インドシナ

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Title ヴィシー期・フランスの帝国的結合政策とインドシナの「復権」

Sub Title La politique d'union de l'empire colonial français et "la réhabilitation" de


l'Indochine sous le régime de Vichy
Author 難波, ちづる(Nanba, Chizuru)
Publisher 慶應義塾経済学会
Publication year 2000
Jtitle 三田学会雑誌 (Keio journal of
economics). Vol.93, No.2 (2000. 7) ,p.415(127)- 435(147)
Abstract
Notes 論説
Genre Journal Article
URL http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN0023
4610-20000701-0127

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三田学会雑誌」93卷 2 号 (
「 2000年 7 月)

ヴ ィ シ ー 期 • フランスの帝国的結合政策と
インドシナの「 復権 」 *

難波ちづる

は じ め に

フランスがドイツ占領下におかれ, ヴィシー政府が樹立された時期には, フランス本国と植民地

インドシナとの関係はほぼ遮断され, それを機に日本がインドシナに進駐を始めた。本稿は, この

ヴィシー期において, 本国の敗北と日本の存在, さらに現地住民による民族独立運動の高揚といっ

た状況を前にして, フランスはインドシナに対しどのような統治政策を展開し, それらはどのよう

な意味をもっていたのかを明らかにすることをねらいとする。 そのためにここでは, フランス帝国

全体を視野にいれた, マクロ的かつ対外的レヴヱル, そしてインドシナの内側に向けられた対内政

策レヴヱルの二つの次元に注目する。 前 者 の マ ク ロ . 対外的レヴヱルに関しては, ヴィシー期初期

に 展 開 さ れ た 「国民援助 」(
Secours
N atio n al) 運動をとりあげ, また, 後者の対内政策レヴェルに
大学都市 」(
関しては, 「 Citg U niversitaire) の建設に焦点をあてて考察する。 「国民援助」 と 「大学
都 市」 に関しては, いずれも先行研究がないため,全面的に依拠した資料は, インドシナ総督府教
育 省 の 刊 行 物 Bulletin
g e n e ra ld e l’Instruction publique , そしてフランスのエクサンプロヴァンス
に あ る 海 外 文 書 館 (Centre des archives d’o u tre -m er) と, ホ ー チ ミ ン に あ る 国 家 第 二 文 書 館 (Luu

Tru Quoc G ia ) に保管されている一次史料である。


「国民援助」運 動 と 「
大学都市」建設という二つの 活 動 と , これらが位置するそれぞれの統治政

策を検討することで, この時期に意図された帝国支配の強化の内実を明らかにしたい。

かつて多くのフランス人入 fit 者を抱え, ヴィシー期にはドゴール派の拠点となったアルジェリア

などと比較すると, この時期におけるフランスのインドシナ統治に関する研究は数少なく,今後遂

行されるべき研究課題であるといえる。従来の研究史をふり返ると,本国との関係が遮断されたヴ

* 本稿は,1999年 5 月15, 16 日に拓殖大学文京キャンパスで開催された, 日本西洋史学会第49 回大会


での自由論題報告をもとに加筆• 修正したものである。

127 ( 415 )
ィシ一期のインドシナは, フランス宗主権の確保のためにやむをえず対日協力を遂行し, 現地住民

の民族独立運動を弾圧する一方で, それらを懐柔するために, 表面的ながらも様々な改革を実行し

たというものであった。つまり,体制の維持を目的とした日本への不本意な協力と, 現地住民に対

する懐柔政策による支配の弛緩とい う視点に基- ^ いていた。具体的な統治政策の内容はほとんど明

らかにされておらず, インドシナへのヴ ィ シー主義の導入が対象となる程度であり, いわば消極的,

(1) この時期のインドシナ統治に関する主要な先行研究としては以下のものが挙げられる。
Brocheux, Pierre/Duiker, William j./H esse d’alzon ,Claude/Isoart, Paul/Shiraishi, Masaya,
L ’Indochine franQaise 1940-1945, Paris, 1984 ; Hesse d’alzon ,Claude, La presence militaire
frangaise en Indochine 1940-1945, Paris, 1985 ; Laman, Pierre L., “La Revolution nationale dans
l’lndochine de l’amiral Decoux”,Revue d ’histoire de la deuxieme guerre mondiale, No.138 avril
1985 ; Martin, Jacques, “L’economie indochinoise pendant la guerre 1940-1945”,Revue d ’histoire
de la deuxieme guerre mondiale, No.138 avril 1985 ; Valette, Jacques, Indo chine 1940-1945
Frangais contre Japonais, Paris, 1993.
仏印進駐に関する邦語の文献としては以下のものがある。
白石昌也/ 古 田 元 夫 「太平洋戦争期の日本の対インドシナ政策一その二つの特異性をめぐって」
『アジア研究』 ( 23卷 3 号,1976年) , 白 石 昌 也 「サ イ ゴ ン 『南洋学院』について」『日本軍政と亜細
亜の民族運動』 ( アジア経済研究所, 1983年)「 第二次大戦期の日本の対インドシナ経済政策」『 東南
アジア歴史と文化』 ( 15号,1986年) ,「1940-41年インドシナをめぐる日仏経済交渉(1)」『第二次世
大阪外大アジア研究会編, 1986年) ,田 淵 幸 親 「日本の対インドンナ
界大戦アジア社会の変容』 (
『 東南アジア歴史と文化』 (9 号, 1980年) ,「『
植民地』化プランとその実態」『 大東亜共栄圏』 とイ
ンドシナ一食糧獲得のための戦略」『東南アジア歴史と文化』 (10号,1981年) ,立 川 京 一 「R 本の仏
印進駐に際するフランスの対応一「 対日協力政策」序論一」『 軍事史学』 (第27巻 第 2 , 3 号合併号,
1991年),「フランスが帰ってくる一 インドシナの1945年一」『軍事史学』 (121-122号, 1995年),「南
部仏印進駐とフランス」『 上智大学国際関係研究所,第41号, 1998年 ) ,吉 沢 南 「
国際学論集』 ( ハノ
イにおける西原機関1940年 7 月」『 東京都立大学人文学会編,167号, 1984年),『
人文学報』 ( 戦争拡
大の構図一日本軍の「
仏印進駐」
』(青木書店, 1986年)
ヴィシー期における植民地の問題を扱った研究としては,Ageron ,Charles-Robert, “V ichy,les
Frangais et l’Lmpire ”,Vichy et les fmnQais, ed. by Azema, Jean-Pierre/Bedarida, ^rangois,
Paris, 1992 がある。
また,ヴィシー期 . フランスのインドシナ統治に関して,拙 稿 「ヴィシー期.フランスのインドン
ナ統治をめぐる本国政府と植民地政府」『 三田学会雑誌』 ( 91巻 2 号, 1998年) ,「ヴィシー期•フラ
ンスのインドシナ統治一インドシナのフランス人と対インドシナ認識一」『 現代史研究』 ( 44号,
1998年)がある。本稿は,基本的にこれらの研究の延長上にあるが,前 者 「本国政府と植民地政府」
が本国政府と植民地政府という二つの軸に分析視点を定め,統治システムの構造的な側面を考察し
ており, また,後 者 「インドシナのフランス人と対インドシナ認識」が,主にフランス本国やイン
ドシナにいるフランス人のインドシナに対する「 認識」の側面を問題にしているのに対し,本稿は,
実際に遂行された政策を個別に検討することによって, より具体的にフランスのインドシナ統治の
実態を明らかにし,その意図を分析することを目的としている。
(2 ) Laman [1985],“La Revolution nationale dans l’lndochine de l’amiral Decoux” のなかで', この
問題が詳しく扱われている。 また,ヴィシー主義とは, ヴィシー政府によってフランスで普及され
た,反共和主義的なイデオロギーであり, その特徴は,道徳秩序と伝統的価値の重視,階級闘争や
資本主義的エゴイズムの否定,家族を基礎単位とする社会的ヒエラルキーの尊重などである。

