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2010 年度

修 士 論 文

指導教授 高橋敏夫 教授

題 目 川上弘美研究序論

早稲田大学大学院文学研究科
日本語日本文学コース(専攻)
目 次

序 章 川上作品の解釈をめぐって 3
第 1 節 先行研究の外観 3
第 2 節 本論文の構成と内容 8

第1部 解釈問題の深層

第 1 章 川上作品のリアリティ水準 12
第 1 節 非現実性の歴史的背景 12
第 2 節 川上作品におけるリアリティ水準 24

第 2 章 解釈に寛容的な小説 31
第 1 節 ぼかしの文体 31
第 2 節 物語の空白 33

第2部 解釈方針の安定化に向けて

第 3 章 川上作品のジャンル分け 38
第 1 節 日本幻想文学 38
第 2 節 マジックリアリズム 47

第 4 章 川上手法としての異化 51
第 1 節 文体による異化 51
第 2 節 リアリティ水準の異化 56

第 5 章 川上手法の変遷 60
第 1 節 山田弘美の作品 60
第 2 節 川上弘美の作品 64

終 章 研究の総括 70
第 1 節 本研究の成果 70
第 2 節 今後の課題 76

主要な参考文献一覧 77
付録 80
序章

序 章 川上作品の解釈をめぐって

第1節 先行研究の外観

1 問題提起

川上弘美は、1980 年にお茶の水女子大学在学中に最初の小説を SF 雑誌 1 に発表して、


作家デビューを果たしたが、その後間もなく筆を折った。再デビューをしたのは 1994 年で、
「神様」を発表して、第 1 パスカル短篇文学新人賞を受賞した。1996 年に「蛇を踏む」で
第 115 芥川賞を受賞して初めて、文壇から注目されるようになった。その後、毎月新聞や
雑誌に小説を掲載したり、毎年のように単行本を刊行したりして、活発な文学活動を展開
している。芸術的な面が評価されて、数々の名誉ある文学賞を受賞する一方で、ベストセ
ラー作家としても成功を収めているし、その作品が七つの国語教科書 2 に収録されている。
また、海外でも川上弘美の知名度が向上しつつあって、殊に『センセイの鞄』と『溺レる』
が翻訳されることが多いことが分かる(付録 1 参照)。
川上弘美は創作の傍ら新書の書評、解説 3 も行い、2007 年の第 137 回選考会から、芥川
賞選考委員にもなっている。すなわち、創作、批評の両面において現代文壇で確固たる地
位を築いている。
しかし、文壇における川上弘美の地位が向上しつつあるにも関わらず、その向上を後押
しする評価に関しては不思議な傾向が見られる。というのは、書評、批評の数から川上弘
美の作品が読者に刺激を与えていることが明らかだが、作品の解釈は批評家によって千差
万別である。例えば、芥川賞を受賞した「蛇を踏む」に対する選考委員の評言だけをとっ
ても作品の評価がいかに揺れているかが分かる。
宮本輝は「蛇が人間と化して喋ったりすることに、私は文学的幻想を感じない。
(中略)
寓話はしょせん寓話でしかないと私は思っている」と言い、石原慎太郎は「蛇がいったい
何のメタファなのかさっぱりわからない。(中略)こんな代物が歴史ある文学賞を受けてし
まうというところにも、今日の日本文学の衰弱がうかがえるとしかいいようがない」と断
言した。また、池澤夏樹は「『今昔物語』以来の変身譚の系譜を踏まえた上で、いかにも昨
今らしく、しかしやはりどことなく古風に、まとめた佳品である」と賞賛し、日野啓三は
「前作に比べて格段に強くしなやかになった作者の文章の力が、現代日本の若い女性たち
の深層意識の見えない戦い――というひとつの劇的世界を文章表現の次元に作り上げた」
と述べた 4 。
また、時間の経過につれて評価が安定していくようにも見受けられない。同じく「蛇を
踏む」に関する論考を例にすれば、松浦寿輝(1999 年)は「彼女の小説を、何らかの寓意
が託されたファーブルとして読むのは誤りだ。蛇とはここで、何の象徴でもないのであり、
あえて言えばあの「きりがない感じ」それ自体に与えられた仮の名前が蛇なのである」 5 と
述べた。それと対照的にカトリン・アマン(2000 年)は寓意説を主張して、「『蛇を踏む』

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序章

に描かれている蛇は、内面および無意識の具現化であると考えられる」 6 と書いた。また、
佐藤泉(2003 年)は、
「とりあえずこれらの「蛇」サイクルの作品に通低するテーマを、母
性社会日本の病理、としておこう」 7 と言った。
そして、海外ではポーランドの評論家が『蛇を踏む』について「そのリアリティは平等
に現実とファンタジーの領域に跨り、白昼夢も混ざっている。その世界への誘いを受けた
以上、その世界は別のルールによって規定されていることを覚悟すべし」 8 と述べた。
『物語が、始まる』、『神様』、『龍宮』などの作品集に関しても同じように解釈のスタン
スが定まっていない状況が見られる。
「ラストシーンで行われている行為は、冷静に指を折って考えてみると、同性愛の近親
相姦の獣姦の乱交のラマーズ呼吸法の黒ミサの生け贄儀式ではないか」と、『物語が、始ま
る』に収録されている「トカゲ」に対する解説である 9 。一方、清水良典は「トカゲ」につ
いて「このグロテスクな戯画から、高度成長やバブル経済の幻想につながる日本的欲望の
「雛型」を見出すことは容易である」 10 と述べる。
『神様』については、堀江敏幸は「川上弘美の語り手が、周囲の人々と、いや人々では
なくむしろ《存在》と結ぶコミュニケーションの形態は、いつも恋に似ている」 11 と書き、
小谷真理は「川上弘美の作品は、エイリアン・ファーストコンタクトものだなとかつて考
えたことがあった。本書もまた、動物や幽霊や妖怪などさまざまなエイリアンたちとの遭
遇を扱った九編を収めている」 12 と述べ、佐野洋子はフロイトの夢分析を否定しながら、
「「神様」の一行目を読んで「あ、これは夢だ」と思った」 13 と言った。
海外では、アクーニンというペンネームで有名なロシアの日本文学研究者は「神様」を
「浮薄で非現実的な短編」と言い、
「これは完全に無責任な散文の一例であろう。著者は何
の意図もなく自分と読者の楽しみのためにだけ書いた。その気があれば、そういう散文で
象徴的かつ寓意的な意味を捜し出すことも可能だが、そうしなくても差支えがない」 14 と
評した。
『龍宮』については、山田登世子は「『龍宮』には、この無分別の魔法がいたるところに
仕掛けられている」 15 と述べ、小池昌代は「記憶以前の、原初の感覚を刺激するようなと
ころがあるともいえる」16 と書いた。
ところで、川上弘美の近年の代表作『センセイの鞄』『古道具 中野商店』『真鶴』などで
は、非現実的な要素が少なくなり、解釈の混乱が起こらないはずだが、作風の転換が却っ
て解釈の問題をより深刻にした。まず、幻想的な作品のみを発表していた川上弘美を一貫
「無名の平凡な孤独な未婚の女性の前に現れる異形」 17 と
して解釈しようとして、例えば、
いうふうに、一つの型にはめようとする芥川賞受賞後の試みが既に失効している。川上弘
美は青年が主人公になっている極めて現実的な家庭小説(『光ってみえるもの、あれは』)
を書いたからである。
従って、幻想的な小説が出発点にある川上弘美は今度、現実的な恋愛小説を書いても、
それをどう評価すればいいのかという問題が残る。長い間川上弘美に注目している評論家
は幻想的な小説を念頭において評価している。例えば、沼野充義は「その距離をめぐって

4
序章

展開する物語の世界には、身につまされるほどリアルでありながら、同時にこの世のもの
とは思えない幻想性がつきまとう」と『センセイの鞄』を評する際に述べた 18 。あるいは
日和聡子は「奇譚性のつよい「蛇…」に比して、本書ではその要素は影をひそめる。そし
てむしろその対極にあるかのような、あくまでも現実的、現代的な設定の舞台装置をまと
いつつ、かえってある意味ではより巧妙に、ファンタジックとも言える理想郷の世界を描
き果たせている」と『古道具 中野商店』の書評で書いた 19 。
一方で、国によって翻訳の状況は異なる(付録 1 参照)が、川上の現実的な作品しか知
られていないドイツ、スペイン、アメリカの読者は幻想的な作品の解釈に悩まされること
がない。例えば、マイケル・エメリックの翻訳でアメリカで知られるようになった川上弘
「詩的な作風」 20 が評価されているが、その作風の背景が分
美の『真鶴』の書評を見ると、
析されていない。
ところで、日本でも川上の幻想的な小説を考慮に入れない書評が見られるようになった。
例えば、三浦しをんは「『古道具 中野商店』に登場する人々の静けさとユーモアには、身
の丈にあった「時間」を大切にする人だけが纏うことのできる雰囲気がある」との主旨を
書いた 21 。
最後に、『光ってみえるもの、あれは』で引用された詩、漢詩、俳句を切っ掛けに詩人・
俳人として川上弘美を論じ直す傾向が見られるようになった 22 。それに川上の初句集であ
る『機嫌のいい犬』が 2010 年に刊行されたことを考慮に入れれば、その傾向が更に強まる
ことが予測される。
このように、川上弘美は日本文壇で重要な位置を占めるようになってきたが、海外でも
次々に翻訳され、新しい日本文学の担い手として認識されるようになった。その作品を巡
る解釈はデビュー当時から混乱しているが、時間の経過につれて解釈の方針が定まるどこ
ろか、従来の仮説が次第に信憑性を失っていく。このような状況の中で作品論・作家論は
もちろん、批評も書きにくいことは言うまでもない。また、川上作品が 2003 年度から高等
学校の教材として採用されてから、その解釈方針の安定化は教育上の急務でもある。
上述のことを踏まえて、本論文の第一の目的は、解釈の混乱を引き起こす川上作品にお
ける問題点を明らかにすることである。第二の目的は、従来の研究の成果を集約して、次
なる研究の基盤となり得る解釈方針を提案することである。
本稿の目的を達成するためには、本論で川上作品の構成的な特徴と文体の分析を行うが、
まず先行研究をまとめ、有意義な指摘を抽出したい。

2 先行研究の外観

清水良典(1996 年)23 は、近代小説の重大の要素はキャラクターが個性と特質を備えて


いることだと述べる。そこで、川上弘美の新鮮さは、凡庸で、無名で、無個性的なキャラ
クターを用いながら、本来なら失効する条件で物語を書くことである。また、不可解な登
場人物は誰かの転生でも象徴でもなく、川上の語り口がもたらしたものだと言った。

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序章

大塚英志(1999 年)24 は不可解な登場人物ではなく、物語の働きに着眼した。ビルドゥ


ングズロマンの観点から考察を行い、作中人物に変化が生じないので、物語自体が機能不
全に陥ってしまうと述べる。大塚英志のこの指摘は鋭く、川上の物語はどういうふうに機
能しているかを本論で詳しく分析する。
カトリン・アマン(2000 年)25 は多和田葉子、笙野頼子など現代女性作家の作品におけ
る変身物語を論じながら、その延長線で川上弘美の『蛇を踏む』にも触れる。カトリン・
アマンは、
「蛇」という登場人物を主人公の内面を具現化する分身として説明すると同時に、
女性のジェンダー・アイデンティティの代表としても考える。つまり、不可解な登場人物
を寓意として解釈する。しかし、数ある川上の作品の中で、『蛇を踏む』のみが分析されて
いるので、寓意説の妥当性は十分に立証されていないと言わざるを得ない。
小谷野敦(2001 年)26 は、まず日本近代文学における幻想文学のマイナーの位置付けに
ついて興味深い見解を述べ、川上作品の文体をメルヘン調とする。続いて、作中人物の設
定と描写、その中で特にジェンダー的な特徴に注目する。幻想文学で伝統的に女性が他界
的な存在だが、川上作品ではその図式が逆転している。すなわち、現実界の女性の主人公
の前で他界のものが現れる。しかし、幻想的な物語でその図式を成功させるには特別な工
夫が必要で、主人公の設定も他の作中人物の設定も漠然としていないと、メルヘン調が出
ないと述べる。
青柳悦子(2001 年)27 は川上弘美の作品における主人公と他者の関係について論じる。
まず、作中人物の間にコミュニケーションが成立しないことを指摘して、主人公たちの受
動性と自分自身に対する反応の遅れについて述べる。続いて、描写がきわめて触覚的であ
ると証明して、メルロ=ポンティの思想を用いながら、主人公と他者の関係を主体と対象
で説明する。つまり、メルロ=ポンティの言う主体と対象との相互連携的な関係は、川上
弘美の主人公と怪異な登場人物との関係に類似しているということである。しかし、普遍
的な広がりをもつメルロ=ポンティの思想を極端に特殊な川上作品だけに適用することに
は、青柳悦子の論理の矛盾があるように思われる。
原善(2001 年)28 は川上の作品が内田百閒の作品に類似していると指摘した。また、
「セ
ンセイの鞄」におけるセンセイは内田百閒の像と重なり、川上弘美の内田百閒への愛情の
表現としても読めると述べた。
田中和生(2002 年)29 は川上の小説を夢のような物語と名付けた。眠りへの入り口は主
人公が「現実に背を向けている意識」だとして、具体的に辞職だの、結婚の拒否だのと述
べる。更に、川上の文体を童話の文体と比べ、固有名詞の禁忌と擬声語の多用が夢のよう
な物語の世界を支えていると結論付ける。最後に、作中人物の孤独感に注目し、主人公の
孤独こそが異界を生み出していると述べる。
島内景二(2003 年)30 は『溺レる』を分析して川上文学に俳句性を見出した。川上の主
人公については精神状態が大人になりそこねた 40 歳前後の女性が多いと指摘した。また、
『枕草子』『源氏物語』『坊ちゃん』『ゲド戦記』、「浦島太郎」、聊斎志異、内田百閒などと
の類似性について考察した。

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序章

佐野正俊(2003 年)31 は国語教育の問題を中心に論じながら、高等学校で教えられるよ


うになった「神様」も分析する。佐野正俊は小説の世界を現代の日本社会と見做し、
「くま」
を「異種異類の者」と言う。が、どうして現代日本の都市あるいは都市の郊外に人間の言
葉を話す熊がいるかという問題に触れていない。続いて、消極的なコミュニケーション意
識と「わたし」の傍観者的な態度を指摘し、自他のコミュニケーション問題に触れ、川上
弘美が人間存在の根本的な事態を描くと述べた。
小平麻衣子(2003 年)32 は『溺レる』の「七面鳥」を中心に、<食>を通して『神様』、
『センセイの鞄』と『蛇を踏む』をつなげてみた。川上弘美の食べ物が他者との違和感を
顕在化させるためのものだと述べ、<食>と伝統的な女性のイメージにも触れた。しかし、
解釈の立場も論証されていないし、枚数からしてもこれはむしろ「七面鳥」の解説だと言
った方が正確であると思われる。
千石英世(2003 年)33 は「未性」「汎性」などの用語を使いながら、主人公「わたし」
のジェンダーについて考察する。川上作品の主題は同性愛がもたらす波紋を追究すること
だと結論付ける。千石英世は、奇怪な登場人物を性の関連で解釈する。例えば、
「蛇を踏む」
における蛇は「女性同性愛世界からの使者である」と述べる。
青柳悦子(2004 年)34 は『溺レる』を中心に言語学的な観点から川上弘美の文体を分析
した。川上作品に会話が不可欠だが、登場人物が何を言っているかというより、どういう
ふうに言っているか、すなわちマダリティに重点が置かれていると述べた。また、川上弘
美が古めかしい言葉の多用によって異化作用をもたらすと指摘した。フランス語訳を例に
して人称の翻訳問題にも触れた。最後に、川上文学は事態ではなく、人間の意識の持ち方・
感じ方あるいは各々の人間ではなくその関係を描くと結論付けた。
清水良典(2004 年)35 は『センセイの鞄』などを題材にして、<老い>に対する男性的
と女性的な性愛観の相違について論じた。その結果、『センセイの鞄』における主人公達の
恋愛観と性愛観が明らかになった。興味深いことに清水良典は『センセイの鞄』を現代日
本社会にそのまま重ね、幻想的な解釈をまったく無視した読み方を論証した。
二宮智之(2004 年)36 は、川上作品の中で珍しく完全に夢の物語である「惜夜記」にお
けるコミュニケーションのあり方を分析する。コミュニケーションが不能になった場合、
食べるという行為がコミュニケーションの隙間を埋めるために行われると指摘する。続い
て、語り手が他者との関係に恐怖を感じるので、他者が異類としての動物に設定される。
つまり、動物は他者性のメタファーである。最後に、語り手と他者とのコミュニケーショ
ンは言葉によって成立せず、食事によって行われるが、語り手の自己像の分裂である「少
女」とのコミュニケーションは言葉によって成立していると述べる。
佐藤泉(2005 年)37 は、『光ってみえるもの、あれは』が家族小説として読まれること
に疑問を提示して、詩作品への言及が多いことから詩小説として分析した。時間意識と付
合の距離感に焦点を当てながら、連句としてこの作品を読み直してみた。
菅聡子(2006 年)38 は『センセイの鞄』における主人公のツキコとセンセイの力関係を
分析し、物語の中ではツキコが受動的で、センセイが常に優位に立つ。つまり、先生と生

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序章

徒の力関係が維持される。が、ツキコがこの物語の語り手になることによってツキコに主
体性が現れる。また、家族の中で疎外されて、理解不能の存在としての妻の挿話はセンセ
イとツキコの力関係に亀裂を入らせると述べた。
高柴慎治は(2007 年) 39『国語総合』に収録された川上弘美の短編「神様」を分析する。
物語の暗黙の約束事に触れてから、
「神様」におけるリアリティ水準とファンタジックな水
準の交差について考察する。「神様」は読みやすい割に解釈が困難であるため、教材として
は不適切であるが、画期的なテキストであると結論付ける。
和田勉(2007 年)40 は生物学的な視点から川上作品を考察する。「蛇を踏む」が他者へ
の違和感や自己の存在の不安定さを表出する作品だと考え、その作品に出てくる蛇を捉え
どころのない他者の象徴として解釈する。また、川上作品の特出はヒトの営みと他の生き
物の営みを等しなみに捉えているところにあると結論付ける。
その他にも十分に論証されているとは言えないが、次のような先行研究がある。
宇野憲治(1997 年)41 は「蛇を踏む」の登場人物を三世代に分けて、戦争、宗教、思想
などの潜在的なテーマをこの作品で見だした。池内晴美(2005 年)42 は『神様』、
『溺レる』、
『センセイの鞄』などの特徴について論じたが、明確な結論を出していない。山平有花里
(2007 年)43 は食事シーンと細部の描き方について考察し、登場人物の描写が俳諧的であ
ると指摘した。河田小百合(2009 年)44 は「蛇を踏む」における語りの分析をしながら、
主人公の葛藤と、主人公と他者の関わり方を明らかにしようとした。
最後に、有効な参考資料として、1994~2005 年の書評一覧と年譜を添えた『川上読
本』 45 と 2010 年現在の研究動向を簡潔にまとめた原善の論文 46 がある。

第2節 本論文の構成と内容

1 研究目的、範囲、方法

本研究の第一の目的は、川上作品の解釈を混乱させる要素を明らかにすることである。
第二の目的は、今後の研究のために矛盾のない解釈の枠組を提案することである。
第一の目的を達成するために、先行研究を精読して、研究者の意見が分かれる論点を定
める。問題の範囲を明らかにした上で、川上作品の分析を通じて、解釈を困難にする原因
を追究する。
第二の目的を達成するためには、まず、川上作品のジャンル分類を行う。次に、川上作
品を考察して、解釈の枠組を提案する。最後に、初期の作品から始めて、川上作風の変遷
を考察する。
本稿では、解釈の問題を中心に扱う。その問題を解決するために、川上作品の分析はも
ちろん、他の作家、他のジャンルの作品との比較も行う。川上作品を分析する際に、作品
の構成と文体に焦点をあてる。
また、川上研究に関わりのあるテーマではあるが、性、食、フェミニズムのテーマを本

8
序章

稿では扱わない。
最後に、本論文では川上弘美の作品を引用する際に、特記がない限り、次の書籍を取り
扱う。
(中央公論社、1996 年 8 月)
『物語が、始まる』 、 (文藝春秋、1996 年 9 月)、
『蛇を踏む』
『神様』(中央公論社、1998 年 9 月)、『溺レる』
(文藝春秋、1999 年 8 月)、『センセイの
(平凡社、2001 年 6 月)、
鞄』 (平凡社、2002 年 5 月)、
『パレード』 『龍宮』
(文藝春秋、2002
年 6 月)、『光ってみえるもの、あれは』(中央公論社、2003 年 9 月)、
『古道具 中野商店』
(新潮社、2005 年 4 月)
、『真鶴』(文藝春秋、2006 年 10 月)。

2 本論文の構成と内容

本論文は、序章、第1部、第1部、終章と付録から成っている。
第1部では、解釈を困難にする問題を解明する。第1章では、川上作品におけるリアリ
ティの問題について考察する。第 2 章では、川上作品に見られる物語の空白について考察
する。
第 2 部では、新しい解釈の枠組を提案する。第 3 章では、日本の幻想作家との比較を行
う。第 4 章では、解釈枠組として異化を提案する。第 5 章では、川上作風の変遷を辿る。
最後に、付録には、1976 年~1980 年の川上作品が収録されている。

9
序章

1 川上弘美は小川項と山田弘美という名前で雑誌『季刊 NW-SF』1980 年 2 月号と 9 月号


にそれぞれ作品を発表している。その作品の分析は本論で行う。
2 2011 年 1 月現在は川上の小説と随想が 7 つの高校用国語教科書に採用されている。

『新精選 国語総合』 (明治書院、2007 年 2 月)には「神様」、 『国語総合』 (筑摩書房、2007


年 2 月)にも「神様」が共に 2003 年から採用。 『精選国語総合 改訂版 現代文編』 (筑摩書
房、2007 年 2 月)には 2003 年から随想「境目」 、『国語総合』(数研出版、2007 年 1 月)
には 2007 年から随想「春の憂鬱」が収録されている。 『現代文2改訂版』 (大修館書店、2009
年 4 月)には 2005 年から「離さない」、『精選国語総合』 (東京書籍、2009 年 4 月)には
2007 年から「花野」、 『新編現代文』 (東京書籍、2008 年改訂版)には「水かまきり」が 2008
年から採用されている。
3 川上弘美は、江国香織『すいかの匂い』 (新潮文庫、2000 年 7 月)、内田百閒『百鬼園随
筆』(新潮文庫、2002 年 5 月)などの単行本の解説を書いている。また、読売・朝日新聞
の書評委員として掲載した書評は『大好きな本 川上弘美書評集』(朝日新聞社、2007 年 9
月)に再収録されている。
4 「芥川賞選評」 『文藝春秋』1996 年 9 月号、431~437 頁(『芥川賞全集 第十七巻』文藝
春秋、2002 年 8 月、再録)
5 松浦寿輝「解説」 『蛇を踏む』文春文庫、1999 年 8 月、180 頁。
6 カトリン・アマン 『歪む身体 現代女性作家の変身譚』二〇〇〇年四月、専修大学出版局、
153 頁。
7 佐藤泉「古生物のかなしみ」 『ユリイカ』 (総特集 川上弘美読本)9 月臨時増刊号、第 35
巻第 13 号、2003 年 9 月、120 頁。
8 Agnieszka Mąka, "Zapiski z niezwykłej podróży (Nadepnęłam na węża)", Splot, 2010

年 6 月.
原文:”Tę rzeczywistość na równych prawach tworzą obszary realistyczne i fantastyczne,
jawa miesza się ze snem. Przyjmujący zaproszenie do tego świata musi mieć
świadomość, że wchodzi w przestrzeń, która rządzi się innymi prawami”.(拙訳)
9 稲村弘「解説」 『物語が、始まる』中公文庫、1999 年 9 月、214~215 頁。
10 清水良典「川上弘美覚書」 『文学界』1996 年 7 月、199 頁。
11 堀江敏幸「今はもうないものの光」 『文学界』1998 年 12 月、360 頁。
12 小谷真理「さらば 愛しき幻獣」『すばる』1998 年 12 月、287 頁。
13 佐野洋子「解説」 『神様』中公文庫、2001 年 10 月、199 頁。
14 Григорий Чхартишвили(ペンネームはボリス・アクーニン)"Девочка и медведь",

Предисловие к сборнику современной японской прозы «Она», Иностранка, 2003 г.


原文:”Вот образец прозы совершенно безответственной, написанной автором ни
зачем, для собственного и читательского удовольствия. Если угодно, можно
обнаружить в такой прозе символический и аллегорический смысл, хоть это и
необязательно”.(拙訳)
15 山田登世子「 「無分別」の魅力」『文学界』2002 年 9 月、347 頁。
16 小池昌代「湯気のむこうに」 『ユリイカ』(総特集 川上弘美読本)9 月臨時増刊号、第
35 巻第 13 号、2003 年 9 月、181 頁。
17 清水良典「川上弘美覚書」 『文学界』1996 年 7 月、192~204 頁。
18 沼野充義「生と死の間にあわあわと広がるもの」 『群像』2001 年 10 月、331 頁。
19 日和聡子「古くなることは、あたらしくなること」 『文学界』2005 年 6 月、338 頁。
20 “Fall 2010 catalog”, Counterpoint Soft Skull Press Sierra Club Books, 2010, p. 9.

原文の引用:”Through a poetic style embracing the surreal and grotesque, a quiet


tenderness emerges from these dark moments. Manazuru is a meditation on
memory—a profound, precisely delineated exploration of the relationships between

10
序章

lovers and family members”.


