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震えるハイフン

梶原 克教

   それが物理的距離のへだたりを理由とした無頓着さゆえなのか、それともとりあえ
ずの便宜的呼称として用いられているのか定かではないが、「イギリス文学」とか「ア
イルランド文学」といった名前で呼ばれたり、場合によっては「英文学」という便利な
漢字で括られたりもする研究ジャンルがある。そうした呼び名に対する異議申立てを
おこなう気などさらさらないし、「英文学」という呼称はある意味でなるほど的を得て
いるとも思われるのだが、それでもかつて異国の地にて「アングロ-アイリッシュ」な
る研究課程に属したことのあるものは、別段それを特権化するつもりはまったくない
が、「アングロ」と「アイリッシュ」との間に横たわるハイフンが奇妙に浮き上がって見
えてしまい、呼称にまつわる居心地の悪さを払拭できないでいる。それが「アフロ-
アメリカン」であろうと「アフロ-カリビアン」であろうと、はたまた「アングロ-カリビア
ン」であろうと事態は変わらない。このハイフンのもたらす不安定さ、座りの悪さの背
後にあるものは何か。それは何よりも名づけるという行為の不安定さをきわ立たせて
いるのだろうが、「アングロ-アイリッシュ」という言葉の置かれた文脈を叙述したシェ
イマス・ディーンの言葉を借りるなら、とりわけそれが政治的・社会的背景の不安定
さと郷土愛との交錯地における名づけの不安を外示しているのだと、ととりあえず特
定することもできよう。
The very naming of the land in both literature and politics - Cathleen ni
Houlihan, Eireann, Eire, Saorstat Eireann, the Republic, the   Six
Countries, Ulster, Northern Ireland - is a symptom of that combination
of political instability and regional loyalty which has defined modern
Irish history. 1

 ハイフンのあるなしに関わらず名づけの不安はいたるところにあるだろう。しかし、名
づけるという行為―もしくは同定する行為と言い換えても良いだろうが―により、必
然的に名づけるものと名づけられるものとの間に階梯が現れ、その階梯が上述のよ
うにハイフンにより視覚化されている特定の文脈があり、そこでは同定する行為と同
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定される行為のせめぎ合いが可視化されているのではないか。かつて私は本誌上
で、アングロ-アイリッシュの現代詩人を例に取り、とりわけ国家の語りとの関係から
そ の せ め ぎ 合 い を 考 察 し て み た 。 2今 回 は そ の 北 の 地 の い つ 止 む と も 知 れ ぬ 霧 雨 を

くぐり抜け大西洋を渡り、激しいスコールの中で目を凝らし耳を澄ませてみたい。
   小アンティル諸島のひとつセント・ルシアで生まれ、大アンティル諸島中に位置
するジャマイカの大学で学び、アメリカ合衆国内の大学で教鞭を執りつつ小アンテ
ィル諸島南端のトリニダードに居を構えるという詩人・劇作家を同定するには、たっ
たひとつの単語どころかたった一本のハイフンさえも不十分であるように思えるかも
しれないが、先に触れた階梯の問題を考察するにあたっては、少なくとも一本だけ
でもハイフンが存在するということが確認できていれば良い。加えて言うと、1948年
に始まり半世紀近くに渡り書き綴られてきた作品を総じて論ずることもこの場では到
底 不 可 能 で あ る か ら に は 、 い ず れ 書 か れ る こ と に な る で あ ろ う Omeros論 の 端 緒 と な

るべく、とりあえずの所作として、ハイフンの力学一点に集中しこの詩人・劇作家に
よる初期作品を中心に考察することが望ましいのではないだろうか。というのも、名
づけられてしまったこと、書き込まれてしまったことを所与として受け止めざるを得な
い状況を前景化する―ハイフンを際立たせる―身振りは、ひとつのテーマ系として
同じくカリブ海に出自を持つ作家たちにしばしば共有されているわけで、その中で
の位置関係をマッピングすることは当面の地固めに必要な作業に思われるからだ。
それゆえ、やはり小アンティル諸島アンティグアに出自を持つアメリカ在住の作家ジ
ャメイカ・キンケイドを招聘し、名づけることと名づけられることとの間にある階梯を見
極める糸口を例示することもある意味で必然的な迂回となるだろうし、その一篇がの
ちにその初期作品を中心に論ぜられる詩人・劇作家に捧げられていることも、避け
られぬ符牒として納得されうるはずである。

*     *     *

    そ の 扉 に “ FOR DEREK WALCOTT” と 記 さ れ て い る ジ ャ メ イ カ ・ キ ン ケ イ ド の The


Autobiography of my Motherは ド ミ ニ カ を 舞 台 と し て 語 ら れ て い る 。 ア ン テ ィ グ ア 出 身

の作家として、ジャメイカ・キンケイドがその小説の舞台を西インド諸島に設けること
にはいささかの不自然さも感じられないし、どちらかというと特権的所作にも思われ

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る。しかし、だからと言ってそのこと自体必ずしも正当化できるわけでもなく、それが
観光的興味を喚起するにとどまるものであれば、かえって小説としての魅力が損な
われるだけではないかとの心配もないわけではない。キンケイドによる1990年の長
編 第 二 作 Lucyに お け る フ ェ ミ ニ ス ト ぶ り を 見 れ ば 彼 女 が な に が し の 「 政 治 的 」 意 図 を

持ちつつ創作していることは明瞭であるから、そうした心配は無用のものであろうが
本小説中で西インド諸島という地域性がはらむ問題がいかように語られているかを
ここで確認しておきたい。
   西インド諸島という地域から生み出される作品がとりあえず「クレオール文学」とい
うジャンルを与えられていることをわれわれは知っている。しかしいざ「クレオール文
学」とは何かを定義しようとするならば、あらゆる文学ジャンルの定義がそうであるよ
うに、議論は混沌とするだけである。パトリック・シャモワゾーは「クレオール性」を持
たせるために「口承」のスタイルを選択し、「前口上」に始まり「締めくくり」にいたると
い う 「 語 り 」 を 演 じ て 見 せ よ う と す る が 3、 す べ て の 「 ク レ オ ー ル 文 学 」 が そ う し た ス タ イ

