You are on page 1of 4

吉村順三研究

̶ 吉村作品の分析と「重心」に関する考察 ̶

繁永 政志

序 できなかったため、本研究では『吉村順三作品集
1.はじめに 1941-1978』収録作品までを分析対象とした。
! 建築家吉村順三は事務所を設立した 1941 年から他 2.平面
界する 1997 年までの 56 年の間に計画案や増築を含 自邸の《南台の家》(1957)以前と以後とでは平面
めて 504 にも上る多数の作品を残した。また、没後
1)
計画に大きな違いが見られる。《代々木の家》(1953)
10 年以上経過した現在でも新たに関連書籍が出版さ (図 1)を見ると、食堂や接客空間にもなる居間など
れるなど、影響力の強い建築家である。しかしながら、 の西側部分と寝室が並ぶ東側部分は、斜め廊下でスキ
これまで吉村に関するまとまった研究は少なく、その ップフロア状に連結される構成である。書斎は建具で
ほとんどが吉村の言説から作品を分析するものである。 完全に分離することができ、各部屋を雁行に配置して
そして内容も数理的、形態的解析に終始するものや、 いることからも、各部屋の独立性を明確にする意図が
通史の域に止まるものばかりで、設計理念や設計意図 うかがえる。ホールから各部屋に一様にアクセスが可
にまで踏み込んだものは皆無である 。そこで本研究 能なため、各部屋や機能が序列化されず並列的に配置
2)

では、まず第一部で住宅作品の分析から新たな吉村像 される。各部屋は隣接していて全体がコンパクトに繋
を提示し、次いで第二部では、吉村が自身の作品の解 がっているようにも見えるが、実際は寝室からホール
説や理念を語る際に用いた「重心」という言葉に注目 まで伸びる廊下、居間の窓際にはホールから書斎(電
し、考察する。
「重心」という考え方が彼の設計理念を 話室)へ向かって L 字型の動線空間となる場所ができ、
とらえる上で鍵となると考えるからである。 実質的な動線空間が建物全体を横断している。担当所
2.吉村順三略歴 員は、
「廊下を斜めにすると、何となくアクセントにな
って西側と東側がきれいにつながったねという感じに
なる。歩いていくと光が(廊下の)横の方から入って
・ ・ ・
きて、こうやる(曲げる)と落ち着いたたまりができ
るでしょ。吉村先生もわたしたちもそうやるんです。」
第一部 作品分析 4)
と述べており、どのように繋ぐかという点に強い関
1.研究方法 心があったようである。
《代々木の家》よりやや早く竣
対象作品は 1979 年に出版された『吉村順三作品集 工した《下総中山の家》
(1953)
(図 2)では、一階が
1941-1978』に収録されたものと、1941 年∼1978 年 凹凸のある形で二階は矩形という構成である。
「ローコ
の『新建築』や『国際建築』などの雑誌に掲載された ストな物件だから、矩形にした方が表面積を小さくて
ものの中から選ぶ。分析に先立ちその一助とするため 経済的なのに、ぼくのところにスケッチがきたときに
に吉村順三設計事務所の元所員、施主に取材を行い、 は、平面はもうガタガタだった。」5) という担当所員の
文献のみでは採集できない情報について、その有無も 証言から、吉村の意図は、一階の凹凸のあり方に反映
含めて確認した。なお、元所員へのインタビューの中 されていることがわかる。西側にアトリエを増築する
で、『吉村順三作品集 1978-1991』に収録された作品 予定だったため全体のバランスを欠くが、応接室と茶
の一部に本人が深く関与していないものがあるとの証 室を雁行させて廊下で繋ぐ構成をとる。廊下を曲げる
言を得た。その理由として、吉村が 1980 年頃体調を ことで三つの空間に区分けしている。斜めの部分は玄
崩ししばらく設計活動から離れ、復帰後もその影響か 関ホール、公私の領域分けの役割を担うクランク状に
ら以前と同様の活動ができない時期があった、とのこ 曲げられた部分、厨房や居住空間である二階の入り口
とである 3)
。ただ、筆者の力不足で同作品集に収録さ の階段前の私的な部分からなる。その結果、部屋だけ
れた作品全てについて吉村本人の関与の度合いを判断 でなく住宅全体に小さく分割された空間が詰め込まれ

