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文 観 房 弘 真 と 文 殊 信 仰

田 村 隆 照
の忠 臣 の顕 彰 が大 々的 に行 われ た中 にあ つて、 さ ほど でも な

く む し ろ書 に よ つて は破 戒 無 悪 の妖 僧 と し て こ れを 特 筆 大 書
歴史 が ﹁現 在 の時 間 の パ ー ス ペク テ ィヴ であ る﹂ (シ ュプ し た の であ る。
ランゲ ル) 以 上、 歴 史 家 の 一種 の主 観 か ら ま ぬが れ る こと は そ れ は 何故 であ つた か? 既 に 二 ・三 の先 学 (後述)が 研究

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で き な い。 と く に特 定 人物 の評 価 に こ の傾 向 は強 いよ う であ さ れ、 指 摘 さ れ て いる 通 り、 律 宗 の 出身 であ り な が ら 内供 奉
る。 に任 ぜ ら れ、 あ る いは 醍 醐 座 主 ・天 王 寺 別 当 に補 せ ら れ、 の
こ こに 紹 介 す る 鎌 倉末 期 から 南 北朝 時 代 に かけ て生 存 し 活 ち 東 寺 長 者 と し て真 言 法 務 の最 高 位 に な つた こと や、 徹 頭 徹
躍 し た 僧文 観房 弘 真も、 あ る事 情 の た め に い たず ら に殼 り 多 尾 大 覚 寺 統 のた め に忠 誠 を 尽 し た た め、 そ の反 対 の立 場 か ら
く誉 れ 少 な い 人 物 と し て伝 え ら れ、 客 観 的 な そ し て 正当 な評 そね ま れ 或 いは 憎 ま れ、 そ れ を 背 景 と し た 誹 諺 の中 に 邪 教 立
価 を う け る こと な く、 歴 史 の渦 の中 に巻 き こま れ て い た 一人 川 流 の大 成 者 と いう 決 定 的 と も いえ る 烙 印 を 押 さ れ た た め と
であ る。 いえ よ う。
後 醍 醐 天 皇 の護 持 僧 と し て、 あ る 意 味 では 最 も 南 朝 のた め 即 ち 醍 醐 憲 淳 の法 資 隆 勝 ・道 順 にか ら む 法 流 の問 題、 や が
に尽 し た と 思 わ れ る 文 観 の名 が、 楠 正 成 を は じ め と す る 南 朝 て起 き る 三宝 院 賢 俊 と の報 恩 流 と し て の対 立、 それ ら はさ ら
文 観 房 弘 真 と 文殊 信 仰
密 教 文 化
に持 明 院 統 と大 覚 寺 統 の対 立 に つな が るも の であ り、 又 長 者 クシ ク ニ
施士卒随従之者千余人女子之華靡 尽レ数往二干天王寺 一兵具雄
リ ヲ ニシ ヲ フ ヲ ノ ト
・座 主 職 を め ぐ る 高 野 山 大 衆 と の争 いが、 死 後 では あ る が 教 旗 飾 二金銀 一賛 輿 車 乗 撮 二
鉾刀 一
携 二侍 婦命 婦 一錐 二京 都 諸 門跡 尸
ン ヲ シテ ツグミ ヲ シ
学 の粛 清 を め ざ し た 宥 快 の批 判 を よ ん だ と も いえ よ う。 著 書 怖二畏 一朝権勢 一称 二天子之婿 一
喋レロ亡二
奏接之仁 一
と記した上
を 焼 却 し た東 寺 呆 宝 の立 場 も 又同 様 であ る。 に其 の婦妾を置く地を いま命婦町と いい、真観文観 の孫が絶
えないなどと書 いている。
宥 快 の著 ﹃宝 鏡 紗 ﹄ にお け る文 観 の記 事 を 更 に面 白 お か し
く興 味 本 位 に扱 か つた ﹃太 平 記﹄ こ れ に 一層 の誇 張 を 加 え女 も つと も、 わ ず か では あ る が 中 庸 を 得 て いる ﹁東 寺 長 者 補
性 ま で登 場 せ し め て文 観 を 中 傷 的 に 記 述 し た 祐 宝 の ﹃伝 灯 広 任 ﹂ や ﹁醍 醐 寺座 主 次第 ﹂ が な い でも な い。 即 ち醍 醐 寺 座 主
録 ﹄ な ど、 そ れ ら が 信 じ ら れ 読 ま れ た 長 い年 月 の間 に 偏 つた
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(
)
次第 に
文 観 観 が 形 成 さ れ た も の であ ろ う。 本 者 西 大 寺 律 僧 ナリ 文 観 房 上 人号 云 観 音 文 殊 積 功 経 二歳月 輔
こ の間 文 観 関 係 の多 く の聖 教類 は 焼 か れ、 そ のほ と んど の 法 顕 無 双之 仁 也 ー 中 略 ー 祖 師 再 生 ヵ