128 ( 416 )
停滞的な統治論であったといえる。 そこで本稿では, ヴィシー期のインドシナ統治に内包されてい

た積極的な支配の強化と, この時期にみられた統治政策の新たな展開という側面に焦点をあてて論

を展開したい。

まずはじめに, この時期の対インドシナ統治政策が, フランス側のいかなる状況認識に基づいて

いたのかを理解するために, フランス敗北後のインドシナの状況を明らかにする。 次 に 第 2 章では,

「国民援助」運動と,帝国ブロック財政,本国におけるインドシナ 人 の 政 治 参 加 の 三 つ の 問 題 を 通

して, フランスがマクロ • 対外的レヴヱルにおいていかなる統治を展開したのかを検討する。 つづ


く第 3 章では, インドシナ内部にむけられた政策として, イ ン ド シ ナ に お け る 「
大学都市」建設の

問題をとりあげ, この政策がどのような意味をもっていたのかを考察する。

1 フランス敗北後のインドシナ

1940年 6 月に仏独休戦協定が締結され, 7 月はじめにヴィシ一政府が樹立された。 ドイツ占領下


におかれたフランスと,仏才直民地の中で本国からもっとも遠くに位置するイン ドシナを結ぶ航路は,

戦争の拡大やイギリス艦隊による妨害などによって非常に不安定となった。 電信手段による本国と

の連絡は確保されてはいたが, 1941年 11 月以降は,本国や他の仏植民地との海上交通は完全に遮断

され, インドシナは孤立状態に陥るようになる。

また, フランスの敗北に乗じて日本軍は, 対中国戦略や,経済的資源の確保などのために ,1940

年 9 月に北部仏印,翌 年 7 月に南部仏印進駐を果たした。 これはあくまで協定をふまえた進駐であ


り, 形式的にはインドシナにおけるフランス宗主圏は維持されていたが, 実際は, 軍事的優位にあ

る日本軍の提出する様々な経済的, 軍事的な要求を, フランス側は認めざるをえない状況であった。

日本軍の進駐によって, 日本人とフランス人 が イ ン ド シ ナ で 「
共存」することになる。 日本側は,

「土 着民はかのごとく弱体化せる仏国にインドシナに対する保護能力ありと認め難き」 との認識に

基づき, 「
大東亜民族」 の白人植民地主義からの解放と, 大 東 亜 の 共 存 共 栄 の 主 張 を 展 開 し , 現地

住民の支持を獲得しようとした。 張り紙や写真展, 映画などの手段によって, 欧米諸国に対する日

本軍の勝利を宣伝し,一部の民族独立運動家たちと接触して, 彼らに対する影響力の増大を図ろう

( 3 ) 1941年 11月までは,ほぼ10 日に一度の頻度で本国との海上交通が確保されており, インドシナ一


本国間の人的移動も存在したが,郵便物は基本的に検閲下にあった。交通が遮断された後も, イン
ドシナのフランス人は,国際情勢や本国の状況に関する情報を,海外のドゴール派の拠点から送ら
れるラジオ放送によって得ることができ, また,非合法にではあるが, 中国国境を経由する移動ル
ートもあった。 さらにヴィシー期後期には,昆明にあるドゴール派の軍事拠点と, インドシナのフ
ランス人との間で多くの接触が1 亍われていた。
(4) 外務省外交史料館資料「 1943年 3 月11 日,在サイゴン大使府支部政務部)
仏印南部政情報告」 (

129 ( 417 )
とした。 また, ヴェトナム語新聞を発行し, 日本語教育を口実に学校を設立するなどして, 「
大東
( 5)
亜共栄圏」 イデオロギーの普及活動を展開していった。他 方 , フランス側はそれを阻止しようとし,

支配の確立をめぐって両者の間にヘゲモニー 闘争が繰り広げられることになった。

1940年から 45年 に か け て イ ン ド シ ナ 総 督 を つ と め た ド ゥ ク ー (D eco u x ) は, 基本的にはヴィシ


一派であり,本国で展開された国民革命をインドシナにも適用してインドシナの秩序の維持に努め

ようとした人物である。 ドゥクー総督の主導によって, この時期様々な政策が遂行されることにな

るが, インドシナの孤立的状況と日本軍の駐留という状況下において, そこに住むフランス人はど


(6 )
のような状態にあったのであろうか。

1943年 3 月に書かれたサイゴンの日本大使府の報告書には,本国敗北後のインドシナに住むフラ
( 7)
ンス人は「
全身麻痺的状態が露呈」 していたと述べられている。 また,ハノイの日本総領事館の報

但し概して冷静なり」 とあり, 1940 年


告書には,一 般 の フ ラ ン ス 人 は 「意気大に沮喪し」つ つ も 「

11 月 に イ ン ド シ ナ 在 住 の リ ュ ジ ェ (Luget) というフランス人がドゥクー総督に宛てた手紙にも同
( 9)
様に, フ ラ ン ス の 敗 北 は イ ン ド シ ナ の フ ラ ン ス 人 を 「
麻痺」 させたと記されている。 このような静

態的な状況を可能としたのは, インドシナの比較的豊かな物質的状態であった。 当時の行政報告書

や, フランス人による記録において, イ ン ド シ ナ は し ば し ば 「エデン」 と形容されていたし, その

後, 日本軍による収奪や, 連合軍の爆撃による輸送路の破壊により物資不足が悪化したにせよ, 少

なくともヴィシー期前半, 南部コーチシナにおいては, 多 く の フ ラ ン ス 人 は 「
豊かさ」 と 「
平穏」
(10)
を享受していたと考えられる。 日本軍の進駐により, 日本とフランスの間でヘゲモニー闘争が展開

されたが, それは戦火を交えることのない闘争であり,現地住民がその犠牲になることはあっても,
(11 )
多くのフランス人は, 日 本 人 と の 静 か な 「
共存」 を確立していたのである。

チョコ レ一ト, チーズ, マスタード, ワインなど, 嗜好品を中心とする一部の物資の不足はみら

れたが, 1940年 8 月 に サ イ ゴ ン の 警 察 署 長 ル ネ (R e n g ) によって書かれた以下の報告書からも, フ


12 )
(
ランス人の生活状況をみることができる。

( 5 ) Devillers, Phillippe, Histoire du Viet-Nam, de 1940 a 1952, Paris, 1950, p.88.


日本人とヴェトナム人ナシヨナリストたちとの接触に関しては,Shiraishi , Masaya, “La pre­
sence japonaise en Indochine”,L'Indochine franQaise 1940-1945, Paris, 1984, p.219-227 を参照の
こと。
(6 )インドシナのフランス人の状況に関しては,難 波 前 掲 論 文 「インドシナのフランス人と対インド
シナ認識」 (
『現代史研究』)において詳しく論じているので, ここでは簡単に述べるにとどめる。
( 7 ) 外務省外交史料館資料「仏印南部政情報告」 (1943年 3 月11 日,在サイゴン大使府支部政務部)
( 8 ) 防 衛 戦 史 室 資 料 「仏印問題経緯文書」 (1940年 6 月22 日,在ハノイ帝国総領事館内の山田利世に
よる報告書)
( 9 ) CAOM (Centre des Archives d'Outre-Mer): Archives Privees 14PA48.
(10) CAOM : Indochine Nouveau Fonds 1135.
(11) CAOM : Affaires politiques 365.

130 ( 418 )
「この地で,我々フランス人は恵まれすぎている 。我々はいまだ何ら苦しみを経験してはいな

い。 直面している僅かな制限は, フランスが苦しんでいる飢餓に比べたらとるにたらないもので

ある。 フランスのことを考えると, こうも安易な状況にいることがほとんど心苦しい。」

ドイツ占領下で物資の不足に苦しむ本国に対するこのような罪悪感は,他の報告書や手紙におい

てもみられる。 また, 1941 年から 1944年までサイゴンに滞在していた, コーチシナ軍指揮官のサバ

S a b a ttier) 将 軍 の 回 想 録 に よ る と , 1941年
テイエ( 1 月 に サ イ ゴ ン に 到 着 し た モ ル ダ ン (Mor-
d a n ) 将軍は, 「フランス人たちが平穏と贅沢な雰囲気の中で生活を続けていることにひどく衝撃を
受け, また,本国と対照的なこのような状況は不適切であると考え, インドシナにおける経済統制
( 13 )
の強化を主張した。」

しかし1943年 6 月 の ロ ワ ゼ ル (L o isel) 少尉の報告によると, インドシナのフランス人の多くは,


自らの平穏が擾乱されることを恐れ,本国の惨状に 目 を 伏 せ , 「
規律と 沈 黙 , 忠誠心」 を説くヴィ
14 )
シー主_ に自らの無為を正当化する根拠をみいだし, 少なくとも表面上は体制に追従していた。 ル
(