21 三浦しをん「愛おしい時間のなかで」 『波』2005 年 4 月、11 頁。
22 佐藤泉「付け合い=付き合いの共同体――川上弘美『光ってみえるもの、あれは』 」(『国
文学 解釈と教材の研究』50 号、2005 年 9 月)、岡井隆「詞華抄(22)川上弘美の詩「ディー
ゼル機関車」について」 (『季刊文科』第 47 号、2010 年 2 月)など。
23 清水良典「川上弘美覚書」 『文学界』1996 年 7 月、192~204 頁。
24 大塚英志「 「物語」と「私」の齟齬を「物語」るということ―川上弘美論」 『文学界』、1999
年 10 月、244~270 頁、初出(再録: 『サブカルチャー文学論』朝日新聞社、2004 年 2 月)。
25 カトリン・アマン「境目が消える日常」 『歪む身体 現代女性作家の変身譚』専修大学出
版局、2000 年 4 月、129~159 頁。
26 小谷野敦「川上弘美における恋愛と幻想」 『文学界』、2001 年 4 月、229~223 頁。
27 青柳悦子 「あるようなないような」 『文学理論のプラクティス : 物語・アイデンティティ・
越境』新曜社、2001 年 5 月、198~222 頁。
28 原善「川上弘美の文学世界」 『上武大学経営情報学部紀要』第二四号、2001 年 12 月、
112~105 頁。
29 田中和生「孤独な異界の「私」 」『文学界』2002 年 12 月、264~281 頁。
30 島内景二「現代文学の輪郭―川上弘美『溺レる』 」『電気通信大学紀要』15 巻 2 号、2003
年 1 月。
31 佐野正俊「川上弘美「神様」の教材性―教室における読むことの倫理」 『「読むことの倫理」
をめぐって』右文書院、2003 年 2 月。
32 小平麻衣子「川上弘美と<食>」 『国文学 解釈と教材の研究』7 月臨時増刊号、2003 年
7 月、188~190 頁。
33 千石英世「甘嚙みのユートピア」 『異性文学論 : 愛があるのに』ミネルヴァ書房、2004
年 8 月、229~253 頁、再録(初出:『文学界』2003 年 10 月、158~173 頁)。
34 青柳悦子「川上弘美―様態と関係性の物語言語化」 『女性作家《現在》』[国文学解釈と鑑
賞]別冊、至文堂、2004 年 3 月。
35 清水良典「 『センセイの鞄』と『石に泳ぐ魚』のセクシャリティ」『日本近代文学』2004
年 5 月。
36 二宮智之「川上弘美「惜夜記」論」 『近代文学試論』第四十二号、広島大学近代文学研究
会、2004 年 12 月、107~119 頁。
37 佐藤泉「付け合い=付き合いの共同体――川上弘美『光ってみえるもの、あれは』 」『国文
学 解釈と教材の研究』50 号、2005 年 9 月。
38 菅聡子「川上弘美『センセイの鞄』―埋められない距離の物語」 『ジェンダーで読む 愛・
性・家族』東京堂出版、2006 年 10 月、88~99 頁。
39 高柴慎治「川上弘美「神様」を読む」 『国際関係・比較文化研究』第 5 巻 2 号、静岡県立
大学国際関係学部、2007 年 3 月、33~46 頁。
40 和田勉「川上弘美論」 『九州産業大学国際文化学部紀要』第三八号、2007 年 12 月、1~13
頁。
41 宇野憲治「 「蛇を踏む」論」『年報』、比治山女子短期大学 女性文化研究センター、1997
年 3 月。
42 池内晴美「川上弘美研究」 『人間文化』20 号、神戸学院大学人文学会、2005 年 11 月。
43 山平有花里「あるようなないような<境目>―川上弘美の物語世界―」 『言語文化論叢』
第 1 巻、京都橘大学、2007 年 9 月。
44 河田小百合「川上弘美「蛇を踏む」論」 『学芸国語国文学』2009 年 3 月。
45 原善編『<現代女性作家読本①>川上弘美』鼎書房、2005 年 11 月。

46 原善「川上弘美 研究動向」『昭和文学会』第 61 号、2010 年 9 月。

11
第1章

第1部 解釈問題の深層

第1章 川上作品のリアリティ水準

第1節 非現実性の歴史的背景

1 はじめに

川上弘美の研究において最も意見が分かれるのは、川上作品に登場する動物や超自然的
な事柄をどういう位相で受け止めればいいのかという問題である。
、中央公論社、1998 年 9 月)
本章でその問題を追究するために、短編「神様」(『神様』
を分析する。
「神様」を分析の対象として選んだ理由は、ここで追及しようとする問題も浮
き彫りになっているし、短くて他の解釈問題に言及しなくてもすむし、川上弘美の代表作
でもあるということである。また、分析方法は高柴慎治 1 の方法に近い。すなわち、一般読
者の視点から「神様」を読む。
「神様」の粗筋をまとめれば、次のようになる。
主人公はどういう人物なのか明確ではないが、或る日、主人公は隣りの人と一緒に川原
に行って、そこで弁当を食べてから、自分のアパートに戻って来た。
これだけの話である。
つまり、「神様」は非常に単純な筋を持っている小説で、その魅力が筋にはないことが明
らかであろう。
ところが、問題の核心は主人公の隣人が熊である。
上述の粗筋を修正すれば、こうなる。
或る日、主人公は隣りの熊と一緒に川原に行って、そこで弁当を食べてから、自分のア
パートに戻って来た。
ここで読者は容易でない判断を迫られる。つまり、熊をどういうふうに受け止めればい
いのか。
問題は「神様」の舞台設定が現実世界をなぞっているように見える。背景説明は多いと
は言えないが、アパートがあり、車があり、引越し蕎麦がある。熊の存在を除けば、全て
が現実世界に有り得る。しかも、物語が現実的でないという但し書きはどこにも見受けら
れない。従って、これは現実的な物語である。
しかし、現実的な物語には人間の言葉が話せる熊が有り得ない。
言葉が話せる熊が出てくる話と言えば、童話がまず挙げられるだろう。従って、この小
説は童話の類である。
しかし、「神様」は子供向けだと、どこにも書いていないし、登場人物も大人だし、描写
も非常に現実的である。言い換えれば、熊の存在を除いて、童話を思わせる箇所は一つも
ない。

12
第1章

よって、この小説は現実的な次元にも非現実的な次元にも収まりきれない。つまり、熊
の存在をどういうふうに受け止めればいいのかという問題は未解決のままで残る。そこで、
読者は解釈に戸惑うに相違ない。
このように、
「神様」には論理的な罠が仕掛けられていることが分かる。
その罠は読者のリアリティ感覚に基づいていると考えられる。その仕組みを明らかにす
るために、現代人のリアリティ感覚は如何に形成してきたかについて考察したい。どうし
て『古事記』に出てくる因幡の白兎 2 は人間の言葉を話してもおかしくないが、「神様」の
熊は人間の言葉を話してはいけないのか。

2 世界像とリアリティ水準

まず、ここで使うリアリティ水準について定義しておきたい。他にも「現実のレベル」
「リ
アリティレベル」などの言い方があるが、哲学、心理学、物理学ではその用語の使い方が
異なる。ここでいう「リアリティ水準」は、特定の時代において一般常識として考えられ
ている起こり得る事柄の範囲という意味で用いる。
現実の受容の仕方、ここでいう「リアリティ水準」も世界観の一部である。また、それ
ぞれの人の世界観はその時代の世界像に基づいている 3 。
日本の世界像は幕末以降、西洋の世界像に大きく影響されてきたので、ここではまず西
洋の世界像の成立と転換期について考察を行ってから、川上作品のリアリティ問題に話を
戻したい。
世界観と世界像の分類に関して諸説があって、宗教的、文芸的、形而上学的、あるいは
歴史的に古代的、中世的、近代的などの分け方がある 4 。また、世界が像として捉えられる
ようになったのは近代以降で、ギリシャ的世界像、中世的世界像など言い方は不可能だと
ハイデッガーが言っている 5 。
本稿では、個人が世界全体に対して持っている見解と、時代が世界について持っている
観念の総体を分けるために、前者を世界観と呼び、後者を敢えて世界像と呼んで使い分け
る。
ここでは非現実性の歴史的な背景について論じたいので、その目的に沿って、歴史的な
順番で世界像を神話的、宗教的と科学的に分けて、その中でリアリティ水準に焦点を当て
る。

3 神話的世界像

世界像の変遷について述べるにあたって、神々の上下関係がまだ整っていない原始的な
アニミズム信仰 6 から始める方が、歴史的にも正しいし、後ほどのジャンル問題にもつなが
るが、古代西洋文学においてはその文献が残っていない。そこで、以下では、世界の秩序
が神話を通して説明された神話的世界像から始める。また、その資料として、古代ギリシ

13
第1章

ャの叙事詩『イーリアス』7 を使って、神話的世界観を持った人間のリアリティ水準を的確
に示すと思われる箇所を抜粋する。
まず、ギリシャ人とトロイア人の合戦で、ギリシャ方の大将ディオメーデースが戦場で
トロイア人武士を倒していくうち、女神アプロディーテーに怪我を負わせる場面を引用す
る。

そのときちょうど、ディオメーデースは、キュプリス神へと、容赦を知らぬ青銅(の
刃)をもち、かかっていくところだった、女神がしごく臆病で非力なかたで、戦さに
あたって武士たちを指揮するような女神たちの数にはとうていはいらず、(中略)それ
で、いよいよ大勢の群集の中を追いかけていって、とうとう追いついたとき、そのと
き、意気のさかんなチューデウスの子(ディオメーデース)は、鋭い手槍を、ぐっと
さしのべ、踊りかかって(アプロディーテーの)なよなよとした手の先を、突き刺せ
ば、すぐさま槍は、典雅の女神たちが手ずから織ったかぐわしい神衣をとおして、て
のひらのつけ根にささり、肌えにぐさりと孔をあけた。(中略)そこで女神に向かって
声を張りあげ、雄叫びも勇ましいディオメーデスがわめくよう、「ゼウスの娘よ、戦い
や斬り合いの場から、おさがりなさい。(中略)」こういうと、女神は(痛さに)狂わ
んばかり立ち去った。 (『イーリアス』第五巻)

この場面の後で神々と人間の「世界的」な地位について記述が続くが、ここで肝心なの
は、人間ディオメーデースは女神アプロディーテーが目の前にいることに対して驚きを示
さないことである。言い換えれば、神の出現自体は有り得ることとして受け止められてい
る。また、『イーリアス』では、そういう場面が例外ではなく、いくつも出てくる。
次に、英雄アキレウスと神アポローンが口喧嘩する場面である。

ペーレウスの子(アキレウス)に向かって、ポイボス・アポローンがいわれるよう、
「ど
うして私を、ペーレウスの子よ、早い足で、追いかけて来るのか、おまえはまさしく
死ぬはずの人間なのに、不死である神の私を。ではどうやら私が神であることを悟っ
ていないらしいな、おまえはあまりにはげしくいき立っているものだから。(中略)」
それに向かって、足の速いアキレウスが、大変腹を立てていうよう、
「私をたぶらかし
たんですね、遠矢の神よ、神々のうちでいちばんに呪わしいあたなが、今度はここへ、
囲壁から私をそらして連れて来たのだ。(中略)もしも私にその力がありさえしたら、
仕返しをしてあげるでしょうに」 (『イーリアス』第二十二巻)

上記の二つの引用から言えるのは、
『イーリアス』では、神々が人間にとっては有り得る
存在である。それどころか、口喧嘩、怪我もできるくらい実感のある存在であった。
つまり、『イーリアス』の世界観では、神々が現実の一部として実在していたことが窺え
る。そこで、人間の登場人物も神々の出現に驚きを示さないし、神の出現がなぜ可能にな

14
第1章

ったかについて語り手も自明のごとく説明しようとしない。
ここで『イーリアス』を用いた理由は、神話的な世界像におけるリアリティ水準の一例
を示すためである。本稿の目的が世界像の歴史を記すことではないので、『イーリアス』が
成立したとされる紀元前八世紀以降、神話的世界像がどう変わったか 8 をここで追究しない
とする。
続いて、神話的世界像に代わって、科学的世界像が到来するまで西洋で圧倒的な影響力
を持っていたキリスト教の世界像に注目したい。

4 宗教的世界像

ギリシャ神話に比べて、キリスト教の特徴は神が擬人化されていないことである。そこ
で、キリスト教の神が大衆に自分の意思を伝える時に、代弁者として預言者を遣わすとさ
れている。
ところが、預言者は普通の人間なので、大衆に対して自分が神の代弁者であることをま
ず証明しなければならない。そのために預言者は数々の奇跡を起こす。その奇跡に対する
大衆の態度から当時の世界観を察することができるのではないかと考えられる。
旧約聖書では、『出エジプト記』におけるエジプトの王であるファラオと預言者モーセの
交渉は興味深い。
モーセはファラオの前で杖を蛇に変えたが、ファラオは魔術師に同じことを命じて、魔
術師も杖を蛇に変える(『出エジプト記』七章:九~十三)。次に、モーセはナイル川の水
を血に変えてみせたが、魔術師も同じことをする(七章:二十~二十二)。次に、モーセは
たくさんの蛙を地にのぼらせたが、魔術師も同じことをする(八:二~九)。モーセは続け
様に杖を使いながら様々な災いを引き起こすが、ついに魔術師が競争に負けて、
「これは神
の指です」とモーセの優位を認める(八:一九)。
つまり、ここで魔術で説明できない事柄は神を用いて説明された。モーセの解釈によっ
てファラオもとうとう災いを神の啓示として受け止められるようになった(十二:三一)。
よって、『出エジプト記』では魔術的世界観と宗教的世界観の混交が見られる。魔術的世
界観とは、人間が呪文、特殊な道具、特殊な行為などによって自然に変化を生じさせるこ
とができるという世界観である。
『出エジプト記』の世界観では有り得ると有り得ないという区別が成立しない。むしろ
通常と異常の区別が成り立つ。言い換えれば、何でも有り得るが、異常な現象は魔術か神
を用いて解釈されるわけである。
新約聖書では、イエス・キリストが使徒を信じさせるのに苦労する。キリストは数々の
奇跡を起こすが、使徒はキリストの生前中、常に疑問の色を浮かべたり、説明できない現
象をただ単に恐れたりする。
例えば、キリストがガリラヤ湖上の嵐を鎮める場面である。

15
第1章

「主よ、お救いください.わたしたちは滅びそうです!」イエスは彼らに言われた、
「信
仰の小さい者よ、なぜこわがるのか?」。そして立ち上がって、風と海をしかりつけら
れた.すると大なぎになった。人々は驚いて言った、「何という人だろう.風や海でさ
え彼に従うとは?」(『マタイ書』八:二十三~二十七)

もう一つの例として挙げられるのは、キリストが海の上を歩くのを使徒が見た場面であ
る。この場面に近代人が置かれたら、使徒と同様な反応をするだろう。すなわち、幽霊だ
と思ったり、叫んだり、恐れたりするだろう。

彼らは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声を上げた。
彼らはみなイエスを見て、おびえたからである。しかし、イエスは直ちに彼らに話し
かけて、言われた、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」。イエスが彼
らの所に来て、舟に乗り込まれると、風はおさまった。彼らは心の内で、ひどく驚い
た。 (『マルコ書』六:四十五~五十二)

キリストが最初から奇跡を神の力として解釈するのに、そのことは福音書の最後まで疑
われる。使徒はキリストの復活を見て初めて、キリストの言葉の信憑性を疑わなくなる。
つまり、新約聖書の世界観において、不思議な事柄とは言え、それが容易に神と関連付
けられるようなことではなかった。
最後の引用はキリストが墓にいないことが発見される場面である。ここで女性はキリス
トが復活したという事実をそのまま受け止めることができなくて、驚いたり恐れたりする。

彼女たちは墓に入ると、一人の若者が白い外とうに身を包み、右側に座っているのを
見て、ひどく驚いた。彼は彼女たちに言った、
「驚くことはない。あなたがたは、十字
架につけられたナザレ人イエスを捜している。彼は復活させられた.彼はここにはお
られない。見よ、人々がイエスを置いた場所を。行って、弟子たちとペテロに、彼は
あなたがたより先にガリラヤへ行かれる、と告げなさい。彼が告げておられたとおり、
あなたがたはそこで彼にお会いする」。彼女たちは震え上がり、驚いて墓から出て逃げ
た。彼女たちは恐ろしかったので、だれにも何も言わなかった。 (『マルコ書』十六:
一~一八)

上記の三つの引用からは、旧約聖書に比べて、新約聖書では有り得る現象と有り得ない
現象が既に区別されていることが窺える。また、その分け方に近代にも通用するところが
ある。例えば、近代人にとって有り得ない事柄が新約聖書では既に「奇跡」として認識さ
れている。
つまり、新約聖書のリアリティ水準は近代的な水準と一致しないものの、神話的世界観
と魔術的世界観より遥かに近代的な世界観に近いと言えるのではないだろうか。

16
第1章

しかし、現象の分け方が共通する点があっても、有り得ない現象の解釈は近代と異なる。
新約聖書の時代には有り得ない現象は奇跡として放置され、場合によって神を用いて説明
される。それに対して近代では常に合理と科学を用いて説明される。

5 西欧における世界像の転換

合理的に世界の秩序を説明しようとする試みは天文学、数学、哲学などの分野において
古代からあった。例えば、紀元前三世紀に古代ギリシャの天文学者アリスタルコスは数学
に基づいて太陽中心説を立証した 9 が、その説が定着することがなかった。
科学的な世界像の構築は、地球の球性を確認した十五・六世紀の大航海時代から本格化
したと言えるだろう。地球の球形説に続いて、地動説、ニュートンの力学など、近代的な
世界像の基礎になるような学説が実証された。が、キリスト教側の対抗によって科学的な
世界像の普及が遅れた。宗教と科学の闘争は何世紀も続いたし、今日もまだ続いている。
例えば、ローマ法王は 2008 年に初めて地動説を認めた 10 。
ただし、ここで重要なのは、科学と宗教の闘争ではなく、いつ頃から科学的な世界像が
主流になったかということである。言い換えれば、宗教的から科学的への世界像の転換は
いつ起こったか。
しかし、その質問に答えることは非常に難しいと考えられる。まず、ヨーロッパは国に
よって状況が異なる。また、科学的な発見があったとは言え、それは一般市民の世界観に
浸透するまでどれだけの年月がかかったか計りきれない。つまり、対象は広範囲で漠然し
ている。従って、その質問に対して正確な答えはないだろう。

時代区分というのは、扱う問題によっても異なってくるし、明確に「何年から何時代
となった」というようなものではない。科学史の世界で「近代」という言葉が使える
のは実質的には十七世紀に入ってからである。11

ところが、ここでトーマス・クーンの指摘が参考になる。トーマス・クーンは『科学革
命の構造』12 で「パラダイム」という概念を用いながら、科学における世界観の変革につ
いて論じるが、第 11 章「革命が目立たないこと」で、新たな科学革命は教科書の書き換え
によって決着が付けられると論証する。
つまり、教科書と一般教育はその時代の規範的な考え方を反映している。教科書が書き
換えられるということはその時代の規範的な考え方が変わることを意味するわけである。
従って、世界観の転換点を定めるために、教科書と教育に注目すればいいということにな
る。
ここでヨーロッパ各国の十七・八世紀の教科書を検討することができないが、非宗教的
教育が始まる時期を定めることができる。非宗教的教育の発端はフランスで見られる。
フランス革命の側面として、キリスト教は徹底的に弾圧された。それに伴って、キリス

17
第1章

ト教関係者が担当していた教育も根本から見直された。その結果、カリキュラムから宗教
的な科目が排除され、数学、物理、博物、機械学などの自然科学系の科目が中心に置かれ
た 13 。
よって、近代化の先駆けとなったフランスでは、科学的世界像への転換は、非宗教的な
教育制度が成立した時点 14 で一八世紀末に起こったと推定できる。

6 科学的世界像と非現実的な文学

科学的世界像の普及は文学にとって何を意味するのだろうか。
まず、地理的な未知が無くなるに連れて、地球はどういう形をしているか、地球にどう
いう大陸、島、海、国などがあるか周知のこととなった。次に、生物学的な未知が無くな
るに連れて、一角獣、ケンタウロス、ペガサス、人魚、巨人、小人、不死鳥、竜などは想
像上の生物に分類されるようになる。
この点は上で見てきた新約聖書の世界観と大きく異なるところである。すなわち、新約
聖書の時代には既に近代に近いリアリティ水準はあったが、地理学・生物学的な未知がま
だ多かった。そこで、一角獣、人魚、巨人などは近くにいないとしてもどこか遠い国にい
るかもしれないという可能性が残っていた。従って、新約聖書の時代に有り得る現象と有
り得ない現象を明確に分離することが不可能であった。
それに比べて、科学的世界像が確立してから、少なくとも地球の規模では何が有り得る
か何が有り得ないか明確になった。つまり、リアリティ水準の確固たる基盤ができたわけ
である。その基盤に基づいて近代文学のジャンルが形成されてきたと考えられる。
まず、一九世紀の半ばにリアリズムが勃興した。
リアリズムは、現実の正確な表象を提供する文学の一つの方法あるいは形式として定義
できる。また、その用語はバルザック、プロベール、ゾラ、ツゲーネフ、トルストイなど、
一九世紀の作家を論じる時に最もよく使われる 15 。
また、アウエルバッハが『ミメーシス』で述べているように、リアリズムを現実の模倣
として捉える場合、ホメーロスの叙事詩と聖書を始めてとして、全ての西洋文学が何等か
の形で現実を模倣していることが言える。ただし、古典古代のリアリズムと十九世紀にフ
ランスから始まった近代的なリアリズムは全く性質が異なっていると指摘している。
一九世紀におけるリアリズムの台頭はロマン主義文学への反動として解釈されることが
多いが、文学における実証的科学精神の結果と見なす学者もいる 16 。
狭義的にいうリアリズム文学は一九世紀後半~二十世紀初頭に限定されるが、広義的に
いうリアリズムは、科学的世界像に基づく現実を描写する方法として存続し、近代文学の
基本モードの一つとして定着したと言えるのではないだろうか。
一方、非現実的な小説は、科学的世界像に矛盾しない形でサイエンス・フィクション、
ファンタジーと児童文学に分けられるようになった。
ファンタジーは、超自然的、非現実的要素を含むフィクションを指す文学用語だが、一

18
第1章

般的に、このジャンルは一九世紀の半ばに形成し始める 17 。初期のファンタジー作品の中
で最も有名なのは、1865 年に出版されたルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』であ
る。
一方、ファンタジー文学研究の第一人者であるブライアン・アトベリー 18 は、幅広く使
われるファンタジーという言葉を「様式」「ジャンル」「形式」に分けた。様式としてのフ
ァンタジーは、ミメーシスと並んで、文学の基本的な手法であって、その度合いは作品に
よって異なるが、どの文学作品でも見られる。ジャンルとしてのファンタジーは、一八世
紀末のグリム兄弟のメルヘンから始まって、一九~二〇世紀にそのジャンルの約束事が固
まった。また、形式としてのファンタジーは、
「剣と魔法の本」を指す。
もちろん、今で言うファンタジー的な作品は、神話・伝説を始めとして一九世紀以前に
も数多くあったが、現実/非現実の区別が曖昧であった時代には、ファンタジーはジャン
ルとして成立できなかった。なぜなら、現実はどこまでか、非現実はどこから始まるかは、
一九世紀まで明確に定められていなかったからである。
ファンタジーがジャンルとして出来た意義は非常に大きく、虚構的、非現実的な物語が
近代文学の中で許容されるようになった。しかし、その一方、科学的な世界像に矛盾しな
いように、架空世界の設定が行われるようになった。
『不思議の国のアリス』を例にすれば、非現実的な空間がすぐに始まるのではなく、ア
リスがウサギを追って、穴を通して不思議な国に入る。すなわち、アリスは科学的世界観
が支配する世界から一旦距離を取って、架空の世界に入るわけである。
また、アリスが現実世界に戻る時に、夢オチという手法が使われる。すなわち、有り得
ない冒険は科学的世界観に矛盾しない形で、夢として処理される。
もしファンタジーにそういう架空世界の設定がなければ、その物語は科学的世界観に照
らされて、現実性を完全に剥ぎ取られ、単なる「嘘話」として失敗する可能性が高いと考
えられる。そこで、物語に少しでも現実性(起こり得る可能性)を帯びさせるために、時
間的・空間的な距離を設定する必要が生じる。
ファンタジーというジャンルの起源を神話と古代伝説から数える見方もあるが、神話と
古代伝説には架空世界の設定がない。なぜなら、現代の読者が神話で感じるファンタジー
性は当時の世界観からすれば、現実であって、それを架空世界の設定を用いて説明する必
要がなかった。その実証は神話的世界像について述べる際に取上げた『イーリアス』で見
られる。従って、神話と古代伝説が現代のファンタジーと重なるモチーフがあっても、そ
れらが書かれた歴史的背景が全く異なっているし、その違いが架空世界の設定の有無に現
れる。
続いて、サイエンス・フィクションの定義と範囲はファンタジーと同様に漠然としてい
るが、想像力による文学であることに相違がない。また、ファンタジーと同様にその起源
を探してギリシャの作家まで遡ることができるが、一般的に 1817 年の『フランケンシュタ
イン』がその起源とされる。また、エドガー・ポー、ジュール・ヴェルヌ、H.G.ウエルズ
などが初期の SF 作家として挙げられる 19 。

19
第1章

SF の場合も架空世界の設定がなされる。SF にはたくさんのサブジャンルがあって、一
概には言いにくいが、時間を未来に、場所を他惑星あるいは異次元に設定することによっ
て、架空世界の設定が行われることが多い。
このように、科学的世界像という観点から分類すれば、現実的な文学の対極にファンタ
ジーとサイエンス・フィクションが位置することになる。その共通点の一つは非現実的な
内容を架空世界の設定によって合理化することである。
ただし、架空世界の設定は、ファンタジーと SF に特有の手法ではなく、非現実な内容が
リアリズムの小説の中でも夢、無意識、狂気などの形を取って挿入されることが少なくな
い。
ところで、児童文学も近代ジャンルの一つである。児童文学はジャンルとして 18 世紀末
~19 世紀半ばにイギリスで形成したとされている。形成要因としてイギリスの豊かな民族
的背景、児童労働などが挙げられる 20 。科学的世界像への転換も一つの要因であったと考
えられる。
児童文学は主なる読み手が子供であるという条件で成立するだけあって、その範囲が非
常に広い。まず、児童文学の年齢制限は曖昧である。例えば、『ガリヴァー旅行記』は大人
向けの風刺小説として書かれたが、現在は児童文学とも扱われている 21 。また、
『ハリー・
ポッター』は最初に児童文学として評価された 22 が、後ほど SF 文学賞ヒューゴー賞 23 も
もらったし、今はファンタジーとしても位置付けられているし、大人も読んでいる。従っ
て、ファンタジーと SF と同様に、児童文学というジャンルを正確に定義するのは難しい。
だが、ここで注目したいのは、児童文学の定義ではなく、児童文学で見られる子供なら
ではのリアリティ水準である。

犬が人間のことばをしゃべるといった擬人化は、いわゆる文学においてはほとんどな
く、仮に用いられたとしてもかなり特殊効果をねらった場合に限られるのに対して、
昔話や児童文学においてはごく普通にみられることである。これは子どもの方が大人
よりずっと、人間以外のものに人間的な性格をもたせようとするアニミズム傾向が強
いことに対応する。 24

子供が人間以外のものを擬人化したりする理由は、例えば犬が人間の言葉を喋ることが
絶対に有り得ないということを子供がまだ知らないからであると思われる。何歳まで子供
と呼んでもいいかという問題もあるが、小学校年齢層の子供がまだ世界観が完成していな
いのは特徴である。
つまり、子供は何があり得るか何があり得ないかまだはっきりと分別できないので、子
供向けの文学には架空世界の設定がなくても科学的世界像に矛盾しない。言い換えれば、
児童文学という枠組自体が架空世界の設定の役割を果たしているわけである。
児童文学と言われる作品はファンタジーにも分類されることが少なくないが、架空世界
の設定の有無が一つの分類基準になりえるのではないかと考える。つまり、架空世界の設

20
第1章

定があればファンタジー、なければ児童文学というふうな分類方法も可能である。
このように、リアリズム、ファンタジー、SF、児童文学は近代的なジャンル分類であり、
その分類が科学的世界像に基づいている。リアリズムはそのまま科学的世界像を反映して
いるが、ファンタジーと SF は科学的世界像に配慮して架空世界の設定を行う。また、児童
文学は、架空世界の設定がない作品もあるが、その場合は児童文学という枠組が架空世界
の設定の役割を果たすわけである。子供読者が科学的な世界観を完全に獲得していないの
で、架空世界の設定を行う必要がない。

7 日本における科学的世界像の導入

上では西洋における世界像の転換とその転換が文学にもたらした影響について考察した。
日本の場合は科学的な世界像への移行は中国の学問を移入する形で古くから始まったが、
江戸時代の中期から西洋の影響が強くなった関係で、蘭学を通じて西洋の科学的世界観の
導入が始まった。1715 年頃に『西洋紀聞』が書かれ、1810 年に「新訂万国全図」が刊行さ
れ、1802 年に『暦象新書』など、西洋の科学的世界観を紹介する蘭書が翻訳された。
しかし、科学的な世界像が本格的に普及し始めたのは、1872 年(明治 5 年)に学校制度
が定められた時期である。明治 5 年の「小学教則」によると、小学校では理学大意、養成
法、博物学大意、科学大意、窮理学、生理といった理科関連の科目と洋法算術、幾何学、
西洋事情の読本輪講などの科目が教えられていた 25 。
つまり、科学的世界観を説明する科目は近代教育制度の発足からカリキュラムに含まれ
ていたわけである。その事実は科学的世界観の規範性を物語っているのではないかと思わ
れる。
明治期に科学的世界観が成立してまもなく、非現実性は全面的に否定される風潮が見ら
れる。明治の代表的な落語家である三遊亭圓朝は『真景累ヶ淵』の冒頭でその状況につい
て風刺を込めて次のように語っている。

怪談話しと申すは近来大きに廃りまして、余り寄席で致す者も御座いません、ト申す
ものは、幽霊と云ふものは無い、全く神経病だと云ふ事に成りましたから、怪談は開
化先生方はお嫌ひ成被事で御座います。(中略)ナレども是は其昔、幽霊と云ふ者が有
と私し共も存じて居りましたから、何か不意に怪しい物を見ると、オー可畏い、変な
物、アレア幽霊ぢやア無いかと驚きましたが、只今では無いものと諦めましたから、
頓と可畏い事は御座いません。狐に魅されると云ふ事は有る訳の物で無いから神経病、
又天狗に攫はれると云ふ事も無いから矢張神経病と申して、何でも可畏いものは皆神
経病に押付て仕舞ます(後略)。26

