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主の平和を祈ります。

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同じ時間にそれぞれの場で共に礼拝を守り、祈りを一つにいたしましょう。

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2020 年 5 月 3 日 厚木教会
使徒言行録 1 章 3 節から 11 節
「今居るところ、置かれた場所」
久保親哉

非常事態宣言が出されてから、今日で 26 日目となりました。このような礼拝を始めてから 4 回
目の礼拝となります。長期戦の様相となってまいりました。こうなってくると、実生活や仕事の面
でも「こんなはずでは無かった」という方も多いのではないでしょうか。皆様の上に主の計らいが
ありますように祈っています。・・・なかなか、思いどおりにならない。この様にしたいと思って
いたのに、全く違うことが起こる。思ってもみなかった事をすることになる、思いもよらなかった
所に置かれている。そのような事が私たちの人生には起こります。今正に、その渦中にある方もい
らっしゃるでしょう。
今日の聖書には、そのような思っても見なかったことが起こってしまう。思いもよらない所に置
かれてしまう・・・そんな事が記されてあるんですね。しかし、今日の聖書を一見しても、それが
ちょっと分かりにくいかもしれません。・・・実はこのことは今日の聖書の「使徒言行録」という
名前に隠されているのですね。今日から「使徒言行録」を読み進めて行きたいと思います。この使
徒言行録には、復活した主イエスと出会った弟子たちが使徒となって「主イエスが命を与えてくれ
る、生きる希望を与えてくれる」ということを世界の人々に述べ伝え、教会が作られていく様子が
記されています。簡単にいうと、イエスの生涯が記されている福音書の続きの部分となるでしょう
か。でも私はこの「使徒言行録」で、とても気になる点があるのではね。それはこの「使徒」とい
う言葉です。教会に馴染みのある人なら「使徒」は、聞いたことがあると思うのですね。例えば「十
二使徒」とか良く聞きますよね。イエスの弟子が使徒となったのですが、それでは弟子はいつから
使徒となったのでしょうか?・・・実はこの使徒言行録では、初めから「使徒」となっているので
す。6 節の最初には「さて、使徒たちは集まって」と記されてあります。一方、イエスの生涯が記

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されてある福音書には、最後まで「弟子」と記されてありました。ですから弟子たちは、使徒言行
録から突然「使徒」となったのです。そもそも、今日の聖書の名前も「弟子言行録」ではなく「使
徒言行録」です。なぜ、弟子ではなく使徒となったのでしょうか。なぜ「弟子」のままじゃダメだ
ったのでしょうか。・・・私はこれは大切なことだと思っています。なぜなら、これが「私たちが
思いもしなかった所に置かれてしまう」ということに関わってくるからです。

少し「弟子」と「使徒」という言葉について考えてみましょう。弟子には必ず先生がいます。
彼らはイエスを先生とするからこそ、弟子なのですね。ですから弟子とは「教えてもらう者」です。
では「使徒」は、どの様な意味でしょうか。聖書のもともとの言葉で「使徒」とは「遣わされた者」
という意味があります。その遣わす人がイエスでありますから、イエスに「遣わされた者」を「使
徒」と言うのです。ですから「弟子」から「使徒」に変わったということは、「教えてもらう者」
から「遣わされる者」になったということなのですね。そんな「使徒」なのですが、遣わされるの
ですから、自分の意に反してどこかへ行かなければなりません。自分の自由にしていたら「遣わさ
れた」ことにはならないからです。
私は、この「遣わされた者」を思う時、私たち一人一人も「遣わされた者」であると思うのです。
それはもちろん「宗教的な使命を持って遣わされている」ということばかりではないでしょう。そ
れでも私たちが、今ここにあるということが、既に遣わされた者であると思うのです。そして私た
ちが、今、立っているその場が遣わされた所です。この家庭、この職場、この出来事、この時間、
その経験・・・望むも望まざるとにかかわらず、そこは遣わされた場所なのです。今日の聖書は、
その「遣わされる」 「そこに置かれる」ことについて記されているのです。それでは、今日の聖書、
使徒言行録 1 章の 3 節から 8 節を読んでみましょう。

「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、
四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、
こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさ
い。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからであ
る。」さて、使徒たちは集まって、
「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この
時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。
「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、
あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そ
して、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたし
の証人となる。」

ここでイエスは使徒たちに対して「父なる神から約束されたものを待ちなさい」「聖霊を待ちな
さい」と言います。この聖霊という言葉を聞くと妖精とか幽霊のようなものに思われるかもしれま
せん。それは誤解です。聖霊とは神の霊という意味です。私は聖霊とは、人を導く力、人を生かす
力と考えています。聖霊がなければ人はイエスを信じることができないし、そもそも人が生きるこ
ともできない。そんな生きる力の源、それが聖霊であると理解しています。その聖霊を待ちなさい
とイエスは言っているのです。これからを生きるために、生きる力を得るために聖霊を待ちなさい
と。しかし、使徒たちは、ここでもイエスを誤解してます。「ここでも」と言ったのは、この使徒
たちは、弟子であった時からずーっとイエスを誤解し続けてきたからです。それは復活したイエス

