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特集 圃独立共同体 の夢
﹁蝦夷共和国﹂ の顛末 安部公 房﹃阪本武揚﹄ と独立論 中野和典
﹁蝦夷共和国﹂ の誘惑 根 本 は 蝦 夷 地 に向か ったのか 、 そ の ﹁ 山一
(目主﹂の特定は如しいと こ
ろも あ る が 、 明 治 元 年 二一 月 二 日、箱 館 港 に 入 っ て い た 英 仏 両 艦
川幕 府 海 軍 副 総 裁 榎 本 武 揚 率 い る 縦 隊 が 、江 戸 湾 を 脱 走 し た の 長に 、新 政 府へ の 取 り 次 ぎ を 依 頼 し た ﹁ 根 本 武 揚 等 歎 願 書 ﹂ で は
は 明 治 元 ( 八六八 )年 八 月 一九 日 夜 の こ と で あ った 。 艦 隊 の 編 次 の よ う に 述 べ ら れ ている 。
Jんりょ
成は間防 ・回 天 ・賊 竜 ・千代田形 の軍艦四隻、成 臨 ・長 鯨 ・神 速 ・
J
美 賀 保 の 運 送 船 凹 隻 、計 八 隻 で あ る 。 こ の と き 根 本 は 数 え 年 三三 徳 川脱絡 の 微 臣 、不顧恐催、 慎 悩 悲 駄 の 余 り 、 昧 死 奉 奏 聞 候 、
歳 、目的地は蝦夷地 (
現北海道 )箱 館 。 す で に 彰 義 隊 が 上 野 で 討 抑 、 私 共 一 、 此 地 に 罷 越 候 主旨は 、当 夏 、 主 家 徳 川 の御処


、 歩 兵 奉 行 大 鳥 圭 介 は 東 北 に 敗 走 、新 政
同年A刀 -五日)
滅され ( 之趣奉拝承 、
置 に 付 、家 臣 末 々 迄 、凍 倭 知 県 之 様 司 被 遊 叡 UH
府 軍 の 追 討 に 奥 羽 越 列 藩 同 盟 の 統 一は 乱 れ 、 翌 月 一
一一
一 日には会津 之 御 仁 慈 、凡 有 止 の 類 感 故 不 在 者 知 之 候 得 共 、
皇 帝 陛 下無口百一
務 の 降 伏 が 迫 っ て い る と い う と き で あ った。 仙 台 で 奥 羽 集 結 の 脱 如 何 せ ん 、 徳 川 家 に て は 二百 余 年 養 来 り 候 者 共 、 三十 万 に 余
走 兵 を 加 え 総 勢 二千数百名に達した榎本軍は、 一O月 二O円、噴 り 候 問 、 賜 封 の 七 十 万 石 に て は 雌 養 、去 り と て 柳か 士 道 心 待
火 湾 ・鷲 ノ 木 か ら 蝦 夷 地 に 上 陸 、数 日 の う ち に 五 稜 郭 及 び 箱 館 を 問 候 者 は 、商 売 と 伍 を 為 す 能 は ず 、仮 令 窮 餓 抵 死 候北ハ 、 三 河
占 領 し た 。 土 方 歳 、星 陶 太 郎 ら の 働 き も あ っ て 、 二一 月 一五日 巳 来 の 士 風 を 汚 す 間 敷 と の 決 心 に て 険 難 を 経 、危 急 を 百 し 、

に は 蝦 夷 地 全 島 平 定 の 祝 賀 祭 が 催 さ れ 、 根 本 を 総 裁 と す る共 和 制 東 西 に 遁 逃 致 し 候 者 、 又 は 江 戸 付近の地へ 潜 府 致 し 府 候 者 、
の 仮 政 府 を 樹 立 。 し か し 、 翌 年 三月 二 五 円 に は 宮 古 湾 で 新 政 府 軍 、 終肯不聞
、 右の者共を鋲撫仕
枚挙すべからざる程の儀に 付
艦 隊 と の 初 戦 に 敗 退 、 四 月 九 日 よ り 新 政 府 軍 の蝦 夷 地 上 陸 が 開 始 、 菜 芥 を 開 拓 して 、 永 く 、皇 国 の 為 、無
の蝦夷 地 に 移 住 為 仕
され、五月.八 日 、 ついに鹿本は五稜郭を山山て降伏した 。 戊辰の 益の 人 を 以 て、有 益 の 業 を 為 し め ん と の 微 旨 に て 、其 旨 旧屯
役の終決戦となった箱館戦争である 。 之助より奉歎願候処 、 乍ち 允 准を 蒙 る 能 は ざ る の 詔 を 奉
箱 館 戦 争 と い う 出 来 事 が 人 々 の 関 心 を 集め る 理 由 は い く つも 挙 ぜり 、 然 る に 、 右 は 素 よ り 野 心 等 有 之 候 て 泰 歎 願 候 儀 に て は
げ ら れ る だ ろ う が 、 こ こ で は 特 に 興 味 深 い 三 つの点に注目したい 。 無 之 耳 な ら ず 、前 文 幾 千 万 の 人数 捌 方無 之 に 付 、右の者北ハの
一つめは 、 ﹁蝦実共和国﹂とい う 構 想 の 壮 大 さ で あ る 。 なぜ 、 中 に就き 、十の 二一 を 船 隻 に 釆 せ 、 妄 動 を 禁 じ 、品 川沖 に謹
み置せ 、 夫 よ り 仙 台表 迄著 仕 候 処 、 折 節奥 羽 御 平 定 相 成 候 に 此程 、英 、 仏 両 国 軍 総 、箱 館 へ 入 港 、 船 将へ 会 話 仕 候 処 、 御
、 春 巳 来 同 藩 脱 走 の 者 共 、今 は 天 地 聞 に 身 を 容 る る 地 なき
付 国 地 の 戦 争を 相 歎 き 、 調 停 の 方 便 も 可 有 之 哉 に 申 問 候 問 、 微
、 同 船 為 仕 、 夫 よ り 私 共 行 先 の 情 実 、遂 一四 条 殿 へ 奉 建
に付 臣 等 抑 塞 窮 怖 の 誠 情 、 可達天 聴の 時 至 り 候 哉 と 、 不 堪歓喜の
言 候 通 、 蝦 夷 地へ 渉 り 、 直 寒 風 雪 を 不 厭 、 眼 前 一身 の 凍 緩 を 至 、船 将 へ 相 託 し 、両 国 公 使 へ も 申 入 、前 条間 仕候 、是 即ち

凌ぎ 、従 来 北 門 の 警 護 を 勤 め ん 為 、同 志 の 者 共 、去 る 十 月中 、 一に は 皇 国 の 為 め 、 こ には徳 川 の為め 、所同氏、 の丹 心 石賜、
鷲 木 へ著 船 仕 候 条 、 天神 地 砥 去 し も 偽 無 之 、 其 段 清 水 谷 侍 従 天 日 を も 可貰 候 問 、恋 載 皇 慈 、 偏 に 御 垂 憐 、 願 意 御 間 届 被
へ申 立 、 於 当 地 御 無 沙 汰 相 待 候 心 得 の 処 、著早々 、 賊 徒の 成 下 候 様、 誠 慢 泣 血 歎 願 仕 候 、昧死 百 拝 1
悪 名 を 蒙 り 、 不 意 に 夜 襲 被 致 候 よ り 、 戦 争 と 相 成 候 に て 、私
共 、此 迄 奉 対 朝 廷 、 恐 れ 多 く も サ 兵 を 動 候 事 加 熱 之 候 、然に 、 明 治 元 年 五 月 二四日 、徳 川 の禄高が 七 O万に 制 限 され 、家 臣 の 多
右 夜 裂 を 蒙 り 候 後 、 清 水 谷 侍 従 初 、箱 館 詰 所 役 々 に 至 迄 、 不 くが禄を縦れざるをえない 状況におかれていた 。根本が企図した
残 当 表 引 払 に 相 成 、市 民 の 動 指 不 一方 、殊 に 外 国 互 市 場 も 有 のは、 このよ うな禄にあぶれる家臣たちを蝦夷地 に入植させて農 ・
之 候 故 、 微 同 ら申 合 、 取 締 相 立 、松 前 も 随 て 致 動 揺 候 問 、私 漁 ・林・ 鉱 業 な ど を 輿 し 、 同 時 に ﹁ 北 の 脅 威﹂(
ロシアの南下 )に備
共 来 意 之 趣 、 再 三以 使者 申 遣 し 候 処 、 却 て 使 者 を 殺 害 致 候 事 、 え て 諮 衡 の 任 に つ か せ る と い う 、 いわば 一石 三鳥 の 策 で あ った 。
数 人 に及び 、 其 上 、 彼 よ り 発 砲 攻 撃 に 逢 、 遂 に 松 前 表 を 脱 走 二 つめは 、根 本 軍 が 蝦 夷 地 の 統治 や 新 政 府 軍 と の 戦 闘 に お い て 、
仕 候 問 、 是 亦 土 地 差 配 仕 、当 節 は 箱 館 、松 前 共 一円平定、山辰 ま だ 明 治 新 政 府 が 取 り 入 れ て い な か っ た 西 欧 的な 方法を用いたこ
商 安 業 、 人 心 帰 依 仕 候 に 付 、自 己 に 山 野 開 拓 の 仕 法 取 調べ 、 とである 。
北 門 警 護 の 手 配 仕 罷 在 候 問 、 何卒 旧 主 家 に 永 く 下 賜 候 儀 、 御 榎 本 ら は 箱 館 占 領 後 、共和制 の仮政府を樹立した 。 彼 ら は 徳 川
沙 汰 相 成 候 様 、幾 重 に も 泰 仰 叡 裁 候 、右 に 付 、猶 泰 申 上 候 血統 の 者 を 総 裁 と し て 迎え る こ と を 希 望 して いたが 、 そ れまで の
は、微 臣 等 所 詰 三千 一心 、 矢 て 膝他 候 得 共 、主長無之候て は 、 役員を入れ 札 ( 投一票) によ って 選 出 し た の で あ る 。 こ れ は 士 官 以
手 足 頭H な き が 如 く 、 開 拓 警 護 共 十 分 隊 行 届 候 問 、 徳 川
市川統 上が票を投じたものであると 言 われるが、その結果は、総裁、根
の者 一人 御 選 任 、諸 務 致 差 配 候 様 仕 度 、 左 候 へ ば 、 一一階感 本 武 揚 / 副 総 裁 、 松 平 太 郎 / 海 軍 奉 行 、 荒 井 郁 之 助 / 陸 軍 奉行

