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9世紀前半のエジプト土地・税制度

加藤 博

当時の復雑な実態を単純化する危険をもっとし

ても,従来との分野の研究において,法制史的
近代エジプトにおいて統一的土地・税制度が 観点からみでさえ,事実関係について混乱がみ
確立したのは. 1
890年代においてであった。そ うけられるからである。また,地方文書等によ
れ以前のエジプト土地・税制度史は,西欧列強 る実証的研究がほとんどなされていない現在,
の圧力によって,それまでのムハン 7 ド・ア Dー 今後期待される実態分析と比較する意味からも,
の全産業に亘る独占体制が崩壊し,自由主義的 乙の際,近代エジプト土地・税制度史を法制史
経済体制が開始される 1
840年代を境として,前 的に整理しておくととは必要であろうと考える
後二つの時期 ζ
l 分けて考察することができる。 からである。 ζ うして,本稿は,近代エジプト
前期は,土地所有形態上および税制上全く異な 土地・税制度史を法制史的観点から整理する ζ

る二つの土地範鴎,すなわち,土地台帳に登録 とを目的としているが,その対象は,主として,
された土地=国家所有地=課税地,つまりハラ 先述した二つの土地範鴎が生じた前期について
(
1)
ージュ地と,土地台帳に登録されなかった土地 であり,後期の考察については後日を期したい。
=私有地=免税地,つまりアブアーディーヤ地 以下,まず,ハラージュ地とアブアーディー
とが生じた時代であり,後期は, ζ の土地区分 ヤ地というこつの土地範鳴が生じた過程を述べ,
にみられる土地所有形態上および税制上の二つ 次いで,乙の二つの土地範鴫では律し切れない
の区別が崩れ,両者の土地範鴎が統一される時 三種類の土地,すなわち, リズカ地,マスムー
代である。 ハ地,そしてアワースィ一地について言及して
(
2)
ととろで,この後期は,アブアーディーヤ地 みたい。
を核として大土地所有が顕在化する時代にあた
l 関する土地・税制度
るため,従来,との時期 ζ (
1)本稿が主 ζ
l依拠した資料は,乙れまでに
史研究は,そのほとんどが,大土地所有制度発 刊行された以下のような法令,法令集である o
生という視角からなされてきた。そして,筆者 a
l-l
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aal
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yaH加 q
q a,
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nal
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もまた,今後進めていとうと考えている近代エ al-mi~riya , C
airo,1274h.; l
a ι
i加ta q
tya
n
ジプト土地・税制度史研究において,その目的 wa lãi~at al-muqabi
Jl, 3
a rded.,
とすると ζ ろは,大土地所有発生の諸契機を探 C
air
o,1
301h
,;A
l-!
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Iukumaa
l-M
i手r
iya,
る乙とにある。しかしながら,乙うした土地集 a
l-qaωe
ini
nal
勺qanyaf
ial
-di
yara
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積現象を考察する前 l
乙近代エジプト土地・税 1ste
~rtya , d
,・ 18
93,2n
d.ed.1
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1,Cair
o;
制度史を法制史的観点から整理しておきたい。 d
o.,
majmu"q
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anin ωa!aω
δi ha-amωa
l l
なぜならば,たとえとうした法制史的整理が, a
l-mu
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909
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ad,qamus
68 加 藤 博

a
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ols, A
le- 地 C
aty
an al-masmu
!:l)。ところで, ジャフ
x
and
ria,1890-1895;d
o., a
l-qamus a
l
- ァーリク地とは,ムハンマド・アリ一一般に
~ãmm l
i al
-id
ara wa a
l-q
aci
a:7
vol
s,A
le- 授与された免税特権地であり,ウフダ地とは,
x
and
ria,1899-1908; Amin Sami,taqwim 徴税請負制度(ウフダ制度)の対象となった
a
l-n
il,6
vol
s,C
air
o,1916-1936,また,法 土地である。また,外国人保有地とは,文字
令を再鈍している;.~本文献として,次の二つ 通り,エジプト国籍をもたない者が保有した
の研究 JJ はiJl:~である o Hunain,a
]. l-a
tya
n 土地で、あった。そして,大土地所有が乙れら
ωa a
l-4
ara
ibf
ial-qu!r al-mí~í, Cairo, 三柿類の土地から生じた乙とは疑いない事実
1904;Y
.Ar
tin, a
l-aμam a
l-m
ar'
iyaJ
i であり,また,乙れらがじに保有者の身分
}a
$
.
l '
nal
-ar
a(Fal-mi~rïya, Cairo,1306h
., ω加点から,他の土地と区別しうるところか
なお,後者はY.A
rt,
in LaP
roρr
iet
eFo
nci
ere
, ら,従来乙うした三つの土地範鴎が別個に設
e
nEgytte,Cairo
,18
83.のアラビア語訳で けられてきたのである。とのように,この三
あるが,本稿では,アラビア語の術語を比較 つの土地範鴎は,大土地所有発生という視角
する必要から,このアラビア語訳を利用した。 から便宜上設けられたものであり,土地所有
(
2)乙れまで,近代エジプ卜土地制度史研究 権上あるいは税制上の観点から,乙れらがりJ
I

において,エジプ卜の土地は,主に大土地所 伽│の法的土地範鴎を形成していた訳ではない。
何発生という仰角から,幾通りにも分煩され すなわち,ジャブァーリク地はアプアーディ
て論じられてきた。例えば, Ahmada
l-I
:
Ii
tt
a, ーヤ地として,ウフダ地はハラージュ地とし
t
ari
, mi
位 $ra
l-i
qti
$ad
z-f
ial
-qa
rna
l-t
aS
2・e て,そして,外国人保有地はそのどちらかの
d立f
za
r,C
air
o,1
958
.では,土地が次の 9つに 土地として分類されていた。そのため,土地
分類されて論及されている。 (
1)ノ、ラージュ地 制度を法制史的に桜理する乙とを目的とする
Ca~yãn a
l-t
aTa
riy
a),(
2
)村長業務遂行の代 本稿においては,とれら三種類の土地は取扱
償としての 7 スムーハ地 C
aty五nmasmui
) わず,後日,土地集積をテー 7 とした論稿に
al-mashaikh),(
3
)伎待世の代的としてのマス おいて, ζ ζ では挙げられていないが,ワク

