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いちはやきみやび
伊勢抑語の初段は、元服したての若者が、奈良の古京へ狩りに出かけたときの事を叙した章で
ある。﹁いちはやきみやび﹂という語は、その末尾におかれている。まず、この段の全文を掲げ
ておく。
むかし、をとこ、うゐかうぷりして、一平勝の京、春日の里にしるよしして、狩に往にけり。そ
の里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。かのをとこ、かいまみてけり。おもほえずふる

さとに、いとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。をとこの著たりける狩衣の裾を切り
て、歌を書きてやる。そのをとこ、しのぶずりの狩衣をなむ著たりける。
かすが野の若紫のすり衣しのぶのみだれ限りしられず
となむ、おひっきていひやりける。ついでおもしろきことともや恩ひけむ、
みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆゑにみだれそめにし我ならなくに
といふ歌の心ばへなり。昔人は、かくいちはやきみやびをなむしける。
この段は、構成の上からいうと、前後二部から成っていると見ることが出来る。前部は、昔、元
服したての男が、古京春日の里に狩りに出かけたとき、その里で垣間見た﹁いとなまめいたる女
はらから﹂に心地まどい、折から着用していたしのぶずりの狩衣の裾を切って、﹁かすが野の:::﹂
の歌を書いてやった一件を叙した部分であるが、後部はこれを受けて、そのような男の行動を、
作者の立場で批判したものである。その批判の核心となる語が﹁いちはやぎみやび﹂である。
﹁いちはやきみやび﹂は、いうまでもなく、﹁いちはやし﹂という形容詞と﹁みやび﹂という名
調の結合した語である。﹁いちはやし﹂は、本来﹁はげしい﹂の意で使われてきたことが、日本
書紀以来の文献を見れば明らかである。伊勢物語には、﹁いちはやき﹂の形で、この初段に一例
見えるだけであるが、 一般の注釈書には、この語を﹁すばやい﹂の意に解しているものが多い。
いちはやさみやび

これはおそらく下接する﹁みやび﹂との調和を考慮したためと思われるが、前後の文献の用例か
らいっても、そのように解するのは妥当ではない。やはり本来の﹁はげしい﹂の意にとるのが正
しい。そう解することによる、﹁みやび﹂との、 一見パラドクシカルな結合にこそ、かえって伊

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勢物語の本質が暗示されているといってよい。

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ところで、男が垣間見たのが、﹁女はらから﹂であったことについて、窪田空穂氏は伊勢物語
評釈で、﹁物語作者は懸想の対象を一人とせず、﹃女はらから﹄として、恋の成立を予期しなかっ
たとし、云々﹂と言っておられるが、 一対一の男女の結合を厳しく要請する恋愛の本質からいえ
ば、そういう解釈も成り立つかも知れないが、私には穿ち過ぎた見解と思われる。。それに対し
て折口信夫氏は、伊勢物語私記で、﹁昔の人は、嘗ひ、姉妹があったとしても、何れをとるべき
かに迷う事がなかった。姉妹を一処に迎えるのが普通であったから、迷う必要はない﹂と言って
おられる。わが国古代の習慣的結婚法にもと。ついて、このように説かれる折口氏の見解に従うべ
きであろう。
さて、﹁かいまみ﹂は、本来人のとがめを予想するうしろめたい行為である。 それをあえて実
行したのは、若者の内部に、罪に値する行為への志向性を包蔵する﹁すき心﹂が発動したことを
意味する。﹁すき心﹂は、情念のひたむきな放縦性をその本領とする。その放縦性にまかせて危
険な奈落への道をたどるか、それとも伝統的な詩形式としての歌の詠出によってその状態を脱出
するか、この段階ではそのどちらに向かう可能性も許されているはずである。しかし若者は、後
の道を選んだ。というよりも、﹁すき心﹂が、その内的促しによって、自らを装うにふさわしい
形式を呼んだといった方がよい。為兼卿和歌抄にいう、﹁心のままに詞の匂ひゆく﹂道││﹁みや
び﹂への道の出発がここにあった。
若者の﹁すき心﹂は、その赴くところ、わが身はおろか、世界をも破滅に至らしめるかも知れ
ぬヴアイタリティーを内包する r
oしかしそれは、伝統的な詠歌の道によるとき、﹁みやび﹂形成
のかけがえのない原動力ともなった。若者は、その内的促しから、必然のことのように、折すぐ
さずこの道によった。﹁かすが野の若紫の:::﹂と詠むことによって、若者の﹁すき心﹂の激し
さが、やさしい﹁歌﹂の姿に鎮められることになる。この間の消息を十分心においた上で、若者
のこのような営為を、作者は﹁いちはやきみやび﹂と評したものと思われる。﹁昔人﹂には見ら
れたこのような営為が、今の人に見られぬことを概嘆する思いを、言外にほのめかしていること
は、いうまでもない。
(昭和六一・四)
いちはやさみやび

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