!
27-1
たような空間が形成されている。以上のように、この である と述べており、必ずしも居間が住宅の重心と
6)

頃までの作品は手法に違いはあるが、各機能に対応す は限らないことを示す。ここでは居間と家族室を繋ぐ
る空間を明確に区別し、小さな住宅でも動線を長く設 部分が食堂であり、二つの家族の空間を繋ぐ役割が求
定して細かく区切られた空間を移動させることで、多 められたと考えられる。規模が大きい住宅では点在す
くの空間の存在を体感させ住宅を広く感じさせる平面 る家族の空間を繋げるために、居間以外の空間を重心
計画となっている。 とする例も見られる。

図 1《代々木の家》平面図

図 2《下総中山の家》一階平面図

一方、《南台の家》(1957)(図 3)をみると、アプ
ローチを長くし玄関を家の中心に設けることで廊下を
無くし、そのうえでブロックプランのように四角い各
部屋を組み合わせて全体を整形する。この住宅では各
機能が組織化され、居間を重心として一階平面が構成
される。食堂や音楽室へは居間からアクセスする配置
となっており、建具で仕切ることも可能だが機能面で
の連続性や居間を動線の始点とする意識が従来の作品 写真 2-4 居間/居間から食堂を見る/居間から音楽室を見る

よりも強い。暖炉を軸にして置いたソファからは食堂 3.外観
や音楽室が視野に入るものの、各部屋の全体までは視 従来、吉村作品の外観については、木材板の生地を
認することはできない。建具が壁の中に完全に収まり 生かした横羽目や下見張りの外壁仕上げ(写真 6、8)、
開放度の極めて高い居間の窓越しに望む景色は、縁側 長手方向の立面のベランダ(写真 7、8)、特に《浜田
や池の幅は狭いながらも開口の幅よりも両端が長く、 山の家》におけるベランダに二列に貼った板材など、
「重心」である居間からは全体を見渡すことはできな 水平性の強調という面から語られる 。これを作品集
7)

い。この作品以降重心を平面計画の始点に据え、ブロ に未収録作品から検証してみると、初期の作品では外
ックプランにより動線空間を介在させずに各空間を居 壁を漆喰や白ペンキ塗りの白い外壁の作品も見られ、
間に隣接して配置し、全体を視認させないことでその また《日本的な洋風小住宅》(1947 写真 5)は開口部
先にさらなる空間が展開する期待感を喚起させ広さを の間に戸袋を設け水平連続窓に見せ、
《伊勢正義氏のア
体感させる構成へと変化する。また、空間の区別には トリエ》(1953)では切妻の二階建て住宅の一階の開
強い意識があり、部屋の境界部分において床に段差を 口上部に建物をほぼ一周する水平の庇が設けるなど、
設ける、仕上げを変える、垂壁や梁を表しにするなど、 和風住宅と洋風住宅の融合を模索するような作品も見
シームレスに空間を連続させることはなく、別の空間 受けられる。ただし、そこに引用されたのは水平性を
が部屋の外に広がることを意識させる処理を施す。
《池 強調する装置・仕掛けで、階ごとに外壁の仕上げを変
田山の家》
(1965)
(図 4)では吉村本人が食堂が重心 える操作も同様の意図のものと考えられる。山荘建築

!
27-2
に限らず住宅(写真 5,7)でも住環境の向上を求めて 事務所初期の元所員によれば、吉村は「暖炉は床の間
ボリュームを地面から持ち上げた作品では、
《軽井沢山 の代わり」 と述べたということであり、実際、《国
10)