ムーハ地 C
at五nmasmul
y ) al-ma~tib) , (
4
) フ地をも含めた形で論じてみたい。ちなみに,
ウフダ地 Catyana
l-C
uhd
a), (
5
)アブアー 法律学者による土地制度史研究書である M
.
ディーヤ地 Cat
yana
l-a
b<a
diy
a),(
6
)リズカ .Mursi,a
K l-m
ilk
zyaa
l-'
aq
aゆ af
; imi~ ωo
地 Catyana
l-r
iza
q),(7)ジャファーリク地 t
a!a
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i :
}
imin'
ahdaι
far
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Catyana
l-j
afa1
ik),(
8
)アワースィ一地 (
aty
an μttaal-an,Cairo,1936,では,土地範鳴と
a
l-u
siy
a),(
9
)外国人保有地 C
aty
ana
l-a
j血 i
b)。 して次の 5つが挙げられている。 (
1)リズカ地
また,大土地所有発生を直接のテー?とした C
al-
ara
clia
l-r
izq
a),(
2
)アワースィ一地 (
a卜
RauftAbbas,al
-ni
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mal-ij
tima'
if imi~ a
rad
i al-awas
i, (
) 3
)ウシュル地として知られ
f-?
z il
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kiya
ta l-
zir
a<iy
aa l-
kab
i1匂
, たアブアーディーヤ地 (
al-
aty
anaトa
b'a
diy
a
Cairo,1
973,では,ハラージュ地を除く次の a
l-m
a<r
ufab
i aト'
ush
uyI
),(
4
)7 スムーハ地
5つの土地範鴎が挙げられている。 (
1)アブア Cmasmuh al-mastabawamasmuha
l-m
a-
ーディーヤ地 C
al-
abi
Ud)パ2
)ジャファーリク 国i
E 也
),(
5
)ハラージュ地 (
al-
arl aト出a
c raj
-
地 C
al-
ja伍Iik
), (
3
)アワースィーi
山Ca
l-a
was
i,) i
ya)。
(
4
)ウフダ地 C
aty
ana
l-'
uhd
a),(
5)7スムーハ
1
9世紀前半のエジプト土地・税制度 69

あるいは,.一定期間の免税抽出など,さまざま
I 私有地の発生
な税制上の条件を付けて無償分与していった (
5)

周知の通り,ムハンマド・アリーは政権を悶 ところで,ムハンマド・アリーは,開墾によ
める過松で,それまでの土地・税制度であった る耕作地の増加を計り,よって凶市を橋大さす
イルティザーム制度(徴税請負制度)を廃止し, 目的から, 1820年代以降第二樋の土地の多くを
ムルタズィム(徴税請負人)の f
i
r
i
:理下にあった アリー一族,高級官僚,外国人等ζ l免税地 Caty
an

_
, _._ (6)
すべての土地の凶家返還を命じるとともに,エ ri
zqab
ila mヨ1)として授与していく。 そし
ジプ卜全土の国有化を計った。そして,乙うし て,こうして授与されたアブアーディーヤ地の
た土地凶有化のうえに, 1
813年から製年にかけ うち,巨大な規模のものを,特別にジャファー
てエジプト全土を対象とした検地 Ct
ari
',f
akk
~. (
7) ,
リク地 C
aty
aria
l-j
afa
lik
) と1子んた。 当初こ
al-zimam,a
トml
silりa a
l-'
umu
miy
a)を実施し, の授与地は,免税特権が与えられていたとはい
乙の検地を契機として,土地を次の二種類に区 え,その土地所有権ヒの法的性格は,ハラージ
別した。第一種の土地とは,検地の対象 l
とされ. ュ地と問ーであった。と乙ろが,アリーは,開
土地台帳 C
daf
tara
l-t
ari~ d
aft
ara
l・misaha) 墾政策の実をあげるために,免税地として授与
r
に登封された土地であり, 耕作地 JCal-mam
召r) したアブアーディーヤ地における土地所有権の
から成っていた。(1)ムハンマド・アリーは検地 拡張を認め, 1
836年の勅令によって,この土地
後,乙の極の土地を農民一人あたり 3フェッダ での相続権を 認めた。この勅令によれば,相続
E

ーンから 5フェッダーンの割合で分与した。 (
2) 資格者は白人解放奴隷 C
'at
aqa
')にまで及んで
乙の第一施の土地は,土地説 C
al-
mala
l-m
iri, おり,また,相続 '
f
i絡者がいない似合 l
とは,ア
l也 a
a raj
)の対象となったと乙ろからハラージ ブアーディーヤ地保有者に対して,土地を無償
ュ地 C
al-
aty
五na
l色主a日j
iya
) と呼ばれ,また で,耕作が可能な第三者 l
と譲渡することが認め
(
8)
所有形態上,乙の種の土地の所有権 C
¥:!
aqqaト られている。 従って,すでに乙の段階で,ア
r
aqa
ba)は国家のもとにあり,土地保有者は耕 ブアーディーヤ地は大幅な法的土地所有権を獲
作と納税とを条件!C,それも生涯に限り,そこ 得したのであるが,さらにムハンマド・アリー
アザリ-+

l
;
1
での用益権 Caqqa
l-i
nti
fa'
,haqqa
l-出a
a r
Iya
) , 1
は 842年の勅令によって,乙の土地に対して,
を享受するのみであったところから,アサリー 所有権(りaqqa
l-r
aqa
ba)を含む完全土地所有
ヤ地 C
al-
aty
ana
l-a
tba
dya
)とも呼ばれた。(3) 権(りaqqa
l-m
ilk
iya aI-tammaawa
l-k
ami
-
一方,第二種の土地とは,検地の対象から外さ l
a) を与えた。(9) 乙乙に,税制ならびに土地所
れ,土地台帳に登録されなかった土地であり, 有形態上全く異なる,土地台帳に登録された土
一部耕作地を含んでいたが,ほとんどは開墾の 地=耕作地=凶家所有地=課税地,すなわちハ
必要な荒蕪地であった。乙の穏の土地は,土地 ラージュ地と,土地台帳に登録されていない土
台帳 l
乙笠録されなかった C
ba'
idaawm
ust
ab- 地=荒蕪地=払有地=免税地,すなわちアブア
'
ada minm
isa
hatf
akk al-zimam)ところか ーディーヤ地というこ概類の土地が生じた。そ
ら,アパーイド地,あるいは後数形でアブアー して,乙の二種類の土地を区別するために,前
ディーヤ地 Cat
yana l
-ab
ぎd,a
tya
nal
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l亙d
i- 者が凶務省 C
al-
diw
ana
l-当l
i aw diw
互naト
y
a) と呼ばれた。 (4)ムハンマド・アリーは,こ 出i
diw
) に所属した凶庫 C
bay ) のr
t al-maI t
:
のF
T
Iの土地を開墾希明者に対して,また i定住 f
里下に白かれたのに対し,後者は,同じく凶務
策として遊牧民 f
[対して,賃貸・小1' に出し,
1 省l
乙所属するが年金の支給を主たる業務とした
70 拘日ょ藤 博