上記の引用から科学的世界観はどれほど明治期に優位に立ったかということが窺えるの
ではなからろうか。

21
第1章

十川信介が述べるように 27 、明治期には実学(自然科学、社会科学)の影響力があまり
にも強くて、幻想文学どころか、まず「普段の日常生活に役立たない」文学の確立が第一
の課題であった。次に、形のあるものの写実ばかりでなく、形のないもの、すなわち人情、
理想、夢、無意識などを文学の重要な要素として取り入れる必要があった。文学に「虚」
を導入するこの過程は徐々に幻想文学への道を準備したわけである。
近代日本文学の黎明期に早く非現実性の強い作品を書くようになったのは、幸田露伴で
ある。明治 22 年の『風流仏』は、明治時代の風俗を反映しているから、現実的な作品であ
ると言えるだろう。例えば、結婚相手の選択については次のようである。

亭主持たば理学士文学士潰が利く、女房持たば音楽師画工産婆三割徳ぞ、ならば美人
局、板の間挊ぎ等の業出来て然も英仏の語に長じ、交際上手でエンゲージに託付華族
の若様の金の指輪一日に五六位取る程の者望むやうな世界(後略)28

しかし、『風流仏』の結末に木像に魂が入って、生身の女性が現れる。作品の中でその不
思議な事件を合理的に説明する箇所もなければ、非現実を緩衝してくれる架空世界の設定
もない。つまり、『風流仏』では、明治以前の宗教的世界観の名残が強く感じられる。
ところが、明治 23 年に書かれた『対髑髏』では、既に架空世界の設定が見られる。
『対髑髏』の主人公は雪が積もっている山中を歩き回って、美女が一人で住む家にたど
り着く。すなわち、ここで山中は現実と非現実の境目、架空世界の設定の役割を果たして
いるわけである。しかも、結末には狂った乞食女についての挿話はこの物語における非現
実性を更に合理的に裏付ける。
つまり、『対髑髏』では、架空世界の設定という、幽霊の存在を否定した科学的世界観と
の衝突を避けるための手法が、導入されていることが分かる。
同じような手法は泉鏡花の『高野聖』(明治 33 年)で見られる。
主人公の僧侶が人が通らない旧道に入って初めて不思議な物語が始まる。ここで旧道は
いわゆる異界への入り口という役割を果たして、ファンタジーの小説で頻繁に見られる架
空世界の導入方法の一つである。
『高野聖』の最後では、親仁が孤家の婦人について補足説明をする。その説明は完全に
合理的だとは言えないが、その説明によって物語の幻想性が下がり、科学的世界観との矛
盾が一層解消される。
(明治 30
非現実が近代文学の中で語られるようになった過程において、泉鏡花の『化鳥』
年)も特記すべき作品である。
『化鳥』には深山、古寺、空屋などの架空世界の設定がない。『化鳥』の舞台は都会で、
現実味を強く感じさせる空間である。そんな空間の中で主人公は天女を見る。

やつぱり片袖なかつたもの。そして川へ落こちて溺れさうだつたのを救はれたんだつ
て、母様のお膝に抱かれて居て、其晩聞いたんだもの。/だから夢ではない。/一躰

22
第1章

助けて呉れたのは誰ですッて、母様に問うた。私がものを聞いて、返事に躊躇をなす
つたのは此時ばかりで、また、それは猪だとか、狼だとか、狐だとか、頬白だとか、
山雀だとか、鮟鱇だとか、鯖だとか、蛆だとか、毛虫だとか、草だとか、竹だとか、
松茸だとか、湿地茸だとかおいひでなかつたのも此時ばかりで、そして顔の色をおか
へなすつたのも此時ばかりで、それに小さな声でおつしやつたのも此時ばかりだ。/
そして母様はかうおいひであつた。/(廉や、それはね、大きな五色の翼があつて天
上に遊んで居るうつくしい姉さんだよ。)29

ここで夢ではないと、明確に書いてあるので、一見して合理的な解釈の余地がないよう
に見える。
ところが、『化鳥』では、後ほど誕生した児童文学に通じる方法が既に使われている。す
なわち、非現実的な事柄を説明なしに挿入しても、主人公を子供に設定するだけで、科学
的世界観との矛盾が自然となくなる。
『化鳥』の主人公が 8・9 歳の子供である。従って、どんなに不思議な出来事が起こった
とて、それを科学的世界観を知らない子供の過剰な感受性として解釈できるわけである。
科学的世界観が定着した明治の終わり頃には、長谷川天渓は前の時代を顧みて次のよう
に述べている。

猿と人間とは祖先を同うすと知るは、これ智の進歩にして、吾れ等は真理に近きたり。
怪しき幻像を以つて蔽はれたる徳川幕府を倒し、科学的といふ世界的潮流を導き入れ
たる維新の改革あるに非ずんば、明治時代なる発展を看ること能わざりし也。30

上記の長谷川の論と同じ時期に発表された夏目漱石の『夢十夜』(明治 41 年)も近代幻
想文学の形成期において特記すべき作品である。
『夢十夜』は上で取上げたどの作品よりも非現実性に富んでいる。にもかかわらず、科
学的世界観に矛盾しない。なぜなら、『夢十夜』という題目を始め、それぞれの短編の冒頭
に「こんな夢を見た」という一句が挿入されているからである。その但し書が架空世界の
設定の役割を果たしているわけである。つまり、「こんな夢を見た」という一句は小説の内
容が夢であることを読者に明示し、どんなに非現実的なことが起こってもおかしいと思っ
てはいけないことを教えてくれる。もし『夢十夜』にそういう工夫がなかれば、その短編
集の受容と解釈の範囲はどれほど違っていたか想像もしがたい。
このように、日本では科学的世界観が明治期に導入された。その導入によって現実と非
現実の境目が明確になり、眼に見えない、形のない、実証されていないものは当初否定さ
れた。だが、徐々に「虚」を描く文学も樹立し、幻想的な小説も現れた。ただし、幻想文
学では、科学的世界観に配慮して、一般的に架空世界の設定が行われるようになった。
冒頭で問いかけた因幡の白兎の問題にもどると、因幡の白兎の話は『古事記』に出てく
る。『古事記』は神話的世界観の下で書かれた。神話的世界観では神々が自由自在に変身し

23
第1章

も、白兎が人間の言葉を話してもおかしいことはない。そして、
『古事記』を読む現代人も、
『古事記』のリアリティ水準を現代の尺度で測ってはいけないことを心得ているので、因
幡の白兎の話もおかしいと思わない。
一方で、川上弘美の「神様」はモチーフが因幡の白兎と似ているが、読まれ方が全く異
なる。なぜなら、「神様」は、現代人のリアリティ水準の基礎を成した科学的世界観の下で
書かれているからである。
上で見てきたように、科学的世界観に矛盾しないように、非現実的な内容が描かれる場
合、架空世界の設定を入れることが一般的な手法である。架空世界の設定がない場合でも、
非現実的な内容は比喩、風刺などに置き換えられて読まれることが多い。
従って、「神様」の最大の問題は、熊の登場に明確な意味がないことである。熊は理由も
なく人間の言葉を話している。「神様」は、科学的世界観が文学に義務付けた暗黙の約束事
を守っていないので、言ってみればルール違反である。

第2節 川上作品におけるリアリティ水準

1 「神様」のリアリティ水準

上で述べた世界観とジャンル論を踏まえて、川上の「神様」の分析に話を戻したい。
「神様」の解釈において最初の難点はそのジャンルが明示されていないことである。こ
の問題点をより明確にするために、宮沢賢治の「注文の多い料理店」と比較してみたい。
「注文の多い料理店」では現実との接点として「東京」という固有名詞が出てくる。す
なわち、完全に空想だとは言えない。この小説で二人の男性が山に狩に行って、そこで奇
怪な体験をして東京に戻る。
もし、「注文の多い料理店」は短編集に収録されずに文芸誌に載ったならば、その作品に
ありとあらゆる解釈可能性が生じただろう。例えば、夢、パロディ、ホラー、推理、戦争、
植民地主義などである。が、評論家にとって幸いなことに「注文の多い料理店」が収録さ
れている短編集には『イーハトヴ童話』という題目が付いている。すなわち、「注文の多い
料理店」は童話である。従って、「注文の多い料理店」は他の可能性もある中で、とりあえ
ず児童文学の枠組の中で読まれる。
ところが、
「神様」が収録されている短編集のどこにも「童話」と書いていない。しかも、
児童文学出版社ではなくて、中央公論から出版されている。言い換えれば、「神様」は童話
としても読めるが、童話だけに限定する根拠が見当たらない。
続いて、「神様」には夢だとも書いていない。夏目漱石の『夢十夜』のように、冒頭か結
末で「こんな夢を見た」という一句さえあれば、「神様」は夢物語である説が定着して、夢
分析の方法を用いて解釈されていただろう。「神様」を夢として解釈してはいけない理由も
ないが、そういう読み方を促す箇所も「神様」にないと思われる。
魔法もないし、露骨な風刺もないし、熊の訪問を除いて超自然的な出来事も起こらない

24
第1章

が、解釈の角度によってはファンタジーとしても読めるし、神話あるいは説話としても考
えられるし、人間関係のパリティとしても解釈できるだろう。
よって、「神様」はジャンル問題だけをとっても解釈の範囲が広いことが分かる。
「神様」は現実的な小説に見える。本章の冒頭でも触れたが、アパートがあり、車があ
り、引越し蕎麦もある。しかも、架空世界の設定もないし、この小説が現実的でないとど
こにも書いていない。
ところが、「神様」は本当に現実的な小説なのだろうか。この疑問に答えるために、登場
人物のリアリティ水準を検討してみたい。
「神様」は現実的な小説であれば、正気の現代人が誰でも持っている科学的世界観を主
人公も持っているはずである。すなわち、人間の言葉を話す熊を見れば、少なくとも驚く
はずである。だが、主人公は驚きの色を浮かべない。しかも、主人公が驚かないことにつ
いて、例えば、夢、酒、麻薬、狂気などの合理的な解釈を許す補足説明もない。つまり、
主人公は正気でありながら、人間と話すような態度で熊と接しいる。もちろん、これは現
代人のリアリティ水準だとは言えない。
次に、第三者のリアリティ水準に注目したい。この短編には第三者が二回登場する。
一回目は、道を歩く場面である。

塗装された道で、時おり車が通る。どの車も私たちの手前でスペードを落とし、徐行
しながら大きくよけていく。(11 頁)

上記の引用では「大きく」が重要である。大きくよける理由は何なのだろうか。
二回目は、川辺で三人連れが近寄る場面である。

男性二人子供一人の三人連れが、そばに寄ってきた。どれも海水着をつけている。男
の片方はサングラスをかけ、もう片方はシュノーケルを首からぶらさげていた。
「お父さん、くまだよ」
子供が大きな声で言った。
「そうだ、よくわかったな」
シュノーケルが答えた。
「くまだよ」
「そうだ、くまだ」
「ねえねえくまだよ」
何回かこれが繰り返された。シュノーケルはわたしの表情をちらりとうかがったが、
くまの顔を正面から見ようとはしない。サングラスの方は何も言わずにただ立ってい
る。子供はくまの毛を引っ張ったり、蹴りつけたりしていたが、最後に「パーンチ」
と叫んでくまの腹のあたりにこぶしをぶつけてから、走って行ってしまった。男二人
はぶらぶらと後を追う。
(12 頁)

25
第1章

現代のリアリティ水準からすれば、人間が熊にあって、恐怖を覚え逃げるはずである。
しかし、上記の引用箇所では子供だけが熊の存在に驚き、正常に近い反応を示している。
他の二人の男性は間抜けなコメントをしながら、熊の存在を格別に問題としない。つまり、
ここで登場する第三者のリアリティ水準も現代人のリアリティ水準ではない。
このように、
「神様」ではアパート、道路、川原といった舞台設定が現実的であるが、主
人公と他の登場人物のリアリティ水準は現実的ではない。そのリアリティ水準の基礎とな
る世界観は科学的でないし、宗教的でもない。強いて言えば、動物も魂を持っていると信
じられていた太古のアニミズム時代の世界観に近い。
興味深いのは、登場人物は正気の人とは異なるが、狂人だとも言えない。登場人物のお
かしいところと言えば、リアリティ水準だけである。すなわち、有り得ると有り得ない事
柄の水準が現代人と違っているだけである。
よって、
「神様」は基本的に現実的な小説である。が、その中で極めて現実的でないのは、
登場人物のリアリティ水準だけである。そして、人間の言葉を話す熊がそのリアリティ水
準の相違を浮き彫りにするわけである。
上述のことをまとめると、「神様」で仕掛けれている論理的な罠の仕組みは次のようであ
る。
第一に、小説が現実的に見えることが要である。小説に現実感がなかれば、この類の小
説は比喩あるいは寓意として読まれ、リアリティ水準の相違による違和感が薄れてしまう。
作品に現実感を持たせるために、いくつかのレベルで工夫がなされる。まず、小説のジ
ャンルが明示されていない。童話、ファンタジー、寓話、パロディなど、ジャンルが特定
できる言葉が使われていないし、川上弘美が後日のインタビューや対談の中でも。
次のレベルでは、場所、時間など背景説明が省略されている。現実を反映する明確な舞
台設定があれば、驚異は対照的に浮き彫りになって、主人公のリアリティ水準ははっきり
と異常として読まれてしまう。
一方で、細部の描写によって現実感がもたらされている。先行研究で指摘があったよう
に 31 、オノマトペには現実感を持たせる効果があるので、オノマトペも細部描写に含まれ
る。
例えば、
「二十分ほどのところにある」
「305 号室」
「葉書を十枚ずつ」
「パテとラディッシ
ュ」「梅干し入りのおむすび」「オレンジを一個ずつ」などの細部描写が「神様」にある。
また、「しゃりしゃり」「ぶらぶら」「すいすい」などのオノマトペがある。
第二の仕掛けは、登場人物の世界観の中でリアリティ水準だけが置き換えられている。
つまり、登場人物と現代読者の世界観はほぼ同じである。リアリティ水準だけが異なって
いる。すなわち、読者が有り得ないと思っていることを登場人物は有り得ると思っている。
第三の条件は、人間の言葉を話す熊のように、はっきりと有り得ないものの出現が必要
である。これによって、登場人物と読者のリアリティ水準が分裂する。
上記の条件を合わせる結果として、特殊な効果が生じて、読者が何かおかしいと感じる

26
第1章

が、何がおかしいか特定できない。なぜなら、上で行った世界観とリアリティ水準につい
ての歴史的な考察は一般読者が行わないし、簡単に見える川上作品がそういう考察の必要
を感じさせない。
これは「神様」にあるリアリティ水準の錯乱による論理的な罠の仕組みだと考えられる。
この結果の適用範囲を広げるために、次に他の川上作品も分析する。

2 「蛇を踏む」「物語が、始まる」のリアリティ水準

「神様」とほぼ同じ時期に書かれた川上弘美の代表作である「蛇を踏む」「物語が、始ま
る」では、上述のリアリティ水準の錯乱による罠があるかどうか検討してみたい。
まず、これらの小説もジャンルが明示されている。場所と時間の概説的な説明もない。
「蛇を踏む」では、場所は関東、季節は秋であることしか特定できない。「ミドリ公園」
と「カナカナ堂」はどの町にあるかはっきりしない。
「物語が、始まる」では、時間の設定は全くなくて、季節でさえ推測できない。場所が
確定できる描写もない。
両方の作品では主人公の人間像も省略されている。年齢、外見、服装、趣味、性格に関
する明確な描写はない。
それと対照的に、現実感をもたらす細部の描写が非常に多い。
「蛇を踏む」の冒頭だけを見ても、「丘を一つ」「浄土宗の数珠」「二百の数珠」「サービ
スエリアでアイスコーヒー」「黒い半袈裟」「金の帽子」「ポルトガル語口座」「二本冷やし
てある」などの細部が目立つ。
「物語が、始まる」では、「団地の端にある小公園の砂場」「かすれたマジックで書かれ
ていた」
「あおくんときいろちゃん」
「一日二回読んだ」
「しめじごはん、焼き茄子、蒸し豚、
トマト」「豚舎から二十頭ほど逃げだした」「ユッカの葉」「煙草を二本吸い、雑誌を一冊め
くり」などの細部の描写が多い。
従って、この二つの作品は、概説的な説明を省きながら、現実的に見えるという最初の
条件を満たしている。
続いて、登場人物のリアリティ水準は如何なるものだろうか。
「蛇を踏む」の主人公は蛇が人間に変身したことに対して特別に驚いたりしない。

「蛇を踏んでしまいました」
寺からの帰り道、高速道路のサービスエリアでアイスコーヒーを飲みながら私が何気
なく言うと、コスガさんは驚いたように「あれっ」と叫んだ。
「その蛇、それからどうしたかね」
両切りのピースをくわえながら、コスガさんはゆっくりと禿げあがった額をてのひら
で撫であげた。
「それから歩いていってしまいました」

27
第1章

「どこに」
「さあ」 (10 頁)

蛇女が自分の部屋にいることに対しても特別な反応を示さない。

夜のミドリ公園を抜けて部屋に戻ると、部屋はさっぱりと片づいていて絨毯の中ほど
に五十歳くらいの見知らぬ女が座っていた。
さては蛇だなと思った。
「おかえり」女はあたりまえの声で言った。
「ただいま」返すと、女は立ち上がって作りつけの小さな炊事コーナーに立っていき、
鍋の蓋をあけていい匂いをさせた。 (13 頁)

最後に、女が蛇に変身するのを見る主人公の反応を引用したい。

「もう寝るわ」
突然女が言って、食べたものを片づけもしないで、部屋に一つだけある柱にからまっ
た。(中略)天井に登ってしまうとそこで落ちつき、いつの間にか蛇に戻った。(中略)
(18 頁)
それからはいくら話しかけても長い棒を持ってきてつついても、動かなかった。

上記の引用箇所から、主人公のリアリティ水準は現代人のリアリティ水準ではないこと
が言える。現代人なら、目の前の変身に対してもっと驚くはずである。
他の登場人物も蛇に対して驚きを示さない。

部屋の女はときおりカナカナ堂まで訪れてきた。(中略)コスガさんは知らぬ様子をす
る。ニシ子さんは女をしげしげと見るのである。(中略)
「サナダさん、来てるわよ」とニシ子さんは言う。
「入ってもらったら」
私は答えず、首を横に振る。 (56 頁)

つまり、他の登場人物も女が蛇の化物であることを知りながら、これといった反応を示
さない。これも正常なリアリティ水準とは言えないだろう。
続いて、「物語が、始まる」を検討してみたい。
「物語が、始まる」の主人公は冒頭部分から生きている雛型を不思議に思わない。

雛型を手に入れた。何の雛型かというと、いろいろ言い方はあるが、簡単に言ってし
まえば、男の雛型である。
生きている。
(中略)

28
第1章

子供は嫌いだし飼いものは二十年以上前に十姉妹を飼ったきりだし、なぜ拾ったのは
自分でも不明なのだが、強いて言えば大きさが手頃だったのかもしれない。
知らぬふりをするには怖く、あきらめるには重さが足りず、といったところか。
(8 頁)

また、第三者の「本城さん」も変わった反応をしている。

「ほほう」と本城さんは言った。
「これは、雛型か」本城さんは言いながら、ハンカチを広げ裏返しに畳んだ。それか
ら裏返しにしたハンカチで目の下をこすり、再び広げて表に畳んだ。
「みごとな雛型だね」ハンカチをしまい、日付印を胸ポケットから出して日付を確か
め、電話の横にあるメモ用紙に押す。(中略)
「みんなで散歩に行こうか」本城さんが提案した。 (31 頁)

つまり、「物語が、始まる」でも登場人物のリアリティ水準は現代人のと異なっている。
従って、「蛇を踏む」と「物語が、始まる」でもリアリティ水準についての条件が満たさ
れている。
最後に、はっきりと有り得ないものの出現という第三の条件も当然満たされている。「蛇
を踏む」では蛇女、「物語が、始まる」では生きている雛型が出現している。
よって、「蛇を踏む」と「物語が、始まる」でも、「神様」と同じようなリアリティ水準
の錯乱による罠があることが分かった。「神様」と同様な効果が生じて、読者がおかしいと
思うが、何がおかしいか特定できない。
このように、川上作品の解釈を困難にする原因の一つはリアリティ水準の錯乱である。
リアリティ水準の錯乱は、世界観、ジャンル、舞台設定、人物像、細部の描写、文体とい
ったいくつかのレベルでの工夫が相俟って初めて可能になる。
ただし、リアリティ水準の錯乱は全ての川上作品にあるわけではないし、それがある作
品の全てで成功しているわけではないが、それについての考察は後ほど行う。
リアリティ水準の錯乱が成功している「神様」「蛇を踏む」「物語が、始まる」では、現
実・非現実の区別が困難になって、ジャンルからして解釈の範囲が広がってしまう。

29
第1章

1 高柴慎治「川上弘美「神様」を読む」『国際関係・比較文化研究』第 5 巻 2 号、静岡県立
大学国際関係学部、2007 年 3 月、33~46 頁。
2 古事記では「稲羽之素莵」と表記されている。丸山二郎『標柱訓読 古事記』吉川弘文館、

1965 年 11 月、22 頁。
3 ディルタイ(著) 、久野昭(監訳)『世界観学』以文社、1989 年 11 月、129 頁。
4 『哲学事典』平凡社、1971 年 4 月、826 頁。
5 ハイデガー(著) 、桑木務(訳)『世界像の時代』理想社、1962 年 1 月、30 頁。
6 アニミズムは「自然界のあらゆる事物に、霊魂があると信ずること。イギリスの民族学者

タイラーが宗教の起源をこの語で説明した。有霊観。万物有魂論。」(『国語大辞典』(新装
版)小学館、1988 年)
7 『ホメロス イーリアス オデュッセア』(世界文学全集第一巻)河出書房、1969 年 6
月。
8 ギリシャの神話的世界像は、 『イーリアス』で描かれるような形でどれだけの地域でどの
時代まで信じられてきたかは非常に複雑な問題であるが、キリスト教の普及によってギリ
シャ神話が信じられなくなる以前にも、古代哲学者からも他宗教からも疑問視されたこと
があるのは確かである。
9 アリスタルコス「太陽と月の大きさと距離について」 『世界の名著』 第 9 巻、中央公論
社、1972 年 2 月。
10 ローマ法王ベネディクト16世はガリレオ・ガリレイの功績を初めて公式に認めた。

http://news.bbc.co.uk/2/hi/7794668.stm
11 小川劯『世界像・人間像の変遷』彩流社、2003 年 4 月、218 頁。
12 トーマス・クーン(著) 、中山茂(訳)『科学革命の構造』みすず書房、1971 年 3 月。
13 松島鈞「La Chalotais と Condorcet : フランス革命教育史にみる国民教育の問題」 『研究
紀要』第 5 号、千葉大学、1956 年、77 頁。
14 ホワイト著、森島恒雄訳『科学と宗教との闘争』岩波新書、1985 年 9 月、162 頁。
15『コロンビア大学現代文学・文化批評用語辞典』松柏社、1998 年 3 月、344 頁。
16 生島遼一「フランス・レアリズム」 『リアリズムと散文の問題』世界文学社、1945 年 5
月、11 頁。
17 『オックスフォード世界児童文学百科』原書房、1999 年 2 月、675 頁。
18 ブライアン・アトベリー(著) 、谷本誠剛(訳)『ファンタジー文学入門』大修館書店、
1993 年 3 月。
19 ジャック・サドゥール『現代 SF の歴史』早川書房、1984 年 12 月、32 頁。
20 中野節子『ファンタジーの生れるまで』JULA、2009 年 4 月。
21 例えば、岩波書店の児童書編集部は、ヴィジュアル版『ガリヴァー旅行記』 【大型絵本】
(2004 年 11 月)と『ガリヴァー旅行記』【岩波少年文庫】(2001 年 3 月)を出している。
22 『ハリー・ポッターと賢者の石』は 1997 年にイギリスの児童文学賞「Nestlé Smarties

Book Prize」の 9~11 歳の部門で金メダルを得た。


23『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』 は 2001 年に長編部門でヒューゴー賞を受賞した。
24 『児童文学事典』日本児童文学学会、1988 年 4 月、349 頁。
25 文部省編『学制百年史(記述編、資料編共) 』帝国地方行政学会、1972 年 10 月、79 頁。
26 延広真治(校注) 『落語怪談咄集』岩波書店、2006 年 3 月、7~8 頁。
27 十川信介「虚と実」 『近代日本文学案内』岩波書店、2008 年 4 月。
28 『露伴全集 第一巻』岩波書店、1952 年 10 月、70 頁。
29 『鏡花全集 巻三』岩波書店、1941 年 12 月、143 頁。
30 長谷川天渓「幻滅時代の芸術」 『明治文学全集 43』筑摩書房、1967 年 11 月、160 頁。
31 田中和生「孤独な異界の「私」 」『文学界』2002 年 12 月、264~281 頁。

30
第2章

第2章 解釈に寛容的な小説

第1節 ぼかしの文体

前章では解釈を困難にするリアリティ水準の錯乱について論じてみたが、今章では川上
作品の構成と書き方に注目してリアリティ水準以外に解釈の範囲を拡大させる要因を探り
たい。分析の対象としては、先行研究と書評の多い芥川賞受賞作「蛇を踏む」を中心に扱
う。
まず、「蛇を踏む」で見られるぼかしの掛かったような描写法について考察したい。
興味深いことに、「蛇を踏む」の主人公は語り手ではあるが、他人について語る時も断言
しない。例えば、下記は主人公のカスガさんに関する観察である。

コスガさんは驚いたように「あれっ」と叫んだ。(10 頁)
コスガさんは少し頼りないような表現になった、(12 頁)
コスガさんは、え、という顔をした。(19 頁)
コスガさんはペースをくわえたまま口を「ああ」のかたちにした。(19 頁)
コスガさんは強いような言葉を言いながら(21 頁)
まのびした気持ちなのかせっぱ詰まった気持ちなのか、コスガさんの場合さっぱりわ
からない。どちらでもあるのかもしれない。(21 頁)

この引用箇所から分かるように、コスガさんが驚いたか、強い言葉を言ったか、切羽が
詰まったかなどははっきりしない。主人公は他人の気持ちが分からないことを強調したい
かもしれないが、描写文で「~ように」「~みたいな」が頻発に用いられていることがその
傾向が作品全体に当てはまることを示している。例えば、

愛玩動物を抱きしめているときのような、または大きなものにすっぽり覆われている
ような、満ちた気持ちになった。(37 頁)
何匹もの目に見えない狐みたいな狐でないみたいなものがカナカナ堂の中をよぎった
ようなざわめきだった。
(46 頁)

主人公が会話する時も、断言しないことが特徴である。例えば、蛇女と主人公が会話す
る場面である。

「ヒワ子ちゃんはどうして教師をよめたの」(中略)/「嫌いだったの」/「何が」/
「教えること」/「ほんとう」/「・・・・・・・・・」/「違うんじゃないの」/「違うかも
しれない」(中略)/「消耗したからかもしれない」 (16~17 頁)

31
第2章

この会話から主人公が教えることが嫌いなのか、教えることで消耗したのか、断言でき
ない。あるいは、主人公とコスガさんの蛇女を巡る会話である。

「サナダさんね、あの蛇の話」(中略)/「追い出しなさいよ。来たら」/「来たらっ
て」/「だから、蛇」(中略)/「駄目か」/「はい」/「どうしても駄目か」/「追
い出しなさいよ」/「そうですか」/「できればさ」/「できますか」(21 頁)

上で挙げたような会話は「蛇を踏む」にたくさんあるが、どれも主人公について何も確
かなことを言っていない。
また、背景説明が省略されているので、「この」「その」「あの」「何か」「誰か」の活用と
相俟って、主人公の説明が何も伝えない。例えば、主人公が自分の過去について述べる箇
所である。

