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1話

 ガシャン、という甲高い音が室内に響き渡る。

 反射的に両手で耳を塞ぎたくなる程の騒音を撒き散らしたのはカイゼル髭を生やし黒光りしたステッキを携
え、詰め襟の軍服に身を包んでいる30代半ばの男性だ。彼はその右手に握ったステッキで高さ1メートルは
あろうかという巨大な花瓶を叩き割った。

 白い花弁が舞い散り、漏れ出した水が深紅の絨毯に広がっていく。

「どう責任を取るつもりだ!?」

「申し訳ございません!どうかお許しください……っ!」

「ふざけた口をきくな、この低劣めが!」

 男性の表情は怒りに染まっている。鬼の形相とは今の彼を指して使う言葉だろう。

 烈火の如き怒りは花瓶を破壊した程度ではまるで収まる様子はなく、彼の眼前で膝を着き頭を垂れて泣きな
がら謝罪の言葉を吐き続ける使用人へ口汚い罵詈雑言を浴びせかける。

 そんな彼の隣には少年を抱き締めて使用人に軽蔑したような目を向けるきらびやかなドレスを纏った妙齢の
女性の姿もあった。構図としては軍服の男性とドレスの女性が1人の使用人を責め立てている、ということに
なる。

 状況を整理した平沢一希はこう結論を下した。

(……もしかしてこれゲームのイベント?)

 とち狂ったとしか思えないような結論だが、こんな答えを出したのには当然理由がある。一希にはこの人物
と光景に見覚えがあった。

 今彼の前で繰り広げられている一連のやり取りは数年前に発売された家庭用ハードのソフト、1人用RPG
『Brave Hearts』のワンシーンと酷似していた。

 瞬時にそう思い出せたのは一希がこのゲームのファンだからに他ならない。周回プレイの回数も両手の指で
は足りないくらいにはやり込んでいる。
 各イベントシーンにおけるキャラクターのセリフもおおよそ記憶しているのだから間違いようがない。

 軍服の男とドレスの女はゲームに登場するキャラクターの両親であり、涙ながらに許しを請う使用人もメイ
ンキャラクターの母親だ。

 そこまでの状況を把握し、先ほどからドレスの女性に抱き締められている一希は極度の混乱状態に陥って膠
着してしまう。

 どうしてゲームのキャラが動いているのか、そもそもこれは現実なのか、自分の身に何が起こっているのか。

 次々と湧き出す疑問に思考が空転する。

 唐突に訪れた修羅場に理解が追い付かない中、それでも明確になっていることがひとつだけあった。

(いきなりこんな鬱イベントに放り込まれても困るんですけど!?)

 それは仮に眼前の光景がゲームのシナリオをなぞるならば使用人、クララの命が風前の灯だということ。

 一希が鬱イベントと言ったことから察せられるかもしれないが、これは使用人が殺されるイベントである。
クララは軍服らの息子、ハロルドの手によってその命を奪われるのだ。

(肝心のハロルドはどこだ?このシーンじゃ確か心配した母親に……って、まさか)

 そして一希は追い討ちのような事実に気が付く。今の自分の立ち位置がハロルドと同じだということに。

 連鎖的にとある違和感が生まれる。それは視界の高さに起因していた。

 しっかりと両足で立っているにも関わらず視界がかなり低くなっていたのだ。

 このイベントシーンは作中で過去の回想として描かれている。詳細な年数は不明だが、その際のハロルドは
10歳程の少年だった。

 様々な要素が嫌な符合をみせる。

(もしかして俺、ハロルドになってんのか……?)
 それは突拍子もない思い付きだ。何か確証があるわけではない。

 しかしその可能性が頭をよぎった瞬間、背筋に強烈な悪寒が走った。

(いやいや何言ってんだ俺。これは夢だろ、普通に考えて)

 嫌な予感を振り払うように自分へそう言い聞かせる。それが最も常識的で納得のいく答えだ。

 だが理性がこんなものは夢幻だと必死に主張しようとも、抱き締められる温もりが、耳を打つ怒声が、現実
味を持って一希の五感に訴えかけてくる。いくら否定してもこれが夢だとは到底思えなかった。

(じゃあなんだ、これが夢じゃないとしたらやっぱゲームの世界ってことか?あり得ねぇだろ……けどこのリ
アルな感じは現実としか……しかしいくらなんでもゲームの世界って……とは思うけどもしそうならクララさ
んが死んじまうぞ!?)

 理性と本能、二律背反の思考で板挟みに陥った一希はただ呆けることしかできない。思考が堂々巡りを繰り
返すうちに考えることを止めたくなった。

 そんな心とは裏腹に体が自分の意思と切り離されたように動く。

 母親の腕を振りほどくと、足が一歩二歩と前に踏み出した。

「貴様の命乞いなどに耳を貸す価値はない。その穢れた血を私が直々に粛清してやる」

「待って父さん。この女の処刑は俺に任せてよ」

 壁にかけられていた剣を取り使用人をいざ切り捨てようとする男。その背後からハロルドが制止の声をかけ
る。

 それは一希にとって画面上で見慣れた台詞。

 本来のゲームではボイスがあてられていない台詞を、聞き慣れたハロルドの声で、自分が喋っていた。そこ
に自らの意思は全くもって介在していないが。
「お前に?どうするつもりだ?」

「最近新しい魔法を覚えたんだ。その実験台にさせてよ。こんな劣等種の血で部屋を汚すよりいい使い道でし
ょ?」

 自分の口角が上がるのが分かった。一希の感情とは裏腹に悪役らしい笑みを浮かべていることだろう。

 言うまでもないが一希に笑みを浮かべる余裕は微塵もない。訳が分からない状況に置かれた上、体が己の意
思に反して行動を起こすのは耐え難い恐怖だった。

 そんな状態で機転を利かせられるほど一希は豊富な人生経験を積んでいない。この状況で臨機応変な対応が
できる人間は冷静や優秀を通り越してもはや変人だろう。

 幸か不幸か一希は変人ではなかった。

 しかしそれは裏を返すとこのイベントの流れを変えられないということを意味する。

「ほほう、それも一興か。それまでこの女を地下牢に放り込んでいろ!」

 軍服が声を張り上げるとすぐさま現れた兵士に腕を掴まれてクララは連れ去られていく。一希はその後ろ姿
をただ見送る他ない。

「穢らわしい混血め。情けをかけて雇ってやったというのに仕事ひとつまともに出来んとはな」

「所詮は劣等種ですもの。ハロルドの魔法を試すのだから役に立つ方だわ」

「ふん、それもそうか」

 まるで汚ならしい物を見るような、嫌悪感を隠そうともしない眼。この夫婦は使用人のクララを人間とは認
識していなかった。

 通常ならそれに対して一希は不快感を露にしただろう。

 だが混乱で視野が狭まった一希の耳に夫妻の言動は届かない。届いてはいてもその内容をしっかりと知覚で
きていなかった。
 そんな呆然自失の状態に陥ること数十分。周囲の事はおろか、あれから誰とどんな会話を交わしどうやって
この場所へたどり着いたのかさえ何ひとつ記憶になかった。

 意識がはっきりした時、一希は見覚えのない部屋で1人用のソファーに深く腰掛け視線を虚空にさ迷わせて
いた。

「……ここはどこだ?ハロルドの部屋か?」

 力の無い声で呟きながら、宛もなく泳がせていた目でぐるっと部屋の中を見回す。

 ゲーム中に登場したことがないので正確なところは分からないが、部屋の広さと天蓋付きのベッドや腰掛け
ているソファーなどの内装から誰かの個室であることは窺い知れた。

 その部屋の一角に成人男性の背丈を越える大きな姿見があった。

 ごくり、と唾を飲み込んで一希が喉を鳴らす。

 震える膝にありったけの力を込めて立ち上がり、覚束ない足取りで姿見へと向かう。

 自身の仮説を確認するために。その仮説が外れていることを祈りながら。

 一歩、また一歩と近付くにつれ心臓の鼓動が激しくなり、呼吸も早く浅くなっていく。それでも一希はその
足を止めることはしない。

 そしてついに、姿見の前に立つ。

 俯いて自身の足先しか見えていなかった顔をゆっくりと上げる。

 姿見と相対し、強く瞑っていた瞼を開く。そこへ映し出されていたのは紛れもなく――

「嘘、だろ……」

 無情にも、少年時代とおぼしきハロルドの姿だった。

2話
 艶のある黒髪に赤い瞳。日本を飛び出しアジアからもかけ離れた造形の容姿はハロルドの面影を嫌でも感じ
させる。

 身長はおよそ140センチほどで年齢はやはり10才前後。

 ピンタックの付いた純白のクロスタイブラウスに膝丈のハーフパンツという装いで、まさに絵に描いたよう
な名家の英国少年といった風体である。

 平沢一希はハロルド・ストークスへと成り代わった。受け入れがたいが、それが事実なのはこれでほぼ確定
した。

 その理由も方法も分からない。果たしてこの事態が憑依と呼ぶべきものなのか、ただ恐ろしいほどリアルな
夢を見ているだけなのか。それとも平沢一希とハロルド・ストークスが入れ替わったのかもしれないし、もし
かすると平沢一希という自意識はこの体の持ち主の気が触れて生み出された妄想に過ぎないのかもしれない。

 自己を証明する要素の喪失。足元が崩れ去るような感覚に襲われ、力が抜けそうになった膝に手をつくのと
同時に込み上げてきた嘔吐感を寸でのところで食い止める。

 息が苦しい。目眩で視界は白く染まり、胃酸が逆流しようと暴れ回る。

 とにかく酷い気分だった。

 もうこのまま全て投げ出して眠ってしまおうか。そんな投げやりな気持ちで一希はベッドに倒れ込んだ。す
でに思考を働かせる気力すらない。

 寝て起きたら夢オチで、マジ焦ったわーとか呟きながら冷や汗を拭う。そんな希望にすがって手放しかけた
意識は、しかし扉をノックする音によってハロルドの体へと引き戻された。

「……入れ」

 無視を決め込むという選択肢も頭を過った。

 だが深く考える前に口は返答を吐き出していた。それがハロルドの意思なのか、一希の無意識だったのかも
判然としない。

(ああ、でも“俺”ならいきなり「入れ」はないよな)

 誰かも分からない相手にそんな不遜な物言いをするほど一希は礼儀知らずではない。となると先程と同じよ
うに体が勝手に動いたのだろうか。
 返答してしまった手前仕方ない、と気だるい体を起こしながらそんなことを思い付いてさらに気分が沈み込
む。

 だからといって来訪者が入室を控えてくれるわけもない。白髪混じりの男性が扉を開き恭しい一礼を見せて
から部屋へと踏み入ってきた。

 その顔を見て一希は相手が誰なのか認識した。

 ノーマン。

 この屋敷で執事を務める彼はプレイヤー達から『ストークス家の良心』という異名を与えられ、親しみを込
めて「ノーマンさん」と呼ばれるキャラクターである。ただの執事であり血縁者というわけでもないのでスト
ークス家の一員ではないのだが。

 ともかくヘイト値高めなストークス家関連のイベントにおいて心の清涼剤となる彼が一希ハロルドの自室を
訪ねてきた。

「失礼致します」

「何の用だ?」

「実はハロルド様にご相談したいことが……」

 言いかけてノーマンの言葉が途切れた。

 不審に感じて一希はノーマンの顔を見つめ返す。すると返ってきたのは困惑したような言葉だった。

「もしや体調が優れないのですか?でしたら……」

「問題ない」

「しかし顔色が――」

「問題ないと言っている」
 なんとも無下な態度でノーマンの気遣いを切って捨てる。

 正直なところ問題しかないのだが、「実はハロルド君に憑依しちゃったみたいです」とバカ正直に伝えられ
る訳もない。なのでやんわり断ろうとしたらこの有り様だ。

 どうもこの口は言葉を自動的にハロルド口調へと翻訳してしまうらしい。先程の「入れ」もこの口の仕業だ
ろうか。だとしたらなんとも迷惑な機能である。

 対してそんなハロルドの素っ気ない反応にノーマンは大きな違和感を感じていた。

 彼が知るハロルドという少年は我慢することを極端に嫌う。努力はせず、苦痛からは逃げ、気に障るものは
全て排除しようとする。

 それを全面的に容認する両親にも大きな責任はあるのだが、つまりハロルドが体調を崩しているならばこう
して堪えるなどせず体の不調を大袈裟に訴えるはずなのだ。

 ところが今日に限ってそうはせず、顔を真っ青にしながら話の続きを促してくる。

 時間を改めるべきかとも考えたが、ハロルドの目が「早く語れ」と訴えているのを見てノーマンは言葉を続
けた。

「……では手短に。クララに課した処罰の軽減をお願いしたいのです」

 一希は言われて思い出す。自分が今、人の命を握っているという事実を。

 ハロルドに成り代わってしまったという衝撃があまりにも大きすぎて完璧に失念していた。

 新しい魔法の実験台にするというのはイベントのセリフを口が勝手に消化しただけであり、もちろん一希に
そんな心積もりは一切ない。

 なのでノーマンの申し出を二つ返事で快諾しようとして、しかしそれを言葉にすることができなかった。

 ハロルドの意思が邪魔をしたとかそういう訳ではない。一希自身が言葉を飲み込んだだけだ。

 なぜか、と問われれば原作の知識を持っているからと答える他無い。

 原作通りならば使用人のクララはハロルドの魔法によって焼き殺される。それによって身寄りをなくした彼
女の娘・コレットはストークスの領地から追い出されてしまう。
 やがて心身共に疲弊して行き倒れたコレットを保護し、それから同じ屋根の下で暮らすことになるのが原作
主人公とその家族なのだ。

 早い話がコレットはメインヒロインであり、ここでクララを助けてしまえば主人公と出会う本来のストーリ
ーから大きく解離してしまう。一希はそれに気付いて返答に窮したのだ。

 これはあくまでも可能性の話だ。

 別にクララを助けても殺してもコレットは主人公と出会い、仲間になるのかもしれない。歴史の修正力、な
どと呼ばれる事象だ。

 もし一希が好き勝手に動いても修正力が働くならば良くも悪くも気にする必要はない。

(でもそんなものがあったら原作のイベントは回避できないし俺のお先が真っ暗だ。ここは修正力なんて存在
しないものとして考えておこう)

 そうでもしておかないと一希の精神衛生上よろしくなかった。

 だが逆にいえば修正力なんてものが作用しなければ原作知識を有する一希にとってハロルドが犯したクズ行
為を避けて好感度を下げさせないように振る舞うのは困難極まる話ではない。

 一希の心に希望の光が差す。

(その為には原作からの大幅な解離はアドバンテージを失うことになるから下策だよな。大まかなシナリオは
変化させずに結末だけまともな方向に誘導できれば……!)

 このまま何も行動を起こさずシナリオが原作通りに進行すれば、どうせ一希ハロルドは数年後に死を迎える
ことになる。それはなんとしても回避する。

 しかし原作のストーリーを破壊してしまうとどんな影響が出るか分かったものではない。ましてやRPGと
いう死が近い世界だ。

 そんな世界において大まかな未来の流れを知っているのは最大の強みであり、これを放棄すれば原作にはな
かった展開で死にかねない。

 弱肉強食の世界と膨大な死亡フラグ。その両方を相手取って生き残るには原作の流れを汲みつつ、自分のフ
ラグを叩き折っていけばいいのだ。

 とにかく死にたくなければご託を並べる前にできることをやるしかないか、と一希は腹を括った。

 そんな強い決意を宿した一希ハロルドの瞳にノーマンはドキリとする。このような目をする彼の少年は見た
ことがなかったからだ。
「クララ、とはあの使用人だな?アイツを助けるために俺が行動を起こせというのか、貴様は」

 口を開いたことを一希はすぐさま後悔した。

 一希としては「クララさんってさっきの使用人の方ですよね?助けたいのは山々ですが俺は大っぴらに動け
ないんです」と口にしたつもりなのだ。それをどう意訳すればこんな発言になるのか。

 当然ながらノーマンの表情も気落ちしたように曇る。

(これはイカン!)

 非常にマズイ流れになっているのを一希は肌で感じていた。このままではヘイトポイントが従来と同じく加
算されてしまう。

 なんとか取り繕おうと必死に言葉を絞り出す。

「助けたいと思うならまずは自分で動け。話はそれから聞いてやる」

「そ、それでは……!」

「くどいぞ。さっさと行け」

 予想以上の悪態を発する自分の口に焦った一希は半ば追い出すようにしてノーマンを退出させた。

 そんな扱いでも感謝を述べて出ていった彼を見て、なんとか協力する意思があることを伝えられたらしいと
安堵する。

 ベッドへ今度は仰向けに寝転がり、一希は自分の軽率な考えを深く反省し始めた。

 早くも前言撤回せざるを得ない。この口がある以上、好感度を下げずにイベントの結末だけを変化させるの
はかなりの難題となりそうだった。

 だからと言って「やっぱり諦めるか」というわけにもいかない。
 最悪の状況を想定するならばこの世界での死が正しく平沢一希の死へと直結する場合が最も困るのだ。ここ
で死ぬことによって元の世界に戻れる可能性もあるが、それを試すにはリスクが高過ぎて行動には移せない。

 なのでこの状況から脱する糸口が掴めるまではハロルド・ストークスとして原作に沿いつつクズ的行動を避
けていくのがベストな手段だ。

 そうやって原作に近い位置で世界の流れを注視していけばここが『Brave Hearts』と同じ世界なのか、似
て非なる別物なのかもはっきりするはずだ。

 そして今一希がすべきことは何か。それは現状を把握するための情報収集である。

 希望を見出だしたことで若干気力を回復させた一希は、ベッドから降りて引き出しや本棚を漁り家捜しを開
始した。すると部屋の中には雑貨以外にもゲームに登場するアイテムがいくつかしまってあった。

 本棚に収納されていたのは魔法に関する書籍や挿し絵の多い伝記などがほとんど。幸いなことに記されてい
たのは日本語であり一希でも読むことができた。

 やはりメイド・イン・ジャパンの世界なのかもしれない。

 一通り家捜しを終えると次は部屋を出た。クララと話をするためだ。

 近くにいた甲冑の兵士に声をかける。

「おい、貴様」

「ははっ!」

 兵士が片膝を地につけて頭を下げる。

 ちなみに言葉遣いに関してはいちいち気にしないことにした。

「クララという使用人が収監された地下牢まで案内しろ」

「地下牢へ、ですか?」

「なんだ?文句があるなら聞いてやる」
「いいえ、ありません!こちらです!」

 きびきびした動きで兵士が先導する。甲冑がガチャガチャ煩い。

 夜中に邸内を彷徨かれたら迷惑になりそうだ。

 そのまましばらく兵士の後ろへ着いて歩く。

 到着したのは屋敷の裏手に建てられた石造りの寂れた3メートルほどの棟だった。

「ここが地下牢です」

「収監されている人数は?」

「今は1人のはずですが……」

 となるとこの中にはクララしかいないらしい。一希にとっては好都合だ。

「貴様はここに残り誰も入らないように見張っていろ」

「か、かしこまりました」

 兵士を外に立たせ一希だけが木の扉を開いて棟の中に入る。

「は、ハロルド様!?うおっ!」

 詰め所のような造りをしている手狭な部屋にはこれまた兵士の姿があった。椅子を並べその上で横になって
いる、というあからさまなサボりの態勢である。

 焦って身を起こそうとした兵士は椅子から転げ落ちた。一希はそれを無視して部屋の左隅、地面に取り付け
られた地下牢へと続いているとおぼしき鉄格子の扉に手をかける。
 引いてみるが扉は固く閉ざされていた。

「鍵をよこせ」

「は、はい!」

 兵士が壁にかけられている鍵の内、1つを一希に手渡す。それを鍵穴に挿し込み左に回すとガチャンと錠が
開いた。

「地下牢の人間に話がある。貴様は入ってくるなよ」

 釘を刺し、万が一閉じ込められないように鍵を持ったまま地下牢へと続く階段を降りる。

 階段は薄暗く足元もよく見えない。転ばないように10数段の階段を降り終えるとようやく牢獄へと辿り着
いた。

 左右に2つずつ、計4つの牢獄。中には藁を集めただけのベッドらしきものと剥き出しの簡易トイレくらい
しかない。

 奥の壁の上部には縦20センチ、横30センチほどの小窓があり、そこから僅かな光が射し込んでいるだけ
だ。

 クララが収監された右奥の牢獄前で一希は足を止める。

「貴様がクララ・アメレールで間違いないな?」

「ハロルド様……?」

 一希からもよく見えないように、クララからも牢獄の前に立つ人物の顔は窺い知れなかった。

 人影が小さかったこと、そして声で相手が誰であるかなんとか判別できた程度だ。

 しかし疑問も浮かぶ。
 なぜ彼がここに来たのか、という疑問だ。

「もしかして……もう、なのですか?」

 声が震えた。

 新しい魔法の実験。自分の前に立つ少年は先ほど確かにそう言っていたのだから。

 ならばもうその時が訪れたのか、とクララの顔はさらに絶望の色を刻む。

 だがハロルドからの返答は予想から大分外れたものだった。

「貴様が望むならそうしてやる。だが今は別件だ」

 腕を組んだハロルドが向かいの牢の鉄格子に背を預ける。

 別件とはなんだろうか。この屋敷に勤めて2年になるがハロルドと直接会話を交わしたことは数えるほどし
かないクララは首を傾げる。

「別件、ですか?」

「ただの確認だ。貴様は俺の質問に嘘偽りなく答えろ」

「……はい、何なりとお答え致します」

 有無を言わせぬ迫力にクララは頷くしかなかった。

 我を通そうとする普段の癇癪とはまるで別物。年に似つかわしくない落ち着きさえ発するハロルドの空気に
呑まれてしまう。

「貴様の家族構成は?」

「娘が1人おります」
「名前は何だ?」

「コレット、と申します」

「それ以外の肉親や身内はどうなっている?」

「夫とは駆け落ち同然で村を飛び出したので実家とはそれ以来絶縁状態です。夫も病で3年前に……」

(コレットが母親以外に身寄りがなかったのにはそういう理由だったのか)

 質問の目的は原作知識との擦り合わせである。

 クララは処罰とは全く関係のない事柄を次々と聞かれて困惑していくが、一希はそれに構わず根掘り葉掘り
問い質す。

「娘の年齢は?」

「今年で9つになります」

「魔法を使えたり武術の経験はあるか?」

「いえ、そういったものは特に……」

 時間にして数分。一希は淡々と質問を繰り返した。中々の成果である。

 クララからの情報は全て一希の知識と一致した。これで今の段階で得られる情報は出揃ったし、今後の方針
も決めることができた。

「以上だ。じゃあな」

「お待ちください!」
 立ち去ろうとした一希ハロルドをクララが呼び止めた。

 足を止めて振り返る。

「……何だ?」

「私が死ねば娘は……コレットは天涯孤独の身となります。あの年では1人で生きていくこともままなりませ
ん……」

 クララは涙を流しながらそう語る。

「ですから私が亡き後、どうかコレットをよろしくお願いします!あの子には罪はありません。どうか、どう
かお願いします……!」

 自らの命よりも我が子の将来を案じて冤罪を吹っ掛けてきたに等しい憎いはずの相手に這いつくばって頭を
下げ懇願する。

 本当のハロルドならその姿を嘲り笑うのかもしれない。

 だが一希ハロルドは違う。今の彼がクララに感じたのは母親の娘へ対する無償の愛だ。

 もうじき終わる自分の命よりも娘の幸せを願う母親を笑うなど一希にはできない。彼女はコレットに絶対必
要な存在なのだと確信した。

 そんな人間を殺すなどあり得ない。

「不様だな。その姿も、意味のない杞憂に囚われる愚かさも」

 ハロルドにとってはこれが慰めの言葉になるらしい。一体どこまで尊大なのか。

「それは、どういう……」

 クララの質問には答えず一希は歩き出す。これ以上彼女の前にいてはもらい泣きしてしまいそうだったから
だ。
 しかしそれでは彼女を不安にさせてしまう。背を向けたまま手短に一希はこう告げた。

「それほど愛しているならばもう二度と手離すな」

 やがて足音も消え入口の鉄格子が閉ざされる音が地下牢に響く。

 クララはハロルドが消えていった闇をぼんやりと眺め、彼が残した言葉を噛み締めた。

「この絶望は杞憂なのですか……?私はまた、コレットをこの腕で抱けるのですか……?」

 クララが漏らした呟きに答える者は居らず、その言葉は静寂の中に吸い込まれていく。

 なぜだろうか、その静寂が今の彼女には優しさのように感じられたのだった。

3話

 重要な情報を手に入れたとはいえ問題の解決にはまだほど遠い。クララとコレットを助けるための具体的な
策を練る必要がある。

 とりあえず2人にはストークスの領地から出て、原作主人公のライナー一家が暮らすブローシュ村に移り住
んでもらおうと一希は考えていた。

 クララが存命のままでコレットとライナーが出逢う確率はこれが最も高いはずである。原作をプレイした限
りブローシュ村は決して大きくはないし、ゲーム中のライナーの発言から村の子どもは全員顔見知りだったと
いうことも分かっているのだ。

 問題はコレットとライナーが原作ほど密接な関係になれるかどうか、なのだが。

 クララが生きていればコレットがライナー一家と共に暮らすという状況を作り出すのは難しい。

 ならばなんとかしてコレットを幼馴染みポジションに据えられないものかと思案する。

 うむむ……と唸っていても妙案は浮かばない。そんな行き詰まったタイミングで現れたのは他ならぬノーマ
ンだった。

「失礼致します」
 数時間前と全く同じ動作で頭を下げるノーマンを見て一希は、さすが鍛え抜かれた執事は違う、と無意味な
感動を覚えた。

 先程と異なる点があるとすれば両腕に抱えられた紙の束だろうか。

「ハロルド様、ご気分の方は……」

「何度も言わせるな、問題ない。で、それはなんだ?」

「ストークス領周辺の地図と領内外に位置する近隣の集落に関する情報でございます」

(ノーマンさん有能!)

 というキャラ崩壊を招きかねない歓喜の声は抑え込んだ。まあ発したところで「ほう、少しはやるじゃない
か」くらいの賛辞かどうかも怪しい言葉に訳されるのだろうが。

 それにしてもノーマンは僅か数時間で山のような情報をかき集めてきたらしい。その間の仕事はどうしたん
だという疑問は無視することにした。

「大層なことだな。それで貴様はどうやってあの使用人を救うつもりなんだ?」

「……非常に申し上げにくいことですが、私としてはストークス領外に移住させるのが理想と考えておりま
す」

 これはノーマンにとって大きな賭けだった。

 領民を外へ出す、ということは労働力と税を納める人間を減らすということだ。最初から殺すつもりなら気
に留めはしないかもしれないが、ハロルドがそう考えているとは思えなかった。

 しかしそれ故に労働力と税収が他貴族のものになることを不快に感じるかもしれない。

 貴族の面子、というやつだ。
「そうか。候補の町はどこだ?」

「そ、それは此方に……」

 だがハロルドの何事もないような対応に、警戒していた分ノーマンは肩透かしを食らう。

 肝心のハロルドはノーマンの話を聞きながら持ち込まれた資料に目を通している。その姿勢は真剣そのもの。

 むしろノーマンの提案に乗り気ですらあるかのように、問題となりそうな箇所の解決策をすぐさま勘案し始
めた。

「領外へ移住するとなると揃えなければならない物が多いな。そもそも他貴族の領地間は気軽に行き来できる
のか?」

「個人であれば特に規制はありません。しかし慣れぬ土地に何も持たず送り出されては生活も儘なりますまい。
最低限の物資は必要かと……」

 そうなれば小型の荷馬車を使う必要がある。もちろんストークス家の荷馬車だ。

 そして貴族や商人の馬車となると通過するために通行証が必須となる。

「物要り、加えて娘も一緒となれば馬車を利用せざるを得ないな。通行証もどうにかするしかない、と……全
くもって面倒この上ない話だ」

 言葉とは裏腹に資料から目は片時も離れない。

 そしてノーマンはハロルドが当たり前のようにクララとその家族を把握していることに驚いていた。普段は
両親と同じように無関心だとばかり思っていたのだが。

(もしや……いえ、そうなのでしょうな。ハロルド様はこの歳にして民のことを真に想っているのだ)

 だから彼女を助けてほしいと進言した当人にも自らで事に挑めと仰ったのではないか?

 そう考えれば全てが腑に落ちる。
 魔法の実験台などと嘯いたのも斬り殺されそうになった彼女を一時でも安全な場所に隔離するためではない
のか。

 たった1人では実利など皆無に等しい労働力や税収の移譲に難色を示さないのは見栄を持たず本気で彼女を
救いたいがためではないか。

 今後のことを考えればクララはストークス家の力が及ばない地へ逃げるのが最も安全なのだ。ならばその提
案を拒否するはずがない。

 彼は最初から彼女を助けるために動いていたのだ。図らずもその助力を申し出た自分に本気を求めるのは当
然だった。

 ノーマンの胸に熱いものが込み上げてくる。そして同時にハロルドに対して疑念を抱いた自分を恥じた。

 1人の使用人を救おうとここまでひた向きに方法を模索している少年を疑うなどあってはならない。

 彼が本気なら自分も本気にならなければ。そう思うと口調にも自然と熱が入る。

「こちらの町ではこれからの季節に収穫祭で常に人手が必要となり……」

「ストークス領に比べると物価が高い。安定した収入が得られる環境がなければ……」

 自分の意見に対し、ハロルドは資料を元に的確な指摘を行う。その思考力・視野・知識は10歳のそれでは
ない。

 中身が大学生なのだから出来て不思議はないのだが、それを知らないノーマンには一希ハロルドが神童に思
えてならなかった。

 素直な思いを口にするならノーマンはストークス家に良い感情は微塵も抱いていない。

 現在の当主とその妻は純血主義にして選民思考の塊だ。純血貴族以外は見下し、領民を人とも思っていない
のだ。

 だがそんな2人の息子である彼は違った。

 安易な偏見に囚われず、人として大切な倫理観を持ち、大人と遜色のない物の見方ができる。

 この少年はストークス家を変える希望の光なのではないか。そんな期待を抱かずにはいられない輝きをハロ
ルドは放っていた。

「――以上でございます」

 結局、ヒートアップした話し合いが終了したのは開始から2時間以上経過した頃だった。窓の外ではもう空
が茜色に染まっている。

 ノーマンとの意見交換によって一希にも見えていなかった細かい部分にいくつか気付くことができた。

 これで2人をブローシュに移住させる算段の見通しは概ね立った。

 迷うのは決行日をいつにするかである。原作をプレイした限りハロルドがクララを殺すまで大きな日数の経
過は感じられなかった。

 最短で当日の夜、長くても翌々日といったところだろう。

 大幅な遅延さえなければ原作に影響は出ないだろうが、保険をかける意味でも今日を含めて3日の内には決
行したい。あまり焦らせて両親に疑惑を持たれる事態も避けたいからだ。

 とはいえ今日これからというのは現実的ではない。ならば明日か明後日だろう。

「ノーマン」

「はっ」

「決行は明日の夜だ。通行証は俺がどうにかしてやる。貴様はそれまでに準備を整えておけ」

「承知致しました」

 悩んだ末、一希は翌日の決行を選択した。

 ハロルドの性格からしてクララを殺したのは恐らく当日、つまり今日の夜だ。なるべくそれに近い状況にし
たかったための判断である。

 退出するノーマンを見送り、1人きりとなった部屋で西陽を浴びながらこれから明日夜までの行動とセリフ
を何度もシミュレーションしていく。

 絶対に失敗は許されない一発勝負。なにせ人の命まで背負っているのだ。

 これで緊張しないはずがなかった。

 その緊張を振り切るように一希は一心不乱にシミュレーションを繰り返す。

 夕食の時間となり、没入した意識が現実に引き戻されるまで、ずっと。

 その甲斐あってだろうか。

 いざ夕食が始まり父親を欺くための嘘をすんなり切り出すことができたのは。

「そうだ、父さん。お願いがあるんだ」

「どうした?ハロルド」

「最近レイツェに鍛冶屋が店を開いたらしくて、そこの剣がすごいんだって。俺もそれが一振り欲しいんだ」

「ふむ、ならば商人にそこで適当に何本か買ってこさせるか」

「それじゃ時間がかかるよ。俺は今すぐにでも欲しい」

「ハロルドは本当に勇敢ね。将来はアナタのように立派な貴族になるわ」

 ほほほほ、と笑う母親。

 剣を欲しがっただけでなぜ勇敢なのか一希にはさっぱり分からないが、援護射撃には違いないので利用させ
てもらうことにした。

「母さんもこう言ってるし、ねぇいいでしょ?通行証があれば遣いに買いに行かせられるからさ!」

「ハロルドがこんなに欲しがっているんですよ?一筆したためてあげれば良いじゃないですか、アナタ」
「そうだなぁ。では明日の朝に通行証を書いてやろう」

「ありがとう父さん!」

 笑いに包まれる食卓を一見すれば、仲の良い幸せな家庭。

 だが周囲の使用人達にその光景を温かく見守る者はいない。

 皆分かっているのだ。彼らは自分達を路傍の石のようにしか見ていないことを。

 居ても居なくても同じ。そもそも眼中にないのだから。

 雇い主の一家とはいえ、そんな連中を好ましく思うはずがない。

 当主とその妻以外にとっては寒々しい団欒が夜と共に更けて行く。

 だが、それが偽りの光景だと知る者はこの場にはいない。

 一希とノーマン以外は。

4話

 翌日、この日は朝から精力的に動き回っていた。

 主に2人の兵士が、である。

 両者とも昨日の一希の行動を知る兵士だ。

 今回のクララ救出計画は箝口令を徹底させるため関わる人間は可能な限り少ない方が好ましいと考え、一希
は守秘において信用できる人物か昨日の内にノーマンへ確認を取っておいたのだ。

 ノーマンからの返答はイエス。一希にとっては幸いだったが、兵士達にとってはそう言い難い。

 朝早くにハロルドから呼び出され、一体何事かと戦々恐々しながら部屋へ赴けばいきなり使用人の救出計画
について説明されたのだ。
 状況への理解が追い付かない中で兵士2人と、彼らと同じように呼び出されていた荷馬車の騎手の心に強く
刻まれたのは、この計画が失敗したり第三者に露見すれば自分達の命が危うい、ということだった。

 そんなわけで兵士の片割れは次々と下される命令をヒィヒィ言いながらこなしている。もう1人の方も今頃
町中を駆けずり回っているだろう。

 楽をしているのは夜まで仕事の無い騎手だけである。

「は、ハロルド様、買って参りました……」

「見られない内に地下牢に放り込んでおけ。それが終わったら次は馬に乗って街道までの経路を自分の目で確
認してこい」

「馬はまだ連れてきてないんですが……」

「邸のを一頭拝借していけばいいだろう。ただし怪しまれるような怪我はさせるなよ。日が暮れる前には戻し
ておけ」

 情け容赦のない、正にスパルタ。

 釈明するならば一希自身もそれなりにテンパっているため周囲に気を配る余裕があまりないのだ。

 顔を引きつらせた兵士が馬屋へ向かったのを確認してから一希は魔法の練習を再開する。

 練習しているのは低級魔法の『フレイムカラム』、直訳で火柱。原作でハロルドがクララを殺す際に放った
と思われる魔法だ。

 実際はどうだか分からないが、ムービーシーンを見たプレイヤー達の間では「たぶんフレイムカラムだろ
う」という認識が主流なのでそれに則ることにしたのだ。

 まあそれは割りとどうでも良いのだが、如何せん威力が弱い。

 最初は恥ずかしさに加え本当に魔法を使えるか半信半疑で詠唱を行った。驚いたことに一発で成功したのは
さすがに興奮したのだが、よく見れば火柱の高さは40センチに満たず太さもアルミ缶ほどの小さなものだっ
た。
 原作では成人女性が優々と収まる高さと太さがあったし、戦闘画面では目測で2~3メートルの火柱だった
はずである。

