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JAP On Invas Helio Oiticica Tropicalia PDF
JAP On Invas Helio Oiticica Tropicalia PDF
侵襲性と〈食人の思想〉
居村 匠
との直接性によって特徴づけられる。なかでも、後世への影響を考
はじめに えるならば、本論文で取りあげる︽トロピカリア︾は最も重要な作
品のひとつだと言えるだろう ︵ 。
︶ こ の 作 品 は、 一 九 六 七 年 に 発 表
2
本論文は、エリオ・オイチシカ︵ Hélio Oiticica, 1937-1980 ︶の代 されたインスタレーションで、美術館内に砂を敷きつめ小屋を建て
表 作︽ ト ロ ピ カ リ ア︵ Tropicália, 1967
︶︾ を 取 り あ げ、 そ の 作 品 に たその様子は、当時の観衆に大きな衝撃を与えた。例えばブラジル
みられるイメージの﹁侵襲性︵ invasiveness ︶﹂に注目することによっ の音楽家、カエターノ・ヴェローゾとジルベルト・ジルは、この作
美学 . 第 68 巻 2 号(251 号)2017 年 12 月 31 日刊行 .
て、 新 た に 展 開 さ れ る︿ 食 人 の 思 想 ﹀ の 意 義 を 明 ら か に す る も の 品 に 着 想 を 得、 そ こ か ら ト ロ ピ カ リ ズ モ と い う 運 動 を 始 め て い
である。オイチシカの制作の源となった︿食人の思想﹀とは、ブラ る ︵ 。
︶ リ オ デ ジ ャ ネ イ ロ 近 代 美 術 館 で 開 催 さ れ た﹁ ブ ラ ジ ル の 新
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ジ ル の 詩 人・ 批 評 家 オ ズ ワ ル ド・ ヂ・ ア ン ド ラ ー ヂ が﹁ 食 人 宣 言 しい客観性﹂展に展示された同作に対して、映画監督ルイス・カル
︵ “Manifesto Antropófago”, 1928
︶﹂において提起した芸術思想であり、 ロ ス・ バ ヘ ト は そ の 体 験 を 次 の よ う に 話 し て い る。
﹁ ス ゴ イ よ。 大
﹁他者を食べることは、それに服従することとは対照的に、別の世界 した作品だぜ。熱帯植物や鳥とかの間の迷路みたいな道を、ずっと
から文化の諸要素を吸収することである﹂という主張に支えられて 進んでいくと、最後にドンとテレビが置いてあるんだ﹂
︵カラード
いる、とさしあたり定義することができる︵ Sztutman 2015, p. 206
︶。 ︶。
2006, p. 156
オ イ チ シ カ は 二 〇 世 紀 ブ ラ ジ ル を 代 表 す る 芸 術 家 の ひ と り で、
︽トロピカリア︾は、アンドラーヂに影響された︿食人﹀的な作
二〇〇七年にはロンドンのテート・モダンで、二〇一六年には米国 品だとみなされており、このことはオイチシカ自身も認めている。
の三つの美術館で個展が開催されるなど、ブラジル国内だけでなく 先の体験談に見られたテレビ装置もまた、オイチシカが︿食人の思
国外でも高い評価を受けている ︵ 。
︶ その作品は、作品空間と観者 想﹀を受け継ぎつつ独自に展開していることの徴としてとらえうる。
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なぜなら﹁食人宣言﹂においても、﹁テレビジョンの装置﹂が興味
深い仕方で言及されているからである。しかし、アンドラーヂの︿食 一.
