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ベンヤミン『複製技術時代の芸術』内容報告 「技術と倫理」を軸に
ベンヤミン『複製技術時代の芸術』内容報告 「技術と倫理」を軸に
はじめに
本稿は、「技術と倫理」という題目を軸に、ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』第二版 1の内容
を概観・報告2し、ハイデガーの見解を捉える参照とするものである。
1. 『複製技術時代の芸術』と「技術と倫理」との関係
『複製技術時代の芸術』は、ベンヤミンが 1935 年から 36 年にかけて執筆した、全 19 節からなる論考で
ある。「アウラ」、つまり〈いまーここ〉的性質とそれが保証する事物の真正さによって特徴づけられる概念
を有する伝統的な唯一無二の芸術作品に代わって、複製技術としての芸術が台頭してゆく過程の中に、
芸術と人間の関係の変化を見てとるものである。
しかし、上記の大掴みの流れに加え、彼の主眼には一貫して倫理と政治の問題があった。実際に論考
を読むと、技術の進展がもたらす人間の知覚の変化、それによって規定される政治的振る舞いとその倫
理的是非が、ベンヤミンにとって大きな課題であったとわかる。この意味で、『複製技術時代の芸術』は、
来たる技術とそれを受容する世の中における倫理にまつわる本だと言えよう。
本稿の基本的な立場は、ベンヤミンが複製技術、およびその芸術に、ファシズムに対抗しうる倫理的実
践の可能性を見ているというものである。この立場を基に、以下論考全体を節ごとに確認してゆきたい。
2. 『複製技術時代の芸術』要旨及び「技術と倫理」
I では、論考全体の政治的な立ち位置と実効性が述べられる。
「以下において芸術理論のなかに新しく導入される諸概念は、ファシズムのもつ目的にはまったく役に立
たないという点で、従来の諸概念と異なる。その代わり、芸術政策における革命的要請を定式化するのに
役立つ。」(p.586,l.2-4)
I のはじめの一行から、ベンヤミンはマルクスによる今後の資本主義の予想を紹介する。つまり、マルクス
が資本主義生産の基本的諸関係に立ち戻り、プロレタリアートの益々の搾取、しかし同時に「ついには資
本主義そのものの廃絶を可能にする諸条件も生み出すことが予想される」と述べた言である。その見立
てから半世紀以上が経ち、上部構造である文化が変化してようやく記述できるようになったのが、ベンヤ
ミンの時代であるという。その結論として、彼は現在の生産諸条件のもとでの芸術の発展傾向に関する
テーゼを見る。資本主義における生産諸条件の弁証法は、経済分野だけではなく上部構造でもはっきり
見て取れるとし、故に、その芸術におけるテーゼの闘争価値3を過小評価するのは誤りだとする。そして、本
論考で述べる芸術の諸概念を、ファシズムに対置させ、その革命的・実践的性格を示す。
1
本稿では、日本で最も参照される第二版を引用する。
2
以下、引用部中の太線は原文において強調されている箇所。
3
この点が既に1において冒頭で示されている点も、ベンヤミンの本論考における論述の立ち位置を示す
ものではないだろうか。
「以下において芸術理論のなかに新しく導入される諸概念は、ファシズムのもつ目的にはまったく役に立
たないという点で、従来の諸概念と異なる。その代わり、芸術政策における革命的要請を定式化するのに
役立つ。」(p.586,l.2-4)
Ⅱ では、歴史における複製技術の立ち位置について確認がなされる。曰く、芸術作品は原則的にはつねに
複製可能であった。しかし今日、新しい事柄として芸術作品の技術的複製が生じているという。ここで紹
介される木版、銅版画、石版画は、イラスト入り新聞を、写真はトーキーを、潜在的に用意していた。また、
写真の登場によってイメージの複製の担い手は目にうつり、複製はより迅速化される。
「1900 年ごろに技術的複製はある水準に到達した、ここに至って技術的複製は、従来伝えられてきた芸
術作品すべてをその対象としはじめ、またそれらの作品が作用する仕方にきわめて深い変化をもたらし
はじめただけでなく、芸術の技法のあいだに、独自の地位を獲得したのである。この水準を研究するうえ
でなによりも参考になるのは、その二つの発現形態―芸術作品の複製、ならびに映画芸術―が芸術の
従来の形態にどのような逆作用を及ぼしているかということである。」
(p.587,l.13-18)
Ⅲ では、どんな複製にも欠けている唯一のものとして、オリジナルの〈いまーここ〉的性質、つまりそれが存
