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日本刀はなぜ弯曲したか

弯刀の起源と日本の刀術 ー 香取神道流からの一考察
町田市 菅原鉄孝 (香取神道流武術教師)
一、まえがき 刀 な ど に 発 展 し ま す。 剣 よ り 遅 れ て 発 生 し た 弯 刀 系 の 蕨 手
刀 が 古 墳 時 代 後 期( 七 世 紀 末 ) に 出 現 す る と、 や が て 弯 刀
日本の出土刀を調査した石井昌国氏によると、日本では古
系の毛抜形刀や太刀が主流になっていき、
墳 時 代 前 期 頃 か ら 剣 と 平 造 直 刀 が 使 わ れ て い ま し た が、 古

毛抜形刀、太刀
平安中期頃に鎬造日本刀が完成したと考
墳時代後期から奈良時代にかけて鋒両刃造直刀や鎬造り直

1
えられています(図1参照)。剣の発展は
殆ど日本ではみられていません。
石 井 昌 国 氏 の こ の 研 究 論 文 は『 蕨 手 刀 』
(注1)にまとめられていますので、そちらを参照してくだ

図 1. 石井昌国著『蕨手刀』134頁より抜粋
さい。
本 稿 は、 そ の『 蕨 手 刀 』 論 文 を 前 提 と し て お り、 そ の 目
的は世界的な視野から弯刀がどのように普及したかの理由
を考察することにあります。
日 本 の 武 道 流 派 の 刀 術( 剣 術 ) を 見 る と、 日 本 刀 が 完 成
した平安中期から鎌倉時代にかけて弯曲を応用した太刀術
が 出 来 あ が り、 そ の 太 刀 術 が 基 本 に な っ て 型 中( 国名では
套路 が ) 組み立てられるようになっています。この様になっ
た歴史的な背景や武術を、香取神道流の武術とその歴史か
ら考察してみたいと思います。
香取神道流(以下「香取」)を取り上げる理由は、この流 ため」なのです。更には右手で柄を
派 か ら 派 生 し た 流 派 が 非 常 に 多 く、 中 世 武 術 の 重 要 な 源 流 握 り、 左 手 で 刀 身 の 棟 を 押 さ え て、

写真 2. 柄当て(水月、顔面)
と な っ て い る か ら で す。 こ の 流 派 に は い ま だ に 多 数 の 技 が 柄当て(写真2)することも可能で
正 確 に 伝 承 さ れ、 他 流 派 に 伝 え ら れ た 武 術 は そ の 技 の 一 部 す。
に す ぎ ま せ ん。 し か し、 一 つ 一 つ の 技 に は 名 称 が な い の で 写真1のように相手の攻撃を刃で
伝承が難しく、全技術は香取神道流だけが保有しています。 がっちり受け止めると、一回で刀に
しかし、その継承も時代とともに難しくなってきていますの 損傷を与えてしまい使い物にならな
で、 こ こ で 写 真 を 少 し 使 い、 基 本 的 な 知 識 と 弯 刀 の 使 い 方 を くなるでしょう。
明 ら か に し て お き た い と 思 い ま す。 型 に つ い て の 紹 介 は 致 「 曲 が ら ず 」 と い う 点 に つ い て は、
しません。長過ぎるからです。 試しに刀身の中央を横から手で
一 言 お 断 り し て お き ま す が、 本 稿 は 国 内 の 弯 刀 だ け を 対 象 抑えると、簡単に曲がってしま

写真 3. うける暇があれば、一歩踏み込んで頚
に す る の で は な く、 世 界 の 歴 史 の 中 で 日 本 刀 が な ぜ 弯 曲 化 います。それほど弱いものなの
したか、その理由を考察するのが最終目的であって、香取神 で す。 日 本 刀 は 一 旦 バ ラ ン ス が

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道 流 や 筆 者 個 人 の 宣 伝 が 目 的 で は あ り ま せ ん。 是 非 と も ご 崩れると使えなくなってしまい
理解いただきたいと思います。 ます。したがって刃で相手の攻

動脈を斬ることができる
撃を受け止めることはできない
二、弯曲した理由について
と 考 え る べ き な の で す。 現 代 の
「日本刀は折れず、曲がらず、よく切れる」と言われますが、 竹刀武道やアニメ映画では刀を
日本刀が弯曲を強めた理由はよく切れるようにするためで 壊れないものとして叩き合って
は な く、 刃 や 刀 身 の 損 傷 を 受け止めていますが、実戦なら
防ぐために片側を刃から棟

写真 1. 実戦では攻撃の刃を刃で受
ば刀身が曲がったり、刃がぼろ

写真 4. 小手を下から斬りあげ、
同時に肝臓を突くことができる
に 換 え、 棟 の 反 り で 敵 の 武 ぼろになってしまうことは間違

け止める事はできません
器を抑えるために弯曲した いありません。
と断言出来ます。つまり、「弯 武術の型をご覧になると一見
曲 部 分( 棟 ) で 相 手 の 武 器 受け止めているように見える動
を 抑 え、 刃 を 傷 つ け ず に 即 作(写真1)も、実は別の意味
座に反撃できるようにする
を 含 ん で い ま す。 例 え ば、 一 歩 踏 み 込 ん で 頚 動 脈 を 斬 り 込 そ の 際 特 に 必 要 な の は、 例 え 小 刀( ナ イ フ ) と い え ど も、
む(写真3)、或いは相手の小手を下から斬りあげる(写真4) 、 一つ一つの使用目的と使い方(武術)があるので、それを研
といった意味なのです。「受けるひまがあれば斬れる」とい 究 す る こ と が 重 要 で あ り、 そ の 理 由 は 必 ず あ る は ず な の で
うのが香取の教えです。 す。日本刀に限らず世界の弯刀が、弯曲化した理由も必ずあ
写 真 4 は 小 手 と 肝 臓 を 同 時 に 打 っ て い ま す。 相 手 は こ の り、それを研究することは刀を使う上でとても大切なことだ
時右手をあげて防ぎ、同時に此方の頚動脈を狙って来ます。 と思います。美術品的思考からいったん切り離し、武用刀と
もし突いて来たら此方の刀の棟ではね飛ばします。この様に して日本刀を考察することを提案したいのです。
型は次から次へと攻防が続くので一つ一つの技に名称は無 そうすることによって、世界の歴史の中に日本刀を置くこ
く、 現 代 の よ う に 一 手 だ け の 簡 単 な 技 で 終 り と な ら な い の で とができ、世界中の研究者が日本刀を論ずることができるよ
す。 うになるのです。現在の美術鑑賞だけでは、国内や海外の考
古学者が参加する余地はないと思われます。
三、武用刀としての日本刀
余談ですが、筆者は今年9月にブダペストで武術指導をす
日 本 刀 を 世 界 の 歴 史 の 中 に お い て 考 察 し よ う と す る 場 合、 る予定でいますが、その合間に、日本刀講座をしていただき