 この体が本当にハロルド・ストークスのものなら一希にだってできるはずなのだ。

 クララを焼き殺しはしないのだからそこまでの火力がどうしても必要なわけではないというのは一希も分か
っている。本番でもイベントムービーほど広範囲に魔法を発動するつもりはない。

 とはいってもクララを逃がす以上死体を出すわけにはいかず、どうしても“消し炭すら残らない火力で焼き
殺した事実”が必要になる。そのために一希は魔法の練習を兼ねて先ほどから地面や木の幹、葉に焦げ目をつ
けている最中だ。

 拓けた場所ではあるが木々が生い茂る森の中。山火事など起こさないよう細心の注意を払いながら実に地道
な作業を繰り返している。

「ふう……この程度で良いだろう」

 独り言ですら不遜な声色は変わらない。これがハロルドにとっては素の喋り口調だということだ。

 まあそれはそれとして、ひとまず辺りを焼け跡のように偽装し終えた。後は本番でこれ見よがしに火柱を立
てておけば死体が燃えつきても不思議はないと判断するだろう。

 正直なところ不安はある。というか不安だらけだ。

 自分の判断で人1人が生きるか死ぬかの分水嶺なのだから、これで心中が穏やかであろうはずがない。

 所詮ゲームのキャラクターだとしても実際に言葉を交わし、その感情に触れた一希にとって彼らはもう既に
人間だ。ただのアイコンとして見ることは到底できない。

 どれだけ準備を整えようと「これで絶対大丈夫」と納得することはできないだろう。

 だが今はそれがかえって一希にとって幸いでもあった。

 気が付けばゲームの中らしき世界に迷い込み、キャラクターに憑依しているという未曾有の体験を現在進行
形で味わっている。こんな状況下で平静を保つことは容易ではない。

 しかし今の一希には命に差し迫る危機が目に見えており、それをなんとか回避するために思考を割いている
おかげで他の事柄に構う余裕がなかった。一種の現実逃避に近いのだが、そうすることによって精神的安定が
確保されているのは動かざる事実だ。
 これで本当に大丈夫なのか、考えた計画に不備が存在するのではないか、まだ他にやっておくべきことがあ
るのではないか。

 一希は思考を一切止めることなく日が暮れるまで入念な準備に没頭し続けた。

 そして迎えた満月の夜。

 月明かりに照らされた森の中へ兵士に連れられてクララがやってきた。

 その姿は使用人が着るメイド服ではなく町中によく馴染む普段着である。日中、一希が兵士に買いに行かせ
それに着替えておくよう指示させたものだ。

「あの……」

「黙っていろ」

 不安げなクララの声をピシャリと遮る。未だに一希の緊張は継続中だった。

 それからしばらくは無言の張りつめた時間が続く。一希、ノーマン、クララ、兵士A――昨日サボっていた
方――の間に降りた沈黙を破ったのは、遠くから聞こえる馬の蹄が大地を駆る音だ。

「……ようやくか」

 森の奥、町の方角から草木を押し退けて兵士が小さな女の子と2頭の馬を従えて姿を現した。

 お互いを見るなりクララと女の子が声を上げる。

「ママ!」

「コレット!」

 馬から降ろされた少女をクララが強く抱き締めた。それを尻目に一希は兵士からの報告を受ける。

「遅くなりましたハロルド様。馬を引きながら森を突っ切りましたもので時間が……」
「それはどうでもいい。あの娘を連れてくる際、町の人間には姿を見られなかっただろうな?」

「問題ありません。ですが彼女と同じように町から邸へ通っている者が事情を漏らしてしまったようで、既に
クララが殺されるかもしれないという噂が広がっています」

「ちっ」

 思わず舌を鳴らす。言われてみれば当然のことだがそこまで頭が回っていなかった。

 やはりまだ冷静にはなれていないようだ。

 だが今それを気にしている暇はない。後悔と反省は後回しだ。

 涙を浮かべて抱き締め合う2人に歩み寄り声をかける。

「貴様らに選択肢を与えてやる」

 一希ハロルドを見上げる2人の顔の前で人差し指を立てる。

「1つ、ここで死ぬ」

 一希の言葉にコレットがひきつったような声を上げた。対してクララは一希の目を真っ直ぐに見つめたまま
だ。

 その眼前で次は中指を立てる。

「2つ、この地を捨てストークスの領外で新たな生活を始める」

「えっ?」

 この提案にはさすがにクララも目を大きく見開いた。領外、つまり他貴族の領地へと移住すればストークス
家に干渉されることもなくなる。
 すなわち無罪放免だ。

「後者を選ぶなら貴様らは死んだことになる。二度とこちらに戻ってくることは許さないし、今まで築いた繋
がりも全て断て」

「……許していただけるのですか?」

 半ば呆然と、呟くようにクララがそう漏らした。

「なんのことだ?」

 しかしハロルドは尊大な態度で聞き返す。一希としては「なんのことですか?」と笑顔で惚けたかったのだ
が。

 だいたいこの騒ぎの原因はハロルドが花壇で水やりをしているクララにぶつかってずっこけた挙げ句泥塗れ
になる、という実にしょうもない出来事だったとゲーム内で明らかになっている。これで殺されるなど不憫ど
ころの話ではない。

 だからこそ原作でのコレットのハロルドへ対する恨みは相当なものだ。

 もちろん一希としては微塵も腹に据えてなどいないし、記憶があるのはその後からなので怒りようがない。

「良いからさっさと選べ。俺としては殺してしまう方が楽で助かるぞ」

「……申し訳ありません。私はまだこの子と一緒に生きて行きたいと思います」

(ですよねー)

 これで「殺してください」なんて言われたら苦労が全て水の泡だ。

 第一、人を殺すなんて所業が一希にできる訳もない。
「ふん、つまらん。ならこれを持っていけ」

 一希は懐から麻袋を取り出して無造作に投げ捨てる。その口紐を解いて中身を目にしたクララは再び驚きに
よって硬直した。

「こ、これは……?」

「手切れ金だ。まさかその意味が分からないなんて抜かすなよ」

「――ありがとう、ございます」

 クララは地面に手を着き、声を震わせながら感謝を述べた。

 お金自体は剣を欲しがるハロルドのために父親が渡した小遣いなので一希としてはその感謝を素直に受け取
りづらい。

「貴様にはこれをくれてやる」

 内心の気恥ずかしさを隠すように一希はコレットにもとあるものを手渡した。

 それは翼を模した黒曜石と銀色に輝く一本の剣という、聖王騎士団のエンブレムが装飾されたネックレスだ
った。ハロルドの部屋を家宅捜索している最中に発見した代物である。

「これを肌身離さず、常に首から下げていろ。貴様らを逃がすことへの条件だ。分かったな?」

「は、はいっ」

 コレットは怯えながらも首を縦に振る。

「……だが、もしそれを欲しがる男が現れたら渡せ。年が近く多少なりとも腕が立つような奴にだ。その代わ
り騎士として貴様を守るように約束させろ」

「えっと……?」
 やたらと細かいハロルドの指示にコレットは混乱する。もっと噛み砕いて説明したくともこの口がそれを許
してくれない。

 すると横から助け船が入ってきた。

「ハロルド様はあなたを守ってくれる人にそれを渡しなさい、と言ってくださっているのよ」

 ナイス意訳、と一希は小さく拳を握ってガッツポーズ。

 意味を理解したコレットは首を縦にコクコクと今度は2回振った。

「わ、分かりました」

「ならもう行け。これ以上貴様らに手を煩わされてはかなわないからな」

 振り返り、一希は2人の兵士に指示を出す。ここからはクララとコレットを馬に乗せて街道付近まで運ぶ手
筈になっている。

 あとは兵士ABと荷馬車の騎手に任せる他はない。

「ハロルド様。本当にありがとうございました」

 馬にまたがる直前、クララとコレットは揃って深く腰を折りながらそう告げて去っていった。

 きっとあれやこれやと手を尽くしてくれたことへの感謝なのだろう。

 だが元はといえばハロルドが原因なのだから礼を言われる筋合いはないのである。確かに一希がいなければ
クララは死んでいたかもしれないが、そもそもハロルドがいなければこんな窮地に陥ることもなかったはずだ。

(自作自演の救出劇でお礼を言われてもなぁ)

 少なくとも誇る気分にはなれなかった。まあクララとコレットがこの先幸せになれるならそれでいいか、と
ひとまず胸のモヤモヤにケリをつける。
 残るは最後の仕事だ。

「ノーマン、貴様は先に戻っていろ」

「……畏まりました」

 ハロルドの命令にノーマンは一呼吸開けてから応じた。どこか思い詰めたようなハロルドの表情を見て、今
この少年を独りにしてしまって良いのか迷ったからである。

 しかしその表情もほんのわずかで泰然としたものへと戻っていた。ならば今は余計な口を挟むべきではない
と引き下がることにした。

 そしてそれが間違いであったとすぐに気付かされることになる。

 やや後ろ髪を引かれつつも邸へと戻るノーマンの耳へ、風に運ばれたハロルドの声が届く。

 木々のざわめきに紛れて途切れ途切れに届いたそれにノーマンは思わず歩みを止めた。

「はっ、醜い顔……生きる価値も……」

 微かに聴こえる少年の声は自嘲を含み

「許されるはずが……」

 まるで己の罪を懺悔するようで

「命……ムダ…。せめて、死ねば……だろう?」

 それでいて自らの身を切り裂くほどの鋭さを宿していた。

 10歳の少年の独白。子どもとは思えない機転で親子を救った、讃えられるべきことを成したはずの彼が苦
しんでいる。
 誰にも悟られぬよう、たった独りで。

「終わりだ――『フレイムカラム』」

 ゴウ、という轟音とともに熱風が森の中を吹き抜けた。高々と立ち昇る火柱はまるでハロルドの胸の内を顕
現したかのように激しく燃え盛る。

 その小さな体に宿す苦しみを焼き払うかのように。

 ハロルドが抱える葛藤。その一端を垣間見たノーマンは呆けたまま立ち竦み、結局ハロルドが枝葉を踏み鳴
らしながら戻ってくるまで動けなかった。

 そんなノーマンの姿を目にしてハロルドが顔を歪める。

「こんなところで何をしている?先に戻れと命令したはずだが」

 一希ハロルドの口調が荒くなる。なぜならたった今、イベントのセリフを消化してきたからだ。

 誰もいない場所でとうに消えたクララを嘲り笑いつつ独り言を呟くなど黒歴史に燦然と輝く羞恥プレイであ
る。それを誰かに聞かれたとなれば本気で首を括るか考慮するレベルだ。

 ましてやハロルドが中二病の如く痛い人間だ、などと勘違いされればキャラ崩壊どころの騒ぎではない。あ
の醜態を晒したとなれば口止めしておかないと後々面倒な事態に繋がる可能性がある。

「今日起きた事、見たもの、聞いた言葉は全て忘れろ。もしくは生涯誰にも打ち明けず墓の中まで持っていけ。
返事は“はい”以外認めない」

 詰め寄らんばかりの勢いでノーマンに捲し立てる。

 それだけ必死ということなのだが、ノーマンの目にはその必死さが別の意味として映っていた。

(なぜそこまでして弱さを隠そうと……まだ子どもだというのにハロルド様は一体どれ程の物を背負おうとし
ているのだ)

 頑ななまでに他者を頼らない姿勢は悲痛そのものだった。
 だがノーマンは頷く他無い。

 了承の意を示したノーマンを一瞥してハロルドは足早に去っていった。その後ろ姿は酷く疲れているように
見えた。

 恐らくハロルドは実の両親を反面教師とし、実権の無い今は真っ向からの対立を避け彼らの目を欺いている。

 そうするしかなかったのだ。もし自らの考えが誰かを通じて両親に露見すれば間違いなく軋轢を生むだろう。

 普通の子どもならそのまま親と衝突したかもしれないが、この少年は聡明すぎたあまりそれが将来に与える
影響の大きさを理解してしまったのかもしれない。

 そうならないために両親を、さらには邸の人間全員を騙すという選択をしたのだ。そしてストークス家に関
わる人間は誰1人として彼の本当の姿を看破することはできなかった。

 彼のそうした思惑も今回のイレギュラーが発生しなければこれからも明らかにならなかっただろう。

 孤独に戦い続けてきた少年に対し、辟意を持ってきた自分が心配する資格などない。

 ノーマンにはそれが堪らなく悔しかった。

「……いえ、後悔ばかりはしていられないですな」

 きっと自分は残りの人生でハロルドに寄り添わなかったこの10年間を悔やみ続けるのだろう。

 しかしそれだけでは何の解決にもならない。今までの無為な10年を、残された時間全てを使って取り戻す
しかないのだ。

 あの優しき少年が偽悪に心を苛まれることのなくなるその日まで。

  ◇
 荷馬車に揺られてどれほどの時間が経っただろうか。

 自分の太ももを枕にして眠る愛娘の頭を撫でていると空が白みはじめていることに気が付いた。もう夜明け
が近い。

 それでもクララは眠気を感じることもなく、まるで宙に浮いているようなフワフワとした感覚を味わってい
た。

 この2日間で世界がガラリと様変わりしてしまった。

 牢屋に投獄された時はもう処刑されるものだと思った。死への恐怖と一人娘を残して逝くことへの絶望。

 そこから掬い上げてくれたのは娘とひとつしか年の変わらない少年だった。

 いくらでも替えを用意できる使用人のために服を買い与え、馬や荷馬車まで準備し、新たな生活のために大
金まで無償で渡してきた。

 クララを『劣等種』などと罵るハロルドの両親がこんなことを許すはずがない。つまりこれは彼が自分の意
思で招いた結果なのだ。

 荷馬車まで送り届けられる間、2人の兵士からあの少年がどうやって自分達を救い出そうとしているのか聞
いた。

 まずはレイツェで名を挙げている鍛冶屋の剣が欲しいと訴え通行証を手に入れる。それを遣いに持たせて朝
早くにレイツェへ出立させるように見せかけ、町から離れた人通りの少ない街道付近の森に潜ませておく。

 その間に兵士の2人は目立たないように私服で町へ出て馬を借りたり必要なものを買い揃えるなどしていた
らしい。「おかげで1日中駆け回ることになった」と苦笑いで、しかしどこか誇らしげに語っていた。

 そしてブローシュに入ったらクララとコレットは村に残し、荷馬車と兵士の1人はそのままレイツェに向か
うとのこと。ストークス領からレイツェへ行くにはブローシュを通過するのが最も近いルートのため怪しまれ
ることもないという。

 レイツェとの往復もおよそ4~6日の道のりなので丸1日の遅れも計算に入れている。

 この話を聞かされたクララは驚くしかなかった。10歳の少年がここまで緻密な計画をわずか半日で立て、
こうして見事にやり遂げてしまったのだから。

 加えて自分に渡した大金は父親から剣を購入するための資金として貰ったものだという。

 それではレイツェに行っても肝心の剣が買えないのでは、とクララが心配すると荷馬車の騎手はクツクツと
笑い出した。

 理由を伺うと一連の計画を聞かされた時、彼も同じことをハロルドに問うたらしい。するとこう返されたと
いうのだ。

「バカか貴様は。適当に安物の剣を見繕えば済むだろうが」

 辛辣な言葉に彼の優しさが滲み出ているように思えた。

 それを感じてか、騎手も愉しげに話していたのが印象的だった。

 決して順風満帆な人生とは言い難いクララの半生ではあるが、それでもコレットが産まれたこと、そしてハ
ロルドと出会ったことはかけがえのないものだったのだとそう思えた。

「クララさん、起きてます?」

「はい。どうかいたしましたか?」

「ブローシュ村が見えてきましたよ」

 騎手の言葉に荷台から顔を覗かせる。

 クララの視界に入ったのは地平線から昇り始めた日の出に照らされ、朝靄に包まれながらキラキラと輝くブ
ローシュ村。

「日が完全に昇りきる頃には到着しますよ。それまで少しだけでも休んだらどうですか?」

「お気遣いありがとうございます。でも今はこの風景を目に焼き付けておきたくて……」

「そうですか。まあ分かりますよ、その気持ち」

 クララも、騎手も、そして2人の兵士もその幻想的な風景に心を奪われていた。

 まるでクララとコレットの新たな船出を祝福するかのようなブローシュ村の姿に。
5話

 ハロルドの報告を聞いた両親はクララとその娘のコレットは完全に死んだものだと信じ込んでいる。息子を
疑うという発想が無さそうだった。

 我が子が女子どもを手にかけたというのに「魔法の才能がある」と持て囃すだけの姿を見て、一希は両親と
の間に一生かけても埋まらないほどの深い溝を感じた。この価値観から脱却しない限り両親との和解はないだ
ろう。

 まあその妄信的溺愛のおかげで疑われていないのだから今はそれだけで充分だと考えることにした。

 クララとコレットの救出計画はひとまず成功したと言える。

 本当なら喜びたいところなのだが新たな問題に直面している一希にとってはその時間すら惜しい。精々コレ
ットがライナーとお近づきになれるよう祈るくらいである。

 それより一希が頭を悩ませているのはストークス家の圧政へ不満を募らせている領民に対してだ。早い話が
徴税が厳しいという一言に尽きる。

 ストークスの領地は北東に山脈が聳える以外は平地に面し、街道が町を沿うように敷かれているため交通の
便にはかなり恵まれている。周囲に海はないが山脈の渓流により出来た川も近くを通っているし、北西から東
側にかけて森が広がっているので林業にも適した地だ。

 人や物の流通があり自然も豊か。当然一次産業、二次産業共に盛んである。

 ただストークスの領地があまり広くないこともあってその利を活かしきれていない。手狭な割りに発展した
町、程度の規模である。

 そんな経済規模の自治領にストークス家はかなり重い税を課しているのだとか。

 比較的所得の高い中心街近辺の住人には払えないこともないのだが、郊外の農村の住民にとってはかなりの
負担になっているらしい。

 特に近年は毎年のように自然災害に襲われるなどして農作物の収穫量が芳しくなく、それに伴い利益が下が
り赤字経営の農家も少なくない。

 そのため農家からは一時的な減税を訴える声が上がっているのだが、あの夫妻がそんなものに耳を傾けるわ
けがなかった。それどころか締め付けをきつくし「これ以上騒ぐならさらに税率を上げるぞ」と脅しをかけた
という始末。
 ゲームでは領民が圧政に苦しんでいるという話は出ていたが、そういった部分の細かい描写はなかった。ノ
ーマンの資料がなければ一希も気付かなかっただろう。

 もし現状が長く続けばストークス家の圧政に募った不満がいずれ爆発することになるのはほぼ間違いない。

 それはストークス家凋落の訪れを告げる最初の一歩となる。

 まあ一希としてはこの家がどうなろうと知ったことではないのだが、自分が巻き込まれて悲惨な目に遭う可
能性が非常に高いので手を打たないわけにはいかないのだ。

「失礼しまーす……って、何をしてるんですか?」

 ノックもそこそこに応答を待たずハロルドの部屋へ顔を見せたのはクララ救出計画の片棒を担いだ荷馬車の
騎手、ゼンである。

 何故かここのところ用もないのにハロルドに絡んでくるようになった。いくらこの口が邪険に扱おうともカ
ラカラと笑うばかりで堪える様子はまるでない。

 ゼンは19歳と若く、一希と同世代の青年だ。また、邸で働く同性の人間の中ではハロルドと最も近い年齢
ということもあり、一希の内心としても付き合いやすい存在だった。

 どことなく犬っぽいというか人懐っこさを感じさせるゼンの性格も大きいかもしれない。

 そのゼンが一希ハロルドの奇行を目にして首を傾げる。

 奇行とはいっても部屋の窓に備え付けられた奥行き50センチほどのバルコニーで育てている植物の成長を
記録しているだけだが。

「貴様には関係ない。早く扉を閉めろ」

「おっと、何やら秘密の香りがしますね」

 後ろ手で扉を閉じてやはり犬っぽいセリフを吐きながらゼンがバルコニーを覗き込む。態度としては不敬も
いいところだ。

 バルコニーには20個ほどの鉢植えが並べられており、それを3分割して計3種類の植物が育てられていた。
なぜかその中に飛び抜けて成長している個体がいくつかある。
「スズイモにブルーナ、それに赤グルト……育てて食べるんですか?」

「ハラワタを切り裂いて鉢ごと貴様の胃袋にねじ込んでほしいのか?(※ゼンに食わせてやろうか?)」

「遠慮します!」

「……」

 このままじゃ一生気安いやり取りはできないかもなぁ、なんて凹みつつ記録をつける手は動かし続ける。

 ゼンが言った通りこれらはすべて食用の野菜だ。スズイモなど実は地中で葉しか見えないのだがよく言い当
てられたものである。

 言葉を付け加えるとストークス領の農村で最も栽培されている主要作物のトップ3だ。

「それにしても育ち方がバラバラですね」

 一希ハロルドの発言にも物怖じせずゼンが興味津々といった様子で尋ねてくる。鋼の心臓なのか神経が図太
いのか、どちらにせよ打たれ強い。

 サンドバッグ並みの耐久値がありそうなゼンに感心しつつ、一希は1本のガラスビンを差し出す。

「これを水に混ぜたものとそうじゃないのがある」

 一希の手にあるのは『Brave Hearts』ファンにはお馴染み、半透明な水色のボトル。ゲーム序盤でのみ重
宝する、体力を2割回復させるアイテムだ。

 その名を『ライフポーション』という。

「作物にライフポーション……?」

 そんな栽培方法は耳にしたことがなかった。だがライフポーションを与えられている方が明らかに大きく
瑞々しい。

 常識に囚われないハロルドの発想にゼンの瞳は驚愕に染まるが、一希にとっては単なる仕様である。
『Brave Hearts』のシステムの中には“調合”が存在する。材料と材料を掛け合わせてアイテムを作るのだ
が、材料の一部に自ら栽培しなければ手に入らない物が存在するのだ。

 しかもマニュアル通りに育ててもその材料が栽培できる確率が非常に低いため、プレイヤー達は数打ちゃ当
たるの精神で畑を耕した。

 やがてライフポーションや上位互換の『エーテル』を注ぐことで収穫効率が上がるという事実が公になり、
勇者兼農家と化したプレイヤーは畑に回復アイテムをばら蒔いたのである。

 かくいう一希もその1人だった。

 ここでもそれが適用されるのか試してみるために一希はノーマンを通して鉢と畑の土、食物の種子、そして
ストークスの倉庫で眠っていたという使用期限切れのライフポーションを手に入れたのだ。

 ところがライフポーションだけで育てると成長は早いのだが実をつける前に枯れてしまった。そこで水と併
用しながら試行錯誤を繰り返し、ようやく適正な水との割合を探し出したのだ。

 一希は赤グルトをいくつかむしり取ってゼンに放り投げる。

「おっとっと」

「食え」

「生でですかぁ?」

 器用にもそれを全てキャッチしたゼンはハロルドの命令に嫌そうな顔を隠しもしない。

 その気持ちはよく分かる。一希が知る野菜で赤グルトと味が最も近いのは玉葱だ。

 熱を通さなくても食べれるが、基本的に加熱調理される野菜らしい。

「自分から首を突っ込んだ軽率な行動を呪うがいい」

「……ええい、ままよ!」

 観念したのかそれ以上抵抗もせずゼンは赤グルトにかぶりついた。
 シャク、という小気味良い音が鳴る。

「んん!?」

 赤グルトを飲み込んだゼンが興奮したような声を上げた。

「なんですかコレ!普通のより甘くてめちゃめちゃ美味いですよ!?」

 この反応を見る限り出来は上々のようだ。ライフポーション農法にそんな効果があるとは一希にも予想外だ
った。

 嬉しい誤算ではあるがゼンだけではさすがにサンプルが少なすぎる。

「それを厨房に持っていって調理師達に食わせてこい。味の感想、通常の物との長短、市場へ出回るに値する
か、その他の情報も聞き出せ」

「了解しました!」

 ゼンがビシッと敬礼を決める。左手で赤グルトを抱えているせいでまるで様にならない。

「くれぐれもそれをどこで手に入れたとか誰の指示で動いているかは――」

「秘密なんですよね?分かってますよ、ハロルド様!」

 ゼンは満面の笑みでそう答える。

 彼にとってハロルドという少年の評価は先の計画で一変してしまった。

 今まではクソ生意気で自己中心的な頭の悪いガキだとばかり思っていたのだが、どうやらそれは何かしらの
意図を持って装っていたらしい。ハロルドの本質はむしろその真逆。

 優しく、身分の低い者にも心を砕き、精神的にも成熟した聡明さすら持っている。
 それを知ってからはハロルドの口の悪さなど天の邪鬼のようにしか見えなくなった。ある意味ハロルドが子
どもらしさを感じさせてくれる唯一の部分とも言える。

 こうして部屋に上がり込んであれこれ構っても悪態を吐くだけで嫌がる素振りは見せない。

 ハロルドの年齢ならば身分の差というものも認識しているはずだ。幼少から親密な関係を築いている相手な
らまだしも、ゼンが彼と初めて言葉を交わしたのはついこの間である。

 そんな相手が不敬な態度を見せてもまるで気にしていない。見せ掛けには興味がない、とでも語るかのよう
な態度。

 ゼンにとってそんなハロルド・ストークスという少年は非常に好ましく思えた。

 この赤グルトにしても彼がまた何かをしようとしているのは明白だ。きっと学の無い自分には考えつかない
ようなことだろう。

 それをどんな形でも手伝えるのがゼンには嬉しかった。

6話

「んじゃ行ってきまーす!」

 そんな訳でハロルドの命を受けたゼンは意気揚々と部屋を飛び出していく。なぜそこまでやる気があるのか
分からない一希は首を捻るばかりだ。

 張り切りすぎて余計なことを仕出かさなければいいけど、と一抹の不安が募る。

 まあノーマンの判断を信じるのなら悪いようにはならないだろうと自分を納得させ、気分転換も兼ねてそろ
そろ日課になりつつある剣の鍛練を行うことにした。

 ここはRPGの世界だ。人の生活圏外には普通にモンスターが闊歩している。

 危険極まりないこの世界で生き抜くためには相応の強さが求められるのは言うまでもない。ましてや一希は
これからハロルド・ストークスとして激しい戦いの渦中に飛び込んでいかなければならないのだ。

 可能な限り戦闘は避けていくつもりだが原作イベント関連ではそんなことも言ってはいられないだろう。

 なので有事に備える意味で剣術の真似事を始めたのだ。
 ゼンがレイツェで購入してきた剣を携えて裏庭に出ると、周囲に誰も居ないことを確認してから自分なりに
考えたトレーニングメニューを実践していく。

 両手で剣の柄を握り、頭上まで掲げて一気に降り下ろす。その状態から手首を左に返し右手1本で右上に切
り上げる。

 そこから踏み出した右足を軸にして時計回りに旋回し、遠心力を利用して左から真一文字に切り裂く。

 これがゲームにおけるハロルドの基本となるコンビネーションだ。操作キャラで攻撃ボタンを3連打すると
出るタイプの連続技である。

 剣道の経験すらない一希にはこの攻撃が果たして実戦で有効なのかどうか判断がつかないが、今はこれをベ
ースにしようと考えたのだ。

 最初は剣道の素振りのように踏み出して上段から切りつける練習をしていたのだが、実戦を想定するならゲ
ームと似た動きを練習した方が恩恵が大きい気がしたからである。

 こうした鍛練を開始して1月近く経過したこともあって動き自体は体に馴染んできた。それを感じ取れる感
性は一希本人のものではなく、恐らくハロルドのものだろう。

 考えてみればハロルドは最低なクズ野郎ではあるものの、単独でダンジョンを踏破したり主人公パーティー
と渡り合ったりこと戦闘においてはかなり優秀なキャラクターだ。こうして真面目に鍛練していればそれに劣
らない強さを手にできるかもしれない。

(そう考えるとちょっとテンション上がるな!)

 この非常識な事態に遭遇しながらもそんな風に思ってしまう一希はやはり根っからの『Brave Hearts』フ
ァンであった。

 憑依したのが原作最大の嫌われ者であっても、ゲーム内と同じ技が使えるかもしれないとなれば心が踊るの
を抑えられない。

 決意と興奮を糧に一希は黙々と剣を振り続ける。小さな少年が大人サイズの剣を軽々と振り回す光景は傍目
から見るとかなり異様な光景だった。

 本来ならまともに振り抜くこともできないだろうが、スペックだけは高いハロルドの体がそれを補っている。
まあ一希自身もその事実には気付いていないのだが。

 何だかんだハロルドという男は優秀らしかった。
 こうして作物の世話、剣の鍛練、両親のご機嫌取りが一希のルーティーンと化しておよそ1ヶ月と半月。バ
ルコニーの鉢植えが揃いも揃って青々と茂った頃、ようやく次の行動に移る準備が整った。

 その日一希が自室に呼び寄せたのはメガネを掛けた細身の男。年は30代の前半であり、鋭い目つきのせい
か見る者にどこか冷たい印象を与える。

 男の名前はジェイク。ストークス家の財政管理を担っている経理の1人だ。普段から愛想がなく無口なジェ
イクも自分が置かれた状況に少なからず戸惑っていた。

 部屋に中にいたのは合計3名。部屋の主人たるハロルド、古株の使用人ノーマン、そしてゼンである。

「座れ」

 部屋を訪れた彼に対し、呼び出した一希ハロルドは開口一番そう口にした。

 ハロルドの斜め後ろに立っていたノーマンが大人しく椅子に腰かけたジェイクへ数ページの冊子を手渡す。

「それを読め」

「はい」

 一体なんだというのか。ジェイクの戸惑いは増すばかりである。

 しかし冊子を開きその中身を読み進めると彼の目の色が変わった。

 そこに記されていたのはストークス家の事細かな財政状況。頭が痛くなる数字ばかりが並んでいるが、悲し
いかなジェイクには見慣れた数字でもある。

「記載に大きな間違いはあるか?」

「……いいえ、ありません」

 間違いも何もこれはジェイクが取りまとめた収支報告書の内容を丸写ししたものだ。自分が作成した書類に
不備がないかはしっかりと確認している。

 もしやこの内容にいちゃもんの1つでもつけるために呼び出されたのでは?そんな考えが頭をよぎる。

「だろうな」

 だが彼の予想とは裏腹にハロルドが重々しいため息を吐く。そこにジェイクをなじるような色はなかった。

 どちらかといえば心底うんざりしたような声である。

「ここ数年ストークス家の財政は赤字続きだ。最たる原因は両親が見栄を張るための無駄な浪費。先代までの
蓄えや重税で補填しているがそれも長くは続けていられないし領民への負担も増すばかりだな。この見解に異
論は?」

「そのような傾向にあることは承知しております」

 感情の機微が表に出にくいジェイクだがその内心は狼狽に近かった。

 幼い少年が収支報告書の内容を完璧に理解していることも驚きだが、何よりも質問の意図がまるで掴めない。

 当主の嫡男であるハロルド本人がその当主たる両親を批判しているのだ。どんな態度が正解なのか分からな
い。

 反応に窮したジェイクはノーマンを見る。しかし彼は穏やかな表情でハロルドの後ろに佇むばかりでジェイ
クの視線に取り合う様子はない。

「火急の事態というわけじゃないがこのままだといずれはストークス家も領民の生活も立ち行かなくなる。ま
あ貴様らにとってはストークス家なんて潰れてしまった方が良いんだろうが」

「そのようなことを仰らないでください。誰かに聞かれれば叛意があると勘違いされてしまいます」

 とりあえずジェイクは無難な対応を取る。

 しかし一希からすればあながち勘違いというわけでもない。お家騒動を起こして家督を奪うなんて大それた
ことは考えていないが、何がなんでもストークス家を存続させて次期当主になりたいとも思っていないのだ。

 はっきり言うなら原作通りに潰れてしまっても構わない。
 自分は原作終了とともにフェードアウトして無難に町人Aにでもなれればいい。

 もちろん最善は1日でも早く元の世界に帰還することだが、そのための手掛かりは全く掴めていないので今
はとりあえず脇に置いておく。

「ふん。何にせよ領民、特に農業地区の収益を増加させなければ将来的に破綻するのは目に見えている」

 ジェイクは言葉を返せない。何故なら事実、ストークス領の農業は既にもう衰退が始まっているのだ。

 重い税率を課されたことで経営が苦しくなり辞める者、ストークス領地から離れる者が増えてきている。特
に小さな農家などはその傾向が顕著だ。

 この流れが止まらなければ農業地区からの税収が著しく下がる。そうなった時、果たして現当主が不利益を
覚悟で税率を緩めるだろうか。

 ジェイクにはあの男がそんな対策を打つとは思えない。逆に税率をさらに重くして金をむしれる所からむし
り取ろうとするだろう。

(ハロルド様はそれを理解しているのか……?)

