による健康教育の考え方
(吉田亨 (1995)健康教育の潮流、保健婦雑誌 51(12))
也田 6
り、コミュニケーションすることカfできる 。 j
は電子ネットワ ー クの特徴を、インタラクティビテ

34 ・人間文化
ネットワーク時代の健康教育を考える

表 禁 煙 マ ラ ソ ンjのスケジ、
ユールと結果
第一回禁煙マラソン 第一回禁煙マラソン
期間 6 月 9 日 ~8 月 8 日 10 月 6 日 ~12 月 l 日

参加費用 3
,000円 5
,000円
参加登録者数 228名 188;t
1

最終アンケー卜問答数 134名 1261;


イ、相手の不特定性、非同期性であるとしている 。 喫煙成功者数
l 118名 105:
t1

健康学科援助の方法として電子コミュニケーション 喫煙成功率(喫煙成功
を活用することの可能性が試されている 。 1
5.7% 5
5.8%
者数/参加登録者数)

V. 電子ネットワークによる健康学習援助の可能性 営する「まほろば」が事務局となってボランティア
電子ネットワークを利用した健康学習援助活動の で行われている 。 また、禁煙指導に関心のある臨床
l 例として、 1
994年に日本の病院では最初の「禁 医のネ y トワークである「臨床医療ネットワーク J
煙外来」を始めた医師の主宰による 1
997年からのイ の医師 40t
l以上がボランテイアとして参加し、参加
ンターネット上で 2ヶ月間で喫煙を止めることを目 者へのアドバイスや参加者からの質問に答えてい
的とした「禁煙マラソン J(
注4) がある ¥}o r
禁煙外 る。このプログラムは、 1
997
年中には 2回行われて
来」は医学治療上禁煙が必要と診断された也者に対 おり、そのスケ‘ン、ユールと結果を表 1に示す。
する禁煙折導を日的に開設されたものである 。そこ 「禁煙マラソン」の参加者の募集はホームページ
で、行われていた禁煙指導を、より多くの人がより手 上で行われ、希望者は参加登録を行い、マラソンス
軽に受けることができるように、インターネットに タート前に参加 l
費を振り込むことにより、参加者と
よる禁煙支援プログラムである「禁煙マラソン」が して認められる 。 この参加費は営利目的ではなく、
つくられた。 禁煙達成調査のための郵送料、サーバ管理費、禁煙
厚生 J
L許(19
J 97)3によると、日本人の成人喫煙 達成記念品の作成費とその送料、メールアドレス確
率は、男性 5
2.7%、女性 1
0.6
%、男女平均 31
.7%で 認のための電話費用など、必要最小 限の経貰'で、ある 。
あり、男性喫煙率は先進諸国中最も高い水準で、ある 。 第 1回マラソンでは I人当たり 3
000円の参加費であ
これまで喫煙習慣は、個人の自由意志に基づく 1香好 ったが、約 2
000
万円の赤字を 出 したことから、第 2
晴好
の一つであるとされてきたが、最近では例人の I 回では l人当たり 5
000円の参加費となった 。
だけの問題ではなく社会全体の問題として捉え直す
必要があると考えられてきている 3。 その理由を望 .r
v
n 禁煙マラソン」の流れとメール内容の傾向
月口は喫煙習慣と種々の疾患との因果関係が深いこ マラソン開始から終了までを 1週間毎に区切り、
とや妊娠への影響 、非喫煙者の受動喫煙によ る害等 各週のメール数と発言者の属性ごとのうちわけを表
をあげ、さらに、喫煙習慣を薬物依存として取り扱 2に示す 。 「禁煙マラソン」開始6月9日以前の発言
うことが、医学的に適当になってきたことも加えて は l周目に含め、また終了 8月 8日を含む 8月4日か
いる 。喫煙による悪影響は一般に認知されつつあり、 ら 8月 1
0円までを 9周目とし、それ以降を終了後と
喫煙者の 3割以上に禁煙経験があり、その 4分の 3 した 。
は2同以ヒの喫煙経験があることが報告されている メールの発言内容ごとに分頒したものを表 3に示
1
30 r
禁煙マラソン」では 開催 1回目で 5.7%、2
1 同円 す。
では 5
5.8
%という高い喫煙成功率を記録した 1。 マラソン開始直後には、参加者が禁煙決意を表明
そこで 、こ の「禁煙マラソン j を分析し、高い禁 する発言が多くみられた 。
煙成功率を出した要因を 見出すこ とによって、有効 -はじめまして。 58歳の男性です。 永年の喫煙に
な健康学胃のあり方の示唆を得ることが、これから 別れを告げる気はなかったのですが、ブレ禁煙で
の健康教育 ・健 康 学 習 の 発 達 に 必 要 で あ る と 考 え 1日に吸う 1131こ出来たので、いっそのことこの
た。主宰者の許可を得て 、「第 l回禁煙マラソン」 際に禁煙するか!で始めました。今日は、出社拒
で開設されたメーリング リストに送 られたメールの 否症と相まって自宅に閉じともっています。皆さ
内から 1
997年6月6日から 9月8日の約 3ヶ月間のメー んのメールを楽しみにしながう。
ル1l0
7i
IDを対象として「禁煙マラソン」全体の流れ .19年間タバコを吸い続け、途中伺度も禁煙に挑
を把握し、参加者の発言内容を分析した 。 戦しつつも、数日で挫折を繰り返し、ことのとこ
ろ、禁煙などすっかり考えなくなっていたのです
r
羽. 禁 煙 マ ラ ソ ンj の 概 要 が、新聞記事で見つけた今回の企画に感銘し、即
前述の「禁煙外来」を 開始した内科医が主宰し 、 日参加を決めるとともに、スター卜前から、禁煙
インターネットプロパイダのアミック株式会社が運 の練習にかかりました。今回のマラソンは是非完

人間文化・ 35
ネットワーク時代の健康教育を考える

表2 禁煙マラ ソン」各週の発言者別メール数

一週 目 二週目 三週日 四週日 五週 目 六週目 七週目 八週目 九週目 終了後 合計


主催者 30 3
2 1
7 21 19 7 O 8 5 1
1 150
医師団 50 3
3 1
1 8 9 8 2
0 4 7 8 158
事務局 3 l 3 O 4 3 3 2 l 5 25
参加者 2
36 87 5
2 67 77 3
9 4
6 3
3 6
3 7
4 774
d l
ロ 口 岳キ 3
19 1
53 8
3 96 1
09 5
7 6
9 4
7 7
6 9
8 1
107

表2 禁煙マラソン」のメール内容別発言数
一週目 二週 目 三週目 四週日 五週目 六週目 七週目 八週日 九週目 終了後 合計
禁煙決意 2
1 O O O O O O O O O 2
1
禁断症状
励まし、
アドバイス
3
6
4
0
2
1
1
8
5
6
3
7
5
3
l
3 。。。。 2 O O O 7
3
7
7
禁煙失敗

励まし 、
アドバイス
1
5 4
3 。
O 5 l

O
。。。 2 O O O 2
7
2
1
再ス タート
励まし 、
アドバイ ス
1
3
1
1
4
1
0 。
O 7
4
2

O
。。 l l O O 2
8
3
2
体調の変化 22 1
5 8 5 5 3 4 2 l O 6
5
タバコ問題 3 7 1
3 l 6 6 6 2 3 2 4
9
一ヶ 月達成 O O O l 1
2 O O O O O 1
3
ゴール後の不安 O O O O O 4 l 5 3 O 1
3
合計 1
70 8
2 3
2 3
4 4
0 1
7 2
4 1
1 7 2 41
9

走したいと思っています。 よろしくお願いしま になってきました。


す。 これ らのメールに 共通しているのは、タバコを吸
参加者は決意を述べるとともに、他の参加者から った事実を認めな がらも、そこであき らめずに再度
の反応を期待し ていることがうかがえる。 禁煙に挑戦しようと する意志が現わされている点で
禁煙開始から 2-3日目は、 禁断症状がピ ークを ある 。他のマラソン参加者の中 にも禁煙に失敗した
迎える il
ls- タバコの禁断症状に悩まされるという (タバコを l
吸ってし まった)という人がい たことは十
内容の発言が増えてくる。 分考え得る 。再度禁煙に挑戦するメールを送ってき

• R_ がボーツとする感じ .
. た者には、失敗したことを正直にメールに出したこ
何となく吸ってみたいという感じー とに対して非難されることなく、他の参加者、医師
禁煙しているのに喉が痛くなってきた・ 団か ら多くの励 ましのメールが送 られる。
.
1本でもいい。タバコが阪いたい。一日中タバコ 伺事も、 1回でできるとは限りません。人生に
で頭がいっぱいです。 おいては、再スタートできることは沢山あります。
これらの発言に対して 、励 ましのメールと禁断症 禁煙マラソンもそのうちの一つです。 理性的には、
状を乗り越えるためのアドバイスメールが送られて タバコが体に悪いと知っていても、誘惑に引き込
くる。 まれることがあるのです。ただそれだけのことで
再喫煙は喫煙後 2週間目におこ りやすいという報 す。禁煙の意志を持ち続けることが大切です。T
, にもみられるように 、1
告? 週間経過頃からは、禁 先生の禁煙指導にあるように、きっぱりとやめる
煙に失敗する参加者も出てきた 。 ことが良いのでしょうが、そうは行かないのが禁
-マラソンの途中の休憩すると(文字どおり一服)。 煙でしょう 。自己のなかにある理性と誘惑と葛藤
翌日 、禁煙初期の禁断症状、例えば腕の軽い痩れ、 の中で、禁煙するという意志を大切にして、何度
イライラが全く同様に表れるのにはびっくりしま でも挑戦してください。
した。 このアドパイスメールにもある通り、 「禁煙マラ
今度こそ本気の 3回目の禁煙突入。 ソン 」はあくまで 「禁煙支援プログラム」 であり 、途
ころんでしまった自分が情けなくて 。断念宣言 中で失敗したからといって 、そこで禁煙を諦める必
しようかと迷っておりました。 要は全くない。本人のやる気さえあれば、何度でも
Mしを読んでおりますと 、未だ、 B月 9日までは 挑戦す ることができる。
時聞がある。もう一度トライしてみようという気 順調に禁煙を続ける「禁煙マラソン」ランナーの

36 ・人間文化
ネットワーク時代の健康教育を考える

中には 、タ バコの禁断症状のピークを過ぎて、自ら 生かもしれない)がタバコを吸いながら歩いてい


の体調の変化をメールで報告する者も出てきた 。 ました。制服をきていたので下校途中なのでしょ
-以前は、朝がとても弱い自分でしたが、早寝して うが、あまりにも堂々としていて、一瞬違法行為
いる事もあるのでしょうが、朝の寝覚めがとて だということを感じませんでした。
も良くなりました。とても気持ち良く起きること よく街頭で JTがタバコの試供品を配っています
ができるようになりました 。きっと、禁煙のお が、制服を着ている高校生にまで渡して火まで付
かげです。 けてやっているうしいです。
それに、深呼吸しても、政き込んだりせすに、肺 最近は未成年の喫煙は、暗黙の了解となったので
のスミズミまで空気を吸い込む事ができるように しょうか。
なったのには、驚きです。喫煙していた頃は、深 -現在、米国の公共の場所はほとんど禁煙です。レ
呼吸すると、政き込んだり、妙な痛みがあって安 ストラン、オフィスビル、デパート(喫煙所なし)、
心して空気を吸い込めす、なんとなく自分の体を 駅、飛行場(喫煙所が 1部あり、ガラス張りの隔
心配していたのですが、今は全くそんな心配はあ 離室)、乗物内・-。喫煙できるのはパーと路上だ
りません。深呼吸するのが、とても気持ちいいと │
ナ ・と考えて良いと思います。
感じる事ができるよ うになりました。 このように 、個人的な禁煙活動だけでなく社会的
-こんにちは。札幌かう参加しています。比較的難 なタバコの問題が話題となるのは、「禁煙マラソン」
なく五日間が週ぎました。 も折り返し地点に迫りタバコの禁断症状も消え、参
この間の体の変化はますお腹がすくようになった 加者に余裕がでてきたためであると考えられる 。
こと 。よく食べるようになったこと 。そして眠い 「禁煙マラソン j もスタート後 1ヶ月が経ち、 1ヶ
のが我慢できなくて、早寝。自然と早起きになり 月達成記念の報告メールにより 、メール数が増える 。
ました。
生活のリズムにも変化が現れた感じです。 スタート後一週間、二週間 一 と区切りの時にはそれ
お肌の荒れも収まってくるし、お化粧ののりもよ ぞれメール数が増加する傾向が見られたが、 1ヶ月
くなるし、いいことばかりなのに、なぜ今まで限 の時点ではその傾向が特に顕著であった 。
ってたんだろーと思い返しています。 また「禁煙マラソン」も半分が過ぎ、参加者もゴ
{也にも次のような、禁煙の効果がメ ール上で報告 ールが見えてきたのか、ゴー ル後の不安を訴えるメ
されている 。 ールもでてきた。
-顔色が良く主主った。 ・気の早い話ですが、 8月 8日に無事完走出来たと
-歯茎の色が良くなった 0 して、その後メールを読む楽しみや、先生方のア
.息切れがしなくなった。 ドJ
¥イスメールが無くなってしまったう完走後禁
-昧がわかるようになった。 煙を続けうれるのか、ちょっと不安です。
-においがわかるようになった。 など 完走後も時々、先生方や皆さんの声を聞ける方法
「禁煙マラソン」ランナーは、自らの体調の変化 はないものでしょうか?
を自覚することによって改めてタバコが身体に及ぼ .6月 9日かうがんばっていますが、仮に二ヶ月の
す影響を知り、それを、今後のさらなる禁煙活動の 目標を達成しても、私には次の目標が必要です。
モチベーションとしているのであろう 。 その目標を達成したらまたその次の目標が必要で、
これまで、各個人の禁煙活動とそれに対するアド す。でないとくじけそうです。
バイスや励ましに終始してきた「禁煙マラソン j で これらの意見をうけ、「禁煙マラソン j 事務局は
あるが、 6月 21日にアメリカにおけるタバコ裁判 プログラム終了後 1ヶ月はそのまま、その後はアド
を紹介するメールが、ある臨床医療禁煙ネットワー レスを変更してこのメーリングリストを残すことを
クの医師から送られたのを境に国内外のタバコ問題 決定した 。
を紹介するメールもでてきた。 またこの頃、ある参加者から以下のようなメール
-喫煙率を下げるには、これかうの世代への教育が が送られ、その内容について参加者同士がメーリン
不可欠ですよね。これかうの人たちには、限って グリスト上で議論を展開した。
ほしくないな、ほんと思います。 -大変興味深い企画でしたが、とにかく無駄にメー
先日、自宅前の道路を高校生(へたをすると中学 ルが多いですね。皆さんから送うれてくるメール

人間文化・ 3'
7
ネットワーク時代の健康教育を考える

は事務局で取捨選択して、配信するメールは事務 をゆるめす走り続けようと決意を新たにしており
局かうのものだけにしたういかがですかっ他の重 ます。
要なメールと混ざると厄介なので、サフ‘ジ‘
ェク卜 約三ヶ月間、本当にありがとうございました。
で振り分けていましたが、最近では殆ど内容を読 「禁煙マラソン」ランナ ーの中には 、「禁煙マラソ
まなくなってしまいました。先生や事務局の方か ン」の効果に感動し 、 より多くの人に知ってもらい
らだけ、メールを頂きたいというのは賛沢でしょ たいと「禁煙マラソンの普及」を新たな目標とする者
うか?お蔭様で禁煙は続いておりますのですが、 や、個人の枠を超え社会 レベルでの禁煙に日を向け、
メールがそろそろ 1000件を超えそうなので、 「タバコ問題」そのものに関心 をもっ者もいた。
フォル夕、
ごと削除したいと思っております。これ -私は、草の根運動的に喫煙者と飲んだときは必す
を機に配信の停止をお願いします。 禁煙を話題にする禁煙マラソンの新聞記事(コピ
これまでにも、メール安土カf多すぎるためにメール ー)を常に数部持ち歩き、すぐに渡せるようにし
の配信の停止を希望した参加者はいたが、このメー ておく(勿論ホームページの URLは書 き加えて
r
ルには「他の重要なメールと混ざると厄介 J フォ おく )社内掲示板に貼るてなことをやりました 、
ルダごと削除」など、解釈の仕方によっては、大き 継続 してやっています。
な誤解を生じる部分があった 。 これに対して他の参 -新幹線の「禁煙車」は最初に喫煙有りき、の発想で
r
加者から「無駄かどうかは個人差がある J メール すよね。あれって非禁煙車に乗った非喫煙者はか
リストの削除をわざわざ宣言するのは、他の発言し なり辛いです。
ようとする者に冷や水を浴びせることになるのでは 最初に禁煙有りき、で「喫煙車」を 1編成に 2両
ないか」という非難が寄せられた。結局このメール くらい設定し、そのほかすべて禁煙車にしてほし
の発言者は 、自分の発言が軽率であったと謝罪する いですね。
メールを山し 、このやり方は自分には合わないとメ -日本でも弁護士が中心となって、タバコ訴訟の準
ーリングリストから脱会した 。 このような事態を受 備を始めたそうですね。
け「禁煙マラソン j事務局は、希望者にはアドバイ たぶん、タバコが原因で病気になった人を原告に
スメールと事務局通信のみを配信するサービスを始 たてて、集団訴訟を起こすつもりでしょう 。つい
めた 。 でに 、「タバコをやめる時の肉体的-精神的苦痛に
二 ヶ月間に渡る「禁煙マラソン」もいよいよゴー 損害賠償をリという訴訟も起こしてくれるとい
ルを迎え 、参加者から喜びと感謝のメールが届く。 いのですが。
参加者の中には禁煙に失敗して、 他の参加者に遅れ 自業自得というには、あまりにも真実を知らされ
てスタートした者もいるため、 8片8円のゴール日を ないままタバコを吸わされ、やめるにやめられな
過ぎてからもゴール宣言をするメールが寄せられ い人がこんなにいるなんて、損害賠償ものだと思
た。 いませんかっ
-皆様のおかげで、ゴールすることができました 。 こうして、「禁煙マラソン」プログラム終了後 1ヶ
どうもありがとうございました。 月間継続されていたメ ー リングリストは 9月 8日を
これかう、 OBGまたは、アドバイスメール等で もって閉鎖された。
おじゃまする機会を楽しみにしています。 なお、プログラム終了直後の 8月 9:
1
1に、事務局
また、 T先生を初めとする医師団の皆様へも“感 から参加者 2
28名に禁煙の成否を問うゴールインア
謝"“感謝 ンケートが送付され、そのうち 142~ろからアンケー
支援をよろしくお願いいたします。 卜が返送された。そのうちわけは、
本当にありがとうございました。 6}
'91
l lの禁煙マラソンスタ ー トから完全に禁煙し
-既にコールインして周囲後れ、道草組を待ってい ている ー・
…・ ・ … ….
・ …・ .…・…・・・… ・
…・…ー
・…9
5名
ただいている競走者の皆さんこんにちは。 途中から完全に禁煙している ・
…・ ・… ・
… 一.
23名
昨日 (8月 28日)、やっとゴールインしました。 一旦禁煙したが、また吸っている ……… …… 1 8名
T先生はじめ禁煙医療ネットの先生方、アドバイ 一度も禁煙できなかった… ….
.・. ・
..
……
H ・ … .4名
スありがとうございました。 ・ ……… …… ………ー2
無回答 …… …… … … …… 名
いまだ、仁丹をかじりながうの競走者ですが、気 であり、事務局は無回答や未返送者は失敗とみなし

38 ・人間文化
ネットワーク時代の健康教育を考える

たため 、この「第一同禁煙マラソン」における禁煙導 気を紛らわしたり、禁煙中であることを再認識して


入成功率は 1
181
228
=51
.7% と発表された。 禁煙を継続していく 。
4.r
l襟が見つかる
r
四. 禁煙マラソンJの長所と短所を考える 参加者はメ ー リングリストの中から、できるだけ
1.孤独感が減少する 自分に共通した要素を持っている者を発見し 、それ
参加者にとって他の参 加者の存在というのは、 を身近なお手本として励みとしたり参考にして自ら
「仲間 j 意識を与えてくれるものであろう 。パソコ の禁煙の継続に役立てている。
ンの前に座って、メールを読んで、いる時には、家や -禁煙 10日経週苦しみながうも順調に走行中
職場での禁煙に取り組む者は、たいていの場合向分 何人かのランナーが遅れだしてる様子
一人であるが、メーリングリストに送られてくる膨 やはり大きな第一関門は、七日前後のように感じ
大な量の メー ルを目にすることで、禁煙 に悩 んでい る。
るのは自分一人ではない、他にも大勢の人が自分と 私の場合、前を行くプレ禁煙者の M ai
lが一つの
同じように禁煙に取り組んでいるのだ、という自分 励みになりました。
の悩みを 共有できる者の存在に安心感を覚え、孤独 5.医学的 ・専門 的知識、当事者の情報を得ること
感の解消に つながっている。 ができる
2 すぐに反応がもらえる 参加者
ーは独自の禁煙方法を いろいろ考え 出 し、そ
参加者は、自分の発言に対して名指しで返事をも れをメーリングリスト上に公表した 。そうすること
らうことで、内分の存在を認めてもらえたと感じ で参加者が自分に合った禁煙方法を選ぶ際にその選
「禁煙マ ラソ ン」に参加し ている実感を得る 。疑問 択肢が増えることになる 。それらの禁煙方法に対し
や質問の メールに対しで も即座に返答があ るため、 て医師同から医学的な説明がなされることもあり、
不安がなくなる 。 参加者は正しい知識を身に付け ることができる。ま
.6月 12日 9:
32 参加者 A た、医師同からは禁煙方法だけでなく喫煙による害
ブレ禁煙かう六日目を迎えます。どなたか、下記 についても説明があり、参加者の禁煙に対するモチ
質問に答えて下さい!日の寂しさを紛らわすため ベーションを高めることとなった 。参加者からの体
に大量のミネラルウォーターを飲んでいますが、 調や心理面の変化の訴えに対しでも医学的に解説す
1日に 2リットルくらい飲んでいますが、これは ることで参加者 に大きな安心感 を与えた 。
体に悪いのでしょうか。水はいくう飲んでも良い -参加者 C
のでしょうか。 目下の禁煙の友は、なつかしの“仁丹"です。ガ
.6月 12日 1
プ・38 参加者 B ムは顎が痛くなるし、太りそうだということでこ
健康に関しては私はまったく素人ですが、もしご の友を愛用していますが、体への影響はどうでし
心配でしたう参考にして下さい。ミネラルウォー ょうか。またカロリ一面はどうでしょう 。アドバ
ターを 2リットル飲むのは、ダイ工ッ卜にいいと イス願います。
されていますし現に同僚の一人は 1日 1
.5リット -医師 A
ルをやせたい思いで飲んでます。また、水分を多 仁丹は、たばこに代わる物としては、非常に良い
く摂ることによって排j
世が促され、美容のために と思います。でも過度に愛用すると、その刺激で
は 1日 2リットル飲むこと、というのを聞いたこ 寝られなくなるのではないでしょうか。カロリー
ともあるます。 に関しては、殆ど無視できる位の物でしょう 。
だから、体に悪いどころか、推奨されることをな -参加者 D
さっているんだと思います。 吸いたくなると、ダイヤアイスをかじり、柿の穫
.6月 12日 1
8:3
6 参加者 A をばりばり食べます。
アドバイスありがとうございました。よーし、飲 (歯ごたえのあるものの方が、たばこの代わりに
むぞ一つ 。 なるみたいです)
3
. 危機回避ができる -医師 B
タバコを吸うことの代替行為としてメールの読み 確かにそうですね。歯が丈夫なう、セロリや人参
書きを行う者もある 。 メールを 読み書き することで のまるかじりが良いと、外国の禁煙手引き書には

人間文化・ 39
ネットワーク時代の健康教育を考える

書いてあります。要するに、口の中に刺激が必要 とができる 。
ですよね。 1
1. インターネットに加入していなければ参加でき
-参加者 E ない
歯の回り lmmほどが、きれいな p
ink
色になりま 「禁煙マラソン」がインターネットを利用した禁
した。これは、私の気のせいでしょうかつ歯茎は 煙支援プログラムである以上、パソコンを持ってい
きれいになりますかっ ない人やインターネットに 加入していない人は参加
-医師 B できない。参加者の中には自宅にパソコンがないた
良いことに気付きましたね。ニコチンが消えると、 め、会社のパソコンを利用して参加する者もいた。
歯茎だけでなく、全身の皮膚や、胃腸の粘膜まで 1
2.パソコンの扱いが不慣れ
つまり体の表面すべてに血行がよくなり、きれい パソコンの取り扱いに慣れていないため 、メ ール
になります。お肌も違ってきます。 の読み書きに時間がかかるという意見も有り、その
禁煙して早い時期に現れる、良い兆候です。 ため比較的時間の取れる土、日曜日にだけメーリン
6
. 他の参加者を助けることが自分の助けになる グリストに参加する者もいた 。パソコン初心者はメ
自分以外の参加者を励まし、禁煙継続を訴えてい ールに日を通すだけで精一杯にな ってしまい、自分
くことで円分自身に責任感が生まれ、結局、それが で発言することを控えてしまう可能性も有る 。また、
自らの禁煙継続のモチベーションとなっている 。 メールの送信間違いの問題もあった 。その他、メー
7
. 匿名で参加できる ルの未着や文字化けといったパソコンの機能そのも
メーリングリストへの発言は匿名でも 実名でも参 のに関する問題もある 。
加者の自由だ った。匿名での参加は 、他人に隠して 1
3.パソコンが喫煙習慣を思い出させる
喫煙している者の参加を促したり 、 もし禁煙に失敗 個人の喫煙習慣によるものと思われるが、今まで
しでも実名を知られることはないので気が楽であ の習慣から、パソコン使用中に 喫煙願望が強く出て
る。逆に実名を明かすことで自分自身にプレッシャ くることもあるようだ。 また、禁煙するためにタバ
ーをかけ、 禁煙継続に役立てることもできる 。 コのことを忘れようとしても 、メールを読んで、いる
8 非対面でコミュニケーションができる と内容がタバコに関係することばかりであるために
メール の発言以外には相手について何も情報を持 逆にタバコのことが忘れられず禁煙継続の支障とな
っていないため、相手の年齢や社会的地位など気に る場合もあった。
しないで自分の意見を述べることができる 。 また他 -パソコン扱ってると<火をつけたくなる>のです
人を励ます場合など、面と向かつて言うには照れる が、灰皿、その他の代わりに置いてある歯ブラシ
様な言葉でも、非対面のメール上でのやりとりなら を口に放り込み、紛らしています 0
あまり気にならない、ということも考えられる 。 ・禁煙は続けていますが、これだけメールが舞い込
9 日常生活を保ったまま参加できる んでくると、忘れていたはすのタバコがつい気に
主宰者である医師も「禁煙マラソン」を始めた理 なってしまいます。脱会を希望しますので、もう
由として挙げているように「病院まで足を運ばなく メール送らないで下さい。
ても、自宅や職場にいながらにして禁煙指導を受け 1
4. 主宰者の負担が大きい
られること」は、このシステムの大きな利点である 。 開催期間中は、メールが昼夜を問わず送られ、メ
インターネット上では物理的に移動したり、時間を ールの利点である「すぐに応答する」をいかすため、
取ったりする必要がなく、時間を選ばずに禁煙指導 また、数多いメールに対応するために、主宰者は常
を受けることができる 。 また喫煙習慣を隠している にメールに答えられる態勢を整えておく必要があ
ような人にと っても日常生活を保てるということは る。「禁煙マラソン」だけに専従しているのならまだ
「禁煙マラソン Jへの参加を促す要因となったであ しも 、主宰者側も平常の生活や仕事をこなしながら
ろう 。 対応するために、その身体的、精神的負担は相当な
1
0. 読み返すことができる ものであることが考えられる 。
メーリングリストを利用しているため、過去に送 また、費用の面においても事務局には多大な負担
られてきた、参加者や医師団からのアド、パイスや専 「第一回禁煙マラソン」では約 2千万 円
がかかり 、
門的な情報を必要な時にすぐ、何度でも読み返すこ の赤字を出した 。

40 ・人間文化
ネットワーク時代の健康教育を考える

1
5. メールが多い 情報を公開するのではなく 、選択的に触れあうこと
-メーリングリストかう脱会したいので宜し くお願 のほうが有効であるという報告もみられる illll。
いいたします。理由は、禁煙をあきうめたのでは
な く、あまりのメールの数の多さに僻易したから 区 .こ れ か 5の 健 康 教 育 ・ 健 康 学 習 の よ り 良 い
です。 条件とは
-大変興味深い企画でしたが、とにかく無駄 にメー 「禁煙マラソン」にみられた長所と短所から考え
ルが多いですね。皆さんかう送うれて くるメール ると 、有効な健康教育や健康学習実施の重要な条件
は事務局で取捨選択して、配信するメールは事務 として、参加者の匿名性と非対面性が守られること、
局からのものだけにしたらいかがですか? 日常生活が確保されること、緊急の援助要請にもす
このプログラムの最大の特徴であるメーリングリ ぐ対応する即時性のあること 、役割モデルが提示さ
ストには、医師団からのアドバイスメールだけでな れること、様々な立場からの情報が寄せられること、
く、禁煙とは直接関係のない、参加者の個人的な日 仲間の存在が認識できること、などが考えられる 。
常の人間関係や私生活の話題も多く含まれる 。 日常 しかし、実質的なかっ直接的な援助を必要とする人
生活を送りながら、それら全てのメールに目を通す や、文章では自分の症状をうまく伝える事ができな
だけでも 、かなりの時 聞がかかつてしまう 。 また、 い人にとっては、このメーリングリストという形式
自分の必要とする情報であるかどうかに │
謁わらず、 は好まれないことが推察される 。 さらに 、匿名性や
半ば強制的に送られてくる大量のメールに圧倒され 非対面性のもとで本音の発言を行っている参加者に
てしまうということもあるだろう 。そして、その量 とって、プライパシーとセキュリティの問題が今後
のせいで未読や熟読できないメールが増え、「読み の課題の ーっといえるであ ろう 。 メーリングリスト
たいのに、読めないjという 精神的な圧迫を感じる へ送られるメールの多さも 、そ れを励みとして楽し
こともある 。 める者もいれは¥逆にそれを 苦痛に感じる者もいる 。
以上から、この「禁煙マラソン」の長所と短所と また、パソコンを扱うための技術も必要とされるこ
して、次の点が挙げられる 。 となどが今後、改 善 されるべき点として挙げられ
長所 -孤独感が減少する る。
-すぐに反応がもらえる
.危機回避ができる 引用文献
・目標が見つかる 1)江口まゆみ、高橋裕子(1998)
禁煙マラソン.ジ
-医学的 ・専門的知識や 当事者の情報を得るこ ャストシステム.東京 .pp148
-1日.
とカfできる 2)GreenLWe
tal
18
( 8
0)he
alt
heducat
ionp
lan
nin
g
・他の参加者を助けることが自分の助けになる Mayfi
eldp
ubl
ish
ing,P
aloA
lto
.
.匿名で参加できる 3)平成 9年度厚生白書(19
97)
厚生省 .7
4-7
9.
-非対面でコミュニケーシヨンができる 4)久常節子(1988)
検診結果からの出発 成人病予
."
1
1常生活を保ったまま参加できる 防のための集団学習 ,効草書房:東京
-読み返すことができる 5)石川雄一(
1987)
地域での健康学習のシステマテ
短所 -インターネットに加入していなければ参加で イァクな取り組み 健康教育から健康学習へー.
きない 家庭医 3:3
07-
314
・メールの数が多い 6)川上善郎他 (
1993)
電子ネットワーキングの社会
I
3
長所として考えられる「匿名↑性生 J同



刻=対而性Jは
、 イ言官 房 東 京 , p
心理.誠 p.8
2-8
4.
悪意に利朋すれは 7)川浦康至 (
199
4)メディ アと してのコンピュータ
l
1

ことが予 測
I

日リ:
さされ
る 。 しかし、 この「禁煙マラソン」 コミュニケーション ,メテ守イ アコミュニケーショ
は善意の集団であったために 、「匿名性」ゃ「非対 ン,富士通経営研修所 .5
1-6
0.
面性」の悪用を免れたと思われる 。「禁煙マラソン」 8)前橋明 (
199
8)健康科学.明研図書 .岡山, pl
.
が参加者を登録制にし、事務局が参加者の連絡先を 9)松下拡 (
1990)
健康学習とその展開 保健婦活動
きちんと把握していたことも、「匿名性H非対面性j における住民の学習への援助一 切j草書房.東
が長所となり得た要因であると恩われる 。すべての 原

人間文化・ 41
ネッ トワーク時代の健康教育を考える

1
0)宮原伸 二(
198
6)これからの地域医療一「健康づ 1
991
. 医学図書出版:東京 pp85-
88
くり」の進め方.医学書院.東京. 1
7) 吉田亨,河円てる子,川田智恵子 (
199
2)患者数
11)森岡正博(1993)
意 識 通 信 .筑 摩 畜 房 :東 京 . 育の新しい考え方. プラクテイス 9,5
8-5
9.
p28. 8)吉田亨 (
1 199
3)健康教育理論の展開.健康教育-
1
2)望月裕美子 (
1997)
たばこと健康問題をめぐる最 保 健 行 動 (園 田 恭 一 他 編 ). 有 信 堂 高 文 社 .
近の話題. 厚生 1
0月号 1
997年
, 22-
24. pp18
-30
.
1
3)小 田誠一訳著 (
1990)
アメリカ禁煙率情健康 ・ 9)吉田亨 (
1 1994)
健康教育と栄養教育(l)健康教育の
体力づくり事業財団 .p
391 歴史と栄養教育 .臨床栄養 85
(3)
,31
7-3
23.
4)島内憲夫(1989)
1 生涯健康学習の構想,健康社会 20) き 回亨(1994)健 康 教 育 と Empowerment
学研究会編健康」ライフワーク論一生涯健康 Educ
ati
on.H
eal
thS
cie
nce
s10-
1,8
-11
.21
)21)
学科のすすめ一 .垣内出版:東京 .pp9-
31. 吉田亨(1995)健 康 教 育 の 潮 流 ー そ の 過 去 ・現
1
5)高橋裕子 (
1998)
禁煙指導の本 .保健同人社 :東 在・未来一.保健婦雑誌 51
(12)
,931-936.
京. p9
4.p17
5. (
注1)h
tt
p:/
/ww
w.e
ds.
eci
p.n
ago
ya-u
.ac
.j
p/o
the
rs/
nsnw/
6)吉田 亨,河口てる子,川田智恵子(1992)1
1 指導 (
注2)h
ttp
://
www
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s.o
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p/-nv
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p/p
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モデル j と「学習援助モデル J一患者数育の新し (
注3)h
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-momotan
i/d
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い展開に向けてー .佐々木英夫編 :糖尿病記録号 (
i主4)h
ttp
:// .
wwwlmahor
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.ne.
jp/
km/

Comment
ほそ ま ひろみち
細馬宏通
滋賀県立大学人間文化学部

電子会議室や娼示板には、特定のイベントに関す ステムという面から見ると、一般参加者対一般参加
る期間限定のものが散見される 。 その中で、「禁煙 者というコミュニケーションが健康支援システムに
マラソン 」 のメ ー リングリストは、「禁煙 j という どのような影響を及ぼしているかが重要なポイント
本来参加者個人に発生するイベントを「マラソン」 であり、逆に電子コミュニケーションという面から
という'JI~ で同期させるという、ユニークな形をとり 見ると、主宰者対一般参加者の比重が大きい点が通
ながら成果を挙げつつある 。本研究で取り上げられ 常の電子会議と異なっている O これらの交互作用に
ている事例でとりわけ興味深いのは、「禁煙マラソ ついてより詳細な発言分析することで 、健康教育、
ン」においては主宰者対一般参加者、 一般参加者対 電子コミュニケーション研究双方にとって興味深い
一般参加者といった、質の異なるやりとりが禁煙支 知見が得られるだろう 。今後の本研究の発展に期待
援という目標に効果を及ぼしあう点だ。健康支援シ したい。

42 ・人 間 文 化
トピックス





持久運動能力を増進させる 岡 本

食品の新しい機能
人間文化学部 生活文化科 人間関係コース

1,はじめに 作用や効果については殆ど研究が行われておらず、
食品に関する価値観は時代 とともに変化 し、食品 動物実験での効果から推定している場合が多い。 こ
従前戦後の
の研究もそれに呼応して推移してきた 。j
l れは、ヒトの健康や福祉が謀題である栄養学の分野
物のない│時代には、食品の栄養学的価値は社会の最 で、ハードな手法での人体実験は倫理的に主Ilしいた
大関心事であり、実際、乳幼児死亡率 、結核擢患、率 めであるが、ヒトと実験動物での知見が必ずしも 一
も高〈、栄養の知識の普及や食生活の改葬が最重要 致しない場合もあることは容易に推察できる 。動物
課題であ った。 実験や分子レベルでの研究とともに非侵襲 -
非観血
戦後、高度経済成長期に入ると、食品のおいしさ j
去によるヒ 卜実験系の疎立が急務と思われる 。
を求める風潮が現れ 、それ に伴い、味覚や l
奥覚に関 現在、栄養学におけるヒトを対象とした健康栄養
する食 J
I
l成分の研究が盛んにおこなわれるようにな の研究に新たな実験法と方向性を 模索している最中
った。 であるが、ここ では 、これまで殆 ど研究されていな
そして、ここ 2
0年は、 高齢化社会の到来が現実の かった 『ヒ ト実験系』 にお ける食品 の生体調節機能
問題として認識され、ライ フスタイルの変化
、 特に を運動持久能 )
Jの評価指標の視点から検討した実験
食生活の欧米化により 、 ガン、心疾忠、)j必管疾患 、 を紹介したい。
高血圧性疾患等のいわゆる成人病 (
最近では、生活
宵慣病と名称が変更された 。
) が急増してくると 、 2,実験方法
食品の食べ方を工夫することによ って、病気を予防 被験者は 、日 常特に運動していない健康な 5人の
したり、健康を維持したり 、更に健康を増進したい 年 齢2
滋賀県 立 大学男子学生 ( .2:
1 t1.1才、身 長
と考えるようになってきた 。 この考え方自体は、特 71
1 .5:
t6.
04cm、体重 61
.5士 5
.5kg)で、ヘルシ
に新しいものではなく 、『医食同源 JとH
手ばれて 、 ンキ宣言 に同意し 、実験に参加し た。試料は 、市販
日本でも西洋医学が導入され るまで、,1
1くから生活 の一味トウガラシ 0. 5g (
実 測カ プサイシン含量 :
に定着していたもので ある 。 .25mg) で、運動 1
1 時間前に摂取 させた 。実験の
最近の研究では 、食品 中の成分が免疫系、分泌系 、 プロトコールは 、安静 60分、運動 30分、回復 1
5分で、
神経系、循環系 、消化系 とい った生体の生理系統を 重量力はエルゴメ ー ター (
i ERGOMETER 232C
xl)
制御することが次第に 明 らかにされ、食品の生体調 を使用し、事前に各個人の VO, max (
最大酸素摂取
節機能(第三次機能) として注目されている 。 量) を測定しておき 、それぞれの 50%V02maxの負
しかしながら 、栄養学の分野では、実際ヒトでの 術強度で、行 った。 コントロールは、同 一被験省に対


18 1
.4

1600
1
.3
吉14∞
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: 1
.2
E12∞
刷10∞ 慢
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醤 800
l
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器600
鐙 400 0
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200
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ロ F,申

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。円・曲何

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ロ F・岨

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ロ円目岨何

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凶 FEFF

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同 N
ロ F
6

F 岨 F
F 岨 F 刊

"
'
時間 (mln)
時間 (mln)

安静 1
+一一一一一一一運動一一一一→1--回復一一.
1 安静 1
+一一一一一一運動一一一一--+1←一一回復一一+
1

図 -1 トウガラシ領取が運動強度 50%V02 max負荷 図 -2 トウガラシ摂取が運動強度 50%V02


max負荷
時における酸素摂取量へ及ぼす影響 時における呼吸商へ及ぼす影響
トウガラシ 0.5g、コントロールは水のみを投与し、 トウガラシ 0.5g、コントロールは水のみを投与し、
1時 間 後 に 工 ル ゴ メ ー タ ー に よ る 運 動 強 度 50% 1時間後にエルゴメータ による運動強度 50%
V02maxの負荷を与え、運動 30分および回復期 15分の V02
maxの負荷を与え、安静時、運動前、運動 30分終
呼気ガス中酸素摂取量を経時的に測定。 了後および回復期 15分後の血中遊離脂肪酸を測定。

人間文化・ 43
持久運動能力を増進させる食品の新しい機能


、 トウガラシ摂取なしで、 トウガラシ摂取実験の ガラシを摂取させた時のエネ ルギ一代謝丑およびエ
1週間前あるいは 1週間後に同測定を行った 。指先抹 ネルギ一基質の燃焼割合への影響について、 図-1
消血管からの採血を行い、小型血糊測定器(京都第 と図-
2に示す。
一科学株式会社製 グルテストエース GT-1630)、 酸素摂取量 (
VO,
) を見ると、運動後半の 1
5分間
簡易血中乳酸測定器 (
京都第一科学株式会社製 ラ でトウガラシの方がコントロ ルより低い傾向にあ
クテートプロ LT-1710tm) を用いて、血糖値及び った。同じ運動負荷であれば、使われたエネルギー
乳酸値を測定した 。指先からの採 J
Ulは運動期に 5分 は同じであるにも関わらず、消費エネルギーが少な
おきに行い、腕静脈からの採血では、アドレナリン、 くてすんだのは、運動効率が上がったことを意味す
ノルアドレナリン、ドーノ Tミン、トリグリセライド、 る。 このような効果はトレーニングを積むことでも
遊離脂肪酸を測定した 。腕静脈採 J
]は
f
i 、 トウガラシ みられ、持久運動能力の増強の指標のひとつと考え
摂取直前、運動開始直前、運動終了直後、回復期直 られている 。
後の4
回行った 。 呼吸商 (
R)は、運動前の安静期から運動、回復
エネルギ一代謝の状態は、ミナ卜医科学株式会社 期にかけてトウガラシの方が常に低い傾向にあっ
の呼気ガス分析装置により測定開始直後から測定終 た。本実験は、 1
2時間以上の絶食状態で体内に糖質
了までプレスパイプレスで測定した 。心拍は 3点電 が枯渇した状態あると推定されるが、 トウガラシ摂
極心電同装置 (
Bio
vie
wE 2
E61VX NEC製) を使 取により、脂肪が同 一人物、同一運動のエネルギー
用し、 i
l
iJ定開始から測定終了までL連続で点J
I定した 。 源として、より多く利用され、グリコーゲンの節約
効果の結果、持久運動時間の延長が期待できる結果
3,エネルギー代謝かう持久運動能力を評価する とな った。
運動持久力は 、身体の多くの筋群が比較的長時間 血 中 の 遊 離 脂 肪 酸 レ ベ ル (図-3) を見ると、 ト
の運動継続のために用いられるような身体作業能力 ウガラシ摂取 l
時間後また運動中でコントロールよ
を意味する 。運動を継続するためには、筋の収縮に り増加傾向が見られ、 トウガラシ摂取により脂肪細
必要なエネルギーを絶え間なく供給しなければなら 胞からの脂肪の動員が活発になり、脂肪がエネルギ
ない 。遂行される運動が、十分な酸素の伊、給下で実 一基質として利用されていることがこの結果からも
施される場合は、基質として用いられるエネルギー 示唆された。
源の貯蔵量とトレーニングの程度が運動時間の制限
因子となる 。 この場合、代謝は糖質と脂質の酸化系
で、代謝過程で多くの ATPを生成し、筋の収縮に 1.
0
必要なエネルギーを供給する 。 ~ 0
.9


糖質は、肝臓と筋にグリコーゲンとして、血液に c' 0
.8
UJ

グルコースとして貯蔵されている 。 しかし、その量 E 0.
7

には限りがあり、すべて利用したとしても 7
00k
cal 悩 O6

I
!
G
程度の量である 。それに較べ、脂質は、筋や皮下に ~ 0.
5
益 0.
4
2万 k
脂肪として蓄えられ、一般のヒトでも 1 cal以上 題
議 0
.3
の貯蔵誌がある 。長時間の運動を継続するためには、 │
十トウガラシ
この脂肪の燃焼割合を増加させ、グリコーゲンを節 --0ーコントロール
約してやれ l
まよいことになる 。
ヨ 0
.1
0
.0
運動に使われたエネルギ一代謝量は酸素摂取量 運動直後 回復後
安静 運動前
(VO) で、使われた基質がなんであったかは、 1
, 1
芋気
中の酸素と 二酸化炭素の量を測定し、空気仁JIの酸素
と二酸化炭素の量との差から、体内で利用された椴 図 3 トウガラシ摂取が運動強度 50%V02
max負荷
時における血中遊離脂肪酸へ及ぼ.す影響
素量と産生された二酸化炭素量の比で求めることが
トウガラシ 0.
5g、コントロールは水のみを投与し 、
できる 。二酸化炭素と酸素の比を呼吸商 (R) と呼 1時間 後 に工ルゴメーターによる 運 動強度 50%
び、呼吸商が小さいほど、脂肪の燃焼率は高くなる 。 V02
maxの負荷を与え、安静時、運動前、 運動30分終
ヒトが持久運動を行うなかで、比較的少量の卜ウ 了後および回復期 15分の心拍を経時的に測定。

4
4 ・人間文化
持久運動能力を増進させる食品の新しい機能

4,心肺機能かう持久運動能力を評価する ルアドレナリン、副腎髄質からは主にアドレナリン
心拍数は安静時には低く、一般に 6
5-7
5拍/分程度 が分泌され、心拍出量の増加や肝臓や脂肪組織から
であるが、運動時には増加する 。増加の程度は運動 のエネルギ一基質の動員と活動筋のエネルギ一利用
強度にほぼ比例する 。従って、心拍数は生体負担度 を促進する O これらのホルモンは 40%V02
maxを越
の指標となる 。 また、 トレーニング効果として観察 える時点から、運動強度に依存して直線的に増加し、
できる心拍の変化は、安静時の心拍数減少、運動時 また、 一定強度の運動を長時間続ければ続けるほど
心拍の減少、心拍数の立ち上がりの加速、運動後の 分泌は増加する 。 しかし、持久的トレーニングを積
心拍回復の加速などがある。 むことにより、これらのホルモン分泌量は低下する
図-4に
、 トウガラシ摂取が心拍数 (
HR)に与える影 という応答の変化が認められる 。
響を示した 。 トウガラシ摂取によるアドレナリンとノルアドレ
運動期から回復期にかけての心拍数は 、 トウガラ ナリン分 J
必への影響について、 図-
5、図 -
6に示した。
シのほうがコントロ ルに比べ低い傾向にあった 。 血中アドレナリンは、運動期から回復期にかけて
これは、心臓への負担が少ない状態で同じ運動を行 トウガラシの方がコントロ ルより低かったが、ノ
えたことを示している 。 ルアドレナリンについてはコントロールとほとんど
心拍数の減少は運動対応能の増大の証拠であり、 差はなかった 。
トウガラシ摂取により、 トレーニングによる持久力 ラットでは大量のカプサイシ投与により副腎から
の向上と同じ効果があることを示唆している 。また、 カテコールアミンの分泌が増加し、それに伴って脂
図では、 5分間の平均を示しているため、立ち上が 質酸化が高まり、エネルギ代謝が増加すると報告
りがはっきりしないが、 l
分ごとの平均ではトウガ されているが I1、今回のヒ卜を対象とした実験で少
ラシの方が早く、回復度も早かった 。 量のカプサイシン摂取は、逆にカテコールアミンの
1
70 うちアドレナリン分 i
必だけを減少させた。
この現象によって、今回確認された心拍数や酸素
1
50
摂取量の減少の一因を説明できると思われる。また、
:1
c 3
0 壁
漢方でのトウガラシにみられる消化管運動充進、 l
ε

1
i 110 i
夜、胃液分泌の促進作用 21といった薬効とも一致す
0
.0 る。 トウ力ラシ O
.5gといった摂取可能な量では、興
9
0
g


ウン
ガ卜
トコ

・ン一

奮状態にさせるというよりもむしろリラァクス状態
フロ


:J

70
にさせると考えられる 。
50 0.
09
ロ FE岨
ロ F,岨

ロ円・岨同

回 FEFF

I
t) I
t) 0 I
t)
{EBE) 入﹁ ホ



F "
' "
也 ' F

o 0.
08
nunu
nunu
'
ヲ eo

時間 (mln)

安静い一一一一一一一運動一一一一→い一一回復ー→│
0.
05 I
一一 一一
+→ <-/
-E

図 4トウガラシ摂取が運動強度 50%V02 max負荷


0
.04
時における心拍へ及ぼす影響
L A h岳 回 同

トウガラシ 0. 5g、コントロールは水のみを投与し 、 0.
03
1時 間 後 に エ ル ゴ メ ー タ ー に よ る 運 動 強 度 50%
十十

0
.02
V02maxの負荷を与え、運動 30分および回復期 15分の 0
.01
心拍を経時的に測定。
0.
00
安静 運動前 運動直後 回復後
5,内分泌系応答か 5持久運動能力を評価する
運動時には、エネルギー増加に対応して、身体の 図 -5 トウガラシ摂取が運動強度 50%V02
maxの負
恒常性を維持するために 、交 感 神 経 副 腎 髄 質 系 の 荷時における血中アドレナリンへ及ぼす影響
トウガラシ 0.5g、コントロールは水のみを投与し 、
興奮で応答する 。 この情報伝達を媒介するのがカテ
1時 間 後 に 工 ル コ メ ー タ ー に よ る 運 動 強 度 50%
コールアミン (
主にノルアドレナリンとアドレナリ V02
maxの負荷を与え、安静時、運動前、運動 30分終
ン) と呼ばれるホルモンである 。交感神経からはノ 了後および回復期 15分後の血中アドレナリンを測定。

人間文化・ 45
持久運動能力を増進させる食品の新しい機能

.2
1 つで、感覚神経の刺激を介して、食物の晴好性を高
めたり、食欲増進などの薬効がある 3'。近年、その
E 1.0 一ーー トウガラシ 多くの生理機能が科学的に実証されてきた 。

、 ーι ーコントロール
E トウガラシ中の辛味成分カプサイシンは、中枢神
0.
8
入 経活動を通して副腎髄質からカテコールアミンの分




+ 0
.6 泌(特にアドレナリンの分泌)を高め I1、その結果、

t
O

4 脂肪分解が促進し 1 、グリコ ーゲンの節約に効果を
与え 5 、エネルギー供給がラットの持久運動能力を
増加させる かと報告されている 。 ヒトの場合のトウ
¥0.2 .1
岳 ガラシ多量摂取は、運動時に及ぼす影響として、脂


。 肪酸化より、むしろ糖酸化を高めることを報告して
安傍 運動前 運動直後 回復後 いる 。
"
図 -6 トウガラシ摂取が運動強度 50%V02
maxの負荷 これ らの実験の条件は、対象がヒトやラ ット ・マ
時における血中ノルアドレナリンへ及ぼす影響 ウス、食餌が低脂肪食や高脂肪食、試料がトウガラ
トウガラシ 0.
5g、コントロールは水のみを投与し、 1 シヤカプサイシンそのものであったり 、 また、その
時間後に工ルゴメーターによる運動強度 50%V02
max
の 投与量も大きく異なる O
負荷を与え、安静時、運動前、運動 30分終了後および回
しかしながら、日常摂取している量のトウガラシ
復期 15分後の血中ノルアドレナリンを測定。
が生体にどのような影響を与えているのかについて
6,その他の運動持久能力増強効果評価法 は報告はなく、興味深い問題で、ある 。
筋への酸素やエネルギ 一基質の供給システムを支 そこで、比較的少量のトウガラシ摂取が、生体に
えているのが呼吸循環器系である 。呼吸循環器系の 与える影響を検討した結果、心拍数の低下をもたら
機能的能力は、酸素摂取能力 (
酸素運搬能力)によ す新たな機能が明かとなった。 また、 トウガラシ
り評価している。具体的には、 i
斬増運動負荷を行い、 の少量摂取がむしろカテコールアミンの分泌量を減
呼気ガス中の酸素量を定量して得た最大酸素摂取量 少させることがわかった。
(V02Dlax) が指標となる。トレーニングにより 、 更に、 トウガラシが心肺機能の増進、内分泌系に
最大酸素摂取量は増加する。 大きく影響していることが示唆された 。一方、血液
また、骨格筋の代謝能は糖質の最終産物である乳 成分から見て、このレベルでのトウガラシ摂取でも
酸値で評価できる 。 トレーニング効果で血中乳酸濃 生体の状態、例えば、飢餓状態のように体内に糖質
度低下や LT (
乳酸関値.乳酸蓄積開始点)のプラ が枯渇した状態では 、糖質代謝や脂質代謝に幾分の
スシフトがみとめられるが、酸素利用性の増加によ 影響を及ぼすと思われた 。
るものではなく、乳酸の除去促進と乳酸産生抑制と 以上、 トウガラシ摂取が心拍数の低下、脂質代謝
考えられている O これらの指標に対するトウガラシ 充進による糖質の節約などを誘発することから運動
の効果については、別の機会に紹介する 。 強度 50%V02maxのような中度の持久運動では、持
その他、今回検討を行った指標は、血圧、各種疲 久力の増強の向上が期待できると考えられる 。
労度チェッ夕、血糖値測定があるがここでは省略す 踏み台昇降を行った実験では、同じトウガラシ量
る。 また 、現在測定は行っていないが、心拍出量や の投与でもトウガラシ摂取の効果は、本実験より更
エネルギ一代謝に関わるホルモン等についてもおも に明かで、運動の種類や運動強度によっては、 トウ
しろい結果が得られると思われる 。 ガラシが持久運動に与える効果は一層期待できると
思われる 。 また、摂取量、摂取方法、運動負荷等と
7, トウガラシがヒトの持久運動能力を増進さ の組み合わせ効果についても今後明らかにしていき
せる可能性 たいと考える 。
食品中の栄養素でない成分『非栄養素』の新しい
機能として、香辛料、特にトウガラシのエネルギー 8,まとめ
代謝克進作用が話題になっている O
これまで、精神主義を重視してきたわが国スポー
トウガラシは最も広く使われている香辛料のひと ツ界でも、最近になり、やっと競技力向上において、

46 ・人間文化
持久運動能力を増進させる食品の新しい機能

トレーニングと並び、食事管理の重要性が認識され i
nanest
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izedra
ts.
Pro
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oc.E
xp.Bi
o.
lMed.,1
88,
はじめ、選手やコーチの栄養に対する知識や関心も 2
29-
233,(
198
8).
高ま ってきた 。 しかし、スポーツ選手のようなエキ 4)Kawada,
,H
T
. agihata,
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K
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K.:Ef
fec
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スパートだけでなく、一般の人々や高齢者が健康の c
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維持・増進を目的として行う運動が安全かつ効率的 f
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16,
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2-1
278(
198
6a)
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に遂行されるために、日常摂取している食品成分の 5)L
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生体に及ぼす影響を明らかにしていくことは重要と Tanaka,
H.,Shindo,
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考える 。 pepper i
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7, 参 考 文 献 MedicineandScienc巴 i
nSportsandExercise
1)Kawada,
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Tanaka 29
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335
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1,(997) .
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23,(1997
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2)竹 田 忠 紘 、 吉 川 孝 文 、 高 橋 邦 夫 、 斉 藤 和 孝 , 7)Yoshi
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. ikuz
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S.刈
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aKiy
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「天然医薬資源学」、第 2刷、贋川書府、(1997) A
.,Tanaka,
H.,Shindo,
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工Sakabe,
3)Kawada S川T
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n巴

Comment
なだ もと とも のり
灘本知憲
滋賀県立大学人間文化学部

この報告は、専門外の人にも分かり易く読めるよ はめることの恐さである。何段階にもわたる│臨床検
う意識している 。 それでも 、一般の人から見れば、 査を経た医薬とは異なり、一般の食べ物の適否は、
しばしば現れる専門用語が理解を妨げるかも知れな 長い食生前の歴史で獲得した経験が頼りとなってい
い。私たちにとって、特定の専門的知見を予備知識 る。 断片的な科学的?情報を基に、経験を破棄し特
のない人に説明するのは至難の業である 。 それにし 定の食物を多量に摂取することは危険であろう 。
ても、昨今の健康ブームのなかで、だれしも 一度は さらに、食べ物に備わっているとされる 三次機能
マスコミなどを通して、とうがらしの作用について の意義は何であろう 。 よもや食べ物が、それを食べ
耳にしたことがあるだろう 。記憶のいい方は、その てくれる動物や人をおもんばかつて、生理機能を持
内容がこの報告と幾分違うことに気付いているはず つ成分を含んでいるとは思えない。生命の長い歴史
である 。 の中で、私たちは食物中の特定の機能成分を認知 l
し、
この報告から、私たち はいくつかの知見と教訓を 利用するしくみを築いたのであろうか 。 それとも、
得ることができる 。 これらは広たちの生理システムに偶然介入し(恐ら
始めにマスコミを通した健康情報が必ずしも、専 く は 私 た ち の 体 内 物 質 と 構 造 が 似 て い る が 放 に )、
門内では認知 l
されたものではないということであ 混乱させているのであろうか。 このところ問題とな
る。 おそらく私たちの専門以外でも同様で、
あろう 。 ってきた環境ホルモンとも重なるようで、興味は 尽
それ故、情報の取捨選択は極めて重要で、ある 。 きない 。
次に、動物を使った実験結果をそのまま人にあて

人間文化 ・ 47
論文

ドクダミの防臭・消臭作用について 浦部貴美子
人間文化部 生活文化学科 食生活コース
新しい素材としての野草-

1.はじめに の湿り気の多い場所に自生する多年草である 。そし


動物である人間にとって「におい」の存在は、本 て初夏に、 一見花弁のように見える白い 4枚の総直
来食べ物を探したり、敵の存在を早く見つけたり、 の上に、黄色い穂状花序をつくる 710
生存していくために必要な指標であったに違いない。 ドク夕、ミは「毒矯み j に由来した和名であるが、
しかし、現代社会においては生きていくために必要 乾燥したドクダミは 「ジュウヤク j とも称される 。
不可欠なものではなくなったものの、別の意味で私 中国名の「鼓 (しゅう )
J によるが、わが国では十
たちの生活と深く結び付いている O 朝食の味噌汁や 種の薬に値するという意味から、同音の「十薬」 ま
炊けたご飯のにおい、コーヒーのかおり、通勤電車 たは「重薬 j とされている ヘ しかしながら、実際
の中の汗のにおい、排気ガスのにおい、腐ったゴミ の薬理効果は 1
0種以上にも及んでいる。昔から家庭
のにおい…… 我々の生活は実に多くのに おいに満 常備薬草として、挟んだ生業を火にあぶって腫物に
ち溢れている 。最近では、人々は環境のさまざまな 貼った り、乾燥したものを煎じて薬用茶として広く
においに対して敏感であり、臭気に対する苦情は産 利用している 9叶が、日本薬局法では「利尿、緩下、
業型から都市型、さらに生活型に変わってきた i と 解毒薬として煎用する」とある)
)J この利尿作用は、
されている 。 日常生活と密接に関連した悪臭が苦情 フラボノール誘導体であるクエルシトリン (
葉に含
の対象となってきている O すなわち、不快なにおい まれる ) とイソクエルシトリン (
花穂に含まれる )
を避けて快適なにおいを生活に利用し、情緒豊かに によるものである 12凶
。 このクエルシトリンとイソ
生活したいとする傾向がますます強くなっているよ クエルシトリンは、このほか腸内細菌、糸状菌に対
うである。 する抗菌作用 )
.
)、抗炎症作用 i引、緩下作用 刷"など
不快なにおいに対応する方法には、悪臭物質と直 の薬理作用を示すことが報告されている 。
接反応してにおいを消す方法、においの発生そのも ドクダミの生葉には特有のにおいがあり、このに
のを抑制する方法、また強いかおりによって臭気を おいを好まない人も多い。 しかし、このにおいは乾
マスクする方法などが考えられる 。一般的には古く 燥することによって揮散するため、乾燥したドクダ
から、芳香性の高い植物をマスキング剤として用い ミではこの臭気は感じられず、茶として飲用するこ
たり、炭、茶がらなどを脱臭剤として利用したりし とが可能となる 。 この臭気の主成分はデカノイルア
てきた。近年になって、人に不快感を与えるにおい セトアルデヒドやラウリルアルデヒド )81 といった
を積極的に除去する目的で、脱臭技術や脱臭剤の開 脂肪族アルデヒド類であるが、 ドクダミの生葉の殺
発が行われ、食品や生活用素材の中に応用されてき 菌作用は、このデカノイルアセトアルデヒドの強い
ているが、環境や人に対する安全性志向の面から天 抗菌作用によるものである 凶

然物由来のものに求める傾向にある。そのため植物 一方
、 ドクダミは薬用として利用される以外に、
そのものの消臭性に着目し、植物あるいは植物抽出 昨今の山野草ブームによって食用とされることもあ
物を対象とした研究2寸)も多くなっている 。 また実 る。生葉特有の強いにおいをのぞくために、茄でた
際に、植物抽出物を使用した消臭・脱臭剤としてさ り油で、揚げることによって食べることができる。著
まざまな樹木の乾溜エキスを利用したものや、茶、 者らがドクダミに含まれる栄養成分の分析を行った
山茶花、柿などの葉の抽出物を利用したものが用い 結果では、カロチンやビタミン C、そしてカルシウ
られている 九 ム、鉄、カリウム、マグネシウム、マンガンといっ
本稿では、今まであまり検討されなかった野草と た無機質が豊富に含まれており 凶、栄養的には 一般
いう素材より防臭あるいは消臭に有効な成分を見出 の市販野菜に劣るものではなかった 。 またこのほか
し、さまざまな分野での利用を考える、という観点 に、脱臭剤として経験的に古くから利用されている
で、行ってきた研究の中から、ドクダミの防臭効果と、 所もあるが、その作用機構や有効成分についてはま
さらにその他の野草についての消臭効果について述 だはっきりとした解明がなされていない。
べることとする。
3 ドクダミの防臭効果
2 ドクダミについて 著者らはこのドクダミの脱臭効果に着目し、「ブ
ドクダミ (
Hou
ttu
yni
aco
rda
taThunb, ドクダミ科) タ小腸の保存臭発生機構と天然物による抑臭効果」
は日本中いたるところに分布し、山、野原、庭など に関する研究 20 においてブタ小腸保存中の悪臭発

48 ・人間文化
ドクダ ミの防臭 ・消臭作用について

9 新鮮物
1
2

生抑制への添加効果について検討してみ た。食用と
される畜産副生物の 中で、内臓類は良質のタンパク
質、ビタミン 、 ミネラルを豊富に含む 、栄養的に恵
まれた貴重な食糧資源で ある。 しかしな が ら、わが
国では食用 としての利 用は必ずしも十分ではない 。
その利用拡大を妨げてい る主な原因のひ とつが、急
速な鮮度の低下とそれに伴 う悪臭の発生 にある 。著
者らが実験対象としたブ タ小腸は、畜産副生物の 中
でも特に臭気発生が著しく 、新鮮物は無臭にちかい
が、室温 (
20C) に置くと 半 日後には特異的なにお
0

いが感じられ 、l日後に は強 い悪臭となる 21) (


表1)。
この急速に発生する揮発性成分の主要な 成分はメチ
ルメルカブタン 、エタノール 、プロノ Tノール、3ー

チルブタ ノール、 3メチル ブタナールと考えられた
図 1)、官能的な特徴 から 、 ブ
が、経時 的 な変化 (
1
0 20 30 40
タ小腸保存 中の悪臭の主成分はメチルメ ルカプタン 保持時間(分)
である M と考えられた 。
図 1ブタ小腸揮発性成分の保存中の変化
1 メチルメ ルカプタノ 8 ジメチ J
レジサ J
レ7ァイド
表 1 家畜内臓類の臭気の官能的観察白) 2 エタノ ーJレ 9・ヘキサナル
3 プロパノ ル JO: 1 ヘキサノール
保存期 間 (日) .プロ Jマノーノレ
4:J lJ へプタナール
臓器部位 5:3ーメチルプタ ナ レノ J
2 未同定
O 2 6 ベン タナ ル 3 オク タ ナ ル
1
7:3.;
1チ Jレ [-プタノール 4・ノ ナ ナ ル
J

小 腸 + +++ ( 酸
か+すか+に臭)
+
ブタ
大腸 + +十+ (
か十
すか十
に十酸
臭) 菌群の増殖とメチルメルカブタンの発生を顕著に抑
小 腸 + 十十 +++ 制し (
図2)、 また官能的にも悪臭は感じられなかっ
ウ た。 このドクダミの著しい防臭効果は 、嫌気性菌群
ン 大 腸 ± ++ +++
の増殖抑制だ けによるものではなく、メチルメルカ
ブタ 肝 臓 士 ++ (
か村+
、に酸
+真) プタンに対 す る優れた消臭作用 にもよることが明ら
1)保存温度 20"C かになった口
)。なお、この実験では乾燥物を用いて
2) 悪臭についての官能評価は次のように表した 。 いることから 、嫌気性菌群の増殖抑制作用にはデカ
;なし,土 ;非常に弱い,十,弱い,
十十 ;中等度, +++,強い ノイルアセ トアルデヒド以外の新たな抗菌性成分の
関与も考えられる 。
この悪臭の発生は 、屠殺後の洗浄で、残存している
ブタ 小腸常在菌に由来 す る嫌気性菌の著 しい増殖に 4. ドクダミのメチルメル力ブタンに対する消
起因するものである 却。 したがって 、残存している 臭作用
微生物(特に嫌気性菌) を殺菌する 、あるいは増殖 ブタ小腸保存中の悪臭の主成分であるメチルメル
を抑制する ことによって 、悪臭の発生を 抑制するこ カプタンのにおいは 、一般 的には 「
腐った玉葱のよ
とが可能であると考えら れるO 食品添加物 として許 うなにおい j という表現で特徴づけられる 。 アンモ
可されている BHA、デヒド ロ酢酸ナ トリ ウム、亜 ニア、硫化水素 、硫化 メチ ル
、 トリメチルアミンと
硝酸ナト リウムなどの試薬類 (
ただし 、ブタ 小腸が ともに「悪臭防止法 j で指定された悪臭 5大物質で
直接の使用対象とはなっ ていない)の添加 を試みた ある 。 中で もメチルメルカプタンの閥値(物質のに
が、使用許可基準量 内の添加では悪臭発生を抑制す おいを感じる最小濃度) は7X105ppm と小 さく (ア
ることはできなかった 。 しかしながら 、 ド ク夕、ミ~l: ンモニアは 3X l
O"ppm) 2l

J、 わずかな量で感じられ
ブタ 小腸重量の 1
燥物の添加 ( /1
0量) は
、 嫌気性 る。 また 、われわれの呼気 中に多量に検出される成

人間文化・ 4
9
ドクダミの防臭・消臭作用について

エタノール量
(ロダヘッドスペースガス 1m!)