ルを持っているわけではない。また、「日本文学」、「フランス文学」と言った場合、国
語としての「日本語」「フランス語」の使用が自明のものとされるのとは異なり、「クレ
オール文学」といっても「クレオール語」の使用がその条件というわけでもない。英語
で書かれるものもあれば、フランス語で書かれるものもあるし、その中にクレオール
語を挿入した形で書かれるものもある。「クレオール文学」の定義が多様であるぶん
ある作品のクレオール性を指摘するのは容易なことになろうし、「クレオール文学」と
してのある一つの特性を含有しているからといって、それを声高に「クレオール文
学 」 と い っ て 支 持 す る わ け に も い か な い 。 た と え ば 、 The Autobiography of my
Mother中 で 、 語 り 手 の 父 親 が 衣 服 の ” clean”さ ( 白 さ ) に 拘 泥 す る 点 や 、 植 民 者 が 被

植民者に施す教育機関としての学校の制服が「ベージュ」である点がたびたび言及
されている箇所をひとつひとつ指摘し、フランツ・ファノンがいうところのクレオール社
会における「乳白色」のオブセッションを見て取るのはたやすいことであろう。しかし
何らかのオブセッションを描写することは何も「クレオール文学」に限ったことではな
いし、「白さ」ひいては「本質性」に対する「不純」もしくは「雑種性」を強調したところ
で、それは「一」と「多」といった従来の思考のパラダイムに即座にからめとられてし
まうだけで、何のインパクトも持ち得ない。それどころか、そうした対比が西欧の目的
論的進歩主義のメタファーとして機能してきたことを考えると、それは西欧の植民地

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主義にいたる思考を強化することにもなろう。それではわれわれは本小説のどういっ
た点に着目すべきなのか。
   先に述べたとおり、「クレオール文学」における使用言語はさまざまである。そうし
た 中 で キ ン ケ イ ド が The Autobiography of my Motherで 採 用 し た 言 語 は 英 語 の み で

ある。それと呼応するかのように、一篇の語り手は「クレオール語」であるフレンチ・パ
トワを拒絶し、英語を自ら選び取る。「クレオール語」という特権的な言語を採用しな
かったのはなぜか。言語という語りの主体性が立ち現れる領域において、こうした操
作を行うのは、「語るもの」と「語られるもの」、「主体」と「客体」といった二分法に何
らかの意識が反映されているからではないのか。主体性をもたらす自我に関してい
え ば 、 本 小 説 中 で 語 り 手 は 、 自 我 と 言 葉 を 関 係 づ け る 記 述 を 行 っ て い る : “ . . .the
use of some words, changed situation. . . It is in this way that I cam
extremely conscious of myself” 4 。 と り あ え ず は 国 家 主 義 的 ( 帝 国 主 義 的 ) な 見 地 か

ら見て純血的言語としてある英語(もっとも言語が純血などというものはありえない
が)に雑種的なクレオール語を対置させなかったのだとすれば、それは西欧的二元
論からどこかしら逸脱するためのものではないのだろうか。それならば語り 手は、独
我論的「書き込む」主体―植民地主義的視点を逃れ得ているはずだろう。
    語 り 手 が Xuela Claudette Richardson と い う 自 ら の 名 を は じ め て 明 ら か に す る と き
そ れ は 否 定 的 な 文 脈 の 中 に 配 置 さ れ 、 ま ず Xuelaと い う 名 が 母 の 名 と 同 一 で あ る
点 ,つ ま り 自 ら が あ る 種 匿 名 的 な 集 合 性 ( カ リ ビ ア ン と し て の ) を 刻 印 さ れ て い る と い う

事実が言及される。
To look into it[the name], to look at it, could only fill you with despair;
t h e h u m i l i a t i o n c o u l d o n l y m a k e y o
h a t r e d. F o r t h e n a m e o f a n y p e r s o n i s a t o n c e h e r h i s t o r y r e c a p i t u l a t e d
a n d a b b r e v i a t e adn, d o n d e c l a r i n g i t , t h a t p e r s o n h o l d s h e r s e l f h i g h o r
l o w , a n d t h e p e r s o n h e a r i n g i t h o l d s t h e d e c l a

(A79)
つ ぎ に Claudetteと い う 名 に 関 し て 、 や は り 時 間 的 に 先 行 す る 他 者 、 修 道 女 の 名 前 と
同 一 で あ る こ と が 明 か さ れ る の だ が 、 そ の 修 道 女 は “ on her way to wreak more
havoc in the lives of the remnants of a vanishing people” (A80)と 描 か れ る こ と に な る
Xuela Claudetteと い う 名 に は 歴 史 の 暴 力 に よ っ て も た ら さ れ た 集 団 的 記 憶 が 刻 み 込

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まれているということだろうが、それにもまして、このように先行する他者の歴史が刻
まれ個人としての主体を剥奪された名を負わされることに語り手は失望している。し
かし語りが進行するにつれ、その集合性への拒絶が受容へと変化していく。
“ What makes the world turn?”と 繰 り 返 し つ ぶ や か れ る 形 而 上 学 的 も し く は 独 我 論 的
問 い が 巧 妙 に ず ら さ れ て 、 “ What makes the world against me and all who look
like me?”と い う 言 葉 が 発 せ ら れ る と き 、 「 私 」 は 「 私 と 似 た 人 間 」 と の 連 帯 を 受 け 入 れ

それは植民者特有の独我論的視点により主体性を奪われた被植民者の集合として
記されることになる。
The population of Roseau, that is, the ones who looked like me, had
long ago been reduced to shadows; the forever foreign, the margins,
had long ago lost any connection to wholeness, to an inner life of our
own invention, and since it was a Sunday, some of them now were
walking in a trance, no longer in their right minds, toward a church or
away from a church. (A132-133)
  こ う し て Xuelaと い う 名 を 負 わ さ れ た 代 名 詞 “ I” は 、 「 私 」 個 人 を 意 味 す る と 同 時 に

「書き込まれる」対象として主体性を奪われた匿名的集合体の地位を引き受ける。
もちろんそこには、進歩主義的イデオロギーを中心に構成されている大文字の「歴
史」の背後に隠された、十五世紀以来の奴隷強制移送と植民地支配というカリビ
アン及びアフリカンの歴史的事件が刻まれていることは言うまでもない。一篇では
こ の 記 述 以 降 、 個 人 と し て の 主 体 を あ ら わ す 代 名 詞 “ I”と 集 合 性 を 負 わ さ れ た
“ Xuela”が 併 置 さ れ 、 「 書 き 込 む 」 側 の 主 体 に 抗 う よ う に 、 二 重 性 を 帯 び た 用 い ら れ

