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藤尾健剛著  しかし、それ以上に川端文学研究との距離感にこそ著者の姿勢が

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示されているように思われた。その姿勢の表明は第一章の「伊豆の
 『川端康成 無常と美』
踊子」論から始まる。「「孤児根性」からの脱却の物語と見る解釈」
を「現在の標準的な理解」とした上で、その理解に対して「「孤児
根性」からの脱却」は「幻想」、あるいは「限定的意味」しか有し
谷 口 幸 代
ないと見るのが「最近の「伊豆の踊子」論の趨勢のようだ」と、い
わば外側から研究の流れを押さえてみせる。そこから、研究史にお
 藤尾健剛氏は漱石研究を専門とし、平成二十三年に二十年来の研
究 成 果 が『 漱 石 の 近 代 日 本 』( 勉 誠 出 版 )に ま と め ら れ て い る。 そ いて「孤児根性」それ自体の捉え方に揺れがあったと指摘しつつ、
の際に「あとがき」には漱石研究の継続の意志が記されただけでな より本質的には「孤児根性」そのものではなく「孤児根性」を「脱
く、次なる研究対象として芥川龍之介や三島由紀夫とともに川端康 却」することへの理解が従来の研究では不十分だったと問題を提起
成の名が挙げられていた。その計画を実現すべく、『漱石の近代日 する。「「孤児根性」を脱却するとは、単に独善性や自閉性に傾きが
本』刊行後、漱石が目にした新聞記事の調査に従事し、その傍ら川 ちな性癖を改めることではなく、〈家族〉というものに対する認識
端論の執筆に取り組んだという(『川端康成 無常と美』 。
「あとがき」) を大きく転換すること」であり、つまりそこには「家族と非家族、
したがって、漱石研究の総括という営為と連関する形で醸成した川 血縁と非血縁を分割する発想そのものからの解放」があるというの
端文学への思いが書籍の形で実を結んだのが本書ということになろ が著者の見解である。血縁関係に拘泥していた「私」が血縁関係の
う。 ない旅芸人との間にも「家族的な関係」を結び得るという考えに至
るとし、それゆえに血縁関係に拘泥しなければ、「「孤児根性」の根
 漱石の専門家としての藤尾氏の視線は、「禽獣」の「彼」を「そ
れから」の代助と同じ享楽主義者と規定するように、本書の端々で 拠そのものが雲散霧消する」と主張するのである。
漱石文学を中心とした明治文学と川端文学の共通項を掬い上げなが  この「「孤児根性」の根拠そのものが雲散霧消する」事態とは、
ら 川 端 文 学 を 捉 え 直 そ う と す る 姿 勢 に 見 る こ と が で き る。 他 に も 語り語られる「私」の内面にとどまるものと捉えられているわけで
「雪国」の幻想性を「対髑髏」や「龍潭譚」につながるとし、「みづ はないだろう。前述のように本書は「伊豆の踊子」研究史上での「孤
うみ」の有田老人や「眠れる美女」の江口が求める女性像に「硝子 児根性」そのもの、さらに「孤児根性」を「脱却」することに対す
戸の中」に記された母の回想を重ね、「たんぽぽ」と謡曲「求塚」 る理解のあり方に疑義を呈しているからである。「脱却」が果たさ
との関連を述べる際には「草枕」の「菟原処女」伝説の受容への言 れたとするにせよ、「幻想」にすぎなかったとするにせよ、「孤児根
及がある。 性」は「伊豆の踊子」研究において作品を解く鍵とされてきた。そ
の「孤児」という境涯が「私」のなかで「欠落」ではなく「恩寵」 せもつ形での美や快楽の追求が「魔界」に入るということにほかな
だと捉え返されるのが「伊豆の踊子」だと結論することによって、 らないと検証が積み重ねられる。さらに「たんぽぽ」では人体欠視
新たな解釈の付与が企図されている。 症を「無常」への抵抗と受容に引き裂かれて「魔界」にさまよう行
為と意味づける。
 第二章以降も川端研究と一定の距離を保ちながら従来の見方を刷
 このように辿ってくると、本書は「孤児根性」
新しようとする姿勢のもと、「禽獣」「雪国」「舞姫」「千羽鶴」「山 「無常」
「美」「魔界」
の音」「みづうみ」「眠れる美女」「片腕」「たんぽぽ」が各章の考察 といずれも川端文学研究で長くキーワードとされてきた用語を敢え
の対象となる。これら初期から晩年までの代表作十作品を編年体式 て取り上げ、初期から晩年までの代表作を検討し、川端文学全体の
で取り上げ、川端文学の総体に迫るのが本書の枠組みである。 読み直しを図ろうとする試みではないかと思えてくる。とするなら
ば、最後に全章の論旨をまとめる章が置かれていた方が本書全体の
 駆け足になるが、その道筋を辿ってみると、動物を愛玩する「禽
獣」の主人公の「彼」は「〈無常〉の原則」から解放された「理想 趣旨がよりよく伝わったのではないか。というのは、終章として置
的な美の追求者」であるが、
「雪国」の島村が追求する美はその「〈無 かれているのは「「魔界」と芸術」と題された章であるからだ。そ
常〉の原則」に抗えないものであり、末尾で描かれる繭倉の火事を の内容については序章で、「本書の結論に相当するが、本論の全章
「〈無常〉の破壊力の象徴」と捉える見方が提示される。そこから戦 の内容を受けた結論」ではなく、「戦後の川端文学を特徴づける「魔
後作品の考察に入り、「美」と「無常」が今度は「魔界」と関連付 界」概念の成立背景や意義を考察したもの」と説明があり、本書全
けられる展開となる。「魔界」とは、周知のように川端作品では「舞 体の結論ではない。たとえば戦後作品の考察で時代性への言及があ
姫」に一休の言葉として初めて登場し、その後も繰返し現れること るが、では「伊豆の踊子」の考察で指摘される家族意識と時代設定
から、「孤児根性」とともに川端文学を解く鍵とされてきた。藤尾 はどう関わるのだろうか。また川端文学に底流するとされる無常観
氏は、川端文学において「魔界」に入るということは、過去に執着 についてそれへの「抵抗」に比重を置く見方や、市民の側に立つ作
し「無常」に抵抗する生き方であると、「舞姫」と「千羽鶴」の考 家としての川端像の提示の意味等も、やはり全体の流れのなかでど
察を通して定義する。それに対して「千羽鶴」と同時期の「山の音」 う位置付けられるのか知りたい読者も多いのではないかと思われた。
に関しては、過去への固執とは質的に異なる伝統の継承が実践され  (二〇一五年一〇月三〇日 翰林書房刊 二二九頁 二八〇〇円)
ているとし、「魔界」から脱する健全な市民としての尾形信吾の形
象が見出される。その後の「みづうみ」
「眠れる美女」
「片腕」では、
桃井銀平、江口老人、「私」と、各主人公の在り様の考察を通して、
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「〈無常〉の原則」への抵抗と市民社会からの逸脱という両義性を併

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