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印度學佛敎學硏究第 71 巻第 1 号 令和 4 年 12 月 (103)

『ポタラ宮倶舎頌』新出偈 V.42-2
――『倶舎論』関係資料が保持する情報の新古について――

田 中 裕 成

1.はじめに

筆者は『ポタラ宮倶舎頌』に思想的な異読の存在を発見し,報告を行ってき
た 1).今回はその中から,『ポタラ宮倶舎頌』で確認された,梵蔵に対応せず,漢
訳のみに存在する偈 V.42-2 について紹介し,当該偈頌の由来を分析したい.まず
は『倶舎頌』V.42-1 を見てみたい.当該箇所は九結に諸纏の中で嫉纏と慳纏のみ
を設定する理由である.

ekāntākuśalaṃ yasmāt svatantraṃ cobhayaṃ yataḥ /


īrṣyāmātsaryam eṣūktaṃ pṛthak saṃyojanadvayam // AKK(Gokale)V.42-12)
全面的に不善であり,かつ,自立的である.という両者があるからである.それに基づい
て,嫉と慳とは,それら(諸纏)の中で,独立に二つの結として説かれた.

ここでは,纏の中で,嫉纏と慳纏のみが必ず不善で,自立的であることから,
二纏のみが九結に設定されるとする.ただ,梵蔵の長行(AKBh 309, 19-21, D. 248b6-7)
では,このような理解は八纏説(『品類論』
[T.26.639c20-21]や『瑜伽論』
[T.30.314c16-17])
に基づく理解であり,十纏説の立場(カシミール毘婆沙師)では忿纏と覆纏も上述
の定義に該当してしまい,問題があるとする有余師の解釈が紹介される.ただ,
有余師(カシミール毘婆沙師 3))がどのように問題を回避したのかは梵蔵の長行では
一切紹介されない.さて,以上の一連の議論は『倶舎論』の種本とされる『雑心
論』
[T.28.904c17-18]に確認できる.

所謂慳與嫉 獨立離於二
是故此二纒 立於九結中(
『雑心論』第 214 頌)
いわゆる慳と嫉とは,自立〔法〕であり,二つ(無記と善)を離れている.
こ〔の二つ〕のことから,これら二つの纏(慳纏 ・ 嫉纏)は九結の中に設定された.

表現や語順こそ異なるものの内容的には『倶舎頌』V.42-1 と完全合致する.ま
た,
『雑心論』の長行では十纏説の場合に,忿と覆も該当してしまう齟齬について

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(104) 『ポタラ宮倶舎頌』新出偈 V.42-2(田 中)

も紹介し,
「彼らは忿と覆に煩悩性を認め〔随煩悩性(=纏性)を認めない〕」4)と,
八纏説に立てば問題ないとして,十纏説の場合の対案を示さない.つまり,
『倶舎
頌』V.42 が十纏説と矛盾し,対案を示さないのは,種本となった『雑心論』の立
場を踏襲し,種本の内容を保持しているからであるといえよう.そのため,当該
箇所に関して梵蔵は原意を保っていると考えられる.

2.ポタラ宮系『倶舎頌』V.42-2

『倶舎頌』V.42-1 及びその長行では十纏説に基づく場合の弁護案を提示しなかっ
た.しかし,玄奘訳と真諦訳には十纏説を支持する立場を弁護する偈頌 V.42-2 と
長行が V.42-1 に続いて存在し,
『ポタラ宮倶舎頌』にも該当偈頌が見いだせた.ま
ずは偈頌を見てみたい.

alpeśākhyālpabhogatvakāraṇāt sarvasūcanāt/
dvipakṣasaṃkleśatvāc ca mātsaryerṣye pṛthak kṛte// AKK(Potala)V.42-2
①軽蔑と貧困の原因の故に,②〔随煩悩性が〕全てにおいて示される故に,
③二衆を悩ます故に,慳と嫉とは独立して〔結と〕された.
『真諦倶舎頌』[T.29.262a21-22]無貴重富財 因故遍相故 能損二部故 別立姤悋結
『玄奘倶舎頌』[T.29.108b28-29] 或二數行故 爲賤貧因故 遍顯隨惑故 惱亂二部故
(『順正理論』『顕宗論』も『玄奘倶舎頌』と同様)

当該の 42-2 偈では,慳と嫉とが独立して結と設定される理由が新たに提示される.