かたをすることになる。
i t i s wi nte r ( s om et hi ng I w il l ne ve r s ee , a cl i ma t e I
know, . . . I regard it with suspicion; I look down on people who are
f a m i l i a r w i t h i t Ib, uXt u e l, a a m n o t i n a p o s i t i o n t o d o m o r e t h a n
that). . . it is spring ( I am not familiar with this, I think peop
associated with it are less than I am butI, Xuela, am not in a position
to make my feeling have any meaning). (Italics mine) ( A 1 3 5 - 1 3 7 )
      こ の よ う に “ I, Xuela”と 綴 ら れ 始 め る の は い か な る 事 態 を 表 わ し て い る の だ ろ

うか。そもそもの始まりから歴史による暴力の産物として、「書き込まれる」集合体

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として生成した主体。言い換えるなら「主体」の可能性の根絶の上に生成した主体
「主体」と「客体」の中間地帯を生きる主体。それが本小説であらわになる「クレオ
ー ル 性 」 と い う も の で は な い だ ろ う か 。 本 小 説 の 後 半 で 、 父 親 の 疑 問 と し て ” Who
am I?”と 想 定 さ れ る の は 、 た し か に 植 民 地 主 義 的 「 主 体 」 が 持 つ 独 我 論 的 疑 問 で
あ ろ う 。 い っ ぽ う で 、 そ れ に 対 置 さ れ る “ Who are the Carib people? Or more
accurately, Who were the Carib people?” と い う 疑 問 が 有 効 か と い え ば 、 必 ず し も そ

うではないだろう。というのも、それは従来の二元論の範疇から抜け出せないナイ
ー ブ な 抵 抗 文 学 的 思 考 で あ ろ う か ら (A196-197)。 し か れ ば 当 然 語 り 手 は “ Who
you are is a mystery no one can answer, not even you” (A202)と 綴 る ほ か な い 。 し か

るしてのち、二元論的範疇にとどまる主体の存立基盤である「アイデンティティ
ー 」 自 体 を 退 け る こ と に な ろ う ― “ The crime of these identities” (A226)。 「 私 」 と い

う主体には、「主体」の存立を不可能にした過去の暴力的「事件」としての歴史お
よび、そこから生み出された「書き込まれる」イメージとしての集合性といった他性
が刻み込まれている。「私」はそうした他性と「主体」とのせめぎ合い、運動の中を
生 き る 。 現 在 の “ I”の 中 に も 他 性 と し て の 過 去 が 刻 印 さ れ て い る か ら こ そ 、 語 り 手
は “ For me history was not only the past: it was the past and it was also the
present” (A139) と つ ぶ や く こ と に な る 。 も ち ろ ん こ の 場 合 の ” history”と は 、 大 文 字

の「歴史」、何らかの(特にキリスト教的)因果律を持つ「歴史」とは無関係である。
何の因果性もないまま押し付けられ、刷り込まれた歴史が「私」を条件付けている
それゆえ語り手は徹底的に「歴史」の因果律を拒絶する。ローランドという男に恋
を す る の も “ he did not have a history”(A167)だ か ら だ 。
      The Autobiography of my Motherの 語 り 手 に と っ て の 主 体 と は 、 集 団 的 経 験 が

結節する一つの場であり、彼女が持ちうるのは「非中心化された主体」とでも呼ぶ
べきものである。植民地支配という不可避の歴史によってもたらされたカリブの集
合的な経験が無数に交差しあい、ひとつの像が結ばれる地点として想像された主
体性。それは思考の絶対的な起点ではなく、認識の瞬間的な強度をはらみつつ
ホログラムの像のように変容し、凝視しようとすると消え、つかもうとすると逃げ去っ
てしまうようなパラドキシカルな運動性を内に秘めた、思考の交点のようなものだろ
う。上記の事が納得されうるのならば、謎として言及されることのある一篇のタイト
ルもまた納得されうるのではないか。語り手が堕胎し、今後出産することもないと繰

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り 返 し 記 さ れ て い る に も か か わ ら ず (A8 1 , 2 0 6 - 2 0 7 , 2、2 5つ) ま り 語 り 手 を


“ mother”と 呼 べ る 人 物 な ど 存 在 し な い に も か か わ ら ず 、 一 篇 の タ イ ト ル に そ の 言 葉
が現れて いるのは な ぜか。語り 手を「母」と呼 ぶ子供がいな いの に The
Autobiography of my Motherと 綴 ら れ て い る の は な ぜ か 。 一 見 謎 と も 思 わ れ よ う そ
の タ イ ト ル に 賭 け ら れ て い る の は “ my”と い う 単 独 性 と “ mother”と い う 集 合 性 の 不
安 定 な 関 係 性 で あ ろ う ― “ This account of my life has been an account of my
mother’s life as much as it has been an account of mine, and even so, again it is
an account of the life of the children I did not have, as it is their account of me”
(A227)。

キンケイドによる一篇のタイトルへと回帰した時点で、視線はふたたび扉へと戻り
そ こ に 記 さ れ た 献 辞 に 出 く わ す 。 い や 、 扉 に 戻 る ま で も な く 、 一 篇 中 の “ I,
X u e l a” や “ T h e c r i m e o f t h e s e i d e n t i tとi eい
s ”っ た 言 葉 た ち が “ A s e a - e a g l e
screams from the rock, / and my race began like the osprey / with that cry, / that
terrible vowel, / that I!”な る 叫 び を 含 ん だ 詩 “ Names”を す で に 呼 び 出 し て お り 、

われわれはその詩人、デレク・ウォルコットという固有名へと導かれていたのだった

*     *     *

      デ レ ク ・ ウ ォ ル コ ッ ト に よ る Collected Poems 1948-1984の な か で 、 “ Names”が キ

ー・テクストのひとつであることは間違いないだろうが、その前に、詩集冒頭に置か
れ た 一 篇 に ち り ば め ら れ た キ ー ワ ー ド 群 を 検 証 し て み る こ と が ,初 め て ウ ォ ル コ ッ ト
を 論 じ る も の に は 望 ま し い 身 振 り で あ ろ う 。 な に し ろ “ N a m e s” で “ t h a t t e r r i b l e
vo w e l , / t h a t ”I と し て 記 さ れ て い た 一 人 称 単 数 代 名 詞 が 詩 集 冒 頭 に 置 か れ た
“ Prelude”の 始 ま り に お い て 、 唐 突 に 前 景 化 さ れ て い る の だ か ら 。
I, with legs crossed along the daylight, watch
The variegated fists of clouds that gather over
The uncouth features of this, my prone island. 5
  こ の 始 ま り に お い て 際 立 た せ ら れ て い る 代 名 詞 “ I”は そ の 後 も 数 ス タ ン ザ に お い
て “ So, I”, “I go”と い っ た 形 で 引 き 続 き シ ン コ ペ ー シ ョ ン 的 上 下 運 動 を 生 み 出 す

ことになるのだが、それは例の独我論的主体を主張しているものではない。という

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の も 第 1 ス タ ン ザ 冒 頭 に 置 か れ た こ の “ I”は 即 座 に 第 2 ス タ ン ザ に お い て 、 た だ 見

られ・書かれるものでしかなかったことが明らかになるのだから。しかもそれは個と
し て の “ I”か ら 集 合 的 な 目 的 語 の “ us”へ と 移 し 替 え ら れ る こ と に な る 。
Meanwhile the steamers which divide horizons prove
Us lost;
Found only
In tourist booklets, behind ardent binoculars;
Found in the blue reflection of eyes
That have known cities and think us here happy.