ドクダミ

ン トロ ー

7 1
0
メチルメルカプタン量 生菌数(l
og[
個/g
])
(
ngヘッドスペースガス 1ml)
l

図2 保存ブタ小腸の悪臭発生に及 l
ますドクダミの効果23)

E富田.メチ jレ
メJ(カブタン;gg
, ヨ.エタノ ーJレ
;
・・,一般細菌;~.嫌気性菌群;亡コ,酵母

分のひとつがメチルメルカブタンであ り、このメチ 類のメチルメルカプタンに対する消臭効果詔到 など


ルメルカプタンの濃度と口臭との聞には高い相関関 が報告され、すて、に食品や室 内消臭斉I
へ利用されて
J
係のあることが明らかにされている 25'26 メチルメ いる 。 ドクダミについてはト リメチルアミンに士ナす
ルカプタンは口臭の主成分でもある 。 る消臭効果引が報告されているが、その消臭活性成
奥覚に頼る官能的
消臭効果の評価方法には、人の I 分に関する報告はなく、またメチルメ ル カブタンに
な方法と分析機器によるにおい成分の測定がある 。 対する消臭作用に関 しでも明かにはされていなかっ
著者らはより客観的な評価方法として後者を選択 た。 これまでに見出されている消臭性の植物抽 出物
し、指標となる悪臭成分をメチルメルカプタンとし は、緑茶と同様にポリフェノール化合物を活性成分
て消臭効果試験系 (
図 3) を設定し 、 ガスクロマト とするものが多い九 緑茶中のポリフェノール化合物
グラフ分析により消臭力を評価した 。 は茶カテキンとして 1
5-20%含まれている 則
。 著者
ドクダミのメ チルメルカプタンに対する消臭力は が求めたドクダミの熱水抽出 物 に含まれる 全 ポリフ
著しく高く、すでに消臭作用が明らかになっている エノール量は 7
.9%であった 。 ドクダミ熱水抽出物に
緑茶に匹敵するものであった (
表2)。茶の消臭作用 含まれるポリフェノール量と 消臭力の関係を調べ て
は古くから経験的に知られていることであったが、 図4)
みると ( 、全 ポリフェノール量とそれにともな
緑茶フラボノイドによる消臭作用 回、緑茶カテキン う消臭力の変化は同様の減少傾向を示し、ポリブエ

│ヘッドスペースガス 2m
蜘│

ーーーー一歩

撹枠 (5秒間)
反応 (37"C恒温槽
,1
中 0分間)

図2 消臭力の測定系

50 ・人間文化
ドクダミの防臭・消臭作用について

ノール量の減少が消臭力の低下をもたらしたものと い消臭効果が認められ、またスベリヒユ(スベリヒ
考えられる。しかし、残存しているポリフェノール ユ科) とオオハコ (
オオバコ科)にも有効であると
量が元の 約 1/4にな ったにもかかわらず、 消臭力は 考えられる消臭力があった(表3および表4
)。
84%から約 3/4の61%の減少にとどまったにすぎな
表3 植物のメチルメルカブタンに対する消臭力
い。 したがってドクダミの消臭作用にポ リフェノ ー
ル類も関与しているものと考えられるが、ポリフェ 試 料* (
科名 ) 消臭率(%) 判
ノール以外の高い消臭活性 を有する物質の存在する ドクダミ (ドクダミ科 98
.3
可能性が示唆される結果を得ている 拙
。 タンポポ(キク科 97.
5
ヒメジョオン (
キク科) 27.
1
表2 消臭効果の比較 23) スギナ(スギナ科) 93.
7
クマザサ (イネ科) 87.
5
試料* 消臭率 (
%)材
コシャク(セリ科) 47.
9
緑 茶 4
4.1
スベリ ヒユ (スベリヒ ユ科) 67.
3
シ ソ 1
00.
0
ツユク サ (ツユクサ科) 46.
6
ドクダミ 1
00.
0
*乾燥粉末 1gを用いた。
*乾燥粉末 19を 用 い た O H メチルメ lレカブタン 50μgに対する消臭力
FI
D検出器による G C分析
件 メ チ ル メ ルカプタン 50μgtこ対す る消臭カ

表4 植物のメチルメルカブタンに対する消臭力

100
全 ポ リ フ ェ ノール量

試 料* (科名 ) 消臭率(%) 料
86

80 タンポポ(キク科) 87
.8

臭 60
率 • • オニノゲシ(キク科 )
ノアザミ(キク科)
8
9
8.
0
6
.
2
a

キツネアザミ(キク科 16.
2
句。,﹄

で 40


ヲ@
セイタカアワダチソウ(キク科 19.
4
20 カラスノエンドウ (
マメ科 15.
3
。 。
) 〈

田昌%
レンゲソウ(マメ科 18.
6
。 2 3 4 5 シロツメクサ(マメ科 10.
2
ポリクラール A T添加量 オオイヌノフグリ (
ゴマノハグサ科 41
.5
〈試料に対する重量比〉
マツバウンラン (
ゴマノハ グサ科 .5
1
図4 ドクダミ熱水抽出分中の全ポリフ工ノール量と消 オオバコ(オオバコ科 6
3.5
臭率の変化 30)
スズメノテッポウ (
イネ手斗 1
3.7
全ポリフェノ ル量は(+トカテキンを榎準物質として測定 オオナズナ(アブラナ科 3.9
一 ・ 消 臭 率 ;-0ー,全ポリフェノール量
*乾燥粉末 1mgを用いた 。
判メチルメルカブタン 0.51 '
g
' こ対する消臭力
FPD
倹出器による GC分 析
5
. 野草の消臭効果
ドクダミは日本中いたるところに自生している植 植物あるいは植物抽出物のメチルメルカブタンに対
物であるが、われわれの身近かにはそのほかさまざ する消臭効果に関する研究では 、こ れまでに 、常国
まな野草が自生していて、容易に入手できる 。 この ら3)がスパイス 、生薬を中心に消臭作用を検索し、
ような野草の中には、 ドクダミと同様に防臭あるい その中でシソ科に属する植物が有効であったと報告
は消臭効果の期待できるものがあると考えられる 。 している 。 ブラックベリ一、ローズマリーなと与のハ
前述した消臭効果試験系によってメチルメルカプタ ラ科植物 5) の抽出物に消臭効果の大きいことも報告
ンに対する消臭力を測定した 。その結果、タンポポ されている。今回検索した 6
種類のキク科植物の内、
(
キク科)、オニノゲシ(キク科)、ノアザミ (
キク 3
種類のものに高い消臭効果が認められたが、特に
科)、スギナ (
スギナ科)、クマザサ(イネ科)に高 キク科植物が有効で、あるかどうかについては 、 さら

人間文化 ・ 5
1
ドクダミの防臭 ・消臭作用について

に検索の範囲を広げていく必要がある 。 なお 、本稿に記載した野草の消臭力の測定は 、平
また 、植物系素材の抽 出物はさまざまな物質の混 成8 ~9年度滋賀県立大学特別研 究「野草の防臭およ
合物であるため 、消臭のメカニズムも複雑であると び消臭効果とその作用機構に関する研究」で実施し
考えられる 。 Nakat
aniら31即)はタイムからメチルメ た研究の一部である。
ルカブタンに対する消臭活性物質として新しく 4種
のビフェニル化合物を単離している。すでに利用さ 引用文献
れている茶カテキン類については 、 フェノ ール性 1
) ア イ シ ー エ ス (株 新 し い 消 臭 ・ 脱 臭 剤 と 技
OH基との結合や包接作用などの推察があるが、い 術の展望ーアメニティ社会へのアプローチ ,
まだはっきりとした消臭メカニズムの解明はない四 株)東レリサーチセンター調査研究部門, p
( .1
ドクダミを含む効果のあった野草についても、メチ 19
( 9
4)
ルメルカプタンに対する消臭メカニズムを明らかに 2
) 宮本幸輝,河内二郎:フレグランスジ ャーナ ル

することが今後の課題であると考える 。 6
5, 8
2(19
84)
3)常国文彦 ・石川正夫 -渋谷耕司-輿水正樹・阿
6
. おわり に 部龍二 :農化, 58,58
5( 19
84).
われわれの家庭や身のまわりにおいて、 不快なに 4)長 田正道:日本公開特許公報 ( A
)平 1-1
1545
2,
おいの発生を防ぐ、あるいは消すということは、情 27
3 (特開平 1
-1154
52)
緒豊かで快適な 生活を維持したいという現代人の要 5)安田英之 -字井美樹.農化 ,66,1
475(
1992
)
求のひとつである 。最近では 、環境や人間への安全 6) アイシ ーエス (
株新しい消臭・脱臭剤と技
性を考え 、天然物系の素材 を求める傾向が強くなり 、 術 の 展 望 ー ア メ ニ テ ィ 社 会 へ の ア プ ロ ーチ,
食品添加物だけでなく生活用品の抗菌剤や消臭剤な (
株 )東レリサ チセンタ 研究部門, p
.59
-62
どにも植物系素材のものが多く開発されてきている 。 (
199
4)
日本は四季を通じていろいろな植物がある。自然、 7)牧野富太郎・原色牧野植物大図鑑 (離弁花 ・単
とのかかわりが希薄になってきたとはいえ 、
植物は 、 子葉植物編),北隆館, p
.33
8(1
997)
日常の生活の中に、子供たちの遊びの中に、伝統的 8
) 木村康一,木村孟淳:全改訂新版原色日本薬用
な風習として受け継がれている行事の中などに係わ 植物図鑑,保育社, p
.63(
1991
)
りを持ち続けているように 思う O 古くから「生活の 9)倉田 正邦,久下隆史,橋本鉄男,岩井宏実,福
知恵Jとして伝えられ利用されている植物もあるが、 田栄治,松本保千代, 小谷方明 :近畿の民間療
科学的に立証された事柄も 、 まだはっきりとした解 法,明玄書房(19 7
5)
明がなされていないこともある O ドクダミもそのひ 1
0)鈴木裳三 :日本俗信辞典 , 厚徳社, p .
388-3
89
とつであった 。 (19
82)
本稿で述べたように、“乾燥したドクダミを脱臭 1
1)(財) 日本公定書協会編 :第九改正日本薬局法
剤として利用"という事柄に着目して行った研究か 解説書,慶川書庖, p .41
2( 19
76)
ら、 ドクダミは嫌気性菌群の増殖抑制によりメチル 1
2)中村晴吉,太田達男, 福地言一郎 , 薬学雑誌,
メルカブタンの産生を抑制する防臭効果を有し、ま 5
6,4 41(
193
6)
た悪臭物質メチルメルカプタンに対して優れた消臭 1
3)木村雄四郎, 西川洋 一 :薬学雑誌, 7 3, 196
効果をも合わせもっているという結果を得た。この (19
53)
ようなドクダミと同様に、身近に自生している野草 1
4)赤松金芳 ・千葉医学会雑誌,1 1,10
09(1933
)
の中にも優れた 消臭効果を有するものがみいだされ 1
5)鈴木幸子,田口恭治,萩原幸彦,梶山 一代:応
た。野草はあまりにも身近にあるがゆえに 、普段は 用薬理 ,30,403(
1985)
つい見ることもなく通りすぎてしまう 。 はなはだし 1
6)高木修造, 山本正枝,増田京子,窪田真理子:
く生い茂る野草は、時として厄介者としての扱いを 生薬学雑誌, 3 2,1
23( 19
78)
受けてしまう 。 しか し、このように繁殖力旺盛で、入 1
7)古嶋靖夫,吉田 寛,種田晋二 ,小 田切則夫,
手が容易な野草を、今後新しい効果をもった素材と 熊谷礼子,柿沼利彦, 小林裕文,原田優子,白
して有効に利用できるのではないかと考える 。 井尚文,西塚美香,長野秀樹,小野悌二 ,高瀬
邦人,喜里山隆之:基礎と臨床, 2
4, 3
203

52 ・人間文化
ドクダミの防臭 ・消臭作用について

(
199
0) ( , p
株 ) 東 レリ サ ー チ セ ンタ ー 研 究 部 門 .5
1
8)木島正夫,柴田承二 ,下村 孟 , 東 丈 夫 編 (
199
4)
薬用植物大事典,蹟川書庖 ,p.
241 (
199
1) 2 8,1 (
5)海津健樹 :日歯周誌, 1 197
6)
1
9)浦部貴美子,川村正純:滋賀県立短期大学学術 26)T
oze
tic
h,]
.:A
rch
sor
alBi
oム16,587 (
197
1)
雑誌 ,47,7 7( 1995) 27)鈴木真次,諸江三千夫,内田安信 :食品工業,
20)灘 本 知 憲 , 川 村 正 純 甫 音1
I貴美子:平成 7
,8年 7(
26,5 19
83)
度科学研究費補助金(課題番号 06
680
061)研究 2
8)宇井美樹,安田英之,柴 田柾樹,丸山 孝,堀
成果報告書, (
1997) 田 博 , 原 利 男 , 安田 環 :日食工誌, 3
8,
2
1)灘本知憲,川村正純 甫部貴美子,安本教{専 : 1
098-
112(
0 19
91)
栄食誌,45,1
09(
199
2) 9)安田英之 :食品工業 ,3
2 8(
5,2 1992)
2
2)灘本知憲,川村正純,浦部貴美子,安本教侍. 3
0)浦部貴美子, ì~lt 木知憲 ,川 村正純,林 英雄,
栄食誌,5 61 (
0,2 1997) 安本教傍 :第52回日本栄養 -食糧学会大会講演
3)Ur
2 abe
,K.,Nadamoto,T
, Kawa
. mura,M.a
nd 要旨集, p .306 (1998)
Y
asumo
to,K
.:)
.Nutr. S
ci. Vitamino
l.,40,6
3 31)Miura,K.,Inagaki,.a
T ndN a
katan
i,N.:Chem
(
199
4) Phar
m ,
.Bull3
. 7,1816( 1989
)
2
4) アイシーエス (
株 新 し い 消 臭 ・脱臭剤と技 32)Naka t
ani,N.,Mi ura,
K.a ndIna
gaki,T
.:Agr
ic
術の展望ーアメニティ社会へのアプローチ, Bi
olChem.,53,1375 (1989)

Comment
にし かわ よし ゆき

西川善之
甲子園大学栄養学部

家畜や家禽類の臓器類 (肝臓、 小腸、胃、 腎臓、 等)の司能性


、 ③極めて腐敗 しやすい 、の三つの大
舌等の家畜副産物)は、消化吸収率の高いタンパク きな難点を有し 、この難点を克服することが利用 開
質、脂質を豊富に含み、エネルギー含量が高く赤身 発する上で基本的に重要であると考えられる 。 この
肉以上にビタミンやミネラルを豊富に含んでいる 。 ような中、浦部貴美子博士らは「豚小腸の保存臭発
また 、貴重 な生理活性物質や機能性食品資源 の宝庫 生機構と天然物による抑臭効果Jに関する一連の研
でもある。 究を精力的に行い、小腸の悪臭発生源の主要成分が
従って貧血症をはじめとする種々の病人食として メチルメル カプタンであり、これは小腸内の嫌気性
のみならず、健康人に対する健康維持増進食品とし 菌の増殖に より発生することを確認した 。 さらにこ
て大いに利用 されて然るべきである 。 また本臓器類 の増殖の抑制 にはドクダミ乾燥粉末が有効であるこ
は供給の面からみても 動物屠体の 50%以上 を占め、 とを発見し 、こ れがメチルメルカプタンの臭いまで
価格も安価であるため、食品工業用原料としても十 も抑臭し、この脱臭作用は ドクダミ生薬に含まれる
分利用価値が高いと考えられる 。 このような価値の デカノイルアセトアルデヒ ドではなく、ポリフェノ
高い食品原料となりうる利点を持ちながら、現実に ール類等の作用 であることを実証した。このように、
はソーセージの配合材料や 、スープ、ゼラチン等へ 学究的、基礎的な研究を独創的な手法を用いて遂行
の利用に限定され、大部分は動物用の飼料や肥料等 され、その成果は基礎研究のみならず応用面にも広
の非食品的なものとして利用 されるか、あ るいは廃 がり、畜産副産物の食品加工業への利用の道を大き
棄処分される現状にある 。今後の世界的な 食料資源 く前進させた。本研究は世界の畜産業界に多大の貢
開発の観点から 、 さらに本副産物の廃棄処分による 献を行うものと考える 。今後はメチルメルカプタン
環境破壊の解決策からみても本研究は貴重なテーマ に対する消臭メカニズムの解明等、 さらなる研究の
であると考えられる 。本臓器類が、¢特有の臭気と 進展が大いに期待されよう。

、 ②病原菌や寄生虫による汚染 (トキソプラス‘マ

人間文化・ 53
論文

感性型人聞にみられる色彩感情 鈴木伸子・中谷員三代
人間文化学部生活文化学科生活デザイン コース
Tシャツに対する場合一
1.はじめに “無地物"に設定した。色相は日本色研配色体系
被服は直感や感情に訴えて美的感情を刺激するも (
p.c.c.
S)に基づき、色料の 3原色である赤 (
24R)、
のである。その要因には、色・柄・スタイル ・布の 黄 (8y)、青(l6B)の 3色相とし、それらの色
テクスチュアなどがあり、それらが互いに共存して 相を次に示す 3種の異なった色調の中から選ぶこと
感情効果に影響を与えている 。な かでも着装イメー にした。すなわち、肌色と彩度は同じで明度の高い
ジと色とのかかわりの深さについてはよく論じられ 色調としてベールトーン (
p) を、明度の低い色調
ているが、筆者らが過去 4回 1- I にわたって行った としてダークトーン (
dk) を選び、彩度の高い色
実験の結果においても同様であった。 調としてビビッドトーン (
v) を選んだ。この際、
一方 、人は色を見て様々な感じ方をするが、その 肌色より彩度の低い色調は色味の割合が非常に少な
感じ方には軽い、暖かい 、柔らかい、陽気な、地味 くなり、被験者が明確に判断し難いと予想された 9
な等のような機能的な受けとめ方と、美しい、好き ので省いた 。
な、上品な 、 さわやかな等のような情緒的な受けと 肌 色 試 料 は 日 本 人 青 年 の 皮 膚 の 色 ( 胸 部 ) 101 に
め方の 2つに分けられる。後者については性や年齢、 基づいた。
生活環境、生活体験などにより大きく左右され感じ なお、上記 9色の試料および肌色試料は日本色彩
方に個人差が多いと言われている 。その個人差は
51 研究所に作成を依頼したものである(表 1。
)
特に最近では「感性」によるところが多いと考えら 2色す、つの組み合わせ計 36組をそれぞ、れ 80X165
れ、理性や知性ではかりしれない不明確な部分とい cmのグレイ (N7)の台紙に lパターン分間隔をお
える。この感性の高い人は「感性型人間 J 高感度 r いて図 1のように貼布した。
人間 J61 とよばれ、新しいものや流行への興味、関
心が強く、またそれを取り入れることにも積極的で 表 1 色試料
あるといわれている 。感性の高低によって色に対す c
P..
c.s J1 S
る感じ方にも違いが見られるのではないかと考え、 系統色名 ト ン記号 H V C
それにかかわる報告も過去に見当たらないので、 T うすい紫みのピンク P24 5.0
RP 7.
7/4. 3
シャツ着衣を想定した実験を行い検討することにし 赤 さえた赤紫 V24 4RP 4
8. .
3/10.7
くらい赤紫 dK24 5.
0RP 2.
9/3 .8
た。
うすい黄 P 8 3.
8Y 8.4 /3.6
黄 さえた黄 V 8 4.
3Y 7.3/ 1
0.9
2.方法 オリープ dK 8 4.
0Y 3.9/3. 0
2
.1 試料 (
形 、色 ) うすい縁みのスカイ P16 5.
0B 7 .
5/3 .6
1
t
f さえた緑みの育 V16 9.
0B 4 .
2/7 .1
Tシャツの着装状態を想定して色紙によるパター
くらい緑みの育 dK16 8.
5B 3 .
0/2. 4
ンを作成した 。 Tシャツを選んだ理由は、上半身の
R
I
L 色 7.7Y
R 7.
2/2. 4
衣服の中でもデザイン面で殆ど変化がなく、人の色
に対する好みが反映しやすい服種である 7 と考えら
れたからである。文化式原型を基本にし、衿ぐり、
肩線は原型どおり、丈はウエストラインまでとした。
袖は静立着装状態を想定して作成した 。袖の傾斜は
脇線に対して肩先点 (
S.P
) から 3
4。、袖丈を 18cm
とした。なお、この 3
4. の傾斜角については、現在
市販されている雑誌の T シャツを着装した写真の中
から 、正面向きで自然に腕を下げたモデルを対象と (NO.
)


、 20例測定した 。 さらに、 T シャツを着装した標
図 1 試料
準体型の被験者 5例の前面視シルエッ卜から同様に
袖の傾斜角を求め、それら計25例の平均値を使用し
た。頚部までとしたのは顔面の影響 81を避けるため 2.
2 実験 方 法
である。 試料を観察する際 、他の色がその視野に入らない
色試料については、 T シャツの色として、便宜上 ように背景と机上にグレイの台紙をおいた。 J
ISに

5
4 ・人間文化
感性型人間にみられる色彩感情

基づき 、昼間直射日光の当た らない北窓側で、照度、 男性 1


14名 も女性の場合と同様に 6
3名を抽出した 。
色温度とも標準状態の自然光のもとで実験を行っ この 63名の高感度尺度調査結果を高、中、低感度群
た。被験者に 4 4の中央部
5。方向から光を 受けた試:f に分類したと こ ろ、それ ぞ~1.. 33 . 3% 、 28.6% 、
と目の高さが同 じにな るよう椅座位で、約 1
50c
mll 離 3
8.1%とな り1
14名による分布とほぼ同じ傾向を示
れた位置から観察させた。常にランダムな順序にな していたので、以後この 6
3名の被験者による分析を
るように配慮された 3
6枚の試料を順次提示し、あら 行うことにした。
かじめ配布しておいた 36枚の質問紙に、試料ごとに なお、男女別に分析を行ったのは、色に対する情
一対比較法により記入させた 。前回 1-1)の実験で用 緒的な受けとめ方は性による違いがみられるであろ
いた形容詞対の中から個人差が多いと 思われ る情緒 うと予想されたからである。
的な形容詞を 6項目 (
魅力的、快適、近代的、 上品 、
洗練された、好き)選び、さらに同様の!惑情をもち、 2
.5 データ処理法
服装によく用いられる形容詞を 4項目(きれい、個 一対比較法で選ばれた各データに対し 1~ 0の得
性的、親しみやすい、優雅)加え、今回は計 1
0項目 点を与えることにした 。すなわち被験者一人一人 に
とした 。 よる各項 目への評定を数量化し、サーストンの一対
なお、予備実験により 、36枚の各試料のパターン 比較法 13 による尺度値を求めた 。 さらに 、一対比
を左右入れ替えて観察させた結巣、被験者の選び方 較法の得点合計を素点として因子分析を行った。
に違 いはみられなかった。
被験者は色覚正常な 1 8 ~ 30才 の女 性 1 63 名、 男性 3
. 結果および考察
1
14名で、向性の着衣 を想定したものである 。 また、 3.
1 一対比較
観察に要する時間は一人につき 3
6試料で約 20分であ 高感度群と低感度群の各色の尺度値を項目別に求
った。 め検討したところ、次のような結果が得られた 。表
2は各色ごとに全ての項 目の合計尺度値を 平均し た
2.
3 高感度尺度調査 ものである O
被験者を感性の高いグループ (
高感度群)、低い
表 2 各色の全項目平均尺度値
グループ(低感度群)に分ける際、日経新聞社、堀
氏の説 51 を採用することにした 。 高感度尺度調査 会項目平均
i
止 高
は音、リズム感など 1
2項目でチ ェアク し、人間を感 尺度値 “ ー
-
度にの み注目し てとら える方法で、ある。 dk dk v P dk v P v P
I
千 1
1
f
同ず
青 賞 i
立 青 赤 黄 赤 赤
f
;;性
2.
4 高感度群、低感度群の抽出 1
!
1 dk

V dk P V dk
Z
H
P V P
黄 赤 黄 赤 比
育 青 赤
女性 1
63名を対象に高感度尺度調査を 行 った。“は

『回当~
P dk P dk P v v dk V
い"“いいえ"の二件法によ って得た “はい" の回 黄 黄 l
'
t
j 青 赤 f
電 育 赤 赤
男性
答値を 感度値として 3分類した 。相対的比較を行う dk dk P P v P dk v v
1
止 青 黄 i
古 赤 員
戸 1
e[ 赤 青 赤
ので 7 個以上を高、 5~6 個を中、 4 個以下を低感

度群とした 。高、巾、低感度群はそれぞれ 36.


4%、
3
3.5%、30.
1%であった。 女性は p トーンの赤を高 、低感度群 とも 最も高 く
同時に、 一対比較法の判定に 一貫性がみ られるか 評価してい たが 2位
、 31
立は高、低感度群で色相が
どうか を調 べるため一意性の検定 l:! を行 った 。被 異な って いた 。 dk トーンの黄は高、低とも評価が
験者一人ずつの識別能力をみて、判定が完全に首尾 低かった。項目別にみて注目すべき点は、〈近代的 〉
一貫している 7
1名を抽 出 した 。7
1名の感度値 による に対して高感度群は V トーンの赤、低感度群は V ト
分類で は 、 中 、 低 感 度 群 が それ ぞれ 36.
、 高 6%、 ーンの青を、〈快適 〉に 対して高感度群は p トーン
29.6%、33.
8%となり 、先に行った 1
63名による高、 の黄 、低感度群は p トーンの青を、 〈洗練された 〉
低感度群の分類の分布とほぼ同じとみなされた (
危 に対して高感度群 は dk トー ンの赤、低感度群は v
険率 5 %で有意差な し)ので、この 71
名の被験者 に トー ンの青を最も高 く評価していたことである 。洗
よる分析を行うことにした 。 練感は 青系の色とのかかわりが深い ιl ことから考

人間文化・ 55
感性型人間にみられる色彩感情

えれば、高感度群は特異な評価をしていることが伺 たところ、女性は図 2のような結果になり、全体的


える 。 には高感度群は赤、低感度群は青を高く評価してい
一方 、男性は高、低感度群とも vトーンの赤が最 ることが明らかになった 。
も評価が高く、 dkトーンの赤、 vトーンの青も高 男性は両群とも全体的に赤の評価が最も高く次い
かった。 女性と同様、 dk トーンの黄は評価が低か
った。 両群て、異なる点は V トーンの黄に対しては高 表 3 順位相関係数
、 p トーンの賞、青
感度群の方が評価が高く 、ま た p
項 目
に対しては高感度群の方が評価が低くなっていた点 女性 男性
である。 き i し

1
. 0
.78 0.
93
つぎに高、低感度群間でつけられた項目 別各色の
f
閏 性 的 0
.83 0
.92
尺度値の順位が同じとみなされるかどうかを調べる
魅 力 的 '
0.7
0 事 0.
77
ためスピアマンの順位相関係数 151 を求め、さらに
快 適 0.
84 0
.77
その検定 16 を行ったものが表 3である。これによ

近 代 的 料 0.
43 '
0.7
8
れば、男性の方が両群問による評価の異なる項目が
多くみられることがわかる 。
く きれい )(個性的 〉 上 ロ
ロロ キ 0
.68 '
0.6
3

〈好き〉の項 目については男女とも両群閉で同じ評 洗練 された "0.


30 帥 .
043

価をしているが、 〈魅力的>(近代的 )(
上 品>(洗練 親しみやすい 0
.88 勺7
8
された〉は男女とも両群聞で異なった評価をしてい f
長 雅 。.
80 '
*0.
60
たことがわかる 。 好 き 0.
84 0
.80
さらに、各色の尺度値を色相ごとに分類し検討し c
f. 印有意差あり

高感度群 低感度群
賞智子 赤
1
1
1: 積tすE

き才、し、 ド一一」 」 ーτ h I
日一日 1"臼 de臼 d 5 1.0

す.. 1
1
1: す

ミ f
苛 赤 質
函t
4 主的 u
1
1B
日今日 d.5 1 回 臼.巴 d.5

官置 告t
事 賀 積F ず

向車プ3白勺 日目
"
巴.
5 1一日 d 日 日¥5 1
l,日



ミ 歩主怪E ;
f
fi 貫
主 叫,
i
!
:

夫 j@ 臼i
.日 日 .5 1 日 dB 日 5 1
1.日

t
ミF 武t 務
ミ f
/
ft
. lX!宮ま
丘f
i 吃官勺 白I白
L
d 5 1.0 回目
'
-'-
-'
巴 5 1
1日

'"Í~;.安1 赤 t
<l 現R
τ
"
上 品 d 日 白色 1.日 0.0 目
。 5 1
1日

買 膏 赤 .
<
tl 内t
雪 宮

t
先お草
された 日.日 d 5 l
'
巴 臼臼 回¥5 1
l,白

j
.
i
札、茨F 官ま 事予¥1
1
1: 積雪
親しみ ピ
内?τ,~ 、 日巴 d 5 1.0 回目 臼.5 l
i日

'
P
芦1.-
"
r
-'
1 持 主
、 管
ま 赤
,,

正 茸佐 日目 日 5 1 日 回目 日.
5 l日

m膏 赤 1
1
1: ず
予 震E

好 き l 1
¥臼
回 .0 回 .5 B B 0.5 1.0

図 2 色栢別尺度値

5
6 ・人間文化
感性型人間にみられる色彩感情

で青であったが、両群に よる違いは女性ほどはっき な評価をしていることが伺えた。


りした傾 向がつかめなかった。しかし 、項目別にみ 男性は両群とも V トーンの評価が最も高く 、両群
ると、青が最も高く評価されていた項目 は低感度群 間で異なる 点 は高感度群は p トーンより比較的 dk
ではく快適><上品 ><親しみやすい><好 き〉の 4 トーンを高く評価していたことである 。
項目あったが、高感度群ではく親しみやすい〉のみ なお、被験者の評価の仕方 をみると、女性高感度
であったことから低感度群の方が青に反応している 群は色相 に対 して、低感度群は色調に対してバラツ
度合いが高いと言えた。 キが多くみられたことから、高感度群は色調に示す
同様にして、各色の尺度値を 色調ごとに分類し検 反応、が強く、低感度群は色相 に示す反応が強いこと
討したところ図 3のような結果になり 、女性高感度 が推察された。男性の場合は、色相、色調とも高感
群は圧倒的に p トーンが高く 、 dk トーンが低かっ 度群の方がバラツキが少なかったことから、色に対
た。低感度群は V トーンが最も低かったが、 p、 d する反応は高感度群の方が強いことが推察された。
k トーンは殆ど同じであった 。 また、項 目別にみる 以上 より、高感度群には次のような特異性がある
と両群ともくきれい><快適 ><親しみやすい ><優 と考えられた。女性高感度群は、赤に示す反応
、 が非
雅 〉に対しては p トーンの 、〈近代的〉に対しては 常に強いことが明 らかになった。また、圧倒的に p
v トーンの評価が高かった。〈魅力的〉に対しては トー ンを高く 、 dk トー ンを低く評価していた。一
高感度群は p トー ンを最 も高く、低感度群は最も低 方、男性高感度群は女性ほど 明確でないが、幾分か
く評価し 、〈好き〉に対しては高感度群は dkトー 赤を高く評価し、 p トーンより dk トーンを高く評
ンを最も低く 、低感度群は最も高く評価していた点 価していた。
は興味深かった 。 dk トーンは嫌われる色 lil とさ
れていることから推察すれば、低感度群の方が特異

高感度群 低感度群
d
l 、

才もし、 、
'
"
白 日 日 5 leB
回目 巴ち 1 日 I

dI ~ vd
l<
国t
f 空白勺 1

日巴 日1 5 1日
1 白白 凶 5 1.0

l,
d v
ρ pdk

魅力的 よ百一一 白 5 l 臼 日目 回 5 1.臼


'
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快 適 日lG 日早 1日
1 日日 日 5 1.日

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上 品 Gi 白
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された 目白 巴 5 l¥臼 日日 日 5 1日
1

親しみ dkv vdk

吋~""!I- ~ 、 日日 日 5 ,
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;

官E 茸佳 日日 日 5 1 日 日目 0.::> 1 日

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<

好 きぷ占 日巴 1 o 日白 日 5 1 日

図 3 色調別尺度値

人間文化・ 57
感性型人間にみうれる色彩感情

表4 因子分析結果(高、低別)

高感度群 低感度群
因 因子負荷量 因 因子負 荷呈
項 目 共通性 項 日 共通性
子 I H 皿 子 I H E
個性的 0
.96
1 0
.19
5 0
.04
9 0
.96
3 きれい 0
.96
8 0
.059 0
.19
1 0
.97
7
快適 0
.97
4 0
.13
7 0
.06
7 0
.97
2 I 個性的 0
.90
3 0
.335 0
.22
9 0
.98
1
I 親しみやすい 0
.97
7 0
.05
3 0
.18
0 0
.99
1 快適 0
.86
5 0
.391 0
.25
3 0
.96
5
好き 0
.91
9 0
.21
9 0
.19
9 0
.93
3 親しみやすい 0
.80
4 0.
525 0
.23
8 0
.97
8


きれい 0
.64
9 0
.73
4 0
.03
6 0
.96
0 上 口
口口 0
.18
6 0
.12
7 0
.98
6
E 魅力的 0
.09
1 0
.93
3 0
.34
3 0
.99
6 E 洗練された 0
.24
3 0
.13
4 0
.92
1
近代的 0
.05
9 0
.97
3 0
.13
4 0
.96
9 女
子 き 0
.64
3 0
.02
2 0
.90
5


日 R
Z
上品 0
.23
3 -
0.
275 0
.91
7 魅力的 0
.1 5
4 0.
029 0
.97
9
国洗練された 0
.07
6 0.
094 0
.78
4 田近代的 0
.235 0.
569 0
.73
5
優雅 0
.17
0 048
. 6 0
.94
8 {憂雅 0
.167 6
。目24 0
.93
6
寄与率目子別 44.
0 28
.9 21
.5 寄与率)官問 子別 5 8.
4 2
0.9 1
4.4
%) I
( 累積 44.
0 72
.9 94.
4 (%) I
累積 5 8.
4 7
9.3 9
3.7

第 日因子 第四因子
くセンス〉 〈魅力〉

洗練された
・ ・上品
魅力的
.
.. 優雅
近代的

.1
優雅

きれい

.
古典的
きたない 好き 個性的

.
rE
f


組しみやすも お 親しみにくい

いい

.
魅力的 ・-快

-
・一 般 的 不 好き


快 適・
一・ぽ 野


一や 隻 第 I因子
不怯 ・
な別
快適

.上 い
睦 L、

-
・個 性 的 部カがない 倒 . 〈↑央主〕
親しみにくい ・
. lII.~、

.
きれい
. 一般的
: 観しみやすい

.
近代的 きたない
t

-
・で ー
雅1引引


優判

.
市 ・

古典的
!ェll
FI

魅力がない
il--

第 I因 子 軸 × 第 E 因 子 軸 第 I 因 子 軸 x第 班 因 子 軸

図 4 各尺度の布置

3.2 因子分析 聞で、低感度群と反対の構造であることが明らかに


一対比較法により求めた得点を素点として、項目 なった 。それらに属する項目〈魅力的>(近代的〉
別各色の相関係数を求め、着装イメージに関する主 〈上品>(洗練された〉は、項目別尺度値の高、低感
因子を見出すため因子分析を行った 。 度群別順位相関係数の低い 4項目であった点を考慮
女性の全データを因子分析した結果、 3因子が抽 すれば当然の結果といえよう。
出された。第 I因子はく快適 >(親しみやすい>(個 さらに、抽出した 3因子を直交させた空間が 9色
性的>(好き〉くきれい〉で表され、これを“快さの の Tシャツ着装イメージの空間であり、図 4は各尺
因子"と命名した 。第 E因子はく洗練された>(上 度の布置である 。すなわち、 Tシャツ着装イメージ
品〉で、第四因子はく魅力的>(
近代的 >(優雅〉で は 3次元構造をなしているということができる。女
表され、それぞれ“センスの因子"“魅力の因子" 性高、低感度群別各色相と着装イメージ、各色調と
と命名した 。 Tシャツの着装イメージをほぼこれ ら 着装イメージの関連をみるためそれぞれの因子得点
3因子で説明することができる 。同様にして、高、 およびその平均値を求め、各イメージ空間上に布置
低感度群別に因子分析したところ(表 4)、全体の した 。
場合と同様 3因子が抽出されたが、その構造に違い 色相は第 皿因子軸との関連が高く、高感度群は赤、
がみられた 。低感度群は、全体の場合とほぼ同様の 黄に対して魅力がありセンスがあると評価している
因子構造であったが、高感度群は第 E、第 皿因子の と考えられた。色調(図 5)は第 I因子軸との関連

5
8 ・人間文化
感性型人聞にみ 5れる色彩感情

.削t 週弓子
〈見j
色m

-一 高 山 芋
-ー
o
一一一
一再“喜f
叫 叫
覧 .. 感 J
.
l'I
I IT
-
一 同 値 の 問 - 平均憾の町

部 I 嗣 子 . "x 第 m 出子軸

図 5 色調とイメージ

が特に高く 、快さは色相より色調の影響が大である 高く dk トーンに対 しては高感度群が、 p トーン に


ことカf明らかになった。また、 V トーンに対して、 対しては低感度群がより洗練されていると評価して
高感度群はセンスはあるが魅力的でないと評価し 、 いた 。第 I因子軸との関連が高いのは一対比較法で
低感度群はセンスはないが魅力的であると評価して 順位相関係数が特に低かったく洗練された)<優雅 〉
いた。 p、 dkトーンに対しては逆で、高感度群は およびく 上品 〉の項目が第 I因子軸の代表的な項目
センスはないが魅力的だと評価し、低感度群はセン になっていることからすれば当然のことであろう 。
スはあるが魅力的でないと評価していた。 以上より 、高感度群には次のような特異性がある
男性も同様の分析を行ったところ、次のような結 と考えられた。女性高感度群は、赤、黄を魅力があ
果を得た。全デー タでの因子分析の結果、 2因子が りセンスがあると評価、さらに、 V トーンをセンス
抽出された。第 I因子はく優雅 )<洗練された)<魅 はあるが魅力的 でない、 p、 dk トーンをセンスは
力的)<好き )<近代的 )<個性的〉で表され、これ ないが魅力的だと評価していた。男性高感度群は、
を“洗練の因子"と命名した 。第 E因子はく快適〉 青を洗練さ れていな いが快い色 、赤と黄を洗練され
〈親しみやすい)<上品〉くきれい〉で表 され、 “快さ ているが快くない色と評価していた。 また 、 p トー
の因子"と命名した 。 したがって、 Tシャツ着装イ ンより dk トーンの方がより洗練されていると評価
メージをほぼこれら 2因子 で 説明することができ していた 。
る。同様にして、高、低感度群別に因子分析したと
ころ、高感度群は、全体の場合と因子構造もほぼ同 4.要 約
じである 2因子が抽出されたが、低感度群は 3因子 近年、感性 の高い人は「高感度人間 JI
感性型人
が抽出され、因子構造は全く異なっていた。 間j とよばれ、新しいものや流行への興味、関心が
さらに、高、低感度群別 に各色相と着装イメージ 、 強く、また 、それらをとりいれることにも積極的で
各色調と着装イメージの関係をみるため女性の場合 あるといわれている 。感性型人間は色彩感情にも特
と同様の分析を行った結果、次のような点が明らか 徴的傾向を示すのではないかと考え、色紙を用いて
になった O 一対比較法による実験および因子分析を行った 。そ
色相は第 I、 E両因子軸との関連が高く 、両群間 の結果を要約すれば、低感度群と比較して、感性型
で評価の違いは赤に対しては僅かであったが、 青に 人間にみられる色彩感情の特異性は次の表のとおり
対しては大きかった。すなわち、青に対して高感度 であった 。
群は洗練されていないが快い色であると評価し、低
感度群は快さは感じられないが洗練された色である 今回、感性型人間の色彩感情における特異性が明
と評価していた 。 またそれは赤、黄に対する両群聞 らかになったので、今後の課題として、色彩のみに
の評価と逆であった。 とどまらず、衣服の図柄やデザインとの関連につい
色調は第 E因子軌との関連が特に高く“快さの因 ても詳細に究明したい。
子"に影響を及ぼしていたことは女性と同様であっ おわりに、本研究にさいし、統計処理に関して終
た。両群間での評価の違いは第 I因子軸との関連が 始御協力いただいた本学宮本雅子姉に深く感謝し、た

人間文化・ 5
9
感性型人聞にみられる色彩感情

(
別表)
感性型人 間 の特異性
(pの低い項目因
要 )
色 キ
目 色 調
〈洗練された 〉 赤を 極めて高 く評価
女 pトーン > dkトーン
〈近代的 〉
魅 力 p、dkト ン > ト ー ン
〈上 品 〉 魅 力 1 赤、黄〉青

生 センス ーvトーン > p、dkトーン
〈魅力的 〉 センス
比較的、赤を高く評価
男 〈洗練された 〉 dkトーン > pトーン
<1
憂 稚〉
快さ…青>赤、黄

↑ 〈上 品 〉 洗 練

・・ dkトーン > pトーン
洗練…赤、黄〉 青
f不等号は評価の高低を表す
c

します。 (
198
2)
1
0)森於菟-徳橋正 -松田直行 ・j
屋美和郎・米国政
日開・参考文献〕 弥-市川和子:東邦医学会雑誌, 3,5
-9(
195
6)
1) 中谷異三 代・鈴木伸子・繊消誌, 27-9,40-46 1
1)曽我他:家政誌, 7,5
7-60(
1956)
19
( 8
6) 1
2)官能検査委員会編:新版官能検査ハンドブック,
2) 中谷虞三代-鈴木伸子.繊消誌, 2
8-3,21-25 日科技連出版社, 3
51-
353(
197
3)
19
( 87) 1
3) 高倉:家政誌, 1
9-4(
196
8)
3) 中谷員三代 ・鈴木伸子:滋短大誌, 32,30-35 14) 小 林 重 順 . 配 色 イ メ ー ジ ブ ッ ク , 講談社,
19
( 87) 1
4-1
7(1984)
4) 中谷員 三代・鈴木伸子・繊消誌, 29-5,26-
32 15) 西 平 重 喜 : 統 計 調 査 法 , 培 風 館 , 183-
189
(
198
8) 19
( 8
2)
5)太田昭雄・河原英介:色彩と配色,グラフ イ ツ 16) 水 野 哲 夫 : 統 計 の 基 礎 と 実 態 , 光 生 館 ,
ク社,6
6(1
976
) 220-
221(
198
6)
6)堀 真:モチベーションリサーチ研究会定例研 1
7)柳瀬徹夫 他:日本色彩学会誌 9
-1 (
198
5)
究会報告書(19
79) 1
8)鈴木伸子・中谷員三代:日本色彩学会誌 , 1
4-3,
7)近江源太郎:好みの心理,創拓社, 90(
1985) 1
72-
180(
1990
)
8)石原ほか .繊消誌, 2
6-1(
198
5) 1
9)鈴木伸子 -中谷員三代 .日本色彩学会誌, 2
1-2,
9)鈴 木 伸 子 - 斎 藤 祥 子 :家政誌, 33-1,58-62 8
2-8
7(1997)

Comment
なか がわ さ 砿え
中川早苗
奈良女子大学生活環境学部

ものの性能や品質に加えて、美しさや快さ、楽し く着用する Tシャツ 9色の色紙を 2色ずつ組み合わ


さなど感性が重視される現代、色は業種をこえあら せた 3
6組を資料として提示し、 1
0対の形容詞を用い
ゆる製品の企画 ・設計において重要視されている 。 て一対比較法による実験を行い、因子分析の手法を
色が形にも増して重要視される理由については、デ 用いて検討し、感性型人間に見られる色彩感情の特
ータの 加工・蓄積・伝達の正確さ、統一感や変化づ 異性を明らかにしている 。感性型人間の消費行動や
けの容易さ、製品の特徴づけや差別化の容易さをあ 購買行動、情報行動、コミュニケーション行動、生
げることができるが、その最も大きな理由は色が知 活態度などに見 られる特徴については既に明らかに
覚や感情に訴える効果が大きいことにある 。著者ら されているが、色彩感情の特異性については未だ明
はこのような色彩感情と着装イメージとの関わ りの らかにされていない。これらの結果から得られた成
深さを過去 4回にわたる実験結果をもとに明らかに 果は、衣分野の研究や教育のみならず、感性商品と
している 。 また上記の論文では感性の高低によ って もファ ッション商品ともいえる衣服の企画 ・設計や
色に対する感じ方に差異が見られるのではないかと マーチャン夕、イジングにも貴重な 示唆を与えるもの
考え、日経新聞社が開発した高感度尺度を用いて測 であり、よって本論文は十分に価値あるものである
定し、被験者を感性の高いグループ (
高感度群) と と認める 。
低いグループ (
低感度群) に分けて、日頃若者がよ

60 ・人間文化
論文

反応型分散染料による 道明美保子

絹の染色
人間文化学部生活文化学科生活デザインコース

1.はじめに がよく用いられている O ところが、分散染料には 一


絹は天然、繊維の中で唯一の長繊維であり、その美 般に洗濯堅ろう度が低いという欠点がある 。一方、
しい光沢や柔軟な肌ざわり、また吸湿性、保温性に 反応染料には逆に洗濯堅ろう度が大きいことをその
優れているなどの特性のために、古来より貴重な繊 特徴としている。そこで、反応型分散染料に注目し、
維としてその地位を占めてきた 。 ところが、高機能 化学構造の異 なる反応型分散染料を合成し、絹に対
性の合成繊維の出現によってその需要は減少してい する吸尽並びに固着挙動と洗濯堅ろう度を検討し
る。そこで、絹を新しい素材として使用する方法と た。次に 、同じ反応型分散染料であっても、化学構
して、原料繭による差別化、生糸加工による 差別化、 造の違いによって絹に対する染着挙動がどのように
化学加工による改質 11 などが行われている 。繰糸技 異なるかを検討した 。 さらに、絹/ポリエステル、
術による差別化には例えば、合成繊維との複合が挙 絹/ナイロン 6の染色を試みた 。
げられる O
一方、このような繊維としての展開とは別に、絹 2.反 応 型 分 散 染 料 の 構 造
タンパクの特性を生かし 、新しい素材としての他の 反応型分散染料は水溶性基を持たない反応染料で
分野への適用が試みられており、一部実用化もされ あり、分散染料であって反応基を有するものという
ている 。例えば、絹を溶液化し、機能性食品 (シル ことができる。
ク飲料、シルクゼリー)としての利用 2)、絹フ ィル 染料母体は化学構造別には大抵アゾまたはアント
ム、絹不織布への酵素の固定化 3 1、生体適合性に
') ラキノン染'iE/.である O 反応基としてはモノおよびジ
優れていることから人工皮膚、人工血管などへの応 クロルトリアジン、ジクロルピリミジン、戸 クロ
用、粉末にして化粧品として利用、絹フィルムの分 ルエチルアミン、エピクロルヒドリンなど多種類の
離膜としての利用 5) 6) 7) などが挙げられる。すなわ ものが見られる 。
ち、絹を新しい素材として新たな利用面を開拓する
研究は今後さらに拡大の一途をたどるものと考えら 3
. 材料と方法
れる。 1)試料
また、染色性という面から考えると、絹には、天 絹布はカネボウ製平織白 布(14目付羽 二重) を
然染料、合成染料を問わず、アニオン性、カチオン 非イオン界面活性剤ノイゲン HC (
lg/
!lで洗浄し、
性のほとんど全ての染料が染着するという特徴を持 水洗後、乾燥して用いた。ナイロン 6 (
関西衣生活
つ。これは他の繊維には見られない大きな特徴である。 研究会,実験用試験布) とポリエテル (
帝人製)は
絹を非イオン性染料を用いて染色することは、実 8
0Cの温水で、 3
0
0分洗浄し、乾燥して実験に用いた。
用的にはこれまで特殊な場合を除いて行われていな 2)染料
い。しかしながら 、絹の用途を拡大するため、天然 用いた反応型分散染料は、スルフ ァトエ チルスル
繊維 (
羊毛、木綿など)あるいは合成繊維 (
ポリエ ホン系(染料 A)
、モノクロロトリアジン系 (染料
ステル、ナイロンなど) との混紡や複合が今後盛ん B)およびジクロロトリアジン系 (
染料 C) と同じ
になると 推定され、非イオン性染料による染色の必 スルファトエチルスルホン系反応型分散染料でも基
要性が大きくなると予想される 。天然、繊維と合成繊 本構造は同じであるが、アミノ基に付いている置換
維の混紡品の染色は通常二浴法で行われる 81。 しか 基が異なる 4種の新しい染料(染料 D,E,F
,G)の
し、薬品量の減少、省水、省エネルギーのためには 7種類である 。
ー浴法で染色することが望ましい。一浴染色は絹/ 染料 A は住友化学側から供与されたものを用い
羊毛や絹/セルロースにおいては実用化されている た。染料 B と C は文献 10) 11) の方法に従って合成
がへ 絹/合成繊維の場合は多くの問題点があるた した 。
め、まだほとんど行われていない。 染料 D,E,F,および G は pースルフ ァ トエチルス
合成繊維の染色におい てよく用いられている分散 ルホニルアニリンをジアゾ化 し
、 N,
N二置換アニ
染料は通常、絹の染色に使用されることはない。 し リンとカップリングさせて合成して用いた。
かしながら、混紡品としての絹の染色に用いられる これらの染料の化学構造と分子量を T
abl
e1に示
ようになることが予想される o 実際に絹/化学繊維 した 。
の複合素材の染色において、 i
炎色染めには分散染料

人間文化・ 61
反応型分散染料による絹の染色

T
abl
e1 R
eac
tiv
edi
spe
rs巴 dy
巴su
sed

Dy
e C
h巴mic
al M
olec
ula
r
S
tru
ctu
re We
ight

A
8
-N 寸山叫
'
0
'-
o-ト


-
}0-

-ト


s則

O
ω印


CH
1
:
一 44642
染料 A,B,C)の絹に対する染着挙動 (
( 吸尽およ
び固着) を調べた結果、次のようなことが明らかに
B
(
3N

そ之口ミえ丸丸丸丸
CHh - { H
ρ
問州

H附

司山


3)
2
2
3
62 62 なった 。①染料 A は約 pH8で最大吸尽および最大
国着を示す。②染色速度は温度の上昇と共に早くな
る。③一般に、染料 A の絹に対する固着は他の染
C
oNNG4 3
90.1
9 料 Bや Cのそれより高い (
Fig
.1)o ④染料 Bは約


pH6で最大吸尽を示し、固着は一般に低い 。⑤染
料 Cは吸尽も固着も低い。
D
HOH
ゐ-
2
o
-サ N No ,
SOC H
3
443.4
9 水に対する溶解度、絹に対する染色速度、固着量、
固着率及び、染色物の洗濯堅ろう度 (
Tab
le2)など
総合的に判断すると、スルファトエチルスルホン系
E HOJZPN 〈〉山-0-印刷,
OS0
3H 4
45 50
反応型分散染料が絹の染色には最も適していると考
えられた 。

F 〈〉N=N〈〉s問 413.46
tbN

1
.
0
(ぷ吉田

G
13122bN 〈〉N=N〈〉502C問 OS03H 487.5
2
¥百
E のヨ × )口03司同円九回‘ロ05目=同

3)染色 O
染料に少量のアセトンを加え、湿潤、溶解し、緩 0
.5
衝溶液を加えて染色した 。
所定の時間染色後、試料を取り出し、未反応染料
をメタノールで抽出した 。染色絹および染色ナイロ
ZHM同

ンはそれぞれ塩化カルシウム/水 / エタノール
0/
8/2、モル比)および 90% (
V/V) ギ酸溶液を
用いて加熱溶解し 、室温にまで冷却後定容した。そ
の溶液を比色して得た吸光度をもとに、固着染料量
T
ime(
hr)
を計算した。吸尽染料量は固着染料量に抽出された
染料量(吸尽されたが、反応はしていない染料量 ) F
ig.1 D
yeingr
ateo
fdyeA,B,
andCfo
rsik(
l pH8,
70'
c)
:
を加えて求めた。用いた反応型分散染料はポリエス (・ )A,ex
haustio
n,(0)A,fi
xati
on
(企 )B,ex
haustio
n,(ム)B,fi
xat
ion
テルに対して殆ど固着が認められなかったので、ポ
(・ )C巴
,xhaus
t i
on,(口)C,fi
xat
ion
リエステルの場合は残浴比色法により吸尽染料量の
みを決定した 。
4)洗濯堅ろう度
T
abl
e2 F
ast
nes
stowashing
染色した絹布の洗濯堅ろう度は ]
ISA
-6号に従っ
て調べた。
Dye T
end
eri
ngS
il
kSt
ain C
ott
onS
tai
n
ABC

4
. 結果と考察
4斗i n ︽U a

4-5 5
4
.1 反応型分散染料による絹の染色
3-4 2-3
絹/合成繊維混紡の一浴染色を行うためには、予
4-5 4-5
凡主

じめ絹との反応性が大きい反応型分散染料を選ぶ必
要がある 。
そこで、 3つのタイプの異なる反応型分散染料

6
2 ・人間文化
反応型分散染料による絹の染色

4
.2 絹に対するスルファトエチルスルホン系反応 3
.0

2E ・ぎGE T-H ×)ロ05国当L d oZ田口司ZH同


型分散染料の染着
同じスルファトエチルスルホン系反応型分散染料
であっても、化学構造の違いによって絹 に対する染
着 挙 動 (吸尽と固着)がどのように異なるかを、 4 2
.0
種の新しいスルファトエチルスルホン系反応型分散
染料を合成して検討した。その結果、最も疎水性の
染料 F(
2個のメチル基をもっ )の染色速度が最も
速く、そして最も親水性の染料 G (
2個のヒドロキ
シエチル基をもっ)のそれは最も遅かった (
Fig.
2。)
染 料 Fは疎水性が強く、従って水に対する溶解度
が低いので、この染料の絹に対する吸尽と固着は染
0.
5 1
.
5
料濃度が約1.2X10-4 mol
/lで殆ど一定となった
(F
ig.
3)。染料 D と E はアルキル基(染料 D の場 Con
c.o
fdy
e(xlO ~ V
mo!)

