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Marx's Theory of Interest-Bearing Capital Revisited

Article  in  Transactions of the Japan Academy · February 2018


DOI: 10.2183/tja.72.2_25

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Makoto Itoh
The University of Tokyo
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﹃資本論﹄の利子生み資本論︑再考
(平成二九年六月一三日 提出)
会 員 伊   藤     誠
ロ理論と異なり︑貨幣・金融システムを実体的な経済のたんなる媒
 『資本論』における利子論 介とはみなさず︑資本主義経済に内在的な不安定な動態をもたらす
1

重要な一面として扱い︑その点で ・スチュアート(一七六七)の


 マルクスの﹃資本論﹄は一八六七年に第一巻初版が出版された︒ 貢献を吸収し︑ ・ ・ケインズ(一九三六)に先行する重要なマ


今年はその一五〇周年にあたり︑来年はマルクス生誕二〇〇年にあ ネタリーな経済学の体系としての特性をも示している︒
たる︒世界でも日本でもこれを記念する学問的な再考の試みが︑各
 このマネタリーな理論体系としての﹃資本論﹄の特質は︑一九七
分野での学会︑雑誌の特集︑研究集会などであいついでおこなわれ 〇年代以降の欧米マルクス経済学のルネッサンスにおいても︑あま
ることになろう︒﹃資本論﹄ の優れた特色のひとつは︑ 商品経済に り 注 目 さ れ て い な か っ た︒ ・ ラパヴィツァスの新著 Marxist


もとづく資本主義のしくみが︑自然的秩序ではなく︑人間の労働力 ( 2014
Monetary Theory )が回顧しているように︑一九八〇年代にな
の商品化を基礎とする特殊な歴史社会をなしていることを理論的に っても英語圏での政治経済学者たちは︑搾取︑労働関係︑技術︑投
あきらかにしているところにある︒その一環として︑資本主義経済 資︑利潤率の傾向的低下などの﹁実体﹂経済に関心を集め︑貨幣・
の内的矛盾が資本の自己破壊としての恐慌を生ずる必然性にも理論 金融を課題とすることはまれであった︒しかし︑新自由主義のもと
的考察を深めている︒それとともに︑古典派経済学や新古典派ミク で現代世界が金融化資本主義の特徴を強め︑その投機的不安定性が
﹃資本論﹄の利子生み資本論、再考 二五
日本学士院紀要 第七十二巻 第二号 二六
顕著となるにしたがい︑その研究動向にも変化が生じ︑一九九〇年 三ページ)︒
代以降には貨幣・金融に関する政治経済学的論文︑著書が着実に生   そ の 後 も こ の 編 の た め の マ ル ク ス 主 要 草 稿 は︑ ソ 連 解 体 後 に も
みだされるようになっている︒ 世 界 的 な 共 同 作 業 に 引 き 継 が れ て 進 行 中 の MEGA ( Karl Marx,
 これにくらべ︑日本でのマルクスにもとづく経済学の研究は︑戦
) の編集︑ 出版作業においてもいぜ
Friedrich Engels: Gesamtausgabe
前からの蓄積にもとづき︑戦後は信用理論研究学会も形成され︑利 ん未刊行のまま残されている重要な草稿となっている︒
子論についても広範で手厚い研究が積み重ねられてきた︒それは︑  大谷禎之介﹃マルクスの利子生み資本﹄全四巻(二〇一六)は︑
日本の学界の世界的に誇れる特徴のひとつをなしてきている︒ のその編集にも重要な貢献を果たしている著者が︑ 現行エ
MEGA
ンゲルス版の第三巻第五編のもととなったマルクスの(一八六五年
 にもかかわらず︑マルクスの利子・信用論をめぐる研究には︑い
まなお学問的に興味ある諸問題が少なからず残されている︒その重 八 一〇月中旬に執筆された)手書きの草稿全体を邦訳し︑現行版


要な理由のひとつは︑﹃資本論﹄ において利子生み資本と信用制度 との比較を丹念に注記して︑その理論的意義を読み取る努力を重ね
を理論的主題としてあつかう第三巻第五編﹁利子と企業者利得とへ た︑全二〇七五ページにおよぶ労作である︒
の利潤の分裂 利子生み資本﹂が︑全巻中最も完成度の低い草稿に  以下︑この著作からあらためて確認できる﹃資本論﹄の利子生み
よるところであったことにも由来している︒マルクスはそこで︑複 資本論の草稿の構成と内容について︑現行エンゲルス版との対比を
雑で奥の深い考察対象について︑当時の通貨学派と銀行学派との論 ふくめ︑いくつかの要点を摘出してみよう︒
争などを批判的検討の材料として収集しつつ︑論評を加えて︑利子  第一に︑﹃資本論﹄ の第三巻第五編は現行版では第二一章から第
論を拡充しつつあった︒エンゲルスは﹃資本論﹄第三巻への﹁序文﹂ 三六章までの一六章に区分されている︒その全体は︑草稿でも三つ
において︑ この編の多分に未完成な草稿を編集する作業が︑﹃資本 の部分に大別できる︒まず︑現行版の最初の四章にあたる部分では︑
論﹄第二巻の編集出版(一八八五)後に︑(一八六三 六五年草稿﹃資 利子生み資本の抽象的な概念が提示展開されている︒草稿でもこの