 「われわれ」は「遺失物・失敗者・道に迷ったもの」として、あくまでも受動的に「証
明」されるのであり、「観光者用ガイドブック」の中に、「双眼鏡」の中に、「反射」さ
れるに過ぎない。逆に、見られることなく視線を与える側は世界各地の都市・植民
地 を 「 知 る (know)」 能 動 的 な 主 体 で あ り 、 他 者 を お の れ の 「 知 識 」 と し て 内 面 化 す
る だ ろ う 。 絶 え ず 目 的 語 と し て し か 機 能 し な い “ us”の 一 員 た る “ I”は 、 当 然 の こ と
な が ら 、 見 る 側 に よ る 視 線 ・ 知 (た と え ば iambics)の 中 で は じ め て 生 成 さ れ る こ と に
な る ― “ And my life, . . .must not be made public / Until I have learnt to suffer /
In accurate iambics”。 植 民 者 の 言 葉 ・ 知 の 中 で し か 機 能 し 得 な い “ I”が み ず か ら
の “ eye”を と お し て 出 く わ す も の は 何 か 。 そ れ は ひ と つ の 焦 点 に あ わ せ ら れ た 単 一

の像ではなく、見る・見られるという視線の交錯の中で屈曲し揺れつづける複数の
像であるしかない。
Until from all I turn to think how,
In the middle of the journey through my life,
O how I came upon you, my
Reluctant leopard of the slow eyes.
  末 尾 の “ eyes” は 当 然 “ I”の 複 数 形 で も あ る と 読 み 替 え ら れ る は ず だ が 、 そ う す る
と “ I”が 出 く わ す の は 目 的 語 と し て の “ you” で あ る と 同 時 に 、 複 数 化 さ れ た “ I”で

もあることになる。主語でありかつ目的語であるもの、目的語として機能することを
絶えず負わされている主語。
ここに立ち現れているのは、見る側としてのアングロと見られる側としてのカリビア
ンの間に横たわるハイフンの震え―見られつつ見るという生 成―だけではない。

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9

唐 突 に 現 れ た “ leopard”と い う 隠 喩 お よ び そ の 体 を 覆 う 眼 状 斑 紋 (eyes)が 内 示 す
る カ ム フ ラ ー ジ ュ = 擬 態 (mimicry)と い う 行 為 、 さ ら に は そ の 生 物 の 持 つ 迅 速 な 動
き に 反 す る か の よ う な “ slow”と い う 形 容 詞 に 賭 け ら れ て い る も の は 大 き く 、 こ の 1 9

48年の詩への注釈であるかのように、15年以上経ったのちの1974年におこな
った講演中で、詩人自身がそのイメージに触れることになる。ヴィディア・ナイポー
ル 以 来 “ The Mimic Men”な る 言 葉 は 、 西 イ ン ド 諸 島 に お け る 文 化 の 非 創 造 性 を 告

発するある種自虐的調子とともに用いられてきたわけだが、ウォルコットは、何か独
創的な起源があるいっぽうで非独創的な擬態(物まね)があるという二分法をまず
退ける。
. . . in the imitation of apes there is something more ancient than the
first human effort. The absurdity of pursuing the anthropological ideal
of mimicry then, if we are to believe science, would lead us to the
image of the first ape applauding the gestures of what we must call the
first man. here the contention crumbles because there is no scientific
distinction possible between the last ape and the first man, there is no
memory or history of the moment when man stopped imitating the ape,
h i s a n c e s t o r , a n d b e c a m e h u m a n . T h e r e f o r e , e v e
repetition. . . We cannot focus on a single ancestor, that moment of
ape to man if we wish, or its reverse, . . . There was no line in the sea
which said, this is new, this is frontier, the boundary of endeavor, and

1

?
Deane, Seamus. Celtic Revivals: Essays in Modern Irish Literature 1880-1980. (London:
Faber and Faber, 1985) 11
2
拙稿 “The Subject and the Grand Narrative” (東京大学大学院英文学研究会『リーディング』
17号、197-210 頁)
3
パトリック・シャモワゾー+ラファエル・コンフィアン『クレオールとは何か』(西谷修訳、平凡社、
1995年)
4
Kincaid, Jamaica. The Autobiography of my Mother. (New York: Farrar Straus Giroux, 1996)
22 以下同書からの引用はAと略記する
5
Walcott, Derek. Collected Poems 1948-1984. (London: Faber and Faber, 1986) 3 以下、ウォ
ルコット詩の引用は同書による

9
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henceforth everything can only be mimicry. 6

 この引用はのちに起源なき反復の相として本論考で触れられることになるが、とり
あ え ず そ れ を ほ の め か す に と ど め 、 “ Prelude”最 終 ス タ ン ザ に 現 れ る 豹 状 斑 紋 と 擬

態との関係を確認しておく。
Mimicry is an act of imagination, and, in some animals and insects,
endemic cunning. Lizards, chameleons, most butterflies, and certain
insects adapt the immediate subtleties of color and even of texture both
as defense and as lure. Camouflage, whether it is in the glass-blade
stripes of the tiger or the eyed hide of the leopard, is mimicry, or more
than that, it is design. What if the man in the New World
mimicry as design, both as defense and as lure. ( C55)

 擬態による防御と誘惑。水平線のかなたから蒸気船に乗ってきて植民地教育を始
めたものたちは、アイアンビックで詩を書きはじめた色の黒い人たちを見て満足げ
に微笑むかもしれない。こいつらもなかなかうまく物まねできるものだと。それが防
御と誘惑を備えた擬態であることに気づかずに。だからといってこの黒い詩人がそ
の豹のような俊敏さ、巧妙な擬態を誇らしげに唄っていると捉えることはできない
複 数 化 さ れ た “ eyes” = “Is” で あ る か ら に は ひ と つ の 属 性 を 確 固 た る も の と し て 保