『ポタラ宮倶舎頌』の内容は『真諦倶舎頌』と合致し,①軽蔑と貧困の原因,②随
煩悩の特徴を有する,③二衆を悩ませる,以上の三因に基づいて嫉と慳だけが別
立されることを説明する.一方で,
『玄奘倶舎頌』系は「嫉と慳を個別に設定す
る」との文言の代わりに「あるいは,二(嫉と慳)は,度々現行するから(二数行)」
という理由句を最初に加え四因を説示する.僅かな差異があるものの,後述する
それぞれの長行に基づけば,これらはいずれも十纏説を庇護する偈頌であり,AKK.
V.42-2 の追加によって毘婆沙師の教義に適うようにされている.

3.玄奘訳長行(四因説)の検討

では,両者の差異は何故生じたのであろうか.それぞれの長行から検討を行う.
玄奘訳『倶舎論』の長行([T.29.108c17-23])では,梵蔵で有余師説と紹介された文
章が本文に変わり,十纏説の立場の場合は四つの観点(①二数行②賤貧因③遍顕隨惑
④悩乱二部)で慳と嫉の二つは過失が甚だ重いので忿覆が該当せず,問題ないとし

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『ポタラ宮倶舎頌』新出偈 V.42-2(田 中) (105)

て,毘婆沙師の立場を弁護した上で,偈頌の四つの理由句それぞれの解説が施さ
れる.また,第四「悩乱二部」に関しては,A. 出家と在家,B. 天と阿修羅,C. 人
と天,D. 他族と自族の四種の異説を紹介する.さて,当該の玄奘訳『倶舎論』の
解説は『順正理論』[T.29.643b11-c1]にほぼ全文が確認され,特に批判は加えら
れない.
『順正理論』は『倶舎論』を注釈する形で解説と批判を行うことから,玄
奘訳『順正理論』が想定した『倶舎論』の文章と玄奘訳『倶舎論』の文章が対応
しているといえよう.しかし,先の『雑心論』との比較検討から当該箇所にカシ
ミール毘婆沙師の弁護が無い梵本が本来の形であったと推測した点を踏まえれば,
玄奘訳『倶舎論』に見られる四因説は玄奘訳『順正理論』に由来する改変である
ことが想像される.この点は小谷(2021, 62)の「両漢訳『倶舎論』は『順正理論』
の影響を受けて改変された箇所がある(取意)」との指摘とも呼応する.また,
『順
正理論』の記述では,第一因「二数行」と第四因「悩乱二部」の C 説(人天二部)
が「慳と嫉によって天と人は悩まされる」と説かれた「大品釈門経」5)に由来する
解釈であることが明示される.

4.真諦訳長行(三因説)の検討

次に『ポタラ宮倶舎頌』と『真諦倶舎頌』の由来を検討してみたい.真諦訳『倶
舎論』では,玄奘訳『倶舎論』と同様に V.42-1 に対する有余師の異説を有余師説
ではない本文とする.その後,偈頌(V.42-2)をはさみ,注釈を開始する.注釈の
際に真諦訳『倶舎論』の長行では,真諦訳は玄奘訳と異なり,有余師の解釈とし
て,注釈を始める.注釈内容に関しては玄奘訳では慳と嫉が別立てされるのは四
因(①二数行②賤貧因③遍顕隨惑④悩乱二部)であったが,真諦訳では玄奘訳の①二
数行を除いた三因(②賤貧因③遍顕隨惑④悩乱二部)となる.また,第四因の解釈も
玄奘訳に見られた四例のうち最後のもの(D. 他族と自族)だけとなっている.特に,
『順正理論』に見られた「大品釈門経」に由来する解釈が認められない点は注目に
値する.以上のように真諦訳『倶舎論』の内容は『順正理論』や玄奘訳『倶舎論』
と異なる.このことから,真諦訳『倶舎論』における当該の記述が玄奘訳のよう
に『順正理論』依用したとは考えがたい.

5.両者の差異の由来

では真諦系の三因と玄奘系の四因という差異はなぜ起きたのか.それを読み解
く答えが称友釈に記されているので,見てみたい.

― 374 ―
(106) 『ポタラ宮倶舎頌』新出偈 V.42-2(田 中)

では,彼にとって何が弁護になるのか,というので,
【1】軌範師衆賢は〔次のように〕述
べた.「嫉と慳とは度々現行するので,個別の結である,と〔説かれる〕
.そして,まさに
このことから,欲界に生じた者たちには三十六の結性が有るのに,
〔世尊によって〕
「カウ
シカよ.人天は嫉と慳という結を有する」と説かれた.なぜならば,善趣においてはこの
二つの煩悩(嫉 ・ 慳)は特に結びついているからである」6)と.
【2】あるいは,
「①軽蔑と,貧困の原因である故に,②すべてを示唆する故に,③二衆を悩ます故に,
慳と嫉の二つは個別に〔結と〕なされた」(= AKK.V.42-2)
…中略…③ A 在家の衆は,財産を基盤とするそれら二つ(慳と嫉)の故に非常に悩まさ
れる.出家の衆も教えを基盤とする〔それら二つ(慳と嫉)〕の故に〔非常に悩まされる〕.
③ B あるいは,天〔の部〕と阿修羅の部は内部の原因の故に激しく悩まされる.まさに
このことから,世尊によって「カウシカよ.人天は嫉と慳という結を有する」と説かれ
た.以上のことから,十纏のうちこれら二つ(慳と嫉)だけが結である.以上. (AKVy
491, 1-18; Cf. 小谷 ・ 本庄 2007, 194-195)