何人かの女や男との気持ちやからだのつながりだの、ある期間毎日通った場所での誰
か彼かとの押し引きだの、幾つかのことを思い出したが、思い当たらない。(35 頁)

その後も主人公の考え事が続くが、結局、主人公と他者との関わりについて「何人かの
女や男」と「ある期間」関わったことがあるということしか言えない。が、それが分かっ
たところで、主人公について何が言えるのだろうか。
あるいは、他者について述べるもう一箇所である。ここでも、
「その人たち」は誰なのか、
「及べる」は何を意味するか明示されていない。

その、ようやく及べるようになったときに、その人たちの姿はいつも一瞬蛇に変わる
のである。私が蛇になるのではなく、その人、私の相手であるその人たちが赤や青や
灰色やさまざまな蛇のかたちになるのである。
(42 頁)

最後に、主人公がどれほど「わからない」を使っているか示したい。

私は何と答えていいのかわからずに少し首を横に振った。
(19 頁)
どんなものをしょってどんなものをしょわなくてもいいのか、しょってみるまでは分
からないような気がした。(22 頁)
何がなんだかわからぬようになって、(後略)
(49 頁)
何かわからぬ細かな殻のようなものがいくつも落ちていて、(57 頁)
どうしていいのかわからなかった。わからないわからないと頭の中で言った。しかし
ほんとうはわかっているのだった。(中略)わらないふりをしていたことがわかった。
(中略)なぜ今までこんな単純なことを言えなかったのか、またわからなくなった。
(59~60 頁)

32
第2章

このように「蛇を踏む」の文体を分析していくと、川上弘美はこの小説で確かなことを
何も書いていない印象を受けられる。ところが、そうでもない。カスガさんとニシ子さん
の人物像が比較的に細かく描かれている。

ニシ子さんは六十過ぎだが、白髪も少なく八歳年下だというコスガさんよりも余程若
く見える。コスガさんが若い頃修業にと入った京都の老舗の数珠屋の奥さんで、
(9 頁)

他にもカスガさんとニシ子さんに関する具体的な補足説明がある。それに対して、主人
公について確かに言えることは僅かでしかない。
つまり、川上弘美は明確な記述もできるが、上で見てきたように、意図的に「蛇を踏む」
の大部分では、とらえどころのないぼかした書き方をするわけである。

第2節 物語の空白

上では「蛇を踏む」におけるばかしが掛かったような表現方法について考察したが、続
いて「蛇を踏む」における時間、場所、主人公などの物語文の構成要素について確実に言
えることをまとめたい。
まず、蛇が人間に変身する以上、その舞台設定が現実世界に沿っているとは自信を持っ
て言えないだろう。従って、現実世界の論理でその小説を読み解こうとする研究はその小
説の現実性を立証してからでないと、いくら論考を進めてもその成果が疑われるわけであ
る。
もちろん、蛇の変身を文字通りの意味で読むのではなく、寓意または象徴として解説す
る方法もあるが、寓意説を裏付けるだけの描写はこの小説にあるかどうかは別の問題であ
る。
従って、分析に入る前の段階では既に、「蛇を踏む」を現実とするか、空想とするかによ
って解釈の方向性が分かれる。つまり、「蛇を踏む」についてこんな基本的なことさえ確実
に言えないわけである。
それでもその小説が敢えて現実的だとして考察を続けたい。
次に、時間と場所の描写を調べたところ、時空の説明が非常に少ないことが分かった。
年、月への言及はないが、「秋の蛇なので動きが遅かったのか」という一句が冒頭にある
ことから、季節は秋であることが分かる。「パソコン」についての会話もあるから、パソコ
ンが使われるようになった時代の話だと察せられる。また、空間は「ミドリ公園」と「カ
ナカナ堂」というふうに、どの町にあるのかも分からない固有名詞で限定されている。

ニシ子さんの数珠づくりの腕は関東では一番と言われているにもかかわらず、カナカ
ナ堂は辺鄙なこの土地でほそほそと商売を続けているのであった。(9 頁)

33
第2章

そのカナカナ堂が作る数珠の納品先は甲府の願信寺で、そのお寺の付近に石和温泉もあ
ると書かれているが、カナカナ堂の所在地については関東にあるということしか判明でき
ない。
続いて、主人公は、名前がサナダヒワ子で、4 年間理科の教師として働いたが、辞職して
数珠屋の「カナカナ堂」に勤めるようになった。静岡に両親と弟が二人いる。主人公につ
いて確定できるのはこれだけの僅かな情報である。
主人公の年齢、生立ち、容貌、服装、趣味、性格、信念、考え方、友達、恋人など、す
なわち主人公の個性と社会性については明確に書いてないので、確実なことは何も言えな
い。
このように、
「蛇を踏む」の舞台設定、人物像、物語性には数々の空白がある。
「蛇を踏む」を論じる際に、上述した物語構成の空白が作品の解釈にどういう影響を与
えるのだろうか。
明確な説明、発現、描写などが少ないので、「蛇を踏む」については確実なことはあまり
言えない。
その反面、確実な情報が少ないからこそ、どんな解釈をしてもそれを否定することもで
きないわけである。
つまり、「蛇を踏む」は解釈に非常に寛容的な小説ということである。
その結論を具体例で証明するために、先行研究で行われている解釈の過程を検討したい。
まず、カトリン・アマンによる論考の一部を引用する。

『蛇を踏む』は、身体および外面と精神および内面、現実と幻想、私と共同などの様々
な二項対立に解体される。蛇という中心的な記号さえ、一つの意味に限定して解釈す
ることはできない。蛇は、主人公の内面および無意識を具体化する分身として解釈で
きるし、様々な神話的な原型つまり集合的無意識の具体化としても考えられる。私的
なものと共同的なもの、現実と幻想などの境界が不明になりつつある。1

もちろん、『蛇を踏む』を上述の二項対立で解釈できる。が、他にも、母と娘、男性と女
性、若者と年寄り、未婚と既婚、生と死、異性愛と同性愛などの二項対立が考えられる。
また、カトリン・アマンは「蛇」を文字通りの意味ではなく、記号として解釈する。も
ちろん、その解釈も可能だろうが、カトリン・アマン自信も認めるようにその記号の意味
が限定できない。
カトリン・アマンが述べるように、
「蛇」を「集合的無意識の具体化」としても考えられ
るかもしれない。が、『蛇を踏む』のストリーに集合体について論じてもおかしくないほど
の社会的な広がりはあるのだろうか。
続いて、和田勉はその小説について次のように述べる。

34
第2章

(『蛇を踏む』平 8、文藝春秋所収)の冒頭には、「ミドリ公園に行く途中
「蛇を踏む」
の藪で、蛇を踏んでしまった」とある。この後、蛇はヒワ子の母に変身して、ヒワ子
の部屋に住みつくことになる。蛇は捉えどころのない他者の象徴でありながらも、リ
アリティを持つものとしてあり続ける。2

確かに「蛇」は他者の象徴である可能性は否定できない。主人公は他者を踏んで(衝突して)

他者と同棲して、他者と親しんで、他者の世界に誘われて、最後に他者と戦う。それは個人と集
団の対抗関係に類似していると言えるかもしれない。
ところが、この小説には蛇でない他者も登場する。また、もう一人の登場人物ニシ子さんが蛇
を首に巻きつかせたまま階段から転んで、蛇をつぶしたという挿話がある(45 頁)
。「蛇」は他
者の象徴であるならば、ニシ子さんは他者をつぶしたということになるのだろうか。それともこ
の挿話で「蛇」は違う象徴的な意味合いを持つことになるのだろうか。
続いて、千石英世は「蛇を踏む」を次のように解釈する。

「蛇を踏む」のサナダヒワ子。かの女のもとを訪れて、母を自称する蛇は、女性同性
愛世界からの使者であるが、使者は「ヒワ子」の性愛的性の発現を女性同性愛世界に
実現させようと誘うのである。「蛇を踏む」は、そんな「ヒワ子ちゃん」の同性愛的世
界への親炙と抵抗の熾烈なせめぎ合いを描く小説である。3

千石英世は非常に分かり易く、「蛇」と「蛇の世界」の象徴的な意味を説明する。もちろん、
その解釈も有り得る。
ところが、
「蛇を踏む」では露骨な性愛描写がない。
「女の身長は私とまったく一緒で、女と私
は対になったもののように腕をお互いの体に巻きつけあう」
(34 頁)のように主人公と蛇女が触
れ合う描写があるが、それを同性愛と読む人がいれば、同性愛と思わない人もいるだろう。
また、もう一つ特記すべきことは、千石英世は女性たちの登場人物のみに同性愛説を適用する
が、「蛇を踏む」では住職である男性と住む蛇女房の挿話がある。千石英世はその挿話に触れて
いない。

蛇の女房はいい。世話女房だ。家の切り盛りはうまいし計算もできる。夜のことだっ
て絶品だ。癇性のところもないしだいいち無口だ。(51 頁)

もちろん、住職の「蛇女房」は同性愛ではなく別の象徴であるかもしれい。
「蛇を踏む」は舞台設定、人物像、物語性には数々の空白がある。その空白は
このように、
非常に広範囲な解釈を意味する。
上述のように、「蛇を踏む」は解釈する人によって、空白の埋め方は異なる。この作品に
は確実な情報があまりにも少ないので、論者がどんな解釈を行ってもその成否を証明するのは非
常に困難である。

35
第2章

ところで、物語の空白は「蛇を踏む」だけの問題ではない。川上の他の幻想的な小説でも同
じ傾向が見られる。
次に「物語が、始まる」も同じように分析する。
「物語が、始まる」では、時間の設定は全くなくて、季節さえも推測できない。小説の舞台は
都会にも見えるが、場所について確かなことは何も言えない。主人公は雛型を「団地の端にある
小公園の砂場」で拾ったと書いてあるが、その団地はどこの町にあるか明示されていない。
また、主人公であるゆき子は会社勤めの未婚の女性だと分かる。その女性には本城という恋人
がいる。しかし、それ以外にその女性の個性を特徴付ける描写はない。年齢、外見、趣味、職業
などに関して何も書かれていない。
つまり、「物語が、始まる」は舞台設定にも主人公の人物像には空白が多い。
ところで、物語構成の空白は川上の現実的な小説にも見られる。
例えば、
『センセイの鞄』の主人公であるツキコさんに関しては、センセイといる場面が細か
く描かれているいるが、センセイが関わらない主人公の生活については述べられていない。ツキ
コさんは時々遅くまで残業をするとあるが、どんな仕事をするかも書いてないし、同僚、友達と
の付き合いについても省略されている。しかも、主人公はセンセイに出会う前にどんな生活を送
ってきたかも省略されている。
先行研究では、「蛇を踏む」
「物語が、始まる」「神様」などの主人公たちが同じグループにま
もめられて、論じられることがある。例えば、池内晴美は「作者の描く登場人物は、そのほとん
どがダメ女とグズ男である」と述べている 4 。
もちろん、川上弘美の登場人物をまとめて論じることは可能である。ただし、上で見てきたよ
うに、本来各々の登場人物について与えられている情報が少ないので、川上弘美の描く登場人物
が同じ範疇に入れるかどうかは証明しがたいことである。
このように、川上弘美の作品は、舞台設定、人物象などの物語の要素には空白があることが分
かった。しかも、川上弘美は意図的に断言しないボカシがかかったような書き方をすることも判
明した。その結果、川上作品について確かに言えることが更に少なくなる。
ところが、確実な情報の少なさは、解釈範囲の拡大を意味する。上で示したように、様々な仮
説が立てられるが、矛盾なくその仮説を立証することが困難であろう。
第 1 章と第 2 章の結果をまとめると、川上弘美の作品の解釈を困難にする原因は、リア
リティ水準の錯乱と物語構成の空白だということが明らかになった。

36
第2章

1 カトリン・アマン「境目が消える日常」『歪む身体 現代女性作家の変身譚』専修大学出
版局、2000 年 4 月、135 頁。
2 和田勉「川上弘美論」 『九州産業大学国際文化学部紀要』第三八号、2007 年 12 月、3 頁。
3 千石英世「甘嚙みのユートピア」 『異性文学論 : 愛があるのに』ミネルヴァ書房、2004
年 8 月。
4 池内晴美「川上弘美研究」 『人間文化』20 号、神戸学院大学人文学会、2005 年 11 月、104
頁。

37
第3章

第2部 解釈方針の安定化に向けて

第3章 川上作品のジャンル分け

第1節 日本幻想文学

1 幻想文学とは

川上弘美を日本幻想文学の文脈で論じる前に、幻想文学の定義と範囲に触れておきたい。
まず、森茂太郎は幻想小説を次のように定義している。

超自然的怪異や驚異、夢を主題にした小説をいうが、幻想が日常生活のなかにただな
らぬ裂け目、パニックとして出現するという点で、非現実的な空想世界に幻想が自律
するファンタジーやユートピア小説と区別される。1

次に、杉山洋子がファンタジーの定義を巡って述べる一箇所を引用する。

ファンタジーの決め手が「超自然の日常への侵入」、「あるはずのない、起こりえるは
ずもない不可能を現実の世界に持ち込み、おなじみの秩序をゆるがせ、破壊すること」
だとしてみても、これはすべてを解く魔法の合言葉ではない。2

上記の二つの引用を比べてみると、両方が大体同じことを言っていることが分かる。た
だし、杉山洋子はそれをファンタジーと呼び、森茂太郎はそれを幻想小説と呼び、ファン
タジーと区別する。
従って、幻想文学を定義するにあたって、幻想文学はファンタジーとイコールするかど
うかも定める必要がある。
まず、ファンタジーの専門書で主に二つの分類の仕方がある。一つは叙情詩『ギルガメ
シュ』やギリシャ神話から始めて、超自然的な要素のある物語は何でもファンタジーの範
疇に入れる分類の仕方である。その範疇には、神話、伝説、聖書、英雄物語、妖精物語、
民話、童話、サイエンス・フィクション、一部の推理とホラー小説などが入るわけである。
もう一つは、近代以降に書かれた超自然的な物語のみをファンタジーと呼ぶ分類の仕方
である。その場合は、前者の視点からすれば、後者は「モダン・ファンタジー」あるいは
「近代ファンタジー」ということになる。
第 1 章では既に触れたが、近代以前のリアリティ水準と近代以降のリアリティ水準が根
本的に異なっているので、神話や古代伝説をファンタジーの範疇に入れる考え方には、同
時代の世界観を無視するという欠点がある。そこで、本稿では、いわゆる近代ファンタジ
ーのみをファンタジーと呼ぶ。

38
第3章

なお、ファンタジーを大別すると、異世界を作るハイ・ファンタジーと現実世界に超自
然的な要素を取り入れるロー・ファンタジーがある 3 。
従って、上で挙げた森茂太郎のいう幻想小説はロー・ファンタジーに相当する。
次に、幻想文学とファンタジーは同じことを指す用語かどうか検討してみたい。
須永朝彦は『日本幻想文学史』4 において、「幻想」は「fancy, fantastic, fantasy」に対
する明治時代に新造された訳語で、
「幻想文学」は用語として昭和四十年代に定着したと述
べる。すなわち、「幻想文学」は新しい用語で、基本的にファンタジーと同じ意味である。
ところが、日本国内では「幻想文学」と「ファンタジー」の用途が多少異なっているよ
うに思われる。
例えば、石堂藍は『ファンタジー・ブックガイド』の前書きでこう書いている。

フアンタステイツク・リテラチャー
私にとってのファンタジーは、 幻 想 文 学 とほとんど等しいけれども、ここでは
その意味ではファンタジーという言葉を使わないようにしている。5

また、小谷真理は次のように述べている。

たしかに、柳田国男・佐藤春男・日夏耿之介・江戸川乱歩・小栗虫太郎・尾崎翠・小
川未明・宮沢賢治らによって、ファンタスティックな物語が登場したものの、やはり
ファンタジーといえば、海外との接点から引き出されていくジャンルという印象が強
い。6

上述のことをまとめて、
「幻想文学」と「ファンタジー」の用途は次のように分かれると
考えられる。
「幻想文学」は説話、怪談を視野に入れながら、泉鏡花、ラフカディオ・ハーン、内田
百閒など、日本古来の文化に根ざす作家の作品。また、異世界を作らない、基本的に現実
世界で話が展開する作品という意味合いが強いのではないだろうか。
一方で、「ファンタジー」は 1970 年代に日本で紹介された海外作品とその影響で始まっ
たファンタジー・ブーム。また、娯楽文学という意味合いが強いのではないだろうか。
もちろん、その用語の区別は正確にはできない。が、例えば、『夢十夜』を書いた夏目漱
石を幻想作家と呼ぶ評論家 7 はいるが、ファンタジー作家と呼ぶ評論家はどれほどいるのだ
らうか。

2 近代幻想文学と川上弘美

先行研究では川上弘美の作風が泉鏡花と内田百閒に類似していることが頻繁に指摘され
る 8 。本稿では、全ての幻想作家との比較を行うことはできないが、近代と現代日本文学の
中で類似性が高いと思われる幻想作家を選んで、下記の特徴に絞って比較を行いたい。

39
第3章

第 1 章の第 2 節では、川上弘美の幻想の特徴について考察をした。それを次のようにま
とめることができる。
作品のジャンルが特定できない。作品の舞台は現実世界をなぞっているように見える。
登場人物の世界観の中でリアリティ水準だけが置き換えれていて、現代的ではない。架空
世界の設定がない中で、有り得ないものが出現するが、登場人物はそれに対して驚きを示
さない。
以下で、この特徴に注目して比較を行う。
まず、幸田露伴の『対髑髏』(明治 23 年)に触れてみたい。
この作品には奥山という中間領域あるいは架空世界の設定がある。ところが、川上作品
と決定的に異なっているのは、主人公のリアリティ水準である。

且は此女真実に人間か狐狸か、先程よりの処置一一合点ゆかず。人間普通の女の言ひ
得まじき事を恥らふ様子もなく我に言ふ女め、妖怪ならで何ならん。小人は多く謹慎
の礼を以て来り、悪魔は毎に親切の情を以て誘ふと聞く。9

『対髑髏』の主人公は奥山の家に一人で住む女を妖怪と疑うが、川上の主人公は超自然
的なことを疑わずに受け入れる。
同じことは泉鏡花の『高野聖』(明治 33 年)についても言える。ここにも奥山という架
空世界の設定があって、主人公は超自然的な事柄に対して恐怖と驚きを感じる。

婦人は衣紋を抱合はせ、乳の下でおさへながら静かに土間を出て馬の傍へつつと寄っ
た。/私は唯呆気に取られて見て居ると、爪立をして伸上り、手をしなやかに空ざま
にして、二三度鬣を撫でたが。/大きな鼻頭の正面にすつくりと立つた。丈もすらす
らと急に高くなつたやうに見えた、婦人は目を据え、口を結び、眉を開いて恍惚とな
つた有様、愛嬌も嬌態も、世話らしい打解けた風は頓に失せて、神か、魔かと思はれ
る。10

上記の引用箇所で、主人公の僧侶は不思議なことを見て「呆気に取られ」、孤家の婦人を
一瞬「神か、魔か」と思った。つまり、奇怪な話にしても、主人公のリアリティ水準は正
常である。
ところが、川上の幻想的な作品では驚異に対して反応しない。例えば、
『龍宮』の「狐塚」
では主人公が老人がケーンと鳴いていることに対して全く驚かない。

正太は、ケーン、と鳴きはじめた。私はいそいで人参とゴボウを炒めた。だし汁とみ
りんとしょうゆを鍋に加えた。葱を味噌汁に散らした。正太は六畳間に引っ込んでし
まった。ケーン、ケーン、と正太はつづけざまに鳴いた。
(68 頁)

40
第3章

(明治 38 年)でも超自然なモチーフが見られる。
続いて、夏目漱石の『我輩は猫である』
主人公の猫は人間の言葉が理解できるし、人間の文芸にも通じているし、三毛子に対して
人間らしい恋心を抱いているが、猫と人間が会話をすることがないので、リアリティの水
準が維持されているわけである。それに、猫が人間を語る物語設定によって風刺が生じ、
読者が猫の人間らしい言動を風刺の一環として読み取り、リアリティ水準の齟齬による違
和感を感じなくて済む。
(明治 39 年)で『我輩は猫である』と類似した手法を使う。だが、
島崎藤村も『家畜』 『家
畜』でも主人公の野良犬が人間を語るだけで、決して人間と話したりしない。
(大正 12 年)で似たような手法を使う。ここでの蝿は主人公で
また、横光利一も『蠅』
もなく、物語の視点になっているに過ぎない。
動物が人間らしく思考すること自体は超自然的ではあるが、人間と会話しないので、正
常なリアリティ水準は乱されることがない。言い換えれば、動物が主人公になっているこ
とによって風刺あるいは客観性という効果が生じるが、そういう小説は真の意味で幻想小
説ではない。
ところが、川上弘美の動物はその境目を越えて、人間と会話をする。ここで語りの手法
ではなく、紛れもない幻想が現れる。
続いて、内田百閒の『冥途』(大正 11 年)の中から「件」と「蜥蜴」を選んで比較を行
いたい。
「件」では、体が牛で顔だけが人間の化物が登場するが、その化け物がどうして生まれ
てきたか説明されない。従って、合理的な背景説明がないという点で、川上作品に似てい
るとは言える。
しかし、件の化け物を見に来る人々が前世の友達と親戚であることと、件が人々の期待
を裏切って預言しようともしないことには、滑稽さが生じて、作品全体には風刺的な雰囲
気が漂う。
一方、川上作品はユーモアがないわけではないが、風刺小説として解釈するのは難しい
と思われる。
次に、「蜥蜴」では主人公の「私」は男性であること以外に描写がない。主人公の相手に
ついても説明が少なくて、「女」としか書かれていない。その点は川上作品に非常に似てい
ると言える。
川上作品でも人物像の描き方が粗末である。主人公は大抵の場合「わたし」であり、そ
の「わたし」の外貌、性格、年齢、生い立ちなどについて記述がないことが多い。
ところで、「蜥蜴」のリアリティ水準はどうであろうか。

女を振り離して逃げようと思つて、女の握つてゐる手を力まかせに後に引かうとする
と、舞台の方で人の悲鳴が聞こえた。裸男の中の一人が、側腹を熊にくはへられてゐ
た。血が流れて、からだが真赤になつた。(中略)私は今逃げなければもう駄目だと思
つて、女を突き飛ばした。夢中になつて、桟敷を馳け下りようと思つた。その時、ふ

41
第3章

と向うの舞台を見たら、熊が飛びかかつて、牛の頸に前肢を巻きつけたところだつた。
その様子が余り恐ろしかった(後略)11

ここで主人公は猛獣である熊に対して恐怖を覚え、逃げようとしている。それと対照的
に、川上の「神様」では、主人公は恐れるどころか、熊と立ち話をしている。

動物には詳しくないので、ツキノワグマなのか、ヒグマなのか、はたまたマレーグマ
なのは、わからない。面と向かって尋ねるのも失礼である気がする。
(10 頁)

つまり、「蜥蜴」全体の雰囲気は奇怪ではあるものの、正常なリアリティ水準が保たれて
いる。それに対して、「神様」でも「蜥蜴」と同じく猛獣であるはずの熊が登場するが、主
人公は全く恐怖を感じない。言い換えれば、主人公とこの短編に出てくる人物のリアリテ
ィ水準は完全に狂っていることが分かる。
次に、尾崎翠の作品『第七官界彷徨』と比較してみたい。
『第七官界彷徨』は日常の詳細な描写が多いという点で川上作品に似ている。その上、
作中人物の常識外れの言動も川上作品と重なるところが多いと思われる。以下で、『第七官
界彷徨』の登場人物のリアリティ水準について考察する。
この小説で最も奇怪なことをするのは、兄の小野二助で、卒業論文のために自分の部屋
で二十日大根や蘚を栽培する。小野二助は自分の研究に対して異常な熱意を持って、実験
のために頻繁に肥しを煮て、家中で悪臭を漂わせる。

「歎かわしいことだよ。君等にはつねに啓蒙がいるんだ。こやしほど神聖なものはな
いよ。その中でも人糞はもっとも神聖なものだ。人糞と音楽の神聖さをくらべてみろ」
「音楽と人糞とくらべになるものか」
「みろ。人糞と音楽では――」(中略)
私はもうさっきから泪をおさえて二人の会話をきいていたが、やがて台所に退いた。12

この引用箇所から言えるのは、兄弟の会話は内容がおかしい。が、それより重要なのは、
その会話を聞いている主人公の女の子がそんな会話をおかしいと評価しないことである。
小野二助の兄に当たる小野一助も学者で、精神科病院で医者をしている。しかし、小野
一助の発言から彼の科学的であるはずの世界観が歪んでいることが明らかである。

人間が恋愛をする以上は、蘚が恋愛をしないはずはないね。人類の恋愛は蘚苔類から
の遺伝だといっていいくらいだ。この見方は決してまちがっていないよ。蘚苔類が人
類のとおい先祖だろうということは進化論が想像しているだろう。そのとおりなんだ。
その証拠には、みろ、人類が昼寝のさめぎわなどに、ふっと蘚の心に還ることがある
だろう。じめじめした沼地に張りついたような、身うごきのならないような、妙な心

42
第3章

理だ。あれなんか蘚の性情がこんにちまで人類に遺伝されている証左でなくて何だ。
(同上、167 頁)

二人の兄弟に比べて、語り手の小野町子とその従兄弟である佐田三五郎は正常な意識を
持つ人に見える。例えば、『第七官界彷徨』の書き出しで小野町子は「変な家族」という言
葉を使う。

よほど遠い過去のこと、秋から冬にかけての短い期間を、私は、変な家族の一員とし
てすごした。
(同上、127)

しかし、小野町子は、兄弟達の並外れた言動に対して驚きを示さないし、自分でも「人
間の第七官にひびくような詩」を書こうとしているし、兄の論文「肥料と熱度による植物
の恋情の変化」も愛読するし、幻覚も起こしたりするから、小野町子のリアリティ水準は
正常であるとは言い難い。
よって、登場人物のリアリティ水準が一般のと異なっている点においても、『第七官界彷
徨』と川上の作品が類似している。
ところが、『第七官界彷徨』ではリアリティ水準の齟齬を浮き彫りにする仕掛けがない。
例えば、人間と会話をする動物が登場しない。従って、川上作品と同じような条件が揃っ
ているにも関わらず、川上作品に特有のリアリティ水準の錯乱による効果が生じない。
他にも取上げるべき作品は数多くあるが、ここでは割愛して、川上弘美により近い時代
の作品に移りたい。

3 現代幻想文学と川上弘美

近代と現代の時代区分は明確ではないが、ここでは最初に比較したいのは、川端康成の
「片腕」(1963 年)である。
「片腕」は、前に述べた川上幻想の特徴を全て満たしている。
まず、「片腕」のジャンルは特定できないし、ファンタジーと無縁に見える『新潮』にも
発表されている。次に、確定できないが、「片腕」は現実世界を舞台にしている。
次に、登場人物のリアリティ水準は紛れもなく変わっている。娘が自分の腕を外したこ
とに対して、主人公の男性は全く驚かない。しかも、架空世界の設定もないし、怪異を合
理的に裏付ける夢、飲酒、麻薬などの手法も使われていない。

「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。
」と娘は言った。そして右腕を肩からはずすと、そ
れを左手に持って私の膝においた。
(中略)
「ありがとう。」私は娘の片腕を受け取った。「この腕、ものも言うかしら? 話をし
てくれるかしら?」

43
第3章

「腕は腕だけのことしか出来ないでしょう。もし腕がものを言うようになったら、返
していただいた後で、あたしがこわいじゃありませんの。でも、おためしになってみ
て……。やさしくしてやっていただけば、お話を聞くぐらいのことはできるかもしれ
ませんわ。」13

続いて、腕が人間の言葉を話すという超自然的なことは、リアリティ水準のズレを更に
明らかにする。
最後に、腕は現実感があり過ぎるくらい詳細に描かれ、風刺、比喩、象徴などの解釈説
も成立しにくいと思われる。
ところが、こんなに多くの共通点を持ちながら、「片腕」と川上の幻想的な作品は全く同
じとは言えない。
もちろん、文体の違いがある。他にも細かい違いがある。例えば、「片腕」におけるラジ
オは作品全体の雰囲気に狂気を漂わせる。