本論﹄を主要草稿とする)第三巻の編集作業が大幅に遅延した主要 部分は完成度が高かった︒つぎに︑これに続く現行版では一一の章
( 1894
原因のひとつであったと回顧している( Marx )︑ 邦訳⑥︑ 二 は︑信用制度のもとでの利子生み資本の現実的な姿態を理論的に取
り 扱 っ て い る︒ 草 稿 で は こ の 一 一 の 章 の も と と な っ た 部 分 全 体 に んと読み取れなくなっていたと推測される(同上︑第一巻︑四四ペ
﹁信用︒ 架空資本﹂ という表題が与えられていた︒ エンゲルスがこ ージ)︒
れを第二五章のみの表題としたのは勘違いであった︒最後に︑現行  第二八章﹁流通手段と資本︑トゥクとフラートンとの見解﹂にお
版第三六章﹁資本主義以前﹂の利子生み資本についての考察がおか いて︑﹁では︑ への銀行の前貸しは︑ どの程度まで資本の前貸し


れている︒ とみなされ︑どの程度まで︑支払い手段の前貸しとみなされるべき
 第二に︑エンゲルスの編集では︑マルクスの本論用テキストと︑
か?﹂という問題を︑エンゲルスがマルクスのテキストのように書
材料集めのためのノートの部分との区分が読み取れなくなってい き入れていることも︑草稿に照らしてわかるところで︑そこからも
る︒たとえば︑第二五章﹁信用と架空資本﹂は︑草稿では最初の総 不要な混乱がこれまで生じてきた(同上︑第三巻︑六〇ページ以下)︒
論的な本文テキストに続き︑材料集めのノートが書かれており︑つ さらに現行版により﹃資本論﹄のこの編は︑最初の四章で利子生み
ぎの第二六章﹁貨幣資本の蓄積 それが利子率に及ぼす影響﹂の草 資本論が完了し︑現行版第二五章からは信用制度論が論じられてい
稿も銀行学派の論理とその混乱をあつかった雑録に属する挿論的ノ るとみなされてきた従来の解釈(たとえば三宅義夫(一九七〇))
ートで︑本文のテキストは第二七章﹁資本主義的生産における信用 は︑大谷氏によれば︑その草稿からみても正しくないのであって︑
の役割﹂に続いている︒こうしたちがいは︑大谷氏によれば︑草稿 その編全体が利子生み資本の分析をなしている︒
が ₃判より少し大きい紙を二つ折りにして四ページをつくり︑こ 三二章﹁貨幣資本と現実資本︑Ⅰ︑Ⅱ︑
 第三に︑現行版の第三〇


れをさらに二つに折って︑その上半分に本文を書き︑下半分は︑脚 Ⅲ﹂の部分は︑大谷氏からみても︑信用制度のもとでの利子生み資
注や︑あとからの書き加えなどにあけているのにたいし︑材料集め 本をあつかうマルクスの考察の﹁最も肝心な部分﹂であり︑したが
のノートは︑折り目を無視してページ全体を埋めてゆくマルクスの ってまたマルクスの利子生み資本論﹁全体のかなめをなす部分であ
手書きの方式からわかる(大谷(二〇一六)︑第一巻︑四七ページ)︒ る﹂(大谷(二〇一六)︑第三巻︑一九七ページ)︒そこでは︑﹁信用
エンゲルスは︑アイゼンガルテンという若者に草稿を読んで書き取 制度のもとで︑媒介者としての銀行業者の手中に集中し︑彼らから
らせ︑この筆写稿を使って編集作業をしたため︑草稿の内容をきち 利子生み資本として貸し出される︑ 貨幣形態にある資本﹂(同上︑
﹃資本論﹄の利子生み資本論、再考 二七
日本学士院紀要 第七十二巻 第二号 二八
二〇七ページ) としての の蓄積と現実資本の蓄積と
monied capital ルクスがめざしていたと思われる方向に︑学問的に補正し完成する
の関連が︑周期的恐慌を一環とする産業循環の機構として分析され 作業がくりかえされてよいところであろう︒大谷氏の労作はその基
ている︒﹁﹃資本論﹄全巻のなかでこれほど頻繁に産業循環に言及し 礎としても役立てられてよい︒そのような発想から︑以下本稿では︑
ているまとまった個所はほかにはない︒﹂(同上︑ 二五六ページ)︒ それらの問題点のいくつかにあらためて再考を加えてみよう︒
しかもそのさい︑一方で好況末期に雇用が増大し︑労賃が上昇する
と同時に利子率も上がることに注意をむけつつ︑他方で信用制度を
 利子生み資本論の意義と問題点

2
つうじて︑﹁架空資本﹂ の投機的取引が膨張して急性的恐慌の発生
を媒介する側面が強調されている︒この側面は︑拙著﹃信用と恐慌﹄  ⑴ 利子生み資本の抽象的規定と信用制度論の方法論的前提
(一九七三) でも活かそうと試みたところであるが︑ 周期的で激発  ﹃資本論﹄第三巻第五編の利子論は︑草稿にそくしてみても︑前
的な典型的恐慌の原理を﹃資本論﹄から取り出して整備するさいに 半四章にあたる部分での利子付き資本の抽象的規定の展開とその後
(1)
見逃せないところといえよう︒ の信用制度論にそくした考察とでは︑方法論的前提に相違がある︒
 こうしてマルクスの草稿とそれをエンゲルスが編集してまとめた  前半四章では︑利潤を生む資本として貨幣を有する貨幣資本家