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資 料 を 焼 滅 し た ため に、 高 僧 と し て の位 置 づけ は勿 論 南 朝 へ と ま で記 し て いる。 こ のよ う に 法 顕 無 双 と 称 せ ら れ 祖 師 の再
の功 績 す ら 邪 教 立川 流 の中 に 埋没 し てし ま つたも のと 思 われ 生 か と ま で い わ れ な がら、 依 然 と し て 伝灯 広 録 的 な評 価 のも
る。 と に 推 移 し て い た の であ る。 宗 内 で故 水 原 尭 栄 僧 正 が ﹁邪 教
2
()
註(1)伝灯広録 (金剛頂無上正宗伝灯広録)巻下 立 川 流 の研 究 ﹂ で文 観 に対 し て 同 情 的 見 方 を され た のが、
東寺百十 五代長者醍醐山六十四世座主天王寺別当大僧正弘真 大 正 十 二年 であ り、 よ う やく 建 武 中 興 六 百 年祭 が 行 わ れ た
伝に天 王寺別当真慶 の邪 正混雑 の印信書籍を写し取り、伊豆
昭 和 七 ・八 年 頃 よ り 日本 史 に 論 文 が 散 見 さ れ る よ う に な つ
配流 の仁寛 の秘契印訣 をはじめ、多くの典籍をあ つめ、自撰
のも のを加え て集成したと記し ている。後 醍醐天皇 の信任を た。 つづ い て守 山 聖 真 僧 正 が ﹁文 観 上 人之 研 究 ﹂ (昭和十 三年
良 いことに傍若無人 の振舞 い多か つた ことを列挙し ている。 刊) 松 高 勇 英 師 が ﹁文 観 僧 正 之 研 究 ﹂ (未刊本) な ど によ つ
セラ シ ニ ヲ シテ フ む む ヲ リ
叙 二東 寺 百十 五世 長 者 大 僧 正 一
修二鳳閾後七 日一
賞 賜 一侍 婿 一泊 レ て、 立 川 流 の大 成 者 と いう べき でな い点 を 明 ら か に され はじ
め た の であ る。 し か し わ ず か な が ら 残 さ れ て いる文 観 上 人 の 密、横入の文観が天皇 の恩愛を受け て栄華 の極にあ るのをそ
ねみ、邪書分布 に名をかり て高野衆徒 の強訴が行われ たとし
著 述 か ら、 文 観 が 浅 略 な 解 釈 を し た ため で あ る と い う 評 価
て、内容は針小棒大 であり英俊の 一偉才文観 のために冤を そ
と、 南 朝 のた め に それ を 利 用 し た の で あ る から と いう 理 由
そぎた い。という意味を述 べられている。又九四頁で文観 の
で、 そ の功 罪 を 相 殺 し よ う と す る 傾 向 は 依 然 残 さ れ てお り、 理趣経秘註を読んでの結語として ﹃理趣経たる正宗は始 めて
立 川 流 と 完 全 に切 離 し た と ころ で、 文 観 が 論 じ ら れ る こと は この人 によ って処 を得 たも のと の快哉を禁じ得な いものたる
ことを力説し て置きたい﹄とも記されている。
未 だ な か つた の であ る。
今 こ こで、 焼 棄 を 免 れ て 現在 に 伝 えら れ る 上 人 の 著述 を本
書 名 を あ げ て恐 縮 であ る が、 最 も 新 し い研 究 書 であ る 守 山
格 的 に 研究 し た こと も な い浅 学 の身 で、 立 川 流 と文 観 の接 点
聖 真 僧 正 の大 著 ﹁立 川 邪 教 と そ の社 会 的 背 景 の研 究 ﹂ を 最 近
閲 覧 さ せ て戴 いた。 こ の本 は 凡 そ 半 分 に及 ぶ 頁 数 が 文 観 上 人 が ど のよ う な も ので あ る か、 又 上 人 の位 置 が ど のよ う な 意 味
の伝 に費 やさ れ てお り、 む し ろ 文 観 と 立 川 流 の関 係 は 著 者 自 を も つも の であ る か を 明 確 に す る こと は 不 可 能 であ る し、 そ
身 のご 意 志 と は 別 に、 残 念 乍 ら あ た か も 不 二 一体 の関 係 にあ れ を試 み よう と す るも の でも な い。 唯、 私 は 数 年 前 文 観 上 人