合はメチル基、染料 E の場合はエチル基)によっ
F
ig.
3Effe
cto
fconc
entr
atio
nofdy
eFo nd
yeu
pta
kef
ors
il
k,
て直接性が増加し、ヒドロキシエチル基によって水 ( ω
pH6, ,
'clhr):
に対する 溶解度が適度に増加するため、絹に対して (
・) exha
ust
ion,(0)fix
ati
on
良好な親和性を示した 。
4
.3 スルファトエチルスルホン系反応型分散染料
による絹と合成繊維の同時染色の試み
用 いた染料はスルフ ァトエチルスルホン系反応型
F) と

同 分散染料の中で、最も疎水性のもの (
染料 G
最も親水性のもの (
染料
) である 。
同浴で絹とポリエステルを染色した結果、これら
1
2.
01
- の染料はポリエステルに対して殆ど染着しなかった
ム ム (
Fig
.4,Fi
g.5)。反応 型 分 散 染 料 F および G の
(﹄
ω主

1
0.
01
- 絹/ナイロン 6 に対する染着量に及ぼす染浴 pH
¥

-

の影響を調べた結果を F
ig.6,Fi
g.7に示した。
o
E 02 ×)ロロ︻

絹に対する染料 Fおよび Gの染着量は pH8で最


大になり、ナイロンに対するそれは pH6~8 で高か
った。また 、吸尽量に対する固着量の割合がかな り
百円戸

高い 。 pH6における絹に対する両染料の染着量は
ナイロンに対するそれに近い値となっている O そこ
で、絹およびナイロンに対する反応型分散染料 F
と G の染色速度を pH6で測定した 。 これらの反応
型分散染料の絹に対する染色速度は、ナイロンに対
するそれと大きな差はなかった 。 このことは染着量
O
2 3 4 と染料濃度の関係においても同様であった。すなわ
T
im巴(h
r) ち、絹の反応型分散染色における吸尽量あるいは固
着量と染料濃度の関係はナイロンの場合とそれほど
F
ig
.2 D
yei
ngr
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fdy
eD,E,
F,a
ndGfo
rsi
lk(
pH6,
90'
C)・
違わないということである。より疎水性のナイロン
(O)D,(
口 )E,(ム )F
,(・ )
,G
6x1
6に対する最大染着量は約 2. 0-5 mol
/gである 。
この量はナイロン 6のアミノ末端基量 12) より少な
い。 このことがナイロン 6と絹が同じ位に吸着する
理由である 。

人間文化・ 63
反応型分散染料による絹の染色

8
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lk,f
ixa
tio
n
(・)S i
lk,e
xhau
stion

以上のことより、 2種類のスルフ ァトエチルスル 5.おわりに


ホン系反応型分散染料 2種類を用い、絹とナイロン 天然繊維と合成繊維の混紡が増大すると予想され
を pH6で染色すれば 1浴で同程度に染色すること る現在、この方面の研究が一層進展することを望ん
が可能で、あることがわかったが、絹/ポリエステル でいる 。絹と合成繊維混紡特に絹とポリエステル混
については所期の目的を達成することが出来なかっ 紡については、更に新規の反応型分散染料が合成さ
た。 れ、十分満足できる染色結果が得られることを期待
する 。
今日では染料は合成染料が一般的にな ってきてい

64 ・人間文化
反応型分散染料による絹の染色

るが、天然染料の持つ微妙な色合いの美しさは人工 466 (
1991
).
合成品では表現できないものがあり、現在も工芸染 5)T.H
iro
tsu,S.Nakajima,A,Ki
tamura,K
.Miz
色用としては根強い需要がある 。私たち生物を取り oguchi,andY Suda,S
en-
iGakkaishi,仏 72
巻く地球上の環境が天然の姿から逸脱してきた今 (19
88).
日、地球上の生物が共存共栄していくために改めて 6)A
.Kitamura,A
.Shibamoto,andM.Demura,
自然を見直す必要があろうかと思う 。天然染料は従 S
en-
iGa
kka
ish
i,弘 193(
198
8).
来、絹を含む天然繊維のみに適用されてきたが、最 7)吉田大介,呉 軍,杉原秀樹, i賓田州博,石渡
近、天然染料で合成繊維を染める試みがなされてい , 三石賢, 日蚕雑, 6
勉 7,1
83(
199
8).
る加
。 前述のように、天然繊維と合成繊維の混紡が 8)加藤弘,於保正弘,富津光博,日蚕雑,臼,
増大すると予想される現在、天然染料による混紡品 5
40(
199
5).
の染色の可能性に興味があるところである 。 9)笹倉正明 ,染色工業, 3 4(
7,4 1989
).
0)Y
1 .Inoue,Y.Kamo,M.Togo,Y
.Hsu,T
.Keumi,
引用文献 andH
.K i
taji
ma,Chm.L
ett.,盟
担,1733(1
981)
.
1)間 和男,“絹の消費動向と新素材の開発"講 1
1)道明美保子,井上吉教,清水慶昭,木村光雄,
i
寅要旨集, 1 (
198
6.
) 日蚕雑, 5
1,39(
198
8).
2) 平 林 潔,繊維学会シンポジウム予稿集 1
2)黒木宣彦,“染色理論化学¥槙書庖,東京,
1
990
(c),c-
20(
199
0). 43
p..
3)朝倉哲郎,出村誠,繊学誌,些, 2
52(
198
9). 1
3)木村光雄,“自然の色と染め木魂社,東京,
4)朝倉哲郎,北口源吾,出村 誠,酒井治利,金 p
.10
l-1
14(
1997
).
子正夫,栗岡 総
, 小松計一,日蚕雑,盟,

Comment
む己みつ お
縞の特性と研究 き
木村光雄
神戸女子大学大学院

絹が蚕蛾の吐出する繭糸から成っていることは周 さらに、研究面でも、絹繊維の産額が他の繊維よ
知の通りであるが、その絹に取って代るべくして発 り極めて少ないことから、これ迄は単に成分が同じ
明されたレーヨン、アセテート、ナイロンなどの人 蛋白質であるというだけで、大抵の物性が羊毛と同
造繊維のどれよりも絹は優れた被服適性を有してい じであるとして片付けられてしまって、絹繊維の
ることはあまり知られていない。 様々な物性についての研究が十分なされて来たとは
蚕蛾にとって繭が必要なのは踊を保護する為の僅 言えず、未だ不明な点が多く残されていることは確
か 1週間程の聞にしか過ぎないのであるから、自然 かなところである 。
の摂理からしでも絹繊維は極く単純に 出来 ている筈 本報の著者をはじめとする我々の研究グループが
である 。事実、絹繊維の微細構造は羊毛や木綿と比 絹繊維の優れた物性に着目し 、衣料としての最も重
べれば随分と簡単で、ある。合成繊維屋はあまり認め 要な因子である染色性に関する総合的な研究を開始
たがらないが、それでもその絹を超えられなかった してから約 20年 になる o その問、絹繊維のみが現行
のは自然の力の大きさと言うべきであろう。 の殆ど全ての染料に対して実用的な染着性を有する
しかしながら、これに関しては絹が往時一部の特 ことを見出した他多くの知見を得て、約 3
0報の学会
権階級だけのものであった為に、美しい高嶺の花と 誌報告を作成してきた 。本報もこれらの成果の一環
して特別扱いされていたということにも原因があっ を成しているものであって、合成繊維用の染料が適
て、その優れた点に絹屋自身も気が付かなかったと 用出来るという絹のオールラウンドでの染着性の利
言 うべきなのかも知れない 。 点を活用したものである 。

人間文化・ 65
論文

教育実践における精神主義と民主主義昔 田
いち

e
s
人間文化学部生活文化学科 人間関係コース
生活指導研究の歩みをふりかえって
はじめに 1.戦後教育論における精神主義
生活指導論は教育における民主主義原理の探求と (l)道徳教育論に潜む精神主義
いう動きのなかから生まれた研究潮流である 。 戦後日本の教育において精神主義がもっともはっ
本稿では、教育実践における民主主義原理の探求 きりと姿をとって現れたのは、 1
958年以来文部省が
という立場から、日本の教育における負の遺産とし すすめている道徳教育(19
58年の学習指導要領の改
ての精神主義の問題について論じたい。 定において、それまでカリキュラム体系に無かった
精神主義とはひとことで要約すれば、人々の言動 「道徳 j の時聞が特設された。以下この性格をとら
に精神を見て、精神から言動を説明する発想である 。 えて「特設道徳J と表現する)においてである。
その出自に関しては、戦前の帝国軍隊の隊内教育に 「特設道徳」には首尾一貫した理論的体系がある
あるという有力な見解がある 11 0 軍隊教育から「教育 わけではないが、そこに共通する立場は伺える 。そ
勅語」に連なる精神主義的人格形成論が、日本人の れを要約すると、道徳、の概念を超歴史的 -超社会的
思想性の形成に果たした役割をみるまでもなく、精 なものとしてとらえる立場、道徳教育の目標を内面
神主義は日本の教育界に根強く残る発旬、といえる 。 的自覚の形成に置く立場、価値葛藤的な内省を重視
行動のなかに精神をみるという発想は教育現場で する指導方法上の立場などである 九
もある種常識化された考え方となって根強く残って これらの立場の特徴と問題点については、すでに
いる 。たとえば学校で服装や頭髪等について規制を 他のところで詳しく分析しておいたのでここでは繰
することは、長らく教育常識となっていた 。その場 り返さないがヘ 本稿の論述上必要な限りで述べれ
合その必要性や理由のーっとして説かれてきたのが ば次のようになる 。
精神主義であったことは疑しミない。「服装はその人 すなわち、道徳を超歴史的超社会的な絶対的「善」
の人格の現れである」と「生徒心得」のなかで説い 価値として抽象化するという道徳概念の観念的転倒
ている学校はいまだ珍しくない 。 が見られ、それは、道徳を生きた人聞社会の生活現
精神主義教育論の特徴的な問題点は、次の点にあ 実から遊離させて論ずることになり、道徳教育のリ
る。一つには、外見で精神を判断するというその発 アリティを失わせる 。 さらに、内面的な自覚や反省
想には 、本来客観的には測りょうのない精神 (
各人 を中心とする「意識の変容 J(悪意思の抑制と善意
の意識する自己のありかた ) を測ろうとする無理が 思の強化)を道徳教育の目標とすることによって、
含まれるという問題。その無理をあえて通そうとす 意識のありかたそれ自体を直接いじくり、規制する
るところに、教師が子ども意識-精神を恋意的に裁 ことになる 。それこそ、精神主義そのものであり、
断するという教師の独善的な態度を生じさせ、子ど その弊害は大きい。 また「特設道徳」の教育方法上
もとの聞に溝、スレをつくるもととなる O の特徴の一つである「価値葛藤場面を通しての主体
二つには、精神の単純な形式的解釈とそれにもと 的な価値選択」の問題にしても、そこでは、扱われ
づく精神還元的な人格形成論となるという問題。精 る行動の意味が具体的な現実状況における意義 ・価
神が行動を決定するという機械的な意識決定論的発 値が捨象されて抽象的な道徳的意味をもっ価値的行
想、は、子どもの意識自体を取り扱い、意識の形成・ 動に変換されてしまうがゆえに、単なる形式論理的
変革を教育の直接的な目標にさせる 。 しかし先にも な名目的葛藤に姿を変えてしまい、現実味のある葛
指摘したように、精神自体は ì~1jりょうがないから 、 藤にならないという観念性を免れない。
具体的には教えるものに対する忠誠度や外見的指標
(
形式の順守 ・達成、りっぱな心構えの表明など) (
2)近年の「人権教育 j 論のなかに潜む精神主義
で精神の形成を測るひとりよがりで形式的な教育実 近年「人権教育 Jが一つのブームになっている 。
践になってしまう 。 その大きな 一因は、日本政府自体が「人権教育」を
本稿では、このような精神主義的発想が今日にお 盛んに説き始めているという事情がある 。そして、
いても見られることの意味を考察するとともに、生 日本政府の「人権教育jの提唱は 『 国連人権教育の
活指導研究における精神主義の克服の歴史をふりか 10年』 と連動した動きになっているところに今日の
えってみたい 。 特徴がある 。 0年 Jに対する政府
『 国連人権教育の 1
や地方自治体のすはややい対応、には目を見張る 。
政府や自治体がなぜ、今の時点で国連の 『人権教育

6
6 ・人間文化
教育実践における精神主義と民主主義

1
0年』 に素早く対応したのか、そこで言われている 祉削減、リストラ ・解雇を推進する政策のもとで高
「人権教育」論あ るいは「 人権擁護」論の特徴は ど まる国民の生活不安と抗議の増大、いじめや不登校
のようなものか、必要な限りで要約すれば次の諸点 をはじめとして「極度の競争的システムがもたらす
が指摘できょう 。 子どもたちの発達障害 J(
国連『子どもの権利委員
①「同和行政j以後の「人権問題」への対応 会』勧告、 1
998
.6) の発生・増大などに対して「人
「同和行政」の終結(同和対策関係の特別法が、 権教育 J,道徳教育」の強化で対応しようとする姿
一部内容の延長はあるものの基本的に 1
997年 3月で 勢が見られる。
終結した)を向かえた行政当局が、 r
i同和教育 J その際、人権問題を国民の聞の差別問題に還元し
『同和啓発 J以後の教育・啓発のあり方を『国連人 ようとする立場が特徴的である 。
権教育の 1
0年.
1(19
95-2
004年)に依拠して整理して 先に紹介した『国連人権教育の 1
0年』に対応して
ゆくことが可能と政府が判断したのだろう J と指
I 国連人権教育の 1
日本政府が策定した 『 0年国内行動
行政の関連から出てきて
摘されているように、同和l .(
計画1 19
97.7.
4)に は、計画の目標が国民の意識
いる動機が考えられる O 国連の名を借りることによ 変革、人権意識の高揚にある旨の記述が基調になっ
っていわば国際的なお墨付きのもとで人権教育 ・啓 ている 。 『囲内行動計画』の「基本的考え方」の章
発を推進できるという政府にとっての有利な事情が には計画全体の目的や課題が概括的に六点にわたっ
推察される 。その際、国が「人権教育j の「主体J て述べられているが、その基調はあきらかに国民の
で国民や関係者を「研修」の対象としている『国連 意識改革に置かれて いる。たとえば、,(1)人権の擁
10年行動計画』 は、「国 ・行政が 『主体』となって 護 ・促進のためには、そもそも人権とは何かという
『啓発 Jをすすめてきた政府の方針と波長が一致し ことを各人が理解し、人権尊重の意識を高めること
ている」旧からこそ、日本政府はそれを積極的に利用 が重要であり…… (
3)……広く国民の聞に多元的文
している という側面が見逃せな い
。 化、多様性を容認する 『
共生の心』を醸成すること
もっとも『国連人権教育の 1
0年』そのものの評価 がなによりも要請される 。… 全ての人権の不可分
とそれに対する日本政府の態度の評価とは区別して 性と相互依存性を認識し、人権意識の高揚を図り、
なされるべきことはいうまでもない 。『 国連人権教 もって「人権」という普遍的文化の創造をめざす…
0年Jそれ自体には、その根底に「人権として
育の 1 .
(6
)人権の問題は、国民一人一人が人権の意識を
の教育jの理念すなわち教育権を保障すべき国家の 高め、他者の価値を尊重する意識、態度の i
函養が重
義務について国際的に確認されてきた合意があると 要である」などと並んでいる。
いう積極的側面が見落とされるべきでなく 、日本政 府県段階で策定されつつある行動計画において
府はその観点を抜きにしてもっぱら「人々の意識j も、政府同様国民の意識変革に目標が焦点化されて
を重視する議論を展開している 。 一方、教師を含 いるものが圧倒的に多い。 1
998年 1
1月末現在で、大
めて「専門家jが「研修Jの対象として扱われてい 阪府、神奈川県、奈良県、大分県、福岡県、滋賀県、
るが、教師の権利保障についてはふれていないこと 高知県、和歌山県の 8府県が行動計画を策定済みで
など、いくつか問題も見られる 。また、教育の方法、 ある 。 さらに 1
0数府県が今後この 1
,2年の間に策定
手段について指示している(ロ ールプレイングやブ を予定している へ
レーンストーミング、シュミレーションをはじめと 滋賀県の 『
行動計画』をみると、「さまざまな差
する「教育技術jが挙げられている )が、文書の性 別や偏見が今なお存在しており、人権尊重の意識が
格としてみたとき教育の内容や方法を直接指示する 定着しているとはいえない状況があります。 」 と述
ような権限は国連にもないのであり、仮に教育内容 べているように、人権侵害の原因を主に県民の「差
や方法に言及する文書があったとしても 、それは教 別や偏見j に求める認識に立っている 。その上で、
育の自主性、専門性の確保の見地から 批判的に吟味 「このため人権意識の高揚を図り、県民一人ひとり
すればよいことであって、無条件にそれに従うべき の人権が尊重される 差別のない明るい社会を実現す
性質のものではない。 るために、『人権教育のための国連 1
0年』に取り組
②社会問題への道徳主義的、教育主義的対応 むJとして、県民の「人権意識の高揚 j に課題を焦
新自由主義的競争原理を中心にした経済政策 、教 点化している。
育政策のもとで必然的に生み出される社会問題 (
福 政府や府県段階の 『
行動計画』に見られるこのよ

人間文化・ 67
教育実践における精神主義と民主主義

うな「人権問題」の認識は 、人権概念の理解の仕方 l回委員会開催) の議論にもこうした構図が見事に


としても明らか に一面的である 。 現れていて興味深い。
一つは 、人権という概念が権力対抗的要素を必然 審議会の議論においては 、人権の概念をめぐって
的に含んでいることを無視している 。歴史的な 由来 委員の間に見解の違いも一部でみられる 。たとえば
が示すように、人権という概念は 、人間の尊厳の基 第1
5回審議会における議論をみると、ある委員は、
本にかかわる自由や利益を封建的権力によって抑圧 「人権は本来 、国家と国民の関係として出発した ・
された人々が、その擁護を求めて権力に対して主張 .国家権力あるいは社会権力か ら市民の権利を守る
し、要求するという近代の民主主義運動のなかで生 ということが出発点になっているわけで、そこが人
み出されてきたものである 。人権問題とは、人権が 権問題の基本的なことだと思うのです Jと述べたう
侵害される具体的状況において、だれがだれにたい えで、[国家と国民の関係における人権問題j と
して主張する権利かという観点をぬきにしては語れ 「国民と国民の聞の人権j問題の 二つを「バランス
ない。人権の侵害 、抑圧の主体から国家や資本をは をもって考えていかなけれは、いけないのではなかろ
じめとする社会的・経済的権力が除外されるなら、 うか。片方に偏ったのでは日本の人権施策として、
そこに残るのはもっぱら国民・市民になる。かくし いびつなものになってしまう危険性があるのではな
て、人権問題が国民 ・市民の間の差別問題・人権侵 いかJと、 きわめて正当な見解を述べている O それ
害問題に収叙されることになる 。このような図式は、 に対して、「私は国家と個人の対立を従来は考えて
人権のとらえかたを媛小化するだけでなく、権力に いたものですが、…一少し違うのではないだろうか。
よる人権侵害 -抑圧 から目をそらす役割をはたすも 国家というものもそれを構成 しているのは個人なの
のといわざるをえない 。 もちろん、国民 市民 間の であって 、…… (
国家と個人の対立というものは一
人権問題が無意味というものではない。国民-市民 吉田注)個人の利益とそれ以外の多数の利益との衝
同士の問でおきる権力的要素のない人権侵害もある 突ではないだろうかJなどの対立する意見も見られ
が、それは具体的な事実にもとづいて明らかにされ 一見 自由な討議がされている ようにも思える 。 しか
るべきことである 。そのことと 、人権問題の本質的 し、審議会に諮問した政府側から、「確認させてお
側面としての権力的関係を無視 ・軽視することとは いていただきたいのですけれども、人権といいます
別のことカfらである 。 と確かに憲法学では、国家と国民の関係が出てきま
三つに、上にみたように人々の聞の差別問題 ・人 す。それはわかるのですが、現在において人権問題
権侵害に人権問題を収数させる人権認識のもとで と言われるときに、国家と国民の関係はもちろんあ
は、人権問題の解決をもっぱら人々の意識の変革に りますけど、やはり社会的にみたときに人権問題と
求めるという道徳主義的、精神主義的発想が主流と 言われているのは 、国民相互の聞といいますか 、私
なる。そこには、人権問題の解決=人々の意識改 人間で問題になることが多い」と、審議会としての
革=教育による意識変革という一連の図式が登場す 人権概念の方向性に念を押されている。 意見をとり
ることになる 。 まとめる立場の会長からも、「国家と国民の権利の
それこそ 、特設道徳がその発足当初から見せてい ようなことで、私も教わったのですが、最近は…
た構図であり 、ま た今 日の段階で政府・行政が唱え 私人聞の関係の方が多いのです 。……答申をだんだ
る「人権擁護」、「人権教育」の大きな特徴となって んに取りまとめるときには、ある種の集約的な方向
いる 。 に議論を進めさせていただきたい Jと、諮問側の見
特設道徳においては、人権問題が欠落していたと 解に沿って議論を方向づける意図を表明している 。
いう言い方は正確でないへ 人権問題を人々の意識 人権問題を道徳問題としてとらえるという問題に
問題に還元する一面的な人権認識は道徳の 時間特設 関しても、それに慎重な見解を表明する委員もある 。
時においてすでに存在している 。そして今日まで意 たとえば、第 6回の審議会においては、ある委員は
識変革を直接の 目標にする精神主義的道徳教育が追 「人権の啓発とか教育というときに、人権という言
求されてきたというのが、この間の歴史の実態であ 葉が広く使われてしまいがちなのではないか。 Jと
ろう 。 問題提起して、 「
人権」の 内実を限定して道徳一般
『人権擁護施策推進法』の制 定(1996.
12) とそ と区別すべきという趣旨の発言をしている 。しかし、
19
れにもとづく『人権擁護推進審議会.! ( 97
.5.
27第 このような態度は審議会の全体の基調にはなってい

68 ・人間文化
教青実践における精神主義と民主主義

ない様子が伺える 。先ほどの発言に対して、「これ は、それらの諸側面に対して 、単に関連する問題領


から 『人権 Jという言葉をつかわなくても、「無言 域というにとどまらず、あるいは思想として、ある
の人権教育 Jといいますか、その中心は『心の教育 j いは具体的方法論として内的に関連するものとして
じゃないかという気がするのです。…… 思いやりの 位置づいているからこそ、小JlI
はくり返し、生活綴
こころがあれば自然と人権が育つ。
j とか、「老人問 方の本質は「笑生活と教育との結合j にあると 言い
題ーっとれは¥それは道徳問題でもある 。 しかし人 続けたのである 。小川の言葉で表現すれば、「教育
権問題でもある 。だから、それを f
道徳問題だから を単に 二十坪の教室のなかだけのこととはせず、教
人権問題ではない』 というとらえ方をしてはいけな 科書を教えるだけのこととはせず、子どもたちとそ
い。道徳問題でもあり、同時に人権問題でもあると の親であるはたらく人民の実生活とのかかわりにお
いうようにとらえていかないといけないと思いま いて、教育を考え 、実践し」てきたのが、生活綴方
す。
」などとし寸発言が相次ぎ、結局人権問題を道 教師の思想的 、実践的態度である 。 そこでは、「学
徳問題として理解する見方が大勢を占めている 。s 校の外にも出てい って父母と教師の人間的な結合を
はかり、父母と子どもの人間的結合をはかり、子ど
2.精神主義の克服と生活指導研究 もたち同士の校外の実生活のなかでの組織を育てて
精神主義の問題は生活指導研究の歴史においても いくという仕事を、生活綴方を大切にする教師は行
一つの焦点であった 。 J10
ってきた 。
戦後の生活指導研究史における教育方法論上の 二 本稿の主題である精神主義の問題についていうな
大知見ともいえる生活綴方と「集団づくり」論を素 ら、生活綴方に関して問題となった論点は、思想 ・
材に検討してみよう 。 内心の自由の問題、人格形成における認識一行為の
関連性の問題である 。
(1)生活綴方教育 思想 ・内心の自由の問題に関しては、 1
950
年代末
生活綴方教育を教育方法論の上から意義づけた代 から生活指導研究史のなかにあらたに登場してきた
表的な研究者として小川太郎を挙げることができ 集団主義的「集団づくり」論者から、生活綴方には
る。小川は、生活綴方を次の諸点において定義づけ r
「思想によ って集団を統一 する J r
.思い 』の強要に
た よる 学級集団の統一 J11 という発想、が潜んでいるの
1)自由 ……偏見からの解放 自由な認識主体、表 ではないか、と批判されたところである 。
現主体の形成 「集団づくり」論者からのこの批判は、的をえて
2
)リアリズム …… 生活のリアルな認識能力の形成 いる部分とえていない部分の両方ある 。
感性的段階での生活の科学的認識 195
0年初頭の『山びこ学校j ( 19
51年)の発干I j

ヒュ ーマニズムと集団主義…… リアルな生活認
3) らい 1
950年代 に生活綴方教師たちが取り組んだ「仲
誠、真実の追求を通して相互の理解 間づくり」の教育実践は、 1 97年に r
5 (l)情緒的許
(ヒューマニズム ) と集団的結合一人 容の雰囲気づくり (
2)綴ることによる 一人一 人の
間同士の連帯 (
集団主義)を深める 真実の発現 (
3)一人の問題をみんなの問題として
小川による 生活綴方の定義の特徴的なところは、 取り組む仲間づくり」という 3段階論で定式化され
生活綴方を単なる作文指導論の枠にとどめていない た。そこでいう「情緒的許容jが、思いでまとまる、
ところである 。 日本社会の政治的社会的構造の分析 心情的な 一体化 をはかるというものになりかねない
を基礎にして、子どもや学校に反映する社会矛盾を 危険性があり 、その点を指摘したという意味では的
みすえ、子どもの発達 ・民主的な人格の形成と学校 をえている 。
市Ij度や組織 ・運営の民主主義的な発展の方向を展望 しかし、生活綴方の思想、 と実践自体がそのような
するその一環に、生活綴方 を位置づけているところ 心情論であるという批判なら 、それは的をえていな
にある 。 したがって小川の規定には、生活綴方の指 い。小川も慎重に次のように留意していた 。「真の
導論、認識の形成 ・発展と人格形成の関連を中心と ヒューマニズムは、 喜びゃ悲しみが感染し合うよう
した人格形成論、教師の専門的力量に関する教師論、 な原始的な同 一性のなかにあるのではなくて、自己
生活と結合し地域に根ざす学校のありかたを追求す と他人の生活の感情と意見の正しい認識にもとづい
る学校論、などの諸側面が含まれている 。生活綴方 て、互いの人間としての同一性を確認し合うことに

人間文化・ 69
教育実践における精神主義と民主主義

あると考えられ」ロる 。 ても重要な課題であったことは事実である 。そのこ


小川の表現は十分に整理されない表現ではある とを明らかにしたという点で、集団主義的「集団づ
が、小川のなかにおいて認識にもとづく人間同士の くり」論からの生活綴方批判も大きな意義があった。
ヒューマンな結合、連帯と心情的な 一体化とは区別
されていたとみるべきである 。 しかしながら、生活 )r
(
2 集団づくり」論
綴方教育のなかに I
思いの統一 j になりかねない一 「集団づくり j論 16が生活指導分野で切り開いた
面があったこともまた否めず、その意味では、民主 新しい地平はなにか。それを要約すれば以下のよう
教育を標携する教育実践のなかにも、教育実践にお に指摘できょう 。
ける思想・内心の自由の保障について十分な自覚が ①子どもの公的関係の民主的構築 再編という生活
必ずしもあったわけではないことを浮き出させたこ 指導の新たな指導分野を提示した。
との意義は大きいものがあったといえる 。 公的関係が私的関係の中に取り込まれて心情的な
二つめの問題である人格形成における認識一行動 仲間意識に変質している日本的集団主義を、民主主
の関連性の問題についても、的をえている部分とそ 義に基礎を置く集団主義へと転換するには、公的関
うでない部分の両面ある 。 係をね的関係からいったん離陸させて、公的関係自
生活綴方教育は、生活を綴るつまり文章表現を手 体を民主的に構築-編成することの必要性を提起し
段としてそれを生かす教育方法である 。したがって、 たのである 。
生活綴方が言語を媒介とする認識と表現を軸にして この観点には、公的関係において権利主体として
人格形成を論ずることは当然のことである 。 「行動 とのように行動することが民主的な行動といえるの
の問題は、生活綴方教育運動のなかで、自覚的分析 か、その能力の実体を明らかにすべきという問題意
の対象とはなっていない J3 ことはまさにそのとお
1 識一認識中心の能力論に対する問題提起と、主権者
りであり、生活綴方の人格形成論が認識中心の主知 の育成を目的とする民主的公民教育としての側面に
主義的傾向をもっているという指摘も根拠のないこ おいて生活指導が果たすべき課題の鮮明化一生活指
とではない 14 導の概念規定における目的論上の問題提起が含まれ
だが、すべてを生活綴方に負わせることはできな ていた 。
い。小川も「学級づくり j が生活綴方だけでできる たしかにそれまでの生活綴方教育において集団が
とは 言 っておらず、「組織と活動」の指導が一方で 問題となるとき、そこでは親密な人間的結合の必要
必要なことを認めている 。15小川の見解は、単なる 性が説かれ、綴方にもとづいて相互に深く知り合い、
実践上の分担論という運動論的なものではない。子 理解し合い、共同の活動に取り組むことが強制され
どもの自治活動の指導が行政的に押さえられている ていたが、子どもの公的な関係と私的な関係を区別
状況にあって、教育学における人格形成論もまた未 することや、いかに民主的な公的関係を創りだすか
成熟にならざるをえなかった時代の制約としてとら ということは笑践課題として意識されてはいなかった 。
えるべきことであろう 。 しかしながら、ここでも注 公的な関係には、当然私的・人格的関係とは異な
目したいのはその批判が、人格形成論における精神 って契約的 -組織的行動が問題となる 。 「集団づく
主義の尻尾を断ち切ることのむつかしさと重要さを り」論は、公的関係の民主的構築・編成を貫く原理
浮かび上がらせたことである 。 として、自治という概念を提示して、民主的自治活
生活綴方教育が精神主義教育論そのものでないこ 動の展開にその実践研究の重点を置いた 。そこでは、
とは│明らかである 。 むしろ子どもとの講を埋めるた 民主的討議や決定の意味と具体的な方法を指導する
めに、子どもとその背後にある親や地域の生活現実 プログラムが提示され、討議 、決定、笑践の過程に
に深く入り込んで 、子どもや親に学ぶという実践的 おいてはたらくべき子ども自身の管理や指導の能力
態度をとったところにこそ生活綴方教師の真骨頂が の実体が提起され、それを訓練する実践が取り組ま
ある 。 しかしながら、人格形成論や教育指導論にお れた 。
ける理論的自覚において、認識への注目に比べて行 白j
台が民主的自治たるゆえんは、自治それ自体が
動への注目が不足していたという点においては、精 目的ではなく、人々の人間としての要求の実現や主
神主義の呪縛から解放されていない 一面もあった 。 権者としての社会参加のためにあるところにその本
その意味で、精神主義の克服が民主主義教育にとっ 領があることはいうまでもない。 その意味で、「集

7
0 ・人間文化
教育実践における精神主義と民主主義

団づくり」の自治論には 、 1
950
-60年代の生活綴方 義的人格形成論との対比でその意義を論じてみたい。
や問和教育運動が提起した「要求の組織化
」 論を民 「集団づくり j は、働きかけるものが働きかけら
主的自治論と結合させて論ずる観点も含まれていた れて自己を形成するという論理を人格形成論の基礎
ことに注目しなければならない。 にしている ヘ この論理は 、人間 存在の本質を対象
「集団づくり」論が、要求の組織化論という研究 的存在としてとらえる弁証法的決定論の立場にたつ
課題に対して新たに開拓した理論的知見は次の通り ものであり、人間の自己意識を自ら行う対象的活動
である 。 と不可分のものとしてとらえる 。
1
)第一に、要求を組織するとは、要求実現の見通 たしかに人 間は対象的存在であり、他に働きかけ
しを獲得させることであるという観点を明示した 。 る活動によって、すなわち働きかける過程やその結
すなわち、要求を実現可能性の観点から、すぐにで 果を通じて自己を確証する存在であるといえる 。対
も実現できるもの、努力をしてある条件を作り出せ 象に働きかける活動は、自 己の能力や思いを対象化
ばやがて実現できるもの、遠い将来において実現で する活動すなわち、主体的なものとして自己の内の
きるものに区別してとらえることを子どもに教える 閉じこめられていた自己の能力や思いを客体的なも
こと、いいかえれば子どものなかに見通しについて のとして表現することであり 、活動の過程における
の一定の認識を共有させることであるという点を提 具体的なできごとや活動の対象である相手(人や物
起した 。 全般をさす)に現れる変化や反応によって、主観的
二つには、要求は単に個人的-個別的な欲求の
2) な自己が客観的な自己として意識され硲証される 。
レベルにとどまらせないで、他の要求ともみあわせ 画家は実際に絵を書くという活動、大工は家を建て
られることで、共同のもの、正義 ・権利という価値 るという活動を通じて、その過程と結果において自
をもつものにまで高められるべきものという観点を 己の能力と思いを疑うことのできない客観的事実と
明示した 。そこには、要求の尊重の名のもとで要求 して知るのである 。
を共同の正義・権利にまで高めようとせず、子ども 自己を対象化する活動は、単にそれにとどまるも
に追随する児童中心主義的発想に対する警鐘がある。 のではない。 自己対象化の過程には、同時に 、人聞
三つには、要求を組織するとは、「行動を組織す
3) が創造 ・継承 ・蓄積してきた文化のなかに込められ
る」ことであると明示した 。すなわち要求 を達成す ているこれまでの人間の諸能力 =客体的に展開され
るための意志と行動とを結集する具体的で実際的な ている人間的な諸能力や情熱を自らの内に取り込ん
行動の組織化論が実践課題となることを提起した 。 で主体的なもの、わがものにする過程も含まれてい
そして悶つには、学校において子どもの生活を
4) る。 だからこそ、人間は対象的活動を通じて自己を
r
守 る = 保護」することを基傑にした要求の組織化 開示するだけでなく、人間的な能力や思いを新たに
論であるべきことを提起した 。要求の 組織化 とは、 獲得し自己を成長させる、つ まりそのときどきの自
子どもが大人の社会的闘争に加わ ったり、それを学 己の f
j限を脱却して発達することができるのである。
l
j
l
校に持ち込んだりすることを意味するのではない 。 さらに注意したいのは、ある対象的活動を行うと
学校と教師の任務と可能性を明確にすべきだという いうことは、そこに相手と自己の間にある関係がで
提起である 1
7 きるということであり、自己の意識と行動はその関
民主的自治論と結合した要求の組織化論の発展 係を前提としてゆくことになる 。私の意識というも
は、生活綴方教育における自治論の未発の契機を展 のも、なにか絶対的な │
守己完結の世界にあるのでは
開させたものである 。 さらにいえは、
それにとどまら なくて、他者に働きかけることによ って他者のなか
ず、終戦後の教育民主化のトレンドのなかで活発に に生じ変化するものの反映であり、その意味で他者
取り組まれたが 1
950年代に入ってから政治的に抑圧 との関係に規制されるものである 。
されて停滞気味であった子どもの自治活動を、 6
0年 教師としての私は、子どもへの働きかけと無関係
代を迎えて再度教育実践学の概念上に位置づけなお に存在するのではない。子どもに働きかける活動を
して活性化させようとするものであった 。 通して、子どもが示す反応のなかに教師としての私
② 人格形成における行為・行動の意義を強調して、 の現実がある O また、そのように子どもが反応する
精神主義的な人格形成論の欠陥をえぐった。 ことが、その時の夜、と子どもとの関係そのものである 。
「集団づくり J論が展開した人格形成論を精神主 このように人間は対象的存在として他者とある関

人間文化・ 7
1
教育実践における精神主義と民主主義

係をつくりながら生きている 。その関係は単に 一つ 大きなものがあるが、同時に行為 ・行動の原則とし


にとどまらず、さまざまな他者との関係が作られる 。 てこそ生きた思想としての意味をもっ。
子どもは教師との関係をもつことと並行して、家族 「集団づくり」の基礎にある人格形成論は、思想
との関係や友だちとの関係などさまざまな関係をも がコトパの次元を超えて 、人 々の生き方にまで具現
っ。 この入り組んだ関係の網の目になかに存在する 化されるには、行動によって「噛み直し、組み直さ
のが、社会的存在としての個人である 。 れ」ることが必要だという立場にたつのである。
人聞が社会的存在であるというのは、単純に社会 生活指導研究において 、精神主義がどのように議
によって規定されるというのではなく 、このような 論され、克服されてきたのかを簡単にふりかえって
社会的諸関係の網の目のなかに生きているというこ みた 。
とであり、人間の意識は社会的諸関係の総体の反映 特設道徳教育が精神主義の論理と教育方法を長ら
であるということができる 円
。 く保持していることに限らず、民主教育を襟携する
このような人間存在の把握から出てくる必然的な 教育実践においても精神主義的発想は無縁ではなか
結論の一つは、「意識の変革は関係そのものの変革 った。そして、今日「人権教育」が説かれるなかで、
なしには不可能である J却 ということである 。
i 精神主義論は再び三たび頭をもたげている 。我が国
精神主義に立つ教育指導論が、意識を問題にして 、 における精神主義の伝統は根強いことを改めて知る
意識のありかたを変えることを求めるのに対して、 ことができる 。
意識それ自体は問わずに行為・行動を問題にし、行
為・行動の自主的な展開とそこでの民主的関係の構 3.おわりにかえてー差別論と精神主義に関連して
築に指導の[1艮が向けられるという点が、対照的に異 人権論 、「人権教育 J論における精神主義の克服
なっている 。 に関連して 、若干の補足をしておわりにしたい。
精神主義は、 一定の教義 (
民主 的教説であると否 端的に問題を立てれば、差別のとらえ方をめぐる
とを間わず) を注入したり、形式を厳守させたり、 一つの論点として、差別意識と差別行為の関係をど
考え方 ・思想を直接関わせたり (
特設道徳のように うみるかという問題がある 。筆者は、差別概念にお
個人の中において「価値葛藤」を 体験させる内省的 いては差別意識と差別行為は区別して扱われること
な方法も個人の内で考え方を直接闘わせるものであ が必要だと考える 。差別は 具体的 な行為として侮辱
り、デイベートなどは対外的な論争という形態で考 したり排除したり忌避したりする行動を指して使わ
え方 ・思想を直接関わせるものである )する指導方 れるべき概念であり 、意識それ自体はたとえそれが
法を採用する 。 どのような内容のものであれ差別概念には含ませる
それに対して、「集団づくり」の人絡形成論は 、 べきではなかろうというのが筆者の立場である 。
「思仔、は子ども自身が形成するものであり、子どもた そもそも 、心のなかで何を思い考えるかはその人
ちの民主的な行動を保証し、指導することのなかで、 の自由であって、思った ことの内容それ自体で社会
行動からの跳ね返りを自主的に受け止めてくれるこ 的に非難 ・制裁されることはないというのが、民主
とを期待するだけだ。そこに思想、 ・信条の自由な形 主義の内心の自由の原理であろう 。極端な例でいえ
成を保障する民主主義教育の原 則l
を も貫徹されう ば、たとえある人が誰かを殺したいと 思 ったとして
る。
」すなわち、「思想の形成をもいわば行為 ・行動 も、そう思ったこと自体の社会的責任は問われない
の産物として形成してゆくJ"lという立場に立つ。 ということである 。
現実に殺人行為が行われたなら、
そこでは思想は無意味なものとして扱われるので 努になりその法的道義的責任が問われ社会的制裁が
はない。 恩惣を人格に定着させようとしてコトパで 加えられる 。
f
云えたり、心の持ち方を指示したり 、形を強要した ところが差別問題に関しては、この初歩的な原則
り、観念的に内省させたり 、むき出しの思惣的論争 があいまいにされてきたきらいがある。たとえば、
をさせたりする方法が、結局生きた思想を形成する 心のなかで差別的なことを思っただけでそれはもう
ことができないという主知主義や精神主義の矛盾を 差別であるというような言い方も 一部でされてき
みすえている 。思想、は思想として意味があるのでは た。 ここでは、思うこと=差別 とみなされている 。
なく 、人 々の生き方、行動の仕方にまで具現化 して つまり、差別概念は意識にも当てはまるとみなされ
こそ意味がある 。民主主義は思想それ自体の意味も ている 。

7
2 ・人間文化
教育実践における精神主義と民主主義

しかしながら、意識はそもそも測ることのできな 犬に声をかけている 。
いものである 。意識の実相は実は当人以外には測り 犬に対するこのイスラム教徒の態度の変化はどの
知れないことであって、第三者は決して知ることは ように説明できるのだろうか。彼女の犬に対する態
できないのである 。できるとするなら、操作的な手 度の変化は、滞在先の家族や犬と彼女との具体的な
段を用いて意識の一部を測定することができるのみ 関わり方のありかたに規制されているとみることが
である O それさえ意識の全体的な可変的構造を知り できる 。すなわち、滞在先の家族と彼女の関係が良
うるものではない。意識自体を差別として非難する 好で彼女は家族を信頼することができるようにな っ
ことは、本来客観的に測ることのできないものを測 たことや、自分の信頼するその家族が犬をかわいが
るという誤りを犯すという点が先ず問題である 。 さ る様子を日々目にしていること、そして彼女の意思
らに、もしそれをあえてするなら、測定者に対する とはかかわりなく犬の方が彼女に好意をよせて甘え
忠誠度や外見的形式 (
1きちんとした態度j、「立派 てくること、これらのことが彼女を犬に近づけたの
な決意の表明」など)をもって、本来測ることので であろう。そして犬とわずかでも応答の関係ができ
きない精神をあたかも分かるかのように憶断すると ると、その関係を基礎にしてとんどん応答関係が深
いう 二重の誤りを犯すことになることは、はじめに まっていったのである 。
のところで述べたとおりである 。 犬に対するイスラムの教えを彼女が否定した結
次に 、思うこと=差別という理解には、差別意識 果、犬への態度が変わったとみるのは現実にそくし
が差別行為を生むという意識決定論ともいうべき発 ていない。犬との具体的なかかわ りができ る前と後
想がある。しかしながら、意識それ自体は、自らが では、意識にも新たな変化や矛盾が生まれているだ
取り結ぶ諸関係の具体的なありかたによって規制さ ろう 。 しかし、その変化を生み出したのは、周りの
れるものであることはすでに述べた 。それは諸関係 人々や当の犬との彼女の具体的なかかわりのあ りか
の具体的なあり方に規定されて矛盾を卒み、したが たである。家族は彼女に意識を変えることを求める
ってまた可変的な構造をもっ複雑なものである O 意 ことはいっさいなかった 。犬が家族にとっていかに
識が行為を決定するというのは、この意識の被規定 愛すべき存在であろうと、彼女にも自分たちと同じ
性や可変性を無視した観念的な理解だと言わなけれ 感じ方や考え方を持つことを求めはしなかった 。 も
ばならない。 し、家族が考え方を変えることを彼女に求めていた
一例をあげよう 。海外から日本に留学しているイ ら、犬との新しい関係ができるどころか、家族との
スラム教徒の大学生の話である 。彼女は熱心な教徒 関係もギクシャクしたものになったにちがいなし、 。
で日本に来てからも、イスラム教の戒律を厳格に守 意識が行為を決定するという考え方では、彼女の
った生活をしている 。 イスラム教徒にとっては、犬 犬に対するこのような態度の変化を説明することは
は嫌われる存在である 。彼女の説明によれば、イス できない。
ラム教では犬は病気を逗ぶものとして嫌われてお 三つ 日に、もし意識が行為を決定するというのな
り、犬の体に触れることなどもってのほかのことだ 。 ら、非難されるのは行為にとどまらず、意識そのも
ところが、彼女の滞在先の家庭では犬を飼っている 。 のも非難の対象とならざるをえない。意識そのもの
来た当初、彼女は当然その犬を敬遠し、近づくこと を非難の対象にするということは、その人の人格そ
もなかった 。 ところが日が経るにしたがって、犬の れ自体を非難することになりかねない。具体的行為
方が彼女に近づくそぶりを見せ始めた。 彼女が家を を批判の対象にすることはあっても、その人の人格
出たり、帰宅したりするたびに犬は尻尾を振ってい そのものを非難することはあってはいけなし、。それ
かにも甘えたしぐさをして、つながれた鎖をいっぱ が、内心の自由を保障する人間関係のありかたの原
いに張って彼女の方に近寄ってくる 。やがて彼女は 則であるが、この民主主義原則か ら大きく はずれる
ときどき犬に声をかけるようになった。名前を呼ば ことになる O
れた犬はますます彼女に甘 えるそぶりをした 。する 教育の場面における教師と子どもの関係において
と彼女は、それまで遠巻きに見ながら声をかけてい も、子どもの行動に対する評価と人格に対する評価
たのが、もっと近く犬の鼻先ギリギリにまで近寄っ が混同されて、子どもを道徳的に非難することが意
て声をかけるようになった。今では 、まだ犬に触る 外に行われている 。それでは子どもの共感と納得を
ことはないが、いかにも楽しそうに、うれしそうに 得る指導とはならない。道徳的に批判をされる指導

人間文化・ 73
教育実践における精神主義と民主主義

を受けた子どもは、自責的な感情を抱き、自らに自 注
信を持てなくなる傾向がある 。心のなかで思うだけ (
1 管理主義教育 J新日本新書 、 1
) 城丸章夫 『 987
で差別だと教えられることは、いついかなる場合に 年、参照
もいっさい差別的なことを思わないという道徳律を (
2) 文部省 『
新しい道徳教育のために 』東洋館出
守ることのできない者は差別者だと教えられること 版社、 1
959年、参照.本書は、道徳、の時間を特設
を意味する 。道徳律を守ろうとする意識と道徳、律を するにあたって、文部省が全国で開催した伝達・
破ろうとする意識を先験的に措定して、道徳律に反 講習会における学者や文部省関係者の講演を収録
することを思うことカfないようにと心 t
i
l
fえを説くと したものであ り、特設道徳、の方法論的な基本が示
いうのは、人間の意識のありかたを観念的に分析し されている O
た空想的抽象であって、現実的な意識の分析ではな (
3) 吉田一郎 i
r人権教育』 と観念的道徳教育論」
い。にもかかわらずそのような心構えを求めるとい 『部落問題研究』第 1
43号 、1
998年
、 5月、参照
うことは、子どもにすれば実は自らの人格に対する (
4) 梅田修 i
r国連人権教育の 1
0年』と囲内行動計
絶えざる自己批判を強要されることに他ならない。 r
画の策定 J 部落 J部落問題研究所、 1
997年 1
1月
自らの意思で自主的に自己批判をすることと、他 、 3
号 3p
から自己批判を強要されることとは根本的に異なる 。 (
5) 梅田同上書 3
3p
人間の意識は矛盾に満ちたものであり、またそれ (
6) 梅田修「国連人権教育の 1
0年j と「人権教育」
ゆえ可変的なものであると述べたが、矛盾を自覚し 「部落』、1
999年 l月特別号参照
自己変革するのは、あくまでもその人自身の自律的 (
7
) 特設道徳に批判的な立場をとってきた研究者
な意思によるものでなければならなし、。そしてこれ のなかにも、現在政府が唱える「人権教育」に対
まで述べてきたように、意識の変革は意識それ自体 して楽観的な評価をする論調が一部で見られる 。
の変革として行われるのでなく、現実の関係の変革 例えば尾花清氏は、今回の学習指導要領の改訂
なしには不可能である 。意識の変革は、意識自体に 0998.1
2月告示)の基本的な理念について述べた
直接手をつけることではなく、逆に意識それ自体に 教育課程審議会答申 0998.7.) の評価に関連し
は自由を保障して直接手をつけないことが必要だと 、 1
て 958年の道徳特設以後今日まで「死語j に追
いう、ある意味では逆説的な真理があることを、生 いやられていた「人権j ということばが今回登場
活指導研究は明らかにしてきたのである 。現実の関 していることは、「文部省がどのような解釈をす
係における行為・行動の変化の産物として意識の変 るかは別として、「人権」が市民権をもった事実j
革も期待できるというのが、人格形成の一つの真理 として「決して過小評価しではならない Jと述べ
である。 ている 。 尾 花 i
青 「教 課 審 審 議 に み る 道 徳 教
ところが、精神主義、道徳、主義は直接的に意識そ 育の重大な l r
岐路 J 現代と教育』地域民主教育全
れ自身に働きかけることで 、意識を変革するという 国交流研究会編、第 4
2号、 1
998年 7月号
立場に立つ。それは思いかたを強要して、責め立て (
8) ここで引用した審議会での委員の発言 はすべ
るものと 言わねばならない。 て、「人権擁護推進審議会」会議議事録からのも
なお 、誤解のないようにひとことふれるが、筆者 のである。なお筆者の手元にあるのは現在のとこ
は意識の問題はどうでもよいなどというつもりはな ろ第 1
7回会議議事録 (
平成 1
0年 1
0月2
0日開催)分
い。人間の意識の矛盾的な性格、可変的な性格を踏 までである 。
まえつつ意識変革の可能性を信頼するものであ り
、 (
9) 小川太郎 『生活綴方と教育 』明治図書、 1
971
またそこに人間の知性の偉大さをみるものである 。 、 2
年 0-2
5p
問題は、意識変革の主人はだれかということであり、 (
10 1 前掲書 2
) 小)
1 6p
意識変革の論理はなにかということである 。 (
11) 城丸章夫「民主的行動と思想をどう育てるか」
心のなかを支配しないという民主主義の理念は、 生活指導J全国生活指導研究協議会編、 1
『 970年8
単に政治的民主主義の概念にとどまらず、人格形成 城丸章夫著作集』青木書)吉、 1
月号、 『 992年、第
の論理したがって教育指導の論理においても重要な 3巻所収、 1
56p
基本原則であることを、戦後生活指導研究が究明し 12
( ) 小川前掲書 23p
てきたことを確かめることができるのである 。 13
( ) 城 丸 前 掲 書 第 3巻 1
56p

74 ・人間文化
教育実践における精神主義と民主主義

(
14) 城 丸 前 掲 畜 第 3巻 1
56p することによって彼自身が変更・変革されるとい
(
15) 小 川 前 掲 喜 2
4p う論理に従うべき 。」と述べた 。城 丸 前掲「民
(
16) 1
958年に、教師の自主的研究組織として結成 主的思想と行動をとう育てるか」城丸著作集 第
された全国生活指導研究協議会の提唱した生活指 3巻 1
55-
156
p
導論を指す 。 その理論の概要は、 『
学級集団づく (
19) 以上の論述は、城丸の見解 (
前掲「民主的思
り入門 』 第二版、明治図書、 1
971年参照 . 想と行動をどう育てるか」著作集 第 3巻 1
58
(
17 生活指導における民主主義の原則 J
) 城丸章夫 「 160p) も参考にしつつ、吉田の見解を付け加え
生活指導 j 1
『 974年 7月号.前掲城丸著作集 第3 て行 った。
巻 1
90-
193p (
20) 城 k 同上者 1
60p
(
18) 城丸章夫は、この論理を説明して「司1[育の方 (
21) 城丸向上:',li' 1
60p
法は、人聞が環境に働きかけ、これを変更・変革

Comment
うめ だ お古む
教育研究の意昧 「意識」について 梅田 修
滋賀大学生涯学習教育研究センター

「差別意識」論が旺感である 。 かつて、同和対策 うした子どもの内面 (


心)にはふれるべきではない
審議会「答申 J(
1965年)は「心理的差別」なる用 ということか。 この質問への回答は慎重であるべき
語を作りだし、「心理的差別」とは「人々の観念や であると思ってきた 。
意識のうちに潜在する差別」であると説明した 。 こ 吉田 一郎氏の論稿は、この質問に直接答えるもの
れは、あたかも人々の心の中に「差別」が存在する になっていると読みとれた。[意識 j と「行為-行
かのような説明である 。 動」との関連を視野におきながら、戦後の生活指導
だが、「差別」概念は事実 (
実態 )概 念 と し て 理 研究の歩みにふれたものであるが、「現実の関係に
心) は「差別 Jとし
解されるべきであって、意識 ( おける行為 ・行動の変化の産物として意識の変革も
て問題にされるべきでない、というのが筆者の 立場 期待できるというのが、人格形成の 一 つの其理であ
である 。 したがって、「心理差別は差別ではない j る」ということが吉田氏の一応の結論である 。 この
と主張してきた 。 こう考えることで、「人は何を思 点は、「行動の中に精神を見る」という教育論など
っても自由である J(内心の白由 ) という近代民主 と綿密tに区 別 しつつ 、 さらに豊かに論証されること
主義の基本理念との整合性がはかられる 。 が期待される 。
ところが、学校の教師から時々次のように質問さ こうした「内外の自由 j の問題にとどまらず 、基
れた 。チどもは未熟であり、さまざまな誤解-偏見 本的人権に関わる論議は、子どもや寸こどもの教育の
をもち、意識の歪みもある 。 「内心の l
r巾」はおか 問題を視野におくことによって、い っそうの深まり
してはならないということであれば、学校では、こ がもたらされるのではないかと恩われる 。

人間文化 ・ 75
地域文化学とは何か



田舎の文化
白、手

谷 好
人間文化部 地蛾文化学科
一私の字を例に-
はじめに 示したのは f
Aの家の l
必合である 。夜、の家のシンルイ
先日、 4回生の上田洋平君につれられて、多賀の は例外的に少ない 。 もともと非農家だった私の家は
奥で野鍛冶をやっておられる松i r
lW
iさんを訪ねた 。 字の外にシンルイが多いのである 。 普通の家など、
“もう仕上がる寸前にねえ、「ああ、こら調子ょうい 少なくとも 6~ 7戸のシンルイを持っている 。 これ
った。まあありがたい今日はこんだけもうか ったな」 らのシンルイは葬儀の時、喪主に代わって 一切を取
って、瞬間に思うことあるんですわ 。 「これなんぼ りしき ってくれる 。葬儀屋の入るようにな った今で
なんぼ、あ、今日はこんで日当にな った
」 。 ほした も、葬儀は伝統にのっとって大事に行うべきものと
らその品もんは必ずとごっかで、うん、失敗してます 。 いうことにな っているから、シンルイの重要性は絶
[
巾111告]欲がどうしても起こりかける時はねえ、自 対的である 。
分の宗旨の仏さん拝むわけですな 。 「ああ、悪い欲
出した 。なまんだぶなまんだぶなまんだぶ」いうて、

山印
ほっとまあ、欲が消えますわなあ" (
上田君録音 )
職人には職人のディシプリン、文化がちゃんとあ 口口口口
る。近江商人などもまた独自の文化をも っていた 。
[日正﹂仁田口口

b
都市にはお茶やお華という高級文化がある 。 これら

口同千世田

口町﹂I
[口 E
は比較的分かり易いものである 。 わかり難いかも知 仁

れないが、 ]z野の稲作農村にも別の種類の文化があ
τ

ZH
る。それは字という共同体を支えている文化である 。
ここでは私の字を例にそうした文化を紹介したい 。
それは目立たないけれどもこれからの円本にとって

R関
は短めて重要なもののひとつになる、と考えるから
である 。

直 己 一 ﹂ 1/ 凪 門 ]

口 fコ

私の字
に己圧を﹁卜

松浦さんは谷 間 にほんの数軒だけで住んでおられ

E
る。私などからすると行者のような、あるいは仙人
出U戸 口 ﹁ 4
のような暮らしである 。 それに比べると私の字はは
るかに大きく開けていて、典型的な水田地帯の農村
である 。
i
)字 の 構 成
私の '
j豆、開発(カイホツ)の構成が図 1に示しで
ある 。約 1
30軒 が ゆ る い 塊村 を作っている 。 なかに
は神社 l、寺 5がある 。 この集落は lつの白治会を
作る lつの集同なのだが、それはまた、もう少し小
さい、いく稜類かの集団の積み重ねでもある 。 6種
類 か 7種類の集団がすこしずつメンバーシップを違
えて存在している 。 そのうちでも代表的なものは、
門U 門]悶幽

わが家に関していうならば① 檀家仲間、 ② シンルイ


と寺家
家門
屋法私
敷泉の

(親類)、 ③ 高谷一統の 3種類である 。 これらもまた [E 法泉寺


図に示しである 。

J
E家仲間については後に少し詳しく述べたいのだ 図 高谷一統

が、要するに願い寺を同じくする集│すl
が緩い塊をな
しているのである 。 日々の生活を見てみると、この 白 私の親類

集団がなかなか重要な役目を果たしている 。
図 1 私の字、開発の構成
シンルイというのは j
農い親戚のことである 。 同に

76 ・人間文化
田舎の文化

高谷一統としたものは 、高符姓を名乗り、自分遠 縁組みにかんして、私の字の場合はちゃんと調べ


の小さなお宮を守る集団である 。 これは戦国末、こ ていないのだが、幸い広の字から 2k
mほど離れた字、
の地に逃げて来た 一人の先祖の後奇ということにな 新庄のデータあるのでそれを紹介しておこう 。新庄
1日に皆で寄り集ま って会
っている 。毎年、正月の 1 は野iJ+1川付け替えの昨にその約半分が新設する川に
食する以外は実質的に作業をともにするとい ったよ かかるということで移転させられたのである O その
うなことはないのだが、一種の心理的連帯が存在し 折りに極めて克明な悉管調査がなされている O その
ている 。 資本│を分析してみると次のようなことがいえる 。昭
この他にもいろいろの小集団がある 。伊勢議、同 和4
6年 7月 3日現在、すなわち付け答え工事が完了
年、向こう 三軒両隣等々である 。 こうして私の乍は した直後の新庄 (
新しく作られた新庄東を含む )で
地縁的に相当,&,'に編みあげられている 。 見ると、そこの既婚火性の出白は次のようになって
i
i
) 似たもの夫婦 いる 。
多くの場合、夫婦は同じ字の中もしくは字は違 っ 総 数74人のなかで、同じ新庄生まれの人は 1
6名
ていても同じ都内の者同士が結婚するのだから、い 全体の 22%) 半径 2k
( m以内の近在の字から嫁いで
わば似たもの夫婦になっている 。性格が似ていると 来ている人 2
4名(32%)半径 4
km以内の字から嫁い
いう意味ではない。生活習慣が似ていて、地域に対 で来ている人 1
0名(14%) である 。
する常識を共有しているということである 。物心つ 遠くから嫁いで来ているという 1
0名の人も、その
いた頃から問じものを食べ、同じ回や畠を走りまわ うちの 7名は新庄から 8k
m以内の所から来ているの
り、大人達から同じような注意を受け成人したので である 。(原資料;守山市教育委員会、昭和 4
9年
ある 。似ているのは当たり前である 。似ているから 『野洲川改修事業に伴う民俗資料調査報告 J7-
22
家庭内の摩擦も少ない。 頁)
。 このあたりの字では、近在の者同士で結婚し
字では縁組みに│刻しては。、いわば常識があ った。 ていることカfよくわかる 。
その第一は、嫁は釣り合いのとれた家からもらうと 私の母(明治4
1年生まれ)の頃だと、縁組みの範
いうことである 。同じ程度の団地を持っている家同 囲はも っと限られていた。従兄妹同志で行うのがご
志、旧家なら旧家同志、といった釣り合いである 。 くごく普通であった 。 こんなことが私の字であった
そのうえで、両親がまともな人ということが求めら という 。ある若者が従妹がいるのに別の娘を嫁にも
れた。 まともというのは土地のルールに従うという らおうとした。すると、従妹の父親がその若者の家
ことである 。その後で、嫁さんの気だての良さ、器 に怒鳴りこみ、結局、その従妹が嫁になった。字の
量などが求められた 。要するに、土地の風習や、土 人達も皆「そら、当たり前やわな 。従妹がいるのゃ
地の秩序がまず第一 に考えられていたのである 。 から」といって娘の父親に加担した。母の一代前の

本堂修復の落慶法要に集ま
った壇家の人達

人間文化・ 77
田舎の文化

頃だと、叔父姪の結婚さえあったという 。 人々は出 この人達と 一緒にちゃんと生きて行こう、という気


来れば同じ字の人と、と同時に親戚から、というこ になるのである 。
とで、字はますます近い者同志で│首│
められるような 私のお寺では昨年 、本堂の屋根の葺き替えを行っ
格好になっていたのである 。 た。 3
,00
0万 円 余 が そ の た め に 必 要 に な った。 一 戸
もっ とも、近年はこれがおおいに崩れている 。 若 あたりの負担額は 1
00万円である 。 この件が起こっ
者は勤め先で知りあった他所の k性と結婚するケ ー たときも、それほどの反対者もなく、「ワシらの寺
スが多い 。 この方向に話が行くと地元の老人達はき ゃないケ」という発言があって、すんなりやろうと
まっていう 。 「近頃はすっかり変わ った。 ヨメは字 いうことに決ま った。即金では支払えなか ったので、
のことなど何一 つ知りませんし、主I
Lろうとしません 農協で借金をしたのだが、 l年後には立派に改修が
ナ。 かわいそうにアニだけが一 人で気をもんどりま 終わり、 J存度~ i
去要も賑やかに行われた 。都会でなら、
すワ 。」 似 た も の 夫 婦 は 崩 れ て き た の で あ る 。 その ちょ っ と考えられないことである 。 長い間都会の大
1
1
Iで長男だけは字の中で生きていくルールに縛られ 学になど勤めていた私は、「こんな時には大学だっ
て気をもんでいる 。 とはいえ、未だに都会に比べる たら文部省の補助金とか、どこかの財団からの寄贈
と字の夫婦には似たもの夫婦が多い 。 金というのを考えるのだがナ」などと 、不心得なこ
i
ij)檀家という社会 とを考えたりしていた 。
先に見た檀家の集団はどんな内容にな っているの 寺には背から和讃講や尼講といったものが作られ
だろうか。 それは次のような具合である 。 同じ檀家 ていて、人々の集まる仕組みがちゃんと出来ていた 。
の間ではやれ報恩講だ、ゃれオシル (
お汁) だとい 広どものお寺法泉寺の場合だとその和讃講の規約に
ってお互いの付き合いが極めて密である 。報思議と は次のように脅かれている o ① 1
5才以上の青年をも
いうのは、開 山の 親驚聖人のご恩に感謝するために って組織する、 ② 毎 月一回本堂で和讃読前、 ① 諮員
行うお勤めの会である 。 お寺で行う他に檀家がそれ の死亡があ っ た時は諮員 5~ 6 名が初七円の問、隔
ぞれ各仁│
の家で年に一度 、お 坊さんに来てもらって 夜、死者の家に付きそって弔う 。 また、 J
i
2J障の方に
行う 。正信{易と御和讃が唱え られる 。 これらはほと は次のように書いてある 。 ①毎 年 1回、尼講の報恩
んどの人がそらんじているから、お坊さんに導かれ 誌を行う、 ② 毎年 2同 (
正月と孟蘭盆) オシルの会
て唱和する 。一 時間足らずの唱和である 。それから、 を行う 。以上は大正時代に出来た速野村の 『
郷 土 誌』
御法話があり、お茶を一杯いただいて、ちょっとし に芥かれたものである 。 同書には、新しく、青年会
た雑談の後、 三 々五々帰っていく 。 たいてい夕食後 というのが作られたことも書かれている 。 この会の
に行われる 。檀家仲間はふつうは 30nくらいだから、 趣旨は「会員相互、交誼、親密ヲ保持シ、風俗ヲ矯
仮に 2同に I回 出席するとしても年に 1
5回、毎 月 少 正シ、智識ノ交換、道徳ヲ養成 シ、兼ネテ法義ヲ相
なくとも l回 は こ う し た 席 に 顔 を 1
1
¥すことになる 。 続スルニ在リ」としている 。 この趣旨にそって、農
報思議の他にオシルなとというものもある 。 さらに 閑期には夜、住職が会員に正信備と和讃、御文を教
一 周忌だの 三 回忌だのという年忌もある 。こうして 、 授 し て い た 。 これらのものは今ではそのいくつかが
桓家同志での付き合いの頻度は大変多いのである 。 消えたり形を崩したりしているが、その精神はまだ
こうした檀家は実際かなり強固な集団を作りうる 立派に生きている 。檀家組織は人々を精神的、道徳
仕組みになっている 。 それに参加すると、そのこと 的に鍛える道場のような場なのである 。
を強く感じさせられる 。例えば、唱和の効果は大き 檀家はまたもっと実際的な働きもしていた 。例え
く、それが人々を結びつけている 。 たかだか一 時間 ば、法泉寺米講というのがあった 。 これは、檀家 2
5
ほどのことなのだが、一緒に声を山していると、あ 戸から 1俵 ず つ 、 計2
5俵を集め 、 これを基金にして
あ、これが仲間なのだという気になってくる。それ 寺関係のいろいろの活動をしていた(速野村『郷土
と、もうひとつは御法話の威力がある 。 「日々、無 史j
)。 これが頼母子講的な役割までしていたのかど
事に過ごさせていただけるのは仏様のお陰です 。感 うかは分からないのだが、とにかく桓家仲間という
謝の気持ちを忘れないようにしましょう 。 お名号を のはこのように物質的にも相当強い地縁的集団を作
月えましょう
H j と繰り返し、繰り返し、 一年のうち っていたのである 。 そして、今もそうである 。
に何十遍も聞かされていると 、始めのうちはそれほ i
v)一人前の家
どでなくとも、だんだんありがたくな ってき、ああ、 私の乍では、 一 人前の家で、あるためにはいくつか