、 富 践 の 郷 と な り 、 北 門 の特設 、金 湯
、 不毛の僻地
激 奮 発仕 大 鳥圭 介 / 箱 館 奉 行 、 永 井 玄 蕃 / 松 前 奉 行 、 人 見 勝 太 郎 / 開 拓 奉
の 固 を な し 、 内 地 の 利採 可 興 、 外 冠 の 防 禦 可 厳 実 に 日 今 一大 行 、 様 太 郎 左 衛 門 / 会 計 奉 行 、 榎 本 対 馬 ・川村禄 四 郎 / 箱 館 奉行
事 急 務 と 奉 存 候 、当 春 己 来 、不幸にして 、皇 国内 、 戦 争 相続、 並 、 中 島 三 郎 助 / 江 差 奉行 、 松 岡 四 郎 次 郎 / 陸 軍 奉 行 並 箱 館 市 中
万 民 の 塗 炭 不 忍 見 聞 而 巳 な ら ず 、勝 敗 の 際 、 一喜 ご川
家有之候 取 締 裁 判 局 頭 取 、 土 方 歳 三と い う も の で あ っ た 。 総 裁 以 下 こ の よ
ー 引川は加茂儀.編 ﹁ 資料 と も 、 所 諸 兄 弟 閲 培 、 単党 皇 同の 衰 弊 、 他 人 の笑を 不免 段 う な 役 職 を 設 け た ことは、 根 本 た ち が 単 な る 軍 隊 で は な く な っ た
阪本武似﹄ 九 六 九 年 八 月 新
(4
は 、 一同心得罷在候問、元より戦争は不相好候へども、 著 岸 こと を 意 味 し て い た 。 なぜ 、 根 本 は 役 員 の 選 出 に入れ 札 ( 投川ぷ)
人物。来村 ) による 。訓山⋮は行
以来 度 々 奮 戦 仕 候 儀 、事 実 巳 を 得 ざ るの 事 情 、泰 葉 天 鑑 候 、 と い う 方 法 を 収 っ た の か 。 旧中彰は、 (ご オ ラ ン ダ 留 学 に よ っ

7
略した

3
2 川中杉﹁壮大な る幻 彩 蝦 て、根 本 が 欧 米 に お け る 選 挙 に つ い て の 知 識 を 持 っていたであろ 問、助 命の 沙汰あらん ことを 。若し 快 複す る に 至 らば 、如何

8
3
央共和川 のい
山川﹂ ︹﹃
実 桜本武似﹄
、 、 なる厳 刑 に処せらる、とも 、決して恨みなけん 、怯 情 、生を
(・
九八 一
二年九川川文相)所
収︺ 。 うこと (二) この政権は 徳 川氏 の自を ひ く 人 物 を 総 裁 に 迎え
3 引 川 は ﹃古川松凌芸翁怪談 ・ るまでの制定的処置であ ったこと 、 ( )榎本軍が 旧幕箪はじめ 、 憎む者に は 非ざる な り 。 拙者等は 、此 事 を 乞 は んが為めに 、
刈 館 戦 争 資 料﹄ 九一一年間 二

佐幕諸藩その 他の いわば寄せ集めの迎合軍であ ったため 、 その支
e
賞 隊 の 入 来 を 待 つ 者 な り ﹂ と 。 応 接 中 、 門 外 よ り入来りて
(
え叫刈、﹂
l JH1u IU d'LFぃIHUa--'b企U41J
ノfHVl '〆Jォ,

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}F MF 員
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K京大 学 山版会 ) によ る。 川泌 配の正 当化 の た め に は 、 投 票に よ る首脳部の選出が有効であった ﹁切れ 、撃て ﹂と 大 声 す る 者 あ り 。 是 久 留 米 勢 な り と 聞 く 。
乍は新山f体に改めた 。
こと 、 (
四) ﹁公議輿論﹂に決するという風潮が 、 ひとつの流れと 雨 時 先 に 来 り し 薩 人 の 中 に て 、之を 制 し て 日 く ﹁ 騒 擾 す る 勿
して存在したこと 、 を 理 由 と し て 指 摘 し て い る 20 れ、此 は是病院なり﹂と 。 久留米人日く﹁病人にして 、如此
新 政 府 軍 と の 戦 闘 の 際 に 榎 本 軍 が 用 い た 西 臥 的 な 方 法とは 、野 是 は 医 師 な り 、 銃剣を
動作する者あらんや﹂と 。能 人 日 く ﹁
戦 病 院 で 敵 味 方 の 区 別な く 治 療 を 行 う 、 いわゆる赤 卜山下精神の実 把 るの士にあらず﹂と 。 此問符の中に 、小 航 を 振 り 、 数 人 を
践である 。 これは傷病者 ・難 航 者 ・捕 虜 ・文 民 の 保 護 を 口 的 と し 今 、申出の義は 、委 細
排 し て 予 の 前 に 来 る 将 あ り 。 円く﹁ 川ハ
て . 八 六 問 年 八 月 に 結 ば れ た ジュネ ー ブ 条 約 (
亦│下 条約 ) の取 承知せ り。病将は必ず助命す可し、斉しく是皐同の臣民なり 。
り決めに則ったもので あ った。 日本がこの条約に 加 入するのは、 況や病者をや 、朝 旨 仁 恕 、 根 り に 殺 裁 の 事 を 禁 ぜ ら る 。安 心
明 治 一九 (一八八六 )年 六 月 の こ と な の で 、 ま さ に 榎 本 軍 の 野 戦 あ れ ﹂ と 。( )高 龍 寺 分 院 は 、 同 日 午 後 に 至 り 、 敵 の 来 襲
病 院 は 新 し い 国 際 条 約 を 先 取したものだ った 。 榎 本 か ら ﹁ 病 院 頭 を受く 。 此地 町
川に 来 り し 兵 は 、 松 前 、津軽等の弱兵にして 、院
取 医 師 取 締 全 権 ﹂ を 委 託 さ れ て い た 高 松 凌雲 は 、新 政 府 軍 が 進 軍 内の意 外 に 静 粛 な る に 疑 惟 の 念 を 起 し 、 突 然 、 乱 入 し て 、 慰
し て き た と き の こ と を 次 の よ う に 振 り 返 っている 。 む可し 、病 院 掛 り木下晦蔵を殺害し 、医 師赤 城 信 一を捕縛せ
り。病者は、 此状 を 見 て 大 い に 驚 き 、 皇 為 す 所 を 知 ら ず 、