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を見た時でさえ、誤解したままでありました。それは 6 節の使徒たちの言葉から分かります。6 節
「さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時
ですか」と尋ねた。」この当時、イスラエルは、ローマ帝国に支配されていました。そのために人々
は極端に貧しい生活を強いられていたのです。使徒たちは、いつかこのローマ帝国からイスラエル
を力で解放してくれる救い主が現れる。イエスがローマ帝国を力で蹴散らすような解放者あるい
は、蹴散らす力を与えてくれる方に違いない、そのように思っていたのです。・・・しかし、イエ
スはそうではなかったのです。イエスは「そのような力ではない」と言うのですね。使徒たちにこ
のように言います。8 節を読んでみましょう。 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を
受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るま
で、わたしの証人となる。」・・・この 8 節は、日本語の聖書では「あなたがたは」から始まります
が、聖書のもともとの言葉では、この前に「むしろ」という言葉があるのです。日本語の聖書では、
この言葉は省略していますが、私はこの「むしろ」という言葉がとても大切であると思っています。
なぜなら、この「そうではなく、むしろ」が 8 節の前にきて、イエスの伝えたいことが強調される
ことになるからです。使徒たちは「今こそ、ローマ帝国を力で蹴散らし、国を立て直しましょう。
そのような蹴散らすことのできる力を与えてください」とイエスに言った。するとイエスは「その
ような力ではなく、むしろ、あなたがたに聖霊が降り、力を受ける。そして、地の果てに至まで、
私の証人となる」と言うのです。「人を蹴散らす力ではなく、むしろ、人を生かす力を受ける。人
が生きるための力を受ける。そして、あなたは地の果てまで、それを伝えて行きなさい。そのため
に私はあなたを遣わす」「そのためにあなたをそこに置く」とイエスは言ったのです。

更にイエスは使徒たちが「私の証人となる」と言います。では「イエスの証人」とは、何なのでし
ょうか?・・・この証人という言葉には「実際に見聞きした者」という意味があります。ですから
「イエスを実際に見聞きした者」とは、イエスと出会った者という意味になります。しかし今、こ
の時代に実際のイエスを見て、その声を聞いた者は、おそらくいませんね。ここで言っているのは、
物理的にイエスの声を聞いたとか、姿を見たということではありません。ここでいうイエスの証人
とは、イエスによって生きる力を与えられた、命を与えられたという実感なんだと思うのです。そ
れは宗教的な使命ということではなく、もっと素朴で明確な、生かされているという力強い実感な
のだと思っています。

ここまでのところで、確かに、ここに遣わされているということは分かった。一人一人に生きる
力が与えられ、人を生かすための力が与えられているということもわかった。・・・しかし、その
上で私は言いたい。それでも現実は厳しい。主よ、なぜ私は今、ここなのですか?なぜ私は今、こ
の状況に置かれなければならないのですか?という思いもあるのではないでしょうか。人は弱い
し、現実は厳しい。思い通りにならないことばかりだ。・・・でも、だからこそイエスはいうので
す「そう、思い通りにはならないから、むしろ、そのあなたが私の証人だ」と。「思い通りになら
ない人生を生きているあなたこそ、私の証人だ」とイエスは言うのです。そして「そこにこそ、生
きる力が与えられる」と。「聖霊が降る」とイエスは言っているのです。

以前、聖書日課を読んでいて、このような記事に出会いましたので紹介いたします。
「春の大掃除をしている時、偶然ほこりまみれのカバンを見つけました。その中には高校を卒業し

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たころの古い手紙やカード、写真が入っていたのでした。人生は必ずしも私に対して優しくありま
せんでしたが、多くの方法で神様は私を祝福してくださいました。それでも、私の人生が明るい未
来と可能性でいっぱいだった頃のこれらの思い出を見た時、私の人生は失敗で、月並みだったと思
い、後悔で胸が痛みました。私は物事がまだ単純で安全に思えた若い頃に戻りたいと切に思いまし
た。私の誤った判断を変えることができたら、あの辛い結果を覆すことができたかもしれないと私
は思いました。実際には、その頃の人生はそれほど容易なものではありませんでした。これらの辛
い年月を経て、私は大人になりました。そして神が私に知恵を授けてくださり、私を信仰の人に築
き上げてくださったのです。ゴールは私たちの目の前にはありません。私たちには、さまざまな人
生がありますが、後悔する人生では決してないでしょう。」このように記されてありました。

私たちの人生において、それぞれの場に、主なる神は私たちを遣わしました。そして今、そこに
私たちは既に証人として存在している。それは、単なる偶然ではありません。私たちの人生が思い
通りにならなくても、この場が不本意であったとしても、主なる神が私たちをそこに遣わしたので
す。ただ遣わしたのではありません。そこには聖霊が降る、命が、生きる力が注がれるのです。そ
れは人を蹴散らす力ではありません。その場を生きるために、その時を今を生きるために、力を与
えてくださるのです。

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