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最初に指摘しておかなければならないことがあります。 た い、 と の 依 頼 を 受 け ま し た。 ハ ン ガ リ ー で は、 日 本 刀 の
それは現代の刀剣鑑賞 鑑 (定 学 ) において、日本刀を美術 ことを知っている人は殆どいないとのことでしたので、今後
品 と し て 鑑 賞 し て い る 点 で す。 換 言 す る と、 刀 剣 を 美 術 的 このような機会が増えることを期待して引き受けることにし
観点から評価していると言えます。このようになったのは、 ま し た。 ま た 見 識 を 広 め る 意 味 で も 当 地 の 考 古 学 者 に も 参
戦 後 GHQ国 ( 連軍 に ) よって刀剣を作ることも使うことも 加していただくようお願いしました。
禁 止 さ れ、 や む な く 武 器 で は な く 美 術 刀 剣 と し て 作 る こ と 筆者の勉学のためにも、ぜひ成功させたいと思います。そ
で 合 意 さ れ、 作 刀 が で き る よ う に な っ た と い う 経 緯 が あ る か の 時 に は、 蕨 手 刀 や 弯 曲 化 し た 歴 史、 弯 刀 を 使 う 武 術 な ど
らでしょう。 も含めたテーマを予定しています。本稿はその一部分をなし
し か し、 単 に 輝 い て い る 日 本 刀 を 鑑 賞 す る だ け に 留 ま っ て ています。
い る と、 真 の 日 本 刀 の 歴 史 が、 世 界 の 刀 剣 の 歴 史 か ら 切 り したがって、世界の歴史を根底において、それと関連付け
離 さ れ て し ま う の で は な い か、 と の 懸 念 を 抱 き ま す。 日 本 ながら日本刀が弯曲化した理由を考えたいと思うのです。
刀を武用刀として世界の歴史の中に置いて武術的な面から その例として、弯刀を使うようになった日本の武術流派の
考 察 す る こ と が 必 要 で あ り、 そ れ に は、 錆 び つ い た 出 土 品 基幹の一つである香取神道流総合武術の太刀術をとりあげ
も含めた刀剣学が必須だと考えるのです。
て説明し、それによって弯刀が形成された理由を少しでも理 京八流と呼ばれていますが確かなことは
図3. 渦巻紋
解していただけるようにしたいと思います。 わかっていません。
幸 い に も 筆 者 は、 日 本 武 道 の 中 興 の 祖 と も 称 さ れ る 飯 篠 長 鞍馬流ができたのは香取神道流より
威 斎 家 直 公 が 創 始 し た 天 真 正 傳 香 取 神 道 流( 千 葉 県 教 育 委 後 で、 流 祖 の 大 野 将 監( 一 五 七 三 ~
員 会 指 定 の 無 形 文 化 財。 弯 刀 術 ) を、 5 0 年 近 く 修 行 し て 一五九三)は何人について修業し、この刀法を編み出したか
きました。総合武術には甲冑を付けた時の「表之太刀」 、甲 は 明 言 さ れ て い ま せ ん。 現 在 残 さ れ て い る 型 は 非 常 に 短 か
冑をつけない着流しの「五行之太刀」、「棒術」 、「長刀」 、「両刀」 、 いようです。しかし、「巻き落とし」という技がありますので、
「 小 太 刀 」、「 七 条 之 太 刀 」、「 槍 術 」 な ど が あ り ま す。 全 て の 渦巻き状に弯刀を使う武術が既にあったことが伺われます。
型 が 対 練 形 式 に な っ て お り、 弯 曲 し た 太 刀 が 中 心 的 に 使 わ これに比べると、香取神道流の型は、例えば甲冑の型では
れ て い ま す。 こ の 他 に 風 水 に よ る 築 城 術 が あ り、 忍 術、 手 四 つ の 型 に 構 成 さ れ て お り、 型 の 中 の 一 つ 一 つ の 技 が 連 続
裏剣術などを含んだ総合武術流派が香取神道流なのです。 して非常に長く続くのが特徴です。互いに陰になり陽になっ
て甲冑の弱点を打ち合うようになっています。
四、香取神道流の特徴
一つの型には、全く異なる弯刀術が、打ち込み側だけでも
創始者飯篠長威斎家直公(一三八七~一四八九)は弯刀術

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約 十 五 技 が 含 ま れ て い ま す。 こ の よ う な 武 術 は 世 界 中 の ど
が発達した鎌倉時代(一一八五~ こにも残っていないので、大変貴重な存在と言えます。
一 三 三 三 ) よ り 後 世 の 人 で す。 し
図 2. 飯篠長威斎家直公

たがって弯刀術を修得した人か 五、修験道について
ら 伝 授 さ れ た と 推 察 さ れ ま す が、 筆者の師であった大竹利典先生は、筆者が出版を依頼した
伝承では神変童子から教わったこ 際、「もう秘伝の時代ではないから武術を公開しよう」とい
とになっています。神変童子とは う こ と で 承 諾 さ れ、 三 冊 の シ
山 岳 修 行 者、 山 伏 で は な い か と リーズ書を筆者が出版しまし
考 え ら れ ま す。 鎌 倉 時 代 の 剣 術 は、 殆 ど 謎 に 包 ま れ て い て た。

図 4. 山岳修験者
よくわかっていません。 その時一枚の絵を見せてく
例えば京都の鞍馬山で修業した源義経(牛若丸) (一一五九 れ ま し た。 そ れ に は 日 本 全 国
~ 一 一 八 九 ) は、 鬼 一 法 眼 に 就 い て 修 行 し 超 人 的 な 腕 前 に 達 の修験者の修行する山が描か
したとの言い伝えがありますが、鬼一法眼は義経の他鞍馬の れ て い ま し た。 一 例 を あ げ れ
八 人 の 僧 兵 へ 武 術 を 伝 え て お り、 こ れ が 鞍 馬 八 流、 ま た は ば、 丹 沢 山 系 の 山 は「 相 模 の
国 は 太 郎 坊 」 と い う よ う に 表 記 さ れ て い た の で す。 で す か が残されています。
ら修験者についてはよく話題になりました。修験道はいろい 修験者は、技が戦争に利用されることを恐れたのだと思い
ろな宗教が混在しています。 ます。
天・ 地・ 人・ 空・ 風・ 火 に 加 え 魔 界 に 落 ち た 人 も 救 う と い
六、作刀していた修験者の秘伝
う宗教感を持っています。この宗教には中国の道教思想(日
本では道教とはいわず北向庚申堂)も入っているようです。 修験者は作刀もしていましたが、それも当然秘伝でした。
で す か ら 香 取 神 道 流 に は、 風 水 を 使 っ た 築 城 術 が 残 さ れ て 作刀方法はいまでは殆ど書籍で知ることができますが、わ
い る の で す。 真 言 密 教 の「 九 字 の 印 」( イ ン ド の ム ド ラ ー) か ら な い 点 が ま だ 多 数 残 っ て い ま す。 例 え ば 古 刀 の 地 鉄 に
や悪霊を落とすための真言も習得しなければなりませんでし コバルトを入れたことです。 (この点は確認が今後必要です。 )
た。しかし、その教えは全て秘伝にしていたのです。 エ ジ プ ト の ツ タ ン カ ー メ ン の 短 剣 に は、 コ バ ル ト と ニ ッ
武 術 の 気 合( エ イ、 ヤ ッ、 ト ー ッ) は 悪 霊 を 落 と す 時 の ケ ル が 含 ま れ て い る こ と が 最 近 報 道 さ れ ま し た( NHK
気合なのです。修験者が両足で遠くまで飛ぶ「烏飛び」も、
カラス
2018年12月26日午後8時放映『ツタンカーメンの秘
長刀術や棒術に入っています。 宝』)。つまり、 この短剣は隕鉄で作られていたのです。しかし、