現行版をつうじて︑﹃資本論﹄ の利子論は︑ 多分に未定稿として残 が︑その貨幣を機能資本家 に貸し付けて︑ がそれを資本として


されており︑その全体を構成する利子生み資本の抽象的規定︑信用 充用して取得する利潤の一部を利子として受け取る関係が想定さ
制度のもとでのその現実的姿態や機能︑資本主義以前のその形態の れ︑そこに成立する利子生み資本の規定が示される︒そこには利子
三つの部分の相互関係も︑それぞれの部分の展開も︑なお完成され を特殊な貨幣資本家階級の基礎として考察する発想がふくまれてい
るべき問題点をふくみ︑それらについてマルクス自身の理論的接近 る︒その発想からすれば︑労賃︑利潤︑地代が資本主義社会の三大
にも異なる観点が読み取れるところがある︒そのような問題点は︑ 階級の対抗的利害関係を基礎づけているように︑利子は︑資本家階
宇野弘蔵が試みていたように︑資本主義の世界史的発展段階論や現 級のうちの特殊な貨幣資本家階級の利害を代表するものとして分析
状分析の考察基準となる原理論として︑﹃資本論﹄ を位置づけ︑ マ されがちとなる︒通貨学派と一八四四年銀行条例へのマルクスの論
評の一面にもそのような発想の影響が読みとれなくはない︒ されていると理解されてよい︒とはいえ︑それに続く信用制度にそ
 しかし︑信用制度にそくした利子生み資本の考察では︑むしろ産 くした諸章での考察からすれば︑利子は︑その所得形態に対応する
業資本や商業資本(現実資本)がその回転にともない形成する(蓄 特殊な階級を基礎づけるものではないことになるので︑商業信用と
積準備金︑固定資本の償却基金︑流通期間のつなぎ資金︑価格変動 銀行信用から成る信用制度にそくした利子関係をめぐる理論的格闘
準備金などの)各種の遊休貨幣資本を基礎として︑その相互的利用 を経たのちに︑その前にマルクスがおいていた抽象的な利子生み資
機構としての商業信用と銀行信用のしくみが形成され︑それによっ 本論の展開がどのように再整理されることになりえたか︒
て現実資本の流通と再生産が弾力的に拡大されて︑それにともない
 資本主義的生産にもとづく利子関係は︑むしろ最初から信用制度
利 潤 率 均 等 化 の 運 動 を 媒 介 す る 原 理 が あ き ら か に さ れ る︒ そ こ で をつうじて考察されるものとして︑再構成した宇野(一九六四)の
は︑利子は︑労賃︑利潤︑地代と異なり︑その所得形態がそれに対 試みは︑﹃資本論﹄ の利子論に残る異なる方法論的前提をめぐる問
応する固有の社会階級の基礎をなすものとしてではなく︑利潤を生 題を解消するうえでいぜん有力な方策ではないかと思われる︒
み取得する現実資本(産業資本と商業資本)内部での遊休資本の相  2 市場経済一般の基本形態としての利子生み資本
互融通にともなう再配分関係にそくして考察される︒そのかぎりで
 もっとも︑産業資本と商業資本の遊休資本の相互融通のしくみと
利子率の変動の分析も︑利潤率の動態とときに逆相関となる局面を して︑信用制度を考察するさいにも︑貨幣の債権・債務に利子が支
ふくめ︑ 両者の連関した運動の総体のうちに︑(特殊な資本家階級 払われる利子生み資本の形式そのものは︑資本主義的信用制度のな
の利害にとどまらない)産業循環としての資本蓄積の社会的機構が かではじめて生じたものとはみなしえない︒それは︑資本主義的生
構成され展開されることに考察の重点がおかれることとなる︒ 産がその成立・発展の基盤としている︑市場経済一般の基本的な諸
 むろん前半四章での利子生み資本論でも︑資本主義的経済におい 形態をなす︑商品︑貨幣︑資本のなかの一形態として古くから利子
ては︑資本による剰余価値の取得に遊休資金を効率的に役立てるな 生み資本の形式が存在していたことを理論的にどう扱えるかに︑関
かで︑追加的に取得される利潤としての剰余価値からの副次的再配 わるところとなる︒﹃資本論﹄ も︑ 第一巻第二編の﹁貨幣の資本へ
分を利子として受け取る関係が︑利子生み資本の基本となるとみな の転化﹂論の第三節で﹁労働力の売買﹂を歴史的条件として資本主
﹃資本論﹄の利子生み資本論、再考 二九
日本学士院紀要 第七十二巻 第二号 三〇
義的生産の特徴的しくみに(第三編以降で)分析をすすめるに先立 を説明することは実は困難で︑マルクスもその問題は回避している
(2)
って︑商品︑貨幣︑資本の諸形態とその有機的関連を資本主義にさ ように思われる︒
きだつ諸社会にも(共同体的諸社会のあいだの交易関係から)生ず  とはいえ︑信用制度の考察にさきだって前提されるべき︑利子生
る市場経済の基本形態として考察していた︒ み資本の一般的規定は︑貨幣の蓄蔵や支払い手段の機構とともに︑
 マルクスは︑第三巻第五編で信用制度の考察に入る第二五章の草
市場経済に広く形成されていた﹁信用制度の自然発生的基礎﹂とし
稿の最初のところで︑ その個所に注意をむけ︑﹁私は前に︑ どのよ て︑ 労 働 力 の 商 品 化 に も と づ く 資 本 主 義 的 生 産 の 考 察 に さ き だ つ
うにして単純な商品流通から支払い手段としての貨幣の機能が形成 ﹁貨幣の資本への転化﹂ 論ですでに与えられるものと位置づけられ
され︑それとともにまた商品生産者や商品取引業者のあいだに債権 てよいのではなかろうか︒
者と債務者との関係が形成されるか︑をあきらかにした﹂と述べ︑  3 マルクスの利子生み資本論の理論上の問題点
﹁資本主義的生産様式が発展するにつれ︑ この信用システムの自然  ところがマルクスは︑﹁貨幣の資本への転化﹂ 論で︑ いったんは
発生的基礎は拡大され︑一般化され︑仕上げられていく﹂と記して その存在に論及していた商人資本的形式も利子生み資本形式も︑商
いる(大谷(二〇一六)︑第二巻︑一五九ページ)︒第一巻の貨幣論 品の等労働量交換としての価値法則にてらして合理的に存立しえな
に続く﹁貨幣の資本への転化論﹂においても︑貨幣を用いて貨幣を いものとみなし︑合理的に存立可能な資本は︑労働力の商品化にも
増殖する資本としての運動形式について︑市場経済一般に古くから とづき生産過程を組織する産業資本以外にはありえないとして︑資
﹁大洪水以前的﹂ 姿としてあらわれる商人資本的形式 と 本概念を理論上せまく生産過程を内包するにいたった近代的産業資