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る ご と き 体 裁 が と ら れ て いる。 お そら く 文 観 と 立 川 流 は 慎 重 が 文 殊 の 日課 (毎日の画行)を 残 し て いる こと を 知 り、 そ の
な 研 究 が 進 め ば 進 む ほど 離 れ て 行 く 筈 で あ る と 思 わ れ る の 信 と 行 と に徹 し た あ り 方 に 深 く 感 銘 を お ぼ え た も の であ る。
に、 依 然 と し て同 一書 の中 で結 び つき を 再 確 認 す る 形 で後 世 又 それ に関 連 す る 文 殊 信 仰 の具 体 的 な 資 料 が 宗 学 面 に殆 ん ど
に伝 え ら れ る こと にな つた の は、 文 観 研 究 に打 込 ま れ た 著 者 知 ら れ て いな い事 実 を 知 る に及 ん で、 これ を ご 紹 介 す る こと
ご 自 身 と し ても 不 本 意 な こと で はな いか と 考 え ら れ る。 によ つて、 些 か でも 知 ら れ ざ る 従 来 の文 観 上 人 の 一面 を 認 識
註(2) ﹁邪教立川流 の研究﹂七九頁立川流 の大成者文 観の項 で 一応 し て戴 く 一助 にな れ ば と いう のが 発 表 の動 機 であ つた。
﹁宝鏡紗 ﹂の記述を援用されて ﹃かくまでに俗耳 の信仰を鏡
前 述 の 守 山僧 正 の 大 著 に 文 殊 関 係 の資 料 を あ げ ら れ た の
め、発展をなし得るに至 つた。いわば立川流 の大成者は誰れ
かという に文観 こと弘真その人である。﹄ と いい乍 ら 従顕入 で、 一部 は既 に知 ら れ て いる も のも あ る が、 改 め て上 人 の文
文観 房 弘 真 と 文 殊 信 仰
密 教 文 化
殊 信 仰 の周 辺 を さ ぐ る こと に よ つ て、 そ れ が 並 々な ら ぬも の 的 ・伝 記 的 記 述 は あ る も の の、 荒 唐 無 稽 のも の で は な く、 最
であ つた こと を、 資 料 の紹 介 を か ね てま と め た も の であ る。 も 信 を お き う る も の で あ る こと を 知 つた ので あ る。
こ こ で改 め て、 高 野 衆 徒 の 強 訴 によ り 甲 州 に 流 さ れ た と
既 に ふれ た文 観 上 人 を 意 識 的 にま げ て説 い たグ ル ープ の書 か、 そ こ で立 川 流 の疏 を 著 わ し た と か、 或 いは 吉 野 の辺 り に
の集 成 とも いう べき ﹃伝 灯 広 録 ﹄ に は さ す ら い終 つた と いう 伝 灯 広 録 や 高 野 春 秋 の記 述 が、 こと 文
大 僧 正弘 真 字 文 観 不 レ識 二姓 氏 郷 国 一 観 に関 し ては き わ め て誤 り が 多 い こと を 想 起 す る の であ る。
本 台 徒 在 二播 州 法 華 山 中 一 それ は根 本 資 料 と し て宝 鏡 紗 が 選 ば れ、 それ によ り 選 述 さ れ
と述 べ、又 高 野山 衆 徒 弾 該 文 に は 伝 え ら れ た 文 観 上 人伝 が 如 何 に 多 か つた か と いう こと であ
前 略- 本 置 西 大 寺 未 寺 播 磨 国 北 条 寺 之 律 僧 也 兼 学 二算 道 一 り、 又 戦 記 も の であ る太 平 記 の影 響 が いか に強 か つた か を 思
(4)
好 ニト 笠 一
専 習 二呪 術 一立二修 験 一
貧 欲 心 切僑 慢 思甚- 下 略- いし ら さ れ る の であ る。 現 代 流 に いう な ら ば、 附 和 雷 同 の人