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インターネットで「修験道」を検索すると、次のような説 平安、鎌倉湖の古刀にコバルトが入っているのはなぜでしょ
明が得られました。( 修験道) うか。これが一つの謎です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/
「 日 本 に 仏 教 が 伝 来 し た の は、 欽 明 天 皇 の 時 代 の 538 年で コバルトを合金すると地鉄が非常に美しくなります。所謂
あるとされるが、平安時代( 794 年 - 1192 年)に唐で修行 古刀の地鉄なのです。しかし、いまだに再現されていません。
を 積 み、 本 場 の 山 岳 宗 教 に 触 れ 帰 国 し た 最 澄 や 空 海 に よ っ て コバルトは朝鮮半島でも使われたようですが、日本はそれ
天台宗・真言宗が起こされ、比叡山、高野山などが開山される。 よりも早い八世紀頃から使われ始め、十世紀~十一世紀にか
比叡山(延暦寺)は最澄によって七八八年(延暦七年)に、 けて盛んに使われるようになりました。
高 野 山( 金 剛 峯 寺 ) は 空 海 に よ り 八 一 六 年( 弘 仁 七 年 ) に しかし、モンゴルタタールのフビライが中国の元朝皇帝に
そ れ ぞ れ 開 か れ た。 そ れ ま で の 都 市 に 寺 院 を 構 え る 仏 教 諸 な っ て か ら シ リ ア か ら コ バ ル ト を 輸 入 し、 製 陶 に 使 う よ う
宗派が政治との結びつきを強めていたことへの批判的意味 に な り ま し た の で、 ど の 経 路 が 正 し い か、 今 後 の 調 査 が 必
合いも含み、鎮護国家を標榜しながらも密教的色彩を強め、 要となります。
政治とは一定の距離を置いた。」 日本でコバルトが使用された予想経路は次のとおりです。
香 取 神 道 流 に も「 宗 家 は 仕 官 し て は な ら な い 」 と い う 規 定 ⑴日本国内のコバルトを使用した。
⑵シリア商人が新羅(前 57 年 - 935 年)に持ちこんで使
われていたものを輸入した。 要になります。
⑶元朝時代(一二七二年以降)にシリアから輸入したもの 槍術や長刀も丹田に付けて回します。
が日本の朝廷にもたらされた。元朝と日本の朝廷以外は秘密。 図 5 は、 武 漢 体 育 大 学 教 授 張 克 倹 老 師( 故 人 ) が 筆 者 に
允可してくれた槍術の極意です。彼はシルク

(武漢体育大学張克倹老師允可)
江戸時代に日本刀研磨法が完成したと言われますが、現在 ロード近くの西域武術の達人で、82種類の

図 5:槍術の極意「渦巻紋」
行われている研磨の過程で酸化コバルトが塗布されていま 武術を習得し、2000人の騎馬兵を統率し
す。いつから始まったのか、これも疑問です。 ていた人です。武漢体育大学に乞われて大学
もう一つの秘伝は杢目の出し方です。 教授になりました。
渦 巻 紋 の 杢 目 の 出 し 方 で す。 作 刀 の 時 に 現 在 は 二 つ 折 り に 上海体育大学教授王培錕老師も、長刀の極
し て い ま す が、 杢 目 は 三 つ 折 り に し て、 折 り 目 の 鏨 を 斜 め に 意として丹田に長刀をつけて回すことを筆
入れて切り、ねじります。これを素延べします。そうすると 者 に 教 え て く れ ま し た。 で す か ら 香 取 神 道
渦巻きが鎬地や棟に出すことができます。 流 武 術 の 渦 巻 状 の 動 き は、 中 国 武 術 と 根 底 に お い て 共 通 し
こ の 方 法 は、 筆 者 が ダ マ ス カ ス 刀 鍛 冶 か ら 教 え ら れ た 方 法 ていることが分かったのです。

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で す。 日 本 刀 の 祖 ガ サ ン( 月 山 ) の ル ー ツ は コ ー カ サ ス に あ 武術は、⑴意念による意識の集中法(調心) 、⑵呼吸法(調
る と 考 え ら れ ま す。 な ぜ 渦 巻 き が 必 要 だ っ た の で し ょ う か。 息)、⑶姿勢法(調身)が三位一体になって出来上がってい
これが一つの謎です。 ますが、これは宗教と共通しています。図6で示しておきま
す。
七、渦巻紋と武術
インド
こ の 渦 巻 は 自 然 の 力 を 意 味 し、 武 術 を 行 う 時 は 丹 田( 臍

身体

姿勢
の 達 磨

図 6:宗教と武術の理念
の周り)を回し、そこから力を出します。五行の太刀では、 大 師 が
柄 を 丹 田 に 付 け て 回 し、 こ の 丹 田 を 回 し て 繰 り 出 す 力 を 剣

宗教の理念

武術の理念
中 国 で

意念

意念
先 に 移 動 さ せ る の で す。 非 常 に 高 度 な 技 な の で、 普 通 の 人 仏 教 を
に 教 え て も す ぐ に で き る 分 け で は あ り ま せ ん。 握 り が 少 し 広 め る
でも緩むと丹田の力は剣先に伝わりません。 た め に、

精神

呼吸
これを習得すると、剣は猛スピードで動き出します。意識 ま ず 強
の 集 中 に よ っ て、 剣 先 は 狙 っ た 所 に 寸 分 違 わ ず 飛 ん で い き 健な体が必要と考えて武術を教えるようになったのが中国
ま す。 同 時 に 逆 複 式 呼 吸 法( 或 い は 丹 田 呼 吸 法 ) の 力 も 必
武 術 の 始 ま り で す。 で す か ら 武 術 と 宗 教 は 一 体 と な り、 そ といいます。後ほど写真で紹介したいと思います。
の流れの中において弯刀術が訓練されたと考えることがで 更に中国武術の基本概念「調心・調息・調身」理論や歩型
きます。 (馬歩、弓歩、虚歩、丁歩、厥歩)や、 「陰陽五行思想」によっ
こ の 香 取 神 道 流 の 弯 刀 武 術 は、 世 界 の ど こ の 国 が 起 源 な の て武術の型 套 (路 が ) 組み立てられています。剣術も単に戦
でしょう。インド、中国、チベット、蒙古タタール、それと い の 道 具 で は な く、 戦 わ ず に 戦 争 を 終 わ ら せ る こ と の 必 要
も日本で開始されたのでしょうか、いずれも疑問が残ります。 性を説いているのです。
このような点を考慮すると、一人の日本人によって創始す
八、弯刀術の由来
ることは不可能であったと思わざるを得ません。
「日本刀が弯曲している理由を何処に求めるか」を考えた場 十六世紀以降に引用されたと推定しますが、香取神道流の
合、 最 初 に 弯 刀 を 作 っ た 国 は 何 処 か、 い つ、 ど の よ う に 作 教 師 免 許 の 要 件 と し て 周 代 の 道 教 の 師、 黄 石 公 の 兵 法 三 略
られたのか、誰が、どのように使ったか、など考察すべき点 の 名 称 も 引 用 さ れ て い ま す。 兵 法 三 略 の 冒 頭 に は「 柔 能 く
が 明 確 に な っ て き ま す。 日 本 刀 が 日 本 国 内 で 完 成 し た こ と 剛 を 制 す 」 の 精 神 が 説 か れ て い ま す が、 日 本 の 現 代 柔 道 の
は 間 違 い な い の で す が、 そ の 起 源 と 弯 刀 術 が 必 ず し も 日 本 基本理念にもなっています。

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で考え出されたとは限りません。 ですから日本の弯刀術は、元代の中国から宗教者(真言密
歴 史 的 に 重 要 な 点 は、 両 刃 の 直 剣 時 代 か 教 ) に よ っ て 移 入 さ れ、 中 国 で 発 達 し た 高 度 な 弯 刀 術 や 兵
ら片刄の弯刀時代へ移行した理由です。何 法 理 論 が 次 々 と 日 本 に 入 っ て 来 て、 修 験 者 に よ っ て 修 行 さ
故 弯 刀 が 考 案 さ れ、 使 わ れ る 様 に な っ た れ て い た が、 日 本 刀 が 完 成 さ れ た 段 階 で 弯 刀 武 術 が 日 本 で
の か を 考 え る と、 直 剣 に 対 す る 弯 刀 の メ
写真 5. 直剣と太刀を合わせたイメージ