荘》(1962)を除き垂直性や上昇感を強調するよりも 際文化会館住宅》(1955)や《M 氏邸》(1958)には


長手側の立面において水平性を強調することに努力が 床の間風の暖炉がある。1966 年頃には「日本におけ
注がれている。純和風住宅を除いて吉村の住宅作品の る床の間のように、部屋の決め手としての役割を果た
ほとんどが金属葺や瓦棒葺屋根である。これには天井 せるところまでは考えていない」 と述べその考えを
11)

懐を抑えるため に小屋組を簡略化し(図 5)、屋根荷 否定しているが、将来の日常住居として坐式生活を想


8)

重を軽減する意図もあると思われるが、屋根自体は薄 定し設計した《八幡野の週末住宅》(1964)や、設計
く軽やかな印象に仕上げられ、立面に軒先の細い水平 の最終段階で暖炉を設けた 最小限住宅《御蔵山の
12)

線が現れる。
《日本的な洋風小住宅》では柿葺で屋根が 家》(1966)でみると、暖炉が部屋のアクセントとな
薄く仕上げられる(写真 5)。一方で開口部は小壁を小 っている。また、
《池田山の家》
(写真 9 但し、居間は
さく、または省略し桁材の直下から開口部になるため 重心ではない)や《山中湖の山荘》(写真 10)では、
建物の平側立面は屋根が開口部を圧迫しているように 居間に入る際にホールから最初に視界の中央に入るの
見え、立面の垂直方向の伸びやかさを欠く(写真 5-8)。 は暖炉であり、部屋の中へ入り暖炉方向へ進むと、初
《南台の家》でも道路側の東側妻面に、緩やかにむく めて景色が開口全面に捉えることができ、暖炉の位置
りを描く破風板(図 6)をつけることで屋根が立面の 関係から室外から居間に入る人に重心や景色の観測点
上昇感を抑制するような操作を行っている。以上、最 へ誘導する役割をもつ。《八幡野の週末住宅》(図 7)
初期の作品から吉村には、手法に違いはあるものの、 でも同様に玄関ホールから重心へ誘導する位置に暖炉
浮遊感のある軽やかな外観を用い、時には建物全体も があり、ソファやテーブルが無い分、重心や景色の観
しくは部分的にボリュームを持ち上げて建物が地面に 測点の指示体としての役割がより明確である。このよ
定着することを避ける一方で、水平性を強調し、更に うに暖炉は重心を指示、また重心へ誘導する役割とし
はこの水平性を追求するためか屋根と開口部分の操作 て効果的に用いられているが、坐式生活の住宅や施主
に見られたように垂直方向への上昇感を抑制しようと の希望が無い場合 でも暖炉を設けていることに鑑
13)

する志向が強く窺える。これは重心のある階を強調す みて、吉村は暖炉に変わる装置を創り得なかったとも
る立面のデザインと考えられる。 いえる。

写真 5《日本的な洋風小住宅》6《南台の家》7《浜田山の家》8《山中湖の山荘》

図 5《日本的な洋風小住宅》断面図 図 6《南台の家》外観一部

4.内観 居間の壁は部屋にフレキシビリティをもたせるため
吉村の作品では重心が居間である場合が多いため、 にニュートラルな材料を用い、生地そのままにプレー
ここでは居間を分析対象とする。吉村事務所による新 ンに仕上げられる 。壁や天井の仕上げ素材にベニヤ
14)

築物件の居間の 78%に暖炉が設けられている 。吉村 を使用する場合があり、デザインした木製家具にも合


9)

!
27-3
板を使用することが多い。この点に関して吉村は「は 家》以前と以後の作風の変化を見ると、平面計画の面
ぎ合わせのベニヤは嫌いなんです。ロータリーで切っ では、以前は始点が固定されず、動線部分が長くなり、
たのはそのまま木目が見えますし、いいあんばいに安 スキップフロアを用いて立体的な構成が用いられるな
い」 と語っており、安価なこともあるようだが、そ ど、始点が動きながら設計されていることがわかる。
15)

