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文部省 蔵版 シ

聖徳 太子 十 七條 憲法
㎞軌倉教育倉刊行
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文部省 蔵版い日本思瀬壊書第一編]ー
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昭和



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聖徳 太子 十 七 條 憲法
聖徳太子の十七條憲法制定は、大子の遺された多くの事業の核心を成すものであつて、
常時の時弊革正の精紳を顕はされたものである。太子の事業は之を約言すれば、即ち新日
本の建設であり、新文化の樹立であり、日本思想の濁立である。憲法の制定、俳法の興隆
冠位の設定、園史の編修等、皆この精紳より出でた事である。
そも〜太子の世に出でました時代は、氏族制度の弊が、その頂獣に達してみた時代で
あった。氏族制度は、常時の赴曾組織の中枢をなし、また政治組織の綱領となってみた。
我民族は、同血族及同職業による結合を以て、氏を形成し、氏々はおの〜共の共有財産
としての土地を有し、民上はそれ等の氏人を統率した。面して氏上は、皇室を中心として
之に奉仕し、同じく皇室の藩展 として立つてみた。
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然るに人日の増加によって、氏族の分裂潮く繁く、赴倉の発達するに従うて、氏族相互
の間の闘係複雑になり、次第に軍純なる組織の維持を困難ならしめた。加ふるに、東夷西
戒の征伐にょり、或は遠く海を越えて朝鮮牛島に我が國威の伸展すると共に、自然の勢と
して、共等に功勢ある氏族が、他の氏氏を凌駕して勢を得て来た。初め碑武天皇御東征以
来、武功の暴高き大伴物部雨氏が勢を得、次いで碑功皇后に仕へてよく共の大業を翼賛し
奉った武内宿禰の子孫なる蘇我氏が興ったのであった。比等の氏は、シ避と稲して
互に朝政に参興して、或は皇室と姻戚闘係を結び、或は武力に任せて、天皇擁立の功に誇
り、攻第に政権を濁占して、第十七代履中天皇の御代より後、政治は全く大臣大連の手に
出っるゃうになった。即ち、履中天皇、反正天皇、充恭天皇、安康天皇の御代には、大臣
シの資)が権 を握り、雄略天皇、清寧天皇、シ、仁賢天皇の御
へグリノマトリ
代には、大臣平群浜島(武内宿禰の裔)が勢を擁まにし、武烈天皇、継鶴天皇、安閑天皇
宣化天皇の御代には、大連大伴金村が権を専らにし、ついで飲明天皇の御代に至り、金村
が韓牛島における外交問題によりて、失脚の後を承けて、物部尾興と蘇我稲目とが並立す
る事になった。氏族制度が潮く共の弊害を露はして来たのは、正しくこの時代であった。
氏族制度の弊害の一は、氏族の衆併である。大氏の発生すると共に、小なるものは大な
るものに、弱き者は強き者に乗併せられ、土地と人民の大部分は、小数の大氏の下に吸牧
せられた。貧富の懸隔は甚しくなった。 大氏族は田園山野を占有して、或者は数萬頃の田
を衆ね併せ、或者は全く針を容る、の少地すら無しといふ有様であった。かくて豪族は戯
属増長して、その勢皇室を凌がんとするに至り、氏族制度の根本精紳たる皇室中心主義を
破らんとするに至った。こ\に、この弊を打破して、皇室中心主義を確立し、土地人民を
皇室に直属せしめ、皇室と人民の間を疎隔せしむる障害を除く貸に、赴曾組織を改造する
の必要があつた。
強大なる氏族が二者以上拉立する時、そこに賞争の起るは免れ難い。賞争は外交問題に
於て現れた。継鶴天皇より飲明天皇の御代にかけて、大伴氏と物部氏とは、韓牛島の問題