完成したのではないか、と筆者は考えます。
リットがあったからと考えることができま この発達した武術は、東洋思想の「調和の精神」として完
す。そう考えると、当然、武術的要素を加 成 さ れ て い る こ と が 非 常 に 重 要 な 点 で す。 そ れ は 試 合 中 心
味し、それを含めた考察が必要となります。 の西洋思想ではないからです。
日本刀は両手で握っていますが、いつから 中国武術はインド人達磨大師によって開始されました。達
両手になったのかなども学問的に興味深 磨 大 師 は、 壁 の 一 点 を 見 つ め る 意 識 の 集 中 法( 面 壁 八 年 )
く、 握 り 方 も 伝 統 武 道 と 現 代 武 道 で は 全 く で有名です。筆者も意識の集中法として、両手の指を使って
異 な り、 フ ッ ト ワ ー ク( 運 足 法 ) は 太 極 目の運動を行っています。 「目は志(精神)の窓」 、「志は気
拳のように一歩一歩に意識を置いて歩く の師なり」 (孟子)だからです。目からほとばしる相手の気
よ う に 足 を 運 び ま す。 こ れ を「 一 足 一 刀 」
を読む事で、何処をねらってくるか、その精神を読み取るこ adr Peresvet)が甲冑をつけずに出てきました。
とが出来ます。それにより眼力がしだいに強くなってきます。 よほど腕に自信があったのでしょう。ロシア軍からも最も力
強 い 兵 士 が 選 ば れ ま し た。 ロ シ ア 側 の 兵 士 の 名 前 は チ ェ ル
九、弯刀の歴史 ー世界に影響を与えたタタール
ベイ(Chelubei)です。
2018年6月にロシア領コーカサスのスタブロポル市を 二人は両軍の前で激しく戦いました。その結果ロシア側の
訪 れ た 際、 最 近 で き た 映 像 だ け の ロ シ ア 歴 史 博 物 館 に 招 待 兵 士 が タ タ ー ル の モ ン ク を 力 で 制 圧 し 殺 す と、 タ タ ー ル の
さ れ ま し た。 セ ル ゲ イ 館 長 が 出 全 軍 が 一 斉 攻 撃 を 開 始 し、 ロ シ ア 軍 の 代 表 兵 士 を 殺 し、 ロ
歴史博物館セルゲイ館長、筆者、館員(筆

迎 え て く だ さ り、 各 時 代 に 分 け
写真 6. 左からスタブロポル市・ロシア

シ ア 全 軍 を 制 圧 し て し ま い ま し た。 ロ シ ア は 2 世 紀 以 上 に
られた一つ一つの小間を回って、 わたってタタールの支配を受け、その結果、ロシアとタター
映像を詳細に説明してください ルは互いに文化を共有するようになったということでした。
ました。特に興味深かったのは、
者の携帯カメラで撮影)

これはセルゲイ館長からの話ですが、この戦いを「 Battle
「モンゴル帝国の戦闘軍団タター 」とよんで、今でも語り草になっています。
of Kurikovo
ルの影響によって世界的に弯刀 しかし、この戦いによって一気にロシアの直剣が弯曲化し
が使われるようになった」とい

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た わ け で は な く、 1 0 世 紀 頃 か ら 1 2 世 紀 に か け て 次 第 に
う話でした。 弯 刀 化 し て い っ た の で す。 一 騎 打 ち は こ れ 以 前 に も あ っ た
タタールは1382年にロシ ようです。
ア軍と戦いロ コーカサスのスタブロポル市はヨーロッパに通ずるシルク
シアを制圧し ロード上にある町で、東洋と西洋の中間地点に存在していま
ま し た が、 こ す。 タ タ ー

(ロシア歴史博物館、筆者撮影)
写真 7:一騎打ちを行う兵士

図7:蒙古元代鉄兵(周韋著『中国兵器
の 時、 戦 闘 開 ルは草原
始は一騎打ち ルートを通
で始まりまし り東ローマ
た。 一 人 の モ 帝国のブル
ン ク( 仏 教 徒 ガ リ ア、 サ
アレクサンド サン朝ペル

(注 2)
ル・ ぺ レ ス べ シ ャ、 チ ュ

史稿』)
ト( A l e x
ルク(旧トルコ)、ロシア、チベット、大理国、中国などと 行 っ た と き、 門 人 の テ オ ナ ル ド 氏( ソ フ ィ ア 大 学 教 授、 エ
戦 っ た こ と に よ る 影 響 で、 そ れ ら の 国 で 弯 刀 が 作 ら れ る よ ジ プ ト 考 古 学 ) に こ の 疑 問 を ぶ つ け て み ま し た。 彼 は ヨ ー
う に な っ た と 考 え ら れ ま す。 有 名 な 青 龍 刀 も タ タ ー ル の 影 響 ロッパの歴史に詳しいと聞いていたからです。
と筆者は考えています(図7参照)。 彼は言いました。 「フンは弓を使うからです。フンは裸馬
第 5 代 フ ビ ラ イ・ ハ ン が 首 都 を 大 都( 現 在 の 北 京 ) に に 二 人 が 乗 り、 一 人 は 御 者、 も う 一 人 は 騎 射 で、 一 分 間 に
築 い た 蒙 古 帝 国 タ タ ー ル は、 国 名 を「 元 」 ( 1 2 7 1) に 60本の矢を射ることができました。日本の弓とは違います。
変 え ま し た。 そ う し て 日 本 に 目 を 向 け た の で す。 元 は 属 それから鐙(あぶみ)を考案しました」 。
国 の 高 麗 軍 と 共 に 日 本 を 襲 撃 し ま し た。 い わ ゆ る 元 寇 の 役 なぜ、タタールと兄弟なのか、という疑問に対しては、 「お
一( 二七四、一二八一 で ) す。 互 い に 戦 争 が 起 き た 時 に は 助 け 合 う、 と い う 協 定 を 結 ん で
こ れ を 防 備 す る た め に、 日 本 は 鎌 倉 の 北 条 時 宗 が 先 頭 に いたからです。 」
たって指揮をとりました。 なぜ協定を結んだのかしつこく尋ねると、 「タタール軍に
こ の よ う な 歴 史 を 観 る と、 武 士 が 台 頭 し て 先 頭 に 経 た な け 協力しなければ殺されるからです」 「タタール軍は大きな一
ればならなかった鎌倉時代の意味が理解されます。 つの軍団ではなく、多数の部族集団で、戦争の時だけ集まっ

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て一致団結しました。フン族も一つの部族なのです。タター
十、フン族と兄弟だったタタール
ルは、通常はただの放牧民族なのです。」と。
近 年、 興 味 深 い 話 を 幾 つ か 耳 に し ま し た。 一 つ は ス タ ブ 草原ルートを東西に駆け巡ったタタールはヨーロッパでは
ロ ポ ル で 日 本 刀 が 出 土 し た と い う こ と。 も う 一 つ は、 大 き 東ローマ帝国の属国ブルガリアを襲撃。ササン朝ペルシャ、
な 古 墳 が フ ン 族( ハ ン ガ リ ー 人 ア チ ラ 大 王 ) を 埋 葬 し た も そ し て 旧 ト ル コ( チ ュ ル ク、 チ ュ ル キ ー) を 襲 撃 し ま し た。
のだったことです。なぜ日本刀がスタブロポル市で出土し、 この時フン族も加わっていたかもしれません。チュルキーも
なぜハンガリーのフン族の墓があるのか、私には驚きでした。 シベリヤに進出し宿敵と戦いました。
ハ ン ガ リ ー の ブ ダ ペ ス ト に 行 っ た 折、 筆 写 は 門 人 に 次 の よ
うに話しました。「私が教えている香取神道流武術は、多分 十一、チュルキーの刀剣とロシアの刀剣
タタールの仏教徒が伝授したものに相違ない」と。そうする この時、両刃の片手持ちの直剣に対し、タタールは片刃の
と門人たちは嬉しそうに話しました。「タタールとフンは兄 弯 刀 を 使 っ た の だ と 推 測 し ま す。 し か し、 弯 刀 だ け と は 限
弟なのです」。しかし、フン族の刀剣を調べると棟寄りに弯 りません。ヨーロッパでは第二次世界大戦でも直刀、直剣、
曲していないのです。これも私には不思議に思われました。 弯刀すべてを使いました。
そこで次のセミナーのためにブルガリアの首都ソフィアに その結果、ペルシャ、トルコも弯刀を作るようになりまし
た。 ロ シ ア や 武器を作ることを命じました。従わない場合は殺すだけです。
キーの刀剣の図、10世紀から12世紀
にかけて次第に弯曲したチュルキー(ロ
図 8:ジェレミーが見せてくれたチュル

