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思想の系譜、「アドルノ」の行方 相馬巧

竹峰義和『
〈救済〉のメーディウム――ベンヤミン、アドルノ、クルーゲ』
(東京大学出版会、2016 年)書評

本書は、フランクフルト学派の思想の系譜図を読み替え、ベンヤミン、アドルノ、クル
ーゲという三人の思想家の新たな布置状況を描き出す大胆な試みの書物である。このフラ
ンクフルト学派の端緒である 1916 年のベンヤミンの論考「言語一般および人間の言語につ
いて」から、クルーゲによる現代の映像作品へと至る過程を追うことによって、従来も論
じられてきたハーバーマスやホネットらへと続く系譜とは異なる、新たな系譜を提示して
いく。
しかし、本書に収められた個々の論文は、三人の思想家の各論としても多くの学問的新
規性と知的刺激に満ちたものであり、その意味で本書は、フランクフルト学派全体の系譜
を素描するに留まるものでは決してない。このなかで特に注目すべき各論を簡潔に見てい
こう。第 2 章の複製技術論文に関する論考では、ミリアム=ハンセンによる近年の画期的
なフランクフルト学派研究『映画と経験――クラカウアー、ベンヤミン、アドルノ』のベ
ンヤミン論に基づき論述が行われている。そこではこの著名な論文に付着していた紋切り
型の解釈を破棄し、新たな側面を大変刺激的に浮き上がらせているのであるが、2017 年に
は本書の著者竹峰義和と滝浪佑紀の共訳によって、法政大学出版局から邦訳が出版されて
いる。また第 5 章では、アドルノの論考「芸術と諸芸術」に基づき、大衆文化のキッチュ
さに対して肯定的な姿勢を示していた後期アドルノの姿が論じられる。この「芸術と諸芸
術」を収めた論集『模範像なしに』の邦訳もまた、本書の著者によって同年にみすず書房
から出版されている。まさに驚異的な仕事量であるが、これらの翻訳業もまた本書の仕事
と密接に関わっており、合わせて評価するべき業績であろう。そしてすでに多くの指摘が
なされているように、クルーゲの思想的著作ならびに映像メディアの仕事を日本で初めて
論じた業績も強調しなくてはならない。
このように本書は、各論で多くの重要な論述を行いつつ、全体を通してフランクフルト
学派の系譜図を描出する、という複層的な構成が取られている。書評を書くにあたり、と
てもこの限られた紙幅で全体を扱いきれるものではない。そこで評者は、これまでも筆者
が中心的に活躍していたアドルノ研究の記述に、特に第 4 章に注目していきたい。という
のも、前作『アドルノ、複製技術へのまなざし』
(青土社)ならびにその姉妹篇として構想
された本書を通して著者が提示している新しい「アドルノ」像が、まさに注目すべき仕事
であるためである。前作では、アドルノの複製テクノロジー観(とりわけ映画観)の変遷
を時系列的に論じ、それまで注目されてこなかった、肯定的に大衆メディアを論じる「ア
ドルノ」の姿が提示された。しかし、前作はひとつのまとまりある書物として体裁を整え
るために、アドルノの主たる学問領域である社会批判や芸術(とりわけ音楽)を中心的に

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取り上げることは辞することとなった(この経緯に関してはあとがきに述べられている)。
そこで本書はこの「積み残した課題」
(25 頁)を、ベンヤミンやクルーゲとの思想史的な影
響関係を含んだ形で論じている。前作と合わせて、著者による新たな「アドルノ」像の提
示という仕事が一旦の完成と見なすことができる、非常に喜ばしい著作である。著者によ
るこの二冊の仕事によって、メディアや大衆文化一般に対する嫌悪感を示し高級芸術を称
揚し続けた晦渋なエリート主義者、といういまやクリシェと化した従来のアドルノ像がつ
いに乗り越えられようとしている。

すでに多くの研究が指摘している様に、アドルノの思想は徹頭徹尾、ベンヤミンの思想
を継承することによって形成されたものである。これまでは、そのようなアドルノの態度
はベンヤミンの概念や思考形式の「忠実な」継承とみなされ、そのためにアドルノの思想
のオリジナリティそれ自体が疑問視されてきたのであった。それは実際、紛れもないベン
ヤミン本人によって、著作権の問題に抵触しているのではとアドルノに異議申し立てがな
されたほどである(7 頁)
。しかし本書は、このふたりの影響関係に「不実なる忠実さ」
(438
頁)という解釈を行うことでアドルノの再評価を試みている。