日く﹁賊は るや﹂日く﹁居りません﹂と 一 五や 、凶 兵 突如 進 円殺せん に は利器 な し 、口ハ悲哀の戸を発するのみ 。 然 る に 無


み来て 、我食 堂を陥る 一室主関より銃を擬し﹁賊あり賊あり﹂ 情なる拙劣漢は、残酷にも病者十有余名を屠りて後、 火 を
と呼 ぶ是薩滞 也。 予は 此時 、大 喝 一声 ﹁御控へなさい 、はや 放ちて院を焚く 。3
まり給ふな﹂と 叫 び し に 彼 日 ふ ﹁ 其 処 へ 行 き て 宜 し き ゃ ﹂ 日
く﹁宜し﹂と 彼忽 銃を置き抜剣して予の 一身 を 囲 み ﹁ 何衆な 患 者 の 保 護 を 訴える 高 松の 主張が本院で受け入れられる 一方 、分
拙 者等は 、医者にして 、此処 は病院
り や ﹂ と 問 ふ 。 予日く ﹁ 院 で は 患 者 が 殺害 さ れ 病 院 が 焼 き 払 わ れ て い る 。 榎 本 軍 と 新 政 府
なり﹂と 。 彼 等 は 異 口 同 音 に ﹁ 賊 な り /
¥、 賊 の 医 師 なり﹂ 軍との野戦病院の取り扱いの違いによる混 乱が うかがえるだろう 。
と叫 ぶ。蚊 舌 喋 々 た り 。 予日く﹁然り 、されども 拙者等は 、 高松の回想によ れば 、 この病院は明治元年 一O月 に榎本軍が蝦夷
負傷者を治療する者にして 、君等 に敵対する者に非ず 、在院 地 に上陸して 以来 、明治 二年 八 月 下 旬 ま で 敵 味 方 合 わ せ て 約 二二
の忠者は 、皆貴下 等 と 公 戦 し て 負 傷 せ し 者 に し て 、 今 は 病 球 問O名 を 治 療 し て お り 、 この病院の役割が 小 さなものではなか っ
に在り 。起 再 動 作 も 自 由 な ら ず 。 願はくは快復するに至るの たことがわかる 。榎本軍は捕虜に対しても保護策をと っていたが 、
こ の よ う に 赤 十 字 精神 を 採 用 し た 大 き な 理 由 は 、 海 外 の 目 を 意 識 明 治 二年 三 月 の 宮 古 海 戦 に お い て 、榎 本 ら は こ の 甲 鉄 艦 の 奪 取 を
し て い た か ら で あ っ た 。 明 治 元 年 一月 以 来 、英 ・仏・ 闘 ・米 ・普 ・ 計 画 す る が 、失 敗 に 終 わ る 。 天 候 に 恵 ま れ な か っ た 根 本 軍 は 、 箱
伊 の 六 回 は 、 戊 辰 の 役 に 関 し て 局 外 中 立 の 立 場 を 取 って いたが 、 館 に 着 く 前 に 暴 風 間 に 遭 って美 賀 保 と 戚 臨 を 失 い 、 江 差 で は 旗 縦
抜本軍にとってはこの局外中立が守られることが重要であり、そ 開 陽 と 神 速 が 座 礁 、宮 古 海 戦 で 実 際 に 新 政 府 軍 と 交 戦 し た の は 回
のためには新政府軍の交戦団体として認められるだけの信頼を諸 天 だ け と い う 有 様 で あ っ た 。 五 月 七 日 に は 、新 政 府 軍 の 艦 隊 (

外 国 か ら 得 る 必 要 が あ った の で あ る 。 欽 ・存け初防・防存・丁卯の五隻 ) が 粕 館 攻 撃 を 開 始 。 迎 え 撃 った
箱 館 戦 争 に お け る 興 味 深 い 三 つめの点は 、 そ の 勝 敗 の 鍵 と な っ 蛾 竜 が 朝 陽 を 撃 沈 す る が 、 榎 本 軍 は 敗北 を 喫 し た 。 こ れ が ﹁ 日 本
た の が 蒸 気 軍 縦 で あ っ た と い う こ と で あ る 。二 十 代 に 長 崎 海 軍 伝 人 ﹂ ど う し に よ る 最 初 で 最 後 の 蒸 気 軍 艦 の 海 戦 と な った 。
習 所 で 学 び 築 地 軍 艦 操 練 所 で 教 鞭 を 執 っ て い た 根 本 は 、 オランダ こ の よ う に 箱 館 戦 争 に お け る 勝 敗 の 鍵 と な った の は 蒸 気 軍 艦 で
官学からの帰国後まもなく箪艦乗組頭取、続いて淘軍副総裁に任 あ った 。 こ れ ら の 軍 艦 は 榎 本 軍 と 新 政 府 軍 、 そ し て 日 本 と 諸 外 国
命 さ れ て い た 。 明 治 初 年 に お い て は 、蒸 気 軍 艦 が 披 も 強 力 な 兵 器 と の 力 の 均 衡 の 上 に 生 じ た 結 節 点 に 位 置 す る 、箱 館 戦 争 を 象 徴 す
であったことは 言う ま で も な い が 、 根 本 は そ の 操 舵 に か け て は 一 るものだったのである 。
流 で あ っ た 。 八隻の艦隊を率いての江戸湾脱出を決行したのも、 以上、 三 つ の 点 を 見 た 上 で ﹁ 蝦 夷 共 和 国 ﹂ と い う 呼 称 に つ い て
海 戦 の 技 術 に 向 信 が あ って の こ と だ った ろ う 。 中 で も 旗 艦 開 陽 4 考 え た い 。 と い う の も 、 ﹁共和国﹂という 言 葉は 、 鹿 本 ら が 表 明
は、 旧 川u 市 府 が オ ラ ン ダ か ら 購 入 し た も の で 、 当 時 は 日 本 随 一の蒸 し た 文 言 の う ち に は 一度 も 現 わ れ て い な い の で あ る 。 根 本 ら が 柏
4 加茂儀 ﹃桜本武川判別-抗
。 、
日本の限れたる礎 fH ﹄(一九六 気 軍 艦 で あ っ た し か し そ の 開 陽 を も 凌 ぐ 軍 艦 が 品 川 沖 に 碇 泊 館で樹立した仮政府を﹁共和凶﹂と呼んだのは周囲の人間であっ
O年九川小山︿公論付 )によれ し て お り 、根 本 ら は そ れ が 新 政 府 軍 の 手 に 渡 る こ と を 恐 れ て い た 。 た 。 例 え ば 明 治 三 ( 八じ O) 年 に 福 井 藩 の 招 き で 日 本 に 来 たW -
ば木造、同問水U.2ハ0 0トン 、
、 他 六 円。数仙に ア メ リ カ 製 の 叩 鉄 般 ス ト ンウ ォl ル ・ジ ャ ク ソ ン 号 で あ る 。 こ E ・グ リ フ イ ス は ﹃ ミ カ ド ﹄ の 中 で 次 の よ う に 述 べ て い る 。
5
問O OHJ
hM
ついては資料によ ってぷ干の述 の 艦 も 元 々 旧 幕 府 が 購 入 し た も の だ っ た が 、新 政 府 は 幕 府 が 倒 れ
いがある 。
5 加戊印刷- ﹁似 M本武州制 ﹄ (前 て い る こ と を 理 山 に 所 有 権 を 主 張 し て い た 。 アメリカは先に述べ 六隻の官軍側軍艦が、合衆国から着いたばかりのもとアメリ

向け )によれば 、木造鉄術船 、
れ た 局 外 中 立 を 理 由 に 蹴 の 引 き 渡 し を 拒んでいた ( この山米下は﹁中 カ 南 軍 の 甲 鉄 艦 ス ト ー ン ウ ォl ル号の増援を得て 、北に向か っ
州水U- A K八トン、 .PO O
Hヅ刀、山山山川。これも数他に 鉄鑑抑制引件﹂と呼ばれるようになる 六 回 が 戊 辰 の 役 へ の 局外 中 立 た。 陸 上 と 海 上 の 両 方 で 戦 闘 が 行 わ れ た 後 、 反 乱 軍 は 敗 れ た 。
ついては資料によ って行lの述 の 立 場 を と っ た の は 、 こ の 叩 鉄 般 。
)
の よ う な 強 力 な 軍 事 力 が 、交 易 短 命 だ っ た ﹁ 北 海 道 共 和 国 ﹂ は 忘 却 の 中 に 消 え 去 り 、 五月の
いがある
6 W E グリフィス ﹁ ミカ 上 の 権 益 を 損 な う よ う な 使 わ れ 方 ( 開港場封鎖など )を さ れ る こ と 末には戦争はもう過去のものとなっていた 傍点引川者 )
06 (
ド││川本の内なる h﹄ H は以組
を 避 け る た め で あ っ た 。 し か し 、 岩 倉 具 視 ら に よ る 再 三 の要請を
﹃ミカド││制度と人 ﹄ (寸 志
EFRDH225ssthusg ) 受 け 、 明 治 元 年 二一 月 二 八 日 、 六 回 公 使 は 川 外 巾立 の 撤 廃 を 宣 言 、 また 、竹 越 与 三郎は ﹃新 日 本 史﹂に お い て 次 の よ う に 述 べ て い る 。
4 ,
。川

'j!t -
iH
lパけlま
、- - Jf 翌 年 二月 三 日 、 巾 鉄 慨 が 新 政 府 軍 の 手 に 渡 る こ と が 決 ま った 。 こ
hu作品久
介訳 ド
日九九五年 ハ Lバ れ淡いけ
のとき、榎本軍と新政府軍の海軍力の差は決定的なものとなった 。 久 し く 和 前 に 留 学 し て 海 軍 の 作 戦 に 習 ひ 、帰 来 幕 府 の 海 軍 副
(4
山)による 。