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について争うた。大伴氏は百済と同盟して以て新羅高句麗に常らんとし、物部氏は之に反
封して、新羅に結ばんとした。織鶴天皇の御代に、大伴金村は任那に属する四懸の地を百
済に興へた。この時、大連物部臨魔火は、この政策に反封し、勅使として百済に向ふべき
を命ぜられたが、病と稲して出なかった。かくて、朝廷には、親済賞と親羅窯の二派を生
じ、封韓方針常に動揺し、在韓の諸将の行動は、魔朝廷の方針と一致せず、韓牛島におけ
る我國威は失墜して、我國の勢力は新羅の貸に侵触せられた。
飲明天皇の御代に至り、大伴金村は、物部尾興の反封により、外交政策失敗の責を負う
て引退したが、その後、物部氏と蘇我氏の封立がっさいた。飲明天皇十三年、百済塾明王
より備像経論を獣じた。雨氏はこの機曾に於て、甚しく軌藤した。備像経論の進獣は、百
済が我國に封する親善の意を表し、韓牛島に於ける我國の勢力を利用して、新羅及び高句
麗に常らんが貸めにした事であつた。即ち外交上の出来事であって、簡単なる文化闘係の
みの事ではなかつたのである。飲明天皇が之を受げさせられて歓喜踊躍せられてといふの
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%、 事實外交局面 の展開を喜ばせられて の事であらう。 物部総裁 の東氏がクを受く べきや
**についですた 。 事に書誌上の問題のみではなく、外交官僚。
あったと とであらうº
と の後、 百濟はつひ に新羅高句麗の同盟軍に敗られ、 聖明王は新羅の時のに殺された。
二十三年には、 任那はつひ に新羅と高句麗の藤合軍 の時のに滅ぼされ、 神功皇后以來數百
年間中有したる韓本島に於ける義國の領土は、 全く地を繰りて失はるの離に陥ったの
であるº
傑明天皇は、在位中に任講義したのを書に収容さん、 原子るに踏み、 宋子を召
して、 其手を執り結び 、 義語して目く、 除籍志し、 後事を以て故に帰す、 次演く新羅を代
ら、 任那を建て、 番の如くならしめば死する も根も と と無し とº
と の後、 教建天皇, 張俊天皇、 相ついで任那回復を計り結び 、 推古天皇の御代にも、 赤
氣候の兵を題されたり 、 低廉s間後についに成功するに至らなかった。
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かくの如くにして外交問題に於ける氏族の賞争は、結局我園の大失敗となって終った。
物㎞我雨氏の反目は、皇位継承問題に於いて更に激甚を加へた。元来蘇我氏は、武内
シ後、一時物部氏に歴せられて振はなくなり、大臣の職すら保っ事ができなかった。
然るに飲明天皇 藤我稲目の女を納れて皇后とせられてより、稲目は外戚の権を以て祀先
の位に復して、大臣となり、却て物部氏の上に居るやうになり、雨氏はこれより大に反目
した。か、る所へ、百済ょり備像経論を進獣したので、雨氏はこの機曾に於て更に軌蝶の
度を高めたのである。
シ後 シが皇位を嗣がせらるべく定められてみた。皇子の御母は
シ目の女で、即ち馬子の御妹であった。物部守屋はこれに封抗して、シを擁
立しょうとした。然るにこの争はあまり大事件を起すに至らすして、橋豊日皇子が御即位
あらせられた。即ち用明天皇にまします。天皇は僅か二年にして崩御になり、再び皇位継
かしきやひめ
承問題が*ち上った。物部守屋は再び穴穂部皇子を擁立せんとしたが、蘇我馬子は炊㎞
太后 (敏達天皇の皇后、後の推古天皇) の命を奉じて、穴穂部皇子を謀し、ついでまた守
屋を滅ぼした。斯くて崇陵天皇が即位あらせられた。天皇の御母は、蘇我稲目の女、小難
郡であり、馬子の態であった。
今や蘇我氏は封立すべき何氏をも持たなくなり、その顧倣は一層基しくなった。こ、に
至って、氏族制度の弊は、その極酷に達し、遂に大逆事件の発生となつた。馬子の崇唆天
皇獄逆の事件これである。
かくして氏族制度の弊害は、今や政治的にも赴曾的にも、激甚を極め、我國家はまさに
危機に直面した。か〜る時勢にあたって、聖徳太子は用明天皇を御父とし、飲明天皇の皇
女シ部間人王を御母として、敏達天皇の三年に風々の撃をあげさせられた。物部氏滅亡
の時には、太子は御年十四歳を以て征伐の軍に加はり給ひ、大逆事件の時には御年十九歳
の弱冠であらせられた。推古天皇即位と同時に、太子は擁政とならせられ、時弊の革正に
着手せられたのである。
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-1.12. ***

任那問題における失敗の後を書くし、 新羅及び支那より受けたる戦進に封拉して、 國際
問題における客成者たるの地位 より、 進んで支那 と野等の地位に向上するためには、 どう
して も根本から國家社會 の組織を改造さればならぬ。 國を建て直さなければならgº 羯文
明を吸收しなければならぬ。 我が頭は支那人 比べ ては途に文明の段達 は であるが故に、 ク
と位し得、さまでに、 文明の水準を高めれ ばならg。 本文郡と對抗する時のには、 先 っ國家
の統一 を周り、 國民の自主觀念を養はねばならgº 小道の如き、 多くの大家族制球の姿で
は、 盧武の 薬剤はもっかしい。 それ故に、まっ業地帯の形式を厳し、 書を中
心として、 國民全體を以て 1 の大團結となし、 即ら中央に構力を集注して、 以て國家組織
の数 を図らなければなら 。その天神が、太子の俳優となって議 を 所以 であ
るº 國史の編修、 看法の制定、 佛法の獲勝、 是れまた支那と動等の地位に上らんといふ結
神から出たと とである。
かくて推古天皇二年には、 佛法與薩の語を務し結び、 八年には新羅 % 討ち、 九年には
び新羅德路を企てられ、 + 1年には城位十二階を定めて人材登用の道と開さ約 3, 圣+1
*うじ かくれい
年四月には、 魔法を制定して、 新日本の風是を否會に示された。 との年は、 朝鮮 戰號2年
に金 。 それは文書において栄の能として、愛子李 :4ése
ておた。 地平西及び中子に密 裏には、 必守政治上の大學界知るとい のである 。
の思想は、 古く成國にも修《心れておた。 聖德太子の魔法が、 と の時を以て制定せられた
のも、 太子の理想の 端を現はすものに外ならないのであるº
梁太子の魔法は十七 集まり成る。而して十七條に分たれたのは、 株の結果ではた
《 論のを守李 思想によっ たくさんふの農業は 天祚،
られたといはれる。 即ら十七はカと八の合數であって、 カは天道を制する数であり、 八は
地理を制する数であるといよ。 更に九は陽數の種であり入は陰数の種であるといふo 部も
天道地理を制し除坎南極の代表たるカと八の合數を以て修項の数とせられた事は 數法が
天地 の道に協 は、 陰陽を統&るものである事を、 教の上に於いて示されたものである と