ペルシャなど や む な く チ ュ ル キ ー は 武 器 を 作 り ま し た が、 密 か に 年 1で
東西ヨーロッ 壊 れ る よ う に 作 っ た そ う で す。 タ タ ー ル の 武 器 は 粗 製 乱 造
パ諸国やアジ でしたが、チュルキーの刀剣はしっかりしていたからです。
アでも弯刀を 筆者の考えでは、逆に

図 9. 蒙古元代 ( ? ) 鉄兵 ( 周韋著『中国兵器史稿』より(注 2)
作 り ま し た。 粗悪品の刀剣だったか
シア)の弯刀。

で す か ら、 ロ ら こ そ、 折 れ な い よ う
シアで発掘さ に、 曲 が ら な い よ う に、
れ た 日 本 刀 は、 相手の攻撃力を弱める
タ タ ー ル が 使 っ た も の と 思 わ れ ま す が、 日 本 で 作 ら れ た 可 武 術 を 考 案 し、 そ の 為
能性も否定できません。 片刃の弯刀を考案した
いずれにしても日本もタタールの影響を受けて、蕨手刀時 の だ と 思 う の で す。 よ
代 か ら 徐 々 に 弯 曲 を 強 め、 弯 刀 武 術 と 一 体 に な っ て 発 達 し く斬れるようにするため

10
たと考えられるのです。 に 弯 曲 化 し た、 と い う
説明は第一義ではない
十二、粗悪なタタール刀
の で す。 試 し 切 り を 行
5 年 ほ ど 前 で す が、 筆 者 は ロ シ ア の サ ン ク ト ペ テ ル ブ ル ク う先生の話では、直刀の
で 一 人 の チ ュ ル キ ー( シ ャ ー マ ン の 家 系 ) に イ ン タ ビ ュ ー す ほうがよく切れるそう
る機会を得ました。彼の名前はジェレミー。タタールに対す です。
る憎しみが今でも非常に ところで図9の右側
強く感じられました。 のタタールの弯刀です

柄が刃(右)側に反っ
写真8:チュルキーのジェレミー

図 10:柄が棟 ( 左 ) 側に反って
彼の話では、タタール が、これは日本の古墳
はチュルキーの村を襲 時代後期の蕨手刀と

と筆者(左)

ている蒙古刀(3振)
蕨手刀
い皆殺しにした挙句、赤 類 似 し て い ま す( 図
ん坊を谷底に落として 1 0)。 つ ま り、 元 代

いる蕨手刀、
蒙古刀
女性を奪い去ったそう (一二七一~一三六八)
で す。 更 に チ ュ ル キ ー に
のタタールの刀剣ではなく300年以上前の 列車を下り、バスで敦煌に行きました。莫高窟があり仏教
写真 9:明代の馬刀(北海道・妻沼浩二

も の と 推 定 さ れ ま す。 著 者 も 元 代(?) と い の壁画が多数ありました。仏教を伝えた三蔵法師(玄奘三蔵)
う ふ う に 不 確 か な 点 を 示 し て い ま す。 こ の 刀 が 通 っ た 道 も た ど っ て み ま し た。 キ ジ ル 千 仏 洞( キ ジ ル 石
剣は明代にもつづきます(写真9参照)。 窟寺院)も訪れました。火炎山も見えました。
この弯刀と蕨手刀 このシルクロードを横切るように、蒙古からチベットへ通
写真 10:蕨手刀風の長刀 ( 韓国の

を抜き出して比較 ずる敦煌経由の道があります。
コレクション)
してみたのが図10 タタールはチベットを襲撃し制圧しましたが、チベット仏
博物館で筆者は撮影)注 3

で す。 柄 の 握 り 方 が 教を国の宗教として取り入れました。
異 な っ て い ま す が、 戦いに明け暮れた生活に終止符を打って平和な生活に戻
刀 身 は か な り 類 似 し て い ま す。 蕨 りたかったのかもしれません。徐々に北京の大都から離れ、
手 刀 は、 長 柄 を つ け て 長 刀 と し て 放 牧 地 へ と 戻 っ て 行 っ て し ま っ た の で す。 そ こ え 他 民 族 が
使 用 す る た め に、 柄 を 棟 側 に 反 ら 侵入して制圧し、明代(一三六八)が樹立されました。
せ た の で し ょ う。 蕨 状 の 部 分 は 目

11
十四、日本に伝わった製陶の秘伝
釘 穴 を 撃 つ 為 だ っ た 可 能 性 が 有 り ま す。 朝 鮮 半 島 で も 同 様
に使われたようです(写真10参照)。 チベット仏教が日本に伝わり、真言密教と称されるように
な り、 日 本 の 刀 剣 や 武 術 に も 多 大 な 影 響 を 与 え ま し た。 真
十三、チベット仏教を取り入れたタタール 言密教は山岳宗教として日本各地の山々で修行されました
筆者は三〇年ほど前に北京で万里の長城に行った後に長 が、 そ の 弯 刀 術 は 秘 伝 と さ れ、 親 兄 弟 と い え ど も 見 せ た り
安 に 行 き、 長 安 駅 か ら 列 車 で シ ル ク ロ ー ド を 旅 行 し た こ と はしなかったのです。宗教者(山伏)は刀を作りましたが、
が あ り ま す。 ゆ っ く り し た 列 車 で、 五 三 数 時 か け て 砂 漠 を それも秘伝でした。
走 り ま し た。 途 中 で 雪 が 降 っ た り、 熱 く な っ た り、 天 候 が 密教が入ってきた頃

写真 11:青花牡丹唐草文水注
目 ま ぐ る し く 変 わ り ま す。 二 日 間 走 っ た こ ろ で し ょ う か、 の 作 刀 は、 街 道 筋 で 区

景徳鎮・官窯(注 3)
嘉 峪 関 を 過 ぎ る と、 崩 れ か か っ た 万 里 の 長 城 が 点 在 し、 最 分 け さ れ る の で は な く、
後 は 消 滅 し ま し た。 こ こ ま で 蒙 古 タ タ ー ル を 恐 れ て 城 壁 を 修験者の山と山を結ぶ
作ったことに驚かされました。 線 と 考 え ら れ、 後 代 に
北 方 民 族 の 襲 撃 を 防 ぐ た め に 莫 大 な 費 用と 労 力を か けて、 なって街道筋で鍛冶の
秦始皇帝が万里の長城を作らせたのです。 系統を認識するように
写真 12. 景徳鎮・官窯(朝日新聞)(注3)

12
なりました。 代(一二七一~一三六八)よりも早いことにな
蒙古帝国タタールが「元」に改名されると、元朝皇帝は中 り、一つ疑問点が残ることになります。
東 シ リ ア と 交 易 し コ バ ル ト を 輸 入 し、 そ れ ま で の 白 磁・ 青 コ バ ル ト は 韓 国 で も 朝 鮮 時 代( 一 三 九 二 ~
写真 14. 朝鮮刀『御刀』(韓国中央博物館で筆者撮影)(注 4)
磁の淡い色から青色の強いコバルトブルーを使うようにな 一九八七)に刀剣に使われました。ここに掲載
り ま し た。 コ バ ル ト は 顔 料 と し て 使 わ れ、 そ の 上 に 釉 薬 を か す る 朝 鮮 刀『 御 刀 』( 写 真 1 4) は 実 際 に 拝 見
け て 加 熱 す る と 色 が で て き ま す。 日 本 に 入 っ て き た コ バ ル すると、コバルトが使われていると気づかされ
ト の 水 注 の 写 真 を 掲 載 し て お き ま す。 朝 日 新 聞 が 報 道 し た も ます。
のです(前頁参照、写真11) 。 この写真は筆者が二〇一七年十月にソウルを
コバルトを製陶に使うことは 訪問した時に、韓国中央博物館で撮影したもの
写真 13. コバルトを使った陶器(台湾