9
3
7 竹越トハ J t郎 ﹃ 新日本 ﹄は 、

0
総 裁 た り し 榎 本 鎌 次 郎 、 及 び 松 平 太 郎 、 荒 井 郁 之 助等 当 時 村 禄 に あ ぶ れ た 徳 川家 臣 た ち を 蝦 夷 地 に 入 植 さ せ 特 設 さ せ る と いう

4
卜巻が 、 八九 年仁川 人
山、民友
英 比 な き 幕 府 の 軍 艦 開 陽 、 同 天 、 崎 竜 、 神 述 、 千 代田形、 長 構 想 は 、 明 治 元 年 八 月 の ﹁ 徽 文﹂ 、 ﹁徳 川 家 町 大 挙 行 文 ﹂ 以 米 く り
φ
社川 中巻は 、 八九.力八川、
同じく ぶ MH 刊ド巻は 八 ん わさ 崎 、 長 鯨 、大 江 、 鳳 凪 の 九 艦 に 釆 じ て 脱 走 し 北 海 道 に 定 り 、 か え し 表 明 さ れ て い た こ と であ るが 、 抜 本 は あ か ら さ ま に 天 皇 が
れず 卜 本
バ山正引 川は ﹃
い 明治文ザ Al
集﹄第じじを ( 九 ハ t江 年九川 先 き に 陸 路 、 常 野 、奥 羽 の川を 転 戦 せ る 大 烏七 介 、 土万歳 、 ﹂ を氷山定 した こ と は な い 。 ﹁倣文﹂のいいけき 山 しで
統 治 す る ﹁虫 同


筑欣 れH凶 )による 川淡・子は
M
人見勝太郎 ( 怯a)等 と 相 合 し て 函 館 を 奪 ひ 、 近 傍 を 略 し 、 も 上 政 日新は 阜 凶の 幸 福 、 我 輩 も 亦 希 望 す る 所 な り ﹀と 述 べ て
'rkp--ルvhh
- F
早川'
{lua1ソ人﹄

︿、 た だ ︿強 滞 の 私 立 に 山 で 、 真 正 の 王 政 に 非 ず ﹀ と い う 点 を
8 川小杉﹁壮大なる幻彩鉱 北 海道 に 共 和 阿 を 主 つ る と 称 し て 大 統 領 を 立 て 、 海 陸 軍 卿 を おり
央共和川のド収支﹂ ( 前仰い 一u) 定め、 HE 竿 の 旗 を 翻 し 、 政 府 を 立 つ る を 各 同 公 使 に 向 っ て宣 非 雌 し て い る に 過 ぎ な い 。 し か し 、 根 本 た ち は 投 票 によ って選出
9 新館戦争の記述に関しては、
先に後げているもの以外に 、徳 布 す 。7 (傍点 引川名 ) し た 総 裁 以 下 の 役 職 を 設 け 、あ き ら か に 単 な る 軍 隊 と は い え な い
町初 一郎 ( 孔
廊崎) ﹃ 近川刊日本国 体 制 を 敷 い た 。 榎 本 が い く ら ﹁ 皇 国﹂ を 称揚しようと、 新 政 府 軍
民中人柄飢戦争続﹄( 九・ハ一年
九川 時事通信 H U、 m
) 行ハギ ﹃ このように 、周 囲 の 人 聞 が 根 本 ら の 仮 政 府 を ﹁ 共和国﹂と呼ぶのは と 交 戦 し た 旧幕 軍 の 兵 上 た ち と 合 流 し て 柏 館 を 占 領 し 、蝦夷地の
訂 明治 維新の 同際的環境 ﹄ どうし てなのか 。 田中彰はこ の点について鋭い 指 摘 を 行 っている 。 徳 川 家 へ の 下 賜 と 徳 川血 統 の お を 統 治 者 と し て 迎 え る こ と を 願 い
(﹂九六六年 川 J川H 弘文節)

大山柏 ﹃戊反役戦山人 ﹄ ト巻 出 るなど 、 ﹁阜同﹂を否定しているに等しい 。 半 実 、 抜 本 ら は 新
( 九六八作 川叫が泌七社) 、
ただそれは 、 蝦 H
夷 共 和 国 H と よ ば れ る こ と に よ って 、 や 政府の交戦同体に認められないまでも、明治元年 一 一 月 、和 館 を
仲片山 弥太 郎 ﹁ 仮本武似 ﹄( 九
七. h年間川 新人物作米 社)を が て 現 実 に 確立 し た 近 代 天 皇 制 に 刈 位 さ れ 、 対 置 さ れ る こ と 訪れ た英仏両縦長から、﹁下実上の政権 ( ﹂であること
ampQO)
L
- に参附した
一 に よ っ て ﹁ 内 団 組 民 地 ﹂ 化 さ れ た 北 海 道の ひ そ や か な 白 己 主 は 承 認 さ れ た の で あ る 90
張 が そ こ に こ め ら れ て い た 、 と み る こ と が で き よ う。 こ のよう に 、 複 本 の 発 し た 戸 明 と 取 った 行 動 と の 聞 に は 空 白 が
その意味では、 蝦
H
夷共和問 H
論 は同じように 独
H
立 μ
論 ある 。 そ の査内 が 箱 館 戦 争 と い う 出 来事につ い て の 、 榎 本 の ﹁ 真
や 共
H
和国 H
論 を も った 琉 球 H沖 縄 と 重 な り 合 う と こ ろ が あ 意 ﹂ に つ い て の 、 多 様 な意 味 づ け を 誘う の で あ る 。
る。(時)そ れ は 近 代 天 皇 制 同家 の 周 辺 領 域 に 属 し 、 円 本 資 本

唯一抗の植民 地 化 な い し 内 国 植 民 地 化 さ れ た 地 帯 で あ り 、 軍 事 ﹁
真 意 ﹂ の解釈

E
的 に は 国 防 の 第 一線 の 役 削 を 担 わ さ れ る 、 と い う 意 味 で 共 通
するところがある 。 箱 飢 戦 争 敗 北 の 後 、 佐 木 武 揚 は 明 治 五 (.八じ八 ) 年 刀 ま で
、 経 済 的 、 軍下 的 な 役 割 を 負 わ さ れ ている
そ う し た 政 治的 東京辰ノ口のん年に禁固されたが 、 そ の 後 、 北 海 道 開 拓 使 (.八ヒ
こ と に 対 す る 一極 の シ ニ カ ル な 抵 抗 感 を 泌 め つつ 、 蝦
H
夷共 ・) 、条 約 改 正 取 調
、 海 軍 中 将兼 特 命全 権 公 使 露 国 公 使 ( 八七問 )
和国 H
論 は 明治以降の人びとに、その 大門然とともにロマン 御用掛 八じ九 )、 海 軍 卿 ( 八八 O)、 皇 居 造 営 御 用 掛 副 総 裁

(
のよ う な 形 で 北 海 道 の イ メ ー ジ と し て 語 ら し め た 、とい って 八八 二)、 清 国 特 命 全 権 公 使 (
同)、 逓 信 大 臣 ( 八八五 )、 子 爵

( 、 文 部 大 臣 ( 八八九 )
よいかもしれない 08 授 位 ( 八八七 ) 、 外 務 大 臣 (一八九 )、 農
商 務 大 臣 ( 八九問 ) と 維 新 政 府 の 重 職 を 歴 任 す る 。 こ れ を 非 難
したのは 、榎 本 禁 固 の折、 その 助 命 に 力 添 え し た 福 沢 諭 吉 で あ っ 青雲の志達し得て目出度しと慨も顧みて往事を回想するとき
一市沢は﹁・併我慢の説﹂叩で次のように述べている 。
た。 は情に堪へざるものなきを得ず 当 時 決死の士を糾合して 北海
の 一隅 に 苦 戦 を 戦 ひ 北 風 競 は ず し て 遂 に 降 参 し た る は是非な
又 勝 氏 と 同 時 に 榎 本 武 揚 な る 人 あ り 是 亦 序 な が ら - 口せざ き次第なれども脱走の諸士は最初より氏を首領として之を怖