のテクスチャーを好んでいる。
《浜田山の家》
(写真 11) 以後の作品では、始点が動かず固定されることで重心
ではコスト面の理由もあるが、建具や枠にもベニヤが が生まれる。そこを中心に空間を配置しつつ全体をつ
使用され、居間の空間全体をベニヤの表面が覆ってい くりあげるブロックプランとなるため、必然的に図形
る。
《新宮殿基本設計》
(1966)では、コンクリートの 的な重心、生活の中心、動線の始点などの意味も兼帯
柱の表面に型枠で木 するようになる。また、
「重心」を中心として空間が同
目を付け、茶色の塗 一平面上に配置されるために、初期の作品で見られた
料や樹脂系の塗料で スキップフロアや敷地条件に併せた高低差のある平面
塗装することを検討 計画は採用されなくなる。この「重心」のある平面上
するなど、木の特に に水平に空間が展開することが立面の水平性の強調、
写真 11《浜田山の家》居間 板のテクスチャーの 地面への定着の拒否、上昇感の抑制に通じると考えら
再現に強いこだわりを持ち 、板のテクスチャーを被 れる。また、内観の暖炉の位置の変化は「重心」の指
16)

せることで柱の存在感を抑えようとしている。住宅の 示体としての役割の強調であり、人を部屋の外から「重
場合、木製板のテクスチャーで覆うことで壁や天井、 心」へ誘導する役割を持つ。このように吉村の住宅作
家具の存在が消え、暖炉や開口の存在が鮮明になると 品の特質は「重心」から空間が展開する点にあること
考えたのだろう。ベニヤの使用は次第に減るが、晩年 が外観や内観のデザインにも見て取れる。
の作品でも内装の一部や家具に使用され続けることか 結
ら、晩年までこの考えは変わらなかったようである。 以上、本研究では、吉村の作品について次の三つの
第二部 「重心」に関する考察 見解を示した。
《南台の家》の頃に平面構成に大きな変
吉村が美術学校助教授時代の生徒の話では、
「部屋を 化を見せる。そして、それは「重心」が設定され、
「重
つくるとき自分が座って庭を見て気持ちがいいと思う 心」を中心とする設計方法の創出に起因する。外観の
点を基準にする。そこに座ったときにどのへんに壁が 変化も同時期からであり、《南台の家》が設計された
あれば気持ちがいいかと考えると言うんです、彼(吉 1950 年代半を転換期とし、1970 年代の終わりまでそ
村)は。そうすれば、自ずとうしろの壁の線が決まる。 の傾向が続いていた。存在感を抑える役割を木の特に
その次に庭がどれくらい欲しいかという制約と、どれ 板のテクスチャーに、指示体としての役割を暖炉に強
くらい広い部屋が欲しいかということから必然的に南 く依存した。その手法を晩年まで施主の反対が無い限
側の線(壁の位置)が決まる。それを繰り返せば家が り使い続けたことに鑑みると、これらに代わり得るも
できると言うんです。」 と述べたそうである。つま のを創り出し得なかったともいえる。
17)

り、設計の基準が景色の見え方にあり、その観測点が
設計の始点となるということである。また対談で「や
はり自分がいる、要するに安全範囲というものが家の
根本ではないかという気がする」 と述べており、こ
18)

・ ・
の安全範囲や先述の発言にある「部屋をつくるとき」
の始点を中心とした領域を決めることを強く意識して
いる。吉村の言う「重心」とは、景色の見え方から決
められた始点とその始点を中心とする領域であると考
えられる。平面の分析結果から見ると吉村は、どのよ
うに空間が展開するかということに意識が高い。そし
て、空間の境界を明確にすることを強く意識し、シー
ムレスな連続の仕方ではなく、別の空間が重層的に連
続するような平面計画を行っている。そして《南台の

!
27-4

You might also like