Jレーズナーメ局 (
aI-
ruz
nam
eh)の管理下に置か 制上の観点から,ハラージュ地ならびにアブア
(
10
)
れた。 そして,ルーズナーメ局がアプアーデ ーディーヤ地とは区別される三種類の土地につ
ィーヤ地保有者に対して発行した,完全土地所 いて触れておきたい。三種類の土地とは, リズ
有権認可状とも言うべき土地文書(t
aqs
it.p
I. カ地,マスムーハ地,そしてアワースィ一地で
t
aqa
sit
)に基づいて,乙の種の土地は, リズカ ある。乙乙で注意すべきは,ハラージュ地とア
地文書登録簿 (
si
ji
lla
tta
qas
ita
I-r
iza
q)という ブアーディ←ヤ地とがムハンマド・アリーの土
名で知られていた特別な土地登録台帳に登録さ 地政策に起源をもつのに対し,との三種類の土
れた。(
1) 乙うした私有地の創設は,土地国有制
1 地の起源は,オスマン・トルコ時代の土地制度
を原則としたムハンマド・アリーの土地政策の にまで湖れるととである。 (
12
)

変更であり,ここに近代エジプト土地制度史は,
新たな局面をむかえる ζ ととなった。 (
l)a
I-a
tya
n aI-ma'muraとは,本来人聞が
さて. 1
842年以後におけるエジプト土地・税 住んでいる土地,人聞が利用している土地を
制度史は,先述した全く対照的な土地区分が崩 意味するが. 1
9世紀エジプ卜土地制度史にお
れ,両者の土地が 1
890年代に至り統ーされ,土 ける術語としては,耕作地 (
aI-
aty
ana
I-m
a-
地私有制に基づいた,そして近代的検地に裏 z
r五ら).特に土地台帳 ζ
i登録された耕作地,
付けられた,統一的土地・税制度が成立する過 すなわちハラージュ地を指した。 d Ahmad
程である。そして,乙の統一は,一見すると日 J
I aト
早it
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l-mi~riya H '
a
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別に進行したかにみえながら,実際には互いに muhammad '
aia
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bi.C
r a
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.19
50.P
.
関迎し合いながら進行した,次の三つの過程の 5
5.同義語として a
I-a
rda
I-s
awd五
.(e
x.サイ
なかで達成されていった。第一の過れとは,ム ード法第 1
9条)と aI-zimamがあるが,前者が
ハンマド・アリーの土地政策の栂底にあった, 思い土地,すなわち,文字通り耕作地を意味
土地台帳に登録された土地=耕作地 (
aI-
ma'
m- するのに対し,後者は. zimamaI-balad(

u
r).と,土地台帳ζ
l登録されていない土地(aト 落の土地). f
akk aI-zimamC土地を区切ると
a
b'a
diy
a) 荒蕪地との土地区分が,運河その と=検地)等の用語法から分かるように,土
他の潅概設備の拡張に伴って,それまでの荒蕪 地台 1
慢に登録された土地という意味合を強く
地が耕作可能地となっていった乙とから,崩れ もっ単語である。
ていく過程である。第二の過程とは,国家所有 )Y
(
2 .Ar
tin
.a-a f;, kゐ~ a
l l-m
arr
iy.P
a .4
7.
地ハラージュ地と私有地アブアーディーヤ地と ]
.
早un
ain
.al
-at
yanωa a
l-
rj
ar
a:;P
め P
. 113-
いう,土地所有形態上の区別に基づく土地区分 1
14.H
.G.
Lyo
ns. TheC
ada
str
al Suηl
ey
が,前者における土地私有権拡張のため,実質 ρt1892-1907.C
01Egy air
o.1
908
.PP
.68
-
的に無くなっていく過程である。そして,第三 6
9.なお.R
ivl
inは,農民一人あたりに分与
の過程とは,課税地ノ、ラージュ地と免税地アブ された土地面積が 3-5フェッダーンであっ
アーディーヤ地という,税制上の区別に基づく たと指摘しているのは A
rti
n一人であり,そ
土地区分が. 1
854年における後者に対するウシ の他の資料には現われないことから,乙の数
ュルaW税措置,および,その後のウシュル税率 .
fH
字について疑問を呈している。 c .A
.Ri
vli
n.
引き│二げによって.崩れる過程である。ととろ TheA
gri
cul
tur
alP
oli
cy 01MuhammadAl
i
で,乙うした三つの過程についての検討は別稿 ρt
nEgy
i ,HarvardU
niv
.Pr
ess
.19
61.Chap'
に譲り,以下では,土地所有形態上あるいは税 m
.Note34.
1
9世紀前半のエジプト土地・税制度 7
1

土地面積の単位フェッダーンは,平方カサ P.62,なお, a
l-H
itt
aζIよれば,アブアーデ
パ C
qa手a
bam
ura
bba
'a)の数によって表示さ ィーヤ地の無償分与は, 1
842年に廃止された。
れ た 。 そ し て カ サ パ の 長 さ お よ び 1フェ (
6
)Y.A
rti ιmar'iya,P.54,
n,al-a~kãm a に
ッダーンの平方カサパ数は,時代と地域によ よれば,免税アブアーディーヤ地授与の,そ
り変化した。ムハンマド・アリーは検地に先 してとりわけ, 1
842年におけるこの地に対す
立ち 1フェッダーンの平方カサパ数を 3
33Y
a る完全私有権付与の動機は,土地貴族j
gの創
に固定した。一方 1カサパの長さについて 設にあったという。しかしながら,法令のな
は,統一的選準はなかったようであるが,お かでは,常 ζ
l開墾による耕作地の増加が強調
よそ 3.64mであったらしい。 c
f
.H.G
.Lyons されている。乙のため,開墾義務履行後に初
o
t.c
it.,P
P.39-4
,1J 。ρ
.Bunain, .
ci
t.,Pp
. めて t
aqs
itを発行する旨の勅令 0263年 R
aj-
1
09-110,
Y.A
rti
,no
Tc
, i
t.
.PP
.19
2-1
94. ab月 1
7日一 1
846年〉とか,アブアーディー
(
3
)at
harとは, r
足跡を残す乙と」位の意味 ヤ地を自ら耕作せず,賃貸・小作ζ
l 出すこと
をもっアラビア語であるが,エジプ卜土地制 を禁止する勅令 0267年 Dhua
l-q
a'd
a月 1
3
度史における術語としては,オスマン・トル 日一 1
851年
), さらに, t
aqs
it発行の条件を
コ時代以降,ハラージュ税を課された農民保 満していないアブアーディーヤ地にはハラー
有地を意味した。オスマン・トルコ時代にお ジュ税を課す旨の勅令 C1
271年 R勾a
b月2
6日
いて,徴税請負人の管狸下にあったイノレティ -1855年)などが公布されている。 c
f.a
l-q
a
ザーム地は,農民保有地 C
arc
)
. aト filã~a) と ωanin a
l-<
aqa
riy
a,1
ste
d.,f
ihr
istP
P.1
0-
「徴税請負職免税地」とでも言うべきアワー 1
2,H
.A.R
ivl
in,7
為eA
gri
cul
tur
alP
oli
cyo
f
スィ一地とから成っていた。前者は,下エジ MuhammadAl
i.P
P.6
3-6
4
プ卜地方では a
rc
lal-
a!barと呼ばれ,上エジ 免税アブアーディーヤ地授与の最初は,Y.
プト地方では a
rda
l-m
is五haと呼ばれた。そ A
rti
n,o
t,c
i
t.P
.52
.に従えば 1
829年であり,
の理由は,下エジプト地方においては,農民 以後すべての研究書がとれに倣っている。し
保有地が固定されていたのに対し,上エジプ かし, B
ara
kat氏の土地文書研究によると,
卜地方では,ナイノレの氾濫後,毎年土地測量 確認できる最初のアブアーディーヤ地授与は,
(
al-
mis
aha
)がなされていたからであった。 1
242年 JumadaI月 2
3日C1
826年)であると
c
f.'
Abda
l-Rahim,
al-r
ifa
l-m
isr
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l-伊 r
n いう。 c
f./
AliB
ara
kat,ta{awwura
l-m
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iya
al-thãmin(a主主a~ C
air
o,1
974,PP
.68-69, a
l-z
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y imisr1813-1914ωσ a
1l
J
t.
rr
-
7
6-7
8.そして,アサル地保有者 C
sah
iba
l- h
u'a
laa
l
-争a
rak
ata
l-s
iya
s砂,
a Cairo,1977,
a
也ar
) が彼の保有地に対しでもった権利が P
.72
.
l
;
アサリーヤ権 Caq
qal・a
也a行y
a) である。 (
7)ジャファーリク地は,その被授与者がア
1
9世紀の法令のなかでは,乙の権利は用益権, リ一一族に限定されていたとと,また,授与
すなわち haqqa
l-i
nti
fa'awa
l-m
anf
a'aと 地が主に,離村者が放置したため国家 ζ
l回収
同義に使われている。 されたハラージュ地等の耕作地から成ってい
(
4)a
l-q
aωa
nina
l-u
qar
Iya 1s
ted,
.,P
.8. たととのこ点から,他のアブアーディーヤ地
(
5)恥nada
A ト早i t
ta,ta
ri主Ja
! l
-zira
aa l
- と区別しうる土地範曙である。しかし,法的
PP.52-53,57-63,H
mt~rzya, .A.R
ivlin な土地範隠としては,土地台帳 l
乙登録されな
T
heA
gri
cul
tur
alP
oli
cyo
fMuhammadA
li, かった土地として,アブアーディーヤ地に合
72 加藤 偉