むしろわれわれは、先に触れた<解体による再生>の営みとして、アドルノによるベンヤ
ミン受容を捉え返すべきなのではないだろうか。つまり、ベンヤミンの教説をいっさい
毀損することなく、ひたすら忠実に遵守しつづけようとするのではなく、ときに暴力的
なまでの恣意性によってテクストを読み替え、別の文脈へと積極的に接ぎ木していくこ
とで、新たな意味の地平を開拓しようとするような創造的な営為として、アドルノによ
るベンヤミン受容を再評価することができるのではないだろうか(7 頁)

このような「不実なる忠実さ」による影響関係を、クルーゲを含めた三人の関係へと敷
衍して解釈を行うことが本書の狙いとなる。そしてここで重要となるのが、タイトルに掲
げられた〈救済〉という言葉である。筆者はこの言葉を、ベンヤミンのテクストに倣って
解釈を行う。すなわち、過去が未来に対して〈救済〉されるのは、過去を「忠実に」再現
することによってではない。そうではなく、
「過ぎ去った出来事を、起こりえたかもしれな
かった複数の可能性とともに絶えず追想し、沈黙した死者たちの声の残響を注意深く聴き
取ろうとするなかで、いまある現状とは異なる社会のヴィジョンを醸成していくこと」(11
頁)によって〈救済〉は果たされるとする。アドルノにとっては生涯にわたり、ベンヤミン
のテクストは「沈黙した死者たちの声の残響」であり、その内部で彼は思考を行っていた。
さて、このように思想の系譜を記述するうえで本書は、ベンヤミンの前期から後期への
過渡期において〈救済〉のヴィジョンに変化が生じた、という特徴的なアプローチを行う。
筆者はそれぞれを、〈救済〉の解釈学的モデル、〈救済〉の美学的モデルと設定している。
第 1 章で扱われる、ベンヤミンの「言語一般および人間の言語について」から『ドイツ哀

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悼劇の根源』においては、「〈救済〉の地平とはもっぱら、芸術作品にたいして個々の特権
的な解釈主体が遂行する読解行為によって開示される」
(9 頁)
。これを〈救済〉の解釈学的
モデルと呼ぶ。そして第 2 章で扱われる「複製技術時代の芸術作品」
(いわゆる複製技術論
文)などの 1930 年代の論考における、
「不特定多数の大衆という集団的主体によって感性
、、
的・非認識的なレヴェルで知覚される〈救済〉 」(9 頁、強調本文)を、
〈救済〉の美学的モ
デルと呼ぶ(この美学的という言葉は、複製技術論文における Ästhetik という原語に拠って
いるため、感性論的と読み替えることもできるだろう)