《トロピカリア》における〈食人〉の問題
人の思想﹀において、アンドラーヂ自身が﹁食人者﹂として西洋の
文化の消化・吸収を試みたのに対して、オイチシカはこの作品にお
エリオ・オイチシカは、一九三七年七月二六日、リオデジャネイ
いて自身がイメージに﹁食べられる﹂と言う。両者には本質的な違 ロに生まれた ︵ 。
︶ 父親はエンジニアをはじめ多才な肩書をもつ人
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いがある。オイチシカが︽トロピカリア︾において実践する︿食人 物 で、 そ の 仕 事 の 関 係 か ら ワ シ ン ト ン で 暮 ら す な ど、 オ イ チ
D
C
の思想﹀は、アンドラーヂのそれとの差異において捉えなければな シカは幼少期から文化的に豊かな経験をしていた。作品制作を始め
らない。 るのは一九五四年、イヴァン・セルパにならって絵画を描きだした
アンドラーヂは一九二二年の﹁近代芸術週間﹂という芸術イヴェ のが始まりである。一九五五年にはセルパに誘われ、リオを拠点と
ントをはじめ、サンパウロを中心に、ブラジルの文化・芸術の近代 する美術グループ、グルーポ・フレンチに参加し、後々までの盟友
化に積極的に参与してきた人物である。この宣言は、こうしたブラ となる美術家リジア・クラークや、戦後のブラジル美術を代表する
ジルのモダニズム芸術運動の流れのなかで生まれた文学運動、﹁食 二人の批評家マリオ・ペドローザ、フェヘイラ・グラールと出会う。
人 ﹂ 運 動 に お い て 発 表 さ れ た。 こ の 運 動 に よ っ て 発 行 さ れ た 雑 誌
一九五八年頃のオイチシカは、幾何学的な形態を用いつつ主観的
﹃食人﹄に掲載された﹁食人宣言﹂は、全部で五十二の断章からなっ な コ ン ポ ジ シ ョ ン を お こ な っ た︽ メ タ 図 式︵ Metaesquema
︶︾とい
ており、西洋社会由来のローマ・カトリック、植民地主義、理性に う平面作品のシリーズを制作していたが、翌年クラークとグラール
もとづく論理への批判が展開されている。そのなかで︿食人﹀とい に誘われ新具体主義の集まりに加わることで、絵画平面から実空間
うモチーフは、こうした諸批判を束ね、西洋の侵略によって失われ へと作品を展開・拡張していくこととなる。新具体主義は、リオデ
た理想的な身体を回復する役割を果たしている ︵ 。
︶ しかし、これ ジャネイロを中心としたグループで、先行する具体主義の動向に反
4
だけでは︿食人﹀というモチーフが本来もっていた、対象の形態を 発して幾何学的な原理や機能主義的な側面を否定し、主体と作品と
壊し取り込むという破壊的な側面が取りこぼされている。筆者は︿食 がより直接的に接続されうるような契機を追求した 。
︵ ︶
6
人の思想﹀の破壊的な側面に注目して読解をおこなうことで、欧米
同年にはモノクロームの板を組み合わせた︽空間レリーフ︵ Relevo
を中心に構成されてきた近代的な人間像を解体する、︿食人の思想﹀ ︶︾シリーズの制作がはじまっている。この作品は、壁で
Espaciail
の破壊的な作用を明らかにすることができると考える。本研究はこ はなく天井から吊られるかたちで展示されており、彩色された板の
の仮説をもとに、オイチシカの作品のうちに﹁侵襲的な性質﹂を見 折り重なりが観者のいる空間を巻き込むように構成されている︵図
いだし、分析をおこなっていく。 一︶。板は単なるモノクロームの絵画ではなく、実際の空間へと働
きかける。
﹁一九六〇年までにすでにオイチシカは、壁から外され空 ︽ ︾の通路を進んでいくと、行き止まりになった一番奥には
N
P
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間へと投じられたこの作品を、必然的に観客性を再定義し、観者を 明滅するテレビが置かれている︵図四︶。
作品の意味へと組みこむものとみなしていた︵ Amor 2010, p. ︶
27 ﹂
︵ ︶。
ブラジルの美術教育学者フラヴィア・バストスは、ブラジルの現
7
︽空間レリーフ︾や︽両側︵ Bilateral
︶︾といったこの時期の作品は、 代美術をハイブリディティーという観点から論じるにあたり、この
再現=表象をやめ観者のいる空間への現前を試みることで、従来的 作品に食人的態度を見出している ︵ 。
﹁オイチシカは、国際的な同
︶
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な観者の受動性を否定し、能動的な鑑賞の契機をつくりだそうとし 時代の、モダニズム的芸術様式の諸特徴を解体し食らうことを企て
た。 オ イ チ シ カ は、
︽ 箱︵ Bólide
︶︾ や︽ パ ラ ン ゴ レ︵ Parangolé
︶︾ ている。同時にこの作品は、植民者の力を、彼の環境作品の庭に彼
といったその後の作品群においても、参加の要請、行為をとおして らの想像のエキゾチックなブラジルを再生産することで吸収しよう
の主体性の再構築をおこなっていくこととなる︵図二︶。 と す る︵ Bastos 2006, p. 109
︶﹂。 彼 女 は、 オ イ チ シ カ が モ ダ ニ ズ ム