高利貸しなどの利子生み資本形式 に論及していた︒第三巻の 本の形態に限定することで︑貨幣が資本に転化する原理を内容的に




第五編の利子論では第三六章﹁資本主義以前﹂で︑史実にそくして︑ 締めくくっていた︒そのため︑第三巻で︑商業資本も利子生み資本
資本主義にさきだつ利子生み資本の意義と(しばしば消費信用によ も︑あらためて︑生産過程にもとづく近代的産業資本の剰余価値の
る収奪的な)機能が解明されている︒そうした利子生み資本一般に 生産関係から派生する資本形式として︑産業資本の基礎のうえに初
つうずる貨幣の貸し付けにより利子を取得しうる共通の合理的根拠 めて発生論的に成立するもののようにあつかうこととなっている︒
 そのような文脈で︑抽象的な利子生み資本の規定もその冒頭部分 生ずる遊休貨幣資本が︑当面利潤をあげる手段として使えないかぎ
でつぎのように導入されている︒すなわち︑
﹁可能的資本としての︑ りで融通されるのであり︑融資を受ける側も通常すでに自己資本を
利潤を生産するための手段としての属性において︑貨幣は商品に︑ 投じて回転させつつ︑これへの追加的借り入れをおこなう資本家的
といっても一つの独特な種類の商品になる︒または︑同じことに帰 企業であって︑たんなる機能資本家ではない︒マルクスのここでの
着するが︑ 資本としての資本が商品になるのである﹂(大谷(二〇 規定では︑貨幣が資本主義の基礎のうえではつねに利潤を生産する
一六)︑第一巻︑一六九ページ)とされ︑その例証として︑(みずか 手段となる属性をもつことを強調しすぎており︑借り手も古典的に
(3)
らは機能しない)たんなる貨幣資本家 が(みずからは資本を所有 は資本家に絞られていたことが不明確になるのではないか︒