( 15 )
ネ警察署長が報告したように, そ こ に は 「驚くべき秩序」 が保たれていた。

しかし,無前提にインドシナに適用された本国のヴィシー主義は, インドシナのフランス人によ

って容易に受け入れられたわけでもなかった。彼らは自らの保身を図るために体制に従いつつ, そ

の一方で同時にドゴール派の動きも考慮に入れ, 遠く離れた本国の政治情勢に安易に翻弄されない
( 16 )
ように慎重な態度を保持していたのである。

このように, インドシナのフランス人と本国の間には,地理的,物質的状況の みならず,精神的

な 意 味 に お い て も 「距離」 が存在していたといえる。本国の敗北直後, 彼 ら に は ド ゴールに賛同し

戦闘を続行するという選択肢も残されていたが, ドゥクーによってインドシナはヴィシー派に追従

することになり,本国政府からの離脱には至らなかった。 しかしそれはむしろ, インドシナの多く

の フ ラ ン ス 人 の 「無為」 による結果であり,彼らはその豊かさと平穏を犠牲にすることを回避した

かったのである。 インドシナ当局もまた,秩序の維持のために, 彼らのこうした受動的な態度を望


( 17 )
んでいたが, 同時にその反動性を懸念してもいた。 このようにインドシナは, 本国との一体性を主

張 す るには, 本 国 か ら あまりに遠 く 離 れ た 「
場」 を提供していたのである。

Luu Tru Quoc Gia II ( 国家第二資料館:ホーチミン市):Goucoch IIA45/243 (13)


Sabattier, G., Le destin de l!Indochine. Souvenirs et Documents (1941-1945) ,Paris, 1952, p.148.
CAOM : Indochine Nouveau Fonds 1131.
Luu Tru Quoc Gia I I : Goucoch IIA45/243 (13).
CAOM : Indochine Nouveau Fonds 1193 ; Affaires polituques 365.
この点に関しては,難波前掲論文「
本国政府と植民地政府」 (
『三田学会雑誌』)でも論じている。
(17) CAOM : Indochine Nouveau Fonds 1106.

1 3 1 ( 419 )
さらに, 1943 年 2 月には,様々な決定を本国から自立して行うことができる例外的な権限がイン
( 18 )
ドシナ総督に与えられ, インドシナの孤立的, 自律的状態が一層強化される。

以上, フランス敗北後のイン _ドシナの状況を概観してきた。 それは, 本国の占領と物資不足, そ

れとは対照的なインドシナの豊かな物質的状況, そこに生きるフランス人と本国との, 地理的かつ

精神的な距離,彼 ら の 「
無為」 と 本 国 へ の 「罪悪感」, そしてインドシナにおける勢力拡大を目指

す日本人とのヘゲモニー 闘争と特徴つ'、
けられよう。 それでは, このような状況に直面したフランス

は, インドシナに対しどのような統治政策を展開したのであろうか。

2 帝国的結合政策— 「国民援助」運動を中 心 に —

本国との交通が遮断され,孤立状態に陥ったインドシナにおいて, この時期, 本国との関係, フ

ランス帝国全体の結束の強化を図るためにどのような政策が展開されたのであろうか。 本章ではま

ず,植 民 地 イ ン ド シ ナ か ら 本 国 に 対 し て 向 け ら れ た 「国民援助 」(
Secours N atio n al) 運動を考察し,
つづいて補足的に, 本国側からインドシナに対して結合を働きかけた,帝国ブロック的財政政策と,
インドシナ人による本国政治への参加の問題を扱う。 これら三点を通して, 対外的レヴヱルでの政

策内容とその性格を明らかにしたい。
ヴ ィ シ ー 期 初 期 に イ ン ド シ ナ で 展 開 さ れ た 「国民援助」運動であるが, これは, もともと占領下

で物資が不足するフランス本国において,物資や寄付を国内で広く募り, それらをより窮乏してい

る人々に支給する援助活動であった。 フランス本国で流されたメッセージのなかで,ペタンは次の
( 19 )
ように訴えた。

「飢える者へ。凍える者へ。 フランス人たちよ。 あなた方は不幸を知った。 飢えと寒さの中で

あなた方は肉体的に苦しんでいる。 また, 離別と悲嘆の中で精神的にも苦しんでいる。 •••中略 …

あなた方は生きるために戦っている。 しかし現在, 寒さや飢えに対して一人では戦うことのでき

ない人たちが存在しているのだ。被災者や避難民や老人, 子 供たち…,彼らの悲劇や苦しみを理

解し,彼らに援助の手をさしのべなければならない。 …後 略 …」

この結果, 1940年 から 41 年 の一年間で, 2 億 7 千 600万フランと, 12,000 トンの衣類,一日当た


(20 )
り100万人分以上の食料が集まり, 100 万人以上の子供が臨海学校に派遣された。

(18) Decoux, Jean, A la barre de VIndochine : Histoire de mon Gouvernement General 1940-1945,
Paris, 1949, p.300.
(19) Bulletin general de Unstruction publique, 21,no.5, Janvier 1942, p.4.
(20) Ibid., p.4-5.

132 ( 420 )
そしてこの活動は, フランス国内のみならず, フランス植民地にも拡大されることになったので

ある。

「あなた方よりも空腹の者たちに施しなさい。 あなた方より凍え る 者 た ち に 着 せ な さ い 。 この
(21 )
私の頼みが帝国の隅々まで届くことを…。」

というペ タ ン の メッセ一 ジが帝国全体に流された。 フランス本国への援助が ;f f 民地に対して求めら

れたのである。

インドシナにおいても, 1941 年 10 月にこの活動への参加が決定された。 そ れ は 「緊急かつ絶対的

戦争犠牲者仏越援助植民地委員会 」(
な任務」 と定義づけられている。 「 ComitS local de l’Assistance
franco-indochinoise aux Victimes de la g u e rre ) が設立され, この委員会の主導により,小学校から
大学にいたるまで, インドシナ全土の学校を通して,物 資 • 資金の寄付活動が大規模に展開される

ことになった。 これによって, 1942年 の 前半までに 230万 ピ ア ス ト ル の 寄 付 が 集 ま っ た 。 そのうち

100万ピアストル以上はコーチシナからのものである。 また, インドシナ一般予算からも 50 万ピア


ストルが支出され, 寄付, その他と合わせると合計 300 万 ピ ア ス ト ル 以 上 が 委 員 会 に 集 め ら れ た

(表 1 ) 。 そしてこのうち 165万ピアストルが本国に送 金 さ れ , さらに, インドシナでも設立された


「フランス戦士団 」( Lggion des C o m b attan ts) も独自に寄付活動を展開し, 90 万ピアストルをフラ
23 ( )

ンスに送った。 このうち 75 万ピアストルはコーチシナで集めらたものであった。


戦争犠牲者仏越援助委員会」 は, フランス本国のみならず, インドシナにおける戦争犠牲者へ

の援助も同時に行う目的で設立されたが, ランソン事件やタイ--カンボジア国境紛争の被害者に給

付 さ れ た の は わ ず か 11万 ピアストル に す ぎ ず , そ の 活 動 は 本 国 の 「
援 助 」 に集中していたといえ
( 24 )
る。 しかし,委員会に集められた資金の一部はインドシナの戦争犠牲者のために保管されていると

伝えられ, このように, フランスとインドシナ双方の戦争犠牲者を援助するという姿勢を示すこと

表 1 イ ン ド シ ナ で 「国 民 援 助 」 の た め に 集 め ら れ た 資 金
寄付 2 , 284,263
インド シナ予算 500,000
その他 242,513
計 3 , 026,776
(Piastre)

(21) Bulletin general de l’Instruction publique, 21,no.6, Fevrier 1942, p.11.


(22) Ibid., p.12.
(23) Ibid., p.12.
(24) Ibid., p.12.