このような展開を経て、一九六七年、彼の代表作である︽トロピ 建築の様式をペネトラヴェウの構造に取り込んでいることを、﹁食
カリア︾が発表される︵図三︶。この作品は、リオデジャネイロ近 べること﹂を比喩として用いて語っている。くわえて、あからさま
代美術館でおこなわれた﹁ブラジルの新しい客観性﹂展にて発表さ にエキゾチックな要素を提示することで、彼はかつての植民者たち
れた大型のインスタレーション作品であり、つぎのような構成から ︵西洋人︶のブラジルへ向ける幻想を暴露し、その幻想をこそ作品
なる。美術館の内部に敷きつめられた砂のうえに、﹁ペネトラヴェ の力へと変えていると指摘する。ここではオイチシカは比喩的な意
ウ︵ penetrável
、 ﹁入りこむことができる﹂の意︶﹂とよばれる大小 味での食人者として、西洋の文化を批判的に取り込むことで、それ
ふたつの構造物が建てられている。小さい方の構造物は天井の空い らを乗り越えようとする芸術家とみなされている。
しかし、
た、四方を囲まれたブースになっており、大きい方は内部に渦巻状 ︽トロピカリア︾について、とりわけそのテレビについて、
の通路をなしており、観者はそのなかを奥へと進んでいくことがで オイチシカが次のように述べていることは奇妙な問題を提起するよ
きる。これらは、それぞれ ︽ Pureza é um mito
︵純粋性は神 うに思われる。
N
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話︶︾
、 ︽ Imagético
︵イメージから生成される︶︾と名付けら
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れている。 3
ふたつの構造物は、 モダニズム的な建築様式にリオデジャ それ︹=テレビ︺は、その時には参加者をむさぼり食うイメー
ネイロのスラム街ファヴェーラの建物を結びつけたものだという ジである。なぜなら、それは彼の感覚による創造よりも活発だ
︵ Canejo 2004, p. 64
︶。ほかにも砂のうえには、小石でつくられた道、 からである。実際、このペネトラヴェウは私に、むさぼり食わ
熱帯性の植物、ケージに入れられたコンゴウインコなど典型的なブ れる強力な感覚をあたえた︵私はこのことを一九六七年の七月、
ラ ジ ル・ イ メ ー ジ を 想 起 さ せ る 要 素 が 置 か れ て い る。 観 者 が 暗 い ガイ・ブレットへの私信に書いた││私の考えでは、それはブ
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ラジル美術における最も食人的な作品である︶ ︵ Oiticica 1968 食人は、わたしたちがそうした外部の支配に対してもっている
︵ 2014
︶ , p. 228甲括弧内は引用者による。以下同様︶。 防御であろう。そして、この構築の意志が、わたしたちの主要
な創造的武器であろう。しかし、これらは今日私たちが公平に
参加者、観者、そして作者までもが、テレビのイメージに﹁食べら 廃止を望む、ある種の文化的植民地主義を何ら防がない。この
れる﹂
。これはいったいどういうことなのか。オイチシカは︿食人者﹀ 植民地主義は、それ︹=食人主義︺を確実にメタ食人主義へと
で は な か っ た か。
︽ ト ロ ピ カ リ ア ︾ に お い て、 彼 は テ レ ビ 装 置 を 前 吸収する︵ Oiticica 1967
︵ 2014
︶ , p. 180
︶。
にむさぼり食われてしまうのである。
構築の意志とは、ブラジルの前衛たちに共通する文化構築への意識
二.テレビジョン・イメージの侵襲性 のことである。ここでオイチシカは、アンドラーヂ的な︿食人の思
想﹀が果たす役割を認めつつ、それが現代においては不十分である
もちろん、
︿食人の思想﹀における︿摂食﹀はあくまで理念的な とも述べている。現代の文化的な植民地主義は一方で覇権的な文化
ものである。観者が、
︽ ︾の暗い通路のなかを自身の感覚を を押し広げつつ、他方で各地のローカルな文化を商業的に採用する
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のような評価をくだしていたのかを確認しておく必要があるだろう。 むしろオイチシカは、﹁実際に﹂ ︿食人の思想﹀を実践することを試
﹁食人﹂運動から四〇年近い歳月を経てなお、︿食人の思想﹀にとっ みる。それは比喩の次元でもメタの次元でもない。のちに明らかに
てのアンドラーヂの重要性はゆらいではいない。しかしオイチシカ するように、アップデートされた︿食人の思想﹀は、そのつどアク
は、
︿食人の思想﹀が現在そのままに有効であるとは考えておらず、 チュアルなものとして観者に示されるのである。
その限界を指摘してもいる。
では、﹁テレビ装置﹂についてはどうだろうか。オイチシカが︽ト
ロピカリア︾においてテレビをペネトラヴェウのなかに設置したの 色が彼を侵襲した。彼は色と物理的に接触した。つまり、彼は
は、
﹁食人宣言﹂での﹁テレビジョン﹂についての記述を参照して 色を熟考し、触れ、歩き、呼吸した。
︹リジア・︺クラークの︽獣︾
いると考えられる。宣言のなかでアンドラーヂがテレビについて言 の経験と同じく、観客は、自身の慣習的で、日々の思案の領野