78 ・人間文化
田舎の文化

の条件が揃わなければならないと考えられている 。
その条件とはちゃんとした家屋と屋敷があり、同が
あり、墓があることである 。そういうものを持って
いて、なおかつ字の常識にのっとって行動すること、
それが一人前であるための条件なのである 。
まず家屋である 。 これは決して特別に立派なもの 仏壇

である必要はなし、。ただし、絶対に装備しなければ
縁先
ならない基本的なものがある 。それは仏壇と、開け
放せば2
0畳くらいにはなる畳の部屋である 。 これは

一般入口
靴脱ぎ

先に述べた報思議や年忌の時に必要なのである 。
仏国は大変立派である。間口は一間近い幅があり、 植込み

お坊さん入口
黒い漆塗りである 。細かい細工を 施した金具が多く
つけてある 。その扉を見ただけでも外国人だったら
嘆の声をあげるに違いない。 しっとりとした落ち
驚l
つきがあり、芸術品としても素晴らしいのである 。
扉を開くと真鍛の五具足がいろいろある 。花が飾ら
図 2 家屋と屋敷の一例
れ、{前l
仏飯が供えである O その奥にあるのは「南無
阿弥陀仏」の御名号と聖人の御民影である 。急にひ
とく形而下的な話で恐縮だが、これを今手に入れよ 回はもちろん非常に重要なものである 。ふつうは
うとするとどんなに安く見積もっても 1
,00
0万は下 7、 8反持っている 。 これだけあれば中流である 。
らないで あろう 。 この仏壇が仏聞に置かれている 。 かつては、水のかけひきで鏑を削りながら米を作り、
今でこそ私の字の家も大きくなったが背は質素なも それを巾心的な収入源としていた 。回を売ることは
のが多かった。そんな背から、こうした仏壇がちゃ f.Gだと考えられている。そんなことをすると
今でも J
んと置かれていた 。実際、家には不似合いな ぐらい ご先祖様に申し訳ない、と人々はいう 。
の立派なものであった 。 もう 一つ大事なのが墓である 。主主は字のはずれに
家の間取りは基本的には田字型である 。ふすまを 字全体のものがあり、どの家のご先祖もそこに限っ
取り外すと阿部屋が一部屋になるような構造になっ ておられる 。
背は木作りの簡単なものが多かったが、
ている 。報思議などの時は、こうして大部屋を作っ 最近では 00家先祖代々之墓という石碑が多い。墓
て大勢の人を入れたのである 。 を持 って いるということが、この字に古くから屑る
屋敷は持通の家だと 1
00坪から 3
00坪はある 。それ ということの証である O こういう家屋、屋敷、田、
が多くはマキの生垣で因われている 。屋敷の半分ぐ 墓というワンセットが字の正式メンバーであること
らいは州1である 。 ここでは季節の野菜が作られる 。 の必須条件である 。
背は秋になるとここは籾干場になった。 しかし今は ところで 、一人前の人間であるためにより大事な
J-菜畑
そういう必要もなくなったので、少し残した u
r ことは、これらをちゃんと使いこなせるということ
の外は果樹を植えたり、その一部をガレージにした である 。 例えば、こういうことである 。 報恩 ~IYf など
りしている。庭の一隅にはかならず消などが作られ が行われる│時である 。一般の人達とお坊さんは別の
ている 。 これは仏様やお墓用のイ Eとして作られてい 入り口からその家に入る 。一般のお参り客は普通の
るのである 。 入り口から入るのだが、お坊さんは、植え込みに人
夜、などは忙しさにまぎれて自分の:J:mを ITLだらけに り、そこから直接ザシキに入る(図 2)
。ザシキの
して荒らしていることがよくある 。すると近所の人 植え込みに而した所は縁先になっていて、そこには
が「今年はハクサイは作っときなさらんようですナ」 大きな石がひとつ置かれている 。 これは靴脱ぎであ
などといってハクサイやそのほかの野菜を持って来 る。お坊さんはそこからあがり、お勤めが終わると
てくれたりする。半分は荒らしているのを符められ そこから山ていかれる 。たとえ植え込みのない場合
ている訳だが、半分は親切である 。そういうのが屋 でも同じである 。 これはほんの一例だが、こういう
敷畠である 。 ルールを知らないと 一人前の人間とは認めてもらえ

人間文化・ 7
9
田舎の文化

ない。間違ってお坊さんを普段の入り口から講じ入 水をかすめ取られないように、あわよくば、隣の字
れたりなどしたら 、 とんでもない常識なしと思われ の水を少しぐらいは頂戴できるように努力したので
る。 ある 。
v)字というまとまり この点になると私の字は例外であった 。低湿地だ
字にちゃんと住もうとすると、まず第一に一人前 からどちらかというと農業用水確保にはそれほど苦
の人間である必要ーがある 。その次にちゃんとしたシ 労しなくてよかった 。そのかわり 、野洲川の決壊が
ンルイを持つことであり、また、どれかの檀家グル 常に大きな脅威であった 。この天井川が決壊すると、
ープに属していることである 。 この 3つが必要にな 田も家も 一気に流される 。昭和 28年の台風時には、
ってくる。これらは最も基本的なことといってよい 決壊によって、私の家も床上浸水が一週間ぐらい続
であろう 。だが同時に字という集団の一員でもあら いた 。畳も家具も多くのものが泥だらけになって大
ねばならない。上の 3つを包みこむような格好で字 変な Hにあった 。こんなこと が起こ っては困るので、
というものが存在しているのである 。私の字の場合 台風時などは字が一団となって堤防強化の作業を行
だと 1
30戸が一つの集団をなしている 。 しかも、こ うのである 。
れがまた運命共同体的なまとまりを作 っている 。 こうした字を単位とした活動を指導するのが区長
字がまとまっているのは 、かつて年貢を字単位で である 。今は自治会長といってる 。区長に選ばれる
納めねばならなかったということに直接関係してい のは人望のある人で 、一度選ばれてその役につくと
るのであろう 。 このことは第二次大戦中、それから なかなか引退させてもらえない。たいてい字の人達
戦後の米供出の時も同じであった 。誰かが怠けて割 はかけ値なしに最高の人を選ぶから 、その人が退く
り当てを納めることができないと、周りの人達がそ と字はまとまりを失う恐れがあるから 、引退させて
れを屑がわりしなければならなかった 。そんなこと もらえないのである。夜、達のあ たりには昔庄屋がい
があるので、お互いに励ましあい、あるいは悪くい て、こ の人の力で字がもって いたのだが、今の自治
えば相互監視しあって生きていた 。字は 一種の運命 会長というのは実質的にはそれとほとんど変わらな
共同体でもあるのである 。 いような働きをしている 。
かつて稲作がまだ主要ななりわいであった時だ 一度こんなことがあった。 自治会長がある提案を
と、例えば農業用水を字の全員で力を合わせて確保 し、「賛成の方は挙手を願いますj といった 。百余
するというようなことがあった 。回値期の水はどこ 名の出席者のうち、約三分の ーが手を挙げた。会長
でも不足した。だから 、こ れを字単位で奪いあった は即座に「ありがとうこやさ、いました 。多数で可決さ
のである 。 この時にはたいてい│廃の字が競争相手で れました」といった。すると 、その場にいた 一人が
あった。字では皆で一丸となって 、│
携の字の連中に 大声で、「会長さん、今、何票ありました?Jとク
レームをつけた 。「ここから 見た ら多数に見えまし
たがナ 。ほな皆さん 、 もう 一度挙手願います」 。今
度は 三分の 二強がサッと挙がった 。 「よろしおす
か?多数ですな j。会長の提案は可決された。
ここには字の人達と会長との関係が見事に現れて
いる 。最初の採決の時には多くの会員はたぶん安易
な気持ちで応じたのだ。だが、会長の、 一見無謀に
も見える 、だが断固とした態度を見て 、皆は 一瞬に
して事態を判断しなおした。そして 二度目には多く
の人が賛成に転じた。それは 決し て会長を恐れてな
どというものではない。会長 はよほ どよく考えてい
てくれるのだ、ということをあらためて知らされて、
いわば会長に全幅の信頼をおいて手をあげ直したの
である 。
字というのはこういう格好で一つの纏まりを作っ
山門に張り 出された落慶法要への懇志のリス ト
ている 。そんなのは茶番劇だ、民主主義が確立して

80 ・人間文化
田舎の文化

対私の同年(開発生れの同級
生)。毎年、盆、正月の 2回
会食をしている。

いない、という批判があるかも知れない 。たしかに、 人達だとこんな時、からきし駄目なのである 。だが


欧米風にいう民主主義は ここ にはない。それはそう 字の人の多くは堂々たる挨拶をする 。型にのっとっ
なのだが、ここには信頼があり、信頼を生かす知恵 て堂々とやるのである 。 こういうのを見ていると、
がある 。信頼に生きたほうが結局は得なのだという 田舎には型がある 。 まるで茶道のお手前にも匹敵す
知恵がある 。 るような型が日々の生活の中にあるとさえいいたく
なるのである 。
2 字の文化 知恵。 これも械かに存在している 。先に自治会で
上に見た字の様子から 、も し<字の文化 >とでも の採決の模様を紹介したが、これなどは字の人達の
いうべきものがあるとしたら、それはどういうもの 見事な知恵である 。教科書風に民主主義だの何だの
なのか、そのことを考えてみたい。私はかつて、そ といっていたら、とんでもないことにな って しまう
れは型、知恵、こころという側面から見ることが出 のである 。字の人間関係はえらくギスギスし 、分裂
来るとしたが ( 998 I
高谷好一, 1 自然共同体とエコ さえするかも知れない。字の人達は何も民主主義を
ロジー」原洋之介編著『地球の資源と開発 j 岩波書 否定しているわけではない。字というのは基本的に
庖所収)、そのことをもう 一度見てみたい。 民主的なものである 。ただ借り物の民主主義ではな
i)型、知恵、こころ く、本当の自分たちの知恵を 出し あって、民主的に
ひとつひとつの事象を型 、知恵、こころと、分類 やっているのである 。
してしまうことなどできるものではないのだが、強 もっとも、知恵とこころのふたつは普通は紙の表
いて 3つの側面に分けてみてみると次のようなこと 裏の如くひきはがしえないような状態で共存してい
がいえそうなのである。 る。先にあげた例だと、報恩講や本堂の屋根茸きに
屋敷地というのがちゃんとある 。その中に家があ それを見ることができる 。字の人達の宗教心が厚い
り、家は基本的に回字型であり、そのザシキの正面 からこういうことができるのである 。字の人達は立
に仏壇がおいである 。 これは一つの型としてよいの 派なこころを持っているということである 。確かに
であろう 。そして、この家の使い方がちゃんと決ま それはその通りなのである 。だが同時に実際にはこ
っている。先にはお坊さんは一般の入り口からは入 とはもう少しこみいった構造にもなっているのであ
らず 、直接ザシキに上られるとい った。 これもまた る。
型である 。 この種のことが字には極めて多い。 とい 報思議にお参りし、正信偶や阿弥陀経を皆で斉唱
うより、日々の生活はこうした型の連続であるとさ した時、私達は連帯感を覚える 。仲間と 一緒にいる
えいってよい。元日にはまだ暗いうちに神社に詣で、 のだということを間違いなく感じる 。御説法を聞い
それから寺に参り、皆で新年の挨拶を交す。その挨 た時、ああ有りがたいお話だ、教えの通り日々を感
拶の仕方がまた決まっている。元旦から始まり、年 謝とともに生きて行きたいと思う 。 これも嘘ではな
間のいくつかの紋日にはその日その日に行う挨拶の い。 また、あの落慶法要の時の人々の喜びも本当だ
仕方がちゃんと決まっており、さらには祝儀や香典 った 。金銭のことばかりしか考えていない日々の暮
の金額までが決まっている 。 これも型とい ってよい らしの中で、あの時ばかりは 、お金以外にも大事な
のではなかろうか。突然 、ちょっとした小集会が持 ことがあるのだということを実感した 。心があ った
たれ、誰かが挨拶をすることが必要になったと仮定 のである 。
してみよう 。私が京都にいた頃、 f
寸きあっていた友 しかし、よく考えてみると 、こ うしたことも一面

人間文化・ 8
1
田舎の文化

では本当なのだが一面では嘘なのである 。他の家の 多分、真宗を奉ずる私達門徒の多くは、このこと


報恩誌にお参りしておかないと、自分の家の時に来 を感じている 。だが、わざわざ私が今云ったように
てもらえないかも知れない。お参りが少なすぎたら 云ったりしない。私達の先祖崇拝は私達自身のもの
世間体が悪い。面倒だけれども付き合いでお参りし で、それは仏教とは少し違うのだヨ、などというこ
ておくか、という気持ちもある 。屋根の葺き替えの とをいったりはしない。そこは解っていて云わない、
場合にしても同じである 。出来たらお金は出したく それが字の人達のいわば大きな知恵なのである 。 こ
ない 。 だが一人で出資反対といい切る勇気がない 。 ころと知恵は幾重にも入れ篭状になって存在してい
だから、多くの人達は相手の出方を伺っていた。 こ る。
れ以上、消極的な態度をとり続けていると、ケチン 私がいう字の文化というのは 、このように脳幹に
ボ、信心のない奴、といわれそうだと判断したとき、 へばりついている先祖崇拝と基本的なところで深く
一挙に賛成にまわっている 。 ここにあるのは、この 結びついているのである。
字で住んでいくためのバランス感覚であり、いわば i
i
i) 高級文化との違い
ずる賢さである 。 こうしてみて来ると、こころと知 最近、文化に関して面白い論文を読んだ。同僚の
恵は本当に切り離しがたく、背中合わせになってく 村井康彦さんの「日本の伝統文化における個別性と
っついている 。 普遍性J(
梅原猛編著 『日本とは何なのかj平成 2,
i
i
) その底にあるもの NHKブ ァクス所収)である。村井さんはお華やお
お寺のこと、とりわけ真宗の檀家のことを繰り返 茶といった高級な文化を対象にしているのだが、こ
し書いたので、字のこころの中心は仏教的なもの、 うした文化は世の中の変化の荒波のなかでどうして
真宗的なものと恩われたかも知れない 。 しかし、そ 生きのびて来たのかということを議論している。そ
のように簡単に考えてしまわれると、これは誤解と れは個別性と普遍性をうまくパランスさせながらや
いうことになりそうである 。誤解を避けるために、 って来たから生きのびてきたというのである 。
この点についてもう少し補足しておきたい 。 村井さんは、日本の文化は基本的に二重構造にな
御講話を聴いて有り難いと思うのは事実だが、こ っているという 。「やまとごころ」とその上に乗っ
の時のインパクトよりももっと強烈なものを私など てきた中国文化、という二重の構造になっていると
はしばしば感じている 。それは御先祖に見られてい いうのである 。個別性というのはキ且っぽくいってし
るという感じである 。あまりひどいことをしていた まうと「やまとごころ j から出てくる 。 ところカfこ
りすると、御先祖から見放されてしまう 。場合によ の「やまとごころ」というのは場合によってはあま
っては罰を受ける 。 だからまともに生きて行こう 。 りにも個別的地域限定的なものであるから、他の人
と、こういう 一種の自己抑制である 。 しかもそれは には理解され難い。それで、、それを他の人にも分か
時に脅迫観念に近いものでさえあることがある 。だ つてもらおうとするとある種の変形が必要になって
からこそより強烈なのである 。 この御先祖は先祖 くる 。その変形、普遍化に当たって力のあったのが
代々の墓におられるのか、それとも仏壇の中におら 中国文化なのだというのである 。外来文化である中
れるのかそれは分からない。多分、両方におられる 国文化は必ずしも実用的である必要などない。むし
のであろう 。 ろ、格好がよければそれでよい。格好の良さで人を
この御先祖が、お寺を大事にしろヨ、親戚を大事 魅了し、人々の聞にその文化をおし広げていく 。
にしろヨ、近所付きあいを大事にしろヨ、と教えて 村井さんは次のようにいっている 。茶道は「時代
おられる 。だから大事にしているのである 。真宗の の生活様式に変化があっても、時代を超えて存続し
教えは、大昔から私達が持っているこの御先祖につ てきた 。生活そのものではなく、その抽象化、別の
いての感じ、いってみれば脳幹にこびりついている 云い方をすれば普遍化することによって成立したか
この考えを否定するものではなかった 。むしろ、そ らこそ、伝統文化となり得たのである J(p 1l 3~4)。
れでよいのだ、というかたちで入りこんできた 。だ 実生活から離れて、「非 日常化 、抽象化、形式化 J
から私達はその真宗の教えをそのまま素直に受け入 したからこそ人々に受け入れられ広がった、という
れた。だから、こころそのものも暁ではなく存在し のである 。 これは完全に的をえた考え方だと私は思
ているのである 。 こころは脳幹にも通じているので つ。
ある 。 ふつう私達が日本の文化といった時まず最初に思

82 ・人間文化
田舎の文化

い浮かべるのは茶道や華道などのこの高級文化、伝 になってしまったからである。こうして、最近は昔
統文化である 。 しかし、別の文化もまたあることに なら考えることも出来なかったような奇怪な事件が
気がつかねばならない 。それはすでにまえがきでも 頻発するようになった 。
触れたように職人の文化であり、商人の文化であり、 事態、は極めて深刻である。 一刻も早くこの状態か
百姓の文化であ るO 高級文化は抽象化し 、非日常化 ら脱却しなければならない。脱却にはどのような方
した文化である o それに対してこれら庶民の文化は 法があるのか。結局は、私達が棄て去ってしまった、
日常の文化である 。毎日の生活を実際に支えている 私達自身のもの、それをもう一度取 り戻すより他に
文化である 。先の文化の二重構造という点から見れ 方法はないだろう 。
取り 戻 して自分のこころで考え、
ば、高級文化は外来の文化の強い影響を受け、土地 自分の知恵で判断し、自分の足で歩くより手がない
から離れてしまったものである 。 これに対して庶民 のに違いない。
の文化、とりわけ字の文化はより「やまとごころ」 自分達自身のこころを取り戻すこと、自分達の固
に直に根 を張 った文化である 。 有な文化を見つめ直してみること、自分達自身の頭
で考えること、このことはいくら強調しでも強調の
何 故、今田舎の文化なのかーあとがきに代えて一 しすぎにはならない。 このことを私はいろいろの機
何故今、田舎の文化なのかという聞に対する答え 会に痛感する。最近だとこんな例をあげることがで
は非常に簡単である 。それは田舎の文化、字の文化 きる 。例えば、環境問題である O ホタルが住めるよ
が日本の社会を救う可能性が絶大だからである O うなきれいな水にしようという運動がある 。本当に
日本人はその後進性の故に、大変自信がなかった 。 結構なことである 。強力に推進すべきである。だが、
外来文化のみを良いものとして、自分たち自身が作 もしそれが地域の文化を無視するような格好で行わ
りあげた ものを本当に粗末にしてきた 。例えば、上 れるとしたらそれは大きな間違いである。自分達自
に見た都市の高級文化と田舎の文化の関係がそれで 身の頭を使わないでやるとしたら大きな間違いであ
あった 。脱生活化 し、非日常化した高級文化のみが る。そのホタルの飛び交う場が、アメリカハナミズ
もてはやされ、大事にされてきた 。 これに対して、 キの並木のある団地のような所ばか りに なることを
田舎の文化は無視され続けてきた。 前提として考えられているとしたら、これは大変具
戦後になるともっと大規模に 、この種の外来文化 合が悪い。日本はヨーロッパと違うのである。日本
礼讃が行われた 。 日本にもともとあ った 生き方はそ には日本の風景があり、日本の田舎がある 。 きれい
の全体が間違いであったということになって、いわ な水はそこを流れねばならないし、ホタルもそこで
ば文化の総入れ替えが推し進められてきた。旧来の 飛ばねばならないのである 。
生き方は迷信に満ちみちたものであった、だからも 時 に、非常に優秀な生態学者を見る 。善意にあふ
っと科学的にや らねばなら なし

。 旧来のやり方は封 れた環境支持者を見る 。だが、時にそういう人達の
建的であった、だから個を確立し、その上で民主的 中には在地の文化 に全く 注意を払わない人達がい
にやらね ばな らない。精神主義という のは空論だ、 る。第一、田舎に文化があるなどということは想像
経済発展こそが人を幸福にする 。 と、こういうこと さえしないような人がいる。だから、こういう人達
で私達はアメリカの考え方を導入して、文化の総入 は自分自身を信用 しないで、すぐにヨーロッパを手
れ替えを行ってきた 。 これによって私達が被った被 本にし、アメリカを手本にする 。 これでは、また今
害には計り知れないものがあった 。 までと同じま1 りを~~していることになるのである 。
このアメリカ文化の全面的受け入れで万事がうま 21
世紀はポストモダンの時代だといわれている 。
く行った のな ら、まだそ れも仕方 のない こととして ポストモダンとは何か。それは結局、モダンという
許せたかも知れない。 しかし、結果はそうではなか 外来文化を克服する時代ということである 。それぞ
った。個 人の権利 の主張のや りすぎで社会を致して れが皆、自分達自身の文化に自信と誇 りを持って生
しまった。とめどない欲望の追求 という ことでこの きて行く時代ということである。世界が皆、そうい
地球をすっかり汚し、疲弊させてしまった。もっと う生き方をする時代が来る、ということである。私
いけない ことは、私達自身が人間 として ボロボロ に 達もよほどしっかりと吐を据えでかからねばならな
なり、進んでいく方向を失ってしまった。理由は私 い。 こう思う時、田舎の文化、字の文化は俄然、極
達の本来のものを放棄し、私達自身がぬけが ら同然 めて大きく、極めて重要なものに見えてくるのである 。

人間文化 ・ 83
地域フォーラム

土山町の人と水 岡田玲子
水と文化研究会
の 2、土山町の湧き水

はじめに 南は国道 l号線を境界にしただけの区分で、一昔前
人間文化第 2号で、土 山町の全容を紹介しである の人々の生活はこの区分に は とらわれていなかっ
ので今回はすぐに本題に入りたいと思う 。
土山町は 、 た。おおよそ北の方の人ら(人々 )、南の方の人ら
鈴鹿の 山を背後に控えているため 、 きれいな 山の水 とい った感じがあった程度である 。 この地域は士 山
や地表の湧水の多い所て、ある 。現在町の行政機関な 町で現在は最も開発が進んだ地域であるが、ちょっ
どが「何々の名水」 なとと説明をしているものも含 と奥の方に入れば、 まだまだ以前の姿が残されてい
めて、土 山町の大字単位でそれぞれ数個の湧水があ るO 特に湧水は水が渇れて しま わない限り周りがコ
った 。「あった 。
j と過去形で書いたが、あったのは ンクリ ー 卜で「きれい」になっても 、7
J(を止めるわ
'
今から 4
0年ほど前 、上水道が普及する前のことであ けにはいかないのでショウ ズも コンクリ ー 卜で「き
るO 上水道の普及と共に使われなくなったり、近く れい」になる 。 この ように真新しくなったショウズ
の開発のため湧水が出なくな ったりして現在はその が土山町にいくつかあり、 北土 山にもきちんとなっ
大半がなくなってしまっている 。地元の人はあの道 たショウズカ fある 。 これはとてもよいショウスだっ
路工事のとき、あの工場ができたとき、あの工事の たそうで 、この隣の家は「ショウズの Sさんj と呼
ときなど、個々の i
勇水が出なくなった原因をあげる ばれたほど存在感があった 。
人も多い 。 しかし他の地域に比べて、土山町では山 南土山には今も野菜洗いや洗濯のゆすぎに使われ
や地表の湧水がまだまだ現役で、
使われている 。今回 ている「南士 山のショウズjがある O 国道 l号線か
はこれらの今も活躍している湧水を紹介しながら 、 ら少しはずれた所にあって 、このショウズのすごい
土山町の上水と 排水の様子をみてみたい 。 ところは、今も現役で活躍していることである 。私
ここで私の「よい水Jについての考えを明瞭にし が見に行ったほんの短い聞にも、おばあさんがラッ
ておきたい 。名水の説明書きによく出てくる「何々 キョウを洗いに来ていた。 また朝には近くの団地の
天皇がこの水を飲まれた」 とか「通りかかった誰々 若い主婦たちも洗濯のゆすぎにくるというから 、こ
が元気になった」などの一度限りのエピソードより れだけ開けた場所で使われている湧水としては最高
も、その周辺の人々 にとって生活になくてはならな の部類に入るだろう 。人口が最も多い所にあるので
い水、人々がたいへん大切にしてきた水を「よい水J 使う人も多いのだということになるのかもしれない
と定義しようと思う 。 もちろん集落の人々が大切に が、現在でも上水道より冷たくて 、 きれいで、しか
していたからこそ、よそから来られたお客様に差し も便利という水は他ではあ まり見られない。 この水
上げたであろうことは容易に想像がつく 。だから名 は昔はどんどん飲んで、いたおいしい水である 。 ここ
水の看板があがっている水がその地の良い水といえ で洗った菜っぱは家で洗い直しをし な くてよかっ
るのだが、私はそれ以外にも地域の住民にとってど た。昔は盆にはこ こでスイカを冷やしておいたが、
んな価値があったのかということに重点を置いて紹 今はスイカを入れておくとなくなってしまうので、
介したい 。 このような湧き水は上水道よりも「過去 ぶっそうでできない。今も 秋の漬物用の大根洗いの
の水j として片付けられないすばらしい価値を今も
もっている 。そのことを 、上水道が入る前の多様性
に富む上水のいろいろと 、上水利用とセッ トになっ
ている土 山田]の家庭排水処理の方法 を紹介するなか
で明らかにしたい。土山町の湧水利用では 、第ーに
は黒滝のオイドがあげられるが、これについては前
回に詳しく説明 しているので今回はそれ以外の水を
あげる 。 さらに 、同じような水利用の方法が豊岡市
にも見られることを紹介して、この文化の広がりを
示したい。

1
.1 南土山のショウズ 南土山のショウズ
土山 町で現在は最も人口も多く建築物も多い地域 立派に現役で活躍しているシ ョウズ。写真のおばあさん
は家でとれたラ ッキョを洗っている。
は、町役場周辺の北土山 、南土 山である 。 この北、

84 ・人間文化
土山町の人と水

時期になると 、 このショウスはいっぱいの人にな
る。

1
.2 青土のショウズ
国道 l号線を北に折れて野泌│
川側沿いに登って行
くと、野上野、西瀬音を通り青土の集落に着く 。 こ
のすぐ上流は大きな青土ダムができているのだが、
青土の集落からは全く見えないので、よそから見た
ものにとっては昔と変わらない静かな山間の集落に
見える 。青土は良い水が湧き出す 4つのショウズが
あり、その上「ゆすい J(田用水)の豊富な流れも
あるので、水と緑のあふれた集落である 。青土の
大正 3年生まれ)は、家に良い掘り井戸があ
さん (
り、飲料にはその日使うだけの水を水つぼに汲んて、
おき、ひしゃくでかいだして使った 。お風呂には井
戸の水を滑車の付いたつるべで汲んでバケツで運ん
だ。菜っぱ i
先いと洗濯のゆすぎは近くのショウズ‘へ 下の写真のショウズへ下りる石段と坂道
首は道もこんなにちゃんとしていなかったので、暗くな
行った 。 このショウズは、今は大変道が良くな った
ると危なくて洗い物には来れなかった。
とはいえ、それでもころげ落ちそうな急な坂道を下
りたところにある 。 ここを洗い物を持 って上がり下
りするのは大変だと思うが、集落の西の人々が全員、
このショウズで洗い物をしたし、今もどんどん使わ
れている。 上水道がで、きる前は忙しい時は 、夜タラ
イで洗濯をしておいて、 朝 このショウズ、へゆすぎに
行った 。夜はこのショウズの周りは真っ暗で足場も
悪く、行き来が危険で、ある 。 このショウズ、の水は飲
めるが、お米は家で、洗った 。 ショウズまで、持ってい
く手間をはぶいたものと恩われる 。
青土にはこのような良いショウスが 4つもあるの V ミミ;:;--~‘ P

、,
.、
ー‘
明、
、、 ヤ

に、それぞれのショウズに名前が付 いていない。各
青土のショウズの一つ。今もきれいで温かい水がでている。
家が使うショウズが決っていたためか、ショウズと
いえば自分の使うショウズのことである 。 しいて区
別するとすれば「川島さんの Fのショウズ」など、 洗う場所があった 。同へ入る水が回の手前でドード
ショウズの近くの家の名を付けて呼ぶが、それもシ ーと洛ちている場所で、こういうところで汚物を洗
ョウズのことを聞きに来たよそ者の私のために区別 った。だから汚物を洗う場所を「ドードー」と呼ん
してくれただけのことである 。 ということはショウ だ。 ここではおむつや、子供が汚したものなと去の汚
ズを使うに当たって、公から決められたグル ープと いものを洗った 。 この「ドードー 」の水は必ず回へ
か担当等が全くなく、自発的にできたグループのメ 入るようになっていたので汚水は集落へは全く入り
ンバ一個々人が自主的に管理している水て、あるとい 込まない仕組みになっていた 。
える 。だから自分の集落に全部でいくつショウスが
あろうとなかろうと、その人には何の関わりもなか 1.3 里、寺前のショウズ
ったのであろう 。 里は平野のまん中にある集落で、花枝神社の湧水
青土は井戸の水、ショウスの水、「ゆすい J(
田用 をヲ│いた 川が集落の中を流れている 。集落の1¥'は川
水の水路)にある洗い場など水には全く困らなかっ が目だっていて水が豊かな感じを与える 。花枝神社
た集落であるが、青土の集落で 1
0ヶ所ほどの汚物を の湧水は、この周辺の集落の人々がこぞって誉める

人間文化・ 85
土山町の人と水

J ぷさア唱歌穂掛京空吋・~'..--
., 干.~~~も 官、出宅泌-,
弘 明枝 、 品 川

良い水である。これを地元の人は「花枝さんの水 J
と呼んで 、この近郊の人の皆が生活の水に使ってい
た。「花枝さんの水」は 、里の集落までヲ│いてきて、
里の集落まで、
流れてきても、夏はお茶を冷やすほど
冷たく 、冬は 川面から湯気が出るほど温かい 。「

枝さんの水jの水源は花枝神社の前にあって、昔は
大きな池になっていたそうだが、今は全く面影はな 里
く「とにかく良い水だった」としか人々は表現でき 花枝さんから来る川の流れに添ってこういう共同の洗い
場がいくつもある。今も洗濯のゆすぎやいろんな洗い物
ないようだ。昔でも丁寧な家は、わざわざ花枝さん
に使っている。
の水源まで野菜を持って行って洗っていたそうだ。
今もそこからは豊富な水が出ているので、花枝さん
の池を再現しようとすればできるのに、と思うと残
念である 。里の集落はこのような良い湧水をヲ│いて
来ているのにその上、各家のイケ(掘り井戸)の水
は良い水が豊富に 出ていた。
これまでに私が見てきた限りでは、 i
勇水が豊富な
所は堀 井戸の水の出も良い 。各地を回っていると、
水はなんと片寄って出るものかと感じる 。水の少な
い所へはこの )
11の流れか、井戸の水かのどちらかを
持って行けたらと思った 。それをしているのが今の
上水道で 、 どんな場所にでも人が住めるようになっ
た。だから良い水が出ている所ほど、そこに住んだ 里
人々の歴史は古いといえるようだ。 「コイタンポJ
。家の外を流れる花枝さんの川の流れを家
「花枝さんの水j の流れを家の庭に取り込んだ の庭へ取り込んで洗い場にしたもの

(
ヲ│き込んだ )洗い場をコイタンポと呼ぶ。土山町
では他の集落でも 上水の水を i
留めて洗い場にしたも
のをコ イタンポと呼び、家庭雑排水を i
留めて利用し
やすくしたタメを単にタンポと呼ぶ。 このコイタン
ポが蒲生町でのトリコミカワトと同じものである 。
前回にも書いたが、土山町へ始めて行って「トリコ
ミカワ トjはありますかっ」と聞いて「そんなもん
ありません」と 言われて、私がまだあきらめきれず
に「蒲生町ではこんなカワトがたくさんあるのです
がねえ Jと写真を見せると「それなら土山にもある J
と案内してもらったのがコイタンポであった 。
タンポには現在でもコンクリートの立派な槽にな
って使われている現役のものもたくさんあって、土
山町では家庭での水についての話を出すと「タンポ
があってなあー」と、上水の話よりもまずタンポの
留めて
話題となるほど、どこの家でも家庭雑排水を l
いた。そのためか今も家の周りの側溝がない所が多
く、側溝だらけの家庭排水垂れ流しの所を見なれて
いる私には珍しい風景に見えた 。このタンポの水は 、
夕方になると畑へ桶で運んで、いって 一 日分の排水は 里。「タンポ」と「外ナガシJ
からにしておいた 。排水が増えてタンポの水を畑に 今も現役のタンポであるからバスクリンの水が入っている。

86 ・人間文化
土山町の人と水

運んで行くのがいやだったから、洗い物は何でも川 水が湧き出ている 。地元の人が「ゆっくり野菜を洗


へ洗いに行ったそうだ。土山町ではこのタンポのこ いたい時はここまで来た」というだけある温かさで
とをセセラギまたはセセナギ、ナガシサキまたはナ あった 。台所仕事をしたことがある人なら理解でき
ガシのイケまたはナガシのツボ、ノツボまたはツボ ると思うが、菜っぱの一枚一枚を洗いたいときは、
など地域によって呼び方が様々であるが大きさや形 ちょっとした水温の違いでも有難いものである 。手
態や用途はほとんど同じである。 の感覚がなくなるような水で は、菜っぱの細かい洗
L

里にはまた 、良いショウズがあ る。それを向い側 いなどやっていられない。昔は湯沸器のお湯が出な


の集落の三軒家など、よその集落の人々は「里のシ い生活であったので、水温の遠いによって、こまめ
ョウズ j と呼んだが、里の集落の人は単にショウズ に遠くまで洗いに出かけた。反対に夏はこのショウ
と呼ぶ。ここは現在でも何度行っても、必ず誰かが ズの水は大変冷たかったので茶畑に働く人達がこの
洗い物をしている 。里の集落は洗い物の水には大変 水を飲んでは仕事をした 。 このような良い湧水があ
恵まれていて、前述の花枝さんの水の流れの川には るところでは、夏でも水筒の用意は必要なかったわ
共同の洗い場がいくつもある上に、このショウズも けである。「オンパさんのショウズj の水は水量も
あるし、個人のコイタンポもあった 。 しかし向側の 豊富だったので、この流れが川 となり隣の集落へ流
三軒家の人々は 、洗い物にはこの「呈のショウズj れて、そこで洗濯のゆすぎに使われている。「オン
まで来なければならなかった 。 といっても昔は国道 パさんの水」 は前野で、は飲料又は野菜洗いにしか使
l号線がなかったので今ほど 、星までやってくるの わない。一般に土山では、良いショウズは食べ物洗
は大変で、はなかったかもしれない 。 いにしか使わずに洗濯のゆすぎには使わなかった 。
この「オンパさんの水」のある 山は オンパさんの
1.
4 前野のショウズ 山とい って前野の 山の神にな っていて l月 7日にお
前野は辺り一面のお茶畑がある 。 Kさん (
明治 4
5 祭りがある。 山の神の山の水だから、このショウズ
年生まれ)の家もお茶工場をしていて 、お茶の仕事 が良いショウズであるのか、水質その他でこのショ
をしてくれる人達の口に入る水と体から出る水の世 ウズが前野の他のショウズより良かったのか、前野
話が主婦である Kさん一人にかかっていた 。台所排 の他のショ ウズが全部なく なってしまっているので
水や風呂の排水はナガシサキに入ったので (
i留めた 今ではその水の中味の比較がで きなくなっている 。
ので)、この家は茶仕事の人達の風呂の排水の量が このように前野には他にもショウズがいくつもあっ
多く、畑へ担って運ぶのが大変だった。また茶仕事 た。例えば「お寺の前のショウズj は畳 2枚くらい
の人達の大勢の「おしり Jだったのでコエモチも日 の大きさの水たまりがあってそこから水が湧き出て
雇いで、手伝ってはもらったが、家で担当するのは主 いて 、近所の人 が菜っぱ洗いや洗濯に使っていた 。
婦の Kさん一人なので大変だった。 まさに Kさんの この洗い場の排水は田へ入っていて回の水になって
人生は排水処理とともにあったと言ってよい。上水 いた 。子供達は遊んだ足をここで、洗ってから家へ帰
道が来る前は 、前野は各家 に良い井戸があったので った 。普は家の掃除は子供がした というから 、子供
飲料水はそれを汲んで使ったが、菜つばを洗うのに も家を汚さないようにちゃんとショウズで足を i
先っ
は近くのショウズへ行き、洗濯のゆすぎにはショウ
ズの下の方や川へ行った。大きな洗い物や漬物用の
大根洗いには、野洲 川の 「良い 川原」へ洗いに行っ
た。「良い川原」とは、地元の人の定義ではリアカ
ーで川原まで下りられる所をいう 。
前野の茶畑のまん中にちょとした小 山があって、
そこに「オンパさんのショウズ」と地元の人が呼ん
でいる湧水がある 。 この水は町によって立てられた
「御場泉」という石柱と、その横に「垂仁天皇が・ ・
…j と書かれた説明書きの立札が立っている 。 この
立札は まだ新しく最近のも のと恩われるが、今でも
冬に行って実際に手を入れてみるとほんのり温かい 前野「オンパさんの水J

人間文化 ・ 87
土山町の人と水

てから家へ帰ったのだろう。 洗い物は川へ入ってザーザー洗った 。漬物用の大根


洗いの時は、川原に石を平に並べてむしろをひいて
1
.5 大沢のショウズ 各自の場所をこしらえて皆川へ並んで座 って話なが
大沢は甲賀町に接した山の中の集落である 。同じ ら洗った 。」とみんな言う 。上流にダムができてか
山の中の集落といっても山女原や大河原のように大 ら水がよどんで汚くなって 川原の石もぬるぬるする
きな川がそばを流れていないので、集落の感じは全 ようになったそうだ。
く違う。大沢は川がないので、田の水は昔は天水、 大河原では、みんなの家に掘り井戸があった 。 し
つまり}留め池の水ばかりに頼っていた。家庭上水は かもそのほとんどの家の井戸が「井戸やかたj とよ
各家に 一つずつ掘り井戸があり、生活の全部の水を ぶ小屋または部屋に 入って いる 。大き な「井戸やか
この井戸に頼っていた。 しかし集落には i
留め池から たj は、小屋というより都会の小さな家 一軒分くら
流れ出る小さな川や山の湧水のショウズがあちこち いの広さがある 。ここ以外の集落でも「井戸や かた」
にあり、洗い物は i
先う物によってそれらの水を使い は普通に見られるのだが、若い人達はこれからも使
留め i
分けていた。 l 也はいくつもあったが、すり鉢状 っていくのだろうか、と思うような手入れもされて
になっていて危なくて洗濯などには寄り付けなかっ いない「井戸やかた」が多い。 しかし、大河原、で‘は
た。 Fさん (
昭和 5年生まれ)は洗濯のゆすぎには 最近の新築の「井戸やかた」や新建材でできた「井
今も井戸の水を使うし、風日の水も冬は水温が高い 戸やかた Jなど、ちょっと外から見ただけでは分か
ため井戸の水を使う 。近所のおじいさんとおばあさ らないような「井戸やかた」がある 。 ここではこれ
んは今も毎朝井戸の水をつるべで汲み上げて顔を洗 から先も受け継がれていく水の生活がある 。
うそうだ。良い運動になるので毎日続けているらし このように皆の家に大変良い水の出る井戸があっ
い。大沢でもショウズでは食べ物しか洗わなくて、 たのだが、住民の感覚としては、井戸の水よりは山
洗濯のゆすぎには回の用水の川まで下りて洗いに行 の水の方が上なのか、大河原の富さんには山の水が
った 。 どうしてショウズでは食べ物しか洗わないの わざわざ引いである。土山問ではこのように、井戸
か理由は分からないようだが、大沢の Fさんは「シ の水より山の水、また井戸の水より川の水の方が上
ョウズは食べ物を洗う所である、という気がしてい という、平野音1
[での水の価値観とは逆の価値観が見
て、ショウスで洗濯をゆすぐと悪いような気がする」 られ、上水道も山の水よりも下に見られていること
そうだ。 もある 。 「どこの水が混ざっているかわからへん J
このように大沢は山の集落なので、家庭上水とタキ ので、上水道は気持ちが悪いそうだ 。 このように水
モノ (
燃料 )には困らな かったので、皆が交代でわ は豊富、山が近くて燃料は取り易いというわけで大
かす風呂やもらい風呂の習慣はなかったが、田の水 河原には平野部の集落でよくみられた「かたみ風呂」
は天水の l
留め池の水しかなかったので不足してい (
交代で、沸かす風巴)の習慣 はない 。風呂は毎日入
た。 っていたという。 このことは他の山の集溶でもほぼ

1
.6 大河原
野洲 川の最上流に位置するのが大河原の集落であ
る。土山町の山の集落は、川に添って昔の一里 (4
k
m) くらいの間隔で川の上流から下流へ点々と存在
していると考えれば良い。 ちょうど上の集落の水が
下の集落の田の水になる勾配がこの間隔になるそう
だ。土山町が町として立派なのは 、このような川の
最上流の集落は農業集落排水処理施設を完備してい
ることである 。 しかし、昔と比べて川の水がきたな
くなった、と嘆く人が多い。私から見れば今でも十
分きれいだと思うのだが、「河原も昔はもっときれ 大河原
いで、広い河原だ、った 。夏は布団洗いをして河原へ広 「シモムラJとよぷショウズ。上の方では飲み水に使い、
げて干した 。 また河原で、のりづけまでした。大きな 下の方では洗濯をした。今も野菜洗いに使われている。

88 ・人間文化
土山町の人と水

同様で、 5
0年ほど前、滋賀県の多くの地域に上水道
1の集落の人々の暮
もガスもなかったときは 、山間音¥
らしの方が今の暮らしに 近か ったのではないかと思
われる(昔は機械化されていないので水汲みも全部
人力によっていたことは忘れてはならないが)。
大河原の集落の下流からの入口に「シモムラ j と 鮎川東野
呼んだ良い湧水の洗い場がある 。今も野菜のくずが 川の流れを止めて洗い物をする。今も現役の川の流れである。
たくさん落ちているところをみれば、野菜洗いに使
われているようだ。私が行ったときは 1
2月であ った
が手を入れるとほのかに 温か い水で、あった。 Kさん
昭和 3
( 2年生まれ)が子供の 頃は、 小学校の帰りな
どにこの水を飲んで帰ったそうだ。 この洗い場は上
の方で飲み水や食べ物の洗いに使って、下の方で、洗
濯をゆすいでいた 。

1.
7 鮎河東野
青土ダムにそった道を登り終えると鮎河の集落が
ある 。鮎河は西野と東野に分かれているが、西野の
集落はダムの影響を受けて集落が移動したりしてい
るので、主に東野の集溶の話をしたい。 Sさん(大 鮎河東里子「センスJ
山の水の取り水を家へ引いて来てその水で洗い場をつく
正1
4年生まれ)の家では 、今から 1
0年ほど前までは
っている。
山の水と上水道の両方の水を使い、風呂の水と商売
にしていた豆腐づくりに は山の水を使 っていた。上
水道がくる前は、飲料水は堀井戸の水、菜っぱ洗い のは大変で、「セセナギj からとる方がよほど使利だ
や洗濯のゆすぎは谷川の水、風日は山の水と、水量 ったそうだ。だから堀井戸の思い出と 言 えば「汲み
や便利さによってそれぞれ使い分けていた。東野の 上 げ るのがめんどう 。つるべの水は水量が少ないj
たいていの家には井戸があったが、川の水の方が使 ということになるそうだ 。士山 の山の集落ではコエ
いやすく使利なので、洗い物は谷川の水を使った。 こ の薄めにはいくら水量が多くても川の水は使わな
この谷川 │
は 流れが速いので 、洗 い物をするときは川 い。家のそばを流れる川が少な い、急だということ
の幅の板をはめて谷川をせき止める 。板の高さの分 もあるが、使うな らセ セナキ、の水やユドノの水、そ
だけ水のたまりができ 、そこ で洗い物をする 。私が れで不足するなら井戸の水を入れた 。蒲生 I
I
I
Tでは川
訪れたときも、このようにして川を使っている様子 の水をどんどん使っているのをみると 、ここでも井
が見られたし、まな板や 、鍋や茶碗まで川の横に干 戸の水のランクが川の水よりも低いといえるのかも
してあって 、今も現役で使われている洗い場であ る しれない 。 また料理の排水はツノオケ (
桶の 一種)
ことがよくわかった 。 またか つては、 竹の筒で山 の をナガシの械に置いて、ここに入れた。例えば漬物
水をヲ│いて使う家もたくさんあった 。今は竹の代わ を洗った水や米のとぎ汁、おつゆやご飯の残りをこ
りに塩ビのパイプで 山の水をと っている 。 このヲ│い こに入れておいて、炊いて 牛 にやった 。 r
tAl気のあ
た山の水を i
留めた洗い場を「センス」という 。山の る排水はもったいない Jと全部ためておいて牛にや
水や「センス」の使用に は何の不自由もなく、現在 った。
もよく{吏われている 。
台所の排水は「セセナ ギj にためて、風呂の排水 1
.8 笹路(そそろ)
あ 1
;び は ら
は直径 1m くらいの「ユドノ Jとよぶ桶にためた 。 笹路川に添って上流に山女原、下 i
JlIに笹路の集落
少しでも 肥料分が欲しかったので「ユドノ」の水は がある 。笹路川は昔も今もきれいな水の流れである
可東野は上水には因らなかった
畑の潅水にした。鮎j が、上水道のなかった頃は、距離があったため日常
が、コエの薄めには井戸の水をいちいち汲み上げる のちょっとした洗い物には使わなかったが、洗濯の

人間文化・ 8
9
土山町の人と水

ゆすぎには川まで下りて行った 。各家には掘り井戸
や山の取り水が豊富にあったので、ちょっとした洗
い物は家で洗ったが、洗濯のゆすぎは川でする方が
手っとりばやかったのだろう 。笹路の Kさんの家は
井戸を掘っても水が出なかったから、山の取り水が
生活のすべての上水となっていた 。 Kさんがお嫁に
来た頃は、裏山から水を竹でひいて直径 l、 5mく
らいの木の桶 2つに生活の水を備えていた。 この山
の水のとり水は、竹の中に砂が入ったりして大変苦
労をした。その後、この形を改良して山の水を一度
大きな槽に i
留めた後、家の中に配管して使った 。 こ
の形式は水圧が少し低いだけで現在の上水道と同じ 片山
である 。Kさん宅で、は山の水だけで、生活していたが、 山の湧き水が写真手前のイケにたまり、ここから流れ出
た水でドンポリというため池をつくり、このドンボリを
他の家でも、井戸があっても山の水をヲ│いていた家
洗い場にしている
。 上水道がくる前は手前のイケの水だ
がたくさんある 。現在は山の水を大きな水槽に i
留め けで生活できた。
て、そこからパイプで各家に配管している 。 この水
槽はきれいに掃除をして山の水も現役で、使われてい
る。笹路では「小指くらいの太さの流れの山の水の な幸せな気になったのではないだろうか。
水源があれば3
0軒は養える」と普からいわれていた 山屋敷の N さん宅には 山の湧き水を i
留めておくイ
そうだ。 ケがあり、このイケから流れ出た水を i
留め j
也のよう
にした「ドンボリ」ですべての洗い物をしたが、洗
1
.9 片山 濯のゆすぎには川へ行った。 N さん宅は上水道が来
片山の集落は平野部の片町と山の集落の山屋敷が るまではこの山の湧き水だけを生活の水にしてい
一つになって、それぞれの集落の字を一つずっとっ た。今も昔と同じ様に、この 山の湧き水はあふれ出
て片山になったそうだが、水環境も 二つの集落で全 ているが、近所の山で使われている農薬などの心配
く違っている 。片町は、旧東海道沿いの平野部の水 もあり 、現在はあまり使わなくなった。
環境、つまり家の近くの小川に各家が小さな洗い場 土山では全域でいえることだが、この片山でも全
を持って、この小川の洗い場を個人または共同で使 ての家に「タンポ jがあった。ナガシの排水、風呂
っていた 。山屋敷の方は、山の湧き水を水源とする の排水なとe家庭雑排水全部がこの「タンポ jへ入っ
イナガワ

「ドンボリ」とよぶ個人の洗い場や稲川にある共同 た。 Iさんの家では 、「タンポ」の大きさは ー坪く


の大きな洗い場を使っていた 。 らいで石の橋がかけてあった。
片町の Iさん(大正 1
4年生まれ)の家の前にある 「タンポ」から使所へ通じる溝があって、「タン
川は、昔はこの川で洗い物をしたし、水をせき止め ポjの水位が上がると便所の 1
留めへ入るようになっ
て泳いだし、シジミもとったそうだ。今は川幅 5
0cm ていた 。 この「タンポjの水は畑の潅水にしたり、
ほどのコンクリートの小講に変わってしまっている 留
便所へもかいだして入れた。 もちろんこの便所の 1
ので、昔の川の様子はなかなか想像できない。 めの水は肥として柄で運んで、田畑で利用した 。正月
山屋敷にある稲川は、昔は土手が土でできたダ ラ などの餅っきで出る、たくさんのもち米のとぎ汁は
ダラとした Jr~ の川だったそうだが、現在は深い立派 風目にためて、この日だけは特別の米のとぎ汁の風
な護岸ができていて、川へ下りて行くこともできな 自にした 。 また、田の排水も、昔はよその「シリミ
くなっている 。昔は土手がダラダラした川なので、 トJ(
排水路へ入る水)が目分の回の用水になった
田の水の入れ方などで川の水があふれ出してくる場 から、回からの排水も一滴も J
I
!に入らなかったし、
所が日毎に変わったから、毎日洗い易い場所を見つ そのような余分の水もなかった。以上のように、各
けては洗い物をしたそうだ。 こういう点でも昔の主 家庭からも、各回からも一滴の排水も外へ出さない
婦は家事をするときにかなり頭を使 ったと思う 。良 しくみになっていたのである 。
い洗い場に出会った日など、ちょっと得をしたよう

9
0 ・人間文化
士山町の人と水

2 まとめにかえて ルに置き換えると滋賀県民のことになる 。ホタルも



を大切にするシステムの普遍性、兵庫県豊岡市の平尾邸の例かう 水、土、草、木、空間、飼など幅広い自然環境が必
土山の水利用を中心に一昔前の人々がいかに ;
J(を 要である 。このどれが欠けてもホタルは繁殖しない。
大切にしていたかをみてきた 。そこに現れる技術や コウノトリの話を聞いていて、遠く豊岡市まで来て
考え方の基本は、これまでに報告してきた湖東、湖 いることを忘れてしまっていた 。
南に共通していた 。 ここではそれらがさらに、兵庫
県豊岡市にも 残っていることを報告して 、「よい水」 2.
2 平尾邸について
の文化が近江特有のものではなく、大きな広がりを 「コウノ ト
リ エコミュ ージ アム」の資料による
もつ文化であったことを示したい。 と、「平尾家は近世以来、当地の名家であり 、農地
上記の土山の「タンポj、特に片山に残っている 解放以前は但馬地方では最大 、県下でも屈指の大地
排水システムと同様なものが豊岡市に残っていると 主であった。敷地は集落の 中央 に位置し 、集落には
いうことを知人から聞いて 、すぐに豊岡へ見に行っ 川がn
iK1する。一般の民家は 川沿いに建つが、平尾
てきた。この時 、豊岡市職員の佐藤昌夫さんには案 家は敷地内に 川を取り込んでおり 、集落内での地位
内や様々なことに大変お 世話 になったのでここで改 を示し、集落の構成とその 中に占 める地主階級の敷
めてお札を申 しあげたい。このような 町の文化 に対 地の構成が興味深い。中央の長屋門を入ると 、前方
する自発的な 熱心なボ ランテ イアがたくさん生まれ に川が貫通 して いる 。その背後に主屋が建っ てい る。
ている豊岡市に興味を持つと共にうらやましいとさ 以下略 )
( J
え感じた。都会人がもっ新しいエネルギーと古くか この説明にあるように、確かに大きく立派な御屋
ら人が住む落ち着きがほどよくマッチしている I
!
Tだ 敷であった。しかし、滋賀県で、は御屋敷で、なくとも
と思った。ここでこの豊 岡市の概略と 平尾家 の紹介 家の敷地の 中に川 を取り込 む事例は見られているの
をしたい。 で、川の取り込み方の地域差があるか、ないかは、
各地の事例を数多く調べてみないとなんとも言えな
2
.1 豊岡市について 、。

豊岡市は京都から 山陰本線 の特急列車で 2時間 以下、主に平尾家の上水 、排水について述べる 。
半、城崎温泉の少 し手前 の町 である。 日本海とほ ぼ 現在の飲み水は 山の水と 上水道の両方を使用
、 水の
同じ高度の円山川がゆったりと流れ、部分的な景色 床は山の水の方がおいしいので使い分けているそう
l
を見ていると琵琶湖の湖畔と錯覚するような町であ だ。上水道が来る前は、飲み水、米をとく¥食器洗
るが、日本海に面した豊岡市の地域もあり、海の幸 い、風邑の水 は山の水 、野菜洗いと洗濯のゆすぎは
にも恵 まれ ているところが滋賀県とは 大い に異な 川の水を用いていた 。屋敷の簡単な間取図にあるよ
る。いつの時1
-
¥,:からかコウノトリカfここにはたくさ うに、山の取り水が上のナガシの横の大きな水槽に
ん住んで、いたそうだが、今はすっかり姿を消してし ためられあふれ出ていて 、「上 のナガシ Jでの洗い
まっている 。 コウノトリの自耳となるドジョウやカエ 物が便利なようにできていた 。 また、上記で説明し
ルが生息できる田んぼや川
、 巣を作る高い木が生い たように門の側 には大きな 川の洗い場(豊岡ではこ
茂る 山林な どの自然環境がなくなってしまった結果 れをカワイ トと呼ぶ。一人が使うような小さな物か
らしい。今、豊岡市はこ のコ ウノトリを昔のように 隔が 1
らl 0m くらい あるよう な大きな物まで 川に面し
大空へ 自由 に舞上がらせようと努力している 。 この て段々に下りるようになったものをすべてカワイト
努力のお話を松島興治郎さん (コウノトリ保護増殖 といっている)があるので、ここで川の水を使って
センター長)に直接聞くことができた 。 コウノトリ 洗い物ができた 。
の人工飼育のなんと難しいことか。餌のドジョウの またこの平尾家の特徴は排水設備が完備している
生息する環境がどんなに難しいことか。一昔前は何 ことであるが、中ノk設備といえる洗い場がある o こ
も考えなくても、何もしなくてもあたりまえのよう れが子尾家で「イケ」又は「タメイケ」といわれて
にいたこの生き物たちを、よみがえらせることはど いるもので 、上記の「七のナガシ j の洗い物の排水
んなにたいへんか 、またこ のような環境が再現でき がこの「イケj にi
留められる。この「イケj は大き
たとき 、
未来の私達の生き方はどうすればいいのか、 さが 3m凹方く らい、深さ は50cm程度の i
留め にな
など話は全く尽きなかった。このコウノ ト
リ をホタ っていて 、ここで大きな洗い物、例えば味噌や醤油

人間文化・ 91
土山町の人と水

平 尾 家 間 取 り 図 (豊岡市役所職員佐藤昌夫さん作成の図に周排水を記入したものです)
ト 一仁 三h
焼却炉 +田や畑へ
田へ / l 水路

。 十 ドオケ
小屋
イナキタ ツ
オドロ
小屋
ワルキ

山の取り水(向かいの山から)

肥料

ナンド │ ナンド

庭 園

( 一旦 ほ
木入屋

土蔵 │
大工小屋

道 路

やi
u物の縛などをつけておいて洗った 。 またおひつ
なども i
漬けておいて洗った 。平尾 さんが子供のとき、
この「イケ Jに魚を入れたら魚は喜んだが(ご飯粒
なども入ってきているので)親にはしかられたそう
だ。 この「イケ」の羽 F
7<は「ドオケ」に入った 。 こ
J
.
:
の「ドオケ」は家の裏の庇の外に位置している排水
のタメのことである。 1mX2m、深さ 2m位の水
槽が埋まっていて、ここに「イケ」の水がたまる。
平尾さんは「ド オケのドは土のことだろう」といっ
ているので、この桶はしっくいかなにかでできてい
たのかもしれない。この「ドオケ」は、平尾邸があ
る森尾の集落 6
0軒の全部にあった 。皆の家が生活雑
排水を「ドオケ j にためて、桶でかいだして回や畑
の潅水にした 。 また平尾家には裏の 川に田へ入る川
があって、そこにあるカワイトでオシメや汚物を洗
った。 この排水は回に入った。家の近くに 川のない
家は村の川下にオシメ洗いの場所があ ってそこで素
足で川へ入って洗った 。
森尾の集落の他の家について補足すると、上水と
して 1
0粁に lつくらいの割合で掘り井戸があった 。
飲み水はそこで全部まかなっていた 。各井戸を使用
するグルーフ。
が決っていて、使う人と管理する人が
決っていた。風呂の水は子供が川から運んで入れて
平尾家の前庭にある力ワイト ( 1の洗い場)屋根があっ
J1
てもな くとも力ワイトと呼ぶ
92 ・人間文化
土山町の人と水

※恐れ入りますが、 8 4頁「土山町の人と水」の
Comme
ntとして 9
3頁に挿入して下さい。

C
omm
ent
っち ゃ
生活の煩雑さに思いをはせて 土屋敦夫
あつ お

滋賀県立大学人間文化学部生活文化学科

水と文化研究会の同回玲寸こさんによる、土山町の る。 おむつなどを洗 った m水は同に流す (


育 上)、
A
くをめぐるていねいな文化誌にふれて、「一昔前の 家庭用~\fI t
J
I
'水はためておいて知│に紛で運ぶ (里)、
人々」の、水を利!日する細やかな手法についていろ 台所と }!p.\,,=,, の排水はためて 畑 へ JTI っ て運ぶ ( 1líl~f)、
いろ教えられることが多かった 。 台所や胤片の排水は肥料分があるので畑の海水や肥
集終で利用される水にはいろいろな経類があっ 鮎i
のうすめにする ( "
f東野)、流しゃ風品なとの家
て、 fó~ むための氷、洗いゆすぐための水、汚れを ìJt 出の雑排 A
くはすべて便所のためといっしょにして、
い流すための水など区別されていた。飲むための水 J I
巴として 川J
:Iに運ぶ (
片山)というように 、家庭の
は少 Eでもきれいで信頼できるためられるか引かれ ~\fHl f.水は流してしまうものでな く 、肥料として利用
t
たりした水て、あ って 、菜 っぱなと、 をiJ いすすぐため しており、便所の肥と同じ抜いなのである 。さらに 、
の水は大量に流れてくる日Ijの水を使っていた。つま 泣け物を洗 った水や米のとぎ汁は塩分や養分なとが
り、冷たさ、信頼性、使われるべきときにそのJl
b
iJで あるため、日Ijにとっておいて炊いて牛にやる (
鮎河
J
静かに待っているというE!IlWI
J :
などが、飲むためや 片山子 )、というような利│
かさは悠くばかりである 。
煮炊きをするための水には必要なのであるのに刈 つまり J
打点は、役にたつ利用すべき水で、あり、外に
し、菜っぱや食器を i
先うためには、できれば冬 l
援か W
?i
1文せずに使い切ったのである 。 これでは川は汚れ
い湧き水がよく、どんどん流れてきて流し去る、お 。 ただし利 J
ようがな U、 I
Jするには、とうぜんとてつ
しげなく大量に使えるえKが利 j
日された 。つま り水に もない般会Lと労力が妥ボされた o 11Wたまる排水を、
は、ただ tp. にきれいさというような qt*l~ な問題その 柿に担いで、│
ーn:
J
IHに運ぶ仕事は大変だったという 。
ものよりも、その水が使われるとき、どのような状 岡田玲下さんは、土山町の用水と排水について、
態で使い手の前に刻れてくるかが重ヌーなのであ っ ぷと人の ~tjjl:i との関わりあいを液告されているが、
て、それによって煩雑さをいとわずにわざわざ洗い それはキf
l
l
)やかな配慮などというようななまやさしい
に出かけたりというように、いろいろイ史い分けられ ものではなく、徹底的に利用しつくすというある f