133 ( 421 )
( 25 )
が, 「インドシナとフランスの人々を,帝 国 的 相 互 扶 助 と い う 一 つ の 努 力 の 下 に 結 び つ け る 」 ため

には不可欠であった。

学校を基盤とした寄付活動によって, 800 箱 に お よ ぶ 洋 服 や 食 料 な ど の 物 資 も 集 め ら れ た 。 しか

し, インドシナから本国への海上輸送が次第に困難になったため, これらのほとんどは本国に送ら
( 26 )
れることなく, サイゴンの港に保管されたままとなっていた。 そこでドゥクー総督は,仏領西アフ

A .O .F .) と の 協 力 に よ っ て 「国 民 援 助 」運 動 を 続 行 し て い く こ と を , A.O.F •のボワソン
リカ(

(B oisson) 総督に提案した。 それ以降, インドシナから A .O .F. に資金が送られ, A .O .F. と共同で,


そこからフランスに物資が輸送される方法がとられることになった。

1942年 1 月にドゥクー総督は, 「『国民援助』運動によって, インドシナとアフリカというフラン


スのニ大領土を活気づけ, 誠意を示す機会をも て て 光 栄 で す 。」 という電報とともに, インドシナ

銀 行 を 通 し て 6 万ピアストルをダカ一ルに送金した。 そ し て そ れ は 「インドシナの学校とアフリカ
( 27 )
の学校が共通の努力によってフランスへの結合を図る」行為であると宣伝された。

こ の 「国民援助」運動は, 前 章 で 述 べ て き た よ う な , イ ン ド シ ナ の 孤 立 状 態 や , 本国との間の

「距離」
, フランス人の受動的な態度などを懸念したインドシナ当局が, そうした態度の基盤となっ

ていたインドシナの「
豊かさ」 を利用し, その物資を他の植民地と協力して本国に送ることによっ

て, フランス本国への結束, さ ら に 「
帝国的相互扶助」 によるフランス帝国の結合を強化し, 強調

するための政策であったといえる。 それをより明確に示すために, お金よりも物資の寄付が望まし

いとされた。 しかもこれは, インドシナのフランス人だけではなく, 同時に現地住民をも視野にい

れた政策であった。 インドシナ総督府教育局の刊行物 ,Bulletin general de l’lnstruction publique


_ ( 28 )
の 1942年 3 月号には次のように記されている。

「フ ラ ン ス と そ の 青 年 た ち の 窮 乏 を 考 え た だ け で , こ の 国 民 援 助 の 任 務 が イ ン ド シ ナ に い る

我々にとって, いかに緊急かつ持続的で絶対的な義務か分かるであろう。 インドシナの青年はこ

れ (
国民援助)に思想,任務,個 人 的 犠 牲の支 柱 を み い だ す こ と が 重 要 で あ る 。 彼らの貢献は金

銭的なものであるだけでなく, それが必要とする努力, それが従う規律を成すであろう。 … 中略

… ここには豊富に存在する物資を, それをもたないフランスの仲間に与えることに彼らは喜びを
感じるであろう。 彼らによる寄付は,本国のフランス人だけでなく, 本国に住むインドシナ人に

も送られるということを強調しなければならない。彼らに求められている犠牲を不し … 中略… こ

(25) Ibid, p.12-13.


(26) Bulletin general de l’Instruction publique, 21,no.2, Octobre 1941, p.5-6.
(27) Bulletin general de l’Instruction publique, 21,no.7, Mars 1942, p.8-9.
(28) Bulletin general de l’Instruction publique, 22, no.2, Octobre 1942, p.8.

134 ( 422 )——


れは決して匿名行動なのではなく, •••中略…ただ単にお金や物資を集めることが問題なのではな

く, 海を超えて彼らとフランスの青年を結びつける感情を表明することが重要なのである。 そし

て, フランスの青年のためにインドシナの全ての学校が行った寄付とその思想が常に言及されつ

づけるであろう。 … 中略,
••A .O .F の学校との協力で国民援助に参加した結果については彼らにき
ちんと知らせなくてはならない。 さらに彼らの感情や想像力を搔き立てるようなあらゆる方法を

用いて多くの若者を組織イ匕し, この活動を継続し,集中的に行うことが望ましい。 •••後 略 …」

ここでは, インドシナの青年とフランスの青年の結束が謳われると同時に, インドシナの青年が

本国のために払う「
犠牲」 が強調されている。つまり,従来の支配一被支配, あるいは保護一被保

護関係を超え, 占領下で窮乏に苦しむフランス本国を, 自らの犠牲によって救うインドシナの青年,

という構図がみられる。 そ し て そ の 「
犠牲的行為」 は 決 し て 「匿名行為」 にとどまることなく,積

極的に宣伝される こ と が 求 め ら れ て い る 。 これは, 本 国 の 敗 北 と イ ン ド シ ナ へ の 日 本 軍 進 駐 に よ

るく強く偉大なフランス > の権威の失墜を, く苦しむフランス > と, それを < 救うインドシナ〉 と


いう逆方向の概念によって,従来の政策を補足しつつ,相互的な依存作用を支配のシステムに導入

することによって帝国的結合をさらに強イ匕しようとするものであったといえる。

物資の不足するフランス国内で展開された, 「富める者」 か ら 「貧 しき者」へ の 援 助 活 動 は , 国

民統合という点において重要な意味をもっていたと考えられるが, それはそのまま帝国統合の装置

としても用いられた。 こ こ で は 本 国 と 植 民 地 に お け る 従 来 の 「富める者」 と 「貧しき者」 との逆転

がみられ, それがインドシナの本国への結合を,従来とは異なる意味において高めうると考えられ

たのである。

ペタンによるメッセージの冒頭にある「
飢える者へ,凍える者へ」 という本国のフランス人への

呼びかけは, 「
飢え」 も 「
凍え」 も経験していないインドシナにいるフランス人たちにも投げかけ

られた。 そして,彼 ら が 本 国 に 対 し て 抱 い て い た 「罪悪感」 に働きかけ, かつ, 彼 ら の 「


無為」 の

最大の基盤であったインドシナの「
豊かさ」 を利用してフランスに援助を送ることによって, 彼ら

の規律と統合が意図されたといえる。現地住民に対しても, 本国の悲惨な現状がインドシナの状況
( 29 )
との対比でしばしば強調され, インドシナによる救済の必要性が訴えられたが, これは, 彼らを帝

国 に 取 り 込 む た めの新たな表現であった。
そしてまた, 海 上 交 通 の 遮 断 に よ っ て 「国民援助」’ 運 動 の 継 続 に A.O.F •を介さざるを得なくな

ったことは,結果的にインドシナと本国との結束のみならず, インドシナのフランス帝国への結合

の象徴を可能にしたのである。

以 上 述 べ た 「国民援助」運動は, インドシナの孤立的状況を前に, そこに住むフランス人と現地

(29) Laman [1985], p.30.

135 ( 423 )
住民の両者を視野にいれながら,彼らの統合をはかりつつ, 改めてインドシナの帝国への結合を強

化することを意図した「
帝国的結合政策」 であったといえる。

そして, このようにインドシナの帰属を明確に示そうとする背景には, 日本人の存在があったと

考えられる。 フランスの弱体化とインドシナの孤立化に乗じて, フランスの植民地主義を糾弾し,

現地住民に対する自らの影響力の増大をはかる日本軍とのヘゲモニー闘争のなかで, インドシナ当

局は, む し ろ フ ラ ン ス の 「
衰弱」 を利用し, フランスとインドシナとの揺るぎない結合を実現し,

それを宣伝することで, 日本の支配を退けさせようとしていたのではないだろうか。

以 上 述 べ て き た 「国民援助」運動が,本国,帝国との結合を強化, 宣伝しようとするインドシナ

側からの政策であったとすると, 次に述べる二つの問題は, インドシナの孤立化を懸念した本国側

が, インドシナに結合を働きかけた政策としてとらえることができる。

まず,帝国ブロック的財政におけるインドシナの負担の問題を検討しよう。

インドシナ財政は, 1922年以来黒字基調であり, フランス帝国においてアルジェリアと並び経済

的に重要な位置を占めていた。 また, インドシナとアルジェリア以外の大部分の植民地は本国から

の補助金なしには収支の均衡をはかることのできない赤字植民地であった。 これらの植民地を一括

して運営していくブロック経済体制の構造は従来から存在していたが, ドイツによる占領によって

経済を圧迫された本国には,赤字ネ直民地に補助金を与える能力はなく,従ってこの時期, インドシ

ナの帝国運営資金への負担が増大することとなった。

1942年 10 月に 1943年 度 の 植 民 地 情 報 資 料 局 (S .I.I.D .) と, 科 学 研 究 局 (S.R.S . ) への各植民地


31 ( )
に課される負担金の割り当てが決定された( 表 2 )。植 民 地 情 報 資 料 局 と 科 学 研 究 局 と は ,植民地

経営に必要な産業や農業,科学技術の促進と情報の収集を目的として設けられた機関であり, その

費用は各植民地の財政から捻出され, 費用の負担額は各植民地の経済的規模に応じて割り当てられ

る。 また, 1940 年 10 月の法令により, これらの資金をより広い目的で使用することが認められてい

たため, これらは実質的な植民地の運営資金とみなすことができる。 1943年度のインドシナの負担

額 は植民地情報資料局も科学研究局も共に最大で, 前年度比にし て 前 者 は 2 .5倍, 後 者 は 10倍にも

及んだ。

この決定が通告されると, ドゥクーは即座に,本国の植民地省に抗議の意志を伝えた。 しかし本

国側は, インドシナに経済的負担を過度に課していることは認めるが, しかしそれは結局,帝国組


( 32 )
織の性質に帰因するものであると返答し, この抗議を退けた。 つまりこの時期, ドイツ占領下にお

( 3 0 ) この点に関しては,難波前掲論文「本国政府と植民地政府」 (『三田学会雑誌』)においても論じて
いる。
(31) CAOM : Affaires politiques 2646/1.
(32) Ibid.