こういう夜は湿気で時計が狂うからと、ラジオはつづいて各家庭の注意をうながして
いた。(中略)/ラジオはそのあとで、こういう夜は、妊婦や厭世家などは、早く寝床
へはいって静かに休んでいて下さいと言った。
(中略)/しかし、ラジオはこんなこと
を言っているように思われた。たちの悪い湿気で木の枝が濡れ、小鳥のつばさや足も
濡れ、小鳥たちはすべり落ちていて飛べないから、公園などを通る車は小鳥をひかぬ
ように気をつけてほしい。もしなまあたたかい風が出ると、もやの色が変るかもしれ
ない。色の変ったもやは有害で、それが桃色になったり紫色になったりすれば、外出
はひかえて、戸じまりをしっかりしなければならない。(同上)

しかし、川上作品でそういう狂った雰囲気を醸し出す仕掛けが見当たらない。
また、
「片腕」のリアリティ水準は変わっているにしても、腕の譲渡はやはり異常である。
主人公は女性の腕を携えて急いで家に帰り、腕を大事に扱う。が、川上作品の場合は、ど
んな驚異でも物語世界では日常の一環として受け止められる。
澁澤龍彦も幻想と現実の区別が付かない作品を書く作家として知られているが、川上弘
美の作風が澁澤龍彦の作風から程遠いものであるように思われる。
澁澤龍彦の主人公達の過剰な自己意識は川上作品ではまるで見られない。それは作品の
幻想性にも影響を与えている。例えば、澁澤龍彦の「撲滅の賦」「エピクロスの肋骨」「犬
狼都市」などでは、超自然的な場面もあるが、結局それは主人公による幻想である。言い
換えれば、主人公がなければ、そういう幻想も起こらない。

我にもあらず昂奮し、宙に迷っていた目をふと隣りの席に戻すと、これはしたり、い
つの間にやら三毛猫のすがたは煙のように見えなくなっていて、その代りには、もの
すごく眼の大きな痩せた女の子がひとり、粗末な洗いざらしの赤いチェック模様のワ

44
第3章

ンピースを着て、腰かけた足をぶらんぶらんさせながら、今まで仔猫のいた場所に、
ちょこなんと坐っているではないか。14

それに対して、川上弘美の場合は、超自然的な事柄は主人公に頼らずに、理由もなく存
在していて、読者が超自然的だと思う状況に主人公がたまたま居るだけである。
他にも様々なファンタジーのサブジャンルで活躍している作家が数え切れないほどいる
が、ここでは最後に、川上弘美と同じように純文学とされる作品を主に書きながら、ファ
ンタジーの分野でも知られている笙野頼子、小川洋子と比較したい。
笙野頼子が芥川賞を受賞した「タイムスリップ・コンビナート」には幻想的な箇所はあ
るが、起こり得る範囲を出ない。とろこが、「タイムスリップ・コンビナート」と同じ本に
収録されている「シビレル夢ノ水」は明らかに有り得ない内容になっている。主人公は自
分の血を吸う蚤が人間に似ていく様子を眺める。

部屋に帰ると、ゴミを捨てて帰って来ただけの数分の間に、また進化した種類が姿を
見せた。殆ど赤児の大きさになった蚤が十二匹、物陰から部屋の中央へ出てきて、血
のタンクのようになってのろのろ動いていた。雄と雌というよりは彼と彼女だった。15

しかし、「シビレル夢ノ水」では第三者の視点がないので、擬人化した巨大な蚤は他の人
にも見えるのか、あるいは主人公の幻覚なのか、確認できない。主人公もそれは現実か夢
の中か言い切れない。
それに対して、川上弘美の作品では第三者の視点がよくある。そこで、登場人物全員が
有り得ないことを現実として認め、読者だけが取り残される。
ところで、笙野頼子の「百年回忌」
(新潮社、1994 年)では第三者の視点が導入される。
この作品には現実的な舞台設定がある。川上弘美の作品と同様に登場人物のリアリティ水
準も完全に置き換えられている。死者と生きた人間が入り混じって話したりすることに対
して驚く者がいない。
「百年回忌」も解釈の困難な作品だが、川上作品に比べて、幻想の度合いが明確に異な
っている。「百年回忌」ではもう一歩進めば、異世界に見えるくらい現実の規則が置き換え
られている。例えば、百年回忌について長い背景説明があって、どうして、いつ、どこで
死者が現れるか説明されている。
一方、川上の作品では、超自然的な要素が限られているが、それについての背景説明が
なくて、超自然的な事柄の意味がはっきりしていない。すなわち、幻想が説明するまでも
ない日常の一部になっている。
従って、笙野頼子と川上弘美の作品が似ているところが多いが、幻想と現実の度合いが
異なる。
記憶の消滅をテーマにする点で、小川洋子の『密やかな結晶』
(講談社、1994 年)と川上
弘美の「消える」(『蛇を踏む』収録、1996 年)は似ている。両方の作品では超自然的なこ

45
第3章

とが起こるが、「消える」は一応現実的な設定になっている。それに対して、『密やかな結
晶』の舞台は島で、独自の秩序を築き上げた異世界のファンタジーになっている。
もう一つの小川洋子の作品『ブラフマンの埋葬』
(講談社、2004 年)は舞台設定が川上作
品を思わせる。すなわち、現実を踏まえているようだが、概説的な背景説明がなくて、物
語の場所と時間が正確に特定できない。ところが、川上弘美の場合は、明示されていない
が、寿司、梅干など、食べ物からして場所が日本だと窺える。それに対して、『ブラフマン
の埋葬』では全く逆で、オリーブ林、石棺などの細部は舞台が海外であることを示唆して
いる。
『ブラフマンの埋葬』では、リス、狐、犬、猫を組み合わせたような得体の知れないペ
ットが登場する。それ自体は幻想的で不思議ではあるが、そのペットが人間と会話をした
りしないので、現実世界で起こり得る範囲を出ていないと思われる。しかし、川上の作品
に登場する動物たちは明らかに現実世界では有り得ないものである。つまり、川上弘美と
小川洋子の幻想性は桁が違う。
このように、上では、それぞれの時代の幻想的な作品を川上作品と比較してみた。網羅
的な比較ではなかったが、川上の幻想小説の特徴を抽出した上で、その特徴を類似性が高
い作家の作品と比べてみた。
比較の結果、特に現代小説の中で、川上作品と非常に似ている小説があることが分かっ
た。例えば、上で取上げた作品の中で、川端康成の「片腕」が川上作品に最も近いことが
判明した。
もう一つの結論は、川上が使う幻想的な手法はユニークではないが、作品における幻想
と現実の度合いがユニークである。そこで、笙野頼子の作品は川上作品より幻想の度合い
が高くて、小川洋子はその度合いが低いことが分かった。
第 1 章で論証したように、川上作品ではリアリティ水準の錯乱が見られる。そこで、特
殊な効果が生じて、読者が作品の解釈に戸惑う。そのリアリティ水準の錯乱を作り出す過
程において、現実と幻想の度合いが非常に重要である。
上で検討した幻想的作品は川上作品と類似点が多いものもあるが、川上作品のような効
果が生じない。その現象を比喩を用いて解説できると思われる。同じような食材と調味料
を使っても、調理人によって料理の味が違う。
つまり、川上弘美は他の幻想作家と同じような材料と技法を使う。そこで、川上作品は
上で取上げた作品と類似しているところが多少ある。ところが、川上弘美は現実・非現実
の度合いが独特である。しかも、それは単なる違いではなく、その独特な度合いによって、
他の作家には見られなかった効果が生じる。すなわち、読者のリアリティ水準の錯乱であ
る。
川上作品はジャンルが解釈による。不思議な登場人物を比喩または象徴として立証でき
れば、現実的な小説になる。ただし、先行研究を検討した結果、比喩説を矛盾なく立証し
た研究が未だにないことが言えよう。
従って、現在は不思議な登場人物を比喩として読まない解釈方針がもっと説得力を持っ

46
第3章

ている。その場合は、不思議な登場人物が幻想のままで残る。現実世界を舞台にして超自
然的な事柄が起こるので、川上作品のジャンルはロー・ファンタジーになるわけである。
もちろん、幻想文学という言い方も可能だが、上で見てきたように、幻想文学の範囲が
曖昧な上に、その用語の伝統的な使い分けもあるので、ロー・ファンタジーを使った方がよ
り正確であると思われる。
このように、ここでは川上の幻想的な作品のジャンルをロー・ファンタジーと定めたが、
その作品がマジックリアリズムの一例である可能性も検討したい。

第2節 マジックリアリズム

マジック・リアリズムは文学の用語としてラテンアメリカに限定して最もよく使用され
る 16 。ラテンアメリカ文学の研究者である野谷文昭はマジック・リアリズムの定義と用途
を「共同体のパースペクティヴ」を通して説明する。野谷文昭はここで「パースペクティ
ヴ」を世界観の意味で使っていると思われる。

ガルシア=マルケスはラテンアメリカの共同体のパースペクティヴを体内的に持って
いる人で、しかもそれを外から見る視線も持っていて、内と外とで往還するんです。
そこでマジック・リアリズムの定義としてよく言われる「現実と幻想の混交」が起き
る。(中略)複数のパースペクティヴが描き込まれていて、それが衝突したりずれたり
して一種独特の幻想性が出てくるようなものがマジック・リアリズムだと思う。17

ラテンアメリカに対して使われるマジックリアリズムは、第 1 章で説明した世界像転換
説を用いて合理的に説明できると思われる。というのは、科学的世界像は近代以降に主流
になったものの、全世界で均一に浸透したわけではない。従って、宗教的・神話的な世界
像を保持している地域がまだ残っている。その地域で現実を描写する作品が書かれれば、
当然ながら架空世界の設定がない。しかし、科学的世界観を持つ読者からすれば、そんな
現実はあり得ない。そこで、世界観の齟齬によってマジックリアリズムという現象が生じ
る。
ところが、先住民の世界像と新しく導入された西欧の科学的世界像が混交する地域は、
ラテンアメリカだけではない。旧植民地の文学を論じる時にも、マジックリアリズムはよ
く使われる。その代表的な例はインド出身のサルマン・ラシュディが書いた『真夜中の子
供たち』である。
『真夜中の子供たち』はラテンアメリカのガルシア・マルケスが書いた『百
年の孤独』と似たような文脈で論じられるわけである 18 。
旧植民地における世界像の混交によって起こる現象という意味で、マジックリアリズム
は沖縄文学に対しても使われることがある。例えば、ろびん・コローム 19 は目取真俊の『水
滴』『魂込め』を、石堂藍 20 は池上永一の『風車祭』をマジックリアリズムと評している。
その場合は、本土の読者が沖縄の現実を普通の現実として受け止められないわけである。

47
第3章

その文脈で川上弘美の小説はマジックリアリズムと言えるのだろうか。
野谷文昭もいうように、マジックリアリズムは共同体と共同体の間に起こる現象で、個
人単位の現象ではない。もしろん、作家は個人だが、マジックリアリズムの場合は作家が
共同体の語り手・ストーリー・テラーの役割を果たす。
しかし、川上弘美は東京生れで東京育ちで、川上弘美の背後に他の日本と異なる共同体
がない。川上の作品にも何らかの特異性を持っている共同体が今まで描かれたことがない。
つまり、川上弘美は共同体を代表して語っているわけではない。
従って、マジックリアリズムを共同体間の世界像の齟齬によって起こる現象として定義
する場合は、川上弘美はマジックリアリズム作家ではないことが言える。
しかし、用語としてのマジックリアリズムの短所はラテンアメリカと旧植民地の文脈か
ら程遠い作家に対しても使われるということである。例えば、チェコ出身のフランツ・カ
フカはよくマジックリアリズムに分類される 21 。この場合はマジックリアリズムは広義の
意味で使われている。
つまり、広義でいうマジックリアリズムは、現実的な設定の中で、説明無しに超自然的
なものを描く文学的な手法あるいはモードである 22 。南米型のマジックリアリズムと、文
学手法としてのマジックリアリズムは、全く異なる背景を持っているが、超自然的な事柄
を説明なしに現実的に描くという点において共通している。
マジックリアリズムの定義を巡る複雑な議論は、リアリズムに立脚する近現代ジャンル
制度の弱点が原因であると考えられる。というのは、現実世界を描写する小説はリアリズ
ムであり、空想を導入する手続きを行ってから架空世界を描写する小説はファンタジーで
あるが、現実的な設定の中で当然のように超自然的なものを描く小説をどう考えればいい
かという根本的な問題がいつまでも残る。心理学を用いて解釈するという手がある。象徴・
寓意・比喩を用いて解釈するという手もあるが、それでも合理的に説明できない小説はど
うすればいいかという問題が残る。
その問題の深刻さを示すために、現実的な文章の例として芥川龍之介の「蜜柑」を使っ
て、そこで「小娘」を「豚」に置き換えてみて、簡単な考察を行いたい。

私はこの豚の下品な顔だちを好まなかつた。それから彼女の服装が不潔なのもやはり
不快だつた。最後にその二等と三等との区別さへも弁へない愚鈍な心が腹立たしかつ
た。だから巻煙草に火をつけた私は、一つにはこの豚の存在を忘れたいと云ふ心もち
もあつて、今度はポッケットの夕刊を漫然と膝の上へひろげて見た。

さて、書き換えられる前の「蜜柑」は現実的な小説なので、ここには当然ながらか架空
世界の設定もないし、超自然的な事柄に対する驚きもない。夢、狂気などの技法もない。
すると、「小娘」を「豚」に置き換えた後で、「豚」は理由なく人間の服を着て、主人公と
同じ車両に乗っているということになる。これは正に広義でいうマジックリアリズムであ
る。もちろん、「蜜柑」は本当に書き換えられた状態のように発表されれば、この作品には

48
第3章

比喩説も幻覚説も適用されたかもしれない。
しかし、「小娘」を「豚」に置き換えるだけで、作品の性質はそこまで変わらなければな
らないのだろうか。
つまり、リアリズムに立脚する近現代ジャンル制度の弱点は、超自然的な事柄には必ず
合理的な説明を与えないと、作品の解釈が成り立たないということである。そして、合理
的に説明できない川上弘美の作品は上手くその弱点を突いていると考えられる。
よって、マジックリアリズムを文学手法あるいは様式として捉える場合、川上弘美の作
品もマジックリアリズムだと言えるだろう。
上述のことをまとめると、マジックリアリズムは批評用語として範囲が広すぎて当てに
ならない。それでも、その用語の使い方を大別すれば、主に二つの場合に使われる。第一
の用途は、ラテンアメリカと旧植民地の文学を論じる場合である。その場合は、マジック
リアリズムは共同体と共同体の間に生じる世界像の齟齬を指している。川上作品はこの意
味でマジックリアリズムではない。
第二の用途は、超自然的な事柄を説明なしに現実的に描く文学的手法を指している。こ
の意味では、川上作品はマジックリアリズムと言えるだろう。
本章の結論は、川上弘美の作品がロー・ファンタジーにも分類できるし、広義でいうマジ
ックリアリズムにも分類できるということである。

49
第3章

1 『集英社世界文学事典』集英社、2002 年 2 月、527 頁。
2 杉山洋子『ファンタジーの系譜』中教出版、1979 年 6 月、8 頁。
3 海野弘『ファンタジー文学案内』ポプラ社、2008 年 12 月、21 頁。
4 須永朝彦『日本幻想文学史』平凡社、2007 年 9 月。
5 石堂藍『ファンタジー・ブックガイド』国書刊行会、2003 年 12 月。
6 小谷真理『ファンタジーの冒険』筑摩書房、1998 年 9 月、22 頁。
7 石崎等「夏目漱石と内田百間」 『国文学 解釈と教材の研究 』29 巻 10 号、1984 年 8 月。
8 泉鏡花との類似は、千石英世( 「甘嚙みのユートピア」 『文学界』2003 年 10 月、169 頁)、
高柴慎治(「川上弘美「神様」を読む」『国際関係・比較文化研究』第 5 巻 2 号、静岡県立
大学国際関係学部、2007 年 3 月、35 頁)などが指摘した。また、内田百閒との類似は、原
善(「川上弘美の文学世界」『上武大学経営情報学部紀要』第二四号、2001 年 12 月、107
頁)、久世光彦(「比喩としての川上弘美」『総特集 川上弘美読本』(青土社、『ユリイカ』
2003 年 9 月臨時増刊号)33 頁)などが指摘した。
9 『露伴全集 第一巻』岩波書店、1952 年 10 月、150 頁。
10 『泉鏡花集 新 日本古典文学大系 明治編 20』岩波書店、2002 年 3 月、372 頁。
11 『内田百閒全集 第一巻』講談社、1971 年 10 月、33 頁。
12 尾崎翠『第七官回彷徨』創樹社、1980 年 12 月、143 頁。
13『川端康成集 新潮日本文学 15』新潮社、1968 年 12 月、656 頁。
14 『澁澤龍彦綺譚集』日本文芸社、1991 年 11 月、43 頁。
15 笙野頼子『タイムスリップ・コンビナート』文藝春秋、1994 年 9 月、145 頁。
16 『集英社世界文学事典』集英社、2002 年 2 月、1595 頁。
17 野谷文昭「マジック・リアリズムとは何か」 『幻想文学』アトリエOCTA、2000 年 11
月、92 頁。
18 赤岩隆「 『真夜中の子供たち』序論―インド発マジック・リアリズム―」『神戸薬科大学
研究論集 : Libra』第 8 号、2008 年 3 月。
19 ろびん・コローム「日本の周縁文学―目取真俊と/のマジック・リアリズム―」 『繍』早
稲田大学大学院文学研究科日本文学専攻、2007 年 3 月。
20 石堂藍『ファンタジー・ブックガイド』国書刊行会、2003 年 12 月、128 頁。
21 岩松正洋「マジックリアリズム/メタフィクション―普遍化した幻想と空想上の現実―」

『岡山大学独仏文学研究』第 15 号、岡山大学文学部、1996 年、64 頁。


22 Rawdon Wilson «The Metamorphoses of Fictional Space: Magical Realism» (Lois

Parkinson Zamora, Wendy B. Faris «Magical Realism: Theory, History, Community»,


Duke University Press, 1995, p.209-233)

50
第4章

第4章 川上手法としての異化

第1節 文体による異化

1 はじめに

第 2 章で検討したように、川上作品の構成は素朴で空白が多い。しかも、その作品の内
容をまとめれば、陳腐な身辺雑記ばかりで、物語というより日常のスケッチを思わせると
ころがある。それならば、正岡子規の『仰臥漫録』と永井荷風の『断腸亭日乗』まで行か
なくても、作家ではない一般人の日記を取っても、川上作品より優れた物語性、人物像の
描写、社会的な広がりなどを持っている日記はいくらでも見付かると思われる。
にもかかわらず、内容が貧弱な川上作品は高く評価され、今まで数多くの評論の対象と
なっている。しかも、序章で示したように、解釈の方針が定まらずに、評論家によって解
釈が異なる。
この逆説的な状況は次のように説明できるのではないかと考えられる。
つまり、川上作品は、内容、すなわち何が書いてあるかというより、どう書いてあるか
ということの方が重要なのではないだろうか。具体的にいうと、川上弘美は異化という手
法を多用しているのではないだろうか。
以下ではその仮説を検証するが、その前に異化の意味を確認したい。
異化が指している現象は普遍的に芸術で見られるが、その現象を特殊な手法として説明
して、異化(остранение)と名付けたのは、ロシアの文学理論家ヴィクトル・シクロフス
キーである。シクロフスキーはまず 1914 年の「言葉の復活」1 で言葉とイメージの相互関
係を検討しながら、後ほど異化の基礎となる詩的言語について論じる。
続いて、1917 年の「手法としての芸術」2 では、シクロフスキーは詩的言語と散文言語
の相違を分析しながら、まず認知の習慣化あるいは自動化という用語を導入する。そして、
芸術の目的は認知の新鮮さを取り戻すことにあるという旨を述べる。認知の新鮮さを取り
戻す方法の一つは、事物を慣れ親しんだ文脈から切り離すこと、すなわち異化という手法
である。シクロフスキーは、異化の実例として、トルストイ作品における描写手法、プー
シキンの詩における俗語の多用、性器を指す遠回しの表現などを取上げる。また、異化の
適用範囲は「イメージのあるところならおおむねどこにでも異化はある」と述べる 3 。
異化という概念は後ほどベルトル・ブレヒト、フランス構造主義、記号論などへと引き
継がれた 4 。が、ここでは異化についての考察をシクロフスキーにとどめる。
続いて、シクロフスキーが示した考え方に基づいて、川上作品における表記、語彙、表
現、登場人物のレベルで見られる異化について検討する。

2 文体における異化

51
第4章

川上弘美の文体に関して、青柳悦子の論文「川上弘美―様態と関係性の物語言語化」5 が
大いに参考になるが、青柳悦子は『溺レる』を中心に分析を行ったので、ここでは、他の
代表作『真鶴』を検証することにする。
『真鶴』では文体による異化があまりにも頻出するので、引用するとなると、長い引用
『真鶴』の書き出しの部分をそのまま付録 2
を何回も繰り返さなければならない。そこで、
に収めて、分析の資料とする。
まず、書き出しの 6 枚の内容はまとめれば、主人公が真鶴の宿に一泊したということだ
けである。つまり、物語の展開を考えれば、川上弘美は主人公が真鶴の宿に一泊したこと
を一段落で伝えることができたのに、6 枚も費やしたわけである。それは何を意味するかと
いうと、『真鶴』の文体は、ストーリーを展開させる文体ではない。
次に、表記において明らかな異化が見られる。漢字表記すべき箇所は平仮名になってい
る。
「思いうかべた」「おぼえがあったのだった」「あきらかに」「つきあたり」「うす茶の毛
布」「あけがた」「またおこなうようになった」「青茲とちがってわたしは」「隙からみえる」
「部屋じゅう」「土地のかたち」「まんなかに」「書きこんだ」「思いだせない」「声をだす」
「人けのない」「かんたんな食事」「心ぼそく」「だいじょうぶよ」「おないどし」「まぎわ」
などである。
もちろん、小説家なら誰でも多少規範から外れた書き方をするが、よく漢字にするべき
ではない単語が漢字表記になったりする。すなわち、小説家はよく常用漢字以外の漢字を
使う。ところが、川上弘美の場合は、漢字で書くのが当たり前だという単語も平仮名にな
っていることが多い。
しかも、時々平仮名が長く続いたりして、意味もすぐに読み取れない箇所もある。
例えば、「ここにもついてくるものがあるのかと振り返った」という箇所である。この文
はどこで区切ればいいのか、何回か読み返さないと意味が伝わらない。
次に、目立つのは、直接話法の入れ方である。
実用的な日本語では、直接話法は下記の形で挿話されることが一般的であると思われる。
○○さんは「○○」と言った。 あるいは 「○○」と○○さんは言った。
様々なバリエーションがあるが、鉤括弧で括るのは一般的である。鉤括弧がない場合で
も、「と」を使うのは普通である。
ところが、『真鶴』の冒頭で見られる直接話法の入れ方は全部規範から外れている。

「砂、という名字は珍しいですね」聞くと、母親の方が、
「このあたりには、幾軒かあります」答えた。

ここでは鉤括弧はあるが、「と」が抜けている。

社内にある仮眠室の説明を何回か聞いたが、どうにも具体的に思うことができない。

52
第4章

ベッドが一つあるだけの狭い場所で。三部屋あって。鍵がかかっていれば誰かが眠っ
ているしるしんです。会社に勤めたことのないわたしには、病室のような場所しかう
かべることができない。

ここでは直接話法があるが、鉤括弧も「と」も使われていない。会話と地の文が一体化
している。最後に「んです」があるから、「鍵がかかっていれば誰かが眠っているしるしん
です」は他人の言葉だと辛うじて分かるが、「ベッドが一つあるだけの狭い場所で。三部屋
あって。」は地の文なのか、他人の言葉なのか、判断できない。
他にもこういう箇所が数多くある。例えば、「帳場で岬までの道を聞いた。何かに似てい
ますね、このかたち。そうですかね。」「ゆっくり歩くともっとかかるよ。母親が奥から声
をだす」などである。
次に句読点の打ち方に注目したい。
「昨夜その集落の、母親年配と息子年配の男女二人でやっている小さな宿に、泊まった。」
「東京の、会社に今夜は泊まりになると言っていた。」「龍の、首から先のように見えるの
だった。」「突端まで、歩いて小一時間ですかね。」「昨夜は客を、誰何もせずよくとめたも
のだと思う。
」「京、とわたしに呼びかける声の、底が甘く(後略)」などである。
上記の引用箇所では「、
」は日本語の文法に沿う打ち方ではなくて、読者の注意を惹くた
めに、強調として使われている。
一方、「、」が抜けている箇所もある。「我慢したがしまいに降りてしまった。」
続いて、文の構成と接続詞を見てみたい。
文と文、段落と段落をつなぐ接続詞が殆どない。例えば、次の段落ではその特徴が全面
に出ている。

海はつまらない。波が寄せるばかりだ。中くらいの岩に座って沖を見た。風が強い。
飛沫がときおりとどいて濡れる。立春はとうに過ぎたというのに、寒い日だ。船虫が
岩の下に入ったり出たりする。

よって、文章が途切れ途切れに接続詞を使わずに書かれているので、後に述べられた事
柄が、前に述べられた事柄に対してどのような関係にあるかを読者が考えなければならな
い。その上、会話文が地の文に交ざっているので、すらすら読めないわけである。
文体における異化のもう一つの作面は、古風な言い回し、古い文法、古語、体言止めな
どが所々使われていることである。
例えば、『真鶴』では一般的に口語的な「~て形」が使われるが、時々連用中止形も使わ
れる。「窓を開け、冷えた空気を入れた。」「(前略)スリッパが置きあり、枕もとにブザー
と体温表。」「風呂をで、青茲とちがってわたしは寝入る必要もないので、ずっと起きてい
た。」
また、古めかしい和語の例は、「口をたわめた」「声の、底が甘くほとびていて」などで

53
第4章

ある。
その他にも短いと長い文、途切れた文も効果的に使われる。
「急なのぼり坂を見上げて迷ったが、待つことにした。浜に降りた。」「ごめんなさい、
急にで。そう言うと、母は、だいじょうぶよ、と答えた。」「熱海まで行って帰って、それ
でもまだ中央線なら電車はあると思っているうちに、いやに心ぼそくなって、ずぶん我慢
したがしまいに降りてしまった。降りたところが真鶴だった。」
登場人物の呼び方にも異化が見られる。まず、登場人物の名前は「礼」「百」「京」であ
る。日本人の名前にないわけではないが、一文字の名前がこんなに並ぶのは、やはり珍し
いことである。それに、宿の主人は中年の男なのに、その男の母が一回しか出て来ないの
に、その男性は何回も「息子」と呼ばれている。
続いて、『真鶴』の冒頭で、初めて見られるもののように表す異化と、謎々を用いる異化
は三箇所で見られる。
第一は幽霊の箇所である。幽霊だとすぐに書けるのに、川上弘美は幽霊という言葉が知
らないように、謎めいた表現を使って間接的に描写する。

歩いていると、ついてくるものがあった。
まだ遠いので、女なのか、男なのか、分からない。(中略)
ここにもついてくるものがあるのかと振り返ったが、デッキにはわたししかいない。
影もない。

第二の箇所は、岬の形である。ここにも始めて見るもののように描写する手法と謎々の
手法がある。

土地のかたちをざっととり、まんなかに道筋を書きこんだ。何かに似ていますね、こ
のかたち。そうですかね。(中略)岬のかたちはすぐにわかった。龍の、首から先のよ
うに見えるのだった。鼻先に髭もある。

第三の箇所は、宿の主人についてである。最初から「再認」、すなわち宿の主人が誰に似
ているか書けるのに、宿の主人を「直視」する手法が使われている。全部引用すると、長
くなるので、省略しながら引用する。

「朝食は」と聞く息子の声におぼえがあった、
(中略)息子の声が誰に似ているかまだ
思いだせない。(中略)失踪した夫、十二年前に突然姿を消した夫の、寝入りばなの声
に似ているのだった。(後略)