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と あ る。 ここ に は姓 氏郷 国 は不 詳 で、 所 縁 の宗 旨 寺 名 とし て 心 に う つた え た マス コミに よ る偏 向 的 な イ メ ージ の構 成 であ
播 州 法 華 山、 西大 寺 末 北条 寺、 台 徒、 律 僧 と いう こ と が述 べ つた と いえ よう か。
ら れ て いる に す ぎ な い。 これ に 対 し て 唯 一の文 観 側 の資料 と 註(3) 喩伽伝灯妙 L十巻現在大谷大学図書館 に長浜別院寄托本と
し て保管されている のは、大 通寺蔵書印がおされ ている写本
も いう べき 奈良 吉 野 現 光 寺 時 代 の弟 子 宝 運 が書 き 残 し た ﹃喩
である。宝蓮 大徳御自筆本を以 つて写したも ので、後 に良専
伽 伝 灯 紗 ﹄ の記 述 が あ る。
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(
)
に伝え次に遠聡大徳 に伝えたと いう意味が明瞭 でな いし、文
既 に 早 く 富 田 籔 純 僧 正 (秘 密 辞 林) 松 高 勇 英 師 (文 観 僧 正 中享禄四年 云 々とあ るが、内容 的には宝蓮自筆と同 一のも の
と考え て良 いであろう。最後 のと ころに
之 研 究) に よ つて注 目 さ れ、 引 用 さ れ た 資 料 であ る が、 何 故
己上伝法灌頂授与之作法奉 為門主小野宮 益仁記之干時正平廿
か 二級 資 料 に と ど ま つ て いた か のよ う な 印 象 を う け る。 し か
年歳次乙己於摂州住吉荘厳浄土寺 ⋮⋮中 略⋮⋮金剛資宝 蓮在
し、 これ に 登 場 す る 人 名 な ど の考 究 の結 果、 高 僧 特 有 の超 越 御 判とあ るから、師僧文観 の没後七年 目に選述した ことが知
られる。 の国 の比 丘 と し て そ の名 を 連 ね て いる 人 であ る。 又 弘 安 八 年
第九巻に真言秘教鉄塔相承事血脈次第として第 八伝法祖空海 叡 尊 八 十 五 才 の時、 法 華 山 の僧 徒 が 三年 間 に七 回 に及 ぶ 殺 生
から真雅、源仁、聖宝、観賢、淳祐と相承した、小 野の三宝
禁 断 の 起 請 文 を 出 し た の に 応 え て、 七 月 廿 八 日 一乗 寺 に 到
院流 の遍智院 ・報恩院 の法流をたど つて第 二十九伝法祖法務
大僧正弘真第三十伝法祖宝蓮に終 つている。宝蓮の項 は写本 着、 光 日梵 網 経 開 講 には じ ま り、 曼 供 大 法 会、 授 戒 な ど を 行
では空白 でのこしてあり、 その 詳細を 知る ことが でき ない つた こと が 知 ら れ て いる。 (
金剛仏子叡尊感 身学正記下)
が、醍醐寺などで調査がすすめられるならば明らかになる可
出 家 の のち 大 聖 文 殊 菩 薩 に南 都 遊 学 を 祈 誓 し 霊 夢 の告 げ に
能性 があろう。文観の付法 二百余人の名 が列記し てあるが、
宝蓮 の名 は百七拾番目く らいにある。 よ り、 そ の志 を 逐 げ て いる が、 文 観 と 西 大 寺 と の つな が り は
註(4)小説として書かれた井上吉次郎氏 ﹁文観上人﹂も よみものと 慶 尊 律 師 を 介 し て はじ め て可 能 であ つた の であ る。 慶 尊 律 師
し て当然であろうが大平記系 である。
に 従 つ て得 度 し た 正 応 三 年 (一二九〇) は 叡 尊 が 没 し た 年 で
さ て文 観 上 人 の 文 殊 信 仰 を 辿 る前 に、 ﹁喩 伽伝 灯 紗 ﹂ に よ あ る。 思 円 上 人 叡 尊 は 人 も 知 る 如 く 西 大 寺 中 興 の 傑 僧 であ