،
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1O
7人 にもホ太子の意法に封する御為負を期よ事が出來るo
意法と言 人 は直に明治天皇の鉄定意法を離婚するが、 太子の意法は、 間より今日 の魔法
に封する機会を以てしては首肯出來gかも知れたい。 共の内容性質から 武 《 性 教育新語
成は五萬條の御書文に比すべきであらう。 その説かれた所は、 道德的訓號的のもの であつ
て、 何等制裁的の規定がない。 公布上 の手線をも展まず、 縣政として の太子が諸官に訓號
せられたもの に過ぎない。 然しながら 、 古代法律の形式は、 何れの図柄れの民族に於いて
も、 新の如海道德的宗教的のものであった。 且接戦天皇の御代に興はれた放に格式の序に
***********
文法 の起源を成しておるのであって、 クを以て法に非すとする事は出來ないのみならず、
と の意法なるものは、 後代立法の精神 となり、 その基礎を作ったもので、 大化新政 の如き
も、 その序幕は と てに開かれ、 律令 の制定も、 その端を と) に残し、 中世の武家法制文之
に彼氏所がある。 即ら真水式目は太子の意法の教に因つて、 其三倍を取って五十 一篇集と
)
し、 建武夫日 のトセク族、 朝倉敷量 の十七ケ條、 みたクに彼らた 。のであ ?
海に進んである思想の系統は、 熊隊及佛教であり、 クに法家及道家 思想が懸
まり である その修文中には 微管の使用語はもとより多く用いられ、 遠鏡には武春,
**************
文選亨- 雞(神科と知り、 その中には 以和武春 朱氏以時 の列《、 古人の盛况
とそのた)に使用さらわたるものも、 非平はあるが、 多くは神文の敵を倒してそ º
, 杨sて雇 われた。 今での出典と見るべきもの1番手を次に際しょう。
第 1 | 2 和強賽 體 制覇
上和下諾 季 統 馬州和陸 上下無德
君如天之臣则地之 | | 第五老天地之位也
11
11
天授地戰 天之所覆地之所載
第 上不想而下不齊 上無體則不免平息下無體則不免手制
第 如石酸水 其言也加 以來投石英之愛也
其 內也如以石 發水質之地也
第 德惠動著 德惠而動著
第 七 起食作型 推都同合作社推在克念作型
第 公事隆盛 王事處體
第 彼是別成非 是共所排非其所是
如線 離婚 奇正道相生如潮之無錫
第十二 國非1 著民無明主 大無二日 王德二王
第十四 五百歲之後方令選賽 五百戰而有王者與
千歳以羅特 龍 千戰 過實習之事會
第十六 使民以時 節用愛人使民以時
- __ - - -_--
蘇を打破し、 新しい社會を建設する為には、 失っ第 に頭足に封して新政の大網上 國
民の賛を示すに足るべき指導方針とをかけ 以 て頭馬恩怨の統一 を計ると とが家要で
ある 生徒教法は即ち政治の大本を樹て以て新日本最開の風景を定められた。のである。
トセア後の親類は、 要約して四とたる。 1 に和、 11に神教義朝、 三に皇室中心主義、 西
に政治の公正である。
第 に知 和はすべて感神上り破れる。 個人的の感情に委ねて、 利を選び 家を思って
國史思わる所に、 後者に封する神將 超り、 愛者に動して無期º起る。 當時の商業が 知府
に自己と計るに食で、 舞鶴舞議を事としたか、 大臣大通等の撤軍職が、 柳州に興味*
治に親 しめ、 社會と不安たらしめたか、 朝鮮半島に於ける風成英雄、 國內にかけ 継承
及び高位繼承間體等の統後は、 すべてとれより起った。 國威の株 國內の平和は、先っ
ae - 雞،かった。 康熙***
には上下相和する事が最も大切である旨を道被せられ、 ついて上下和陸して、 事にあた
1]
• →→
( ***
1四
ルは、 何事か成 さらん せられた。 身 像s利義を厳し 龐 )製品を求め(鮮
書を乗て 家人と相同すべきとと(縣 )を反應器« 發酵された。文第四集に於い
て、 百官は上下相互に頼を以て政治の局に常るべきを 示された。 體は和あつ て始めて可能
である。 更に第十五條に於いては、 高々 たる私情を公事 提洛するが急に、 和を破り公事
を防ぐるととの多さを除き、 以て栄を去って公事に動もベきを数《心れ、 敵に執筆に上
-雞た。
第二任總數變動である。第二條に於いて、彼く三寶を被《 、 三寶とは無法倫たりと仰を
らゆた。太子が、法隆寺 山天王寺等の寺«を知 られたことは芸に及平成は
༄牛 、金髪を帯し、また農學、 準 優勝を作
た事は、 何れも意接 のとの価値と相應義するものである。 然したがら、 太子 排放 棄却
は、 決して京教の育目的服從でもなく、 また頭制でもない。 即ら軍に挑数の興隆そのもの
を目的とせられたの ではなく、 實に関民文化の向上の手段の強めにせられたのである。
三韓は、 共の地理的關係により、 早くから支那文化の影響を受け、 文化に於ては、 途に
我國を凌いでおた。 從って、 動もすれば、 文化の低い戦闘を離んじて、 文化の高い支那に
使いたのであった。 三韓に於ける國威失靈の 原因は と( にある。 太子は、 と の朝に着目
そら 、 印度 支那、 朝鮮、何か の風にも仲である儀を保加して、 盛の文化を彼
と同等以上 に向上や しめよう とせられたのである。 從つてそれは大陸文化の育目的崇拜で