るを得ず 此 人 は 幕 府 の 末 年 に 勝 氏 と 意 見 を 興 に し 飽 く ま で も み氏の為めに苦戦し氏の為めに戦死したるに首領にして降参
徳 川 の政 '刑を'紘持せんとして力を尽し政府の軍服数隻を率ゐ とあれば仮令ひ同意ある者あるも不同意の者は恰も見捨てら
て桁館に脱走し西軍に抗して官戦したれども遂に窮して降参 れたる姿にして其落胆失望は云ふまでもなく況して既に戦死
し た る 者 な り 此 時 に 当 り 徳 川 政 府 は 伏 見 の 一敗 復 た 戦 ふ の 立 したる者に於てをや死者若し霊あらば必ず地下に大不平を鳴
な く は ハ 管 哀 を 乞 ふ の み に し て 人 心 既 に 瓦 解 し 其 勝算 な き は 回 らす ことな らん (
略)凡 そ 何 事 に 限 ら ず 大 挙 して 其 首 領 の 地
よ り 明 白 な る 所 な れ ど も 根 本 氏 の 挙 は 所 開 武 士 の 意 気 地即ち 位に在る者は成敗北ハに責に在じて決して之を通る可らず成れ
婿 我 慢 に し て 其 方 寸 の 中 に は 窃 に 必敗 を 則 し な が ら も 武 士 道 ば其栄誉を専らにし敗すれば其苦難に当るとの主義を明にす
の為に敢て 一戦 を 試 み た る こと な れ ば 幕 臣 又 諸 藩 土 中 の 佐 幕 るは士流社会の風教上に大 切なることなる可し即ち是れ我が
党は氏を総督として之に随従し都て其命令に従て進退を共に 輩 が 榎 本 氏 の 出 処 に 就 き 所 望の 一点 に し て 独 り 氏 の 一身 の 為
し 北 海 の 水 戦 箱 館 の 能 城 そ の 決 死 苦 戦 の 忠勇 は 天 晴 の 振 舞 に めのみにあらず国家百年の謀に於て士風消長の為めに軽々看
して日本魂の風教上より論じて之を勝氏の始末に比すれば年 過す可らざる所のものなり。
を問うして語る可からず然るに脱走の兵常に利あ らずして勢
漸 く 迫 り 又 如 何 と も す 可 か ら ざ る に 至 り て 総 督 を 始 め 一部 分 福沢は 別の 箇 所 で 日 本 の よ う な 小 国 が 大 国 か ら 自 立 し て 国 を 維 持
の人々は最早これまでなりと覚悟を改めて敵の 軍門に降り捕 す る た め に は 、 弱い立場にあってもそこに留まる気骨、﹁情我慢﹂
はれて東京に護送せられたるこそ運の拙きものなれども成敗 が 必 要 だ と 述べ ている 。 そ の よ う な 視 点 か ら 見 る と 、 か つ て 維 新
問 術以諭上什﹁山刑政肢の説﹂は は兵家の常にして回より谷む可きにあらず新政府に於ても其 政府に反旗を翻し、従った者たちを死に追いやっておきながら、
明 治 . 問 ( 八九 )44 川 罪 を 悪 ん で 其 人 を 悪 ま ず 死 一等 を 減 じ て 之 を 放 免 し た る は 文 そ の 後 、 大 臣 に ま で な っ て い る 榎 本 は 無 責 任 な の で あ り 、 それは
一仁川に脱一仰 の後、数日辿の写本
を作り、勝海山川 ・制限本武川畑 ・木 明の寛典と 云ふ 可 し 氏 の 挙 動 も 政 府 の 処 分 も 共 に 天下の 一美 ﹁婿z 我 慢 ﹂ を 旨 と す る ﹁ 士 風 ﹂ を 損 う も の だ と い う 。 福 沢 は 、 勝
村 芥 舟 ・浜 本 鋤 宗 ・徳 川 航 倫 等 談に し て 間 然 す 可 ら ず と 雌 も 氏 が 放 免 の 後 に 更 に 青 雲 の 志 を 海 舟 も 同 じ く ﹁ 土 風 ﹂ を 傷 つ け た 者 と し て 糾 弾 し て い る が 、こ の
に示した外郊にもしめさなか っ
たものであるが、川本本等の千か 起 し 新 政 附の朝に 立つの 一段 に 至 り で は 我 輩 の 感 服 す る こ と
J よ う な 非 難 に 対 し て 勝 は ︿行 蔵 は 我 に 存 す 段 替 は 他 人 の 主 張 我
ら洩れ 別 ,市 一 じ 年 頃 に ﹁奥羽H 能は ざ る 所 の も の な り (
略)根 本 氏 の て身は 此 普 通 の 例 を 以 に与らず我に関せずと存候各人え御示御座候とも毛頭川共存無之
H新 聞﹂に仰向載。 そ の 後 、 明 治
一四年一 川 .Hと 一 日 に 掲 載。 て 礎 ふ 可 ら ざ る の 事 故 あ る が 如 し 即 ち 共 事 故 と は 日本武士の 候 ﹀ と 述 べ た だ け で あ り 、 根 本 も ︿ 昨 今 別而多 忙 に 付 い つ れ 其
引 川 は ﹃制 沢 諭 庁 全 集 ﹄ ( 一九 人情是 れ な り 氏 は 新 政 府 に 出 身 し て 背 に 口 を 糊 す る の み な ら 中間以見可申述候 ﹀と 応えたのみで、その後、公には反論していない 。
t 年 一 川 川M
- -ハ KMA) による 。
川 泌 字 は 新巾 j体 に改めた 。 ず累選立身して特派公使に任ぜられ又遂に大臣にまで昇進し 福 沢 の ﹁ 病 我 慢 の 説 ﹂ か ら 約 七 O年 の 後 、花 田 清 輝 は 勝 海 舟 と

1
4
稲 沢 を 批 判 した 。 花田は ﹁﹃

2
日 花川出 腕﹁ ﹃慨慨談 ﹂ の流 根本武揚を擁護し、逆に 一 糠 慨 談﹄ る身の処し方であるように見えるかもしれないが 、外国から侵略

4

行﹂は 九六 O年同 川 、 ﹁中央


流行﹂1 において次のように述べている 。 される危険性をも顧みず幕藩制に固執しているのだとすれば、政
公論﹂に初 山。引川は ﹃ 花山内川
腕︿十集﹄第九巻 (↑九じ八年間 治 家 と し て は 無 責 任 で あ る と 言 える 。 勝 や 榎 本 の 維 新 政 府 へ の 仕
月 講談れ ) による 。
ロ 花川市 開 ﹁ ﹁
慨慨談 ﹄ の流 根 本 軍 の内外に む か つ て 宣 言 した 、官 軍 な ど と は 比 較 に な ら 官 は、ただ 栄達し た と い う の で は な く 、 政治家としての 責 任 を 負
行 品
﹂ (川 川) なら ない、 進 歩 的 な 民 主 制 、戦 時 国 際 法 の 尊 重 、 と り わ け 赤 い続けたということでもあるのだ 。 政治的 責任を考えれば、勝と


十 字 条 約 の 精 神 に も と つ い て 、敵 、 味 方 の 区 別 な く 、負 傷 者 根 本 を ﹁ 婿 我 慢 ﹂ の 足 ら ぬ 変節 漢 と し て 糾 弾 す る 福 沢 の 言 葉には
│ 等 々は、現在 、も っと 十 分 に 評
を収容して 看 護 し た 行 為 │ 説得力が欠ける、というのが花田の主張であった 。
価 さ れ る 必 要 が あ る の で は な か ろ う か と わ た し は お も う。 た ただし、花田は、勝と榎本とを共に擁護しながらも 、両者を微
し か 久 保 栄 の ﹁五 稜 郭 血 書 ﹂ な ど に も 、 デフォ ル メ さ れ た 形 妙に 書 き 分 け て い る 。
で あ る と は い え 、 一応 、 そ れ ら の 事 実 は と り あ げ ら れ て い た
よ う で あ る が││しかし 、 ﹃嬉 我 慢 の 説 ﹂ のば あ い と 同 様 、 勝 淘 舟 の 眼 に は 、徳 川幕 府 は む ろ ん の こ と 、薩 、長 、 土 、肥
作者 が 自 分 を 棚 に あ げ て 、あ ま り に も 転 向 者 と し て の 根 本 武 の よ う な 雄藩 も ま た 、 それ ら が 封 建 国 家 で あ る 以 上 、 ことご
揚 の 弾 劾 に 全 力 を あ げ す ぎ て い る た め 、ど う も わ た し は 、 納 と く 、 滅 亡 す べきもの としてうつ って い た こ と は た し か で あ
得するわけにはいかないのだ 。 ( 略) 政 治 家 の ﹁ 責 任 ﹂ を 論 る。(時) かれに、 最 初か ら 、 崩 壊 に ひ ん し て い る 国 家 を