136 ( 424 )
表 2 1 3 4 3 年度植民地情報資料局と科学研究局への各植民地の負祖額
植民地情報資料局 科学研究局
A.O.F.&Togo 1,500,000 3,600,000
INDOCHINE 2,400,000 5,800,000
INDE 30,000 60,000
MADAGASCAR 400,000 1 ,000,000
A.E.F. 200,000 450,000
CAMEROUN 110,000 260,000
MARTINIQUE 100,000 270,000
GUADELOUPE 80,000 200,000
GUYANE 20,000 40,000
REUNION 80,000 160,000
SOMALIE 20,000 40,000
OCEANIE 20,000 40,000
NOUVELLE CALEDONIE 30,000 70,000
ST-PIERRE & MIQUELON 10,000 10,000
計 5,000,000 12,000,000
(Franc)
かれた本国の弱体化によって,赤字植民地への補助金は削減され, それが,帝国ブロック経済にお

けるインドシナの負担の増大となったのである。 これは,衰退した本国の経済力を補うため, 比較

的豊かな物質的状況にあるインドシナに対し,帝国財政へのさらなる負担を求めることによって,

インドシナのフランス帝国への帰属を明確に示そうとするものであったといえる。

( 33 )
次に本国におけるインドシナ人の政治参加の問題をとりあげる。 これもまた, 本国政府がインド

シナの孤立化に対して働きかけた政策であるといえる。

1940年 12 月にヴィシー政府の植民地省内で, イ ン ド シ ナ の 「経済,文明, 人口の発展の度合い」


( 34 )
にもかかわらず, 国民評議会へのインドシナ代表者の予定枠が一人しかないことが問題にされた。
35 )
P la to n ) は, 1940年 12 月に植民地大臣に宛てた手紙で次のように書いた。
(
植民地省のプラトン(


ペタン元帥が国民評議会を宣言したとき,私は海外領土がこのなかに表されねばならないと

いうことを確信した。 そしてそれは, あくまで植民地の一般利益の象徴なのであり, 人の象徴で

はない。 このことは実際,植民地住民の人種の違いを考慮するためにしなければならない区別で
あり, •••中略…本国と帝国は同じ運命につながれた共同体であるということを強調することが重

要なのである。」

( 3 3 ) この問題に関しては,難 波 前 掲 論 文 「インドシナのフランス人と対インドシナ認識」 (『現代史研


究』)においても論じている。
(34) 1941年 1 月に国民議会に代わって創設されたが,実際はペタンの諮問機関にとどまっていた。
(35) CAOM : Indochine Nouveau Fonds 2765.

137 ( 425 )
つまり, イ ン ド シ ナ 人 の 参 加 は あ く ま で 抽 象 的 な 「
一般利益」 の象徴であると主張し, ヴィシー

主義がもつ人種主義を損なうことなく, 主要な政治的舞台である国民評議会にインドシナ人を参カロ

させることで, ヴィシー体制の正当性を広く獲得しようとするものであった。最終的にインドシナ
( 36 )
の代表者数は二人に拡大されたにすぎなかったが,本国政治へのインドシナ人参加枠を拡大するこ
とが, インし'' シナの孤立状態に対する懐柔となり,本国からの離反に歯止めをかけうると考えられ

たのである。

ドイツ占領下におかれたヴィシー期のフランスにとって, 「
帝 国 」 の存在は,敗北によって傷つ
( 37 )
いた国民の自尊心を癒し, フランス再興への望みをつなぐ重要な切り札であった。 帝国ブロック財

政と,本国政治へのインドシナ人の参加という二つの事例は, そ う し た 「
帝国」 が, 本国からもっ

とも遠くに位置するインドシナから綻ぶことを懸念した本国が, インドシナと本国の関係をさらに

緊密化させ, フランス帝国内に占めるその位置を改めて示そうとした政策であるといえる。

以上, 「国民援助」運動を中心として,帝国的 ブロック財政, 国民評議会へのインドシナ人の政

治参加という,三つの問題を考察してきた。 これらはいずれも, インドシナの孤立化と, その物質

的,精神的状況の特異性を前にして,社会, 経済,政治それぞれの側面において, インドシナと本

国との関係を一層緊密化し, イ ン ド シ ナ のフラ ン ス 帝 国 へ の 結 合 の 強 化 を 意 図 す る 「
帝国的結合政

策」 に位置づけることができるであろう。 そしてこれらは同時に, インドシナがフランス帝国に占

める位置,植民地としてのインドシナの存在の枠組みを改めて明確にすることを意図した, マクロ

的かつ対外的な政策であったといえる。

3 「
近代的」統 治 政 策 と イ ン ド シ ナ の 「
復権」

大学都市」建設を 中 心 に -----

本章では, フランス本国や帝国との関係を対象としたマクロ的_ 対外的な政策の一方で同時に遂

行された, インドシナの内側に向けられた政策に目を転じよう。

この時期,様々な対インドシナ政策が実施されたが, そのなかでもかつてないほど大規模に展開

されたのが, 道路網の整備, 公共施設の建設,港湾整備,都 市 計 画 な ど , 「フランスの権威をもっ


( 38 )
とも具体的に顕現できる手段」 である公共事業であった。

表 3 はインドシナのコーチシナ予算における公共事業費と,予算に占めるその割合の推移である。
1 9 4 1 年に - - 旦減少がみられるが, その後, とりわけ 1942年 か ら 1943年に著しく増加しているのが

(36) Cointet, Michele, Le conseil national de Vichy 1940-1944, Paris, 1989, p.77.
(37) Ageron [1992], p.132.
(38) Decoux [1949], p.451.

138 ( 426 )
(39)
表 3 コーチシナ予算における公共事業費と,予算に占めるその割合の推移
1938年 3 , 403,533 21.0
1939年 3 , 833,408 21.1
1940年 4 , 031,850 21.1
1941年 3 , 092,950 14.2
1942年 5 , 877,300 22.3
1943年 1 0 , 457,100 32.5
(Piastre) (%)
わかる。

ここでは公共事業の中から,上 述 し た 「国民援助」運動とほぼ同時期に開始され, また, 同様に

大規模な寄付活動と宣伝活動を伴って展開された「
大学都市」建設の問題に焦点をあて, その意味

を考察する。

1941年 11 月, ドゥクー総督によって,ハ ノ イ に 「大学都市」 を建設することが決定された。 それ


まで, インドシナ政府によって,一部のインドシナ人が高等教育を受けるためにフランス本国に派

遣されていたが,彼 ら が 本 国 で 「
啓蒙」 され,結果的に植民地体制への中心的批判分子となること

が懸念されるようになった。 そこで本国への派遣を見直し, インドシナ内部での高等教育の充実を


( 40 ) ( 41 )
はかる目的の一環として, 「
長い間, 口先での目標,儀 礼 的 な 報 告 の 結 論 ,精 神 的 な 希 望 」 でしか

なかった「
大学都市」建設がこの時期においてようやく実行に移されることとなった。

大 学 都 市 プ ロ パ ガ ン ダ . 組織委員会 」(
この実行にあたり, 「 Comitg de propagande et d’organisa-
tion de la Cite U niversitaire) が設立された。 この委員会の目的は, 大学都市の存在理由を広く理解
させ,建設のための寄付を募り, その後の大学都市を管理していくことであった。 これによって寄

付活動と宣伝活動が展開され,寄付をした人物の名前を新聞に掲載したり, 1 万ピアストル以上の
寄付者の名前を大学都市内の建築物に刻印するなどの策が講じられ, 主にフランス人商人や, 大農

場主,企 業などから 13 万 ピ ア ス ト ル の 寄 付 が 集 め ら れ た (
表 4 ) 。 また,建 設 着 手 に あ た っ て , イ

ンドシナ予算からは 26 万 ピ ア ス ト ル が 支 出 さ れ (
表 5 ), さらに本国政府予算からの出資も要請さ
( 42 )
れた。 これに対し, 当初本国側は, まだその時期ではないと拒否した。 しかし最終的にはドゥクー

総督の強い要請により, 「インドシナとフランスの結合の表明に参加し,植民地の運命に対する本
( 43 )
国の誠意を明確にすること」 を承諾し, 1942 年度の 国 家予算から 100 万 フ ラ ン (
約 10万ピアストル)

(39) Luu Tru Quoc Gia I I : GoucochVIA/7/015 ; VIA/7/016 ; VIA/7/021 ⑴ ; VIA/7/025 ⑵ ; VIA/7/
193(3) J;り作成。
(40) Decoux [1949], p.397-401.
(41) Bulletin general de 1’Instruction publique, 22, no.2, Octobre 1942, p.14.
(42) Bulletin general de l’Instruction publique, 21,no.6, Fevrier 1942, p.10 ; 21,no.4, Decembre 1941,
p.10-13.
(43) Bulletin general de l’Instruction publique, 21,no.6, Fevrier 1942, p.10.