秘 伝 と さ れ、 官 窯 だ け が 作 る こ です。しかし、まだ、コバルトを確認できてい
(注 5)

と が 許 さ れ、 民 窯 で 作 る こ と は ません。学芸員に問い合わせても不明だそうで
禁 じ ら れ ま し た。 そ れ で 官 窯 の す。でもこの色はコバルトに相違ありません。
故宮博物院で筆者撮影)

景徳鎮などが中国では有名にな

13
十六、古刀の秘密
り ま し た。 こ の 秘 伝 は 明 代 末 ま
で 続 き ま し た が、 や が て 民 窯 で 筆 者 は、「古刀」と称される日本刀にコバル
も自由に使われるようになりま トが使われた可能性があると考えています。そ
した(写真13)。 のような刀剣を造ったのは、コバルトを使える
コバルトを製陶に使うという秘伝を最初に公開したのはド 身分の高い朝廷に仕えた鍛冶だと推定されま
イツでした。それで日本も公開せざるを得なくなったのだそ す。しかし、瀬戸市(陶器は10世紀開始) 、多治見市、瑞
うです。 浪市などでは道路上の石に付着してい

(台湾故宮博物院で筆者撮影)注 5
写真 15. コバルトを使用した陶器
る コ バ ル ト が 採 取 で き ま し た の で、 そ
十五、日本と韓国のコバルト れ が 民 間 で も 使 わ れ た り、 製 鉄 の 原 料
製 陶 窯 メ ー カ ー の( 株 ) シ ン リ ュ ウ ー 代 表 取 締 役 小 澤 忠 鉱石の中に自然に入ったりした可能性
氏 に よ る と、 コ バ ル ト が 日 本 で 使 わ れ だ し た の は 八 世 紀 こ も否定できません。
ろ か ら で、 最 も 顔 料 と し て 使 わ れ だ し た の は 十 ~ 十 一 世 紀 こ 古 刀 の 地 鉄 の 色 は、 重 量 比 0・0 1 %
ろだそうです。もちろん民間では使用禁止の秘伝でした。丁 ぐらいの割合でコバルトが含まれてい
度、 日 本 の 古 刀 が 作 ら れ た こ ろ で す。 し か し、 八 世 紀 は 元 る と 思 わ れ ま す。 そ れ を 証 明 す る た め
に、 筆 者 は 実 験 の 準 備 を し て い る と こ ろ で す。 1 % ~ 2 % シュウェイ・コザックと呼ばれるようになり、その一部がコー
含 め る と 刀 剣 は 真 っ 青 に な っ て し ま い ま す。 そ の よ う な 陶 カ サ ス 方 面 の ロ ス ト フ・ ド ン 市 に 移 動 し、 ド ン・ コ ザ ッ ク
器が写真15です。 と呼ばれるようになりました。さらにロシアの中枢に移動し、
コ バ ル ト は 粘 度 が 高 い の で、 折 り 返 し 鍛 練 の 鍛 着 剤 と し て 今でもロシア政府のために忠誠を誓って働いています。彼ら
も使えます。その場合、コバルトだけなのか藁灰に混ぜて使っ は主人に忠誠を誓う武士道を持っています。
たのか、実験が必要です。 この武士道はローマ帝国時代に発生し、各地に伝わり、中
卸金法で炭素を調節する際に酸化コバルトを混入し、合金 国 に も 移 入 さ れ 日 本 に 伝 わ っ た よ う で す。 中 国 の 中 華 思 想
さ せ た 可 能 性 も 考 え ら れ ま す。 上 塗 り の 場 合 は、 製 陶 窯 で もローマ帝国に由来していると思われます。
陶器と一緒に加熱したのかもしれません。 それまでのサブレ(太刀)は、鞘から抜く動作、打ち込む
日 本 刀 に コ バ ル ト を 使 う と い う 考 え は、 今 も 日 本 国 内 で は 動 作 の 二 つ が 必 要 だ っ た の で す が、 そ れ で は 一 手 遅 れ て し
皆 無 で す。 筆 者 は、 2 0 1 8 年 8 月 号 の『 秘 伝 』 と い う 雑 ま い ま す。 そ れ で コ ザ ッ ク は 反 り を 浅 く し、 抜 き 打 ち を 可
誌 に、 坩 堝 の 中 に 品 位 の 高 い 鉄 鉱 石 を 入 れ て 製 錬 す る( ト 能 に し た の で す。 こ の 流 行 は 日 本 で も い ち 早 く 取 り 入 れ ら
ルコで5世紀に使われた)方法を応用し、コバルトを入れて れました。

14
一六〇〇度で加熱して合金する方法についての論文を書きま ロシアでシャシュカの使い方を拝見しましたが、殆どが抜
した。興味のある方はぜひご覧ください。 き打ちで、リンゴを空中に投げ上げて二度切る練習をしてい
ました。サブレはマントを脱ぐ動作に合わせて抜きつけます。
十七、太刀から打刀へ移行した理由について
香取神道流のような連続した技はもう見られませんでした。
反りの強い太刀(ロシアではサブレ)から打刀(新刀期) (ロ
シ ア で は シ ャ シ ュ カ ) へ 移 行 し た 理 由 は、 十 六 十八、香取の弯刀術
世 紀 初 頭 に 軽 騎 兵 コ ザ ッ ク が 台 頭 し、 抜 き 打 ち
基本知識
を開始したからです。
写真 16. コザックのシャシュカ

彼らはポーラ 弯 刀 の 握 り 方: 把 法( 環 頭 大

写真 18. 握り方:把法
写真 17. 右サブレ(太刀)
ンドや各地の旧 刀の如く)

からシャシュカ(左)へ
道と言われる場 左手の掌で柄頭を包み込むよう
に握ります(写真18) 。指を伸

の移行(注6)
所から集まって
ウクライナに集 ば さ ず 全 部 の 指 で 柄 を 握 り ま す。
結し、ザポロウ 右手は左手から半握り離して鍔
近 く を 握 り ま す。 両 手 を 離 さ ぬ よ う に し ま む こ と を「 観 」 と い い ま す。 こ れ を 心 眼 と も 言 い ま す。 心
写真 19. 刺す時に柄推しできる

す。 両 手 共 に 親 指 と 中 指 を 接 す る よ う に 握 眼には第三の目(眉間)を使う場合が有ります。
り ま す。 口 伝 で は「 握 り 卵 の 手 の 内 」 と い 例えば、軽く眼を閉じて肉眼は相手の手元におき、心で相
い ま す。 鍔 に 親 指 を 付 け る と 爪 を は が す こ 手の志(意念)を読みます
とがありますので注意が必要です。右手の (七条の太刀) 。
位置は広くならないように、型の始めに一 このようにすると、こち
本づつ頭に付けて確認します。右手が前に らの意念を読みとられず

写真 22. 目付
出すぎると、相手に届かなくなります。 に、相手を観察できます。
通常は剣尖から相手の目
巻打ち
を見たまま練習します。こ
冠付きの甲冑を着用した場合に必要な撃ち込み方法です。
れを「目付」と言います(写
右 手 を 中 心 に し て、 柄 頭 を 握 っ た 左 手
真22参照)。
で押し下げるように