てきたのである 。 そしてその集落の置かれた自 r!~JJ;'{ の合理主義であって、そのためにはどのような煩雑
境により、山の水、川の水、井戸の水という水の粍 さもいとわなかったという「一昔前の人」の生きざ
類は、 1
三に入れやすさやその量など、使い手の前に まを教えてくれるのである。この生活態度は、おそ
さまざまな現れ方をしたため、それぞれの集落によ らく水に対するときだけでなく 、生活のすべての局
って利用される水は、いくぶん異なっていたようで 面にわたっていたのであろう 。 それにしても 、台所
jとしては、条'
ある 。水そのものの評価I 11
がよければ、 の排水も、風日の排水も、洗剤で洗濯した水も、さ
山の A
くがベストであり 、以下川の水、チ│戸の水 、水 らに浄化相を経ているとは いえ場合によっては便所
道の J
/
,というように評価 されたという 。水道の水の の尿尿も 、すべて 一緒くたにして外に流して 、はい
言平価カf低いのは、どこのとういうオくかよくわからな おしまいという乱暴な現在の家庭の排水システム
いという信頼性の低さによるという指摘はおもしろ は、いったいどのような感覚の史失から生まれたも
かっ f
こ。 のなのであろうか。
さらに興味深いのは、家庭からの t
il
:
水の問題で、あ

人筒文化・ 93
土山町の人と水

水をどれだけ入れて、どれだけし尿の務めにするか
考えて、風自の排水路の水の行き先を決めていた 。
また、 平尾家には土佐肥の小屋が特別に 一つ建ってい
る。 ここに l年分の堆肥を入れておいて、時間の経
ったものから使用していった。 この小屋の床は水は
平尾家の上ナガシの排水をためる「洗い場のタメ j。こ け用のすのこになっている 。 し尿処理や堆肥処理か
の水は中水として利用された。 らみても、昔は、肥料を手に入れることが、すなわ
ち農産物をたくさん取ることであった 。少しでも肥
いた 。 料の効率を考えた家が、皆のリーダーとなっていた
平尾邸の排水処理施設の最大の物が大きな便所の のかもしれない。
i
留めである 。 1
0坪近くある男女の便所と用具入れの 平尾家でいろいろ話をお聞きしている時も、私は
下が、使槽になっている。この使槽には上便所から 何度もはるか遠くの但馬まで来ていることを忘れて
運んできたし尿と風呂の排水が入る 。憎の中は 3つ しま って いた 。いつものように土山で聞き取りをし
の部屋に分かれていて、この 3つの摘をし尿が分解 ているような気になっていた 。 それほど水の生活、
しながら約 1カ月かかって通り、汲み取られるよう 排水の生活、水を大切にする生活は 家の大ノト、地域
になっている。汲み取り 口までや ってきたし尿は色 の別にかかわらず似ていた 。
は付いてはいるものの、形は全くなく、臭いも全く
なくなっているそうだ 。 これを肥料にする 。家の使 おかだれいこ/京都市生まれ。奈良で育ち、就職で
用人も数多くいたといっても、このようなシステム 滋賀県に移った。 10年ほど前より石部町に住む。
を管理者する専門の人を雇っていたというから、平 国の宝物が集まる奈良の文化に対して、滋賀には民
尾家の当主が、し尿処理に関して大変な関心を持っ 衆が守ってきた仏や労働の遺跡が集まっている 。滋
ていたといえる 。 このし尿処理の担当者が風呂の排 賀の文化の魅力に取りつかれ続けている 。

人間文化・ 93
地域フォーラム

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J
s/d
C5均/者万eO
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にし かわ かっ ひこ
西川勝彦
水口町長

地域社会の現在と未来を考えるには地域行政のあり方の検討が欠かせない。考現学特集に
あたって、水口町の西川勝彦町長に町行政の現状と未来についてうかがった。このインタビ
ューには次のいきさつがある 。西川町長は 『
地方での挑戦.
1 (右頁写真)を著し、地域行政に
対する基本方針と将来像を明瞭に打ち出されている 。本学部の高谷好ーがその本を紹介する
と同時に、基本方針に関するいくつかの疑問を提出したところ n
人間文化 j 4号)、これに
西川町長がコメン卜されるというやりとりがあった 。それを掘り下げてこれかうの地域社会
と行政の関係を考えてみようというのが、この企画である 。(黒田)
聞き手:黒田末書・ 武邑尚彦

黒田 西川町長の 『地方での挑戦』 を読 ませていた


1.都市的機能の充実した田舎を目指す
だきました。非常におもしろいと思 った反面、これ
は私どもの共通の認識なんですが、パラ色過ぎるな ・水口町の現状と将来
という感じを持ちました。素晴らしい計阿なんです 町長 水口の状況を説明しようとするときに、あの
が、実際のところ地域や、地域の人間関係を考えた 本では書ききれなかった部分がいくつかあります 。
ときに、まだいろいろな問題点があるんじゃないか、 水口町は 1
585年に中村一氏が古城山に城を築き、ま
そういうことにどのように取り組んで、おられるのか たそれ以前の古墳なと手が残っていることからもわか
ということを含めて、水口町での町行政とか地域社 るように、古い歴史を持った 町です。その歴史の中
会づくりについてうかがいたいと思 っております。 で、
水口町は城下町となり、そして宿場町という形を
まず I
I
J長の方から水口 町 というのはどういうとこ 作 ってきました。地理的に非常に集まりやすいとい
ろかということを簡単に説明していただいて 、それ うこともあ って、本にも書いておりますが商業もか
から、町長の行政方針と、今どのようなことに取り なり感んでした 。
組んでおられるのかについてお話しし ていただきた 現在の人口は水口町が3 6800人ぐらい、甲西田Tが
いと思います。 41300人ぐらいで、 町民の数ではかなり少ないんで
す。それで、も甲西町の住民の 中には、水口町が甲賀
郡を引 っ張っていってくれなあかんという思いをし
①さわやか交流イメ ージアップ事業(住民交流、
ておられる方もいます。風俗とか歴史の重みという
郷土意識、参画、情報 ー刺激)
言葉が適切かどうかは判りませんが、そのようなも
②水口健幸の森(安心、住民交流)
のが水口町にはあるんだと思います。 ご存じだと思
③シビックソ ン(便利ー住民交流)
④ 22世紀地球の森ソン(自然環境、情報 うんですけど財政力指数にしても、現在何ポイント
刺激) か甲西町より低い状況です。一時期、甲西町は不交
⑤若者文化創世事業(参画、自由、情報刺激) 付同体までな りましたが、水口はまだ一度もなって
⑥教育改革(教育、郷土意識) いないので、財政的にもちょっと後れをとっている
⑦伝統文化再興事業(郷土意識、住民交流) 部分があるんです。それでも水口はしっかりしなく
③広域行政(安全、便利、情 報 刺 激 )
てはいけないということ、よそには負けない何かカf
⑨国際的機能の充実(情報 。刺激)
あるということ、それが風格かな 、歴史かなと。そ
⑩ゼロ・ 工ミッション都市宣言(自然 環境、安
全、安心) のへんのところがだれとはなしに 、個々人が認識し
ているかどうかは別にして連綿と昔からあるみたい
表 10大プロジ、
エクトとそのキーワード です。それが第 lの点です。 しかし今言 ったような
ことは読み方によっては非常に誤解を受けやすいと
ころですので、あえて本の中には書きませんでした 。

94 ・人間文化
水口町における「地方での挑戦j

- 西 川 勝 彦 (にしかわ力つひと)

昭和 20年、甲賀郡貫生川町(合
併後の水口町)に生まれる。膳所
高校、京都大学工学部卒業後、銭
高組、東レ エンジニアリングを
経て、昭和 53年同西川建設を創
2点目は水口町で、は今現在、 3つ日の工業団地を 業。 63年水口町議会議員に当選。
造成しています。それに並行 して土地区画整理 など 平成 7年水口町長に当選、現在に
の手法で宅地造成もしています。 また、担い手育成 至る。
基盤整備事業ほ場整備と農村環境の整備等をや って
ます。 これらがうまく機能すれば、人口的にも甲賀
郡の兄貴という形になっていくだろうという思いを いただくことが出来ないかということを、この 3年
しています。 間町職員に言ってきました 。なかなか充分にいきま
3点目に今までは右肩上がりで、いろんなハード せんが、町民の方々にいくつか練習をしてもらって
面、いわゆる施設、箱ものを主に作ってきたという います。一朝一夕には変わりませんし、その結果が
流れがあり 、ま た、それをするのが、歴代町長の実 うまく出来ていない部分もたくさんありますが、そ
力だというような傾向がありました。水口町は 一般 ういう思いを町の職員もしてくれてますし、町民の
的にあるべき施設についてはお陰様で 、ほと んど設 中には理解してくれつつある人も何人かはいます 。
置が完了しています 。 1
00%とは 言いませんが、あ 何人というのが、何十人なのか、何百人なのかは、
るレベルまでの整備は済んでいるということです 。 まだまだ少ない方だと思いますが、 一生懸命やって
もうひとつ地理的にも歴史的にも昔から甲賀郡の中 いるという事です。
心地だったという事で、国や県の出先機関や君¥
1の施 書評に対する反論ですが、私の本が非常にパラ色
設もほとんど水口町にあるんです。たとえば郡立病 ゃないかと『人間文化 j第 4号に書いておられたと
院も水口町にありますし 、甲 賀郡町村会の事務局も いうことですが、今の時期は確かに雌伏の時期です
水口にあります。 が、もう 2~3 年、 4 ~ 5 年このままの状態が続い
ということで施設はほとんど揃っており、本に書 たらどうしようもないし、このままいけば日本はつ
かせてもらったのは今、他所にない、他所が考えな ぶれますよ 。 しかしながら日本人はそこまでパカゃ
いようなハードもソフトも含めた 1
0大プロジェクト ないので、とことんいけばやっぱり何らかの改革を
ということにな ったんです。ハードについては 3番 していきますよ 。明治維新もそうでしたし、戦後の
目の工業団地等がうまく機能して、税収が上がり、 復興もそうなんですけと 。 まだそこまでいってない
余裕が出来れば他の町との差別化とい うんですか 、 と逆に僕は考えているんです。あと 2 ~ 3 年このま
そういった面での充実をしていけばいいんじゃない まいけば日本の国は潰れるということになれば、
かと思っていますが。特にこれから先はハードばか 「火事場のくそ力」ゃないけど日本人はそれなりに
りではなく 、ソフトだという思いカfありましてああ まとまって対応していくんじゃないかと、日本人を
いう形になったんです。 信じたいですし 、信じています。
一方で行政面では現実に今継続的にやっているハ 6月 1日号の広報誌のコラム(私が町長就任後毎
ード面での仕事は止めるわけにもいきません。せ っ 月 1200 ~ 1
600
字で書いている)を見てください。今
かくある程度まで経費をかけているんですし、東京 の日本は最低の状況なのか、もう日本はだめなのか、
都ならいざ知らず、水口町ぐらいの規模の自治体で、 いいえ敢えて私はノーと言いたいと書かしていただ
今のシステムの中では「やめた」と 言 うわけ には行 きました 。書物やいろんな情報を総合してみると日
きません。途中で止めるのにも同じくらいのお金が 本は今はどうもメダカの学校みたいに右向け右、左
かかります。むしろ短い時間でいいものを提供する 向け左になっていて、誰も彼もが同じ方向で考えて
べきだと思 ってや っています。今の時代道路や河川 いるようです。私は全く逆で、冷静に判断すればま
の改修というのは当然必要なハードだと思ってや っ だまだ捨てたものじ ゃないという思いをしてます。
ていますけど、新規の箱ものについては少し待 とう 決して、 1
0のプロジェクトがすべてパラ色の世の中
かなと思っています。 を想定しているという事ではありませんし、当然こ
そのかわりと 言いますか本にも 書いてますが、ソ れらのプロジェクトが出来る時代が来るであろうと
フト商では町民 3万 5千人ひとりひとりに、 3万 5 いう気はしてます。
千役を担ってもらうこと、そのあたりを練習しても もうひとつ条件を 言 うと、単なる統計上の話です
らうためにいろんなイベントなり、行事なり施策な から、それが果たしてそのようになるかどうかはわ
りの実施に当た っては出来るだけ町民 自ら にや って かりませんが、今日たまたま出生率が1.39
人になっ

人間文化・ 95
水口町における「地方での挑戦j

A.目 標 達 成
まちづくり運動
行政が基本的にすべき 事業
と住民 ・企業等が身近な所で
目 標 運動として取り組めるまちづ
くり運動で ある

住みやすさ日本一のまちづくり
働き成果日本一の役場づくり l
パートナ シツプ型
住みやすさとは、安全なまちで、最高の仕事と健康で安 まちづくりの推進
心できる暮 らしが得られ、十分な教育 ・学習が受けられ、 行政
便利 な生活と自然環境に恵まれ、人間同士の交流が円滑か (働き成果日本一)
の役場づくり /
っそのふるさとに愛着と誇りが持て、主体的にまちづくり
に参画で き、自由な生きざま、出会 い ・感動を通して得ら
れる総合的な満足度であり、幸福感であ る

[
キーワード ]
①安 全 ②安心 ③教 育 @便 利 ⑤自然 ・環境
喧住民交流 ⑦郷土意識 @参 画 @自 由 ⑩情報 ・
刺激 B.目 標 達 成 複 合 戦 略
プロジェクト
住みやすさ 1 0項目の目標を
達成するために複合的 ・効率
的 ・戦 略 的 に 推 進 す る プ ロ
ジェクトである。

水口町の「住やすさ日本一のまちづくり Jの展開イメージ図

たという記事がありました 。 まだまだこれから子供 かり 書 いであるのではないと考えます。


が減るのかなと 心配になりましたが、厚生省の機関
で年金および人口問題研究所というのがあって、そ -都市的便利さと地域社会
この調査で 2
007
年に日本の人口がピークをむかえる 黒田 ありがとうございました 。水口 町の現状と将
ということです。その時の日本の人口は I億2
800万 来の方向のイメージがかなりわか ってきました 。
人でそれ以降はどんどん減少し、 2 05
0年に l億人に 、 伺いたい ことがたくさんあります。 プロジ ェクト
2
100年には 6
800
万人にまで減るそ うです 。 のこと、地域住民主体 の町づくり 、教育の 問題など
もうひとつ 19
95年対 2
025年、つまり 3
0年のスパン です。 まず私が 1
0大プロジェクトを読んだときに気
での推計では、 一方で 2 007年から全面的には人口が にな ったのは 、都市的便利さということが強調され
減るという予測があるにもかかわらず、 2 0
25年の時 過ぎてるのではないかということです。 田舎の住み
点で埼玉
、 沖縄、滋賀県では人口が増えているであ やすさ 、環境面でも 人間関係 においてでもですが、
ろうというのです。滋賀の場合は 1
995年対 2
025年が 田舎で、の濃い人間関係 、地域社会を主体 にした安心
1
23%になるであろう、という統計がある 。 日本全 できる人間関係と、都市 的な機能を充実した安全 な
国を見ても、もうすでに過疎、人口減少の地域が増 住環境や行政サービスの二つが、うまくからみ合う
えて 、約半分がそういう状況になってきています 。 のかなと疑問 を感じたんです。それを高谷好ー さん
滋賀県の市町 村 も約半分く らいはプラスマイナスゼ と武邑さんと 3人で話をして 、結局私達 3人と もが
ロかマ イナスと い う傾向にな ってい ます。2
025年に そういうところにちょっと疑問 を感じている、同じ
人口が増えるのはどこだということにな ってくると 認識だったとわかりました。パラ色で町の将来像が
滋賀県の中でも南半分、大津、草津、守 山
、 野洲、 描かれる 点 については 、高谷さんはちょっと待てよ
栗東、それに甲賀郡だということになります。蒲生、 とお っ しゃってますが、私は賛成なんです。
日野、竜王も飛行場がらみで半 I
Jりませんが。 この地 しかし 、都市的な機能 と行政サービ スの充実とい
域が増える確率が高いとな ってくると 、 さっ きの 1
0 う点には、例えば何か事件が起こった時にぱっとそ
大プロジ ェクトは決して無理なものじ ゃないと思え れに町民の 一人ひとりが一人の人間として対応でき
ます。 まあ人口増が町にと って全てプラスになると るかどうかという問題を考えますと不安が出てくる
は言 えないんですけれども 、 しかしやはり人口が増 のです。 というのは 、事件が起こ った時 には警察に
えると い う事はそれなりに発展の潜在能力があると まかせましょう、あるい は寝 た きり老人が出たとき
いう事です。それからすると線拠もなくパラ色ばっ には現在在宅ケアを進められておりますが、家族が

9
6 ・人間文化
水口町における「地方での挑戦

看ることを主体にするより 、行政サービスとし て行 高ければ高いほどいいという思いがあるんです。そ


政の方に見てもらいまし ょうというようなこと に進 ういった考えもあることを理解していただきたい 。
むのではないか。それはそれで一つの判断かも知れ 町報で正月に対談したとき、「都市的機能の充実
ませんが、それは老人が一人の人間として生きてい した限りない田舎を目指そう j という表現をしたん
くときに、Jlj
Jけ合いの手が家族にもあるし、地域に です。 これについては環境ゃいわゆる都市としての
もあるというような安心した 人間関係をこわす方向 利便性や文化など色んなことが入った田舎がいし、 。
へ向わないかということです。 自然も含めてね。それが一番理想とすべき形ではな
私は京都に住んでいるんですが、私もよく知って いかなと 。都会、今の東京や大阪は都市的機能は限
いる公園でこのあいだ中 ・高校生同士のいざこざで りなくあるけれども、田舎的なものが忘れられてい
中学生が殺されたんです。騒ぎがあった時隣近所の る。限りなく田舎やけれども都市的機能をもっ、出
人がちょっと声をかけるというようなことが出来て 来ればそうい った両面が備わった町を目指したい 。
たら、そういうことは防げたはずなんです。これは それがおかげさまで、水口の場合は出来るんですよ 。
自分に関係ないことはほっておくか、警察にお任せ 本の中にも書いてありますが例えば甲子園球場に阪
しなさいとというようなことが、進行した結果では 神の試合を見に行 って 、その日のうちに帰ってこれ
ないでしょうか。高谷さんが自戒をこめて言われる ると 。そのくらいで移動できるんやったら、そんな
のですけど 、東京の都電の中で、痴漢騒ぎがあった 。 に遠いこともないし、色々な文化にも接することが
ところがみんなジーとしていたというのです。痴漢 できる 。 また、今年びわ湖ホールが出来て、イタリ
叫んでい
がつかつかつかと逃げていって、女の人が l アオペラも見られるわけです。そうい ったところに
るんですが、その逃げていく痴漢を誰一人っかまえ 行ける利便性、時間距離ということが大切だと考え
ようとはしなかった 。高谷さんもひょっとしたら女 ます。例えばここから東京に行くのに 4時間ほどか
が勝手に騒いでるだけか も知れ ない、こういうこと かるんですが、新潟の上越市あたりからや ったら 2
は警察の領分だといいわけをし、跳びかかろうかど 時間で行けるという 。そういうふうに文化に接する
うか迷ったんですけど、結局みんなうつむいていて 距離、時間距離が近ければ近いほどいいというのも
誰一人として行動を起こさなかった。そういう風潮 あります。都会へ行って帰ってきて、 一夜あけて窓
が蔓延しています。そういうことを考えますと、私 を開ければ緑があふれている、そういう環境がええ
達は地域社会の生活を便利さ や行政サービスの面だ ゃないかと 。一方でいわゆる都市的機能、都市的な
けからとらえる考えを直さなくてはならないのじゃ 部分と田舎的な部分がほんとにうまく融合するんで
ないかと思うのです。 これは教育の問題でもありま すかという質問についてですが、別の例を挙げると、
すね。ハードとソフトの面のどちらも充実していか テレビやラジオが出来る前は田舎は限りない田舎や
なければならないという とき、ソ フトの面を考える ったやろし、都会は限りない都会ゃ ったと思います 。
ときに僕たちが忘れがちなところがあるんじゃない ところが都会の全ての情報が辺部な回舎まで届くよ
か、それを考え直さないと未来のビジョンを描いて うにな って都市的な考えなり、都市的な機能なりが
もむなしくはないかという気がします。 このことは 田舎に伝えられたときに反挺して遊離したかという
おいおいといろんな方面からデイスカッションして ことです 。 ヨーロ ッパでも アメリカでも当然日本で
いきたいと思います。 もそうですけどそれはそれでうまーく利用するべき
西川 一つには、パラ色過ぎてもいいと思って書い ものは利用してうまーく融合しているわけです。
ているんです。でも、手の届かないパラ色かという それともうひとつ先ほとと言ってお られました 、隣
と、そうでもない。確かに経済情勢なども影響しま は何をする人ぞと 。電車の 中で、痴漢がいたのに注意
すが、読んでいただく方に夢を抱いてもらう、夢を しなかったというのは最近の日本人の特徴なんで
持ってもらうとことも 必要だろう と思います。一方 す。日本 人が最近なくしてしまったものなんです 。
では本にも書きましたけれど、私 自身は 1
00%の努力 アメリカやヨーロッパでも犯罪はあ りますけど少な
をすれば届くというところは夢ではない、目標でも くとも特に困っている人とか、それから障害のある
ないと思っています。 ちょっとジャンプしたり、か 人に “Ma
y1h
elpy
ou?
" と必 ず言いますからね 。
なりの努力をしないと届かない目標や夢でないとい その辺を日本人だけが失ってしまったんです。それ
けない。 目標なり、夢なりは大きければ大きいほど、 をつきつめていくと教育なり 、宗教の問題になって

人間文化 ・ 97
水口町における 「地方での挑戦J

いくんです。終戦直後「いわゆる知識人」と言われ 杯してやって下さいということが基本だということ
る人は 、 まちがった自由だとか平等とかをあまりに です。だけと、それをやることによって、介護をす
も言い過ぎて今までの 日本人の良かったところ 、確 る人がつぶれるかもしれない 、 また親を恨むことに
かに戦争は悪かったけれど、それ以前からもってい なるかもしれないというぎりぎりまで介護して、そ
た、たとえば隣の子供も一緒に育てようゃないかと れ以上になった部分は行政として手助けしましょ
か、│焼のおじさんが困っていたら何とかしてあげよ う。助けるというとおかしいんですけど責任もって
うとか 、西に病む人があれば何とかという宮沢賢治 介護しましようと 。だから 2
4時間ホントにあなたが
の歌のような部分までも全部 Al
lnothing で否定 体力があって精神力があるんやったら、役場なり行
してしまったんですよ。教育基本法も憲法も大きな 政はお手伝いしませんよ 。全部自分でやってあげる
影響をしていますが、戦後 5
0年かかつて日本人は総 のが一番本人に良いわけで、やってあげて下さい 。
白痴総無道徳総無宗教になってしまったんです。少 でも、本人もつぶれ介護する側もつぶれてはいけま
なくともアメリカやヨ ーロ ッパでも犯罪は起きてる せんし、特に本人よりも介護する側をつぶさないた
し、当然悪いのもおりますけども、底流には、キリ めに、ある一定以上の部分を見てあげるというのが
スト教の精神が連綿と流れてます。 また特に韓国で 2
4時間対応なんです。すべて行政でやるということ
は儒教の精神が伝えられています。そういうのがな はないんです。
くなって怖いものなしになってしまったのが今の日 次に先ほども 言いましたが、いろんな町の行事な
本です 。 また、「いわゆる知識人 j がよく言うこと り、諮問委員会に、少しでも多くの町民に参加して
ですが、 一生懸命努力して工夫して金儲けした人が もらおうと考えてやってきました。行事なりに参加
悪もんや、金儲け 、カネ持ってるやつは悪いんやと、 した結果がいいか悪いか判断は別にして、私もそう
というようなことを発言してそういうのが定着して いうことに参加できるんやし発言もした、その結果、
しまった 。企業が大きくなればなったで、大きな企 悪かったけど、よし今度、もう 一回参加してやって
業は悪いことしてなったという風になる 。要するに やろうと 。そういうように町民の皆さんが思ってく
綿々と生活している人の方がすべて善だというよう れることによ って町づくりが広がってくると思いま
な風潮になっているんです。 す。町民の町づくりへの参加意識、そして自分が水
その辺のところを、水口町としては教育も含めて 、 口の町民やという思いが強まってくることが最終的
考えていかなあかんと思っています。教育というの には住みやすい町につながる、そういう考え方なん
は知育・徳育 ・体育です。知育も知識ゃなくて知恵、 です。
という部分を前面に出したような教育ゃないとあか
ん。ついでに言いますと今は子供に迎合した教育に
2.教育問題
なっていると思います。教育、教導つまり教え導く
ということは対等に立たないかん時も時にはありま -自立性と責任意識
すが、やっぱり引っ張っていくもんです。それには 黒田 よくわかりました 。ただ「田舎」のよさ、特
当然位置が高くないといかんわけです。例えば同じ に住みやすさのとらえ方について私たちと少し違う
人間ですけども、この役場組織の中では僕が一番発 なという気もします。滋賀の田舎の生活のよさにつ
言力がありますし、ある意味では位置的には高いと いて考えていらっしゃる武邑さんにお話をうかがい
ころにいるという認識があります。 こうした点を認 たいと思います。
識しているかどうかも含めて、教育の根本がまず歪 西川 すみません。 ちょっと待って下さい。 もうひ
んでしまっているように思っています。 とつ言おうと思っていたことがあるんです。公の役
隣は何をする 人ぞから始まってここまで話が来て 割ということで、現在は何でも役場や、国でしてく
しまったんですけど、もうひとつ 、介護のことにつ れというのが円本の国全体の流れになっています
いて話をしておきます。水口には 2
4時間対応の介護 が、外国は違うんですよ 。外国は税金を払った分だ
サービスがある 、役場がやっているということにな けしてくれと 。払わなかったらしていらないぞとい
っていますが、実はまるっきり違うんです。間違っ うことなんです。 日本人は「いわゆる知識人」が変
てもらったら図るのは、 2
4時間在宅介護というのは な教育をしたもんやから、払わへんけどしてくれと
家族で出来ることは家族でしてあげて下さい、精一 いう傾向なんです。例えは、私らゴミ出すけど、私の

98 ・人間文化
水口町における「地方での挑戦J

家の隣にはゴミ処分場はかなんでと 。でも行政はち -体罰をどう考えるか


ゃんとゴミの面倒を見なさい、責任持ちなさいと 。 西川 論争するわけではないんですが、もし学校の
私は子供作るけれども、子供はちゃんと国や町で見 先生が子供のいたずらに対して、頭をたたいたらど
てくれよと 。 うされます。体罰を子供が受けたときに親としてど
法律に書いてあるんです、国や地方自治体は児童 うされますか。
をちゃんと面倒みなあかんと書いてあるんです。 ゴ 黒田 それは 時 と場合によります。ホン卜に今ここ
ミは地方自治体が責任を持って処分せなあかんとな ではり倒さないとこいつは大きな間違いをしてしま
っているんです。 しかし、それだけでは今後どうし うという場合なら仕方ないと思いますが。
ようもありません。民(個人) と公とがやるべきこ 西川 許せますか。素直に許せます?
との区別はあると思うんです。何もかも全部公にさ 黒田 原則として私は体罰は反対なんです。私は山
せようとか、色んなことを公が全部してやろうとい に子供を連れていきます。山に連れていった時 、期
[I
うことがまちがっているんです。公がすることによ れていないものだからとんでもない危ないことをす
って民がだんだん怠けますし、本来の町民としての るんですよ 。 もし子供の行為によって、石が落ちて
責任を果たさなくなってしまうことがあります。今 人に迷惑をかけそうになったとしたら、そんなとき
の行政改革というのは民業を圧迫せず、即ち民で出 ははり倒すかもしれません。幸い怒鳴るだけでそう
来ることは民でしなさいという風な考えに立ってま いうことをしないで済んでいますが、それと 同 じ様
すし、僕もそうであるべきだと思います。 なことが学校でも起きる可能性はありますよね。一
黒田 それに関しては私も全く同感です。私たちは 般的に体罰は反対ですが。
少しでも公共に関わることだと、官がやることが当 西川 また教育の話になりますが、今の教育は何も
たり前で、 してもらうことに違和感を感じないこと かも図一的になっているんです。 一般的には体罰は
が多いですね。そういうことから生じる大きな問題 認めない、でも;
[犬況によってはたたいてもいいとい
は学校との関係です。私の家では家内ともども子供 うのがあってもいいと思うんです。
の教育は親の責任だと思ってますので、学校へお預 黒田 だから、体罰とは違うんです。その時思わず
けはするけれど全部任せるわけで、はない。こっちは それをやめさせようとパチンと出てしまうんです 。
学校に文句も言うし、子どもには家の用事をしない だから、それはめったに起こるものではないと思っ
と、きちんと自分のものを片づけてからでないと、 ています。
学校には迷惑をかけるかもしれないけれど学校には 西川 殺が子供に手を出して、親が今なおさなあか
行かさないこともある 。それから私はときどき子供 んと思った時とか色んな流れの中でパーンと殴った
を山や烏へ連れて行くんですが、その時は学校を休 ときには子供はそれなりにこれはやられたなと理解
ませることもあります。学校の先生にしたらえらい .
f
!を超えた体罰はあかんけれど
するんです。その理 p
j
勝手な親で困っているのかもしれませんが、学校の 理解できる体罰ゃったら僕はやってもいいと思うん
先生方に教育してもらうが、親が子どもにとって何 です。 ところが今の教育はとにかく先生という肩書
が良いのかを判断して、最終責任はこちらが持つん きを持っていたらどんな状況で、あっても殴ったらあ
だという姿勢を示しているつもりです。私たち夫婦 かんのですよ。ナイフ持ってきてても殴れへんので
は子供には学校は絶対いかなあかんところではなく すよ 。体罰したら先生、首ですよ 。 ところが子供の
て、行かないのならいかないでいい、そのかわり中 方はむちゃなことをしても少年院に行くだけ、いっ
学生だったら働け、お父さんはそのころ働いてた、 たところで 2、 3年経ったら少年院をでてくる 。罪
なんとか仕事を見つけるからやれと 言 うことにして を感じることのないままに 。 こういうことでは教育
るんです。親たちが学校まかせにするということは、 は出来へんなと思います。 ものすごく偏った考えや
子どもが一人の人間として、自分自身のことについ とひょっとして思われるかもしれませんが、一般的
て責任を持つように育てることを放棄しているので に体罰はあかんと十分理解した上で敢えて言うんで
はないかと思うのです。学校まかせではなく自分の すが、その辺までやっぱり踏み込んでいかんとこれ
ことは自分で考えることを子供の時から植え付ける からの中学生や高校生の教育は成り立っていかへん
ことは 、大事だと思っているんです。 と思います。
あなたは子供さんを、山に連れて行って鍛えるん

人間文化 ・ 99
水口町における 「地方での挑戦J

やとおっしゃいますが、そういうところまでも放棄 来るだけこれまで、の枠を取っ払って、いろんな試み
してしまった親はものすごく多いんです 。最近は子 をやっています。黒田さんなどは大学の近くにある
供を産んだから町が世話しなさいという不届きな親 休耕地を借りて、畑をやり始めています。なかなか
がいます。私は必ず怒りますけどね、そんな親がも 大変ですが、 一部の学生たちは手伝ってくれて、い
のすごく増えているんです。子供はできるだけ延長 ろんなことを感得しているようです。
保育で長いこと見て下さい、おしっこが一人ででき ところで、僕は栗東町の東のはしつこの田舎育ち
るように教えて下さい 。 ご飯も食べさせて下さい、 なんですが、田舎にもなかなか立派な文化がありま
と全部やらせてしかも土、日になったらおじいさん す。 これから先、本当に安全で安心して生ききり、
おばあさんに預ける 。 じいさん、ばあさんは喜んで 死にきることが出来る地域社会を作るには、どうい
世話するから母親の実家につれていくんです。結局 うふうにしてゆけばよいのか。我々はどういう生活
自分は 一週間ほとんど子供の世話せんと子供がいつ をすればよいのか。そういうことが具体的に問題に
の聞にか育 っているというのが最近増えている 。 こ なってきていると思うんです 。そういったときに、
んな状況ではろくな子供にならんですわ。 自分の責 田舎の文化 には学ぶべきものがたくさんある、そん
任がわからない育てかたゃから 。 なことを思っているんです。
黒田 その結果を引き受けさせられる先生も気の毒 先日も高谷さんと黒田さんと 三人で話していると
ですね。 ころへ一人の学生が来 ましたので、町長さんの本の
西川 気の毒というと 、そういういい加減な、私も 内容を紹介しましたら、「水口が中心になって色ん
含めてですが、親に育てられた 世代が先生にな って な施設を作って、そのまわりに小さな町がある、わ
いるんやから、子供もいい加減にしか育ちません。 れこそがと頑張って水口町中心の広域行政をやって
5年で l世代ですから、 3世代 7
大体 2 5年経ったら、 ゆく、そういうやり方はどこでもやっていることと
その国の思想は全部変わると思います。今、終戦か 一緒ゃないですか。」といった意見を述べました 。
ら5
2、3年、教育基本法は昭和 2
2年ですから、 5
1年 日本中どこでも、皆そういうやり方をしている 。誰
目ですわ。憲法、教育基本法、地方自治法、児童福 もがバラ色の夢を持てるようにしないといけない
祉法、これらは全部昭和 2
2年に制定されています 。 し、実際に具体的な何らかの方策を提示することは
ほぼ半世紀でこんなに変わるんかなと 。橋本内閣は 大事かと思います。町長が考えておられることはも
6番目に教育をあげてるんですが、 6番目ゃなくて、 っと地道 なことだということは、先程来のお話から
本当は I番目にあげなあかんと思いますが。教育を もよく分かっているのですが、学生が言ったのは、
まずやらんとこれから 50年経っても 75年経っても 要するに、余所もみな同じことを考えているのでは
10
0年経 っても 、日本の国はようならんと心配して ないでしょうかということです 。真 ん中があって、
います。 そのまわりに周辺があって、それで果たしてよいの
だろうかという疑問でしょうね。
3.田舎の文化の見直し 先ほども言いましたように、僕は栗東町のはしつ
この小さな村で生まれ育ちました 。石部町との境目
-あの世まで含めた生活を にある小さな村なんですが、若い頃はやっぱり夢も
武百 僕もいま町長が云われたことは、ほほ全面的 あって 、便利で合理的な生活や近代化といったこと
にその通りだと思っています。現代の日本人はどこ に憧れてきました 。今頃になって転向するのも何で
か魂といったものを無くしてしまったような気がし すが、これまでいろんな発展途上国に行かせて貰っ
ます。知識ばかりが肥大化して、自由や平等といっ てきて、いつも思うのは、「こんなに物がいっぱい
たことを知識と理屈だけで考えて 、こころと身体で ある豊かさに明け暮れていて、それで、よいのだろう
感じ考える力をなくしている 。 こんな状態でこのま か。
」ということです。「あまりにも便利すぎる 。イ

ま行くと、何もかもがもっとおかしくなっていくよ ともすまんことだ、申し訳ないことだ。j と思いま
うな気がしますね。そういう意味で、これから先が す。その反面では、こころの荒廃といったことを感
心配なんですが、それなら今どうするのかというこ じることが多い。途上国の田舎では人の心の豊かさ
とが非常に大切だろうと思います。だから自分で出 に出会うことがしばしばあります。住み着いて調査
来ることはまずやってみようと思って、大学でも出 をするとなると 、現地の人たちと同じ飯を食って、

1
00・人間文化
水口町における「地方での挑戦」

一緒の生活をしなければやってゆけませんが、そう ほとんどだそうです。 もちろん守山や草津からも来


いうことをしていると、高谷さんが言われるように、 られる 。それは新住民の方が圧倒 的に多いからでし
安全だけでなく安心というものが人々の中にあると ょうが、しかし田舎の人たちはなかなか行けない 。
いうことを感じます。たとえ物質的には貧しくとも、 百姓もしなければいけないし 、広 い庭や家の掃除も
どこか安心感あるいは安定感といったものがある 。 しなければいけない、近所づきあいもしなければい
それがどこから出てくる もの なのかよく分かりませ けない 。町住ま いの人にも回舎住まいの我々にも、
んが、 人は必ず死に往くものだということを考えま それぞれに違ったライフスタイルがある 。同じ栗東
すと、同じ村で顔見知りの人たちと暮らしながら死 町に住んでいる以上、これをどのように調和させて
を迎えるということが予想できているということ いったらよいのか、そのあたりに町づくりのポイン
は、安心感、安定感ということに繋がっているので トがあるように思 ってい ます。
はないかと思います。それに例えばタイの人などは、 ただ私が気 にな るのは、新 しい文化ホール とい っ
この世だけでなくあの世までを 含めた 人生を考え たようなものを作って行く方向は、こ れから 間違い
て、生活をしているような気がします。 この世だけ なくペイしなくなるのではないかということです。
で全ての l
帳尻が合わせられるとは考えていない。だ それでは 、これからの町づくりは 一体どう考えたら
から、ど こと なく生活にゆとりというか安心がある いいんだろうということになりますが、高谷さんな
のではないでしょうか。それに対して、現代の日本 んかは、これからは田舎に白を向けた方がいいとい
人はこの世だけにしか「いのち」がない ように考え われる 。私もそう思います。町 もそうですが、田舎
ているんじゃないでしょうかね。あの世とか、過去、 にも大変豊かな文化がある。今まではそれを古くさ
現在、未来に渡って「いのち」が繋がっているんだ いものだとか 、田 舎臭いものだとかいって、生活改
という考え方を戦後の科学万能主義の教育か何かで 善という旗 印を掲 げて 叩きつぶ してきたわけです
全部忘れさせられて、目に見えることしか信じない。 が、本当に要らないものだったのか。考えてみると、
そんな世界に安心という気持ちは持てるはずがな 人間の社会生活、特に地域の生活にと って大変重要
い。だからひたすら焦りに焦って、この世での帳尻 な意味を持っていたものが多いように患います。長
合わせにあくせくすることになる 。 自分らしく生き い年月をかけて生活の知恵を結集してきた、それが
るということを言いますが、そんな現実 はど こにも 地域の文化だと思うのです。
見当たらない。現代の若者は毎日たまらん思いで暮
らしていると思います よ。 -聖はる場をもっ生活
僕は僧籍にありますが、人はみな 6
0才を越える頃 例えば、今もしっかりと残されているものに、近
になると宗教、宗旨にかかわらず、「死」ということ 江の村には必ずお寺とお宮さんと墓地があって 、そ
を考え始めるようです。 つま り、どこに往くんだろ れぞれの家には仏壇と神棚がある 。それは ムラとイ
うと 。やっぱり命がスポッと切れてしまうとは考え エという人間の社会生活の基本単位に、いわば聖な
たくないみたいで、どこまでも繋がっていると考え る場所があるということです。そこでは人はなぜか
たいようです。でも田舎で百姓をしている人は、自 しら敬慶な気持 ちになる 。そしてそこでは自然に手
然と接しているせいか、どこか落ち着いておられる を合わせる 。そうすることで 、 自分を振り返り、周
し、第一ぽけない。不思議ですよね。生と死がいつ りとの関わりを振り返り、自分の命の源について考
も隣り合わせで、しかも生まれたものは必ず死に、 える 。そういう場が近江の村には今もしっかりと残
また新しい芽が出てきて花を咲かせて実をつける、 されている 。 これは非常に大切なことだと思います
そういう自然の摂理を百姓をしながら身をもって感 ね。それに近江の真宗のご門徒衆は大変立派な仏壇
じ取っているからでしょうかね。知識として知 って をも って おられる 。海外から来た学者などにこれを
いるというのではなく 、毎日 の生活の 中で身 をもっ 見せるとぴ、っくりします。 こんなに美しい美術工芸
て感じているんですね。 こういうところから生まれ 品をそれぞれの家が持 って いる、そして毎日それを
てくる田舎の文化というのは、 一朝一夕に出来上が 拝んで、いる 、こ れは凄いことだと言いますね。そし
ったも のではない、どこか凄いものをもっています。 てお寺で勤まる法要や在家で勤まる報思議に、みん
栗東でも文化ホールや歴史民俗資料館 とい ったも なで参り合いをする、そうした聴聞の風習が今も多
のを作っていますが、そこに来られるのは新住民が くの地域で行われている 。四つ住ま いの家の構造が

人間文化・ 1
01
水口町における「地方での挑戦J

なぜそうなっているのかを説明すると、実に合理的 ゃったら安心やという尺度がないんです。多分本に
だと驚きます。こういうことを知ると、彼らは近江 も書いていたと思うんですが、住みやすさ日本一の
には凄い文化があるのだとひ‘っくりしますね。私も 尺度は何ぞや。安全で安心で快適で、という尺度は
本当にそうだと思います。 何ぞやと言われると、実は町民一人一人の心の中に
しかし最近はこうしたことを古くさいことだとい ある尺度ですから、全部違うわけです。町民一人一
って、変えてい こうじゃないかという人もいます 。 人がある状況のなかで、私はこれで安全ゃなと思う
例えば、洋風の家を建てた方が何かと便利だという か思わないかによって、安全な町であるか安心な町
わけです 。めったに使わない仏間なんか不必要だ、 であるか快適な町であるかという差が出てくるわけ
四つ住まいは使い勝手が悪い、プライパシーが保て です。例えば事件なり事故なりがあったときにここ
る個室が必要だ、寺の本堂という施設があるのだか は安全ゃな いと移ってしまう人もあれば、それがあ
ら年忌法事なども家でしないで寺ですればいい、報 っても、まだまだ安全な田]やと思う人もあります 。
思議も参り合いは仕事があっで│亡しいから寺でまと たとえば事故なら事故、事件なら事件だけをとりあ
めて 一回で勤めて貰えばいい、お布施は今までと同 げて評価するんじゃなくて、今までの流れなり、他
じように各家でつつめば、坊さんも楽でいいじゃな の色んな要素を含めた中で、評価してほしい。たま
いか、そういった主張です。 しかしそういう人の論 に行政不信なんかがあると役場のやることは全部あ
理はすべて自分の都合は、かりが最優先されていて、 かんという)!B,になる 。
子や孫や近隣の人々がその生活文化から自然に身に このように人間の尺度を 一定にすることは出来ま
つける思いやりとか豊かさといったものを無視して J
I
せんので、せめて !
I 民の方々が一人でも多く、安全
いる 。そういうことに気がついていない、さびしい だ、安心だ、快適だと思ってくれる、住みやすい町
文化だと言わなければなりません。何でも合理的で やと思ってくれるように持っていくのが、漠然とし
ありさえすれば、それでいいという、合理化の一点 た言い方ですが、それが行政の仕事やと思っていま
張りでやってきた風潮を、このあたりで何とか変え す。住みやすさについて「個性が発揮できて、色ん
ないといけないという気がします。 な参画ができるように …・」と様々な条件を書きま
黒田 お葬式も合理化しつつありますよね。 したが、別の言い方をすれば町民の皆様に水口町.の
武邑 確かにそうです。私が極端だと思うのは、近 行政に対して自分のこととして心配してもらえるか
代化された斎場で火葬のときに点火ボタンさえ親族 どうかに集約できるのと違うかなという思いをして
の者が押さないようなところが出てきています。 自 います。心配をしてもらう 一方で、少々波風があ っ
分の身内の死さえもほとんど人任せになってきてい ても役場がなんとか治めてくれよるという信頼感を
る。 自らが手を下さない。これでは「いのち」の尊 Jにな
持 ってもらえれば、安心して住んでもらえる I
R
さをいくら言ったって、肌身に感じ取る体験が出来 ってきたということだと思います。 ひとつの例でい
ないのですから、どうにもなりませんよ 。いろんな えば、年金を払わない人とか社会保険を払わない人
ことをごちゃ混ぜにしてお話しして申し訳ありませ が特に若い人から出てきていますが、それはいま払
ん。回舎の良さとか、合理化の流れとかいうことは っても、自分が年とったときに必ず年金がもらえる
卜分理解しておられると思いますが、その辺を含め という信頼がないからです。だから国そのものが確
て町づくりをどうしてゆこうとお考えになっている 固たる方針を出して、まかせとけ、今までやってき
んだろうかということをお聞きしたいんですが。 た実績があるゃないかということをどーんといえる
立派な政治がなされれば、今のこんな日本の状況に
-住民か 5信頼される行政 はならなかったと思います。
西川 色んなことを言われて色んなことを考えなが また教育の話に戻りますが、今の国の総理大臣、
ら聞いていたんですが、そういう色んなことが絡み 国会議員、大会社のトップ、高級官僚、教育者をも
合って今の形があるわけです。だからどれが悪くて、 含めてみんなが、ある意味では確たる信念がないも
とれが原因で、これからどうなるんやとはなかなか のゃから国家そのものが、信頼されないという状況
わかりにくいところなんです。安全で安心で、という になってきている 。それは何から始まっているかと
ことですが、これは実のところどれが安全だ、例え いうと、平等のはき違え、自由のはき違えという点
ば何センチメートルあったら安全で、、何キログラム にも原因があると思うんです。 さっきおっしゃった

1
02・人間文化
水口町における「地方での挑戦J

│涛で痴漢されてるのに何で怒らへんのやという問題 ら当然範囲が広くなりますが、ひとつの集落全体で
ですが、実は終戦後ある時期まで悪いことをしたら 子供の面倒を見るという形があったと思うんです 。
罰せられるというのが割にはっきりあったと思うん それがだんだん小さくなって 、それこそ壁ひとつ離
です。 ところが、最近、特に人権ということが言わ れた隣がわからんようになってきているというのは
れ出してから変わってきました。人権が決して悪い 原因として杜会の流れがありますし、教育もあるで
ことじゃないし、当然人権問題、人権保護を進めな しょう 。そしていま言った人権問題もある 、等々色
あかんと思うんですが、最近の新聞論調にときどき んな問題が絡んで、きて、ここに至っているのかなと
書いているように 、「
い わゆる殺した人間の人権の 思います。根本的には国が教育の方針を変えていか
方が殺された人間の人権より重い」というながれが なあかんのです。 このことは水口町ひとつがし、くら
できました。死んで、しまった人に口はないから何に 努力しでも成就することではないんですか、それで
も言えへん、あとに残された家族は出来るだけ新聞 もあえて水 口町では、今言っ たような形でお互いに
報道とマスコミにさらされないようにということで 信頼し、みんながまちづくりに参加し、隣のことに
隠れて、 悶々とした日をおく っているのに 、殺した やさしい口をだし、絶対ごみを捨てない、それは人
方は疑わしきは罰せずで 、放免されることもある 。 に迷惑をかけるからやということがわかる、そうい
殺された人よりももうひとつ重要視されているそう う町民を、 l人でも 2人でも多く育てることが一番
いう部分があるんですね。だから何か注意して殴ら 安全で安心な町を作ることになるんじゃないだろう
れでも誰も助けてくれへんのやったら注意する必要 かと思います。なかなか難しいことですがやらねば
などないわ、という風になってくるんです。わずか なりません。
なところからだ、んだ‘ん広がって、今のそういう感覚 いままでの教育は国が統制する、文部省がという
になってきたということだと思います。 ことでやってきていますが、教育畑で働いている先
ここにいる私たちは年ひとつぐらいしか違いませ 生方にも悪い部分があります。というのは文部省が
んので 、同じような状況だ ったと思うん ですが、昭 言った通達 をツバメの雛ゃないけど口をあけて待 っ
和3
5年くらいまで、は良かったかなと思います。その てるんです。そうじゃなくて 、 ドイツあたりは外交
頃は子どもたちがまちがったことをすると、隣のお と防衛だけは園、 ドイツ連邦がやりますけれど、教
じさんが怒ってくれたんです。そのかわり隣の柿も 育は地域に任せてあるんです。だから日本でも滋賀
らって食 いよ りました わ。隣の家開けて 、冷蔵庫は 県の教育 、東京の教育、それこそ福岡の教育があ っ
まだなかったけどあそこの戸棚あけたら菓子が入っ てもいいと思うんです。それやったらある程度の年
ているとか鰻頭がおいたるとか知ってまして食べに になったら、福岡の教育へいきたかったらいったら
いきました。悪いことしたら怒られるけど、少々の いいわけで 、そういうような教育にした方が良いの
ことは目をつむって、みんなこの子供たちはわしら じゃないか、そうなってくると地域性も生かした教
の地域の子供や地球の子供やという感じで、見守って 育が出来て来るんじゃないか、と思いますし、その
くれた 。それが今はほんまになくなっています。 地域が好きで好きでたまらん人ゃったら、その地域
黒田 私のふるさとは岡山で、そんなに田舎じゃな の勉強をして、他の部分との比較をし、その地域を
かったんですけど、私の家だけ田舎風の作りだった よく知ることによって、今度はその地域の町づくり
んです。庭に ~jÉ でも入ってきて、縁側に誰でも座っ なり地域作りに参加していけるのではという思いが
ていた 。そういう開放的なところが、住居にもあり します。 また教育そのものが地に足がついてないん
ましたね。 やないかと思います 。僕は行つてないんですけど、
チベァトやモンゴルに行かれた人が、子供たちの目
-地域が主体の教育の必要性 が締いているというのが不思議でたまらんかった、
西川 距離的に違うかもしれませんが、例えば都会 と言うんですよ。このことは重要な問題を含んで、い
でも家並みが速なっているところや 、向こう 三粁両 ます。裸足で衣服はみすぼらしいし、当然冷暖房が
隣とか、路地裏はどの家でもみんな自分達の子供た なくて、勉強もそれこそ土の上に木で字を書いて覚
ち、自分達の仲間という形でお互い教育しあったと えるという状態で、円本とは比べようもないほどで
思うんです。そして田舎の場合はもうちょっと距離 悔いている。い
すが、それでも子供たちの目は光り j
が長くなります。家がぽつんぽつんしかないのだか わゆるボクシングやレスリングの選手がハングリー

人間文化 ・ 103
水口町における 「地方での挑戦」

でとにかく頂上をめざすんやということで死にもの 汗を流し 、身体で覚えるそういうカリキュラムの学


狂いで頑張った、そういう夢見る目をしている、と 校を、 l年か 2年経験するということにしたら 、今
いうのを聞きましてその辺にポイントがあるのかな お っ しゃってるようなことは 出来ると思うんです。
という気がします 。 その目を取り戻そうとすると 、 水口の場合は 2
72人の定員ですけど 、消防団があ
生活様式の問題になるのですが、こ こまで来た生活 ります。消防団の人、全部が全部とはいいませんが、
程度が変えられるかどうかです。 消防団に入って訓練をし 、それなりに上官の指示の
黒田 それはまあ無理でしょうね。 もと動くという命令体系を経験することによ って

西川 生活様式を変えることが出来れば、それはひ 今まで全然違う生活をしていた人が、それなりに変
ょっとすると、もうちょっと教育も変わるだろうし、 わっていきます。
文化も変わる、いろいろ変わ ってくると思うんで
す。 -田舎を生かした教育
黒田 さっ き知育といわれたこととも関連するんで 黒田 おっし ゃることはよくわかるんです。団体生
すけど、私達が育ってきた時期はあま りものがなく 活というのは楽しいものですし、そういうところで

、 柿 をも らっ て食ったり怒られたりしてきました 動く体を身につけるというのは面白いと思います 。
よね。今はもうそんな人間関係が全然ない 。そうい でもいま町長がお っ しゃったそういう場を作って訓
う地域のあり方を取り戻そうと思つでもなかなかむ 練するというのは 、 どうも 、中 央管理的な発想、があ
ずかしいのだけど、一つ取り 戻せそうかなというこ るように思うんですよ 。 わたしはも っと、例えば田
ともあります。それは体を動かしてものを覚えてい 舎の生活の中には子供がナイフが使い、イ本を使 って
くということ、それをやるべきじゃないかなと思っ 遊ぶということがまだ残っている 。爺ちゃん婆ち ゃ
ているんです。今の子供は頭で考えて 、覚えること んの作業を 見 ょう見まねで覚えていくということを
しか知らない。学校の先生も 、理科の実験を今はテ やろうとすればできる 。 そういう折角まだ‘残ってい
レビや 、パソコンで代用するようになってきていま る田舎の文化の形、そこでの体の使い方、人間のつ
す。そうして子供たちは、道具や薬品を扱う微妙な きあい方を覚える場を 、何とかもたせるというよう
体の使い方を 全然知らないまま実験をしたような気 なことをやった方が結局自立した人聞が出来てうま
になっています。それは 、今問題になっている普通 くいくんじゃないかと思うんです。
の子が「きれる」ということにも関係しているんじ 西川 今おっし ゃっ てることはよくわかるんです。
ゃないか。 ナイフの使い方も何も知らないか ら、か そのために例えば水口町の場合でしたら 、 もう 2、
っとな って振り回したときどういう結果になるかわ 3年で完成するんですけど、平成記念子どもの森が
からない。そもそも体を自由に動かしてものを作っ あります。 自然に恵まれたところで、今でも 一部開
たり遊んでいたら 、「きれる」というようなことが 放
、 利用 しながら例えばカブ トムシを育てたり、炭
起こらないんじゃないかと思うのです。小さいとき 焼きしたり 、あるいは 、藤でつくる箆とか 、花輪み
からナイフを使い 、はさみを使い録主を使うというよ たいやつを作 ったりしています。 しかしなかなか大
うな教育を何とかおこなえないだろうか 勢は参加してくれないんです。 しかも参加しでも 一
西川 それをしようと思った ら、わかりやすい表現 日とか 、半日です。それではどうしょうもない。そ
をすると 一番良いのは徴兵制度なんですよ 。徴兵や れでさっき 言 ったみたいな話になるんです。 日本全
戦争に賛成というわけじゃないですよ 。 システムと 国そういう傾向です。 田舎の水口で、さえ、そういう
して一番わかりやすいから徴兵といったんです。人 状況ですし 、もうひとつ言うと母親たちそのものが、
生8
0年の長い人生になったんだから 、2
0歳前の 1:
年 この辺で育った母親でも同じですが、都会から来ら
や l年半くらい 、今の自衛隊へ入れとかアメリカの れた母親は特にそうなんですが、 自然というのをど
アーミーに入れということじ ゃなくて 、サハイパル ういう風に考えているんや 、何 を言 うてるんやと 言
ゲームみたいなことをやれるところにいれて、それ いたくなるようなことがあり ます。例えば母親たち
を経験しないと大学へ入れませんよ、社会に出られ のいう自然、というのはあぜ道はま っすぐゃないとあ
ませんよという教育課程を作 って、それこそナイフ かんのです 。ゲジゲジやムカデがいるのは自然、
と違
の使い方か ら、殴られたらどんなにいたいか、どこ うんです。そういう 状況になってきている 。
を叩いたらどう痛いんやということまで全部教える、 黒囲 気持ち悪いですね。

1
04・人間文化
水口町における「地方での挑戦J

っしゃった文化を対象にする分野です。 ダサイ…..
西川 ダサイということを 言わんならんというのが
おかしいんで、それが文化なんだというふうに 。
黒田 残念ながらそういう風に思われがちなんです。
しかし、武邑さんがよくおっしゃるんですが、美し

jt
i戸、事 い生活の型、折り目正しい所作の型が田舎には、特
に滋賀には残っています。私は大学の周り でよくお
町内の外国人
、 小中学生が田植えにチャレンジ じいさんおばあさんと話するんですが、 8
5歳から 9
0
歳ぐらいのおばあさんの集団が畑作業してるんです。
西川 そうでしょう 。 自然というのはかびも生え り みんな腰が曲がってますけどもいつもニコニコして、
や、ばい菌もいる 。石をめくればゲジゲジやムカデ ちょっとあんた、ここにネギ吊るしとくからな、帰
も、下手したらまむしも跳んできよるというのが自 りに持っていきなさいと気まで使ってくれる O 楽し
然なんです。天然なんです。ところが今の人たちの 首しかけてくださるし、 t
そうに 5 失拶もきちんとして
自然は全然違う 。あぜ道はまっすぐでないといかん、 下さるんです。家に伺っても挨拶からひとつひとつ
蜂は飛んで、きても絶対に刺さない。私たちは蜂は刺 の所作を見てますと、本当に洗練された文化だと思
すもんやとわかってますが。木でも漆とかかぶれる います。 ところがうちの学生に話を聞いてきたらと
やつがあったらあきません。 とにかく自分に都合の いつでもなかなか行かないし、聞いて何になるんや
いいものだけが自然だと いう時代になっているんで という疑いや鴎踏があって、そこを突破するにはか
す。そういう人らの子供たちに、平成記念子どもの なりの努力がいります。そういう折り目正しい所作
森だけゃなくて、星空観察会だとかいろんなのをや というのを何とか学生とか、今の子供たちに身につ
ってるんですけど、なかなか大変です。 けてもらいたい、身につけることが不可能でもその
黒田 何とか田舎の生活のよさが判るようにできま 大切さを知ってもらいたいと思うのですが…… 。
せんかね。 西川 それを教えるということにな ってくると、茶
西川 それをしようと思うんやったら、高校時代が 道、華道、剣道みたいなのと一緒で文化道を教えて
終わって、大学へ行くまでの 一年間、さっきの徴兵 下さい、ということになりますね。現在ではそうで
制度ゃないけど、と っかの田舎なりと っかのファー
J ε もないと無理で、すね。
ムに行って自分で牛育て、馬育てなさいという義務 黒田 それはしかし学校では無理です。
教育的なそういうことをやって規律なり自然との対 西川 無理ですね。やっぱり人生なり、人情の機微
話なりを教えんと駄目です。 というものは教えてまた口で言うて身に付くもんじ
ちょっと話は変わりますが、さっき文化に接して ゃない。やっぱりその雰囲気の中、システムの中に
ないとか、文化の程度が低いとかいう話がありまし 入っているもんじゃないとわからないんですよ 。そ
たけと、最近の日本人は特に文化と文明をはき違え のシステムなり、雰囲気が方、タガタ崩れていますし、
てます 。一番悪い例が文化鍋 。あれは文明鍋です 。 それを言うこと自体理解されないし、今しゃべって
文明開化の音がするというのが文明なんです。文化 いる私らが、その昔あったシステムにもういっぺん
と文明とは全然違う部分があって、文化と文明がゴ 戻しましょうと言っても、元に戻せないんですね 。
チャマゼになってます 。何か便利でスマートなもの その辺のジレンマは当然、あるわけです。人情の機微、
が文化やという思いちがいになってます。確かに早 本当の日本古来のいい文化というのはそこにとずっぷ
さなり、スマートなり、きれいなりというのも文イヒ りつからん とわか りませんね。教えても文字で書い
という部分もありますが、ものすごい時聞がかかつ ても・…一
て、ものすごく辛気くさくて、ものすごく見た目が 武邑 とっぷり浸かれるような地域の仕組みという
J

汚い、それが文化やというのもあるんです。その辺 のは、どうしたらいいんだろうかなと思うんです 。
のところを充分に教えてもらわなあかんし、もひと 僕は幸いなことに寺で育ってきて、若い頃は嫌だっ
つには理解してもらわなあかんのに最近はごちゃご たんですが、今は何とかやらせて賞っています。教
ちゃです。 員を 一方でさせて貰いながら、暇をみてというか…
黒田 私らの地域文化学というのは要するにいまお ・
。地域の中で子どもたちが育ってほしいというこ