持することはできないだろうし、面食らうほどの変種の繰り返しこそが擬態が擬態
た る ゆ え ん な の だ か ら 。 そ れ に 加 え て 、 “ eyes”に は “ slow”と い う 形 容 詞 が 付 与 さ
れ て い る 。 第 1 ス タ ン ザ で 詩 人 の 住 ま う 島 に 与 え ら れ た “ uncouth”な る 言 葉 と 呼 応

し合うように、何がしのネガティヴな属性―見る側によって付与された属性―と考
え る べ き 形 容 詞 “ slow”。 ” E yes”が “ I”の 複 数 化 と 捉 え ら れ る な ら 、 こ の “ slow”を

「遅れてきた」という意に解することに躊躇は要らないはずだ。絶えず遅れてある
「わたし」。奪われてあり、すでに名づけられ、書きこまれてしまった主体。詩人が
詩作というある種名づける行為を開始するのはこの地点からにほかならない。この
点において、のちに述べることになろうが、アダムと同一化した詩人たちがおこな
ってきた名づけと秩序づけとは異なる事態が生じ始めているのではないのか。次

6
Walcott, Derek. “The Caribbean: Culture or Mimicry?” in Robert D. Hamner (Ed) Critical
Perspectives on Derek Walcott. (Boulder & London: Lynne Rienner Publishers, 1997) 53-54 以
下、同書からの引用はCと略記する。

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の よ う に 語 る 詩 人 は 、 そ の 2 年 後 に 文 字 ど お り “ Names”と い う 詩 を 発 表 す る こ と に

なる。
The stripped and naked man, however abused, however disabused of
o l d b e l i e f s , i n s t i n c t u a l l y , e v e n d e s p e r a
craftsman. In the inclination of the slightest necessary
o r d e r i n g t h e w o r l d a r o u n d h i m , o f l o s i n g
r e c h r i s t e n i n g h i m s e l f , i n t h e a r d u o u s e n u n c i
alphabet, in the shaping of tools, pen or spade, is the whole, profound
sigh of human optimism, of what we in the archipelago still believe in:
work and hope. It is out of this that the New World, or the Third World
should begin.  ( C 5 7 )

*     *     *

      “ Prelude”の 末 尾 で 、 詩 人 は 他 者 (you)で あ る と 同 時 に “ my reluctant leopard


of the slow eyes”で も あ る も の に 出 く わ し た わ け だ が 、 そ れ は あ く ま で ひ と つ の 認 識

に至る過程にすぎない。そこで操作されつつ詩人を使嗾する言葉たちが、何か遂
行的な運動を見せはじめ、みずからを擬態化していたのは確かなのだが、植民地
主義的な「教育的」言説と被植民者の「遂行的」言説が語りの権威を争い始め、そ
の言説上の両犠牲の中で文化的主体が引き裂かれ、ホミ・バーバが「離接的
(disjunctive)」 と 呼 ぶ 時 間 性 が よ り く っ き り と そ の 輪 郭 を あ ら わ に し は じ め る の は 、 こ
の 後 の “ Origins”や “ Names”と い っ た テ ク ス ト の 中 に お い て で あ ろ う 。 こ こ で 不 意

に口にされてしまったバーバという批評家が国家の語りと国民という文脈で記述し
ていることは、とりもなおさず国家と少数民族・移民との関係を問いただすことを主
眼としていたわけだから、それを帝国主義と帝国臣民たる被植民者との関係へ援
用することは可能だろうし、ウォルコットのテクストにおいてバーバが「教育的」なも
のと「遂行的」なものと呼ぶもののせめぎ合いが前景化されているとなれば、バー
バ に よ る マ ッ ピ ン グ を 確 認 し た 上 で “ Origins”お よ び “ Names”の 言 葉 た ち に 目 を

むけるのがこの場に望まれる身振りであろう。
   国民(及び被植民者)が単なる歴史的出来事や政治体の一部としてのみなら

11
12

ず、社会的参照系を伴う複雑な修辞的戦略であり、そこでは政治体の一員である
ことが意味作用と言説伝達の過程において二重性を帯びざるを得ないとして、バ
ーバは二種の語りの時間性を提示している。
. . . t h e p e o p l e a r e t h e h i s t o r i‘o
c ablj e c t ’s o f a n a t i o n a l i s t p e d a g o g y ,
giving the discourse an authority that is based on the pre-given
c o n s t i t u t e d h i s t o r i c a l o r i g i n i n t h e p a s t ; t h e p e o p l
‘s u b j e c ’t so f a p r o c e s s o f s i g n i f i c a t i o n t h a t m u s t e r a s e a n y p r i o r o r
originary presence of the nation-people to demonstrate the prodigious,
living princ iple s of the people as c ontempora ne ity: a s that sign of the
present through which national life is redeemed and itera
reproductive process. . . In the production of the nation as narration
there is a split between the continuist, accumulative temporality of the
p e d a g o g i c a l , a n d t h e r e p e t i t i o u s
performative. 7
  “ Prelude”で 描 か れ て い た 、 す で に 見 ら れ ・ 書 き こ ま れ て い る 被 植 民 者 が バ ー バ の
い う “ the historical ‘object’”で あ り 、 あ ら か じ め 与 え ら れ 構 成 さ れ た 歴 史 的 起 源 に

基づいた権威を言説にを与えるものであるからには、ここで「国家主義者
(nationalist)」 お よ び 「 国 民 (the people)」 と 言 及 さ れ て い る も の は 、 そ れ ぞ れ 「 植 民

地主義者」、「被植民者」と読み替えても、本論考の文脈では差し障りなかろう。そ
れ で は 、 ウ ォ ル コ ッ ト の テ ク ス ト に お い て 、 「 教 育 的 (pedagogical)」 な も の に お け る
連 続 的 で 蓄 積 的 な 時 間 性 と 、 「 遂 行 的 (performative)」 な も の に お け る 反 復 し 回 帰

する戦略との間に見られる裂け目とはいかなるものなのか。
   その反復する動きがその後書き付けられる時間性を示唆しているとも思える波
の 描 写 に 始 ま る “ Origins”の 語 り 手 は 、 名 も な く 生 ま れ 、 何 も 記 憶 し て い な い と 語

り始めるのだが、植民者の「教育的」配慮によるものなのか、彼はコロンブスによる
年代記やヨーロッパの古典作品を学習することになる。
Clouds, log of Colon,
I learnt your annals of ocean,

7
Bhabha, Homi K., The Location of Culture. (London: Routledge, 1994) 145

12
13

Of Hector, bridler of horses,


Achilles, Aeneas, Ulysses,
But “Of that fine race of people which came off the mainland
To greet Christobal as he rounded Icacos ”,
Blank pages turn in the wind.
They possessed, by Bulbrook,
“No knowledge whatever of metals, not even of gold,
They recognized the seasons, the first risings of the Pleiades
By which signs they cultivate, assisted by magic. . .
Primitive minds cannot grasp infinity.”