139 ( 427 )
表 4 「大 学 都 市 」 建 設 へ の 寄 付 表 5 同予算
コーチシナ 31,510 一般予算 150,000
トンキン 48,507 コ ー チ シナ
100,000
アンナン 42,970 アンナン 5,000
カンボジア 9,000 カンボジア 5,000
ラオス 5,310 ラ才ス 3,000
計 134,297 計 263,000
(Piastre) (Piastre)
が支出されることになった。 これらの合計 50 万ピアストルは,工事開始にあたっての当面の支出に

あてられたものであり,実 際は,建設のために , 1942年 度 に は 100 万ピアストル以上の支出が予定

されていた。

大学都市では, スポーツ施設やホール, そしてインドシナの構成国であるラオス, カンボジア,

ヴェトナムの各学生館の建設が計画された。建築物の設計は公募コンクールの対象となり, その結

果, ラオス, カンボジア, ヴヱトナム館は, 「それぞれ独自の文化や伝統, 生活スタイルや各祖国

の魂とイメージ」 を象徴し, かつ, 「


近 代 的 フ ラ ン ス の 論 理 的 な 優 雅 さ と ,伝統的なベトナム建築

の魅力を統合した」 ものとなった。 フランスと極東の庭園様式が混合され, 敷地内には仏教寺院と


一 一 ( 44 )
教会が併存し, そ れ は 「西洋と東洋の幸福な融合」 と謳われた。 そしてこれは, フランスとインド

シナの「
精 神 的 共 同 体 」 の 象 徴 と 位 置 づ け ら れ た 。 また, イ ン ド シ ナ 教 育 局 長 の シ ャ ル ト ン

(C harto n ) は, 「明 日 の インドシナがそれに基づ い て 立 つ よ う な フ ラ ン ス と イ ン ド シ ナ の 結 合 体 」
で あ り 「フランスによるインドシナの植民地化のもっとも深い存在理由」 であると意味づけた。

大学都市の建設は, 現地住民の政治参加を前提とし,彼らに対する高等教育の充実をはかろうと

する, 「
近代化」 をさらに進展させる政策である。 そしてこれは, フランスが植民地支配を正当化

する最大の根拠であった「
文明化の使命」 のひとつの遂行であるといえる。 しかし, 大学都市にお

いて, ラオス, カンボジア, ヴヱトナムそれぞれの伝統的文化を象徴する学生館の建設が計画され

たのであり, これは同時に, それまでインドシナ連邦という一 ^3 の枠組み内であまり考慮されるこ

とのなかった, ラオス, カンボジア と い う 個 々 の 存 在 と , そ れ ら 独 自 の 文 化 や 伝 統 ,慣 習 の 「


権 」 を目指丁政策でもあった。 そして, そ れ ら の 「
復権」 とフランスとの結合の実現こそが, ここ

では「
植民地化のもっとも深い存在理由」 として示されたのであり,植 民 地 化 の 「
使 命 」 の内容に

変化をみることができる。

大学都市の建設において同時にみられる, 「
近代的」側 面 と 伝 統 の 「
復 権 」 という二つの面は,
この時期に実行された他の統治政策にも表れている。 つまり, 公共事業を展開し, インドシナ連邦
( 46 )
評議会に現地住民を参加させ,法律の整備をす る な ど , 「
近代的」 で 「
進 歩 的 」 な改革を遂行する

(44) Bulletin general de l’lnstruction publique, 22, no.2, Octobre 1942, p.9-12.
(45) Ibid., p.13-14.

140 { 428 )
一方で同時に, イ ン ド シ ナ 文 明 の 「
復 権 」 と い え る 政 策 が 実 行 さ れ た の で あ る 。 そしてこ れ は ,


大地への回帰」や 「
伝統の見直し」 「
道徳秩序の強調」 をスローガンとするヴィシー主義がもつ復

古的政策と重なるものでもあった。

日本がこの時期, 「
大東亜民族」 の白人植民地主義からの解放と, 大東亜の共存共栄の主張を展

開すると, これに対抗するためにインドシナ当局は, インドシナ現地住民に対して, より強力な教

義を与えようと, 「
植 民地愛国主義」 を提唱した。 これは一つにはヴィシー主義を核としたフラン
ス本国への愛国主義, そしてもう一つには現地住民の民族的意識を基盤とするインドシナの各構成

国への愛国主義からなるものであった。 ドゥクー総督は, この二つの愛国主義は互いに排斥するも

のではない, つまり, 民族的な愛国心の発展が帝国の結合につながると主張し, それぞれ独自の伝

統をもつヴェトナム, ラオス, カンボジア各国の民 族 的 意 識 を 高 揚 さ せ る こ と に よ っ て , 「大東亜


( 47 )
共栄圏」思想を退けさせようとしたのである。

それまでヴヱ卜ナム人中心主義が採用されていたが, ドゥクー総督はクメール人やラオス人も官
( 48 )
吏に登用し, それぞれの国の歴史と伝統を再興させた。 1941 年 11 月には, 「ラオスの復興とラオス
( 49 )
人の麻痺状態からの覚醒」 のためにラオスに劇場が設立された。 また, 愛国精神の養成のためにハ

ノイに設立された「
精神更正」 の学校では,仏 教 や 儒 教 な ど 「
極 東精神」 とされる学習が導入され,

イ ン ド シ ナ の古い伝統と密接に関連しながら教育を 行 う 「
新しい精神」 がインドシナ教育局長によ

って提唱された。ペタン元帥もまた, 「アンナンの民族の習慣に応じ, また彼らの切望に適合し,


( 50 )
それらに注意深く耳を傾けることが重要である」 と,新たな教育方針を発表した。

ここで重要なことは,大学都市の建築においてもインドシナ各国の伝統的要素とフランス文化の

調和が示されたように, イ ン ド シ ナ 各 国 の 伝 統 を 「
復権」 させるだけでなく, それとフランスの文

化,伝統との融合が強調されたことである。

1942年のインドシナ大学入学会讓において, ドゥク一総督は, イ ン ド シ ナ 統 治 の 目 的 を 「西洋と


東洋の意識の合理的統括と調和的均衡を実現すること」 とし, 「西洋と東洋は決して一致すること
_ ( 51 )
がないと主張する人々に対して,我々は新たな証拠を与えよう」 と述べ, フランスとインドシナの

調和と融合を積極的に強調した。

1942年 5 月 に ハ ノ イ で 開 か れ た ジ ャ ン ヌ . ダルク祭では, 紀元一世紀に中国に果敢な抵抗をした

(46) Decoux [1949],p.393-394.


Isoart, Paul, “Aux origines d une guerre”, Indochine franQaise 1940-1945, Paris, 1985, p.16
17.
Isoart [1985], p.16.
\
4
7— /8
_
_

Ibid., p.15.
4/
/_\

—\
-\

Bulletin general de l’lnstruction publique, 21,no.6, Fevrier 1942, p.14.


9
4/—- 0
/_\

Bulletin general de l’Instruction publique, 21,no.5, Janvier 1942, p.188.


5\/
—- 1

Bulletin general de l’Instruction publique,22, no.4, Decembre 1942, p.18.