ずるばあい 、ま ず 、ま っさきに 、 そ の 政 治 的 責 任 を と り あげ いささかでも 支 え る つ も り が あ った か ど う か 、 わたしには、
るのが 、当 然 の 手 つ づ き と い う も の で は な か ろ う か 。 いわん はなはだ、ったがわしい 。 いかにも勝 海舟には、 一見 、 佐 幕 派
や福沢諭吉のように 、 つねに政治的責任をとることを回避し と 反 佐幕 派 と の あ いだに 立っ て、 両 派 の 妥 協 を は か ろ う と し
て き た 人 物 が 、 み ず か ら の 怯 怖 を 恥 じ る ど こ ろ か 、 正し か っ た よ う な と こ ろ が あ っ た よ う に み え る か も し れ な い 。 しかし 、
た にせ よ、ま ち が っていたにせよ 、終 始 一貫 、 政 治 的 責 任を かれの 真 の意図は、両派を た く み に 操 縦することによ って│ │
と って き た 勝 海 舟 や 榎 本 武 揚 の よ う な 人 物 の 行 動 を 、道 徳 的 いわば 、毒 を も って毒 を 制 す る こ と に よ って 、 か れ 自 身 の 手
責任の名において糾弾することは 、本末てんとうもはなはだ し で、 封 建 国 家 に あ ざ や か な 終 止 符 を う つ こ と に あ ったの では
いような気 がわたしにはするのであるが 、如何なもの であろう。 あ る ま い か 。(略)福 沢 諭 吉 の よ う な 日 和 見 主 義 者 が 、 榎 本
武揚のような 険 主 義 者 の軽 挙妄 動 を た し な め る と い う な ら 、


花 田 は 道 徳 的責 任 と 政 治 的責 任 と を 区 別 し て い る 。 勝 海 舟 や 榎 本 一応 、 筋 は と お って い る で あ ろ う 。 し か し 、 福 沢 諭 吉 が

武 揚 が 維 新 政 府 に 仕 官 し た こ と を 、 彼等 が元 幕 臣 で あ ったか らと 勝 海 舟 の 日 和 見 主 義 を 攻撃 するのは 、 わたしには、どうヒ
い って 、 た だ 道 徳 的 な 観 点 か ら 非 期 す べ き で は な い の で は な い か 。 イ キ 眼 で み ても 、か え り み て 他 を い う も の だ と し か お も わ
列 強 諸 国 か ら の外圧を 受 け 、尊 王 論 の機運が 高 ま って も 、 な お 徳 れない 。ロ
川家に 忠 節 を 尽 す と い う よ う な ﹁ 宿 我 慢 ﹂ は 、 道 徳 的 に は 責 任 あ
勝 の ﹁真意﹂ は 、 佐幕 派 諸 藩 と 倒 幕 派 諸 藩 が 共 に 滅 亡 す る よ う 働 っ か い し て い る の じ ゃ な い の か な 。 いやいや 、 そうにちがい
き か け 、 封 建 国家 そ の も の を 終 わ ら せ る こ と に あ った 、 一方 、 佐 ない 。 た し か に 、 浅 井 君 の 見 方 か ら す れ ば 、 ぼ く は 変 節 漢 の
幕 派 兵 士 と と も に 箱 館 を 占 拠 し 、新 政 府 に 反 旗 を 翻 し た 榎 本 の 挙 見 本 の ご と き も の か も し れ ぬ 。 だが 、 単 に 敵 と 内 通 し て い た
動 は 、 状 勢 へ の 配 慮 を 欠 い た 軽 率 な 行 動 で あ り 、 そ の 点 、福 沢 に だけの変節漢にすぎないとしたら、どうしていまさら、こん
谷 め ら れ で も し か た が な い 所 も あ る 、と 花 田 は 言 う 。 花 田 は 榎 本 な こ や し 臭 い 牢 内 で 、 踏 ん だ り 蹴 った り さ れ て い る も の か 。
より は 勝 を 優 れ た 政 治 家 と し て 評 価 し て い た よう で あ る 。 と っく に 自 由 の 身 に な って、 た ん ま り 謝 礼 で大名 暮 し が 出 来
安部公房が 小説﹃榎本武揚﹂を 書 いたのは、花田清輝の﹁ ﹃
憾 て い た は ず 。 僕 が 、 負 け る が 勝 ち の 道 を 選 ん だ の は 、誰 に た
﹂ の流行﹂が発表されてから 、約 五年後 の こ と で あ る 日 安
慨談 のまれたか ら で も ない、 自 分 で そ れ が 正 し い と 判 断 し た か ら
部の 小 説に描かれる榎本武揚の人物像は、 花 田 の と ら え た そ れ と なのだ 。 し か も 、 大 艦 隊 を ひ き い て い た 僕 は 、 そ の 作 戦 を 自
は異なっている 。 小説の中で辰ノ口の 牢 に 入 れ ら れ た 榎 本 は 箱 館 力で 実 現 出 来 る 立 場 に あ った 。 こ の 秘 密 を 知 っていたのは 、
戦 争 を ふ り か え って 次 の よ う に 述 べ る 。 僕 と 大 鳥 君 た ち 数 名 、 そ の ほ か に は 勝 先 生 一人だけだ ったの
さ。 も と も と 僕 は 、誰 に 対 し て も 、 節 を 約 束 し た お ぼ え な ん
僕 が 、 勝 先 生 に 心 服 し た の は 、 世 間 が 勤 王 か 佐幕 か と 騒 い で ぞ
、 一度 も な い の だ か ら 、 変 節 し た く も 、 し ょ う が な い じ ゃ
お る と き に 、 そ の ど ち らで もない 立 場 が あ る こ と を 、誰 よ り ないか 。( 第 三輩 )
も先に見とおし、また 実 行 さ れたからなのだ 。 先生の口ぐせ
は 、 こうだ つた 。 薩 長 が 勝 と う が 、 徳 川 が 勝 と う が 、 問題で 小 説 中 の 榎 本 は 、 花 田 の い う よ う な 軽 挙 妄 動 の 士 で は な い 。 この
はない 。 ど ち ら が 勝 と う と 、 こ の 戦 が 終 わ り 次 第 、藩 と か 殿 榎 本 は 、 佐 幕 派 兵 士 た ち と 立 場を 同 じ く し 、 徳 川家 への忠節を 貫
様 と い う も の が 、 す っか り 日 本 か ら 姿を 消 し て し ま う の さ 。 あるいはそ
くためにではなく、むしろその忠誠心を捨てさせる (
だ か ら 私 は 、 せ い ぜ い 戦 争 を け し か け な が ら 、同時に、 仲 裁 れを捨てようとしない者たちを滅ぼす )ために箱館に向かい、あ
役 を つ と め に ま わ っ て や ろ う と い う わ け だ 。 こいつは面白い、 えて 負 け る 戦 争 を 仕 掛 け た の で あ る 。 上 野 や 奥 羽 の 戦 乱 の 残 党 を
と 僕 も 思 った な 。(略)僕 は こ れ ま で 、 さ ん ざ ん 時 代 が 変 っ 巻 き 込 み 、 八 百 長 戦 争を す る 榎 本 武 揚 像 。 む ろ ん 、 そ れ は た だ 倒
は 安部公 一房一﹁榎本武揚﹄は 、 た こ と を 説 い て き た 。 勤 王 で も 、 佐幕 で も な い 、 第 三 の道を 幕 派 諸 藩 に 与 す る も の で は な く 、 勝 っ た 側 の 藩 も 消 え 去 る ことを
一九六四年 一月I 一九六五 年三 進 ま な け れ ば な ら な い こと を 説 い て き た 。 百 姓 か ら ま き あ げ 見 越 し て の 挙 動 で あ る 。 こ の よ う な 榎 本 像 は 、 花 田 の い う ︿毒を
月、﹁中央公論﹂に初出。加筆 ・
改稿して 一九六五 年七月、 ﹃ 抜 た米で 、侍 を や し な っていれば 、 そ れ で 安 泰 な ど と い う 時 代 も って毒を 制 す る こ と に よ っ て 、 かれ 自 身 の 手 で 、 封 建 国家 に あ
本武錫﹄中央公論社刊。一 九六 は と う に 過 ぎ 去 っ て し ま ったのだ 。 そ ん な 殿 様 連 中 が 幅 を き ざ や か な 終 止 符 を ﹀打 った と い う 勝 海 舟 の 像 に 近 い 。 明 治 二年 五
七年九月には同名 で戯曲化され
ている 。 以下 、 ﹃絞本武揚 ﹂ か か せ て い る 、 封 建 国家 は 、 必 然 骨 肉 相 食 む と い う 弱 点 を 、 西 月 一六日 、 新 政 府 軍 への降伏を前に、 自 刃 し よ う と し た 榎 本 を 大
らの引用は ﹃ 安部公一一房全集﹄第 洋 列 国 に 巧 み に 利 用 され 、 骨 の 髄 ま で し ゃ ぶ り つ く さ れ て し 塚鶴之 丞 が 負 傷 し な が ら 止 め る と い う 騒 動 が あ り 、 そ れ を 箱 館 戦
一八巻 九九九年 三月 新 潮
る。 ま う こ と に な る 。(略) さ っす る に 、 諸 君 も 僕 を 、 変 節 漢 あ 争 の敗 北 に 対 す る 榎 本 の 責 任 感 の 表 れ と す る 見 方 が 一般 的 だ が 、