 名もなく記憶も歴史も持たない語り手―断絶したものとしての歴史しか持たぬ語り
手 ― は 、 “ i n f i n i ”t な
y ど理解できぬものだから、「教育」を受けたのち
“ infinity”を 習 得 せ ね ば な ら な い 。 そ う す れ ば 歴 史 は 裂 け 目 の な い 普 遍 的 な 全 体

性として語り手の前に現れるだろう。
Nuages, nuages, in lazy volumes, rolled,
Swallowed in the surf of changing cumulus,
Their skulls of crackling shells crunched underfoot.
Now, when the mind would pierce infinity.
A gap in history closes, like a cloud.
  “ skull” / “crackling” / “crunched”に 含 ま れ る 破 裂 音 が “ gap”と 呼 応 し て い る か に

思え、不吉な兆候を感じないでもないが、とりあえず「教育」の効果あって歴史の
裂け目は閉じられたように見える。その歴史はもちろん連続的で蓄積的なもので
あ ろ う か ら 、 そ こ に は “ cumulus”な る 単 語 が 置 か れ て い る の だ ろ う 。 「 教 育 」 を 受 け

た語り手は学習の効果を確かめるかのように、「普遍的な」ヨーロッパの古典に準
拠して名づけの行為を試みる。
Between the Greek and African pantheon,
Lost animist, I rechristened trees:
Caduceus of Hermes: the constrictor round the mangrove.
.....
Now, the sibyl I honor, mother of memory,

13
14

Bears in her black hand a white frangipani, with berries of blood,


She gibbers with the cries
of the Guinean odyssey.

 滞りなく進行して行くかに見えるこの名づけるという「遂行的」な行為が、最後にき
て何やら齟齬を生みだしているように見える。というのも、「普遍的な」ギリシャの古
典は、唯一無二の物語の起源たる資格を失ったかのように小文字化され、歴史的
事件の場たるギニアの大文字のわきで身をかがめているし、その物語は破裂音に
よ る 意 味 不 明 の 言 葉 で (gibbers)わ め き た て ら れ て い る か ら だ 。 コ ロ ン ブ ス を は じ め

とする「教育者」たちに倣ってはじめた名づけの行為が「遂行」されるにつれ、言葉
たちは歯擦音や唇音に分節化されはじめ、意味作用を十全に発揮できなくなり、
繰り返し発話される言葉たちと大文字で綴られる「神」=「単一の起源」とは、我関
せずとでもいわんばかりに切り離されることになる。
Was it not then we asked for a new song,
As Colon’s vision gripped the berried branch?
For the names of bees in the surf of white frangipani,
With hard teeth breaking the bitter almonds of consonants,
Shaping new labials to the curl of the wave,
Christening the pomegranate with a careful tongue,
Pommes de Cythere, bitter Cytherean apple.
And God’s eye glazed by an indifferent blue.
  こ の 言 語 遂 行 の 過 程 で 、 か つ て 裂 け 目 を 埋 め 堆 積 し て い っ た は ず の 雲 (cumulus)
は 、 再 び 裂 け 目 を あ ら わ に す る こ と に な ろ う ― “ Clouds, vigorous exhalations of
wet earth, / In men and in beasts the nostrils exulting in rain scent, / Uncoiling
like mist, . . .”。 か く し て 語 り 手 は ふ た た び 記 憶 も 名 前 も な い 地 点 へ と 回 帰 し 、 た ど

たどしく、またしても不器用に言葉をつぶやく。
………………………..The surf has razed that
memory from
    our speech, and
a single raindrop irrigates the tongue .

  ゼロ地点としての始まりからふたたびゼロ地点としての始まりへ回帰するこの運動

14
15

を 見 て 、 た と え ば ワ ー ズ ワ ー ス の The Preludeに 見 ら れ る 運 動 を 思 い 起 こ し て し ま う こ
と が あ るか も し れな い 。 冒 頭に “ now free, / Free as a bird to settle where I
will” 8 と 記 さ れ た The Preludeは 、 た し か に あ る 種 無 垢 で 自 由 な 地 点 か ら は じ ま っ て い

る。この自由が、ウォルコットの詩に現れる奪われてしまったがゆえに名もなく記憶も
ない状態とあまりにも異なっていることは言うまでもないのだが、新たに詩作をおこな
う自由を確保する一篇の終結点と、新たに言語を獲得する第三世界の詩人の身振
り と を 混 同 す る も の も い な い と は 限 ら な い 。 い や 、 そ う し た 心 配 よ り も む し ろ 、 T he
Preludeを 参 照 枠 と し て 設 け る こ と で ウ ォ ル コ ッ ト の “ Origins”お よ び “ Names”の 持 つ
可 能 性 が 明 瞭 に な る こ と を 望 み つ つ 、 The Preludeの た ど り 着 い た 地 点 を 見 て お き た

い。上述のように、ワーズワースによる一篇は自由な状態にある生物のイメージ、つ
まり、拘束されず、さまよい、境界を越えたもののイメージで始まるわけだが、教科書
的な単純化された図式を持ち出すなら、詩人はこの後若い、動物的本能が失われ
るという制限を設けつつも、「輝かしい能力」を獲得してゆくことになる。
. . . . . . . . . . . The power,
. . . . . . . . . . ,is the express
Resemblance of that glorious faculty
That higher minds bear with them as their own.
This is the very spirit in which they deal
With the whole compass of the universe:
They from their native selves can send abroad
Kindred mutations; for themselves create
A like existence; . . . 9
“express resemblance”、 “ kindred”、 “ like”と い っ た 用 語 法 で べ っ た り と ア ナ ロ ジ ー

に依拠しつつ詩人が「あの輝かしき能力」といっているのは、言うまでもなく詩を書き
始める力のことであり、精神が意図し、生産し、決定する能力を持っていることを宣
言していいるこの一節は、これまた言うまでもないことだが、あの第三世界の詩人に
よって描かれたはじめから奪われてあるあくまで受動的な状況、与えられた言葉を発

8
Wordsworth, William. The Prelude: 1799, 1805, 1850. (New York & London: W.W. Norton
& Company, 1979) 29
9
Wordsworth, The Prelude. 463