在する場所に、一回的に在るという性質が主眼として述べられる。この性質こそがオリジナルの真正さと
いう概念を生み、ある作品を同定する伝統という考え方も、この概念を基盤に成立していたとベンヤミン
は述べ、伝統的な芸術が持つこれらの特徴を「アウラ」という概念でひとまとめにする。そして、複製技術
時代に衰退してゆくものが、この「アウラ」だとする。
「真正さの全領域は、技術的―そしてもちろん技術的なものだけでないー複製の可能性を受けつけな
い。」(p.588,l.12-13)
こうして「真正さ」の権威が消えた技術的複製は、手製の複製よりもオリジナルに対して独立性をもち、ま
たオリジナルの模造をオリジナルそのものが到達できないような状況のなかへ運んでゆくことができると
いう性質でもって、特異な地位を占めてゆく。
Ⅳ では、技術進展による人間の知覚の変化が述べられる。ここに前述のアウラの凋落を結びつけ、この原
因の社会的条件として、大衆の増大とその運動の強力化を見ている。
「歴史の広大な時空のなかでは、人間集団の存在様式が相対的に変化するのにともなって、人間の知覚
のあり方もまた変化する。」(p.591,l.7-8)
Ⅴ では、芸術作品の唯一無二性の背景が語られ、その存在様式を「儀礼」に見ている。この点から、ベン
ヤミンは彼の論考の肝である、芸術の儀式への紐づきから政治への転換が語られることとなる。
「〈真正〉な芸術作品の比類のない価値は、つねに儀式に基づいている。」(p.594.l.8)
Ⅵ では、芸術史を礼拝価値、展示価値の二つの極の対決の歴史として描き、芸術作品の重心が交互に
移動してゆくことのうちに見てとる。彼は、魔術に用いられた原始時代の芸術を「第一の技術」とする他方 、
機械技術を用いた現代の芸術を「第二の技術」だと述べ、両者を比較する。前者は一回性の世界であり、
自然の中の技術として多くの人間を犠牲にしていた他方、後者はほとんど人間を必要とせず、自然から
距離を取り始め、その根源に「遊戯」が求められている。この「第一の技術」と「第二の技術」は今やあら
ゆる芸術作品の中に混交して存在するが、後者の技術をもととした芸術、特に映画は、器械装置とのか
かわりの中で生まれた人間の統覚および反応の新しいかたちに人間が慣れ、練習するのに役立つとする。
その上でベンヤミンは以下のように述べる。
「すなわち、第二の技術が開拓した新しい生産力に人類の心身状態がすっかり適応したときにはじめて、
器械装置への奉仕という奴隷状態に代わって、器械装置を通じての会報が生じるであろうということであ
る。」(p.599,l.5-7)
Ⅶ では、写真において展示価値が礼拝価値を押しのけ始めることが述べられる。そして、写真は歴史の
プロセスの証拠物件となり、その政治的意味を獲得し、それは新聞、またのちに続く映画の前座となる。
「写真においては展示価値が礼拝価値を全戦線において押しのけはじめる。しかし、礼拝価値はそれは
最後の砦に逃げこむ。そしてこの砦とは、人間の顔貌である。」(p.599,l.8-10)
Ⅷ では、技術とそれがもたらす価値基準の関係が述べられる。芸術作品を技術的に複製する手法とそ
れがもたらす同文化圏における芸術の種類や評価される価値が、古代ギリシアを例取って語られ、最後
にはその好対照としての映画について言及される。
「ギリシア人は、彼らの技術水準のゆえに、芸術において永遠性の価値を作り出すことに頼らざるをえな
かった。」(p601,l.4-5)
「そして映画のもつこの改良可能性は、映画が永遠性の価値を徹底して放棄したことと関連している。 」
(p.602,l.2-3)
Ⅸ では、新しい技術の誕生が芸術の性格全体を変化させることについて、とりわけ写真と映画を例に述
べられる。ここでベンヤミンは、その指摘が絵画や写真の批評家からは提出されず、映画理論家の言を待
たねばならなかったと述べつつも、映画理論家たちでさえ、映画の中に礼拝的な要素を強引に引き出そ
うとしていたことを教訓的に確認する。
Ⅹ では、写真との比較を緒に、映画の特徴、とりわけ映画俳優の独特の芸術的成果について述べられる。
そこでは監督をはじめ他の専門家の介入が前提されており、俳優は器械装置の前で演技を行いながら、
専門からの判定を引き受ける。ここにベンヤミンは器械装置を目前としながらも己の人間性を保持する
俳優の仕事を見てとり、器械装置に対してその人間性を奪われた都市住民の代理として、復讐を果たす
と論じる。
Ⅺ では、Ⅹで述べられた俳優の仕事について詳しく言及される。ここで再びアウラが引き合いに出され、