及するのは、つぎの断章︵三〇︶においてである。 にあるよりむしろ、芸術家の熟慮のうちにある行為へと引きつ
けられるように、受動的な鑑賞者であることをやめた。そして
目録とテレビジョンの装置による進歩の固定。唯一の機械装置。 身ぶりと行為を通じてコミュニケーションしながら、それらに
そして輸血︵ ︵ 2014
Andrade 1928 ︶ , p.︶。
7 参加した︵ Pedrosa 1966
︵ 2015
︶ , p. 315
︶。
ここで彼は、
﹁テレビジョンの装置︵ aparelhos de ︶﹂をブ
televisão ここでペドローザは、触覚をとおした能動的な参加をうながすこと
ラジルの進歩を停止させるものとして批判している ︵ 。 ︶ それはブ 10 で観者の主体性を再構築するものとして、オイチシカとクラークを
ラジルにある唯一の機械であり、西洋より到来しブラジルを停滞へ 評価している。注目したいのは、ペドローザがこのイメージと観者
と お く も の な の で あ る。
︽ ト ロ ピ カ リ ア ︾ に お け る テ レ ビ 装 置 は、 との直接的な結びつき、直接性を﹁侵襲した︵ ︶﹂と述べて
invaded
まずはこの記述を参照していると考えられる ︵ ︶。 い る 点 で あ る。
﹁侵襲﹂という契機はペドローザにおいては重視さ
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一九六七年の作品発表の当時、
︽トロピカリア︾のテレビで流さ れていないが、本論文はむしろこの概念に重要性を認める。なぜな
れていたのはニュース映像だと言う ︵ 。
︶ 当時の時代状況を考えれ ら、食人には、そして︿食人の思想﹀には、その対象の破壊が絶対
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ば、このことの意味はきわめて大きい。六七年、ベトナム戦争や文 必要な契機として含まれているからであり、この﹁破壊性﹂こそが
化大革命が進行しており、この年には第三次中東戦争もはじまって ︿食人の思想﹀の重要な要素として捉えられねばならないと筆者は
いる。翌年には五月革命もあり、世界は変革と騒乱の様相を呈して 考えるからである。つまり、観者を能動的な主体として促し、包摂
いた。当時のニュースはこうした出来事を報じていたはずであり、 するものとしてだけでなく、攻撃し、破壊するものとしてもオイチ
テレビという装置は明示的であれ暗示的であれ、こうした世界的な シカの作品を見る必要がある。
動向を象徴するものだったのである。ステレオタイプな熱帯のセッ ペドローザが述べるように、︽トロピカリア︾以前の作品におい
トに置かれたテレビジョンは、ブラジルとその人々がこうした世界 ても、直接性はオイチシカの主要な関心であった。クラーク︽獣︾
情勢に否応なしに曝されることを示している ︵ ︶。 のように、︽箱︾シリーズも可変的な構造をもつことで可能的に観
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者の能動性を認めているし、︽空間レリーフ︾シリーズは色付きの
一九六六年にすでに、批評家のマリオ・ペドローザは、オイチシカ
の作品におけるイメージが観者へと迫ってくる様子を指摘していた。 板を組み合わせることで、観者とのあいだに有機的な結びつきをつ
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くりだす。しかし、こうした観者と作品との直接的なつながりは、
観者が非意思的に作品に巻き込まれてしまうという意味で、事故的 三.食べられることの美学
で暴力的でもある。観者が能動的に作品と交渉する契機を設けるこ
とで弱められてはいるものの、オイチシカの作品にはその当初から ︽ ト ロ ピ カ リ ア ︾ に お け る イ メ ー ジ の 侵 襲 性 が、 当 事 者 の 次 元 と
︵とくに立体作品の制作を始めてから︶侵襲的な性質を見出すこと 関わるものだということはなにを意味するのだろうか。ここからは
ができる。
このオイチシカの作品における侵襲的な性質を、﹁侵襲性﹂ 当事者になるということの意義をもう一度︿食人﹀というモチーフ
と呼ぼう。 と関連付けて明らかにしたい。
この観点から︽トロピカリア︾を分析するならば、そこに﹁イメー
そもそも、食べるということは対象たる食物の破壊とその取りこ
ジの侵襲性﹂を指摘することができる。まずペネトラヴェウ内部の み、そして異物を取りこむことによる主体の変化をともなっている。
テレビ装置は直接的なものだと言える。この装置は観者をイメージ このことは単なる対象の否定ではない。破壊と否定とは異なるもの
に曝す。テレビのイメージは、小屋の外のトロピカルなセット、小 である。むしろ、食べることとは対象の肯定を前提としているとみ
屋の内部の暗い通路との対比によって、いっそう強烈に観者と接触 なすべきである。対象の内容をいったん肯定してこそ、食べること
する。それはショック︵心理的作用︶だけでなく、六七年当時にお の生理的必要は満たされる。のみならず、それは必ずしも完全に能