称友釈では,梵蔵『倶舎論』の帰結部(十纏を主張するものにとって,上述の解釈では
弁護にならない) に対する注釈として,最初に衆賢説を提示し,次に「あるいは
(atha vā)」と,異なる解釈として『真諦倶舎論』で確認された偈頌(V.42-2)とそ
の解釈を提示する.また,第四因(最終因)の二部の内容について,在家 ・ 出家
と,天 ・ 阿修羅の二説を述べる.この第四因の二説は玄奘訳には含まれるが真諦
訳には含まれない.この称友釈の情報から次のことが推察できる.【1】まず,衆
賢の主張として,四因説や四因に基づく重過失説ではなく,
「大品釈門経」に基づ
く第一因「度々現行する」だけが紹介される点である.この点から衆賢の本来の
主張は四因説や重過失説ではなく,
「大品釈門経」に基づく第一因「人天に度々現
行する」だけであった可能性が見いだせる.【2】次に,『順正理論』では四因が
「又二能爲賤貧因故」
(T.29.0643b19)のように「又」の語で併記されていたが,AKVy
では第一因の対案(atha vā)として残り三因を述べる偈頌が説示される.つまり,
衆賢説とは別に或る毘婆沙師が三因頌(AKK.V.42-2)を述べて三因説を主張してい
たことが窺え,真諦訳『倶舎論』ではその主張が採用されているといえよう.
【3】
最終因の二部(dvipakṣa)の内容がそれぞれ異なるが,或る毘婆沙師の三因頌と衆
賢の用いた「大品釈門経」による解釈との関係を模索した結果と考えれば辻褄が
合う.
【3-1】
『真諦倶舎論』は二部の解釈に「大品釈門経」に由来する記述を含ん
でいない.つまり,
『真諦倶舎論』は「大品釈門経」の影響を受けておらず,最も
古い.
【3-2】
「AKVy 三因頌」は二部の解釈に「大品釈門経」に由来する記述を含
む.つまり,
「AKVy 三因頌」は衆賢『順正理論』の「大品釈門経」に基づく解釈

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『ポタラ宮倶舎頌』新出偈 V.42-2(田 中) (107)

に影響を受け改変されている.【3-3】玄奘訳『順正理論』は二部の解釈にすべて
の解釈が含まれる.このことから,玄奘訳『順正理論』が最も新しい内容を有す
る.
【4】称友釈に基づき,第一因と他三因が異なる典拠に由来するのであれば,
四因を併記する玄奘訳『順正理論』の内容は後に整備されたものであり,
『玄奘倶
舎頌』もその整備された『順正理論』に基づいて制作されたものである.【5】玄
奘訳『倶舎論』には衆賢説とされる「度々現行する」が第一因として組み込まれ,
説明される.この玄奘訳『倶舎論』のほぼ全文が玄奘訳『順正理論』に含まれる.
玄奘訳『順正理論』の本論相当箇所から再構築された『倶舎論』が玄奘訳『倶舎
論』の当該箇所である可能性が高い.以上の点から,教義の発展段階を整理すれ
ば次の通りになる.

真諦訳『倶舎論』→ AKVy 所引『順正理論』→ AKVy 所引「三因頌 ・ 釈」


→ 玄奘訳『順正理論』 → 玄奘訳『倶舎論』

また,安慧釈(TA:D.165b6-166a3)では玄奘訳『順正理論』と合致する四因説が
提示される.しかし第四因の解釈については称友が紹介するものと近似する二種
(A. 在家出家,B.「大品釈門経」に由来する天と人)である.このことから,四因説は
玄奘が勝手に整理したものではなく,インドに由来するものであることが明らか
となる.また,第四因の解釈を二例に留めることから,四例を挙げる玄奘訳『順
正理論』よりも古形を保持していると考えられる.最後に満増釈(LA:D.131a3-6)
では,有余師説として,①「繰り返し現行するから」,②「軽蔑と貧困の原因だか
ら」という二因説を提示する.本内容は衆賢説と有余師の三因説を簡潔に集約し
たものである 7).先の整理に加筆すれば次の通りになる.