映画俳優の仕事を、その人間性をもってしながらも人格のアウラが断念されているという奇異な事態とし
て、舞台俳優の仕事と比較しながら論じる。
Ⅻ では、Ⅹ及びⅪで言及された、「人間が器械装置によって代理されることで、人間の自己疎外は、極め
て生産的に活用されることになった」様について、前述の映画俳優の例をとりながら論じられる。ここで映
画俳優はカメラやマイクという器械装置のチェックを受けるのではなく、チェックする者としての大衆を相
手どることが述べられる。そしてベンヤミンは、「映画が資本主義の搾取から解放されないかぎり、この
チェックを政治的に有効に利用することはできない」と述べ、ここで促進される大衆の腐敗した心身状態
を、ファシズムによる大衆からの階級を意識した心身状態の奪取に結びつける。
XIII では、映画を中心に、今日の人間が持つ自分自身を複製することへの欲求が述べられる。しかし、
西ヨーロッパでは、映画が資本主義によって搾取されているために、人々の正当な欲求がその映画産
業によってスターたちの出世物語や恋愛事件、人気投票などで持って買収・堕落させられていると指
摘する。この搾取でもってベンヤミンは、映画資本の接収をプロレタリアートの急務だと主張する。
XIV では、再び映画と演劇の違いが述べられ、劇場との比較から撮影スタジオに着眼することで、映
画のイリュージョン性が、器械装置によって現実から二次的に獲得された性質だと述べられる。その過
程で器械が現実に深くわけいることで持って、器械から解放された現実の相が逆説的に映し出され、
映画によるリアリティの表現が、その現実を要求する権利を持つ我々現代人にとって、他の芸術にも増
して重要になると結論づける。
XV では、技術進展と、それによる芸術と人々の関係の変化が述べられる。かつての芸術として絵画が
引き合いに出され、その社会的重要性が減少してゆく過程と鑑賞者としての大衆の台頭が並行なも
のとして論じている。
XVI では、映画の社会的機能が述べられる。映画は、カメラの使用によって私たちに周囲の世界につ
いて、これまで視覚における無意識であったなものさえ含めて詳細に理解させ、「これまで予想もしな
かった自由な活動の空間を」人間に約束するのだ。
「映画の社会的機能のうちで最も重要なのは、人間と器械装置のあいだに平衡を作り出すことである
この課題を映画がどのように果たすかといえば、それは決してたんに人間が撮影器械のために自己を
表現する仕方によってではなく、むしろ人間が撮影器械の助けをかりて、自分のために周囲の世界を
表現する仕方によってなのである。」(p.619,l.10-1 3)
「視覚における無意識的なものは、カメラによってはじめて私たちに知られる。」(p.620,l.6)
そして、ベンヤミンは同時に、その集団的な夢の形象における不気味な点も看守して節を終える。
「技術の普及の結果、大衆のなかにどんなに危険な心理的緊張―それは危機的な段階に至れば、異
常心理的な性格をもつことになるーが生み出されたかを考えてみるとき、同時に認識されてくることが
ある。つまり、まさにこの技術の普及のおかげで、そのような大衆の異常心理を防ぐための心理的な予
防接種の手段も作り出されているということである。この手段とは、ある種の映画である。サディズム的
な空想やマゾヒズム的な妄想を不自然に展開させることで、そのような映画はこの空想や妄想が大衆
のなかで自然に成熟する危険を防ぐことができる。」(p.621,l.1-7)
XVII では、芸術の課題を時代に先駆けた需要であると述べ、あらゆる既存の芸術形式は時代の移り
目にあたって、技術の水準が変化したのちにはじめて無理なく生じる効果を先取しようとするために、
既存の芸術形式のいわゆる凋落期における芸術表現は実は最も豊かな歴史的中心である述べる。そ
の例としてベンヤミンが挙げるのが、初期のダダイズムである。曰くその活動は「自分達の作り出した
もののアウラを容赦なく破壊するということ」でもって今日の公衆が映画に求めている効果を絵画や文
学という手段で作り出そうとするものであった。
ここでベンヤミンは、彼が芸術の必要性として見ていることを述べる。
「芸術作品はなにをおいてもあるひとつの要求に応えるべきなのであった。つまり、公衆の怒りをかき
たてることである。」(p.623,l.9-10)
ここで、ベンヤミンの芸術における倫理を見てとることができる、
その後に彼は、芸術作品はある種の触覚的な性質を獲得したとし、その実効性を確認する。