 到底10歳の子どもが頭を悩ますことのできる問題ではない。普通なら収支報告書の内容を正しく読み取る
ことすら困難なのだ。

 しかし目の前の少年にはその程度のことなど壁にすらならないようだった。ジェイクはすぐにそれを痛感す
る。

「だから貴様を呼んだんだ。農業地区の査察を任されている貴様をな」

「どういう意味でしょうか」

「ゼン」

「はいはーい!」

 ハロルドの呼び掛けに応じてゼンがバルコニーへ通じる窓を開け放ち、カゴに鈴生りとなった赤グルトを収
穫してジェイクの前にドサッと置く。

 またもや状況についていけず目が点になる。

「あの、これは……?」

「まあまあ、ここは何も言わずハロルド様お手製の赤グルトをご賞味あれ!」

「貴様こそ余計な口を挟むな。肥料にでもなりたいのか?」

「ごめんなさい!」

「これをハロルド様が……?」

 率直な感想を述べるなら「なぜ?」である。

 ハロルドが部屋で野菜を栽培する理由も、それを自分に食べさせようとする意味も分からない。

 とはいえこうして出されたからには口をつけないわけにもいかず、恐る恐る赤グルトにかじりついた。

「……!あ、甘い?」

「ですよね!」

「どうして貴様が自慢気なんだ……」

 ジェイクからすればハロルドを敬う様子を見せないゼンに肝を冷やすが、ハロルドはそれを叱責せずただ呆
れたようにこめかみを押さえるだけだった。

「とにかく、今貴様が食べたものは俺が独自の方法で育てた作物だ。その方法を広めるために力を貸せ」
「何故私なのでしょうか?」

「この農法を実現させるには当然ながらコストが掛かるし場合によっては専用の設備が必要になる。ストーク
スの財政を熟知し査察官としても現場をよく知る貴様が適任だと判断した」

 確かに必要になる費用は使用する資材とおおよその数量が決まっていれば弾き出せるし、設備がどんなもの
かによって設置について可不可の判断や条件を満たすための提案をすることもジェイクならば出来るだろう。

 ハロルドの言い分は理に敵っている。

 問題は新しい農法を普及させる実現性があるかどうかだ。

 この赤グルトは通常の物と比べて格段に食べやすい。市場に出回れば需要も大きいだろうということは想像
できる。

 しかし生産するのに相場で付く値段と同等かそれ以上のコストが掛かるなら作る意味がない。初期費用で嵩
む赤字から純利益に転換するまでの期間が長ければ持ちこたえられない農家もあるだろう。

 実現するには課題が多い。

「どうやら考える頭は持っているようだな」

 協力を要請されても沈黙するジェイクに対しハロルドは気分を害した様子もなくむしろ感心していた。

 一希からすれば上からの圧力に唯々諾々と従うような人間より、こうして自分の頭で物事を考えられる人間
が必要なのだ。一希が知っているのはあくまでゲームに描かれた部分のみでありそれ以外の問題に気付いてく
れそうなノーマンやジェイクはこれから先も頼りになるだろう。

「現状を改善できるならばいくらでもお力になりたいと思います。ですが……」

「話を聞かないことにはおいそれと頷けない、と。父相手なら口答えするなと怒りを買うか、最悪地下牢にぶ
ち込まれるな」

 その言葉を受けてジェイクの身が強張る。やはり所詮はあの男の息子なのか、と。

 だが何故かノーマンとゼンは苦笑を浮かべていた。
「……まあ当然の反応だ。詳しい説明も聞かずに快諾されればゼンがもう1人いるようで気苦労が増すところ
だった」

「それどういう意味です?」

「貴様も少しは頭を使えってことだ」

「ひでぇ……」

 分かりやすく落ち込むゼンを無視して一希は話を続ける。

 ここからが本題だ。

「ではお望み通り聞かせてやろう。鍵になるのはこれだ」

 ライフポーションの瓶を見せ付けながらジェイクに説明を始める。一希のプランはこうだ。

 作物にライフポーションを与える農法、仮にLP農法と仮称しよう。

 現時点で試した3種類の野菜はどれも成長が早く、加えて甘味が強くなることが判明している。

 これをいきなり全ての畑で試すのではなくまずは一部分、それもいくつかの農家に共同させて試運転を開始
する。最大の理由は失敗した際の経済的リスクを分散させるためだ。

 加えて経営規模が小さく一度の失敗が致命傷になったり金銭に苦しくLP農法に割く農地がない農家を救済
する意味合いもある。

 LP農法が上手くいったとしても経済的に余裕がある農家とない農家で格差がより広がることをなるべく抑
え、数件の農家を一纏めにすることでストークス家に備蓄されている内の破棄されるライフポーションだけで
対応できる範囲に収められれば理想だ。こうすれば初期費用もあまりかからないはずである。

 この1ヶ月の間に幾度も栽培を繰り返したがLP農法で育てた作物の成長速度はかなり早いというのが最大
の特徴だ。もはや異常と言うべきレベルである。

 赤グルトであれば種を撒いてから実が収穫できるまで2ヶ月弱かかるのが通常だが、ライフポーションを与
えたものは5日から1週間で実をつけた。ゲームでは種を植え宿屋で1泊すれば翌日には収穫できていたがさ
すがにそこまでの成長速度はないようである。
 ともかくこの回転数の早さなら狭い農地でも利益を生み出せると一希は睨んだ。

「わずか5日で収穫が可能に!?」

 衝撃的な事実に普段は落ち着いているジェイクの声も思わず大きくなる。

 画期的、もはや革命的とも言える発見だ。

「だがその早さのせいで上手くいきすぎるわけにもいかない」

「何でですか?」

「安価で高品質な商品が大量に出回れば市場を破壊しかねないんだよ。結果としてストークス領外の農家を潰
してしまう恐れもある」

 LP農法は従来より多少コストは掛かるだろうが生育の早さから短期間で大量に生産できる。生産が軌道に
乗れば通常の物と同じ価格、大量生産が可能になればさらに安価で取り引きしても利益が出るかもしれない。

 それによって恨みを買いたくない、というのが一希の本音だ。何よりも大切なのは自分の身の安全なのであ
る。

 もしLP農法を考案し広めたのがハロルドだとバレれば逆恨みされる可能性もある。

 しかし金に執着心のある両親が知ればストークス家でLP農法を独占しようとするだろう。それを避けたい
一希としてはまずは小規模で細々と、収穫量に制限を設けてスタートさせるべきだと考えた。

 そうして徐々に浸透させ経済的に余裕が出れば他の作物でLP農法を試していくことも可能だろう。

 今のところ赤グルトとスズイモは水との割合が半々、ブルーナは7:3で水の割合が大きい方が育ちやすく
味も良いことは分かっている。

 ブルーナはライフポーション100%で育てれば朝に植えたものが日が沈む頃には収穫できたほどだ。これ
はゼンに持たせて厨房に送り込んだところ味は不評だったので没にしたが。

 つまり作物によってライフポーションを与える割合や成長速度、そして味にも違いが出る。その辺を一通り
の作物で試せれば農業地区の収入も高い水準で安定させることができるはずだ。
 今回はその資金源を得るための布石ともいえる。

「本来なら専門のチームを組んで取りかかりたいところだが……」

 そのためには父親に話を通さなければならない。しかし一希は金に目が眩む両親の姿を幻視する。

 農家内での軋轢は生みたくないし、他貴族から無用な恨みも買いたくない。最後まで隠し通すのは無理でも
農家の経済状況を回復させ、自分達で必要分のライフポーションを購入できるくらいには経営状況を建て直し
たいところだ。

 どれだけ頭が痛くても死亡フラグを回避するためにはやるしかない。

 ふと気が付けば説明を聞いていたジェイクがポカンとしている。ノーマンも似たような顔で、ゼンは話につ
いてこれず半分眠りかけていた。

 ゼンは諦めるにしても残り2人の表情はどういうことだろうか。

「貴様らは人にマヌケ面を晒す趣味でもあるのか?」

「も、申し訳ありません。ただお話の内容に驚いてしまって……」

「事前にある程度は聞いていましたがこれほどまで考えていらっしゃるとは感服致します」

(素人の発想にそこまで感心されると逆に不安なんですけど……)

 一希に専門的な経済、経営の知識はない。

 今はあくまで大枠を組むための材料を提示しているだけである。ここから枠を組み細かい部分を詰めていく
にあたって頼りにしたい2人がこれで大丈夫なのだろうか。

「言っておくがイエスマンはいらない。おかしな点があると感じれば1つ残らず進言しろ。いいな?」

 でないと一希の心がプレッシャーでヤバい。

 そんな思いがノーマンとジェイクには食い違って伝わっていた。
(この歳にして歴史を覆す画期的な栽培方法を発見し、かつ現実的な政策を打ち出す頭脳。それに慢心せず自
らに厳しさを課す飽くなき向上心)

(得られるであろう金や名誉など欲には目もくれず、ひたすらに民を救おうと努力なされる強き想いと慈愛の
深さも持っておられる)

 ――ハロルドは人の上に立つ器を備えた人間だ。

 確信にも近い直感。

 付いていきたいと思ってしまうカリスマ性を彼は放っていた。

「では最終確認だ。ジェイク、貴様は俺の手足となるか?」

 その問い掛けに首を横に振るという意思はもう残っていなかった。

「私が持ちうる力をハロルド様の為に使わせていただきます」

「俺に仕えるのなら俺ではなく憐れな領民のために奮え。あいつらはそうでもしなければ生きられない弱者だ
からな」

 あくまでも不遜に、しかしどこまでも弱き者のために。

 その在り方は何者よりも誇り高かった。

7話

「分かったらさっさと取りかかれ。ノーマンは領民への説得用に俺がさっき説明した内容を書面にまとめろ。
不明点や気になった部分は漏らさず俺に聞け」

「畏まりました」
「ジェイクは隣接する農家同士で経営規模が可能な限り均等になるように区分けしろ。栽培に使用する畑の面
積はこっちで指定するから考慮しなくていい」

「承知致しました」

 これくらい言っておけばあとは有能そうな2人のことだからいい感じに働いてくれるだろう。今できるのは
これくらいかなー、と背もたれに身を預けたところで未だ部屋に残るゼンと目が合った。

「……何だ?」

「おれは何をしましょうかハロルド様」

 目をランランと輝かせるゼン。

 だが悲しいかな現地に向かうまで彼に仕事はないのである。

「大人しくしてろ。というか自分の仕事に戻れ」

 そもそも一希はゼンを呼んでいない。何時ものごとく部屋に入り浸っているのでそのままアゴで使っていた
だけだ。

「おれ今日は休みなんです!」

「何しに来たんだ貴様は」

 サムズアップするゼンの背中を蹴っ飛ばして部屋から叩き出す。

 無人となった部屋ではぁ、と大きな息を吐いた。

 まずはこれで一段落。あとはノーマンとジェイクの準備が整うのを待つ状態となった。

 どのくらいの時間がかかるかは分からないがとりあえず1週間はゆっくりできるだろう。
 しかしそう考えていた矢先に新たな問題が舞い込んできた。

 それは夕食での出来事。ハロルドの父親は食卓に突如として爆弾を投下した。

「ハロルド、お前の結婚相手が決まったぞ」

 口にしていた果汁水を噴き出さなかったのはハロルドに許嫁が居ることを一希が知っていたからだ。

 それでも驚きを隠せなかったのは目の前に山積する問題にかかりきりになって許嫁の存在を失念していたせ
いである。

「結婚相手?誰ですか?」

 内心で白々しさを感じながらそれらしい反応で聞き返す。

「スメラギ家のご息女だ。正確にはまだ婚約だが、これでよりストークス家の血筋が強まるぞ」

「まあ、素敵なことね!」

 両親はキャッキャウフフと喜び勇む。確かに純血主義の2人にとってはかなりの朗報だろう。

 スメラギの一族はこの国の建国に尽力した貴族の内の1つで、その成り立ちから今でも王国との縁が深い。
そんな家と血の繋がりを持てばストークス家も純血主義としての箔が付くというものだ。

「それでだ、先方が是非ともお前に会いたいと言っている。近くスメラギ領へ出向くぞ」

 ぜってぇ嘘だわ、という悪態をぶちまけるのはなんとか思い止まった。しかし原作知識がある一希はこの婚
約にスメラギ側が乗り気ではないことを知っている。

 本来ストークス家とスメラギ家では圧倒的に格が違う。それでも婚約が成り立ってしまうのは原作のシナリ
オが関係しているせいだ。

(あれ、待てよ?この時期ならもしかして……)
 頭の中の情報を繋ぎ合わせている内にふとした妙案が浮かぶ。

 婚約の話が出ているということは既にスメラギ側に被害が出ているのは間違いない。しかし原作開始前なら
ばまだ最小限のはずであり、一希が介入することでこれ以上の被害拡大を食い止められる可能性は充分にある。

 多少ストーリーに影響が及ぶので気乗りはしないが人命に関わるとなれば背に腹は変えられない、と一希は
判断した。

「近くっていつ頃?」

「2、3日中の予定だ」

(はえーよ!)

 その猶予期間では必要な物を揃えられない。特にゲーム内ではモンスターを倒してドロップさせるしか入手
方法のないアイテムが問題だ。

 まあ限られた店でしか買い物ができないゲームとは違い実際に経済活動が行われている世界なのでもしかし
たら流通しているのかもしれないが、良く良く考えれば仮にもし必要なアイテムを集められたとしてもスメラ
ギ領ででしかその効果を立証できない。

 ならばあらかじめ手紙にしたためておき両親の隙を窺ってスメラギ家へ渡すのが最善策だろう。

 一希は食事を終えるとすぐさま自室へ引っ込み、記憶を頼りにとある粉末を作り出すレシピを思い起こし始
める。

(アニスヒソップとガドゥンの牙、リール草……あとはなんだっけな?確か漢方みたいなのも入ってた気が…
…)

 膨大な組み合わせによって回復アイテムはもちろん武器や防具、時には機械すら完成させるのが『Brave
Hearts』における調合だ。そのほとんどを頭に詰め込んでいる一希でも詳細に思い出すのは一苦労である。

 結局計5つの調合アイテムを思い出し忘れない内にスメラギ家への手紙を書き終えた頃には夜が明け、朝日
が窓から差し込んでいた。

 その甲斐あって会心の内容に仕上がった手紙を携えて、当初の予定通りあの夕食から3日後に人生初の馬車
に乗り込んだ一希はいざスメラギ領へ向けて旅立った。
 全行程は9日間。野営も辞さなければあと数日の短縮も可能だがそこは高貴な身分のストークス家現当主で
ある。

 野宿なんてもっての他、という主義によって毎日町1番の宿屋に泊まることを余儀なくされた。モンスター
の行動が活発になる夜間の移動を徹底的に避けたことで強敵に遭遇しなかったのは幸いではあったが。

 往復で3週間近くも不在にして仕事は大丈夫なのか、という疑問は気にしないことにした。

 そんなこんなで父親と2人きりになる時間が多かったこと以外は特に問題のない道中の末、やっとスメラギ
の屋敷に到着する。

 その外観は古き良き日本を感じさせる木造建築。軒先には赤い灯籠が垂れ下がり、庭では鹿威しが音を鳴ら
し桜色の花びらが鮮やかな大木がそびえるなど和風テイストで溢れている。

 スメラギ家は東方の流れを継いでいるという設定なのでこの屋敷だけでなく町並みも純和風だ。

「ようこそお越しくださいました。旦那様と奥様がお待ちになっておりますのでどうぞこちらへ」

 正門で待ち構えていたのは白髪の老公。その身なりや佇まいからしてただの使用人ではないだろうと一希は
感じた。

 彼の先導に従い屋敷へと上がり込む。

「家の中で履き物を脱ぐのはどうも落ち着かん。この内履きというのもな」

「これがスメラギの文化ですのでご考慮頂きたく存じます」

 父親が文句を垂れる傍ら、一希は脱いだブーツを慣れた手つきで踵合わせにし下座に揃えて置く。

 やってから「あ、これハロルドっぽくないわ」と気が付いた。

 しかし父親達には見られていなかったようで胸を撫で下ろす。

 そのまま後を追って縁側を沿うように屋敷を半回り程したところでようやく老公の足が止まった。

「旦那様、ヘイデン・ストークス様とご子息のハロルド様をお連れしました」
「どうぞお入り下さい」

 障子の向こうから渋く、それでいて落ち着きのある声が発せられる。老公が膝を着き両の手で障子を引く。

 20畳程の広々とした和室。部屋の中心に置かれた木製机には3人が並んで座っていた。

 中央はスメラギ家の現当主、タスク・スメラギ。その右隣には妻のコヨミ・スメラギ。

 温厚、穏健といった表現がピタリと当てはまる優しさ溢れる夫妻だ。しかし今はその顔色にどこか陰が差し
ているように見える。

 そして問題はタスクの左隣で無表情を貫く少女。

 肩まで伸びた黒髪と、それに映えるピンクを基調にした簪、淡い緑が特徴的な振り袖に身を包んだスメラギ
家の長女、エリカ・スメラギの存在だ。

(目のハイライト消えてるよおい。生気が感じられないぞ……)

 容姿が整っているだけにまさしく人形のようである。

 この婚約を無邪気に喜べるほど幼くはなく、胸の内を隠して笑顔を浮かべられるほど大人でもない。それで
も何とか自分なりに折り合いを着けようとした結果がこの姿なのだろう。

 だが本当の彼女は違う。エリカはその名の通り花のように笑う奥ゆかしい少女だ。

 それを知っているだけに一希の胸が締め付けられる。10歳の少女にこんな顔をさせてしまっているのは自
分達なのだ。

 しかしこの顔を止めさせることができるのもまたハロルドしかいない。

 主人公と出会うまでの8年をこのまま過ごさせるのはあまりに不憫だ。

「お初にお目にかかるね。私がスメラギ家の当主、タスク・スメラギだ」

「……ハロルド・ストークスと申します。初めまして」
 一希はタスクと挨拶を交わして敷かれていた座布団に座る。意外にもこの口は敬語も喋れるらしい。

 新たな発見をしつつ懇談会はスタートした。

「本日はご足労頂きありがとうございます」

「何をおっしゃる。当然の事ですよ」

 両家の当主が内心はどうあれ和やかに話を切り出す。仮にも婚約者同士の顔合わせということもあって険悪
なムードで睨み合う事態には発展しなさそうである。

 そのことに安堵しつつ様子を窺う。基本的にはヘイデンとタスクが社交辞令のようなとりとめのない会話を
しつつ、時たまコヨミが愛想笑いとは思えない上品な笑顔を浮かべながらそこへ加わる。

 親同士が決めた政治的理由での婚約ということでハロルドやエリカの出番はほとんど無いようだった。当人
達の意思が介在する余地はないので仕方がない。

「どうだい、エリカちゃん。ハロルドはかなりの男前だろう?」

「はい、とても」

 ふとヘイデンが冗談めかしてエリカへ問い掛ける。返答は間髪入れずに物凄く平坦な声で返ってきた。

「すみません、ストークス様。どうやらこの子は緊張しているようで……」

 タスクが取り繕うが緊張しているというよりほとんど感情が込められていない声色だった。まあこの年の子
どもに大人の対応を求める方が酷なのだが。

 対するヘイデンも気にした様子は無い。たとえエリカがはっきりと拒絶したところで気に留めることもしな
いだろう。

「まあこの歳で結婚相手が決まったとなれば戸惑うのも当然でしょう。ハロルドも似たようなものですよ」

「ええ。エリカさんほど可愛らしい方とは初めてお会いするので緊張してしまいます」
 半分以上事実なのでおべっかを使ったわけではないが、エリカとは違い逆に余裕たっぷりな物言いのせいで
お世辞のようにも聞こえる。

 口調は変わっても“らしさ”は消えなかった。ハロルドという男は恐縮やしおらしい態度と無縁のようであ
る。

「ねえ貴方、折角だしエリカとハロルド君が打ち解けられるように2人きりにしてあげたらどう?」

「おお、それは良いですな!」

 コヨミの提案にヘイデンが飛び付く。

 ここから本格的に婚約の話し合いが行われる。コヨミからすれば本心では嫌がっている娘に聞かせるのは耐
え難い、という親心からきた配慮だった。

「そうだな。エリカ、少しハロルド君を案内してきなさい。会食の時刻までには戻ってくるようにな」

「……はい。ではハロルド様、どうぞこちらへ」

 しかしこれは一希にとっても渡りに船の申し出だ。同じような状況を作り出すために自分から話を切り出す
必要がなくなった。

「エリカさんにエスコートしてもらえるなんて光栄ですね」

 立ち上がりエリカに付き従って和室を後にした。

 ここからが一希の正念場である。

8話

日間1位ありがとうございます

皆様に評価していただいたおかげです

4000pt いけば1位狙えるかなぁと思っていたらまさかの 6000pt 越え


悪役転生モノは人気あるんですねぇ

 和室から退出した一希はエリカに連れられて隅々まで手入れの行き届いた庭園へと降りる。

 エリカが履き替えた黒漆の下駄をからんからんと鳴らしながら前を歩いていく。

 その足が止まったのは20メートル以上ある大木の下。桜色の花弁が舞い散る幻想的な光景の中で一希へと
向き直った。

「改めてご挨拶を。タスク・スメラギが子女、エリカ・スメラギと申します」

「ハロルド・ストークスだ」

 お互いが名前だけ名乗るとすぐに沈黙が訪れた。ハロルドの言葉には友好的な雰囲気が一切含まれていない。

(というかいつの間にか口調が戻ってるし……)

 そういえば、と原作でもハロルドがエリカに対してきつい口調だったのを思い出す。もしや敬語は目上の人
間の前でしか使えないのだろうか。

「この木は『サクラ』といって私達スメラギの故郷を代表する花です。この地には存在していませんでしたが
当時の領主がこちらへ移り住むことになった際に持ち込んだ苗木を植えたのだそうです。500年以上前の事
ですが今ではスメラギの象徴と呼ばれるようになりました」

 一希がハロルドの口の悪さに辟易している間に突如としてスメラギの郷土史が語られだす。

 沈黙に困った末、エリカはとりあえず目についたサクラの木について説明し始めたようだ。平静ではないだ
ろう精神状態で案内を務めようという心意気は見上げたものである。

 はっきり言って子ども同士が打ち解けるには不向きな話題ではあるが、幸いにも桜と馴染みが深い一希が食
い付くには格好のネタだった。
「俺が知っている『桜』とは違うな」

 ゲーム内ではこの木の名前は明らかになっていなかったが日本で良く目にしていたソメイヨシノとは花弁の
形や付き方が異なる。心なしか色も濃いようだ。

 こういう品種もあるのか?と頭を捻るが答えが出てくるわけもない。

「サクラをご存じなのですか?」

 ここまで感情の色が希薄だったエリカの瞳が若干揺れた。

「いや、恐らく似て非なる別物だろうな。まあそんなことはどうでもいい」

 本日も絶好調なこの口はエリカの疑問をすげなく切り捨てる。

 単に話題を変えようとしただけでこれだ。

 冷たくあしらわれエリカの表情も険しくなる。その顔は嫌悪か警戒か。

(そーいや登場人物の中で唯一エリカが嫌ってたのって俺ハロルドなんだよなぁ)

 エリカを最も分かりやすく表現するならまさしく“大和撫子”だ。

 名家のお嬢様でありながら誰に対しても分け隔てない態度、味方はおろか敵にまで向けられる笑顔と優しさ、
そして主人公をそっと支える包容力。常に清楚な佇まいを崩さない彼女に骨抜きにされたプレイヤーは星の数
ほどいる。

 そんな彼女が激昂して平手打ちを食らわせたのが他ならぬハロルドだ。そこまでされるのはある意味快挙で
ある。

 中にはエリカの平手打ちを“ご褒美”と称してそのイベントを繰り返し鑑賞するプレイヤーもいたが。

「それはスメラギの家には興味が無いということですか?」

「好きなように捉えろ」
「……そうですか。欲しいのはあくまでスメラギの名だけなのですね」

「名しかない、の間違いじゃないか?それ以外にストークス家が劣っているとは思えないぞ。有数の名門貴族
なんて言われてるくせに情けなくもこうして家に泣き付いてるだろう」

 自分でも驚くほど口が回る。

 多少嫌われておいた方が好都合なのでちょっと意地の悪いセリフでも吐いておこうか、と思ったのが間違い
だった。

 意地が悪いを通り越してもはや罵倒である。これは言い過ぎた感が否めない。

「貴方に何が……!」

 エリカが呻くように呟く。原作の8年前、まだまだ子どもなので当たり前だが沸点はかなり低くなっている
ようだ。

 俯いているので顔は隠れているが、怒っているのは良く分かる。これ以上煽るのはまずい。

 悪印象の楔を打ち込むのはここまでにしてエリカへ封書を差し出した。

「……これは何でしょう?」

「黙って受け取れ。そして俺達が帰った後に父親へ渡せ」

「お断りします」

 取りつく島もないとはこの事だ。完全に自業自得である。

 ふいっと顔を逸らしてエリカは立ち去ろうとする。

「ああ、そうか。苦しむ領民を見殺しにしたいならそうすればいい」

 しかしその言葉に思わず足を止めた。

 何故ならハロルドの言い様はまるで――
「……彼らを助ける方法があるとでも?」

「ある、とは言い切れないな。だが試すだけの価値はあるぞ」

 エリカが封書に目を向ける。

 迷っているようだが、こう言えば受け取ってくれるだろうという確信が一希にはあった。

 彼女はとにかく優しい。言い替えればお人好しであり、困っている人や苦しんでいる人を見捨てることがで
きない。

 何せゲームではモンスターを倒すことにさえ心を痛める描写があるほどだ。

 そんなエリカが床に臥す自領の民を救えるかもしれない手段を知らされればどうなるか。

 たとえ信憑性が乏しくとも、純血主義という自分とは相入れない思想を持った人間からの提案だろうと、話
を聞かずに無視はできない。

 一陣の風吹き抜け、2人を包むようにサクラの花弁が舞う。しばし無言で見つめ合った後、先に動いたのは
エリカだった。

「貴方の言葉を信じるわけではありませんが……」

 不服そうな表情ではあったがエリカはしっかりと封書を受け取った。一希としてはそれで充分だ。

 彼女なら言葉通りそれをタスクに渡してくれるだろう。

「理由もなく信じる必要はない。結果で判断しろ」

 果たしてタスクが齢10歳の荒唐無稽な手紙に目を通してその内容を信じ、実践するかどうかは分からない。
だが不発に終わればその時はその時だ。また何か手を考えることにする。

 一希はため息を吐く代わりにサクラの木を見上げ、かすみ雲のかかった青空を仰いだ。
 ◇

 ストークス親子が乗った馬車が柔らかな日差しの中をゆっくりと遠ざかって行く。それを見送るエリカの心
中には穏やかな気候とは対照的に暗雲が漂っていた。

 原因のひとつは言うまでもなくハロルドとの婚約だ。

 エリカは自分が低くない身分だということをしっかり理解している。自らの意思で結婚できるとは考えてい
なかったし、心を寄せる想い人がいるわけでもない。

 だがそれでも他人の弱味につけ込んで婚約を取り付けるような厚かましい家の一員になることを無私に徹し
て納得できるほど大人でもなければ人生に希望を抱いていないわけでもなかった。

 ましてやストークス家の現当主は強い純血主義者であり、貴族の血を引かない民を物同然に扱う人物だと聞
いている。

 その思想は到底受け入れがたいが、彼らのような人間にとっては確かにスメラギの血は喉から手が出るほど
魅力的だろう。

 軽蔑すべき人間の食い物にされることがただただ悔しい。自分の力ではスメラギの家や領民の助けになれな
いことが恨めしくて堪らない。

 しかし自分が純血主義のための泊になることで多くの命が救えるのだとエリカは幼いながらに理解していた。

 そんなエリカの苦悩を露ほども知らないでハロルドはスメラギの名を貶した。彼女にとっては到底許しがた
い行為だ。

 そんな相手から受け取った封書がエリカの手にある。心のままに破り捨ててしまいたいところだが口約束だ
ろうと約束は反故にできない。

 スメラギの顔に泥を塗り、何より今まさに苦しんでいる領民を救う可能性を放棄するくらいならば自分が感
じた屈辱などいくらでも飲み込んでみせる気概は備えている。

「すまないな、エリカ……」
 並んで馬車を見送っていたタスクが悔恨の声でそう漏らした。

 彼も人の親だ。自分の娘が望んでいない相手と結ばれることを素直には喜べない。

 それでも領地で暮らす数万人の命と生活の基盤を守るために苦渋の選択を下さなければならないのが当主と
しての責務なのだ。

「気になさらないでください、お父様。これもスメラギとここに住まう民のためです」

 その気持ちに嘘はない。

 ただ今は独りで心を落ち着ける時間が欲しかった。

「お父様、これを。ハロルド様が自分達が帰った後にお父様へ渡してほしいとのことでした」

 エリカは懐から封書を取り出してタスクへと差し出す。

「ハロルド君から?」

 両親から婚約に際して挨拶をしておくよう言い聞かせられたのか、と思いながら封書を受け取る。仮にそう
だとしてもエリカを経由したことといいおかしなタイミングを指定したものだ。

 普通ならば直接手渡すだろう。

「では私は部屋に戻ります」

「ああ、ゆっくり休みなさい」

 労るような笑顔を浮かべたタスクに頭を下げてエリカは足早にその場から立ち去った。

 タスクとコヨミは真に自分の心を案じてくれている。そんな両親の優しさが今のエリカには余計に辛い。

 気丈に振る舞う娘の姿に自分はなんて重荷を背負わせてしまったのだろうとタスクは自らを責めた。
 もっと他の、エリカを傷付けないで済む方法は無かったのか、と。

「……今さら考えても詮なきことか」

 全ては自分の力不足が招いた事態だ。それ故にエリカと領民に負担を強いることになってしまった。

 自嘲する気も起きない。

 陰鬱とした胸中でハロルドからの封書を開く。

 その書き始めは子どもらしからぬ時候の挨拶が記されていた。字も大人が書いたようなしっかりしたものだ。

 同年代と比較すれば礼儀と教養は身に付けているのかもしれない。これだけでもタスクのハロルドへ対する
心証は悪くなかった。

 しかし手紙を読み進める内にそんなことを気にする余裕は吹き飛んだ。

 手紙を持つ手には自然と力が入り、読み終えた頃には端々が深い皺を刻んでいた。

「誰かいるか!?キリュウを呼べ!」

 屋敷中にタスクの大声が響き渡った。珍しいことに狼狽えたのか屋敷で働く使用人達は慌ててキリュウを探
し回る。

 程なくパタパタと床を鳴らして呼び出した人物が姿を現した。昨日ハロルド達の到着を門柱で待っていた老
公である。

「如何なご用件でしょうか旦那様」

「ここでは話せん。来い」

 タスクが選んだのは人目のない執務室だった。そこでハロルドの手紙をキリュウにも読ませる。
 キリュウが読み終えたのを見計らってタスクが切り出す。

「それがハロルド君からの手紙だ。どう思う?」

「……率直に申し上げるならば疑わしいかと」

「同感だ。しかしこれが事実にしても虚偽にしてもストークス家には利がない。むしろストークス家の凋落を
示唆している」

「となれば第三者の差し金でしょうかな?少なくともあの少年本人が書いたものとは思えませんが」

「彼はあくまで橋渡しに使われたに過ぎないということか」

 その線が最も納得のいく答えだ。手紙の内容はとても10歳の子どもが書けるような代物ではないのだから。

 しかしそうだとして最大の疑問は晴れない。

「問題は誰の手によるものか、だな。スメラギに助力したい者ならばここまで回りくどく不確実な手段は選ば
ないだろう」

「ではストークスに対し辟意を持っている者の仕業だと?」

「それもハロルド君に頼みを聞き入れられるほど近しい人間か、もしくは彼を意のままに操れるかだ。それこ
そ洗脳したようにな」

 そうでなければこの手紙がタスクの元へ届くことはなかったし、書かれた条件を履行させることができない。

 首謀者の目的はストークス家の凋落か、その先にある別の何かか。それを計ろうにも現時点では情報が足り
ない。

「穿った見方をすればスメラギへのだめ押しなのかもしれないが……」
「それにしては得るものに比べてリスクが高いですな。お言葉ですが今やスメラギは窮地、静観していれば焦
らずとも望む形になるでしょう」

 キリュウの言う通りだ。このまま解決方法が見付からない限りスメラギはいずれ経済支援無しには成り立た
なくなる。

「つまりこの手紙の主がそれを望まないのだとすれば……」

「記された内容が事実だという可能性は大いにありますな」

 これは根本的な解決策ではない。

 だが効果が得られれば解決策を模索する時間に猶予が生まれる。そうなれば手紙に記された通り婚約を破棄
し、エリカを自由にしてやれるかもしれない。

「キリュウ、直ちに必要な物を揃えろ。危険性を説明した上で希望した者には使用する」

 手紙が全て事実だという確証はない。しかし五里霧中の状況に差した一筋の光だ。

 たとえ誰かの掌で踊ることになろうとも、タスクはこのチャンスに賭けてみることにした。

9話

明けましておめでとうございます。

 およそ3週間振りに戻ったストークスの邸にこれといって変わった様子はなかった。何かしらの変化を上げ
るとしたらジェイクが自宅の庭でLP農法による自家栽培を始めたくらいのものである。

 どうやら話を聞いただけでは半信半疑だったらしい。

 しかしその甲斐もあってLP農法に財政難脱出の希望を見出だしたジェイクは精力的に試験運用へ向けて尽
力している。

 ノーマンも上手く水面下で動いてくれているので両親に勘付かれてもいない。ここまでは計画通りと言えた。
 そしてスメラギ領から舞い戻り10日ほど経ち、LP農法の試験運用が差し迫ってきたある日。日課の鍛練
をこなしていた一希の元へ来訪者の報せが届いた。

「俺に来客だと?」

「はい、そのようです」

 いきなりそんなことを言われても一希に心当たりはなかった。さすがにハロルドの幼少時の交友関係までは
把握していない。

「来客者の名前は?」

「エリカ・スメラギ様です」

 ノーマンが口にした名前に一希は振るっていた剣を止めた。

(なんでエリカが来るんだよ……)

 LP農法の試験運用開始直前という微妙に忙しい時期に面倒事は勘弁してくれ、というのが一希の偽らざる
心境だった。

 そもそも何用なのだろうか。初対面であれだけ悪態を吐いた相手にわざわざ自分から会いに来るとは思えな
い。

 考えられるとするならば例の手紙に対する何らかのレスポンスだろう。そのメッセンジャーにエリカが抜擢
されたのは納得できなかったが。

 何にせよ剣を手にしたまま裏庭で考えていても埒が明かない。

「テラスの方に通しておけ」

 ヘイデンは仕事で不在だが母親のジェシカは在宅だ。本日もパーティールームで優雅に貴族流ママ友会を開
催しているので屋内の来客室でも遭遇確率は低いだろうが、手紙の件があるだけにできるだけ邪魔が入りにく
い場所を選ぶ。

 本当ならば自分の部屋が最適なのだが仮にも婚約者をいきなり連れ込むのはいらぬ誤解を招きそうなので自
重した。10歳児同士で誤解も何もあったものではない気もするが念には念を、である。

 ひとまず一希はかいた汗を水で流し着替えを済ませてからテラスへと出向く。

 そこにはストークス家の給仕が淹れた紅茶を楽しんでいるエリカの姿があった。

 先日の着物とは違い、今日の装いは袴を履いた書生姿である。純和風の出で立ちで洋風のウッドチェアに腰
掛けているというなかなか不釣り合いな光景だ。

「何をしに来た?」

 向かいの席に座りながらハロルドはいかにも不機嫌そうな声を発する。

 手紙の件であれば誰かに聞かれるわけにはいかないのでとりあえず手を振って給仕を下がらせた。

「この場合の第一声は普通なら“お待たせしました”ではありませんか?」

 一希としては似たようなことを言ったつもりである。言葉もニュアンスも全く反映されていないだけだ。

 相手をするのが面倒、という本音が滲み出たのかもしれない。

「俺は貴様と違ってヒマじゃないんだ。こうして顔を見せてやっただけありがたいと思え」

「うっ……確かに急に訪問したこちらが悪いのですけど……」

 正論をぶつけられて悄気るエリカ。

 言い分としては自分の方が正しいのだが、相手が子どもということもあってシュンとされるとまるで虐めて
いるかのような気分になる。

「ふん、まあいい。用件は何だ?」
 良心を抉られた一希はさっさと話を進めることにした。

 ハロルドの空気を察してエリカも凛とした雰囲気を瞬時に整える。

「まずはスメラギ家を代表してお礼をさせていただきます。此度は多くの民を救っていただきありがとうござ
いました」

 エリカが深々と頭を下げる。救った、ということは一希が手紙に記した調合アイテムを作り、実際に使用し
て効果があったのだろう。

 タスクが手紙を受け取ったのが20日ほど前。タイムラグを踏まえれば一希が去ってすぐに試したというこ
とになる。

 予想していたより行動が迅速だ。

「あんな眉唾物に飛び付くとはスメラギも相当追い込まれているようだな」

 せせら笑うかのようなハロルドに対してエリカは表情を崩さない。

「ハロルド様のおっしゃる通りです。現状ではスメラギに打つ手はありませんでした」

「ならその恩は高く売っておいてやる。だが勘違いするなよ」

「どういうことでしょうか?」

「俺が貴様らに提示してやったのはあくまで対症療法だ。根本的な解決はできないし副作用が出ないとも限ら
ない」

 ゲームなら材料を選んで調合するだけだが実際に作るとなればそれぞれの分量を試行錯誤していくつもの割
合を試さなければならない。それだけに一希はこうも早く効果が出るなど思ってもみなかった。

 加えて大量摂取や長期服用によって副作用が引き起こされるかどうか、またその程度などゲームで描かれて
いない部分は一切不明だ。
 当然それらについては手紙でタスクにも伝えてある。

 そういったリスクを天秤にかけても試すほどにスメラギは手詰まりなのかもしれない。

「つまりハロルド様のお薬では完治しない、と」

「症状が軽度であれば根治は可能かもしれないが重篤患者は無理だ。そしてそこまで面倒をみてやるつもりも
ない」

 なぜならそれを解決するのはライナー達主人公一味であり、エリカが主人公パーティーに加わるきっかけと
なるイベントでもあるからだ。

 冷たい物言いかもしれないが、しかしそれはエリカも承知の上だ。

 婚約者という間柄ではあっても所詮は政略結婚。物資や資金の援助など最低限の義理を通しさえすればスト
ークス家は面目を保てる。

 それでもハロルドはわざわざ――

(作った……?“薬”を?)