はないº |經義統に於いて、 太子が 全く種獨自な見解を以て使 教を研究セられ、 佛教を武國
民性に調和をしめようとせられた勢力の跡を襲 にとができる。即ち大手の国家主義は
三維奇跡の中 にも共終結を現し、 日本思想の顔立 の関きを 示して居る。 法華經說の冒頭外
題の下に、 比是大麥國上官王朱、 非海被本 とあるは、 比統は大日本國の上官太子の集め
たるもの で、 海の彼方より離大佐 られたものではない、 日本福特のものである といふ と と
を表し、 日本文化の樹立を示さうとせられたもので、 と人 に太子の意気の航んなるº Qあ
るを認めたければならg。 この意象は、 文縮小野球手を離された時の風雲に 日出
1五
- 11.
一六
る虜の天子書を日没する虜の天子に致す差 無きや」 と堂々たる態度を以て臨まれたその気
概と相照應するものである。義琉の随所に、俳出世の地即ち印度を指す場合に、特に 「外
國」 とある、古来一般に印度は天笠三或は西天など、いふのを常とするのに、太子が「外國」
といはれたのは、特に意味のあることで、太子の國民的自主観念より出たことであらう。
太子の備教御研究乃至御奨励は、この國民的自主観念より出たことであって、即ち大陸の
優秀なる文化を吸教して、園民の精神生活の向上を計り、彼より愛くる軽侮を去らんとせ
られたのである。
備教は悲慈忍辱を教へる。嫉妬排携を事とした常時の閥族の人々に封し、念を捨て順を
絶たしめる教化手段としても、備教農園の必要があった。シだ悪き者少し、能く教ふれ
ば之に従ふと仰せられ、共れ三賞に騎せすんば、何を以て狂かれるを直さんとは、第二條
の中の御言葉である。
こ\に獄じて置くべきことは、古来、この憲法の中に、敬碑の事が掲げてないといふの
ーシー
で、之を非難する人がある。然しながら是は一向見常外れの論であつて、敬碑の事を憲法
の中に求めるのは、元来求めるもの〜誤で、木に縁つて魚を求むるの類である。十七條憲
法は、常時の朝臣等への訓誠であって、太子の考では、外國に封する上、又常時の時勢の
上に必要なりと思はれた所の訓誠を、百官に下されたに過ぎないのである。数碑の事の如
きは、常時殊更之を論すの必要がなかったのである。憲法は國民道徳の教科書ではなかつ
た。太子の考は、支那の文化を移植して、日本を支那と同じ地位に進めたいといふにあつ
たのである。その貸めには敬碑の事の如きは、之を言ふの必要はなかったのである。固よ
り太子と難も、決して碑祇を奪敬せられなかったのではないのである。推古天皇の十五年
に、我が祀宗世を治め給ふに、皆な碑祇を敬せられた、我が世になってから怠るやうな事
があつてはならぬといふ勅語を下されて、皇太子大臣等が官人を督して、碑祇を参拝した
といふことが、書記に出て居る。かやうなわけで、別に碑祇を軽んじたといふわけではな
いが、憲法の中に箇條を設けてまで特に之を勧める必要を感ぜられなかったのである。備
一七
一八
教の奨励は、常時外國との交際の上から見て、文化移植の貸め、最も効果ある方法と考へ
られたのみならず、支那と封常にならうといふ必要上、特に之を勧める必要があつたので
ある。故に特別に箇條を明かにいひ現されたのである。
第三は皇室中心主義である。語を承けたならば必す進んで奉戴せよ、と第三條に於いて
仰せられ、また第十二條に於て、國に二君なく民に雨主なし、と高くか〜げられた大施の
下に、従来の封建的氏族制度の打破を宣言せられた。今逸は除りに地方分権的であつた。
國政の統一は、この獣にも著しい妨害を受けた。故に先づ確平たる中央集権の樹立によっ
て、共撃を嫌めようとせられた。加ふるに、各地方に割擁せる豪族は、土地と人民の奪併
によつて、絶大な経済力を養ひ、天皇擁立の功を特んで専権を極め、政は惣て大臣大連の
手に出で、君臣の闘係は潮く観れて来た。人民は氏上あるを知って天皇あるを知らない
者も多かつたであらう。語を承けては必す謹まねばならない、謹まなかつたならば、萬事
はすべて自ら破滅するであらうと繰返し論されておるのは、常時勅命を軽んするもの〜 少
あやのあたひこま
くなかったことが察せられる。蘇我馬子の顧倣、東漢直駒の大逆も、要するにか\る族制
政治の弊害の極まったものに外ならない。臣下を率みて皇室を敬せしむるといふやうな事
は、後世の思想から見ると、誠に常然の事であったのであるけれども、常時に在つては、
さうではなかったのである。この族制政治の弊を橋めようといふ思想、これがやがて後の
大化の革新を促したのである。即ちこの憲法が大化革新の先騙となる所以である。
かくして、太子は大権の所在を明にし、所任の官司も皆王臣である事をさとされて後、
彼等官人は如何にして民を治め國政を補佐すべきかを示された。憲法の精紳の第四は、即
ち政治を公明正大にすべきを示された獣にある。閥族政治の弊は、強き者の専断横制、弱
き者の阿誤議誘の二方面に現はれる。従って太子は特にこの二酷を誠められた。第五條に
於いて、訴訟の事に携る者は、私利私欲 を絶ち、清き心を以て公明正大に耕すべきを示さ
れ、この頃、訟を裁く者利を得るを常とし、賄略を受けて共の人の訟を聴く者が多いとの
べら 第六條に於いては、悪を懲し善を勧むべきを論し、語ひ詐る者は國家を覆し、人
一九
* -*
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二O