人間文化・ 105
水口町における「地方での挑戦J

とで、ずっとそれなりのことをしているんです。私 おこがましくないし、力もないから、なかなか難し
の女房なんかは特に子どもが好きで、山門の前に集 いことなんですけど。ゴミのポイ捨てひとつなくす
まってから登校する子どもたちを 2
0年以上も毎日見 ことができませんので・…・・。
送ってきました。私はときどきですがね。 こうして
子どもたちを何年も見ておりますと、一人一人のこ
4
. どのような地域社会にしていくか
とがよく分かるのですが、それだけでなくて全体的
なことがよく分かる 。最近は変わり方がひどいですね。 -甲賀郡全体の将来像
西川│ 何で変わって行くかというと、ある意味では 武田 遠慮がちに仰ってますけと、ひとつのあるべ
その変わろうとする方向が光り輝いているからだと き姿というのをすでに描いておられるのだろうと思
思います。夜、の生活見て見なさい、私の心をいっぺ います。国も描いてくれんといかん。 そういったも
ん覗いてみなさいというようなピカピカと光る田舎 のがひとつひとつ浸透して行くには、例えば僕なん
の何かがあれは、またそっちに行く人がある 。例えば か田舎が好きだ、いいじゃないか、と。むしろ今か
現在農業しようといって 、逆に Iターンや Uターン ら先は田舎だということを、具体的に打ち出して考
Jターンをする人がいますが、それは田舎で光り輝 えていくことが大事なんじゃないかと。ところで、
いている人が出てきてるんやと思います。そんな人 地理的に見て甲賀郡というのは、奥が深くて地域に
が数多くでてくるともっともっと、さっき言った限 多様性があるところです。水口町ひとつのあるべき
りない田舎という方に目が向いてくるんやないかと 姿を考えると同時に、そういう広域にまで目を向け
思うんです。それともうひとつ国のシステムがそう てみると、あるべき姿というのは?
なんですが、どこもかも同じようにしようとする、 西川 あるべき姿というのは先程から何回となく言
いわゆる交付税、補助金の問題ですが、人のほとん うてますけれども、都市的な快適さ、例えば下水道
どいないところにも 16m道路をつけるんです。高速 や、走りやすい安全な道路については当然ある程度
道路もつけるんです。 それをやるとどこもかも 一緒 整備していかなあかんと思うんです。でもそれで、も
になってしまって、光り輝くところが見えにくくな 絶対に限りない田舎を目指すべきやし残すべきとい
るんです。中には何で私の田舎に道つけてくれへん う考えも持っています。今までの行政の流れで、甲
のやという人もいるけれど、ある意味では道をつけ 賀郡 7田Iあるんですけど、 7つの町がみんな文化ホ
ずに差別化をした方が、もっともっと今の時代、光 ールを持ちたい、図書館を持ちたい、病院が持ちた
り輝いていたかもしれないと思うこともありますよ 。 いと全部の町にほとんどの施設があるんです。問
]の
けれどオt口町どうするんやというになってくる 庁舎もそれなりに立派なものを建てられたところも
と、ある意味では半分都市化して、ある部分はお陰 ありますし、いろいろ各町でやってるんですけど、
さんでまだ自然というキャンパスが残ってるんで 今後もっと道路整備が出来るならば、水口にある施
す。その中に住んで、いる人の要望は、都市的機能を 設を甲賀町の人が使ったり、土山町の人が使うとい
求める人、田舎をこのままにしといてくれという人、 うのは可能なわけで¥そういう意味からするとお互
さまざまなので、それらをうまく調節しながら、こ いに役割分慢しながら、住み分けたらいいと思います。
ちらの人に 1
00点といわんにしても 8
0点か 8
5点の満 話変わりますが甲賀郡はかなり広域行政は進んで
足を得てもらい、あちらの人にも 8
0点から 9
0点の満 いるんです 。 甲賀郡として病院を経営してますし、
足を得てもらうというコーデイネーターの役をして ゴミ、し尿処理もまとまってやっています。広域斎
いるのが僕やということなんです。その辺のところ 場については 5つでやってますが、消防署は甲賀郡
は信念を持ってやって行くしかないなとおもってま 全域で運営しています。今も甲賀郡内 7町が町長会
すけどね。 1
0大プロジ、エクトで僕はすべて不可能な を通じて色んな相談してやっています。ところが残
こととか、夢物語を書いたつもりは全然ない。いつ 念なことに文化ホールや図書館についてはそういう
でもやればとどく、とどく範囲やし、しかし、やる 話にはなかなかなってません。これから先は経済情
のには今の経済情勢や社会情勢を見ていると、少し 勢がまだまだ悪くなっていく傾向ですのでそういう
は高いレベルやという書き方をしたつもりです。 そ 協力・分担も考えてやっていかなあかんやろと思い
のことのために今は町民皆さんの意識改革が出来れ ます。当然今ある施設はお互いに使えるような広域
ば一番有り難いなと思うんです。 ただそこまで僕も 連合といった形も模索していかなあかんかなと。そ

1
06・人間文化
水口町における「地方での挑戦

れをやっていく段階で、 7町がひとつになれば一番 がする 。水口町というのは土地がいっぱいあります


いい、合併ニというところまでいっても良いんじゃな し、そういう風なこともやってみるのも良いなと思
いかなと O お互いにある特色、例えば水口町なら 2 うのですが。 f
L,
は町長じゃありませんが(笑)
。 み
4時間の在宅看護がありますし、信楽ゃったら信楽 んなが会社で働かなくちゃいけないわけではない、
焼という地場産業があります。そういった特徴をう 100%の医療介護を受ることが一番大切だというわ
まく持ち寄った中でひとつになって大いに発展して けでもない。そういったことがとこかで出来ないか
いけへんかなという思いはしてます。それが出来る なと思っているんです。
もんなら僕のライフワークにせなあかんかなという 西川 いまおっしゃったようなことは水口町ではあ
思いもありますが、一朝一夕で出来ることではない る意味ではほとんど出来ているんです。たまたま夜、
し、それこそ住民皆様のコンセンサスがないと出来 の母親は 8
2才ですし、腰曲がってますけど 、畑 やっ
ません。当然、色んな手続きがいるわけですが、がん てますので 、元気なものです。それと同じでもとも
ばってみる価値はあると思います。 と地の人なり宅地を買って来られたひとでも、自分
の庭でたとえ 5坪でも畑を持っている人はそれなり
-生き甲斐と死に甲斐 にやっておられるというのがひとつ。年とってから
黒田 私には老人介護の問題が気になっています 。 でも仕事を した い人はシルバ一人材センターがかな
私も 5
0で、じきに老人の仲間入りをするのですが、 り前からあります 。今400何人 かがメンバー登録さ
家族が老人を看ていくということは大変で、結局地 れて結構売り上げもあるんです。それこそいわゆる
域で看るという方向で行かざる得ないと思うんで 半分ボランテイア、半分小遣い稼ぎ、半分健康づく
す。その時参考になるのが、お百姓をやっている老 り半分、仲間づくりということで、草刈りやとか、
人には老人性痴呆症が少ないんじゃないかというこ 障子l!占りとか色んなことをやってもらってるという
とです。 この間、愛知川の川上の君ケ畑に行く機会 のがひとつ。また生涯学習ということで公民館なと
がありました 。過疎化が進んでいますが、まだ 3
5世 で講座をしています。いろいろ好きにやって下さい
帯残っているんです。 ちょっとしか聞いていないの ということでサークルを作っていただいています
ですが、ほとんどが9
5歳を筆頭にした 7
0以上の老人 し、メニューとしてはたくさんあるんですよ 。 4つ
夫婦なんです。でも寝たきりの人が一 人もい ないと 目ですが、寝たきりになった時、本人の意志で、施
いうことでした 。今でも茶摘みや畑仕事をされてい 設に入りたいというのなら施設もいくつかあります
る。大学周辺の犬上川でも小さな畑を作っていて 、 し、家族で 世話したい、自分の家で死にたいから家
定年後始めたという方がたくさんいらっしゃるんで 族で世話してくれというのならして下さいと 。それ
すが、みんな腰が曲がっていても、すごく元気なん で、足らない部分は 2
4時間で夜中も世話します、お
です。何の楽しみもないし、家にいてでも仕方ない 手伝いしますよと 。おかしな言い方ですが、死 にた
ので、畑に出て、草を抜いているんやと仰るんです いところで死んで下さい、死にたい方法で死んで下
けど、みんな楽しんで畑仕事をしてるんです。下手 さい、生き 甲斐もあれば死に甲斐もあると 、そうい
な福祉政策よりも休耕回をきちんとそういう作業の うようなシステムをいろんな形でやっています。た
場にするということを 中心 にして、老人が働ける場 だそれらを 利用 するかしないかはある意味ではその
を作ったり、あるいは夫婦共稼ぎなんて辞めて、辞 人の意志なんですよ 。生涯学習の中で大いに公民館
めてというのは本人の問題ですからそうはいかない 活動に参加しようという人はあれこれたくさん参加
でしょうけど、片っ方は家にいて地域社会の中で、 しておられますし、参加しない人は全然参加しない。
何らかの働きをするような形、休耕一回を使ったり、 それから先ほど片方が仕事をして、片方が家で留守
あるいは家内工業的なものをしていくようなことが 番してという話がありましたが、このごろは男の人
考えられないか。
寝たきり状態になったりしますと、 も女の人も両方ともが私は仕事がしたい、私は遊び
大変な労力が必要ですし、本人が第一幸せじゃない。 たいとそれぞれに思いがあります。 2人とも働きた
体を動かす畑作業、手工業というような作業の場、 いという人もあれば、 2人とも寝てたいんやという
いわば昔でいうと生業の場みたいなものを地域に作 人もあるわけで、それは本人次第やということです。
ることによって子供らもまた参加する。そうすると メニューは水口町 としてかなりそろえているつもり
田舎の文化のよさや地域社会の保持ができそうな気 です。それをいかに選択してもらうかということに

人間文化・ 107
水口町における 「地方での挑戦J

は、いかに啓発・啓蒙するか、使う気になってもら を書いて置いてあります。そういう意味で私はまだ
うか、まちづくりに参加する気になってもらうか、 まだこの 3つは守ってますよ。ちょっと面白くない
参加意識を持ってもらうかというそのあたりなんで ときは身体を動かすなどして発散しますんや。(笑)
す。 自分の趣味を楽しむためにある行事に参加して
もらうのはひとつには自分のためでもあるし、もう -経済と町づくり
ひとつには町のためでもある 。つまり町づくりなん 黒田 町の未来像を支える経済的な展望は。
です。 自分がシルバーに参加したいということで参 西川 先ほど言いましたように、経済情勢は 5年も
加して小遣いを稼ぐのもいいし、仕事をするのも良 1
0年もす、っとこのままで 、デフレになった り、赤字
い、ホ、ランテイアしてるんやということで満足感を ばっかりやということではないと僕は思いますし、
得てもらうのも良いし、自分がlEI1iりたいから社交タ そうなると日本は終わりですから 。物は充分にある
ンスするのもそれも実は町づくりなんです。そのこ わけでこれまでのような上がり方の経済成長は、こ
とによって例えばぼけが少なくなったり、元気で生 れからは必要ないと思います。 しかし徐々には成長
きられる 。いわゆる町の負担がひとつでも減るとい して行くべきであろうと思います。 それなりに製造
うのなら、気持ちよく遊んでもらうのも町づくりな 業というのも日本の固には必要なわけですから、今
んです。そういう点では色んなメニューがあります 開発中の工業団地に、企業がいくつか立地してくれ
し、町民皆様がそういうことを理解して、また参加 ますとそこのいわゆる固定資産税や、企業立地に伴
意識を持って大いにやってもらうことが一番良いの う経済効果なとにより税収が今までよりは増えると
かなと 。 思います。 また、駅前などで区画整理をしておりま
黒田 主体的な町づくりの参加というのを最初仰い すので、いずれ宅地になって家が建っていくとそれ
ましたけど、かなり進んでいるような感じがしますが。 なりの固定資産税や町民税などが入ってくる 。先ほ
西川 わが町が進んでいるとは決して思いません 。 と言ったように、この近辺で人口が増えるというこ
ε

もっともっと進んでいるところがあると思います とならば多分水口がまず増えていくであろうと 。そ
が、少なくともいつでもそういう形で、参加しても うなってきたら税収的には心配せんでもいいのゃな
らえるような場はあるんですよ、ということなんで いかと思います。 ただ水口みたいなところへは絶対
す。そのあたりの P Rが充分出来てないのかもしれ 行きたくないという思いをしてもらわんようにだけ
ません o PRに努めます。 (口は全部 1
はしていかなあかん。今おかげさまでフj 00
黒田 行政のトップでやられるというのは大変なこ 点満点の福祉ではないけれど、たったひとつ日本の
となんでしょうね。判ってい てもやっちゃいけない 中で先駆けて、 2
4時間在宅介護をしたということを、
こととか。 日本全国的に、特に NHKなどで放送をしてくれま
西川 お酒などを飲みに行って、よっぽど親しい人 したので、水口は福祉の町というキャッチフレーズ
の時にはちょっと口走ってでもかまいませんが、他 が出来てきました 。そういう意味では老人福祉から
にお客さんがおられるときは絶対酔ったらあきませ そうなってきたんですけと、それだけでなく児童福
んからね。 祉など他の面でもがんばらなくてはと思います。
武邑 ほんとに大変なお仕事ですね。
西川 大変ですけど楽しいで、すよ 。昨日の朝礼で話
したんです。 それはチャレンジを続けるというか自
分がその立場に居るべきか居らざるべきか、つまり
出処進退ということについてです。それは若い人の
することが目障りになるようになったら辞めなさ
い、新しいことに挑戦しようという気がなくなった
ら辞めなさい、先のことを言わずに過去のことを言
うようになったら辞めなさい、この 3つです。
黒田 それはおっしゃるとおりですが、年をとると
それがわからなくなる 。
西川 判らなくならんように机の 一番真ん中にそれ 障害者や高齢者に対応した庁舎新館

108・人間文化
水口町における「地方での挑戦」

武邑 例えばお年寄りがたくさん水口町に移住して か幹線道路というのは通過車両が行ってくれたらい
こられた場合は、税収としては少なくなるのですか。 いわけで、通過車両がすっと通過しないもんやから、
西川 税収はそんなに増えることはないでしょう みんな間道を走っていたわけです。いわゆる生活道
ね。でも僕はそのことは決して悪いことじ ゃないと 路まで車があふれ出てたのが、幹線をスムーズに走
思いますよ 。それだけ町に値打ちがあるということ ってくれれば、生活道路いわゆる地域道路は空いて
です。それぐらいが受けられないようなキャパシテ きますので、やっぱり早いとこせなあかんと思って
ィだ、ったら水口町の名前を汚すことになるのではと います。そういう意味からすると第三名神が 1
0年ほ
思います。 ど先に出来るんですけど、それから出来ればさらに
武邑 ご承知でしょうが、栗東駅の周辺のアパート 国道 1号や今の名神を通っている車が分散されます
やマンションには若い夫婦がたくさん転入してきて ので、生活道路にちょっとくらい余裕が出てくるか
いるそうです。だからお陰で税収が悪くならず に結 なと思います。基幹道路に入ったのがよそへ溢れる
構やという話を聞きました 。町営団地をたてる場合 というのが一番いかんわけです。だから 4車線にし
でも葬式の時のことを考えて、 3階くらいからは大 ているわけで、す。そういう意味の事業です。
きなエレベーターで寝棺が下ろせるように計画して 武邑 相変わらず便利にするという方向で行かざる
いるようです。そんなことでよいのかなと思ったり を得ないんですか。
しているんですが一 、 西川 便利というよりも今の国道 l号線は通過車両
西川 公営住宅の法律が変わりまして、これからは を通過させてしまえと 。土山から栗東へ行くのに l
収入に応じて使用料をもらうということになりまし 号線を走る人もありますけど、それでも水口にとっ
た。若い人ももちろん入れますが、たくさん稼ぐ人 ては通過車両ですし、もうひとつ言えば名古屋から、
はたくさん払うことになります。同じ間取で同じ町 大阪まで行くのにここを走っている車があるわけで
営住宅ですが、所得が少ない人には安くした りとい す。そういう車はよたよた走ってもらわずに、すっ
うシステムにな ってきました 。だからひょっとする と抜けてもらった方がいいわけで、そういう意味で
と、これからはそういう方たちが公営住宅にたくさ は決して田舎の良さを阻害するための道路ではない
ん入ってくるのではないか。若い人である程度の収 んです。むしろ田舎の良さを残す、もとからの生活
入があると、普通の民間のアパート、マンションに 道路を残すための施策やと理解してもらったほうが
入っているのと、公営住宅に入っているのと差がな 良いでしょう、基幹道路につきましては。 とにかく
くなるんです。今まで非常に安かったこともあ りま 用のない草はのろのろしてんとすっと行けというこ
すが、これからは入居者の層が変わってくるかもし とです。
れません。
黒田 町の真ん中を通る l号線の交通量が多いのが -田舎に根をおろす
気になりますね。 黒田 私達のゼミに水口から来ている女子学生がい
西川 いま国道 l号の 4車線化ということで努力し るんです。その学生は水口が好きなんだそうです 。
ています。これは建設省の仕事になるんですけど、 伴中山の出身なんですが、そこに残って百姓をや り
町にも用地買収なり、建物補償ということの担当を たい。山をじっと見てると 山の幽霊、お化けが住ん
今 3人つけてます。一生懸命用地買収を進めていま でるような気がして心を打たれる 。お化けというと
す。一般国道ということで今までやってたんですけ ちょっと言い方が悪いですが、自分の住んできた、
ど、近々高規格道路という認定を国がしてくれます 生きてきた野山を地域を大事にして生きたいという
ので、その認定をしてくれると予算ももう少し増え んです。あの年代の女性でしたら、都会に行きたい
るかなと 。国道 l号は大方 500km ぐらいあるのか とか考えるのが普通だと思うんですが、こういう人
な、東京から神戸 まで。 l号線ですよ、それなのに が育っているんだなと思いました 。
2車線で残っているのはこの辺だけですよ 。甲賀郡 西川 僕もそうでしたよ 。僕は昭和 2
0年の 1月生ま
から栗東ぐらいまでです。大至急やらなあかん。 れで、学校は京都です。 4年間下宿して、それから
黒田 そうすると交通量が増えすぎて住民生活に影 3年ほど大阪にいたんです。そろそろ結婚せなあか
響が出てくるのでは。 ん年になって、「こんな都会で子供を育てるという
西川 いえいえ基幹道路ですからね。高規格道路と のは絶対あかん、子供は田舎で育てなあかんj とい

人間文化・ 109
水口町における「地方での挑戦」

る。緑っぽいものを自然やと言うんです。
武邑 手前味噌になりますが、僕なんか山川草木悉
有仏性みたいな東洋的な考え方は良いなと思うんで
す。便利さばかりを追い求め続けてきた人類が、自
然破壊や人類絶滅の危機に直面するようになって、
ょうやくあらゆるものが「いのち Jを持っているん
だということに気づきだしてきている 。 こうした考
え方は、人類史上て、唯一良かったことではないかと
思うんです。英語ではワンネス (
one
nes
s)という
らしいです、全てはひとつなんだと 。 しかし日本人
はそんなことは教えてもらわなくても知っている 。
特に田舎の文化の中で育った人たちは、そうした
「こころ j をちゃんと持っていると思うんです 。そ
こからはまだまだ創造的なエネルギーが出てくる 。
町長も先ほど仰いましたが、日本人はまだまだ期待
できる 。そんなふうに近頃は思うのです。
水口町歴史民俗資料館に展示の曳山

.環境主義
う思いをしたんですよ 。たまたま色んな経過があっ 西川 期待とは裏切られるもんで。 (笑)
て帰ってきましたけど、帰ってこれなかったらそう 飛躍した話になりますが、共産主義が崩壊しまし
いう思いをもちながら大阪かどこかで住んでたかも たけれど、ひょっとすると資本主義もこのまま行く
しれません。たまたま帰ってくる機会があって、田 と、崩壊するかもしれません。資本主義に変換した
舎で結婚して田舎に今住んでいますが、私は今でも 中国はものすごい環境汚染です。砂漠化も進んでい
都会は住みにくいと考えています。働くのは都会で ますし。新聞かなんかに書いてあるんですが、黄河
良いかもしれませんけど、住むのは田舎、まして子 の水がなくなってきているそうです。年間の半分く
供は田舎で育てなあかんと僕はその当時思っていま らいは枯れているという状況になってきている 。黄
した。僕は U ターンの走りゃないかな 。 河がそうなると、溺海湾なりあの辺の自然が変わっ
武邑 年齢からいえば、そうかも知れませんね。そ てきて、当然今の中回全土 に影響が出てきます。そ
んな考え方をしている人はかなり多いんで、しようね。 うすると資本主義が追い求めてきたのは何だ、ったの
西川 最近もっと多くなったかもしれません。 かということになります。今度は何主義かわかりま
武邑 反対に都会ばっかりで 3代も 4代もきている せんが、逆に 言 うと自然主義というか環境主義、そ
人たちは、どないなっているんだろうと{業たちは言苦 ういった形の生活様式なり、経済様式に変わってく
しているんですけどね。 る可能性もないことはない。そうでないと、今の環
西川 今は変わってしまって、地上げなどでビルが 境ホルモン等の問題て、 5
0年経ったらひょっとすると
建ち並んでしまったけど、東京の下町あたりは基本 子供出来ない人間ばっかりになるかもしれないから
的には田舎ですからね。限りない田舎ですよ 。 ね。ひょっとすると劇的な変化、ソ連が崩壊したり、
武百 やっぱり昔からの町には町衆の文化というの ドイツがああいう形で統ーしたのと 一緒で、劇的な
がある 。新興住宅地とか団地でずっときたというの 資本主義の変化があるかもしれない。
が問題なのかも知れませんがね。 武邑 半年ほど前から羅戟さんという 4
5才の中国人
最近は子どもたちが学校から帰っても野 山へは行 研究生が来ておられるのですが、彼が最近おもしろ
かなし、。先ほどの話になりますが、漆があるとかで いことを 言 ってました 。「日本は自由主義の国で中
誰も行かない。親も行くなという 。 国は社会主義の国だといわれるけれど、反対だと思
西川 ありのままを受け入れるのが自然であり、天 う。今の中国は日本よりはるかに活気がある 。
」と 。
然であるのやけど、このごろはありのままを自然や 要するに、日本はあらゆる面で管理が行き届きすぎ
と言わへんからね。 自分に都合のいいように思って ていて、画一的な面が多くて面白味がない、どうも

110・人間文化
水口町における「地方での挑戦」

活力がないというのです。 っぱりゃれない部分があるし、やってはいかん部分
西川 資本主義社会の中でも、日本は特にここ何十 も出てきます。そうかというと意外と簡単にできる
年も前から社会主義同家よりも社会主義的やと 言わ 部分もあるわけです。だから今のはやりのすきま産
れています。 というのは低負担やのに高福祉を求め 業ゃないけれど、すきまできちんとやってるといつ
ている 。 しかも平等でないとあかん。概念の平等で
、 のまにかこうなってるというような形の方法でない
はなく結果の平等という部分を進めてきた、それが と仕方がないと思いますけどね。みんなそういうと
社会主義なんです。だから活力をやっぱり阻害して ころで苦労してるのと違いますか。
いる 。そのために規制しているというのが多すぎる 。 武邑 おっしゃるとおりです。僕ら田舎に住んでい
中国の方が言われるのはよく判ります。多分そう思 ますから、やっぱり自分が言うたことはやらなけれ
います。なんとか資本主義とか社会主義とかいうて ばなりません。院はつけませんからね。毎日の生活
中国はやってますが、自由経済区というのは、共産 がそういうようになっていますから 。 ましてや行政
主義やら社会主義をほったらかして完全に資本主義 の方は大変だと思います。
になっています。 西川 その中でね、先ほども言いましたけど、 目標
黒田 中国の酸性雨の問題、羅さんは口を濁してま はできるだけ高い方がいい。大きい目標を持って、
したけど。 それの方が、成長するんやという思いを私は持って
西川 みんな日本に来ますからね。たまたま今 F
Iの いますよ 。それともうひとつには、そのことを少な
読売新聞の 2面か 3面にここが酸性雨の i
原やとか、 くとも町の職員なり、町民が全部理解してくれたら
非常に水がないとこやとかいろいろな地図が書いて 一番いいんですけども、そういう立場にある人聞が、
ましたけど。いわゆる工業地帯なり、沿岸部の商業 少なくともそれを思い続けるか続けないかというの
地帯なりが、みんなそうです。 も大きい。 どうでもええわ 、わしはこの肩書きが欲
武邑 高谷さんは「東南アジアの沿岸部はリゾート しか ったから、選挙で、金使って、出てきて、四年間
地として発展すればよい。重工業が東南アジアにな ちょ っと威張らしてくれやというんではあかんので
いのは喜ぶべきことだ。j と仰 ってますが、ほんと す。やっぱりそれを思い続けて、それを常に発言す
にそうかも知れない。自分たちで食料を生産せずに、 るかせんかということが僕は大事やと思います。だ
どこかで、作ってもらって食べているというのはちょ から出処進退のときに言いました 三つの条件、チャ
っと具合が悪いですが、出来ることならひどい状態 レンジすること、若い者をうっとしいと思わんこと、
にならない方が有り難いですね。はっきりとは言い 背のことばっかり 言わす、に未来のことを言うこと、
ませんが羅さんは、日本は無料で J
I
見硫装置を付けて 常に思っているか恩つてないかで、ゃっ '
この辺を 7 fり
欲しいといったようなことを 言っ てましたね。 水口町全体が変わ ってくると信じている 。三年、五
西川 先ほどの話になりますが、都会でももとから 年ではできないかもしれんけど、今播いた種がひょ
の下問なり、江戸 大阪の町の中に住んでいた人間 っとすると、 2
0年先にはちょっとくらい花開くかも
て数がしれてますよ 。みんな田舎からそれこそ昭和 しれない。そんな思いがなかったらあほらしいてで
3
5-4
0年頃に集問就職で、行った田舎の人間ばっかり きません。 (笑)そんなもんやと思うんですけどね。
です。それがなんかこっち回 ってきて私は都会人ゃ そういう思いをも った首長や問職員が、 一人でも 二
いうてるだけで、元はと言えば、みんな田舎人ばか 人でも各地域に出てくると、一番良いのですが。
りじゃないですか。 武邑 本当にそうですね。信じてひたすら思い続け
武邑 そういう意味であるべき姿みたいなものを出 るということですね。
されるとそやそやと言う人が増えてくる可能性があ 西川 そうです。思い続けられなくなったら、出処
ると思うんですが。いっぺんちょっと変えよかとい 進退引き際はやっぱり自分で判断して晩節を汚すこ
うところまで行くと良いんですけど。それがなかなか。 となく、すかっと辞めたい。
西川 逃げるわけゃないんやけど、お金の問題だと 黒田 いくらでも聞きたいことがい っぱいあるんで
か、国 ・県・市町村のシステムの問題やとか、今ま すけど、予定を 1時間も過ぎましたのでこれで終わ
で、のず、っと長い流れの中での役場の組織やとか、そ らせていただきます。ほんとに今日はお忙しいとこ
れと 一緒に生活してきた町民の意識とか、色んな養 、 i
ろ 'J:・重な時間を割いていただきまして、ありがと
素がありますので、やりたいなという部分でも、や うございました。

人間文化 ・ 1
11
地域フォーラム

f
野鍛冶の履歴 J 多賀町甲頭倉一 一松 浦 ;
青さん
うえ だ ようへい
聞き手/地域文化学科 4回 生 : 上 田 洋 平

はじめに すがたを思い起こさせるお話、こ のふたつを軸に取


1
998年 1
1月3
0日、私は多賀の山奥に野鍛冶、松浦 j
青 り上げます。
さんを訪ね、お話を伺いました 。 これはそのとき録
音したお話を文字に書き起こした 上で、松浦さんご
* *
さて …。思いがけずここにページを与えていただ
本人に加筆修正していただいたものです。 き、松浦さんの紹介をする ことになりました。それ
で、「こうしてお話を持ち出 したからには、何かし
ζうずくり

松浦さんがお住まいなのは犬上郡多賀町♂の甲頭倉 らの意図があるのだろう」と恩われる人がおられる
というところ 。 芹川上流、霊 11~ .高室の間 山塊に挟 かもしれません。けれど、じつは私の中には、松浦
まれた谷間に 2, 3軒が暮らしています。 さらに進 さんのお話について、そこに託して伝えるべき主張
むと、この谷の最奥にあたる河内の在所で、す。 甲頭 とか、そこから汲み取られた思想とかいったもので、
倉の集落そのものは標高 4
001
11に近づく山間にあり 確なかたちを作るまでになったものはありません 。
ますが、松浦さん宅は先代の頃、お客の便利を考え 言い換えれば、伺ったお話を、学問的に高める一一
て川端に下りて来たのだといいます。 高めるといって悪ければ、学問の領域に持ち込むと
代々続く野鍛冶の家に養子として入り、以来 7
9歳 ころまで至っていないということです。
の今 日ま で5
0年、鋤鍬といった農具やヨキ(斧) な それは私の学の浅いせいなのですが、今ここに白
と山の道具を「火づくる」ほかに 、柚 ・木挽にとっ いままを狙上 にのせ、目を通 された人びとのたすけ
てはいのちの道具である鋸の目立てもされ、村 々の を借りれば、より深い理解に近づくことができるの
生活を裏から支えて来られたのでした 。 とはいえ、 ではないかと、 一方で考えています。
これから見ていただくように、ずいぶん前から鍛冶 いわゆる聞き書きによって記録を残す作業は方々
の仕事は機械に圧され、今はほとんどなくなったと でされており 、記録されたものも膨大な量があるよ
言っ てもよい状態です。 うです。 中には埋もれて行くばかりの資料もあり、
今回は伺ったお話のうちの 一部をここに収めま そんなことから、この作業に価値を認めない考えも
最後の j と冠すべき野鍛冶さんの
す。 この谷では 『 あるようですが、私は、人に会い、人の語るところ
履歴と、また 、モノと人との関係の 、そのかつての のものごとを聞く行為は 、とて も大切なことと信じ

図 1 多賀町芹谷

112・人間文化
野鍛冶の履歴

ています。そのキ良f
処をここに「こうだ」とうまくい 朝、もう 5時っちゅうと出てったでしょう、親は 。
えないのをもどかしく思いますが、私はそう信じま で、まあそういうなかで育てられて 。
す。 で私は母の 4
3の子です 。 というのはカナダから帰
人はたくさんいて、ひとりでは到底間に合わない ってきて、また行くっちゅうつもりで帰ってきた時
のですが、許されるかぎりたくさんの人に会ってお の子どもが私です。ほんで兄貴とは 1
4違います。そ
話を集めれば、いつか美しい絵が描けるのではと思 ういう子どもなんです。その加減で父親に早う別れ
います。 ひとつのお話を分析し、多くのお話を総合 ましてな、 1
4で別れました。それから後は母親助け
することで、新しく深く見えてくるものがあること て、ほんでまあ 2年ほど、高等 2年までやでな 、母
でしょう。そしてそれは、人から集め、人に返せる の手助けしもって高等科卒業するわけですけども 。
ものになるはずです。 もう 5、 6年頃からは、父親がおった時分からもう
など大げさに言いながら、主張や思想、を未だ汲み ほとんど家の手伝いね、山行って木の運びから炭焼
得ない私は日とられなければなりません。ただ、それ きの手伝いね、これずーっとやってきましたし 。ほ
でもとにかく、語られる言葉に対しては、必ず真撃 んで学校行っとっても、朝起きるともう母親や父親
な態度でこれを受け止めようと思います。 は家のことかまわずに仕事に出ていくので、それか
語って下さる人は、自身の生きてこられた時間分 ら家の掃除ですわ 。学校行くまでに拭き掃除からち
の厚みをもって語 って下さいます。それに、例えば ゃんとして。で、帰ってくるとねえ、学校かぱんバ
松浦さんなら、松浦さんご自身のみならず、鍛冶職 ーイとほっといて、おイム飯さげて、それをちょんと
人の背負ってきた歴史の厚みも加わります。 これを 片付けて、それをこんどは灰をつけて磨くんですな、
私が受け止めるのですから甚だ心許ないですが、真 それして、明日の準備の米カシして、そしてちょん
撃な態度でこれに接したいと願っています。 と釜にしかけといて、それから 山へ走る、タキギ取
私の口は、まだものを言える口ではありません 。 りに 。
「如是我開」の阿難尊者ではありませんが、人の言 で、勉強は、もう、晩です。で、その時分電気は
葉の前に、私はただ、耳になるばかりです。 入ってませんでしたんや。ほっと、ランプはもう上

* *ほうづき
なお、松浦さんがお生まれの保月の在所は、甲頭
等すぎて 、石油代が高こっくでしょ、ょうけ食うで。
で、カンテラちゅうてね、ヒョウソクとも言いまし
倉よりもさらに高い標高 6
00mあまりの位置にあっ たけんど、それに石油の火つけて、ま、それが晩の
た集落です。 この保月は近江から鈴鹿山脈を越えて 生活です 。で、イロリはまあどんどん火たいてます
美濃 伊勢へ抜ける間道に開けたところで、百人を で、イロリ火の明かりはしますわな 。それも冬場だ
泊めるほどの宿もあったくらい規模のおおきな在所 けですけんど。で、そこで勉強して O
でした 。今は廃村です。甲頭倉も、上の集落には現 で、母親やら下へ炭を商いに行く時には 4時起き
在お年寄り夫婦一世帯が住んでおられるのみです 、 4時半から 5時には出るでしょ 。というのは山、

(
冬場は下 山されます。
) 4キロ 4キロで 8キロほど Fりて、そこで大八に炭
積んで、ほいで彦根まで売りに行くんですわ。ほと
1.野鍛冶の履歴 彦根までっちゅうと 6キロぐらい、もっとなるかな
松浦さんは野鍛冶になられるまでにいろいろな仕 あ、それだけ行って商いして帰ってこんならんでし
事を転々とされ、また、野鍛冶一本では暮らしを立 ょ、で、朝早いです 。夜明けまでをひとりで寝てい
てることが難しかったため、傍らにさまざまな仕事 るんですが、恐おうてなあ 、小さいときは。その問
をされたのでした。(文中カ y コ内は 上回) 布団かぶって勉強したりな。

子供時代 若い衆の夜遊び
私の人生ですか。私はまあ、保月の産ですにや 。 夜は遅いです 。 もう日が暮れてからになるかな 。
この山の上の、鍋尻山のふもとです。そこで生まれ なんせ彦根まで行って商いして、で、昔の人は馬力
たんですわ。で、父親がカナダのパンクーパーのほ があったんですよ 。私はうちのお母さんの話でそう
うへ出稼ぎに 。 というのは、昔は山で炭焼き、それ いうこと聞いたんですで。でまあうちのお父さんや
が渡世ですでな、で、とにかくまずしい生活ですわ。 お母さんの先代くらいて、すかな、そういう人の話で

人間文化・ 113
野鍛冶の履歴

子までくらいが順番に席を占めていて 、一番上席に
四人衆ちゅうのがあります。四人衆のなかにカシラ
があって副があって、その下が六人衆ちゅうのある 。
で四人衆は上座に陣取ってますわ。で、六人衆はそ
の下座、十人衆ちゅうのはクチノマ、そしてスソち
ゅうのは台所…みな、場が。
で、そういうので、25日の日の暮れになるとねえ、
スソが、若い衆入りの人を迎えにきてくれるわけで
す。ほしてそのときに 、他人の家の訪問のマナーと
して、宿の家の前へ行って、障子を開けるまでに
「エヘン、エへン j と咳払い二回入れんといかん 。
現役の野鍛冶、松浦清さん
というのは、あとで聞いたら「家んなかで人に聞か
れたくない話をしてる場合があるといかんで、おも
すと、炭売りに行くのは 4時か 5時に家を出ますや てで先合図をして“客がきたぞ"と、それからゃな
ろ、ほっと帰ってきて日の暮れ、夕飯食べて 、それ いと開けな Jと、まあそれから教わっていくわけで
から夜遊びですわ 、娘さんのとこへ、昔の若い衆ね。 すな 。
で、それが鍋尻 山ひとつ越えて、下りて、ほっとま で、入 り口の入りカマチで、「今日からモロト入りさ
あ 6キロ O 上がって下りて上がって、よその、入谷 してもらいます、頼みます」ちゅうであいさつして。
ちゅう在所へ遊びに。 ほっと「まああがれj と、カシラのほうから声がく
で、昔はほんな内緒でコソコソ夜遊びはしません。 るO で
、 上がって行くと「ここへきて座れ」と、ほ
娘さんのとこ行っても、必ず親がいますし、ほいで とそれから説教で、すわ。
「 しきたりで、こういうこと
娘さんやらは苧ウミとか、内職やってますわ、そこ したらいかんJ
。山のおきて、全部言われるわけです
でただ話をしてくるだけで、まあ、娯楽のない時分 な。
「親を大事にせい 。村一
の行事はこうや」と 。で

ですでな 。そのうちに恋が芽生えて、一緒になって 大人になる時の教訓を教えてくれるわけです。
る人もあります。山下りて上がって、ほいて娘さん で、父親が私の 1
4で、兄貴の結婚式に行きまして
とこ夜遊びに 。ほして帰ってくるでしょ、とんぼが な、ほして結婚式の晩、心臓麻揮で倒れて、京都で
えりで。ほれでまた山仕事か彦根へ走るん。ほんで 亡くなりましたんや。父親が悪いちゅうので母親や
昔の人の馬力はすごいですな。 らみな行ってましたし 。京都で密葬だけして、村の
ほうへ帰りました日に本葬はお寺でやったんですけ
払い下げ米 どその年は 2メーター以上の大雪でねえ、で、家帰
ほんなええもん食べてるか、ちゅうたら、 山の炭 っても入れないんですな 。それで家の窓をね、ひと
焼き渡世ちゅうなものはいいもん食べてませんわな。 つ割ってそっからずりこんで。そういうこともあり
で、貧しいもんやで、みな払い下げ米ちゅうて、軍 ましたしな 。
隊の払い下げ米ね。 1
0年、 2
0年経った古い米払い下 ほんで、それ以後は 、父親の代理で何もかも、ま、
げがあるわけ。ほと、ほれやと安うで買えるんです 母親を助けてやってきたもんやでな、ほんでカシラ
な。 くさいのもありましたわ、もう年が経ったあっ から 「
おまえはまあ、村の模範青年やで、おまえに
て。で、そういうなのを斡旋しでもろうて、みなそ は文句言 うことないけんど、一応は言うとく 。今ま
むぎはん

ういう食事ですなあ 。 ま、麦飯はもちろんのこと 。 でずーっと村のおきてのことはこうやでな、よく守


るように」と 、おホメの言葉となにとで、簡単に入
モ口卜入り れてもろたけんど、年々、やんちゃな 人は、相当し
一一何年にお生まれですか。 ぼられたようですな。
大正 9年です。で、モロト入りちゅうてねえ、村 で、それが済むちゅうと、 村の一人前の男として
の若い衆の仲間へ入れてもらう儀式があるんですに 認められる 。ほんで、村手間の仕事にでも出られる 。
。 1
や 2月の 25日ですけどな。えーっと若い衆のカシ それまでは出ることできなんだ 。母親出ても半人前
ラちゅうと 45くらい、で、そのあと高等科上がった ですわな、女は。そやけどもそのモロ ト入りさえ済

1
14・人間文化
野鍛冶の履歴

んだら、 一人前として認められるで。 そのかわり、 って、ほやけどその時分に修理工場が下火になって


もう 一人前の男として、お寺の屋根葺きちゅうとお みな仲間がつぶれて行くしな、こらもう長いことや
んなじように上へ上げられて、仕事教え込まれます る仕事でもなか ったし 、んで、やっとった君主(工場)
わな、屋根の葺きかたから O ま、それで修行するん で鍛冶、機械鍛冶のとこと自動車部と、兄弟が。ほ
ですけんど。 んでそっちのほうの、今度は機械鍛冶のほうの型を
やってましたんや。で、その金型のほうをちっとや
はじめの勤め先 りましてな 。ほんでその時ですわ、火づくりやらあ
1
6で、高等科上がって、で、「さあ、おまえなんな って 。そこで金型やらな、機械鍛冶のほうを勉強し
と好きなもんをせえ」て言うでしょ 。 自分で何が好 て。それも 一年あまりですで。
きなんかわからん。けんどまあ、兄貴やら相談した
ら、「京都のほうに自動車の修理工場が募集してる 教育招集を経て役場勤め
が、やってみんか」ちゅうことや。「どんなもんや 、 ほいで教育招集が2
3できましてな 。で、教育招集
山ん中にお って自動車 自体の修理ちゅうなもんの、 行 って 、だいたい教育招集いうと三月ですにや、 3
全然ないけんど、まあ、手にさえ職つけといたら間 ヶ月で、ほんでもう明日除隊っちゅう前日に「おま
違いないで j いうのでまあ、「ほなやってみよか j えら外泊やるでいっぺん往(い)んで、ハカ墓参し
っちゅうて入ったのが 自動車の修理工場。 てこい j と。「ハア、いよいよ戦地行きゃねえ」ち
で、そこで年(ねん)があくのが、 21
の兵隊検査 ゅうて、みんながわかれて帰ってきて、ほいで一 日
の四月ですわ。その時に年があくんですな 。1
6、1
7、 家におって、明けの日、帰隊ですな 。で、帰隊した
1
8、1
9、2
0、2
1、 5年おった 。年があくちゅう こと とたんに「予定の変更により、もうおまえら今のと
は一人前になって、そこで、丁稚小僧から開放されて、 こ用はないで、もう、すぐ帰すで服取りょせえ」ち
ほんでそれからは月給制になります。それまで、は小 ゅうことで、とんぼがえりで除隊で 。
遣いだけで。 それから、役場のほうが手薄になってましてな、
で、行きたてですとねえ、休みが月に 2回ありま 「ちょっと手伝いにこい」ちゅうことから役場に入
す。 1日
、 1
5日が休みですな 。5
0銭くれる、朝。ほ って、さあ、 3年ぐらいやりましたやろか、役場生
れでま、 一 日遊ぶわけですな 。その時分ですと、映 活を、書記のほうをね。
画が割り引きが出てくる時間帯を行くんですで、 1
5
銭が 1
0銭で入れる 。 カレーライスが1
5銭で。で、映 ふたたび応召
画は長いこと入ってられるで、ま、それでヒマつぶ 今度ほんで 3年ほどして赤紙もらいましてな 。終
して、カレーライス昼食べて、ほいで日の暮れ帰っ 戦の年の 7月でしたんや。それからほんで京都の師
てきて、ま、 5
0銭でじゅうぶん。 部隊、四十二部隊ゃったかな 、一応、仮の親元です
それで年があいて初めて給料が3
0円でしたか。で
、 けんど、そこで部隊編成になって、ほいで九州に送
そのかわり盆、正月はシキセ(仕着せ)いうて、着 られて、で、終戦になって、実際はもう一ヶ月あま
物を、盆と正月に一枚ずつくれるんです。 もう年が りでわずかゃけんど。
行くようになるちゅうと O で、年があく年は背広こ で、終戦間際に台風で帰れんようになりましてな 、
しらえてくれましたか。 オシキセいうと足袋とな、 というのは、鉄道がズタズタで。やっと通れるちゅ
羽織と着物と帯と、してくれるんですわ、個人営業 うので関門トンネル出て、ほれから尾道まで歩いた
でしたでな 。 かな、線路を 。ほんで尾道から汽車が出てたでな、
で、その年があけてほいで私は兵隊検査では第一 それに乗 って な、もう着の身着のままですな 。
乙でしたんや。甲種ゃないわけゃな 。ほんで現役で その時分には、新設部隊ちゅうと、あの 、普から
なく招集のほうへまわるんですな 。 まだ私らの時期 ある音日隊ですとな、ょうけ、みなもらいもんして、
には、そこまで切羽詰まってなかったで。ほんでま 毛布とか、装備をょうけもろて帰って、その時分、
あ、家におって 。 新設部隊になるちゅうといくらなんでもなんにもな
いですなあ、もう着てる服と、毛布が二枚と、水筒、
機械鍛冶にかかわる 飯盆ぐらい。
ほゃけんどまあ、ちょっと続きにまた向こうへ行

人間文化・ 115
野鍛冶の履歴

高宮の鉄工所へ ことはでけん」と、そういう信念持ってましたでな
で、それで家帰りましてな、それから役場のほう あ、まあ、「男 一匹でそういうふうにして、自分で
もきてくれちゅうことでしたんやけど、「除隊して 覚悟決めたんやで 、絶対この鍛冶屋だけはやめん J
くんのもおるしな、前入ってたのも除隊してくるや と。
ろ、ま、わしがおっては、またその人らに迷惑かけ
るでもうやめるわ J言うてやめて 、それから高宮の 夜中の保線の仕事
ほうへ鉄工所へ。それが私のおばの家なんですけど、 で、晩、新幹線も行きました 。ほっとほれやとね
鉄工所やってましたしな。ま、そこへしばらく行っ え、娩夕飯食べてここ出るんですわ。 1
2時に愛知川
て。 からパスが出るんです、そういう人を乗せて愛知川
から八幡まで連れていってくれる O で、その時間ま
野鍛冶に でに、バイクで行くんです。そして新幹線の仕事が、
「何人もの子がいるのにひとり母親をほっとくの 1
2時から始まるんです。ほっとまあだいたい 2、 3
も気になるので」言うて家へ帰りましてな。ほんで 時間で終わる仕事なんですわ。
家の母親の手伝いをして 、生活しよう思て、村へ帰 あれがねえ、夏や春はよろしいにゃけんど、冬の、
ってたんやけど、その時にたまたまここが鍛冶屋で 吹雪。 レールの保線ですさかいに 。いろんな仕事が
必要にしているとのことで、火づくりに興味持って ありましたしな 。それをだいぶんやりました。
ましたしな 。で、ここへ下りてきて、ほれから火づ で、それで、生活の足しができまっしゃろ、金が
くりをやりかけたっちゅうことです。で、2
8でした 。 よかったしな、 一晩で。 ほっとねえ、帰ってきて、
それからず、っと鍛冶屋 、野鍛冶一本で。 朝帰るでしょ、半 日休むわけ、寝るわけなんです。
昼から鍛冶屋の仕事ができる。と、お客さんの需要
鍛冶屋になって力、う は、 もう仕事が減ってましたでな、回れてたんです
一一←結婚と同時に鍛冶屋さんに 。 な。
ええ、ここへきて 3月
、 3月に結婚したんかな、 ほんで、あすこはほれ、完全雇用ゃないでな、自
ここにいましたで。「跡継いでくれ」ちゅうことで。 分の行けた時にさえ行きゃ、ま、文句なしに使ても
それからす、っと鍛冶屋専門ですで、 2
8から今、 7
8で らえたんです。 というのは 、向こう行くちゅうと人
すでな。その聞いろいろやりました 。 見て班編成こしらえて、一班 1
3人か 4人編成になる
というのはねえ、もう 、鍛冶屋候ではご飯よばれ んですけどな 。それで、各保線の仕事に出て行くん
られませんしな 、そして 、 というて、この商売やめ で、ほんでこの辺ですと、あの、甲良の尼子からね
て外へ出るいうことはようわかつてましたけんど、 え、え ーと、八幡はまだ区 内で、あすこの近江富士
(
義理の)父親がやってる聞は、なんとか父親の手 の見える野洲の辺までが受け持ち区域でした、その
助けをしたいし、鍛冶屋自体の 、「跡をやります言 会社のねえ 。その 聞を補修に連れて行ってくれてそ
うて自分で継いだ以上、鍛冶屋の仕事だけは絶やす こで補修するとまた迎えにきて、八幡まで帰って、
八幡から愛知川まで送ってくれて、ほて愛知川から
は自分で、バイクで帰ってくると 、こういう生活をや
りました 。
で、まあ自由がきいたさかいな、もう自分で仕事
が忙しいて行けなんだら行かん。あんまり雨が降っ
て、嫌な晩は行かん 、それがきいたんですわ。そら、
都合のよい職場でしたな 。つらいけんど。 こちらか
らの仲間もありましたしね。

鍛冶屋だけではなり行かす・
やはり鍛冶屋一本では食べていけなかった。
うん、いけなんだです。昔は親子でやって、なん
山村の暮らしを影で支えて 50

とか親子が鍛冶屋専門で回れるだけの仕事はあった

116・人間文化
野鍛冶の履歴

わけですな 。 まあおじいさん目立てもやってはりま て。
したし、もちろん私もそのあと目立てもやってます ほんで、「年金がこのぐらいではなんやし」と恩
けんど。 てたとこが、近江電線のほうへ世話してくれる人が
それでもなおかつやっていけん、ほんで、水道もや あってな、そこやと 6
0まで年金がかけ られるんで 、
りました、水道工事ね。で 、この付近水道ほと んど 年金かけてもらうのを目当てで行きましてな 。ほん
もう、回ってますし、ほんで設計、ほれから工事、 で、近江電線何年ぐらいおったやろ 。 7、 8年。で

自分で、もう請け負いやなしにね。 タンクだけは別 そこでの仕事は、自動車の配線作りですわ。それの
でこしらえてもろて設計はこういうなもんをしてく 専門ですでな 、で、それ、手が鍛冶屋ですさかいな 。
れちゅうて 。今ほんで水道の手跡がまだようけ。全 いろいろ改良しではな、賞ももらいましたしな 。
部工事設計して、ヲ│いたのが、この二 ヶ字、 三 ヶ字 「もうなくてはならん Jちゅうて、んで長いこと 置
ありますか。 いてくれましたしな、そのかわりいろいろなもん開
で、その聞はそれ水道と、鍛冶と守って、目立て 発しました、機械をな 。

、 三本立てで。 年金もらうのは 8年なりましたしな、あと 3年ほ
お義父さんがねえ、亡くなったのは、うーんとあ どで 7
2か、そこらでもう、向こうも定年が、いうこ
れは何年ゃったかなあ、まだ 5
0年はしてないんやで、 とでやめましてな、で、ずーっと家で鍛冶職を 。
4
0何年なるかなあ。 もう来年あたり法事があたると ま、それが私の履歴です。
思てんにゃ 。だいたいみな教えてもろて、ひとり立
ちになってましたでな 。 2
. 道具とのかかわり
で、保線のほうもええかげん歳も行ったしやめて 、 職人としての松浦さんは、どんな思いで道具とか
そして、あすこは年金制度がないでな、こんな仕事 かわってこられたのか。黒田末書先生の言葉をお借
ばっか続けておっては老後が案じられるっていうの りすれば、そこには、ある「循環Jの構図が見えそ
で、ちっとでも年金が入るように、バルブの仕事に、 うです。そのような視点で読むと新たな理解につな
行きました 。晩、夜なべができますでな、自分の鍛 カfるのでしょう 。
冶屋が回れますで。
そういうふうに回れる仕事仕事を選んで、勤めて、 「お恥すかしい仕事をJ
ほいてちっとでも年金をこしらえんとどうもならん 一人前にできると思われたのはいつ頃ですか。
と思て、で、やっと 8年、年金が、厚生年金が入る で、わしこれだけは、いつまでたっても 一人前っ
ようになり、ほんで今になれば、ま、昔は手に職を ちゅう仕事は、いっぺんいっぺんが、いっぺんいっ
つけとけば食いはぐれがないって言うたもんですけ ぺんでちょっと前の仕事帰ってきて見ますやろ、
んど、月給取りが勝ったということです。ほんでも 「ああ、お恥ずかしい仕事をしといたな」 って 、も
うちょっと早う目商いとけばよかったんやけどな 。 う、帰ってきた品もん見て 思います。で、いっぺん
5
8、かな、「そもそもこれではあかん」と思うたのが。 いっぺんが、こらもう 、いつになったら卒業いうこ
とはないですな 。 うん 。「お恥ずかしい仕事しとい
年金稼ぎ たな」と思うことがょうありますもん。はあ。
野鍛冶ももうヒマになってくるし、そして、「こ 農具と山の道具ねえ、ヨキ、ほれからナタ類鎌類
れはあかん」 。 こんな、自分とこの仕事しとっては、 ね、ほんでここらでもねえ、ハサミ専門のハサミ鍛
後、老後が 、厚生年金ないでしょ。「こらあかん」 冶ちゅうのがありましたしな。それはもうハサミ 一
と恩て、それからおんなじ高宮のいとこがバルブを 本でや ってはりましたわ。で 、野鍛冶 っちゅうと主
やってましたでな、そこへ「出てこい、手伝いにき にそういう 山の道具と 畑の道具ですな 。
てくれ」ちゅうことから 、はじめは 一 日なんぼの請 ほんでねえ、もう、私がここやりかけてからでも、
求書を書いて、そして毎月請求。 やらかい鉄を求めて古鉄屋回りするんですわ。自 分
しまいには「どや、も う月五台みたい にきてくれん に適した鉄を求めて。
か」ちゅうことで。年金関係もあるで、そこで二年 行 って 、ほして、だいたい勘で、叩 いてみたり、
ほど、年金かかる仕事をやりましてな 。ほんで結局 傷を入れてみたりして、コンコンと角をやるとょう
定年きますし 、一応定年やで、ちゅうことで、やめ わかるんです 。「この鉄はやらかい、こらいける」 。

人間文化 ・ 117
野鍛冶の履歴

一年で減らしてまわはる人もあるしな 。 ょうけ使う
か、量ですな 。
打ったのを 一丁だけを専門に、もう毎日そればっ
かり使う人やと早う減らさはるし、で、たいがい一
軒の家に三丁か四丁は鍬でも、交互に使てはるでな、
今は奉仕的気分で
これは何用 、これは何用 。みな用途によって鍬の重
で、数があるとすると、そのうちの若干持って帰っ さ、幅、長さがみな違いますでな 。で、用途用途に
てくる。で、さっそく試験にやる。で、焼き入れド 応じた道具の使い方しはるで打ち方も変わります。
ボーンと突っ込んで、、それでやらかさが変わらん、
と、それをもう仕入れてくるわけです。 無欲第一
その時分は古鉄屋さんに、ょうけ入ってましたで それとね 、一番、自分で自戒してんのがねえ、欲
なあ、ほんで 、よ かったけんど、最近はもう全然入 を出すこと 。
りませんしなあ 、そんな古鉄寄せんでしょ 。で、や 仕事中にねえ、もう、やっぱり無欲で仕事 。で

むをえんで、新しい鉄を、鉄犀さんで見に行くんで もう仕上がる寸前にねえ 、
「 ああ、こら調子ょうい
すけんども、それもや、向こうで吟味してみて、自 った。まあありがたい今日はこんだけもうかったな j
分でやっぱ使こてみて、まま、まあまあ、まずまず って、瞬間に思うことあるんですわ。「これなんぼ
ゃなっちゅうのを今使こてますけんど。 なんぼ、あ、今日はこんで 日当になった J
。ほした
らその品もんは必ずとっかで、うん、失敗してます。
道具とのかかわり ほっと手直し、もういっぺんやり直し。ほっと時間
だいたいね、道具の切れるちゅうのはねえ、ええ はかかるしええ品もんにはならんし 。
ハガネ使こて、やらかい地金 (じがね ) を使えば、 ほんで私、欲がどうしても起こりかける時はねえ、
も、その道具は切れるに決まってるんです。 自分の宗旨の仏さん拝むわけですな。「ああ、悪い
というのはね、あの、鍬にしてもね、土掘るでし 欲出した 。なまんだぶなまんだぶなまんだぶ」いう
ょ、ほっと、砥石になるんです、土が。ほっとやら て、ほっとまあ、欲が消えますわなあ。
かい地金ですとやらかい地金はツツツツッツ減って とにかくそういうその妄念ちゅうか欲出した仕事
いくでしょ、ハガネは残るでしょ、ほっと、鉛筆の はかなつらず失敗します 。そら不思議なもんです 。
芯と 一緒で、ハガネだけ先ちょっとず、つ残ってくる 無欲にならなんだら 。 とにかく欲が一番恐いです。
わけ。で、地金が減るさかいに、いつまでたっても で、知らず知らずのうちに粗相になってるのかな
切れ味が変わらん。 あ。 もう 仕上げる瞬間にそれが出るんですわ。仕上
で、それも打ち方がありましてな、真ん中をしゃ げるちょっと手前で 。 「ああうまいこといったし、
くめるんです、鍬にしたら、真ん中を薄うするわけ 今日はこれだけもうかったな」と思ったら、仕上が
ですな、両端をちょっと厚い目に仕上げる 。ほっと った品もんが今度は、とずっかに失敗がある 。気が抜
ねえ、鍬はだいたい角から減っていくにや、角から けません。一丁仕上げてやれやれ。
たてるで。真ん中がどうしても、『牛の舌』みたい で真夏の仕事ですと火づくりでしょ、まあ私は j

にねえ。それでは道具の価値がない。 嫌いですけんど、一汗ガーっとかいて 、 ビールのぐ
ほんで、帰ってきて、真ん中がしゃくんだなりで い飲み、あれだけは、酒嫌いゃけんど、ああおいし
帰ってきたら、もうそれは上出来の、牛の舌になら いですな 。玉の汗かいてはだかで、はだかですると
ず。それをめがけてやってるわけなんですわ 。で
、 なあ、鉄の、火の粉が体についたりするしな、そや
一番に 、帰ってきたらそれを見ます。手で 、手さわ けど熱うて着てられんてな 。
りを 。「あ、この道具切れてたなあ。この道具は悪か
ったなあ」 。 もう切れたったか切れてなかったか 「
あ 親方とのこと
あ、こらあ悪い仕事しといたなあ」と 。ほんで「ょ 一一一親方はどんな方でしたか。
う切れる」 言 うてくれるで、それが取り柄ですな 。 ほらもう短気一本ですよ 。やっぱり職人の肌っち
使こて帰ってくるのは、それはまあ一概に言えま ゅうのは 。ひとつの型がありますでなあ 、職人には 。
せんけんど、三年目やとか二年目、早い人ゃったら ←ーよく怒られたりなんか。

118・人間文化
野鍛冶の履歴

いや、うちのじいさんは、顔にはピーンとでてる 時間かかってしまうで、私はそんだけの金くれちゅ
んですよ、で、そゃけんどやっぱおやっさんも遠慮、 うことはかなんで、で、断るんですけどなあ。
してくれる 。私もおやつさんは大事にしてましたし、 その代わり、「おまえ向こうで買うてきて 、ほん
ほゃけんどみんな世間の人からちゅうと「ょうおま で、わしが気に入ったように直してやるから 、たぶ
えあのおじいさんの辛抱してるねえ」と。「源さん」 んこんでいけるでこの頃の品物は」 言 うて、それで
ちゅうたんですけどな。「源さんの、ょう辛抱して」。 直してやってね、使うように して る人もあり まし た。
「わしはなんにも小言きいてないでJ
。 もう、最近は邪魔くさいでみなそのまんま 。 なんせ
でも、仕事中に顔へ出るんです 、わかる 。「ああ、 安いもんな 。大量生産で型で抜くんですで。みな型
おじいさんもいい辛抱してくれはったんやろな jと
、 打ちでしてますでな、ほら 。ほんでひといきの出が
今でも思いますな 。 け時分のはほんまに、お粗末なもんでしたけどな、
ほんでここのおじいさんも、行ってたんですよ、 もう最近は、うっかりしとると玄人はだしの品もん
アメリカのほうへ。帰ってきてからまたこの仕事。 ができてますで。
それまでにも若干はやっておられたんやろと思うん なんせ科学の力で、焼きひとつにしても、何度の
ですけどあんまり、そういう方面は詳しゅうは聞い 焼き入れて何度 で戻すっちゅうふうに、コンピュー
てなかったですけんどな。 ターか、なんか知らんけんど最近はそういう 仕事で
で、アメリカから帰ってきてほんで、うちの家内 すでな、うっかりしますと。ここらのはいつまでた
も、えーっとおばあさんの四十二かそこらの子で、すよ 。 っても勘で、っしゃろ 。
ふたり、おじいさんアメリカから帰ってからの子 、 そしてこう近代的になってくるっちゅうとええも
うちのと姉といますし 。ほして、おじいさんは、末 んが、昔みたいに品もんが悪ければね、ええにゃけ
っ子に なるかなあ、なにかやろけんど、兄さんが、 んど、ええ 品も んが安うでできる時代ですでとても
妻をもろて 、若死にしはって、んで結局その嫁さん 太万打ちはできません。 もう、これが時代の流れで、
になおらった 。なおる、昔で言 うなおるっちゅうん すで、もう、技術云々言うとる 世の中ゃないんで、しょう 。
ですけど、一緒に 。嫌ゃったらしいにやけども、自
分には恋人もあったようですけどな 。 まあ、家を継 奉仕的気分で
がんならんでちゅうので 、う ん。 もう、 跡継 ぎもおられないし 。
で、ええ辛抱しとかはります、やっぱりな 。それ ええ 。ほんでまあ、もしここにお ったと しても、
なりの。ほんで、短気虫は短気虫ゃったけんど私に 「継いでくれ」ち ゅうよう なことは、 言える ような
対しては 、ほんとに抑えといてくれましたな 。 商売ゃないで。みなもう、転向してるんですでな 。
仕事を教えてもらうということは。 飯が食べられんで。
口はない 、全然ない。 仕事を見てる。 見て、 覚え 一一一それでも
、 やってくれというお客さんがこられる 。
る。やって、経験するんですな 。ほんでさっき 言 う あります。で、もう、そういう人には奉仕的気分
たみたいに「ああおそまつな仕事をしといたな」っ で、金はもういらんですな 、認めて「せえ Jって言
ちゅう、それで、すわ 。 うてくれるのがうれしいんですで。
親方に認めてもらったということは。 ただうち の家内言 うのには「タダの仕事はせんと
いや、ないですな 。いつまで経 って もね。ほんで きな」と、「向こうさんが後でなにか礼をせんなら
もねえ 、なかにお客さんから「おまえのやったもの んで、その方が高こつく 。安うてもなんでも金もら
は、おやっさんのやったんよりょう切れるぞj って え」て、「金さえもらっとけば、向こうさんは礼を
言われた 時や、 「長も ちした」ち ゅうて 言うてくれ する必要はないで」 。 ほんでわず、かでもほんまのお
はった時はうれしかったな。 冥加銭もろたりねえ、あの 、自分の専門以外の仕事
をしてやる 時で もねえ、損から先のことでも 、一応
侮れぬ大量生産晶 金は、手間もなにも度外視した金をもらうこともあ
売った あるのは全然 もう 。ほんでそれがあかんで ります。
「おまえのゃなけりゃあかんで、せえ」って言われ 年に何丁ぐらい打つかなあ、営林が十丁ほど、
るのがあるわけですな。で 、 自分ではとても採算と 「どうでも」ちゅうてくれる 仕事やで、ほ して その
れんで、おんなじ仕事しでも、これだけにこんだけ 他に十丁ほどぐらいあろうかなあ 。

人間文化・ 119
野鍛冶の履歴

親の教えとなすびの花は ・
.
. これはもう 、人に親切にすること、それから物をや
ほんで、ね、私の、生んでくれた生みの親ね、もう ること、これはもう必ず回りまわって。「親の教え
口が、お母さんタコになるほど言うことゃけんどな、 となすびの花は万にひとつのあだがない」ていうこ
「とにかく 、人に物をやることを惜しむな 。人に親 とわざをうちのばあさんよう言わはりました 。
切することを惜しんだらあかん」。やかましい言わ 0998年 1
1月3
0日 甲頭倉のお宅で)
れましてな、それを盛んに教えてもらいました 。
ほんで、「ょう考えてみいよ、おまえもょう考え
* *
とってみいよ、朝なあ、たとえ人に物をやったとせ おわりに
え、ほと日の暮れにと=っかから回りまわって、また 松浦さんのお話に鮮やかに描かれた 日々の暮らし
もらうことが多いにやで 、ほんで、ただ自分が損し ゃ風物など 、まだたくさんあるのですが、紙数もあ
たと思うなよ、これは f
也人さんからまた帰ってくる j り、今回は以上の話題に絞って抜粋しました。また、
ちゅうことをな、まあほんまに、ええ教訓を受けて 松浦さんのご好意で、火づくりを実際に見せていた
るんですにや 。 だくことにもなっています。それらも含めて、いず
ほんで、それはもう言えますな。帰ってきます 。 れ機会がありましたら紹介したいと思います。