 エリカの頭を過った疑問。

 それはハロルドがいつあの薬を作ったのかということ。

 エリカとの婚約が決まってから、というのはあり得ない。専門的な知識のないエリカでもたった数日で薬を
開発するなど到底不可能だということは分かる。

 では知識として知っていただけでハロルドが作ったものではない?先程もエリカが「ハロルド様のお薬」と
口にした際に肯定も否定もしなかった。

 ハロルドはあくまで“対症療法を提示した”というスタンスでいる。

 しかしスメラギが総出で調べ上げたにも関わらず有効な手立てが見付けられなかったものをハロルドが知っ
ているというのも考えにくい。

 仮にそうだったとしても有効性が少なからず実証されるほどの臨床例があれば相応の資料や文献が残ってい
るはず。副作用についてまるで分からないというのもおかしな話だ。
(それでは一体どうやって……?)

「貴様の用件はこれだけか?」

 深く潜りそうになったエリカの思考を遮ったのは億劫さを隠そうともしないハロルドの声だった。

 追い返そうという雰囲気が嫌でも伝わってくる。

「まだあります。父からハロルド様へ手紙を預かって参りました」

「寄越せ」

 やはりエリカはメッセンジャーに抜擢されたらしい。

 タスクが手紙だけでは礼に欠くと判断して感謝の意を直接示そうと考えたのかもしれない。

 エリカも不本意なんだろうなぁと彼女に些か同情しつつ、一希はタスクからの手紙に目を通していく。

 その内容は予想通り。

 例の薬は効果があったこと、副作用を始めとした諸注意事項に関しても今のところ問題は起きていないが経
過を注意深く観察していく意向であること、そしてハロルドへの感謝の言葉が綴られていた。

 まあ現時点でこちらに報告できるのはそんなところだろう。

 手紙は拝見した、後は静観する、という旨をタスクに伝えればこれ以上干渉する必要もされることもないは
ずだ。

(ん?)

 ふと2枚組みだと思っていた便箋の後ろにさらにもう1枚便箋が重なっていたことに気付く。その書き出し
には“追伸”の文字があった。
『追伸

 君も知っての通り今スメラギの地は異常な事態に見舞われ、その対応に追われていて立て込んでいる。前例
の無い出来事だけにいつ不測の事態が起きるかも分からない。

 そこで心苦しいのだが君に相談がある。誠に申し訳ないがエリカの身をしばらくストークス家で預かっては
もらえないだろうか。私情を挟むのは当主として失格かもしれないが大切な1人娘を案じる父親として――』

 そこまで読み進めて一希は手紙から目を離した。眼精疲労でも起こしているのかと思いながら目頭を揉み、
再び手紙に視線を戻して最初から読み返す。

 しかしそんなことをしてもエリカの身の安全に助力してほしいという文言に変化はなかった。

 両手で頭を抱えてテーブルに突っ伏しそうになるのを堪え、それでも絞り出した声は怨嗟を含んでいた。

「どういうつもりだ、これは……」

「如何致しました?」

 一希は無言で追伸が書かれた便箋をエリカの前に置く。

 それを読み終えたエリカはさも驚いたようなセリフを淡々とした調子で口にした。

「まあ、これは困りました。婚約者とはいえ同じ屋根の下で暮らすなどご迷惑をお掛けすることになってしま
います」

「……おい」

「ですが私を乗せてきてくれた馬車はもう帰ってしまいました。ここはどうかハロルド様のご慈悲で助けてい
ただくしかありません」

「おい貴様」

「はい、なんでしょう?」
 ニッコリと笑うエリカ。初めて見せる満面の笑顔だった。

「なかなかいい根性をしてるな」

「お褒めにあずかり光栄です」

 ハロルドの皮肉に涼しい顔で皮肉を返すエリカ。この一件はタスクの独断ではなく彼女も承知の上らしい。

 つまりエリカは何かしらの目的を持ってここに居座ろうとしている。

 単純に婚約者だからという理由ではないだろう。タスクにはエリカがストークス家に嫁がないで済む手段を
知らせている。

 まあそれはあくまでタスクが手紙の内容を信じてくれればの話だが、そうではなかったとしてもエリカを送
り込んでくる理由に見当がつかない。

 加えて一希を困惑させているのがエリカの言動だ。

 ゲーム内では確かにお茶目さやささやかな悪戯をする描写はあったが、言葉だけの応酬とはいえ決して意趣
返しを行うような性格ではなかった。

 まだ精神面が成熟しきっていないといえばそれまでなのだが、そのギャップは一希を惑わせるには充分だっ
た。

「こんな一方的な申し入れを聞き入れてやる義理はない」

 格上貴族からの願い入れなどほとんど命令のようなものではあるが、それを一希は躊躇なく突っぱねた。

 タスクの人柄、スメラギの現状を考慮して問題はないと判断したからだ。

 もしこれでストークスとスメラギの仲が多少拗れたとしてもそれはそれで一希の望む展開でもある。

 いずれ婚約を解消する際の後押しになればいい。

「つれない方ですね。他領の民は救ってくださるのに婚約者は無下に扱うだなんて」
 エリカがこれ見よがしに悲しげな表情を作る。

 まさに“作った”表情であり悄気ていた時とは違って一希の心は微塵も揺れない。

「あれは高い恩を売れると踏んだからだ。だがこの件に関しては俺への見返りが少ない」

「そうですか。そこまで言われるのならこれ以上ハロルド様にお願いするわけにはいきませんね」

 すっと立ち上がったエリカは再びハロルドへ深々と頭を下げる。

「改めてハロルド様に感謝を申し上げます。スメラギの民を救っていただき本当にありがとうございました」

 ここが畳の上ならば三つ指をついていたんじゃないかと思うほど丁寧な一礼に、エリカの偽り無い心が見え
た気がした。

 彼女が民を想う気持ちは本物なのだろうな、と一希はそう感じだ。だからといって居候を認めてやる気は毛
頭ないが。

「この貸しは後で盛大に取り立ててやる。精々今の内に切れるカードを増やしておくんだな」

「お気遣いのほど痛み入ります。それでは失礼致しました」

 そう言い残し、エリカは淀み無い足取りでストークスの邸を後にした。

 やけにあっさり引き下がったことを不審に感じつつ、そういえば馬車もないのにどうやって帰るつもりなの
だろうという疑問に思い到ったのはそれからしばらく時間が経ってからだった。

 その答えを知るのはそれから数時間後、ヘイデンの口から告げられることになる。

10話

祝スマホデビュー

今まで通りメールの下書き機能で書いてるけどスマホだと執筆した文字数が分からない

なので今回はお試し投稿
 陽も傾きジェイクが書き上げた報告書に目を通していると、邸に帰ってきたヘイデンから呼び出しがかかっ
た。

 まさかと思いながらハロルドを呼びに来た使用人に従ってヘイデンの書斎へと足を運ぶ。

 そこで待ち構えていたヘイデンの顔を見て嫌な予感は確信へ変わった。なぜならいつもは厳しい顔つきをし
ていることの多いヘイデンがかなりの上機嫌だったからである。

 彼はハロルドが部屋に入るとすぐに話を切り出した。

「喜べハロルド、良い話がある」

「いい話?」

 何を言い出すか分かりきっているがあたかも初耳であるかのような態度で聞き返す。

 虚しいが仕方がない。

「今日タスク殿から報せが届いてな。しばらくの間エリカ嬢がストークス家に滞在することになった」

 やっぱりか、という思いが一希の胸に去来する。

 ヘイデンの中でエリカの居候はすでに決定事項らしい。スメラギとしても最初からこちらが本命だったのだ
ろう。

 それでも一希は抵抗を試みる。

「俺は気乗りしないね、あの子と一緒に住むなんて」

「照れることはない。お前とエリカ嬢の仲は両家公認なのだからな」

 しかしヘイデンには恥ずかしがっていると勘違いされてしまう。浮かれているのかハロルドの言葉をまとも
に取り合う気配はなかった。
 その後も食い下がってはみたものの決定を覆すことはできず、結局一希は渋々エリカを迎え入れることにな
った。

 翌日、 一希はエリカを出迎えるためにストークス領と街道を繋ぐ東門へと向かっていた。予定では朝方に到
着することになっているようだが、昨日の内に姿を見せたので恐らく近くの宿にでも宿泊したのだろう。

 一希は暗澹たる気分で迎えの馬車に揺られる。

(つーか日程がタイトすぎじゃない?)

 急いでも片道6、7日はかかる旅路のはずなのに手紙が届いた翌日に到着するというのは返答を聞く気がな
いか、ヘイデンが承諾するのを分かっていたかのどちらかだ。まあ恐らく後者なのだろうが。

 どちらにせよこれは原作には無かった展開である可能性が高い。事の発端はまず間違いなく一希が書いた手
紙なのだから。

 つまり自業自得じゃん、と凹んでいるといつの間にか東門に到着していた。

 足枷がついているのではないかと錯覚するほど重い足取りで馬車を降りるとそこにはエリカと、その右手後
方に見知らぬ女性が立っていた。

「ハロルド様が直々に迎えに来て下さるなんて光栄です」

「はっ、心にも無いことを」

 今日も今日とて人間関係を破壊しにかかるハロルドマウス。

 この口と付き合うことおよそ3ヶ月、一希はもはや嘲笑のバリエーションに感心すらする境地に達している。

 自分の無駄な成長を感じつつ一希は視線をエリカの後ろに控えている女性へ向けた。

 年齢は10代後半から20そこそこ、毛先近くを大きな白いリボンでひとまとめにして房のようになってい
る腰まで伸ばした栗色の髪が印象的だ。

「そいつは誰だ?」
「お付きのユノです。滞在中私の身の回りの世話は彼女が」

「ユノと申します~」

 語尾を伸ばし緩慢な動作でユノがお辞儀をする。ふにゃっとした笑顔と相まっておっとりとした雰囲気の女
性だ。

 そして一希は彼女のことを知らない。つまり原作には登場していないキャラクターだ。

「あらかじめ忠告しておくが俺には貴様らに構ってやる時間は無い。居座るのは勝手だが俺の邪魔だけはする
なよ」

 相手の目的もユノの正体も不明なのでとりあえず釘を刺しておく。

 LP農法の試験運用をいざ開始しようというタイミングでの来訪だけに一希としては不確定要素を可能な限
り排除しておきたいのだ。

 ハロルドの険がある言葉を2人は動じることなく受け止める。

「心得ております」

「了解致しました~」

(マジで心得てんだったら帰ってくんねぇかな……)

 などと愚痴ったところでエリカも家の都合に逆らえずここまでやって来たのであり、どうやっても追い返せ
はしないのだろう。

 ならば非接触に徹するのが賢明だ。

 だがしかし、そうは問屋が卸さなかった。

 終始無言のままエリカ達と邸へ戻った一希を無慈悲な言葉が襲う。

「この間のお礼に明日はお前がエリカちゃんを連れて街を案内してあげるんだ。女性のエスコートも貴族には
必要な能力だからな。今の内から練習をしておくに越したことはない」

 言うまでもなくヘイデンからの提案である。

 それだけでも厄介だというのにエリカもエリカで「お心遣い感謝致します」などど好意的に受け答えるもの
だから一希はもう言葉を失うしかなかった。

 連日エリカ関連の事件に見舞われて憔悴する一希。

 だがハロルドというフィルターを通すとそれは怒りに変換されるらしい。

「いつにも増しておっかない顔をしてますね。そんなんじゃ許嫁に怖がられちゃいますよ?」

 部屋を訪ねてきたゼンはハロルドの顔を見るなりそう言い放った。よくそんな顔をしている貴族に臆するこ
となく話しかけられるものである。

「その許嫁が原因だ。全くもって忌々しい……」

「何がそんなに不服なんですか?かなり可愛い娘だったのに」

「そうか、貴様の趣味は分かった」

「全然分かってないですよ!ものすごい誤解ですからね!?おれはユノさんの方が好みです!」

 濡れ衣を被せられ必死に否定するゼン。一希にとってはショタコンじゃない限りゼンの性癖などどうでもい
い。

 そしてなぜゼンがこの話題を知っているのかといえばエリカが到着するなりヘイデンが邸中の人間を集めて
大々的にハロルドの婚約者とそのお付きであると紹介したからだ。既成事実でも作っておきたいのだろうが、
一希からすれば単なる公開処刑である。

 ちなみにハロルドの婚約者として紹介されたエリカに向けられた視線の9割は憐れみを帯びていた。

 そこにハロルドを含めストークス家への評価が如実に表れている。
「ぎゃあぎゃあと喚いていないでノーマンとジェイクを呼びに行け。明日以降の予定を調整する」

「おれは本当に大人の女性が好きですからね!?」

 ゼンが最後まで否定しながらハロルドの部屋を後にして邸内を探し回っている頃、エリカとユノもまた頭を
悩ませていた。

 その原因は他でもないハロルドである。

「話には聞いていましたけどなかなかやんちゃそうな男の子でしたね~」

 ユノ位の歳からすれば小生意気辺りが妥当なところではないかと思うが、それでも“やんちゃ”の一言で済
ませてしまうのがユノの包容力だった。

 しかし最たる問題点はハロルドの憎たらしい言動ではない。

「お父様はハロルド様が内通者と繋がっているか利用されている可能性があると仰っていましたが……」

「彼の性格からして素直に誰かの言うことを聞くようには思えませんね~」

 となればハロルド自身が気付かない内に傀儡とされている可能性の方が高くなる。彼を従順させるのは相当
困難を極めるだろう。

 逆にもしあの言動が演技で内通者と与しているなら昨日の段階でこちら側に何かしらの手段で接触があるは
ずだとタスクは睨んでいた。そうしやすいように家主が不在で邪魔が入りにくいタイミングを見計らいハロル
ドに接触し、無礼を承知でこれ見よがしに刺激したのだ。

 しかし結果は空振り。これがより事態をややこしくさせていた。

 タスクはハロルドが傀儡にせよ自身の意思で動いているにせよ目的はストークスを害するかスメラギを助け
るかの2択だと考えた。故に手を組もうと同盟を持ちかけてくるなり、邪魔をするなと警告をしてくるなり何
でもいいから相手側からのアクションが欲しかったのだ。

 だが相手は未だに沈黙を貫いている。

 相手の目的が不明確な以上スメラギとしてもただ指をくわえているというわけにはいかない。勝手に味方だ
と思い込んで痛い目を見ることになりかねないのだ。
 だからこそタスクはそれを探るためにユノを送り込んだのである。

 エリカの居候はユノを自然に潜入させるための目眩まし、言わば囮にすぎない。これはエリカも承知の上だ。

 今回の目的や自分の役目をエリカはしっかりと理解している。

 その中で1つだけ彼女に伏せられている可能性があった。それはハロルドが自分の意思など微塵も関係なく
洗脳されているかもしれない、という唾棄すべき可能性。

 もしそれが現実のものとなれば――

「これは少々骨が折れるかもしれませんよ~」

 ユノはエリカに聞こえないよう嘆息と共に袖の内側に潜めていた暗器をカシャンと鳴らした。

11話

 計らずも少し重くなった空気を払拭するかのようにユノが話題を変える。

「ところでエリカ様、明日のデートはどうするおつもりですか~?」

「当然行きます。ハロルド様と接触する絶好の機会なのですから」

 胸の辺りで両の拳を“むん!”と握り気合いを示すエリカ。

 顔を合わせてすぐに近寄るなと言われた時は内心どうしようかと焦ったが、ヘイデンの発言でチャンスが転
がり込んできた。エリカとしてもヘイデンの思惑に乗ることに良い気はしないがこれを逃す手はない。

「ではおめかしをしないといけませんね~。せっかくですし着る機会の少ない洋服などはどうですか~?」

「別にそこまで意気込む必要はないのですけど……」
 ユノはデートだと囃し立てるがお相手はあのハロルドだ。そんなロマンチックな空気になるとは思えない。

 実際は中心街を淡々と見て回る程度になるだろう。デートよりも視察という言葉の方が相応しい空気になり
そうだ。

「そんなことではいけませんよ~。乙女は如何なる時でも可愛くなければいけないのです~」

 お姉さんらしく乙女の心得を説くユノだが、そのセリフはむしろエリカのものだ。

 仕事中は仕方がないにしても休日まで割烹着で過ごすのはそれこそうら若き乙女としてどうなのだろうと思
わずにはいられない。エリカの記憶にあるユノの姿はただの1度も例外なく割烹着を身に纏っている。

 そんな彼女に乙女とはなんたるものかと諌められたところで説得力は皆無だった。

「貴女こそたまにはお洒落をしてみたらどう?綺麗なのだからもったいないわ」

「ふっふっふっ~、それは駆け引きなのですよ~。ここぞという時に普段とは違う自分をアピールして異性の
ハートをつかむのです~」

「なら私もここぞという時までとっておくことにします」

「えぇ~、初デートなのですよ~?上手くいけばハロルド様を骨抜きに出来るかもしれませんよ~?」

「その程度で誰かに靡くような人ではないでしょう」

 女性に甘い顔を見せるハロルドというのはどうしてもエリカには想像できなかった。めかし込んで現れた自
分を容赦なく罵倒するハロルドならば想像は容易なのだが。

「昨日こんなに可愛いワンピースを見付けたんです~。着てくださいエリカ様~!」

「いつの間にそんなものを買っていたんですか……」
 荷物の中からフリルが装飾されたワンピースを取り出して懇願するユノ。その訴えは乙女の矜持やハロルド
の籠絡など通り越して、ワンピースを着たエリカが見たいという個人的な願望だった。

「ユノ、私達はここへ遊びに来たわけではありません。それは貴女も理解しているでしょう?」

「むむ、残念ですね~」

 交渉の余地なしと判断してユノはワンピースを荷物へ戻した。

 無論、本気のやり取りではない。エリカの緊張を解きほぐそうとユノが意図して砕けた空気にしただけであ
る。

 それを察しているからこそエリカも強く嗜めることはしないが、いつまでも肩の力を抜いているわけにはい
かない。

「では本題へ戻りましょうか~。ハロルド様と接触するときの留意点をお伝えしますね~」

「ええ、お願い」

 ひとつ屋根の下で両者の思惑が交差する。互いの腹を探り合う、水面下での戦いの火蓋が切って落とされた。

   ◇

 エリカの案内役を強制的に任せられた一希だが、このミッションを遂行するにあたって彼には大きな欠点が
あった。

 それは案内すべき街をほとんど知らない、ということだ。

 元々ストークス領は会話文とイベントシーンでしか描かれておらず、実際のゲームではマップ表記すらない
のでノーマンが地図を持ってこなければ正確な場所を把握できなかっだろう。
 そしてこの3ヶ月をフラグ回避に費やしてきた一希は街に出向いた回数など片手の指で足りるほど。それも
移動がてらに立ち寄っただけで買い物や観光目的で訪れたことは皆無である。

 むしろ自分が案内してほしいレベルだった。

 しかし一希はこれをチャンスと捉えることにした。

 一希は街について何も知らないが、ハロルドがどうだったかは分からない。もし足繁く通っていた場所など
あればそれを知らないとなると怪しまれてしまう。

 だが今回に限っては“エリカを案内する”という免罪符がある。自分が楽しむためではなく人を連れていく
のに向いた場所が知りたいというスタンスならあれこれ聞いても不自然ではないはずだ。

 という仮説は正しかったようで一希は邸の人間からそれとなく情報を仕入れることに成功したのだった。

(まあそれを活かせるわけじゃないんだけどさぁ……)

 元よりエリカからの好感度を上げないためまともに案内するつもりはない。これから先利用できるかもしれ
ない情報を手に入れるチャンスをしっかりものにした、というだけの話だ。

 それでもこの状況は些か予想外だった。

「あ、あのハロルド様……」

 エリカが気まずそうに一希ハロルドへ声をかける。

 そこには純粋な戸惑いがあった。

「なんだ?」

「……いいえ、何でもありません」

 うんざりしたようなハロルドの反応にエリカは二の句を継げず押し黙る。気まずい空気が馬車の中を支配し
ていた。

 その原因は馬車の外、街の住人である。
 彼らの異変に気付いたのは始めに馬車から降りた時だ。

 いや、恐らくその変化は一希達が街に入った瞬間から起こっていたのだろう。

 そこにあったのは耳が痛くなるほどの静寂。

 一希の記憶から似たような状況を抜き出すなら中学時代に校則違反の代物を放課後の教室で広げていたとこ
ろを、全校生徒が恐れていた生活指導の体育教師に見つかった瞬間の凍りついた感じに近かった。

 そしてこの場合の体育教師はハロルドなのである。

 ハロルドが姿を現すと街の人々は動きを止め、歩けば避けるように人垣が割れる。声をかけられた店主の顔
は恐怖で青ざめ、遠くから様子を窺う住民の視線には明確な敵意が込められていた。

 異様な静けさに包まれた街はとにかく居心地が悪かった。その態度は一希のメンタルをごっそり削っていく。

(クララを殺したって噂を放置してたのがだめ押しになったかな……)

 それに関しては一希も何か手を打とうと考えていた。しかしクララとコレットの安全、そして両親との間に
軋轢が生まれるという面倒な事態を避けたいがあまり有効な対策を思い付けずにいたのだ。

 その結果がこれである。

 ハロルドの、ひいてはストークス家の嫌われっぷりを目の当たりにしたエリカも絶句していた。

 彼らはエリカのことを知らないのだから一希ハロルドと一緒にいればこんな反応をされるのは当然と言える。
まあすぐにエリカはハロルドの婚約者だと公表されるのでストークスの使用人達からも向けられた憐れみの視
線に変わるのだろうが。

 とはいえこれ以上街を散策しても得える物より失う物の方が多い気がした。主に精神的な部分で。

 街へ繰り出すこと1時間と少し、一希としてはそろそろ限界だった。

「もう充分だろ。帰るぞ」

「……はい」

 どこか意気消沈した様子でエリカが頷く。その顔には薄くない疲労が浮かんでいた。
 原因はストークスの住民達の敵意ある視線に晒され続けたことだ。

 両親からの寵愛を受け、側付きや自領の民からも敬愛されている彼女にとって嫌悪の感情を浴びるのは人生
で初めての経験だった。

 それがここまで堪えるものだとは思いもしなかったのである。

 故にハロルドの言葉に反対する気力も沸かない。言われるがまま帰路を選ぶ。

 それからストークスの邸に戻るまで2人の間に会話はなかった。

「お早いお戻りでしたね~」

 とんぼ返りで帰ってきたエリカにユノはそう声をかける。

 しかしどうして?とは問わない。

 何故ならユノは離れた位置からずっと観察していたからだ。それでおおよその事情は把握はできていた。

「ストークス家は領民からの支持が低いとは聞いていましたがまさかあれほどとは思っていませんでした」

 疲れた声でエリカがそうこぼす。

 正直に言うなら若干ではあるものの身の危険を感じたほどだ。

「確かにあの嫌われようは尋常ではありませんね~。まあ話を聞く限りでは当然ですけど~」

 ユノが使用人から聞き出した話や巷に流れている噂は酷いものだった。特に領民は利益のほとんどを税金と
して搾り取られ、生きるのに最低限の生活を強いられている者も少なくない。

 暴動が起こす余力さえ奪われ、逆にストークス家は同程度の領地や経済力の貴族と比較しても飛び抜けて軍
備に投資している。そのせいで領民の生活がさらに厳しくなっているのだ。

 これでは暴動など決起したところで無駄死にするのは目に見えていた。

「その様子だと内情を探るのは上手くいっているようですね」
「それはもう~」

 邸の人間に話を1振れば10も20も返ってくるのだ。余程嫌われているようだ。

 しかしその中にはどうしても看過できない情報が含まれていた。

「ただ、ひとつだけ気になるお話がありまして~」

「気になるお話、ですか?」

「はい~」

 それはユノが自分の耳を疑い、思わず「何かの間違いではないですか~?」と聞き返さずにはいられなかっ
た、しかし信ずるに足る数の証言が得られた話。

 エリカに伝えるのは憚られたが、そうすることで彼女を危険に晒す可能性を無視するわけにはいかずユノは
口を開いた。

「実は最近ハロルド様が使用人とその家族を魔法で焼き殺したそうなのです~」

「――え?」

 ユノから告げられた言葉の意味を処理できずに、エリカは呆然と息を漏らす。

「殺害したのは邸の使用人だったクララさんという女性とその娘であるコレットちゃんだそうです~」

「ま、待ってユノ!それは本当なのですか?ただの噂では……」

「その可能性はありますが個別に話を聞いた人達からほぼ同様の証言が得られました~。根も歯もない噂話で
はないようですね~」

「そんな……」
 ハロルドは口も悪いければ態度も高圧的だ。他者を見下すし毛嫌いしているのか自分を避けているというの
はエリカ自身感じている。

 それでもハロルドはスメラギの民を救う希望を見出だしてくれた。そこに彼なりの思惑があったとしてもそ
の事実は揺るがない。

 だから心のどこかでハロルドは彼の両親とは違うのではないかと、エリカはそう思っていた。

 それだけにユノの言葉は小さくない衝撃を彼女にもたらした。口を覆うエリカの両手がカタカタと小刻みに
震える。

「内偵は継続しますがこれからはハロルド様と2人きりになるのはお控えください~。何があるか分かりませ
んので~」

「……ええ、気を付けます」

「大丈夫ですよエリカ様~。わたしが居ますから~」

 赤子をあやすような優しい声色でユノがエリカを励ます。自分がいる限り絶対に安全なのだと言い聞かせる
ように。

 それでもしばらくエリカの震えが止むことはなかった。

12話

「生育状況はどうなっている?」

「全6ヶ所で順調な生育を確認しています。収穫量も概ね想定通りです」

「ならさっさと手を拡げたいところだが……」

「残念ながらこれ以上規模を拡大させるとなると人手が足りません」
「監査が入らないと利益に目が眩み自分勝手な栽培に走る農家も出るでしょうな」

 LP農法の試験運用を開始して2週間、一希はノーマンとジェイクの2人とその成果を確認しつつこれから
の展望を話し合う。

 場所はもちろんハロルドの部屋だ。この頃は部屋にいても1人ということが少ない。ノーマン、ゼン、ジェ
イクの誰かしらが部屋に居ることが多くなった。

「人手不足に関しては俺じゃどうにもできない。この邸で他に使えそうなのはいないのか?」

「現状では難しいですな。アリアスやセクソンに協力してもらえば一時しのぎにはなるでしょうが……」

 ノーマンがクララ救出計画に尽力した兵士達の名前を挙げる。

 だが彼らに本来の仕事と平行して農村まで出向いて監査役までやらせるのは現実味が薄い。ノーマンが自分
で口にした通り一時しのぎにしかならないだろう。

「ちっ、ならいっそのこと外部の人間でも雇うか……?」

「外部ですかな?」

「例えば父に自分専用の側近が欲しいと頼み込んで……いや、それでは駄目だ。父の息が掛かった奴じゃ余計
に動きづらい」

 ぶつぶつと独り言に没頭しそうになった一希ハロルドをジェイクが呼び止める。

「ハロルド様、まずは報告の続きをさせていただきたいのですが」

「ん?ああ、土壌の件か」

「はい。試験畑の土壌についてですが大きな変化は見られていません」
 試験畑というのは早い話がジェイクの自宅に作られた畑のことである。そこで3種類の野菜をただひたすら
に栽培し続けているのだ。

 確認したいのは長期間、もしくは大量にLPを注いだ場合土壌に問題が発生するかどうか。これで土が痩せ
細って畑として使えなくなるとなれば即刻中止しなければならない。

「今回でローテーションはいくつになった?」

「赤グルトが7回、スズイモが6回、ブルーナが11回になります。定期的に調理師達にも試食してもらって
いますが味にも違いは出ていません」

「悪くはない報せだがまだまだ試行回数が足りない。引き続き試作栽培を行って経過を見ろ。それから……」

 こうして数日に1度は顔をつき合わせ状況の把握に勤しむのが一希の日常になっていた。学生時代には味わ
えなかった充実感はあるが未だに前途は多難である。

 そして高校や大学の授業とはまた違う頭の使い方をすると、その反動か体が暴れることを要求してくるよう
にもなった。

 というわけで議論を終えた一希が剣を携えて足を運んだのはすっかりお馴染みになった邸の裏に広がる森の
中、クララ救出計画で利用した拓けた地点だ。

 思い切り剣を振れる唯一の場所である。

 到着するなり一希は軽く体をほぐすと早速いつものルーティーンを開始する。

 袈裟斬り、斬り上げ、回転斬りの3連撃。

 しかしその剣速や剣閃の鋭さは鍛練を始めた当初とは比較にならないほどの域に達していた。空気さえも斬
り伏せてしまいそうな、見る者を圧倒する剣舞。

 だが一希ハロルドの剣技はそれだけに留まらない。

 目を閉じ呼吸を落ち着け神経を研ぎ澄ます。

 訪れる静寂。それを破るように一希が動き出す。

 1秒足らずで繰り出されたのは先程までと同様の3連撃。異なるのはそこからさらに先。
 回転斬りで振り抜かれた刀身に宿っていたのは――雷。

「『雷迅らいじん』」

 その言葉に呼応するように輝きを増した電流は、刀身が地面に突き立てられた瞬間に放たれた。

 一希を中心に8本の雷撃が発生し周囲を襲う。ひとつは地面を抉り、ひとつは岩を焦がし、ひとつは幹を砕
いた。

 雷撃のリーチはおよそ3メートル。しかも全方位への攻撃が可能という数的不利をものともしない一撃を放
った一希は、しかし不服そうに呟いた。

「この程度じゃ使い物にならない」

 今しがた一希が放ったのは『Brave Herats』では初級技に数えられる『雷迅』という技だ。

 見た目は中々派手であり初めて成功した時は一希自身がビビったりしたのだが、ゲームでは所詮 MP マジッ
クポイント消費5の雑魚技である。主人公がレベル1桁で修得するだけにダメージもお察しだ。

 ではなぜ不服なのかというと、不思議なことに一希の中には“もっとやれる”という感覚が芽生えているか
らに他ならない。最初は雷撃の数が4本だったことを考えればその感覚はあながち間違っていないだろう。

 ハロルドは基本的にどの属性の魔法も使用可能だが、中でも彼を象徴するのは雷である。そんなハロルドの
体が“俺はこんなものじゃない”と叫んでいるようで、その訴えに応えるように一希は脳裏をよぎる理想の雷
迅を完成させようと一心不乱に剣を振るう。

 だから気が付かない。今の自分が10歳の子どもでは到底辿り着けない高みに登っていることに。

 それがどれだけ異常であるかということに。

 そんな自分が他者からどう見られるかということに。

(これは大変なものを見てしまいましたね~)

 内心はいつもと変わらぬおっとりとした口調のユノだが、珍しくその頬には一筋の汗が伝う。

 ストークス家の内偵が一段落し、本格的なハロルドの調査に乗り出した初日に目を疑う光景に遭遇してしま
った。彼に出会ってから自分の五感を疑ってばかりいる、と微かな苦笑が漏れる。
 しかし笑ってばかりもいられない。どう考えてもハロルドは普通ではなかった。

 自分の背丈に近い鉄剣を軽々と振り回し、その剣速は歴戦の剣士に引けを取らない。加えて既に魔法を付加
した剣術まで扱えている。

 それ自体は何かを証明する決定的な根拠にはならないが、彼には大きな秘密があるとユノは確信した。

 問題はその秘密がスメラギ家、そしてエリカに危害を及ぼす危険性があるかどうか。

 事前に用意していた手筈では正面から接触しようと考えていたが、万が一のために探りを入れる手段を練り
直した方が良さそうだ。そう思い踵を返し音もなく立ち去ろうとした瞬間にそれは起こった。

 ハロルドに背を向けたユノの背後でガン、という重々しい衝撃音と共に空気が震える。

(――っ!?)

 突然の事態にユノは反射的に身を竦めた。

 音の正体はハロルドの剣。それが今は主人の手を離れ、ユノが身を隠していた木に深々と突き刺さっていた。

 意識が切り替わる一瞬の隙を狙い澄ました不意打ち。そこに木が無ければ確実に彼女を貫いていただろう。

 その事実にユノの血の気が引く。それでも声を上げなかったのは彼女がこれまで培ってきた鍛練と経験の賜
物だろう。

 だが驚きのあまり茂みを盛大に踏み鳴らしてしまったのは致命的な失態だった。

「誰だ?コソコソと隠れていないで姿を現せ」

 ハロルドの鋭い声が響く。

 このまま逃走を図ろうかとも考えたが自分の隠密行動を的確に見抜いた彼の目を誤魔化すことはできないだ
ろうと観念し、ユノはハロルドに姿を晒した。

 するとハロルドは若干目を見開き、次に本当にわずかながら表情を変えた。
(今のは安堵……でしょうか~?)

 その変化を読み取れたのはユノの類い稀な観察眼の力である。

 しかしそれが意味するところは分からない。

 対する一希は最高潮にテンパっていた。

 雷迅の練習に熱中し過ぎたあまり右手からすっぽ抜けた剣はあらぬ方向へと飛び立ち、10メートル以上離
れた位置の木に刺さることで止まった。

 驚いたのはそこに何かの気配があったことである。

 まさか人にでもぶち当たって怪我をさせてしまったんじゃないかと大慌てで声をかけた。そのまま茂みの方
へ駆け出そうとしたところで木の陰から現れたのはユノだった。

 見たところ怪我をしている様子はなく一希は胸を撫で下ろす。危うく殺人犯になりかけてしまった。

「申し訳ありませんハロルド様~、つい出来心で~」

 一希がハロルドの口でも謝罪の言葉を捻り出せるのかと悩んでいるとなぜかユノが頭を下げた。

 どうやら一希ハロルドの鍛練を覗いたことへの謝罪らしい。一希にとって別にそんなことはどうでもいいの
だが。

「陰でうろちょろするな、小賢しい。立場を弁えなければ手痛い傷を負うことになるぞ」

 見てるなら目の付くところに居てください。どこに居るか分からないと怪我をさせてしまうかもしれないの
で、という一希の気遣いは微塵も伝わらない。

 むしろユノにはこう聞こえていた。

(釘を刺されてしまいましたか~……)

 こちらの存在を易々と看破し、抵抗の余地を与えずに、かつ無傷で鎮圧する鮮やかな手腕。エリカという護
るべき存在が側に居る状況ではとても相手取れるものではない。
 彼もそれを理解しているからあえてこうして警告しているのだろう。

 ――これ以上踏み入るのなら次は無いぞ、と。

 ハロルドが子どもだからといって気を抜いていたつもりはない。甘くも見ていなかった。

 それでもユノは軽々と上回られてしまった。まるで最初から全てを見透かされていたかのように。

 完敗だった。果たしてハロルドには戦ったという意識があったのか。そんな疑問すら感じるほどの力量差を
見せ付けられた。

 彼は武力だけではなく智謀すらも兼ね備えていた。

「ふん、まあいい。ところで箱入り娘はどうしている?」

 言葉を返せないでいるユノにふとハロルドがそんなことを尋ねてきた。

 いきなりの話題転換にユノは面食らいつつもその質問に答える。

「エリカ様はまだ少し体調が優れないようです~。慣れない環境に戸惑っているのかもしれません~」

(ただの体調不良にしちゃ2週間は長いよなぁ。病弱設定は無かったはずなんだけど……)

 街の案内から戻ったエリカは気分が優れないと言い出し、あれ以来ほとんど部屋に篭っていて姿を見ていな
い。お陰でLP農法の試験運用にかかりきりになれているが、ここまで長いとだんだん心配が大きくなってく
る。

 もしや何かのフラグじゃあるまいな、と危機察知能力が警鐘を鳴らす。まあ既に手遅れなのだが。

「大方自分の家が恋しくなったんだろ。さっさと帰ったらどうだ?」

「冷たいお言葉ですね~。仮にも婚約者なのですからもう少し優しさを見せてもよろしいのでは~?」

 それができたら苦労はしないのである。ハロルドの口はさながら呪いの装備だ。
「下らない。貴様の言う通り俺とアイツの関係は仮初めだ。そんなものに縛られるつもりはない」

「どういう意味でしょうか~?」

(あ、ヤバい。喋りすぎたかもしれん)

 将来的に婚約を破棄するつもりであることはまだ公にはできない。

 この思惑を知っているのは手紙を読んだタスクだけだ。そして書いておいてなんだが一希もタスクがそれを
全面的に信じているとは思っていない。

 だからこそハロルド・ストークス自身に婚約を解消する意思があるということを今の段階で誰かに知られる
のはリスクが高い。

 現段階では準備が整う目処すら立っていないのだ。

「貴様に説明する必要はない」

 まともに誤魔化すこともできず、そんな負け惜しみ染みたセリフを吐いて一希はユノから逃げるように邸へ
と戻る。

 後頭部辺りにユノの視線を感じたが無視を貫いた。

こういう展開が勘違いものの王道だと思うんだ。

ちょろい?そんな声は聞こえません。

感想で様々な意見が出ていますが、ぶっちゃけユノは序盤でこれがやりたいがために登場させたキャラクター
なので暗器持ってたりするのにあまり深い設定はないです。

あとは戦闘の指南役くらいでしかまともな出番はないかも。

それもあくまで繋ぎ役の予定ですが。

次はちゃんとエリカメインの話を書きます。
ハロルドの評価をもっと下落させなきゃ!