15
して右手の甲を額に 巻打ちの時の呼吸法:逆腹式呼吸法(瞬発力)
写真 20. 巻打ちの要領

つ け ま す。 刀 を 振 り 写真 21. 巻打ち(前から) 起勢と収勢


かぶった状態になり 初心者は刀をふりかぶる(鋒を上げる)時に息を吸います
ます。 が、 息 を 吸 う 時 間 に 相 手 に 打 ち 込 ま れ て し ま い ま す。 動 き
額に付ける

その状態から左手 出す (振りかぶる) 前に息を吸っておきます。起勢が必要です。


下へ押す

を 引 き 付 け、 右 手 で 息を吸う時に腹を引きしめる呼吸を「逆腹式呼吸法」と云
鋒を攻撃部位に向け います。肺が膨らみます。吐き出す時も引き締めます。
て 意 識 を 集 中 し て 送 り こ み、 打 ち ま す。 起 勢: 動 作 を 始 め る 前 に 一 旦 息 を 吸 い こ ん で 丹 田 に 力 を
振りかぶる時も打ちこむ時も相手の目を見ることが大切で 貯 え て お く こ と を「 起 勢 」 と い い ま す。 吸 い こ ん だ 息 を 吐
す。 き出す力で鋒をあげ、打ち下ろします(二つの動作を一つに
する) 。撃ったらすぐに自然に息を吸い込みます。ですから
観見二つのこ と
速 い 連 続 技 が 出 来 る の で す。 打 つ ま で の 小 さ な 呼 吸( 丹 田
肉眼で相手の眼を見ることを「見」といいますが、肉眼は
の 力 を ぬ か ず に 行 う ) 調 節 は 自 由 で す。 全 て の 動 作 は こ の
別の所を見て(遠くの山など)、心で相手の志(意念)をよ
ような逆腹式呼吸法と起勢が必要です。
空 中 に 飛 び 上 が っ て 二 度 打 つ、 三 度 打 つ 巻 打 ち の 修 行 を し がゆるいと脈は打ちません。握りを強目にして、手首、肘、
ま す。 い わ ゆ る 天 狗 飛 び 斬 り の 術 で す。 天 狗 と は 修 験 者 で す 肩 関 節 は 緩 め ま す。 身 体 の 中 心 に 一 本 の 筋 が 通 る の を 感 じ
が、もともとの意味は空中に跳びあがって遊ぶ犬のことです。 ます。
型をはじめる時に起勢し、緩めずにそのまま続けます。
一足一刀(中腰で歩幅を広くする)
型が終了したら丹田の力を自然にもどします。これを収勢
姿勢が高いと腰の位置が高くなるので、歩幅は狭くなりま
といいます。
す。 こ の 状 態 で 右 脚 を 一 歩 踏 み こ む と、 左 脚 が 摺 り 足 で 自
剣に脈を通す(気剣体を一致させる) 然 に つ い て 行 っ て し ま い ま す。 こ の 摺 り 足 は 全 体 の 動 作 を
どの構えの時でも、丹田と剣尖を気で結び、緩めずにいつ 遅 く し ま す。 攻 撃 的 に は メ リ ッ ト が 有 り ま す が、 戻 る こ と
で も 打 ち 込 め る よ う に 準 備 し ま す。 こ う す る と 剣 尖 に 脈 が 通 が遅くなります。
じ小さな動きが出てきます。剣が生きている状態です。握り 姿勢を低くして歩幅を広くすると、右脚一歩の歩幅だけで
も相手に届きます。これで一刀を使うことができます。三角
形を頭に入れて見ると分かりやすい。ピラミッドの姿勢です。
前脚が一歩出ると後脚

間合いが狭くなり危険 歩 幅 を 広 く し て、 重 心 を 低 く し ま す。 打 っ た 後 も 腰 を 低 く

16
すり足になるとスピードが落
ち、後退が遅れる。体が不安
が り足になる。
腰が高いと歩幅

保ちます(図11) 。
がせまくなる

図 11. 腰の高さと歩幅、間合、摺り足の関係図
陰の構え(写真23)
剣尖を上に向け右手を右耳の高さに上げ、刃を相手に向け

定になる。
腰の高さと歩幅の関係

た 状 態 で 構 え( 心 構 え ) ま す。 剣 尖 と 丹 田 を 結 ん で 脈 を 通
します。 「体中剣有り」の口伝があります。己の姿勢を剣と
狭い
正 し く 並 行 さ せ、 。身体の
歩幅
中心に筋を通します。

膝を使う。スピードが
伝統武道は腰が低い
撃 つ 時 は「 気 剣 体 一 致 」

前脚だけで一歩前進

写真 23. 陰の構え
広い

上る。一足一刀。
歩幅
にします。初心者は打つ前

体が安定する
後に剣にゆるみが生じま
す。 例 え ば 気 が 先 に 走 り、
次に身体と脚が出て、それ
か ら 剣 が 前 に 出 ま す。 ば ら ば ら の 状 態 で す。 こ の 三 点 を 一 て疲れたら、地面に穴を掘って体を中にいれ、大地の気を吸
致 さ せ る の で す。 殆 ど の 人 は 剣 尖 を 後 方 に 下 げ て か ら 前 に 収して回復させます。
だします。これを正すのは容易ではありません。

写真 25. 反りを利用し、受ける・
大上段はとるな
下段の構え(陽の下段、陰の下段) 両手を頭上から離して高く上
陰 の 下 段: 棟 を 上 に し て げる大上段の構えは、香取には

突くを同時に行う
剣尖を下ろし、相手と自分 あ り ま せ ん。 「上段は冗談にも
写真 24. 下段

の中心線上におきます。剣 とるな」です。
に脈を通します。 最初の起勢で上段をとる場合
陽の下段:刃を上に向け が 有 り ま す が、 必 ず 両 手 の 拳
た下段です。 と 柄 の 3 点 を 頭 に つ け ま す。 三 点 を 頭 に つ け て 柄 の 握 り 箇
逆下段:左脚を前にした下段を「逆下段」と言います。 所を確認してから打ち込む必要性からです。上段を取ると、
香取では、打った後に直ぐに下段を取ります。相手の反撃 相手が小手と横面を同時に狙うからです。

17
を 予 想 し て 下 か ら 突 く 準 備 で す。 下 段 は 休 む 意 味 で は あ り
弯刀のメリット
ません。
⑴棟を使う技
間合いと位(剣先の目付の高さ)
相手の刀剣を渦巻き状に巻き落とす、棟で引っかけるよう
表の太刀ではお互いに目に剣尖を触れあった状態で間合
に跳ね上げる、手許を押さえる、など多数あります。
いをきめます。五行の間合いは水月に剣尖の位をとるので、
間合は狭くなります。 ⑵棟に手を添える事ができる
香取の間合いは「間合いの妙」といわれ、相手の太刀が届 刀の棟に手を添える事ができます。止むを得ずうける場合、
か な い の に 此 方 の 太 刀 が 届 く 間 合 い を 取 り ま す。 一 足 一 刀 当て身の時に手を添えます。
の時だけ有効です(図13参照) . ⑶急所二か所を同時に打つことができる
カラス
烏 飛び 相手が横面を打ち込んできた時:肝臓と小手を同時に撃つ
両脚を地面につけた状態から斜にとび下がったり、斜めに (表の太刀1、2)。
前方にとびます。弾みをつけて飛びます。 相手が上段の時:小手と横面を同時に撃つ(表の太刀2、
3)
忍術では体を斜めにして走る口伝が残されています。走っ 相手が横から胴を打ち込んできた時:小手と肝臓を同時に
撃つ(表の太刀4) 窄(突):鋒だけを急所に突き入れる:心臓、頸動脈、内小
手の動脈。冠のひさしの下から額を突く。
⑷刀身を二つに分けて攻防に使う
止むを得ず受ける場合:鍔競合いの如く鍔近くで受け、鋒 型(連続技)
で相手を突く。受けると同時に刀身の半分を攻撃に使う。 香取の技は連続しています。それを説明するために表の太
太刀の反り幅を利用する(押し斬り) 刀4本目「霞(神集)の太刀」の一部を例示しておきます(図
13右側写真) 。
頸動脈を斬る際、反り幅を利用して刺し込む(図13左)。
表 之 長 刀 の 型 は、 表 之 太 刀 の 型 と 同 じ 名 前、 同 じ 技 で す。
弯曲を利用して甲冑の弱点を打つ ですから古代は、刀を長刀として使う事をいつも想定してい
小 手 の 内 側( 上 か ら、 下 か ら )、 腋 の 下 か ら 心 臓、 草 摺 り た の で は な い か と 思 わ れ ま す。 蕨 手 刀 や 古 大 刀( 太 刀 ) も
の 合 間 か ら 太 腿 の 内 側、 草 摺 り の 上 部( 腰 )、冠の真ひさし そ う で し ょ う。 相 手 の 刀 を ひ っ か け 落 と す た め に、 中 国 兵
の間、佩楯の横など、甲冑の弱点を弯曲を利用して撃つ。 器 の 戈、 矛、 戟 の 様 に 小 刀 を 棹( 長 柄 ) に 付 け た 可 能 性 が
刀法用語 あります。