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つて そ の出 自 に ふれ てお く こと にし よ う。 り、 有徳 の 僧 で あ つた。 文 殊 信 仰 深 く般 若 寺 に 丈六 白 檀文 殊
弘 安 元 年 正月 十 一日左 大 臣 雅 信 公 十 三代 の後 胤 大 野 源 大 夫 像 を 善 慶 ・善 春 を し て造 立 せ し め 胎 内 に 大 般 若 経六 百巻 ・心
重 真 の孫 とし て、 播 州 に誕 生 し た こと を 記し て い る ﹁楡 伽 伝 経 千 巻 ・文 殊 真 言 一万 辺 ・五 字 文 殊 像 ・八 字 文 殊 像 ・金 剛
灯 紗 ﹂ が、 不 識 姓 氏 郷 国 の ﹁伝 灯 広 録 ﹂ よ り 詳 細 であ り、 信 界、 胎 蔵 界 両 部 曼 茶 羅 な ど を 納 入 し た と いわ れ る。 ま た 近 く
頼 し 得 る のは 当 然 であ ろ う。 如 意 輪 ・白 衣 の 二尊 に祈 念 し て の北 山 に非 人 小 屋 を 建 て て貧 者 に宿 を 与 え た が、 そ う し た 建
母 受 胎 し た と あ り、十 三才 播 州 法 華 山 の貫 主 厳 智 律 師 に入 室、 物 にも 文 殊 像 を 安 置 す る な ど、 き わ め て文 殊 の信 仰 篤 く 九 十.
重 ね て 慶 尊 律 師 に従 い 出 家 得 度 を し て い る。 こ の慶 尊 律 師 余 才 の天 寿 を 全 う し た の であ る。 そ の寂 年 と 文 観 の得 度 が 同
は、 現 在 西 大 寺 に あ る 興 正 菩 薩 叡 尊 像 の中 に 納 入 さ れ て い る 年 であ つた こと は偶 然 と は いえ、 文 殊 信 仰 篤 か,
つた 両 者 の目
弘 安 三年 記 の菩 薩 戒 を う け た 三 八 九 入 の 弟 子 名 の中 に、 播 磨 に見 え な い糸 の よう な も のを 感 じ る の であ る。
文観 房 弘 真 と 文殊 信 仰
密 教 文 化
喩 伽伝 灯 紗 で は南 都 に 入り 法 相を 習学 す る と同 時 に慈 真 和
尚 に 依 つて律 を 学 ん だ こと を 述 べ て いる。 慈 真 と いう のは 勅
誰 で信 空、 字 は慈 道 と い い、 叡 尊 の室 に 入 り、 先 の文 殊像 安
置 の般 若 寺 や 大 御 輪 寺 に 住 し、 のち 師 叡 尊 の 没 後 あ と を つぎ

西大寺文殊菩薩胎内納入(国 立奈良文化財研究所写真)
西大 寺 長 老 を 務 め た 人 であ る。 後 宇 多 上 皇 の帰 依 も 厚 く、 六
十 余 州 の国 分 寺 を あ げ て寄 附 さ れ た り し て いる。 文 観 は叡 尊
に こ そ直 接 師 事 す る こと は でき な か つた が、 こ の中 興 第 二代
慈 真 和 尚 に つく こと が でき た の であ る。 慈 真 に従 つて般 若 寺
の文 殊 に 結 縁 し、 今 は 亡 き 興 正 菩薩 の文 殊 信 仰 を 知 る に及 ん
で、 改 め て文 殊 への崇 敬 が 強 く 若 い文 観 の心 を捉 え た こと で

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あ ろ う。 文 観 の観 音 信 仰 は 母 の 因 縁 か ら とも 思 われ、 又文 殊
信 仰 も 法 華 山 在 住 中 よ り の こと か も わ か ら な いが、 文 観 殊 音
或 いは 殊 音 文 観 と 名 の つた のは 西 大 寺 へ入 寺 し てか ら の こと
であ つた か と 思 わ れ る。 文 観 が 文 殊 観 音 の頭 字 の合 成 であ り
同 様 号 と し て 用 い た殊 音 が 下 の字 の合 成 であ る こと はよ く 知
られ ると ころ であ るが、 観 音 ・文 殊 の信 仰 の端 緒 に つい て は
明 ら か で な い。 出 生 と 南都 遊 学 に関 連 す る因 縁 の菩 薩 を自 分
の名前 と し た の で は な いか と いう こと は、 常 識 的 に 一応 考 え
ら れ る こと で は あ る が ⋮ ⋮。
十 八才 慈 真 和 尚 に勤 策 十 戒 即 ち 沙 弥 戒 を 受 け、 二十 三才 菩
薩 大 芯 葛 位 (比丘戒)を 受 け て いる 翌 二十 四 才 初 め て 真 言
宗 に 入 り 同 じ く慈 真 和尚 よ り 両部 灌 頂 を受 け、 同 年 醍醐 報 恩
院 大 僧 正 道 順 に 具 支 灌 頂 を 受 け て いる。 こ の年 は 叡 尊 の十 三

西大 寺文殊菩薩像胎 内納入曼茶羅文殊絵真言末尾 文観筆


回 忌 に あ た り、 そ の 供 養 の た め に 生前 特 別 の 信 仰 を 持 つて い
た 渡 海 文 殊 像 が 造 立 さ れ た が、 中 に は 五 髪文 殊 像 一躯 や 水 晶
・金 銅 の五 輪 塔、 叡 尊 の 真筆 等 が 入れ られ た。 そ の 渡 海文 殊
像 は 現 在 西 大 寺 に 安 置 さ れ る も ので、 昭 和 八 年 胎 内 納 入 物 が
発 見 さ れ て報 告 さ れ た が、 再 び 昭 和 三 十 年 に詳 し く 調 査 され
た。 そ の中 に 一緒 に 入 れ ら れ て いた 大 般 若 経六 百巻 (
高さ 四