13話

 ユノの乱入によって予定していたより早く鍛練を切り上げたものの、こうなると一希は時間をもて余してし
まう。

 最近は少しでも暇があれば剣の鍛練に励んでいた。将来を見据え必要に駆られて始めたはずが、ゲームの動
きを模倣し技を習得していく過程が病みつきになりつつある。

 その弊害か剣を振るう以外に時間を潰す手段を開拓していないのだ。気軽に街へ繰り出すことのできないこ
の体が恨めしい。

 ならばたまには大人しく読書でもしようと思い立ち、本棚に納められている図書をいくつか手に取ってパラ
パラと流し読みしていく。

 児童書に類するものが多い中、一希の目を引いたのは魔法関連の書籍だった。

 といっても技術的な内容ではない。魔法の成り立ちや遍歴、代表的な使い手とそれに関する逸話などが細か
く書かれているものだ。

 取り上げられている魔法は大技、ゲーム内では上級に分類されるものばかりである。子ども受けする必殺技
みたいなものか、と納得しながら読み進めていく。

 その中に見覚えのある名前を発見した。

 フィンセント・ファン・ヴェステルフォールト。

 原作では若くして聖王騎士団の団長を務めていた傑物。剣の腕はもちろん、こうして歴史の偉人と肩を並べ
て紹介されるほど魔法にも長けている。

 彼を一言で表すなら“超火力”。

 甲冑を着ているだけとは思えないほど異常に高い防御を活かし、正面突破から作中キャラクターで最強の攻
撃力にものを言わせて相手をねじ伏せるのが戦闘スタイルだ。

 そして悲しいかなフィンセントは物語の終盤に主人公パーティーと戦う敵キャラクターである。ラスボスで
はないもののその強さは折り紙つきで、前衛が薄いパーティー編成や盾役の回復が遅れると瞬殺されることも
少なくない。
 そんな彼はハロルドと違いプレイヤーから高い人気を博していたりする。主人公達の前に立ちはだかる理由
やフィンセントの心情を慮り、「コイツも苦しんでたんだなぁ」と同情するプレイヤーがほとんどだった。

 一希もフィンセントは嫌いではない。

 だが今は自分がハロルドに憑依しているからだろうか。一希はふと原作ではあり得なかったハロルド対フィ
ンセントの戦いを夢想し、どうすればハロルドが勝てるだろうかと頭を回転させ始めた。

 片や作中最高火力、片や作中最速。

 真正面からぶつかればハロルドが不利だろう。フィンセントの攻撃をまともに受ければ長くはもたない。

 だが立ち回り次第では攻撃の速度とバリエーションに秀でたハロルドなら渡り合えるはずだと一希は考える。

 発売当時の時代では奥行きや3D移動という概念は今ほど浸透しておらず、『Brave Hearts』の戦闘シス
テムは格闘ゲームのような横軸移動のみだった。それだけに操作キャラクターだけではなくパーティーメンバ
ーにも細かく指示を出し、いかにコンボ数を稼げるかに重きを置いている。

 一希を含め熟練者となれば安定して80はコンボを繋げることが可能だ。

 しかしそれは当然ながら4人1組のパーティーで行ってこそだ。

 単騎の敵キャラクター故に性能が高く設定されているとはいえハロルドは主人公戦で30コンボ以上を平気
で繋げてくる。特に 1 度空中に打ち上げられると仲間の攻撃でコンボを中断しない限りライフが尽きるまでサ
ンドバッグにされてしまう。

 つまりハロルドがフィンセントに勝つにはとにかく攻撃を回避し続け、コンボに入ったら絶対に落とさず
延々と斬りまくればいいのだ。

 まあそれができれば誰が相手でもまず負けないが。言い替えればそれくらいのことができなければ1対1で
フィンセントに勝利するのは難しいのである。

 ならあのキャラクターが相手だったらどうだろうか、と一希はハロルドVSあり得なかった誰かとの戦いを
次々と考え始めた。

 仮想の対戦カードを思い描いて勝ち筋を探るのはディープなファンだからこその楽しみ方だろう。

 こうして時たま思考が脱線したり途中で夕食を挟んだこともあって100頁あまりの本を完読した頃には夜
も更けていた。

 パタンと本を閉じふぅ、と軽い息を吐く。中々に読み応えのある 1 冊だった。
 時刻を確認すると既に日付は変わっている。

 明日起きたら次は剣術の本を探してみよう。ベッドで横になる寸前にそんなことを考える。

 そこで一希はようやく気付いた。

(あっ、森の中に剣置いてきたままじゃん……)

 そそくさと逃げ帰りすぐ読書に熱中していたせいで今の今まで忘れていた。

 ユノが気をきかせて回収してくれているかもしれないが、あの後訪ねてこなかったことを考えるとあの剣は
未だに突き刺さったままなのだろう。

 一希はそりゃ付き人やってるような普通の女性じゃ真剣なんて物騒な物を持つのに抵抗あるよな、と的外れ
な納得の仕方をする。

 実際はこれ見よがしに武器を携帯してストークスの領内を闊歩するわけにはいかず、かといって邸の人間に
剣の在処を伝えようにもなぜそんな場所に居たのかと要らぬ疑いをかけられたくないのでそのままにされてい
るだけだ。

 窓から外の様子を窺う。雲の切れ間から覗く夜空には数多の星の光を掻き消すように煌々と輝く月が浮かん
でいた。

 一希が知るものより2回りは大きい月に照らされた庭は灯りがなくても歩くには問題なさそうなほど明るい。

 思い出したついでだ、と一希は腰を上げる。

 あれは真剣で、有り体に言えば凶器だ。日本人の感覚として巨大な凶器を野外に放置しておくのは落ち着か
なかった。ましてやあの剣は一希ハロルドの所有物であり、万が一問題が発生した時に自分の責任を問われた
くない。

 ほとんどの人間が寝入っているため静まり返った邸内を音もなく通り抜ける。

 そのまま無人のホールも突っ切り、重厚感のある正面玄関の扉を押して外へと出た。

 予想をしていた以上の明るさにこれなら森の中でも大丈夫そうだと安堵する。モンスターと呼ばれる類いは
存在していなくとも真っ暗闇の森をさ迷うにはかなりの度胸が必要だ。

 月明かりが雲で陰る前に済ませてしまった方がいいだろう。
 やや早足で邸をぐるっと迂回し裏手に向かう。地下牢の塔があるのとは反対側、南西に面した花壇へと差し
掛かる。

 その広々とした花壇はいっそ花畑と評した方が正しく思えるほどだ。色とりどりのは花々が緩やかな風に吹
かれて揺れている。

 その風景をじっと見つめるエリカの姿に一希は足を止めた。

 真っ先に感じた疑問は「あれ、元気になったの?」である。2週間も静養していたのだからたとえ全快した
のだとしても夜風は身に染みるだろう。

 これはただ純粋な心配だった。大人が子どもを案じる、とても当たり前で常識的な反応。

 だから行動を起こすことになんの迷いもなく、いつもの調子の憎まれ口でエリカを部屋に押し返そうと彼女
に声をかけた。それが原作と、そして自身の計画を瓦解させる1歩になることには気が付かずに。

 もし未来の記憶を持ったままこの時を繰り返すことができたなら一希は絶対に声などかけない。かけてはい
けなかったのだ。

 だがそんな都合のいいものを持っているわけもなく、一希が過去を振り返りここが人生で最大のターニング
ポイントだったかもしれないと痛切に感じることになるのは数年後。

 今ではなかった。

「こんな時間に何をしている?」

 その声にエリカはその細い肩をビクッと震わせた。恐る恐る振り向いてハロルドの姿を確認したエリカがた
じろぐ。

 今までにないリアクションに多少の違和感を抱いたが、特に気にせず一希は淀みない足取りでエリカとの距
離を詰める。

「貴様は体調を崩して寝込んでいると聞いたが。にもかかわらずこんな時間に夜風を浴びるなんて考え無しの
バカとしか思えないな」

 我ながら“そこまで言うか”と一希も思う。

 ここから「べ、別に貴様の心配をしている訳じゃないからなっ!?」と続かない辺り、さすがツンデレなど
という甘さが一切無い真性のクズたるハロルドだ。見下げ果てた人間性だがそれでこそという感じである。

 一希としても量産型のツンデレと化したハロルドにはなりたくない。想像しただけで身の毛もよだつ代物だ。
「……」

「突っ立ってないで部屋に戻れ。俺としてはそのまま自分の家に帰ってもらった方が清々するがな」

 とても身を案じているとは思えない言葉を浴びせかけられてもエリカは身じろぎひとつせず俯いたままだ。

 何を考えているのか一希にはまるで推し量れない。

「……おい、黙ってないでなんとか言え」

 ハロルドの口調がイラつき始めるのを一希は他人事のように感じていた。諦観とも言う。

 エリカは依然として沈黙しているが基本的には物分かりのいい子だ。これ以上言葉を続けるのは無抵抗の彼
女を傷付けるだけになると判断して一希は話を切り上げる。

 恐らく原作よりだいぶ幼いこともあって毛嫌いしている相手の手前素直になれないだけだ。ハロルドが立ち
去って少し冷静になれば一希の言わんとしていたことを理解してくれるだろう。

「ふん、まあいい。貴様の体調が悪化しても俺の知ったことじゃないからな」

 ならばなぜ声をかけたのかと言いたくなる本末転倒なセリフを吐いて通りすぎようとする一希ハロルド。

 だが意外なことにエリカはそれを呼び止めた。

「……お待ち下さい」

「何だ?」

「ひとつお聞きしたいことがあります」

 その声はひどく不安気で、しかし意を決したようにハロルドの目を見据えている。
 ここまで気合を入れて尋ねたいことがあっただろうかと一希は内心で首を傾げる。

 そんな疑問は次の言葉で氷解した。

「貴方が使用人を魔法で焼き殺したという噂があります。それは事実なのですか?」

(ああ、そのことか)

 エリカの質問を一希は冷静に受け止める。焦りや動揺はなかった。

 2週間前にエリカを案内した時点でどうせすぐバレるだろうと感じていたからだ。一希や両親を含めて誰1
人隠す気がないのだからむしろバレない要素がない。

 そしてこれに対する答えは最初から決まっていた。

「いや、違うな」

「ではっ……!」

 はっきりと否定したハロルドへエリカは喜色を浮かべて歩み寄る。

 一筋の希望を見出だしたような彼女を一希ハロルドが奈落の底へと突き落とす。

「俺が殺したのは使用人とそいつの娘の2人だ。まあ武勇の語り草にもならない奴らを何人殺しても大して変
わりはないがな」

 喜びから一転、信じられないものを……いや、信じたくないものを見てしまったようにエリカの瞳が大きく
見開かれる。

「何故ですか……?どうしてそんなことを……」

 哀しみ、怒り、失望。
 沸き上がる様々な感情をなんとか抑え込みエリカはハロルドの真意を探ろうとする。

 しかし彼から返ってくる言葉は悉くエリカの心を切り刻むものばかりだった。

「大した理由はない。強いていうなら癇に障ったからだ」

 ちょっと気に入らなかったから殺したと、そう平然と口にするハロルド。

 たったそれだけの理由で何故容易く命を奪えるのか、エリカには微塵も理解できない。それは人として“理
解できてはいけない”一線のように思えた。

「アイツ等は家畜同然だ。気分ひとつで生かすも殺すも俺の自由だろ?」

「……もう結構です」

「情けをかけて娘が天涯孤独にならないよう一緒に殺してやったんだ。むしろ感謝しているかもな」

「止めて、下さい……!」

「所詮は劣等種だ。生まれ落ちた時から自由なんて――」

 パン、という音が響く。

 その正体はエリカの手のひらとハロルドの頬だった。

 貴族の血が入っていない人間を差別する『劣等種』という発言にエリカの我慢は限界を越える。

 振り抜かれた右手は怒りで震え、涙を流す瞳には軽蔑の色を湛えていた。ハロルドをキッと睨みつけ、エリ
カは人生で初めて罵倒の言葉を口にした。

「貴方は最低の人間です!」

「だからどうした?」
 まるで堪えた様子もなく、いつもの人を小馬鹿にした笑みさえ浮かべている。

 人を殺すことも、最低だと罵られることも、自分にとってはどうでもいいと言わんがばかりだ。

 エリカは悟る。この人間を説き伏せるのは不可能なのだと。

「……もう貴方とお話しすることは何もありません」

「はっ、それは喜ばしい報せだな」

「失礼します」

 遠ざかるエリカの背を見つめていると平手打ちされた左の頬がじんじんと痛みを主張し始めた。

 一希なりの理由があって彼女を突き放したのはいいが、やはりダイレクトに敵意をぶつけられるのは辛いも
のがある。

(とても“ご褒美”には思えねぇよ)

 一部の熱狂的なファンには悪いが、これを喜ぶのはどう考えても頭がおかしいだろうと呆れたようなため息
が出る。

 まあ凹んでいてもなんの足しにもならない。18歳になったエリカの平手打ちを食らうよりはましか、と半
ば無理矢理前向きに考えることにした。成長し冒険を経たエリカの平手打ちはこんな威力ではすまないのだか
ら。

「揺らぐな。この程度慣れなければこれから先はやっていけない」

 自分を奮い立たせようとした呟きは風に乗り何処かへと運ばれていった。

これでエリカのハロルドに対する評価は底値。

14話
 その後無事に剣を回収し部屋へと戻ってきたが、胸に引っ掛かりのようなものを感じていたせいか中々寝つ
けなかった。

 ベッドの上で何度も寝返りを繰り返し、ようやく睡魔が訪れたのはもう夜明けも近くなった頃。わずかに白
んだ空を尻目に少しだけでもと一希は眠りの淵へと落ちていく。

 その淵は思っていたより深かったようで、一希が目を覚ましたのは昼を回ってからだった。

 重い体を引きずるようにして起き上がる。まだ昨日のダメージが残っているのかもしれない。

(つっても体にじゃないけど)

 エリカに打たれた頬をさする。肉体的にはもうなんら痛みは残っていない。

 響いているのは体の内側、心の方だ。

 一晩経っても胸中は年端のいかない少女を泣かせてしまった罪悪感に苛まれている。

 とはいえあそこで「殺していない」とは口が裂けても言うわけにはいかなかった。それは一希の保身だけで
なくエリカのためでもある。

「ふん、下らない」

 ため息交じりに呟いた“仕方ないか”という弱音すらハロルドの口は許してくれなかった。これが彼の素な
のならそのメンタルの強靭さには感服である。

 単に自己中心的なだけとも言えるが。

 立ち上がった途端に朝食と昼食を抜かれたお腹が空腹を主張するが、まずは寝起きで回転の鈍い頭をスッキ
リさせるためにシャワーを浴びることにした。

 ちなみにストークスの邸には風呂が無い。入浴という文化自体が根付いていないからだ。

 ハロルドに憑依してもうすぐ4ヶ月になる。その間風呂に入れたのはスメラギの邸に1泊した時だけだ。

 しかも屋外に設置された檜らしき大浴場は風呂というより温泉に近い豪勢なものだった。また入る機会があ
れば源泉なのかどうか確認してみようと胸に誓う。

 入浴への渇望を感じながらシャワーを終えた一希は次こそ空腹を満たすために食堂へ足を向けた。

 その途中で廊下の反対側から歩いてきたユノと出くわす。立ち止まり会釈をする侍女のユノにわざわざハロ
ルドが言葉をかける必要はない。

 だがエリカの泣き顔がフラッシュバックした一希は気が付くとユノに彼女の様子を問い質していた。

「病弱女の調子はどうだ?」

 ハロルドの認識ではいつの間にかエリカは箱入り娘から病弱女へとクラスチェンジしていた。

 これで心配しているつもりなのだから手に負えない。

「それが今日は一段とご気分が悪いとのことで~。ハロルド様が仰った通り落ち着くためにスメラギ領へ戻る
ことも検討した方がいいかもしれませんね~」

 あんまりな呼び名だったがユノは特に表情を変えることなく受け流す。そのおおらかさに助けられ、いい加
減に怒られるんじゃないかとビクついていた一希は密かに冷や汗を拭った。

 避難先で体調を崩して自治領に戻るのは時間を浪費するだけのような気もするが、エリカの滞在という想定
外の事態に見舞われているだけに彼女らには速やかに帰宅してもらえると一希としては安心できる。両親とは
また別の理由でクララの一件をエリカ達には知られたくなかった。

「ところでハロルド様はエリカ様が体調を崩されている原因をご存知でしょうか~?」

「知るか。俺は医者じゃない」

 嘘である。

 ここ2週間の不調は分からないが、今日一段と酷いというのは恐らく昨晩の煽りが原因とみてまず間違いな
い。

 加えていうならば一希が知らないだけでそもそもの理由はハロルドがクララとその娘を殺したという噂にシ
ョックを受けたためである。つまり1から10まで一希が原因だ。
 仮にそれを一希が知れば更なる良心の呵責に襲われていただろう。一希は10歳の少女を辛い目に遭わせて
悦ぶ人格破綻者ではないのだ。

 自領で異常事態が発生し、家族がその対応に追われ疲弊していく中、それでも成果が上がることはなく多く
の民が苦しみ、そんな弱みに漬けこむように突如として取り決められた婚約。その相手が人を人とも思わず平
気で殺す度しがたい最悪のクズとなればエリカが抱えているストレスは相当なものだろう。

 彼女が置かれた境遇や心理状態を鑑みればビンタ程度いくら食らっても安いもんだ、と一希は断言できる。

 その代わり好感度は最低値でお願いしたかった。

「それは残念です~。お薬を作れるくらいですからさぞ病気などにお詳しいのではと思ったのですが~」

 それとなく探りを入れるユノ。あの薬の出所が掴めていないため彼女としてもかなり気がかりだ。

 一希はそんな意図にまるで気付かず「俺ってそんな風に思われてんの?」と自分への評価に驚く。

「心配ならお抱えの医者にでも診せろ。ここにいても無駄に長引かせるだけだぞ」

 スメラギほど大きな家なら専属医の1人や2人いても不思議ではない。自領に留めておくのが不安なら別宅
なり別荘なりにエリカと医者を突っ込んでおけば解決するだろう。

 それをせずこうして粘っているのだからやはり何かしらの目的があるのだろうというのは一希もとうに勘付
いている。何を狙っているのかまでは依然として不明だったが。

 ユノの目的は大まかに分けてストークス家の内情とハロルドの素性を探るという2つだ。前者の方は一枚岩
ではないというかストークス一家が嫌われているので邸の使用人は基本的に口が軽く、彼らの愚痴の聞き役に
徹するだけで欲しい情報が得られた。

 だが後者、ハロルドの周辺だけは異常にガードが堅い。

 まず当人の警戒心、そして気配察知能力が高いせいでまともに近付けないのだ。観察初日ファーストアクシ
ョンでユノの存在を看破し警告してきた程である。

 これによりユノはターゲットを変更せざるを得なくなってしまった。

 そのため彼の元に度々集まっている3名の使用人へと接触を図ったのが、そちらも一様にはぐらかされ続け
ている。最も付け入り易そうなゼンは1度口を滑らせそうになったりしたが、それでも今のところ有力な手が
かりは掴めていない。

 あくまで日常会話の雑談の中で違和感を抱かれないよう慎重になっていることを含めても情報統制の意識が
徹底されている、とユノは感じていた。それが忠誠か脅迫かによるものか判然とせず攻めあぐねているのが現
状だ。

(内偵班からの報告では頻繁に農村地区へと出向いているらしいですが~……)

 ストークスのお膝元に潜伏している内偵達とも情報を交換しているがそこで何をしているかまではまだ分か
っていない。個人農家の集まりなどは少数でのコミュニティが確立されてしまっていて潜入するのは難しい。

 やるならば数年のスパンで事に当たる必要があり、今回はそれだけの準備をする余裕がなかった。急くあま
り人口の多い中心街に内偵を集中させたタスクの采配ミスとも言える。

 その後二言三言で会話を終えると一希は進軍を再開した。邸で食事を摂れるのは普段ストークス一家が利用
しているダイニングルームと客を招いて会食を行う大広間、そして使用人専用の大衆的な食堂の3つがある。

 一希が向かったのはこの内の1つ目、ダイニングだ。

 ノックをすることもなく無遠慮にドアを開く。すでに14時を回っているため両親の姿はなく、いつも食事
をサーブしているメイド服の少女がテーブルクロスを交換している最中だった。

 突然現れたハロルドに少女は驚き、そして狼狽える。

(恐怖と混乱で動けないと見た)

 基本的にハロルドの顔を知っている人間からは老若男女問わずビビられるのでこの手の反応にはもう慣れた
ものだ。ショックを受けるどころか観察する余裕すらある。

 その心情を慮り彼女の邪魔にならない席へ腰かけた。

「それが済んだら厨房に軽食を作るように伝えてこい。ついでにノーマンを此処へ呼べ。ぐずぐずするなよ」

「は、はいっ!」

 命令を受けた少女はクロスを手早く交換し終えると慌ただしくダイニングルームから退出した。廊下をパタ
パタと駆ける音が遠ざかっていく。

 それから10分と経たずに食事が運ばれてきた。仕事をしている途中だったのかノーマンが到着したのはそ
れを粗方食べ終えようかという頃だった。
「申し訳ありません、遅くなりました」

「座って待ってろ」

 残っていたパンを口の中に放り込み、ほとんど噛まずにスープと一緒に胃へと流し込む。行儀はよろしくな
いがノーマンとメイドしかいないので気にする必要もない。

 メイドに皿を下げさせ2人きりになったのを見計らいノーマンは声をかける。

「本日は遅いお目覚めでしたな。疲れが溜まっているのでは?」

「問題ない。少し寝付きが悪かっただけだ」

「なら良いのですが」

「まあその分知恵を絞る時間はあったがな」

 一希ハロルドが口角を吊り上げた。その表情を見てノーマンは合点がいく。

「人員不足についてでしょうかな?」

「ああ。外部の人間を協力者として取り込んではどうかという話をしただろう?」

「何か妙案がお有りで?」

「そうかどうかを確認するために貴様を呼んだんだ」

 羊を数えるなどという古典的な手段には走らず小難しいことでも考えていれば眠くなるだろうと思っていた
のだが、予想に反して全く眠気は訪れず明け方までどっぷりと思索の海に浸かってしまったのである。

 その甲斐あって思い付いたことがあるのだが、所詮は素人の浅知恵だ。実現可能かどうかはノーマンやジェ
イクに判断を仰がなければ答えは出ない。
「で、外部の協力者についてだが商人にLP農法の有益性を示しその利権で契約を結ぶことは可能か?」

 商業に詳しくない一希でも高サイクルで収穫できるLP農法の作物、そしてその技術自体も利益を産み出す
ものだという確信があった。従来よりも多少のコストはかかるが生産効率は格段に上昇する。

 味にも差異が生じることから差別化も図れるし新たな市場の開拓にも繋がるかもしれない。

 LP農法の技術を商人に売り付けて、それを更に商人が農家へ売る。農家はLP農法を使用するための契約
料を商人に払いそれをまたハロルドと商人で折半する、という形が一希の理想だ。

 しかし今の段階では収穫量を意図的に抑える必要があり、農家がそれに反しないよう定期的に監査する人間
を送り込める程度には規模の大きい商会でなければ難しい。

 ノーマンは一希ハロルドの計画案に感心しつつ気になった部分を尋ねる。

「して、その商会について当てはあるのですか?」

「ないな。そこを含めて貴様やジェイクの意見を聞かせろ」

「伝がないとなるといきなり商会に話を持ちかけても取り合ってもらえないでしょうな。個人で運営している
商人ではやはり人手が足りないでしょうし……」

 伝ならばハロルドの両親もいくらかはあるだろう。しかし話を通すためにはLP農法の存在を明らかにしな
ければならず、それはまだ時期尚早だと一希は考えている。

「現状では実現させるための方法が見当たらないということか」

「残念ながら。ですが商人を味方につけるのは良い案かと」

「ならその方向で話を煮詰めてみるぞ。ジェイクにも方針を伝えておけ」

「畏まりました。問題は信用に足る商人と如何にして渡りをつけるかですな」
 その後あれやこれやと意見を出し合う2人だったが、それ以上話が進展することはなかった。

  ◇

 ガラガラと音を立てながら畦道に刻まれた轍をなぞるように進む馬車がストークスの邸の門を潜る。門柱に
立つ守衛の兵士と軽口を交わしながら入ってきた馬車の騎手はお気楽そうな笑みを張り付けたゼンだ。

 備蓄品の買い出しを終えたゼンは積み荷を下ろし荷馬車を所定の場所に戻すとその足でハロルドの部屋へ向
かう。仮にその光景を一希ハロルドが見ていれば「まるで飼い主に依存した駄犬だな」と小馬鹿にすることだ
ろう。

 しかしそんな毒舌など気にも留めなさそうな当の本人は通い慣れた足取りで扉の前まで来ると最近部屋の主
に厳命されたノックをして在室を確認するが応答はない。

「ハロルド様ー?いないんですかー?」

 普通の使用人ならそのまま立ち去るところだがハロルドに対する馴れ馴れしさでは他の追随を許さないゼン
は扉を開けて中を窺う。

 が、そんなことをしてみてもやはり無人だった。

 今の時間で居ないとなると剣術の鍛練だろうかと退散しようとして廊下に佇む小さな人影が目に留まる。

 見るからに気落ちしているその小さな影にいたたまれなくなったゼンは努めて明るく声をかけた。

「こんにちは、エリカ様」

 緩慢な動作で振り返ったエリカはその声で初めてゼンの存在を認めたかのように小さく目を見開いた。

「ごきげんよう。貴方は……」
「あ、おれはゼンって言います。ユノさんはどうしたんですか?」

 珍しく1人でいるエリカにそんな疑問を感じる。まさか喧嘩でもして元気が無いのだろうかと邪推するが、
全くの見当外れだ。

「彼女なら今は私用で街の方へ出ていますので」

 包み隠さずいうならば他の内偵との情報交換のために出掛けている。今日もついさっき出たばかりなのであ
と1~2時間は戻ってこないだろう。

 そんなことを口にはできないが。

「そうだったんですか。それでどうしてここに……もしかしてハロルド様にご用事でもありました?」

 部屋の近くなのだからゼンがそう思ったのは無理からぬことではあった。しかしハロルドの名前が出た途端
にエリカの表情がさらに曇る。

 今最も会いたくない人物だ。

 だがエリカは目の前の相手がハロルドに対して険を抱いていないことにふと気が付いた。

 彼はあの噂を知らないのだろうか。そう考えた時、エリカは反射的にゼンへ問いかけていた。

「貴方は知らないのですか?」

「えーっと、何についてでしょう?」

「ハロルド様が使用人を魔法で殺したことについてです」

「そ、それについてはですね、なんというか……」

 今度はゼンが動揺する番だった。
 その反応を見てエリカは彼がハロルドの蛮行を知っていると確信する。そして同時に疑問が湧く。

 それを知って尚、どうしてハロルドを主として接することができるのか。あくまで対外的なものかと思った
が、言葉に躊躇う様からはハロルドへの畏怖や嫌悪感ではなく、彼の肩を持ちたいが持てないもどかしさを滲
み出ていた。

「あー……巷でそんな噂が真しやかに囁かれているのは耳にしたことがあるにはあるんですけど果たして事実
かどうかという確認はできていないわけでして、真偽が定かではないのにそれでハロルド様を判断するのは憚
られるというか……」

「その噂をハロルド様は肯定していました。そもそも殺されたのはここで働いていた方なのですから貴方も事
実だと分かっている筈では?」

「う……」

 エリカの言う通りだ。しどろもどろの弁明でゼンは自ら墓穴を掘って言葉に詰まる。

 はっきり言ってゼンにはこの状況をひっくり返したり煙に巻くほどの弁舌はない。

 彼がノーマンに見込まれたのは人の良さ、つまりはハロルドの心根を理解して味方になれる人間だからだ。

 しかし人の良さというのはハロルドだけに発揮されるわけではない。今のエリカはそんなお人好しを刺激す
るには事足りるほど消沈していた。

「なのにどうして貴方は……いえ、どうすれば貴方のようにハロルド様を慕うことができるのですか?」

 重々しい声で発せられたそれは疑問でありながら懇願のようでもある。

 人間性がどうであってもスメラギ家の為を思えばエリカはハロルドと結婚しなければならない。彼を許容で
きない自分の意思など邪魔なだけだ。

 そう頭では理解していても責任と感情の狭間で揺れ続けるエリカはどうやって自分を納得させれば良いのか
分からなくなっていた。

 自らの立場を自覚した時から自由な恋愛や結婚は諦めた。

 婚約相手の家が純血主義で民を虐げていると知って怒りに苛まれた。
 それでもハロルドは苦しむスメラギに光明を与えてくれた。

 しかしそんな彼も結局は貴族の血を持たない人間を人間とは思っていなかった。

 勝手に期待して勝手に失望したと言われればそれまでである。返す言葉もない。

 だがどうしようもない暗闇に差した一縷の希望がまやかしだったという現実は、エリカを失意のどん底に突
き落とすのに充分過ぎた。

 使命と感情の板挟みで擂り潰されそうになりながらそれでも懸命に出口を探そうと模索するエリカの姿はあ
まりにも無情だった。

 だがゼンは知っている。彼女の前にそびえ立つ絶望が意図して作り上げられた虚像だということを。

 きっと彼女を待ち受けている世界はとても優しい。

 なぜならこうして誰かに嫌われ、侮蔑され、その身に“人殺し”という咎を背負う覚悟をしてまで2人の命
を救ったハロルドがエリカをこのまま見捨てるわけがないのだ。

 そしてまたこうも思う。

 家の為、民の為にと己の心を殺そうとする彼女もまたハロルドと同じく強さと優しさを持っている人間なの
だと。

 幼くありながら重荷を背負い込んででも意思を貫き通そうとするハロルドとエリカ。とても不器用で、壁に
ばかりぶつかるであろう生き方。

 この似た者同士はすれ違うのではなく互いに向き合って本当の自分きもちをさらけ出すべき相手、それがで
きる唯一無二の相手なのではないだろうか。

「エリカ様、おれに着いてきてもらえませんか?」

 だから頼りない大人じぶんでは微力にしかならずともその支えになれるならば、たとえハロルドに不興を買
っても、見限られても構わない。

「少しでいいから時間を下さい。聞いてもらいたい話があるんです」
操作ミスで下書きのデータ全消しした時の喪失感がヤバイ。

ひとまず次回でハロルドへの誤解が全て解ける予定です。

その話も半分くらいは書き上げてたのにな……。

15話

 強い決意を宿した眼差しにエリカは気圧される。ゼンが何を思ってその言葉を口にしたのか真意は図れない。

 しかしエリカは根拠もなくただ直感的に今彼の誘いに乗らなければいずれ大きな後悔をすることになるので
はないかという強迫観念にも似た焦燥に駆られた。

「分かりました。どちらに赴けばよろしいのですか?」

「こちらへ」

 その場所へ案内するためにゼンが踵を返し確かな足取りでとある一室の前に立つ。

 ゼンが真相を語るに相応しいと選んだ場所。それは――

「ここです!」

 ハロルドの自室だった。

「……へ?」

 予想外の展開に思わず出したことの無い気の抜けた声が漏れる。それを恥じる余裕も吹き飛ぶほどエリカは
混乱していた。

 先程までの話の流れからして使用人の殺害に関してハロルドが伏せている何かしらの事情、つまり彼の秘密
を明かしてくれるのだろうと考えていた。
 それをわざわざ秘密にしている本人の部屋で行うとは何事だろうか。もしや自分はゼンとの会話で致命的な
思い違いをしていたのかもしれない。

 でもそれは一体どこで、どんな?とエリカの思考は混迷を極める。

「ささ、どうぞ」

「え?あっ、ちょっと……」

 混乱が収まらないエリカの虚を突き、ゼンは彼女の小さな背を押して部屋へと踏み込む。ハロルドの不在は
既に確認済みなので躊躇うこともない。

 ゼンは室内をキョロキョロと見回して目についたクローゼットを開くと、もう状況に着いてこれていないエ
リカを押し込んだ。

「ごめんなさい!ちょっとここで待っててください!」

 クローゼットを閉じたゼンは駆け足で部屋を出ていこうとする。

「えぇ……?」

 再び自分のものとは思えない声がエリカの口から漏れた。

 主の客人、それも婚約者という立場の人間をこんな場所に閉じ込めるなどもう不敬の域を越えている。人が
人なら殺されても文句は言えないだろう。

 幸いにしてエリカはそこまで苛烈な怒りの表現方法を取らないが、それでも常識的に考えてこの仕打ちには
さすがに物申さなければいけない。が、今はそれどころではなかった。

 何よりも優先するべきはいち早くこの部屋から脱することである。

 エリカにしてみれば全くの不本意ながら闖入者の身だ。これがバレればハロルドが何を言い出すか分かった
ものではない。

 ゼンを追おうとクローゼットの扉に手をかけた瞬間、無情にもガチャという音がエリカの耳に届いた。

「おわぁっ!」
 次いで届いたのは驚いたゼンの悲鳴である。今まさに扉を開けようとしたタイミングで部屋の主が帰ってき
たのだから驚くのは無理もない。

 そんな彼の悲鳴を聞いてハロルドは顔をしかめる。

「耳障りな声を出すな。というか貴様は俺の部屋で何をやっている?」

「い、いやぁ~……実はハロルド様にお伝えしたい事があったんですけどノックしても応答がなかったから中
を覗いてみたんですよ」

「応答がないなら大人しく引き下がれ。どこまで馬鹿なんだ」

 クローゼットに備え付けられたブラインドの隙間から部屋の様子を窺うエリカ。完全に脱出する機会を失っ
てしまった。

 ここで姿を表し釈明すればまだ言い分も立つだろう。しかしゼンはどうなる?