図 12. 縁起絵巻に描かれている武器:画家谷合浩典氏が描き出しました。

18
アテルイが闘った頃
現在の中国武術用語で説明します。漢字は一字で動作を示
は、 そ の 様 な 武 器 が
すので、非常に便利だからです。切るという言葉はほとんど
多数考案されたと思
使いません。
い ま す。 図 1 2 は 画
劈: 断 ち 斬 る: 刀 の 鋒 三 寸 を 相 手 に 食 い 込 ま せ、 そ の ま ま 家谷合浩典氏が縁起
斬り下げる。中国では劈刀といいます。 絵巻から拾い出した
斬: 刃 の 上 方 半 分 を こ す り つ け る よ う に 押 し 斬 る( ま た は 蝦夷の武器一覧です。
引き斬る):香取では殆どが押し斬りです。相手との間合 因みに筆写が調べ
なぎなた ナタ
い が 広 い 場 合、 と く に 前 方 に 踏 み こ む 押 し 切 り は 有 効 で た「 長 刀 」 の 刀( な
す。 ま た 太 刀 で は 引 く と 届 か な く な り、 斬 る 力 が 弱 ま り た ) は、 ア イ ヌ 語 の
ます。 ノタ(刃物)に由来し
截:鋒三寸または刃全体で叩くように切る(表の太刀1、2) ていました。中国(語)
にナタはありません
刺:刀身を相手の体内に差し込む(腹突き、表の太刀3)。
でした。
型は連続技で構成されている
攻撃
刃を傷めないように棟で
引っ掛けるように受ける

渦巻きで
巻落し

下から
棟受け 切り上げ

首を狙われたら、
首を撃つ
刃筋を示す

抑えて首 首受け

太刀の反り幅を
利用して首に
擦り込む。押す
正面打ち
だけで斬れる。 丹田を回転し、太刀
を回して胴を斬る
鍔元で受ける

片手で闘う場合 胴を撃つ

小手打ち

刺して来たら上から受け
流す(小手を斬る)

刃を上にして
鎬でうけ流し

踏み込んで首を撃つ。
相手が崩して胴
馬上ならば馬の速力を使い、 を打って来ると
刃を返すだけ
一歩退がって内小手
を斬る。 すり足で相手が踏み込んで
来たら、自殺行為となるよ

図13
うに逃げずに一歩退がるだ
け。間合いの妙をつかう。
相手の剣は届かない。

19
あとがき (試合、段位制度が無い弯刀術の魅力) ん。
弯刀術は非常に難しいにもかかわらず、海外では真剣に取
以上、香取の弯刀術の一部を写真で紹介し、弯曲した理由
り組む人が非常に多く、 どんどん増えています。その理由は、
を 考 察 し て き ま し た。 日 本 刀 に 類 似 し た 弯 刀 が 世 界 中 に 存
香 取 に は 試 合 が 無 い、 段 位 制 度 が 無 い、 落 ち 着 い て 生 涯 か
在 す る 理 由 が お 分 か り い た だ け た と 思 い ま す。 つ い で な が
け て 修 行 出 来 る と い う メ リ ッ ト が あ る か ら で し ょ う。 つ ま
ら、 弯 刀 術 に 興 味 を 抱 く 人 が 世 界 中 に 存 在 し て い る こ と も
り 生 涯 学 習 な の で す。 筆 者 は 宗 教 と 政 治 か ら 離 れ て 指 導 し
知って頂きたいのです。
ているので、どの国の人とも友人になることが出来ました。
筆者は三五年前にア
ランド、ハンガリーの会員同志が練習しているところです。弯刀術の香取を心から楽しんでいます。
写真 26. 国際交流の手段としてまじめな会員だけに指導。写真はブルガリア、スウェーデン、フィン

し か し、 一 方 で 技 と 精 神 を 正 確 に 伝 え る に は、 秘 伝 制 度
メリカやヨーロッパで
は必要と考えています。ビジネスとして宣伝して増やすと、
香取の指導を始めまし
それが暴力として使われてしまう恐れがあります。
た が、 今 で は 次 の 十 七
弯刀術を一通りマスターし教師免許を得るには、少なくと
カ国50道場に増えま
も 一 〇 年 は か か り ま す。 そ の 間 に 性 格 を 見 極 め て か ら 免 許
し た。 ア メ リ カ、 カ ナ
を 允 可 し ま す。 筆 者 が 発 行 し た 教 師 免 許 は、 昨 年 一 〇 〇 名
ダ、 ロ シ ア、 フ ィ ン ラ

20
を 越 え ま し た。 弯 刀 術 の 次 世 代 へ の 正 確 な 伝 承 制 度 は、 ほ
ン ド、 ス ウ ェ ー デ ン、
ぼ出来つつあります。
スペイン、ポルトガル、
香取神道流に入門した昭和50年代に、師から「日本刀に
ハ ン ガ リ ー、 ブ ル ガ リ
関 す る 知 識 を 持 つ こ と が 香 取 の 基 本 」 と い わ れ、 間 宮 光 治
ア、トルコ、ウクライナ、
先 生、 佐 藤 矩 康 両 先 生 の お 薦 め も あ っ て 舞 草 刀 研 究 会 に 入
ポーランド、ギリシャ、
会 し 勉 強 さ せ て い た だ き ま し た。 皆 さ ん に は 本 当 に 感 謝 し
韓 国、 マ レ ー シ ア、 シ
て い ま す。 今 後 の ご 指 導 を 御 願 い し て、 脱 稿 と さ せ て い た
ン ガ ポ ー ル、 フ ィ リ ピ
だきます。
ン で す。 こ の ほ か に ノ
ルウェイ人、イラン人、 〈参考文献〉
イ ン ド 人、 ジ ャ マ イ カ (注1)石井昌国著『蕨手刀』(雄山閣蔵版、昭和41年)
人、 ア フ リ カ 人、 オ ー (注2)周緯著『中国兵器史稿』 (新華書店、一九五七、北京)
(注3 景) 徳鎮・官窯(朝日新聞二〇一九年二月十一日号より転載)
ス ト ラ リ ア 人、 エ ジ プ (注4)朝鮮刀『御刀』(韓国中央博物館二〇一七年一〇月展示品、筆者撮影)
ト人など数えきれませ 注(5 コ
) バルトを使用した陶器(台湾故宮博物院で筆者撮影)
(注6)ロストフ・ドン博物館にて筆写撮影 ( Rostov Na Donu, Russia

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