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寸九分の小さ いもの)に は 小 比 丘殊 音、 芯 要 殊 音 の名 が 書 写 の
執 筆 者 名 と は別 に書 き こま れ て い て、 これ ら の経 を 転 読 し た
こと を 記 し た も の であ る。 ま た、 奉 行 の芯 蕩 三人 の僧 の願 い
によ り これ を 図 す と いう 両 界 種 字 曼 茶 羅 と 彩 色 文 殊 像 四 体 同
種 字 並 び に 同 真 言 等 を書 写 し た も の が 納 入 さ れ て いた。 文 殊
侍 者 文 観 とあ る こと が 注目 され、 又毎 日図 絵 文 殊 の字 も 見 ら
れ る と ころ か ら文 殊 図 絵 を 日課 にし て い た こと が わ か る。 し
か し 同時 に 納 入 さ れ て いた文 殊 画像 二百 五十 体 (
次頁)は、明
ら か に 日 課 で あ る が、 か な り筆 が かれ て いる こと から み て、
文 観 房 弘真 と文 殊 信 仰
密 教 文 化
の 明け 暮 れが 続
き、 徐 々 に法 験 の
西 大寺文殊胎内納入 日課文殊像

名 声 は小 野 の文 観
僧 正として漸く名
(国奈文研写真)
高 く な つた と 考 え
ら れ る。 宮 中 に召

般若寺文殊菩薩膝前銘(鹿 鳴荘写真)
さ れ て関 東 調 伏 の
修 法 を 行 つて い る
のも 元 亨 二、 三年
の頃 と いわ れ る。
7)

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文 観 の書 い たも の で は なく 西 大 寺 比 丘礪 誉 と よ め る彼 の先 輩 上 人四 十 五、 六 才
にあ た る僧 で あ つた か と 思 われ る。 こう し た周 囲 の状 況 から にあ た る。 さ き に
も文 観 が毎 日 日課 に文 殊 を 描 い て い た こと は考 え られ る の で 叡 尊 ・慈 真 によ つ
あ る。 この頃 より 醍 醐 に滞 在 し て事 相 教 相 の研 鑛 に つと め て て造 立、 整 備 さ れ
いた と 思 わ れ る が、 播 州 に 往復 し て常 楽 寺 を中 興 し た りす る て いた 般 若 寺 文 殊
約十 五 年 間 が記 録 に定 か で な い。 又兵 庫 県加 古 郡 永岡 大 野 の が この頃 既 に焼 失
石 塔 を悲 母塔 と す る 説 も あ る。 上 人 三十 九才 の 正和 五年 正月 し て い た の で、 元
西大 寺慈 道 (
慈真)が 入寂 し、 同 年 四 月醍 醐 報 恩 院 に 伝 法 灌 亨 四年 四十 七才 の
頂 を 受法 し た こと が醍 醐 新 要 録 に述 べら れ て いる。 修 法 三昧 三 月、 七条 仏 所康
見 し た た め で、 法 勝 寺 円 観 上 人 や 浄 土 寺 の忠 円 な ど と 共 に 拷
問 に処 せ ら れ て のち、 死 刑 を 免 れ 硫 黄 ケ 島 へ流 刑 と な る。 こ
般若寺文殊 菩薩像(鹿 鳴荘写真)

の間 楠 正 成 の挙 兵 金 剛 ・千 号 の戦 い、隠 岐 へのこ 遷 幸、 新 田
氏 の挙 兵 な ど あ つて のち、 建 武 の業 な り、 後 醍 醐 天 皇 還 幸、
文 観 等 も 流 刑 地 よ り 帰 京 す る。 こ の年 文 観 上 人 の母 が 没 し て
い る。
そ の 五七 日忌 に際 し て母 の小 袖 を 御 衣 絹 にし て描 いた と い
う 東 寺 の 八大 童 子、 善 財 童 子、 八 字 文 殊 像 は、 取 筆 弘 真 自 ら
のも の であ る こと を述 べ、ま た御 影 堂 に施 入 の旨 の記 に花 押
をし て いる の で有 名 であ る。 図 を み ると 八大 童 子 の表 現 が 如

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俊 (運 慶 の弟 子) 康 成 を し て 坐 高 二 尺 五寸 の 文 殊 像 を 造 立 何 にも 孝 養 の念 あ つい僧 正 自ら の心 情 を そ の顔 に托 し たか の
し、 矧 目 に墨 痕 も 鮮 や に殊 音 の墨 書 銘 を し る し 祈 願 の趣 を 書 よ う に、 暖 か い文 殊 と の 通 いが見 ら れ る よう であ る。 し か し
い て い る。 金 輪 聖 王 御 願 成 就 のた め と あ る は、 申 す ま でも な