 相手はただ気に入らないだけで人を殺すような人間だ。自業自得だとしても彼が死ぬのは避けたい。

 だがハロルドがエリカの助命の訴えを受け入れてくれるかどうか。彼の言動を鑑みるにその可能性は低いよ
うに思えた。

(どうすればいいのでしょう……?)

 エリカが判断を下せないでいる内に状況はどんどん悪化していく。

「それでお伝えしたい事なんですけど!」

 ゼンが強引に話題を戻す。それに対してハロルドは呆れたようなため息を吐くとソファーに腰掛ける。

 そしてエリカにとっては意外にもハロルドは話の続きを促した。

「何だ?手短に済ませろ」
「えー、非常に申し上げにくいんですが例の噂がかなり広まってまして……」

 例の噂、とゼンは言葉を濁すがそれが何を指すかはこの場にいる人間にとって明白である。

「さっきも街で買い出しをしてきましたけど立ち寄った店で店主やお客からことごとく根掘り葉掘り聞かれる
んですよ」

「……」

 ハロルドは腕を組み、目を閉じたままゼンの話に耳を傾ける。

 クローゼットの中のエリカも彼が何を言いたいのか分からず傾聴していた。

「口外はしてないですけど、していないからこそこのままじゃハロルド様の評価が地に落ちちゃいますし何か
対策を取らないとまずい気がして……」

「何を言い出すのかと思えば下らない。そんなものはとうに失墜して泥にまみれているだろうが」

「でも……」

「でも、なんだ?貴様は“クララとコレットはブローシュ村に落ち延びてまだ生きています”とでも吹聴する
気か?」

「まさかそんな!おれは死んでもその事実を口にはしません」

(――え?)

 2人のやり取りを聞いてエリカの頭は真っ白に染まる。

 ハロルドはなんと言った?使用人とその娘、クララとコレットが生きている?

 ゼンはなんと言った?それが事実?
 受けた衝撃は昨夜の殺害告白を上回る。エリカは思考も体もフリーズしたまま2人の話を微動だにせず聞い
ていることしかできない。

「なら無意味なことは考えるな。万が一アイツらが生きていると両親に知られれば俺が疑われる。その可能性
は徹底的に排除するのは決定事項だ」

「それは分かってますけどせめてエリカ様には真実をお教えしたらどうですか?例の噂を信じたせいですっご
い落ち込んじゃってますよ」

「絶対に駄目だ」

 明確な拒絶。

 声に温度があるとすればそれは間違いなく氷点下だろう。ゼンの、そしてエリカの背筋が一瞬で凍りつく。

「……どうして、ですか?」

 ゼンが抑えきれない疑問を口にする。

 ハロルドはなぜそこまでエリカを拒絶するのか。それはハロルドがエリカをこの『Brave Hearts』の世界
においてある意味最も警戒すべき人物だと考えているからだ。

 エリカというキャラクターの特色は優しさだ。ただしその前に“行きすぎた”が付属される。

 原作のハロルドは自分は特別な存在でありそれ以外の人間には何をしても許されるという選民意識の塊だっ
た。だから平気で使用人を殺し、力無き民草を差別し虐げ、自身が生き残るために町を丸々ひとつ火の海に変
えてモンスターへの生け贄にすらした。

 それだけの悪逆非道を重ねて尚、エリカはハロルドを嫌悪しながらも見限れず婚約者であることに苦悩して
いた。

 その理由はストークス家からの経済支援に恩義を感じていたため、である。普通に考えればストークスとの
繋がりなど家名を貶め足を引かれる危険が付いて回ると思うのだが、そこはやはりエリカのイベントを盛り上
げるゲームシナリオの都合だろう。

 そしてこの愚かしいほど突き抜けて設定された優しさがこれから先ハロルドに牙を剥く恐れがあるのだ。
 まず大前提としてだがハロルドの目標は死なずに生き延びることである。そのために必要だと考えているの
が死亡フラグの回避と原作シナリオのクリアだ。

 前者は説明するまでもない。では後者はどういった理由かというと、仮にラスボスが倒せなかった場合ハロ
ルドを含めて大陸の人間がほぼ全員死ぬからである。

 確定ではないがゲーム内の情報から推測してその可能性は極めて高い。何せラスボスの暴走を止められなけ
れば世界唯一の大陸が沈むだろう、という話だった。

 つまり自分が死亡フラグを回避しきっても原作から解離しすぎてボスが倒せませんでした、では意味がない。

 主人公達には是が非でもシナリオをクリアしてもらう必要があり、エリカは主人公パーティーの中で貴重な
回復役なのだ。彼女がいるいないでは攻略の難易度が変わる。 

 生存率に大きく関わってくるのでハロルドのためにもエリカは絶対に主人公の仲間になってもらわなければ
困るのだ。

 さらに言うと原作通りにシナリオをクリアすれば元の世界に戻れるのではないか、という淡い希望もある。
というか元の世界への帰還に関してはそれくらいの手段しか思い付かない。

 ここで話を戻すが、原作ハロルドさえギリギリまで見捨てることができなかったエリカが一般的な常識と良
心を身に付け、あまつさえスメラギ家の窮地に手を差し伸べるハロルドを見たらどうなるか。

 想像したくない仮定だが婚約を積極的に受け入れるかもしれない。まあそれはまだ良い。

 だがもしそれが原因で主人公の仲間にならなかったらどうするのか。それがハロルドが恐れている事態なの
だ。

 だから死亡フラグを回避するため悪道を歩めないハロルドはそれ以外の部分で徹頭徹尾エリカに嫌われてお
いた方がリスクは低いと睨んだ。彼女からの好感度などクソ食らえだと断言してもいい。

 そう説明できれば幾らか楽なのだが頭の状態を疑われるのがオチだろう。適当な理由をでっち上げて追求を
阻むことにした。

 長い沈黙を破ってハロルドが語り出す。

「……アイツは泣いていた」

「え?」
「俺が人を殺した事実にか、それとも俺に殺された親子を想ってかは知らん。だがどちらにせよアイツは他人
のために心を痛めて涙を流した。馬鹿としか思えない」

 蘇る昨夜の記憶。月明かりに照らされるエリカの頬には一筋の涙がしっかりと刻まれていた。

 どうしようもないほど厄介ではあるが、それは確かにエリカの美徳なのだろう。

「そして同時に優しすぎるんだよアイツは。それも相手を憐れむことしかできない弱者の優しさだ。そんな奴
が俺と共に歩もうとすれば数えきれない傷を負うことになる」

「だからわざと遠ざけているんですか?エリカ様のためを想って……」

「ふざけたことを抜かすな。どうして俺がアイツのためを思わなければならない。事あるごとに泣くような面
倒な女との結婚など願い下げというだけだ」

 ハロルドの言葉がエリカの胸に深々と突き刺さる。とても鋭利で、しかし昨夜とはまるで異なる痛み。

 良心の呵責、自己嫌悪、後悔。

 負の感情が次々と沸き出してエリカを飲み込もうとする。感情の波もハロルドの言葉も止まらない。

「そんな……って、ハロルド様はエリカ様と結婚する気ないんですか?」

「あるわけないだろう」

「じゃあなんで婚約なんて話が……」

「貴様の頭でも理解できるように噛み砕いて言えばこれは金で買った婚約だ」

 血筋を欲したストークス家が、森で瘴気が異常発生したことにより経済の主軸だった林業での収益が著しく
落ち込んだスメラギ家に付け入ったのだ。

 瘴気の異常発生という大陸全土でも前例の無い災害なだけにスメラギが立ち直れるのか、果たして借りた金
を返済できるのか。そういった諸々の事情で国や他領の当主が大規模な資金援助にたたらを踏む中、ストーク
ス家が後先考えず恩を売りに行った結果である。
 両家の思惑と事情を知ったゼンがあることに気が付いた。

「だったらスメラギ家にとって婚約破棄は致命傷になるんじゃ?」

 確かにゼンの言う通りハロルドが一方的に婚約を破棄して経済支援が無くなればスメラギ領は近い将来立ち
行かなくなる。まあハロルドが駄々をこねても血統に執着している両親が婚約破棄を認めはしないだろうが。

 しかしハロルドはそれに翻弄されるつもりなど毛頭ない。

「もう手は打ってある。そのための抗体薬とLP農法だ」

 瘴気による汚染が薄い地域であればあの薬を服用することで今まで通り森林の伐採を行うことができる。瘴
気溜まりは主人公一味が解決するまで徐々に範囲を広げていくだろうが、言い換えればゲーム以上には広がら
ないはずだ。

 タスクへの手紙にもゲームのマップを記憶から掘り起こし予想される最大の汚染範囲を報せている。事前に
被害の最大値を想定できればスメラギも防衛線が引けるだろう。

 加えてLP農法のノウハウを提供するつもりでいる。とはいってもまだその目処は立っていないので手紙に
は「産業技術の提供も検討している」という胡散臭い表現で留めておいたが。

 ゲーム知識云々は抜かした説明を受けて、ゼンは呆気に取られたようにポツリと漏らした。

「そんなことまで考えてたんですか……」

 抗体薬と手紙については初耳であり、LP農法にもそんな思惑が隠されていたことにゼンは驚嘆するしかな
い。この少年はいったいどれだけ先の未来を見据えているのだろうか。

 そして驚いているのはゼンだけではない。息を潜めているエリカもまたハロルドの先見と思慮深さに衝撃を
受けていた。

 ハロルドは事前にスメラギの危機を察知していたのだ。それこそ婚約などという話が出る前、瘴気が発生し
た直後から。

 そう考えれば婚約が決まった数日後にも関わらずあの薬に必要な材料の情報を揃えることが可能だったのに
も納得できる。
 それはつまりハロルドが全く無関係だったはずのスメラギを救うために手を尽くしてくれていたことを意味
する。彼は恩を売るためにしたことだと言い張るだろうが、薬を開発するまでにかかる金銭と手間暇を天秤に
かければスメラギ家を救うメリットは少ない。話ぶりからして純血主義ではないだろうハロルドにとっては尚
更だ。

 その献身に、彼の想いにエリカの視界が滲む。

 正直なところこの辺りはハロルドとしてもかなり悩んだ末の決断だった。

 これだけの支援をしていることが知られればエリカが原作以上の恩義を感じてしまうのは明白。ではなぜ原
作には無かった行動を起こしたのかといえばパトロンが欲しかったからである。

 ストークス夫妻の目が届く場所では自由に動けず行動を起こすための人員を集めることもままならない。

 そこで婚約者という隠れ蓑を利用してスメラギ家に接触しようとハロルドは考えた。ゲームで熟知している
タスクの人柄ならば信用できると目論んだのだ。情も理解も人脈もある彼の協力が得られれば主人公達を影か
らサポートするのも楽になる。

 抗体薬を提供して産業の冷え込みを遅延させ、LP農法で経済を潤わせ、主人公が障気溜まりのイベントを
片付ければ林業も回復する。そうなればストークス家の支援がなくとも領地経営は問題がなくなりエリカの婚
約を破棄しても痛手はない。

 しかも破棄についてはハロルドから申し出てもいいとあの手紙に記しておいた。

(数え役満ばりのまさに“恩”パレードだ。押し売り感は半端ないけど無茶なお願いさえしなけりゃタスクな
ら大抵のことには協力してくれるだろ)

 それは自信ではなく確信。

 ただひとつだけ懸念があった。“無茶なお願い”に分類されるだろうその懸念は目の前にいるゼンにも関係
することであり、ついつい警告してしまう。

「ああ、それから貴様も身の振り方を考えておけ」

「どういう意味ですか?」

 ハロルドは部屋の外に聞こえないよう調整していた声量をさらに抑える。その声はクローゼットに潜んでい
るエリカがかろうじて聞き取れる程度のものだった。
「前にも言ったが近い将来ストークス家は凋落する危険がある。無職になるのが嫌なら万が一には備えておい
た方が賢明だ」

「でもそれを防ぐためにLP農法を普及させるんじゃ?」

「今の重税と散財をどうにかしない限り先伸ばし程度にしかならないんだよ。俺も手は回すが功を奏すとは限
らないからな。貴様らを斡旋してやるつもりはないから自分で何とかしろ」

 いつも能天気そうなゼンもこれには狼狽える。

 あたかも当然のように話すハロルドがおかしいのだ。

「もしそうなったらストークス領の人達はどうなるんですか?」

「さあな。だがタスク・スメラギなら悪いようにはしないだろう」

 ぞんざいな口調。しかしエリカとしては聞き逃せない名前が上がった。

(なぜここでお父様が……?)

「えっと……どういうことですか?」

「手紙にストークス家が凋落した場合領民が不当に扱われないようにスメラギ側へ嘆願してある。全く、そう
でもしてやらなければ生きられない脆弱さには笑うしかないな」

 嘆願といってもスメラギに養ってほしいとかそういう意味ではない。王族とも親交があるスメラギならば多
少の口利きや支援を期待してのことだ。

 この“お願い”を受諾してくれるか分からないので過剰に恩を売り付けたとも言える。

(恐らく他貴族の領地になるんだろうし今よりまともな人間がくることを祈ろう)
 その時にはもう自分はこの地にいないだろうが。後任に丸投げする気満々だった。

「とにかくそういうわけだ。他言無用の禁を破ればたたじゃおかないぞ」

「わ、分かってますって。おれは誰にも言ってませんよ……?」

 ハロルドの鋭い眼光に射抜かれてゼンの声が震える。その震えている理由が他にもあるのだということに、
そして「おれは言っていない」というゼンの言い回しにハロルドはこの時気付かなかった。

 まあたとえここでクローゼットに潜む天敵エリカの存在に気付いたところで手遅れだったのだが。

一希、ハロルド、一希ハロルドという3つの表現がややこしいとの声が多数あったので「ハロルド」に統一し
ました。

ゼンが無能呼ばわりされてて辛い。

俺のせいだけど。

16話

お久し振りです。

投稿が遅れた理由につきましては後書きにて。

「話はそれだけか?終わったならさっさと出ていけ」

「そうしたいのは山々なんですけど~……あ、ハロルド様のこの後のご予定は?」

「なんだ突然。貴様に教える必要はない」

「いやぁ、今日は剣の鍛練をしないのかなぁと思いまして」
 視線をあちこちに泳がせるゼンの不審な挙動にハロルドは内心で小首を傾げる。

 確かに雑談をしているうちに腹もこなれてきたのでいつもの場所で技の練習でもしようかとは考えていたが、
それはゼンにとってなんら関係のない事柄のはずだ。

「それがどうした?」

「今まで秘密にしてましたけど、実はおれ剣術に興味があるんです!だからハロルド様が剣を振るうところを
見てみたいなーって」

 だったら本職の兵士のところに行けよ、と思わず突っ込みを入れそうになる。ハロルドは身体能力が高いだ
けの素人に過ぎない、我流というにもおこがましい腕だ。

 以前それを危ぶんで邸の兵士に指南を頼んだのがハロルドに怪我を負わすことを恐れてか皆防御に徹してま
ともに攻撃を仕掛けてくる者はいなかった。

 お互いの立場を考えれば当然なのだがハロルドとしては対人の練習相手がいないのは問題である。

 いっそ両親にでも頼もうかとも思ったがハロルドを偏愛しているあの2人が用意する指南役だ。ハロルドが
望む実戦を想定した剣を学べるかは疑問である。

 その辺も追々考えるとして、今日のところは練習相手が見付かったので良しとすることにした。

「なら見せてやるよ、特等席でな」

「あの、ハロルド様?どうして剣を2本もお持ちなんでしょうか?興味はあっても経験はないですからね?い
きなりお相手とかはちょっと……」

「口答えするな」

「か、勘弁してくださーい!」

 襟首を捕まれて引きずられるゼンの悲鳴が遠ざかっていく。やがて声や足音が聞こえなくなり、静けさが訪
れたのを見計らってエリカはハロルドの部屋から脱した。

 幸い誰にも見られることはなかったが、あてがわれている部屋に戻ってもエリカはない交ぜになった感情を
整理することができずにいた。
 頭の中で反芻されるのは先ほどハロルド自身の口から語られた言葉。

 殺されたと思っていた使用人が生きていること。

 それを手引きしていながら彼女達の安全を優先するために汚名を被っていること。

 婚約者であるエリカにわざと嫌われようとしていること。

 にもかかわらずエリカとスメラギをどうにかして救おうとしていること。

 もちろんこれらが全て事実だと信じたわけではない。あのやり取りがハロルドとゼンの仕込みである可能性
も認識している。

 しかし同時に納得のいく話でもあった。エリカへ向けた敵意を煽る態度や数年前から薬の開発に着手してい
たのではないかと匂わせる言動などは特にだ。

 何が真実で何が偽りなのか、ハロルドにどう接するべきなのか、エリカにはもう答えを見出だすことができ
ない。どうしたいのかという自分の気持ちすら不明瞭だ。

 まるで深い霧の中をあてもなくさ迷い歩くような錯覚。その意識を掬い上げたのは用事を済ませて帰ってき
たユノだった。

「エリカ様いらっしゃいますか~?」

 コンコンと軽いノックに続いていつも通りの間延びした声が扉の向こうから聞こえる。

 そのことに少しだけ心が落ち着いた。

「……ええ、入って構いませんよ」

「失礼致します~」

 相変わらずの割烹着姿。どんな時も変わらないその出で立ちが今はとても心強く思える。

 そんなエリカの心の機微をユノは目敏く察知した。
「わたしが留守の間に何かありましたか~?」

 問い掛ける形ではあったがユノはエリカに何かがあったことを確信していた。そしてそれが恐らくハロルド
に関することだろうと直感的に悟る。

 ユノの鋭い指摘にエリカは身を強張らせる。

 果たして聞いたことをユノに打ち明けるべきかどうかに迷った。

 もし語られていた内容が真実ならハロルドの心遣いを無下にしないためにも沈黙を貫くべきなのだろう。ハ
ロルドは汚名を被ってまで彼女たちの安全を守ろうとしているのだから。

 だがスメラギの人間としてこれについてはどうしても真偽を定かにしなければならない。ハロルドがどのよ
うな人物がどうかを見極めるためにも。

「――ユノ、聞いてください」

 エリカは悩んだ末ユノに伝えることにした。もちろん一部始終ではない。

 ゼンにハロルドの部屋へ押し込まれ、そこで殺されたと噂されている2人が生きていると思われる話をして
いた、という最低限の情報だけだ。

 大分部は省略する形になったがユノの眉をひそませるには充分な内容だった。

「ですからクララとコレットが本当に存命かどうかを調べてもらいたいのです」

「かしこまりました~。すぐに手筈を整えます~」

 言うや否やユノは帰ってきたばかりの街へ舞い戻る。ユノ本人はあまり邸から離れられないので他の内偵に
ブローシュ村まで調査を頼まなければならない。

 そして街へ戻る道中もユノは頭を回転させ続ける。

 エリカからの話を聞いてユノは大きな違和感を感じていた。

(ハロルド様が部屋に潜む第三者に気付かないなんてことがあるのでしょうか~?)
 ハロルドは隠密を生業としているユノの存在を容易く察知するほどの実力者だ。そんな人間が気配を殺す術
を持たないエリカを見落とすことがあり得るのだろうか。

 ユノが導き出した答えは否。

 ハロルドは意図してこの情報をエリカ、つまりスメラギ側に流した可能性が高い。なぜ周りの人間には伏せ
ていた情報をスメラギに漏らしたのか、その真意についてまでは図りかねるが。

 そうならば恐らく今の自分はハロルドの思うままに動かされている状態なのだろうと考えるとユノは臍を噛
む思いだ。

(あの年で底知れない恐ろしさを感じさせますね~。成長すればどれほどの神算鬼謀を巡らす人物になるので
しょうか~)

 その未来像を期待するべきか恐怖するべきか。味方にできればこれほど頼もしく思う人物もそうはいないだ
ろう。

 知謀のみならずあの歳ですでに類い稀なれな武すらも身に付けつつあるのだ。神童という言葉でさえ生温く
思える。

 だが相対することになった場合は紛れもない強敵となるだろう。それこそ幼い内に謀殺してしまった方が後
の損害を格段に減らせるかもしれない。

 そんなことを考えてしまうほどの脅威足り得る。

 ハロルドの言動に対してユノがそう判断を下したのは仕方のないことだ。

 子どもらしからぬ、ではない。大人顔負け、でもまだ足りない。

 その程度ではタスクに思惑を悟させずに立ち回り、ユノを軽く翻弄することなどできはしないのだ。

 例えそれをハロルド自身が狙っていたわけではなくとも、結果として相手にそう捉えられるのは必然と言え
た。

 そしてハロルド最大のミスは好感度の操作と原作の遵守に躍起になるあまり、そんな周囲の評価を二の次三
の次と軽視していたことである。彼自身も自らの言動が年相応のものから逸脱していることは理解していたが、
だからと言ってそれを気にして自重していられるほど時間にも心にも人手にも余裕がなかった。

 ある意味ではなるべくしてなった状況でもある。

 しかしここで自分に下されている評価とそれが持つ意味を正しく認識できていれば不用意に窮地へと足を踏
み入れることはなかったはずだ。避けようと思えば避けられた展開だった。

 また、エリカとユノのあまりに急な長期的滞在を不可解に感じていながら彼女達の目的を探ることを怠った
のも致命的である。

 釈明するならば不正や道理の通らないことを嫌う原作のエリカを知っているハロルドだからこそ招いた油断。
彼女やその付き人がスパイの真似事をするとは露ほども思い至らなかった。

 エリカ、そしてユノの動きに注視していればクララ達の生存を知られる事態に、少なくとも今の段階で陥る
可能性は低かったはずである。

 そういった諸々の要素を華麗にスルーした結果、ハロルドは愚かにも自ら望んで再びスメラギ家に出向くな
どという行動を選択してしまう。

 事のきっかけはクララ生存の可能性がエリカ達に知られた日からさらに3週間近く、エリカの滞在日数が1
ヶ月を過ぎた頃に父親のヘイデンからもたらされた命令だった。

「俺がスメラギに?」

 いつかのごとくハロルドを書斎へと呼びつけたヘイデンがもっともらしく語ったその内容は、体調が優れな
いエリカをスメラギに送りそのまま今度はハロルドが向こうに滞在して親交を深めてこいというものだった。

 前者は建前で狙いは後者である。彼はエリカの体調不良などホームシック程度にしか考えていない。

「そうだ。今回私は行けないからな。だが誠意を見せるために必要なことだ」

(誠意ねぇ。大方同伴させて俺とエリカの仲が良好だってことを周囲にアピールしたいんだろうけど……)

 ストークス領内ではすでにエリカがハロルドの婚約者だということは公表済みだ。それによって案の定エリ
カに対するストークスの領民の感情は憐れみへとシフトした。

 自分の家の人気の無さにハロルドは呆れるしかない。これをプラス評価まで持ち直す自信はなかった。

「分かったよ。ならすぐにでも発つ準備をしておいた方がいいね」

「ははは、そこまで心配するとは知らぬ間にずいぶんと親密な仲になったようだな」
 もちろんそんなわけがない。そもそもエリカはずっと部屋に籠りきりなので親密になる隙などありはしない
のだが、ヘイデンは自分に都合のいいように解釈したようだ。

 なんともおめでたい頭をしているなと皮肉のひとつでも飛ばしてやりたいところだが両親の前では猫を被る
この忌々しい口がそれを許すはずもなく、機嫌良く笑うヘイデンを尻目にハロルドはスメラギ家への遠征をチ
ャンスと捉えていた。ここで勝負を賭けてみるか、と人知れず意気込む。

 内心に焦りがあったとはいえ、それはあまりにも軽率な判断だった。未だ問題が山積していながら、それで
も状況を改善する糸口が掴め始めた慢心もあったかもしれない。

 いわば最大の地雷源へと踏み入るようなものだ。もっと冷静になって行動しなければならなかった。

 そんな初歩的な事さえこの時のハロルドは失念していた。それによって新たな死亡フラグを招く結果になる
ことを彼はまだ知らない。

まずは投稿期間が1ヶ月も空いたことを謝罪致します。

申し訳ありませんでした。

その理由ですが私生活の方で大きな変化があったからです。

それにより小説の続きを書く気力も湧かないほど気落ちしてしまい、日常生活でも必要最低限のこと以外手に
つかないような状態でした。

言い訳としては心に区切りをつけるための充電期間といったところでしょうか。

ですがそんな状態からもひとまずは脱し、徐々に物を考える余裕が戻ってきたので投稿を再開する運びとなり
ました。

お待ちいただいていた読者の方々には重ねてお詫びを申し上げます。

これからは今までのように週1話のペースで投稿していければ、と考えています。

それにしたって他の作者様と比べればスローペースなのが悩みではあるのですが。

とにもかくにも「悪いこともあれば良いこともある」と前を向いて『俺の死亡フラグが留まるところを知らな
い』の執筆を続けていきたいと思います。

17話
長くなりそうなので分割ちょい出し。

それから後書きにて小さな報告があります。

 そんなわけで急遽スメラギ家への遠征が決定したその日の夜、ハロルドはノーマン達へ今後の方針を説明す
るのもそこそこに、長期的に滞在するための準備を整えた。

 それから数日後にはストークスの邸を発ち、そこからさらに1週間後にはサクラが咲き誇るスメラギ領に到
着していた。

 ハロルドの知る桜ならば満開の状態を1ヶ月もキープすることはできないがこの世界ではそうではないらし
い。“桜”と“サクラ”は似て非なるものなのだろう。

 そんなことを考えながらハロルドは畳の上に置かれた座布団に正座し、風に揺れる桃色の花弁を見つめてい
た。

 時間にしてかれこれ30分ほど。元の世界で仕入れた足がしびれない正座の仕方を実践しつつ、時たま緑茶
をすすってはタスクが公務を終えるのを待ち構えていた。

「ハロルド君、おかわりはいかがかしら?」

「……次はもう少し濃く淹れろ。香りが薄いし何より温い」

 机を挟んではす向かいに座るタスクの妻、コヨミがまるで侍女のようにハロルドの湯飲みが空になったのを
見計らい机の脇にある40センチ四方の小さな囲炉裏で熱されている鉄瓶に手を伸ばす。

 まったくもって恐縮するばかりの内面とは裏腹に恐れを知らない口は注文をつける。まあ美味しくはあるの
だが温いのに加え、お茶請けの和菓子の甘さに対して薄めの緑茶が少々物足りなく感じていたのは事実。

 だからといってこんなセリフを吐く必要はないが。

「あら、では次はもう少し濃いめの熱いお茶を淹れますね」

「そうしろ」

 どうやら敬語は目上の人間ではなく両親の前でしか発動しないらしい。しかしハロルドの傲慢な態度にもコ
ヨミは柔和な微笑みを崩すことはなく慣れた手つきで鉄瓶のお湯を急須に注ぎお茶を淹れる。
 余談ではあるが質の良い、つまりは高級な玉露は70度程のやや温めのお湯で淹れるのが適しているという
ことをハロルドは知らなかった。

 い草の匂いが薫るお座敷でサクラを眺めながら緑茶を啜る。耳に入るのは風に吹かれた草木のさざめきと、
一定の間隔で響く鹿威しの竹が岩を叩くカコンという音色だけ。

 まるで日本のわびさびを詰め込んだような風流なひととき。

(ああ、癒される……)

 中身が日本人のハロルドにとっては最上級のおもてなしだ。この世界に来てからというもの常に頭か体を動
かしているハロルドに初めて訪れたといえる安らぎだったのも大きい。

 そんな至福とも言える時間にほだされ、このままスメラギ家で暮らすのも悪くないかも、などという誘惑が
首をもたげる。

 目を閉じてゆっくりと呼吸を繰り返すハロルドをコヨミは微笑んだまま、しかしどこか興味深げに眺めてい
た。彼女の関心を引いたのはハロルドの堂に入った所作だ。

 コヨミが知る限りこの国において正座という文化があるのはスメラギ領だけである。

 ハロルドがスメラギの文化にある程度精通しているのは前回の訪問で把握済みだ。

 しかし玄関で靴を脱ぎ内履きに履き替える、長時間正座する、箸を使って食事をする。こういったスメラギ
独特の文化や習慣をあらかじめ知ってはいたとしてもそれを実際に行えるかは別の話だ。

 普通は知識があっても戸惑うところをハロルドはなんの苦もなく、それこそ普段からそうしているかのよう
に自然とこなしている。玉露の味や温度にさえ自分なりの好みを持っているとはさすがに予想外だった。

 彼はスメラギの文化を知っているのではない。体験しているのだ。

(でもそれはどこでかしら?)

 ストークスの邸というのは考えにくい。当主のヘイデンはそれらに対してほとんど無知だった。

 もしハロルドの近くにスメラギ出身の者がいたとしたら彼にだけマナーを教えヘイデンには黙する意味が分
からない。

 とにかく不可解な点の多い少年だった。
 そのせいかコヨミはついハロルドの動作を観察してしまう。

 結果として無言の空間が形成されていた。まあお互いが苦に感じていないので困ることもない。

 こうして静かな時間を過ごすことさらに 10 分、トントンと廊下を歩く音が近づいてきた。

「お待たせしてすまない。仕事が長引いてね」

 開け放たれている障子の向こう側から歩いてきたタスクが姿を現す。その顔はハロルドを待たせたことに対
する申し訳なさからかばつが悪そうな笑みを浮かべていた。

「相変わらず手を焼いているようだな」

「これでも大分ましにはなったよ。ハロルド君が作ってくれた抵抗薬のおかげさ。本当に感謝している。あり
がとう」

 座布団に腰を降ろすや否やタスクは深々と頭を下げた。コヨミもそれに倣う。

 唐突な出来事にハロルドは面食らった。

「頭を上げろ、見苦しい。俺は貴様らに感謝されるためにしたんじゃない」

「そういうわけにはいかないさ。ハロルド君が何を考えての行動かは分からないけど、それでも君のおかげで
状況が好転したのは揺るぎない事実だ」

 だからスメラギ家の当主として礼の意思を示さないなんてことはできないよ、とタスクは裏表など感じさせ
ない朗らかな表情でハロルドの目を見つめる。

 それに耐えきれずハロルドは視線を逸らした。

「ふん、下らない。俺のような子どもに頭を下げざるを得ない自らの無能さを恥じろ」

「返す言葉がないよ。まあ私としては君のような将来を嘱望できる若者と出会えたことは喜ばしい限りだけど
ね」
「そうか。なら尻尾を振って俺に協力するんだな」

「……それが私と話をしたいと申し出た理由かい?前置きもなくいきなり本題に入ろうとするなんて気が急い
ているのかな?」

「ゴマのすり合いなどする気はないからな。まずはこれを読め」

 ノーマンとジェイク謹製、現時点で判明しているLP農法の効果と活用法をまとめ上げた最新版の資料を机
に置く。

 ハロルドに視線で“読め”と促されたタスクはそれを手に取った。

 そしてページを捲るごとにタスクの顔には真剣味が増していく。その反応はハロルドとしては予想通りであ
る。

 というかそうでなければ困るのだ。まずはLP農法に破格の価値があることを理解してもらわなければなら
ない。

 そこが今回の交渉を行う上での前提だ。

 食い入るように資料を読み込むタスクは、最後の1ページまで目を通し終えると小さくふぅ、と息を吐いて
冊子を閉じた。

「なんというか……突拍子のない内容だね」

「だろうな。だが事実だ」

「疑われるのは想定内というわけかい?」

「疑う?素直に“信じていない”と言ったらどうだ」

 不敵。口角を釣り上げてほくそ笑むハロルドを表すにはその一言で充分だった。

 裏を返せばそれだけの自信がある、ということだ。もしこれが仮にブラフならば中々の役者だろう。
 しかし彼には実績がある。スメラギ領内の森に発生した瘴気に対する抵抗薬の製造法を無償で提供してきた。

 それによって追い込まれつつあったスメラギ領の運営は建て直しに光明が差し始めている。

「……そう言い切ってしまえない辺りが君の凄味だ。こんな荒唐無稽な内容でありながら、話を聞いてみたい
と私に思わせるのだからね」

「真実でも嘘でも聞く分にはタダだろうが」

「確かにね。だけどこの資料を見せてもらっただけでも私としては大きな収穫だよ?」

「そんなものが欲しいならくれてやる。どうせ写本だ」

 どうでもよさげに切って捨てるハロルドにタスクは内心だけではあるが初めて動揺した。

 LP農法という独自の栽培法が記されたこの資料は、内容もさることながら情報量も多くよくまとめられて
いる。方法自体も簡単なうえにリスクも低く手を出すことは容易だ。

 ここで「やはり信じられない」と話を打ち切ってしまえば、スメラギは損なく利益を得る可能性だけを手に
することができる。

 だというのにハロルドは話し合いの主導権をこちらに預けてきた。それの意味するところは、このLP農法
そのものは本題の前座に過ぎないと考えているということだ。

(その可能性に気付かされた時点で引くことはできなくなった)

 正確に言うのならば引くことへのリスクが増したのだ。LP農法に何か欠陥があるのか、スメラギに試させ
ること自体が狙いなのかもしれない。

 もしくは実質的な被害がなくとも他のところへその話を持って行かれて、いずれ自分達を苦しめる危険もあ
る。

 それを防ぐためにはやはりここでハロルドが言う本題を聞き、彼の思惑を可能な限り読み取らなければなら
ない。

 この思考誘導まで折り込み済みなら手強いどころではないな、と嘆息する。
 数日前にユノから届けられた報告書ではハロルドは何者かの傀儡ではなく、自らの意思で考え行動している
可能性が高いという報せを受けた。そしてこうして向かい合い、実際に言葉を交わせばそれが事実であると確
信した。

 入れ知恵や洗脳でここまで高度に操ることは不可能だ。

「ならそのお言葉に甘えさせてもらうとしようかな」

「そうしろ。というかそうでなければ話が進まない」

「フム、それはどういう意味だい?」

「その資料に書かれた内容が全て事実だと仮定して貴様はどう考える?」

 ハロルドの問いかけにタスクは一拍の間を開けてから答える。

「画期的な発明だ。実践して成果を上げ、特に問題が生じなければまずは自領で生産体制を整える。そしてあ
る程度優位性を確保してから国中に広めて行くだろうね」

「独占はしないのか?」

「限られた人間が富を独占すればそれは遠からず争いの火種になる。目先の利益に囚われて四面楚歌に陥るほ
ど愚かではないと自分では思っているからね」

「……いいだろう、合格だ」

 タスクの人柄を熟知するハロルドからすれば理想的な返答だ。

 自分自身に「何様だよ」と突っ込みたくなる衝動を抑えて交渉を続ける。

「俺も貴様とほぼ同じ意見だ。LP農法で儲けたはいいが周囲の有象無象から目の敵にされるのも鬱陶しい。
そこで提案をしにきてやったわけだ」
「是非聞かせてもらいたいね」

 両者の視線が交錯し座敷の雰囲気が一気に張り詰める。

 そして再びハロルドはあの不敵な、猛禽類のような笑みを貼り付けた。

「貴様にはLP農法の共同開発者になってもらう」

Twitter 始めました。

アカウントは『@orefura』です。

RTか野球の話がほとんどですが興味のある方はちょっと覗いてみてください。

18話

 その提案はタスクにとって完全に意表を突かれるものだった。理由は語るべくもない。

 タスクはLP農法の開発になど全く携わっていないからだ。

「どういうことかな?私は開発に関わっていないけど……」

「今まではな。だがこれから先、LP農法を広めて行くに当たってはスメラギの名を出す」

 その言葉にタスクは思い至る。ユノからの報告の中に“両親の前では振るまいが違う”という情報があった
ことに。

 単に身内とそれ以外の差だと考えていたのだが、脳裏にひとつの可能性がよぎる。

 それはハロルドが自身の能力を両親に隠しているのではないか、ということだ。もし彼らがハロルドの有能
さを知っていたならば婚約の取り決めに際してもっとアピールしてきたはずである。

 加えて当のハロルドは以前手紙でストークス家の凋落を示唆していた。それが意味するところは……。
「ハロルド君はLP農法がご両親に知られることを得策とは思っていないのかい?」

「さすがに俺の両親の人間性をよく理解しているな」

 彼らがLP農法を知れば十中八九タスクが危惧した展開へと発展するだろう。ハロルドはそう確信している。

 だからこうしてスメラギ家へと協力を仰ぎに来たのだ。

「さらに言うなら俺には手駒が足りない。これ以上試験農家を増やせば監視の目が届かなくなるんだよ」

「なるほど」

 ここでハロルドの言わんとしていることを理解した。

 彼は両親に知られることなくこの事業を拡大させたい。しかしそうするためには今のままだと限界がある。

 これほどまでに画期的な手法であれば情報の漏洩を防ぐために管理を徹底しなければならない。そのための
人員が足りないからこうしてスメラギ家へと話を持ちかけてきたのだろう。

「でもどうして私のところへ?これだけの旨味があれば誰でも飛び付くと思うけどね」

「求める条件を満たしている中で最も与しやすい相手が貴様だっただけに過ぎない」

 これは虚勢だ。タスクに首を横に振られれば他に伝のないハロルドは窮地に立たされる。

 だが彼の人柄とウイークポイントを把握しきっている強みはここで活かせるのだ。

「貴様が断るなら第2、第3の候補に声をかけるだけだ。まあその必要はないだろうがな」

「私が絶対にこの提案を受諾すると?」
「ああ、貴様はそうせざるを得ない」

 どこまでも絶対的な自信。何が彼をここまでそうさせるのか。

 根拠もなく強い姿勢に出るとは思えない。むしろ理詰めで事前に相手の退路を塞ぐぐらいはしそうなものだ。

(待て、退路を塞ぐ?まさか……!)