上では、『真鶴』の冒頭部分の文体で見られる異化を分析した。『真鶴』は小説で、散文
で書かれているが、その文体は表記、句読点、語彙、文節、文のレベレで異化が見られる。

54
第4章

また、初めて見たもののように描く手法や謎々の手法も使われる。
シクロフスキーは散文と詩の違いについて次のようにまとめる。

かくしてわれわれは、詩とは了解に手間取るようにされた、歪められた言語表現であ
る、という定義に行き着く。詩のことばは構成されたことばなのである。一方、散文
は通常のことば、節約的で、容易で、正常なことばなのである。6

上で示したように『真鶴』の文体は節約的ではない。主人公が宿に泊まったことを伝え
るために、6 枚も費やされているのだから。それに規範的な日本語からすれば、句読点の打
ち方、直接話法の入れ方は間違っている。その上、平仮名表記の多用などは文章の理解を
遅らせる。
従って、シクロフスキーの論説に照らし合わせると、『真鶴』は詩的言語で書かれている
ことが言える。
『真鶴』は 250 枚の分量もあ
内容の面から見ても、『真鶴』は抒情詩に近い。なぜなら、
るにも関わらず、ストーリーらしいストーリーもなくて、主人公の感情や思い出が大半を
占めているからである。
続いて、『真鶴』は冒頭部分だけを分析したが、本文でも似たような文体が見られる。例
えば、
「礼の、日記が、ある。」
(65 頁)。ただし、
『真鶴』で異化が使われている箇所が数え
切れないほどあるので、ここで全部詳述できない。
『真鶴』の文体についてもう一つだけ特記すべきことは、エロチックな挿話における異
化である。川上弘美は『溺レる』以降、性愛を描く作家と評されるようになった 7 。
『真鶴』
にも性愛の場面がある。
しかし、『真鶴』の性愛描写は検閲があった時代に発表されても、伏字の必要がないだろ
くち
う。例えば、キスは「唇をすった」「唇をふさぐ」
、性行為は「した」「はいった」というよ
うに、婉曲法表現が使われている。また、シクロフスキーの「手法としての芸術」によれ
ば、エロチックな場面を描くのに用いられる婉曲法も異化の種類である。
ここで指摘した文体の異化は作品によって程度は異なるが、他の川上作品にも見られる。
殊に、登場人物の名前は興味深い。例えば、『神様』『蛇を踏む』『いとしい』などは、ウテ
ナ、コスミスミコ、カナエさん、エノモトさん、ユリエ、マリエ、オトヒコ、ミドリ子、
マキ、アキラのように、カタカナ表記が多い。
ところが、『光ってみえるもの、あれは』では、漢字表記が使われる。ここでは違う種類
の異化が見られる。お母さんは子供から「愛子さん」と呼ばれ、お父さんは「大鳥さん」
と呼ばれる。また、主人公の彼女はいつもフルネーム「平山水絵」で評価されている。
他の川上作品に「鈴本鈴郎」(『いとしい』)、「鰺夫」(「婆」)などの独創的な漢字表記の
名前もあるが、登場人物の表記で最も有名なのは、『センセイの鞄』であると思われる。
『センセイの鞄』で、「松本春綱先生」「先生」「せんせい」「センセイ」の呼び方の中で
「センセイ」が選ばれたことが冒頭で述べられる。それと対照的に、主人公の同級生はい

55
第4章

つも「小島孝」と表記されている。ここで見られる異化は読者に強い印象を与えたことが
窺える。センセイの呼び方を巡る箇所は単行本の帯にも引用されているし、清水良典の論
文で有効な論拠にもなっている 8 。
このように、主に『真鶴』を資料として分析を行った結果、川上弘美が表記、句読点、
語彙、文節、文などのレベレで異化を用いることが明らかになった。また、初めて見たも
ののように描く手法、謎々の手法も用いられる。その他に、登場人物の呼び方と表記にも
異化が見られる。最後に、分析の資料として使った『真鶴』は、散文ではあるが、形式、
内容の両面において詩的であることが言えるのではないだろうか。

第2節 リアリティ水準の異化

川上弘美が文体のレベルで異化を頻繁に用いることを既に示したが、小説家なら誰でも
文体に拘るので、文体における異化は川上弘美の発明ではない。
ところが、リアリティ水準の錯乱による異化は一般的な手法ではない。ここでは、
「神様」
と「星の光は昔の光」を比較して、リアリティ水準の錯乱による異化の働きについて考察
したい。
「神様」と「星の光は昔の光」は両方『神様』
(中央公論社、1998 年)に収録されている
短編である。その短編のモチーフは同じである。すなわち、隣人と散歩に行くというモチ
ーフである。「神様」は散歩だけの内容だが、「星の光は昔の光」では更に家族問題も取上
げられている。にもかかわらず、「神様」は賞賛されるが、「星の光は昔の光」は書評でも
先行研究でも注目されることがなかった。その違いはどこにあるのだろうか。
答えは自明であろう。「神様」では主人公が熊と一緒に散歩に行くが、
「星の光は昔の光」
では男の子と一緒に散歩に行く。男の子には「えび男くん」という変わった名前が付いて
いるが、熊に名前が付いていなくても、熊の方が明らかに男の子より珍しい登場人物であ
る。しかも、第 1 章で示したように、熊の登場によってリアリティ水準の錯乱が起こる。
よって、散歩に行くという「神様」の話は短編にしてもあまりにも有り触れた日常的な
テーマではあるが、熊の存在によってそんな有り触れた話でも脚光を浴びるわけである。
つまり、「熊」はごく日常的な話を異化する。
同様な手法は「蛇を踏む」にも見られる。「蛇」の存在を除ければ、小説の内容は平凡極
まる日常である。その日起こったこと、聞いたこと、頭に浮かんだことを物語性と因果関
係を気にせずに綴った日記体小説を思わせる。その日常には問題がないわけではないが、
その内容だけでは「蛇を踏む」が芥川賞を受賞したとはとても考えられない。やはりこの
小説に「蛇」という存在がなければ、読者や評論家から注目されることがなかっただろう。
つまり、「蛇を踏む」でも「蛇」は日常的な話を異化する役割を果たしている。
しかし、「蛇」が欠かせないこの小説は「蛇」もまた挫折させてしまうと考えられる。と
いうのは、先行研究からも分かるように、読者と評論家の注目は「蛇」に集中する。とこ
ろが、「蛇」の解釈は困難である。論者によって見解が異なったりする。

56
第4章

「蛇を踏む」では、何種類かの「蛇」が登場する。小説の中では「蛇」に特定の意味が
与えられていないので、物語の論理が成り立たなくなる。
具体的にいうと、
「蛇」は主人公のヒワ子を何回も「蛇の世界」に誘うが、ヒワ子は断る。
蛇とは何か、蛇の世界とは何か説明しなければ、「蛇」がどうして執拗に誘うか、ヒワ子は
どうして頑固に断るかも書けないし、物語の発展も望めない。が、川上弘美はそのような
説明を与えないので、物語は挫折せざるを得ない。最後では「蛇」とヒワ子が争って、部
屋が流されるという曖昧な結末も破綻しかけた物語の当然な終わり方なのかもしれない。
つまり、ここでは解釈の困難さが物語の発展を阻止することが言える。
よって、「蛇」は平凡な日常を異化することで、「蛇を踏む」を文学作品として成立させ
る。一方で、
「蛇」に特定の意味が与えられていないので、物語の展開が困難になって、
「蛇
を踏む」は曖昧な結末を迎える。
ところで、これは「蛇を踏む」だけの問題ではない。「トカゲ」でも、同じような現象が
見られる。
「トカゲ」でも舞台設定が平凡な日常である。三人の主婦とその子供達はお互いの家を
訪問したりして雑談する。こんな設定では、「幸運の座敷トカゲ」が登場する。その後、話
は「幸運の座敷トカゲ」を中心に発展するようになるが、最後までどうして主婦たちが「ト
カゲ」に拘るか説明されていない。
結末の部分で三人の主婦とその子供達がトカゲに跨って特殊な儀式を行う。その儀式は
ストレス解散の方法だと書いてあるが、茶番劇を演じる他の作中人物と違って主人公は一
貫して合理的である。主人公はトカゲ崇拝に参加しないし、他の主婦から与えられた説明
を飲み込めない。が、合理的な説明は最後まで与えられていない。終盤で、主人公がトカ
ゲに座って眠りに落ちるところで話が終わってしまう。結局、「トカゲ」とは何か、主婦達
が行う儀式は何を意味するのか、明確に説明されていない。
よって、「トカゲ」でも不思議な登場人物が平凡な日常を異化する役割を果たすが、それ
と同時に物語の展開を阻止してしまう。
このように、川上弘美は頻繁にリアリティ水準の錯乱という手法を用いる。そのために
超自然的なものを合理的な説明なしに登場させる。その手法は二つの側面を持っているこ
とが分かった。
一つは、不思議な登場人物は読者の注意を惹くので、どんなに有り触れた題材でも脚光
を浴びるわけである。言い換えれば、不思議な登場人物は異化の一種であって、日常を「再
認」するのではなく、「直視」させるということである。
もう一つの側面は、リアリティ水準の錯乱を起すために、不思議な登場人物について合
理的な説明をしてはならない。短編ではその側面が問題にならないが、物語性と因果関係
が重視される長編小説では、その特徴がストーリーを破綻させる。なぜなら、不思議な登
場人物が話の中心になっているのに、その意味を説明してはならない。が、説明しないと、
他の登場人物も行動できない。結局、話が進まなくなって、中途半端な結末になる。
上述のことを踏まえて、
『真鶴』におけるリアリティ水準の異化に注目したい。

57
第4章

前に既に示したように、
『真鶴』は文体のレベルで異化が頻繁に用いられるので、内容・
形式の両面で詩的であると言える。
しかし、詩的な性質を持つとは言え、
『真鶴』は散文で書かれた長編小説である。しかも、
例えば『センセイの鞄』に比べて、物語性があまりない。失踪した夫を探すという推理小
説の設定で始まる『真鶴』は謎を解明しないままで終わってしまう。
文体における異化はあるが、何も起こらない、何も解決しないこの巨大な抒情詩を読ま
せるために、特別な工夫が必要であったと思われる。その工夫は「ついてくるもの」では
ないだろうか。
注意深く読めば、「ついてくるもの」は最初の一行から物語を通じて『真鶴』を支えてて
いることが分かる。結局、その幽霊のようなものは夫が失踪した謎を解明しないので、最
初からいなくても『真鶴』の結末が変わらない。が、幽霊のようなものがいなければ、『真
鶴』の面白さが半減してしまうかもしれない。
つまり、『真鶴』の場合も、川上弘美は「神様」
「蛇を踏む」
「トカゲ」などと同じような
手法を使ったわけである。すなわち、不可解なものを登場させて、有り触れた題材を異化
するということである。
「蛇を踏む」「トカゲ」の場合は、不思議な登場人物は物語の展開を挫折させるが、『真
鶴』の場合は、そもそもストーリー性が重要ではないので、この手法の否定的な側面が現
れないわけである。
よって、『真鶴』は、リアリティ水準の錯乱による異化が長編小説に適用されて、成功し
た一例である。
このように、川上弘美は文体における異化と並んで、リアリティ水準の錯乱による異化
も用いることが分かった。具体的にいうと、合理的な説明をせずに超自然的なものを登場
させるという手法である。
その手法の長点は、平凡な日常に読者の注意を向けることができる。しかも、物語の構
成に空白があっても、それを補うことができる。しかし、その方法の短所は、説明なしに
超自然的なものを扱うのに限界がある。短編小説の場合はその欠点が問題とならないが、
長編の場合は物語の筋が途中で破綻してしまう。ただし、
『真鶴』のようにストーリー性が
重要ではない作品では、リアリティ水準の異化は逆に詩的な物語を展開させるという効果
がある。

58
第4章

1 桑野隆、大石雅彦 編『ロシア・アヴァンギャルド 6 フォルマリズム―詩的言語論』国


書刊行会、1988 年 6 月、13~19 頁。
2 同上、20~35 頁。
3 同上、30 頁。
4 佐藤千登勢『シクロフスキイ 規範の破壊者』南雲堂フェニックス、2006 年 7 月、8 頁。
5 青柳悦子「川上弘美―様態と関係性の物語言語化」 『女性作家《現在》』[国文学解釈と鑑
賞]別冊、至文堂、2004 年 3 月。
6 桑野隆、大石雅彦 編『ロシア・アヴァンギャルド 6 フォルマリズム―詩的言語論』国

書刊行会、1988 年 6 月、34 頁。
7 千石英世「甘嚙みのユートピア」 (『異性文学論 : 愛があるのに』ミネルヴァ書房、2004 年 8
月、229~253 頁)を参照。
8 清水良典「 『センセイの鞄』と『石に泳ぐ魚』のセクシャリティ」 『日本近代文学』2004 年 5
月。

59
第5章

第5章 川上手法の変遷

第1節 山田弘美の作品

前章では川上弘美の手法の特徴を示したが、本章ではその手法の変遷を考察したい。
川上弘美は 1994 年に「神様」で第 1 回パスカル短篇文学新人賞を受賞して、作家デビュ
ーをしたと一般的に考えられている。ところが、それは間違いである。川上弘美はパスカ
ル賞を受賞する前にも文学活動を行っていた。しかし、川上弘美のどの本を見ても、著者
紹介欄で 1994 年以前の文学活動について何も書いていない。
川上弘美は 1976 年 4 月から 1980 年 3 月までお茶の水女子大学理学部で勉強していた。
在学中にお茶の水大学 SF 研究会に所属していた。SF 研究会は『COSMOS』という同人雑
誌を発行していたが、川上弘美はその同人雑誌に自分の小説を発表していた。川上弘美の
旧姓は山田であるが、
『COSMOS』に載った小説は小川項というペンネームで発表されてい
る。
現段階で確認した川上弘美の最初の小説は、1976 年 11 月の『COSMOS』第 5 号に発表
された「ささやかなる体験記」である。活字版と原稿の写しは付録 3 にある。
つまり、川上弘美は 1994 年ではなく、1976 年にデビューしたことが言える。
「ささやかなる体験記」は前書きと四つの挿話から成っている。最初の挿話は、空を飛
ぶ円盤を見た子供の頃の体験を記した話である。第二の挿話はテレパシーを持っているら
しい蛾についてである。第三は主人公のアパートに侵入した巨大な蟻についてである。最
後の話は、校内の池で見た水面をすべるバッターについてである。
「ささやかなる体験記」では、リアリティ水準の錯乱がない。主人公を含めて、円盤を
見た人たちは驚きを示す。それは本研究の論点からすれば、非常に重要なことである。
つまり、「神様」「蛇を踏む」などの川上作品で見られるリアリティ水準の錯乱は、手法
ではなく、川上弘美の世界観に基づく自然な表現だという可能性もある。「神様」と「蛇を
踏む」の後に発表された『光ってみえるもの、あれは』『先生の鞄』などにはリアリティ水
準の錯乱がない。ここで確認したように、「神様」と「蛇を踏む」の前に発表された「ささ
やかなる体験記」にもリアリティ水準の錯乱がない。従って、「神様」「蛇を踏む」などの
川上の幻想小説で見られるリアリティ水準の錯乱は世界観によるものではなく、やはり手
法であることが言える。
「ささやかなる体験記」は規範的な日本語で書かれている。文体における異化はここで
まだ見られない。
1977 年 4 月の『COSMOS』第 6 号には川上弘美は「ぼくのおかあさん」という題名の
小説を発表しているらしいが、小説の内容を確認することができなかった。また、
『COSMOS』第 7 号については情報を得ることができなかった。
次に、確認できたのは 1978 年 4 月の『COSMOS』第 8 号である。その号の前書きから
川上弘美が SF 研究会の部長になったことが分かる。

60
第5章

第 8 号に川上弘美の「ここに、いつまでも、此所に」
(付録 4)という小説が載っている。
小説のあらずじは、キリシマキクコという女子学生はある日から異臭に包まれるようにな
った。異臭がある間は、他の人がキリシマキクコの存在に気付かない。ここでは既に自他
の存在および認識を疑うという川上の代表作にも通じるテーマが取上げられる。超自然的
な事柄が既に描かれているが、全ての登場人物のリアリティ水準が置き換えれているとこ
ろまで物語の設定がまだ進んでいない。
また、「ここに、いつまでも、此所に」では既に表記レベルにおける異化が見られる。登
場人物の名前はススキノさん、アヤメさん、マツオせんせいというふうにカタカナ表記に
なっている。主人公の精神状態を強調するために、全文かたかな、あるいは全文ひらがな
というテクニックも用いられるようになる。

モシモシモシモシ―「でんわがとおいの?わたしだってば、わたし。
」モシモシダマッ
テイナイデナントカイッテクダサイ―ダマッテイルナラキリマスヨモシモシ―(49 頁)
「せんせい、わたしをみてください。わたしのにおいをけしてください。せいみつけ
んさをしてこのにおいをけしてください」(50 頁)

「ここに、いつまでも、此所に」ではまだ徹底されていないが、「~ように」「~ような」
が頻繁に用いられることから、ぼかしが掛かったような書き方を川上弘美が使えるように
なったわけである。

わたしはスパゲッティのようなうどんのようなものをすすり込んでから電車に飛び乗
った。 (46 頁)

『COSMOS』第 9 号に川上弘美が小川項の名前で「禁猟区の中のサムライ」という小説
を載せる予定だと第 8 号の予告に書いてあるが、第 9 号を入手できなかった。また、第 10
号、第 11 号についても情報がないが、第 12 号は入手できた。
1979 年 11 月の『COSMOS』第 12 号には川上弘美の「人魚記」という作品が載ってい
る(付録 5 参照)。
結婚を控えた女性主人公は人魚を飼っている。
「人魚の顔は、わたしが髪を切る以前の顔
とよく似ています」とある。主人公の「恋人という人は、顔の丸い中肉中背のあまり特徴
のない人間です」が、人魚を嫌っているので、主人公はついに人魚を捨ててしまうという
話である。
「人魚記」の文体には規範的な日本語から外れたところがないが、物語世界は既に『神
様』あたりの作品群を思わせるところがある。ただし、ここでもまだ正常なリアリティ水
準が維持されていて、主人公の恋人は人魚を見て驚いたりする。
1980 年 4 月の『COSMOS』第 13 号は川上弘美が編集には参加しているが、作品を載せ
ていない。また、1980 年 11 月の『COSMOS』第 14 号に川上弘美の「メロドラマ より

61
第5章

よき妻となるために…」という題の作品があるが、原稿が入手できなかった。
続いて、川上弘美は 1980 年に『季刊 NW-SF』という雑誌にも二回小説を載せていいま
す。
1980 年 2 月の『季刊 NW-SF』第 15 号には川上弘美は「累累」という小説を載せている
(付録 6 を参照)。また、編集後記にはその作品が『COSMOS』からの転載だと書いてあ
る。従って、上で触れたが、入手できなかった『COSMOS』にも載っていたことが分かる。
『季刊 NW-SF』第 15 号にある作者紹介から小川項が川上弘美のペンネームであること
が確認できる。
「累累」は現実的な要素が薄くなっている小説である。主人公の男は森を通して恋人の
家に通うが、森では得体の知れない顔を見かける。顔の数が日々増えていき、男がもう恋
人の家にも通うことを止したが、顔が増え続け、ついに男の寝台まで押し寄せてくる。男
は最後に自殺する。
ここでは表記の工夫がたくさん見られる。かたかた、ひらがな、句読点、文字のサイズ
まで表現方法となっている。

「馬がかけ足で」/「と、お、る」/「一」/「二」/「三」/「馬が」/「かけ足
で」/「と」/「お」/「る」 (12 頁)

1980 年 9 月に出た『季刊 NW-SF』第 16 号は特に注目に値する号である。まず、川上弘


美は NW-SF 社の社員になって、『季刊 NW-SF』の編集者にもなった。それが影響したか
のように、第 16 号は女性 SF 特集になっている。
その号には川上弘美と他の二人の女性による「女は自ら女を語る」座談会の記録が載っ
ている。主な内容はアーシュラ・K・ル=グウィンとケイト・ウィルヘルムの作品における
女性像だが、話題が逸れて、日本社会における女性の位置についても意見が交わされた。
フェミニズムの観点から川上弘美を解釈するならば、その座談会の記録は貴重な資料にな
ると思われるが、本稿ではフェミニズムの問題を扱わないので、割愛する。
第 16 号に川上弘美の「双翅目」という小説が掲載されている(付録 7 を参照)。しかも、
著者は山田弘美、すなわち本名が書いてある。編集後記によると、その作品は『SF 論叢第
4 号』(1980 年 3 月)から転載されたとある。つまり、川上弘美は『COSMOS』と『季刊
NW-SF』だけでなく、『SF 論叢』にも作品を発表していたことが分かる。
「双翅目」は最近の川上作品と比べると、非常に興味深い小説であると考えられる。な
ぜなら、内容も文体も他の作品と異なっているからである。
まず、今まで取上げた作品の中で最も SF 小説らしいと思われる。というと、小説の舞台
はどんな危険性をもつかも把握できない「汚染地域」の境界線である。その汚染地域は金
網の柵で囲まれていて、立入禁止になっている。にもかかわらず、たくさんの巡礼者が汚
染地域に侵入しようとするが、「緑の服の男たち」がそれを阻止する。
もう一つ SF 小説らしいのは、多くはないが、科学的な用語が使われている。例えば、
「パ

62
第5章

ラクリスタルは方向を失い、ランダムな分子配列を呈しはじめる」。
「双翅目」の文体も他の作品と異なる。登場人物に名前が与えられていない。そこで、
全ての登場人物は、女、男、少年、少女、老人、夫人というふうに呼ばれる。
この作品の文体にも異化が見られるが、他の作品と違う種類の異化である。例えば、主
語は何回も繰り返される。

女は町へ出ない。女は汚染地域を見る。巡礼は太鼓を打ち鳴らし、人々は耳を塞ぐ。
女は老人の部屋に座り、汚染地域を見る。女は巡礼を見る。女は汚染地域を見る。女
は巡礼を見る。女は汚染地域と巡礼を見る。女の視線は強い。(71 頁)

また、初めて見るもののように表現するという手法も用いられる。例えば、「緑の服の男
たち」(軍人)は「鈍く光る金属をたずさえ」る。
最後に、殆どの場面で蠅の描写があるので、蠅はそれとなくその作品の雰囲気を作る。
1982 年に『季刊 NW-SF』が休刊になってから、川上弘美は学校の先生に転職する。そ
の後、1986 年に学校を退職すると同時に結婚する。
『川上読本』によると、川上弘美は結婚
後、小説の習作を書き始める 1 。しかし、今の所はその時期の小説についてデータがない。
そして、1994 年に「神様」でパスカル章を受賞することで、再デビューをする。1994 年か
ら川上弘美の公式な作家略歴が始まるわけである。
このように、上では川上弘美の学生時代の文学活動についてまとめた。ここからいくつ
かの重要な結論が見えてきた。
まず、川上弘美のデビュー年は、一般的に知られている 1994 年ではなく、1976 年であ
る。
次に、川上弘美は SF 作家であった。ここで確認できなかった『COSMOS』の号も考慮
に入れると、川上弘美は 1976 年から 1982 年まで 10 編くらいの作品を発表していること
が言える。つまり、1994 年にパスカル賞と 1996 年に芥川賞を受賞した川上弘美は素人で
も新人でもなかったわけである。
次に、川上弘美は SF 文学の愛読者である。大学では SF 研究会の部長にもなっていたし、
3 年くらい SF 雑誌『季刊 NW-SF』の編集者でもあった。先行研究では川上弘美は頻繁に
泉鏡花、内田百閒などの日本作家と比べられるが、SF 作家と比べられることがなかった。
それは SF 文学が日本国内では学術的にまだ盛んに研究されていないことも影響している
かもしれない。
しかし、若い川上弘美は文章修業をしていた時期に、泉鏡花、内田百閒ではなく、J・G・
バラード、ル=グウィン、ロバート・ヤング、フィリップ・ディックなどの SF ニュー・ウ
ェーブ作家を愛読していたことが言える。また、イタロ・カルヴィーノ、ケイト・ウィル
ヘルム、ガルシア・マルケス、ルイス・ボルヘス、現代アメリカ、フランス、イギリス文
学の影響、すなわち同時代の海外文学の影響を強く受けていることが分かった。
近年の川上弘美のインタビュー、書評などが示しているように、川上弘美は夏目漱石、

63
第5章

泉鏡花、内田百閒など、日本文学にも精通していることが分かる。もちろん、最近の川上
弘美の作品に日本作家の影響があるかもしれない。しかし、世界観が形成する青春時代に
は川上弘美が海外の SF 小説を愛読していたことは、川上作品に最も強い影響を与えたこと
が言えるのではないだろうか。
ところが、従来の川上研究では、SF 文学の視点がなかった。ここで示したように、川上
弘美は SF 作家として活動してきたので、今後の研究では SF 文学の視点が不可欠になるだ
ろう。
続いて、川上弘美が学生時代に発表した小説に言及しないのは興味深い事実である。例
えば、卒業論文のテーマが「ウニの生殖」であったことはよく川上弘美のプロフィールで
書かれるが、SF 研究会などについては言及されない。つまり、川上弘美は自ら 1994 年デ
ビュー説を支持していることが考えられる。なぜなら、川上作品はいわゆる純文学として
読まれているからこそ、注目される。SF 文学として、川上作品は問題視されなかったかも
しれない。
従って、川上弘美は自分を作家としてどういうふうに位置付けようとしているかは、作
品解釈にも影響を与える重要な問題ではあるが、その追究を今後の課題にする。
続いて、学生時代の作品には最近の作品に通ずる特徴があることが分かった。すなわち、
表記、句読点、ひらがな・かたかな、名前による異化である。ところが、その特徴は一つ
の作品の中でも徹底されていないし、作品によって文体が異なったりする。つまり、川上
弘美はこの時期に試行錯誤を繰り返していたが、独自の作風を獲得するに到っていなかっ
た。また、今の文体の一つの特徴である古風な言い回し、擬態語の多用などは学生時代の
作品にはまだ見られない。
自分の存在感と認識への疑問は既にあったが、最近の作品で欠かさず描かれる食事の場
面はまだない。
最後に、重要な結論は、川上の学生時代の作品では超自然的な事柄が描かれるが、リア
リティ水準の錯乱がまだないことである。

第2節 川上弘美の作品

川上弘美の名前で発表された最初の作品は 1994 年の「神様」である。


その作品にパスカル短篇文学新人賞を与えた井上ひさし、筒井康隆、小林恭二は次のよ
うなコメントをしている。

小林「(前略)非常に手堅い手法を用い、しかもリアリティがあります。最初のよい発
想を最後まで押し通した安定した技量を買って押しました。(後略)

筒井「(前略)私も「まさか大作家、老大家の手すさびではあるまいか」と小林さんと
同じようなことをネットで書いているんです。
(後略)」
井上「ぼくは非常に感心しました。
(中略)作者はくまがどうのこうのとはわざといっ

64
第5章

さい言わずに、ある意味ではのんきに話をつづっていくのです。そののんきの中に油
」2
断のならない作戦が潜んでいます。

選考委員のコメントから分かるように、川上弘美の技法と作品の完成度が高く評価され
ているわけである。その技量がどこから生れてきたか、すなわち SF 作家としての川上弘美
の修業時代を選考委員が把握していないということが窺える。
しかし、川上の学生時代の作品と並べて「神様」を読むと、その作品は素人が偶然書い
た作品ではないことが言える。
また、次の引用から川上弘美はいかに自分の素人説を作り上げたかということが窺える。

表題作『神様』は、生れて初めて活字になった小説である。(中略)
子供が小さくて日々あたふたしていた頃、ふと「書きたい、何か書きたい」と思い、
二時間ほどで一気に書き上げた話だった。
書いている最中も、子供らはみちみちと取りついてきて往生したし、言葉だって文章
だってなかなかうまく出てこなかった。でも、書きながら、「書くことって楽しいこと
であるよなあ」としみじみ思ったのだ。3