「ダダイストたちにおいて芸術作品は、もはや魅惑的な形姿や説得力ある響きであることをやめ、一発
の銃弾となった。(中略)これによって、映画の需要が促進されることになった。映画のもつ注意散逸を
ひき起こす要素も、ダダの芸術作品の場合と同様、まずもって触覚的要素だからである。(中略) 映画
は、ダダイズムがまだいわば道徳的なショック作用のなかに包んでおいた身体的なショック作用を、こ
の包装から解放したのである。」(p.623,l.16-17)
XVIII では、大衆が母体となり、芸術作品に対する従来の態度の全てが革新されていると述べる。大
衆はその芸術鑑賞において、「気散じ」を求めているとする声が紹介され、ベンヤミンの着眼は大衆と
芸術作品との関係に向けられる。そこで、あらゆる人間に馴染みがある建築を例に取りながら、その変
化に伴って生じる人間の知覚について述べる。
「歴史の転換期において人間の知覚器官が直面する課題を、たんなる視覚、つまり観想という手段に
よって解決することはまったく不可能なのである。それらの課題は、触覚的受容の導きによって、慣れを
通して、少しずつ克服されてゆく。」(p.625,l.16-18)
のちに、彼は以下のように続け、上述のような大衆に対して最も適合した芸術であると評価する。
「気の散った状態での受容は、芸術のあらゆる分野においてますます顕著になってきており、統覚の徹
底的な変化の徴候であるが、このような受容を練習するのに最適の道具が、映画である。 」(p.626,l.7-
9)
XIX では、論考の締めとして、現代の芸術と政治にまつわるベンヤミンの見立てが述べられる。ファシ
ズムが、新たに生まれた大衆を、美的感覚でもって政治的に利用してゆく過程が論じられる。そこでファ
シズムが持ち出すのが、「政治的生活の耽美主義化である」。そして、その集約点として戦争を挙げ、大
衆を動員してゆくとする。
「政治を耽美主義化しようとするあらゆる努力は、ある一点において極まる。この一点とは戦争である。
戦争が、そして戦争だけが、従来の所有関係を保存したまま、現代の技術手段をすべて動員すること
ができる。」(p.627,l.7-11)
そして、今日の戦争の美学が技術と生産力の不自然な利用に認められると述べ、今日の帝国主義の
戦争を技術の使いこなせなさに見る。
「帝国主義戦争とは、技術の反乱にほかならない。技術の要求に対して社会が自然の資源を与えなく
なったので、技術はその要求をいまや〈人的資源〉に向けているのだ。」(p.627l.17-19)
「“芸術は行なわれよ、たとえ世界は滅びようとも”とファシズムは言い、技術によって変化した感覚的
近くに芸術的満足感を与えることを、マリネッティが表明しているように、戦争に期待する。」(p. 629,l.5-
7)
そして本稿は、以下の一文で締めくくられる。
「このファシズムに対してコミュニズムは、芸術の政治化をもって答えるのだ。」(p. 629,l.12)
ここにおいて、ベンヤミンが政治の耽美化というファシズムの戦略に対抗して、芸術を政治的実践の
道具としてみること、すなわち技術を倫理的に扱うことを主張していると読むのが、本稿の主張である。
おわりに
以上で概観した通り、ベンヤミンが論じる技術の進歩とそこでの人間の変化には、一貫して倫理と
政治の問題があった。彼は冒頭からその芸術テーゼに革命的価値を見てとり、複製技術の進展と並
行して生じていた大衆の誕生、およびその威力の増大を肯定的に評価する。今日の技術発展の例とし
て彼が挙げたのは、新聞、写真、トーキー、いずれも政治が紐づくものであった。
ベンヤミンがファシズムの技術利用を述べ、戦争に美的効用が見出されていると論じる点を、ファシ
ズムが戦争を美的に「作為」を働かせる様として読むことはできないだろうか。また、技術の行使者とし
てのファシズムと大衆を思考するベンヤミンの本書での論じ方は技術を 近代国家の本質とみなしたハ
イデガーの見解と、その点においては遠くないように思われるが、確認を今後の課題としたい。
本稿ではあまり触れなかったが、彼の論述において常に念頭にあるものとして、資本主義下の所有
と生産関係がある。ここにおいても、すでに彼が目指す倫理と政治の方向が確認できるように思う。そ
のための道具として美しい技術としての芸術、そして複製技術を扱うことが主張される点でも、同書は
「技術と倫理」にまつわるテクストだと言えよう。
参考文献
ヴァルター・ベンヤミン.(2018).「複製技術時代の芸術」『ベンヤミン・コレクション I』. 久保哲治訳.筑
摩書房