 タスクの頬をじとっとした嫌な汗が伝う。

 唐突にもたらされた閃きが散りばめられていたピースを繋ぎ合わせてひとつの答えを形作る。それ辿り着い
た瞬間、タスクの背筋に凍りつくほどの悪寒が走った。

「気が付いたか?」

 その声はまるで死神の鎌のような禍々しい鋭さを宿してタスクの耳朶を打つ。

「……君は最初からこの状況を見越していたのかい?」

「だとしたらなんだ?それで貴様の返答が変わるのか?」

 タスクが目を伏せる。ハロルドの言う通り、答えは変わらない。

 どちらであったにせよエリカの身を天秤にかけられたのでは頷くしかなかった。

「これが手紙に記されていた『産業技術の提供』か……」

 タスクは肩を落としてポツリとそう漏らした。その理由はエリカの婚約破棄に関してだ。

 愛娘が責任感だけで受け入れた、本心では望んでいない束縛された未来。それをハロルド自身が破棄しても
構わないと以前渡された手紙で申し出ている。

 その条件となるのが抵抗薬を調合・服用させ患者の症状を改善させること、予想された瘴気の最大汚染範囲
を目安に予防線を張ること。そして提供された産業技術を活用して経済力を回復させることだ。
 あの時は世迷い言か第3者の甘言としか考えなかった。

 しかしあの手紙の内容を全てこの少年が書いたとなれば話は違う。当主としてではなく1人の父親として、
その条件はあまりに魅力的だ。

 ハロルドの提案に不利な部分が見当たらないことも決断を後押しさせる。 

 年齢にそぐわない大人びた文章は意図したものだったのかもしれない。そうすることで相手に黒幕の存在を
匂わせ、その疑念を抱かされたことによってハロルド本人が書いたものだという可能性まで思い至れなかった。
ユノからの報告があったにも関わらず、だ。

 つまりあの手紙を受け取った時からタスクはハロルドの掌で動かされていたに過ぎない。彼はこの状況を作
り出すために、いったいいつから動き始めていたというのか。

 まるで未来を見通しているかのように打たれていた布石に愕然とする。

「確かに思わず飛び付きたくなるくらい魅力的な話だよ……だけどここまでスメラギに手をかける理由は何な
んだい?」

 スメラギと懇意にしたいだけならすでに提供したものだけでも事足りる。ましてや最も強固な結び付きとな
る婚約を破棄するはずがない。

 ハロルドの思惑が読み取れずに混迷ばかり深まる。

 しかしそれは当然でもあった。ハロルドは徹頭徹尾、将来に訪れるであろう自分の死亡フラグを回避するた
めに動いているのであり、それを知らない者からすれば彼の意図を汲み取ることはほぼ不可能だ。

 たとえ説明したところで理解はされないのでするつもりもないのだが。

「言ったところで貴様には……いや、俺以外の人間には理解の及ばないことだ」

 自嘲するような口ぶり。ここまでの不敵さからハロルドがそんな態度を見せると思っていなかったタスクは
言葉に詰まった。

 その虚を突くようにハロルドは選択を迫る。

「で、どうする?信用できないというならこの話はここまでだが」
 確かにハロルドが信用に値するかと問われればまだ首を縦に振ることはできない。

 しかし彼の目的がスメラギを害すと決まっているわけではないし、この提案を飲めば スメラギ家も、スメラ
ギの民も、エリカの未来も救うことができる。

 言い方を変えるならばハロルドはそこまで手を尽くしてくれているのだ。今回の件も有無を言わせず従わせ
たところで異を唱えることはほとんど出来なかったであろう。

 そんな圧倒的有利な立場にいながら彼はあくまで提案という形で話を持ってきた。

 一見タスクには拒否権の無いような話だったがそれは違う。エリカの婚約という犠牲に目を瞑れば断ること
も可能だった。

 そうなればストークス家とスメラギ家の結び付きは確固たるものになり、LP農法がなくとも事前の取り決
め通りストークス家からの支援を受けるだけだ。

 今回の提案でリスクがあったのはむしろハロルドの方だ。それも普通に考えれば負わなくてもいいようなリ
スクである。

 抵抗薬の開発など相当な時間と資金をつぎ込んできただろうことは容易に想像がつく。そうまでして作り出
した状況が水泡に帰す危険を省みずに手を取るか否か、その最後をタスクに委ねたのだ。

(中々出来ることではないな……)

 素直にそう思えた。思わされてしまった。

 よくよく考えてみればハロルドはスメラギが一切損をしないような立ち回りをしている。

 本来ここまで都合の良い話を持ち出されれば簡単に頷くことはない。相手を疑い、不審な点を探り、それで
疑いが晴れなければ断るだろう。ハロルドからの提案も然りだ。

 その判断が結果として得られるはずだった利益をみすみす手放すことに繋がる可能性もある。

 だがハロルドは“エリカの婚約を破棄できる”という免罪符をわざわざ用意した。タスクが提案を受け入れ
やすくするために。

 こうまで言うと好意的に解釈しすぎだと思われるかもしれないが、ハロルドが不要なリスクを負ってまで交
渉という体面を崩さなかったことへの説明はそれ以外につかなかった。

(この思考を逆手に取るためとも考えられるが、そうだった場合は太刀打ちのしようがない。どちらにせよ私
の完敗だ)
 タスクは大きく吸い込んだ息をゆっくりと吐き出す。俯かせていた顔を上げ、向かいに座るハロルドの瞳を
しっかりと見据えた。

「此度のご提案、お受けさせていただこう」

 それがタスクの出した答えだった。

「既定通りだが、まあ即決した点は褒めてやる。近日中に貴様の息がかかった人間とスメラギ家が所有してい
る畑を用意しろ。まずはそこでLP農法に関するノウハウを叩き込んでやる」

「それだけでいいのかい?」

「あとは予定だと数年後に規模の大きい商会が必要になるな。情報を守秘できて信用が置けるところだ。その
判断は貴様に任せる」

「なるほど。下地を固めてから商会と協力して管理可能な畑を増やし、ゆくゆくはその商会を通して技術を売
り出していこうということかい?」

「俺の手駒よりはましな頭をしているみたいだな」

 上から目線ではあるが、タスクの察しの良さにハロルドは内心で舌を巻く。ずいぶんと頼もしい仲間を得ら
れて大満足だ。

 技術を売り出すにしても両親に秘匿するためにスメラギの名を借りたい、という意図も彼ならば言わずとも
読み取ってくれるだろう。

「他に必要な物は?」

「あとは……」

 言いかけて口を閉じた。このタイミングで言うべきことではないか?と逡巡する。
 それに勘づいたタスクは純然な厚意で手を差し伸べた。

「何かあるなら遠慮せずに申し出てほしい。ハロルド君が望む物なら可能な限り取り揃えよう」

「……なら強い奴を用意しろ。ここに滞在している間、極力対人戦闘の経験を積む」

 この世界を生き抜くために絶対必要となる対人戦の強さ。ストークスの邸では得られないそれを手に入れる
ため、ハロルドは意を決して1歩を踏み出した。

19話

 ハロルドとタスクが協力関係を結んだその晩。

 夜の帳が下り分厚い雲に阻まれて月明かりも地表には届かない暗闇の中、その闇から逃れるように煌々とし
た明かりが灯っている一室があった。

 その一室では上座に座ったタスクを始め、妻のコヨミと娘のエリカ、タスクの側仕えであるキリュウ、そし
て汚れひとつ無い割烹着がトレードマークになっているユノの計5人が一様に押し黙っていた。

 緊張感をほぐすようにこの屋敷の主であるタスクが会話の口火を切る。

「さて、何か報告があるようだね?ユノ」

「はい。旦那様、そしてエリカ様にお伝えしなければならないことがあります」

 おっとりした声ではあるものの普段の間延びした口調とは違った様子でユノはそう切り出した。

「エリカにもか?」

「左様でございます。エリカ様からのご用命で動いていましたので」

 その言葉にユノ以外の視線がエリカに集まる。彼女はそれを受けて深く頭を下げた。
「彼女達を勝手に動かしてしまい申し訳ありません、お父様。ですかどうしても確かめなければならないこと
があったのでユノの力をお借りしました」

「確かめなければならないこと、とはハロルド君についてかい?」

「そうです。お父様はハロルド様が使用人親子を殺害した、というお噂はご存じですか?」

「ああ、ストークスの市井ではそのような話が出回っているという報告は上がってきているよ」

 商人や旅人を装ってストークス領に潜入した内偵からも母子殺害の件は聞いている。ストークス家へ対する
元々の嫌悪感もあってか領民の間でかなり広まっているようだった。

「……それが虚偽である可能性が浮上しました」

「虚偽?つまり殺害された噂されている親子はまだ生きているということか?」

「その真相を確かめるためユノ達に協力をしてもらったのです」

 そして今、その調査結果を伝えるためにユノはここにいる。

 今度は全員の視線がユノに集まった。全員が次に彼女が発する言葉を待つ。

 それに対してユノは勿体つけることもなくこう語った。

「今回の件に関してですが流布している噂は誤りでした。殺害されたはずの使用人クララとその娘のコレット
は今も存命です」

 その報告にタスクは目を細め、エリカは顔を俯かせ両膝の上に置いていた拳を強く握りしめた。彼女の心を
罪悪感が覆う。

 そんなエリカを気遣うように見やりながら、それでも報告を続ける。

「今彼女達が暮らしているのはブローシュ村というバラック子爵が管轄している小さな村です。かなり手間取
りましたが本人からの証言も得られました」
「手間取ったとは?」

「名前を変えておらず村人に聞いて彼女達に辿り着くのは容易でしたが当時の事を頑として語ろうとはしませ
んでした」

 先んじた仲間からその報告を受けたユノは自分の足で現地へ赴いた。実際に話してみれば門前払いとまでは
いかないが、クララに真相を語る気は全くなさそうだった。

 しかしユノとしても「それでは仕方ありませんね~」と引き下がるわけにはいかない。そしてクララと言葉
を交えている内にあることにも気が付いた。

 それは彼女がハロルドに対して多大な恩を感じている、ということだ。

 ハロルドは自ら殺したと主張しながら彼女達の生存をひた隠しにし、殺害されたという噂を知りながらそれ
を鎮静化させる動きはまるで起こさない。加えて殺されたことになっている彼女がハロルドに恩義を感じてい
るのは何故なのか。

 そこまで考えた時、ユノの中にとある仮説が浮かび上がった。その仮説が正しかった場合はクララを揺さぶ
れるかもしれない妙案だ。

 と同時にそれはハロルドとクララ、両者の想いを踏みにじるようなものだった。

 しかしそうなったとしてもユノに口をつぐむという選択肢はない。苦い思いを噛み殺して彼女はこんな言葉
を続けた。

『ハロルド様は人殺しの汚名を被り、それを進んで肯定しているのですよ。そのせいでハロルド様は今自領の
民から敵視されており、表にこそ出していませんが非常に憔悴なさっていました。

 わたしも隠された真実を白日の下に晒す気はありません。ですがその真実を語っていただければ秘密裏にハ
ロルド様の理解者を得ることができるのです。どうかあの方を救うと思ってご助力いただけないでしょうか』

 所々盛られたその口説き文句は効果覿面だった。ユノの言葉を聞いたクララは顔を真っ青に染め上げて口を
手で覆う。

 瞳には涙が滲み、痛々しい数分の沈黙を経てようやく彼女はあの日何が起きたのかその全てを明らかにした。

 そして後悔する。無理強いをしてまで語らせることしかできなかったことを。
「……彼女はなんと?」

「事の顛末は5ヶ月ほど前、クララが誤ってハロルド様に怪我を負わせそうになったのが発端だそうです」

 そこからユノは彼女から聞いた話を正確に、過不足なく部屋いる全員に伝えた。

 それをきっかけにハロルドの両親が激昂し斬り殺されそうになったこと。

 ハロルドがクララを魔法の実験台にすると嘘をついて地下牢に閉じ込めたこと。

 そうして時間を稼ぎながらクララを救出する手段を編み出したこと。

 娘が天涯孤独にならないように自分と引き合わせてくれたこと。

 荷馬や家財道具、さらには多額の支度金まで用意し無償で提供してくれたこと。

 今そうして汚名を被っているのは恐らく自分達の身の安全を確保するためだということ。

「……彼女は涙ながらにそう話してくれました」

 ユノの報告を聞いて誰もが言葉に詰まっていた。

 あの不遜な態度の内側にハロルドがどれだけの強さと優しさを持ち、また同時に苦しみを抱えていたのかを
知ったから。

 そしてそれを知っているクララが彼を助けるためとはいえ彼の想いを無下にして真実を口にするのはきっと
身を切るような思いだっただろう。

 不意にエリカが立ち上がり襖に手をかける。その背中をタスクが呼び止めた。

「エリカ、どこに行くつもりだい?」

「……私はハロルド様に謝らなければなりません。何も知らず、知ろうともせず、ただ感情のままに罵り、あ
まつさえ手まで上げてしまいました。到底許されることではないですけれど、それでもせめて……」

 誠心誠意謝ることくらいはしなければいけない。

 しかしその想いはタスクによって阻まれた。
「それは認められないな」

「何故ですか?」

「彼がここまで身を呈して守っているんだ。それを知った私達が取るべき行動は秘密の共有ではなく秘密の厳
守だ。まだお互いを信用しきれていない相手に情報が漏洩したと知ればハロルド君のことだ、さらなる漏洩を
警戒して今より孤立してしまうだろう」

 そうなればこれまで孤軍奮闘してきたであろうハロルドをさらに孤独に追いやる危険性がある。ハロルドな
らそれでも何とかしてしまいそうではあるが、やはりそれは荊棘の道だ。

 分厚い仮面の下では絶え間なく傷付き、時には涙しているかもしれない。

「エリカが謝りたいと思うのは当然のことだよ。でもそれは本当に彼への罪の意識からくるものかな?酷い仕
打ちをしてしまったことへの許しが欲しいだけじゃないと言い切れるかい?」

「っ!」

 だからタスクは止めた。愛娘に理不尽で厳しい言葉を向けてでも。

 エリカもタスクが言わんとしていることは分かる。頭でなら納得もできた。だが心は、感情は、理性で片付
けることができない。

「……ではどうしたらいいのですか?過ちを正すことも、頭を下げることもできない私はどうすればいいとい
うのですか!?」

 そう叫ぶエリカの姿は年相応の幼子だった。普段必要以上に大人びているエリカの子どもらしい振る舞いに、
非常に場違いであるとは承知しながらもタスクは微笑ましく思う。

 スッと立ち上がりエリカに歩み寄ったタスクは、自身の腹部ほどの高さに位置するエリカの頭を優しく撫で
た。

「お前はハロルド君を支えられる人間になりなさい。彼は優秀だけどあまりに優れすぎている。時にその力は
彼を孤独にするだろう」
 ハロルドと言葉を交わしたタスクは直感的に感じ取ったことがある。恐らくハロルドは自分と、というより
一般的な人間と違う視点で世界が見えているのだろう。

 そうでなければ“俺以外の人間には理解の及ばないことだ”などという言葉は出てこない。

 どこか嘆くような口ぶりでそう語っていた彼はタスクが懸念した自身の未来を理解しているのだろう。しか
し幸か不幸か、ハロルドはその孤独に耐えるだけの強さも持っている。

 彼ならばどれほど険しい道のりでも止まることなく歩み続けて行くはずだ。タスクはそんな意思の強さをハ
ロルドから感じていた。

「自分の行動を償いたいと思っているなら許しを請うのではなくて彼が成そうとしている事を見守り、支え、
寄り添い、真に理解できる人間になってみせるんだ」

「ハロルド様に寄り添い、真に理解できる人間に……」

「それはとても難しいことだろうね。ハロルド君はその優秀さ故、協力者は求めても仲間は必要としないかも
しれない。1人で多くをこなせてしまう彼の独断を信じて付いて行くことがエリカにはできるかい?」

 何よりハロルド自身がエリカを遠ざけようとしているのは明らかだ。タスクにはハロルドが意味もなくその
ような態度を取るとは思えない。

 エリカに対してそうするだけの理由が彼にはあるのだろう。

 つまりエリカがどれだけ心を尽くしたところで省みられないかもしれないのだ。それもまた過酷な道を歩む
ことになる。

「……」

 そしてここで安易に「できます!」と断言できるほど、エリカは思慮の浅い子どもではなかった。自らの行
動がどれだけ自己中心的で、タスクが言う理想像からかけ離れたものか痛いほど分かっているからだ。

 悔しそうに唇を噛んだエリカに屈んで目を合わせたタスクは、情に満ちた優しい声で諭すように語りかける。

「今すぐ答えを出す必要はないよ。彼の姿から学んでどうしたいかを決めればいい。まあ手を上げたことにつ
いてはやり過ぎたと謝罪するべきだけどね」
 意気消沈した様子で小さく「はい……」とだけ漏らしたエリカを自室に帰す。今日これ以上何かを言っても
心を整理できないだろうと判断した。

 エリカと、その背中に従ったユノが退室するとタスクは苦笑いを浮かべた。

「婚約が決まった時も相当だったが、今回もかなり落ち込んでいるようだな」

「その理由はまるで逆のようですけどね」

 対してコヨミはくすくすと鈴を転がすような声で笑う。

 ほんの2ヶ月ほど前は気丈に振る舞いつつも望まぬ相手との婚約に内心では気落ちしていたエリカ。

 それが今やその相手を傷付けてしまったことに後悔を覚え、認められたいとすら思っている。その気持ちを
本人はまだ気付いていないようではあったが。

「子どもはこうして成長していくのだな……」

「しみじみと何を仰るのですか?我が子の成長を実感するのは初めてのことではないでしょう」

「愛娘となるとその感慨もまたひとしおだよ。ところでキリュウ、イツキの返答はどうだった?」

「明朝にはお戻りになるとのことです」

 長らく無言で控えていたキリュウの言葉にまたもやタスクは苦笑を漏らした。

「まあアイツのことだからそう言うとは思っていたが」

「あの子はエリカを愛していますからね。鍛練でもハロルド君と戦わせてしまったらやり過ぎてしまわないか
しら?」

「恐らく大丈夫だろう。ユノからの報告ではハロルド君もかなりの腕前らしい。一方的なことにはならないは
ずだ」
 とはいえタスクとしてもイツキが負けるとは思わないのだが。何にせよあの2人がぶつかり合うのは中々に
面白そうだ、と少年じみた出来心が顔を覗かせる。

「悪い顔になっていますよ、貴方」

「心外だ。未来ある子ども達に心が踊っているだけだよ」

「旦那様もまだまだお若い、ということですかな」

「はは、違いない」

「はあ、男の人というのはいくつになっても子どもなんですから」

 ニヤニヤしながら頷き合うタスクとキリュウにコヨミは呆れてため息を吐いた。

 そんな大人達のやり取りが行われていることなど知るよしもないハロルドは、予期せぬ事態もあったがそれ
でも順調に事が運ばれていると満足し、久しい敷き布団の感触を味わいながら寝こけていた。

 そして迎えた明くる日の朝。

 上機嫌さなど微塵も感じさせない冷めた表情を貼り付けたハロルドはタスク、コヨミ、そしてエリカの3人
と一緒に朝食を摂っていた。その会食も一段落した時の出来事である。

「そうだ、ハロルド君。昨日の件だけど君に相応しい相手を用意したよ」

 食後の緑茶を口にしているとタスクがそう切り出した。

 ハロルドはその言葉に眉根を寄せる。

「昨日の今日でずいぶんと手際がいいな」

「たまたま実力者が近くに来ていてね。手合わせを打診したら二つ返事で了承してくれたんだよ」
「そいつは何者だ?」

「それは会ってのお楽しみさ。今朝戻ってきたばかりだけど早速手合わせをしてみるかい?」

「無論だ。場所は用意してあるんだろうな?」

 逸る気持ちを抑えきれずに食い付くハロルド。その姿を見てタスクは一層笑みを濃くする。

「当然だとも。馬車で移動するから準備を整えてくれるかい?」

 タスクのセリフを聞くや否やハロルドは席を立ってあてがわれている自室へと戻る。和装――旅館の浴衣の
ような格好では戦いづらいので着替えるためだ。

「昨日もそうでしたけどハロルド君は正座が平気なのね」

「侍女の説明を聞かなくとも和服を着れたというしな。箸の使い方や内履きに関してもそうだがスメラギの文
化への造詣が深いようだな」

「……そういえばサクラのことも知っているようでした」

 空いたハロルドの席をスメラギ一家は不思議そうに眺める。

 それから数十分後、いつもの装いに着替えたハロルドの姿は馬車の中にあった。乗り合わせているのはタス
クとキリュウ、そしてなぜかエリカである。

 ハロルドの隣に座るエリカは非常に気まずそうだった。その気持ちはハロルドもよく分かる。

 本人が嫌がっているのは間違いない。恐らくタスクに何かしらの考えがあってのことだろう。

 そう結論付けたハロルドは余計な口を開かず馬車に揺られ続けた。

 それからしばらくして到着したのは巨大な武道館だった。
 馬車を降りてまず目に入ったのが有に10メートルはある門。それは見る者に威圧感を与え、門をくぐり抜
けて敷地内に入れば広大な土地の中に様々な施設が立ち並んでおり、そこかしこから掛け声や床を打ったよう
なドン、という音が耳を澄まさなくとも聞こえてくる。

 ハロルドが案内されたのはその中でもとりわけ厳かな雰囲気で佇む2階建ての道場だった。

 外観と同じく木製の外付け階段を登り2階に備え付けられている正面玄関から道場内へと入る。

 格子状の窓からは太陽の光が差し込み薄暗さを感じさせないそのフロアはまるで休憩所のようだった。一角
には何人もの大人が横たわれる広さが確保された畳が敷かれている。

 ガヤガヤと活気溢れていた休憩所はタスクとエリカが姿を現すと一瞬で静まり返り、その次の瞬間には全員
が頭を下げて礼をの姿勢を取った。

「いきなり訪ねてすまないね。少し下の道場を借りるよ。イツキは来ているかい?」

「はい、今朝方お見えになりました」

 タスクは道場内にいる人間に気安く話しかけ、話しかけられた男達も慕うようにそれに応える。信頼関係が
目に見えるようだ。

 そんな光景を目にしながら先導するキリュウの後を追ってハロルド達は1階に下りる。

 そこにあったのは剣道場だった。競技用のコートが2面並んでおり天井は吹き抜けになっている。

 2階は観客席が設置されていて、タスクの訪問があったせいか何事かと上から1階の様子を覗き見ようとい
う人間がぞろぞろと現れる。

 だがそんな見物客などハロルドにとってはどうでもいいことだった。彼の目は既にある一点に釘付けとなっ
ていた。

 剣道場の中心で竹刀を振るう1人の少年。ハロルドより年上だろう12、13歳ほどの少年が黙々と素振り
を繰り返している。それだけで視線を引き付ける力が彼にはあった。

「イツキ」

 タスクが名前を呼ぶとその少年は素振りをやめてハロルド達の方へと向き直る。
 純日本人のような黒髪黒目。身長はハロルドより10センチは高く、爽やかで端正な顔立ちはハロルドの元
の世界でもアイドルとしてやっていけるほどだ。

 目の覚めるような美少年ことイツキは開口一番こんなセリフを口にした。

「おお、エリカ!しばらく見ない内に一段とキレイになったね!」

 タスクをスルーしてエリカへと一直線に突進し、その手を握りしめてひたすら賛辞を吐き出し続ける。エリ
カは困ったようなものを見る目をイツキに向けていた。

「……おい、まさかこいつが俺の相手か?」

「言いたいことは分かるが実力は確かだ。安心するといい」

「俺は“強い奴を用意しろ”と言ったはずだぞ。どう見ても子どもだろうが」

「それは君もだろう?」

 エリカ以外眼中になし、といった様子だったイツキはしっかりとハロルドの方にも意識を割いていたらしい。
エリカに向けていたものとはまるで違う、どこか黒さが漂う笑みでハロルドに向かい合う。

「まずは自己紹介をさせてもらおう。僕はイツキ・スメラギ。エリカの兄だ」

「……ハロルド・ストークスだ」

「それだけかい?違うだろう?最も大事なことが抜けているじゃないか」

 イツキはハロルドの左肩にポンと手を乗せる。

「君はエリカの婚約者なんだろう?僕の!自慢の!!妹のねっ!!!」
 右手が置かれた肩がギリギリと握りしめられるのを感じながらハロルドは悟った。

 こいつは間違いなく重度のシスコンだ、と。

戦闘まで入れませんでした。

ごめんなさい。

20話

 そういえばエリカには兄がいたな、とハロルドは今さらながら思い出す。どうしてここまで忘れていたのか
といえばイツキは本筋と関係ないエピソードにしか登場せず、ゲームではその名前すら明らかになっていない
からだ。

 だが冷静に考えてみればエリカが1人っ子ならば嫁入りでスメラギ家がお家断絶になりかねない。そんな状
況で易々と婚約という話になるわけもないのだから兄という存在に思い至らなかったのはハロルドのポカだろ
う。

 まあそれ自体は大きな問題ではない。しかし兄であるイツキがここまで重度のシスコンだとは思いもよらな
かった。

 フフフフと黒い笑みを浮かべるイツキの相手をするのは非常に面倒そうである。

「話は聞いているよ。さあ、僕と手合わせをしよう」

 その目は獲物を狙う肉食獣を彷彿とさせた。完全に逆恨みもいいところではあるし相手にしたくない言動の
イツキだが、それでも貴重な実戦経験を得るためだとハロルドは自分を納得させる。

「気安く触るな雑魚が」

 普通に「肩が痛いんで離してくれません?」とお願いしただけであってケンカを売るつもりはない。
 だがこの口にある限り険悪な空気に陥るのは避けられなかった。口は災いの元、という諺がハロルドにとっ
ては神典に記された至言にすら思える。

「やる気は充分ということかい。ならすぐに準備を整えるといい」

 笑みを深めるイツキに内心ではドン引きしつつ、確かに今の英国少年のような服装では動きづらいのでその
言葉に従い更衣室で用意されていた衣装に着替える。

 上は真っ白な胴着、下は濃紺の袴と弓道の選手のような出で立ちだ。

 装いを整え戻ってきたハロルドを見てタスクやイツキ、2階の観客席に座っていた何人かの人間が一瞬息を
飲んだ。

 140センチほどしかない少年が汚れひとつない真新しい胴着に袖を通しているはずなのに、所作から感じ
られるのは初々しさではない。ハロルドが発していたのは肌がひりつくような威圧感だった。

「得物はコイツか?」

 イツキが握っているものと同じ、壁にかけられていた竹刀を手に取る。

 感覚を掴むために軽く振ってみるとまるで重さが無いのではと錯覚するほど軽い。ヒュヒュン、と風切り音
を上げながらハロルドは竹刀を縦横無尽に振り回す。

 見る者が目を丸くするような鋭く、そして流麗な剣捌き。それを目の当たりにしたイツキは「へぇ」という
小さな感嘆を漏らした。

 話には聞いていたがハロルドの剣技を実際に目にして油断はできないと認識を改める。イツキからすれば愛
する妹をさらっていく憎き相手ではあるが、わずか10歳でこれほどまで鍛え上げていることは素直に称賛で
きた。

 同時に彼とならば戦いを楽しめるのではないか、という期待が沸き上がる。

 イツキは剣に関して言えば優秀だ。天才と呼ばれる領域の人間かもしれない。

 故に現時点ですら大の男と打ち合っても簡単に負けることはなく、反面同世代の子どもでは到底太刀打ちで
きないほど実力に差がついてしまっている。

 それを全く不満に思ったことがないと言えば嘘だ。年も実力も近いライバルを心のどこかで求めていた。

 そして今、そうなり得るかもしれない相手が現れたのだ。ハロルドがエリカの婚約者でさえなければイツキ
は諸手を上げて歓迎したい思いである。
「まるで棒切れだな」

 竹刀を一通り振るったハロルドの感想はそれだけだった。

 あんまりな物言いだが、これまで鉄製の剣で鍛練してきたハロルドにとって竹刀の重さはあってないような
ものにしか感じない。

「さて、用意はいいかな?」

「愚問を吐くなよ。さっさと始めろ」

 確認を取るタスクに対していっそ清々しいまでに不遜な態度で言葉を返すハロルド。

 緊張はしている。恐怖と言ってもいいだろう。

 イツキは原作に登場しないキャラクターではあるもののRPGという剣も魔法もモンスターも当然のように
存在する世界に生きる人間だ。その中にあって強いというのだから並大抵ではないだろう。

 普通に考えて現代の日本でのうのうと暮らしていた人間が勝てるわけがない。だがハロルドはこの体を思い
のほか信用している。

 罵倒と挑発を繰り返す口には頭を悩ませられているが、本来の自分では到底不可能だった動きと技能を実現
させるこの高スペックな体は間違いなく大きな武器となる。

 瞼を閉じれば暗闇の中鮮明に浮かび上がる原作ハロルドとの戦闘。初プレイ時には辛酸を舐めさせられた圧
倒的なスピードと技量。

 今自分が持っている体はいずれそれを成せる器なのだ。

 そして自らの意思でこの体を操れるのならば――

(負ける気はしない)

 ハロルドの両の瞳にこれまでにない強い光が灯る。そのギラついた瞳で正面のイツキを見据えた。

 2人が無言になったのを見計らってタスクがルールの確認を行う。
「武器は竹刀。頭部や顔面を含む急所への攻撃、そして魔法の使用は禁止。時間制限はなし。決着はどちらか
が戦闘不能となるかリタイアの宣言。それ以外は実戦と同等だ。これで問題ないかい?」

「ありません」

「それで実戦と同等だとでも?ずいぶんと手ぬるいな」

「不満かもしれないが私としても大きな怪我だけはなんとしても避けたいのだよ。防具をつけるならその限り
じゃないけどね」

「……まあいい。今日のところはその条件でやってやる」

 むしろありがたい提案だったが表面上は渋々ながら承諾するハロルド。タスクはそれに人知れず安堵した。

 その理由はイツキの実力を正しく評価しているからである。実戦を経験している兵士と比べても遜色のない
剣の腕は、ある程度の制限をかけておかなければハロルドに怪我を負わせる危険が高い。

 ハロルド本人が望んだ舞台とはいえ貴族の嫡男、それも援助を行ってくれている他貴族の子に怪我をさせる
のはよろしくない。

 そんな父の配慮をイツキは言われずとも理解していた。叶うならば全力で戦ってはみたいがお互いの立場と
してそれは難しい。

 ならばできる範囲で精一杯剣を交えよう。そう考えていた。

 だから期せずしてこんなセリフが口をついた。

「初手は譲ってあげるよ。渾身の一撃を繰り出すといい」

 イツキにハロルドを見下す心づもりがあったわけではない。自分が全力を出せない代わりにハロルドの全力
を知りたかったのだ。

 言わば真剣勝負を望むハロルドに対して手を抜かざるを得ないことへのお詫びにも近い気持ちから出た言葉
だった。

「……」
 イツキの余裕ともとれる態度に、しかしハロルドは意外にも反応を示さない。わずかに右の眉を吊り上げた
程度である。

 それは取るに足らない言動だと受け止めた冷静さの表れか、憤慨を抑え込んだ静かな怒りか。

 タスク達が壁際まで退くのと入れ替わりで肩幅の広い1人の男が距離を開けて見合っているハロルドとイツ
キの中間に立つ。

 2人が臨戦態勢に入ったのを確認して高らかに模擬試合の開始を宣告した。

「両者構え……始めっ!」

 その声と同時に動き出したのは先手を譲られたハロルド。それ自体はおおよその想像通り。

 しかし誰にとっても想定外だったのはハロルドの速さである。まるで姿がかき消えたような速度で踏み込ま
れ、イツキは一瞬で間合いを詰められた。

「なっ!?」

 驚愕の声を上げたのはイツキだけではない。この戦いを見守っていた多くの者がイツキと同様の反応か、目
を疑うあまり声すら出せないかのどちらかだった。

 仮に唯一ハロルドの素早さを自分の目で確かめているユノがこの場にいたとしても、彼女もまた皆と同じよ
うな反応を示しただろう。何故ならばその速度も、動きのキレも1ヶ月前と比較して格段に磨きがかけられて
いたからだ。

 完全に虚を突かれてはまともな対応などできない。それでも条件反射で防御の型を取ろうとしたのはイツキ
だからこそ可能だったことだろう。

 だがそれだけだった。竹刀がぶつかり合うバシィンという音が道場に木霊する。その残響の最中、ガシャッ
と音を立てて1本の竹刀が床に落ちた。

 一瞬の交錯を経て無手で立ち竦んでいたのはイツキ。

 誰もが声を失う中、緩やかに竹刀を下げたハロルドは嘲笑うように言葉を吐き捨てる。

「本当の殺し合いだったら貴様はもう死んでるぞ。良かったな、俺が本気じゃなくて」

 皮肉とも取れる発言。だがイツキにはそれが失望の色を孕んでいるようにも聞こえた。
 悔しさに耐えるように竹刀を弾かれ未だ鈍い痺れが残る右手を強く握りしめる。

「……ああ、君の言う通りだ。侮っていたことを謝罪しよう」

 イツキの胸に沸き上がる悔恨の情はハロルドに向けられたものではない。油断はしていないつもりで無意識
ではハロルドを下に見ていた自分の愚かさに恥じ入ったためだ。

 そしてハロルドが自分に対して失望する理由に思い至ると同時に納得もできた。

(彼も全力を出して競い合えるライバルを探し求めているのか。僕と同じように)

 もし立場が逆だとしたら、とイツキは夢想する。自分が同じように手を抜かれたとしたらやはり腹に据えか
ねる思いをするだろう。

 その不平不満を彼は先の一閃に乗せたのかもしれない。一方でそんな怒りを抱いていたからこそ彼も本気は
出さなかったのだ。

 イツキの動体視力はなんとかハロルドの剣を捉えていた。見間違いでなければハロルドは意図してイツキが
取った防御の型に合わせて剣の軌道を変化させて竹刀を弾き飛ばした。

 そのままなら手でも胴でも打てただろうにそうしなかったのは暗に「お前も本気を出せ」と訴えているのだ
ろう、とイツキは解釈した。

 ほんの一部分、ハロルドがわざと竹刀を狙ったというのは正解である。見た目は10歳でも精神年齢はハタ
チ目前のハロルドに子どもと呼んで差し支えない年齢のイツキをぶっ叩く度胸などなかったというだけの話だ
が。

 怪我をする覚悟はできていても怪我をさせることにはやはり躊躇いがある。今回の対人戦闘はそういった意
識を克服するための第1歩にしたかったのだが、相手が子どもではそうもいかない。

「そして今度は僕の方からお願いしたい。どうか僕と真剣な勝負をしてくれないか」

「バカか貴様は。最初からそのための手合わせだろうが」

 1秒の逡巡もなくハロルドはそう言い切った。思わずイツキが拍子抜けするほどあっさりと。

 ハロルドとしても気は引けるがこの弱肉強食の世界で生き残るために元からそのつもりなのだから迷う必要
はない。
「……ああ、そうだったね」

「やる気があるならさっさと得物を拾え。それくらいなら待ってやる」

「ありがとう。でも次は僕が先手をもらうよ?」

 床に転がっていた竹刀を拾い上げ、イツキはこれまでとは異なる砕けた調子で語りかける。

 それを受け止めたハロルドも口角を歪め、どこか楽しげに返す。

「ふん、やってみろ。俺の速さに着いてこれるならな」

「やってみせるとも」

 それが真剣勝負を望むハロルドへの礼儀なのだから。

 仕切り直しの立ち合いは先ほどよりも一層緊張感が高まる。その空気にタスクが口を挟もうとするとハロル
ドとイツキの両方から視線を受けた。

『分かっている』

 共にそう訴えるかのような眼差し。

 提示された条件は守った上で尚且つ本気の勝負をする。だから止めないでくれ。

 そう言われたような気がしてタスクは迷った末に踏み出しかけた右足を戻した。それを確認してイツキがこ
れまでとは異なる彼本来の柔和な笑みをハロルドに向ける。

「いくよ!」

 その言葉が再開の合図となった。

 初動はほぼ同時。それでもやはり速いのはハロルド。

 しかし先手を取ったのは宣言通りイツキだった。
 ハロルドのスピードはすでにイツキを凌駕しているだろう。だがそうと分かって集中していれば姿を見失う
ようなことはない。

 そしてイツキは1度目の立ち合いからハロルドの速さは直線的なものではないか、という仮説を立てた。そ
の根拠はハロルド自身が戦闘経験を求めていたこと。恐らくハロルドは戦いそのものの経験が不足しているの
ではないかと睨んだ。

 つまり経験が足りない、言わば未熟な人間があれほどの速度で自由自在に動き回れたりフェイントを織り混
ぜられるとは考えにくい。

 そんなイツキの推測は正鵠を射ていた。彼が数瞬先を予測して虚空に放った斬撃はカウンターとなってそこ
に現れたハロルドを襲う。

「ちぃ!」

 決まってもおかしくないそのひと振りもハロルドは超人的な反応速度で防御する。が、それにより足が止ま
ってしまった。

 これがイツキの狙いである。生み出した勝機を逃すまいと攻撃をたたみかけた。

 いかに素早さに自信を持つハロルドといえど打ち合うほど近距離の間合いでは開始の際に見せた踏み込みは
使えない。

 かといって距離を取ろうとしてもイツキがそうはさせじと間合いを詰める。

 単純な剣術勝負となれば分があるのはイツキだ。

 基本的には素人であり足を使ったスピードの上乗せも使えないハロルドの剣速は格段に落ち、直線的な動き
が多く対処には困らない。

 逆にハロルドは目が良すぎるあまりことごとくフェイントに反応してしまう。戦闘での“読み”というもの
が一切培われていないせいで優れた動体視力に体が引っ張られてしまっていた。

 そうなれば勝敗は徐々にイツキの方へ傾いていく。イツキの胴を狙った一撃を竹刀を立てて防ぐが、そのま
まギリギリと鍔迫り合いに持ち込まれてしまう。

 ついにハロルドの足が完全に停止した。

「どうしたんだい?防戦一方だけど」
「貴様こそ息が上がって苦しそうだな!」

「それはお互い様だろうっ」

 力比べでは身長で10センチ以上も上回るイツキが有利だ。押し出されるように後ろへ弾かれ、ハロルドの
体勢が若干崩れた瞬間、イツキの体がグッと沈み込む。

 この一撃は避けられない。直感でハロルドは悟る。竹刀で防御しようにも上半身が後方に逸らされた状態で
はまともに防ぐことはできない。

 竹刀を叩き落とされ無防備になったところを追撃されるのが関の山だ。

(もらった!)