しかし、上で証明したように、初めて活字になった小説は『神様』ではなく、1980 年の
「累累」である。つまり、川上弘美のこの発言は明らかに虚偽であることが言える。
しかも、第 1 章で検討したように、
「神様」は複雑な論理的な罠が仕掛けられているので、
軽やかな文体も含めて、細かく設計された作品だと言える。従って、子供の面倒を見なが
ら、文章の素人に「二時間ほどで一気に」書ける作品ではないことが明確であろう。
なぜ川上弘美が自分の素人説を打ち出したかは、様々な理由があるだろうが、パスカル
の選考委員が川上弘美の SF 作家としての活躍を知っていれば、新人賞を与えることが無か
ったのではないかと考えられる。
「神様」と学生時代の作品群を比べてみれば、最も著しい進歩は現実感の扱い方であろ
う。学生時代の作品にも超自然的な事柄が描かれていたが、超自然なものは超自然なもの
として描かれた。言い換えれば、学生時代の作品の登場人物は超自然なものに驚いたり、
おかしいと思ったりしていた。つまり、正常なリアリティ水準が維持されていたわけであ
る。
ところが、「神様」では超自然的なものは自然なものとして描かれるし、登場人物も超自
然的なものに驚いたりしない。しかも、現実と幻想のバランスが巧みにとれていて、リア
リズムの方にも、ファンタジーの方にも容易に分類できない作品になっている。そこで、
「神
様」では、第 1 章で分析したように、登場人物の世界観と読者の世界観の齟齬によって、
リアリティ水準の錯乱という効果が生じる。
もう一つ特記すべきことは、川上作品がいわゆる純文学として読まれていることが重要
な要因である。小谷野敦はその関連で次のように述べている。

65
第5章

はて、いつからこういう作品が、
「純文学」として扱われるようになったのだろう。
(中
略)『神様』は、旧来の文体観に照らすならば、明らかに「メルヘン」の文体である。
それで、冒頭の疑問が生まれたのだ。4

川上弘美は「神様」と似た作品(例えば、「人魚記」)を学生時代に発表したが、脚光を
浴びなかった。つまり、川上弘美は SF とファンタジー文学の教養を通じて培ってきた技法
を純文学の場で発揮して初めて高く評価されたわけである。言い換えれば、リアリズムの
伝統が強い純文学の領域では、SF とファンタジー文学の技法が評価された。そして、川上
弘美はその技法の紹介者であった。
次に、芥川賞を受賞した「蛇を踏む」と、候補作となったが、受賞しなかった「婆」の
違いについて考察したい。
(初出は「文学界」1996 年 3 月号)と「婆」
「蛇を踏む」 (初出は「中央公論文芸特集号」
1995 年夏季号)は同じ時期に発表された作品だけあって、共通点は多い。その中で最も著
しい共通点は、それだけの文章は何のために書かれているか、すなわち作者の意図ははっ
きりしないことであろう。が、「蛇を踏む」の場合は、選考委員はその意図を追究しようと
しているのに、「婆」の場合は、追究しようともしない。
「婆」が候補作となった第 113 回の選評を確認すると、殆どの選考委員は「婆」を無視
したが、大江健三郎と河野多恵子だけがコメントを残している。
大江健三郎は「決して気分的に流れないで表現する不思議なイメージ世界を、より堅固
に、つまり、より散文的にとらえなおしてゆかれれば、新人らしい新人の登場にいたるか
も知れないと思う。」と述べ、河野多恵子は「何を書こうとしたのか、最後まで判らずじま
いの作品なのに、奇妙な力を感じた。」と書いた 5 。
「蛇を踏む」の書評は既に序章で紹介したが、その二つの書評を比べると、「蛇を踏む」
の場合は、選考委員は川上弘美が何を書こうとしているのか分かったつもりになっている。
なぜ分かったつもりになっているかというと、各々の解釈が異なるからである。
「神様」で川上弘美が初めて用いたリアリティ水準の錯乱という手法の特徴は次のよう
に分解すると、「蛇を踏む」と「婆」の評価の違いを説明できると思われる。
作品のジャンルが特定できない。作品の舞台は現実世界をなぞっているように見える。
登場人物の世界観の中でリアリティ水準だけが置き換えれていて、現代的ではない。架空
世界の設定がない中で、有り得ないものが出現するが、登場人物はそれに対して驚きを示
さない。また、物語の構成に意味的な空白が多い。しかも、何も断言しないぼかしが掛か
ったような書き方が駆使される。
第 2 章で既に示したように、
「蛇を踏む」は「神様」と同様に上記の条件を満たしている。
が、「婆」はどうであろうか。
「婆」のジャンルは特定できない。舞台設定も現実世界を思わせる。ところが、婆は神
秘的に描かれているものの、人間の形を保っているし、極端に有り得ないものが登場しな

66
第5章

い。そこで、登場人物のリアリティ水準は正常かどうかも断言できない。しかも、主人公
は不思議な空間に入るが、婆の家にある穴を通して入るので、架空世界の設定があると言
える。文体のレベルでも、ぼかしの機能が使われていない。
従って、「婆」には、リアリティ水準の錯乱がない。リアリティ水準の錯乱による異化も
ない。そこで、異化によって注意が喚起されず、明確な主張のない難解な文章を読者が解
釈しようとしない。
もう一つの代表作「物語が、始まる」もリアリティ水準の錯乱による異化があるので、
成功した作品だと考えられる。一方で、「トカゲ」は、「婆」と同じように極端に有り得な
いものが登場しないので、リアリティ水準の錯乱があるとしても、強くはない。
このように、リアリティ水準の錯乱に基づく手法が川上作品の成功の基だと言えるので
はないだろうか。
しかし、超自然的な内容とリアリティ水準の錯乱が成功の秘訣であれば、なぜ川上弘美
がその手法を最近の作品で使わなくなってきたのだろうか。
その理由は主に二つあるのではないかと考えられる。
一つは、リアリティ水準の異化に基づく手法の問題点である。その問題点については既
に第 4 章第 2 節で詳述したが、主旨だけをまとめれば、こうなる。
不思議な登場人物は、読者の注意を喚起する。そこで、どんなに有り触れた題材を扱っ
ても、読者が読んでくれるわけである。
しかし、その反面、不思議な登場人物が不可解のままで残るので、因果関係が崩れる。
因果関係を保つためには、不思議な登場人物の正体を説明しなければならないが、そうす
れば、リアリティ水準の異化がなくなって、読者の関心も薄れる。しかし、説明しないと、
物語の展開が阻止されて、話は中途で曖昧な結末を迎える。従って、物語の筋が重要であ
る長編小説には、リアリティ水準の異化に基づく手法が向いていないわけである。
もう一つの理由は、『センセイの鞄』の大当たりである。『センセイの鞄』の刊行を巡っ
て、興味深い事実がある。『センセイの鞄』は基本的に現実的な小説である。
(1999 年 7 月号~2000 年 12 月)に連載された時に、
しかし、刊行される前に、『太陽』
『センセイの鞄』には、主人公の小学校時代についての挿話がある。その挿話の内容は、
子供であったツキコに二人の赤い天狗が取り憑いた話で、子供と妖怪の交流が描かれてい
る。
ところが、2001 年に単行本で刊行する時に、その挿話が『センセイの鞄』から削除され
た。後ほど、 (平凡社、2002 年 5 月)として刊行された。
『パレード』
天狗の挿話が削除された理由は明確ではないが、『センセイの鞄』はその挿話なしで現実
的な小説としてベストセラーとなった。
つまり、現実的な小説としての『センセイの鞄』の大成功は、川上作風の転換の理由の
一つであると考えられる。言い換えれば、川上弘美は現実的な小説の可能性を実感したわ
けである。
『センセイの鞄』以降に、今までの作品と比べれば、極端に現実的な『光ってみえるも

67
第5章

(中央公論新社、2003 年 9 月)は書かれた。その他にも『ニシノユキヒコの
の、あれは』
恋と冒険』、
『古道具 中野商店』などの作品が発表されたが、近年の作品の中で特に『真鶴』
(文藝春秋、2006 年 10 月)が高い評価を受けている。
『真鶴』については第 4 章で詳述したが、本稿の論点からすれば、その最も大きな特徴
は、『真鶴』が長編小説であるにも関わらず、リアリティ水準の異化が成功している。
上述したように、リアリティ水準の異化を用いる欠点は物語の筋が破綻することである。
ところが、『真鶴』は抒情詩としての性質があって、物語性が薄い。そこで、超自然的な要
素は、物語の筋を破壊するのではなく、逆にその詩的な長編を支えているわけである。
このように、1994 年に再デビューした川上弘美は、独自の文体とリアリティ水準の錯乱
の手法によって成功したことが言える。川上弘美の文体は 1976 年~1980 年の文学活動を
通して培ってきた特徴が多いが、川上自信はその時期の文学活動に言及しないようにして
いる。
リアリティ水準の錯乱に基づく手法は 1994 年に初めて川上作品に現れた手法である。そ
の特徴はいくつかある。作品の舞台は現実世界をなぞっているように見える。登場人物の
世界観の中でリアリティ水準だけが置き換えれていて、現代的ではない。架空世界の設定
がない中で、有り得ないものが出現するが、登場人物はそれに対して驚きを示さない。
また、その手法を支える文体と物語の構成にも特徴がある。物語の構成には意味的な空
白が多い。文体は何も断言しないぼかしが掛かったような書き方が駆使される。
その手法の長点は、日常スケッチのような文章でも、異化が発生することによって、文
学作品として高く評価される。
ところが、その短所は物語の筋が破綻することである。そこで、その手法は短編では成
功しているが、長編では用いられることが少ない。
川上弘美は 2000 年以降、
より現実的な小説を書くようになった。その作風転換の理由は、
リアリティ水準の異化による手法の欠点と『センセイの鞄』の大成功だと考えられる。
2006 年の『真鶴』は、長編であるにもかかわらず、リアリティ水準の異化による手法が
成功している。それは『真鶴』が詩的な性質を持っている作品であることが理由だと思わ
れる。そこで、詩的な物語を支えるために、超自然的な要素を導入されても、物語の筋が
破綻しない。
ここでは、分析できなかった川上弘美の作品を今後の課題にしたい。

68
第5章

1 原善編『<現代女性作家読本①>川上弘美』鼎書房、2005 年 11 月, 147 頁。
2 ASAHI ネット 編『パスカルへの道 第1回パスカル短篇文学新人賞』中央公論社、1994
年 10 月、175 頁。
3 川上弘美『神様』中央公論社、1998 年 9 月、193 頁。
4 小谷野敦「川上弘美における恋愛と幻想」 『文学界』、2001 年 4 月、228 頁。
5「選評」 『文藝春秋』1995 年 9 月号、346~350 頁。

69
終章

終 章 研究の総括

第1節 本研究の成果

1994 年にデビューしたとされている川上弘美は、今日の日本文壇で重要な位置を占める
ようになってきた。海外でも次々に翻訳され、新しい日本文学の担い手として認識される
ようになった。その作品を巡る解釈はデビュー当時から混乱している。評論と先行研究は
比較的に多いが、評論家によって意見が異なるので、15 年以上経った現在も解釈の問題は
依然として残っている。このような状況の中で作品論、作家論はもちろん、批評も書きに
くいことは言うまでもない。また、川上作品が現在 7 つの高等学校の教科書に収録されて
いる。解釈方針の安定化は教育上の急務でもあるわけである。
本論文の第一の目的は、解釈の混乱を引き起こす川上作品における問題点を明らかにす
ることであった。第二の目的は、従来の研究の成果を集約して、次なる研究の基盤となり
得る解釈方針を提案することであった。
第一の目的を達成するためには、まず先行研究の精読を行って、有意義な指摘と問題点
を抽出した。先行研究の焦点は川上の幻想的な作品における不思議な登場人物の解釈にあ
ることが分かった。そして、研究者の意見も不思議な登場人物の解釈で分かれることが明
らかになった。寓意説、象徴説、夢分析、民俗学、フェミニズム、ジェンダーなどのアプ
ローチを用いられてきたが、その成果を一部の川上作品にしか適用できないという問題が
ある。
そこで、本稿ではまず、どうして不思議な登場人物の解釈が困難であるかを検討した。
そのためには、川上のデビュー作だとされている短編「神様」を分析した。その結果、「神
様」には、読者のリアリティ感覚に基づく論理的な罠が仕掛けらていることが判明した。
具体的にいうと、作品の内容をリアリズムにもファンタジーにも矛盾なく分類できないと
いうことである。
次に、「神様」における仕掛けを追究するために、現代の読者が持っているリアリティ感
覚はいかに形成されてきたかについて歴史的考察を行った。その際には、世界像と世界観
の転換に注目した。ただし、世界像は広い概念なので、考察の範囲を世界像の中でリアリ
ティ水準だけに限定した。また、リアリティ水準は、特定の時代において一般常識として
考えられている起こり得る事柄の範囲という意味で用いた。
世界像の歴史を神話的、宗教的、科学的、三つの段階に分けて、それぞれの段階に書か
れた文学的な作品からその時代のリアリティ水準を示す箇所を引用しながら、リアリティ
水準の考察を行った。
後ほどの分析で要点となるリアリズム、ファンタジー、メルヘンなどの用語とその用語
を支える世界観が西洋から日本に伝わってきたので、リアリティ水準についての考察を西
洋の歴史を中心に行った。
神話的世界像におけるリアリティ水準を調べるために、古代ギリシャの叙事詩『イーリ

70
終章

アス』を用いた。宗教的な世界像の場合は、旧約と新約聖書を参照した。
新約聖書の時代には既に有り得る・有り得ない現象の分け方は近代と共通するところが
多いが、有り得ない現象の解釈は近代と異なる。新約聖書の時代には有り得ない現象は奇
跡として放置され、場合によって神を用いて説明される。それに対して近代では一般的に
合理と科学を用いて説明される。
本稿の論点からすれば、その歴史的考察の中で、宗教的世界像から科学的世界像への転
換が最も重要である。転換の結果は宗教的世界像がなくなったわけではないが、科学的世
界像が主流になったということである。トーマス・クーンの指摘を参考にしながら、転換
点は科学的世界像が学校教育で教えられるようになった時点だと定めた。そして、西洋で
はその転換点が 18 世紀末にあったことが分かった。
続いて、科学的世界像が文学に与えた影響について検討した。科学的世界像の普及に伴
って有り得る・有り得ない現象の基準が明確になってきた。文学でも、現実的な描写と空
想的な描写を分ける基準ができたわけである。その基準に基づいて、近代文学のジャンル
制度が形成された。その制度の基盤にはリアリズムがある。リアリズムの対極には空想を
描くジャンル群がある。リアリズムというジャンルの考え方が定着してから、ファンタジ
ー、児童文学、サイエンス・フィクションなどのジャンルが形成されていった。
空想を描くジャンル群は初期の段階では、科学的世界像に照らされて全面的に否定され
ていたが、科学的世界像に配慮した書き方が採用されるようになってから、その非現実的
なジャンルは許容されるようになった。
科学的世界像に配慮した書き方を本稿では「架空世界の設定」という用語で指している。
「架空世界の設定」は科学的世界像が支配している現実から一旦距離を取ってから、空想
を導入する方法を意味する。具体的にいうと、深い森、深山、廃屋、未来、過去、異国、
他惑星、夢、狂気、酒、麻薬、事故、扉、穴、トンネル、地下、上空、夜などの設定で超
自然的な事柄を導入する方法である。その手法はファンタジーと SF 文学で頻繁に用いられ
る。
しかし、児童文学では架空世界の設定がないことも多い。その場合は、児童文学という
ジャンルが架空世界の設定の役割を果たしていると考えられる。つまり、子供が科学的世
界観をまだ持っていないので、子供が読むあるいは子供が登場する小説ではどんな有り得
ないことが起こっても、それを子供の特殊な感受性として解釈できる。
次に、科学的世界像が日本に導入された経緯を考察した。日本の場合もトーマス・クー
ンの指摘を用いて、教育事情を調査した。そして、日本では科学的世界像への転換は 1872
年(明治 5 年)にあったと推定した。
続いて、科学的世界像と文学の関係について検討した。日本の場合も科学的世界像が普
及し始めた段階では、超自然的な事柄が全面的に否定されていた。そこで、日本の文学が
直面した最初の問題は、非現実的なジャンルの成立ではなく、文学そのものの成立である。
なぜなら、事実の記録だけではなく、フィクション、すなわち作り話も文学であるという
ことを社会に認められる必要があった。その後で、幸田露伴を先駆者として「架空世界の

71
終章

設定」を用いた幻想小説が書かれるようになった。
上述のリアリティ水準に関する歴史的考察は本研究の基礎になって、川上弘美の作品に
おける根本的な問題の解決に役立った。
まず、リアリティ水準の歴史的考察に基づいて、川上弘美の「神様」における仕掛けを
説明できた。
具体的にいうと、「神様」では、熊を別として登場人物のリアリティ水準を除けば全てが
現実的である。そこで、当然ながら架空世界の設定がない。登場人物の世界観の中でリア
リティ水準だけが置き換えられている。その結果、超自然的な事柄に対して登場人物は驚
きを示さない。リアリティ水準を除けば、物語世界が現実的であるので、大抵の読者がそ
の小説を現実的なものとして捉えようとする。しかし、熊が人間の言葉を話す現実が有り
得ないので、読者は解釈に戸惑うわけである。
「神様」で見られる現象は、登場人物のリアリティ水準と読者のリアリティ水準との齟
齬によって起こる。本稿では、その現象を「リアリティ水準の錯乱」と呼ぶ。
リアリティ水準の錯乱は「蛇を踏む」「物語が、始める」「トカゲ」などの川上作品でも
確認した。リアリティ水準の錯乱が用いられた作品ではジャンルの特定が困難になるので、
解釈の範囲が広がってしまう。
このように、リアリティ水準の錯乱が川上作品の解釈を困難にする原因の一つだと分か
った。
続いて、先行研究の論考を詳細に分析して、解釈を困難にするもう一つの原因を定めた。
もう一つの原因は物語の空白であることが分かった。物語の空白というのは、通常の小説
では不可欠だと考えられている要素、すなわち時間と場所の背景的説明、主人公の人物像、
因果関係、物語性などは省略されている。しかも、作品の内容は有り触れた日常的な場面
が多い。身辺雑記から成る空白の多いその作品は日常のスケッチに近いことが分かった。
次に、芥川賞受賞作「蛇を踏む」の文体を検証した結果、文体のレベルでも意味的な空
白をもたらす工夫がなされていることが分かった。具体的に、「~ように」「~ような」「~
みたい」「~かもしれない」「この」「その」「あの」「何か」「誰か」が多用されていること
が判明した。その結果、何も断言しないぼかしがかかったような曖昧な文章が現れる。そ
こで、その文章をどんなに精読しても、作者の意図らしきものを確定できないわけである。
従って、曖昧な文体と物語の空白が相俟って、解釈の範囲が無限に広がる。
「蛇を踏む」を対象にした先行研究を検証した結果、その研究の論拠が原文の曖昧な箇
所を拠り所にしていることが分かった。そして、論考は物語の空白を埋める形で進められ
ている。原稿が曖昧であるので、その論考が間違っているとは言えないが、確実な論拠に
基づいているとも言えない。
このように、川上作品の解釈の混乱を引き起こす原因が二つあることが分かった。
一つは、リアリティ水準の錯乱という手法によるジャンル分類の困難さである。ジャン
ルがはっきりしていないので、作品の内容分析に入る前の段階では既に解釈の方向が分か
れる。

72
終章

もう一つの原因は、物語の空白と曖昧な文体である。物語の空白によって解釈の範囲が
非常に広くなるわけである。そして、一つの作品だけを分析するならば、様々な読み方が
可能になるが、その根拠が常に疑わしいわけである。
解釈を困難にする要因を明らかにした上で、次に、矛盾のない一貫した解釈方針を提案
した。
まず、川上作品のジャンル分類を巡る諸問題を検討した。
その過程ではファンタジーと幻想文学の定義を行った。次に、川上弘美が用いるリアリ
ティ水準の錯乱の手法を日本幻想小説家の手法と比較してみた。比較は網羅的ではなかっ
たが、それでもそれぞれの時代の幻想作家と比較できた。
具体的には、幸田露伴の『風流仏』『対髑髏』、泉鏡花の『化鳥』『高野聖』、夏目漱石の
『夢十夜』『我輩は猫である』、島崎藤村の『家畜』、横光利一の『蠅』、内田百閒の「件」
と「蜥蜴」、尾崎翠の『第七官界彷徨』、川端康成の「片腕」、澁澤龍彦の「撲滅の賦」「エ
ピクロスの肋骨」「犬狼都市」、笙野頼子の「タイムスリップ・コンビナート」「シビレル夢
ノ水」
「百年回忌」、小川洋子の『ブラフマンの埋葬』と『密やかな結晶』、と比較を行った。
比較の結果、特に現代小説の中で、川上作品と非常に似ている小説があることが分かっ
た。上で取上げた作品の中で、川端康成の「片腕」が川上作品に最も近い手法で書かれて
いることが判明した。
もう一つの結論は、川上が使う幻想小説のテクニックは独創的ではないが、作品におけ
る幻想と現実の度合いはユニークである。類似性が高い作品の中で、笙野頼子の作品は川
上作品より幻想の度合いが高くて、小川洋子はその度合いが低いことが分かった。また、
その度合いがリアリティ水準の錯乱という効果に影響を与えることが分かった。
次に、ジャンル分類の可能性を検討した結果、川上作品はロー・ファンタジー、すなわ
ち現実世界を舞台にするファンタジーのサブジャンルに分類できることが明らかになった。
続いて、川上文学がマジックリアリズムである可能性を検証した。
マジックリアリズムは広い領域で用いられる曖昧な用語であるが、その用語が使われる
文脈を整理して、主に二つの用途を抽出した。
一つは、ラテンアメリカと旧植民地の文学を論じる場合である。その時はマジックリア
リズムが文学作品に反映される、共同体と共同体の間に生じる世界像の齟齬を意味する。
その意味では、日本小説家の中で、沖縄を舞台に作品を書く目取真俊と池上永一がマジッ
クリアリズムの作家であることが言える。
しかし、川上弘美は東京生まれで東京育ちで、特殊な共同体のストーリー・テラーでも
ないので、マジックリアリズムの作家では有り得ない。
ところが、マジックリアリズムのもう一つの用途は、ラテンアメリカと旧植民地の文学
に関係ない。第二の意味では、マジックリアリズムは手法という意味で用いられている。
その手法の特徴は、現実的な作品の中で、合理的な説明なしに超自然的な内容が導入され
ていることである。
その意味では、川上弘美の作品もマジックリアリズムだと言える。

73
終章

つまり、川上作品はロー・ファンタジーと広義でいうマジックリアリズムに分類できる
ことが明確になった。
前に川上弘美の作品が日常スケッチを思わせるところがあると指摘した。物語の空白が
多い上に、身辺雑記を中心に有り触れたテーマが扱われることが多い。にも関わらず、川
上作品が高い評価を受けている。
その逆説的な状況を説明するためには、異化という観点から川上作品を検討した。本稿
では、異化をヴィクトル・シクロフスキーのいう意味で使う。
川上の近年の代表作『真鶴』を分析の対象として選んで、まず文体のレベルで異化を検
証した。その結果、異化の事例は驚くほどたくさん見付かった。
川上弘美は表記、句読点、語彙、文節、文などのレベレで異化を用いることが明らかに
なった。また、初めて見たもののように描く手法、謎々の手法も川上が使う。
その他に、登場人物の呼び方と表記にも異化が見られる。最後に、分析の資料として使
った『真鶴』は、散文ではあるが、言語、内容の両面において詩的であることが判明した。
続いて、リアリティ水準の錯乱も異化として検討してみた。その際には、モチーフが類
似している「神様」と「星の光は昔の光」を比較した。その二つの作品は文体のレベルで
は異化が見られるが、
「星の光は昔の光」にはリアリティ水準の錯乱による異化がない。
「神
様」が高い評価を受けているのに、
「星の光は昔の光」が評価されないことを考慮に入れて、
リアリティ水準の錯乱が評価に影響を与えることを推定した。後ほど、芥川賞候補作「婆」
と受賞作「蛇を踏む」の評価を比べて、リアリティ水準の錯乱が評価を左右する要因だと
確定した。
このように、内容の面で劣っている川上作品が評価されている理由は異化の多用にある
ことが実証された。ただし、内容の面で劣っているというのは、物語の空白が多いことと、
有り触れた題材が扱われているということである。異化によって読者の注意が喚起され、
作品に新たな意味が与えられるので、結果として内容が劣っているとは言えない。
続いて、川上弘美は一般的に 1994 年にデビューしたとされているが、新しい資料を発見
して、川上弘美は 1976 年にデビューしたことを証明した。川上弘美の学生時代に当たる
1976 年~80 年の間に、10 編ほどの小説を SF 雑誌に発表していることが分かった。その
中で 5 編を入手できたので、付属資料として添付した。
学生時代の作品とその背景を調べた結果、いくつかの重要な結論が出た。
まず、1994 年にパスカル賞と 1996 年に芥川賞を受賞した川上弘美は素人でも新人でも
なかったことが判明した。また、川上弘美は自らから素人説を打ち出して、自分の過去に
関する情報を操っていることが明らかになった。
次に、川上弘美は SF 文学の愛読者であった。在学中に SF 研究会の部長にもなっていた
し、3 年くらい SF 雑誌『季刊 NW-SF』の編集者でもあった。先行研究では川上弘美は頻
繁に泉鏡花、内田百閒などの日本作家と比べられるが、SF 作家と比べられることがなかっ
た。それは SF 文学が日本国内では学術的にまだ盛んに研究されていないことも影響してい
るかもしれない。

74
終章

しかし、若い川上弘美は文章修業をしていた時期に、泉鏡花、内田百閒ではなく、J・G・
バラード、ル=グウィン、ロバート・ヤング、フィリップ・ディックなどの SF ニュー・ウ
ェーブ作家を愛読していたことが言える。また、イタロ・カルヴィーノ、ケイト・ウィル
ヘルム、ガルシア・マルケス、ルイス・ボルヘス、現代アメリカ、フランス、イギリス文
学の影響、すなわち同時代の海外文学の影響を強く受けていたことが分かる。
もちろん、近年の川上作品には日本作家の影響もあるかもしれない。しかし、世界観が
形成する青春時代には川上弘美が海外の SF 小説を愛読していたことは、川上作風に最も強
い影響を与えたことが言えるのではないだろうか。
要するに、今後の川上弘美研究では、SF 文学の視点を導入する必要があることが分かっ
た。
続いて、学生時代の作品には最近の作品に通ずる特徴があることも明らかになった。す
なわち、表記、句読点、ひらがな・かたかな、名前による異化である。ただし、川上弘美
はこの時期に試行錯誤を繰り返していたので、独自の作風を獲得するに到っていなかった。
また、今の文体の一つの特徴である古風な言い回し、擬態語の多用などは学生時代の作品
にはまだ見られない。近年の作品で欠かせない食事の場面も見られない。また、この時期
の作品にはリアリティ水準の錯乱がまだ用いられていないことも分かった。
次に、再デビューをした 1994 年頃の作品におけるリアリティ水準の錯乱について考察し
た。そして、再デビューが成功の理由は、リアリティ水準の錯乱に基づく SF 文学の手法を
リアリズムの伝統が強い純文学の場で川上弘美が用いたことにあるのではないだろうか。
最後に、2000 年以降の作風の転換について検討した。川上弘美は 2000 年頃から現実的
な長編小説を書くようになった。川上弘美がリアリティ水準の錯乱に基づく手法を使わな
くなった理由は主に二つあると考えられる。
一つは、説明なしに超自然的な事柄を導入する手法は、物語の論理を破綻させるので、
筋が重視される長編には向いていない。
もう一つは、超自然的な挿話が削除されてから、『センセイの鞄』の大成功である。
ところが、最近の代表作『真鶴』では、超自然的な事柄を導入する手法が再び採用され
ている。それは『真鶴』の詩的な性質が理由であると考えられる。『真鶴』は物語性が薄い
ので、超自然的な事柄が物語の展開に悪影響を与えない。それどころか、超自然的な事柄
は異化として読者の注意を喚起して、物語性の薄い『真鶴』を支えていることが言える。
本研究には、従来の研究になかった視点がいくつかある。
従来の研究では、作品の分析が行われているが、分析に先立つ基本的な問題が解明され
ていない。例えば、解釈の混乱についての指摘があったが、その原因が検討されていなか
った。
それに対して本研究では、基本的な問題が中心に扱われている。
次に、従来の研究では、
「ズレ」「普通」「リアリティ」「プレモダン」「メルヘン」などの
曖昧な用語が定義されずに論考の出発点になっていることが多い。そこで、例えば、川上
作品は、リアリティ感覚がズレているという指摘があったが、リアリティ感覚とは何か、