け る 外 部 の イ メ ー ジ と 観 者 と の 唯 物 論 的 な 結 合 で あ る。 こ れ が イ 動的な行為ではない。正確に言えば、食べるという能動的な行為に
メージの侵襲性である。そうすることで何がおこるのか。観者の能 ともなって、主体には必ずしもコントロールできない、受動的に被
動的な参加は受動的な被侵襲的経験となり、能動/受動という区別 らざるを得ない事態が起こる。食事をとおして異物を体内に入れる
が判然としない重層的なものとなる。重要なのは、観者が能動的な ことは、生命の維持に不可欠でありながら、生体の恒常性をおびや
主体となる、あるいは受動的な地位に留めおかれるということでは かすものである。だが生体は、その異物を消化・吸収することでふ
ない。そうではなく、イメージの侵襲性によって、観者がある切迫 たたび恒常性を取り戻す。この過程で、生体は事実上それ以前とは
した当事者の次元に投げ込まれるということである。侵襲を受ける、 異なる様態へと変化する。
攻撃される、傷つけられることは、人をそのただ中に強制的に巻き
人類学の分野では、こうした異なる様態への変化、他なるものへ
こ み、 事 象 の 当 事 者 と す る。
︽トロピカリア︾におけるイメージの の変性が﹁他者への開かれ﹂として定式化されている。ブラジルの
侵襲性は、まず観者を当事者の次元へと巻きこむよう作用する。
︽ト 人類学者エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロが明らかに
ロピカリア︾は、
その侵襲性が明示されたという点で、︿食人の思想﹀ するように、すでにトゥピナンバ・インディオの食人行為自体が、
の展開としてひとつの達成を示すものなのである。 他部族との戦争、相互に発生する復讐と密接に関係しており、他者
の存在でもって自身の存在を確かめるような独自の存在論と結びつ の﹁作品を経験する当の人﹂という意味ではない。なぜなら、当事
いている︵ヴィヴェイロス・デ・カストロ 2015, pp. 99-100 ︶ 。つ
︵ ︶ 者の身体とは素朴な意味での観者の体ではなく、侵襲性の自動的な
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ま り、 他 者 を 食 べ る こ と は、 他 者 に 自 ら を 開 く こ と で も あ る と 言 作用によって構築されるものだからである。この身体は、インディ
える。アンドラーヂは、
︿食人﹀を自らの運動のモチーフとしなが オのように他によって規定される開かれた身体であり、その意味で
ら、 実 際 の イ ン デ ィ オ の あ り 様 に は ほ と ん ど 関 心 を 払 わ な か っ た 同定できない不定の性質をもつと言える。
︵ Sztutman 2015, pp. 206-207
︶。能動的な︿食人者﹀たる彼は、自ら こうした不定の性質は、外部からの、とくに旧植民者の側からの
を外部へと開くなどということは意図していなかったように見える。 文 化 の 真 正 性︵ authenticity
︶ の 要 求 へ の 対 抗 と し て 機 能 す る。 一
しかし、オイチシカの展開する︿食人の思想﹀は被侵襲的な作品経 般に、社会・政治的に優位にあるものと劣位にあるものとのあいだ
験 を 導 入 す る こ と で、 ア ン ド ラ ー ヂ の そ れ と は 一 線 を 画 す も の と には、要求される真正性に非対称性がある。女性、地方、少数民族
なっている。 など劣位にあるものほど、より﹁それらしさ﹂を証明し、体現する
そこで、インディオの食人行為を、観者が置かれる当事者の次元 ことが求められる 。
︵ ︶ さらに、オイチシカの認めるように、資本
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とへ敷衍して考えたい。インディオにとって、食べることと食べら 主義社会においてはこうした﹁らしさ﹂は容易に収奪され、消費さ
れることとは自身の存在を他者によって規定するという意味で等し れもする。こうした事態への抵抗は、︽トロピカリア︾の作品構造
く存在している。したがって、食べられることを他者へと自身を開 のレベルにおいてもおこなわれている。本作のテレビ装置は、近代
くことだとするならば、イメージに侵襲されることで観者が巻き込 性、支配的な外来文化︵アメリカ文化︶の象徴であるとともに、ブ
まれる当事者の次元とは、いわば﹁食べられる身体﹂と関わっている ラジルの﹁現実的な﹂生活を表しているとも言える。また、小屋の
と言える。当事者になるとは、侵襲をつうじてその身体が立ちあら 外の自然物は、テレビとの対比において﹁ブラジルらしさ﹂を表し
われてくることである。つまり、侵襲をつうじて観者が置かれる当 ているとともに、敷きつめられた砂と鉢植えの植物は諧謔的で極度
事者の次元とは、観者において構築される身体のあり様なのである。 に人工的なセットのようにも見える。これらの要素は、事実上どち
ただし、インディオの開かれた心性が、自己と他者︵敵︶との二 らが正しい読解か特定できない多重のアイデンティティを装うこと
者関係のうちで考えられるのに対して、ここでの当事者とはより広 で、真正性の要求とその収奪に対して、そうした真正性の不確かさ