しない)たんなる機能資本家 にそのような属性を持つ貨幣を貸し  第三に︑マルクスによる抽象的利子生み資本論の展開は︑さらに


付けて︑ がその貨幣を投資してあげる利潤の一部を利子として すすんで自己資本による現実資本もその利潤が利子と企業者利得と



に支払う関係が示される︒しかしこうして導入され︑展開される利 に質的に分割され︑すべての資本がそれ自身に利子を生むものとし
子生み資本の抽象的規定にはいくつかの理論上の問題がある︒ ての物神的表象が一般化するという資本の物神化を説いている︒そ
れは︑資本主義経済の日常意識のなかにある程度生じうる観念の形
 第一に︑貨幣の貸し付けにより利子をえる資本の形式が︑資本主
義的剰余価値の生産に基礎をおいてはじめて成立するかのように︑ 成を解明する試みではあるが︑信用制度にそくした利子関係︑とく
理論構成が読みとられるおそれが大きい︒後払いとしての商品の売 に大谷氏もマルクス利子付き資本論全体の﹁かなめの部分﹂とみて
買やそれにともなう支払い手段としての貨幣の機能が︑商品経済の いる﹁貨幣資本と現実資本﹂の部分でも︑内容的に活かされてはい
ある程度の発達にともない資本主義にさきだって存在し︑資本主義 ない︒資本主義経済の現実の運動機構のなかで︑諸資本の競争を媒
的信用制度もこれを﹁自然発生的基礎﹂としているように︑貨幣の 介する利潤や利潤率が︑利子関係の展開を介し︑関心の外におかれ
債権・債務に利子が支払われる関係も︑資本主義的信用制度の﹁自 るようになることは原理的にありえないのではなかろうか︒
然発生的基礎﹂となっているとはいえないのであろうか︒  第四に︑貨幣の商品化と資本の商品化は︑同じこととみなしてよ
いかどうか︒信用制度をつうじて成立する貨幣市場での遊休資金と
 第二に︑信用制度にそくしてみると︑資本の回転運動のなかから
﹃資本論﹄の利子生み資本論、再考 三一
日本学士院紀要 第七十二巻 第二号 三二
しての貨幣の商品化にたいし︑株式資本としての資本の商品化の規 れていた︒﹃資本論﹄ を経済学の原理論として位置づけて整備する
定は︑抽象的な利子生み資本論なりその具体化としての信用制度論 宇野の発想を継承しつつ︑この点を補整する試みもその後(山口重
の一面として︑定期的収入が利子率で資本還元されて擬制資本とし 克(一九八五)︑伊藤誠(一九八九)などで)すすめられてきている︒
て評価され一例のように論及されるにとどめられてよいかどうか︒ そのような補充は加えたうえで︑﹃資本論﹄ の理論体系︑ とくに信
もともと﹃経済学批判要綱﹄執筆当時(たとえばエンゲルスあて一 用機構をつうずる現実資本と貨幣資本の蓄積の動態をめぐる理論的
八五八年四月二日付手紙などで)マルクスは︑資本についての理論 考察を︑産業循環と恐慌の原理的考察基準として整備しつつ︑さら
的考察を資本一般に続き︑競争︑信用︑株式資本の四編で構成し︑ に現代資本主義の動態に顕著な深刻な投機的不安定性を生じている
信用論とは区分された株式資本論で締めくくる構想を有していた︒ 資本蓄積の社会的機構の動態解明にさいしてもその適用可能性を検
株式資本としての資本の商品化による資金の動員︑資本の集中︑擬 討することが︑あらためて学問的興味をひく時代となっているよう
制資本としての株価形成︑それにともなうヒルファディング(一九 に思われる︒
一〇)のいう創業者利得などのキャピタルゲインの理論的意義など  たとえば一九七〇年代初頭に戦後の高度成長を終焉させた経済危
を︑信用制度をつうずる貨幣の商品化市場の機構にたいする株式資 機も︑ブレトンウッズ国際通貨体制の崩壊にともない通貨・信用の
本としての資本の商品化の原理として考察する課題は︑﹃資本論﹄ 膨張をうながした金融政策の誤りやそれに触発されたインフレ高進
の利子論に残されていた課題のひとつであったといえよう︒ の期待による投機の膨張によるインフレの悪性化に起因すると分析
されるだけでは十分ではない︒むしろ高度成長期の継続的資本蓄積
 新自由主義的金融化資本主義の意義と限界 の末に︑先進諸国の内部の労働力と世界市場での一次産品の供給余
3

力の制約をこえる現実資本の過剰蓄積が進展し︑労賃と一次産品価
 この最後の問題点は︑マルクスの信用論が一九世紀中ごろまでの 格とが高騰して利潤を圧縮する危機が深化していたことが︑ブレト
イギリス資本主義を主要な考察基盤としていたことにともなう限界 ンウッズ体制崩壊過程での通貨・信用膨張と重なってインフレ恐慌
でもあり︑ それは宇野弘蔵の﹃経済原論﹄(一九六四) にも共有さ からスタグフレーションへの経済危機をもたらしたことを重視しな
ければならない︒それは︑マルクスが信用と恐慌の原理的考察にお 気循環(ミンスキー・サイクル)の定式化が︑現実的妥当性を感じ
いて提示していた論理が現代的様相のもとに大規模に再現されて︑ させるような︑株式市場と不動産市場をめぐる投機的バブルが︑長
その後の長期にわたる現代資本主義の危機と再編の過程への転換を 期不況基調のもとでの一時的景気回復の重要な要因となりやすいの
媒介したことを意味している︒ は︑こうした先進諸国の現実資本の蓄積の停滞基調にもとづく貨幣
 その後の危機と再編の長期にわたる過程で︑新自由主義が先進諸 資本としての資金の過剰化傾向と深く関わるところと理解されてよ
国の経済政策の基調となり︑高度情報化技術を新たな発展の基礎と い︒
しつつ︑グローバルな多国籍企業の投資・営業活動を拡大し︑海外
 その意味では︑マルクスが一九世紀中葉の古典的周期的恐慌の発
の安価な労働市場を利用する度合いを高めるとともに︑先進諸国内 生過程について︑重要な一契機とみなしていた信用制度の弾力的拡
部でも安価で弾力的調整の可能な各種非正規の雇用を激増させ︑不 大が投機的取引を助長して︑資本の自己破壊を生ずる一面が︑その
況局面に特徴的な労働コストの﹁合理化﹂︑ 産業予備軍の再形成を 後︑商業銀行を中心とする貨幣の商品化市場にもとづき︑さらに株
すすめてきた︒労働力商品化の原理的無理は︑この局面では労働生 式資本としての資本の商品化と不動産の擬制資本としての取引をふ
産 性 の 上 昇 に よ る 成 果 が 労 働 者 に 還 元 さ れ ず︑ む し ろ 雇 用 が 不 足 くむ資産市場の拡大にも引き継がれて︑一見︑現実資本の蓄積の動
し︑実質賃金が抑制され︑切り下げられる傾向に示され︑それにと 態から遊離した金融界の投機的発展とその崩壊が産業や商業にはね
もない先進諸国では消費需要が容易に回復せず︑設備投資も停滞基 返る恐慌を生じているようにすらみえる︒その金融界の投機的活動
調からなかなか脱しにくい傾向に集約されて発現されているといえ とその崩壊の反復も︑一部の強欲な金融資本家階級の活動のみには
よう︒ 帰せられない︑金融システム全体の不安定化した機構的作用による
 それを反映して金融諸機関には︑不況期に特有な資金の過剰が利 ものとみなければならないであろう︒
子率の低位をともない大規模に長期にわたり存続する傾向が生じて
 その根底には︑この長期不況のもとでの現実資本の蓄積の困難と
いる︒ ・ミンスキー(一九八二)が一般理論のように提示してい 停滞︑労働者の雇用とその条件の抑圧傾向が︑一方で金融的な資金