まれ,が実, 1
91
11:紀を通じて,税制上および (11)オスマン・トルコ H
年代;における t
aqs
itは

土地所作権上 ω法的倣いは,仙のアブアーデ イルティザーム地授・ 5
.
ω 際,徴税 J
i
,'
負人(ム
ィーヤ地と全く同一であった。 c
f..I
] ;
Iunain
, ルタズィム)に対してルーズナーメ局から発
a
l-a
!ya
nω'
aa l-
rja
rai
b,P .22
2. 行された徴税約負契約文 3であった。ムハン
なお, ja
fal
ik,si
ng.jif
1ikの語源はぺルシャ マド・アリ-/1寺代になり,この用語は,当初
語の j
uft (一対)であり,そ乙から「一対の牛」 免税アブアーディーヤ地を証明する文書を意
(トルコ認では p仇) という怠味が派生した。 味したが,その後乙の種の土地における土地
オスマン・トルコ帝国において 9
if
tl
ikとは, 所有権上の変遷に応じて, 1
836年相続権を獲
j二が一年聞にわたり労働する乙とが必
一対の I 得した際には,免税および相続権の特典を証
~とされる土地 IÍI川i を怠味したが,その後, 明する文書を,次いで 1
842年完全土地所有権
土地のみならず,建物,家畜,道具など投下 を獲得した際には,免税および完全土地所有
資本をも含めた用語となった。すなわち,農 権の特典を証明する文書を意味するようにな
場(
far
m)I
と相当する言葉であるという。 c
f
. った。こうして,従来 t
aqs
itは「完全土地所
H.A
.Rivim,T
1 heAgr
icu
ltura
lPo
lic
y 01 有権認可状」と見倣されているが,アワースィ
Muhammad A
li,PP.66-67. 一地についても乙の文書が発行されており,
(
8
)12
52年 Shawwal月2
7日付勅令。Y.A
rt- 乙の羽合, t
aqs
itは税制仁の特典のみを証明
i
n,al-a~kãm a
l-m
arr
iya
,PP
.52-54,F
.]i
l- する文出であった。乙の点については I
V,ア
ad,q
ar
rt
usa
l-i
dar ι
awa a q
Ol
ja:Vo
l.1
.PP
. ワースィ一地を参照のとと。と乙ろで, 1
854
1
2-1
4. 年免税アブアーディーヤ地とアワースィ一地
(
9
)12581j
oMUQarram月 5u1

J・勅令。 A
.S- に対してウシュ Jレ保税出世が採られ,以後│両
ami,taqwima
l-n
il,Vol
.2,PP.516-517, 者はウシュ Jレ地と呼ばれるようになる。 そのた
y
.Artin,al-a~kãm al-mar
'iy
a,P
T.5
4-56, , t
め aqs
itはウシュル地の特典を証明する文
1
(
0)オスマン・トルコ時代に起源をもっ Jレー 書となった。事実 B
ara
kat氏によれば,ウシ
ズナーメ局は, 1
888年 l
と廃止されるまで,た ユノレ文書登録簿 (
s甘i
ll
ata
l-t
aqa
sita
l-u
sh-
び置なる行政改革のなかで,その所属官庁を u
riy
a)として知られる登録簿は, 1
854年以前
変えていった。本稿ζ
l関係ある範間内でこの にはリズカ文書,登録簿 (
si
jil
1att
aqa
sita
l-
局について述べるならば, イスラム暦 1
253年 r
iza
q .'
)として知られていたという。 c
f A
li
(1837年)の qanuna
l-s
iya
san
ameI
乙;法づ Barak
五t,t
a{a
ωωura
l-m
ilk
iyaa
l-z
ira'
iya

く行政改,草の後, a
l-d
iwa
nal
-(a
liawdiwan P
.51
5.
al セbidïw の Ti- 轄下にあって,年金 (ma~shãt , (
12
)1
8世紀において,エジプ卜の土地は,大
s
ing
.ma(ã~) の支給,および,免税アブア 略,徴税詰負ζ
l出されていたために a
rda

ーディーヤ地,アワースィ一地などの税制上 i
lti
zam と呼ばれたハラージュ地, a
rad
ial
-
ならびに土地所有権上特典をもっ土地の登録 nzaq,そして a
rac
.ia
j l-i
tla
qという三つの土
とそのむ2理にあたった。なお,オスマン・ト 地範鴎に分けるととができた。と ζ ろで, a
ra-
ルコ│時代におけるこの局については, Layla 1
cia
l-i
tla
qあるいは a
rac
lia
l-引 きq と呼ば
'
Abdal-La~ïf, a
l-idaaI
r fmi$rIi' a
sra
l- れた土地は,イスタンブールから派遣された
'
u1
hman,i Cai ro,1978,PP
. 301-318 を参 Pashaおよびマムルーク I
l
i
i級市人 (
al-
bak
a-
Uのこと。
(
J w五tal-mam
五li
k)の烏の制育のためにあて
1
9世紀前半のエジプト土地・税制度 73