い関係のうちで捉えられるべきものである。当事者であることは、 を示す。
敵対的な二者関係のうちに還元されない。なぜなら、テレビジョン・
最後に、ここまでの分析をもとにオイチシカの︿食人の思想﹀を
イメージの侵襲性は敵対なしに半ば自動的に作用し、そうした関係 ﹁被食の美学﹂としてまとめたい。
︿ 食 人 の 思 想 ﹀ を と お し て、 ア ン
以前の状況へと観者を置くものだからである。これは通常の意味で ドラーヂが西洋文化の流入によって失われた理想的な身体の回復を
91
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目指したのと同様に、オイチシカも侵襲的な事態において見出され 人をそのただ中に巻き込むからである。当事者は、状況に巻き込ま
る身体の次元に目を向けていた。ただし、それは﹁プリミティブな﹂ れる限りで不定の存在者であり、社会的な意味付け以前の生を生き
身 体 の 回 復 を 目 指 し て の こ と で は な い。
︽トロピカリア︾において るものである。そして、当事者がもつ不定の性質は、文化の真正生
見出される身体とは、テレビジョン・イメージの侵襲のもとで構築 の要求に対する抵抗戦略として機能する。本論文は、︽トロピカリア︾
される身体である。それは外部に開かれており不定であるために、 におけるこの逃走の実践を﹁被食の美学﹂と名指した。この﹁被食
真正性の要求を拒否し、そこから逃げていく。こうした逃走の実践 の美学﹂こそが、オイチシカのアップデートされた︿食人の思想﹀
を、オイチシカの︿食人の思想﹀の特性として認めよう。イメージ であった。
による侵襲を契機として、開かれた身体をそのつど構築すること。 最後に、本作における﹁被食の美学﹂の実践が、食人の思想の内
インディオの食人行為とオイチシカ自身の言葉とをもとに、この実 的発展の結果から導かれるということも指摘しておかなければなら
践を﹁食べられることの美学︵=被食の美学︶﹂として考えたい。
﹁被 ない。アンドラーヂの戯曲﹃蝋燭王﹄
︵ O Rei da Vela, 1933
︶に見出
食の美学﹂は侵襲をつうじて、ある状況の切迫した当事者として生 されるように、食べることと食べられることは紙一重で存在してい
を構築する作法である。能動的な食人者から、不定の当事者へ。
︽ト る︵ Jackson 2002, p. ︶。 オ イ チ シ カ が︿ 食 人 ﹀ と い う 契 機 を 通 し
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ロピカリア︾においてオイチシカが提示したものを﹁被食の美学﹂ て示しているのは、主体において必ずしもコントロールされない側
と呼びうるのはこの点によってなのだ。 面の存在と、それがもつ批判的な意義である。それは自らの意志で
能動的にふるまう主体の﹁統御された身体﹂への批判としても機能
おわりに するものである。オイチシカの︿食人の思想﹀は、非意思的に巻き
込まれてしまう身体の存在と、それによる逆説的な身体性の回復を
示すことで、ブラジルの文化状況において抵抗を試みるとともに、
本論文は、︽トロピカリア︾のイメージの侵襲性に注目することで、
エリオ・オイチシカにおける︿食人の思想﹀の展開を明らかにした。 西洋を中心に構成されてきた近代的な人間像を批判しているとも言
オイチシカはアンドラーヂの︿食人の思想﹀を引き継ぐものだとさ えるだろう。もちろん︿食人の思想﹀において示される﹁食べられ
れているにもかかわらず、その︿食人者﹀としての態度はまったく る身体﹂も、ブラジルの時空間的な制約のもとで構想されたもので
異なるものだった。本論文では、オイチシカの作品における観者と ある。オイチシカが︽トロピカリア︾で、物理的な身体の動員とテ
作品との直接性を侵襲性として読み替え、作品内のテレビジョン・ レビジョンという機械装置の作用とからなる身体のあり様を示した
イメージの分析をおこなった。イメージの侵襲性は、観者をある切 ことの意義は、当時の社会情勢や技術史と照らしてさらに考察され
迫した当事者の次元に投げ込むものである。侵襲を受けることは、 なければならない。今後の課題としたい。
と共生の軌跡を追う﹄三元社、二〇一七年。都留は、日系ブラジル
註
人の芸術活動がいかにブラジル美術と相互に影響を与えあい、
同化・
︵ ︶ Hélio Oiticica: The Body of Colour, London, Tate Modern, 2007; Hélio 混交していったのかを明らかにするにあたり、その思想的背景とし
1
4
Chicago, The Art Institute of Chicago, New York, Whitney Museum 詳細を検討することはできないが、注 に示すように筆者は︿食人
8
of American Art, 2016-2017. の思想﹀を異種混淆性の理由とする立場はとらない。
︵ ︶﹁ 彼 の 草 分 け 的 な イ ン ス タ レ ー シ ョ ン︽ ト ロ ピ カ リ ア ︾ に よ っ て、 ︵ ︶ オイチシカの伝記的記述は以下を参考にしている。 Hélio Oiticica:
2
5
オイチシカは、左右のどちらにも存在していたような国の文化的な ︵ exh. cat.