る金融市場を中心とする投機的投資の膨張とその破綻のもたらす景 の過剰傾向をもたらして︑その株式や不動産などの擬制資本への投
﹃資本論﹄の利子生み資本論、再考 三三
日本学士院紀要 第七十二巻 第二号 三四
機的取引を景気回復の契機としやすくしている背景をなしているこ 注
とに注意しなければならない︒他方で︑日本の一九八〇年代末の巨 (₁)宇野弘蔵(一九五三)は︑周期的恐慌の原理を﹃資本論﹄の蓄積論︑
利潤論︑ 信用論を活かし︑ 労働力の商品化にもとづく資本主義経済の
大バブル膨張の一面をなし︑アメリカではサブプライム恐慌にさき
内在的矛盾の発現として解明する筋道をあきらかにしている︒しかし︑
だつバブルの中心問題となったように︑広範な労働者家計にまで住 そのさい︑ 好況末期に発展する投機的取引やそれを助長する信用の役
割は︑ その重要な担い手となる商業資本の機能とともに︑ 実際には重
宅金融などの消費者金融を売り込んで︑労働力の商品化の無理に加
要であるが︑ 原理的には捨象してよいとしていた︒ 拙著(一九七三)
え︑労働力の金融化を深化・拡大して︑搾取と収奪を現代的な金融 でも述べたように︑ この論点には好況末期から恐慌期にかけての利子
システムの重要な一機能としていることにも分析を深めなければな 率騰貴の論理と意義をあきらかにするうえでも補正を加えておきたい
と考えている︒ この論点はまた︑ 現代の金融不安性問題にも原理的考
らない(伊藤(二〇〇九))︒それはマルクス信用論が︑古典的信用 察基準を与えうるところでもある︒
制度にそくして︑産業資本の蓄積に社会的遊休資金を役立てる機能 (₂)ケインズが高く評価していた ・ゲゼル(一九二〇)が︑ベーム・

S
バヴェルクによりつつ︑ 資本家は利子をなぜ受け取ることができるか
を︑資本主義以前の利子生み資本の高利貸し的消費金融の収奪的役 について︑ 従来の利子論を︑ 結実理論︑ 生産力理論︑ 効用理論︑ 節欲
割と対比していたのにたいし︑現代の金融システムが新たに拡充し 理論︑(資本家の︱伊藤)労働理論︑搾取理論の六類型に分けていずれ
も満足すべき回答を与えていないとしていたことには︑ もっともなと
ている一種の歴史的逆流作用ともいえよう︒ピケティ(二〇一四)
ころがある︒ これにたいし︑ ゲゼルは︑ 貨幣が他の商品とくらべて持
の経済格差再拡大の分析にも︑金融システムの果たしているこうし ち越し費用がかからない物的特性の優位性から取引にさいし利子がえ
られるとする理論を提示していた︒ しかし︑ 同様に腐食せず持ち越し
た役割が補充されてよい︒
費用のかからない特性を有していても貨幣と異なり利子をえて取引で
 こうした諸側面にわたり︑その草稿とあわせ﹃資本論﹄第三巻第 きない財もあるので︑ ゲゼルの利子論も十分納得できるものとはいえ
五編の利子論の展開構成には︑現代資本主義の金融化の意義と問題 ない︒ むしろ利子取得の一般的根拠を問う問題はさけて︑ しばしば収
奪的機能も発揮していた利子生み資本の形式が︑ 古くから市場経済一
点を解明する原理的考察基準としても︑幾重にもたちもどり再考し 般のなかに商人資本形式とともに形成され存在していたことを認めた
吟味すべき多くの論点がいまなお示唆されていると考えられる︒ うえで︑ 利子の合理的根拠︑ 内実︑ 機能︑ 水準決定論などを資本主義
経済にそくして考察するマルクスの理論構成にしたがうしかないので
はなかろうか︒
(₃)この論点は︑信用制度論にさきだつマルクスの利子生み資本論の方 Lapavitsas,( ) , Marxist Monetary Theory. Brill.
C. 2017
法論上の問題点として宇野弘蔵(一九六二) によっても提示されてい Marx, ( ) , Das Kapital, Bd. , , . In Marx-Engels Werke, Bd.
K. 1867, 84, 94
た︒大谷氏はこれに論及し︑松下幸之助︑田中角栄の資本家への転化を︑ 岡崎次郎訳﹃資本論﹄① ⑨︑国民文庫︑一九七二 七五年︒




23-25.
宇野への反証としている(大谷(二〇一六)︑第四巻︑四〇二 三ペー Minsky,( ) , Can “It” Happen Again? 岩佐代市訳﹃投資と金融﹄日本