られた免税凶有地であった。この穏の土地は, すなわち,ワクフ設定文占の規定 ζ
l従勺て,ワ
当初]Pashaの管轄下にあったが,徴税請負制! クフ地からの収入がワクフ設定者一族に;切りあ
(
3)
の普及とともに徴税前負 l
乙出され,徴税請負 てられたワクフから成っていた。 そして,乙
人のアワースィ一地の一部となっていった。 の種のワクフは, 1
71並紀以降ムカーター制に代
c
f.'
Abda
l-R
aQ
.Im,a
l-r
ifa
l-m々が, P
.70
.ム ってエジプ卜の土地・税制度となったイルティ
ハンマド・アリーは,乙の種の土地を,徴税 ザーム(徴税請負〉制度下において,徴税制,'Ji主
前負制を廃止する過犯で,没収していった。 業務の代償として徴税請負人に免税地として与
c
f
.Abmad a
l-I
:
Ii
ta,t
t ari
主 a
l-z
iraa
'al
-mi
- えられたが,土地所有権上の法的性格はハラー
~rîya, P4
2. ジュ地であるため,ワクフ化が禁じられている
筈のアワースィ一地の多くが,実際にはワクフ
として設定された結果,その面積は拡大してい
E リズカ地 (
aty
:亙n a
l・r
izq
a)
った。そして,当初 ζ れらの個人ワクフ地は,
オスマン・ト Jレコ時代において,リズカ C
riz
qa, Q
.aqq a
法的には,その所有権 C l-r
aqa
ba)はあ
pl
.ri
zaq
) とは,兵士やモスクなと、宗教慈善団 くまで国家に帰属するものとされ,そ乙には土
体の職員に対する俸給,あるいは年金を意味し 地税 C
al-
mala
l-m
I百, a
l-出a
raj
)が泌される
た。前者のリズカは a
l-r
izq
aa1-
jay註
江ya,後者 筈であったが,オス 7 ン・トルコ帝国のエジプ
のそれは a
l-r
izq
aa aQ
1-.b
asi
yaと呼ばれた。乙 ト支配弱体化とともに,免税地となり,私有地
(
4)
のリズカは現金あるいは現物で支給される場合 化していった。
もあったが,多くは,一定の土地からの収入が さて,ムハンヤド・アリーは,土地固有化政
リズカとしてあてられた。後者が,その目的か 策l
と基づき,これらリズカ地の調査を実施し,
らいってワクフ Cwaqf,tl
.awqaf一分割・譲渡 リズカ保有者の手元 l
とあるワクフ設定文書が不
l供された財産)と呼ばれ
・売却を禁じて信託ζ 備なリズカ地については,これを没収した。一
るべきところを,ことさらリズカの名で呼ばれ 方
, リズカ保有者の権利が正式文書によって法
たのは,オス 7 ン・トルコが 1
517年にエジプト 的に確認されたリズカ地については,これをそ
を征服し,土地国有制に基づくムカーター制を れまでのリズカ保有者の手元に残したが, 1
813
実施した際,スルタン一族がモスクなど慈善団 年に開始された検地の際,土地台帳 ζ
l登録し,
体に寄進したワクフ C
al-
awq
afa
l-s
ult
ani
ya) ハラージュ税を謀すとともに,乙の種の土地が
と,当時 hubusあるいは複数形で ahbasとして 再びワクフとして設定される乙とを禁じた。そ
知られていた個人ワクフとを区別するためであ して,とうした措置の代償として, リズカ地保
(
1)
ったという。 ともかく,乙のリズカとしてあ 有者 l
乙対して,ルーズナーメ局から,生涯限り
てられた土地,つまりリズカ保有者の土地がリ ai
の年金(f D
< を支払う ζ ととした。 (5) 乙の措置
(
2)
ズカ地 C
aty
ana
l-r
izq
a)であった。 以後,近代エジプト t
t
止初の統一的土地法である
ととろで,以上のように, リズカ地とは,そ 1
858年のサイード法公布までの J
V
J問, リズカ地
乙での収入が俸給あるいは年金として与えられ が法的にどのような扱いを受けていたのかよぐ
た土地を怠味したが, 1
8世紀末において,その 分からないが,ハラージュ税を却された乙と,
ほとんどは, a
l-r
izq
aal
-aQ
.b
asi
yaと呼ばれた また,ハラージュ地における以大の所有権上の
個人ワクフであった。そして,この個人ワクフ 制約であったワクフ化の禁止が採られていた乙
は,その多くが家族ワクフ C
al-
waq
fal
-ah
lj)
, とから,ハラージュ税を認された時点でハラー
7
4 加藤 博

ジュ地と見倣されていたと~えられる。ともかく, であった,と述べられている。しかし,筆者
サイード法の第 2
5条によって, リズカ地は法的 には,こうした私有地が実際にどの土地を指
に所布権 (
haq
qal
-ra
qab
a)を容われ,ハラ一 すのかよく分からない。
一 _
ジュ地と全く同様の扱いを受けることになった。(6
) (3)-Jj,モスクの維持等の慈善目的のため
そのため, 1
875年に修正サイード法が新たな土 に設定されたワクフは, waqf主回y
riとl
呼ば
地法として公布された際には, リズカ地ζ
l関す れた。
{
7)
る条文は削除された。 (
4
)H.A
.Ri
vli
n,TheA
gri
cul
tur
alP
oli
cy
ofMuhammadA
li,PP.33-35, H
.A.R
.
(1
)S .
].Shaw,TheFi
nan
cia
l andA dmi
nis- G
ibb and H
.Bowen
,Is
lam
icS
oci
ety