民の命を絶つ者であると読められ、 また第十 一 條に於て、 近相助無き者が覚を受け、 菲な
*が前をうけるとで、 彼 を明かにすべきととを設かれ、 更に第九集にめて、 仲は議の
本である、 政を執る者は、 毎事情を以てし、 善惡成敗、 信を以て要とすると周く読められ
たº 多 に第七條に於いては、 監りに人を選び自に任するを禁さられた。 即ら通科を過所に
用よく し との調である。 とれもホ大化の改新に於て、 職業の世襲を破った意味を、 先っと
とに宣言やられたものである。 最後の修に於いて、 政治上の大事は、 必ず家と共に評議し
行い、 雲を以てしてはならないと さられたのは、佛像において、 上下 轄して相
共に論 したたらば、 事の道理が自ら通じ、 何事か成らさらんと仰 さられたの と、 首相
應するものである。 この意味を十七條 の始 と終止 に於て、 特にくり返《しのべられたのを
以て見ても、 とれが意法の精神に於て、 特に重要なるものである事が知られる。
右の衆議の登車 と皇室中心主義とは、 太子の憲法の精神 に於て、 最も重要なるºのであ
つて、 まさに我國是の大本と稱すべ きものである。 か くる國是を高く國民に提示せられた
l
事は、 時事横を極めた閥族に封する宣戦布告に外ならない。かくの如くにして、太子の
高遠なる理想と織烈なる意気とは、永く我國民の仰止する所となった。
右の外、官司に封して、早く出動し、愛く退職して政務に励むべきを誠め(第八條) 同
僚相助けて公務の停滞なきゃうにすべきを論され(第十三條)。或は民を使ふに時を以て
し、公用で使ふにしても時期を選び、農桑の間時にすべきをのべられた(第十六條)。
九そこれ等の箇篠は、何れも官吏として自明のことのみで、今更特に誠めらる、にも及
ばさるゃに見ゆるものが多いのであるが、これは常時族制政治の弊として、かくの如きこ
とまで*、特に之を論示せらる、の必要があったのであって、その貸めにこ\に明かに針
を刺して、その弊を橋められたのである。
以上のぶる所を約言すれば、聖徳太子憲法の精碑は、新日本を建設し、國民思想の樹立
を闘り、國家意識の覚醒にっとめ、自主観念の発達を促すにあり、これが貸めに、一、赴
倉組織を改造して、氏族制度の弊を革め、皇室を中心として、政治の権力を集中するこ
二一
- 』
二二
と、二、大陸文化を吸牧して、國民の精神井に物質生活の向上を闘り、外交を刷新して、
國際上の地位を進めることに向って努力せられたのである。
不幸にも、太子は共の理想を質現せらる\に至らすして、推古天皇三十年二月二十二
日、御年四十九歳を以て夢ぜられた。天下の百姓、 年老いたるは愛見を失うた如く、年幼
きは慈父母に別れた如く、働英の撃は恭路に満ち、人々は日月を失へるが如くであったと
いふ
太子にょって僅に抑へられてみた閥族は、機来れりと許りに、再び録鍵を露はし始め
た。太子夢後の蘇我氏の横暴無道は、今更詳述するまでもあるまい。赴倉は再び太子出世
以前の状態に返らうとした。然しそれは、 正に消えんとする燈火の最後の輝に過ぎなかつ
た。太子にょって掲げられた國是の大本は、最早や閥族も如何ともすることが出来なかっ
た。太子豪後二十除年にして第二の聖徳太子とも申すべき中大兄皇子によって、こ\に大、
化改新は成就せられ、新日本建設は質現せられたのである。大化二年三月改新の語には、
夫れ天地の間に君として萬民を むる者は、濁り制むべからす必す臣の輔翼を狙っと仰せ
られ、また凡そ治めんとする者は、若くは君若くは臣、先づ常さに己を正して、後に他を
正すべし、如し自ら正さずんば、何ぞ能く人を正さんと宣はせられ、ついで中大兄皇子の
上奏には、天に鍵日なく、國に二王なし、 シに天下をシべきは 唯
天皇のみとある。これ等、一として太子の憲法の精紳より出でざるものなく、まさに太子
の理想質現に外ならなかったのである。
二三
* -
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二四
十 七 條 德法 日 韓
第 1集は、 不和
の原因は 身 一 黨 佛像 , て何本 上下相和する事が最も大切であり、人事に
の利害 に拘は つて
大局を考 Y g より 松が事 である。 凡て人には開幕があって、 建議を具 《 た者は非法少
生するを以て 上下
和陸すべきを設さ
い。 特に 11歳の利害に約はつて成は君父に背き、 或は解人と仲
始 áº
遠心する。 上下和陸して相共に事を論究したたらば、 事 の道理も自ら
第二條は人心の 明になっ て、 何事も成就やむ ととは ないo
終時は修法である
と とを設さ、 佛教 第 1巻く 姿を象徴 とは仲を34。 この 法は 158
を崇%Y さを の Y
給:áº
~
*には種々の
生物の根源であり巻の本格である。 故に他 の北側 の風
解釋がある 。 成は *、 との法を貫はgºÇ はない。 元來非常た悪人とい ものは世間に
現前の“ 家 則ら精
拿大佛 羅絲 の設法
はない。のである。 故に知何なる人でも、 善さ教を以てよく数 《拳け
C法)轉發 の 教 團 は、 必ず者に化するものである。 か機な教とそ三寶であり、 と の数に
1」
(信)を いび、 或は よらればった者を正す事は出来ない。
作特の 三歲 即ち帰