5\
/_\

/
—•
— \

1 4 1 ( 429 )
とい わ れ る ハ イ • バ ー チ ュ ン 姉 妹 の 伝 説 が ジ ヤ ン ヌ . ダルクの歴史と初めて関連づけられ, インド

シナの神話の復活と, それとフランスを結びつ け る 試 み が な さ れ た 。 そしてこの話は, 「


我々フラ

ンス人とアンナン人に,西洋と東洋は人々が思うほどには異なっていないのだ」 と思わせる良い例
( 52 )
としてしばしば用いられることになった。

さらに, ジ ャ ン ヌ - ダルク祭において, 高 校 の 事 務 長 で あ る ト ン . タ • T 6n-tha


ビン( Binh)
は, 「『フランスは,女の心とその優しさと涙と血から生まれた』 というミシュレの言葉は, そのま

まアンナンにもあてはまる」 と演説し,宗主国フランスと植民地インドシナは, それぞれ異なる次

元に位置する支配関係にあるのではなく, む し ろ 「比較可能な」 関係にあると主張した。 そして,

こうした変化は, ヴィシー主義がもつ地域主義と, そ の 「
寛容で現実的」 な思想に負っているとみ
( 53 )
なされた。

また, キリスト教と儒教の類似性が指摘され, コーチシナ知事は, キリスト教がインドシナで広

く普及しなかったのは, それが先祖崇拝を否定している点によるとの認識に立ち, インドシナにお

いては, キ リ ス ト 教 が 「
先祖を崇拝し,彼ら独自の祭典を行い, 風俗習慣を尊重すること」 を認め
( 54 )
ることを提案した。 これは, より確実な支配のために, 現地社会における西洋文明の柔軟な適用と,

現地の文明との接合によるその変容を承認することであったといえる。

国民革命の思想と儒教の類似性にも言及がなされ, さ ら に 「
労働, 家族,祖国」 の スローガンは,
( 55 )
実は本国が提唱するはるか以前からアンナン人のものであったのだ, との発言もみられた。 ここに

は,従来の - - 方的な植民地統治とは若干異なる主張をみることができる。本国の政治的イデォロギ

— が植民地に先行されていたことを認めることは, インドシナの文明を異質性において承認するだ
けではなく, より有効な支配のために, フランスとの同質性を, ひいては, インドシナからフラン

スへと向かうべクトルの存在を認めることであったからである。

次 第 に 激 化 する民族独立運動を抑圧するその 一 方 で , このように イ ン ド シ ナ に お け る 各 文 明 の


復権 」が謳われ, 同時にインドシナとフランスとの類似性や融合を表した統治政策が展開された

のである。 それは, 「
進歩的啓蒙主義者が公然と 人 種 の 平 等 と 社 会 的 状 態 の 平 等 化 を 説 き ,犯罪的
( 56 )
な軽率さで実現不可能な改革を現地住民に約束すること」 を批判し, 「
近 代 的 」 改革の積極的な導

入には慎重であったドゥクー総督を中心とするインドシナ当局が選んだ新たな方向であった。

支配において,植民地独自の文化や伝統の意味を見直すこのような傾向は, 1930年代頃からすで

(52) Bulletin general de l’lnstruction publique, 22, no.2, Octobre 1942, p.6-10.
(53) Bulletin general de 1’Instruction publique, 21,no.10, Juin-Aout 1942. p.2-3.
( 5 4 ) 外務省外交史料館資料「仏印南部政情報告(第二号) 」 (1943年 5 月10 日,在サイゴン大使府支部
政務部)
(55) Bulletin general de Flnstruction publique, 21,no.5, Janvier 1942, p.186.
(56) Decoux [1949], p.395.

142 { 430 )
にみられるが, それが明確に規定され,遂行されたのがこの時期であったといえる。 そしてこれは,

インドシナにおける宗主権の維持と支配の強化のために利用された, 「
帝 国 主 義 の 進 展 」 のため

のく伝統の復権 > であったといえるであろう。

インドシナ文明の「
復権 」 を示したこれらの政策は,本国の敗北によるフランスの威信の衰退や,

インドシナ民族独立運動の発達という新たな状況下で, それまでの同化主義的な近代化政策の限界

を補うために実施されたといえる。 そしてこれは, 民族の伝統,文化,慣習を尊重することを掲げ

大東亜共栄圏」思想と共通する部分を有していた。 フ ラ ン ス 側 は 日 本 側 の 言 語 . 文 化 .
た日本の「
( 57 )
宗教分野における活動に対し断固とした態度を示すべきとの見解を示しながらも, 自らの政策を決

定する際に日本の主張や行動を意識していたと考えられる。 以下は, サイゴンにある日本大使府が


( 58 )
諜報活動によって入手した, 1943年 3 月のコーチシナ知事の行政報告書である。


本官は総督の命に依り, 仏人官吏にして安南語 を 十 分 に 解 し , 且話し得る官吏数を取り調べ

たるが,結果は期待を裏切ること甚だしきものありたり。 … 中略 …総督は,安南語の習得は官吏

の職務上の義務と見なす旨決定せられたり,追て通報すベき一定の年齢を超過せる官吏を除き凡

ての官吏が一力年以内に安南語の実力検定試験に通過せんことを要望す。右試験通過証書は進級

及び従属官吏の本格化の前提要件となるべし,外国の軍人,外交官及び商人が凡有困難を排し,

安南語の習得に専念し居るに際し,吾人が土着民に対する宣傅上最上の武器たる安南語を習得せ

さる権利や又政治的要請よりするも右は当然の養務なりとす云々」

この中にある「
外国の軍人,外交官及び商人」 とは明らかに日本人のことを指しており, 彼らが

現地語の習得に励んでいることを懸念したコーチシナ知事は, フランス人官吏にもそれを義務付け

ることを提案している。 また, コーチシナ知事が, ラジオ放送のなかでアンナン語で演説を行った


( 59 )
ことは, フランス人による現地住民への接近を記すものとして重要な事件であった。 総督府執行部

長は, プロパガンダ • 新聞情報局長に宛てた 1942 年 4 月2 日付けの書簡のなかで, 「


二つの人種のさ

らなる接近や, 仏越関係を示す全ての表現に貢献しうるものはなに一つおろそかにされてはならな
( 60 )
い」 と記した。 東洋という同質性を根拠に勢力を拡大しようとする日本を前に, フランス人のイン

ドシナ人への接近が奨励されている。

この時期インドシナで繰り広げられた日仏間のヘゲモニー闘争において, イ ン ド シ ナ の 「
文化」

( 5 7 ) 外務省外交史料館資料「仏印南部政情報告(第二号) 」 (1943年 5 月10 日,在サイゴン大使府支部


政務部)昭和18年 3 月18 日付けでドゥク一総督から各地方長官に宛てられた通達。
( 5 8 ) 外務省外交史料館資料「仏印南部政情報告」 (1943年 3 月11 日,在サイゴン大使府支部政務部,仏
人官吏の安南語習得に関する政庁の指令振)
( 5 9 ) 同上。
(60) Luu Tru Quoc Gia I I : Goucoch IB23/088.

143 ( 431 )
は,一つの重要な鍵であった。 そして各民族の伝統•文化の尊重を主張するという共通要素はあり

ながらも, 「
大東亜民族」 の白人植民地主義からの解放と大東亜の共存共栄を掲げ, 西欧とアジア
( 61 )
を明確に二分化しようとする「
大東亜共栄圏」 の思想に対し, フランスは, 西洋と東洋の接近と融

合, 時には同質性までを強調した政策を遂行したのである。 そしてここに, インドシナにおけるフ

ランス宗主権の維持と安定化,支配のさらなる強化と巧妙化のための植民地政策の新たな展開をみ

ることができるであろう。 「
大学都市」 の建設は, そうした政策がもっとも顕著に象徴された一つ

の事例であったといえる。

しかし, インドシナのフランス人の間には, 大学都市建設に対する強い批判も同時に存在してい

た。 1941年 12 月に,ハ ノ イ大学都市実行 • プ ロ パ ガ ン ダ 中 央 委 員 会 (


Comitg Central d’initiative et de
propagande de la Cite Universitaire de H a n o i) 代 表 の ク デ ス (C ced6s) は ラ ジ オ . サイゴンを通して
( 62 )
次のように述べた。