Comment
くろ だ すえ ひさ

私たちは謙虚に生き生きと語れるものを残せるか? 黒田末書
滋賀県立大学人間文化学部

上田洋平さんに誘われ、ほんの短時間だが松浦さ のである。だから 、それは生きる力の拡大である 。


んの聞き取りに参加させてもらい 、その謙虚な人柄 しかし、鍛冶のその力は物に対する自己の力の確信
に感銘を受けた。その時の記録を上回さんが本人の とは違う 。松浦さんは鉄をねじ伏せるのではなく、
口調を見事に生かした文章にした 。 これを読むと改 我を走らせることがない 。 「こんで日当がでたな」
めて、鍛冶屋はかつて農具や包丁などの日常器具の と思っても、親方との合方打ちのとき「こんな風に
製造・修理を引き受けただけでなく 、道具を通じて 打 ったほう がいいものになるのにな」と思っても失
人間関係を作り互いに認識し合う 仕事であったこ 敗した品物になるので、念仏を唱えて欲も我も消す
と、技術の粋がありそれをこなす人間に溢れるよう と言われる 。 また、自作の道具が修理に戻ってきた
な力をもたらす仕事であったことが分かる 。 とき、その仕事の善し悪しとその人の使用具合が分
技術の素晴らしさは刃物の良さだけでなく、松浦 かるのだが、自分自身についてはただ 、「ああ 、お
さんが工夫された様々な鉄ばさみにも現れていた 。 恥ずかしい仕事をしといたな」とおっしゃるだけで
小物用は、さみの細い先や爆りを固定する工夫は、鎚 ある 。謙虚さが拡大した生きる力を包んで、いる 。 こ
で、打って作ったとは思えないほと だった。松浦さん
3 のかたちによって、伝統技術の高い技術が保持され
は自動車の配線作りでも鍛冶の経験を生かした工夫 てきたのだとつくづく思われたのである。
をし 、賞をもらっている 。このこ とはたんに、鍛冶 道具は作られ、使われ、修理に戻ってくる、その
の技術が近代技術の場でも生きるということだけで 循環が製作者と使用者の互いの認識を深め技術を高
はない。松浦さんは鍛冶を通じて、変形できる工夫 める 。鉄も鍛練し直されて循環し、作業中の鎚 ・身
の対象として物を見る力を養ったのである 。鉄の硬 体 ・鉄片の関係もエネルギーと感覚の循環系をな
度を試すところから始め、鍛練して様々な形に整型 す。鍛冶に限らず以前の生活技術は 、物と人間にま
し、修理に戻ってきた製品を見て作業の反省・修正 たがる幾重もの循珠t構造を作っていた 。大量生産
をする、その繰り返しが鉄や道具に対する感覚や使 消費がそれを壊滅させ、人間同士を関係付ける物の
い具合の想像力を養い、物を主体的に把握する力を 働きを消滅させた。私たちはこの先、松浦さんのよ
作るのだろう 。これを技術的な物の把握力と │
呼ぼう 。 うに謙虚に生き生きと語れるものをどれだけ残せる
この構造は技術一般に認められるが、鍛冶を始めと のだろうか。
する生活の技術は生身の感覚の延長にこの力を生む

120・人間文化
人・問・文・化・通・信

-博物館学

のぞきケース各 l台) を利用して、各自が設けたテ

博物館学受講生による ーマにしたがって、展示プランを作成することとし
た。 その計画に基づいて実際に展示するので 、実際
に展示できる計画を立案すること 。実物を展示でき
「県大ミニ博物館」展示 ない場合には、写真や図で替えることができること 。
また、展示のテーマは、展示スペースが少ないので、
博物館学課程担当 高 橋 美久二 大きなテーマにせずに、小さな絞り込んだテーマに
した方がよいこと 。できたら各自が現在興味をもっ
1、はじめに ていることや、卒論のテーマにしようとしているこ
新設大学に設けられた博物館学課程らしい試みと となどを展示テーマにすることが好ましいこと 。あ
して、 98年 5~7 月に実際に博物館の展示を体験す るいは、各自または知人のコレクシヨンをストーリ
る機会をもうけることとした 。 博物館学講座のため ー性をもたしたものにして展示テーマとしてもよい
に購入した博物館用の本格的な展示ケースを利用し こと 。他人のまねでなく、個性豊かな展示プランを
て、展示を架設した。 ケースは、人に見てもらえる 考えること 、 などを指導した。
機会の多い、滋賀県立大学交流センターホワイエに 展示計凶の内容には、つぎのようなものを作成す
おき、「県大ミニ博物館 j となづけた 。 ることを要求した。
この展示は、博物館学受講生の各自が設けたテー (
1)展示名称
マにしたがって、 9
7年の夏期休暇中に展示計画を作 (展示テ ーマに添 って 、見たくなるような魅力的
成するよう指導した 。受講生が計画した展示企画の なタイトルをつける)
中には、個性豊かな企画が多く、展示を実現したい (
2)展示の趣旨
ものが多かった 。 これらの展示計画のうち、全員の (おお よその展示構怨と、その展示の目的、その
投票などによって選ばれた優秀作品で 、架設可能な 展示によって何を主張しようとするかその意図な
4人の展示をおこなうこととなった。 いずれの展示 どを書く)
も、なかなかの好評を 1
専した 。一般新聞にも:tAli
絞さ (
3)展示内容
れたために、学外からの見学者もあり、ある公立の (
a)展示品の一覧 名称、数量、特徴 (
時代、種別、
資料館の学芸員からは、そのままもってきて、その 作者名など)、所蔵者名(または出典)
資料館でぜひ実際に展示してほしいとの要望もあっ (
b)展示品の題銭笑(各展示 ;
Elにつけるキャフ。ション)
たほどであった 。 ここでは、その展示内容と展示に (
C)展示パ ネル案 (文字 、図、写真を配したもの、
いたる経過を報告したい。 必要な数だけつくる )
(
d)展示計画図 (
展示品、パネルなどの配置の平面
2、展示計画の作成 図と立面図)
展示計画は、博物館学受講生全員に 、9
7:i
:!三
の夏期 4)
( 参考文献一覧
休暇中に、展示計画を作成するよう課題とした。 そ (
展示計画をつくるにあたって参考にした文献)
の課題は、博物館学講座のために作成した展示ケー (
5)広報資料
ス(
交流センターホワイエに置いてあるハイケース、 展示案内ポスターまたは展示案内ビラどちらか l枚


間文化・121
人・間・文・化・通・信

夏休暇明けに受講生が持ち寄っ た
、 展示計画は
1
03点(うち 2点は 2人の共同製作 ) もあ った。 こ
れは、博物館学概論受講登録者 1
32名のうち、 80%
にあたる (
必然的に 、 この時点で学芸員の資格取得
をやめ た ものが20%あったことになる 。
) これらの
展示計画には、提出 目前につくった「一夜漬け」の
社撰なものも中にはあったが、他人のまねでなく 、
個性豊かな、見て楽しい 、読んで面白い、何度も見
たくなるような企画が多く 、ぜひ展示を実現したい
と思っ た。 これらの 、展示計画作 品 を着服、展示タ
イトル 、内容、 構成 、ポスター、総合点など 6項目
で、私なりに評価 した。 しかし、それだけでは見方
が片寄ることもあると思い 、展示計画作品全部を教 とくに 、他を圧して高得票を得た、 I位の「耳か
室に並べて 、受講生にも評価してもらった 。それぞ きの世界」 、 2位の 「リカちゃんに見る世界 J
、 3位
れ優秀作品 3点を選んで 、投票してもらった結果は の「おじいち ゃんの趣味の 世界」の「 世界
」 三部作
つぎのようになった 。その結果はほとんど、私の評 は、 どれも力作であった。 いずれも身近な材料を選
価と 一致した 。学生の評価では高得点にはならなか んで、「耳かき …Jではその歴史をさぐり 、 ところ
ったが、私の評価が高く学生の得票も数票あるもの かわれば品替わる耳かきとその文化の古今東西を小
を、「監督推薦」で選んだのが「そのほかの優秀作 さなスペースに表現しようとしたものであり、「リ
品」としてあげたものである 。 カち ゃん…Jでは リカちゃん人形一家の変遷から 、
戦後の世相史を表わしたものであり、「おじいち ゃ
展示計画作晶の投票結果 ん Jでは祖父の残した切手や葉書のコレクシヨン
1位 山口 典 子 「耳かきの世界 J 28票 から、作者には経験のない戦前・戦中 ・戦後史をさ
2位 福原 由佳 「リカちゃんに見る世界 J 2
7票 ぐろうとしたもので 、それぞれ自分の主張 したいこ
3位 小森 雅美「おじいち ゃんの趣味の世界J 1
7票 とをじゅうぶんに展示計画の中に反映したものとな
4位 大 和 田 葉 子 「 洋 書 とびだす絵本展 J 9票 っていた 。
5位 中山 正英「日本の美 ・和菓子 8

同 安達亜希子「涼 ~ 100年前の夏 ~J 8
票 3、展示方法
7位 岩淵加奈子「蛙の逆襲展 祝アレルギー克服法J7
票 受講生の展示候補作品の20
作品 から 、 さらに実現
8位 真木 玲奈「ふえ ~ 魅了する世界の音 色 ~ J6
票 可能なものと 、それを実現したい希望者をさらに絞
同 角野手口美 I
B巴a
tle
sのいた時代 り込んだところ 、結局最後には、「耳かきの世界 J

The
yma
dememe
ety
ou-
J6票 「おじいちゃんの趣味の 世界 J
、「ふえ 魅了する世
同 蔭山美紀子 I
Asi
anCi
nema
J 6
票 界の音色 ~J 、「樹霊 ( じゅれい ) J の 4 作品が残 っ

同 福西 l カ ワ展 J
総子「日 用品のウラ 、 6
票 た。
1
2位 高 木 優 子 「 人 と 石 来待石の歴史 - この展示の実際は 、98年度前期の博物館学実習の
人との関わり ~ J5票 時間に、展示の架設の仕方を実習する 中で実現して
向 山崎 千 草 「 と な り の キ ュ ー ピー J 5
票 い った。受講生全員がプJをあわせて作成 した、手作
りの展示パネル、写真パネル 、題銭、展示台
、 展示
そのほかの優秀作晶 タイトル文字などに よって 、意IJ意と工夫をかさねな
伊 吹 直 美 INormanRo
ckwe
lの描いた がら架設した 。
古き良き時代のアメリカ J 展示が 4作品とな ったために 、ハイケ ースとのぞ
大村 典子「スミレの 一族 きケース各 l台を使って、各 1作品を展示すること
~近畿地方に咲くスミレ ~ J として 、 2部に分けて展示することとなった。その
上田 洋平「樹霊 (じゅれい )
J 展示期間と展示テーマはつぎのとおりである 。
tI
垣 谷 美f 真夜中の神子たち J 第 l 部 1998年 5 月 25 日 ~6 月 2 1 日

細 木 里 香 「 員 -貝 -貝j ハイケ ース :上田 洋平「樹宣言 (じゅれい )


J
金村 和枝「毒キノコの世界」 のぞきケ ース .山 口 典子「耳かきの世界J
高津 教子「星野富弘の世界
」 第 2部 1998年6 月 23 日 ~ 7 月 31 日
ハイケ ース :真 木 玲 奈 「 ふ え 魅了する世界の

1
22・人間文化
人・閏・文・化・通・信
は、笛の歴史 、笛にまつわる古今東西のエピソード
をいれたパネルを配して、狭いケースながら見るも
のを飽きさせない展示となった 。
「おじいちゃんの趣味の 世界」の展示は、祖父の遺
したぼう大な切手・葉書:などのコレクションから、
戦時中の世相をうまく表現したものとなった。床面
には、戦前、戦中、戦後の 3つに分けて、切手 ・葉
書などをならべ、壁面にはその時代背景を エピソー
ドを交えながら解説するパネルと、自作のポスター
が添えられた。おじいちゃんの表情がたくみにとら
えられたポスターで、ひときわ目をひいた。

4、展示の評価
展示中に は、博物館学受講生に展示をみての評価
をしてもらった。その評価は 、単におもしろかった、
きれいだった、つまらなかったなどの感想だけでな
く、具体的に評価するよう求めた 。それは、展示の
着眼が独創的であ るか 、展示タイトルに魅力があ る
か、向分の意図が展示によく表されているか、展示
の構成にストーリー性なとO
;
jl
Eれがあるか、内容がど
うおもしろいかまたはおもしろくないか 、展示の架
設の仕方やパネル、題綾などが見やすいか、ポスタ
音色 -
J ーなどの広報はうまくいっていたか、などの各観点
のぞきケース :小森 雅美「おじいち ゃんの趣味 から評価してレポー卜するというものであった。 こ
の世界J うして、実際に展示してそれを評価することによっ
「樹霊Jの展示は、犬上郡多賀町の 山中 などにあ て、博物館に行っても展示の見方が変わってくるよ
る古く から神木とあがめられてきた巨樹の神秘をさ うだという感想が多かったのが大きな成果であった。
ぐるもので、展示品が巨樹であるために、すべてパ
ネル展示となった 。 しかし 、パネルを平面に貼るだ
けでなく、象徴的な樹木をハイケースの壁面い っぱ
いに貼ってパックパネルとし、そのうえに段違いに
各樹木の写真パネルを貼っていくなどの工夫や、地
図パネルなどを床面のサイコロにたでかけたり、樹
木見本を床に置くなどの工夫によって、立体感のあ
る展示内容 となった。
「耳かきの世界」の展示は、前述のように、身近
にありながら、あまり展示対象とならなかった「耳
かき Jに注目し、自分のコレクシヨンを中心にして、
耳かき文化の宵今東西をさぐるものであった 。床に
は、各サイコロごとに 、材質別、地域別の 各種の実
物の耳かきを展示し、壁面には耳かきの歴史を考育
資料などによって写真や図入りで説明し、さらに江
戸時代の「耳垢取」という商売のはな し、インドの
耳掃除屋のはなしのパネルを添えてまさに「耳かき
の世界」を表したものであった 。
「ふえ 魅了する世界の音色 -
Jの展示は、世界
各地の民族音楽につきものの笛を、自分のコレクシ
ヨンを中心にして 、壁面にも床面にもところ狭しと
並べるはなやかな展示によって、魅了する音色の世
界へいざなうものであった。 そして、壁面の 1
2
1問に


間文化・123
人・閏・文・化・通・信

園人間文化セミナー
聞である 。 同じ料理でも誰と食べるのか、どのよう
な場所・雰囲気で食べるのかによ って、おいしさは

楽しい調理の美学 非常に異なって感じられる 。今回のお話は、料理と


いうのは単にお腹を満たすだけのものではなく 、情
緒立かに食べ物を通じてみんなとコミュニケーショ
平成 1
0年 1
0月2
0日 (火)、本学部主催のセミナー ンを取るひとつの装置だというお考えのもと、料理
「楽しい調理の美学 j が本学学生や市民の方々の参 のみでなく食空間のコーデイネイトをも含めた 一連
加のもと行われた 。 セミナーの講師、奥村彪生氏 の行動を“調理"として捉えた美学から入った食文
(神戸 山手女子短期大学教授 -伝承料理研究家)は、 化論であった 。
伝統と新しいものとの融合を計 りながら日本の食文 身近な食材を使 って調理の仕方・道具の使い方の
化普及にあた っておられる実践家である 。 工夫をすること、料理におしゃれ心を持って 、楽し
講義は、松イ E
堂弁当 (
江戸初期の学僧 ・書画家、 く作 って楽しく食べる 。それで会話が弾みいっそう
松花堂昭乗の考案した十文字の仕切のある方形の縁 料理がおいしくなる 。奥村氏の巧みな話術にセミナ
高の器に盛 った料理) を作りながら「テーブルコー ー参加者は吸い込まれるように聞き入っていた。
デイネイト」、 「フラワーデザイン J
、「照明」、「作る」、 (
文責 ・日比喜子)
盛 りつける j、「食べる j について進められた 。料

理は最初、目、視覚で捉えられ、中でも 一番ひとの
気持ちを捉えていくのが色彩である 。伝統的日本料
理は目で食べるといわれ、五色 (
赤、白、賞、緑、
黒) を考慮して食材を準備し、調理する 。 出来た料
理を彩りよく、形よく、器に盛り、季節感を表現す
るのが特徴である 。食事をする部屋の照明で料理に
陰影が出来ると立体感が出て、さらにおいしく見え
る。 テーブルのがi
jり、音楽、香りなども大切で、料
理を作る人は総合プロテーューサーでなければならな
い。以上のような概要であった 。
食べ物のおいしさを感じるのは、それを食べる人

-日仏共同研究会

周縁・媒介・アイデインティティ研究会 学 にも来て報告されたので御存じの方もあろう 。そ
の他、クラピシュ=スベール女史 (イタリア中世史)

「表像体系と社会」シンポヌュウムの報告 を円本に招いて東京 ・京都で報告してもらい、来年


はフランス中世考古学のコラルデル氏 (
国立民俗館
長) を招いて報告 してもらって学術交流の実を高め
脇 田晴子
る予定である 。
ここ 5 ~ 6 年続けている日仏の共同研究会も、 当 さてパリでのシンポジュウムは 、 日本史の成果を
初の日本での研究会、パリでのシンポジュウムを 9
7 フランスはじめヨーロッパの学界に知ってもらおう
年 4月の「中心空間の形成」、 1
2月の「周縁 :逸脱 ということで、デ イスカ ッサントや司会者には、フ
と秩序」、そして今回 9
8年 l月の「表像体系と社会 j ランス人を主とする西洋・東洋の専攻の歴史 ・民俗
で、一応終了した 。 学 ・社会人類学-考古学 -宗教学 文学などなどの
この研究会はフランスのアナール派の日本研究 方々が当たってくださり、各地域を異にする研究者
者、P. スイリー (中世史)、 A. ブァシイ (
民俗 たちが一堂に会して、討論する試みて、ある 。 中々の
学)、 P. ベルトン (
宗教学)の三氏の呼びかけで 盛会で 1
50人程度の出席者があ った。今回は、 P.
成立したもので、何となくねが日本側の世話役とい ベルトン (
SNRS)の「世直し」、鈴木正崇 (
度-
うことにな ってしまった 。 スイリ一氏は滋賀県立大 応大学)の「忍女と男亙の問 j、武田佐知子 (
大阪

1
24・人間文化
人・閏・文・化・通・信
外国語大学)の「男装と王様」、松岡心平(東京大 劇での異同点を述べて Fさった 。司会者はフランス
r
学) 稚児と王権」 、脇田晴子 (
滋賀県立大学 ) 猿r 史の二宵宏之氏で論点順に討論を運んで下さり、報
楽能の寿祝性と在地共同体 J
, P. スイリー r15 ~ 告者としては以て l
填すべきものであった 。全体に第
1
6世紀、京都南東部の山岳地帯における社会構成」 三 阿ともなると、日仏ともに↑貫れてきて、やっと討
の六報告がなされた 。会場には日仏両方のペーパー 論すべき共通の場ができたと思う 。 単に忘れ去られ
が配られて、報告者 3
0分の問題提起 、討論者 2
0分、 ていた周縁に焦点を当てるだけでなく、それと中心
その応答と一般質問 40分と いう構成であり、相当充 とされたものとの関係を問わねばならないという点
実した討論を行えた。 たとえば私は、被差別民たる でも意見の 一致を見た。
猿楽師が巡業して、文化の中継機能を果たし、町や 今回でこのシリーズは終わり、フランス語版 ・日
村の言祝ぎ、果ては天下国家の寿祝を行うなかで国 本語版で出版の予定。今年 9月は日仏共同研究では
民統合の役割りをもって 、脱賎化していく過程を論 あるが、別のプロジェクト「都市の文化的環境」の
じたが、討論者は、ローマ演劇の研究者のテ、ユポン シンポジュウムをパリ近郊で開く予定である 。
女史(パリ 7大学)で、良く論点を押えてローマ演

-朴麗植文庫
軒ひくき家に鳳仙花(ボンソナ )咲く。

朴慶植文庫 李正子 (鳳仙花のうた)


李さんは在日の歌人で、「部落」とは育った 三重
鯨上野市にあった「朝鮮部落 j のことで、「初めて
開設シンポを終わって r
の訪問答でも食事や宿泊を勧められた J ハモニカ
長屋」の体臭は私の「原風景 J(
統一 日報)という 。
在日 朝鮮人 の日本移住の歴史は百年になる 。在日 こうした体臭の原風景、朝鮮部落、夜、の住んだ古
同胞といわれる人も帰化をし、日本国籍になった人 川町、信濃町、高浜町の部落も今はほとんど姿を消
を含めれば百万をはるかに越える 。二、三卜年前ま した。町や建物が消えただけではない。 そうした部
では日本各地の町はずれや路地裏には紙屑屋、鉄屑 落で生きるため警察とアパッチ戦争 、かつぎ屋戦争、
屋 、養豚業 、ホルモンヤ、 ドブロクヤを中心とする 税務署とドフロク戦争をくり広げた在日 一世もいま
朝鮮人部落があった 。 消えつつある。 H寺はすべてをかき消し、のみこもう
私の住んだことのある麻布古川町、信濃町、芝高 としてし、る 。
浜町などもたしかにそうした部落であった 。 私はかつて、在日朝鮮人が日本でどう生きてきた
日本各地の鉱山、炭鉱 、鉄道、 トンネル、ダム、 かを検証することは立派な日本社会論になると 言っ
発電所など朝鮮人の血と汗の流れないところがどれ たことがある。日本社会の片隅で朝鮮人がどのよう
だけあったろうか。子供の頃の私は細倉鉱山、佐久 に生活し 、本図 や日本社会とどうかかわったのか、
間ダム、三菱涌川、柏飛行場等、そんな労働現場を それは例えば「戦後民主主義論」 一つを考えても重
かいまみている 。みな父の友人や親族のいたところ 要な分析視角になる 。弱者の視点がその「虚妄性」
であった。 を曝露するからである 。大村収容所は戦後日本の恥
養豚場を疎(うと)み部落を去りし友の 部である。


間文化・125
人・間・文・化・通・信

学問のみならず「日韓同伴」未来志向の歴史意識 る。先生はこの資料を公開し多くの人に関心をもっ
をつくるうえでも日本社会の最も身近な隣人とどう てもらうことが、どんな殉難碑や慰霊砕を建てるよ
つきあってきたのかを学ぶことが国際化、闘かれた り、どんな謝罪のことばより重要だと考え、「在日
社会の指針となる 。 同胞歴史資料館 j を設立しようと努力されてきた 。
焼より始めよ、である 。ふりかえって在日朝鮮人 しかし天は先生にその才月を与えなかった 。
の若者は先人がどう生きたのかという歴史意識の裏 そのため急きょ、その意志を!際大が引き継ぐこと
打ちなしには、“根なし草"となり、日本社会へ自 になった 。私は 二 つの点でよかったと思う 。 ーは
ら発光する存在意義を失う、おのれが何者であるか 「在日史j 資料を日本に残せたこと、 ー は「在日史」
を知らない者は他者から尊敬されない。 を円本の公立大学が保管、公開、教育にあたること
故朴慶構先生はそうしたことをつねに口にされ、 である 。 これは日韓新時代にふさわしい初めての快
人や建物は消えても生きた証拠は残ると、私たちの 挙である 。
祖父母、父母の時代の生き方を伝える史資料(文献、 阿川学部長のすすめもあってこの“「朴慶植文庫」
映像、聴きとり)など歴史像を伝える物証を早くか 開設を記念して"というテーマで、十一月七日湖風祭
らあつめられてきた 。その数は五万点にも及ぶとい 参加 l
シンポジウムを国際交流センターで開催した 。
う。現在尼崎市に錦繍文庫(図書二万五千 1
))、神
1 京都、大阪はもちろん、東京 、清水、名古屋からも
戸 市 立 図 書 館 に 青 丘 文 庫 (三万数千冊)、川口市に 多くの人が来てくれた。講師の水野直樹氏は“朝鮮
文化センターアリラン(三万冊) などの施設がある から近代日本を問い直す"と題して、組民地をもっ
が、是等と比較しでも質量ともに最大の資料群であ たことで日本がどう変わったのかを治安維持法の法
解釈の拡大変形を例に話され、感銘を与えた 。長沢
秀先生は故朴慶植先生との個人的なエピソードをま
じえながら先生の史資料観、蒐集への一途の執念を
のべられた 。
このシンポジウムは第一歩である 。 この資料が一
日も早く整理され、文庫として公開され、関心のあ
る人達がこの“宝物"を通じて学ぶことができるよ
うになること、思早大の学生諸君がこの“宝物"を通
じて立派な卒業論文を書き、社会人となり学者とな
って、故朴慶植先生の果たせなかった遺志を継承し、
!孫大が当該分野の文字どおりセンターとなる日を待
ち望んでやまない。 (文責:委 徳相)

聞モンコル調査
科学研究費補助金 (
国際学術研究)による、「モ 一県のカザフ族居住地域でのカザフ族の住生活と宗
ンゴル遊牧社会の変容と将来像 J(3年間)の研究 教生活、とくにイスラム教の現状を明らかにする調
調査 (
代表者西川幸治) は、本年度で最終年度をむ 査をおこなった。
かえ、 7 月 ~ 9 月にかけて、 二班にわかれて調査を 「ボグド郡」研究グループ〔小貫雅男(本学教授)、
おこなった。 三秋尚 (
宮崎大学農学部名誉教授)、八木英二 (

「考現学」研究グループ〔西川幸治 (
本学教授 )、
T. ナムジム(本学教授)、土屋敦夫 (
本学教授)、
演崎一志(本学助教授 )、面矢慎介(本学助教授 )、
棚瀬慈郎 (
本学講師))は、モンゴル草原の住居と
宗教について、都市と遊牧地域におけるモンゴルの
現状と変化の動態を明らかにするための調査をすす
めた。調査の対象は、首都ウランパートルのガン夕、
ン寺院・チョイジンラマ寺院、清朝時代に建立され
た地方のアマルパヤスガラン寺院や首都カラコルム
遺跡に建つエルデネゾー寺院である 。
これと並行して、モンコゃル西部のパヤン・ウルギ

126・人間文化
人・閏・文・化・通・信

学教授)、今岡良子(大阪外国語大学講師)、伊藤恵 生も同行し、このツェルゲル村に i
帯在、遊牧地域で
子(総合研究大学院大学文化科学研究科博士課程)、 のイ射殺学習をおこなった 。
田淵陽子(大阪外国語大学言語社会研究科博上課 (文立 . 小 貫 雅 男 )
程))は、モンゴル西部のパヤンホンゴル県ボグド
郡ツェルゲル村を主要対象地域に、前年度に引きつ
づき、四季の遊牧循環と牧地の配分、遊牧技術と労
働、家畜群の再生産構造、家族経営の分析、遊牧共
同体とホルショーの項目について調査、とくに本年
度は、学校教育と地域の問題を加えて調査すること
ができた。
また、本学人間文化学部の 3回生光田知加、 21
D
:1
生北川太郎、西国亮介、池本陽子、井野綾子、栗本
あきつ、原ふみ、武藤志保、吉田いつみの九名の学

.INFORMATION

ー生活文化 I 物から過剰に摂取したエネルギーを熱として放出し
てしまうのである 。 したがって、
ている動物は少々食べすぎても太りにくい体質を持
UCPを沢山持っ

-杉本悦郎(すぎもとえつろう)栄養学、
生化学、分子生物学、
食生活論 ち、逆に UCPの少ない動物は太りやすい体質を保
r
ijJ~~満になりにくい体質はどうしたら形成される 持していることになる 。
のか j について研究している 。通常の人は体重の約 最近 UCPが褐色脂肪細胞のみではなく 、他の組
20%、即ち体重 6
0kgの人は約 1
2kg、の脂肪を蓄積 織(筋肉など)にもタイプの異なった形
している。これはほぼ5
0日分のエネルギー量に相当 (UCP2,
UCP3
)で 存 在 す る こ と が 判 明 し て き た 。
する 。 このおかげで、人は飢餓時でも活動が可能な UCPの発現量は、摂食条件などの環境要因によっ
のである。しかし、脂肪細胞が増加し、そこへ過剰 て変動することが考えられる(事実、褐色脂肪組織
に脂肪が蓄積することがあり、これが肥満である 。 の UCP量が、香辛料ゃある種の脂質の摂取によっ
肥満の見かけ上の良し悪しはともかくとして、成熟 て増加することが明らかになっている)ので、
した脂肪細胞は、糖尿病や高血圧その他の生活習慣 U
CP(
UCP
2,UCP3も含めて)の各組織における分
病(成人病)を誘発する因子を分花、するので、直接 布やその発現量を実験動物や各種培養細胞を用い
的に生活習慣病誘発の原因となる 。 したがって、肥 て、遺伝子発現レベル、蛋 白質レベルで測定し、発
満の防止は健康維持のために重要である。肥満はエ 現量を調節する因子について検討を行っていきた
ネルギー消費が少なく(運動不足)、エネルギー供 、。

給が過剰(食べすぎ)によって生ずることは言うま
でもないが、我々の体には、本来肥満を防止する仕 -栗田 修(くりたおさむ)教育学
組があり、その機能が低い人は肥満になりやすい 9
8年 8月 1
5日から 2週間、交流センター主催の短
(たいして食べ過ぎていなくても太りや すい )体質 期海外研修旅行に参加し、 5人の学生(環境科学部
であり、その機能が高い人は肥満になりにくい(沢 2人、工学部 2人、人間文化学部 l人)と共に、ミ
山食べてもあまり太らない)体質である 。 シガン州立大学とスーペリオ湖州立大学を訪問して
肥満を防止する仕組に関係しているものとして きました。短い期間でしたが、向こうの教授、学生、
は、一つはレプチンであり、もう一つは 一般市民の方々と楽しい交流をもつことができまし
U
CP(
Unc
oup
lin
gpr
ot
ein
, 脱共役蛋白質)である 。 た。 またヨセミテ国立公園にも足を延ばし 、アメリ
レプチンとは成熟した脂肪細胞から分泌、されるホル カのすばらしい大自然に触れることもできました。
モンであり、脂肪が蓄積したという情報を脳へ伝達 ]CMUの職員、特に ]
ohnHa
zew
ink
el氏には終始
し、食欲抑制、体重増加抑制をもたらす作用がある 。 お世話になり、有意義な研修旅行となりました。
UCPは褐色脂肪細胞のミ卜コンドリアに存在し、 今回は準備が遅れ、参加者が少なかったのですが、
生体内で利用可能なエネルギ源、となる ATPを生産 9
9年度は多くの学生が参加してくれることを期待し
l
する系を遮断し、熱として放出してしまう。J'!lち食 ています。

人間文化・ 127
人・間・文・化・通・信

研究活動については、この後、随分以前からぜひ “J
apanR巴c
ons
ide
res
" と題する講義と、ノールウ
取り組みたいと思いながら、果たさずにいたデユー ェイ -オスロのノーベル平和研究所で 、「日本およ
イの芸術論をまとめたいと思 っています。 この仕事 びアジアは世界に何を提供しうるか j という講演も
は仕事としてではなく、むしろ楽しみとしてやり遂 0月の出張では、「問人主義 Jの存在論的
行 った。 1
げたいものと思っています。 根拠を明確にする報告と討議を、ベルリンで開かれ
た第 22回JeanGebser国際シンポジュウムで行い、
.;賓口悪俊 (
はまぐちえし ゅん)比較社会論・ 比較文明学・日本論 またウィーン大学日本学研究所でも、調査結果をふ
前 4号で報告した委託研究「関係集約型人間によ まえた形で同様のテーマについて講演を行ったとこ
る社会編成原理の研究 j での国際比較調査は継続さ ろ、予想以上の大きい反響があった 。 1
0月講演に関
れ、これまでの対象固に加えてメキシコ、韓国、中 しては、 Hamaguch
iEshun,
“ Dieontologische
国、チェコ等での対人関係観データが収集、分析さ Grund
lageostl
icherKulture
n, Nr
Minikomi, .4,1
998
れた 。 もちろん、国内における調査も追加され、現 Dez.,
Insti
tutf ur Japanol
ogie der Univeri
tat
在までにサンプル数は約七千に達している 。全体的 Wine,
SS.16
-23.
Jに内容が記載されている 。 この後、
傾向としては、 r
聞人主義 j と共に「間人主義 Jが
1 英国の日系企業におもむき、アンケート調査依頼と
グローパルに偏在している (
後者の総平均スコア一 実態調査とを行 った。
点が、中間値 7
2点を 2
0点近く上回る 9
0点に達してい 刊行した図書としては、次のものがある 0
る)
。 しかも欧米や東南アジアでの「間人主義」の ・漬口恵俊編著 『
世界のなかの日本型システム』、
支持度が、 日本や中国のそれよりかなり大きいこと 平成 1
0年 3月、新曜社
も判明した。従来の比較社会論の常識を覆すこの事 .i
貰口!!俊編著 『日本社会とは何かー〈複雑系〉の
実に関しては、因子分析や多変量解析などによ って 観点から 』、平成 1
0年 6月、日 本放送 出版協会 (N
さらに分析する予定である 。 H Kブックス )
この調査を推進するためと、それとの関連で実施 笈口恵俊編著 f
・1 日本研究原論一「関係体Jとして
した海外日系企業で、の小集団活動の実態調査のため の日本人と日本社会 j、平成 1
0年 5月、有斐閣
に、平成 1
0年 3月 .1
0月にヨーロッパに出張した 。 前の二つは、国際日本文化研究センタ ーで代表者
3月のときは、チェコの日系企業を調査した後、オ をつとめた共同研究「世界の中の日本型システム」
ランダ ・ライデン大学で、調査データに基づいて および「日本型システムの編成原理」の成果をまと

...スリランカ・シギリアロ ック

128・人間文化
人・間・文・化・通・信

めたものである 。後者の第」部には 、上記調査研究 -土井崇司(どいたかし)住居学 ・


建築意匠 ・
都市デザイン
の概要が納められている O 単著のものは 、こ れまで ・教育活動
の筆者の日本研究をとりまとめた論文集であり 、方 l 授業 :
イ ンテリアから住居、さらには問の一郭
法論的関係体主義というパラダイムを提起した。 の設計までを学生に会得して貰うための講義と演
習を主として担当している 。課題の進むにつれ、
-鄭 大聾(ちよんでそん)食文化 実力がつくに従い、やや難しい課題にも挑戦する
1 研究 機会を作り 、 3回生の住居設計実習では、昨年度
1)朝鮮通信使の接待料 理と 近江の食文化のかかわ の「花しょうぶ通り」の活性化計画に続いて、や
り(特別研究) はり彦根 中心市街地にある「市場商庖街Jのデザ
5月2
3日 伊香郡高月町にてのセミ ナーで発表 インに今年度は取り組んだ。このように地元の現

朝鮮王朝の料理メニューの特徴とその背景」 実から学び、地元に貢献するという視点も学生に
2)韓国梨花女子大学校アジア食品栄養研究所との 持って貰いたいという意図からでもある 。
共同研究 2 卒業研究指導 ・住のデザイン面 に関する論文と
食晴好の比較研究 ーで李鍾美教授 が 5月に来 設計を 、学生が興味に応じて選んだテ ーマを指導
校。 1ヶ月滞在。 している 。今年度のテーマは
こちらからは 9月に在外研修で 2週間滞在。 「エコハ ウス」論文
2 著書 「滋賀県立大学キャンパスの P
.O.
E.一使用者側に
llrハンドフック韓国入 門H東方書庖 共著 7月) よる使用開始後評価 J 論文
r
2) 論集酒と飲酒の文 化j (平凡社 石毛 直道編 「居住地景観の視覚的構造 治西ニュータウンと
共著 0月)
1 京都中 心市街地の比較を通じて j 論文
r
3) 韓国家庭料理入門 j (農文協
共著 1
0月) 「
現代の会所 彦根市中心市街地における高齢者
4) r
朝鮮半島の食と酒 j (
中央公論社 中公新書 のための『遊び』空間」 設計
0月)
1 「京都 ・山鉾 町 コミュニケ ーシヨンシステムと
r
5) 韓国伝来麺類飲食史研究j (
張智銭著 修学社 しての街路空間 j 設計
ソウル)の日本語訳 内容を r
FOODEUMj (
季刊 ・研究活動
フーディアムコミュニケーシヨン〔株))に 1
1月 1 日本の集住の場所の空間構造の研究が私の研究
より連載開始 の主テーマです 。「 日本における伝統的な集住の
3 講演、セミナー 空間構造に関する研究 J(
94年、京都大学学位論
1) 1
朝鮮の調味料の科学と文化」協和発酵 (
株) 文) 以後、その延長として 「集住の場所のく中
3月2
7日 大阪 心 〉の空 間構造 日本文化での空間認識の特性に
2) 1
朝鮮の食文化と日本とのかかわり」大阪市立 ついて」を(前川道郎編 「建築的場所論の研
大学高麗同窓会総会 5月1
6日 究J 中 央 公 論 社 美 術 出 版 所 収 9
8年 1月)出版。
3) 1
食文化と健康を考えよう 」八尾 市 役所 講 座 現在その延長として道の空間
、 祭りの空間などの
7月 8日 動的、 一時的 な空間の特性を数年がかりで調べて
4) 1
朝鮮・韓国料理と薬食同源思想」大阪聖公会 いこうと計画している O
生 野 セ ン タ - 8月31日 2 上記の研究の関連で奈良の大和郡山市番条、若
5)1韓国の麺食文化」 日清食品フーディアムコミ 槻、徳島県脇 町、奈良県榛原 、大宇陀、大分県佐
ユニケーション 9月2 4日 東京 伯などを今まで調査 ・研究してきた 。その延長と、
6) 1
キムチの価値j 滋賀県健康づくり県民会議 またこれからの田園集落のフィジカルなあり方、
10月 1
3日 修景的なあり方も考えると い うことで、長浜市の
朝鮮半島の肉食文化J(
7) 1 社) 日本青年会議所畜 周辺の集落 、湖北・湖西の集落など近江の集落を
産飼料部会 11月 7日近江八幡市 調査 -研究し、修景計画をたてていく予定。
4 その他 3 建築計画 的な方面の研究として「滋賀県立大学
国立民族学博物館で 6月よ り始まった 1
I酉をめぐ .O
施設の P .
E.(
使用後評価)一新しい建築評価法
る地域間比較研究j に共同研究員として参加。 3年 の確立に向けて 」とい うテーマで科学研究費の
の予定 補助金を 12名の人間文化学部、環境科学部の研
究者とともに申請している O 建築評価の新しい方
向を探りたい。
4 学生とともに中心市街地のあり方と設計の問題

人間文化・ 129
人・間・文・化・通・信

を彦根に例をとり考えていきたい。その一端とし 滋賀県造形集団団員 ・滋賀県美術協会


て教育活動の項で述べた 「
花しょうぶ通り JI

場商庖街」のデザインに取り組んでいる。 -小林 清ーにばやしきよかす)社会・経済政策、社会思想史
5 インドのマディアプラデ ッシュ汁│
のサンチーと 最近の研究テーマ
サッダーラの仏教遺跡の修復保存事業の指導に 93 (
1)社会政策の国際比較
年から、本学部の西川幸治教授とともにユネスコ (
2)ナショナリズムの形成と社会
派遣の専門家として従事している。 9
9年末に完成
する予定。 (
1)先進国における社会政策、高齢化と貧困をめぐる
6 できれば住宅を中心とする設計の実務も学生と 社会保障と社会福祉の制度化問題、医療、雇用な
一緒に行いたいと考えている 。 どの問題を、比較検討する作業に入ったところで
ある 。
現在はアメリカ ・イギリス スウェーデン、
-安土 優(あづちまさる)美術・造形 日本の 4国を整理している O
・本年度の主たる活動・制作 (
2)ナショナリズムについての政治思想史的検討。
春季休業を利用してイタリア中世に栄えた山岳都 社会意識の側面から、国家 ・国民が創造され、一
市と海岸都市を写生・スケッチをする旅をした 。そ 体性を確保するに至るプロセスとメカニズ、ムを、
れらはいづれも造形デザインの宝庫といえる所であ 建国の時点から南北戦争の終了する時点までのア
り、また都市周辺の景観も幻想的で感動した 。以下 メリカを事例にして分析し 、国境という壁の設定
は日本画を主に水彩画・水墨画等の発表である 。 と社会の統合・維持機能の問題を考えている。
第4
0回 記 念 滋 賀 県 美 術 協 会 会 員 作 品 展 「 霧 の
カルカータ 。 1 日本画出品 '984 月 ~ 5 月 滋賀県 昨年度まとめたもの
立美術館ギャラリー 1)I
( 国家介入主義と計画化一一アメリカの実験」
「山道 J日本画出品 F30
号ギャラリー開設記念特 (
京大社会思想研究会編再構築する近代 そ
別展 ' 984 月 ~5 月 琵琶湖文化館 1階ギャラリー の矛盾と運動 全日本学士会)
'
98 SH1GA双線美術展 「ボロブドール残 2)I
( 言葉と秩序 N. ウェブスターとアメリカ英
照」日本画出品今人・ I
maj
ine'
988月 語辞典の編纂」
造形集団小品集 ボロブドール習作 2点 出 品 今 (阪上孝編統治技法の近代 同文館出版)
人 I
maj
ine'
988月 3)I
( ニューデイールと第二次大戦中のアメリカ j
滋賀県造形集団第 2 4回造形展 「山上の街 JF (
野村達朗編 アメリカ合衆国の歴史 ミネルヴ
1
20号日本画出品 '9810 月 ~ 11 月 滋賀県立近代美 ァ書房)
術館ギャラリー 4)I
( 福祉国家体制形成のパターン一一アメリカを事
第5
2回滋賀県美術展覧会 「那智 J3
0号 日本画出 例にして」
品 '98
11月 滋賀県立文化産業会館 社会思想史研究 2
( 2、社会思想史学会)
安 土 優 展 日本画 6点、水彩画 1
1点、水墨画 3
点出品 ' 98
11月 ギャラリー縄 -早川史子(はやかわふみと )食品学、栄養指導論
。教育研究活動 茶と健康のかかわりがその食用あるいは飲用の歴
犬上川河辺林の公園化ならびに改修工事に伴うテ 史とともに様々に認識されている中で、茶の機能性
ーマ「水と川の 2
1世紀」を考える学生の作品を発表 のさらなる展開をめざして研究を進めている 。抗酸
'
987月 滋賀県立大学人間文化学部フロア展示な 化・抗ガン作用を有するとされる茶カテキンが反応
らびに口頭発表 人間文化学部造形室 日本美術教 条件によって、逆に、 DNAの損傷、脂質の酸化促
育学会滋賀支部 進作用などを示すことを明らかにしてきた 。本年度
.社会的活動 は銅イオン共存下における DNAの損傷作用と茶カ
滋賀県造形集団代表 テキンの構造活性相関および大腸菌に対する殺菌作
滋賀県美術展覧会実行委員会副委員長 用を明らかにした。 日下、茶カテキンの発ガン作用
栗東町展 日本画部審査員 とガン抑制作用という両刃の剣になり得る特質とメ
滋賀県芸術祭実行委員会委員 カニズム、薬理効果について検討中である 。一方、
.主な所属学会 19
96年の中国広西チワン族自治区龍勝各族自治県の
日本美術教育学会 ・基礎造形学会・大学美術学会 油茶の調査に続き、 19
98年 1月に雲南省西双版納タ
京都市立芸術大学美術教育研究会・京都日本画家 イ族自治州の喫茶習俗調査から、プア ル茶の実体
協会 を知ることができた。社会活動としては、全国栄養

130・人間文化
人・閏・文・化・通・信

士会研究教育協議会幹事として近畿中国ブロック研 て都市計画学会には、「明 治期 の金沢の街路計画」


究教育栄養士協議会研修会を企画し、実施した 。以 という論文を発表しました O これは明治になって一
下に 1
998年度の研究成果等を示す。 時衰退した城下町金沢では、鉄道建設や師団設置と
論 文 ( 共 著 ( 1)銅イオン共存下、 DNA
損傷 いう近代の動きの中で活性化が始まって、城を単一
に対するフ ェノール性化合物の構造活性相関 : 日 の核とした近世の都市形態に対し、新しい近代の核
本農芸化学会誌 7 2,759-
761( 1998).( 2)V ari
ation ができ、それらをつなぐ街路が新設もしくは拡幅さ
ofto
talamounto ff
luord巴 i
i nbloodo fy oungwom巴n れた状況を調べ、それは都市全体の構造を変えるよ
duringth巴 m
enstrua
lc ycl
e:I nternat
.] .Vit.Nutr. うなものではなかったという限界などをも明らかに
Res.,68,63-
67( 1998).( 3)Bac t
e r
ic idalacti
vity しました 。夏は 3週間、モンゴルへ出かけ、遊牧民
ofca t
echin-co
pp巴r2+complexesonEscher ichia のゲルや彼らが都市で定着しかかっている 状況、 さ
coliATCC11775 i nt heabsence o fhydrogen らに仏教遺跡や寺などを見てきました。後半は県大
peroxide
: Lett
.App.lMi c
robi.
ol,27,328-330(1998)
. に赴任するにあたり、金沢での様々な仕事の整理や
(4)抹茶の起泡性に及ぼす NaCI ,CaCI 2,MgCl2,脂 新しい講義とプレゼミの準備で大変で、した。
質の影響 :日本家政学会誌4 9,633-636( 1998).( 5) 平成 1
1年は 、本格的に始まる講義の準備など、ま
滋賀の茶粥習俗と分布 : 日本食生活学会誌 9 ,52-57 ず県大に慣れることを第ーとし、滋賀県という新し
(1998). いフィールドで調査を徐々に始めようと思っており
口頭発表 ( 共同茶カテキンー銅錯体の大腸菌 ます。
に対する殺菌作用: 日本薬学会第 1 18年会要旨集
19
( 9
8) -八木英二(ゃぎひでじ)教育学
著 書 ( 共 著 淡 海 文 庫1 r
2 くらしを彩る近江の ヒュ ーマンサービス労働研究にかかわる「教師の
漬物 J滋賀の食事文化研究会編 (
サンライズ出版) パーンアウ ト」の比較調査研究については本年度も
162
-17
2( 1
998). 継続する 。 京都と滋賀の高等学校教員データの一
その他湖国と文化.18 3号,滋賀県文化振興事 部を追加整理して (
本年度の特別研究)、北京師範
業団, 78-
81( 19
98). 大学 のアジア比較教育学会 (
98年 10月)で吉田
一郎さんと I A ComparativeArea Studyon
-土屋敦夫(っちゃあつお)建築史、
都市計画史、都市開発史 Oc
cup
ati
onalB巴ha
v i
orofT巴Ia
ch巴r
sinJapanJ と題
平成 1
0年 1
0月に金沢工業大学建築学科から、生活 する共同の発表を行った 。関連論文に、「教員文化
文化学科・生活デザインコースに赴任してきた新米 に関する地域比較研究(1)一一教師の多忙化と パー
です。金沢では、金沢を始めとする石川・富山県の ンアウトに関する地域比較調査をもとに一一 J( 関
民家や町並みの調査研究と同時に、そういった歴史 西教育学会紀要第 2 2号、 1998年6月)、雑誌論考とし
的景観をいかしたまちづくりや保存計画なども行っ
てきました 。金沢は戦災を受けていない城下町で、
都市空間の中に江戸期以来の様々な時代の遺産が蓄
積されています。 ここ 1
0年ほどは、金沢市でも、こ
ういった歴史的環境を積極的に保存しようというよ
うに変わってきており、保存のための実施計画の策
定など、社会的な広がりをもって活動する機会も増
えてきました。金沢以外の市町村でも、徐々にそう
いう動きが現れてきました 。またこういった都市が、
明治以後の近代において 、 どのように変わってきた
のか、もしくは逆に古いものを残してきたのかとい
う、都市形成史にも興味があります。
平成 1
0年は、まず 『
金沢市史資料編 1
7巻・建築建
設編 』 の刊行年で、私は「金沢の者1
1
市形成 (
江戸
J .I
期) 町家 J.I
農家 1・ 「町並み」の章を担当 し
ていたために、その原稿の仕上げ、図面・写真など

i
の完成に追われました 。私にとってこれは、 2
5年間
金沢で行ってきた金沢の町家や農家や町並みの調査 人三 」
研究のまとめのような意味をもっていました 。そし ....コンゴ共和国パケレ族の少女

人間文化・ 1
31
人・閏・文・化・通・信

て、「学校現場の人権を考えるーあま り知られてい させる作用のあるキノリン酸がある .


一方において,
ない教師の過労一 J(
r部落』部落問題研究所、 9
8年 トリプトファン代謝産物にそれを阻止する作用のあ
6月)がある 。本年度は学級崩壊などの教職の困難 るキヌレン酸がある . これらの生成量のインバラン
が広くマスコミの話題になったが、現場事例にかか スがアルツハイマー病,ハンチントン病,てんかん
わる機会があり、「新たな挑戦課題 J 学校運営研 n などの神経細胞の変性をともなう疾患を引き起こす
究』 明治図書、 9
8年 7月) としての問題の性格を指 要因の一つであると考えている.今年はこれらの化
摘した 。教育における国際的合意の研究領域では、 合物の生成と消去に関わる酵素の cDNAの単離に成
オ ラ ン ダ の ユ ト レ ヒ ト 大 学 人 権 研 究 所 で 、 Aart 功した.
Hendriks,MignonSendersの両氏と研究交流を行 . タンパク質結晶化に関する研究:酵素の機能や食
い、障害者教育や人権教育に関する文献を収集した 品タンパク質の物性を詳細な分子構造に基づいて考
(
県立大学の海外研修として い 関連する論考には、 察しようとするとき, x線構造解析によるタンパク
0年と人 権 教 育 J(
「国連人権教育 1 r部落問題研究J 質の 三次構造の知見が必須となる . このためには X
9
8年6月
、 1
44号)がある 。 また、本年度も、ジュネ 線結晶学的に良質の単結晶の調整が最も重要な研究
ーブの 1
LOに立ち寄りことができ、 I
1LO・ユネスコ 課題となるので、タンパク質の結晶成長に関する
教員の地位勧告j の成立展開に関する資料を追加収 種々の要因を解析している.特に、スペースシャト
集し、近く整理を行うことにしている 。 なお、本年 ルなどの宇宙機を利用した微小重力下での結晶成長

、 8月から 9月にかけて県立大学モンゴル地域研究 に関する研究を展開している.
班に加わり教育問題を担当する機会を得、首都ウラ
ンパートルと僻地のツエルゲル村についておよその (l)発表論文
イメージをもつことができたことは幸いであった 。 .C
1 h
ara
cte
riz
ati
ona
ndf
unct
ion
ale
xpr
ess
iono
fth
e
比較調査研究をアジアに広げるためにも、今後機会 cDNA encoding human brain quinol i
nate
を重ねることが出来ればと願っている 。 phosph
ori b
o sy
l trans
ferase.Biochim.Biophys.
Acta,139
5,1 92
-2 1(
0 1998).
-柴田克美 (しばたかっみ)食糧科学 2.1ncreas巴dconv巴r sionratiooftryptophant o
.アミノ酸のトリプトファン代謝に関する研究:ト niac
inins everefoodr e
str
ictio
n.Biosc
i.Biotec
h.
リプトファンの代謝産物に脳の神経細胞を変性壊死 Biochem.,62,580-58
3(1998). 也
イ2編.
(
2)実用・普及記事
1.キノリン酸仮説の現在,ビタミン, 7 2,3 3
4-336
(1
998).
2.ナイアシン,毎日ライフ, 1 0,74-
76(1998
).
(
3)口頭発表
.E
1 f
f巴c
tofm
icr
ogr
avi
tyonp
rot
einc
rys
talgrowth,
マイクログラビティワークショップ(東京).
2
. 1 dentifi
c a
tion o f cDNAs encodi ng
ami nocarboxymuc0nate-semi aldehyd巴
d巴carbox
ylas巴 (
ACMSDase),9
thInternat
ion
al
MeetingonTryptophanResearch(Hamburg,
Germany) 他 7 編
仏)社会活動
1.米国 NASAスペ ース シ ャ ト ル の 宇 宙 実 験 に 参 加
(米国フロリダ州ケープカナベラル , ケネディ宇
宙センタ).実験計画 STS-91.打ち 上 げ日, 6月3
日.着陸日, 6月 1
3日.実験テ ーマ,タンパク質
結品実験.