t
rat
iveOrganiz
at
ionandDe
vel
o.ρmentof P.177,Abd al-R
ahi
m,a
l-r
ifal-mi~rï,
OttomanE
gyt1
p 5
17-1798,P
rin
cet
onU- PP.69-70. なお, ムカーター制からイノレテ
n
iv
.Pres,1
s 9
62,PP
.45-50,H
.A.
Riv
lin
, ィザーム制への移行については, Shaw の前
TheA
gricu
ltur
alPo
lic
yofMuhammad 掲論文“ L
and
hol
din
gand L
and
-ta
xRe
ve-
A
!i.PP
.20,31-32. n
uesi
n OttomanE
gyp
t" が簡潔にまとめ
ところで,法的には,ワクフ地とは,その ている。
所有権がワクフ受益者に帰属する私有地であ (
5
)H.A
.Ri
vli
n,T
heA
gri
cul
tur
alP
oli
cy
り,ワクフ受益者が享受するのは土地税収入 fMuhammadAli,P
o P.5
5-59,Y
.Ar
tin,
C
land-taxr
eve
nue
s)であったのに対し,個 al-a~kãm a
!-m
ar'
iy,PP
a .48-49, M.K
.
人ワクフ地であったリズカ地とは,その所有 Mursi
,al
-mi
lki
ya al- 匂~qãrïya f
z
-mi~久 PP.
権が凶家に帰属する凶家所有地であり, リズ 7
7-7
8,なお, a
l-H
itt
aによれば, f
aid
Oコ額
カ保有者が享受するのはリズカ,すなわち一 は
, リズカ地の地代の半額 (
nis
f吋r
ari
zqa
t-
i
定額の地代(fxe
dan
nua
lre
nts
)である,と h
u)であった。 Ahmada l-
Hit
ta,t
ar,i勉 a
l-
いう区別が設けられていた。そして,乙の区 z
ira
(aal-mi~riya, P
.39
.
別は,所有権(l).a
qqa
l-r
aqa
ba)を用益権 (
ha- )サイード法 (
(
6 aトl
ail
)aal-s~ïdïya) とは,
qq a
l-i
nti
fl) と対立する概念として規定し, へディーヴ・サイードが 1
858年ζ
l公布した土
前者を常に国家のもとに置乙うとする,いわ 地法である。本稿ではとの法律の原本を利用
ゆるイスラム的土地国有制をめぐる法解釈に .M
したが,その本文は,M.K u
rsi
,al
-mi
lkz
-ya
法づいた法テクニックであったようである。 !-
a (
a{
j
.ヨr
z-
yaf
imi~, PP
.12 .I
5-146,] j
umain

c
f.S
.].Shaw
,L
“ a
ndh
old
inga
nd Land-
tax a
l-a
tyan wa a
l,qaraib,PP
- .387-4
121
<:再録
Rev
enu
esi nOttomanEgypt"i
. nPol
iti
ca! されている。
andSocia nModernEgypt,e
! Change i d. (7)混合裁判所設置法(Ia
iha
t al-mahakim
.M.H
byP olt,OxfordU
niv
.Pr
ess,1
968, a
J-m
ukh
tal
ata
)第3
6条における,当時有効であ
.9
P 5,H.A.R.Gibb andH.Bowen.
Isl
ami
c った土地に関する法律を刊行すべき旨の規定
S
oci
ety andTheW
est, O
xfo
rdU
niv
.Pr
e- に従い, 1
875年 9月1
8日,サイード法全 2
8条
s
s,1
957,Vo
l1,P
. artI
I,P
.17
3 の一部が削除された形で,修正サイード法全
(
2)多くの研究書において, リズカ地とは, 1
5条が新たな土地法として公布された。本稿
オスマン・トルコ時代,スルタンが側近者ーな では ζ の法律の第三版を利用したが,その本
どに免税で与えた,完全所有権をもっ私有地 文は, F
.]i
lad,qamus a
l-i
dar
aUXJ a
! O
l
-qj
a
'

1
9世紀前半のエジプト土地・税制度 75

Vol
..PP
1 .1
82-
1 9
0.Y .Art
in
.aJ-
ahk
ama
l. 一般のハラージュ地と同じ扱いを受けることに
ma
r'iy.PP
a .219-23
2. !乙再録されている。 なった。マスムーハ地廃止の理由は,勅令 ζ従
l
うならば,村長や村落有力者・が,村落農民をと
m マスムーハ地 (
a!y
a 時 a
nmasm l・
の土地で強制耕作させるなど,彼らの職権を濫
ma曲ai i
凶, atyan masmi
l
).al-ma- (
6)
用するとと甚だしかったからであった。 もっ
$t
aba
)
とも,乙の措置によって,村落行政を村長や村
オスマン・トルコ時代のイルティザーム制度 落有力者に委ねていた慣行が存在理由を失った
p
l.ma
下において,村長 (~ay出 al-balad.辿- ことを;昔、 l
床しない。なぜならば,興味ある乙と
a
ikba
l-b
ala
d)(J)は,村長業務,ならびに旅行 に,土地私有制度 ζ
l基づく統一的土地・税制度
者など村落滞在者に対する接待費の代償として, が達成されたとされる 1
890年代において,村落
村落内 ζ
l 一定の免税地を与えられていた。そし 行政編成の一環として,乙の「村長職免税地」
て,乙の麗の土地は. masmu
i
). al-~ay出と呼 が復活しているからである。すなわち,村長の
ばれた。当時,村長職は通常世襲化していたと 選択方法を定めた 1
895年 3月 1
6日の勅令と同時
ころから,乙の土地もまた,村長の家系に受け に公布された別の勅令によって,村長所有地の
(
2)
継がれていた。 うち 5フェッダーンの土地が,在職期間中.1村
さて,ムハンマド・アリーはとの制度を受け 長職免税地」として土地税を免除されることが
(
7)
継ぎ. 1
813年の検地の際,村長および村落有力 規定されたのである。
者 (ma
也創出 a
l-b
ala
d)に対して,土地台 l
阪に
登録された耕作地の 4パーセントを,村長業務, 1)
( 1
9出紀後半において,村長は通常 '
umd
a.
ならびに政府役人等に対する接待費の代償とし pl
./umadと呼ばれた。 B
ara
kat氏によれば,
て与え,そ乙からの土地税徴収を免除した。乙 土地文書においてこの名称が最初に現われる
の「村長職免税地」とか. I
接待用免税地」とで のは .1843年であるという o (
Al
iBa
rak
at.
も呼ばれうるマスムー.ハ地は,免税地として与 t
at
aωω ur a
l.m
ilk
t.y
aal
-zi
raC
iy.P
a .2
31.
えられはしたが,その土地所有形態はあくまで (
2)A
bda
l-R
ahi
m.a
l-r
ij aιmi~rï. P
.21
.
国有地ノ、ラージュ地と同様であり,被授与者は G.B a
er.“TheV illa
geS h
aykh.180
0-1950:
そとでの用益権を享受することを許されただけ inStudi
esi nt heS o
cia
lH i
stor
y0 1Modern
(
3)
であった c そして,それまで免税であった土 Egyρ.t The Univ
.o fChica
goP re
ss.
1969.
地にウシュル税を課す乙とを命じた 1
854年の一 PP.4 6-47.
連の勅令においても.乙の種の土地は,そ乙で )a
(
3 1
-早i tt
aは,村長職免税地 (masmu J
!al.
の収入がモスク維持費 ζ
l あてられた土地と並ん masha.ikh
)と接待用免税地 (masmuha ト
(
4)
で,例外的に免税地として留った。 しかしな mastaba) とを区別している。そして.mas-
がら,サイード治世に試みられた行政改革の一 muh a l-mash
ai k
hの面積は,村落耕何 l 也の
環としてであろうが.1
857年に至り,マスムー 5パーセントであったと指摘している。 Ahm-
ハ地に対して,所属村落内における故高税率の adaJ-I
:it
ta
.t a
1"
i主 al
-ziraら a-
Jmi子r
zya
.
(5
)
ハラージュ税が認される旨の勅令が出された。 PP
.48-9
さらに.1
858年の勅令によって,この種の土地 (4
)1271年 Rab
r'rr月29日(1 8
55年)付勅令。
は,そこでの耕作者の名義で土地台帳 l
と登録さ majmurqauin
X 印 wal aw
aihalamwal a
. l
-
れる旨の勅令が出され,ことにマスムーハ地は, m
uqa
rra
ra.P
.70
3.
7
6 加藤 博