To Organize Delirium, ︶ , Pittsburgh, Carnegie Museum of
保守主義に挑戦する政治的な地位へと同様に、ブラジルの視覚芸術、 Ar t, Chicago, The Ar t Institute of Chicago, New York, Whitney
音 楽、 演 劇 、 文 学 に お け る 極 め て 影 響 力 あ る 動 向 へ と 名 を 残 し た ﹂ Museum of American Art, 2016, pp. 286-295.
︵ Hélio Oiticica: To Organize Delirium 2016, p. ︶。
17 ︵ ︶ 具体主義は、サンパウロを中心とした美術グループ。バウハウスや
6
︵ ︶ 一九六八年リリースの LP ﹃ CAETANO VEROSO ︵邦題 アレグリア・ マックス・ビルに影響を受け、数学的構成や繰り返しに支えられた
3
アレグリア︶﹄の収録中、まだ曲名の決まっていないオープニング・ 幾何学的な図像を特徴としている。この動向は、主観的な要素を排
ソングに、バヘトがオイチシカの作品タイトルをとって﹁トロピカ することで芸術の﹁純粋性﹂を確保しようとした。
リア﹂と名付けた。カエターノは当初乗り気ではなかったが、結局 ︵ ︶ 邦訳は筆者による。以下の外国語文献も同様。
7
このタイトルが正式なものとなり、後のトロピカリズモの由来とも ︵ ︶ 文化的なハイブリディティー︵異種混淆性︶は、一般に︿食人の思
8
︶。しかし、オイチシカ自身は早
なった︵カラード 2006, pp. 156-157 想﹀と親和的であるとみなされている︵バーク ︶。ラ
2012, pp. 44-45
くも一九六九年の時点で、通俗化したトロピカリズモに対して批判 テンアメリカは、その歴史的な経緯からそうした観点にもとづいて
的な態度をとっている。﹁そして現在、私たちはなにを見ているか。 大いに論じられてきた︵一例として、ジルベルト・フレイレ﹃大邸
ブルジョア、亜知識人、あらゆる類いの白痴、これらが﹁トロピカ 宅と奴隷小屋﹄における混血主義をあげることができる︶。︽トロピ
リズモ﹂を伝導している、︿トロピカリア﹀を︵それは流行となっ カリア︾に対しても、ファヴェーラとモダニズム建築との混淆が指
てしまった!︶││つまり、彼らが見極めることのできない、なに ︶。しかし、本作をこうした概念
摘されている︵ Bastos 2006, p. 108
か消費の対象へと変容したということである﹂
︵ Oiticica 1969, p. によって扱うことは、文化の受容における摩擦や抵抗を低く見積も
︶。
230 り、本論文で問題とする﹁侵襲﹂や、欧米の美術との緊張を覆い隠
︵ ︶ アンドラーヂ﹁食人宣言﹂についての基礎的な分析を、筆者はすで してしまいかねない。本論文が注目するのは混淆にともなう破壊の
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に以下でおこなっている。﹁オズワルド・ヂ・アンドラーヂ﹁食人 契機なのである。
宣言﹂における芸術思想について﹂表象文化論学会・第十一回研究 ︵ ︶﹁馬面﹂は、オイチシカと親交のあった強盗。一九六四年に警官に
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発表集会、青山学院大学、口頭発表、二〇一六年十月。また、査読 射殺された彼を偲び、オイチシカは遺体のイメージに﹁周縁たれ、
において日本での先行研究として、次の文献を提案いただいた。都 英雄たれ﹂という言葉を添えた旗を制作した。
留ドゥヴォー恵美里﹃日系ブラジル人芸術と︿食人﹀の思想 創造 ︵ ︶﹁目録﹂とは、アーカイヴのことであり、博物学が暗示されている
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と考えられる。ほかにも断章︵九︶では、ブラジルの人々が﹁古い 両者はともに﹁他者=敵﹂の存在に依拠し、そこから芸術表現を引
植物の収集品﹂さえもっていなかったと述べられている。くわえて、 き出しているという点で同様である。果たして二〇世紀の芸術家に
この断章の末尾にある﹁輸血﹂からは、アンドラーヂがこの宣言で 対してインディオに特有とされる思考様式をあてはめられるのか、
構築する︿食人の思想﹀が、身体のイメージをともなったものであ さらなる分析が必要となるだろうが、実際の食人行為と近代の芸術