-鈴木伸子(すすきのぶこ)色彩学
時代の反映でしょうか、色彩検定、カラーコーデ
イネーターの資格試験にチャレンジする学生が多く

.
.
.
.スリ ランカ・ ポロ ンナールワのアーナンダー立像と浬架像 なっています 。生活デザインコースと環境・建築デ

132・人間文化
※恐れ入りますが「人間文化通信」の
INFORMA
TION(
教員近況)として
人・閏・文・化・通・信
13頁に挿入して下さい。
3

-中谷員三代 (
なかたにまさよ)
消費者問題、消費者数育、服飾デ
ザイン 論文(八木英二氏と共同)発表した。 また 、教師の
国民生活センタ ーの 恨告「消費者取引に係わる消
i 職業文化と パーンアウトに関する国際的な研究交流
費者苦情の実態」によれば、契約絡みの消費者トラ をも目的として、第 2回アジア比較教育学会(北京、
ブルが毎年大幅なペースで増加している。その中で 9
8.1
0.7-
9) において、 ICompa
rat
ive Ar
ea Study
高齢者たちは、好むと好まざるとにかかわらず消費 on Behavi
o f巴
ro i
1achersi
n]a
panJ と題する研究
行為当事者となり、消費割合を拡大させている 。一 発表(八木英二氏と共同)を行った。
方、商品供給構造はますます若い世代に依拠してき 叫ばれている。国連
近年 「人権教育」が各方面で I
ており 、高齢者をめぐる消費者問題はさらに多発す が1
995年 一2
004年を「国連人権教育の 1
0年」と定め
ると考えられる 。高齢者が自己責任をとるには、高 たという国際的な動向がその背景にあるが、日本国
齢者の自己決定、自己確立ができるような保護 救 内の受けとめ方に問題がいろいろ山てきている 。
済や教育・啓発などが保障されなければならない 。 教育権を保障すべき国家の義務に対する政府の責
このような状況の中、従来に引き続き、高齢消費者 任、人権教育の内容と範囲はどのように構想される
学習の必要性とその位置づけについて調査研究をし のか、人権教育の方法上の原則はなにか、なとの問
たいと考えている 。 題が問われる 。
また、色彩や図柄に対する感情評価において、感 『部落問題研究』第 1
43号 (
98. 5) に
、 Ir
人権教
性の高低により生じる特徴的パターンに対する年齢 育』論と観念的道徳教育論」と題する論文を発表し
や性別の影響を明らかにした 。 たが、そこでの問題関心は 、国 家統制と道徳主義を
発表論文: 基本とする E
:
l本政府の「人権教育」政策の 問題性を
「感性型人間の図柄に対する感情評価 男女比較」 解明すること、および民間の一部にみられる国連美
(日本色彩学会誌Vo1
2 1(
2No. 1998)
) 化論や道徳主義的発想に立つ「人権教育」論の問題
感性型人間の上衣に対する色彩感情一男女比較-
( J 性を指摘することにあった。
(日本色彩学会誌Vol
2 3(
3N0. 1999)
) 本年の研究を継承して引き続き教師論と人権教育
前同の近況において「服飾造形実習」 の存続につ の探求にあたりたい。
いて書いたが、今年度も 7名の男子学生が受講して
いる。ファッション スペシャリストには男性も多い -大橋松行(おおはしまつゆき)政治社会学、教育社会学
ことから何の不思議はないのだが、実のところは結 本年度の主たる活動は次のとお りである。
構大変なのも事実である。昨年と異なるところはそ l 論 文 … 「東アジアにおける近代化と儒教倫理」
女物 Jを製作しており、それ
の男子学生の大半が 「 (
W総合研究所紀要』第 6号、 f
邦教大学総合研究所、
がごく ご く当たり前で進行している O 女性が彼のカ 1
999年 3月)

y ター シャツや浴衣を縫 った私の学生時代と隔世の 2.学 会 発 表 … 「日韓 中の大学生の社会意識 家
感をもってしまうのは私ひとりであろうか?。 こん 族-男女関係 J (
第71回 日本社会学会大会、 1
998
なところが生活デザインコースのユニ ークさにつな 1月2
年1 2日、 於:関西学院大学)

がってくれればと 一線の望みをもって奮闘している 3.講 演 … 草 津 市 民 憲 法 講 座 議 会 制 民 主 主 義 と
今日この頃である 。 住民投票 J 0998年 9月2
6日、於:草津市立図書
館)

-吉田一郎 (
よしだいちろう )教育学 4
. 共同研究
ここ数年間に書いたものを中心として、本年 3月 1)例 教 大 学 総 合 研 究 所 共 同 研 究 (社会科学関
に著書『今を生きる教師と生活指導 j (法政出版、 係 日 ・韓・中における社会意識の比較調
1
998
.3) を出版し た。本書では、これまですすめて 査 J(
研究班主任:君塚大学教授) …この共同
きた生活指導研究を土台としながら、今日の子ども 研究は本年度より 3ヵ年計画でスタートし、ノj

と教育をめぐる情勢を分析しつつ、生活指導の今目 生も 研 究 員の一人として参画することになっ
的課題を明らかにしようと試みた。1Jjニせて教育実践 た。主な活動内容は次のとおりである O ① 8月

主体である教師の専門性と力量形成に関する問題を 韓国慶山市の嶺南大学校においてウリ 社会研究
論じた。 学会、嶺南大学校社会学科と合同で日韓国際学
教師の文化と力量に関する問題は近年研究関心の 術討論会「韓日青少年の社会意識比較」を開催
一つに していることであり、大阪や滋賀 、京都の一 し、日韓の青年意識の異同について論議を行っ
部を対象にしてここ数年調査をすすめてきた。 そこ た(報告 I
家族(先祖) ・宗教意識 J
)oまた、
か ら え ら れ た 知 見 を 『関 西 教 育 学 会紀 要第 22号 J 大丘;
1市の慶北大学校討会科学大学の学生と日本
(
98.
6) に、「教師文化の地域比較研究(l)
J と題して 語学校の学生に対して 、家族、宗教、 人間 関係、

人間文化・ 133
人・間・文・化・通・信

政治 、
経済などについて聞き取り調査を行った。
② 9月には、 中国北京市 にある中国青年政治学
院の 中国青少年研究中 心で研究交流会 (
研究発
表 日 本 ・ 韓 国 に お け る 若 者 の 家 族 ・宗教意
識について J
) および学生から 聞 き取り調査を
行った 。 また 、中国社会科学院社会学初l
究所、
北京大学社会学科においても研究交流会を行っ
た。③ 1
2月には、中国上海市の上海社会科学院
において、 3日間にわたって H木・韓同 ・中国
の社会学者と社会意識研究討論会を行ったり
(
1
i)
f究発表 I
日韓中の大学生の結婚観 ・家族
問i
観J)、上海師範大学および上海事;
J l種目大学の
学生から聞き取り調査を行ったりした 。
2)文部省科学研究費 ・基礎研究 (A)
(l
)・ 「地域
社会の政治構造 と政治文化の総什 j
i
)
f究一近畿圏
を中心 に -J(
代表 青木康平手 .i
1
1i教大学教授)
… この共同研究が 4 ヵ年計画でスター卜した
初年度 :政治家調査、 2年度 :有権者調査、
(
3年度 :行政調査、 4年度 :研究全体のとりま
とめ 。
) 小生は、研究分担者としてこの共同研
究に参幽しているが、今年度は 1
1)Jに近畿問を
中心として地 } 約 i万人) を対象に郵送
j議員 (
制作法を矧いてアンケート調併を実胞した 。 ア
ンケート j日紙が回収され次第 、分析作業に入る
予定である(小生の担当分!l'j-:政治活動)

134・人間文化
人・閏・文・化・通・信

ザイン専攻の学生が主ですが、「色彩学を受講でき 主として、澱粉の糊化・老化と 澱粉性食品のテク


なかったけれど、独学で受験したいのですが…j と スチャーとの関連を検討している 。現在は、硬くな
相談に来る 他学部や他コ ースの学生も侮:年数名いま った米飯、パン 、餅などを 加熱すると、再び、軟ら
色彩学 j は、わずか 2単位の講
す。私の担当する 『 かくおいししくなるのはなぜか、このような変化を
義のみですが、検定試験は幸いなことに 2級 、 3級 老化澱粉の糊化 として捉え、種々の老化澱粉とそれ
については色彩科学の基礎に重点が置かれているた ぞれの生澱粉について糊化特性や結品構造を構成す
め、本学からの受験は合格率も高く 、昨年度に引き る成分などの比較を行 っている 。粘度測定の結果か
続き本年度も優秀団体賞をいただくという名誉に輝 化膨 i
らは老化澱粉が生澱粉より低温で初l 問し 、{殿粉
きまし f
こ。 の種類 ・老化度によっては最高粘度も大きいことが
県立大も 5年目を迎えようとしています。 わかり 、 この性質をパンのテクスチャー改良や老化
講義の種類が多い上に 、平成 1l'
年度ーからは大学院 硬化)抑制l
( のため に利用するための検討も行って
での講義が加 わるため 、前期は週 5科目 の講義の他 いる (
エリザベス ・アーノルド富士財団助成金)

にゼミや卒論指導もあり 、それらの準備で、ますます また、食べ物 ・飲み物の状態として泡沫があり、
自分の研究活動どころでなく、オーバーワークにな 泡沫はテクスチャーの体感を和らげ¥匂いの分散を
りそうです。 よくする 。泡立てて飲む抹茶の起泡性については茶
大学人として研究活動に打ち込まねば…と いう強 葉中の成分や用いる水の成分の影響など未だ明確で
い思いと 、学生の立場に立てば講義準備のための研 ないので、起泡性への塩類や脂質の影響を調べたと
究の方がむしろ大切だという考えや 、中途半端な研 ころ、 MgCI
2やC
aC1
2の添加 て、起泡性は低下ーし、少
究生活ならば一層のこ と教育に徹し、人づくりに貢 量;の Na
CIの添加 やクロロホ ルムでの脱脂により起
献することも大切なのではないかという 独 りよがり 抹茶の起泡性に及ぼす N
泡性が高くなった ( aCI、
のおこがましい思いも 加 わり、それらが日夜交錯し CaC12、MgCI
2、脂 質 の 影 響 ・前 回 昭 子 ・日比喜
ています。最近バイタ リテイ 不足を感じているにも 子 ・早 川 史子 、 日本家政学会誌、 4
9、 6
33~ 6
36、
拘わらず、凝り性であるため 、こ れらのバランスが 1
99 。
8)
うまく保てず、あちらに凝ってみたり、こちらに偏 食べる人側の食晴好には食習慣が大きく影響す
ったりでそれらも全て中途半端になり 、深 く反省し る。江戸時代の朝鮮通信使の滞在中の食事のために 、
ている昨今です。 彦根藩では 、通信使の肉食の晴好に 合わせて長崎か
発表論文 r
感性型人間の図柄に対する感情評価 ら生きた豚を取り寄せて飼育し、渡したという食材
男女比較 J(日本色彩学会誌 Vo.
l2 l
(1
2No. 9
98) 調達の記録がある (
特別研究、代表 ・鄭大在宗教授、
啓好 :高月 I
朝鮮通信使の食べ物の l I
I
T公開講座、 1
998
-野部博子(のべひろと)児童学・児童文化・伝承文化 年5月2
3日)
。 外国人との接触による新たな食べ物の
ここ 2、 3年滋賀県内で子どもを主人公にした祭 交流により従来の食習慣 -食晴好が変化し 、定着す
礼や地域の行事を追いかけて 、祭り見物を楽しみな ることが考えられるが、克々は日本の食べ物ではな
がらその資料整理に追われています。現在仲間とと か った物がどのようにして受け入れられ日本食化し
もに「近江子ども歳時記』 シリーズの企画や編集、 てきたか 、日本 人独特の受け入れ方があるのかを、
執筆を行なっています。 具体例の調査から探っていきたいと思っている 。
本年、滋賀県児童図書研 究会から絵本と童話を刊
行することができました 。『 まつりものがたり 』 の -面矢慎介(おもやしんすけ)道具デザイン論
制作課程は BBC放送で放映 されました 。 1.海外調査 :
また、昨年来、入植 1
00年 を む か え た 北 海 道 へ モンゴル(7月 ~8 月初 。 主に、カザフ族をはじ
時々出向いています。内地か らの文化の移入、継承 めとする少数民族のゲルとその生活財についてモン
について 関心を もち高齢になられた二 世三世の人達 ゴル西端のパヤンウルギー県で調査。 また、ウラン
と出会って、故郷の昔話にはなを咲かせています 。 バートル市内では街頭キオスクについての考現学的
岡県の人達が暖かく迎えてくださることに感謝せず 調査など。文部省科学研究費国際学術調査。
)
にはいられません。 ロンドン m( 8 月末 ~ 9 月初 。 イギリスの博物館
におけるデザイン史展示およびデザイン史制究資料
-日比喜子 (ひびよしこ)調理学 についての調査。
)
食べ物 ・飲み物のおいしさについて、それを発現 2 論文 :
する食品側の物性や食べる人側の噌好にかかわるテ "
Th巴 D巴V巴lopm巴n
to fModernHouseholdO
bject
s;
ーマで研究を進めている 。 Mod巴rni
zationofPotsandPansin]apan,1900

人筒文化・ 133
人・閏・文・化・通・信

197
0" Proc巴edingsoftheThird Asi
aDesign 抽出残浮を利用し 、この抽出残浮から緑色の日光に
C
onfer
e n
ce( 平成 10年 1
0月)pp295-
300。 堅牢で抗菌性のある色素水溶液得られたことはすで
3. 論説 : に報告されているが、その色素の抽出分離の方法と
「考現学:モノの集まりは生活の准積」 朝日新 色素の化学構造を検討し、その結果の一部を日本家
聞社刊 I アエラムック ・生活科学がわかる j ( 平成 政学会第 5
0回大会で発表した。
1 2月)
0年 1 教育活動としては、講義 5科目 (
生活素材論、服
「自動販売機」日本生活学会編.TBSブリタニカ 飾環境論、被服学、染色学、生活環境論) と今年度
生活学事典 J(
刊 『 近刊 ) からはゼミ演習と卒論指導がはいった。 さらに来年
「フィールド知らずのデザイン」野外活動研究会 度からは大学院の講義が 2科目が追加される予定で
デザイン研究班 『フィールドからデザインへ j n
o. ある 。
平成 1
4 ( 0年 2月) また、滋賀県立大学内には研究実験室がなく 、遠
「デジタルな調査かアナログな調査か」野外活動 距離にある県の施設を利用しなければ研究が思うよ
研究会デザイン研究班『フィール ドか らデザインへj うに進まないのが現状である 。 このような環境の中
nO
.6( 近刊 ) で、余裕をもって納得出来る教育や研究活動をおこ
4.学外活動: なうにはどのような工夫と配慮と努力が必要かにつ
O 設立 準 備 か ら 関 わ っ て き た 道 具 学 会 (Forum いて頭を悩ませているところである 。
Douguology)
で、は、第 2回大会を国立歴史民俗博
物館で開催 (9月) 。 全国各地でおこなっている -東山明子(ひがしやまあきこ)スポーツ心理学、健康教育学
会員集会「道具を語る会」を彦根でも開催(7月) 。 スポーツのトレーニングにおいて、メンタルトレ
このほか情報担当理事としてインターネットホー ーニングの必要性が認識されつつあります。気功の
ムページの開設を計画中 。研究委員会委員として 応用や様々な訓練法が実験的に行われている中で、
初の論文集の編集を担当 。 リラックスと集中に注目し 、前額皮上優勢脳波を指
0県 内 デ ザ イ ナ ー の 団 体 ・ デ ザ イ ン フ ォ ー ラ ム 標として、心拍制御やイメージ、音などを用いての
SHIGAでは運営委員として、びわこデザイン文 実験で、集中力や疲労感との関係の検討を行ってい
化協会 ・滋賀県酒造組合等と共に近江八幡での ます。誌でもどこでもひとりでもできるメンタルト
「酒とデザイン」に関するイベント(10月)、「デ レーニング法の確立を目 指して模索中です。
ザインと経済」についての公開シンポジウム (
平 一方、幼児の神経系の発達の研究から発展して、
成 11年 l月)、このほか道具研究会の世話人と 「発達期脳障害による行動異常の解析」というテー
して県・福祉用具センターの見学会(11月)など マで中枢村川I~ 系の発達異常が身体発達に及ぼす影響
を企画。 や行動異常の分析的基礎研究に数年をかけてきたこ
0県の研究連携推進事業(平成 10-1
1年度)として、 とが認められました 。(“ NMDAR巴c eptor
si nthe
地元・彦根の仏壇産業と現代デザインの融合化の Infe
riorC o
lliculusAr巴 Criti
cal
lyInvolvedi n
ための研究会 (
1虹の匠」研究会 ) を、彦根仏壇 Audiogenic Seizures i
n theAdul tRatswith
事業協同組合、県内デザイナ一、工業技術センタ Neonatal Hypothyroidism" Experimental
ーからの会員で組織。仏壇の将来像や彦根仏壇の Neurol
ogy153,94-10
1,1998)
プロモーション策について検討中 。 健康教育学では、生涯を通じての健康のための各
分野についての解説や加齢的変化とその対応につい
-道明美保子(どうみようみほこ)染色学 ての編著 1 達康科学 J( 明研図書)を 刊行しました。
古墳からは美しい布が出土しており、また有名寺 また、具体的な健康教育法の研究として、インター
院に伝わる今なお色鮮やかな布には驚かされる 。そ ネァトでの禁煙教育プログラムにおけるメーリング
れらはみな天然染料によって染められた布である 。 リストの分析から、従来の一方向ではなく双方向性
ここ数年、天然染料のもつ微妙な色合いとその色 の新しい健康教育の可能性を検討中です。
のうつろいにひかれ、この微妙な色合いがでるメカ
ニズムを定量的手法を用い解明したいと思い研究を -竹下秀子(たけしたひでと)発達心理学
行っている 。 本年度も引き続き、文部省科学研究費補助金特定
今年度は野山に生えているクマササの生葉から得 (
旧重点)領域研究「心の発達 :認知的成長の機構
られる色素の利用を検討した 。環境の保全と安全、 領域代表者・桐谷滋 )
( J に参加した。概念発達の研
資源の有効利用、コストの低廉化の観点から、クマ 究グループに属し、道具使用・観察 ・模倣といった、
ササの生葉から基礎医薬品が製造される過程で出る ヒトの文化やその伝達に関する心理的基礎に関する

134・人間文化
人・閏・文・化・通・信

比較研究にとりくんだ。 O歳か ら縦断観察してきた Ingestion i


n Low LevelDecreases Oxygen
人工保育のチンパンジーに見られた「物とのかかわ ConsumptionandHeartRateinHumanDuri ng
物体の取り扱いや道具的使用 )
り( J の発達を、他者 Exercis
eJ ;Abs
tra
ct,p.
102
. を発表し 、同時にタ
の行動を模倣する能力との関連でヒトの場合と比較 イの食生活や食文化についても多くの知見を得るこ
チンパンジー 3歳児の認知機能の発達
した ( 道具 とができた 。年末は、市町栄養士研修会にて、「健
使用と模倣一、 1
999
. 応用 心理学研究、印刷中)。 ま 康を評価する Jと題し、運動のメカニズム、運動処
た、チンパンジーと同じパン属に分類されるボノボ 方の方法及び生体情報の収集およびその評伽法にて
について、ベルギー国プランケンドール動物園の集 講演 0
2月)
。 その他、「トウガラシを少量とるだけ
団飼育群を対象に、道具の使用および製作と模倣に で心肺機能が高まり疲労の回復も早くなる」を健康
関する実験をおこなった(文部省科学研究費補助金 9月号に、「楽 l
床のトウガラシをと ってから歩くと腹
。一連の成果は、「比較行動論特講Jな
一般研究 C) 部肥満の解消に驚くほど効果が大 Jをゆほびか 8月
ど来年度開講の大学院担当授業科目に反映したい 。 号に掲載した 。
また、「心の発達」を共通のテーマに集った学部第
I期生ゼミで指導した 5人の卒業論文は 、研究対象 -細馬宏通(ほそまひろみち)人間行動学
が幼児から成人までにわたり、内容も多彩なものと 砂卒業論文指導は、ぼくにと って初めての経験で 、
なった(幼児における音韻意識の発達に関する実験、 学部生と対話しながら 研究のアイデイアを見つけて
女子高校生のボディイメージの歪みについての質問 いくのはしんどくも楽しいものだと実感していると
紙調査、大学生の友人関係と携帝電話の利用実態に ころです。 自分の会話分析に関する考え方を問い直
関する質問紙調査、母親の育児行動・育児意識と家 す良い機会にもなりました。会話分析における話題
族内での愛着対象に関 する質問紙および面接調査
、 の転換をどのような変数で記述できるのか、人間関
視覚障害者の自活と盲導犬の役割に関する面接調 係を会話によって表現するときにしぐさはどのよう
査)
。 さまざまな条件下で現代を生きる地域社会の に関係を記述するのか、などについて、いくつか新
人々の生活と、就職・進学というライフステージの しいアプローチが発見できました 。
転換期にある学生自らの興味 ・関心を重ねたところ 砂昨年から文献収集と聞き取り調査を進めてきた浅
に、論文の素材を得ることができた 。それぞれが真 草十二階に 関する話を「ユリイカ J(
青土社)に連
撃にとりくみ、興味深い論考となったと思う 。彦根 載しています(平成 11 年2 月~) 。 明治から大正にか
市・長浜市 ・米原町内の保育園をはじめ、ご協力い けて、東京のランドマークであった十二階をめぐっ
ただいた学内外の多数の方々に深く感謝し、たします。 て、まなざすことがどう変わったかを具体的に記述
していきます。
-岡本秀己(おかもとひでみ)健康と栄養、健康管理論
健康増進や運動持久力の増強につながる食品の新
しい機能について研究を続けているが、本年は特に、
トウガラシ中の辛味成分がヒト運動中の心肺機能や
エネルギ一代謝へ与える影響について、運動強度と
摂取レベルをパラメーターとして検討を行い、生体
の内分泌系への影響からそのメカニスムの解明をめ
ざして研究を行 った。 また、江崎グリコ株式会社か
らの共同研究を受け入れ、摂取した糖質の種類が運
動持久力に及ぼす影響について、ヒト安計十時、運動
中、運動終了後の回復刻における疲労度や生体内分
泌、系への影響を検討し、エネルギー補給を制御する
因子および持久力への効果を評価できる実験的指標
を明らかにした 。学会発表では、「トウガラシ摂取
がヒト運動中の心拍に与える影響」第 5
2回日本栄
4月)にて発表、
養-食糧学会総会 ( トウガラシの食
品機能として、運動中の心拍を低下させる新たな機
能を明らかにした 。在外研修を受け、タイ ・
バンコ
ク(lUJ 29 日 ~ 1
2月8日)にて 、 1 3
th Asian
GamesS
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cCongr
ess、f
Die
tar
ayRedPepp
巴r .
.
.
.気比神社(地域文化演習課外授業)

人間文化 ・ 135
人・間・文・化・通・信
-宮本雅子 (
みやもとまさこ)インテリア計画 住宅改造をサポ ー トするシステムを取り入れている
本年度は、本学で初めての卒論生の指導をするに 所があるが、今後はそういったシステムの必要性や
あたり 、前年度から取 り組んで、
いる維持管理を考慮、 問題点について検討するとともに 、望ましい高齢者
に入れたトイレ照明に関する研究、高齢者のための のための住宅改造の在り方についてさらに検討して
住宅改造助成事業に関する研究、 また、 室内のイメ 行きたいと考えている 。
ージ測定における CGによる評価実験の有効性に関
する研究などを進めた 。 撃史子 (
-藤j ふじさわふみこ)調理と食品機能
特に、高齢者のための住宅改造助成事業に関する 最近クロ ズアップされている生活習慣病におい
研究では 、滋賀県内の事業の実態を把握するため県 て、食に関心、が持たれるようになってきている 。漢
内の各市町村にアンケート調査を行った 。 方医学では薬食同源 (
医食同源) という考え方があ
また 、彦根市福祉事務所の協力を得て、彦根市内 り、薬と食物の違い はそれらが身体に及ぼす影響の
の助成事業利用者に対するアンケート、さらに訪問 差であると考えられており 、両者を根本的には区別
調査を行 った。 していない。
特に訪問調査を行って明らかになった点は 、訪問 そして、食物は温熱性のもの (
温食)、寒涼性の
家庭の半数以上が高齢者のみの世帯であ り、介護負 もの (
冷食)、あるいはどちらにも分類されない平
担が大きいこと、住宅改造を行 っても病気の進行に 性のものに区別され、イ本を温めたり冷やしたりする
より介助が困難にな りほとんど要介護者が使用でき 働きがあるとされている 。
ていない箇所 (
特に風目場)がある ことや改造した 実際にトウガラシなど辛いものを食べると体が熱
箇所で危険と思われる箇所が見 られること、 住宅 - くな って汗をかいたりすることは我々が日常的に経
設備の構造上の問題で手すりの設置が困難であるこ 験することである 。 しかし、漢方医学におけるこれ
となどである 。 らの分類は経験的なものに基ずいており、科学的根
住宅改造は、身体機能の低下した高齢者にと って 拠にかけている 。そこで、いわゆる温食と冷食が体
自立生活を継続するうえで有効な手段であるが、適 温をはじめとした身体状況に与える影響を明らかに
切な判断のもとに実施されなければ、介護負担が増 毘食に分類されている
しようと研究を行っている 。 j
大し、介護者・要介護者双方への危険を伴う ことに しょうがと冷食に分類されている柿について、その
なる 。県内でも 、行政、医療、建築等の合同組織が 効果を科学的に実証してきた 。 しょうがについては
パンへの応用を試みたと ころ、イ本熟産生がより増強
し、効果的であった 。
また、官能的にも優れており、実用的食材として
第5
の可能性が示唆さられた ( 2
回 日本栄養食糧学会
で発表)
。 さらに、水分含量の多い野菜類やタンパ
ク質含量の多い魚介類の食品について検索を進めて

防:
いる 。 また 、温熱、寒涼効果が確認できる身体の部


肺!
位についても、 一定の傾向が認められつつあ ります。
このことは 、食品の温冷効果を検索する上で、有効
な指標を得ることができた。今後、多稜類の食品に
ついて検索を続けると共に 、食品成分の自律神経へ
の効果を明らかにしていき、自律神経失調に起因す
る種々の疾病の治療のみでなく 、現在特に期待され
ている予防という観点にたった効果が期待できるよ
う、研究を進めている 。

-浦部貴美子(ううべきみこ)食品学
植物のもつ消臭効果は 、不快臭を軽減したいとい
う要求に応えるものであり 、安全性志向 と環境への
負荷軽減の観点からも関心が寄せられている 。 これ
まで数多くの研究に よって 、植物 ある いは植物抽出
令 同b



町史 物の消臭有効性が実証され、具体的な作用機構が解
-..
拘, 司.-司、 .~・". - 二 J恒 夫 、 “
明されてきつつある 。 しかし植物抽 出物の成分構成
.
.
.スリランカ ・ポロンナールワのストゥーパ

1
36 ・
人間文

人・間・文・化・通・信
は多彩であり、その作用機構 も多岐にわたるため 、 ーユニパーシティ・サマースクール「木匠塾」 に参
十分な解明はなされていない。 われわれの身近にあ 加。関西の 6つの大学からの総勢5
0名が一週間の合
る野草の中には経験的に防腐や消臭目的で利用され 宿体験。当大学からは生活テ、ザインコース、建築学
ているものもあるが、科学的に立証されていないも 科の学生、教官が参加。林業実習、間伐材を利用し
のもあり、まだ十分な利用もなされていないようで た製作などのプログラム 。村の人とも大いに交流で
ある 。そこでここ数年は、今まであまり注目されて きた。来年度以降も継続予定。
いなかった野草という未利用の資源を有効に利用し 彦根では、まちの一回に形あ るものを残すことが
ていくための基礎的研究として、次の 2テーマにつ できた 。昨年来まちづくりの交流を続けている花し
いて研究を行っている 。 ょうぶ通り商庖街 (
彦根市河原町) において 、建物
[研究テーマと内容] の側壁を利 用し た壁画を製作(1 998 年1O~ 1
2月)

(1) ドクダミの消臭活性成分の単離と同定 生活デザインコース 4回生を中心とした有志ととも
消臭性のある植物抽出物には、タンニンやフラボ 、 9mX5mの大作を仕上げた 。原画は水野久美

ノイド等、ポリフェノ ール化合物を活性成分とする 子さんが担当 O まちのシンボルアートになってほし
ものが多いが、古くから脱臭剤として利用さ れてい いと同時に、今後のまちづくりの 一つのステップに
るドクダミの活性成分についてはいまだ明らかにさ なればと思っている O
れていない。 ドクダミ熱水抽出物の消臭活性成分に また昨年同様、 3回生の住居設計実習において彦
関する検討を行った結果 、ポリフェノール化合物の 根の中心市街地の再生計画案を作成。今年度は市場
関与も考えられるが、それ以外の高い消臭効果をも 商庖街を対象とし 、1
2月に地元での発表を行った 。
っ物質が存在する可能性が示唆され、 ドクダミ熱水 [論文]
抽出物の消臭効果は特定の物質に大きく依存するも 「モハ ァラ 、 ク ー チ ヤ 、 ガ リ 、 カ ト ラ の 空 間 構 成
のではなく、多くの活性成分の総合的な働きによる ラホール旧 市街の都市構成に関する研究 その 1J
ものであると推察された。また活性成分のひとつを 日本建築学会計画系論文集、第 5
13号
、 1
998年 1
1月
単離することができた。 (
1ドクダミ抽出物の消臭活
性成分の検討J第5
2回日本栄養 ・食糧学会総会にて -福j
度 努(ふくわたりっとむ)栄養化学
発表) 食品成分が生体に及ぼす影響について研究を行う
(2)野草の防臭および消臭効果とその作用機構の ことにより、食生活を通じて現代人の健康に寄与し
解明 (
文部省科学研究費 ・共同 ) たいと考えています。脂肪を多く含む食品はおいし
身近に自生している野草を中心に、悪臭物質とし いと感じられるため、過剰な脂肪摂取による肥満や
てメチルメルカブタンを指標とした消臭活性のスク 生活習慣病が社会的な問題となっています。脂肪に
リーニングを行い、その結果、数種の野草に消臭活 よるおいしさには味覚、 I
奥覚、物性、代謝後の影響
性の高いものを見いだした。現在、その中で最も活 など様々な要因が関与していますが、味覚に関して
性の高いタンポポについて消臭活性成分の分離を行 はほとんど何も 分かっていないというのが現状で
ってい るところで、ある O また、 Proteusm
ira
bil
is す。 そこで、味覚が脂肪のおいしさに関与する可能
(メチルメルカプタン発生に関与する菌のひとつ ) 性について研究を行っています。 これまで、消化管
の増殖に対する抑制効果を見るための簡便な抗菌活 の脂肪酸認識と類似した機構が口腔内に存在する可
性測定系を確立させた 。今後は、この方法により野 能性があること、小腸で脂肪酸認識に関与すると考
草の抗菌性のスクリーニングを行っていく O えられているタンパク質が味覚組織にも発現してい
ることなどを明らかにしてきました 。この一年では、
-山根 周(やまねしゅう)地域生活空間計画学 ラットが脂肪を摂取する際に味覚による影響を評価
今年度も夏にインドを訪れた 。 「植民都市の形成 する実験系を確立することができました。その結果、
と土着化に関する比較研究 J(
科研国際学術研究/ 長鎖脂肪酸が味覚受容されることを明らかにしまし
代 表 布 野 修 司 )の研究分担者として、インドのニ た。 また、味覚神経の電気的応答を測定する機器を
ューデリ ー
、 チェンナイ(マドラス)において、旧 立ち上げることができました。今後、さらに詳細な
英国人居住区、インド入居住区の空間利用およびビ 解 析 を 進 め た い と 考 え て い ま す 。 [論文 J"The
ルデイングタイプの変容についての現地調査(19
98 o
rosen
soryr巴cog
nit
ionofl
ong-
chainfa
ttya
cid
sin
年 8月)。歴史的旧市街の都市構成から 、イ ギリス r
ats
"Physi
ology& B
ehav
ior
,inpri
nt,1
999
によって形成された植民都市の構成へと関心の対象
が広がる調査だった 。
同じく夏には、奈良県川上村で開催されたインタ


間文化・137
人・間・文・化・通・信

リランカ・パキスタンで元気に活躍するもと研修生
( ー地域文化] に会い、当面する追跡保存の課題について話し合い 、
キャンデイ・シギリア ・ポロンナールワ遺跡、パキ
-西川幸治(
にしか
わこう
じ)都市史、保存修景計画、ガンダーラ遺跡の総合調査 スタンではペシャワルからラニカト遺跡を訪ねた 。
19
98年 は、寺内町の建設者として日本の都市史に 2J
iには、土井さんらとインドの仏教遺跡サンチー
大きい足跡、をのこした蓮如│の没後 5
00年の記念の年で を訪ね、サトダーラ遺跡、を中 心 に、ユネスコ日本政
もあった 。大谷学会や竜谷教学会議で「蓮如上人の 府信託基金による調査と保存事業の実態にふれ、文
町づくり」について報告する機会をもち 、講座 『
蓮 化財保存をめぐる国際的協力の展開に注目した。
如 J4に「蓮如の町づくり 寺内 町と城下町の比較
的考察一」にひきつづき、「都市史のなかの山手│寺内 -菱 徳相(かんとくさん)郭鮮近代史・日韓関係史
(
r
町J 戦国の寺 ・城・ま ち・ 1
11
科本願寺と寺│
人JTj
I
U ) 卒論指導、試問など初めての四回生を送りだす手
を執筆した 。 しかし、残念なことに、昨年秋には今 続が終わってほっとしていると同時に 、こ れでよか
まで保存されてきた山科寺内町の西南の一郭が破壊 ったのか 、安きに流れたのではないか、もう少し踏
されるという悲劇にたちあうことになった。史跡の みこんでやかましく言った方がよかったのではない
保存のむつかしさと必要を痛感している 。 か反省瀕りである 。
昨年暮れには、 『長浜市史』第 3巻に「近│止都市 年度末の二月初め 、韓国の高麗大学の萎寓音先生
長浜の展開」について分担・執筆した 。秀吉によっ をむかえて「二十一世紀 東アジアの平和のための
て建設された「長浜城下町」に、周辺の村落から招 歴史学」というテーマで講演をしていただいた。大
きょせられた「まち人 j たちが長浜門徒として石山 雪の日であったのにもかかわらず、一.
百名近い学生
合戦に参加する様相をみて、発生期の城下 I
I
I
Jに「も や市民が熱心に聴講してくれた 。 ざわめき一つなく
宇内 I
う一つので I
IJ
J をみる思いがし、やがて町人の町 メモを走らせる人の多いのが印象的であった 。
として再生する過程に、今の長浜での新しい U
I
Jづく また当日の夜、回中ゼミと私のゼミ主催の歓迎カ
りにつながる伝統をみて感銘した 。 モ鍋大会には、 三十名の本学学生が萎高音先生やお
昨夏はモンゴルへでかけ、西のカザフスタンを訪 二人の韓国の若い学者を囲み談論風発、その熱気が
ね、この地方に復活するイスラム寺院や遊牧の生活 外の大雪を溶かすようにもりあがり楽しかった 。講
に注 目し た。 ウランパー トル、ハルホリンへの旅は 演会番外編 、質疑応答の 一端を紹介すると、
同にたたられた。 l月には浜崎さんらと JICAの I
FI韓関係史はよく不幸な歴史だったと反省する人が
文化財保存整備コースの事後追跡調査にでかけ、ス いる JI
帝国主義の時代だったからやむをえなか った

....パキスタン・タキシラーのダルマラジー力大浴

138・人間文化
人・閏・文・化・通・信

r
のではないかJ しかし、自由を奪われた朝鮮人から いた近江尚人のもの、安土考古博物館に書いた「中
みればやむをえなかったということにはならないj 世の近江と流通」 。国宝指定記念の 『
東寺百合文書
「帝国主義の時代、日本民衆に 一銭五厘の業者:と引き にみる日本の中山j に書いた「東寺百合文書と流通
かえに命を奪われることを拒否する向 l
却はあ ったの 史研究」など流通関係が多い。今も 『
講座日本荘園
r
かJ 小林よしのりという漫画家は 『
戦争論』のなか 史』の「社会的分業と市場構造の転換」に苦しんで
で「個を押さえ公の意識を持て」と叫んでいるが、 いる 。異色ではフランス語版で『アナール』誌に
その公とはかつての日の丸や天皇を守る国家意識、 極東学院紀要』 に r
「中世の都市と祭礼」、 『 16世紀
特攻精神そのものではないか、 Yのため何百、何千 の天皇権威の浮上」、 『シ‘パンゴ』 に「日本中世の被
万の命が消えたのが歴史の事実ではないのかJ 小我 r 差別民jが出た。また、編著『ジェンダーの日本史 j
を滅して大義に生きる Jという過去の反省が「個を の英語版を作成中、これがなかなか大変。滋賀県大
強調する戦後民主主義、そして平和憲法ではなか っ に留学していたクリスティーナ・ラ ッフイン (
現東
r
たのかJ 日の丸、君が代、ガイドライン法が世間を 大院生)を事務局長として奮闘中。のめり込みだし
騒がせているが、朝鮮人がガイドラインを翻訳する た芸能史も、 5月には芸能史研究会の大会で報告、
と「朝鮮は日本の生命線」になるし、日の丸も君が 来年 1月には「中世の女性芸能者 Jの報青をする 。
代も膨張的日本ナショナリズムのシンボルだし、押 八方、手を広げていささか過労、来年はもっとじっ
しつけて定着するものではないことは皇民化教育の くりした研究をと心に念じつつ。
r
イ本験から明白である J ヨーロ 1 パにユーロができて

国境のなくなる時代が自に見えている、それを推進 -高谷好一(たかやよしかす)地域論
したのは統一 ドイツである 。 アジアでは日本は経済 iI
海外調査ということでは今年度も昨年度~::: J き続
的に大国であるが、アジア諸国は日本を中心に結束 いて、「熱帯半乾燥地でのミレット農耕と他農耕と
r r
して 一つの局となるだろうか J ダメだ J それは戦 の接触複合 J(
文 部 省 科 研 費 、 代 表 京 都 大学陸地
後の日本が自分の過去と正しくむきあ ってないから 利明)に参加した。去年はアフリカに行ったが、今
だ。戦後ドイツのナチスやヒットラーへの批判と訣 年はイスラエルとウズベキスタンに行った 。夏休み
別等と、日本の天皇、東条、靖国温存、執着の差が を利用してのフィールド調査であった 。
そこにある 。その中で萎先生が「南北朝鮮の平和統 国内では自分の住んでいる守山市、特にその湖岸
ー こそ東アジア平和の保障だ Jと強調されたのが記 部での聞き込み調査をよくした 。 これはたまたま、
憶に残 っている 。
」なるほど、歴史は未来学だと思わ 学外から 二つの研究協力要請があり、それならばい
せる話の花が咲いた一夜であった。 っそのこと本腰を入れてやってみようということで
教育は研究室や教室のみでなされるものではな やったものである 。要請はひとつは守山市からのも
い、車座になり酒をのみながら、お客さまをむかえ 市誌1編纂に関係している 。 も
のであり、これは 『
て、そこでのやりとりや耳学問が大きな成果をうむ、 うひとつは国土庁が中心になって進めている「琵琶
そのように思う 。 湖の総合的な保全のための計画調査」に関連したも
日本の近代史は「征韓論」、日清戦争、日露戦争 のである 。後者では自然的環境・景観音¥
f会というも
と大きなまがり角にかならず朝鮮があ った。
戦後も、 のに参加している 。
朝鮮戦争、 ii!Ïl~ 日会談、テポドン、ガイドラインとパ 外には県の平和記念館(仮称)マスタープラン検
ターンは同じにみえてならない。 日韓関係史、朝鮮 討委員会に委員として参加しているが、こちらの方
史研究の重要性をさらに考える今日この頃である 。 は私自身はあまりよく働けていない。
出版の方では高谷好一編著『地域間研究の試み
-脇田晴子(わきたはるこ)女性史、中世商業史 一世界のなかで地域をとらえる ・上巻』、京都大学
慌ただしく過ぎてしまったというのが、この l年 学術出版会、 1
998というのを出した。 これは 1
994年
の感想である 。 3月末まで必死に書いた 『中世の京 度か ら1
997年度にかけて行った文部省の重点領域研
都と祇園祭jはまだ出ない。 このところ続けている 究「総合的地域研究の概念」の成果報告書である 。
石見銀山の国内外の歴史文献調査で、 5月に中国、 南アジア、中東、アフリカを取りあげ、それらがど
7月に韓国に行 った。そして 1
0月始めに、福岡市主 ういう性格を持ち、世界の中でどういう位世を占め
催の「ジ ェンダーの国際シンポジュウム」に出た 。 ているのかを論じている 。短い論文では「自然、共同
0月中旬に、能楽「三輪一白式神神楽」を u
1 r
i能。月 体とエコロジー J(
JI
l 回順造ら編、 1
998、岩波講座
末には早稲田大の「母性 -父性」の学│努シンポジュ 『
開発と文化 第五巻』所収、「地球の人間システム」
1月には別稿に書いたフランスでのシンポジ
ウム 。 1 (
岡田節人ら編、岩波講座『科学/技術と人間シス
ユウムで報告。論文はこの「人間文化」第四号に書 テム 第八巻』所収)などを書いた。

人間文化・ 139
人・閏・文・化・通・信

目下の興味はやや分裂していて、ひとつは故郷研 村で一年間、住込み越冬調査をおこなったときに撮
究であり、今ひとつは世界研究である 。 影した記録映像を編集し、“四季 ・遊牧ーツエルゲ
全 6巻)を完成させることが
ルの人々一"三部作 (
-黒田末書(くろだすえひさ)人類学 できた。大阪外大・滋賀県立大学での試写会をすで
卒業生を送り出す初めての年が厳しい不況と重な に終え、現在大阪市内や東京などのホールでの上映
ってしまい、まだ若干の諸君が希望の進路につけて 会をおこない、一般市民にも公開している 。時間が
いないのが残念である 。他方、全員が卒業研究に力 許される限り、 一宿一飯のよしみをたよりに日本列
を入れて取り組み、現代の民間信仰、阪神大震災の 島各地の農・山・漁村を訪れ、ミニ上映会をおこな
聞き取り、新興住宅の町づくり、スポーツの意義、 いながら、「地域j に生きる人々との交流を深め、
ゲームセンターの人間関係、大学の建築と人の集ま 「地域j に学びたいと思っている 。
り、がらくたに関する考察などの多様な論文ができ 今、この映像作品のナレーションのモンゴル語訳
あがった。おかげで私もいろいろ勉強し、楽しませ が終わり、モンゴル語版の吹込みの準備をすすめて
てもらった 。春から大学そばに知l
を借り学生や教員 いるところである 。 ここから先のことは夢のような
のみなさんと耕作を始めた。能楽部諸君の舞による 話かもしれないが、さらにロシア語版をつくり、英
祈りが効を奏してじゃがいもはなんとか収穫祭をす 語版、スペイン語版ができれば、モンゴル遊牧地域
ることができたが、その他の作物はもう 一つ。畑と を出発に、極東・シベリアを経て中央アジアからス
能のおかげで地元の八坂の人たちと知り合いにな ペインまでユーラシア大陸を横断し、かつての遊牧
れ、老人会-子供会での講演などの交流計画を進め ベルト地帯の各地で、ミニ上映会をしながらフィール
ている 。そこで私の人類学、地域学の社会的な意味 ドワークをつづけ、人々と語り合うのが愉しみであ
を見つけたいと思っている 。 る。まだまだ甘いといわれるかもしれなし、。しかし、
私の人類学 ・霊長類学の旧来のフィールドである 挫折をおそれず、いつまでも夢をもちつづけたいも
コンゴ共和国、コンゴ民主共和国はいずれも内乱で のである 。
波乱状態は
調査ができなかった 。今日のアフリカの i 地域研究は、とどのつまりは、「地域」の自然と
冷戦の追産やアメリカの世界政策の変更のせいだけ 人間とその時代を解き明かし描くことにある、と言
にすることはできず、民族-政治 国家-歴史とい ってもよいのであるが、その表現形式は、文章表現
った人聞を束ねる近代の概念そのものが問われてい (
論文、エッセイ、文学作品… … といったもの)で
るように思える 。今後の課題としたい。 あったり、カメラのレンズを通して対象から切りと
発表論文など(執筆中も含む霊長類の種間 った映像カットを再構成し表現する、つまり映像表
(
r
関係 J 霊長類学を学ぶ人のために』世界思想、社)、 現であ ったり、それはさまざまな表現形式が考えら
a
「人類進化における成長遅滞 J 自然人類学を学ぶ れる 。
人のために j世界思想社)、「技能で人と交わる場j 最近わかりかけてきたことは、とりわけ文書表現
人間文化4号)、「自由教育 J(
( アウローラ 8
号)、『
類 と比較して、とくに映像表現の場合、単なる表現形
仮題)J(
人猿社会論 ( 来4月、以文社)、「同所的ゴ 式の違いといったものにとどまらず、対象への認識
リラとチンパンジーの研究の現状 J(
熱帯生態学会 の方法にも大きな違いが出てくるような気がしてい
ニューズレター 2
9)、「制度の起源 J(家族の起源研 る。それは対象への認識過程において、表現主体つ
究会、サントリー助成金、 1
1月)、「コンゴのドキ森 まり認識主体と対象との聞の相互関係を、より豊か
林における研究と保護 J(大型霊長類の研究 -保護 なものに変えてゆく契機をはらんでいるように思わ
に関するシンポ、京都大学霊長類研究所、 1
1月)な れるのである 。それがどのようなものであるのか、
ど。来年度から始める[ごみの意味論j と「人間と まだまださだかではないが、“映像地域学"とでも
動植物の関係史」の研究の準備を開始した 。楽しめ 言える分野を想定しつつ、こうした認識方法上の問
そうと思っている 。 題をも積極的にとり込みながら、「地域j を考察す
る方法を深めていきたいと思っている 。
-小貫雅男(おぬきまさお)遊牧地域論 ・
モンゴル近現代史
本年度も引きつづき、モンゴルの西南部の砂漠・ -トゥムル・ナムジム 中央アジア・ロシア極東地域論
山岳地帯の地ボグド郡ツェルゲル村での調査を続 1.拙著『モンゴルの過去と現在』の日本語訳が成
行、“ボグド郡モテ、ル地域構想"の策定をめざして、 り、上 ・下二巻本で出版しました。 この本はモン
そのための基礎調査の総仕上げの段階に入ってい ゴルの国土・地理、国民生活および歴史、教育文
る。 化、風俗習慣、産業、経済の過去と現在について
これと並行して、今から 7年前、このツェルゲル 著述したものです。

140・人間文化
人・間・文・化・通・信

2. また、 日本の国土 ・地理、 国民生活、庭史およ も貧しいガンガ一流域の人口調密地域を歩きまし


び、産業・経済の動向や、社会生活、文化
、 習慣 た。
などについて調査し、 [
私の見た日本j という本 デリーに 到着して、まず 目指 したのは北方のヒマ
にまとめ 、モンゴルの読者に向けて 出版の準備も ーチヤル ・プラデーシュ (
雪山地方)州でした 。 シ
整ったところです。 ムラー 、クル 、マナリーを経て 、 さらに北のチベッ
3
. 拙論「中央アジアの新秩序」を『人間文化』第 ト高原の入り口にあるロタン峠まで行きました。地
4号に寄稿しました 。 理的には、チベット高原にわず、かに 80Kmのところ
です。残念ながら、 雪解けの崖崩れのためにロタン
-高橋美久二 (
たかはしょしくに)考古学、歴史地理学 峠の頂上で引 き返さざるを得ませんでしたが、病気
ライフワークの奈良平安時代の古代交通の考古地 になった学生の静養も兼ねて 、 ヒマラヤ 山中の寒村
理学的な研究では 、 1
998年 に「古代の交通路 J(
r古 のー農家に 泊め て貰ったの は、何よ りも有意義な 体
代史の論点 3都市と工業と流通』小学館)、「東 山 験でした 。毎日ヒマラヤの冠雪を遠望しながら、貧
r
(
道と中 山道 J 近江中 山道』近江文化 を育てる会編) しいながら も心豊かなもてなしを受け 、田 舎の生活
などの論文を書いた 。 また、「近江田の道と駅J(
帝 と文化の素晴らしさを堪能し 、ゆったりと流れる時
塚山大学市民大学講座)、「古代山陰道と多紀郡の駅 間を心穏やかに過ごすことが出来ました 。
家 J(兵庫県西紀、丹 南町連続歴史講座 「
多紀郡の 喧l
学生たち とは デリーで別れ、私 はl 燥に 身の置き
古代を探る J) など 1
1回の講演をおこなった 。 さら 場もないデリ ーを早々に発って、ガンガ 一流域 を東
に、古代北陸道につくられた愛発関跡の調査委員会 へ向かいました 。ベナレスからビ、ハール州 に入ると、
8年 3月と 7月に本学の学生をつれて発
に参加し 、9 この地域の貧しさが農村の件まいや道路事情にも現
掘調査に参加した 。残念な がら関跡の 明確な遺構は れていて、最終地カルカッタへ着くまでは、心の安
検出できなかった 。 この調査は今後も継続していき まることがありませんでした。お釈迦さまのご苦労
たいと考えている 。 9
8年 1
1月には中国湖南省の遺跡 がいくらか分かったような 、
分からないような ー
見学に行った 。その目 的は、 漢代の二つの有力な国 一昨年のモンゴル体験にも増して、いのちの営みと
の王墓と王城の比較研究であった。その一つが、湖 世界の文明の多様性を思い知らされ、コペルニクス
南省の省都である長沙に玉城があった 長沙 国であ 的転回とまでは行かなくとも 、コロリと価値観を転
り、もう 一つが江蘇省の地方都市徐州 に玉城があっ 覆させられた ことでした 。
た楚国(後漢代には彰城国)である 。両国とも漢帝 帰国後、混迷する私自身を何とか鎮めようとして
国の皇帝の劉氏の一族が王に封じられた国で、その 思い付いたのは、「脚下照顧j ということでした。
王墓の構造はそれぞれ まったく異なっていたが、そ 2
1世紀に「いのち」をつなげるには、地球上にある
の規模 はい ずれ劣らぬ壮大 さであった。 歴代 の王墓 多様な地域 と文明を 見据え ると同時 に、自 分の足元
は、いずれも王域の周辺の小高い 山に
、 あたかも生 から始める しか ないのだと気付 かせられたのです。
前の居城を見守るかのようにつくられている 。その 近江の文化、と りわけ近江の 田舎の文化を 、し っか
王城の具体的な位置は 、ど ちらも市街化が進 んでい りと見据えることから地域研究 を再出発しなければ
て、確定することはできなかった 。ただ、長 i
少の王 と決意した こと です。
城は、市街化し た長沙の 町ーを丹念に踏査するこ とと、
過去の発掘調査の成果を 地図上に落とすことによっ -林 博通(はやしひろみち)日:本考古学
て、大体の感触を得る こと ができた 。今後は、各地 春には琵琶湖湖底遺跡調査用 として小型船 「ゲン
の王城をむすぶ交通路も考えてみたいと思ってい ゴロー」や潜水器具が整備 され、 予備調査を琵琶湖
る。交通遺跡の調査の ほか に、昨年度から滋賀県内 各所で行い なが ら夏の本調査を待った。初めて船を
の金石文等の文化財に書かれ た銘文資料をあ つめて 自分で操り なが ら広大な琵 琶湖 に潜ぎ出 して みた
パソコンでデーターベ ース を作成しているが、 9
8年 が、北 i
胡は想像以上 に波が高く 、最初は恐る恐るの
度にはそのデーターベ ースに函像データーベースを 航行だったが、慣れるに従い少々の波はさほど気に
加える作業をおこなっている 。 はならなくなった 。 しかし 、油断 は禁物。原始の丸
木舟ではよほど波のない日でないとすぐに転覆する
-武邑両彦 (
たけむらたかひこ)社会学、地域研究 と思われ、 鏡のよ うに凪い でい る湖面も、突如と し
昨年の夏休みには、 初め て海外に出る 2回生の井 て風が出て大波うねる湖面に変身することもしばし
上一君と野口洋君を連れて 、インドに赴きました。 ばで、対岸へはそう簡単には渡れなかったと想像す
今回はチベット文化圏に近いヒマラヤ 山系の入り口 る。危険なのは雷である 。湖上では周囲に何も ない
の地域、最も 豊かだ といわれ る北部地域、 そして最 ためまと もに落雷を受ける ことと なり、絶 えず遠方

人間文化・ 1
41
人・閏・文・化・通・信

を見回しながら雷が近づく前に 一 目散に逃げるしか 週間にわたって訪れ、多くのことを学ぶことができ


方法はない。手 i
暫ぎの舟ならば逃げ、場を失うことに た。実地踏査した遺跡をいくつか挙げると、星州星
なる 。 されど、琵琶湖中央部からの四周の眺めは見 山洞古墳群、高麗池山洞古墳群・主山城、宜主主中洞
事である 。 里古墳群、玉田古墳群、澗川城皇山城・ 1
四川城、 三
文部省科学研究費による「環琵琶湖地域の歴史的 千浦市勅島遺跡、国城松鶴洞古墳群、成安城山山
環境の比較研究 J(代表 村井康彦教授) の一環と 城・末山里古墳群・伽耶里古墳群、昌寧火旺山山
して、昨年度に続き 7月から 1
2月にかけて湖底遺跡、 城-校洞古墳群 -桂城洞古墳群、昌原城山貝塚、金
の本調査を断続的に実施した 。今回は、前年度の続 i
毎茶戸里遺跡 金海貝塚 -大成洞古墳群・盆山城、
きとして高島田I
の三矢子軒遺跡、米原町の尚江千軒 釜山福泉洞古墳群、梁山北停皇古墳群 -新基里古墳
遺跡 ・磯千軒遺跡、高月間 ・木之本町の阿曽津千軒 群などである 。
遺跡を対象としたが、三矢千粁遺跡は今年は著しい 今年度も多忙でかつ充実した年でした 。
藻の繁茂とその除去による湖水の汚濁のため調査は
不可能であ ったので、他の 3遺跡を中心に調査を進 -田中俊明(たなかとしあき)朝鮮古代史・古代日朝関係史
めた 。夏場は透明度が悪く、藻も繁茂して湖底の状 本年度も、次の通り、韓国 ・中国へ調査旅行をした。
況は良くないが、磯千軒遺跡や阿曽津千軒遺跡では 9
8年 1月 (
韓国 ・中央博物館)
人の生活の痕跡と認められる「遺構 JI
造物」がい 2月(
科研。韓国・ソウル大学校博物館ほか)
くつか確認され、今後じっくり取り組めばその実態 3月 (韓国-江陵大学校博物館ほか)
を明らかにし得る可能性が高いことが判明した 。 4月 (
中国遼寧省桓仁・吉林省集安)
秋には、ここ数年間にわたりまとめてきた県下全 9月(
科研。韓国 -慶州文化財研究所ほか)
域の主要な 8
00遺跡を、各地域の歴史的 ・地理的特 1
0月(
在外研修。 中国遼寧省撫 }
I
I
買・鉄嶺、吉林省
色をも理解し得る形で『古代近江の遺跡 j の一書と 輝南 -磐石・吉林-農安などの古代山城)
して纏めることができた (
菊判 二段組上製本 総 9
9年 1月 (
韓国 ・慶
州、│
博物館ほか)
5
36頁 サ ン ラ イ ズ 出 版)
。 2月(韓国・梨花大学校博物館ほか)
また、 9月には韓国の書官陵島を訪ね、水田のない 学部内での共同研究で、 1 1月に大宰府、 2月に壱
旧火山の島に張り付くようにたくましく生きる現代 │岐・山口の古代遺跡を調査。
の人々を見、古代からの人の生活の痕跡を示す多く 今年度、発表したものは次の通り 。
の古墳も実地見分した 。 r
(
「古代 J ハンドブ y ク韓国入門 j 東方書庖)
1月には在外研修「日韓古代遺跡の比較研究 2J
1 r
(
「新羅世界を体現する都市慶州 J あうろーらJl3
号)
として伽耶地方の多くの遺跡や博物館・大学等を 2 「百済王都の変遷 J(
W継体大王と渡来人 j大巧社)

...ボンベイの高居街

142・人間文化
人・間・文・化・通・信

(
r
「高句麗前期王都卒本の構造 J 高麗美術館研究紀 ています(共著)。昨今、失われつつある身体 の所
要 j 2号) 作があるように思います。正月に餅をつくことも、
「朝鮮地域史の形成 J( 世界歴史.1 9巻)
岩波講座 『 三)
Jにお雛様を飾ることも、五月に鯉 l
織を立てるこ
「朝鮮三国の王都と王宮 J(別冊歴史読本『円本育代 とも、ほとんどしなくなりました 。子どもたちが、
史[王城と都市]の最前線』新人物往来社) 凧あげをしているのも、かごめかごめをしているの
科研費による 3箇 年 の 朝 鮮 古 代 王 都 の 研 究 を 終 も、おしくらまんじゅうを しているのも、ほとんど
え、成果をまとめつつある 。 みかけなくなりました 。毎朝お地蔵さんに水をやり
にくるおばあさんの姿もまれになりました 。縁台将
-梅原賢一郎(うめはうけんいちろう)美学、芸術学 棋をしているおじさんもいなくなりました 。それら
つい最近見たものからお話ししたいと思います 。 の所作はどこへいってしまったのでしょうか。遊び
去年の暮れに、宮崎県の西米良に伝えられる神楽を ゃ宗教的儀礼 やお祭りについて、身体の所作の観点
見ました。 いくつかの地区で神楽が奉納されるので から、述べてみたものです。
すが、そのなかでも、狭上 (さえ ) という地区の神
楽は圧巻でした 。 山のうえに狭上稲荷神社があり、 -潰崎一志(はまざきかすし)保存修景計画学
その境内の露天に神屋(こうや)を設営し、夜を徹 大唐西域記は玄笑三政がインド往復の様子を,帰
して三十三番の神楽が奉納されます。離合するのに 国後排機にまとめさせたものであるが,その経路に
も往生する、狭い急坂の悪路を、 三十分ほど運転す ついては不明な部分が多い。 このため,大唐西域記
ると、 山のうえの神社に到達します。そこには、神 をもとに,遺跡を現地踏査しながら,その渡印の経
社と宮司さんの家だけがあり、氏子さんたちは山の 路の解明を試みた。 3月にはウスベキスタン共和国
麓に居住しています。道ともいえないこの道さえも、 とタジキスタン共和国を訪れ,カライカフカノ¥ア
披近、通されたということで、それまでは、氏子さ ブラシャブ,キターブなどの都市遺跡と ,カラテパ,
んたちは、祭りのたびに、麓から荷物を背負って、 ファイヤーズテパなどの仏教遺跡を踏査した。 6月
神社まで長い山道をのぼったということです。その にはパキスタン ・イスラム共和国の北西辺境什│を中
ような、いわば、天に一番近い辺地で、月明かりの 心にフンド,シルスフなどの都市遺跡や,カニシカ
したで、注連絡で、結界された 二 間四方の神屋のなか 大i
札ブトカラなどの仏教遺跡を踏査した。 9月に
で、舞われる舞いは、なんとも幻想的でした 。 はパキスタンからフンジエラーブ峠を越えて中華人
正 月 に は 、 鳥 羽 の 沖 合 の 科l島でおこなわれる、 民共和国新彊ウイグル向治区を踏査し,タクラマカ
「ゲーター祭」を見てきました 。寄祭ともいわれる ン砂漠周辺のタシュクルガン ,ホータン,高昌古城,
この祭りも、はなはだ感銘深いものでした。大晦日 交i
可古域,スパシ古城などの都市遺跡や ,ミーラン,
に、鳥羽から 一 日四本の定期船の最終便にのり、島 ベゼクリク千仏洞,勝金口千イム洞,キシ、ル千 1
Li同な
にi
度りました 。渡ってしまえばなんとかなると思っ どの仏教遺跡、の踏査をおこなった。 これらの調査に
て、宿を予約していなかったのですが、数軒ある民 より,玄奨三蔵の j
度印の経路を詳細に採ることがで
宿はどこも満員でした 。 もっとたのみこめば泊めて きたほか,中 央アジアの都市遺跡や仏教遺跡におけ
もらえたのかもしれませんが、日f
i-宿して新年を迎え る建造物の意匠や構造の地域差を知ることができ
るのもまんざらでもないと思い、祭りの開始される た。
早朝まで、海辺で、予想をはるかにうわまわる寒さ 8月にはシリア ・アラブ共和国パルミラの西南墓
に耐えながら、 一年間のこもごもとした思いを反努 地 F号墓の発掘調査に,昨年度に引き続き参加し,
し、祭りを待ちました 。夜がしらみはじめ 、はじま 地下墓の構造や,各部の寸法の規俗,造営尺の検討
った祭りは 、
寒さと眠気を一気に覚ます ものでした。 をおこなった。 1
2月にはパ ル ミラ泣跡を再訪し , シ
直径二 メートルほどの白い輪がこの祭りの巾心で リア政府考古総局と地下墓の保存・復原計画を検討
す。幾人かの若者でそれをもち練り歩きます。 し,来年度以降の施工計画を策定した 。
又、長い竹竿をもった氏子たちが、輸のなかに竿を また, 2月には,十余年にわたって調査と遺跡の
一斉に突きいれ、輸を朝明けの寒空に高くかかげよ 保存作業を継続してきたパキスタン ・イスラム共和
うとします。すると、輸は、まるで、 UFOの変速 国のラニガ ト遺跡を訪れ,保存整備事業のあり方を
飛行のように、上下左右にと、あやういパランスに +食言すした。
ささえられて、空中遊泳します。 これは、すばらし 7
JJには,文部省科学研究費国際学術研究費の交

ノ fフォーミングアートでもあると思いました 。 付を受け ,モンゴル同を訪れ,西部を中心にトヴア
今春には、「いまここで身体はいかに所作するこ 人,ウリヤンハイ人,カザフ人のゲルの調査と,中
とができるか」という 拙文が出版される予定になっ 1のハラホリン近辺でラマ教寺院および寺院祉の
央官¥

人間文化・ 143
人・問・文・化・通・信

調査をおこなった 。 先生達とともに 3週間現地調査をおこないました 。


囲内では,文部省科学研究費の交付を受け, r
3 テーマは現代モンゴルにおける仏教の復興です。
次元地理情報システムを用いた琵琶湖湖底追跡デー モンゴルでは約 6
0年間のブランクを経て、人々は
タベースの開発 J(
特 定 領 域 研 究 A) の研究を , 再び仏教に自由に帰依することができるようになり
ArcViewとその拡張機能版である 3DA
nal
ystを用 ました 。 しかし新しくできたお寺には少年か、 7
0歳
いておこなった。また,特別研究費の交付を受け, 以上の高齢の僧侶しかいないのを見る時、 6
0年間の
「地理情報システムを用いた彦根の歴史的空間の解 空白は一つの伝統の継承には余りにも長大な時間で
析に関する研究j をすすめた 。 あったことを感じます。
報告は前年度に交付を受けた「杢間的広がりを属 モンゴルにおける現在の仏教復興には、信仰とい
性に持つアンコール遺跡の遺構データベースの開 うよりはナショナリズムと結びついているような側
発Jを n人文科学とコンピュータ J1997年度報告 面もありますが、チベァト文化
、 チベット仏教が中
書』 に発表した 。 央アジアの地で未だにどの程度のポテンシャルを持
このほか,国際協力事業団 (J 1CA)の文化財 っているのかを知るためにも 、今年度で終わりでは
保存修復技術コースの講師を委託を受け,アジアか なく、これからのモンゴルを見てゆきたいと思って
らの研修生 7人に約 2週間にわたり ,保存修復技術 います。
の講義をおこなった。 現在報告書を作成していますが、問題はやはり文
献で、慣れぬモンゴル語を辞書と首っ引きで解読す
-水野章二 (
みす‘
のしょうじ)日本中世史 るのはなかなか大変です。
これまで書いてきた日本中世村落 ・荘閣に関する 報告書の方が一応済んだら、またインド・ヒマラ
論文を著書にまとめるため、 1
2月までに出版社に原 ヤのどこかでフィー ルド ワークを始められたら 、 と
稿を渡すはずであったが、予定外の地名辞!14の執筆 思っています。
などで、大幅にズレ込んでしま った。来年には必ず
まとめね L
fならない。 -志賀市子 (
しがいちと )文化人類学、民俗学
国立歴史民俗博物館の大和額安寺領絵図の共同研 この 1年間は 、これまで行ってきた研究をまとめる
究は終了し 、
論文を執筆(歴博研究報告に掲載予定)
。 機会を多く持った 。 まず 1月末に東外大 A A研の共
考古学 ・歴史地理学 ・保存科学など他分野の専門家 同プロジェクト「中華に関する意識と実践の人類学
との共同研究は刺激的であった。今年度から新しく 的研究j の一貫として開かれたワークショップにお
室町期荘園の共同研究がスタートしたが、こちらは いて,戦後香港道教界の動向について発表した 。6月
文献史学のみのオーソドックスなスタイルである 。 にはホ、ストンで開かれた日米道教研究会議におい
一方、琵琶湖博物館での中世村落の共同研究は停滞 、 "
て Mani
fe
sta
tio
nso
fLuZui
nModernGuangd
ong
気味。 また中央大学との丹波国山国荘の総合調査な andHongKong:TheR
iseandGrowtho
fDaoi
st
ど、いくつかの共同研究の準備を進めたが、科研費 cul
ts(
dao
tan)
"を発表する機会を得た 。 これらはい
などの研究費次第である 。 ずれも論文集の形で出版される予定である 。 また科
長浜市史第 2巻に「荘園の展開 Jを執筆 、刊 行。 i
J
fの研究成果公開促進費の助成を受けることが決定

彦被市史は現在史料編の刊行に向けて原稿準備中 。 し、夏から秋にかけては以前執筆した博論を修正し
今年度は個人的に湖北 ・湖西の現地調査を予定して た 『
近代中国のシャーマニズムと道教.1 (
勉誠出版)
いたが、十分には実施できなかった 。史料の個別研 の出版準備に追われた。作業は現在も進行中である
究と現況の調査を並行して進めることによって、近 、 2月までには上梓する予定である 。継続中の研

江の中 世 を考え直していきたい。 シンポジウム「中 究 調査としては、まず3
月に在外研修として 、「

世の集落と濯概」で中世荘園と村落について報告。 港及び中国広東省の宗教政策と民俗宗教の現状」と
報告書は来年初に出版予定。 いう課題で予備的な現地調査と資料収集を行った 。
夏に 2週間 、
韓国の伝統的村落の調査を行 ったが、 また前年度から始めた台湾驚堂の調査も継続してお
日本と共通する部分も多く、日本の村落を考える上 り、秋には中間報告として、「最近の台湾驚堂研究
で非常に参考になった 。今後も継続して朝鮮 -中国 r
の動向と今後の展望 J( 東方宗教 J)を発表した 。
の勉強もしていきたい。 囲内では伊吹山麓の民俗に関する調査を継続して行
っており、夏にはゼミの学生を連れ、短期間ではあ
-棚瀬慈郎 (
たなせじろう )文化人類学 ・チベッ ト
学 るが民俗調査実習の機会を持つことができた。今後
本年度は海外学術調査「モンゴル遊牧社会の変容と もこのような機会を多く 持 ちたいと考えている 。
将来像」の最終年度で、 7月から 8月にかけて西川

144・人間文化
-編集後記・
関 学 以 来 4年 目 が 終 わ ろ う と し て い る 今 、 難 産 だ
ったこの号を送り出すことができて、正直なところ
ほっとしている 。例年にもまして編集は遅れにおく
れ 、 今 年 度 最 初 で 最 後 の 号 と し て 5号・ 6号 の 合 併
号となってしまった 。早々と原稿を出していただい
た方には心からお詫び申し上げます 。
手さぐりしながら最初の 4年間 を終えてみて、次年
度には内容椛成や編集体制をあらためて見直す必要が
あると感じている 。 この研究報告誌自体のあり方や役
割について、多方面からの意見をきいてみたい。
本号では、関学以来、本学部の中でたびたび語ら
れてきた r~ 現学 j について、いっそうの理解と議
論が深まることを期待して、巻頭の特集とした 。 ま
た、これまで比較的投稿の少なかった生活文化領域
の 諸 分 野 ( 生 活 デ ザ イ ン 、食 生 活 、 人 間 関 係 論 ) か
らの論考が多く集まったの も、こ の号の特徴だろう 。
「地域フォーラム」も、本学部のめざす地域文化研究
の ひ と つ の 方 向 を 示 唆 す る も の に な っ た 。 そして巻
末 の イ ン フ ォ メ ー シ ョ ン で は 、従 来 の 倍 の 紙 数 を 使
1の 各 教 員 に こ の 1年 間 の 研 究 ・教 育 活 動
って、学者¥
を 報 告 し て も ら っ た 。 一 見 、雑 多 と も 見 え る こ の 活
動報告の集まりの中に、「小 さいけれどユニークな大
学jの像がほのかに浮かび上がってくれれば、と願
う。ぜ ひ ご一読ください 。 (面矢 )

編集委員・
黒田末存・面矢慎介 '
1甫部貴美子 ・
大橋松行 ・
棚瀬慈郎
i
E工・町なみの点景(1)
自帥反塀:
琵琶湖にはかつて、漁師船をはじめ、湖上輸送の-i:)
Jであ
った丸子船や水郷を行き交う 回船など、多くの木造船が活躍
していた。
近江の集落を歩くと、その船体に佼われていた仮材
を腰壁に貼った、船板塀と呼ばれる民家の塀をよくよよかける 。
リズミカルに京J
Iまれた小さな穴は、板同士を妓合していた
船主J
の跡であり、縫い伺のような独特の表情を見せている 。
貴重な木材を l
I
:J
:Jに再利JiJするという、経済的でエコロジ
カルな発想であるが、船板を貼ることで家を t
l
Iに凡立て、水
の被害から家をヤfってほしいという願いが込められていたの
かもしれない。
水辺の生活と住まいとの深いつながりを示す光対である 。
(写真は彦恨市".呂町の民家)
写兵 -文/ 山 根 周

人間文化 5・
6号
滋賀県立大学人間文化学部研究報告 5.6号
発行日 1888年 3月31日
発行滋賀県立大学人間文化学部
〒522- 附
8533滋賀県彦根市八坂田J2500TEL0748-28-8200
発行人西川幸治
印刷サンライズ印刷株式会社
本誌は再生紙を使用しています。
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