H. 1982
ジ) が︑ その事例は︑ どのように無所有の機能資本家として両名が事 経済評論社︑一九八八年︒

業資金を︑ たんなる貨幣資本家から借り受けたのか︑ 古典的銀行業務 Piketty,( ) , Capital in the Twenty-First Century, translated by Arthur
T. 2014
にそうした事例がどれほど一般化できるのか︑ なお補足的説明を求め Goldhammer. 山形浩生・ 守岡桜・ 森本正史訳﹃ 世紀の資本﹄ みすず

21
たいところである︒ 書房︑二〇一四年︒
Stuart,(J. 1767
) , Principles of Political Economy, 2 vols.
小林昇監訳・竹本洋
参照文献 他訳﹃経済学原理﹄ 名古屋大学出版会︑ 第一・ 二編︑ 一九九八年︑ 第
伊藤誠(一九七三)﹃信用と恐慌﹄東京大学出版会︒ 三 四 ・ 五 ・ 編︑一九九三年︒
伊藤誠(一九八九)﹃資本主義経済の理論﹄岩波書店︒
伊藤誠・ ・ラパヴィツァス(二〇〇二)﹃貨幣・金融の政治経済学﹄岩
C

波書店︒
伊藤誠(二〇〇九)﹃サブプライムから世界恐慌へ﹄青土社︒
宇野弘蔵(一九五三)﹃恐慌論﹄岩波書店︒岩波文庫︑二〇一〇年︒
宇野弘蔵(一九六二)﹃経済学方法論﹄東京大学出版会︒
宇野弘蔵(一九六四)﹃経済原論﹄岩波書店︒岩波文庫︑二〇一六年︒
大谷禎之介(二〇一六)﹃マルクスの利子生み資本﹄全四巻︑桜井書店︒
山口重克(一九八五)﹃経済原論講義﹄東京大学出版会︒
Gesell, S. (1920), Die natürliche Wirtschaftsordnung durch Freiland und
相田愼一訳﹃自由地と自由貨幣による自然的
Freigeld,4 Auflage, Berlin.
経済秩序﹄ぱる出版︑二〇〇七年︒
Hilferding, ( ) Das Finanzkapital,
R. 1910 林要訳﹃金融資本論﹄大月書店︑
一九五二年︒
Keynes, J. ( ) , The General Theory of Employment, Interest and Money,
M. 1936
塩谷九十九訳﹃雇用︑ 利子および貨幣の一般理論﹄ 東洋経済新報社︑
一九四一年︒
﹃資本論﹄の利子生み資本論、再考 三五
25.
Otani, T. (2016), [Marx s Interest-Bearing Capital,], 4vols. Sakurai-Shoten.

日本学士院紀要 第七十二巻 第二号
三六
under the contemporary feature of inflationary financial instability, the basic social
mechanism that formed an over-accumulation of real capital in relation to labor-
power and primary products, which Marx stressed in his classic theory of credit and
﹃資本論﹄の利子生み資本論、再考

crisis, actually reappeared on a large scale and re-enforced successive long processes
of repeated crises and the re-arrangement of capitalism in our current age of neo-
liberalism.
 In most advanced economies, neo-liberal capitalism has increased the presence of
irregular forms of cheaper employment by utilizing information technology (IT) to
promote automation systems in factories, as well as in offices. At the same time,
multi-national firms have shifted more of their factories and offices abroad into
developing countries in Asia and other regions, where relatively cheap labor is still
abundant. Thus, industrial reserve armies have been formed anew both domestically
and globally, which have tended to depress real wages together with consumer
demand in advanced countries, where real capital investment has also become
stagnated.
 As a result, a plethora of loanable money capital, which characterized the
depression phase in the classical business cycles recognized by Marx, became
chronically prevalent and tended to be mobilized repeatedly into speculative trading
bubbles in markets of real estate and stocks. An important aspect of such speculative
financial trading today is that a wide range of wage-earning households has become
deeply involved in consumer credit, especially in the form of housing loans, and
these households have suffered from massive capital losses, as well as foreclosures,
when the bubbles burst. In this aspect, contemporary financial systems seem to have
broadly revived the pre-capitalist usury type of exploitative consumer credit by
financializing labor-powers anew.
 Including this aspect, Marx’s theory of interest-bearing capital as a whole is still
worth revisiting as a basic frame of reference when analyzing the financialization of
capitalism today.
三七

Bibliography:
Hilferding, R. (1910), Das Finanzkapital, Dietz Verlag.
Lapavitsas, C. (2017), Marxist Monetary Theory, Brill.
Marx, K.(1867, 84, 94), Das Kapital, Bd.Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ. In Marx-Engels Werke, Bd.23-
 In his introduction of the abstract notion of interest-bearing capital, Marx also
defined that money (with a capacity to gain profit) becomes a special kind of
commodity or ‘what comes to the same thing, capital becomes a commodity’.
However, this definition is too premature to identify the commodification of money

日本学士院紀要 第七十二巻 第二号
and capital. A money market emerges as a market for loanable money capital among
banks in a credit system, but it is theoretically separate from a capital market
represented mainly as a stock market. Marx’s own initial plan to construct a
theoretical system of capital in four main parts—capital in general, competition,
credit, and joint-stock capital (as expressed in his letter to Engels dated April 2,
1858) was not fully realized.
 In this regard, Marx’s theory of interest and credit has to be extended and
completed as a basic theory of finance by supplementing the theory of joint-stock
capital, which follows the initial attempt by Hilferding (1910).