ることを指摘することができる。
﹁食人宣言﹂における身体イメー 運 動 を そ の 存 在 論 に よ っ て 架 橋 す る 議 論 は 検 討 に 値 す る。 Renato
ジの喚起について、筆者はすでに分析をおこなった。注 を参照。 ︵ Re
Sztutman, “The ︶ turn of the Anthropophagites: Reconnecting
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アンドラーヂにとって、﹁テレビジョンの装置﹂はいまだ到来して ︵ ︶における食人種
Pirates of the Caribbean: Dead Man’s Chest, 2006
いない未来の機械であった。くわえて、
﹁食人宣言﹂における機械 の表象をめぐる記述を参照せよ。映画に登場するカリブの食人族を
技術への態度は両義的なものである。断章︵十二︶において、彼は、 演じるにあたり、役者が実際に現地の住民であることが重視された
ドイツの哲学者ヘルマン・カイザーリンクの用語を流用し、自分た のに対して、主人公の海賊ジャック・スパロウをジョニー・デップ
ちを﹁技術的な野蛮人﹂と規定する。ブラジル文学者レスリー・バ が演じることには白人男性である以上の必然性がないことが指摘さ
リ ー に よ る 注 釈 に よ れ ば、 西 洋 近 代 の 知 を 批 判 す る 一 方 で ア ン ド れている。
︵文化人類学会編 ︶
2009, pp. 232-233
ラーヂは、﹁原始的な人間が近代化の成果を享受する﹂ユートピア
を夢想しているのである︵ Andrade 1991, p. ︶。
45 参考文献
︵ ︶ 筆者が、ピッツバーグのカーネギー美術館でのオイチシカの回顧展
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にて本作を実見した際、テレビはスノー・ノイズを映していた。 ︶
﹁社会科学をブラジル化する﹂
今福龍太︵ 1988 、港千尋他﹃ブラジル宣言﹄
︵ ︶ こうしたテレビジョンの表象は、ブラジルの文化・芸術においてオ 弘文堂、 221-249 頁。
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イチシカのみに見られるものではない。カルロス・ヂエギスによる ヴ ィ ヴ ェ イ ロ ス・ デ・ カ ス ト ロ、 エ ド ゥ ア ル ド︵ ︶﹃インディオの気
2015
映 画 作 品﹃ バ イ バ イ ・ ブ ラ ジ ル ﹄ ︶では、ブ
︵ Bye Bye Brasil, 1979 まぐれな魂﹄近藤宏、里見龍樹訳、水声社。
ラジル各地を旅するサーカス一座が描かれる。劇中、立ち寄った田 カラード、カルロス︵ ︶
﹃トロピカリア ブラジルに沸き起こった革命
2006
舎の村で皆が公会堂の小さなテレビで映されるメロドラマに夢中に 的音楽の軌跡﹄前田和子訳、プラチナパブリッシング。
なって自分たちの芸に興味を示さず、一行が呆然とする場面がある。 都 留 ド ゥ ヴ ォ ー 恵 美 里︵︶﹃ 日 系 ブ ラ ジ ル 人 芸 術 と︿ 食 人 ﹀ の 思 想
2017
ここでのテレビは、外来の文化によってブラジルの土着性を汚染し、 創造と共生の軌跡を追う﹄三元社。
︶。
人々を堕落させるものとして扱われている︵今福 1988, pp. 237-239 バーク、ピーター︵ ︶﹃文化のハイブリディティ﹄河野真太郎訳、法政
2012
︵ ︶ ブラジルの人類学者ヘナート・シュトゥッチマンは、ヴィヴェイロ 大学出版局。
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3
︵ ︶ , Frankfur t am Main, Museum für Moder ne Kunst
exh. cat. 事業︶を受けている。
Frankfurt am Main, 2014, pp. 179-215.
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図 1 《空間レリーフ(赤)》、1959 年
図 3 《トロピカリア》展示風景
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図 4 《トロピカリア》内のテレビ