 左胴を狙った斬撃をハロルドは右手1本で握った竹刀で遮ろうとする。体重が乗った攻撃を防ぐことなどで
きない、防御というにはお粗末な悪足掻き。

 イツキはその竹刀を弾き飛ばした――はずだった。

「えっ?」

 勝負の真っ只中で思わずそんな声が漏れたのはいくら不充分な体勢だったとはいえ弾いた竹刀にはあまりに
抵抗がなく、まるで空振ったような錯覚に陥ったからである。

 それもそのはず、ハロルドは竹刀がぶつかり合う瞬間に自らの竹刀を手放していた。

 打ち上げられた竹刀が悠々と空中を舞う一瞬にだけ生まれた空白の時間。戦いにおいてわずかでも相手から
目と意識を逸らすのは致命的な隙である。

 まずい、と思うと同時にイツキを襲ったのは右肩への衝撃。

『剛打掌』

 作中に登場する、掌打でダメージを与える素手の打撃技。本来なら通常攻撃と組み合わせて使用する技であ
り、それ単体で敵を打倒できるものではない。

 だが無防備な相手を文字通り倒すことくらいはできる。
「ぐうっ!」

 掌打の衝撃に堪えきれず仰向けに転がるイツキ。

 床に背中を打ち付けながらもすぐに体を起こして体勢を立て直そうとした彼が次に目にしたのは、落下して
きた竹刀を掴みその切っ先をイツキの首筋に添えるように当てたハロルドの姿だった。

「それまでっ!」

 決着を告げる審判のコールが道場に響く。

 それを境に道場は静けさを取り戻す。聞こえるのはハロルドとイツキが呼吸を繰り返す音だけ。

 見上げる者と、見下ろす者。

 対称的で分かりやすい構図に、未だ険しい表情を崩さないハロルドの顔を見ながらイツキは自身の敗北を受
け入れた。

 負けるのはやはり悔しい。勝負が始まる前は3つも年下の少年に負けるとは思っていなかっただけにその悔
しさはひとしおだ。

 だがそれとは別に今まで得られなかった充実感にも満たされていた。ずっと望んでいたものを手に入れたよ
うな、そんな浮わついたような気持ちである。

(これが互いに切磋琢磨できるライバル、というものなのかな。負けはしたけど悪くない気分だ)

 悪くないどころかむしろ清々しささえ感じていた。

「ああ、疲れたな。手を貸してくれないかい?」

「立てなくなるほど痛め付けた覚えはない。温室育ちで体力が足りてないだけだろう」

 口では悪く言いながら手を差し伸べてくるハロルドにイツキは笑みを返す。
「1から鍛え直すとするよ。だからまた再戦しよう」

「ふん、貴様にはもう2度と負けない。この借りは必ず返してやる」

「それはどういう……」

 まるでイツキが勝ったような口振りのハロルド。イツキがその意味が理解できないでいると、ハロルドは
「バカが」と漏らしながら不機嫌そうに答える。

「貴様が勝負のルールさえ満足に把握できない鳥頭だったとはな。事前に“武器は竹刀”と明言してあっただ
ろうが。最後に貴様を叩きのめした掌打が竹刀による攻撃だとでも?」

「……」

 ハロルドの弁にイツキだけでなく試合を見守っていた全員が言葉を失う。確かにそう言われてしまえばハロ
ルドの反則負けだろう。

 だがあれは追い込まれた状況で咄嗟の対応をしてみせたハロルドが見事だったと言える。少なくともこの場
にいた誰もがそう思ったし、彼が勝利したという事実に異論を挟む者はいなかった。

 ただ1人、勝ったはずのハロルド本人を除いて。

「く、はは……」

 その結果をさも当然のように言い放つハロルドがあまりにも真っ直ぐで、ストイックで、何より純粋に見え
てイツキは思わず笑っていた。

 それによりハロルドの不機嫌さがより一層増した。

「何がおかしい?」

「いや、君は強いなと思っただけさ」
「嫌味か貴様。その舌を引きちぎるぞ」

「怖いことを言わないでくれよ」

 こんな些細なやり取りさえイツキは楽しくてしょうがない。

 ふと視線を感じた方へ顔を向ければ恨めしそうな表情をした妹が目に入った。それが何を意味するかは考え
る必要もない。

(やれやれ、立場が入れ替わってしまったな。ハロルド君には人を引き付ける魅力があるのかもしれない)

 妹を取られることに嫉妬していた自分が、気が付けば妹から嫉妬されている。そんなおかしな状況にイツキ
はますます笑いそうになった。

 さすがにそれをするとハロルドが本格的に怒り出しそうなのでなんとか堪えたが、頭の片隅ではこんなこと
を考えていた。

(ハロルド君がライバルで義弟、か……そんな将来もいいかもしれないな)

イツキ戦は前後編で分けようと思っていましたが、ちょうどいい区切りができなかったので1話で収めました。

なので少し間隔が開いてしまったわけですが、その分いつもよりは若干長いので勘弁して下さい。

というか戦闘描写が下手すぎてヤバい。

それからなろうコンの方ですが1次選考を突破しました。

大賞を狙うくらいの意気込みでこれからも頑張っていこうと思います。

まあそれで投稿が早くなるわけではないですが。

21話

 試合前には敵意を剥き出しにしていた相手がそんなことを考えているとは夢にも思わず、それでもイツキの
雰囲気が変わったことだけは察してその豹変をハロルドは訝しむ。

 まあ自分が勝ったと知って上機嫌にでもなったのかもしれない、と見当外れな結論を出した。

(というか負けたけど。何が“負ける気はしない”だよ)

 しかも子ども相手に反則負けである。普通に負ける以上に情けなかった。

 もしやこの高性能な体はフラグ回収能力にも長けているのではないだろうか。

 頭を過ったそんな最悪の予想を払拭するように2、3度首を振り、沈みかけた気分を持ち直そうと新鮮な空
気を求めて道場の外へ足を向ける。

 入ってきた正面玄関ではなく更衣室の横にある道場の裏手へと繋がる通用口を通って青空の下に出た。

 汗をかいた体に心地よい風を浴びながら綺麗に敷き詰められた白い石畳の上を裸足のまま進む。

 小高い丘の上に門戸を構える道場からの眺めはスメラギの街を一望できた。

 崖下に広がるのは古き日本に酷似した町並み。建ち並ぶのは木造建築ばかりで空を遮るような高いビルも無
い。そこかしこに自然が溢れて、それらを彩るように桃色の花弁が揺れている。

 別段馴染みのある風景ではないが、それでも日本人の郷愁をダイレクトに刺激する眺めなのは間違いなかっ
た。

 それがきっかけになったのかもしれない。

 この世界に来て約5ヶ月。心が折れ曲がらないように考えないできた故郷を思い出し、不意に涙腺がゆるん
で視界が滲む。

 まるでそれが決壊の合図だったかのように次々とハロルドの心を感情の波が襲う。

 故郷から遠く離れてしまった孤独感、己を待ち受ける未来への恐怖、常に気を張って保ち続けてきた緊張感、
それでも尽きない不安要素を抱えて積み重なっていく心労。

 いくら好きなゲームとよく似た世界とはいえ楽しむにも限度がある。訳も分からない内に史実通り進めば死
ぬのが確定しているキャラクターとして生きなければならない心的不安というのは並大抵のものではない。

 様々な感情がうねりを上げてハロルドの内側でのたうち回る。それに耐えきれず目からはついに涙がこぼれ、
頬に一筋の跡を作った。
 本当ならばその身に起きた理不尽を嘆きながら声を上げて泣き崩れていたかもしれない。

 だがそうはならず静かに涙を流すだけに留まったのは原作ハロルドのプライドの高さ故だろう。むしろ死ん
でも負けを認めないような人格でありながら泣くような事態に陥っただけ、今のハロルドがそれほどまでに追
い詰められた状況にあるとも言えた。

「……負けてたまるか」

 そうでありながらこんな言葉しか口に出せない。あくまで弱音を良しとせずにここまで意地を貫くのはもう
いっそ見事だなぁ、と冷静さが残る頭の片隅でハロルドはそんなことを考える。

 この鋼鉄のごときメンタルがなければもしかしたらハロルドは既に潰れていたかもしれない。

 などと感傷に浸りながらサクラの花弁が舞うスメラギの街を見渡す。そうしている内に徐々に心も落ち着い
てきた。

 そろそろ道場に戻ろうかと踵を返そうとしたところで声をかけられる。

「ハロルド様」

 その声に胸がドキリと高鳴る。無論色恋沙汰がどうこうという理由からではない。

 全くもって予期していなかった相手からの接触にテンパったせいである。

 錆びたブリキ人形のように振り返った先には紛う事なきエリカの姿があった。

 だがハロルドにはエリカが何を思ってここへ来て、何を考えて声をかけてきたのか見当がつかない。自分は
彼女に完膚なきまでに嫌われているはずなのだから。

 まあ嫌われている、という認識自体が間違っているのだが。なぜ彼女がわざわざハロルドを追ってきたのか
と言えば、イツキに「彼は気落ちしていたようだし慰めてきたらどうだい?」と背を押されたからだ。

 正直なところエリカにはハロルドが気落ちしているようには見えなかった。イツキと言葉を交わす様は飄々
とした印象さえ受けたくらいである。

 ところがイツキがハロルドの心情を察したらしい口振りで語るのがなぜか無性に悔しく感じて、気が付けば
その足はハロルドの元へと向かっていた。

 しかしこれは良く良く考えてみると謝罪するにはうってつけのタイミングでもあった。タスクの意向で誤解
が解けていることは伝えられないが、平手打ちを見舞ったことについてはしっかり謝っておくべきだろう。

 早速ハロルドに歩み寄ろうとしたその時、エリカは見てしまった。

 空を見上げていた両目を右の手のひらで覆い隠し、けれど指の隙間から流れ出てハロルドの頬を伝う一筋の
涙を。

 ビクリとしてエリカの足が固まる。見てはいけないものを見てしまったのだと瞬時に理解した。

 泣いている理由も、涙に込められた意味も、エリカには推し測れない。そんなことができるほどハロルドに
ついて知らないのだから。

 ハロルドが涙するという衝撃的でさえある光景を前にして言葉を失ったエリカへ“負けてたまるか”という
小さな呟きが届く。

 ハロルドは、自分と同い年の少年は、ずっとこうして戦ってきたのだろうか。

 いつも強気で不適な笑みがとても様になっている彼は人知れず涙を流しながら、そんな心中などおくびにも
出さずに大人達と渡り合ってきたのかもしれない。

 ただ強いだけでは足りず、ただ頭が良いだけでは勝ち取れない。逆境をはね除ける不屈の魂がなければ彼の
ようには振る舞えないだろう。

 ああ、父が言っていたことは真実だったのだ、とエリカはこの時に初めて痛感した。

 そして自分が思い違いをしていたことにようやく気が付く。ハロルドはどんな苦境にも挫けずに立ち向かい
軽々乗り越えていける人間なのだと、その自信が普段の傲慢さとして表れているのだと、そう思っていた。

 けれど強さしか持ち合わせていないはずがない。ハロルドも自分と歳の変わらない子どもなのだ。当たり前
のように弱い部分だって持っている。

 彼は周囲にそんな当然のことを気付かせないほどに徹底して傲岸不遜な虚像を演じているだけだ。弱い姿を
晒せる人間が誰もいなかったから、そうせざるを得なかったのだ。

 そんなハロルドの境遇に触れたエリカの胸に去来したのは、自ら進んで孤独になろうとするハロルドを独り
にしたくない、という彼を案じる想いだった。

(……これがお父様の仰っていた“ハロルド様を真に理解できる人間”になりたいという想いなのかもしれま
せんね)
 だとすれば自分がどうしたいかは明白なものになる。もう迷うことはない。

 たとえ今はまだその資格がなくとも、足りないものがあろうとも、いつかきっとその傷付いた背中を支えら
れる人間になってみせる。

 今日はその決意を自分の身に刻み込んだ、始まりの日。そう決めた途端、胸のつかえが取れたような気がし
た。

 だからなんの気負いもなく彼の名を口にできたのだろう。

 声をかけられたハロルドがゆっくりと振り向く。とても胡乱げな目をしていた。

 確かに彼の心境を考えればそんな目つきになるのも納得できる。だがエリカはもうそんな態度に怯むことは
しないと固く誓ったのだ。

「先ほどは素晴らしい立ち合いでした。剣術に疎い私から見てもハロルド様がお強いということが分かりまし
たよ」

「兄妹揃って傷口に塩を塗りにでもきたのか?」

「滅相もありません。試合に負けて勝負に勝った、といったところでしょうか」

「なるほど、ケンカを売りにきたんだな?」

 あの試合はハロルドは反則負けだ。その格言に則るなら試合に負けて勝負にも負けたのである。

 眩しい笑顔との合わせ技で煽られているようにしか思えない。

「くす……申し訳ありません。言葉が過ぎました」

 どうやらエリカにもその自覚はあったらしい。

 しかしそんなことよりもハロルドとしてはこうも自然にエリカが接してくること自体が不可解である。加え
て今のやり取りも彼女らしくない。

「ふん、下らない戯れ言を吐きたいならあの使用人とでも遊んでいろ」
「お待ちください」

 一刻も早くこの場から立ち去りたいハロルドの行く手をエリカが遮った。

 エリカの意図が読めない焦りが苛立ちとなって口調がきつくなる。

「どけ、貴様に付き合う時間はない。あったとしても全て潰す」

「それではハロルド様とまともにお話しができないのですけれど」

「ああ、好都合なことにな」

「残念ですがそういうわけにはいきません。今だけは貴方の時間を私に下さい」

 これまでは花のような淑やかさしかなかったエリカの佇まいから、なぜかこの時は大地に太い根を生やした
巨木のような揺るぎなさを感じた。簡潔に言うとテコでも動きそうにない。

 これが原作キャラのプレッシャーか、と気圧されたハロルドはチッと舌を鳴らし、不機嫌オーラ全開で言葉
を投げかける。

「……用があるならさっさと済ませろ」

「ありがとうございます」

 そう言うとエリカは腰を折って深々とした礼の姿勢をとる。

「先日は申し訳ありませんでした。頭に血がのぼっていたとはいえ暴言を浴びせかけ、のみならず手を上げて
しまったのは誤った行為でした。謝罪させていただきます」

「はっ、わざわざそんなことを言うためにきたのか?ムダなことを」

 言葉はすげないが本心として偽りはない。ハロルドは意図してエリカを怒らせたのだし、あの反応は妥当な
ものだ。

 普通なら改めて謝罪などしようとは思わないだろう。そこをこうして謝りにくるのはエリカだからこそだ。

 その優しさが彼女の美徳であるのは間違いない。大多数の人間にとっては好ましく映るだろう。事実、プレ
イヤー時代のハロルドにとってもそうだった。

 だが今のハロルドにはその過ぎた優しさは猛毒の牙にしか思えない。ひと度噛み付かれれば致命傷になりか
ねない忌々しい存在だ。

 なんとも自分勝手に優しさを振りかざしている。そう思った時には口が開いていた。

「貴様の謝罪に価値はない。むしろあれだけ威勢よく吠えておきながらその舌の根も乾かない内に謝るなんて
本物のバカなのか?大体なぁ、貴様のそういう優しさは善意からくる欺瞞だ。質が悪い上にヘドが出るような
ぬるい馴れ合いに過ぎない。それで貴様が道化として踊るのは勝手だが俺の邪魔をするな。俺の視界には入っ
てくるな。目障りで不快極まりないんだよ」

 原作ハロルドの口の悪さに加え、エリカに対して溜まっていた鬱憤が一気に噴出した。毒を吐いて冷静さを
取り戻す。

 完全に言い過ぎた。しかも少女に八つ当たり。

 先ほどとは違う意味で泣きたくなった。

 謝罪する姿勢のまま暴言を浴びたエリカは微動だにしない。泣かせてしまったか、それとも怒らせてしまっ
たか。

 恐る恐る観察していると、エリカは静かに体を起こす。

 彼女が湛えていたのは涙でも怒りでもなかった。かといって打ちのめされて気落ちしていたわけでもない。

 そこにあったのはハロルドからの暴言全て受け止めた、まるで絵画に描かれた聖母のような穏やかな表情だ
った。

 エリカは自身の謝罪に対してハロルドがこのような態度を示すだろうとあらかじめ覚悟していた。彼が強さ
と厳しさ、そして自分とは違う真の優しさを持っている人間だと知ったから。

 エリカを罵ったあの言葉に嘘は含まれていないのだろう。自分がハロルドにとってマイナスとなる存在なの
は言われるまでもなく承知させられていた。

(私には足りないものが多すぎるのですね。困難な運命に立ち向かう強さも、弱い者を叱咤する優しさも)
 最初から履き違えていたのだ。手を差し伸べるだけが優しさではない。

 見守り、突き放し、何もしない優しさもある。その人のために、その人が成長できるように。

 だがそれを実際に行うためには相手を信じ抜く強さも必要になる。ハロルドを支えることができるのも、き
っとそういう人間だ。

 だからどんなに苛烈でも未熟さを指摘するハロルドの言葉を受け入れ、それを糧に成長することこそが彼を
本当に理解し、支えられる存在となるための第1歩なのだ。

「……ふん」

 興味を失ったようにその場を立ち去るハロルド。

 道場の中に消えていった彼の小さな背中にエリカは言葉を贈る。

「待っていて下さい、とは言いません。ですが必ず貴方に追いついてみせます。絶対に貴方を独りにはさせま
せんから」

 彼女の呟きはサクラの花びらと共に風へ乗り、青い空へと溶けた。

22話

「なあ親父、あとどれくらいで着くんだ?」

 2頭の馬に引かれた大衆馬車に揺られながら目を輝かせた少年が隣にいた自身の父親にそう尋ねる。そわそ
わとして落ち着かない挙動からして目的地への到着が待ちきれない、といった様子だった。

 それに対して少年の父親は気が逸る我が子を抑えるように答える。

「もうすぐだから大人しくしてろ」
「さっきからそればっかりじゃん!もうすぐ、は聞き飽きたっての」

「わたしはライナーの“あとどれくらい?”の方が聞き飽きたけどね」

 父親とは反対側を陣取り体育座りという窮屈な姿勢を余儀なくされている金髪の少女が、さも呆れたように
赤い髪の少年へそんな言葉を向ける。

 二人から諌められる形となった少年、ライナー。しかし彼がこんな状態になっているのには訳があった。

「初めての都会だぜ?ワクワクするだろ?」

 ブローシュという3方を山に囲まれた田舎で育ったライナーは、これまで遠出といっても近隣の村や町に行
く程度だった。

 だが今回は違う。生まれて初めて領外へ出たのだ。

「都会といってもデルフィトだけどね。王都に行くわけでもないのにそんなにはしゃいでたら田舎者だって丸
分かりだよ」

「そりゃブローシュは田舎だし」

「そういう意味じゃなくて……」

 にぎやかなやり取りだがそれを注意する者はいない。元より人がごった返しており、そこかしこで各々が好
き勝手に世間話を繰り広げられているので気に留めるような人間は皆無だ。

 しかしその中の一人、恰幅のよいアゴ髭を蓄えた壮年の男性が今の会話を耳にしてライナーの父親に話しか
けてきた。

「お前さんらはブローシュから来たのか?」

「ええ。ブローシュをご存じで?」

「バラック子爵が治めている領地の端っこにある村だろ?」
「よく知ってますね」

「あの人とは懇意にしてるからな」

 そう言って、男性は空の右手を口の前で自分の方へくいっと傾ける。その動作で彼が言わんとしていること
を理解した。

「お酒の関係ですか」

「おうよ!『ベイルの酒蔵』といやぁ巷じゃそれなりに通った名だぜ」

 ガハハハと男はその風貌に似つかわしい豪快な笑い声を上げる。

 バラック子爵は無類の酒好きとして有名だ。毎晩浴びるように酒を呑んでいるだとか度々町の酒屋で一杯引
っかけている、という噂話は領内に住む者なら誰もが一度は耳にしている。

 彼、ベイルの話を聞けば子爵は今の領地を治める前に彼が酒蔵を経営している街にいたらしい。その時から
ベイルの酒を気に入っていたといい、子爵として独り立ちしてからも定期的に買い付けてくれているそうだ。

 しかし金額がそれなりで安定している取引口とはいえ、バラック領までは決して近いとは言い難い。そこで
今は買い付けに乗じてバラック領内での販路を拡大しようとしている最中なのである。

 ブローシュにはまだ訪れたことはないが村の名前と地理だけは頭に入っていた、というわけだ。

「にしてもブローシュからとなるとずいぶん足を伸ばしたもんだ。デルフィトが目的地か?あんまり子連れの
観光にゃ向かんぞ」

 海洋都市デルフィト。その名の通り海に面して発展した街であり漁業と交易が盛んな都市である。

 海と接する部分の大半は港になっているので船の往来がかなり多く、海水浴を楽しむためのビーチがあるわ
けでもない。少しばかり港から離れて船の通りがない海岸線ならまた話は別だが、その辺りには普通にモンス
ターが出る。

 海洋を巡る客船も出ているがライナー達の装いは3ヶ月以上かかる長い船旅を楽しむものにはみえなかった。
となると魚介の幸を味わうくらいだが。
「観光じゃなくて闘技大会に出るんだぜ!」

 ベイルの疑問にライナーはキッパリとそう言い切った。

 デルフィトは海洋都市――言い方を変えると漁師の街だ。そのため腕っぷし自慢や血気盛んな男が多い。

 その気風に由来してかデルフィトでは古くから年に一度、闘技大会というものが開かれている。

 大漁と海上での安全を祈願する、などといった建前で日頃の鬱憤を晴らすかただ単に暴れたいだけの者が集
まって開催されたのが起源なのだが、この荒々しい催し物はデルフィトの街に住まう人間との相性が抜群によ
かった。

 年を重ねるごとに参加人数は増え、その規模もどんどん拡大されていった。開始から20年も経つ頃には専
用のステージまで用意されるようになり、今ではデルフィトのみならず周囲の街々からも参加者が現れるなど
名物となっている。

 そういえばもうそんな季節になったかとベイルは得心しつつ、息巻くライナーをしげしげも見つめてからこ
んな言葉を口にした。

「闘技大会ねぇ。坊主がか?」

「な、なんだよ?その反応」

「別に坊主を弱いというわけじゃねぇが、デルフィトの闘技大会はかなり本格的だからな。でかい怪我だけは
しねぇようにな」

「大丈夫だって。俺は優勝するからさ!」

「ほぉ、それはまた大きく出たもんだ」

「まあコイツが出場するのは13歳以下の部門ですけどね」

 父親がライナーの頭をガシガシとなで回す。それに「やめろー!」と抗議の声を上げて父親の手を払い除け
ようとする姿は微笑ましくはあっても、闘技大会を勝ち抜けるような強者の風格は感じられなかった。

 などと騒いでいると不意にシャツの裾を引かれてそちらに目をむける。
「なんだ?」

「見えてきたよ、デルフィト」

「え、ほんとにっ!?」

 言うや否やライナーは馬車の窓から顔だけに留まらず体を半分ほど外に出してデルフィトの街を視界に捉え
る。

 天にも届きそうな、といえば大袈裟だろうが、それでもレイツェにはない高い建物がいくつも確認できた。
自分達が通っている街道には沿うように露店が居を構えており、行き交う人々によってその多くが賑わってい
る。

 まだ街へと入る前、それも遠目から眺めているだけでこの活気。あの街へと足を踏み入れたらどれだけ見た
ことも聞いたこともないモノが溢れているのだろうかとライナーの心が踊る。

 その横では澄ました顔をしながらも、何だかんだで気になるのか少女もチラチラと窓の外を気にしていた。

「おー、すっげー!」

「ライナー、騒ぐな!あと危ないから引っ込め!」

「大丈夫だって!うわ、何だあれ?」

 待ちに待ったデルフィトへ到着したことでライナーのテンションは上昇の一途を辿る。結局街へと入り馬車
から降りるまでライナーの興奮は続いた。

 そしていざデルフィトの地に自らの足で立つとそのボルテージは最高潮に達する。

「人が多い!建物がデカイ!鉄の船がある!」

「それは船の銅像だ!」
 とりあえず見たままを叫ぶライナー。中央広場の噴水、その中心に鎮座する巨大な船のモニュメントにすら
興奮を隠せない。

 そんな少年を街の人間はクスクスと、微笑ましいものを見るように笑う。ライナーはそんな周囲の状況に気
付かないほど舞い上がっているが、一緒にいる二人としてはなかなかに恥ずかしい。

「ちょっとライナー、興奮しすぎだよ!早く出場登録に行かないと」

「そんなのあとあと!オレ海の方まで行ってくる!」

「あ……もうっ!」

 じっとなどしていられないライナーは止める間もなくそう言い残して駆け出していく。

 その後ろ姿はすぐに人混みの中に紛れて見えなくなった。

「ったく、相変わらず落ち着きのねぇ……。俺が出場登録を済ましてくるからアイツを頼む。首根っこを取っ
捕まえたらこの噴水前に集合だ」

「はい、分かりました」

 ここで仕方なく二手に別れる。

 ライナーという少年は放っておくと遊び疲れるまで延々と動き回る。今は海を見るために港の方へ向かった
が、次はどこに行くのか分からない。さっさと追いかけなければ面倒なことになるのは目に見えていた。

 はぁ、とひとつため息をつきながら小走りで人の間を縫うように駆けていく。小柄で俊敏性に長けた子ども
だからこそできる芸当である。

 とはいえライナーと同郷の彼女もこれほどの人波を目にするのは初めてだ。曲がり角から現れた人影と衝突
してしまう。

「きゃあ!」

 ドン、という衝撃を受けて思わず尻餅をつく。相手は歩いていたようなので幸いにも怪我をするようなこと
はなかった。
 しかしそれは自分自身の話である。ぶつかってしまった相手の無事を確認しようと起き上がる。

「ご、ごめんなさい!大丈夫ですかっ?」

「ええ、平気です」

 涼やかなその声は賑やかな雑踏の中にありながら掻き消されることなく少女の耳に届いた。

 それだけでも人の気を引き付ける代物ではあったが、次に声の主である自分とそう年の変わらない少女の姿
を目の当たりにして息を飲む。

(か、可愛い……!)

 なんの捻りもない、しかし何よりも率直な感想だった。

 肩よりやや伸ばした位置で切り揃えられた艶やかな黒髪。陶器のように白く透き通った肌。髪と同色のオリ
エンタルな魅力を漂わせる瞳。

 幼さの中に相反する大人びた雰囲気を併せ持った少女は、『美少女』という言葉に体を与えたのだと言われ
れば疑うことなく信じてしまいそうになるほど整った容姿をしていた。

「貴女こそ大丈夫ですか?何やら茫然としていますけど……」

「へ?……あっ、すみません!何でもないです!あの、本当に怪我とかしてませんか?」

 こんな美少女にたとえかすり傷でも付けてしまったらどうしよう。この黒髪少女はそんな畏怖にも近い思い
を抱かせる可憐さをまとっていた。

「そんなに心配なさらないで。彼女が咄嗟に抱えてくれたので転びもしていません」

「彼女?」

 少女に目を奪われていたため気付かなかったが、彼女の背後には栗色の髪と割烹着が特徴的な20代前半の
女性が控えていた。
 付き人だろうか。よく見れば黒髪少女の装いは見たこともない華麗な衣装だ。まず間違いなく貴族の身分だ
ろう。

「そういえば貴女は急いでいたのではないですか?」

「あ、そうだった。でも……」

 気持ちとしてはライナーを追いかけたい。しかしまともな謝罪をしないままに去るのは気が引ける。

 そんな葛藤を察したのか、少女は見る者を安心させるような慈愛の笑みを浮かべた。

「私のことはお気になさらず。むしろ私達の間に出会う縁があったということです」

「出会う縁……」

「これが強い結び付きならばいずれまた出会うことができるでしょう。ですから再会した暁には……そうです
ね、私とお友達になってください」

「お、お友達?」

 微塵も予想だにしていなかった申し出に目が丸くなる。

「嫌ですか?」

「とと、とんでもない!むしろわたしなんかで良いのかなーって……」

「もう一度出会うことがあれば私達の縁は本物だという証なのですからお友達になるのは自然なことでしょ
う?」

「そういうものなの……かな?」
「ええ。なので今貴女の心の中にある想いは再会の時まで取っておいてくださいね?」

「は、はい!」

 正直なところ彼女の言い分はよく理解できなかったが、なぜかすんなりと受け止めることができた。

 それも彼女の持つ魅力によるものなのかもしれない。

「それではまたどこかで。行きましょう、ユノ」

「はい~」

 絶え間なく人が行き交う街の中を黒髪の少女とその付き人らしい女性は悠然とした足取りで去っていった。

 その後我に返りライナーを捕獲し、引きずるようにしながら集合場所の噴水に辿り着いたのは陽も傾き始め
た頃だった。

 普段ならば迷惑をかけられたことに対してライナーに小言のひとつもぶつけるところだが、この日ばかりは
あの不思議な少女との出会いに胸のざわつきを感じていた。

 上手く言葉では説明できないが、まるで運命の歯車が回り出したような、そんな不安とも高揚ともつかない
気持ち。

 そんな風にどこかもやもやしたものを感じながら迎えた翌朝。

 闘技大会の当日ということでいつも元気が有り余っているが、それよりさらに3倍増しでみなぎっているラ
イナーを先頭に会場入りし、そこで昨日とは比較にならない衝撃の出会いを果たすことになる。

 いや、正確に言うならば、それは出会いではなく“再会”だった。

 ライナーを含めて13歳以下の大会参加者が専用ステージ脇の詰め所に集められ、彼らが自分の名前が呼ば
れるのを待っている時のこと。

 大会が始まりライナーの出番を待っていた彼女に目を疑う人物が映った。

 記憶とは違う名で呼ばれた、しかし3年前・・・のあの日から忘れたことのない彼の姿が。
 命の恩人を見間違うわけがない。背は伸び、顔付きは精悍さを増してはいるものの、あの日の面影を色濃く
残している。

 偶然にも彼の視線が少女を捉えた。強い意志を表したような深紅の瞳はあの時の記憶のままだった。

 目が合い、息が詰まる。視線の交錯はほんの一瞬。

 彼の視線が逸らされると肺に溜まっていた空気を思い出したように吐き出す。それと共に金髪の少女――コ
レット・アメレールは再会を果たした少年の名を、噛み締めるように口にした。

「……ハロルド、様」

この22話で一区切り。

言わば第1部完。

まあ第2部もまた来週には投稿するのでだからなんだって話ですが。

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