15
16

話してゆく状況と、完璧なまでに相違している。しかし、この場においてそれ以上に
決 定 的 な の は 、 “ for themselves create”と 記 さ れ て い る 点 で あ ろ う 。 詩 人 は 自 然 の 力

という外部をみずからのうちに取り込み、あたかもその外部を必要としないかのように
自らの力で実在を作り出すというのだ。自然は精神とみなされ精神は自然とみなさ
れ る 。 ポ ー ル ・ ド ・ マ ン の い う よ う に 、 「 類 比 (analogy)」 が 批 評 の 領 域 に お い て 「 共 感
(sympathy)」 や 「 感 応 (affinity)」 と い っ た 語 彙 に 取 っ て 代 わ ら れ て ゆ く 過 程 と 連 動 す

るこの認識論的なパターンは、外部との関わり合いが主体の外部に対する優位の問
題 へ と す り か わ っ て い る こ と を 示 し て い る 。 10「 共 感 」 と か 「 感 応 」 と い っ た 語 彙 が 示 す

ように、ここでは主体と客体(外部)との関係が、主体と主体の関係に移し替えられ、
精神と自然との関係は間主観的な個体個体の関係に取って代わられ、最終的に主
体とに対する関係となってゆく。かくして優位性が、外界から主体のうちへと全面的
に移行し、結局は外部をまったく必要としない観念論ごときものが残ることになる。
    い っ ぽ う わ れ わ れ は 、 先 に 見 た ウ ォ ル コ ッ ト の “ Origins”が 絶 え ず 捨 象 で き な い

外部との関わり合いを契機としていたことを知っている。それはまず第一に、模倣す
べき外部としての植民者たちであり、第二に、そしてより根本的な問題として、決して
内 面 化 し 得 ぬ 外 部 と し て の 言 語 で あ っ た 。 “ Origins”同 様 、 「 教 育 的 」 な も の か ら 「 遂
行 的 」 な も の へ と 移 行 し て ゆ く “ Names”を 見 て み れ ば 、 そ の こ と は よ り 明 白 と な る だ
ろ う 。 打 ち 寄 せ る 波 と 引 い て ゆ く 波 と が ぶ つ か り 合 い 砕 け る な か “ Nameless I came
a m o n g o l i v e s o f a l g a e / F o e t u s o f p l a n k t o n , I r e m e m b e r n o” tとh 語
i n gら れ 始 め た
“ Origins”と 同 じ く 、 “ Names”も ま た 歴 史 と 記 憶 を 失 わ れ た ま ま 語 ら れ 始 め る 。
My race began as the sea began,
with no nouns, and with no horizon,
with pebbles under my tongue,
with a different fix on the stars

…………………
I began with no memory,
I began with no future,

10
See de Man, Paul, Blindness and Insight. (Minneapolis: University of Minnesota Press, 1971)
192-198

16
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but I looked for that moment


when the mind was halved by a horizon.
こ こ で “ horizon”と し て 記 さ れ て い る も の は 、 も ち ろ ん 歴 史 と 読 み 替 え ら れ る べ き で あ

り、そののっぺら坊のような裂け目のない表情が例の蓄積的に連続した大文字の歴
史 を 思 わ せ る の だ が 、 “ Origin”の 始 ま り に 加 え 、 こ こ で は “ nouns”、 “ tongue”と い っ

た形ですでに言語との関わりが付加されている。もっとも、近代国家の持つ同質的
で 可 視 的 な 水 平 空 間 は 、 す で に “ I”な る 言 葉 の 視 覚 的 縦 断 性 に よ り と こ ろ ど こ ろ 切

り目を入れられ始めているようにも見える。そうして、詩人たちが外部としての言語を
学ぶ瞬間にあの大文字の歴史が裂け目を見せることになる。
A sea-eagle screams from the rock,
and my race began like the osprey
with that cry,
that terrible vowel,
that I!

Behind us all the sky folded,


as history folds over a fishline,
……………..

外部を必要としない独我論的思考を象徴する一人称単数代名詞を詩人が口にする
とともに歴史は折り目を見せるのだが、それは詩人が同様の思考を獲得したことには
ならないだろう。というのも、その代名詞はあくまで外部から与えられたものであり、
“ that”と い う 指 示 形 容 詞 を 伴 っ て い る こ と か ら も 分 か る よ う に 、 詩 人 に と っ て あ く ま で

も外部たるものだからだ。ワーズワースがすべてを内部に閉じ込め、内面に優位性
を付与したのとは対照的に、ウォルコットにとって内的なものはすでに外部に侵され
ているといったら良いだろうか。ここでは従来の「主体」と「客体」をめぐる固定的な認
識 論 が 持 つ 限 界 が 正 し く 示 さ れ て い る 。 “ I”と い う 内 部 に と ど ま っ て 目 を 光 ら せ る と

同時に、その外部に出て内部を見つめるものは、ハイフンの中で反復運動を繰り返
すことにより、内部・外部の対立関係の根そのものを引き抜こうとする。植民者によっ
て与えられた「教育的」なものを模倣することで「わたしはあなたと同じだ」という同一
性に接近しながらも、言葉を「遂行的」に反復するうちに差異を継続的に主張するこ

17
18

と。その際、一人称代名詞が重要なトポスとなるのは決して無理からぬ事態ではない
その固定的な人称表現を駆使することで、逆にその固定性が際立たせられるのだか
ら 。 そ れ ゆ え 、 ウ ォ ル コ ッ ト は 作 品 の 要 所 要 所 で “ I”を 起 点 に リ ズ ム を 合 わ せ た り は
ず し た り す る わ け だ し 、 キ ン ケ イ ド は “ I, Xuela”と い う 呼 称 へ た ど り 着 き 、 ト リ ン ・ ミ ン ハ
は “ I” と “ i”で 戯 れ て み せ る の だ ろ う 。
A critical difference from myself means that I am not i, am within and
without i, I / i can be I or i, you and me both involved. We (with
capital W) sometimes include(s), other times exclude(s) me. You and I
are close, we intertwine; you may stand on the other side of the hill
once in a while, but you may also be me, while remaining what you are
a n d w h a t i a m n o t . T h e d i f f e r e n cbees t w e e n e n t i t i e s c o m p r e h e n d e d a s
absolute presences - hence the notion of pure origin and true self - are
an outgrowth of a dualistic system of thought peculiar to the Occident
(the “onto-theology” which characterizes Western Metaphysics). They
should be distinguished from the differences grasped both between and
w i t he in nt i t i e s , e a c h o f t h e s e b e i n g u n
presence. 1 1
“I”と い う 言 葉 と し て の 唯 物 性 を 持 っ た ト ポ ス を 起 点 と し て 、 ま た ハ イ フ ン と い う 唯 物 性
を 持 っ た 印 を き わ だ た せ 、 ” pure origin”だ と か “ true self”と い っ た 存 在 論 的 純 粋 性
を 切 り 崩 し 、 「 あ い だ 」 を 可 視 化 し 、 「 物 ま ね (mimicry)」 の 反 復 を 継 続 す る こ と 。 ワ ー