3
社) によ一
(

4
榎 本 武 揚﹂ では次のように語られている 。

4
それさえ小説 ﹃ 忠誠と独立

4

﹁すると 、 先生は、 本 気 で 腹 を 切 ら れ る つ も り は な か っと 仰 佐 幕 と も 勤皇 と も 異 な る ﹁ 第 三 の 道 ﹂ と は 何 か 。 小 説 中 の 榎 本
るのですか﹂ に と っ て 重 要 だ っ た の は 、諸 外 国 に 抗 す る 力 を も っ 近 代 国 家 を つ
﹁あの部 屋の す ぐ 隣 に は 、 大 塚 君 が ひ か え て い て く れ た 。 気 く る こ と だ ったと 、 と り あ え ず 言 って よ い だ ろ う 。 それは結局、
配 を 聞 き つ け れ ば 、す ぐ に 飛 ん で 止 め に 来 て く れ る だ ろ う 。 勤皇 と 変 わ り が な い よ う に 見 え る か も し れ な い 。 しかし 、 ﹁第 三
それを承 知 の 狂 言だ っ た の さ 。 しかし 、森 田 君 、 いや 、ここ の 道 ﹂ は 、 忠 誠 と い う 点 に お い て 勤皇と も 異 な って いる 。 小 説中
にいるすべての諸君にも 、 ついでに聞いてもらいたいのだが 、 で根本は次のように語る 。
も し あ の と き 、 僕 が あ の 狂 言 を あ え て し な か っ た ら 、は たし
て犠牲をあそこでくいと められ ていただろうか 。 も は や 降 伏 君主のように 、 民 心 に 秩 序 を 与 え る が 、 君 主 で は な く 、 しか
以 外 に な に も な い こ と を 、 万 人 承 知 で い な が ら 、それを 実 際 も君 主 より強いもの 。 私が、 一心 に考えはじめたというのも 、
に口にして 口う勇気を 持ち合わせている者は 、誰 一人いなか っ つ ま り は そ の 君 主 以 上 の も の の 正 体 だ った の さ 。(略) 土 方


た。 つま ら一
一ぬ侍の痩我慢というやっさ 。 ( 第三章) さんの 言、っとお り 、忠 誠 は ど う し て も 一つだけでなければな
らぬ 。 この 共 食 い 状 態 に け り を つ け 、 国論を 一つにまとめて
根 本 が ﹁ 皇 国 ﹂ を 称 揚 す る 文 を 発 し な が ら も 、共 和 制 政 府 を 樹 で く れ る よ う な 、唯 一無 二 の忠誠だ 。 最 近 、 西洋のほうでも、
したということが、榎本の﹁真意﹂についての多様な意 味づけ を 諸 説 紛々 で、あ る 者 は や は り 君 主 だと 言 い、あ る 者 は 国 家 だ
誘 っ て い る こ と を 先 に 述 べ た が 、 小 説 ﹃根本武揚﹂も 新 し い ﹁ 真 と 言 い、また 別 の 者 は 人 間 だ と い う 具合で 、 なかなか決まっ
意 ﹂ の 解 釈 を 示 し て い る 。 す な わ ち 、 縦 隊 を 率 い て の 江 戸湾 脱走 た説はないらしいのさ 。 ( 第二市)
も 、 箱 館 占 領 も 、新 政 府 軍 と の 陸 ・海 戦 も 、 す べ て は 徳 川家への
忠誠心を捨てさせ ( あるいはそれを捨てない名を滅ぼして封建 制 の崩 佐 幕派 は 徳 川 を 、 勤 皇 派は 天皇を 、忠 誠 の 対 象 と す る 。 ど ち ら も
壊 を 促 進 す る た め の 手 段 で し か な か った 、とい う も の で あ る 。 君 主 への忠誠であるという 点では違いはない 。 そして 、君主 への
花 田 は 、 榎 本 に比 べ て 勝 を 優 れ た 政 治 家 と 見 て い た が 、 安 部 は 忠誠は ( 、 絶 対 的 な 価 値 ・目的
何かのた めの方法で あるというよりは )
榎 本 武 揚 ﹄ を 書 いている 。
榎本を勝に劣らぬ政治家として 小 説 ﹁ と 見 な さ れ て い る 。一 方 、 こ こ で 榎 本 が 述 べ て い る の は 、藩 の 派
すなわち 、佐 幕 や 勤 皇 と は 異 な る ﹁ 第 三 の道﹂を 展 望 し て い た 人 閥抗争を鎮め、内戦を終らせるものでさえあれば、忠誠の対象は
物として、である 。 全 く 交 換 可 能 で あ り 、 場 合 に よ っ て は 君 主 でなくてもよい 、と す
る立場で あ る。 つまり 、 ﹁第 三 の立 場﹂ と は 、 忠 誠 を 絶 対 的 な 価
値 ・目 的 と せ ず 、 あ る こ と を 実 現 さ せ る 手 段 と す る も の で あ る 。
榎 本 の﹁ 皇 国 ﹂ へ の 仕 官 は 、 産 業 の 体 制 を 改 革 し 、 強 力 な 国 民 軍
を つ く り 、諸 外 国 か ら の 圧 力 に 屈 し な い 近 代 国 家 を 樹 立 す る た め と き め て お る と で も 一吉う の で あ り ま しょ うか 。 しか しながら 、
に選び取られ た こと であ って、 天皇 への忠誠といった も のと は 別 生 き ておる 以 上は 、畿 を ひ か ぬ わ け に は ま い ら ぬ の で あ り ま
のもので あ った 、と いうわけで あ る。 す。役所だろうと
、 会 社 だ ろ う と 、制度 と 申 す も の が あ る か
このように 小 説 ﹃ 根 本 武 揚 ﹂ は 、近 代 国 家 の 樹 立 を 何よ り 優 先 ぎりは 、 か な ら ず 忠 誠 が 求 め ら れ て お る の で あ り ま して 、 そ
さ せ た 榎 本 像 を 浮 か び 上 が ら せ て い る が 、 そ う し て 築 か れ た ﹁皇 れ を 破 れ ば 、 て き め ん 、 蹴首 は さ け ら れ ぬ の で あ り ま す 。 こ
国 ﹂ が 滅 亡 し た 後 の 語 り 手 を 設 定 す る こ と によ って 、忠 誠 の 問 題 れ が 矛 盾 で な く て、 なにが 矛盾で あ り ま し ょ う 。 ここのとこ
を より 立 体 的 に 提 示 し て い る 。 ﹁皇国﹂が滅亡した後とは 、 敗 戦 ろの理屈が 、 私には 、 さ っ ぱ り と 飲 込 め な い の で あ り ま す 。
大 日 本 帝 国 ﹂ が 崩 壊 し た 後 、す な わ ち 戦 後 と い う 、 現
によ って ﹁ 第 一章 )
(
代 を 含 む 時 間 であ る。 榎 本 に つ い て 語 る の は 、 主 に福 地 仲 六と い 君 主 に せ よ共 同 体 に せ よ 、 何 か に 忠 誠 を 誓 う こ と は 、 何 か に 行 動
う 老 人だ が 、 福 地 は 戦 中 に 憲 兵 と し て そ の 職 務 を 忠 実 に 遂 行 し た の 規 範 を あ ず け る と い う こ と で も あ る 。 福 地 に言 わ せ れ ば 、義 弟
結 果 、 ﹁反軍 思 想 の 文 書
﹂ を 所 持 し て い た 義 弟 を 摘 発 し て 、 獄死 を 獄 死 さ せ た のは 、福 地 が 属 し て い た 強 力 な 思想 統 制 の機構の 判
に至 ら し め た と い う 経 験 を 持 っている 。 戦 後 、福 地 は ﹁ 戦 争 犯 罪 断な の で あ って 、福地の 判 断ではない 。 その よう な 意 味 において 、
人﹂と し て 裁 か れ る こ と も な く 、事 業 の成功から 地 元 の 有 力 者 と 義弟の 摘発は 、福 地 個 人 に 属 す る 行 為 で は な く 、 罪を 問 われるい
目される 一方 、戦 中 、 他 人 に 思 想 転向 を 強 制 し て き た 元 憲 兵 と し われはない 。 ﹁憲兵に思想などない﹂と断ずる補 地 のこのような
て白 眼 視 さ れ て い た 。 その よう な 周 囲 か ら の非難に 納 得できない 主 張は 、 全て を 時 代 や 社 会 制 度 に 還 元 し よ う と す る 極 論 で あ り 、
福 地 は 、次の よう に 反 論 す る 。 説得力を欠く自己弁護に過ぎないように見えるかもしれない 。 す
なわち 、 いくら﹁総力 戦﹂のための強権に覆われていた時代 であっ
一つの時 代 の制 度に 、忠 誠 で あ っ た こ と が 、 な に ゆ え に 谷 め たからとい って、身の 処 し方に 全 く 選 択の 余 地 が な か った のでは
ら れ ね ば な ら ぬ の で あ り ま し ょ う か 。時代 などと申すものは 、 ない 、 現 に 福 地 の義 弟 は 獄 死 し て い る 、 福 地 は あ る 可 能 性 の中で
と に か く ど え らく 大 き く 、 地 球 同 株 、自 分 勝 手 に ど 、
つこう出 憲兵の役割を果たすことを選んだのであり、少なくともそのこと
来るという代物 ではないのでありますから 、ま ず ま ず 、 向うか に つ い て の 責 任 は 負 う べ き で あ る 、と い う 見 方 も あ る だ ろ う 。
ら勝手に 押 しかけて参ぢますのを 、 黙って 迎えるよりしかない 、 福 地 が問題にしているのは 、戦中の国粋主義や全体 主
しか し
のであります。選り好みなどしてはいられないのであります。 義 とい った 、その時代に 一般 的 で あ った 価 値 観 そ の も の で は な く 、
しかるに 、昨 日 を 裏 切 ら ねば 、今 日 に 忠 誠 た り え ず 、今 日 それと個々の人間との関係である 。福 地 は彼を非難する人々の足
に忠誠たらんとすれば、 昨 日を 裏 切 らねばならぬ というのは 、 場を問うている 。
い ったい 、 い か な る 理 屈 に よ る も の な の で あ り ま し ょ う か 。
さ っぱ り 分 か らん のであ り ま す 。 時 代 や、 制 度 を 、自 分 勝 手 ま った く 、割 に 合 い ま せ ん よ 。 時 代 が 変 わ っ て 、 そ れ ま で の
に え ら べ る ほ ど の 者 で な い か ぎ り 、 ひいた畿は 、 ぜ ん ぶ 外 れ 信念を否定するのだって 、 やはり新しい時代の 、同じ 信念じゃ