この図式をもとに筆者は、ベンヤミンからアドルノならびにクルーゲへの思想の系譜を
分析する。第 4 章は、アドルノのシェーンベルク解釈の軌跡を時系列的にたどるなかでま
ず、シェーンベルクを論じた一連の著作を、これら〈救済〉のモデルに対応したふたつの
時期に分類を行う。すなわち、初期の「音楽の社会的状況によせて」から中期の『新音楽
の哲学』序論までを、アドルノが主に〈救済〉の解釈学的モデルに基づいて思考していた
時期に、そして後期の『美学理論』においては、アドルノが〈救済〉の解釈学的モデルと
〈救済〉の美学的モデルの両者を調停させた形で思考をしていた時期のふたつに分類して
いる。
それぞれを詳しく見て行こう。前期から中期にかけてのアドルノの思想では、自律的な
芸術作品としての音楽を統御する構成原理の力が、現実社会の凄惨な状況を批判的に表出
させ「認識」をもたらす、という基本的なモティーフが特徴である。シェーンベルクの音
楽は、十二音技法という堅固な音楽形式によって自己を物象化させ、自律的なもの、すな
わち「投瓶通信」として生成されるのだが、そこに含まれる諸矛盾により却って自己瓦解
を迎えることとなる。そしてこの自己瓦解の瞬間にこそ、「希望」を見出すことができる、
とアドルノは論じた。しかしこの「希望」は、作品がそれ自体で真理を概念的に表現する
ことが不可能である以上、作品の批評を行いながら「認識」を志向する「哲学的解釈とい
う<他者>」
、すなわち特権的な解釈主体を前提とすることとなる。それは、芸術に対して哲
学をより超越的なものとして置く、ヘーゲルの観念論哲学的な態度と非常に近しく、やが
て「芸術的認識による芸術の我有化」に至ると筆者は繰り返し強調する。つまりここでは、
「作品を主観的思弁のうちに強引に包摂し、いわば解釈というかたちで作品をして哲学者
自身の見解を語らしめるという腹話術的な構図」
(190 頁)が、アドルノのうちには密かに
潜在しているのではないかという疑念が生じてしまう。
それに対して後期のアドルノは、哲学的認識の重要性を引き続き強調しながらも、「「仮
象」としての芸術作品がもつ感性的・経験的な契機のうちに、認識による把捉と同一化の
圧力から逃れるとともに、その支配の限界を露呈させるような力を認めようとする」(191
頁)
。「仮象」とはすなわち、
「つくられたもの、<いま・ここ>に現存するもの、感覚的なも
の」であるにもかかわらず、
「つくられえない」
(222 頁)真理を媒介せねばならない、とい
うアポリア的な要請を課された芸術作品の姿である。アドルノは、このような仮象という
知覚的な契機を認めることによって、哲学による暴力的な介入によるこの仮象性の内破、

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そして真理の顕現という一連の〈救済〉の解釈学的モデルを新たに規定し直している。す
るとここで重要となるのは、先ほどのヘーゲル的な主観性に代わって、概念に還元される
、、
「美的経験 ästhetische Erfahrung」(225 頁、強調本
ことのない知覚的な次元を備えた受容性、
文)である。つまり、芸術と哲学がともに解体された一瞬のうちに、ヘーゲル的な精神の捕
捉から逃れた「非同一的なもの」が知覚経験されたとき、芸術作品の真理は触知されるこ
ととなるのだ。以上の様に、
〈救済〉の解釈学的モデルと〈救済〉の美学的モデルの両者を
調停させた形で、後期のアドルノの思想が生み出されていることを、筆者は明らかにして
いる。この姿こそが、筆者の提示する新しい「アドルノ」像である。
しかしここで、前期から中期にかけてのアドルノの音楽論は、単に一面的なヘーゲル主
義的な記述に留まるものであるのかという疑念が残る。このことについて本論では詳しく
取り上げられていないのだが、これに否を投げかけている本書の序論の記述に注目したい。

一見したところ、「投瓶通信」としての芸術作品という形象は、〈救済〉の解釈学的モデ
ルに全面的に規定されているように映る。しかしながら、アドルノの芸術哲学のうちに
、、、、、、、、、、、、、、、
は、その核となる部分につねに、受容者の知覚という美学的な契機が含まれていること
を見逃してはならない(13 頁、強調評者)

すなわち、芸術を論じるアドルノの思想は、生涯を通じて知覚の次元を志向する契機を
内包していたのではないか。このことから、アドルノにおける〈救済〉のモデルの変遷と
は、中期と後期のあいだで断絶的に変化したものではなく、彼の生涯にわたって連続的な
変化を遂げていたことが示唆される。たとえば『新音楽の哲学』のシェーンベルク論には、
、、
「認識するものとして芸術が判断を下すのは、あくまでその美的形式 ästhetische Form によ
(S.119、邦訳 177 頁、強調評者)という知覚的な契機を指す記述が存在し
ってなのである」
ている。このようにアドルノの記述には、本書の第 4 章でなされた概略的な図式を軽々と
飛び越える要素が多様に内在していると言えよう。そして、むしろこのことは、本書によ
って提起された図式に照らし合せることによってこそ明らかとなるのではないか。
本書のあとがきではこの問題の解決策として、
「アドルノの芸術理論における聴覚の位置
づけを徹底的に精査したのち、個々の作曲家についての論考を読み解いていくなかで、ア
ドルノにとっての<音楽史>を再構成することから始めなくてはならない」
(451 頁)という
「積み残した課題」が述べられている。非常に興味深い問題意識である。評者もまたアド
ルノ研究者のひとりとして、この問題に挑戦したいという気持ちに駆られている。

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