)1274作 Muharram)
(
5 J2 -φ
4日付勅令。 a
l ー
ヨ 台帳 l
乙資制したが,命令 l
乙1
.院したドエジプ卜地
1

ωa
nin aP
lq
1 a
riy
a,1s
te.,P
d .13,M.K
. jとギーザ叫の徴税 J
) J
J白人に対しては,民民保
Mursi,
al-
mil
kia al-~qãrïya f
y imi~r , P
. 有地のみを IJ~ 家 l 乙返還させ,アワースィ一地に

88. ついては,彼らが免税地のまま保有し続ける乙
(
6)1274"ド 且u a
l -qa匂a月 5日付勅令o とを許した。そして同時に,良民保有地からの
majmu(qawanin UXJ la
wai
h al-amω'
a
f a
収入(fid
)を侮った代償として,生涯限りの年
a
l-m
uqa
rra
ra,P
.69,]
.ij
una
i,na
f-a
!ya
n 金 (
fai
d)を新たに支給するとととし,その旨ル
ωa a
l-c
jar
ai,P
b .1
96.ただし, ]
.ij
una
in ーズナーメ向から文書 (
taq
sit,pl
.ta
qas
it)が発
は,乙の勅令とマスムーハ地ぷ!
l税を命じた l
i
i
j 行された。乙うして,かつての徴税約白人のも
Jイ?とを i
$
} M同しているようである。 とに伐されたアワースィ一地は,耕 f
ド地であり
(
7)F
.]i
lad,a
l-q
amu
s al-~ãmm l
iaιidara ながら土地台帳への登録から外され,免税地と
waa
l-q
a.
qa
,VoL2,P
. 676. されたが,土地所有形態上からは,アワースィ
ー地保有者はそ乙での用益権の享受を,それも
四 アワースィ一地 (
al・atyana
l・awasi) (
2)
生涯に限って認められただけであった。
オスマン・トノレコ l
時代のイルティザーム制度 と乙ろで,このアワースィ一地は, 1854年 1
0
において,ムルタズィム(徴税請負人)は二つ 月1
1日の勅令によってウシュ Jレ税を泌され (3)

の収入似をもっていた。一つは,耕作民から徴 以後,同年 9月3


0日の勅令 (4)によ勺てすでに乙
収した実際の柏から rJ~ 家 lζ 対して JIll け負った徴 の税を J
'

!!されていたアブアーディーヤ地ととも
税制を j
hしづ│し、た允額 (
fai
d)であり,他の一つ にウシュル地として登却されたことから分かる
は,徴税業務 ω代前として徴税前f!人に対して ように, f>~~11リ lニの MJ 点からは,アブアーディー

Jえられ,アワースィ一地と呼ばれた免税地か ヤ地と同じ雌史を歩むのであるが,土地所有形
らの収入であった。乙の「徴税 ~Wü 職免税 i也 J 態上の制点から両者をみる 1寺,乙の二種類の土
とでも l
呼ぶべき土地は,土地に対する労働 )
Jの 地の聞に興味ある対JI.(iをみる乙とができる。す
'

相対的多少,また,徴税 Ja
'l人と耕作民とのノJ なわち,すでに指摘したように,アブアーディ
関係!r.応じて,ある l時には徴税請負人と耕作~ ーヤ地がウシュル課税に先立つ 1842年に完全所
との賃貸・小作契約によって,またある時には 有権を獲得し,ハラージュ地とは区別された土
村落内の耕作以による強制労働によって,耕作 地所有権上の特権を享受していたのに対し,ア
されていた。法的には,徴税請負人は,乙のア ワースィ一地の場合,その土地所有権上の変選
ワースィ一地に対して,そ乙での用益を享受す は,ハラージュ地とは一応区別された形で処狸
I負の t
る権利をもつだけであったが,徴税 J
J l・
襲 されているとはいえ,ハラージュ地のそれにそ
化にともなって,乙の柿の土地は,実質的には ったものであ勺た。まず,との土地での相続権
(
1)
私街地 ζ
l 近い土地となっていった。 が法的に認められたのは,ハラージュ地と問機,
(
5)
さて,ムハンマド・アリーは,イルティザー 1854年の第二土地法においてであった。 また.
ム制度を廃止し,徴税 J
I'i'白人の判原下にあった 乙の規定とは ]
;
IJ
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ζ ,1855年には特別ζ
l,アワー
土地の困家返還を命じた際, J
f
支の命令 l
と服さず スィ一地で・の相続権を認める旨の勅令が公布さ
反抗した上エジプ卜地 )jの徴税 J,~'Ü 人について れた。 (6) 乙ω勅令 l
乙従うならば,相続権必可の
は,彼らが保有していたアワースィ一地をも同 J1TI山は,アワースィ一地保有者が,彼の死後土
jに没収し,検地の際ノ、ラージュ i
I
I
! 也として土地 地が Il~ 家!r. I"I~)( されるのを嫌い,乙の土地をワ
9世紀前半のエジプト土地・税制度 77
1

クフとして寄進する傾向が顕著であったため, 理 山 は 日j者の過料が年金の停止といわば込み
へディーヴ政権はこの目拝態に対処せざるを得な にな「て進められた乙とである。すなわち, 1889
かったからであった。こうして, 1858年の統一 年 3月 4日
, 1890年 6月 1
6日, 1
891年 4月 5
的土地法であるサイード法の第 2
4条において, 日に公布された三つの勅令によって,アワース
乙の土地での相続権が確認された。しかし,乙 ィ一地での完全所有権を認める条件として,年
うしたー辿の相続権確認の措置によってもアワ 額の 8V
3倍l
乙相当する一時金の支給による年金
ースィ一地のワクフ化現象は止らなかったのか, の打ち切りが規定されている。 (
1) 以上,アワー
0