)

像 第三條語を水がたたらば、 必守護んで素敵をよ。 発は天であり、 風


いふ

)

(

º
し但

は地である。 天、上にあって勝を愛小説くみ、 地下にあって人高


とは
%と教
帰 に寶



即いち れ

とと である。
山川を載せ 安しておる。 之によって変更改修學方正しくめぐり、 人事
車本も生長する。 若し地が共分を忘れて天を覆はん としたならば、 高
原文四生 とあり
四生 とは胎生期生 物に破壊するのみである。 故に天たる書の言行には、 地たる正下は本
海生化生にして、
即ちあらゆる生物 け從うて始めて関はよく治まる のである。 故に語を承けたならば、 必
をいふº
本貨まねばならgº 場またかつたならば高事すべて破滅する。
**本には 第四條 自從人は絵を以て本としたけれ ば たら gº »法もるの
方る
いと 通さ



º
ず あ 萬國






英國 舞
意味
では
º あり



、 根本は、 體を正すととにある。 上に立つ者に韓がなければ、 下が乱れ
て國が治まらないº X下にある者に韓がたければ、 ついに調を犯ずに


º







即ち化 至る。 之に反して、 群臣者體節を守れば、 上下の攻第が知れず、 萬民
11
- - *
-
二六
生の化で、萬化は すべて濃譲を守れば、赴曾の秩序も整ひ、國家は自ら治まる。
すべての現象界を
いふ。 第五條 訴を裁く者は、私利私懲を絶って、公明正大に事を舞せねば
第三條は、君天 ならぬ。人民の訴訟は一日の間だけでも非常に多い。まして年を重ね
民地の 理 を 説い
て、君の語は臣下 たならば、質に膨しい数にのぼる。然るに、比の頃訴訟を裁く者は、
謹承して、始めて
國の政事の運行す 常に私利を思うて、哺略の多少によって訴を聴いてみる。従っで賞者
るを教へ給ふ。
の訴へは石を水に投げ込む如く、如何なる事でも直に取り納れられる
第四條は、質際
政治は濃によるべ が、貧者の訴は拾かも水を石に投げるが如く、少しも受け付けられな
きを説きて、官民
共に濃を守るべき い。貸めに貧民はとりつくすべもない。かやうな有様では、臣たるも
を誠め給ふ。
の〜道にも背くわけである。
g 濃は個人的鶴儀
作法及赴曾の秩序 第六條『悪を懲し善を勧めることは、聖賢の道である。人の善を見て
をいふ。
は之を蔽ひ隠すことなく、人の悪を見ては、之を正さなければならぬ。
第五條は裁判の
不公平を誠めて、 凡そ語ひ詐る者は、國家を覆し人民の生命を絶つ所の録剣である。又
臣下の道をつくす 邪侯にして娼びる者は、上に向っては下の過失を説き、下に封しては
べきを説き給ふ。
に 第六條は、語昨 上の失策を講る。か\る人物は君に封して忠なく、又民に封して仁な
者及俊姻者は國の き者であり、大蹴を起す本となる。
調蹴の基である所
以を説き、勧善懲 第七條 各官人には、各々その職責があるから、人の賢恐適否を考へ
悪をす\め給ふ。
に第七條は人を濫 ないで、澄に任用してはならぬ。賢人が官に任ぜられ、ば、政正しく
に任用するは、國
家を蹴す所以であ して頭讃の撃自ら起り、1好者が官につけば、私心を盗にして顧が績々
るを説き、門閥を
起るであらう。凡そ世には生れながらの賢人聖人は稀である。一言二
破って人才を登用
すべきをの べ 給 行を疎にせず、日夜修業につとめて、始めて聖人となる。か\る人を
ふ。
適所に任用したならば、事の大小となく、よく治まり、時の緩急とな