3. The Relevance of Marx’s Theory of Financial Instability Today


 Marx’s theory of financial instability in the process of industrial cycles suggests
that re-intensified financial instability today should be analyzed in the context of
dynamic changes in the social mechanisms of the accumulation of real capital and
money capital, not just as a result of speculative actions by the greedy financial
capitalist class, as found on Wall Street.
 The economic crisis at the beginning of the 1970s, which appeared at the end of
a period of high economic growth in the advanced economies after World War Ⅱ,
initiated financial instability in the form of inflationary crises and stagflation. The
mismanagement of financial policy that promoted an excessive supply of currency
and credit in the process of breaking down the Bretton Woods international monetary
system was surely one of the causes of serious inflation. It cannot explain, however,
why this process led to serious inflation overall, rather than speculative bubbles in
the stock and real estate markets, unlike the later period since the middle of the
三八

1980s. Therefore, we have to look behind the excess supply of money and credit and
see that the fundamental over-accumulation of real capital in advanced countries, in
relation to the limited flexibility in the supply of both domestic labor-power and
primary products in the world markets, caused rapid increases in the wages and
prices of raw materials (including crude oil), which squeezed profit rates. Thus,
made. This confusion might have resulted from the fact that Engels did not use
Marx’s original hand-written draft, but a copy made by someone after hearing
Engels’ oral presentation of the draft.
﹃資本論﹄の利子生み資本論、再考

 Third, the draft pages from which Engels wrote chapters 30–32 on “Money
Capital and Real Capital Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ” are most important in the second segment. In the
complete volumes of Capital, Marx treats here the capitalist mechanism of industrial
cycles and crises to the greatest degree by stressing the roles of rises in wages and
interest rates, along with the ongoing speculative trading of fictitious capital toward
the end of prosperity.

2. Significance and Problems in Marx’s Theory of Interest-Bearing Capital


 There are different theoretical views when Marx’s analyses of the abstract notion
of interest-bearing capital in the first four chapters of Part V in Capital Ⅲ are
compared to the successive analyses of interest-bearing capital under concrete
relations with the credit mechanism.
 In the first four chapters, the abstract notion of interest-bearing capital is
introduced by assuming that a mere money capitalist A lends his money (with a
capacity to gain average profits on the basis of a capitalist system of production) to
a mere functioning capitalist B and receives interest from B’s profit, together with
return payments of principal money. In such a treatment, interest appears as an
economic foundation for a specific sort of money capitalist class, just as wages,
profits, and rent are the economic bases for the three major classes in modern
society: wage-workers, capitalists, and landowners.
 In contrast, in Marx’s analyses of credit systems, he theoretically emphasizes a
capitalist social mechanism mutually to utilize idle money capital (such as
depreciation funds, accumulation funds, or money to prepare for price fluctuations
in the marketplace and shifting processes of production) regularly borne in the
turnover of real capital (through the system of commercial credit and bank credit).
三九

Here, interest appears as a redistribution of additional profits obtained through the


credit mechanism among capitalists, not limited to a special money capitalist class.
 Moreover, the theoretical significance of Marx’s recognition of the pre-capitalist
existence of interest-bearing capital as a form of usury remains to be reconsidered
in one way or the other.
Marx’s Theory of Interest-Bearing Capital Revisited

日本学士院紀要 第七十二巻 第二号
Makoto ITOH, M. J. A.

1. The Theory of Interest in Marx’s Capital


 One of characteristic theoretical contributions in Marx’s Capital is its systematic
attempt to focus upon money and finance as a social mechanism for both flexible
growth and instability of capitalist market economies. This was rarely recognized
by Anglo-Saxon political economists in the initial phase of the Renaissance of
Western Marxian Economics until the 1980s, as Lapavitsas (2017) states. With the
financialization of capitalism, a steady output of articles and books on money and
finance is found among Western Marxian economists. In contrast, Japanese Marxian
economics has long accumulated studies of money and finance, even forming the
Academic Association for the Study of Credit Theory as early as the 1950s.
 However, not a few interesting problems still remain about how to read and apply
Marx’s theory of interest. They originate from the fact, among others, that Marx’s
draft for Part V of Capital Ⅲ on Interest-Bearing Capital was mostly unfinished and
difficult even for Engels to edit.
 Otani (2016) carefully exerted a remarkable effort over many years to translate
and interpret Marx’s original draft of Part V and he commented on every difference
that he found in the existing version edited by Engels. We learn at least three main
points from his effort, as follows.
 First, Marx’s complete draft for Part V of Capital Ⅲ, which was edited to form
16 chapters (chapters 21–36) by Engels, was divided into three different segments.
The first segment comprises the somewhat completed first four chapters on the
abstract notion of interest-bearing capital. The second segment is an unfinished
draft of the concrete forms of interest-bearing capital in the credit system. The title,
四〇

“Credit and Fictitious Capital” represented this segment as a whole, not just the
initial chapter 25. The third segment is titled “Pre-Capitalist Relations,” which was
edited by Engels as chapter 36.
 Second, in Engels’ edition, the distinction between Marx’s draft of the main text
and the notes or collection of materials that required further editing is not clearly

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