ズワースがプラトン以来の外部なき形而上学の系譜を引いているのに対し、ウォル
コットはそれを脱構築しているとでもいうべきか。プラトンと、プラトンのテクストを読む
デリダとを見比べればその対比は明らかとなるだろう。プラトンの『パイドロス』を読み
つつ、デリダは「記憶(ムネメー)」と「想起(ヒュポムネーシス)」の対立に目をつける
プラトンにとって、「ムネメー」は本来の内的記憶であり、「ヒュポムネーシス」は限りな
く忘却に近い頽落した外的記憶である。「ムネメー」と「ヒュポムネーシス」を対立させ

11
Minh-ha, Trinh T. “Not You / Like You: Post-Colonial Women and the Interlocking
Questions of Identity and Difference”, in Gloria Anzaldua (Ed.), Making Soul / Haciendo
Caras: Creative and Critical Perspectives by Women of Color. (San Francisco: Aunt Lute
Foundation Book, 1990) 372

18
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ているのは「内」と「外」との対立であり、「ムネメー」が自分の力によって内から思い
出すことであるなら、「ヒュポムネーシス」は自分以外のものに彫り付けられた印によ
っ て 外 か ら 思 い 出 す も の で あ ろ う 。 12プ ラ ト ン に よ っ て 設 け ら れ た ( そ し て ワ ー ズ ワ ー

スに至るまで、またそれ以降も引き継がれつづける)、内部の優位性を唱えるこの内
部と外部の階層秩序は完全には確立し得ないとデリダはいう。というのも、ウォルコ
ットの詩が示しているように、外的ないかなる印にも依存しない内的記憶などはじめ
からなかったのであって、「ヒュポムネーシス」の作用はすでに「ムネメー」の内奥に
宿っていたはずだからだ。
The outside is already within the work of memory. The evil slips in
within the relation of memory to itself, in the general organization of
the mnesic activity. Memory is finite by nature. Plato recognizes this in
attri buting life to it. As in the ca se of all li ving orga nis ms, he ass igns
it, as we have seen, certain limits. A limitless memory would in any
e v e n t b e n o t m e m o r y b u t i n f i n i t e s e l f - p r e s e n c e . M
therefore already needs signs in order to recall the non-present, with
which it is necessarily in relation. The movement of dialectics bears
witness to this. Memory is thus contaminated by its first substitute:
hypomnesis.
す で に 外 部 に よ っ て 侵 さ れ て あ り 、 “ O r i g i ”n 中
s の植民者とは異なり、
“ infinity(infinite self-presence)”  を 誇 ら し く 了 解 す る こ と な い 被 植 民 者 た る 詩 人 が

内的記憶と外的言語とを同時に思考せざるをえないのは無理からぬことであろう。内
的記憶は失われても、外的言語は変容を受けながらもあくまで外部として居座りつ
づける。しかしその外在性こそが、第三世界の詩人にとって貴重な契機となるだろう
Their memory turned acid
but the names held;
Valencia glows
with the lanterns of oranges,
Mayaro’s

12
See Derrida, Jacques. Dissemination. (Trans) by Barbara Johnson. (London: The Athlone
Press, 1993) 95-119

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charred candelabra of cocoa.


Being men, they could not live
except they first presumed
the right of everything to be a noun.
The African acquiesced,
repeated and changed them.

Listen, my children, say:


moubain: the hogplum,
cerise: the wild cherry,
baie-la: the bay,
with the fresh green voices
they were once themselves
in the way the wind bends
our natural inflections.

 これらのクレオール語は英語に対立するものとして、つまりカリビアンの 純粋な内
的発露として捉えられてはならない。詩人にとって、英語であろうと クレオール語
であろうと、それは言葉である限り外的なものであろうし、さらにいうなら、彼らの発
話には絶えずすでに見られ・書き込まれてあるものたちの受動性をが混入されて
いるのだから。かくして、バフチンなら二重化されたディスコースと呼ぶかもしれな
い自由間接話法をもって詩は閉じられ、そこには植民者のみならず言葉自身によ
って使嗾される話者が姿を見せることになる。
and children, look at these stars
over Valencia’s forest!

Not Orion,
not Betelgeuse,
tell me, what do they look like?
Answer, you damned little Arabs!
Sir, fireflies caught in molasses.

20
21

記憶も言葉もないところで与えられたまま発する言葉によって、自身の意思や欲望
とはかけ離れたところで自動的に語られてしまっているという現実から導かれたエド
ゥアール・グリッサンの「自然の詩学」・「強制の詩学」という対概念が、この事態をよ
り 明 白 に 説 明 し て く れ る だ ろ う か 13。 グ リ ッ サ ン に よ れ ば 、 表 現 に 向 け て の 集 団 的 な 意

思や欲望が、表現を実践するための言語レヴェルにおいてそれと矛盾しない形で提
示されることが「自然の詩学」を発現させる条件となる。そこには意思と表現とのあい
だにある種連続性が存在していることになろうし、言い換えるなら、共同体の中の欲
望を生み出す心性とそれを表現する言語的手段とが、先に引いたワーズワースの場
合のように、同じ一つの自発的な原理に支えられているということになろう。しかし、
ウ ォ ル コ ッ ト 詩 に 現 れ て い る よ う に 、 強 制 さ れ た “ that terrible vowel / that I”に よ っ て
ま た “ Answer, you damned little Arabs!”と い っ た 命 令 に 使 嗾 さ れ て は じ め て 発 せ ら

れる言葉たちは、表現への要請が表現を達する手段の欠陥に直面した時現れるこ
とになる。自己表現のエクササイズを欠き、受動的な言語表現を無自覚に繰り返す
「強制の詩学」、それはまさに変形の力と抵抗の力がせめぎあう結果発現する場所
となり、絶えず満たされぬ欲望を抱え込んだまま新たな「舌」を獲得する身振りを生
んでゆくこととなろう。

13
See Glissant, Edouard. Caribbean Discourse: Selected Essays. (Trans.) by J. Michael Dash.
(Charlottesville: University Press of California, 1982) 120-121

21

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