亡母三七 日供養文殊菩薩画像
く 天 皇 親 政 を祈 つたも の で、 智慧 の顕 現 に ふさ わし い威 容 と
汚 れ な い清 純 な 童子 形 の木 彫 像 で あ る。 そ し て この木 彫 のも
と にな つた 文殊 絵 様 は、 お そ ら く 殊音 自 ら の 手 に な つた も の
であ ろ う。 そ のこ も 宮 中 にし ば し ば 伺 候 し 天 皇 に灌 頂 を 授 け
たり し て い るが、 関 東 調 伏 の法 を 修 し たと いう 理由 で鎌 倉 に
捕 えら れ た。 中 宮 御 産 の祈 り に托 し た 五壇 法 が 訴 え によ り 露
文 観 房 弘 真 と文 殊 信 仰
密 教 文 化
はじめの
図 相 の筆
は裏書に
あるよう
に、 お そ
金 剛 寺 仏舎 利施 入 状

らく文観
が と つた

観 筆
も の であ
ろ う が、


仕上げ の

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日 課
彩色は専
門絵仏師

文 殊
にま か せ
たも のか
と考えら
れ る。 し た が つて これ より も 有 名 で はな い が、 三七 日 に際 し
て 描 い た文 殊 画 像 に注 目す べきと 思 われ る。 こ こ に は醍 醐 に
蔵 し た であ ろう 多 く の 仏 画 図 像 に接 し た文 観 が、 文 殊 の 日課
の 積 み あ げ に よ つて得 た力 強 い筆 力 を 感 じ る こと が でき、 信
仰 に 裏 づ け ら れ た 秀れ た 画 僧 と し て の真 面目 を見 る思 い がす
る。 又建 武 元六 月 九 日 云 々の字 も、 金剛 寺 仏 舎 利 施 入 延元
四年 天 長 印信 の奥 書 そ の他 の字 体 と も き わめ て近 く、 強 い性
格 を あら わす 勤直 な線 の特 徴 を よく 伝 え て い る。 東 寺 一長 者
と な り 弾 該 を う け る の は、 こ の翌 年 であ るが、 そ のこ 南 朝 方
の衰 運と そ の行 動 を 共 にし、 室 生 寺、 浄 瑠 瑞 寺、 南 法 華 寺、
吉 野 金 峰 山、 吉 水 院、 金 剛 寺、 観 心 寺 な ど と つな が り を 持 ち

日課文殊並びに名号 文観筆
つ つ醍 醐 と を 往 復 す る。 御 遺 告 を 写 し て大 師 の御 加 護 に報 恩
感 謝 の情 を の べる のも この 頃 で あ る が、 この 身 辺多 忙 の戦 乱
の中 にあ つて紙 の不 自 由 を、 時 に消 息 文 の裏 を 用 い て補 い乍