へディーヴ政権は,サイード法公布の翌年,す スィ一地における土地所有形態上の変遷は,概
なわち 1859年 5月 7日,改めてこの土地での相 ねハラージュ地のそれと一致する o しかしなが
(
7)
続はイスラム法ζ
l従う旨の勅令を公布している。 ら,ハラージュ地では法的に禁止されている筈
以後 1875年まで,乙の土地の法的土地所有形態 のワクフ化が乙の土地では顕著な現象であった
l
乙変化がなかったことは,乙の年ζ
l公布された 点で,両者の聞に違いがみられる。またとの点
修正サイード法の第 1
5条のなかに,乙の土地の l
と関して,アワースィ一地は,収入源没収の代
法的土地権利とは無関係な文章が削除されたの 償として同じく年金が支給されながらも,ハラ
みで,先述したサイード法の規定がそのままの ージュ謀税とともにワクフ化が禁じられたリズ
形でみられる乙とから分る。 カ地と好対照をなしている。ともかく,乙の種
次いで,‘アワースィ一地が完全所有権を初め の土地は,もともと耕作地でありながら土地台
て獲得するのは,乙れもハラージュ地と同様, 帳ζ
l登録されず,税優遇措置を取られたことか
(
8)
1871年のムカーパラ法によってであった。 乙 ら分るように,恩賜地的皇居素の強い土地であっ
の法律の第 9条によって 6年分のウシュル税 T
こ。

の前払い,すなわちムカーパラ支払いを条件 K, 以上,法制史的観点から,税制上あるいは土
その後のウシュ Jレ税を半額にするとと,また同 地所有形態上区別することができる幾つかの土
時に,アワースィ一地保有者に対しては,そ乙 地範暗について論じてきた。本稿を終えるにあ
での完全所有権を認め,その旨を記した土地文 たり,ととで指摘しておきたい乙とは, 1
9世紀
書 (
taq
si)を発行すること,そしてその際,他
t 後半に顕在化する大土地所有の主たる核となっ
のウシュル地,すなわちアブアーディーヤ地と たのは,オスマン・トルコ時代の土地制度に起
条件を同じにするため,アワースィ一地保有者 源をもっリズカ地,マスムーハ地,アワースィ
に支給されていた年金を打ち切るととが規定さ 一地ではなく,ムハンマド・アリーの土地政策
,(9)
れた。ムカーパラ法は 1880年廃止されたか, に起源をもっァブアーディーヤ地であったとい
ムカーパラ支払いを条件!e.,アワースィ一地保 うととである。 リズカ地における税制上および
有者に対して完全所有権を認める旨の条項はそ 土地所有権上の特典は,ムハン 7 ド・アリーの
のまま有効とされ,全額にせよ,一部の額にせ 土地改革によって没収された。もっとも,乙の
よ,それまでにムカーパラを支払ったアワース ことによって,ワクフ制度自体が廃止された訳
ィ一地保有者に対しては,彼らの土地における ではない。しかし, 1
9世紀 l
とみられたワクフ地
完全所有権を認めた。こうしたムカーパラ法公 は,オス 7 ン・トルコ/l!
j代のリズカ地の延長で
布以後におけるアワースィ一地の完全所有権獲 Iの出所から設定されたものであった。
はなく,日J
得過程は,ハラージュ地のそれと同一であった -}j, アワースィ一地は,ムハンマド・アリー
が,前者のそれを後者のそれと少し異ならせた の徴税封負人,c::対する懐柔策から,税制上の特
7
8 加藤 侍

L
処が与えられていたとはいえ,土地所有権上の t
in,a
l
-a争kam a
l-m
ar'
iya
,P.9
2.
観点からは,ハラージュ地とほぼ同じであり, (
5
)第二土地法公司iは
, 1
271年]umada1月
この点, 1
9世紀前半に私有権を与えられたアブ 8日。なお,乙の法律において,アワースィ
アーディーヤ地と比較して,不安定な立場ζ
l置 一地には,相続資格者の性別に関係なく相続
かれた。 ζ の乙とを端的に示すのが,乙の土地 権が与えられている。乙の点,男の相続資格
についてみられた顕著なワクフ化現象である。 者にのみ相続権が与えられたハラージュ地よ
最後に,村長など村洛有力者同による土地集績 りも優遇されていた。].I
:unai,
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l・a
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について言及すれば,彼らが 1
9t
1J:紀後半,とり wa a
l-r
jar
aib,PP.191-192.
わけ, 6
0年代から 7
0年代にかけてのイスマイー (
6
)12
71年 Ramaclan
月13日付勅令。 maJmグ
ル時代において,土地集杭を行ったことは事実 q
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l-amwi
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である。しかし,それは,彼らが蓄積した富お P
.88,Y.A
rti,
na l
-a与kamal
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ya,P,5 0.
よび彼らの村落内における行政的立場を利用し (
7)1
275年 Sha<ban月 2日付勅令。 a l
-qaWlI-
て,合法的あるいは非合法的に,ハラージュ地 n
ina
l-'
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ria,P.12,Y
y .Art

in al-a~kãm
耕作民の土地を集積するというパターンをとっ 。
l-
mar
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a,P
.51
.
たのであり,マスムーハ地という免税特権地を (
8)ムカーパラ法 O Q
ai.a
t al-muqabala)は

核としてなされたのではなかった。 1288年 ]umada1月 1
3日 0871年 8月 )
45条
からなる法律として公布されたが,同年 R
aj-
、 (l)Abd a
l-aJ
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i,PP
.74 ab月 1日(1
871年 9月)新たに 3条が補員J
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76,7
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6.H
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al され,都合 4
8条の法律となった。本稿では,
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1Muhammad Ali,PP
.21-
22. 乙の法律の第三版を利用したが,その本文は
(
2)ムハンマド・アリーは,ルーズナーメ局 F
.]lad,qamus a
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dar
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l-q
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から年金を支給するに際し,その額を,徴税 4,P
P.384-391. に再録されている。
~ï!i 負人が実際 l乙取得した純収入額 (fãid) と同 (
9
)ムカーパラ法は, 1880年 1月 6日の勅令
額と定め,その旨彼らに布告し, f
aidの額を によって,次いで周年 7月1
7日の清算法 (
qa-
自己申告させた。と乙ろが,徴税諮負人は, nun a
l-t
a号f
iya,L
o eL
id iq
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on) によっ
乙れを申告額ζ課税するための措置と考え,
l て正式に廃止された。 F
.]i
lad, qamus a
l-
彼らの f
ai
cl 額を実際より低く見積って申告 i
daraω'
aa l
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ja,Vo
' l4,
. P
.393,Vol. 2,
した。実際には,アリーは布告通りの年金支 PP.210-221a
, l-qa
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ari
ya,P
.14
.
給を行ったため,徴税請負人の行為は裏目 l
乙 (
1O
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lad,a
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出たという。また,乙の年金の資金源は,ア ω'
aal
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. 2,PP, 684-685,
リーが没収した上エジプ卜地方のアワースィ a
l-q
awa
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l-
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勾 a
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a,PP.14-15,さら
ー地から徴収された税であったという。 c
f. , 1
に 889年と 1890年の勅令を再確認する勅
Y
.Ar
tin,a
l-aJ
tkam a
: l-m
ar'
iy,P
a .50. 令が,それぞれ 1894年 I月2
9日と 1905年 1
2
(3
)1271年 Muharram月 1 8日付勅令。 m a
J- 月1 五rq
8日に公布されている。 majm aωa
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mu"qaωan
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: -amωa
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.91
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(
4
)12
71年 MuharramJ
j7日付勅令。 Y.Ar-

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