く、自ら安らかになるであらう。かやうにして國家は永久に楽え、赴
機は平和を保つ事が出来る。故に古の聖王は、官の貸に人を求め、人
の貸に官を求めなかつた。
一七
*
二八
『第八修は公務に 第八條 公職にある者は、早く出動して親く騎る様に心懸けよ。公務
精勤すべきを説き
は怒せにしてはならぬ。終日つとめても十分になし霊す事はできない
給ふ。
まして遅く出勤すれば、 急を要する公務に間に合はす、早く退聴すれ
ば公務を霊すことは出来ない。
第九條『信は義の本である。政を貸すに、事毎に信を以てしなければ
g第九條は政治の
善悪成敗は、一に ならぬ。何となれば、事の善くなるのも、悪くなるのも、或は成功す
信にある所以を説
きて、群臣共に信 るのも失敗するのも、要する所は信の有無に騎する。故に群臣共に信
を以て政を貸すべ
きを誠め給ふ。 を以てすれば、何事も成就せぬことはない。之に反して群臣信なけれ
『信は「まこと」で ば、萬事番く失敗に了るであらう。
あり、雨舌なきを
いふ。 第十條 心に慣を懐き、表に怒の情を露はしてはならぬ。たとへ人が
に 第十條は、第一 己が意見に違うても、終ってはならぬ。人には各々その心がある。そ
條にのべられた和
を破る所以は順毒 の貸めに各我執に はれ、彼の足とする所を我は非とし、我の足とす
にあると説き、購
る所を彼は非とする。然しながら、我必しも聖人でなく、彼必しも愚
毒は凡夫の迷に過
ぎざることを明に 人ではない。共に凡夫に過ぎない。何れが是、何れが非であるかを、
して、衆と相和す
べきを説き給ふ。 誰か定め得やうぞ。共に賢でもあり愚でもある。拾も環に雨端のない
様に、賢愚何れとも定められない。故に、たとへ人が我に封して瞳の
情を露しても、我は怒ることなく、却て自分の過失を恐れ慣まねばな
らぬ。又たとへ自分濁りよくできる事であっても、衆と協同して事を
行はねばならぬ。かやうにして國の政も治まり、人々相和することが
できる。
第十二傑は、門 第十一條 功績と罪職を十分に明らかにし、功ある者は必ず賞し、罪
閥政治によって賞
罰の蹴れたるを指 ある者は必ず罰するゃうにしなければならぬ。然るに比の頃は功なく
摘して、信賞心罰
の要を説き給ふ。 して賞を興へられ、罪なくして罰せられる者がある。政治に興る人々
は、賞罰を公明正大にしなければならぬ。
二九
三○
ノミャッコ
『第十三修は、地 第十二傑 園司 園 遊は、澄りに人民からとりたて、はならぬ。園
方官が官権を濫用
して牧飲するを誠
に二人の君なく、民に雨人の主は無い。山の奥海のはてに至るまで、
め給ふ。國司國造
は常時の地方官を
すべて天皇を主と載き、朝廷から任命せられた地方官も、皆王臣に外
いふ。 ならないのである。故に地方官が朝廷と同じやうに、私税を課し人夫
)
を私用して民を苦しめてはならぬ。
第十三條は、同 第十三修 すべて官吏は、職務上責任をもたぬばならぬ。病気で快動
僚相助けて政務を
闘くべからざるこ したり或は使に出張して勤めを闘く場合には、病が癒え或は使命を果
とを誠め給ふ。
して還り、出勤した時には、同僚と和合して、不参中の事務も、前よ
りよく識って居たやうに虚置せよ。自分が闘係しなかつたからとて、
共責任を回避して、公務を妨げてはならぬ。
『第十四條は、離 第十四條 群臣百察はお互に嫉妬してはならぬ。己れ人を嫉めば、人
妬は和を破る所以
を説いて之を誠め も赤我を峡んで、果てしがない。智隷が己れより勝れて居るとて之を
農薬