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ら続 けら れ て い た の であ る。 二体 ず つ描 いて 綴 帳 と し た も
の、 半 紙 を 二折 り と し 六 体 を 折 文 書 式 に 描 いた も の、 半 紙 を
半 蔵 にし たも の、 手 紙 の裏 な ど を 用 いた も のな ど であ る。
註 (5折
)文書 は室町時代のものを初見とし、背中合 せで書 いた この
文殊はその意味 でも珍し いそうであ る。
写 真 は 延元 二年 ( 一三 三 七) 十 一月 か ら 延 元 三年 四 月 に至
るも の の 一部 の 日課 文 殊 であ る が、 種 々 の体 裁 のも のが 混 入
し て い る。 生 年六 十 才、 法 歳 三十 七才、 手 な れ た筆 は こび、
濃淡 の墨 色 の にじ み、 かす れ に そ の 日 そ の 日 の上 人 のな ま な
文 観 房 弘 真 と文 殊 信 仰
密 教 文 化
息 づ か いを 感 じ るよ う であ る。 文 殊 の図 像 と 梵 字 真 言 を 描 き 殊 は 此 れ 菩 薩 の 上 首 に し て覚 母 の 導師 なり。 本 覚 の大 日 文
乍 ら、 真 言 を 講 し、 心 に文 殊 を 念 じ つ つ、身 口意 の三 業 に欠 殊 に 従 い て宝庫 を 開 く ﹂ と 述 べて いる が、 ま さ に般 若 心 経秘
け る こと な い全 き 時 を 持 つた こと であ ろ う。 右 肘 を 強 く 横 に 鍵 に 大 師 も 説 か れ る ご と く、 文 殊 の利 剣 は 諸戯 を断 つ、覚 母
張 る上 人独 得 の特 徴 は、 当 時 の画 像 と 推 定 さ れ る 文 殊 像 にみ の 梵文 は 調 御 の 師 な り であ つた。 老 後 再 び 正式 の 長 者 と し
ら れ、 それ ら 画 像 と 文 観 の関 連 は、 推 定 では あ る が、 充 分 考 て、 後 七 日御 修 法 を 修 し ﹃東 寺 長 者 補 任 ﹄ の 筆 者 も ﹁可レ謂 二
え ら れ るよ う であ る。 老後本懐 一
哉 ﹂ と よ ろ こび を共 に 頒 つて い る。 正 平 七 年 上 人
し たが つて それ ら に様 式 的 考 察 を 加 え る な ら ば、 更 に文 観 七 十 五 才 の こと であ る。 十 六 年 前、 後 七 日御 修 法 三 日目 に し
筆 の画 像 を 加 え る こと が でき るも のと 思 わ れ る。 延 元 四 年 六 て北 嶺 に天 皇 と 共 に去 つた 日 の こと を 思 い感 無 量 の こと であ
月 如 宝 八字 文 殊 法 を 記 し た り、 後 村 上 天 皇 よ り 先 皇 の勅 約 に つた と 思 わ れ る。 徹 底 し た 文 殊 信 仰 に よ り 諸 戯 を 断 ち、 金 剛
任 せ て如 宝 八 字 文 殊 法 を 勤 任 す べき の 論 旨 を 給 わ つて、 十 二 寺 大 門 往 生 院 に 天 寿 を 全 う し た のも 所 以 あ る か な であ つた。

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月 三十 日よ り 翌 年 正 月 七 日迄 如 宝 八 字 文 殊 法 を 行 じ 奉 つて い 金 剛 寺 にお け る 弟 子 禅 恵 が 経 巻 末 に し る し た 文 観房 弘 真 入 寂
るな ど、 修 法 の本 尊 な ど も 考 え ら れ る。 興 国 二年 (一二四 一) の記 に葬 礼 は 公 方 の御 計 いに よ る と あ り、 宝 運 の ﹁喩 伽伝 灯
六 十 四 才 か ら 六三十 五 才 に か け て、 し き り に 吉 野 郡 現 光 寺 に お 紗 ﹂ と 土三に、 そ の 記 述 が 上 人 に 密 着 し た 真 説 で あ る こと を 裏
い て弟 子 宝 運 に経 法 次 第 等 を伝 授 し て いる が、 そ の中 に も 如 づ け る も のであ る。 現在 に 残 る 日課 は 限 ら れ た 三 ケ月 ば か り
宝 八 字 文 殊 法 が ふく ま れ て いる。 立 川 流 に 関 係 せ し め て、 文 のも の に過 ぎな い が、 お そら く は 西大 寺 以来 描 き続 け て そ の
観 の文 殊 信 仰 が 托 吉 尼 天 の 本 地 と し て の 信 仰 で は な い か と い 生 涯 を 終 つた に違 いあ る ま い。
う こと も 考 え ら れ る が、 西大 寺 以 来 の 信 仰 に て ら し て私 は と 結 縁 納 入、 所 を 得 た も のだ け が 私 たち の目 に ふれ る にす ぎ
ら な い。 な い が、 日課 の さ わ や か な感 銘 と は 別 に、 強 く訴 え か け る連
高 野 山 御 影堂 に納 入し た大 師 御 伝 持 宝 物 の文 殊 の項 に ﹁文 続 の画 のお も み、 これ こそ文 観 の文 殊 信 仰 と そ の 画行 の積 み
あ げ が信 と 行 を 私 たち に迫 る力 であ ろう。
以上は高野山におけ る第 二回全真言宗教学大会で発表 したも の
に、註を加えたもので、論文とし ては内容的 にみ て不充 分なと こ
ろも多 いが、上人の文殊 日課 の画行をとおし て感じ て戴け るも の
があれば幸いであ る。
なお発表 当日貴重な資料を快 よく貸与し、種 々ご示教を戴 いた
唐招提寺森本孝順長老並びに西大寺文殊胎内納 入物 に関する資料
についてご配慮戴 いた国 立奈良文化 財研究所技官長谷川誠氏、真 ・
言宗本山会坂井栄信僧正、大谷大学図書館 のご好意 に対し深く感
謝を捧げるものであ る。
(筆者 京都美大講師 ・高野山大学非常勤講師)

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文観房弘真と文殊信仰

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