75
終章

川上作品のリアリティ感覚がどういう点でズレているかは説明されていなかった。つまり、
問題は指摘されていたが、解明されていなかった。
それに対して本研究では、当たり前のように使われている「現実」「超自然」「リアリズ
ム」「ファンタジー」などの用語の歴史的な背景から調べることを始めた。その結果、川上
作品のリアリティ感覚がどういう点でズレているかを説明できた。
最後に、従来の研究では、1994 年以前の作品は完全に視野に入っていなかったが、本研
究では、1994 年以前の作品を調査して、重要な結果を得た。
このように、本論文は川上研究に次のように貢献すると言える。
・ 川上作品の翻訳状況が調査された。
・ 作品の解釈を困難にする要因が解明された。
・ 作品のジャンル分類が行われた。
・ 解釈の枠組として、異化という考え方が提案された。
・ 作風転換の理由が説明された。
・ 川上研究で初めて学生時代の作品が検証された。
・ SF 文学との比較の必要性が証明された。

第2節 今後の課題

本研究の課題の一つは今後の研究のために解釈の枠組を提案することであった。そこで、
枠組を巡る論考が中心になって、その枠組を用いて作品の分析を十分に行うことが出来な
った。今後の研究では、ここで取上げられなかった作品の分析を行いたい。
また、SF 文学の視点を導入して川上手法を SF 作家の手法と比較する必要がある。
次に、日本における SF 文学と純文学の関係を検討した上で、川上弘美が SF 文学から出
発したのに、なぜ自分を純文学作家として位置付けようとしているかを考察したい。
本論文では、性、食、フェミニズムに触れることができなったが、川上作品に頻出する
テーマなので、今後の研究で詳しく検討する。
最後に、海外でも川上弘美の知名度が年々上がっていくので、海外での受容の仕方を調
査する必要がある。

76
参考文献

主要な参考文献一覧

刊本

1. 一柳廣孝 編『ナイトメア叢書 2 幻想文学、近代の魔界へ』青弓社、2006 年 5 月。


2. 岩淵宏子/長谷川啓 編『ジェンダーで読む 愛・性・家族』東京堂出版、2006 年 10
月。
3. 生島遼一『リアリズムと散文の問題』世界文学社、1945 年 5 月。
4. 石堂藍『ファンタジー・ブックガイド』国書刊行会、2003 年 12 月。
5. 海野弘『ファンタジー文学案内』ポプラ社、2008 年 12 月。
6. 小川劯『世界像・人間像の変遷』彩流社、2003 年 4 月。
7. 大塚英志『サブカルチャー文学論』朝日新聞社、2004 年 2 月。
8. 川上弘美『大好きな本 川上弘美[書評集]』朝日新聞社、2007 年 9 月。
9. 桑野隆、大石雅彦 編『ロシア・アヴァンギャルド 6 フォルマリズム―詩的言語論』
国書刊行会、1988 年 6 月。
10. 桑野隆『ソ連言語理論小史』三一書房、1979 年 5 月。
11. 小谷真理『ファンタジーの冒険』筑摩書房、1998 年 9 月。
12. 佐藤千登勢『シクロフスキイ 規範の破壊者』南雲堂フェニックス、2006 年 7 月。
13. 須永朝彦『日本幻想文学史』平凡社、2007 年 9 月。
14. 杉山洋子『ファンタジーの系譜』中教出版、1979 年 6 月。
15. 菅聡子 編『女性作家《現在》』[国文学解釈と鑑賞]別冊、至文堂、2004 年 3 月。
16. 千石英世『異性文学論 : 愛があるのに』ミネルヴァ書房、2004 年 8 月。
17. 高林則明『魔術的リアリズムの淵源』人文書院、1997 年 4 月。
18. 田中実 編『「読むことの倫理」をめぐって』右文書院、2003 年 2 月。
19. 十川信介『近代日本文学案内』岩波書店、2008 年 4 月。
20. 土田知則、青柳悦子『文学理論のプラクティス : 物語・アイデンティティ・越境』新
曜社、2001 年 5 月。
21. 中野節子『ファンタジーの生れるまで』JULA、2009 年 4 月。
22. 延広真治(校注)『落語怪談咄集』岩波書店、2006 年 3 月。
23. 原善 編『<現代女性作家読本①>川上弘美』鼎書房、2005 年 11 月。
24. 丸山二郎『標柱訓読 古事記』吉川弘文館、1965 年 11 月。
25. 水野忠夫 編『ロシア・フォルマリズム文学論集. 1』せりか書房、1984 年 6 月。
26. 水野忠夫 編『ロシア・フォルマリズム文学論集. 2』せりか書房、1982 年 11 月。
27. 村松定孝 編『幻想文学 伝統と近代』双文社、1989 年 5 月。
28. 文部省編『学制百年史(記述編、資料編共)』帝国地方行政学会、1972 年 10 月。
29. 『オックスフォード世界児童文学百科』原書房、1999 年 2 月。
30. 『コロンビア大学現代文学・文化批評用語辞典』松柏社、1998 年 3 月。

77
参考文献

31. 『ホメロス イーリアス オデュッセア』(世界文学全集第一巻)河出書房、1969 年。


32. 『児童文学事典』日本児童文学学会、1988 年 4 月。
33. 『集英社世界文学事典』集英社、2002 年 2 月。
34. 『哲学事典』平凡社、1971 年 4 月。
35. 『明治文学全集 43』筑摩書房、1967 年 11 月。
36. ASAHI ネット 編『パスカルへの道 第1回パスカル短篇文学新人賞』中央公論社、1994
年 10 月。
37. E・アウエルバッハ(著)、篠田一士(訳)『ミメーシス : ヨーロッパ文学における現
実描写』筑摩書房、 1967 年 3 月。
38. カトリン・アマン『歪む身体 現代女性作家の変身譚』専修大学出版局、2000 年 4 月。
39. ジェイムス・L・キューゲル(著)、荒木亨(訳)
『象徴詩と変化の手法』東海大学出版
会、1981 年 6 月。
40. ジャック・サドゥール『現代 SF の歴史』早川書房、1984 年 12 月。
41. ツヴェタン・トドロフ (著)、渡辺明正(訳)『幻想文学 : 構造と機能』朝日出版社、
1975 年 2 月。
42. ディルタイ(著)、久野昭(監訳)『世界観学』以文社、1989 年 11 月。
43. トーマス・クーン(著)、中山茂(訳)『科学革命の構造』みすず書房、1971 年 3 月。
44. ハイデガー(著)、桑木務(訳)『世界像の時代』理想社、1962 年 1 月。
45. ブライアン・アトベリー(著)、谷本誠剛(訳)
『ファンタジー文学入門』大修館書店、
1993 年 3 月。
46. ホワイト(著)、森島恒雄(訳)『科学と宗教との闘争』岩波新書、1985 年 9 月
47. ミシェル・オクチュリエ(著)、桑野隆(訳)
『ロシア・フォルマリズム』白水社、1996
年 2 月。
48. Alan Nelson "A companion to Rationalism", Blackwell Publishing, 2005.
49. Anne C. Hegerfeldt "Lies that Tell the Truth: Magic Realism Seen through
Contemporary Fiction from Britain", Rodopi, 2005.
50. Brenda Cooper "Magical Realism in West African Fiction", Routledge, 1998.
51. Lois Parkinson Zamora, Wendy B. Faris "Magical Realism: Theory, History,
Community", Duke University Press, 1995.
52. Maggie Ann Bowers "Magic(al) Realism", Routledge, 2004.
53. Stephen M.Hart "A companion to Magical Realism", Tamesis, 2005.
54. Steven Shapin "The scientific revolution", The University of Chicago, 1996.
55. Susan J. Napier "The Fantastic in Modern Japanese Literature", Routledge, 1996.
56. William Spindler "Magic Realism: A Typology," Modern Language Studies, 29 No. 1.
57. Villanueva, Darío "Theories of Literary Realism", State University of New York
Press, 1997.
58. Виктор Шкловский "О теории прозы", Москва, "Советский писатель", 1983.

78
参考文献

雑誌

59. 『ユリイカ』
(総特集 川上弘美読本)9 月臨時増刊号、第 35 巻、第 13 号、2003 年 9
月。
60. 『文芸』秋季号(特集:川上弘美)
、河出書房新社、2003 年 7 月。
61. 『文学界』(特集:川上弘美の文学)
、2003 年 10 月。
62. 『季刊 NW-SF』第 15 号、NW-SF 社、1980 年 2 月。
63. 『季刊 NW-SF』第 16 号、NW-SF 社、1980 年 9 月。
64. 『COSMOS』第 5 号、第 8 号、第 12 号、第 14 号、お茶の水大学 SF 研究会同人雑誌。

川上弘美作品

本論文では川上弘美の作品を引用する際に、特記がない限り、下記の書籍を取り扱う。

65. 『物語が、始まる』中央公論社、1996 年 8 月。
66. 『蛇を踏む』文藝春秋、1996 年 9 月。
67. 『神様』中央公論社、1998 年 9 月。
68. 『溺レる』文藝春秋、1999 年 8 月。
69. 『センセイの鞄』平凡社、2001 年 6 月。
70. 『パレード』平凡社、2002 年 5 月。
71. 『龍宮』文藝春秋、2002 年 6 月。
72. 『光ってみえるもの、あれは』中央公論社、2003 年 9 月。
73. 『古道具 中野商店』新潮社、2005 年 4 月。
74. 『真鶴』文藝春秋、2006 年 10 月。

79
付録 

付属資料一覧

付録 1 川上弘美の国別海外翻訳本リスト 81

付録 2 『真鶴』(文藝春秋、2006 年 11 月)の冒頭部分 83

付録 3 小川項「ささやかなる体験記」『COSMOS』第 5 号、1976 年 11 月。 85

付録 4 小川項「ここに、いつまでも、此所に」『COSMOS』第 8 号、1978 年 4 月。 88

付録 5 小川項「人魚記」『COSMOS』第 12 号、1979 年 11 月。 93

付録 6 小川項「累累」『季刊 NW-SF』第 15 号、1980 年 2 月。 98

付録 7 山田弘美「双翅目」『季刊 NW-SF』(女性 SF 特集)第 16 号、1980 年 9 月。 105

80 
 
付録 

付録 1 川上弘美の国別海外翻訳本リスト (国順は翻訳本数による)
筆者作成、2011 年 1 月現在

韓国
・『神様』◇어느 멋진 하루, 가와카미 히로미(지은이), 류리수 (옮긴이) | 살림 | 2009 년 8 월
・『古道具 中野商店』◇나카노네 고만물상 (보급판 문고본), 가와카미 히로미 (지은이), 오유리 (옮긴이) | 은행나무
| 2008 년 5 월
・『溺レる』◇빠지다, 가와카미 히로미 (지은이), 오유리 (옮긴이) | 두드림 | 2007 년 1 월
・『いとしい』◇사랑스러워, 가와카미 히로미 (지은이), 권남희 (옮긴이) | 두드림 | 2007 년 1 월
・『Teen Age』(アンソロジー、双葉社)◇틴에이지, 가와카미 히로미, 가쿠타 미쓰요, 노나카 도모소, 세오
마이코, 시마모토 리오, 야즈키 미치코, 후지노 지야 (지은이), 신유희 (옮긴이) | 해냄 | 2006 년 7 월
・『古道具 中野商店』◇나카노네 고만물상, 가와카미 히로미 (지은이), 오유리 (옮긴이) | 은행나무 | 2006 년 4 월
・『光ってみえるもの、あれは』◇빛나 보이는 것, 그것은, 가와카미 히로미 (지은이), 이규원 (옮긴이) |
청어람미디어 | 2005 년 8 월
・『ニシノユキヒコの恋と冒険』◇니시노 유키히코의 연애와 모험, 가와카미 히로미 (지은이), 오근영 (옮긴이) |
청어람미디어 | 2004 년 5 월
・『蛇を踏む』◇뱀을 밟다, 가와카미 히로미 (지은이), 서은혜 (옮긴이) | 청어람미디어 | 2003 년 9 월
・『センセイの鞄』◇선생님의 가방, 가와카미 히로미 (지은이), 서은혜 (옮긴이) | 청어람미디어 | 2003 년 3 월

台湾
・『龍宮』◇龍宮, 川上弘美(著), 王蘊潔(譯者), 尖端出版, 2009.03.
・『古道具 中野商店』◇二手雜貨店之戀, 川上弘美(著), 王蘊潔(譯者), 尖端出版, 2008.04.
・『センセイの鞄』◇老師的提包(麥七版), 川上弘美(著), 張秋明(譯者), 麥田出版 , 2007.04.
・『光ってみえるもの、あれは』◇微微發光體, 川上弘美(著), 紀智偉(譯者), 麥田出版 , 2007.03.
・『ニシノユキヒコの恋と冒険』◇西野的戀愛與冒險, 川上弘美(著), 章蓓蕾(譯者), 川上弘美作品集, 麥田出版,
2006.04.
・『Teen Age』(アンソロジー、双葉社)◇Teen Age 青春, 川上弘美等, 劉子倩(譯者), 方智, 2006.01.
・『いとしい』◇愛憐, 川上弘美(著), 張秋明(譯者), 麥田出版, 2004.04.
・『センセイの鞄』◇老師的提包, 川上弘美(著), 張秋明(譯者), 麥田出版, 2003.11.
・『蛇を踏む』◇踏蛇, 川上弘美譯(著), 蘇惠齡(譯者), 麥田出版, 2003.08.
・『溺レる』◇溺, 川上弘美(著), 章蓓蕾(譯者), 麥田出版, 2003.01.
・『センセイの鞄』◇老師的提包, 川尚弘美(著), 張秋明(譯者), 川上弘美作品集, 麥田出版, 2002.08.

フランス
・『真鶴』◇Kawakami Hiromi, "Manazuru", Elisabeth Suetsugu (Traduction), Philippe Picquier (Editeur),
2009.09.
・「月火水木金土日」(「ku:nel(クウネル)」第 18 号)◇Kawakami Hiromi, "Lu Ma Me Je Ve Sa Di, dans la
revue meet n°11 - Tokyo / Luanda", Elisabeth Suetsugu (Traduction), 2007.
・『古道具 中野商店』◇Kawakami Hiromi, "La brocante Nakano", Elisabeth Suetsugu (Traduction), Philippe
Picquier (Editeur), 2007.02.
・『光ってみえるもの、あれは』◇Kawakami Hiromi, "Cette lumière qui vient de la mer", Elisabeth Suetsugu
(Traduction), Philippe Picquier (Editeur), 2008.04.
・『溺レる』◇Kawakami Hiromi, "Abandons", Sophie Reflé (Traduction), 2003.06.
・『センセイの鞄』◇Kawakami Hiromi, "Les Années douces", Elisabeth Suetsugu (Traduction), Philippe
Picquier (Editeur), 2003.03.

中国
・『いとしい』◇爱怜纪, 川上弘美(著), 杨建琴(译), 南海出版社, 2008.04.

81 
 
付録 

・『センセイの鞄』◇老师的提包, 川上弘美(著), 施小炜,张乐风(译), 南海出版社, 2006.11.


・『溺レる』◇沉溺, 川上弘美(著), 吴之桐,王建新(译), 中国文联出版公司, 2001.9.

ドイツ
・『真鶴』◇Hiromi Kawakami, "Am Meer ist es wärmer: Eine Liebesgeschichte", Ursula Gräfe, Kimiko
Nakayama-Ziegler(Übersetzung), Hanser, 2010.7.
・『古道具 中野商店』◇Hiromi Kawakami, "Herr Nakano und die Frauen", Ursula Gräfe, Kimiko Nakayama-
Ziegler(Übersetzung), Hanser Belletristik, 2009.1.
・『センセイの鞄』◇Hiromi Kawakami, "Der Himmel ist blau, die Erde ist weiß. Eine Liebesgeschichte",
Ursula Gräfe, Kimiko Nakayama-Ziegler(Übersetzung), Hanser, 2008.1.

スペイン
・『光ってみえるもの、あれは』◇Hiromi Kawakami, ” ALLO QUE BRILLA COM EL MAR”, Marina Bornas
Montaña (Traductora), Acantilado, 2009.
・『センセイの鞄』◇Hiromi Kawakami, ”El cielo es azul, la tierra blanca”, Marina Bornas Montaña
(Traductora), Quaderns crema, 2010.

イタリア
・『センセイの鞄』◇Kawakami Hiromi, " La borsa del professore ", Pastore A. (Traduttore), Einaudi, 2011.
・『溺レる』◇Kawakami Hiromi " Sex & Sushi. Racconti erotici dal Giappone" (アンソロジー), Mondadori,
2001.

アメリカ
・『真鶴』◇Hiromi Kawakami, "Manazuru", Michael Emmerich (translation), Counterpoint LLC, 2010.09.
・「神様」◇Hiromi Kawakami, "God"//Michael Emmerich (translation) "Read Real Japanese Fiction", 講談社
インターナショナル, 2008.02.
・「鼹鼠 うごろもち」◇Hiromi Kawakami, "Mogera Wogura", Michael Emmerich (translation), The Paris
Review #173, 2005.
・「荒神」◇Hiromi Kawakami, "The Kitchen God", Lawrence Rogers (translation), ZYZZYVA #71, 2004.

ポーランド
・『蛇を踏む』◇Hiromi Kawakami, "Nadepnęłam na węża", Barbara Słomka (Tłumaczenie), Karakter, 2010.

ロシア
・「春立つ」◇Хироми Каваками. Приход весны: Рассказ /Пер. с яп. К.Резник //Иностр. лит. - 2006. - N2. -
С.132-140.
・「龍宮」◇Хироми Каваками. Дворец морского царя (переводчик: Виктор Мазурик) Рассказ//"Теория
катастроф. Современная японская проза", Иностранка, 2003 г., 2003г., c. 336-357.
・「神様」◇Хироми Каваками. Медвежий бог (переводчик: Галина Дуткина) Новелла//"Она ",
Иностранка, 2003 г., c. 505-526.

ウクライナ
・「神様」◇Кавакамі Хіромі. Бог (перекладач: О. Копил) 2008р., http://www.yaku.su/kamisama.pdf

82 
 
付録 

付録 2 『真鶴』(文藝春秋、2006 年 11 月)の冒頭部分

83 
 
付録 

84 
 
付録 

付録 3 小川項「ささやかなる体験記」『COSMOS』第 5 号、1976 年 11 月。

※ 小川項は川上弘美のペンネーム。
※ 手書きの活字化は筆者による。
※「○」は判読不可能な箇所。

人間は、自分の目で見たものしか信じないのだろうか?その事柄にもよるだろう。円盤をみた。幽霊を見た。など
という人間は、割合にこの世の中に多いので、中には信じる人もいるに違いない。ところが、例えば、ミミズが空を
飛んだ。ゴリブリがテレパシーで話しかけてきた、などという話があったとしても、まず誰も信じはしない。それは
当然で、ミミズには生物学的にいっても、飛行できる機能はないし、ゴリブリにだってテレパシーなどというものな
どあるわけがない。しかし…本当にそう言いきってしまって良いのだろうか?もしかしたら、ミミズには隠れたる飛
行機能があるかもしれないし、ゴキブリだって、よくよく考えてみれば、見るからにテレパシーを持っていそうでは
ないか。
以下に記すのは、今までに私がたまたま目撃した少々奇妙な事柄である。非常に突飛な、というほどの事でもない
が、人に話したら、ふざけているのだろうと笑われるような事柄である。しかし、これらは、事実であり、笑った
人々はすぐに忘れてしまったろうが、私の記憶の中には長い間とどまっているのである。

円盤について
幼稚園の頃である。アメリカはカリフォルニア州の片田舎に居た。附属の小学校と共通の校庭をもつその幼稚のお
昼休み。庭には沢山の子供たちが遊んでいた。きれいに晴れた空の下、賑やかに声が飛びかう。ところが、突然その
オクターが高い声の数々がぴったりとまり、あたりはぼそぼそとつぶやく声だけになった。みんな空をみつめている。
私も、何がなんだかよくわからないままに、ぼんやりと空を見上げた。すると、そこには銀色に光る円盤状の飛行物
体が音しなく飛んでいるのだった。メタリックに輝くその物体は、約 3 分で私達の視界から消えてしまったが、飛び
去った後も、みんなは、痛いほど晴れた空をじっとみつめていた。
それからしばらくして、張りつめた沈黙が去ると、あたりは急に騒がしくなり、みんなはどんなに色々なことを言
い合っていたか?10 分もたつと、それも静まり、校庭はまたもとのように意味もなくざわめいた雰囲気にもどってい
った。

虫は色々
☆テレパシーな蛾について
これは私の話ではなく、友人 S の話である。蛾、蝶の類の大嫌いな S が、ある日下宿の掃除をしていると、突然パ
ッと飛びたったものがあった。一匹の茶色くすすけた蛾が、なにもない空間から突然あらわれた様は、彼女を少なか
らず○くりとさせたが、それでも彼女はほうきをふりかざし、蛾をおいかけはじめた。ドタバタやったあげく、つい
に部屋の隅においつめた。本来サディスティックなところの多分にある S は、目を輝かせて、ほうきをふりおろした。
ほうきの先には、つぶれた蛾がついているはずであった。しかし、いくら見ても、ほうきには鱗粉一つついていない、
おかしい、と思いながらも、また再びその蛾を隅においつめた。こんどこそ、と思ってほうきを振る。確かに手ごた
えがあった。ところが、またもや蛾はいない。逆上した S は、前よりも○いに蛾をおいかけはじめた。いよいよ三度
めの正直、こんどこそ失敗は許されない。○○しと打ちおろされたほうきは、しかし途中で止まってしまった。なん
と、蛾が消えたのである。それほどすばやくもない、よろめくような蛾は、忽然としてそこの空間からいなくなった。
おもわず S は、あたりをみまわした。すると、2 メートルも離れたふすまの框のところに羽根を開いたり閉じたりし
ながら、蛾はとまっていた。S はゾッとした。なんだあれほど飛んだのか?まさかテレパートでもあるまいし?!
それでも気をとりなおして、S は再び蛾にいどんだ。眼を○っと見開いて、ほうきをふりまわす。しかし、何分か
奮闘した後、ついに S は疲れて坐りこんでしまった。蛾は、あざ笑うように静かに天井にとまっている。うそうそと
寒い夕暮れ。気がついてみると、もうあたりはまっくらになっていた。ああ、今夜のおかずは何にしようか、とふと
考えて、S は少し陀びしくなった。逃がしてやってもいいな、あの蛾、と思って天井を見上げるとそこにはもう何の
影もなかった。いやに広く見える六畳の下宿のまん中に、それから S はしばらくじっと坐っていた。窓の外には、光
にさそわれて何匹かの蛾が集まってきたが、その中には、あの茶色い蛾の姿は見えなかった。
☆深夜の蟻について

85 
 
付録 

午前 2 時の時報が鳴った。ラジオでは DJ が愉快そうに何かを話している。でも私は眠くてしかたがなかった。コ
ーヒーは嫌いだしラジオ体操でもしようかと思ったが、力が抜けてしまって、そんなことをする気がしない。○○○
○○○○れこんで、目をつぶそうとした。すると、なにか黒いものがもそもそと動いている。昆虫らしい。3 センチ
くらいある大きな昆虫だ。しっかりしめきってある上に、3 階という高さでもあるので、それ○○蚊やハエが時折と
びこむことはあっても、カナブン以上の大きさの虫など見たこともなかった私の部屋で、突然にそんな巨大な虫をみ
つけて、私はとまどった。種類はなんだろう?コガネムシの類かな?目の悪い私は、顔をくっつけるようにしてのぞ
きこんだ。すると、なんとそれは蟻であった。3 センチもある大きな蟻であった。えっ、そんな大きい蟻っまさか、
まちがいだろう。きっとねぼけているんだ。見なおそうと思って、また目を近づけると、その昆虫はベッドと壁の隙
間にもぐり込んでしまった。
すっかり目のさめた私は、その昆虫をさがしはじめた。這い○くばってベッドの下をさぐると、案の定昆虫は走り
でてきた。やはり蟻であった。キチン質でおおわれた堅そうな蟻。そういえば、そんな SF がどこかにあったな。大
きな蟻が出てくる SF、ついこの間読んだばかりだけれど、誰か書いたのだったかな?などと考えているうちに、突
然ハッと気がついた。それは宇宙からの侵略者かもしれない。だいたい、大きな虫のはいりこんでくるのが不可能な
私の部屋に、この異常な大きさの蟻。そうだ、これは異星人の侵略に間違いない。午後二時という時刻は、少々私を
狂わせてきたらしい。私は、もし万一○でもつけたら大きな戦争に発展すると真剣に思い、そっと蟻をつまりあげた。
つまみあげたものの、どうしたらよかろう。びんに入れれば人質問題がおこるだろうし、つぶした○○したら大変な
ことになる。結局迷った末、外にはなすことにした。私の手にはおえないことだ。きっと誰かがうまく始末をつけて
くれるだろう、とそろそろ眠くなってまた目をこすりながら無責任に思った。翌朝、窓の外を見てみたが、もちろん
蟻はすでにいなくなっていた。家族に話したら、夢だろうと言われた。友人に話したら、笑いとばされた。でも、も
しかしたらあれは本当に異星人だったのかもしれない。誰かが知らずに踏みつぶして、ある日突然円盤の群れがせめ
てきたとしても、私の責任ではない。
☆泳ぐバッターについて
お昼休み、なんとなく暇を○○○○○○○○○○、温室に行って花でも見てこようと思った。かげろうがたってい
る小道をぽくぽくと歩いていった。茄子の苗がうえてある小さな畑を通り過ぎ、小さな池の前を通りすぎ、小さな小
屋をとおりすぎると、小さな温室があった。バラの花などが植えてある。
ひとまわりして非常に良い心持ちになった。かえりに池のところにしゃがんだ。なにか泳いでいる。水面を泳いで
いるようなので、ゲンゴロウやヤゴではあるまい。アメンボであろうか、目を近づけると、そいつはぴょんと飛んで
私の首筋にへばりついた。ぱっとつかまえるとバッタだった。のどかなことだ。バッタが泳ぐなんで・・となにげな
くつぶやいて、そのとたんギョッとした。バッタは泳ぐものだったのか?!驚いて、また池のなかほどにはなすと、ス
イスイと平泳ぎ調の泳ぎ方をはじめた。あくまでも、バッタバッタともがくのでなく、スーイスーイと優雅に泳ぐの
である。水面をすべるように、なめらかに、しばらくじっと見ていたが、また手でつかまえてよく観察した。ごく平
凡な茶色いバッタである。少し油断しているうちに、するりと抜け出してピョンと飛んでいってしまった。少し惜し
い気もしたが、授業がはじまるので、立ちあがった。ふりかえりふりかえり立ち去った。

86 
 
付録 

87 
 
付録 

付録 4 小川項「ここに、いつまでも、此所に」『COSMOS』第 8 号、1978 年 4 月。

88 
 
付録 

89 
 
付録 

90 
 
付録 

91 
 
付録 

92 
 
付録 

付録 5 小川項「人魚記」『COSMOS』第 12 号、1979 年 11 月。

93 
 
付録 

94 
 
付録 

95 
 
付録 

96 
 
付録 

97 
 
付録 

付録 6 小川項「累累」『季刊 NW-SF』第 15 号、1980 年 2 月。

98 
 
付録 

99 
 
付録 

100 
 
付録 

101 
 
付録 

102 
 
付録 

103 
 
付録 

104 
 
付録 

付録 7 山田弘美「双翅目」『季刊 NW-SF』(女性 SF 特集)第 16 号、1980 年 9 月。

105 
 
付録 

106 
 
付録 

107 
 
付録 

108 
 
付録 

109 
 

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