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三二
の妨げをなさ ゞる が、春から秋にかけては、農作養鷲の忙しい時であるから、公役に使
べきを誠め給ふ。
ってはならぬ。若しこの時に民を使って、農業の業を妨げたならば、
民は何を食ひ何を衣ようか。
『最後の修は、政 第十七條 八て重大事件は、獅断を以て決してはならぬ。必ず衆と
治の濁裁を誠 め
て、衆議に決すべ
に十分評議をして後行へ。小事は軽いから敢て一々衆と議するにも及
きを説き給ふ。 ないが、大事に至っては、失策するの恐れがある。衆と共に十分論
議すれば、如何なる大事でも正理にかなひ、過失なく行はれる。
十 七 條 憲法 本文
タ テ テ シ ト 、ラ フ ト ス ト 韓リシサトレルラ チシテ ハ
二目 以 和貸貴 元 悦、貸宗人皆有翼赤少 導 者足以 成不順 ラ
ニフニレドモシ へパニ
すぎ = 《 カラシ
君父年 違子隣里然 上和下陸 諸松論事 則事理自通何事不

成。
三目属敬三寛三費者備法僧也則四生之終騎 高化之極完
何世何人シ 足法人鮮光。悪 能教従之共不騎三賞何以
サン レルチ
直柱
ニ ク ケテハチ ズ メハ チ トシ テ ハトス テ と セテシ
三目 承諾 必講 君則天 之E 則地 N 天覆地載 四時順行 萬気 ニ ケテハ
スレバ へサント テチ サンテク
得通地欲覆『天則致壊耳足以君言。臣承上行下魔故承
三三
-




三四

ァ 、ズシ 、 ラシ
語必 慣 不 謹自 敗
テ テ セヨムル チリ
“ー けじ *
、 ナラ
四 目 群卿百寮以濃貸本共治民之本 要在 平濃 上不 濃 面下
ズ トトノフニクンバ
Lr し トキハシ。 キハ >
非斉、下無 濃以必有罪足以群臣有 濃 位次不観 百姓有
ラル
濃國家 自治。
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お ジリー
五目 絶警棄 欲 明舞 訴訟 共百姓之訟、一日 千事。一日高爾況
ヌルチャ チ ロ ムル チ ハルチ チ シク チ チルモノ チ ズルガ
1
平累 歳頃治訟者得利貸常見聴聴獣便有財之訟 如 石投
ニ シキハ タリ チズルニチ テ シキ ノ
シム = > ラ 」 『、
水 乏者之訴似 水投石 足以貧民 則不知 所 由 臣道赤於 馬闘
六月盤悪軌警古之良典足以元 置人善見悪必馬共諸詐者
則貸獲園家之利器貸絶人民之録剣変侯淵者勤上則好説
ノ テ ハバ ニ チスノ テレキ、ノハタ そ シ メグミ、 ニ レ

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下過 違 下則講読上失 共如 比人 皆元忠 松 君 無 仁 松 民 足大
蹴之本也
七日 人各有 任掌 官 不 艦共賢哲任官類音則起新者有官 顧
観則繁世少 生"知 競念作 聖事無大少 得 人必治時無急
緩遇質自寛因比園家永久赴機初危故古聖王貸官以求人
貸人不求官
シモロキコトシ シ テ テ
八目 基卿百寮早朝暴 退公事魔 監 終日難ェ足以 運 朝。 *ミ
パ - ナルニク クトキ、ハルアリキ

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不逮子急星 退 必事不 霊

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九 目 信 是義本 毎 事有 信 共善悪成敗 要在子信群 臣共信 何
カ ラン ラクンパク レン
事 不 成 群 臣無 信、高事悪 敗。
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F ほ トョョ 町 上。
十 目 絶分想棄 障 不 怒三人違 人皆有心、心各有執。彼 是則我非
三五
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日和 和 其 職其以 非典開 の 防 公務
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十 四 日 推出 首家集在線新 成時態人人亦被廢氣之 武术
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之後 本


不知






所符以

已開城 陷 是 以 五 百 歲
防衛冕手會以蘇 萊 不 希望將他 以 治縣。
十五日 報紙廠於是 亞 之戀愛人寿寺院。
事前原以私物公營 地區議制憲法被 列 賽 上下和諾 夫
亦 是情歌
十大中华民以“摩市之 典故多月在纽"
校慶之管不潔不愛他後 不愛他服。
十七 日 大事不斬斷後與泰 拳皇不必杀 ” ト と チ っ
ビチパ ズル 參 シクハノ 2 N ンコトナ !
杉 沙
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選議大 事務發有 失敗 與 家相繼續前 得 理
三七
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四關ダ電臺區町魏市京東
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