5
4
あ り ま せんか 。 いつだって 、 正 し い の は 、 そ の時 代 の信念だ 新 し い 時 代 の 尻 馬 に 乗 って、 私 を 非 難 し て お る や か ら と い え

6
川 この問題に川附しては、松岡山

4
新 一 ﹁安部公 一 筋と転向論 二 つ
の﹁桜本武揚﹂﹂ (﹁ 凶 文 字 解 けなんだ 。 時 代 を 信 じ る こと 自 体 が 、 罪 に な る よう な 時 代 で ど も 、榎 本 さ ん の 立 場 か ら す れ ば 、 いずれ 吠 え 面 を か か ざ る
釈と教材の研究﹂ 一九七 二年九 も 来 な い 限 り 、 い く ら 過 去 を 恥 じろと 言 わ れ でも 、 そいつは 、 無 節 操 こそ 、も っと
を 得 な い こ と に な る の で す 。 それで は
月 ) に的械な指摘がある 。 ﹁ こ
こで問題を、転向・非転向の問 無理というものです よ 。 ( 第 一章) も 道 理 に か な った 生 き 方 な の で あ り ま し ょ う か 。 そ ん な は ず
題に山限定して考えるなら、これ はない 。 そ ん な 馬 鹿 な 話 はあ り え ない 。 そ う 思 いながらも 、
ら二 つの作品 ( 引用者、社、小説・

戯曲 ﹁板本武錫﹂ ) から 、 転向 どの よう な 非 雑 で あ れ そ れ が た だ 民 主 主 義 や 平 和 主 義 と い う 戦 私には 、 い ぜ ん 榎 本 さ ん の 論 拠 の隙 を 、 見 つ け 出 せ ず に お る
の合酸 化 正当化という結論を 後に 一般 化 さ れ た 価 値 観 に 従 った も の に 過 ぎ な い の で あ れ ば 、 そ のです。私にはもはや 、何が 何 やら 、さ っぱり分から・なくな っ
あ っさりひきだすことは 、危険
であろう 。 (略 ) 人 間 は 、 いっ れ が 福 地を 納 得 さ せ る こ と は な い 。 そ の よ う な 非 難 に は 自 分 の 足 てしまいました 。 も し も 、 あ な た に 、い く ば く か の 見 解 があ
たい絞本武協のいうように 、 場を 問 う こ と が 欠 け て い る か らで ある 。 ただ 一般 化 された 価 値 観 り ま す な らば 、ね が わ く は 、 ご 教 示 ね が い た い 。 賛 成 、 不 賛
﹁時 代﹂を恨拠としてのみ生き

ているであろうか 。 もし、そう に則 って か つ て 同 じ よ う に 一般 的 だ っ た 価 値 観 に従 った結果の 成にかかわらず、なにか 言 、私のために 、 おめぐみいただ
だとするなら 、すべては 相対的 過 失 を 非 難 す る こ と は 不 毛 で あ る 。 非 難 す る 者 も 受 け る 者 も と も きたいのであります 。 ( 第 二章)
であ って、時代が新しくかわれ

ば 、 それに対応して人間は生き に 時 代 に 責 任 を 還 元 し う る よ う な 場 に 生 じ る 言 葉 が 意 味 あ る 批
ていけばいい 、生きていくこと
判 と な る こ と は な い だ ろ う 。 重 要 な の は 、 一般 化 さ れ た 価 値観と 忠 誠 そ の も の の 価 値 を 否 定 す る 榎 本 の 論 は 、自 分 は 一つの時 代 の
ができる 、ともいえるだろう。
だが 、人間とは、それほと単純 個 々 人 と の 関 係 に ど れ だ け 目 を 向 け て い る か
、個人が時代から 制度 に 忠 実 で あ っ た だ け だ 、と いう福 地 の主 張 を も 否 定 す る も の
な存在ではありえない 。二 つの ﹁ 独 立 ﹂ す る こ と の 困 難 さ を ど れ だ け 自 覚 し ているか 、 と い う こ だ った。 彼の 言 葉 が 、福 地 を 揺 さ ぶ る の は 、 小 説 中 の 榎 本 が 、 明
﹁桜 本 武 揚 ﹂ の明 快 さは 、ま さ
に﹁時代と忠誠をセートにする﹂ と で あ る 。 治初 年 に お い て 佐 幕 で も 勤 皇 で も な い 位 置 に 立 ち 、行 動 し え た 人
という前提から生まれており 、 、 維 っ て 自 分 と 同 じ よ う に 居 場 所 を 失 っ た 徳 川家 物だ ったからで ある 。 そ の 時 代 に 一般 的 で あ っ た 価 値 観 か ら 個 人
福 地 は 新 に よ
この前提を疑えば、転向 ・非転

向の問題は、そこで扱われてい 臣 た ち を 庇 護 し た 人 物 と し て 榎 本 を 慕 い 榎 本 を 正 当 化 す る こ と が ど れ だ け ﹁ 独 立 ﹂ し う る か 、 と い う 点 に お い て 、 この榎本像は
によ って、自 ら を 正 当 化しよ う と し て いた 。 ﹁新資料﹂によ って 、
るほど 明快な論理によ っては処
英雄的であった 。
引されない人間の内的な術みを
ともなうはずであろ、 70 ﹂ 榎 本 が 徳 川家 臣 の庇 護 者 で あ っ た の で は な く 、む し ろ そ れ を 滅 ぼ 、 幕 末 か ら 明 治 、 戦 前 か ら戦 後
こ の よ う に 小 説 ﹃榎本武揚 ﹄ は
そ う と し て い た の だ と い う こ と を 、福 地 自 身 が 発 見 し て ゆ く 形 で と い う 近 代 日 本 に お け る 二 つの大きな 価 値 変 革 期 を 重 ね 合 わ せ る
小説 は 展 開 す る が 、 そ の よ う な 根 本 の ﹁ 真 意 ﹂ を 知 った上で 、 福 ことによ って、読 者 を 困 難 な 聞 い に 向 か わせる 。 それは 、単に 一
地 は次の よう に 述 べ る 。 般 化 された 価 値 に 背 を 向 け た り 、 無 節 操 に 徹 し た り す れ ば 済 む こ
と で は な い だ ろ う 日 忠 誠 や 変 節 と い う と き 、 そ の先 に 何 が 想 定
な ん と い う 、む ご い 仕 打 ち で あ り ま し ょう 。一 度忠誠を誓っ されているのか 。一 般 化 された 何 か に 行 動 の 規 範 を あ ず け る と き 、
た以 上 、 滅 び 去 った 時 代 の罪ま で、永 久 に 背 負 いつづ け ねば 人間は 何 を 得 、失 っ て い る の か 。 戦 後 期 に お い て 、 いか な る象で
カ式ち
ならぬとは 。 時 代 を 疑 、つ しか 、安 全 な 生 き 方 が な い と い う な 独 立 ﹂ し た 個 人 は 生 き 生 き と そ の 像 を 結 び え る の か 。 こ の小 説

ら、 い っそ 時 代 なぞ 、最初か ら 存 在 し な い の が 一等 よ ろし い。 が 提 示 す る 問 い は 、 現在も新しい も の で あ り 続 け ている 。
殺 説 1-04
8.12発行
2002.

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