一部の心配性の者たちは, 大学都市建設事 業 を 批 判 し て い る 。彼らは, 現在全ての慈善努力

は,我々同国人の苦しみや貧困を緩和するために行われなければならない, なぜならフランスで

人々は, インドシナが経験していないような苦しみを味わっているのであるから, と主張してい

る。彼らは, 国民援助運動こそ強化すべき任務であり, 大学都市の建設はこれと競合するもので

あると懸念している。」

大学都市の建設のために, 1942年 度 に は 約 100万ピアスト ル の 支 出 が 予 定 さ れ て い た が , このよ

うな多額の資金を必要とし, インドシナの内部のみに向けられたこの政策は,本国の占領や日本の

進駐という不安定な時期において不適切であり, また, ほ ぼ 同 時 期 に 展 開 さ れ た 本 国 へ の 「国民援

助 」運動とは矛盾する性質のため, むしろ本国への援助, 本国との結合を強化する政策を優先すベ

きだという批判である。

そしてこの批判に対しクデスは, 国民援助と大学都市建設の二つの運動は, 決して競合するもの


( 63 )
ではなく, むしろ補い合って作用するものであると強調した。


大学都市建設の宣伝活動は,本国の同胞を考慮するインドシナのフランス人の行動を妨げる

「国民援助」運 動 に お い て ) 900 万フ
ことはほとんどなかった。 だからこそフランス戦士団が, (

( 6 1 ) 「大東亜共栄圏」の政策には,「欧米文化への追随を改め,東洋文化を再建」 し,か つ 「在来の風


俗習慣はこれを尊重する」 ことが示されている。『 大東亜建設の基本綱領』 ( 企画院研究会, 1942年) ,
16-25 頁。
(62) 194:[年 12月20 日に行われた, フランス極東学院長であり,大学都市実行• プロパガンダ• 中央委w
会代表のクデスによる講演。Bulletin general de l’Instruction publique, 21,no.6, Fevrier 1942, pll.
(63) Ibid., p.12-13.

144 ( 432 )
ランもの寄付をも集め, フランスに送ることができたのである。 •••中略 … フランスの再建は, そ

の子供たちの犠牲, とりわけ深刻な災害が到達していない場所の人々の犠牲によってしかありえ

ないのであるから, フランス国家復興へのインドシナの協力は, フランス人とインドシナ人が共

通の遺産の防衛に団結したときにのみ可能なのである。」

クデスは,大学都市建設の寄付活動は, 「国民援助」運動のそれを阻害するものではないことを,
フランス戦士団によって後者に集められた額の大きさによって強調し, 同時に, フランス再興のた

め の 努 力 を 意 味 す る 「国民援助」 と, 「
大学都市」 の建設は, 「
共通の遺産の防衛」 という点におい

て-一致すると主張した。 そして,本国へのインドシ ナ の 協 力 と 結 合 の た め に は , 「
大 学 都 市 」建設

に象徴される, イ ン ド シ ナ 文 明 の 「
復 権 」 と, それとフランスの融合を示すことが必要であると考

えたのである。

各自が本国を援助する _ 務 さえもてば, インドシナというこの国の未来を考えることは禁じ



( 64 )
られてはいないのである。」

とのクデスの言葉には, あくまで本国への貢献を前提としながらも, インドシナ統治における長期

的な展望の必要性への認識がみられる。 まず植民地として, その存在を本国との関係で規定しつつ

も, 同時にインドシナの内側に向けられた政策が求められたのである。

こうして,大 学 都 市 プ ロ パ ガ ン ダ • 組織委員会は,大学都市への寄付は, 国民援助や戦争被害者

への援助の義務に何ら抵触するものではないと訴え, か つ 大 学 都 市 計 画 に お け る 「
精 神 的 • 知的価

値 」 の重要性を説き, そ れ は 決 し て 「
不利な投資」 ではないと批判者たちを説得することによって,
( 65 )
寄付を広く要請した。

インドシナ当局は, 1942年
3 月28 日に建築コンクールの結果を発表し, 5 月 9 日には建設工事を
(66)
開始した。 そして工事は急速に進められ, 1945年 3 月の日本軍による仏印処理までにはほぼ完成さ
( 67 )
れたのである。 当局が, 「国民援助」運動を考慮しつつも, 大学都市の建設に緊急性を見いだして

い たことが明らかであろう。

本 国 や 帝 国 と の 関 係 を 規 定 す る 対 外 的 な 政 策 で あ る 「国民援助」運動と, インドシナの内側に向

けられた「
大学都市」建設という,一見反対のベクトルを向いたこれら二つの活動は,競合し矛盾

するものではなく,実際は, むしろ相互補完的で一体となった, さらなる帝国支配の強化を目指す

(64) Ibid., p.12-13.


(65) Ibid., p.12-13.
(66) Bulletin general de l'lnstruction publique, 22, no.2, Octobre 1942, p.6-10.
(67) Decoux [1949], p.458-459.

145 ( 433 )
政策であったのである。

4 結 論

以上, フランス敗北後のインドシナの状況をふまえた上で, 「国民援助」運 動 と 「


大学都 市 」建

設の二つの問題を中心に考察し, これらの活動がもっていた意味と, それらが位置する統治政策を

検討してきた。

本国がドイツ占領下におかれ,植民地インドシナとの関係が遮断された時, 比較的豊かな物質的

状況と, 日 本 と の 「
共存」 に よ っ て 得 ら れ た 「
平穏」 を享受するインドシナのフランス人は, 占領

による精神的,物 質 的 苦 難 の 中 に い る 本 国 と は か け 離 れ た 「
場 」 に生活していた。

この 時 期 イ ン ド シ ナ で 広 く 展 開 さ れ た 「国民援助」運動は, こうした彼らの受動性と, インドシ

A.O.F . ) との協力によっ
ナの孤立的, 自律的状態を懸念したインドシナ当局が,仏 領 西 ア フ リ カ (

て, イ ン ド シ ナ の 「
豊かさ」 を本国へ送ることで,本国との地理的,精神的な距離を埋め,本国へ

の結束,帝国の結合を改めて強化し,象徴する政策であった。 またここでは, インドシナによるフ

ランスの救済という側面も強調されたが, 「
帝国相互 扶 助 」 という概念の導入は, フランス宗主権

が危機にさらされるなかで,支配の補強と安定イ匕を模索するものであったといえる。

さらにこの時期,本国の弱体イ匕によって, 帝国財政においてインドシナにより大きな負担が求め

られることになり, また,本 国 で 創 設 さ れ た 「国民評議会」 でのインドシナ人代表者の枠を増大す

ることが検討された。 これらは, インドシナの孤立化に対し, 本国側がインドシナに働きかけたも

のであり, 「国民援助」運動と同様に, インドシナとフランス本国との結合, さらにフランス帝国

全体の結束の強化を目的とする「
帝国的結合政策」 に位置づけることができる。 またこれは, イン

ドシナの存在を,対フランス本国との関係, あるいはフランス帝国における位置という点から改め

て規定しようとする, マクロ的かつ対外的な政策であった。

こうした「
帝国的結合政策」 の一方で, イ ン ド シ ナ 内 部 に 向 け ら れ た 政 策 と し て 「
大学都市」 の

建設が実行された。 これは,現 地 住 民 の 権 利 の 拡 大 と い う 側 面 を も つ 「
近代的」統治政策であると

同時に, イ ン ド シ ナ の 各 構 成 国 の 伝 統 や 文 化 の 「
復権」 を象徴した政策でもあった。 そしてこれは,

支配の強化と「
帝国主義の進展」 のために,有効な手段として利用されたく伝統の復権〉であった。

このように「
復権 」 されたインドシナの文明は, フランス文化との接近や融合という点において新

たに創出されていったのである。 これは, 白人植民地主義からの解放を謳い, 西欧とアジアを二分

化する日本の「
大東亜共栄圏」 の思想に,結果的に対抗するものであったといえる。
このように, インドシナとフランスの関係のあり方を示す新たな表現が試みられ, 西洋と東洋の

接近と融合を強調した政策が遂行されたことに, フランスの植民地政策における新たな展開をみる

ことができる。

146 ( 434 )
「国民援助」 と 「
大学都市」 という,外 と 内 を 向い た こ れ ら ふ た つ の 政 策 の 併 存 は , 互いに競合

し, 矛盾したものであるとの批判があったが,実際はインドシナ統治において, それぞれ補完しあ

い,帝国の強化をめざす一体となった政策であった。本国の占領と帝国の分裂という危機のなかで

フランス帝国という枠組みを強化しつつ, 日本の進駐と民族独立運動の高揚という状況のなかでイ

ンドシナの宗主権を維持するためには, どちらか一方が欠けても機能しえなかった。

これらは, この時期,本国との断絶によるインドシナの孤立化, そこに住む人々のフランスから

の離脱を懸念したフランス当局が,統治政策の展開をはかろうとしたものであり, さらなる帝国支

配の強化,統治の巧妙化を意図したものであったといえよう。

( リュミエール.リヨン第 2 大学第 3 期課程留学中)

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