真諦訳『倶舎論』→ AKVy 所引『順正理論』→ AKVy 所引「三因頌 ・ 釈」


→ TA 所引「四因説」→ 玄奘訳『順正理論』→ 玄奘訳『倶舎論』→ LA
所引「二因説」

6.まとめ

検討結果,V.42-2 は毘婆沙師の十纏説の立場から九結を説明するために必要な
偈頌であることが明らかとなり,田中 2022 等で指摘したのと同様に,『ポタラ宮
倶舎頌』と『真諦倶舎頌』は毘婆沙師の教義に適うという特徴を有していること
が明らかとなった.そしてその改変は『順正理論』に先立つなんらかの毘婆沙師
説に由来することが明らかとなった.また,今回の検討に伴い,『倶舎頌』V.42-

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(108) 『ポタラ宮倶舎頌』新出偈 V.42-2(田 中)

1, 2 という一箇所の検討結果にすぎないが,
『倶舎論』の内容が作者の手を離れて
加筆編集されていく過程が明らかとなり,それぞれの『倶舎論』関係書籍が保持
する情報の新古に対する一つのケースが提示できた.このことから,
『倶舎論』に
登場する一部の情報は常に最新の学説にアップデートされ続けていることも確認
できた.今後,本研究同様に,諸本を丁寧に比較対照し,異読を丁寧に分析する
ことで,様々な教義の発展過程がより明らかとなるのではないだろうか.

1)Cf. 田中 2021ab, 2022. また,『ポタラ宮倶舎頌』の詳細や研究史は田中 2021b に詳し


い. 2)AKK.V.42-1 に関しては,蔵訳や真諦を始めとするすべての『倶舎頌』は
ゴーカレーと対応する.また,AKK のテキストはゴーカレー本に準拠したが,連声表記
は一般的なものに訂正した. 3)AKVy 491, 1 では毘婆沙師に同定する.
4)『雑心論』[T.28.904c24-25]忿及覆雖獨立亦離二.或有欲令是使性彼記有八纒.
5)『中阿含』134「大品釈問経」等の複数のテキストに対応が認められる.『中阿含』[T.
1.635a8-10]世尊聞已答曰.拘翼.天人阿修羅揵沓和羅刹.及餘種種身各各有二結慳及嫉
也. 6)対応する衆賢の主張は『順正理論』 [T.29.643b 17-19]である.また,引用
経典は注 5 で記した経典と等しい. 7)TA と LA が異なる情報ソースを有すること
については田中 2019 においても言及した.田中 2019 の検討では TA は『順正理論』と対
応し,LA は『アビダルマディーパ』と対応した.

〈略号表 ・ 一次文献〉
AKBh: Abhidharma Kośabhāṣya of Vasubandhu. Ed. P. Pradhan. Patna: K. P. Jayaswal Reserch
Institute, 1967. AKVy: Sphuṭârthā Abhidharmakośavyākhyā by Yaśomitra. Ed. Unrai
Wogihara. Tokyo: Sankibo Buddhist Book Store, 1989. AKK(Goklhale) : Gokhale, V.V.,
1946. “The Text of the Abhidharmakośakārikā of Vasubandhu.” Journal of the Bombay Branch of
the Royal Asiatic Society 22: 73-102. AKK(Potala): 西藏社科院贝叶经研究所 2016「 《阿
毗达磨俱舍论》写本推介」 『西藏贝叶经研究』西藏自治区社会科学院,99-142.
LA: *Abhidharmakośaṭīkā lakṣaṇānusāriṇī by *Pūrṇavardhana(Q no. 5594; D no. 4093) .
TA: Abhidharmakośabhāṣyaṭīkā Tattvārthā by Sthiramati(Q no. 5875; D no. 4421) .

〈参考文献〉
小谷信千代 ・ 本庄良文 2007『倶舎論の原典研究 随眠品』大蔵出版. 小谷昂久 2021
「『順正理論』に基づく『倶舎論』の改変――kila の解釈をめぐって――」 『インド哲学仏
教学研究』29: 47-65. 田中裕成 2019「倶舎論における非伝説句の立場」 『印仏研』68
(1): 439-435. ――― 2021a「新出倶舎論本頌写本に見る毘婆沙師的改変」 『印仏研』
69(2): 901-896. ――― 2021b「新出梵文倶舎頌(IV.3, V.27)と諸倶舎頌の関係」 『対
法雑誌』2: 31-60. ――― 2022「倶舎頌伝説句の改変」 『印仏研』70(2): 985-980.

(令和 4 年度科学研究費[22K12974]及び[21K19969]による研究成果の一部)

〈キーワード〉 異読,世親,玄奘,真諦,衆賢,称友,安慧,満増
(佛教大学非常勤講師,博士(文学))

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